〔二葉亭餓鬼録〕氏のブログ

●二葉亭餓鬼録氏のブログで、『井関隆子日記』を取り上げている。以前にも取り上げておられた。改めて、このブログをチェックしてみたら、大変なボリュームである。見たこと、聞いたこと、考えたことを記述する、とある。これは、私も同じ基準であるが、足許にも及ばない迫力である。

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井関隆子の日記。

2017年04月26日(水) 11時52分41秒

テーマ: エッセイ
井関隆子の日記。

さいきん若い人と寿司を食べながら、ドナルド・キーン氏の話をした。「ドナルド・キーン賞」の授与式が5月6日にひらかれる。それを前にして、彼らに「井関隆子日記」の話をした。
井関隆子?
そういっても、だれも知らない。で、以前書いた話をここに転載する。

幕末の時代に、オランダ人との交渉を書いた文書を読む過程で、ぼくは、そのころの時代を記録した「井関隆子日記」という書物があることを知った。
これはドナルド・キーン氏の書いた「百代の過客」を読んでいて知ったものである。井関隆子の日記は、昭和47年(1972年)、深沢秋男先生によって発見され、それまで、この日記の存在はまったく知られていなかったというのだが、その6年後、深沢秋男先生は、注釈つきの3巻本として出版された。それで知られるようになった。
これに注目したのはドナルド・キーン氏だった。これは興味深い日記で、幕末期のドキュメントとして、馬琴の日記とくらべてみると、その文学的な価値は、それよりずっと凌駕しているという。ぼくは、そういう側面から読もうとはしなかったけれど、幕末期の日本をもっと知りたいという動機から、この本に注目した。
そのころの隆子の日記は、清少納言に匹敵するとまでいわれたそうだ。ところが、清少納言のような機知に富んだものではなく、自分の感じたこと、考えたことをありのままにつづった日記で、その綴り方が歯に衣着せぬところが魅力的で、これまた清少納言とはずいぶん趣きが違うおもしろさがある。
隆子が日記をつけはじめたのは、天保11年(1840年)から15年までで、彼女が56歳から60歳までのあいだにつづられたものである。日記の最後の日付けから3週間後に彼女は亡くなっている。
天保年間における日本人の暮らしを呼び起こしてくれる史料としては、たいへん貴重なもので、この日記の原本は、関東大震災で焼失してしまったと書いたが、さいわいにも、昭和女子大学図書館にて所蔵されているという話を、このたび、深沢秋男氏ご本人から直接メールをいただいたので、ここに訂正させていただく。

日記は、「関東大震災で消失してしまい、明治になって饗庭篁村らがつくった抜粋版によるしかなくなった」と書いたが、これは、ドナルド・キーン氏の「百代の過客」によるもので、饗庭篁村らがつくった抜粋版というのがほんとうに存在するのかどうか、ぼくにはわからない。
隆子は、文政9年(1826年)に夫が亡くなり、国学の勉強をはじめるようになったと書かれている。おそらく、だれの教えを乞うたというのではなく、みずから独学で勉強したのだろうといわれている。「古事記」「日本書紀」や、その周辺の史書はもとより、加茂真淵、本居宣長その他、国学者の著書をむさぼり読んでいる。当時はだれでもそうだった。とくに宣長には、称賛のことばを惜しまない。
隆子のナショナリズムは、当時日本が、内外の脅威にさらされていることに危機感をつのらせた結果であろう。たとえば大塩平八郎の乱には、隆子の憎悪が見え隠れしている。
大塩のことを「大盗人(おほぬすびと)」と呼んでいる。
そして隆子の蘭学嫌いは、ことのほか徹底し、オランダ書を学ぶような日本人なら、将来、国を裏切るであろうとまでいっている。そのころ、書物奉行をかねていた高橋景保には、怒りをあらわにしている。このようにいう言論の自由が保障されていたという証拠でもあり、ぼくは事実はどうあれ、隆子の目に映った現実を理解しようとした。
隆子は日本人をとても愛している。ひとりの男が拷問によって殺され、その死体を塩漬けにして捨て置くという報せに、憤りを感じる女性だった。同時に、オランダ学を嫌ったように、オランダ学を勉強する人間まで嫌っている。蘭学などに手を出すから、こういう目に遭うのだとも書かれている。
彼女の愛国心は男性的で、それほど極端だったといわれている。そういう女性だから、彼女の日記は、ぼくにはとても魅力的なものにおもえる。オランダ人が数々の科学的な発見をしたことを吹聴するのを聴いて、いぶかっている。たとえば「地球は丸い」というのを聴いても、町人同様、にわかに信ずることができず、そういうことは、遠方より観察するしか方法はないといっている。隆子の科学への反発は、近代的思想に向けても、かたくなに反発している。
蘭学にたいする嫌悪はあっても、隆子には、信じられないほど弱点があった。
それは医学にかかわることで、当時、天然痘がはやり、オランダ医学はこれを治すことができるという考えには、どういうわけか、隆子らしい反発を少しも示していない。人間の上下に関係なく、天然痘はだれにでもかかる恐ろしい病いで、たとえ将軍でも、将軍の殿中にいたものでさえ、これを免れることはなかった。
隆子の孫が、じっさいに天然痘にかかり、そのときはおとなしくオランダ医学に頼っている。当時のオランダ医学といっても、たかが水灸である。それをほどこせば、天然痘も治せるというので、みんな長崎のオランダ人医師に会うために出かけていった。隆子はそういう庶民を見て、何もいっていない。
オランダ人が持ち込んだ近代医学というものの真価は、だれにもわからなかった。天然痘にかかってはじめて、異国か持ち込まれたクスリを用いることの正当性について、隆子も諾々と従っている。いっこうに疑問を持つ気配がない。
そうかといって、隆子がオランダ医学のことを多少なりとも知っていたとはいいがたく、未曽有の猖獗(しょうけつ)をきわめた天然痘については、ただおそろしいとしか書かれていない。しかし、この「井関隆子日記」は、その時代の世の中のようすを、あますところなく伝えているのには変わりなく、信じがたいほどの話題の多さに驚かされる。そのひとつひとつが、非凡な女性の目を通して書かれ、その明敏な知性は、特筆される。

【以下省略】
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投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。