追悼 木越治先生

 追悼 木越治先生     

                深沢 秋男

 木越治先生が御逝去なされた。

  木越治先生の御逝去を悼み
  心から御冥福をお祈り申し上げます

 木越治先生は、平成三十年二月二十三日御逝去なされた。御年六十九歳であった。いかにも早すぎる御他界である。先生としては、もっともっと、研究を進められ、多くの事を発信し、後世へ伝えたかったものと拝察され、その心中をお察し申し上げずにはいられない。
。。。。。。。。。。。。。。。

木越治先生〔ウィキペディア より抜粋〕
「木越 治(きごし おさむ、1948年11月20日 ― 2018年2月23)は、日本近世文芸の研究者、金沢大学名誉教授、元上智大学教授。石川県金沢市出身1971年金沢大学国文科卒、75年東京大学大
学院博士課程中退、富山大学講師、79年助教授、83年金沢大学助授、のち教授、96年「秋成論」で東大文学博士。2010年上智大学授。
上田秋成が専門だが、近年は秋成作品の講談化と口演、講談と韓国の評弾の比較などを行う。『秋成論』では、呉智英の石川淳批判に反論している。
著書
『秋成論』ぺりかん社1995
共編著・校注
『浮世草子怪談集』国書刊行会 (叢書江戸文庫) 1994
『都賀庭鐘・伊丹春園集』稲田篤信、福田安典共編 国書刊行会(江戸怪異綺想文芸大系) 2001
『西鶴挑発するテキスト』至文堂 (「国文学解釈と鑑賞」別冊) 2005
『秋成文学の生成』飯倉洋一共編 森話社 2008
『講談と評弾 伝統話芸の比較研究』八木書店 2010
『江戸怪談文芸名作選 第1巻 新編浮世草子怪談集』校訂代表 国書刊行会 2016」
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 私は近世初期の仮名草子が専攻ゆえ、木越先生とは、ほとんど交流がなかった。ところが、昭和六十一年、様々な経緯から、上田秋成の『桜山本 春雨物語』を出すことになった。そのような関係から、木越先生に多大な御教示を賜ることになったのである。昭和女子大学に勤務していた頃、大学の研究室のサイトの〔日録〕に、次のような記録がある。

「木越治氏より来信
●金沢大学の木越治氏からメールを頂いた。昭和女子大のホームページを見ました。大学生の頃のレポート興味深く読みました。『春雨物語』の本文は、お説の通りです。という内容。有難いことである。
●実は、昭和61年『桜山本 春雨物語』を出版した時、最初に私の意見に耳を傾けて下さったのは、木越治氏であった。平成元年8月「『春雨物語』へ――文化五年本からの出発――」という論文を発表され、イギリスの書誌学者、フィリップ・ギャスケルの理論を援用しながら、文学作品のテキストのあり方に論及された、画期的な論文である。
●この木越氏の論文が影響したものか、鷲山樹心氏も論文の中で、私の説に賛意を表明して下さった。そうして、その後、中央公論から出された、『上田秋成全集』では、長島弘明氏が、『春雨物語』の各テキストを原型のまま収録してくれた。門外漢の私の意見を専門家の方々が、条件つきながらではあるが、お認め下さったとしたなら、こんなに嬉しい事はない。それにしても、あの状況下で、あの論を出された木越氏に対して、改めて敬意の念を捧げる。」

 実は、この本が出た時、近世文学界でこの本は、長らく黙殺されたのである。学会へ行っても、私の側には、誰も近づいてくれなかった。恩師・重友毅先生、秋成研究の大先学・中村幸彦先生をはじめ、多くの研究者の説を批判したのであるから、これは、覚悟の上のことであった。
 木越先生は、そのような状況の中で、拙著の書評を執筆して下さったのである。『春雨物語』本文の研究史上、貴重な発言であると思われるので紹介したい。

「書評 深沢秋男編『桜山本 春雨物語』      
                         木越 治
■朱筆と墨筆が同一人物の手になることを論証
■きわめて重要な意味持つ

 上田秋成最晩年の傑作短編集『春雨物語』には多くの草稿(及びその写本)が残されている。今回刊行された桜山文庫は文化五年本と総称される写本のひとつで、西荘文庫旧蔵本とともに数少ない完本として『春雨物語』諸本中重要な位置を占めている。 
 この写本が丸山季夫氏によって発見されたのは昭和二十六年のことで、これ以後『春雨物語』の研究は飛躍的に進むことになったのであった。すでにこの写本は、古典文庫などに翻刻されており、また底本として利用されることも多かったのであるが、今回の影印に関しては、従来ほとんど区別されることなく扱われていた朱筆と墨筆の区別が明確になされていることがまず第一にあげるべき特色である。そして、深沢氏はその解説の中で、この朱筆と墨筆が同一人物の手になること、墨筆の原本は秋成自筆本、朱筆は別系統の自筆本ないし写本によったと推測されることなどを他の稿本・写本や具体的な筆跡の比較を通して論証しているのである。こうした筆跡検討の具体的な成果として、従来「死首の咲顔」とも「死骨の咲顔」とも読まれてきた第六篇の題名について、この写本中に出る「首」と「骨」の字形すべてを、集めたうえで「死首」が正しいと結論づけている例を挙げることができよう。
 が、氏の解説のもつ意義は、こうした具体的ないちいちの成果にとどまるものではない。従来、おおざっぱな印象というかたちでしか語られてこなかった『春雨物語』諸本の筆跡の問題が、ようやく共通の基盤のうえで問題にし得るようになったという意味で研究史上きわめて重要な意味をもっていると私は思うのである。
 実は、本書が刊行された頃、私もちょうど『春雨物語』諸本の研究史を執筆したばかりで、その態度と方法についてあれこれ迷うところ多かったのであるが、そういう私にとって、深沢氏が腰を据えて本文一字一字の筆跡の検討から作業を始めている姿は、これからの本文研究のありようを示唆しているようで非常に感動的であり、かつ興味深く思われたのである。その意味で、本書の刊行によって今後の『春雨物語』の本文研究は大きく変わっていくと断言しても決して言い過ぎではないと思う。
 ただ、現在流布している『春雨物語』の本文がいずれも二種以上の写本・稿本の混合本文であることに関して氏が提出している疑義についていえば、たしかに、理論的には氏のいうとおりであるにしても、だからといって、圧倒的に優れている富岡本をさしおいて、文化五年本を底本とする『春雨物語』を一般読者に提出することがはたして正しいことかどうか、なお検討が必要であろう。
 ともあれ、『春雨物語』の一写本についてだけでもこれだけの問題が存しているわけで、まして他の稿本・写本とのかかわりとなるとまだまだ多くの問題が残されているのであり、本書の刊行がこれらの問題に関するきわめて重要な指針となることは疑いないと思われる。(A5、三八一頁・一二〇〇〇円・勉誠社)(きごし・おさむ氏=金沢大学助教授・日本近世文学専攻)」 【週刊読書人 1644号、1986年8月】

 この後、木越治先生は、平成元年八月「『春雨物語』へーー文化五年本からの出発――」(『日本文学』38巻8号、後、一九九五年五月三一日、ぺりかん社発行『秋成論』に収録)という、画期的な論文を発表された。その中で、次の如く述べておられる。

「……今回、深沢氏や鷲山氏の指摘を念頭に置きつつ改めて文化五年本を読み返したときに、まず最初にいだいた感想は、これまで文化五年本は果たして自立したテキストとして読まれたことがあったのだろうかという疑問である。少なくとも(その出発点において各稿本の位置づけについて言及し、その後も繰り返し稿本群全体を作品論の対象とせよと主張し、かつ実践してきた)私自身についていえば、もちろんこれまで文化五年本を読まなかったということはありえないにしても、従来は中間的な草稿であるという認識が邪魔をして、富岡本・巻子本・冊子本等との先後関係いかん、というような興味でのみ対することが多かったように思う。また、作品を読む場合にも文化五年本でしか読めない「二世の縁」「死首の咲顔」「捨石丸」「樊噲下」以外は、とりたてて五年本の本文をそれ自体として意識して読むことはなかったと思う。結局は作者自身によって改訂されることになる本文である、という認識が、この稿本の本文としての価値を低くみるという結果につながっていたと今になって反省するのである。そしてそれは、私ひとりだけの特殊な態度というわけでもなかろうと思うのである。
 では、改めて文化五年本の全体を読んだ結果はどうなのか、ということになるが、とりあえず、大変わかりやすい本文である、ということが最大の特色といえそうである。
その意味で、これらの作品では富岡本と五年本とはそのめざすところが異なっているという前提から出発しなければならないと思われる。五年本の「樊噲」が荒ぶる樊噲のイメージを強く押し出していること(本書第一部Ⅱ第6章参照)も同様の問題として考察されねばならないのである。
 にもかかわらず、そうしたちがいが明確にされないまま、五年本は予定調和的に最終稿へと収斂していく、過渡的な稿本として位置づけられるだけに終わっていたのである。

以上、五年本がかなりわかりやすく、しかも、富岡本とは異なる独自の性格を持つ本文であることが理解されたかと思う。
 今後、文化五年本は、『春雨物語』を考えるためのすべての出発点にすべきことを再度主張して、とりあえずこの稿を終えることにする。」
 上田秋成が、作者生活の最晩年、明を失いながらも、創り上げ、推敲を重ねた文学作品に対して、真摯に対応する研究者の姿が、ここにはある。
 木越治先生は、二〇〇八年(平成二〇年)二月二〇日、森話社発行の『秋成文学の生成』所収の「『春雨物語』新稿、三 上級編――近世文学を専攻する研究者のために」で、さらに深化した、『春雨物語』テキスト論を述べておられる。
 現在、市販されている校注書の中から、
 Ⓐ『新編日本古典文学全集』小学館、一九九五年
 Ⓑ『新潮日本古典集成』新潮社、一九八〇年
 Ⓒ『日本古典文学大系』岩波書店、一九五九年
 Ⓓ『全対訳日本古典新書』創英社、一九八一年
の四点を取り上げ、底本の使用状態を一覧表にして示しておられる。この内、Ⓐ・Ⓒは作品よって、天理巻子本と文化五年本を取り合わせて使用している。Ⓑ・Ⓓは、富岡本と文化五年本を使用しているが、各作品の中では取り合わせはしていない。文学作品の場合、どのような底本の使用の仕方が妥当であるか、現在は明らかであると、私は考えている。
 木越先生は、この論の終わりのところで、次の様にまとめておられる。

 「こうしてみてくると、混乱の根は一つである。すなわち、本文の選択及び改稿過程に関してこれまで富岡本に主軸をおいて形成されてきた通説に疑問を呈している当の論者たち自身が、それにかわるものを提示し得ていない、という事実、もっと簡単に言えば、私も長島氏も、
⑴ 文化五年本が現存『春雨物語』諸稿のうちもっともすぐれたテキストである。
⑵ 一般に流布すべきテキストの底本は、文化五年本のみを底本にする。
⑶ 文化五年本は秋成の最終的な意志を実現したテキストでありり、他の諸稿はここに至る草稿にすぎない。
というふうに主張しえないところに最大の問題が存するのである。」

 この、木越先生の締めくくりの言葉は、先生の『春雨物語』テキスト研究の到達点であり、先生の本音であり、後世への遺言ともいうべきものだと思う。
 今後、桜山文庫本の書写者が使用した、上田秋成自筆の本文が発見されるかも知れない。そこから、『春雨物語』のテキストについての検討がなされる可能性もある。その時、木越治先生は、もう、おられない。それが、誠に残念でならない。
 今回、木越先生の御逝去に際して、先生を追悼する1文を草したが、『春雨物語』のテキストに関することに限定した。先生は、もっと広い範囲で、多大な業績を残しておられる。しかし、そのことに触れることは、私にはできない。
 今は、木越先生が提出された、『春雨物語』のテキストに関する見解が、今後の資料発見や、研究によって、確定されることを熱望して木越先生への追悼の言葉としたい。
 木越先生、有難うございました。
                  平成三十年三月二十四日

(『芸文稿』第11号、2018年7月)

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。