仙人のはなし  須田千里

仙人のはなし 須田千里
2018.03.14 Wednesday

 芥川龍之介は仙人が好きらしく、その短い生涯で、未完も含めて三つの『仙人』を書いている。これから私が話をするのはその第二のもの、すなわち大正十一年四月二日「サンデー毎日」創刊号に寄せた文章である。
 大阪へ飯炊き奉公に来た権助という男、仙人になれる奉公先を周旋しろ、と口入れ屋に頼む。途方にくれた口入れ屋からそれを聞いた近所の医者の細君が、それではうちに連れておいでと言い、仙人になる法を教えてやるから、と二十年間ただ働きさせる。約束の日になり、言う通りにしないとまた二十年働いて貰うからとことわった上で、細君は庭の松の木に登らせ、右手、左手、と順々に手を離させる。と、権助の体は木から落ちるどころか、空中に留まり、やがて青空を踏みながら高い雲の中へ登っていったという。
 文庫本で六ページ程の小品だが、無欲と信念のひと権助はそのままですでに仙人であった、というコントとして、澄み切った印象を与える作品となっている。作者自身「大阪の話」と断り、また瀧井孝作『純潔――『藪の中』をめぐりて―― (昭26・1「改造」)に、「また、十一年の四月に出た小咄の「仙人」は、小穴隆一君が話した材料で、また同じ年の七月に出た密度の濃い短篇「庭」も、小穴君が協力した材料でした。」と記されているから、大阪生まれの小穴が土地に伝わる話を芥川に語り。それを作品化したものと思われる。
 その原形が如何なるものであったかわからないが、ここに興味深いのは、如儡子の『可笑記』(寛永19刊)巻二によく似た話のあることである。越後の国ぶどう峠の麓に天狗坊という富裕な山伏がいた。隣の男、なんとかこんなふうに金持ちになりたいものと思い、その方法を問うた。山伏は承知し、男を連れて後ろの山に登り、深い谷に枝をさしのばした松に登らせる。山伏は、左の足、右の足、左の手、と放させ、遂に右の手も放せと命ずる。この手を放せば死んでしまうという男に山伏は、金持ちになる極意は其処である、銭一文儲けるのは左の手を放した程の辛苦と思え、銭一文
遣うのは摑んでいる松の枝から右の手を放す心地せよ、これが金持ちになる大事の秘伝、と教えた。
 仙人と金持ち、その目標は全く対照的だが、そこに至る道行きには相通じるものかある。『可笑記』のこの話は流布していたらしく、約百三十年後の明和七年に刊行された『興談浮世袋』(青二斎能楽作)巻之五「金をためる術の事」に、談義僧から聞いたとして類話を載せているが、それからさき、百五十年後の『仙人』を繋ぐ線がない。しかしで『全国昔話資料集成19加賀昔話集』(山下久男編。昭50・11岩崎美術社刊)に、能美郡尾口村吏二口の北出太兵衛(当時八十三歳)を伝承者として、昭和十一年十一月二十二日採集された「仙人松」の昔話は、先の芥川の作品に酷似している。仙人になりたいと思った丁稚が七年間ただ働きする。七年たったので仙人にしてくださいというと、家の主人は「仙人木」と言われている松の木のてっぺんに登れと言う。木から落して殺そうと、主人が左足、右足、左手、右手の順で離してみろといい、丁稚が言うとおりにすると、そのまます―っと空高く上がっていった。それを見た主人も、同じように登り、手足を順々に放したところ、今度は本から落ちて死ん
でしまった、とさ。
 余りにもよく似ているので、芥川の作品を読んだのでは、と疑いたくなるが、遠隔地であり、また『仙人』発表時の伝承者の年齢が七十近いことを考えると、むしろそうした昔話が大阪や石川に存在していたと考えた方がよいようだ。
 以上の話は、中国宋代の僧道原によって撰せられた『景徳伝燈録』(一〇〇四年)巻十一に、「香厳樹上」として載せる公案を想い出させる。木に登った人が両手両足を離し、口だけでぶら下がっているとき、下にいる人が達磨の中国にやってきた意を問うたたら、どうするか。答えなければ問うた人にそむくことになるし、かといって答えれば命を失う。さてどう答えるか、というものである。すなわち、手一本で(さらには口だけで)木にぶらさがるという行為はギリギリの窮地であり、ここで初めてその人間本来のあり方がみえてくる、ということなのだろう。
 とすれば、徹底した現世利益の望みに基づく『可笑記』の話や、物羨みの「隣の爺」的俗物性を強調した石川の昔話などと比べた場合、「オトギバナシ」とその副題に記された『仙人』に見て取れるのは、他界への解脱の願いであるように思われる。

(奈良女子大学 国文学会誌 37号、1994年)

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。