昭和女子大学当時の記録

① 昭和女子大学のHP今昔

  • 2019.11.06 Wednesday
  • 23:59

昭和女子大学のHP今昔

●昭和女子大学のHPも開設当時を思い出すと、大変進化した。当初は、教員の研究室は開設出来なかった。その後、開設できるようになったが、ほとんど理系の教員で、文系は私だけだった。

●私は、コンピューター室の方々に教えてもらって、〔深沢秋男研究室〕開設した。研究室の外にも、大学の掲示板など、利用して情報発信した。

●2005年、定年退職の時、各研究室のコンテンツの情報量を調べたら、〔芦川研究室〕が、19万バイト、〔佐野研究室〕が、8万バイト、〔深沢研究室〕が、412万バイト、だった。当時は、ネット界の発信情報量が小さかったので私は文字情報に限定して、写真などは出さなかった。

●〔深沢秋男研究室〕の発信情報は、次の如くである。

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HOME

①プロフィール&研究分野

②担当科目&時間割

③主要編著書&雑誌論文

④開設ホームページの紹介

⑤昭和女子大学図書館所蔵(桜山文庫)

⑥昭和女子大学図書館所蔵(翠園文庫)

⑦鈴木重嶺関係資料

⑧南部新一児童図書コレクション

⑨上海交通大学「日本文化資料センター」

⑩百人一首の研究

⑪井関隆子の研究

⑪-2井関隆子の研究2

⑫仮名草子研究

⑫-2仮名草子研究2

⑫-3仮名草子研究3

⑫-4仮名草子研究4

⑫-5仮名草子研究5

⑬鹿島則孝の研究

⑭上田秋成の研究

⑮鈴木重嶺の研究

⑯日本古典文学作品・画像公開

⑰江戸図と飯田龍一氏の旧蔵書

⑱斎藤親盛(如儡子)の研究

⑲斎藤親盛(如儡子)の研究・2

●新刊紹介

●学界ニュース

日録

◆自著を語る 1

◆自著を語る 2

 

② 昭和女子大学現役時代の記録

  • 2019.07.02 Tuesday
  • 06:00
昭和女子大学現役時代の記録
。。。。。。。。。。。。。。。。■日  録■平成15年5月10日(土)
本日、昭和女子大学のHPをようやく開くことができた。今後、折に触れ書き込んでゆくことにする。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平成19年(2007年)3月20日(火)

昭和女子大学に感謝!!!

●平成17年(2005年)3月2日(水) 「さようなら・・・昭和女子大学」  として、次のように書いた。

●本年度で、昭和女子大学ともお別れである。20年間お世話になった。学長の人見楠郎先生、副学長の原田親貞先生、同じく松本昭先生、同じく岡村浩先生、そのほか、多くの方々の御指導を頂いた。未熟者の私が、曲りなりにも定年まで勤務できたのも、皆様の御厚情によるものである。心からの感謝と御礼を申し上げます。
●このサイト「深沢秋男研究室」も間も無く閉鎖する。ただし、これらのデータは、菊池真一先生の御配慮で、私のHP「近世初期文芸研究会」にコピーされる。今後は、そこで更新を継続してゆきたい。御興味のある方は、アクセスしてみて下さい。
◎「近世初期文芸研究会」→http://www.ksskbg.com/
◎「近世文学研究所」→http://www.gwaikotsu.com/
◎「日本文学電子図書館」→http://www.j-texts.com/

●2年間が経過した。毎週、火曜日に日本文学科で、仮名草子と近世出版文化・版本書誌学を講じてきた。その任務もこの3月で終り、非常勤講師も辞める。24年間、昭和女子大学にお世話になった。この間、私の講義を受けた学生は、少しは得るものがあったのだろうか。はなはだ、覚束ない。しかし、私は、昭和女子大学によって身分を保証され、研究を進める事ができた。このことに、心から感謝している。
●「深沢秋男研究室」も予定通り「近世初期文芸研究会」に移行し、それなりに追加更新をしてきた。これには、菊池真一先生の御配慮があった。合せて感謝する。ただ、その後、「近世文学研究所」は閉鎖され、データは「近世初期文芸」に移動した。
●私が「近世初期文芸研究会」のHPを開設したのは平成10年であるから、9年前である。この時、昭和女子大に自分のHPを作りたい、と申し出たが、そのようなシステムは無い、と断られた。システムが完備して、「深沢秋男研究室」を開設できたのは、5年後の平成15年であった。今、振り返ると懐かしい。

●昭和女子大学は、この3月で完全に辞するが、この研究室は、今後も継続追加更新してゆく予定である。
平成19年1月18日(金)

「井関隆子を知る会」開設

●昭和女子大学コミュニティ に新しく「井関隆子を知る会」という掲示板を開設した。昭和女子大学図書館には、『井関隆子日記』をはじめ、関係資料が多く所蔵されているので、これらを知って貰いたいと言う意図のものである。その内容も、折々、こちらで紹介したいと思う。

【14】江戸博で『井関隆子日記』を御覧下さい。

●昨日、江戸東京博物館へ行って、特別展「江戸城」を見学して来た。素晴らしい展示会である。私など未見の資料が多く江戸博の質の高さを痛感した。
●桜山文庫所蔵の『井関隆子日記』が2箇所に展示されていた。畑尚子氏の適切な解説が付いていて、隆子の子の親経が、将軍家から賜った五葉松の盆栽の絵の部分が展示されていた。
●また、昭和女子大学の平井学長の御配慮かと思うが、昭和女子大学所蔵の弘化年間の江戸城の「大広間模型」も展示されていた。
●いずれにしても、このようにして、多くの一般の方々に『井関隆子日記』の原本を見て頂ける事は、誠に有難く、そこに「昭和女子大学所蔵」と出されていることも、おのずと、パブリシティとしての効果もあり、喜ばしい事だと思う。
2007/01/05(FRI) 07:56

【13】井関隆子と杉嶋カツイチ

●隆子は、天保期の一人の文化人として、かなり知られていたようである。従って当時の文化人との交流も多かった。ここでは、現在、余り知られていない、盲目の歌人・杉嶋カツイチを紹介致したい。
●杉嶋は名をカツイチ(一一=かずいち かという、吉海直人氏の説がある)は、勾当(検校の下、座頭の上の位)で、歌人としても良い歌を詠み、隆子のもとをよく訪れている。隆子は、この盲目の歌人を温かく迎え、『古事記伝』や『万葉集』を読んで聞かせている。また、著者未詳とされている『当道要録』は、どうも、この杉嶋の著作のようである。郷里は府中の六社あたりだという事はわかっている。
●この盲目の歌人を紹介するのは、天保14年11月5日に隆子の許を訪れて、前田夏蔭の文会に出す物語の執筆を依頼していて、この物語が、面白い内容であるためである。
●隆子は、木村定良・北村季文・蔵田茂樹・桑原やよ子・賀茂季鷹などとも交流があった。これらについても、おいおい紹介したいと思う。
2007/01/03(WED) 09:27

【12】 井関隆子の創作紹介・3 『いなみ野』

●この作品は同志社女子大学の吉海直人氏が発見された。吉海氏は古書店で『物かたり合』という写本を発見され、その中にこの作品が収録されていたのである。他の作者の作品19点と共に入っていた。隆子の作品の分量は5葉である。
●播磨の国の印南野(兵庫県加古川と明石川の間に広がる平野)に1人の男が住んでいた。6月の頃涼を求めて野原へ出かける。あちこちに秋の花の蕾が見られ、誠に風情がある。男は思わず一首口ずさむ。すると、どこからともなく、歌が返って来る。一段と高いススキ(尾花)の陰から美しい女性が現れる。男はススキが大好きで、野原に出てきたと伝えると、女性も感激して、2人はしばらく語り合う。やがて、男は女性の色香に惹かれて、つい言い寄ると、女性は「いな(否)」とのみ答えて姿を消してしまう。
●隆子は、草花の中では、ススキ・尾花が大好きであった。ススキこそ、草花の中の筆頭にあると評価している。その彼女の好みを作品化したものと、私は考えている。隆子は『日記』の中には、極めて現実的な事を書きとめているが、創作となると、非常に空想的な構想を使用している。彼女の創作的な才能の豊かさを示しているものと思う。
●この作品は、『同志社女子大学・日本語日本文学』第8号(1996年10月)と、私の『井関隆子の研究』に全文収録されている。是非、一度お読み頂きたい。
2006/12/31(SUN) 08:17

【11】 井関隆子の創作紹介・2 『神代のいましめ』

●原本は、昭和女子大学図書館・翠園文庫の「翠園叢書」巻26に収録されている。写本、半紙本、墨付28葉。佐渡の歌人・蔵田茂樹の子の茂時が書写して、佐渡奉行・鈴木重嶺に献上したものと推測される。
●この一編の冒頭に「武蔵野の原」とあり、「ならぶ国なくなん栄えたり」とあることから解るように、江戸がその舞台となっている。
●主人公は公事に従事する某の少将で、経済的にも地位の上でも、また家庭の中も全て満ち足りた生活をしている。ところが、この少将は、ある時、平公誠の歌「隠れ蓑隠れ笠をも得てしがな……」を見てから、隠れ蓑笠が無性に欲しくなる。近習に相談しても効果がないので、屋敷の内の大国神に祈願したところ、その甲斐があって、これを入手する事が出来る。この隠れ蓑笠に身をかくした少将は、無二の友や、少将の所へ出入りしている歌人や、家中の全てを任せておく家長や、深い契りを交わしている女性などの所へ行き、自分に対する様々の批評や批判、また世間の人々の予想外の行動に接し、驚き、怒り、悔しがる。
●そんな事を続けているうちに、長男に、隠れ蓑のみを着ているところ(首のみ見える状態)を見られてしまい、それを知った少将は、変な噂の立つのを恐れて、隠れ蓑笠を神に返す、というのが、この物語の荒筋である。
●この主人公は領地を広く持ち、将軍の覚えも第一で、世間の人々も少将に従い、全てが思いのままである。妻もしかるべき人の娘を迎え、子供も皆それぞれに立派に成人している。使用人も目やすい者を選び、遊びも雅びを好んで、歌合わせ・絵合わせなどが絶えない。住まいも立派で見所が多く、調度品も日本の物は勿論、唐の物まで集め、何不足ない生活ぶりで、少将自身「大方あかぬ事なき身」と言って、この生活に満足している。
●このように現実生活で、全ての面で満ち足りた日々を送っている人間が、次に望むことは、自分の身を隠すというような、超現実的な望みしか残っていない。主人公は、隠れ蓑笠を入手したいと願うようになり、もしその願いが実現出来たなら、自分の思う所へ行き、知らない人の側に立ち、世間の人々の有様を見て、「公の御ため後ろめだきことをも聞出」す事が出来るであろう、もしそれが実現できたなら、さらに満足であると思う。
●つまり、隠れ蓑笠に身を隠して、世の中を見て歩く理由として、幕府に対する陰での批判を聞き出す事をあげている。これは、政治を司っている老中クラスの人物としてみれば当然の事と言えるのであり、好色的な目的が第一であったであろうと推測される、平安朝の『隠れ蓑』とは大きな違いである。
●作者は、この一編を通して、人間の表裏の二面性を指摘し、最終的には、徳川幕府の政治の中心にある、首席老中・水野忠邦批判をしているのである。女性の作品としては、注目すべきものだと思う。
2006/12/24(SUN) 07:26

【10】井関隆子の九段坂下の屋敷

●井関隆子の嫁ぎ先の屋敷は、江戸城に近い九段坂下にあった。現在のりそな銀行九段支店の場所である。屋敷はおよそ500坪位だったと思われる。
北側は九段坂上から俎板橋への広い通りに面し、こちらに玄関があったものと推測される。西側は飯田町から清水門への通りに面していて、こちらの面の方が広かったようである。この西側の通りの向かい側には、井関家と親戚関係にある、新見正路の屋敷があった。現在の九段会館の場所である。東隣には榊原隠岐守の屋敷があり、南隣には能勢河内守の屋敷があった。
井関家の屋敷が、江戸城の近くにあるのは、井関家は代々、初めは小納戸衆という、将軍の身の回りの世話をする掛りであり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(将軍が政治を行う所)と大奥(将軍が私生活をする所)との接点である御広敷(おひろしき)の責任者になる、という家系であったからであろうと思われる。
隆子は、この江戸の中心の、文字通り将軍家のお膝元で、当時の江戸の様々な動きを見ていたのである。
2006/12/17(SUN) 12:23

【9】隆子の実家・庄田家の新宿の屋敷

●隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本庄田安信の本家からの分家である。本家は築地の東本願寺の近くに屋敷があったが、第4代・安勝の時、長男・安利に2600石、次男・安議に400石を分知して、これを分家とした。分家・庄田家の屋敷は『庄田家系譜』の延宝5年(1677)の条に「於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」とあり、場所は現在の新宿区大京町26番地辺で、幕末まで存続していたと思われる。現在の慶応大学病院の辺りと推測される。
●余談であるが、赤穂事件で、元禄16年2月4日、幕府は、大石良雄ら46名に対して切腹を命じるが、その時の大目付・庄田下総守は、本家4代・安利である。
2006/12/17(SUN) 12:17

【8】井関隆子の創作紹介 ・1 『さくら雄が物語』

●原本は、東北大学狩野文庫所蔵、自筆本、全39葉。
主人公・桜雄は、荏原の君と桜の木の精との間に生まれた男の子でおるが、花のように香り、光源氏のように美しく、その評判は江戸中に広まりまった。成人すると求婚者が次々とあらわれ、親は豊かになって喜ぶが、桜雄は全ての相手を拒絶して、桜の花の咲き乱れる頃、愛宕山の川に投身して死んでしまう。その川をいつからか桜川と呼ぶようになった。
●この作品は、『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』などの構想をかりて創られた物語である。天保9年(1838)、隆子が54歳の時の成立である。
●この作品は、『竹取物語』のかぐや姫(女性)の位置に、桜雄(男性)をおいて、天保期の仏教界の腐敗ぶりを徹底的に批判したもので、作者の厳しく烈しい批判精神を伺うことができる。
2006/12/17(SUN) 12:05

【7】歴史における事実と虚構

●本日、12月16日、歴史文化学科の「文化史学会」で「歴史における事実と虚構―『井関隆子日記』の記述から」と題して、お話しさせて頂いた。同学会の諸先生、歴史文化学科の学生の皆さんが参加して下さった。さらに驚いたのであるが、いつも、お世話になっている図書館の皆さんが聞きに来て下さった。これには感謝している。図書館の方々にも昭和女子大学所蔵の資料に関心を持って欲しいと願っている。
●このようにして、少しでも多くの方々に、この『日記』や、その著者の事を知って頂ければ、有難いことだと感謝している。
2006/12/16(SAT) 19:33

【6】『井関隆子日記』 江戸博へ

●昭和女子大学図書館・桜山文庫所蔵の『井関隆子日記』が東京江戸博物館の特別展〔これを見ずして江戸は語れない 江戸城〕に出品展示される予定である。なかなか閲覧できない貴重本であるから、是非、会期中に江戸博へ足を運んで頂きたい。
●江戸東京博物館の、この特別展は、平成19年1月2日~3月4日 に開催される。アクセスは、JR総武線 両国駅西口、都営地下鉄 大江戸線 両国駅A4出口 である。詳細は私のHP「近世初期」の「近世文学関係ニュース」を御覧頂きたい。 →http://www.ksskbg.com/
2006/12/14(THU) 10:51

【5】井関隆子の批評精神

井関隆子(いせきたかこ)が世間に少し知られてきたのは、平成11年度の大学入試センター試験の、本試験の国語Ⅰ・Ⅱの古文に『井関隆子日記』が採り上げられてからである。
しかし、私と隆子との出会いは、もう30年も前になる。鹿島神宮宮司家・67代の鹿島則文のコレクション・桜山文庫の中に,桐箱入り・全12冊の自筆の『日記』を発見した時から彼女との付き合いが始まった。
この全く無名の著者の『日記』を初めて読んだ時、大変驚いた。『日記』は幕末の天保11年(1840)から5年間に亙って書かれていたが、そこには、徳川11代将軍・家斉、12代・家慶、13代・家定の名が所々に出てきて、しかも将軍家の動静がかなり詳しく書かれていたからである。
隆子は江戸城に近い九段坂下に住んでいた。夫は、この時すでに他界していたが、子の親経は御広敷御用人を勤め、家斉の正室の広大院の掛をしていた。孫の親賢も家慶の御小納戸を勤め、後には御広敷御用人となり、和宮の掛となっている。
井関家は、代々、初めは将軍の身の回りの世話をする掛であり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(政治を行う所)と大奥(将軍の私生活の場)との接点である御広敷の責任者になる、そんな家柄であった。隆子は将軍家へ仕える子や孫から、毎日、江戸城中での出来事を聞き、それを『日記』に書さ残していたものと推測される。
一例を紹介すると、将軍・家斉は天保12年閏1月30日に他界した、というのが、現在でも定説になっている。しかし、隆子は、閏1月7日に家斉が没した事を記している。徳川家の正史ともいうべき『徳川実紀』には虚構があり、一女牲の日記に真実が伝えられていると言う訳である。隆子は、当時の女性としては珍しく、広い視野の持ち主で、その興味は、歴史・文芸・文化・政治・社会と多方面に亙っている。国学者の鹿島則文は、最初、男性の日記かと間違えた程である。そして、単に興味を示すに止まらず、それらに、ことごとく論評を加えているが、その批評は極めて厳しく、しかも的確なものが多いのである。
隆子が的確な批判をする事が出来たのは、彼女自身、広く古典を渉猟し、豊かな学識を備えていて、人間を歴史の流れの中でとらえるという、視点を持っていたからだと思う。その上、親経・親賢父子から、江戸城内の様子や幕政等に関する正確な情報を得ていた事も関係しているように思う。
首席老中・水野忠邦は、家斉没後、天保の改革に着手し、強引な政策を実行しているが、隆子はこれらを手厳しく批判している。そこに、彼女の老いてますます衰えることのない批評精神を見る事ができる。
2006/12/13(WED) 23:14

【4】『井関隆子日記』 との出会い

●昭和47年、恩師・重友先生の使いとして、桜山本『春雨物語』を返却するため、鹿島則幸氏の御自宅へお伺いした。用件が済んだ時、鹿島様は「こんなものもございますが」と言って、桐箱入りの12冊の写本を見せて下さった。私の専攻は近世初期の仮名草子であり、幕末の名も無い女性の日記に手を着けるのは、憚られた。しかし、初めから読み進めるうちに、その文体と内容に、グングン惹かれていった。
●岩波の『国書総目録』は書名を「天保日記」とし、著者は「井筒隆女」から「井筒隆」へと変更していた。女性の日記か、男性の著作か、それさえはっきりはしていなかったのである。
●『日記』を読みながら、著者の調査も進めた。幕末の旗本の妻であり、「井関隆子(いせき たかこ)」と言う女性である事が明らかになっていった。もともと出版社の要請で原稿作成に着手したのであるが、オイルショックで企画は中止となってしまった。しかし、その時、私は、この『日記』のトリコになってしまっていた。
●勉誠社に頼み込んで、全3冊の校注を終えるまでに8年間の年月を費やした。仮名草子研究者としては、8年間の寄り道だったのである。
2006/12/13(WED) 08:09

【3】『井関隆子日記』 とは?

●昭和女子大学図書館の桜山文庫に、桐箱入りの、12冊の写本が所蔵されている。これは、幼名・庄田キチ、後に井関隆子の自筆の日記である。天保11年(1840)から5年間に亙る日記で、隆子が55歳から60歳で没するまで書き記したものである。
●隆子は、55歳の正月、老いの身として、これと言って為す事もない、手持ち無沙汰な日々の自分の心遣りとして日記を書き始める。『日記』は年老いた女性の心の発散の場として出発している。
●しかし、生来の批評精神の旺盛な彼女の、目に触れ、耳にする天保の時代は、極めて興味深い現実の連続だったのである。そこから、『日記』に書かれる内容に変化が生じてくる。
●このように、この女性の日記には、極めて主観的な心の発散と、結果的には、その対極にある、この天保期の社会の動き、政治的な変動の裏面をも伝えることとなった。
●私たちは、この一人の幕末の旗本夫人の日記を読む時、江戸時代の人々の生活の様子を多く学ぶことになる。
2006/12/13(WED) 00:47

【2】井関隆子は幕末の旗本夫人

●井関隆子は、天明5年(1785)に江戸の四谷で生まれた。現在の慶応病院のあたりである。この辺は当時は、大番衆という、江戸城などを警護する旗本が住んでいた。隆子の実家は庄田家で、代々、江戸城や大坂城の警備を担当する家系であった。隆子は、天保15年(1844)に60歳で没している。
●20歳の頃、松波に嫁いだが、事情があって間もなく離婚した。その後、実家で本を読んだり、和歌を作ったりしていたが、30歳の頃、今度は井関親興(いせき・ちかおき)と再婚した。そこで、井関隆子になった訳である。
●井関家は、実家の庄田家とは異なり、江戸城に近い九段坂下の飯田町に屋敷があった。井関家は、代々、将軍の近くに使える役目の家柄だったので、お城の近くに屋敷を拝領していたのである。およそ350坪位の広さだった。現在の九段会館の前あたりである。ここで、人生の後半の、およそ30年間を過ごした。
2006/12/11(MON) 19:30

【1】井関隆子(いせき・たかこ) について

●井関隆子と言っても、あまり知られていない。私が初めてこの女性の日記に出会ったのは、もう30年以上前であるが、その時、「名前はまだ無い」であった。ナツケ親は私である。漱石ではない。何年も調査を重ねた結果、ようやく「いせき・たかこ」の名前を付ける事が出来た。
●昭和女子大学には、井関隆子の自筆の日記が所蔵されている。昭和の関係者に、少しでも、この女性を知って頂きたいと思って、掲示板を新設た。今後、この女性に関する事を書き込んで行きたいと思う。皆様の御意見や御質問が寄せられる事を、楽しみに待っている。
2006/12/11(MON) 14:03

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深沢 秋男

J-GLOBALへ         更新日: 08/01/18 00:00
アバター
研究者氏名
深沢 秋男
フカサワ アキオ
URL
http://www.ksskbg.com/index.html
所属
旧所属 昭和女子大学短期大学部 人間文化学科
職名
教授

研究分野

学歴

 –
1962年
法政大学 文学部 日本文学科

Misc

桜斎随筆・全18巻。共編
本の友社      2000年
2000~2002

書籍等出版物

浮世物語
勉誠社   1972年
可笑記大成
笠間書院   1974年
江戸雀
勉誠社   1975年
可笑記評判(全3冊)
勉誠社   1978年
井関隆子日記(全3冊)
勉誠社   1978年
1978-1981

所属学協会

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私のHP

2019.06.05 Wednesday


●私は、平成10年(1998)5月11日、〔近世初期文芸研究会〕というHPを開設した。菊池眞一先生の御配慮によるものである。それより以前、昭和女子大学には、〔深沢秋男研究室〕を開設し、諸々の情報を発信してきた。
●平成27年(2015)から終活に入り、HP〔近世初期文芸研究会〕は、菊池先生の〔J―TEXTS 日本文学電子図書館〕の中に収録して頂いた。現在も、細々と更新はしている。これらは全て、菊池眞一先生の御配慮によるものであり、心から感謝申上げている。

〔1〕仮名草子研究文献目録

「仮名草子研究文献目録」について
仮名草子作品一覧(五十音順)
仮名草子研究書(単行本。発行年代順)
仮名草子研究論文(雑誌掲載分。発表年代順)

〔2〕鹿島則文と桜山文庫

鹿島則文略伝
昭和女子大学図書館所蔵「桜山文庫」
桜山文庫目録和書之部(上)
桜山文庫目録和書之部(下)
神宮々司拝命記
大谷秀實編『祭典礼法』鹿島則文の序文
『皇典講究所入黌記』
桜斎随筆目録
桜斎随筆の絵図
桜斎随筆複製版写真
鹿島則孝伝
鹿島則泰

〔3〕鈴木重嶺

鈴木重嶺〔すずき しげね〕
徳川幕府に仕え、最後の佐渡奉行となる。明治11年、職を辞し、東京で鶯蛙吟社を組織し、月並歌会を催し、短歌雑誌『詞林』を主催した。佐佐木信綱と共に明治初期歌壇の名家とみなされていた。『詞林』は後に、佐佐木信綱の『心の華』に合併した。
鈴木重嶺(翠園)略伝
重嶺と海舟
鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説
鈴木重嶺(翠園)関係資料(1)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(2)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(3)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(4)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(5)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(6)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(7)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(8)
鈴木重嶺の雑誌掲載歌(菊池眞一)
鈴木重嶺の『元始祭』
〔鈴木重嶺紀行集〕(板坂耀子氏)
松浦詮編『蓬園月次歌集 全』の紹介
雑誌『太陽』掲載の鈴木重嶺の和歌等
故鈴木重嶺翁逸話
昭和女子大学図書館所蔵「翠園文庫」について
昭和女子大学図書館・翠園文庫
鈴木重嶺顕彰会
佐渡の思ひ出(石倉翠葉)
勝海舟・鈴木重嶺・楳村宣雄『節季正月双六』
鈴木重嶺作・今様

〔4〕井関隆子

『井関隆子の研究』
井関隆子関係講演等
井関隆子の人と文学
平成23年度、京都大学入試に『井関隆子日記』出題される
平成20年度、明治大学入試に『井関隆子日記』出題される
平成11年度、センター入試に『井関隆子日記』出題される
平成11年度、センター入試(日本史追試)に『井関隆子日記』出題される
『旗本夫人が見た江戸のたそがれ――井関隆子のエスプリ日記』
『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』書評・新刊紹介等【1】
『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』書評・新刊紹介等【2】
『井関隆子の研究』新刊紹介・書評・その他
新刊紹介 『井関隆子の研究』 坂梨隆三
『井関隆子日記』――その後の認知度と評価
最近の『井関隆子日記』の研究状況
『井関隆子日記』新刊紹介
『井関隆子日記』解説
『井関隆子日記』原本の古書価
『井関隆子日記』関係資料
井関隆子の批評精神
井関隆子の女性像
井関隆子の女性像・2
上知令と『井関隆子日記』
新田孝子氏の「文章千古事」
時代劇を読む 二十二時間・二十三日間・三年間
井関隆子作『桜雄が物語』
井関隆子作『神代のいましめ』
井関隆子研究覚書(六)―『庄田家系譜(正本)』―
井関隆子関係墓所・過去帳・家譜
国立国会図書館所蔵『恵美草』の書写者について
大宅壮一文庫・平成ウェブ版の「井関隆子」
『井関隆子日記』 高校の授業に
『井関隆子日記』 上野高校の授業に

〔5〕斎藤親盛(如儡子)

斎藤親盛(如儡子)の研究

目次

① 仮名草子研究の思い出――今後の課題と計画――(昭和女子大学 最終講義資料)
②『可笑記』と儒教思想
③斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)
④斎藤親盛(如儡子)の俳諧(中)
⑤斎藤親盛(如儡子)の俳諧(下)
⑥『可笑記』の諸本
⑦斎藤親盛(如儡子)の著作
⑧川北奉行齋藤筑後守広盛の事績
⑨如儡子(斎藤親盛)の父、斎藤筑後守は「盛広」か「広盛」か
⑩平成22年度香川県公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑪平成23年度京都府公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑫「齋藤筑後守記念碑」建立
⑬一條八幡神社にあった筑後文書
⑭可笑記の著者について
⑮『如儡子百人一首注釈の研究』 刊行
⑯斎藤家の墓所、第3次改葬
⑰酒田古町名物語り(一)
⑱『東京都道徳教育教材集』に『可笑記』採録される
⑲武士道の系譜(講演)  笠谷和比古
⑳仮名草子研究の思い出(昭和女子大学 最終講義)
21平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

〔6〕深沢秋男研究室

■深沢秋男研究室
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■更新履歴
03/06/01:ホームページのデザイン変更
03/07/03:上海交通大学、日本文化資料センター、追加
03/07/04:南部新一児童図書コレクション、追加
03/07/10:百人一首の研究、追加
03/07/10:井関隆子の研究、追加
03/07/12:日本古典文学作品・全画像公開、追加
03/07/16:仮名草子の研究、追加
03/07/16:篆刻・遊印、追加
03/07/19:鹿島則孝の研究、追加
03/07/23:上田秋成の研究、追加
03/10/25:鈴木重嶺の研究、追加
04/02/12:江戸図と飯田龍一氏の旧蔵書、追加
04/04/01:篆刻・遊印 51~100を追加
04/05/07:新刊紹介・学界ニュース 追加

〔7〕篆刻・遊印

●篆刻・遊印  現在は、昭和女子大学 光葉博物館に大部分を寄贈し、保存して頂いている。刻者、冨樫省艸氏も、既に御逝去なされた。

1 深/蔵書/澤
2 深澤/蔵
3 深澤/蔵印
4 深澤/蔵印
5 氏/従拝受〔深〕/年月日
6 我心在/古典
7 我心在/古典
8 我心在古典
9  /我心在古典/
10 人間探究
11 人間/探究
12 人間/探究
13 人間/探究
14 人間探究
15 實事/求是
16 實事/求是
17 實事/求是
18 實事求是
19 實事求是
20 願讀/人間未/見書
21 好古/成癖
22 有所/不為
23 一事不/成両/鬢糸
24 莫若/書籍
25 盈而/不溢
26 體道/不倦
27 花意/竹情
28 馳神/運思
29 獨樂/其志不/厭思道
30 朽木不/可雕
31 改過/不吝
32 行素/夢/常情
33 安貧/樂道
34 書不可/妄讀
35 書不可/妄讀
36 無所不/用其極
37 地不長/無名之/艸
38 存生不/可言
39 朝聞/道夕/死可
40 存生不/可言
41 萬巻/蔵書/宜子弟
42 校書如/掃塵
43 瀟灑/林書瞑
44 後生/可畏
45 他山/之石
46 録而/不作
47 間/是宝
48 焉/用佞
49 勉而/壱
50 好書/到手不/論銭

その他1
その他2
その他3
その他4
その他5
その他6
その他7
その他8
その他9
その他10

1,蔵書印(WEB日記,2000年8月10日,より)

●私も少し蔵書が貯りだした頃,蔵書印のことが,チラチラと頭に浮かんだ。しかし,町のハンコ屋さんで彫ってもらう気はしなかった。まして,書店などで売っているゴムのものなど問題外であった。かといって,プロの篆刻家にお願いする身分でもなかった。

●大学卒業以来だから,35年間も続いている,池袋の土曜会なる,何の目的も無いグループがある。第3土曜日に,都合のよい者が集まる。メンバーに資格は要らない。学歴も年齢も職業もバラバラ。ただ,1人1人が何かに取り憑かれている,そんなグループであった。多分,中心は仲小路彰の教え子・大久保力雄氏だったと思う。何か,森銑三先生の三古会に似ていた。

●その中に,トガシという人がいた。塗料か何かの会社で頑張っているそうであった。趣味は詩吟で,これは定評があり,玄人の域に達していた。知り合って10年以上も経った頃,石をカジッている,と耳にした。私はオダヤカではいられなくなった。時間をかけて印影集を閲覧させてもらうところまで漕ぎ着けた。

●私も,集まりの度に,様々な印譜集や蔵書印集を持参して,機の熟するのを待った。兎に角,トガシさんの印影はミゴトであり,今,ハバを利かせている印譜協会の方々の作品に比して,決して見劣りはしない。聞くと,協会には意識して入らないとのこと。さもありなん,と納得。

●折をみて,恐る恐る,ヒトツ蔵書印を,と切り出してみた。案の定,余りヨイ顔色では無かったが,引き受けてくれた。こちらの希望は,20ミリの方形で「深沢蔵書」ということのみで,あとは,何も言えなかった。何時出来るかもわからなかった。3ケ月位経って,印影のみ見せてくれた。私は,即座に気に入り,頂くことにした。

●モンダイは謝礼である。金で彫るのではないから,石代だけでよい,と言われた。石の程度も分からない。私は,芸術家に対して失礼にならないような謝礼をした。こんなイキサツで私は,念願の蔵書印を持つことが出来た。小さいものであるが,気に入っていて,自分の蔵書として恥ずかしく無い本にのみ,この印を押している。

2,篆刻(WEB日記,2000年8月11日,より)

●トガシさんの篆刻家としての雅号は〔省艸(せいそう)〕という。冨樫さんは酒田の産で,漢籍の世界に通じていて,キビシイ処世観の持ち主であった。ちょっと近寄りがたいところはあるが,根は温かく,情に厚い方であった。蔵書印に味をシメテ,氏・名,と進み,やがて遊印の世界へ広がっていった。

●現在,私の手元には,冨樫省艸刻のものを主体とした篆刻遊印が,オヨソ400本はある。日本橋の丸善に森林楽の仕様で特注したケースに入れてある。大小様々であるが,数はそれ位ある。しかも,冨樫氏のものは,殆ど袴(ハカマ)付きである。そして,石の磨きも印面のみでなく,全体が正確な立方体ではなく,丸みを帯び,少し変形し,温かく磨き上げられている。市販の石に生命が吹き込まれたように感じる。

●冨樫氏は,深沢は貧乏学者だから,金は要らない,気持ちだけでイイ,その分,金持ちからもらうヨ ,と言って,私の希望を叶えてくれた。私の研究する斎藤親盛(如儡子)が冨樫さんと同じ酒田の奉行の子であった,という点で好意を持っていてくれたのかナ,と今は思ったりしている。私は失礼のないように対応してきた。冨樫さんはお酒が大好きで,特に洋酒を好んだ。私は専ら三越のオールドパーを活用していた。印文は私が古典の中で出会ったもので,しかも冨樫さんが納得したもののみ彫ってくれた。私は常に冨樫さんにテストされていた事になる。また,冨樫さんの印影を見せてもらい,気に入ったものをお願いしたりもした。私としては,身に余る道楽であったが,これらの印文から生き方を学んだ点も多い。感謝,感謝,感謝。

3,篆刻・2(WEB日記,2000年9月11日,より)

●冨樫氏の篆刻作品は見事である。私も蔵書印譜など多く見ているが,見劣りは決してしない。40年間も彫り続けて,その数も膨大なものであった。

●我々,池袋土曜会は,「省艸印譜刊行会」を設立して,平成4年12月12日,『省艸印譜』を刊行した。限定30部,収録印は,厳選して144点。全て,中国,西玲印社の印泥による手押し。和装本で,匡郭・丁付・題簽は木版,印文等は全て活版。

●寄贈先は,国立国会図書館・都立中央図書館・東大・京大・芸大・武蔵美・多摩美・早稲田・慶応・明治・法政・立教・昭和女子等の図書館である。明治時代には三村竹清などとという粋人がいて,見事な印譜集を残しているが,この『省艸印譜』もキッと,後世の人々の目を楽しませてくれるものと確信している。本サイトでは,いずれ,この『省艸印譜』の紹介もしたいと思う。

以下,各印について,簡単な注を付す。(印材は,注記の無い場合,中国産の石である)
1=「深/蔵書/澤」方形陽刻(蔵書)・陰刻(深澤)混合,20ミリ×20ミリ。中央に陽刻で「蔵書」,左右の「深」「澤」のサンズイは旁の中に組み込まれている。深沢の第1蔵書印で,自分の蔵書に相応しい本のみに押している。
2=「深澤/蔵」陽刻方形,20ミリ×20ミリ。
3=「深澤/蔵印」陽刻方形,25ミリ×25ミリ。
4=「深澤/蔵印」陽刻方形,24ミリ×24ミリ。
5=「氏/従拝受〔深〕/年月日」陽刻縦長方形,43ミリ×28ミリ。本を寄贈された場合に押して,寄贈者と年月日を書き込む。
6=「我心在/古典」陽刻方形,40ミリ×40ミリ。神田の古書店で頂いた短冊から。
7=「我心在/古典」陽刻方形,38ミリ×38ミリ。
8=「我心在古典」陽刻縦長方形,45ミリ×23ミリ。
9=「 /我心在古典/ 」陽刻方形,39ミリ×39ミリ。指導した卒業論文の末尾におす。右に題目,左に面接諮問実施日を書き込む。
10=「人間探究」陽刻縦長方形,90ミリ×22ミリ。文学研究の目標として,恩師・重友先生からお教え頂いたもの。
11=「人間/探究」陽刻方形,23ミリ×23ミリ。
12=「人間/探究」陽刻方形,24ミリ×24ミリ。
13=「人間/探究」陽刻方形,23ミリ×23ミリ。
14=「人間探究」陽刻縦長方形,30ミリ×14ミリ。
15=「實事/求是」陰刻縦長方形,46ミリ×30ミリ。研究姿勢として,実践を目指している。天理図書館入口の額にある。木村三四吾先生からのアドバイスも頂いた。中国浙江大学の校訓は「求是」であった。
16=「實事/求是」陽刻縦長方形,45ミリ×29ミリ。
17=「實事/求是」陽刻方形,30ミリ×30ミリ。平成7年の年賀状に使用。前年に中国旅行をして浙江大学を訪問。
18=「實事求是」陽刻縦長方形,22ミリ×8ミリ。
19=「實事求是」陽刻縦長方形,18ミリ×8ミリ。
20=「願讀/人間未/見書」陰刻方形,30ミリ×30ミリ。平成6年の年賀状に使用。新しい資料にめぐり合いたいという願望を込めた。
21=「好古/成癖」陰刻方形,30ミリ×30ミリ。平成8年の年賀状に使用。
22=「有所/不為」陰刻方形,30ミリ×30ミリ。平成9年の年賀状に使用。平成8年4月,国語国文学科の学科長となる。
23=「一事不/成両/鬢糸」陰刻方形,30ミリ×30ミリ。晩年の年賀状に使用する事になると予測される印文。
24=「莫若/書籍」陽刻方形,30ミリ×30ミリ。平成10年の年賀状に使用。人の神智を益するは書籍に若くは莫し。とかく実用が重んじられ,書物が軽んじられている。
25=「盈而/不溢」陽刻方形,30ミリ×30ミリ。
26=「體道/不倦」陰刻方形,30ミリ×30ミリ。道を追究してあきることがない。
27=「花意/竹情」陽刻方形,30ミリ×30ミリ。なにやら,己に通うが如し。
28=「馳神/運思」陽刻方形,30ミリ×30ミリ。
29=「獨樂/其志不/厭思道」陽刻方形,30ミリ×30ミリ。平成15年の年賀状に使用。『礼記』の「楽記」第19にある。独り其の志を楽しんで,其の道を厭わず。つぶさに其の道を挙げて,其の欲を私せず。こんな調子で1年を送りたいものと。
30=「朽木不/可雕」陰刻方形,24ミリ×24ミリ。
31=「改過/不吝」陰刻方形,24ミリ×24ミリ。
32=「行素/夢/常情」陰刻方形,30ミリ×30ミリ。
33=「安貧/樂道」陽刻方形,30ミリ×30ミリ。
34=「書不可/妄讀」陽刻方形,25ミリ×25ミリ。
35=「書不可/妄讀」陽刻方形,29ミリ×29ミリ。
36=「無所不/用其極」陽刻方形,30ミリ×30ミリ。
37=「地不長/無名之/艸」陽刻方形,35ミリ×35ミリ。
38=「存生不/可言」陽刻方形,30ミリ×30ミリ。いずれは発信したい印文。
39=「朝聞/道夕/死可」陰刻方形,34ミリ×34ミリ。
40=「存生不/可言」陰刻方形,20ミリ×20ミリ。
41=「萬巻/蔵書/宜子弟」陽刻方形,40ミリ×40ミリ。
42=「校書如/掃塵」陰刻縦長方形,40ミリ×18ミリ。長年古典の校訂・校注の仕事をしてくると,切実に感じる。
43=「瀟灑/林書瞑」陰刻方形,25ミリ×25ミリ。
44=「後生/可畏」陰刻方形,20ミリ×20ミリ。
45=「他山/之石」陰刻方形,25ミリ×25ミリ。
46=「録而/不作」陰刻方形,25ミリ×25ミリ。論文もかくありたきもの。
47=「間/是宝」陰刻方形,30ミリ×30ミリ。平成14年の年賀状に使用。14年から15年にかけて,まさにこのような時間が経過している。「間」は誠に大切なもの。その「間」を活かすか空費するか。
48=「焉/用佞」陰刻方形,35ミリ×35ミリ。誠に厳しい。
49=「勉而/壱」陽刻方形,30ミリ×30ミリ。平成12年の年賀状に使用。
50=「好書/到手不/論銭」陰刻方形,35ミリ×35ミリ。


投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。