〔恩師〕

〔恩師〕
2019.02.12 Tuesday

●私は、今、原秋津氏の〔横山重先生〕という記録を整理している。いずれ、後世に遺したいと願っている。原氏は、研究者ではない。会社の社長さんである。しかし、横山重という偉大な研究者の近くに居て、大変な人間関係だった方である。『横山重自傳(集録)』(平成6年8月30日発行)を見ても、並々な関係でないことがわかる。原氏にとって、横山先生は、文字通りの〔恩師〕だったと思う。

●私の〔恩師〕は、重友毅先生である、ということは、許されるだろうか。重友先生が御在世ならば、おたずねしたぃくらいである。〈法政大学教授、文学博士、重友毅〉という、名声に守られて、いかに多くの学問的配慮を賜ったことか。
●私は、卒業論文の面接諮問の時、初めて、重友先生から、大学院への進学を勧められた。そこから、私の人生は、大きく進路を変更したのである。結果的には、大学院へ進めず、重友先生のゼミを聴講するにとどまったが、第一論文「『可笑記』と儒教思想」(昭和39年、1964)以後、私の論文は、全て、重友先生の査読を頂いている。「深沢君、もう、もういいでしょう。あとは、君の判断で進めなさい。」そう言われて、私は、ようやく独り立ちした。多分、「『可笑記評判』とその時代ー批評書の出版をめぐってー」(昭和46、1971)以後だと思う。『近世初期文芸』第1号(1969)掲載の「『可笑記』の本文批評」も、先生は査読して下さったのである。
●重友先生は、昭和53年(1978)8月11日、御逝去なされた。78歳だった。
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「重友 毅氏(しげとも・き=元法政大学文学部長)
十一日午後一時四十八分、せき髄転移がんのため、千葉県市原市五井の南総病院で死去、七十八歳。告別式は二十日午後二時から市原市椎津(しいづ)の瑞安寺(ずいあんじ)で。喪主は、長男尚(たかし)氏。自宅は市原市姉ヶ崎九一ノ九。
 文学博士。上田秋成研究の第一人者。武蔵大、法政大、広島女学院大の各教授を歴任。著書に「日本近世文学史」「雨月物語の研究」「重友毅著作集」がある。(写真入り) 」 【朝日新聞 昭和53年8月12日、朝刊】
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●この死亡記事の元になったのは、私の手帳の記録を、各新聞社に連絡したものである。私は、重友先生の晩年、数年間ほど前から、先生の履歴を毎年手帳に書いて持ち歩いていた。

●昭和52年4月12日、午前10時、重友先生宅から電話連絡があり、高橋俊夫先生と私は、市原の重友先生の御自宅へ伺った。研究会の今後のこと、『文学研究』のこと、重友先生の『志賀直哉の研究』刊行のこと、など、御指示があった。私は、テープレコーダーを持参して、重友先生のお言葉を、全て録音した。

●昭和52年4月14日、重友先生、南総病院に御入院。
●昭和52年5月3日、日本文学研究会、常任委員会開催(報告会)。
●昭和53年8月11日、南総病院、重友先生の枕辺には、先生の御次男・純氏、笠間先生、深沢が見守っていた。重友毅先生は、午後1時48分、御逝去。
●午後、6時30分、朝日・毎日・読売・東京の各新聞社に、電話にて連絡。私の手帳のメモを利用して、平林先生が電話して下さった。
●昭和53年8月12日、午前9時、出棺偈。午後2時御出棺。午後3時40分、私は、高橋俊夫先生と、骨揚げさせて頂いた。

●昭和53年8月20日、午後2時~3時、告別式。
 葬儀委員長・山岸徳平、友人代表・谷川徹三、喪主・重友尚、日本文学研究会。
●告別式の準備、進行計画は、重友純氏と私で、立案・進行した。全て計画通りに実施することができた。打合せは、連日深夜に及び、池袋からは、タクシーで帰宅する日が、数日続いた。

●昭和52年2月6日、近世文学資料類従(勉誠社)の『可笑記評判』(上巻)を、重友先生の御自宅に持参した。ついでに、息子の亮治を連れて行き、先生に会って頂いた。
「……可笑記評判上を頂きましたこと、誠にありがたく存じます。……さてその節は可愛い盛りの亮ちゃんお連れになり、満足いたしました。年令の割にはしっかりしておられ、これから先が楽しまれます。……」
先生が、体調に不安を感じられる、直前のことである。

●重友先生と私との関係は、以上のようなものであった。私は、重友毅博士の、教え子であり、〔恩師〕とお呼びすることは許されるだろうか。
横山重先生と原秋津氏の関係を想起し、ふと、こんなことを思った。

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。