大名配列の基準

●徳川時代の諸大名の配列は、どのような基準でなされたのか。この種の大名評判記の研究では、今井圓氏の『土芥寇讎記』が早い。金井氏によれば、

① 探索書   寛永4年(1627)
② 勧懲記   延宝3年(1675)
③ 土芥寇讎記 元禄3年(1690)
④ 諫懲後正  元禄14年(1701)
⑤ 諸将連続記 元禄12年(1699)

●このような類書があり、元禄3年現在の諸大名は、243名であるという。配列はは、ほぼ石高の大きいものから小さいものへと順次配列しているという。
如儡子の『堪忍記』はどうか。

1、 徳川義直 62万石 名古屋
2、 徳川義宣 55万石 和歌山
3、 徳川頼房 28万石 水戸

●これは御三家ゆえ、トップに置かれて当然であろう。しかし、以下は、石高でもなく、地域別でもなく、その配列基準がよくわからない。ただ、問題なのは、トップの御三家と対照的に、ドン尻に、
110、酒井忠勝、庄内、14万石 が配置されていることである。
さらに追加するならば、
100、堀田正勝、佐倉、11万石 も異状である。
●この『堪忍記』の編著者は、庄内と佐倉の配列位置に関して、特別の意図を持つ人物ではないか。そう、私は考えるのである。
●如儡子・斎藤親盛は、父・広盛とともに、庄内の最上家に仕えていた。広盛は川北奉行だった。ところが、元和8年(1622)、最上家57万石は取り潰しとなり、その後に、酒井忠勝が入った。この時、斎藤広盛・親盛父子は、酒井家に採用されること無く、永年住んだ、酒田を離れて浪々の身となる。本当は、酒田にあって、酒井家に仕えたかったと思われる。しかし、その望みは叶えられなかったのである。
●斎藤広盛は、東北の関ヶ原合戦とも言われる、長谷堂合戦の折、上杉軍の直江兼続の配下として参戦している。戦後、最上家に転じたのである。最上家にあっては、川北奉行を務めるなど、酒田・筑後町に住し、活躍していた。元和8年の最上家転封の折、佐倉城主で老中の土井利勝から、広盛は、佐倉城の留守居役を要請されたという。しかし、その折、急逝してしまった、と『世臣伝』は伝えている。この、一件と、「100」番という配列は関係していないか。そのように、私は考えている。
●斎藤広盛が、川北奉行を務めていた頃の年貢皆済状なと、多くの史料が現存している。現在、酒田市、上日枝神社境内には、「齋藤筑後守記念碑」が建っている。

 

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。