玉薬同心・鈴木重嶺 (鈴木貞夫氏)

新宿歴史よもやま話〔53〕 『広報誌しんじゅく』
郷土史家 鈴木貞夫

全龍寺と玉薬同心 2 鈴木重嶺

大久保一丁目の全龍寺には前回触れた都筑峯重の墓の脇に鈴木重嶺の墓域がある。重嶺も鉄砲玉薬同心の家系。文化十一年(一八一四)小幡多門の子として生まれ、鈴木半次郎の養子になった。十一代将軍家慶の御台所楽宮付きの御広敷伊賀者を勤め、御徒目付に進み、屋敷を市谷加賀屋敷(現市谷加賀町二-二〇)に一五〇坪を拝領。ついで勘定所勤めに代わり、四二歳で勘定吟味役(現在の大蔵省局長クラス)、駿河台鈴木町(現千代田区神田駿河台二-五)の四八〇坪に移り、やがて勘定奉行(現大蔵大臣)に昇進するが、僅か二〇日余りで辞任、槍奉行の閑職についた。しかし、激動の幕末、北方の脅威に備えるため佐渡奉行に任命され、兵庫頭と称した。
 わずか三年足らずで徳川幕府が崩壊。ついで、かつての御三卿の一つ田安家の家老として新政府との交渉役を勤めている。その頃、玉薬同心たち二二名は連名で、先祖が苦労して開墾した大久保の土地(手作場)の払い下げを新政府に申請している。代表は前回登場の都筑峯暉(一橋家家老)と重嶺で、希望はほぼ容れられ、一段(三百坪)につき三両(現在の六〇万円位)の割り、五年賦とされた。
 翌明治二年、開拓少主典、四年には浜松県参事(月給一五〇円)、明治六年から十一年まで佐渡の相川県権知事(二五〇円)を勤めている。激動の時期とはいえ、地価と役人の月給の格差には驚かされる。
 ところで、重嶺は明治十一年に一切の公職を退き、屋敷を牛込区山伏町六(現新宿区南山伏町一)に構え、趣味を楽しむことにした。
 若い頃、村山素行・伊庭秀賢について国学・和歌を学んだので、東京で和歌の鶯蛙吟社を組織、雑誌『詞林』を主宰、多くの弟子を指導した。彼の和歌は当時最も多くの人々を擁する御歌所派(宮内省派)と呼ばれる伝統的な典雅・平明・流麗を旨とするものであった。
 また、重嶺は勝海舟と相当親しかったらしく、晩年の回想談『鈴木重嶺小伝』で、「玉薬同心の中で太夫(五位の位階)以上に出世したのは、勝麟太郎、都筑と私の三人だけだった」と述べ、勝海舟は『海舟座談』の中で「祖父が玉薬同心の勝家の株を買い、のちに旗本に進んだ家なので、重嶺と親しく、金を貸したことがある」と言っている。前にも触れたように、玉薬同心たちは、徳川家康の江戸入り当初、三〇俵二人扶持(現在の年収約百万円)の微禄ながら大久保と四谷に別れてそれぞれ千坪以上の土地を与えられ、勝家は四谷、都筑・鈴木家は大久保であった。重嶺は明治三一年十一月二六日、八五歳で他界。「葬儀記録」には公家、旧大名、歌人など著名人一〇六八名の名が記されているという。佐渡においても人々に愛され、墓域には「鈴木重嶺顕彰会・佐渡市教育委員会」による説明板が設けられている。

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。