名刀 本庄正宗 の行方

 「▲むかし、それがし、ためしのよろひをおどし候はんとて、註文を仕り、おやにみせ候へば、親の申され候は、ためしのよろひは、おもき物にて、汝がやうなる小男の用には立がたし。侍の諸道具は其身其身に相応して、取まはし自由なるがよし。とて、其ついでにかたられけるは、 汝が母かたの舅、東禅寺右馬頭、つねに申されけるは、運は天にあり、鎧はむねに有とて、幾度のかせんにも、あかねつむぎの羽織のみ、うちきて、何時も人の真先をがけ、しんがりをしられけれ共、一代かすでをもおはず。一とせ、出羽国庄内千安合戦の時、上杉景勝公 の軍大将本庄重長とはせあはせ、勝負をけつする刻、敵大勢なるゆへに、四十三歳にして打死せられぬ。其時、本庄重長も星甲のかたびん二寸ばかり切おとされ、わたがみへ打こまれ、あやうき命いきられぬ、とぅけ給はりしなり。きれたるも道理かな、相州正宗がきたいたる二尺七寸大はゞ物、ぬけば玉ちるばかりなる刀也。此かたな、重長が手にわたり、景勝公へまいり、それより羽柴大閤公へまいり、其後、当御家へまいり、只今は二尺三寸とやらんに、すり上られ、紀州大納言公に御座あるよしをうけ給はり及申候。此、右馬頭最期のはたらき、出羽・越後両国において、古き侍は、多分、見きゝおよび、しりたる事なれば、子細に書付侍らず。」  (『可笑記』巻5の20段)


●私は、『可笑記』の作者に関係する、この〔本庄正宗〕に関しては、

早くから関心をもって調査してきた。国宝の刀剣ゆえ、関係者の関心も高く、様々な調査・考察がなされてきた。
●2007年には、渋谷武士氏の「名刀「東禅寺正宗」流転」が、最上義光歴史館の「歴史館だより」に掲載された。渋谷氏は、次の如く述べておられる。「…… 天正16年(1588)八月、世に言う「十五里ヶ原の戦」が起こった。ここは現在の鶴岡と大山の中間、千安川東岸辺をいう。この合戦は、東禅寺氏の庄内勢を主力とする最上義光方に対して、上杉景勝の後援を受けた越後村上城主本庄繁長の庄内争奪戦であった。最上方の最前線で戦ったのが、東禅寺筑前守義長と右馬頭兄弟、それに義光から派遣された草苅虎之助たちである。
圧倒的優勢を誇る本庄勢によって庄内勢はまたたく間に壊滅した。筑前守と草苅の二将は討死。残った右馬頭は単身繁長に迫り、真っ向から恨みの太刀を再三浴びせたものの果たせず、逆にずたずたに斬られて壮絶な最期を遂げる。『可笑記』は彼の享年を43歳としている。
この時右馬頭の佩いていた太刀が、相州正宗によって鍛えぬかれた「二尺七寸大幅物、ぬけば玉散るばかり」の名刀である。繁長は「星甲のかたびん二寸ほど切り落とされ、わたがみ(肩上)へ打ち込まれた」が、事なきを得た。彼はその太刀を分捕り自分の愛刀にした。本来ならば、「東禅寺正宗」と呼ばれるはずであった名刀が後に名物「本庄正宗」となる、正に〝その時″であった。
さらに『可笑記』は続ける。この正宗は、その後繁長から景勝へ、さらに秀吉を経て家康に渡った。その間に刃長二尺三寸ほどに摺上げられ(短くされ)、現在は紀州徳川家にあるようだと。また、出羽や越後の古老は、右馬頭の最期の働きを多分に見聞しているだろうから、これ以上は詳述しないと。この一節から、現在は浪人の身でも出自は高位の武家の血を引くという誇りと、惰弱に流れつつある当時の武家に対する彼一流の批判が見て取れよう。
ともあれ、八代将軍吉宗の時代になって、この刀は名物「本庄正宗」として登場してくる。『享保名物牒』なる名物刀剣の台帳には、刃長が二尺一寸五分半、東禅寺右馬頭が本庄繁長の甲の鉢を割ったためか刃こぼれある、と記されている。また、『名物牒』は移動経路についてもかなり詳しく、『可笑記』との違いを見せている。
『名物牒』などの記録によると、「本庄正宗」の流れはおおよそ次のようになる。この正宗は、右馬頭から繁長を経て一旦は景勝の手に渡った。ところが景勝から繁長へ戻され、今度は豊臣秀次へ。そして秀吉へと移り、島津義弘が拝領し、さらに島津家から家康へ献上、家康から駿河頼宣(後の紀州徳川家)に分与された。その後、紀州徳川家から四代将軍家綱へ献上されている。
この正宗は、明治以降も徳川宗家にあって三種の神器のように大切に扱われ、昭和14年に旧国宝に指定されたほどの名刀であったが、同20年12月に進駐軍によって持ち去られたまま未だに行方知れずという(『武将とその愛刀』佐藤寒山著)。
このような流転の名刀正宗を佩き、戦場に散った東禅寺右馬頭。彼が存命であったならば、おそらく最上家では屈指の人物として活躍したことであろう。また、『可笑記』の著者の胸中には、そうした人物を祖父に持つ家門の誇りを垣間見る思いがする。」

●その後、私は、2012年に、十五里ケ原の合戦について、詳細な論文を発表した(『近世初期文』第29号)。伝記研究は、このようにすべきである、と見本を示したと自負している。ただし、ここで問題にする、「本庄正宗」の、第2次世界大戦後の行方に関しては、未詳のままであった。
●過日、2017年5月に、ネット上で出会った『名刀幻想辞典』の「本庄正宗」の項の記述は、大いに参考になる。

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【前略】

昭和14年(1939年)5月27日国宝に指定(旧国宝)。
刀 無銘 傳正宗 附打刀拵 公爵徳川家達
(文部省告示第三百三十七號)

占領軍による押収
徳川宗家第17代徳川家正氏により所蔵されていたが、昭和20年(1945年)12月に占領軍の命令によりすべての刀剣が押収された。この時、「本庄正宗」、「太刀 銘備前長船住長光/嘉元二年十一月」、「太刀 銘 国俊」を含む32口が目白警察署に提出されている。
東京都渋谷区代々木大山町一〇六四
徳川家正
1.提出刀剣
1.国宝 刀 無銘 名物本庄正宗
2.重美 太刀 銘 備前長船住長光
3.重美 太刀 銘 国俊
2.昭和二十年十二月 目白警察署へ提出
3.昭和二十一年一月十八日 同警察より騎兵第七連隊へ提出
部隊責任者
コリーデイバイモ軍曹
昭和21年(1946年)1月18日に目白警察署から「騎兵第七連隊 部隊責任者コリーデイバイモ軍曹(Coldy Bimore)」により”強制的に”上記3口の刀剣が持ちだされたという。
Coldy Bimoreは「Cole D.B. Moore」であるとされる。Wikipedia(英語版)
その後、現在まで行方不明。
本刀「本庄正宗」は、享保名物帳、正宗の項の一番目に登場し、本阿弥も「出来格好、正宗の作には天下第一なり」と褒めている名刀であり、来歴も申し分ない。もし現存していれば(新)国宝指定されていたものと思われる。
なお現行法「文化財保護法」は昭和25年(1950年)5月30日制定で、他の旧国宝は同法施行時にいったん重要文化財となり、その後一部が改めて新国宝指定を受けた。しかしそれ以前に行方不明となった「本庄正宗」は旧国宝指定しか受けていないということになる。
関連項目「赤羽刀」を参照。

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●これで、第2次世界大戦後の、本庄正宗のゆくえは、ほぼ推測できるが、今後、アメリカでの所在の調査が残っている。このような、〔本庄正宗〕の経緯を、『可笑記』の作者、如儡子・斎藤親盛に報告したい。いずれ、論文にまとめたいと思う。

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。