史跡訪問の日々 鈴木重嶺の墓

史跡訪問の日々 鈴木重嶺の墓
2018.10.11 Thursday

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大久保
2012-12-15 12:03:40 | 東京都
(全竜寺)

全竜寺

 大久保は、ほかの東京のどの街にも無い異色な雰囲気の街である。韓国風焼肉屋とか、韓国料理の店、それに韓流スターのブロマイドを売る店とか、韓国食材の店などが軒を連ね、一瞬ここは韓国の繁華街かと見紛うばかりである。これに集まる客の九割以上は女性であり、この中にあってカメラを片手にしたオッサンは、完全に浮いた存在であった。大久保通りに面した繁華街の一角に全竜寺がある。全竜寺の境内に入ると、それまでの賑やかさが嘘のように静かで、ほっと一息つける。

鈴木重嶺之墓

 鈴木重嶺(しげね)は文化十一年(1814)幕臣の家に生まれ、鈴木家の養子となって十一代を継いだ。重嶺は諱。雅号を翠園と称した。勘定、同組頭、同吟味役を経て、元治元年(1864)には勘定奉行並に進んだ。慶応元年(1865)佐渡奉行となった。維新後も佐渡相川県知事等を歴任したが、明治九年(1876)官職を辞し、以後は和歌の道に励んだ。勝海舟とも深い交わりがあり、明治三十一年(1898)重嶺が八十五歳で没した時、海舟が葬儀に列席した記録が残っている。ほかに近衛忠煕、毛利元徳、久我建通、蜂須賀茂韶、井上頼圀、中島歌子、佐々木信綱ら、錚々たる人々が集まった。
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●今日、ネットで、このようなレポートを見た。新大久保の全龍寺も、失礼が続いている。現役の頃は、最低、年1回は、お伺いして鈴木重嶺や、松本家のお墓にお参りしていたが、今は、外出も思うようにゆかず、失礼している。
●鈴木重嶺の直系の御子孫、国語学者の松本誠先生との出会いが、懐かしく思い出される。〔翠園叢書〕という書名の入った論文を『国語と国文学』で見つけたことから、総ては始まった。

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●平成16年6月、大久保の重嶺の菩提寺・全龍寺に、次のような案内板を設置しました。
法政大学名誉教授・村上直先生、佐渡市教育委員会の御配慮を頂いた。

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  最後の佐渡奉行・歌人 鈴木重嶺・翠園の墓

 鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元寛永十三年(一六三六)十月八日に没し大久保村の全龍寺に葬られ。鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。
 鈴木重嶺は、文化十一年(一八一四)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家十代・重親の養子となって十一代を継ぎました。
 二十歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉行、鎗奉行を勤め、慶応元年(一八六五)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治九年(一八七六)官を辞し、以後は和歌の道に励みました。
 鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動して、『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。
 鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治三十一年(一八九八)十一月二十六日、八十五歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠園熈・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韻・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼国め中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など一〇六八名の氏名が記載されています。
  平成十六年六月二十六日
                     鈴木重嶺 顕彰会
                     佐渡市教育委員会

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●井関隆子 → 蔵田茂樹 → 鈴木重嶺 →松本誠。事実を知りたい、少しでも真実に迫りたい、そんな欲求が、〔鈴木重嶺伝記序説〕を書かせ、全龍寺に、このような案内板を設置させた。

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。