如儡子の見た陣羽織

如儡子の見た陣羽織
2019.01.24 Thursday

●元和8年(1622)、山形藩、最上57万石は、最上義俊の代で取り潰しとなる。そこで、最上家に仕えていた、斎藤広盛、親盛父子は、浪人の身となる。酒田に留まれればよかったが、その後に、庄内へ入った、酒井忠勝には召し抱えてはもらえなかったのである。
●この時、斎藤広盛は、幕府の老中土井利勝に、佐倉の城の留守居役を要請された。しかし、折も折、広盛は、にわかに病にかかり、急死してしまう。父の死後、如儡子・斎藤親盛は、酒田を去って、越後東蒲原郡、赤岩へ向かう。斎藤家総本家の第59代斎藤安近、西山吉兵衛の家を訪ねたのである。

●時に、斎藤親盛は21歳、斎藤安近は36歳だった。親盛は、この赤岩の斎藤家総本家にしばらく逗留して、やがて、江戸へ出る。この逗留の間に、安近から、斎藤家総本家の大きな転換の経緯を聞くことになる。

●斎藤家は、先祖代々、武家として活躍して来たが、第58代・斎藤義正は、主家・金上家が滅亡して、西山日光寺辺に蟄居した。59代・斎藤安近は、武士から農民に降り、住居も、山岳地帯の西山日光寺辺から、阿賀野川辺の赤岩に移住した。
歴代、武士として活躍してきた斎藤家、私の代で農民に降る。これは、御先祖様に対して申し訳ないことである。以後、斎藤安近を西山吉兵衛と改め、家紋も〔下がり藤〕から〔丸に吉〕に改めた。その記念に、〔丸に吉〕の家紋入りの陣羽織を作ったのである。

●如儡子・斎藤親盛は、そのように、西山吉兵衛から説明されて、この〔丸に吉〕の家紋の入った陣羽織を見せてもらったのであろう。それが『可笑記』絵入本の挿絵に繋がったのである。

●如儡子が見た、その陣羽織が、今、私の書斎にある。これは、奇跡である。新潟県東蒲原郡阿賀町赤岩の斎藤家総本家の御当主に対して、万感の思いを籠めて、感謝申し上げたい。
●斎藤光盛の後裔、第13代の斎藤豪盛氏は、かつて、申された。先生(私)が、あの世へ行かれたら、真っ先に、如儡子が出迎えるでしょう、と。あるいは、実現するかも知れない。
嗚呼。
【写真あり】

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。