【3】『井関隆子日記』(中)

【3】『井関隆子日記』(中)

編著書・仮名草子以外

【3】井関隆子日記(中) 昭和55年8月30日,勉誠社発行,4500円。『井関隆子日記』天保12年・13年の4冊分を収録。巻末に「鹿島則文と桜山文庫」を収録。

鹿島則文と桜山文庫

鹿 島 則 文
      生  二四九九  天保一〇年正月一三日
      没  二五六一  明治三四年一〇月一〇日〔年〕六三

  総叙 〔国学者概伝〕桜宇卜号ス、則瓊ノ孫ニシテ則孝ノ長子ナリ、吉川天
  浦安井息軒等ニ学ビ儕輩ニ重ゼラル、文久二年京師ニ到り深ク皇室ノ式微ヲ
  患ヒ広ク諸藩ノ有志卜交り奔走スル所アリ此年従五位ニ叙シ出羽守ニ任ズ、
  同三年神武館ヲ鹿島ニ起シ専ラ志士ヲ招キテ以テ他日ニ期セソトス、慶応元
  年幕府ノ忌ム所トナリ八丈島ニ流サル、明治二年赦サレテ帰国シ、其私有セ
  ル田野ヲ資トツテ稽照館ヲ建テ大ニ人材ノ養成ヲ計ル、六年父ニ代リテ大宮
  司トナリ、公務ノ余益々育英ノ業ニ力ム、十七年伊勢神宮々司ニ任ゼラレ、
  大ニ積年ノ弊ヲ一洗シ、祭儀ヲ復古シ官制ヲ改革ス、別ニ神苑会ヲ起シテ両
  宮ニ神苑ヲ開キ皇学館ヲ建テ徒ヲ養ヒ、編纂所ヲ設ケテ古事類苑以下有益ノ
  出版アリ、又林崎文庫ヲ修メ広ク異本ヲ集ム、同三十一年職ヲ辞シテ郷里ニ
  帰り老ヲ養フ、三十四年特旨ヲ以テ従四位ニ叙ス、同年秋ニ至り病ニカヽリ
  テ没ス。

 『国学者伝記集成』の右の記述によって、鹿島則文の大略は知り得るが、以下、その生涯と業績とについて、やや具体的に紹介してみたい。
 則文は鹿島神宮・宮司家の六十六代・則孝と瑳智の間に長男として生まれた。鹿島町に鎮座する神宮の宮司家・塙鹿島家の家系を略記すると次の通りである(注一)。
 天児屋命――大押雲命――天多弥伎命――宇佐津臣命――大御食津臣命――伊香津臣命――迹臣命――神聞勝命――久志宇賀主命――国摩大鹿島命――臣狭山命――狭山彦命――大鹿見命――建彦命――島根大連――波波良麻呂――佐佐麻呂――千志麻大連――小主――東麻呂――春魚――国石――広庭――鹿門――諸躬――武主〔天平十八(七四六)年三月中臣鹿島連の姓を賜う〕――大宗――治嶋――治風――武則――則高――則成――則助――則綱――則純――則景――則長――則宗――則常――則行――則雄――則光――則幹――則仲――則藤――則国――則密――則弘――則隆――則満――則煕――則房――則家――則恒――則久――則興――則盛――則広――則敦――則直――則長――定則――則備――則峰――則瓊――則孝――則文――則泰・敏夫――則幸――則良
      【★終わりの部分一部省略 原本参照】 

 則文の生涯を伝えるものとして、『先考略年譜稿』が鹿島家に所蔵されている。これは、則文の次男・鹿島敏夫氏が作成されたものであるが、信頼し得る貴重な資料であると思われるので、その全文を紹介したいと思う(注二)。       

先 考 略 年 譜 稿      鹿島敏夫

天保十年〔己亥〕正月十三日辰刻出生布美磨卜命ズ   
  十四年〔癸卯 五歳〕初メテ歌ヲ詠ズ祖父君ノぱ膝上ニ抱カレ小説〔草双紙〕 
    ヲ読ム 初メテ孝経ヲ読ム
弘化元年〔甲辰 六歳〕三月十一日袴着祝夕ヲ為ス
  四年〔丁未 九歳〕初メテ詩ヲ作ル
嘉永四年〔辛亥 十三歳〕吉川天浦ニ付キ左氏伝ヲ読ム
  六年〔癸丑 十五歳〕十一月二日元服矗之輔卜改名
安政三年〔丙辰 十八歳〕比年ヨリ意ヲ詩文ニ用フ
  六年〔己未 廿一歳〕二月朔日参宮初メ大宮司職見習〔祖父則瓊君拝礼教授
    セラル永年ノ勤務吉例ニ依也〕 三月三日祖父父卜三名参宮〔家ニ於テ
    初メテノ儀式ナリ〕
万延元年〔庚申 廿二歳〕此年江戸息軒安井仲平ノ塾ニ入有志ノ輩卜交ル
文久元年〔辛酉 廿三歳〕十二月十一日下総佐倉藩植松求馬永躬長女鉉子ヲ妻ル
    〔十八歳〕
  二年〔壬戌 廿四歳〕十一月禁中ヨリ米丗石御寄附ニヨリ七日父ニ代り上京
    ス十二月十三日御米受取ル廿四日叙従五位下任出羽守〔上卿冷泉中
    納言為理卿職事葉室右大弁長順朝臣〕   
  三年[癸亥 廿五歳]正月十日帰郷十一月水戸藩士及浪士有志等誠心組卜称
    シ下生根本寺ニ屯集文武館ヲ建テ神宮ニ奉納スルヲ乞フ此ノ輩尊王攘
    夷敬神廃仏ヲ説キ過激ノ徒之ニ雷同シ神宮寺ノ大仏ヲ毀リ寺ヲ焚キ富
    蒙ニ金ヲ課スルニ至ル神官ノ中之ニ党スルモノアリ〔是ヨリ前水戸有
    志水戸ニ水門館小川ニ小川館潮来ニ潮来館ヲ起シ文武ヲ磨キ攘夷ノ先
    鋒タランヲ期スケダシ之ニ習ヒ機脈ヲ通ズルナリ〕
元治元年〔甲子 廿六歳〕正月水戸藩士根本寺屯集ノ徒藩名ヲ濫用シタリトテ捕
    ヘテ潮来ニ押送シ遂ニ水戸ニ送ル〔実ハ幕府ヨリ手入アルヲ聞キ己ガ藩
    ニ伴ヒシナリトイフ〕後之ヲ免スト云六月寺社奉行ヨリ浪士ノ件ニ付父
    則孝ヲ召ヨセ尋問セラル東鹿島江戸ニ出則文暴徒ニ与同スト誣告スルヲ
    以テナリ則文出府之ヲ弁ス是レヨリ明年迄父子度々出府ス
慶応元年〔乙丑 廿七歳〕七月廿五日妄ニ浪士ニ文武館ノ地ヲ貸シ之レト交通ス
    ルニ坐シテ揚屋入十月廿九日遂ニ遠島セラル〔掛寺社奉行土屋采女正父
    則孝職務取上ゲ押込〕鹿島家落晩此ノ時ニ究ハマル
  二年〔丙寅 廿八歳〕五月廿四日八丈島ニ謫セラル〔二月廿一日父則孝押込
    御免三月廿七日則瓊大宮司再任〕
  三年〔丁卯 廿九歳〕十二月七日則泰出生幼字太郎
明治二年〔己巳 丗一歳〕五月朔日遠島御免廿八日帰京六月五日赦免職掌位階従
    前ノ通リ十日帰島御礼奏者所へ出頭十三日帰国七月朔日稽照館開講〔従
    前ノ会議所ヲ校舎ニ用フ父祖以来ノ素志ヲ達ス〕八月二日父代理トシテ
    神宮祭典復古ノ儀ヲ神祇官へ出願〔康安ノ祭式ニヨル〕四日本氏鹿島ニ
    復スルヲ同官へ届〔中世ヨリ居住ノ地名ニ依塙卜云〕廿日総神官改補職
    禄加増式ノ儀ヲ出願〔文永ノ補任ニヨリ禄ハ上ヲ減ジ下ヲ益ス人皆悦
    服ス〕其許サル廿日太郎初メテ鹿島ニ下向ス九月九日復古大祭典修行十
    一日在島中島地へ奉祀シタル鹿島香取両御分霊ヲ斎祀ス十一月廿三日学
    校保存資トシテ伝来ノ除地収納米ヲ寄附ス
三年〔庚午 丗二歳〕七月十一日神幸祭始メテ執行〔数百年来中絶再興〕九月四
    日大奉幣使参向父ノ介副ヲ命ゼラレ父子ニテ勤ム
四年〔辛未 丗三歳〕六月廿八日父子三名位記返上七月十七日総神官御暇乞トシ
    テ香取神宮へ参拝〔則孝則文同伴〕長村神祇少史千代田史生出張諸調ア
    リ十月廿六日后三時敏夫出生
五年〔壬申 丗四歳〕七月八日教部省ヨリ総神官被免神勤即日少宮司ニ任ゼラル
    九日大講義兼補
六年〔癸酉 丗五歳〕三月四日大宮司ニ任ゼラレ権少教正ニ兼補七月十二日士族
    編入十四日新治県管内教導取締申付ラル八月廿二日大教院詰被申付九月
    茨城県内教導取締被申付是レヨリ十五年神職教職分離ニ至ル迄東西奔走
    一年内六分(旅宿ニアリ
七年〔甲戌 丗六歳〕 一月一日大教院焼失〔芝増上寺〕御撰迀座ヨリ事後処分
    ニ至ル寧日ナシ五月廿二日正七位ニ叙セラル十一月十九日少教正廿三日
    前三時祖父則瓊君卒年八十九三笠山ニ葬ル
八年〔乙亥 丗七歳〕 一月四日祖母真志子君卒〔七十七〕三笠山ニ葬ル
九年〔丙子 丗八歳〕 一月十四日前三時三子出生九月七日父則孝君隠居則文家
    督相続
十年〔丁丑 丗九歳〕十二月八日大宮司免ゼラル十二日宮司ニ任ゼラル
十一年〔戊寅 四十歳〕二月六日兼補権中教正六月廿六日前六時淑男出生七月日
    比谷神道事務局詰被命
十二年〔己卯 四十一歳〕十二月四日祖父母君ノ碑ヲ三笠山ノ墓地ニ建〔撰文吉
    川久勁 書松岡正久〕
十三年〔庚辰 四十二歳〕四月廿六日配当禄下賜〔二百石現米六十四石五ヶ年合
    計金七百八十六円○五銭〕八月廿五日神道事務局ヨリ茨城県下神道事務
    分局長ヲ命ゼラル
十四年[辛巳 四十三歳]二月仮殿ヲ東方ニ移シ二ノ鳥居ヨリ神前ニ至ル敷石出
    来三月廿二日神道総裁〔一品勲一等〕有栖川宮幟仁親王殿下ヨリ幹事交
    代員被申付御暇ノ節末広平甕下賜二月九日后五時丗分五止子出生
十五年〔壬午 四十四歳〕一月神官教導職兼補被廃九月廿日皇典講究所委員委托
    被申付同日茨城県皇典講究分所詰被申付十一月四日皇典講究所開畳
十六年〔癸未 四十五歳〕十二月茨城県下水戸筑波大原神道事務三分局統理被申
    付同月茨城県皇典講究分所長被申付
十七年〔甲申 四十六歳〕四月二日神宮々司任命五月八日家ヲ擕テ赴任
十八年〔乙酉 四十七歳〕四月廿一日叙従六位七月家族卜尾濃ニ遊ブ七月五日二
    女いと子死ス宇治今北山ニ葬ル
十九年〔丙戌 四十八歳〕三月七日家族卜京坂ニ遊ブ五月四日三重県皇典講究分
    局督被申付
二十年〔丁亥 四十九歳〕三月七日皇大皇后神宮御参拝ニ付拝謁三月廿五日叙正
    六位六月廿五日久邇宮ヨリ神苑会仮会頭被申付
廿一年〔戊子 五十歳〕六月廿五日三重県へ転籍十一月父君中風ヲ病ム三週間ニ
    シテ癒十二月十一日新築皇城拝観          
廿二年〔己丑 五十一歳〕十月二日神宮式年迀宮奉仕同五日豊受宮奉仕〔式年迀
    宮ハ維新後明治二年一回ノミ維新ノ際ナルヲ以テ行卜ヾカズ今回ハ神殿
    神室皆十分ノ取調ヲ経残所ナシ〕
廿三年〔庚寅 五十二歳〕三月妻卜畿内紀州播磨辺漫遊同廿七日神宮御造営祭典
    挙行其他旧儀取調尽力不尠ニ付特旨叙従五位八月神祇官運動ノ為メ上京
    〔今井主典木庭仝〕時ニ熱田神宮御新築神宮卜仝構造卜為サントスル議
    アリ又正義之ヲ論弁ス事端縺テ解ケズ祭主宮御気嫌能力ラズ攻撃大ニ起
    ル然レドモ遂ニ事ナシ十一月十三日妻卜赤坂御所菊花拝観十二月四日隠
    居則泰家督ス
廿四年〔辛卯 五十三歳〕八月六日皇太子殿下両宮御参拝十月廿四日祭主久邇宮
    神嘗祭ニ御参向宇治ノ官舎ニテ薨去ニ付繁忙
廿五年〔壬辰 五十四歳〕十月二日父則孝君卒年八十宇治今北山ニ葬ル
廿六年〔癸巳 五十五歳〕十月十五日母瑳智子卒ス年七十宇治今北山父君ノ傍ニ
    葬ル
廿七年〔甲午 五十六歳〕神都名勝誌成ル二月神宮皇学館ヲ□□ス是レヨリ先赴
    任後直チニ学校ヲ興シ神官子弟ヲ教育ス此ニ至り館舎ヲ新築シ教員を増
    聘シ生徒ヲ全国ニ募リ大ニ之ヲ拡張ス
廿八年〔乙未 五十七歳〕一月十五日祭主有栖川宮薨去同廿八日広島大本営土方
    宮内大臣ヨリ召アリ出頭ス後任久邇宮二ノ宮卜決定宮司宜ク補佐スペシ
    云々ノ旨ヲ伝ラル四月故事類苑編纂着手事務所ヲ東京ニ置ク六月廿一日
    叙正五位
廿九年〔丙申 五十八歳〕十一月丗日叙高等官三等
丗年 〔丁酉 五十九歳〕再ビ皇学館ヲ拡張シ文部省認可校トス故事類苑一部出
    板
丗一年〔戊戌 六十歳〕五月二日午後十一時半神宮参集所失火同庁類焼 御正殿
    へ飛火ス風宮へ迀座六月黒木御殿出来迀御六月廿七日依願免本官七月一
    日事引継三日家族卜帰郷ス神宮ニ在職スル十五年御事ヨリ此ニ至ル二ケ
    月余寝食ヲ安ゼズ黒木仮殿迀御ヲ終ル
丗三年〔庚子 六十二歳〕十月マラリヤ熱ニ感染ス癒エズ
丗四年〔辛丑 六十三歳〕四月水戸ニ往テ病ヲ療ス五月十三日特旨ヲ以テ叙従四
    位十月十日后十時没ス三笠山先塋ニ葬ル

君幼ヨリ学ヲ好ミ長ジテ博覧強記夙ニ尊公ノ説ヲ唱へ遂ニ罪ヲ幕府ニ得テ遠島ニ滴セラル然レドモ猶学ヲ捨ズ島人ヲ化シテ学ニ向ハシム赦サレテ帰ルヤ先ヅ稽照館ヲ起シ子弟ヲ教育シ祭典ノ儀式ヲ復古シ神官ノ禄ヲ改メ上ヲ損シ下ヲ益ス部下皆悦服ス維新ノ変革ニ際シヨク上意ヲ奉ジテ冝ヲ致ス召サレテ大教院ニ在ルヤ斯道ノ為メ尽ス処少々ナラズ大教院焼亡スルヤ身ヲ挺シテ善後ノ処置ニ勉メ布教ノ
為県下ヲ奔走シ家ニアル一年三ケ月ニ過ギズ神官教職分離ノ後ハ皇典講究所ニ尽シ神宮ノ宮司ニ任ゼラルヽヤ先ヅ皇学館ヲ興シ国書ノ講究ヲ盛ニシ迀宮ノ故実ヲ調査シテ遺漏ナカラシメ神苑会ニ会頭トナリ宮域附近ヲ清浄ナラシム故事類苑ヲ引継テ出板シ神都名勝志ヲ篇輯出板シ古玉篇ノ残冊ヲ世ニ出ス官制ヲ改革シ神宮積年ノ宿弊ヲ一洗シ多大ノ借入金ヲ返却シ積立金数十万円ニ至ル久邇宮有栖川両祭主ノ宮ノ重スル所トナリ殊ニ賀陽宮ノ祭主ニ任ゼラルヽヤ特旨宮ヲ補佐スベキノ命アリ不幸神宮ノ変災ニ会シ職ヲ辞スルニ至ル性書ヲ愛スル人ニ過ギ公暇手書ヲ舎カズ用ヲ節シ費ヲ省キ書ヲ求メテ息マズ飢ル者ノ食ヲ求ムルガ如シ経史小説高尚卑近ヲ問ハズ晩年家ニ蓄財ナキモ珍籍奇冊三万冊人之ヲ云へバ曰ク妓ヲ聘シ酒ヲ飲ムハ世ノ通例ナリ予飲ヲ解セズ書ハ予が妓ナリ予が酒ナリト

 『先考略年譜稿』は則文の生涯を簡潔に伝えているが、この中から殊に重要と思われる点を二、三とり上げてみたい。

  八丈島送り

 かねて尊王思想を鼓吹していた則文は幕府の忌むところとなり、慶応元年七月、浪士に文武館を貸し、これらと交わったとして揚屋入りを仰せ付けられ、十月島送りの刑に処せられた。二十七歳の時である。慶応二年五月二十五日江戸鉄砲洲岸を出帆、浦賀、網代、三崎、大島、三宅島を経て六月五日八丈島到着。
 明治元年十一月赦免されたが、帰郷したのは翌二年六月である。則文は三年間に亙って八丈島で流人生活を送った。在島中は読書を以て楽しみとし、その間に寺子屋を開いて学問を講じ、島民の教化にも当たった。
 近藤富蔵の『八丈実記』に序を寄せ、島民及び流人の有識者に呼びかけて『南島名勝集』(八丈八景)を編んだが、この他にも八丈島に遺した詩文は碑として現存する。また、揚屋入りから赦免帰国までの、八丈流人日誌ともいうべき『南遊雑録』二巻を残しているが、これは流人生活を知る上で貴重な資料となっている。今は『八丈実記』の序を掲げるにとどめたい。

   八 丈 実 記 序

  人之世に処するや、文有て而して名朽ちず。而して、文は記事より難きは莫
  く、地誌より難きは莫し。地誌を作る、荀も博学にして広聞、身険阻を渉り、
  而して疲労せず、歳月の久しきを経て、而して倦厭せざる者に非ずんば、焉
  ぞ能く其の梗概を尽さん耶。余幼より地誌を好み、風土記と称する自り、今
  人の遊記に至るまで之れを読まざる無し。嘗て正斎近藤先生の辺要分界図考
  を閲し、案を拍ちて曰く、憶、斯の如き人にして、而して地誌は大成すると
  謂う可しと。夫れ皇国南北の海上を距つこと数十里、而して王化に服する者、
  蝦夷と八丈と有る而已。然れども、蝦夷之地は広漠数百里、地は寒帯に際し、
  秋冬之間、雪天陰濠日色を見ず。加之、居人甚だ少なく、毒蛇猛獣昼猶横行
  す。古自り曽て其の北地を窺うもの無し。或は山丹に属すと云い、或は魯西
  亜に属すと云い、定説有る無し。而るに先生飽学文質に富むを以て、重嶺大
  海人之難しとする所を経渉し、熟に其の地の険易沃瘠を覧、博く国史に徴し、
  漢籍を旁捜し、考証引例、其の委曲を悉す。蝦夷之山川、席上画を指して知
  る可し。近来、官、蝦夷の地を闢くことを命ず。信を此の書に取らざる無し。
  其の功も亦大なる哉。八丈島は一弾丸子之地、北蝦の九牛之一毛耳。且つ国
  地を距たること遠からず。而して其の風土を紀す者、慨ね疎にして簡、毎に
  人の意に慊らざる者は何ぞ耶。益其の人に無き也。若し先生の如き有らば必
  ず記載して憾み無がる可し。余南鼠之三日、聞斎近藤翁の余を来訪する有り。
  余其の履歴を問う。曰く正斎先生之子也と。是に於て一見旧の如し。談八丈
  の地理に及ぶ。徴かに其の説を叩くに、翁答えず。志料若干巻を出して相示
  す。乃ち展べて之れを読む。名勝と風土とを論ずること無く、凡そ此の島に
  関係する者、土地之変換、吏民の隆替、男女之風俗、物産之多寡、悉く旧史
  野乗を考究し、諸れを野叟村婆之談に徴し、四十余年之久しきを積む。而し
  て網羅包挙、備具せざる無し。余、昔日未だ懐いに慊らざる者、是に於て復
  憾みを遺すこと無し。豈大快事に非ず乎。嗚呼、父子にして南北辺土の事実
  を著す。偶然ならざるに似たり。当今朝政漸く復古、他日若し国誌を此の著
  に徴する有らば、稗益すること、分界図考の下に在らざる有らん。翁、軀幹
  雄壮、曠懐偉度、険岸絶嶺を跋踄して窮せず、其の勝るるは一事も措かず。
  差錯有れば寝食を廃して校正す。故に草稿屡成り、屡毀ちて、自ら其の労を
  知らざる也。故に此の書にして世に伝うることを果さば、則ち翁の身孤島に
  窮居すると雖も、名不朽に垂るるは此の文也。然りと雖も、篤く学を好み、
  厚く道を信ずる者に非ざれば、成す可からざる也。因て其の感を巻端に書し、
  之れが序と為すと云う。
    明治二年歳次己巳夏五月
                前の朝散大夫  中 臣 則 文  撰

 明治元年十一月、新政府の大赦によって帰郷することを許された。ここに掲げた写真はその時の則文の赦免状である。一行目「常陸国」の「陸」が「■」とあるのは、明治天皇の御名「睦仁」を憚って一画を欠いたもの。【写真省略 原本参照】しかし則文が地役人菊地秀右衛門から赦免の申し渡しを受けたのは、翌明治二年五月一日であり、八丈島を出たのは二十三日未明である。二十八日江戸着船、御赦免御礼等の諸事を済ませた後、六月十三日郷里・鹿島に帰った。神官をはじめ市中の人々およそ百人に迎えられた則文は、神宮に参拝御礼の上、帰宅した。

 伊勢神宮・大宮司拝命 

 この時、鹿島神宮は上地によって二千石の朱印地を失い窮乏の極地にあった。七月一日、則文は家財全部を売却して資金をつくり、稽照館を開いて、専ら子弟の教化に当たった。明治五年七月八日、鹿島神宮・少宮司を拝命、九日、大講義に補せられた。翌六年三月大宮司に昇り、権少教正に進んだ。この写真は明治三年十月二十六日撮影、則文三十二歳の時のものであるが、維新志士の気概を伝えている【写真省略 原本参照】。この間の様子を、八丈島の近藤富蔵あて書簡の中で次の如く記している。
  昨年中、御申越之八丈詩歌冊ハ。未ダ点削出来上り不申、加之小生多忙ニテ
  乍存延引致候、近年之内ニ清書御マハシ可申候、扨国地モ弥々郡県ニ相成、
  三府京西・東京・大坂七十二県ニテ政事ヲ致シ、県モ聴訟・断獄ハ司法省之
  官員出張、取扱候事ニテ。県之官員ハ租税ノミニ関係致候、上下尽ク人口ニ
  テ自ラ勉励致候事ニテ、四民平等ノ権ニテ、家ニハ権ナク、徳卜人材トニ威
  有之候事ニテ、神宮抔モ当夏悉ク改正ニテ、当地モ八十五人免職ニ相成、十
  三人新補ニ相成候、小生モ少宮司ニ相成、大講義ヲ拝命致候、是ハ教部省卜
  申シテ、当三月以来、神祇官御廃シニ相成、相立候省ニテ、大教正、権大教
  正・中―・権―・小―・権―・大講義・権大―・中―・権―・小―・権―、
  几十四級有之、村々ヲ回リ、神教ヲ説候ニテ、敬神愛国ノ上旨ヲ体スヘキコ
  ト、天理人道ヲ明ニスベキコ卜、皇上ヲ奉戴シ、朝旨ヲ遵守セシムベキコト、
  此三則ヲ綱ニシ、近来ノ孝子・貞女・忠士ノ説ヲ引喩シ、神代ノコトヲ説諭
  致候事ニテ、神官・僧侶モ悉ク此旨ヲ説候事ニテ、妙法ヤ阿弥陀ヤ菩薩ヲ止
  メ、高天原・黄泉ノ国ヲ説候事ニテ。肉食・妻帯・蓄髪勝手ニ相成候事ニ候、
  小生モ兼任ニテ村々順回説諭致候事ニテ、多事此事ニ候。……(明治五年八
  月二十九日付)
 明治十一年権中教正に補せられ、十七年四月二日、伊勢神宮・大宮司に任命された。『先考略年譜稿』には「神宮々司任命」とあるが、当時の職制の宮司は今の大宮司のことである。伊勢神宮・大宮司は華族に限られていたが、沈滞している神宮を復活させるため、四十六歳の若さで鹿島から抜擢された。当初、三年間だけという事で家族と共に赴任したが、明治三十一年五月、内宮炎上という不祥事が発生、その責を負って職を辞するまで、十五年間の長きに亙ってこの要職を勤めた。則文の生涯の中で最も充実した時期であったと推測される。

 皇学館大学の開校 

 皇学館大学の前身・皇学館は明治十五年四月三十日、神宮祭主・朝彦親王によって「皇学館創立令達」が発せられたが、未だ開校に至らず三年が経た。則文は大宮司に就任するや、祭主宮の台命を奉じ、この開校に着手した。明治十八年一月、学制を定め、教授・教授補・助教・授読等の職員を置き、広く学生を募り、同月十一日、宇治浦田町神宮司庁の仮教室で開講式を挙げた。定員五十名、神宮祠官の人材養成を目ざして開校したが、学生は思うほど集まらなかった。則文は明治二十年三月、神宮宮掌の人々にあてて、次の如き勧学諭告文を送っている。

  今般宮掌雇学術研究スルノ所、僅カニ五六名ニ過ギズ。然ラバ其ノ余ハ無学
  ノ人卜言ハザルヲ得ズ。是迄再三研究ノ義、訓諭ニ及ブモ、曰ク老年ノ読書
  ハ難シ、曰ク庁務ヲ専ラト心得学問ハ怠レリト。是大ナル謬見也。読書ハ他
  ノ技卜違ヒ、老年ニテモ一日研究スル一日ノ益アリ。又庁務ヲ口実トスルハ、
  神官ノ何タルヲ知ラスト云フペシ。賽銭ノ勘定、文書ノ往復、神饌ノ買入レ、
  奉仕ノ分課ナドハ神官本務ヨリ生ズル末事也。譬バ農商ニモセヨ金銭ノ出納、
  味噌薪ノ買入レ、書状ノ遣取ハ一家ノ本務卜ハセズ。抑々今日ノ学問ハ実地
  ノ事業、則チ宇内ノ形勢古今ノ治乱ニ通暁シ、事物ノ理ヲ精査研究脳裏ニ含
  蓄シ、発シテ日用俗務万般ニ作用スルモノニシテ、彼ノ詩歌風雅ヲ玩ビ、字
  ヲ識リ事ニ博ク所謂本箱学問ノ比ニシテ、世事ニ迂遠俗務ニ達セズ昔日ノ学
  問ニハアラズ。俗務学問決シテ二途ニハ非ザルナリ。然リ。而シテ神官ノ本
  務タル神冥ニ奉仕スルヤ、誠意真心ヲ以テ神慮ヲ感格スルヲ主トス。徒ラニ
  外貌ノ礼容虚飾ヲ指スモノニアラズ。其ノ誠実廉脱ヲ興起確守スルハ学問ノ
  培養ニ基ク故ニ、神官ノ本務学問ヲ舎テ他ニ執ル所ナシ。今ヤ天下ノ風潮、
  博学有為ノ神官スラ度外無用視セラル。況ヤ碌々タル鄙陋寡聞ノ神官ニシテ
  世間ニ信任ヲ得ルハ、豈難カラズヤ。本月十一日ノ官報ニ神宮ハ壱万六千余
  円ノ経費ヲ増額セラレ、去ル十一月ニハ官等一階昇級アリ。是ニ反シテ十七
  八日ノ官報ニ各社ノ神官ハ廃セラレ無給ノ神職トナレリ。各社ノ神官悉ク
  不学無術無用ノ人ニシテ、独リ神宮ノ神官有用ノ人材トモ云難シ。他ナシ偏
  ヘニ奉仕ノ大神宮ノ恩徳ノ然ラシムルヨリ興廃地ヲ異ニセリ。嗚呼、本宮ノ
  神官内ニハ妻子飢餓ノ顧ナク、外ニハ奏判任ノ官ヲ辱スル栄ヲ思惟スレバ、
  一日片時神恩神徳ヲ軽忽スルヲ得ンヤ。肝ニ銘ジ骨ニ刻ミ、其ノ涯リナキ恩
  徳ニ報セントナラバ、世ニ無用視セラレズ、学ヲ修メ行ヲ慎ミ、誠意真心天
  下ヲシテ神宮ノ神官ナリ、卜言ハレルヨリ外ノ義ナシ。唇亡テ歯寒シ。各社
  神官ノ廃ハ前車ノ覆轍ナリ。加之官吏試験法不日ニ発布芒フル、卜云フ。其
  ノ時ニ臨ミ臍ヲ噛ノ悔ナカラン。事ヲ屢スレバ疎ゼラルト古人ノ言アリ。従
  来学事ニ付再三訓諭其ノ効ナキモ、則文老婆心ノアマリ不得止更ニ忠告ニ及
  ベリ。篤卜熟慮反省シテ、過日来令セズシテ洋服ニ改装ナリシ如ク、翻然子
  弟ヲ督責シテ皇学館ニ入レ、自己モー層勉励神官ノ神官タル本務ヲ尽サレン
  事ヲ希望ス。
   言ハ意ヲ尽サズ。論アラバ面議セラレヨ。
   各自各字ノ下ニ可否ヲ記シテ返戻アリタシ。
              明治廿年三月廿二日   宮司 鹿島則文

 則文は、着々と学制の充実を図り、この四月大改革を行った。館長に中田正朔、幹事に孫福弘坦、教頭に東貞吉、副教頭兼教授に下田義天類をそれぞれ任命し、科を尋常科と高等科に分け、修業年限を各四か年、定員百名とした。その後、明治二十三年五月には第一回目の卒業生二名を出し、二十七年には、祭主宮・有栖川熾仁親王を総裁に仰ぎ、則文自身館長の要職を兼ねて、その充実・発展に努力を重ねた。明治二十八年六月一日、則文は皇学館の官立化を計り、「神宮皇学館之儀ハ、去明治十六年五月中、御省へ伺済之上、設置、専ラ補典及国史・国文ヲ教
授罷在候処、爾来、漸次隆盛ニ立至り候ニ付、……一層規模ヲ拡張シ、御省所管ノ官立学校ニ被成下度……」と内務大臣・野村靖に申請した。この申請が許可され、神宮皇館官制か勅令をもって公布されたのは、則文が伊勢を去って五年後、他界して二年後の明治三十六年八月のことである。神宮皇学館の館長は、初代中田正朔、二代鹿島則文、三代冷泉為紀、四代桑原芳樹、五代木野戸勝隆、六代武田千代三郎、七代松浦寅三郎、八代上田万年、九代森田実、十代平田貫一、十一代山田孝雄……と錚々たる人々がその任にあたり、学問発展のために尽くしてこられたが、則文はその礎を築いたと言っても、決して過言ではない。
   「皇学館館長時代の則文」 【写真省略、原本参照】

 古事類苑の編纂刊行 

 『古事類苑』は、本文一千巻、洋装本五十一冊(和装本三五〇冊)、日本最大の
百科事彙である。明治十二年、西村茂樹の建議に基づいて文部省が小中村清矩を主任として編纂に着手、その後、東京学士会院、良典講究所、最後に神宮司庁に移管されて、大正三年、三十五年の歳月を費やして完成した。編修には、川田剛、細川潤次郎、佐藤誠実、松本愛重、黒川真頼、本居豊穎、木村正辞、井上頼国等をはじめ多数の人々が携わった。明治二十八年、皇典講究所は契約の期限になっ                                       ことが出来ず、「文部省が国家文運ノ為ニ計画シタル此一大事業モ、或「瑳鉄セントスルノ状況(注三)」に至った。この時、社寺局長・阿部浩は神宮宮司の則文に議り、これを完成させようとした。則文は意を決し、
その許可を内務大臣に申請した。

  秘甲第一〇号
  世界執ノ邦モ、文運ノ開クルニ従ヒ、類聚書ノ必須ナル自然ノ勢ニシテ、漢
  洋共ニ其ノ書ニ乏シカラズ、然ルニ吾邦ニ於テハ、文運夙ニ開ケタルモ、未
  類聚書ノ完全ナルモノアラズ、是壹盛世ノ一大闕典ナラズヤ、文部省曩ニ此
  ニ見ル所アリテ、古事類苑編纂ノ挙アリ、然レドモ其事未ダ成ルニ及バズシ
  テ、予メ完成ノ期ヲ定メ、之ヲ皇典講究所に委託セリ、皇典講究所、又孜孜
  編纂ニ従事シタルモ、未完成ニ至ラズシテ、既ニ約スル所ノ年期ニ達セリ、
  豈又遺憾ノ至ナラズヤ、故ニ今之ヲ同所ニ謀リ、文部省ニ稟請シテ、神宮司
  庁、編纂ノ責務ヲ負ヒ、五ヶ年ヲ期シテ完成セシメソトス、仰ギ願クハ神宮
  司庁ニ於テ、該編纂ニ従事スヘキ件、併セテ向フ五ヶ年間、累積スベキ社入
  金非常予備金ヲ以テ、之ガ費用ニ充ツルコトヲ、御許可アランコトヲ、抑遠
  近子来ノ崇敬者、奉献スル所ノ金ヲ以テ、コノ国家無前ノ大業ヲ成シ、大ニ
  文運ノ開進ヲ裨補スルコトアラバ、幸ニ
  天覆ノ
  神徳ヲ、偏ク衆庶ニ蒙ラシムルノ一端卜相成、天祖愛民ノ御盛意ニモ協ヒ候
  儀ニ存候ニ付、前件御許可ノ程奉願候也、
    明治二十八年二月十二日          神宮宮司 鹿島則文
      内務大臣子爵野村靖殿

 この申請は、三月二十九日付で許可され、神宮司庁は、文部省及び東京学士会院作成の原稿二三四巻と皇典講究所作成の原稿四〇七巻、合計六四一巻を受領し、『古事類苑』編纂の事業を引き継いだ。明治二十九年十一月八日、第一冊目帝王部第二十七巻を刊行、則文は明治三十一年職を辞し帰郷したが、この大事業は、冷泉為紀、三室戸和光、岡部譲、桑原芳樹、木野戸勝隆等によって続けられ、大正三年完結した。
 明治三十一年五月二日午後十一時三十分、内宮炎上という不祥事が突発した。参集所及び神宮司庁を焼失して、正殿にまで延焼しようとした時、則文は直ちに正殿に候し、御正体を風日祈宮に遷座し奉った。則文はこの責任を負って少宮司と共に職を辞した。七月鹿島に帰ったが、この事が頭を離れず、夜中に飛び起きることしばしばであったという。この事件が則文の死期をも早めたものと思われる。明治三十四年五月、特旨を以て従四位に叙せられ、十月十日午後十時、六十三歳の生涯を閉じた。

 桜山文庫 

 則文は、五歳にして歌を詠じ小説を読んだという。幼くして吉川天浦の指導を受け、長じては安井息軒の門に学んだ。しかし、後世に自らの詩文を遺すことには、あまり意を用いなかったようである。則文の書き残したものでまとまっているのは、八丈流人時代の『南遊雑録』『八丈八景帖』『南島名勝集』(編著)くらいのものである。全身全霊を以て神に仕え、子弟の教育に専念する時、自分の詩文を作るゆとりはない、そんな生き方を則文はしたのかも知れない。
 日本自然科学思想史の開拓者と言われる、哲学者で大教育者の狩野亨吉は、死後、書き残したものを集めたところ、一部の小冊にしかならなかったという。しかし、亨吉の蒐収した貴重な古典籍は「狩野文庫」として残された。

 性書ヲ愛スル人ニ過ギ、公瑕手書ヲ舎カズ、用ヲ節シ費ヲ省キ、書ヲ求メテ息
 マズ、飢ル者ノ食ヲ求ムルガ如シ。経史小説高尚卑近ヲ問ハズ、晩年家ニ蓄財
 ナキモ、珍籍奇冊三万冊、人之ヲ云ヘバ、曰ク、妓ヲ聘シ酒ヲ飲ムハ世ノ通例
 ナリ、予飲ヲ解セズ、書ハ予ガ妓ナリ、予ガ酒ナリト。(『先考略年譜稿』)

 則文が生涯をかけて蒐集した珍籍奇冊は「桜山文庫」として後世に残された。則文と亨吉と、その思想的立場は異なっているが、両者の生き方に、何か相通ずるものがあるように思われてならない。
 さて、この則文の「桜山文庫」は、その後、鹿島敏夫氏、鹿島則幸氏によって保存され、今日に及んでいる。その中から何点かを、現所蔵者・則幸氏に選んで頂いたので、それを次に掲げたい。

     桜 山 文 庫 目 録 抄

  一、神皇正統記 写四冊 慶長十八年鹿島則広写
  一、倭玉篇 刊三冊 慶長十八年刊
  一、下学集 刊二冊 元和三年刊 「紀伊国古学館之印」「松阪学問所」の印
  一、童蒙先習 刊二冊 慶長十七年刊
一、撰集抄 刊三冊 「此本三冊全部洛西嵯峨角倉与一入道素庵墨蹟板行之
  即従素庵直賜之 元和八年 豊松庵法橋玄伯(花押)」の奥書
  一、五百家註音弁唐柳先生文集、刊四十五巻十八冊 嘉慶板
  一、新板五百家註音弁唐柳先生文集 刊四十五巻十五冊 嘉慶板
  一、風雅選詩補註 古写十三冊 「寛永廿年林道春一校」の奥書
  一、南華真経 刊十冊 元和五年石川丈山訓点
  一、皇宋事宝類苑 刊十五冊 元和七年勅版
  一、新刊吾妻鏡 刊五十二巻二十五冊 慶長十年刊
  一、雑筆要集 写一冊 足代弘訓の奥書 「寛居」の印
  一、万葉集註釈 刊廿巻六冊 清水浜臣書入本 「清水浜臣蔵書」以下の印
  一、さごろも 刊十冊 伴直方書入本
  一、六百番歌合 刊十冊 村田たせ子書入本
  一、とりかへばや 写四冊 岸本由豆流本
  一、枕草子春曙抄、刊六冊、岸本由豆流書入本
一、うつぼものがたり 刊三十冊 前半村田春雨書入本 
                後半村田たせ子書入本
  一、源氏物語忍草 刊五冊 成島柳北書入本
  一、おちくぼ物語 刊四冊 寛政十一年刊 久米幹文書入本
  一、万葉集師説 写五十二冊 入江昌喜書入本
  一、さやさや草紙 刊三冊 木下幸文著 文政五年刊 「藤恒内印」の印
  一、額咢の歌 写一冊 斎藤彦麿著 自筆本
  一、大祓詞正解 写二冊 大高秀明著(自筆稿本) 平田篤胤評
  一、燕石十種 写六十九冊 活東子書入本 「達磨屋五一」の印
一、雑兵物語 写二巻一冊 「南畝文庫」「大田氏蔵書」の印

参考文献

○『先考略年譜稿』鹿島敏夫 桜山文庫蔵
○『佐原喜三郎と鹿島則文』 海野正造 昭和五十二年六月一日 柳翠史料館
○『神宮皇学館創立六十周年記念誌』 (館友 第四〇九号 昭和十七年六月一
 日) 神宮皇学館館友会
○『増補改訂 八丈流人銘々伝』 葛西重雄・吉田貫三 昭和五十年五月二十日 
 第一書房
○『桑原芳樹翁伝』「桑原芳樹翁伝」刊行会 昭和五十一年十二月二十日
○『常総古今の学と術と人』 大内地山 昭和五十一年十一月二十五日(復刻) 
 水戸学研究会
○「古事類苑編纂事歴」 (『古事類苑』目録・索引 大正三年八月二十九日) 
 神宮司庁
○「桜山文庫について」 鹿島則幸 (郷土文化 第十八号 昭和五十二年三月
 三十一日) 茨城県郷土文化研会究

 注一 海野正造氏著『佐原喜三郎と鹿島則文』に拠る。
 注二 『先考略年譜稿』は表紙に「先考略年譜稿/鹿島敏夫」とあり、薄青色
   刷の「さくらのや」の四百字詰め専用原稿用紙・十枚に清書されている。
   紹介するにあたり、原本の小字二行書きの部分は一行書きに改め〔 〕で
   囲んだ。また、年齢の下に「歳」を補って統一した。
 注三 「古事類苑編纂事歴」

  付  記

 『井関隆子日記』の、しかも中巻の末にこのような一文を付する事は、やや異例であると思うが、あえて掲げさせて頂いた。
 桜山文庫の所蔵者・鹿島則幸氏に初めてお会いしたのは、昭和四十年九月、仮名草子『可笑記』の諸本調査を進めていた折の事である。桜山文庫所蔵本は、寛永十九年版十一行本の初版本であるが、「斎藤文庫」(斎藤幸成)、「不覊斎図書記」(秋山不覊斎)、「西荘文庫」(小津桂窓)等の蔵書印を存し、幕末
の錚々たる人々の旧蔵本であり、この点にまず目をみはった。これが機縁となって鹿島氏は若輩の私に温かく接して下さり、種々御指導を賜った。
 その後、昭和四十一年二月には、恩師重友毅先生に従って桜山文庫をおたずねし、『春雨物語』『忠義水滸伝』『山花帖』(村田了阿自筆の歌集)『雑兵物語』など、
八点の貴重な御蔵書を拝借させて頂いた。そして、六年後の四十七年十一月御返却のため、水戸へお伺いしたが、この時、嵯峨本『撰集抄』三冊、『大祓詞正解』二冊、『新葉集』二十巻。『堀河院百首』三巻、『万葉類葉抄補闕』十八巻等と共に、初めて『井関隆子日記』にめぐり合った。この間、桜山文庫の蒐集者・鹿島則文氏についても調べたが、氏の全貌を伝える文献は無かった。八丈流人時代、伊勢神宮・大宮司時代など部分的なものにとどまる。そこで、それらを整理してまとめたのが、この一文である。桜山文庫については、もしその機会が与えられるなら、全御蔵書の目録作成を夢みているが、今は、その一部分の紹介にとどめた。
 この一文は、前掲の参考文献と鹿島則幸氏の御教示に全て負っている。ここに記して、心からなる感謝の意を表します。
                 昭和五十五年七月二十日
                          深 沢 秋 男

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【追 記】

1、 鹿島則幸氏との出会い

 今、36年前のこの「付記」を読んで、感慨ふかいものがある。私は、大学の卒業論文に、仮名草子の『可笑記』を選択した。この作品は、原本の写本・版本がたくさん伝存していて、その実態は明らかではなかった。全国の大学図書館・公共図書館の諸本を調べ、特殊文庫・個人蔵書の調査に取り掛かったのが、昭和40年ころだった。この時、桜山文庫の鹿島則幸氏に初めてお会いしたのである。 
 その出会いは、実に、衝撃的、感激的なものであった。未熟者の私は、閲覧願を「鹿島町則幸様」で郵送した。正しくは「鹿島町一番地 鹿島則幸様」とすべきであった。しかし、郵便は配達され、鹿島則幸氏から、原本は、水戸市の常磐神社で閲覧可能との返事を頂いた。早速、日程を予約して、閲覧・調査させて頂いた。その折の様子を、昭和女子大学の最終講義で、次のように述べた。
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 【A】 寛永十九年版十一行本(鹿島則幸氏、桜山文庫本)
 〔桜山文庫〕は、鹿島神宮大宮司・鹿島則文のコレクションであ
る。この文庫は、則文のお孫さんの鹿島則幸氏が管理しておられた。
公共図書館等の調査が終わった昭和四十年、閲覧願を郵送したとこ
ろ、則幸氏は、鹿島の書庫から水戸へ取り寄せて、調査させて下さっ
た。当時、鹿島則幸氏は、水戸の常磐神社の宮司だった。社務所に
通され、鹿島氏の使用される文机で、二時間ほどかけて、閲覧・調
査させて頂いた。終了後、この本の調査結果を御説明申し上げ、辞
去しようとすると、「どうぞ、お持ち下さい」と申される。初め、
私は、鹿島氏のお言葉の意味がよく理解できなかった。「伯楽にお
持ち頂ければ、祖父も喜ぶと思います」ようやく、鹿島氏の真意が
理解は出来た。理解することは出来たが、ハイ、そうですか、とは
お答え出来なかった。一度、帰宅して、改めて御返事致します、と
申し上げて辞去した。水戸駅から帰りの電車に乗った。このような
事が現実に有り得るのか。「桜山文庫」の円形朱印を持つ本であり、
岩波の『国書総目録』にも搭載されている原本である。私は世の中
の不思議な事実に出会い、感激と感動の数時間を、電車の中で過ご
した。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 この衝撃的な出会いが、以後の私の生き方に大きく影響し、それは現在まで継続されている。 

2、 鹿島則文と桜山文庫

 『井関隆子日記』中巻の末尾に、このような一文を掲載することは、ある意味、不自然である。実は、この『日記』の校注を進めている時、鹿島則幸氏から、祖父則文には略伝が無い、と言われ、出来得るならば、まとめて欲しい、と依頼されたのである。
 私は、何を置いてもまとめたいと、早速、調査にとりかかった。伊勢の神宮文庫も調べた。その結果、鹿島則文の、内に秘めた、改革の精神を常に燃焼させ続けた、その生涯の充実と苦悩とを知ることができた。
 則文は、明治17年、46歳の時、伊勢神宮の大宮司に抜擢され、伊勢に移住する。明治31年5月、伊勢神宮参集所失火、その責任を取って大宮司を辞して、鹿島へ帰った。この13年間、則文は、伊勢神宮のために全身全霊を尽くして奉仕した。私は、神宮文庫等で、調査を重ねる度に、則文のなみなみならぬ、神宮に対する情熱と、それに伴う苦悩とを痛感した。
 則文は、八丈島流人の時、近藤富蔵の『八丈実記』に序文を寄せている。その冒頭で、
「人之世に処するや、文有て而して名朽ちず。而して、文は記事より難きは莫く、地誌より難きは莫し。」
と書いている。しかし、則文の伝記を書く為に調査を重ねたが、則文の書き残したものが、実に少ないのである。「文有て而して名朽ちず」という則文に「文」が少ないのである。これでは、則文の伝記など書けない。2ヶ月も3ヶ月も、私は苦しんだ。則幸氏に、他に則文の著書は有りませんか、とたずねても、「ございません」とのお答え。万事休すである。
 そんな時、ふと、思い出したのが、あの、狩野亨吉であった。
 日本自然科学思想史の開拓者と言われる、哲学者で大教育者の狩野亨吉は、死後、書き残したものを集めたところ、一部の小冊にしかならなかったという。しかし、亨吉の蒐収した貴重な古典籍は「狩野文庫」として残された。東北大学図書館の狩野文庫には、私も多くの学恩を賜っている。
 明治期には、狩野亨吉や鹿島則文のような、偉大な先学がいて、時代をリードしたのである。
 鹿島則文の蒐集した桜山文庫「珍籍奇冊三万冊」は、その後、鹿島則幸氏によって管理保管され、国文学関係の大部分は、現在、昭和女子大学図書館に所蔵されている。この、昭和女子大学への移管について、私は関わることが出来て、これも有り難いことであった。鹿島則文氏、鹿島則幸氏に対して、改めて心から感謝申上げる。

                      平成28年12月24日
                             深沢秋男

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。