東北の関ヶ原合戦と斎藤筑後守

東北の関ヶ原合戦と斎藤筑後守
2016.11.12 Saturday
● 伊藤清郎氏の『最上義光』(2016年4月25日、吉川弘文館発行)を読んだ。最新の研究状況を踏まえたもので、大変参考になった。
● 慶長5年の、関ヶ原合戦では、徳川家康の東軍が勝利を得たが、この時、東北では、上杉景勝は、徳川家康に対立して、最上領を攻めた。この、東北の関ヶ原合戦ともいう戦いは、『可笑記』の著者・如儡子の父、斎藤広盛にとっても、その渦中にあって、大変なものであったと推測される。
●伊藤氏は、〔北の関ヶ原合戦〕の条(142頁)で、
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「上杉勢は、徳川家康の西上によって白河口が安全であることを確認した上で、慶長五年(1600)九月八日と九日に分けて、直江兼続を総大将とする約二万の大軍をもって、米沢から長井・白鷹・五百川、畑谷へと進軍する。上杉勢には、畑谷城へと向かう主力軍(中越え道)、そこから分かれて八ツ沼城・鳥屋ケ森城へと向かう軍勢、小滝道を進む軍勢、米沢道を進んで上山高楯城に向かう軍勢があった。さらに庄内からは、鶴岡の下氏の軍勢が六十里越道を進み、酒田の志駄(田)氏の軍勢が最上川沿いに進軍していった。
志駄氏が拠る亀ヶ崎城に関して、発掘によって大量の荷札・木簡が出土し、そこには「慶長五年七月三日」「志駄修理亮」「なまり玉弐千入」「なまり玉千」等が記され、亀ヶ崎城に「なまり玉」(鉄砲玉)などの武器弾薬を集め、合戦の準備を着々としていたことが考古学的にも裏付けられている。」
           【引用にあたり、注記は省略した】
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このように記しておられる。
 伊藤氏は、この条に「長谷堂合戦略図」を掲載し、酒田城の志駄氏は、最上川沿いに進軍し、古口城、庭月城を攻略したとされているが、実は、この時、志駄修理亮の配下に、如儡子の父、斎藤広盛がいたのである。後年、如儡子・親盛の子、秋盛が仕えた、二本松藩の記録、『世臣伝』には、次の如く記録されている。
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「慶長五年、主の景勝、徳川家に背き参らせし時、直江兼続〔山城守〕最上表の先陣打て馳せ向ふと聞しかば、広盛も手勢三百余人にて古口・庭月〔最上方の取手也〕の両城に馳向ひ、不日に攻てせめ落し、庄内の通路も自由なりければ、直江も安々と討ち入りて、戦ふ毎に不利といふ事なし。」

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● この記録は、斎藤家に伝わる資料に拠っているが、いずれ、これを傍証する資料が発見されるものと思われる。如儡子の父・広盛は、最初は、上杉方に属し、最上氏と戦ったが、後に、最上家に仕え、川北奉行を勤めたのである。
● 私は、如儡子、斎藤親盛の伝記を研究してきて、その父の足跡を追尋して、ここまでたどり着いた。

■ 伊藤清郎著『最上義光』

■ 「長谷堂合戦略図」
左上にある、最上川が日本海に入る
所の〔28〕が酒田城、最上川をのぼり、
〔24〕が古口城、その上の〔26〕が庭月城

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。