鹿島則孝の『あすか川』

鹿島則孝の『あすか川』
2018.05.07 Monday

『桜斎随筆』所収「あすか川」の内容

●『桜斎随筆』の中の、巻17~巻31の15巻は、幕末・明治初期の歴史的史料の書写である。このような点を考慮して、この分野の専門家、法政大学名誉教授・村上直先生に、特にお願いして、編者に加わって頂き、丁寧な解説を付加して頂いた。村上先生は近世史、私は近世文学であったが、先生の御研究は、前々から拝読して、勉強していたので、このようなお願いを引き受けて下さったのである。
村上先生に対して、改めて感謝申し上げる。     深沢秋男 2018年5月7日
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『あすか川』解説・内容
鹿島則孝と「あすか川」
村 上  直

 『桜斎随筆』のうち、巻十七から巻三十一の十五巻は、特に「あすか川」と題してまとめた資料が収録されている。
『国書総目録』によると、「あすか川」または「飛鳥川」と題する随筆集は他にも見うけられるが、本書のように全一二六〇余丁、千余項目に及ぶ大部なものは見当たらない。本来「あすか川」とは、大和国(奈良県)の中部を流れる川の名であるが、歌枕にもよく詠まれている。「あすか川」は、古来流れの変化が激しかったので、よく定めなき世の中の例えに引用されることが多くあったといわれる。したがって、学
殖豊かな鹿島則孝が、幕末維新期の激動を川の流れの激しさに讐え、「あすか川」と名付けたのではないかと推測することができる。
 さて、この大部な「あすか川」を考察してみると、部分的には則孝の筆跡と若干異なるのではないかと思われる個所もあるが、全体を通してみた場合、則孝自身の書写とみて差し支えないといえる。・・・(中略)・・・
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こうした内容とともに、標題の中には、風説書や風聞書の類も含まれている。風説書などは世間にひろまっている噂の類であり、史実としで確認されているわけではない。しかしながら、則孝の取捨判断によって貴重なものと考えられ収録していることは興味深い。

 「あすか川」は、万延元年から明治元年に至る九年間の幕末維新期の記録と文書の配列である。これによって事件や戦争の連続という激動の政治情勢のなかで、多角的に諸問題を考察してゆく視座が窺われる。それと同時に、代官や関東取締出役の関連史料や、風説・風聞書などにより庶民的な視角からの思考性も読み取ることもできるのである。
(むらかみ・ただし/法政大学名誉教授)
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「あすか川」の内容

 『桜斎随筆』の巻十七~巻三十一の十五巻が、表紙の色・大きさなど、外形的に他と異なっている事は、書誌の項で記したが、内容的にも、また、他と異なるものとなっている。万延元年の桜田門外の変をはじめとする、幕末・明治初期の歴史的史料の書写である。
 「あすか川」と題する、一~二冊の随筆類は、他にも伝えられているようであるが、十五巻、一二六〇丁という大部のものは見当たらない。筆跡を見ると、他の則孝のものと少し異なるようにも思えるが、所々に補筆された、則孝のものと思われる注などから判断して、おそらく、則孝自身の書写であろう。
 以下、内容の紹介をしたいと思うが、大部なものであるので、項目を順次列記してゆくことにする。
 注、翻刻するにあたって、一部省略したものもある。また「より」の如く表記を一部改めたものがある。二行割書きは〔 〕で囲み一行書きとした。則孝の補筆など、参考になるものを( )の中に入れた。

  巻十七 あすか川
○庚申三月三日朝五ツ時
 御届書
○万延元年庚申二月閣老より六諸侯へ御渡書附之写
〇三月伊能氏より来状
〇三月三月井伊掃部頭より御届之写
○細川越中守へ御達之覚
〇三日内藤紀伊守殿上申渡御書付写
○十八人各懐中書
○義党懐中書別紙壱通
 (この後、7丁分白紙)
○三日井伊掃部頭嫡子立候届書
〇四日御達
○同日井伊家家来より差出候書付之写
○同日内藤紀伊守より掃部頭家来江御申達候覚
〇六日脇坂細川両家先日御預ケ人左之通御預ケ替ニ相成候
○辞世 有村治左衛門 斎藤監物 佐野升之介 藤原光明
○同日従水戸殿江仰立候書面
○右御挨拶内藤紀伊守より
○閏三月木俣より御用番脇坂中務大輔殿へ差出候由〔評ニ云此上書信用しかたし〕
〇八州役人持参之姓命書写
○庚申三月義党遺墨写
○文久元年辛酉七月廿六日御仕置御仰渡
○辛酉五月廿八日夜英吉利ス人宿寺芝高輪東禅寺へ浪人体之者多人数被乱妨候次第左之通申上候
〇六月五日英吉利人江返翰
○壬戌正月酒井若狭守〔所司代〕御用番へ伺書〔同二月三日久世大和守〈閣老〉柘植杢之助を以御下ケ壱通写〕
○壬戌二月五日井上伸庵より来状
○同沼田虎三郎書取
○壬戌正月十五日桜田御門番牧野備前守家来より差出候
○同日松平大膳大夫より御届
〇三月五日松平大膳大夫殿登城大和守殿へ面会上申述御報
○松平修理大夫殿家中に示之書
○嶋津和泉より申渡書付
〇勅命(大原左衛門督重徳 奉)

  巻十八 あすか川
○戌四月京師より出状写
〇四月十日酒井若狭守より広橋家坊城家江書状
○戌四月八日(文久二壬戌四月八日筑前脱民 天野二郎国直)
〇四月廿五日紀伊守殿御渡
〇四月廿五日松平修理大夫より御届
○戌五月廿二日御仰出候書付
○戌八月 京都より内告書
○戌七月中京師ニ有之事八日同所より申越候書状
○戌八月梟首(本間精一郎、宇郷玄蕃)
○壬八月十五日御達
○閏八月誅戮(目明シ文吉)
〇九月廿四日附本多主膳正届 十月五日 水野和泉守江差出之
○戌閏八月十五日 上意之趣
○同廿三日土屋采女正様衆より以御用奉札御書付四通写
○閏八月廿三日 戸田越前守様衆より御用廻状ヲ以来
○壬戌 今上皇帝御宸筆之写(孝云此書伝写の誤甚多くして難読ものなれども暫くその侭に写置猶後考を待のみ)
○壬戌十一月 後醍醐天皇御陵之儀ニ付御届書写
○壬戌十一月 戸田藩山陵御用掛渥見祖太郎より来状之写
○壬戌 薩長土三藩ヨリ之上書
○壬戌十一月廿三日
○勅諚〔壬戌十月勅使持参十一月下旬大樹公御対顔〕(勅書拝見仕候 文久二壬戌年十二月五日 臣家茂判)
○戌十一月〔日欠〕井伊掃部頭家来閣老井上河内守殿於御役宅願筋御取上無之候ニ付自殺致ス
○戌十二月六日 先年以来御政事向品々不宜事共有之御為対
○同八日周防守殿貞阿弥ヲ御大目付御目付江被成御渡候
○壬戌十二月国事御用掛左之通御方々被蒙
○壬戌十二月六日 御所表被仰出書付
○壬戌十二月節分ニ於 御所御歌之題叶恋と題出候処……
○戌十二月周防守殿御渡〔大目付御目付江〕
○同月勅書并御達
○同月十九日田沼玄蕃頭殿ら仰渡
○戌 会津侯上書
○戌十二月和泉守殿御渡

  巻十九 あすか川
○壬戌九月 来二月御洛可被遊旨候
○癸亥正月四日 松平春嶽儀此度上京候
○亥二月水野和泉守殿御渡
○癸亥三月十一日奉拝 加茂下上両社 御行幸粧 御側次第記
○石清水御行粧略記
○亥三月廿三日関白殿より尾張前大納言江御渡
○文久三亥年三月 御参内之節二条御城より
○亥春 御上洛ニ付相撲渡世之者共御用相勤度旨再応願出候ニ付閣老井上河内守殿江町奉行井上信濃守より申上候書付
○三月根来組先登り之者より文通之内
○三月五日井上河内守殿御渡〔大目付〕
○癸亥五月異変ニ付所司より達
〇五月於京都御仰出候書付
〇五月十一日御所内学問所江張出候書付
〇六月松平豊前守殿御渡〔大目付御目付江〕
○同月 御達
○七月京都より来状之写
〇七月十一日朝大坂日本橋生首
〇八月二日朝大坂西本願寺前其外天神橋阿弥陀堂江張紙
〇九月八日有馬遠江守殿御渡〔大目付御目付江〕
○十月大樹公御上洛ニ付布衣以上之面々江京都より御仰出候書〔十一月朔日於江戸城御達〕
○十二月御上洛ニ付松岡万山岡鉄太郎上書
○十二月廿七日将軍家上洛御発駕……
〇同廿九日河内守殿〔井上氏閣老〕御渡
○癸亥十二月大樹公御上洛ニ付御供船へ乗組候者之筆記〔起十二月廿一日翌年二月朔日ニ終ル凡四十日〕

  巻二十 あすか川
○癸亥正月京都御触面写
○亥二月朔日 学習院江議奏伝奏御立会在京之諸侯家来御呼出被仰渡候御書付之写
○同月十一日 鷹司関白殿江浪士之者罷出書付差出翌日迄御殿ニ罷居攘夷期限之義承り候上浪士之者共涙を流し相悦引取候由右書付之写
〇二月六日 攘夷拒絶ニ而三期限於一定……
○同月廿三日足利三代之木像梟首之図
○会津手ニ而召捕候浪士名前
○同三月十八日於京都三条河原出家之首晒有之候其文言左之通
○加州より来状之写
○同十四日於京都御書付
○同十七日於御所関白殿より一橋殿江御渡御書付〔全文別ニ在由〕
○同日水戸殿江伝奏衆より御渡御書付〔全文別ニ在由〕
○長州侯京都江建白〔自分鷹司殿下御持参〕
○同二月廿二日於京都御触
〇三月五日春嶽殿書状
〇同月尾張藩士京師より之書状
○亥二月十七日附京師より来状之内
〇三月尾州老公建白
○同月十九日於京地和泉守殿御渡同晦日江戸ニ而御達
○亥三月廿三日関白殿より尾張前中納言殿江御渡
○勅書之写
〇三月十七日於 御所関白殿一橋江御相渡候勅書写〔一本廿三日〕
○癸亥二月御達〔新規御取立銃隊之事田安家御願済之書〕
〇二月神祇伯王殿使者ヲ以諸国配下并有志輩江達状写
〇三月京師風聞書
○同頃江戸俗語〔鄙詞なれども世体を見るに足る故に写〕
〇二月廿六日夜大坂西御堂裏門ニ古首を獄門ニ掛ケ其下ニ而後切腹候士両人有之兄弟之様子ニ而書置有之則別紙写
〇四月十日寺社奉行松平摂津守より伺書
〇二月廿六日長藩士辞世詩歌(永井雅楽)
○四月八日豊前守殿御渡写酒井但馬守殿より御差越候
〇四月浪人共江戸町人江金索
〇四月町人共献金願
〇四月十五日浪士之内評定所江呼出ニ相成候者名面
○京都京屋弥兵衛方より三月八日書状写
○同頃同所より来状
○同十九日高輪町名主より町奉行所江差出候御届之写
○爰春平井氏京都より書状
○亥三月廿五日越前侯御届
○癸亥三月十一日加茂 行幸見聞記
○癸亥四月十一日八幡行幸聞書
○長州侯京都江建白〔自分鷹司殿下江持参〕
〇三月十九日於京師御仰出御書付〔閣老水野和泉守より大目付伊沢美作守へ相届候由同月廿七八日方江戸ニ而御触出相成候事〕
〇五月長州侯届書
○五月朝廷より長州へ御達
○六月朝廷より因州へ御達
〇六月四日長崎仏国戦争之次第夷人言上大要
〇六月六日長州侯より京都江之御届
○同月和泉守殿御渡御書付〔大目付御目付〕
○同月関白家より御達
○同月伝奏坊城大納言亭へ水戸殿在京衆御呼出御渡御書付
〇四月御老中江左之通り御届
○亥四月朔日豊前守殿御渡覚書写同二日酒井但馬守差越
○癸亥四月江戸画工田吹亭斎より(晒し首の図、神戸六郎、朽葉新吉)
○亥七月一橋侯御自筆御達書
〇六月亜国ワイオシン船江水先為案内乗組罷越候始末御礼ニ御□侯
〇六月九日仏蘭人江返書〔閣老両名〕
〇六月九日宗対馬守□出候書付
○癸亥英人神奈川ニ而板行致し候新聞之写
○長州赤間関外夷決戦虚実
〇七月廿一日長州侯より幕府江御差出候書付

  巻廿一 あすか川
○癸亥正月六日 因幡守殿御渡〔御目付江〕
○癸亥五月十八日河内守殿御渡〔大目付御目付江〕
○貌利大陀亜シヤルゼタフヘール兼コンシユルセネラール ヱキセルレンシ―イシントシヨンニール江
○同二月十九日英国軍艦より持出候書翰如此
○横浜御触書之写
○亥二月廿一日英吉利人江返書
〇三月英吉利人江書翰
○同月亜墨利加国ミンストル レシテント ヱキセルレンシー ロヘルトヱツヽプライン江
○同月仏蘭西人 亜墨利加人江書翰
○償金請取書 千八百六十三年第六月廿六日 横浜 不列顛使館ニ於て
○松平修理太夫家来内意 河内守
○亥三月廿三日松平修理大夫窺書
○亥三月外国掛御目付より伺書
○癸亥三月六日河内守殿申渡
○同七日同人申渡
○同十四日同人御渡
○同十九日同人御渡
○同十二日豊前守殿御渡
○癸亥四月十四日豊前守殿御渡〔大目付御目付江〕
○癸亥七月京都より来状写
○同三月市中張札
○八月廿七日周防守殿御渡〔大目付御目付〕
○同日(九月九日)遠江守殿御渡〔町奉行御勘定奉行 道中奉行 海陸御備向掛…〕
○亥九月十四日鎖港応接ニ付町触
○癸亥二月十四 大樹公上洛滞在日数……
〇二月廿八日附閣老密書
〇三月廿三日関白殿より尾張前大納言江御渡
○亥三月六日万石以上并交代寄合一席一人ツヽ登営於席々老中列座板倉周防守申渡之(孝云本文申渡は京師二条柳営中也)
○将軍家茂公建白
〇三月九日酒井但馬守より御差越候 大目付江御達之覚
○同十三日御警衛向江御達
○同日河内守殿御渡 大目付
○亥三月十七日於御所関白殿一橋殿江御渡書付
〇三月廿三日勅書之写并大樹公御請書写
○同日伝奏坊城大納言殿亭江水戸殿在京ニ付御呼出し御相渡候書付
〇三月廿日附横浜より来状之内抜書
〇三月廿三日井上河内守殿御渡〔寺社奉行御勘定奉行江〕
○京都於御旅館ニ御仰出候趣
○亥二月八日井上河内守殿宅江家来呼出相渡候書付
○同九日上杉弾正大弼家来相届候書付
○同月十四日井上河内守殿御渡写
〇四月八日佐竹右京大夫より閣老松平豊前守江差出ス
〇四月四日諏訪因幡守殿御渡〔御目付江〕
○同六日豊前守宅江銘々家来呼出
〇四月十日渡 上意
○同月御達〔町奉行 御勘定奉行江〕
○同十五日豊前守殿北角十郎兵衛ヲ以御渡〔御勘定奉行江〕
〇四月廿二日京地より早ニ而御越之由同廿八日惣出仕〔河内守殿御対座豊前守殿御渡〕
〇四月 今度英国軍艦渡来非常之節御扶持方并御賦等昼夜四度分御下方左之通
〇五月十四日一橋殿より建白
〇五月板倉周防守殿御渡〔大坂町奉行 大目付江〕
〇八月十三日 今度為攘夷 御祈願大和国…
○同月於京師御仰出候
〇八月十八日 昨今不穏次第も有之候ニ付…
○同十九日和州五条騒動ニ付御代官両人より来状
〇九月植村駿河守より御届
○同月御目付伺〔海陸御備向掛 御目付〕
○癸亥十月廿六日横浜碇泊フランス之軍艦ニおいて二三人トルアトミラール江田沼玄蕃頭立花出雲守対話之大意……
○亥十二月薩藩渋谷休阿弥方江渋谷休兵衛勝国元より差越候書付之写

  巻廿二 あすか川
〇八月十三日御仰出
○同十八日長藩辞書
○同十八日未刻出廿二日夜着京状之内〔堀江町状出山口勇次郎〕
〇八月廿二日佐竹右京大夫藩平田大学悴延太郎より来状
〇九月八日有馬遠江守殿御渡御覚書
〇八月 因州 阿州 備州 上杉 上書
〇九月廿五日六侯建白(慶倫、慶徳、茂韶、高潔、茂政、茂勲)
○京都より或人秘密之来状
〇八月十五日此御書付倉橋殿御門前へ立候(孝曰前文京師或人秘密書ニ因州侯周旋之事有之彼地ニ而異説有之故左之書付立しなるべし依而此序へ順々認候なり)
○京都風説書
〇九月廿日附京師或人より之書翰
〇九月廿一日御書付
○芸州届書
〇九月長州ニ而臣下一統江布告之書
○十月八日或藩士より之書状
○十二月長州侯より津和野侯へ贈書
○長州へ御下候公卿方御詠
○亥九月井伊掃部頭御届書写
○亥十月松平甲斐守御届書写
○十月井伊掃部頭御届書写
○亥八月十六日江戸日本橋張札 鈴木重胤
○十月十六日暁八ツ時頃武州千住宿壱丁目往来ニおゐて敵打之由検使願出候
○十月十三日夜小伝町弐丁目自身番屋江張札
○十月廿五日夜所々張札
○十一月施行ニ付 口上
○同晦日岩附町木戸柱江張書写左之通
○癸亥秋国書ニ付各藩書状
○十月島津三郎上書
○十二月長州并浮浪共入京御着留之御達
○正月廿一日所賜 宸翰
〇二月十六日島津久光建白
〇二月秋月佐渡守上書
〇二月十日戸田越前守伺書
○大原左衛門督重徳朝臣建白
〇五月仙台侯宰相辞退上書
○御沙汰留之内抄
○宸翰
〇六卿建白
○長州入京歎願書
○加賀世子建白
○因州侯建白
○従伊勢御伺書
○一条殿建白〔実良卿〕
○甲子正月十日因州侯上書
○同月十一日松平修理大夫家来より御届書
〇二月廿七日松平下野守〔筑前世子〕上書
○因州老臣荒尾但馬上書
〇三月十日立花飛騨守上途届書
○同月十四日荒尾但馬御届
○同月脇坂淡路守建白
○同月加藤越中守建白
○同月尾侯上言(前大納言玄同君)
○同月細川両公子献言
○亀井隠岐守建白
〇六月長防土民歎訴
○長州より御届書
〇七月十九日長州家老各藩へ贈る書状
○長州浪士哀訴状
○同 謹按
○京師長州一件之始
○大坂御城代松平伊豆守殿より急廻状
〇六月廿五日風聞事
○夜四時大坂町奉行より達書
〇六月廿六日風聞書
○御城代公用方より達
〇六月廿七日風聞書
○御達書
〇七月朔日伏見奉行所ニおゐて長藩其外呼出大目付より御渡之書付写
〇七月朔日市尹より達
〇六月廿九日嵯峨天龍寺并山崎辺江出張之探索方より注進申来左之通
〇八幡山豊蔵坊より御届
○嵯峨清涼寺より御届
○円明寺村小倉大明神社神主より御届
〇七月八日晩到来大坂町奉行より注進之内書抜
○福原越後歎願事
〇七月九日堂上方九家より上書写
〇六月廿九日賜候御宸翰之写
○同日一橋中納言殿江被賜候御宸翰写
〇六月英国より幕府江差出候書付
〇七月十日内々御番所公卿衆ヨリ建白之写
〇七月十五日山崎近辺出張探索之者より申越
〇七月十三日戌下刻差出大坂町奉行紙面翌十四日未刻過到来写
〇七月十八日長州出張之人数征討一件注進状
〇七月十九日伏見奉行林肥後守注進状
〇七月十九日払暁在京諸家へ左之 宸翰渡御折柄逆賊暴発ニ付渡し済ニ不相成分も有之
○会賊暴行一件 追補人姓名等略之

  巻廿三 あすか川
〇七月十八日十九日より長藩京師乱暴戦争之見聞書
〇一橋殿附属 大沢顕一郎
○戸田采女正より届書
○松平越前守同
○松平讃岐守紙屋川固メ致し七月十九日召捕
○酒井若狭守七月廿日討取生捕
○藤堂和泉守固新在家裏手 一召捕
○松平伯耆守 七月十九日以来八幡御固場所近辺潜伏之者も□□之ニ付見廻候所……
○松平修理大夫味方戦死四人……
○蒔田相模守見廻先討留分捕
○酒井若狭守分捕……
○井伊掃部頭味方討死十九人……
○松平肥後守分捕……
○滝川播磨守市中見廻之節組与力上田斎次郎討取……
○松平越中守討取〔蛤御門内ニおいて〕十四人 一討留〔於堺町御門〕壱人
〇七月十九日天龍寺陣所跡ニ捨置候書付
○長州天龍寺陣所ニ大絵ニて張紙……
〇天龍寺より御届
○或公卿方之家士筆記
○宮西氏見聞録
○長州追討御達并長州父子軍令条写
○落人送り候兵庫船之者より申立
○大阪町奉行より京都町奉行へ書状
〇七月廿六日高橋清八書状 京都変動実録
〇七月廿八日参朝被上候方々
○同日より東市尹御役所ニおゐて御吟味ニ相成留名前
〇七月十九日類焼之堂上方江従禁中為御救下左之通
○同十九日廿日出火焼失
○京師焼失略図
○同十九日京の方を見やりて 蓮月尼
〇七月中京都ニ而変事八月朔日附文通写
○元治紀元甲子仲秋京師御守衛惣督一橋卿より御養母徳信院殿江御遣候御翰之写
○洛中騒擾概略〔一橋公附ノ人ノ記録〕
○戸田采女正江城江御届 七月廿日
○井伊掃部頭同断 同月廿四日
〇七月晦日水野和泉守殿御渡〔御詰衆大目付江〕
〇八月三日附長州より
○同六日閣老牧野備前守殿申渡
○同九日水野和泉守殿御渡〔大目付江〕
○同日長州より外夷卜合戦之御届 外ニ和議御届
○同日長州外夷と和議之書状
○同断ニ付朝廷より御仰出候書付〔并京師詰高家関東下向〕
○同断二付長府藩中より土浦藩へ来書
○大阪商家長州より書通
○小笠原家より届書
○小倉藩より再度届書
○長州大夫宍戸備前夷人応接
〇八月十三日申渡書付(板倉周防守)

 巻廿四 あすか川
○甲子年長州征伐
○長防攻口井固図
○土州侯より伺書
○長州より脇坂藩江書面
〇八月十七日閣老阿部豊後守渡之〔大目付御目付江〕
○毛利左京亮願書
○同月十九日因州侯願上書〔同月廿四日差出ス〕
○同廿日御進発ニ付御備向御仰付
○同廿二日大阪御城代松平伊豆守書面并長藩士村岡伊助申立次第書
○長州様江戸屋敷ニ而討死
○甲子八月五日長州与異人与之戦争図
○甲子八月九日長州侯より合衆国江送状
○日本貿新聞 第六十六号
○当世評判チョボクレ〔甲子年〕
○雑説 当時之川柳
○甲子泰平良策言上録
○甲子二月宸翰写
○甲子三月薩州書状之内
〇子四月長州侯建白
○甲子六月近藤関斎〔牛込甲良屋敷坂上住居〕悴京都新選組同勇より之書状写
〇七月五日附京師より来状
〇七月二日附同所より来状
○同月十九日明ケ方認メ同廿三日早着瀬戸物町飛脚屋嶋屋佐右衛門方江来状写
○同日申ノ刻出大津表より来状写
○同廿四日附島屋佐右衛門より東叡山役所江届書写
○甲子八月閣老牧野備前守渡之
○細川侯建白
○閣老水野和泉守より守護職松平肥後守へ書面
○甲子八月御代官甘利八右衛門より御勘定奉行へ差出申書付
〇八月廿三日閣老牧野備前守申渡……
○同日同阿部豊後守渡之……
○同廿四日脇坂藩より御届……
○同廿七日大阪市尹届
〇九月朔日松平三河守殿上書
〇九月五日先達京都騒動之節軍功ニ依而拝領物
○同日閣老諏訪因幡守役宅江家来呼出し相渡
○同七日閣老役宅江留守居呼書付渡之
○同十一日同宅江銘々家来呼申達之
○甲子十二月朔日松平豊前守殿御渡
○吉川監物歎願書
○十一月十一日芸州草津村海蔵寺にて御目付より長州家老へ御達
○長州三家老辞世
○同廿八日或藩士広島より之書状
○同廿日御達
○長州風説
○十二月長防征討惣督尾張前大納言殿より御所江呈書写
○乙丑正月十五日御達
○同十八日御所より幕府へ御仰出
○同晦日再度御仰出
〇五卿御転座
〇二月廿二日両閣老〔松平伯耆守阿部豊後守〕参内御仰出大奥江御為召御尋……
〇二月廿六日幕府より宇和島大洲龍野三藩へ長州警衛之御達
〇二月廿三日京着 筑前藩より書状
〇四月朔日美濃守殿御渡……
○乙丑二月両閣老〔松平伯耆守阿部豊後守〕上京之節持参八ケ条
〇二月京師より御仰出 御詰問
〇二月十六日御厨子所高橋御取次高橋渡辺三人差扣御仰付候
○同廿二日異服着之者京都徘徊御着止ニ付御達
○開席料理三者論(孝云此書野調取ニ足ズト雖当時幕吏ノ心中鏡ニウツスガ如シ攘夷ヲ以テ小量トスレドモ却テ諸藩ヲ征スルコト小量也終ニ長ノ内患ヲ生ズ可咲)

 巻廿五 あすか川
○乙丑四月廿二日長州為征伐御進発之御達松平伯耆守御渡
〇五月寺社尹土屋采女正より其筋へ御達
○御進発ニ付国恩金上納御達
○乙丑三月藤堂侯建白
○乙丑閏五月四日将軍家御旅中江尾張前大納言殿上書
○細川侯上書
○江州膳所本多藩 召捕一件実状〔乙丑夏〕
〇六月九日着上方来状
○丑年在府中伝聞書
○乙丑六月幕府より長州江御使
〇八月十日毛利淡路吉川監物より芸州江差出同所家来寺尾清十郎を以大坂表豊後守殿手元迄早打ニ而差出候書付
○西本願寺末善照寺真照寺書取
○御上京ニ付御達
○於大坂御達……
〇九月十日江戸より出状
○乙丑十一月長防二州臣民合議彫刻本之写
○雑説
○乙丑五月征長之儀ニ付京師ニ而檄文
○乙丑年芸藩探索説
○乙丑年可成々思へと正月廿八日来願書と有之如何
○丙寅正月八日松平周防守殿御渡写〔大目付江〕
○乙丑 幕府より詰問ニ付長州侯答書
○乙丑閏五月張紙 中村敬輔
○大坂雑説
○仏蘭西展覧会ニ付御触
○京師珍事 彼地より来状之写
○将軍家御辞職之表
○十月八日御内達〔大坂ニ而ハ二日之御達也〕
○勅許
○将軍家御請
○御意之写 十月七日
○和泉守御達
○外国条約ニ付建白
○十月七日亜墨利加江閣老より返状
○勅諚并閣老書状写
○十月十二日合川表より書状
○丑十月十六日和泉守殿御渡御書付写……
○乙丑十月廿七日京都ニ於而閣老小笠原壱岐守より諸藩へ御渡封書
○北郭遊女金沢〔加州侯ニ比ス〕奥州〔仙台侯ニ比ス〕世上物語〔御辞職ノ時ノ評判去ド関東贔屓ニテ実情ニカナハズ〕
○あぶらしぼりめつぼうチヨボクレ(此チヨボクレ詞甚野鄙なりといへども幕府の秘事を探索して当世の形勢に感通せり)

 巻二十六 あすか川
○丙寅正月中別 勅
○丙寅正月廿二日長州処置幕府より聞儀言上
○同日禁中より御仰出
○丙寅二月板倉伊賀守殿御渡写
○丙寅二月御代官小川達太郎より達書
○丙寅春立大子之儀御仰出仙洞御所を春宮御所ニ被成御造営相成由
○長州模様聞書
〇四月長州へ御仰渡候書付并於広島完戸備後介歎願書
〇四月板倉摂津守届
○同月蒔田相模守届
〇四月〔……〕薩藩於浪華幕府へ差出候書取
○長征ニ付薩之意気込
〇四月幕府御沙汰
〇五月十四日水野和泉守殿申渡〔大目付御目付江〕御裁許御触達
〇五月九日於芸州御預人手続左之通
〇五月吉川監物御請期限御猶予願ニ付御達
〇五月廿七日芸州より幕府江差出候書付写
○於大坂表板倉伊賀守御渡〔大目付御目付江〕
〇六月十五日寺社奉行松平中務大輔より其筋江御達
〇六月十七日閣老井上河内守御渡同廿一日寺社奉行土屋采女正より其筋江御達
〇六月防長人民へ御諭書
○御役替 六月十五日
○長州討手軍配
○長防両国之備
○防長討手配絵図
○長防并隣国接堺之図
〇五月廿日朝広島大手筋壱丁目門其外廿三ケ所へ張紙写
○御使番松平弥五右衛門より大島炮聞書
〇六月十四日八代島出帆十七日兵庫出帆八雲丸乗組より直話村松伊助聞書
○新聞〔随聞ニ実事と思はれ候分書留なり〕
○歩兵頭向井豊前守より来状〔六月廿五日到着〕松屋茂左衛門聞候伝聞書
〇六月四日阿州御父子幕府へ建言
○同月十八日因備両侯建白
○中国辺藩士より来状写〔六月中出状〕
○紀藩より御届
○長防士民より差出候書付
〇七月十日伊賀守殿御渡ニ而左衛門尉殿へ相渡候一書 関保右衛門より差越候……
〇七月紀伊殿請願書
〇七月六日附筑後国久留米商人より来状写
○浜田侯御届書
○大番組池田力蔵より聞書
〇七月江戸古川氏より来状二通写
○石州浜田松平右近将監より佐倉へ鉄砲借用御致度申入有之候……
〇七月長防士民より雲州家老へ送檄
〇七月廿二日薩州より関白殿下〔二条家江〕差出候書面
○同月同日薩藩より在京諸藩江廻達之写
〇七月薩州侯より 朝廷江建白之写
〇七月十一日坪内河内守殿より御老中若年寄衆江書上之写
○石州大森陣屋御代官鍋田三郎右衛門引払御届書「七月廿一日附〕
〇七月廿九日鈴木真年より来状写
〇八月朔日御礼登城之面々万石以下諸役人一同居残候様御老中松平周防守殿御仰……(城郭人数配書并絵図を付す)
○丙寅六月防州大島戦争并芸州口防州戦之説
○丙寅七月朔日紀藩御着之状
○広嶋表より六月廿三日附之書状七月三日着
○丙寅七月紀州侯先鋒惣督御辞職
○丙寅七月十二日出状
○長征聞書
○丙寅板行〔甲子七月京師騒動砌討死也〕松平肥後守様家来討死之名前付
○丙寅六月当世子供雑談(此書甚鄙詞と雖当時幕吏の奸謀狭少なる形勢鏡に移すが如し故に写之)

 巻二十七 あすか川
〇八月朔日出仕之万石以下諸役人其外へ松平周防守殿御演述之趣
〇八月朔日為御祝儀溜詰始万石以上已下諸役人と城於席々謁老中御口達之次第有之……
〇八月周防守殿御渡
○中津侯より御届書
〇六月十七日附江戸より佐原へ来状
〇五月十二日大坂出本町山崎より油四方へ来状写
○同十五日出大坂来状写
○同廿八日出大坂来状写
○随聞記
○於大坂表八月一橋中納言殿江御仰出候板倉伊賀守殿御成御渡候御書付写
○御代官小川達太郎より上総国支配下へ達書
〇九月御所より御仰出候請書付写
○此度御呼寄之諸藩
○彙雑書報(芸州口、石州口、下ノ関口、上ノ関口……)
○丙寅五月薩州より申立之廉書
○同月宇和島侯伺書
○同六月十一日備州侯芸州ニ而閣老へ差出
〇八月十八日予より鈴木真年方へ贈る状
○以下随聞記
〇九月十四日夜神田明神鳥居江張有之書附写
○丙寅十月朔日井上恒三郎〔当時八丈島流人〕兄〔小十人井上某〕より状
○丙寅十一月四日寺社奉行御用番松平左衛門尉殿御達
○丙寅十一月九日夜九ツ半時過より神田氷富町辺より出火……
○源烈公御詠楠公長歌
○藤田東湖正気歌
○寅十二月十六日寺社奉行土星采女正殿より触書写
○筑紫蓮水君御状〔蓮水君ハ予ノ兄 本文中小倉啓之進ハ予ノ弟也〕
○小笠原左京大夫より差出候書取
○長崎表御警衛并四ケ所関門詰人数等之儀ニ付申上候書付
○寅十二月十六日寺社奉行土屋采女正より触
○丁卯正月八日寺社奉行御用番松平左衛門尉殿御達
○御代官より御達
○丙寅十一月十五日附鈴木真年書状
〇五月十二日附伊能外記書状
〇五卿之義ニ付御達
〇二月廿二日小笠原壱岐守殿御渡長防討手御解兵御達
○征長戦功恩賞
〇丁卯二月十九日晴午刻より西南ノ大風……
○卯二月長防討手御解兵御達壱岐守殿御渡
○丁卯三月兵庫港之義御奏問書写
○丁卯三月薩藩大山格之助長州へ応接書
○丁卯四月廿六日
〇四月京師大坂より来状之写(一本大坂ノ文字ナシ)
〇四月廿日伝奏衆江所司代衆より之書付
〇四月廿五日出大坂表より来状
○倫敦新聞紙〔四拾五番英吉利西 斯加亜登著 係日本大坂兵庫之事〕慶応三年七月下旬出板

 巻二十八 あすか川
○丁卯五月十日会津侯御請書
○丁卯六月十一日附村山河内〔行方郡矢幡村神主〕京師より出状聞書略……
○丁卯六月十六日附五島主計浪花より出状写
〇六月筑紫策郎銃隊上坂之□□
○丁卯六月廿七日美濃守殿御渡御書付写……
〇七月朔日同人御渡御書付写 大目付江
○同廿二日縫殿頭殿御渡御書付写 大目付江
○同廿四日美濃守殿御渡御書付 大目付江
○丁卯八月十五日之朝京都表ニ而原市之進〔幕府目付役〕御刺候節書取
〇八月関東八州取締役より達
○丁卯九月九日附伊能外記来状
○丁卯九月備前侯より幕府へ御申立候ケ条書
○丁卯九月土州老侯上書二通
○同(丁卯十月)大坂今橋へ張札之写
○丁卯十月六日指出芸州侯ヨり幕府へ建白
○京摂風聞
○今般御用掛左之通
○丁卯十月上意之書付 十三日於二条御城伊賀守殿布衣已上江御渡
○同月十七日徳川家より御伺并ニ於御所御下ケ札
○同月十九日御所より御仰出候書付之写
○同月廿日徳川家より御伺并ニ於御所御附札
○徳川家より御伺并御所より御附札
○同月京都御触
○同月紀伊家御返答書之写
○同日藤堂家御答書之写
○同月尾老公建言
○同月京都町奉行より達之写
○同月柳之間御取締より御同席へ問合六ケ条
○同月張札不知所
○卯十月廿六日江戸より書面之写
○丁卯十月廿八日於江戸左之通徳川家より御達〔甲府城代 三奉行 外国惣奉行……〕
○丁卯十一月三日四日帝鑑之間柳之間雁之間菊之間之諸家重役を紀州家へ呼集候節御相渡候書付写
○丁卯十一月紀藩より頼談ニ付及返答候書面
○同月京師巷説 御国事懸りより大樹公へ御内意
○同頃極秘之書付
○丁卯十一月三日一石橋ニ張付有之候書付
○丁卯年米沢藩名義世運諭解
○卯十月江戸或婦人より之来状
○丁卯 唐太割地使節俄羅斯ニ赴事
○丁卯十一月歩兵共吉原町乱妨之事
○卯十二月廿一日出鷹司家より御用状到着御達之趣左之通
○十二日 和宮御方先年関東江降嫁被為……
○十二月京都御触
○同月奥州辺御触
○卯十二月廿三日〔稲葉美濃守殿小笠原壱岐守殿〕御渡御書付写
○丁卯十二月廿日関東取締より村々江達
○十二月廿七日筑紫策郎より奉札之写〔…〕
○丁卯十月十日出十四日夜八ツ時着来状之写
○同十二月十五日於西城御達書
○卯十二月江戸邸より申来候書付
○卯十二月廿五日夜当番御目付より差越候書付
○丁卯十二月廿七日関東取締より急触書
○同時江戸城御警衛として外廓并橋々〆切り之分 仰付之
○卯九月頃より冬月迄諸国へ神々の御祓降たる事〔伊勢路別而多し御福也 両宮鹿島香取等多し〕

 巻二十九 あすか川
○戊辰正月七日附関東取締出役より触書……
○正月十日美濃守殿御渡し御書付
○大坂より書状之写
○京都より当正月六日戌ノ上刻出十二日卯ノ上刻ニ着
○又一本京状之内
○正月四辻大夫殿より御達
○戊辰正月高札場へ相立候制札写
○戊辰正月五日出京都より来状
○同七日附京都より来状
○辰正月七日従御所御沙汰書
○京都御沙汰書
○正月土着ニ付筑紫策郎より奉札之写……
〇正月京大坂町触写〔御所より御沙汰書与大同小異有之故写〕
○辰正月江戸町中触書
○御帰城御供并ニ戦死風聞之姓名
○辰正月十四日附鈴木氏出状之内京摂一条
○同十六日迄探索
○同十二月十日京都出書状十四日夜八ツ時着
○正月四日酉刻出大坂より申来
○同日午刻出京より申来
○正月十四日出大坂来状之抜写
○同月本多侯〔名前未詳〕より江戸屋鋪へ注進状〔按ニ膳所ノ本多主膳正ナルベシ〕
○同月京都より来状抜写
○同月廿日出大坂来状之写〔同廿七日江戸着〕
○辰正月十日御触〔大阪市中江〕
○辰正月交易之儀ニ付御触
○同月廿二日御触〔市中取締方ニ付〕
○辰三月神祇事務局より御達
○辰正月十二日御触書
○美濃守殿御渡
○正月廿三日伊賀守殿御渡
〇二月五日壱岐守殿御渡
〇二月十日六侯より朝廷江建白之写
〇二月十四日米津伊勢守より届去四日太政官代御役所より御渡之書付
○同日朝廷より御達
○戊辰正月廿一日穂波三位殿ヲ以御渡御書付
○濃州代官地高札書替
○勢州桑名城下ニ於て建札之写
○戊辰正月寺社奉行より其筋江達三通写
〇同二月同所より諸寺社江 達書
○同月江戸古川氏より来状
○戊辰正月勅諚
○戊辰二月徳川殿歎願書写
〇右ニ付 同盟哀訴申合書
○□月尾州名古屋市中御触出之写
〇二月桑名表より和泉屋へ之来状
○辰二月薩藩脱走之義ニ付関東取締より触書
○辰二月廿九日御用
○戊辰三月二日附古川氏より来状之写
〇三月二日附古川但馬守より伊能外記江来状
○辰二月関東御下向御名前并ニ美濃守殿御達書
○水戸御役所より諸向江
〇三月九日水戸南郡宰より触書
○同十一日附江戸在府猿田多仲より来状
〇三月二日上意
〇三月三日神奈川宿迄御使ニ罷越候名前
〇三月九日備後守殿御渡
〇三月十五日着日光御門主帰山ニ付戒善院より之書面写
〇三月惣督宮より御仰渡并御答
○辰三月御紋附御事禁止御仰出
〇三月御代官小川達太郎より達

 巻三十 あすか川
○神於呂志 (右三月十五日 勅祭)
○辰春江戸市中張札之写
○三月十五日江戸町触写
〇四月二日平岡丹波守殿御渡……
○同月四日朝廷より御仰渡
〇四月東山道総督府参謀より江戸市中并近在百姓町人共へ御達
○仙台より出陣五藩之人数
〇四月脱籍(藩イ)徳川家臣布告書
○辰四月廿八日朝出立宇都宮宿飛脚閏四月三日佐原村着来状下野合戦書
○下総国香取郡阿玉村河村久兵衛与申もの去十六日日光街道小金井宿へ割貝売ニ罷出止宿いたし候所見聞記
○下総国所々戦争之説
○中外新聞第一号 慶応四年二月二十四日出板 三月再板 (二号、六号)
〇四月十一日御達
〇四月七日申渡ニ付町奉行江
○同十二日平岡丹波守渡之〔大目付……江〕
○辰四月大赦ニ付総督府会計方より達
〇四月江戸より下り之人より来状写
○辰四月十五日附会計方より御達書同廿一日着
○辰四月八日復飾ニ付大政官江願書之写
○上総国武射郡真行寺村真福寺定全献策ニ付大政官より御下札写
○辰四五月頃より麾下の面々商人ニ相成候者数多あり
○閏四月十七日内田蔀村田を一郎等より主人再勤御赦免等歎願書写
○辰閏四月 今般御下向ニ付(御祈祷)
○辰閏四月七日夜着京師より御達弐タ通り
○海陸軍一同ヨリ列藩へ布告書之写
○辰閏四月朔日江戸飯田町中坂上ニ張置候写
○中外新聞外篇之内〔辰五日〕北地探索書写
○江城日誌第十二号之内北陸道総督府より来抜書
○辰正月伏見表戦争已来之事情聞書
○辰五月十五日東叡山戦争実説〔十七日出根津松平藤九郎より知行所大舟津村…来状〕
〇五月江戸戦争風聞書〔但甚不審之事有之候故夫ハ除く〕
○東台脱走人直話
〇五月廿五日附古川太郎より来状

 巻三十壱 あすか川
〇辰三月十三日川路頑民斉〔左衛門尉〕妻之書状
○閏四月朝廷より佐倉藩へ御達〔神社寺院領地其外件々御達〕
○閏四月金札大政官等之義ニ付朝廷より佐倉藩江御達
〇六月四日小見川藩士寺嶋熊三より来状
○市政日誌小引(一号慶応四年五月十九日)
〇五日伊豆守殿御渡
○同月廿五日一役一人江伊豆殿御渡
〇六月旧幕府判物差出ニ付御達
〇六月村々地頭姓名并村高帳調ニ付
〇七月〔此月廿日夜慶喜殿鹿島大舟津御通船同所某宅へ御便所御上陸黒無紋ノ麻羽織白木綿襠高袴御着草鞋ヲハカレテ髯長く延タリト云銚子ヨリ蒸気船ヘ移ラレ駿州ヘ趣カル〕
〇七月鎮将御仰出候御達
〇七月於東京鎮将府十三ケ国御支配御仰出候御達
〇七月廿八日附粥川小十郎より達酒造〔清濁〕醤油造之一条
○盗物引合ニ付御触八月上旬鹿島へ到来
〇八月常陸国知県事より夏成之儀ニ付達写
○先般御布告被仰出候通
○鎮将府日誌第一(第二、九、十、十七)
○東巡日誌第一号
○東京城日誌第一
〇勅崇神祇重祭祀
○勅 皇国一体東西同時視朕今幸東京……
○今般 御東幸被為遊候ニ付而……
○御参拝ノ概略
○松前藩届書
○諸藩御布令書写
○同十五日松平確堂願書
○東京城日誌第十 詔書之写
○東京城日誌第十三 十二月十日松前藩届書
○東京城日誌第九 十一月五日泉岳寺江 勅宣写
○東京城日誌第十一 十二月七日御布告書写
○東京城日誌第十四 十二月七日御沙汰書写
○東京城日誌第十六 十二月二十三日被仰出書写

 以上、「あすか川」十六巻、一二六〇丁に収められた七百余の項目を掲げたが、その内容は、万延元年三月三日朝五ツ時に発生した、井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)の御届書から始まり、明治元年十二月の松平容保処分に関する詔書之写に至る記録である。
 万延元年、文久元年、二年、三年、元治元年、慶応元年、二年、三年、明治元年。この九年間が、幕末・明治維新の大激変の時代であった事は言うまでもない。則孝は、四十七歳から五十五歳という年齢でこの時代を生きた。鹿島神宮・大宮司の要職にあった期間ではあるが、実に克明に書留めている。
 北方領土問題はロシアとの関係で、現在もなお未解決のままである。慶応三年、箱館奉行・小出秀実は露国と交渉し、暫定協定を結んでいる。これらに関しては、外務省編の『大日本外交文書』をはじめ、公的記録も多く残されていると思うが、この時の状況を「あすか川」は、次の如く記録している(巻二十八)。
「丁卯 唐太割地使節俄羅斯ニ赴事
慶応二寅年十月十日、江戸発程。同十二日、横浜乗船。外国奉行小出大和守を初として、御目付石川鎌二郎、通詞箕作秋平、徒目付岩田三蔵等十四五輩、俄羅斯ニ赴き、其情実を確得するに、全く俄夷の属国と成、其威力をかりて、英仏蘭亜の蚕食を免れ、且門墻の内乱を平らげんとの、卑怯懦弱心より起れり。何かな俄夷の歓心を得んとて、唐太全嶋を献ぜんための使節也。夫、蝦夷は、先年より、関東諸侯に命ぜられ、分配警衛せし上は、追々開拓有べきに、東国挙而弱藩となり、又、古昔慓悍之風、骨地を払しかば、幕吏之如く民をしへたげ、利を掠めの大姦策は無けれ共、俄夷と相●(テヘンに「元」)する之気力無く、事有れば、棄て去り去らんの情態也。就中、仙台は無識因循之大藩、一旦俄夷之虚喝ニ恐れ、己が固メ之エトロフを先年棄て去しかば、既ニエトロフ、クナシリ之二嶋は、全く彼が有となれり。貪婪厭事なきは、夷狄禽獣之常情なれば、仮三嶋を与へしとて、夫ニ而欲心を止め、我に徳する事あらんや。 何となれば、彼レ元、蒙古ニ亡されし時、僅ニ残れる一小嶋也。然れども、今日に至り、三大洲を跨有せしは、豈漸々蚕食のなす処ならずや。此類を推しても、彼は貪心之限り無きを知べし。有司之浅き存慮より、三嶋を全く与へ、彼が非望ニ出しならば、真実我を臣愛して、又、箱館松前迄は犯さるゝまじ、松前箱館、長く我が有となりしうへは、英仏蘭亜等をも、拒くに足ぬべしと思へるは、愚かなる考と云べし。なれども、是程洋夷ニ在祖中之上等之考也。其甚敷ニ至りては、彼の智慮も無く、気力も無き、英仏之穿●(「癒」の部首がマダレでなくアナカンムリ)に組し、皇国を売与し、是ニ臣妾となり、一日之安を偸める者、満局皆是也。是ニ比すれば、少しましなれ共、大姦は忠に似たり、大詐は信に似たり、との伝語之如く、俄夷之恐るべく、悪べきは、眼前に、利を争ひし、英仏之類にあらず。去年、横浜に入港し、毎々閣老に謁見し、英仏抔之陸梁を詈り、何かに深切らしき事を述しより、其眼之一着高く、其望之鴻大なる事に心付ず、誠実雄力共に依頼すべきと云ひ、三千年来堂々たる皇国を挙而博し、衆人に謀らず、一己に取極め、臣妾たるは、いと憫むべき事也。然れども、夷患ありしより、既に十余年、六十六州之人、大抵皆腥●(ニクヅキに「羶」の右側)之塵気に浸淫せしと謂ども、固有之大和魂は、全く未ダ消滅に至らざる者も、猶多かるべし、右等之人より、余が此言を聞かば、余りなる振舞なれば、定而虚説と思ふべし。先年、小壱州〔小笠原、肥唐津ノ世子〕生麦一件に償金を与へ、水泉州〔水野、羽前山形〕長防へ、夷艦を差向ケ、板伊州〔板倉、備松山〕遊行之地として、本牧を与へ、松豆州〔松前福山〕阿豊州〔阿部、奥白川〕摂海に夷艦を差向ケ表面三港
勅許を請し、内実兵庫開港之仮条約をなし、卯年期限之伏案せし類、皆人道に有まじき極悪大罪なれ共、少しく日本胆有る士は、決して実事とは思はざる也。故ニ油断せし中に、終に如何共すべからざるに至る。乃チ、今般之割地も、全く悪口などゝ油断して、差置ならば、唯さへ彼に諂ひ、処得せしめん、との有司之心、善き事に致し、終に、一蝦夷地全く彼に献じ、南部津軽之海心より、境界を限定するに至るべし。因て試に其虚言ならざる確証を挙ん。今年九月五日開板、日本雑報第二百四十二号之内に、新大君一橋公より、魯西亜国へ使節を遣るよし聞けり。英仏は往や否や未ダ詳ならず。右使節は、箱館奉行小出大和守にして、此度外国奉行に転役したり。其用向は、一橋公之写真降翰を、魯西亜帝に贈り、サカレン地方之事ニ付而、約定すべき事ある故也と、是有れば、此一事に而も、其割地臣服之実事なるを知べし。古昔、小松内大臣は、病気之危篤に臨まれ、慈父之督責有共国体を汚辱せん事を恐れ、漢土之医師に脈を取せ玉はざる也。如何に末世なればとて、其身宰輔之重任に居玉ひ、己が写真を送り、地を献じて、降を請ひ、一日之寸安を偸み、万年之大患を忘れ給ふとは、痛哭流泪長大息すべき事ならずや。抑、近来、彼英仏等之小夷だも、猶今度遊息之地として、武州八王寺辺より、青梅宿飯能迄、相州厚木宿、伊勢原、大山辺、東海道大磯宿、三浦三崎、浦賀、鎌倉、金沢迄、凡、廿四五万石之地を、贈与せしとて、先日調役安田次郎吉、定役吉田良平、同役中村惣兵衛見分に往し也。嗟、夫、世は如何成やらん、関西之侯伯大夫士、坐視傍観とは、情無き事ならずや」

 一例として掲げた、この記録や批評が、歴史的事実を知る上で、どの程度の役割を果し得るか、今、即断できない。「あすか川」に記された内容は、そのほとんどが、江戸・京都という、いわば、我が国の歴史の中枢に関わるものである。それだけに、この種の史料は、もっと信頼すべき文献が整理され、研究の素材に使用されているものと思う。しかし、歴史研究が、過去の歴史的事実を確定し、その事実を通して、その背後に在る歴史的真実に迫ろうとするものであるとするなら、「此チョボクレ詞甚野鄙なりといへども、幕府の秘事を探索して、当世の形勢に感通せり」と評して記載したチョボクレ(巻二十五)をも含めて、この時代の歴史を解明する一史料として、今後、分析・検討されなければならないだろう。

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。