『可笑記』の読者

『可笑記』の読者     深沢秋男

近世教訓小説の祖とされる『可笑記』は、刊行当初から、かなりの読者を得ていたものと思われる。了意はこれに批評を加え『可笑記評判』を著し、『浮世物語』を『続可笑記』と改題して出している。著者は未詳であるが、『ゑ入 可笑記跡追』も出版され、西鶴は「人の見るために道理を書つつけ是を可笑記として残されし誰かわらふへき物にはあらす」と言って『新可笑記』を創った。
また都の錦は「此等(『大和』『宇治』『今昔』など)にいへる言の葉は、久しく目馴れ聞ふれてめづらしからねばとて、如儡子はじめて可笑記をつくり」(『御前お伽婢子』)。「むかしより今にいたりてみざめせずしておもしろき物は。御伽婢子。可記。意愚智物語なるべし。」(『元禄大平記』)と称揚し、さらに宝永二年には、一休の法語等を集めた『一休可笑記』が、翌三年には『後前可笑記』と題する浮世草子が出版されている。
その他、その内容・形式を『可笑記』にならった仮名草子は少なくないのであり、これらの点からみても、この作品が後の作者達に及ぼした影響の大であった事は推察し得るが、次に挙げる二、三の資料はその読者を考える上で参考となる。
『隔冥記』は、鹿苑寺第二世・鳳林承章禅師が、寛永十二年から寛文八年までの、三十四年間に亙って書き記した日記であるが、その寛永二十年四月十四日の条に
「自金光寺、可笑記四五之弐冊来也。」と見え、十一日後の二十五日には、「可笑記弐冊返納于金光寺之次、岩茸一包贈之、則返簡之次、大笋五本被恵之也。」とある。鳳林は、勧修寺晴豊の第六子として生まれ、その叔母・新上東門院は、後陽成天皇の御生母である。後水尾上皇の許にしばしば出入りし、文事を愛し、ことに俳諧を好んだが、堂上人としては屈指の上手であったとされている。
『可笑記』の初版は寛永十九年秋と思われるが、その翌年の四月に、鳳林(五十一歳)は七条坊門の金光寺覚持から借用しているのであり、それも五巻全冊揃いではなく「四五之弐冊」とあることは、種々の事をわれわれに想像させる。
――借用したのは入手困難のためだったのだろうか。『善悪物語』同様に、その間に書写したのだろうか。購い求めて手元に置く必要を感じなかったからなのか。おそらく、巻一、二、三も、それ以前に借りて読んだのではなかろうか。あるいは、堂上俳諧グループの中でも、この作品はかなり話題になっていたのではないか。さらに二十年四月という日付は、寛永十九年が初版であることの、多少の支えにたりはしないか。等々――。
いずれにしても『可笑記』の具体的な読者を二人(覚持と鳳林)、ここに見出したのである。
 なお『隔冥記』に記す書名は、『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』『毛吹草』『狗子集』『論語』に等、それ程多くはないが、寛永十九年十二月九日の条に「善悪物語上下弐冊、於川勝喜、而令許借也。」とあり、正保三年五月二十六日には「善悪物語写事、頼能有、為持、遣之也。」と出ている。東大図書館霞亭文庫所蔵の『ゑ入 可笑記跡追』(刊年不明)は五巻(一、四欠)であるが、内題は「善悪物語」となっている。はたして同一書であろうか。
 故小高敏郎氏は早く、この日記が、貞門俳諧と堂上俳諧の関係を知る上で、貴重な資料である事を指摘されたが(『国語と国文学』昭和32・4)、野々口立圃、烏丸光広、林道春などの記事も出ており、仮名草子研究にも、資するところがあると思われる。
『可笑記』絵入本は半紙本で、万治二年正月に、寺町三条の山本五兵衛から開版された。京都府立総合資料館の所蔵本は、落丁のため刊記は無いが、万治二年版と同版と思われ、表紙も題簽と合わせて原装と思われる。この巻五後表紙の「定栄堂蔵板目録」に『堪忍記』『古今百物語』などと並んで「西鶴織留 近古長者に成たる人の物語 六冊」「西鶴置土産 織留同類の書 全部 五冊」と西鶴作品が入っている。また、「大坂書林 心斎橋南四丁目吉文字屋市兵衛 心斎橋筋安土町同源十郎」ともあるので、万治二年の絵入本は、三十数年後の西鶴没年前後に、大阪で刷りを重ね、売り出されたものと思われる。この事は、この作品が元禄期になっても、なおかなりの読者に求められていたことの証左になるものと思われる。
 このように『可笑記評判』をも含めて、五回にわたって版を改め、刷りを重ねたこの作品の総発行部数は、野田火寿雄氏の説かれるように、一版五百部(『近世文学の背景』)としてみても、二千五百部に達する。しかし、時の流れは、その多くを散逸させた。そして、現在伝わるものは、その五パーモーセントにも及ばないのである。 
 次に引く読者のメモは、その間の事情をよく物語っている。「此書久シク探索シテ漸ク京師書林石田治兵衛ヨリ需ム 雑書中ニテハ有益ノモノ歟 今茲初テ得之珍蔵スベキモノナリ 七十四翁三園誌之」(名古屋大学蔵『可笑記評判』)。「万治二年ハ元禄ヨリ凡三十年ナリ 明治三十三年マテ弐百五十年二及フ 殊二焼版ニシテ人間稀二見ル所ナリ 昨三十二年大阪府古書物商某古書展覧会二此書一部出品ア
リ」(東京大学蔵絵入本)。
また、それぞれの時代の読者の、ささいな書入れも何かをわれわれに語りかける。
「正徳元年 西海枝兵蔵 平田久馬」 (慶大蔵本)。「享保九朧三月廿八日 キヲクのコト」(東大蔵本)。「この書いづくへまはり候共□の源内方へおんかへし口口 植野村源内」(東大教養部蔵本)。「此一篇全篇ヲ抹殺ス可冊〔巻五の9〕」(桜山文庫蔵本)。天理図書館蔵本には「元隣か作にも見ゆ」「作者理想の人」「徒然草に出づ」「作者の試作」など研究者のものと思われる多くの書入れかある。
 そうして、一部一部が時と共に、次々と読者を変えていった。蔵書印はその書の具体的な読者を教えてくれる。「斎藤文庫」〈斎藤幸成>「不●斎図書記」<秋山不●斎>「西荘文庫」<小津桂窓>(以上、桜山文庫蔵本)。「和学講談所」「浅草文庫」 「書籍館印」「日本政府図書」(以上、内閣文庫蔵本)。「和州 万法寺什物」(関大蔵本)。「羽前大泉田川郡西小野方村 渡辺治左エ門」(竜門文庫蔵本)。「尾州海東郡江松邑随縁寺所戚」(筆者蔵本、これは書入れ)等々。
その他、烏江正路は「いぐち物語 醒酔笑 可笑記 質なるもの也。此時迄はありたる咄を書たるなり。夫ゆへ事実の助となる事有り。」 (『異説まちまち』)と評
し、近く、柴田錬三郎氏は小説『徳川浪人伝』(S41・12)で、当時の浪人の様子を説明するのに、巻五の八十二段を引用している。
 以上、二、三の資料を列挙したにすぎないが、あるものは空間的に、またあるものは時間的に、この作品の読者の存在をわれわに教えてくれるし、そこに書き込まれた短い評語も、その時代その時代の、この作品への反応を暗示しているのである。その意味では、この作品に真正面から取り組み、一段一段批評を加えた『可笑記評判』の著者・了意こそ『可笑記』の最大の読者の一人であったと言える。
 以上は、調査を進める過程で目にふれた資料の紹介である。
                       (42・9・12)

                     【『文学研究』第26号、昭和42年12月】
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●これは、50年前に発表した研究余滴である。『可笑記』諸本の蔵書印、書き込み、その一つでも、現物を、その図書館などに出向いて、手に取って調べなければ、言えないことである。私は、それが示したかったのである。実に、懐かしい。
                               平成30年2月9日

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。