如儡子と『百八町記』

●如儡子・斎藤清三郎は、慶長19年(1614)最上藩主・家親に近侍し、元和3年(1617)元服、主君・家親より、一字を賜り、「親盛」と称した。元和8年、山形藩57万石は取り潰され、親盛は、父・広盛と共に浪人の身となる。

●寛永6年(1629)『可笑記』執筆開始。同13年成る。同19年初版刊行。
●寛永18年、百人一首注釈書『砕玉抄』成る。
●正保2年(1645)『堪忍記』松平文庫本成る。
●承応4年(1655)『百八町記』序成る。
●寛文4年(1664)『百八町記』刊行。
●延宝2年(1674)3月8日没、72歳か。二本松・松岡寺に葬る。法名、武心士峯居士、俗名、以伝。
●斎藤親盛は、浪人の身となって、すぐ『可笑記』の執筆に着手した。それまで、酒田の地で蓄えた知識を全開させて、現実批判を展開した。続いて、さる田舎人〔おそらく、酒田時代の友人・後輩だろう〕の要請を受けて、『百人一首』の注釈にとりかかった。これ以上、易しい、注釈書は、他に無いだろう。親盛の啓蒙思想は、中途半端ではない。
●続いて、斎藤親盛は、110名の諸大名の知行高などを記した資料を見ることができたらしい。すかさず、その諸大名の素行や品性についての寸評を加えた。浪人の立場からする、批評は、自分の体験も加わったか、厳しいものであった。
●次に着手したのが、三教一致思想を主張する『百八町記』であった。これには、如儡子も苦しんだらしい。序を書き上げてから刊行まで、10年の歳月を費やしている。

 

薪つき減なん跡の思ひ出とこのもとことにのこすことの葉

身はかくて死すとも此書みん人の智恵の鑑の影は離れじ

如儡子は、この著作の巻五尾題の後に、この二首の歌を添えて筆を置いている。この世を辞する著者の真情が伝わってくる。

■『百八町記』原本

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。