近藤重蔵と鹿島則文

近藤重蔵と鹿島則文

。。。。。。。。。。。。。。。

鹿島則文、八丈島送り

 かねて尊王思想を鼓吹していた鹿島則文は幕府の忌むところとなり,慶応元年(1865)7月,浪士に文武館を貸し,これらと交わったとして捕らえられ,揚屋入りを仰せ付けられ,10月島送りの刑に処せられた。27歳の時である。慶応2年5月25日,江戸鉄砲洲岸を出帆し,浦賀・網代・三崎・大島・三宅島を経て,6月5日八丈島に到着した。
 明治元年(1868)11月赦免となったが,帰郷したのは,翌2年6月である。則文は3年間に亙って八丈島で流人生活を送った。在島中は読書を以て楽しみとし,その間に寺子屋を開いて,学問を講じ,島民の教化にも当たった。
 近藤富蔵の『八丈実記』に序文を寄せ,島民及び流人の有識者に呼びかけて『南島名勝集』(八丈八景)を編集したが,この他にも八丈島に遺した詩文は碑として現存する。また,揚屋入りから赦免帰国までの,八丈流人日誌ともいうべき『南島雑録』2巻を残しているが,これは流人生活を知る上で貴重な資料となっている。今は『八丈実記』の序を掲げるにとどめたい。

    八 丈 実 記 序

  人之世に処するや,文有て而して名朽ちず。而して,文は記事より難きは莫く,地誌より難きは莫し。地誌を作る,荀も博学にして広聞,身険阻を渉り,而して疲労せず,歳月の久しきを経て,而して倦厭せざる者に非ずんば,焉ぞ能く其の梗慨を尽さん耶。余幼より地誌を好み,風土記と称する自り,今人の遊記に至るまで,之れを読まざる無し。嘗て正斎近藤先生の辺要分界図考を閲し,案を拍ちて曰く,憶,斯の如き人にして,而して地誌は大成すると謂う可しと。夫れ皇国南北の海上を距つこと数十里,而して王家に服する者,蝦夷と八丈と有る而已。然れども,蝦夷之地は広漠数百里,地は寒帯に際し,秋冬之間,雪天陰濛日色を見ず。加之,居人甚だ少なく,毒蛇猛獣昼猶横行す。古自り曽て其の北地を窺うもの無し。或は山丹に属すと云い,或は魯西亞に属すと云い,定説有る無し。而るに先生飽生学文質に富むを以て,重嶺大海之難しとする所を経渉し,熟に其の地の険易沃瘠を覧,博く国史に徴し,漢籍を旁捜し,考証引例,其の委曲を悉す。蝦夷の山川,席上画を指して知る可し。近来,官,蝦夷の地を闢くことを命ず。信を此の書に取らざる無し。其の功も亦大なる哉。八丈島は一弾丸子之地,北夷の九牛之一毛耳。且つ国地を距たること遠からず。而して其の風土を紀す者,概ね疎にして簡,毎に人の意に慊らざる者は何ぞ耶。益其の人に無き也。若し先生の如き有らば必ず記載して憾み無かる可し。余南竄之三日,聞斎近藤翁の余を来訪する有り。余其の履歴を問う。曰く正斎先生之子也と。是に於て一見旧の如し。談八丈の地理に及ぶ。微かに其の説を叩くに,翁答えず。志料若干巻を出して相示す。乃ち展べて之れを読む。名勝と風土を論ずること無く,凡そ此の島に関係する者,土地之変換,吏民の隆替,男女之風俗,物産之多寡,悉く旧史野乗を考究し,諸れを野叟村婆之談に徴し,四十余年之久しきを積む。而して網羅包挙,備具せざる無し。余,昔日未だ懐いに慊らざる者,是に於て復憾みを遺すこと無し。豈大快事に非ず乎。嗚呼,父子にして南北辺土の事実を著す。偶然ならざるに似たり。当今朝政漸く復古,他日若し国誌を此の著に徴する有らば,裨益すること,分界図考の下に在らざる有らん。翁,躯幹雄壮,曠懐偉度,険岸絶嶺を跋□して窮せず,其の勝るるは一事も措かず。差錯有れば寝食を廃して校正す。故に
草稿屡成り,屡毀ちて,自ら其の労を知らざる也。故に此の書にして世に伝うることを果さば,則ち翁の身孤島に窮居すると雖も,名不朽に垂るるは此の文也。然りと雖も,篤く学を好み,厚く道を信ずる者に非ざれば,成す可からざる也。因て其の感を巻端に書し,之れが序と為すと云う。

      明治二年歳次己巳夏五月  前の朝散大夫  中 臣 則 文  撰

 明治元年11月,則文は新政府の大赦によって帰郷する事を許された。しかし,則文が地役人・菊地秀右衛門から赦免の申し渡しを受けたのは,翌明治2年5月1日であり,八丈島を出たのは,23日未明であった。28日江戸着船,御赦免御礼等の諸事を済ませた後,6月13日郷里・鹿島に帰った。神官をはじめ,市中の人々およそ100人に迎えられた則文は,まず,鹿島神宮に参拝御礼の後,帰宅した。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●これは、昭和55年(1980)8月30日発行の、『井関隆子日記』中巻の末尾に掲載した「鹿島則文と桜山文庫」の一部である。井関隆子の日記の、しかも中巻の末尾に、どうして、このような鹿島則文の略伝を掲載したか。これは、則文のお孫さんの、鹿島則幸氏の要請によるものである。それまで、則文の伝記はまとめられていなかった。『井関隆子日記』を大切に保存して伝えてくれた則文、その伝記が無いのはまずい、そう、私も考えたからである。37年前のことである。

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。