横山重先生の思い出

横山重先生の思い出

  • 2019.07.09 Tuesday
横山重先生の思い出
深沢 秋男

1、横山重先生との出会い

横山重先生との出会いは、『可笑記』の諸本調査から始まった。私は、昭和37年に法政大学を卒業して、北海道の函館の高校へ就職する予定であった。しかし、卒論の面接諮問で、指導教授の重友毅先生に大学院への進学を勧められ、針路変更をした。卒論は仮名草子の『可笑記』であったが、学生の頃から諸本調査をしていて、公共図書館・大学図書館の調査を優先していた。これらが、ほぼ済んだので、特殊文庫・個人所蔵本の調査に入った。

●昭和42年7月

犬山在住の、横山重先生に初めてお手紙を差し上げたのは、昭和42年7月21日である。その頃、法政大学の島本昌一先生のゼミを聴講して、『貞門俳諧自註百韻』の注釈を進めていた。その関係で、前田金五郎先生を介して、横山先生御所蔵の『貞門俳諧自註百韻』の書写本を拝借し、研究する機会を頂いた。調査の結果、この写本の書写者は、自註の部分をかなり省略していたので、俳諧の素養のある人物ではないか、という私見を横山先生に報告した。
その報告と同時に、横山先生御所蔵の、
①可笑記 寛永十九年版十一行本
②可笑記 万治二年版 絵入本
③可笑記評判 万治三年版
の3点の閲覧願も同封した。その時点での、調査済み諸本の一覧表と、諸本の状況も報告した。24日、折り返し御返事を頂き、閲覧を許可して下さった。原物は、前田金五郎先生宅にあったので、8月1日に、
①可笑記 寛永十九年版十一行本、五冊
②可笑記評判 万治三年版、十冊
の2点を拝借して、調査し、8月6日に御返却申し上げた。万治二年の絵入本に関しては、そのうち、蔵書の中から探し出して下さることになる。

●昭和42年9月

昭和42年9月4日、横山先生御所蔵の、
①可笑記 寛永十九年版十一行本
③ 可笑記評判 万治三年版
の調査結果の書誌的概略を、横山先生に報告した。先生からは、折り返し御返事を頂き、絵入本は、出てきたら、すぐ閲覧させて下さることになった。

●昭和43年5月

昭和43年4月、重友先生から、6月開催の日本近世文学会春季大会で、『可笑記』の諸本について発表するようにと指示された。大部分の本は閲覧・調査させて頂いていたが、未見のものもあり、極力未調査本を少なくするように努力した。近世文学会で発表する前に、横山先生に是非お会いしたいと思い、この旨、先生にお願い申し上げた。
昭和43年5月12日、犬山の横山先生の御自宅へお伺いし、初めて、先生と奥様にお会いした。和本の入った茶箱の山の中で、先生も奥様も和服姿であった。先生は温かく迎えて下さり、様々な貴重な御指導を賜った。主なものを整理してみると、次の如くである。
◎『可笑記』寛永十九年版、十一行本と十二本の行間の件は、君の意見でよいと思う(切り張りしたのかな?)。この2本については、十一行本が原本で十二行本はかぶせ彫りと思われる。また、現在の我々が思うほど、書くという事が難事ではなかったので、原本を敷写しして、それを版下にしたと考えられなくもない。
◎『可笑記』無刊記本・絵入本・『可笑記評判』の関係については、君の考えが妥当と思う。これまで多くの本を見てきたが、それらの例からみて、再版、三版する場合、必ずと言ってよい程、直前の版の本を原本にしている。その意味で、無刊記本は寛永十九年のものを使い、絵入本・評判は無刊記本を使ったと考える推測は妥当性がある。『住吉物語』でもそうだった。
◎絵入本に関して、水谷不倒氏の「此絵入本に、中本にて大小の二種あり。」(『仮名草子』)という説に関して質問したところ、水谷氏の長所は、多くの本を見ている事である。短所は、正確でない点であろう。その点で、絵入本については記憶ちがいかも知れない。水谷氏の浄瑠璃史は、ある一本に収録された目録に拠って書かれ部分があり、実物を見て書いたのではない点もある。その点は注意すべきであろう。
◎私の所蔵本の絵入本は良本で、今すぐ取り出せないが、近世文学会の発表のリストに加えて差支えはない。見付かり次第送って下さる、と申された。
◎岩波の『国書総目録』は、戦前解題書として出発した。他の執筆者は、その書物の内容を書いた。それに対して外部条件を書いたのが私であった。当時、梅君(有名な法学者、法政大学創立者・梅謙次郎の子息)が中心的な担当者で、外部条件を中心にすることに決まり、執筆者は次々に担当を断った。原稿料よりも調査費がかかったからである。私は教員を辞めて、アイウエオを引き受けた。それが、書名と所在のみを記した、今の『国書総目録』の前身である。
◎法政は、安藤、島本、それに君など、しっかりした人がいるが、どういう事か、実に頼もしいと思う、と申された。これは、もちろん、お世辞であることは分かっていたが、それでも、大変嬉しく、内心では、横山先生を見習って努力し、少しでも先生に近付きたいと願った。
赤木文庫のコウモリガサ
午後早々に伺い、辞去したのは夕方であったから、4時間か5時間、貴重な御指導を賜ったことになる。外に出ると雨が降っていた。先生は、これを使いなさい、とコウモリを貸して下さった。その夜は、名鉄グランドホテルに宿泊して、次の日、京都大学の佐竹昭広先生の研究室で、京大本の調査をさせて頂いた。
帰宅して、拝借したコウモリガサを見たら、黒の柄に「赤木文庫」と、千枚通しか何かで彫ってある。本来なら、御返却すべきであるが、横山先生に初めてお会いした記念に頂きたい、そう手紙でお願いしたところ、折り返し御返事を下さった。
「可笑記をたくさん ごらんになられたこと、前田君からも、敬
服と云って来ました。一つの本を徹底的に調べるやうな事は、従
来ない事でした。山田忠雄氏の「下学集」に次いで貴兄の可笑記か。
可笑記そのものも、人を得て大慶に思ひます。前田君、近く「竹
齋集」を出すよし。だん??仮名草子も、よき人によって 発表
されるやうになり欣快の至りです。……
私の洋傘 御所望との御事。よろこんで さし上げます。代品の
事など 御考へ下さるに及びません。……私は、傘を失ふこと、
頻々たり。で、それをも考へて「赤木文庫」と入れた。赤木文庫と
は、松本の南二里にある小山(百メートル)です。その北につづ
く地籍を「横山」といひ、古いトリデがあった。出自はそこです。
私の本を信大の図書館落成の時に展観する時、咄嗟に「赤木文庫」
として出した。私の恩師に島木赤彦あり。その中の二字にも当る
として、それを常用してゐるのです。……
五月廿二日          横山 重」
それから43年間、今も、私の原稿執筆デスクの左側に「赤木文庫」のコウモリガサは、かかっていて、私の研究振りを見守っていて下さる。
【写真 ①横山先生御夫妻、②横山先生の手紙、③「赤木
文庫」と彫られたコウモリガサ】

●昭和43年11月

昭和43年11月6日、横山先生から、可笑記 万治二年版 絵入本を速達にて拝受。7日、拝受のお礼の手紙を投函。
11月20日発行の『文学研究』第28号に「『可笑記』の諸本について」を発表し、抜刷を横山先生にお送り申し上げた。すぐ、御返事を下された。
「只今、お手紙と、文学研究二十八号の抜刷りを拝見しました。パ
ラ??と一見したのみですが、よく 御調べになりました。一本
についての調査としては前代未聞と思ひます。かういふ調査をし
た人があるといふ事その事だけで、後人を益するところ多し。大
兄としても、かういふやり方をやったその事だけで、むろんプラ
スでせうが、かういふ態度そのものが、今後 貴兄に必ずプラス
しませう。よくやりとげました。
十一月廿三日   484 横山 重」
勿論、過分なお言葉ではあるが、私の方法を、横山先生が認めて下さった事に対して、心から感謝した。
12月15日、横山重氏・赤木文庫蔵、万治二年版、絵入可笑記、調査。結果は横山先生に報告した後、『文学研究』第30号(昭和44年12月発行)に発表した。

●昭和44年1月

昭和44年1月、横山先生宛に、『可笑記』の調査結果と関連写真をお送りしたところ、1月14日付で御返事を頂いた。
「御手紙と 可笑記の写真、昨十三日夕方、つきました。御親切 あ
りがたう存じます。写真は、本に添へて、御厚意を 後年まで残
したく存じます。
可笑記を御やりになるに、もし、私の本を 御手許におく方よけ
れば、前田さんにたのんで、御手許へお持ち下さい。前田さんへ
御願ひして下さい。
今や 新規な仕事はない。誰が誠実な仕事をしたかといふ事だけ
が、眼目になってゐるでせう。
これが、最初で、これが終局と思ふ。貴兄の 第一歩を期待しま
す。
一月十四日        横山 重」
横山先生は、研究の根本に、〔誠実・真実性〕を置いておられる。「真理を求むる意志、自他を欺かざる心根。対人関係にありては言行態度と意志との一致せること」 私は、以後、この横山先生のお言葉を常に行動の根底に置いて研究を続けてきた。

2、絵入本『可笑記』の頃

●昭和45年7月

昭和45年1月、『近世初期文芸』第1号、『文学研究』第30号に対して、「大そう詳しい御調査の発表とて、敬意を表します。可笑記の順位は貴兄が決定したと思ひます。なほ本文掲出のことを 御すゝめ下さい。一月五日 横山 重」 というお言葉を賜る。
4月8日、田中伸先生から御連絡を頂き、『可笑記』の複製・校異・研究についての共同研究を打診された。重友先生の御了解のもとに、参加させて頂くことになる。校異の底本として、絵入本は横山重先生所蔵本、無刊記本は長澤規矩也先生所蔵本を使用させて頂くことにした。早速、横山先生に、お願いの手紙を差し上げた。先生からは、折り返し、次の如く御返事を頂いた。
「御手紙拝謝。可笑記を本格的にお出しになられるとの御報、大慶
に存じます。絵入本も御出しと。私の本は、この一週間の間に小
包郵便にして送ります。いつまでも御留めおき下さってよいので
す。御光来には及びません。
七月十六日          横山 重」

7月17日、横山先生御所蔵の絵入本拝受。早速、御礼のお手紙を差し上げた。先生から御返事。
「可笑記の万治絵入本、御落手の御事、御手紙拝見いたしました。
対校後、返すとありますが、本は最後まで、必要とするものです。
いつまでも、お留めおかれてよろしく、貴下の本ができた後に、
御返送ください。
七月廿四日          横山 重」
7月26日、犬山の横山先生宅を訪問。詳細を御報告し、種々の御指導を賜る。

●昭和45年12月

横山重先生から、昭和45年12月23日付のおはがきを頂く。
「この葉書、御手許へ届いた日から、万治刊の「可笑記」は、貴兄の
所有にして下さい。贈呈します。
私は この二三年、数氏の方々に、私の本を贈呈してゐます。昨
二十二日、古典文庫の吉田幸一氏来訪。その時、宛名だけ書いた
この葉書を吉田氏に示し、可笑記貴君に贈呈の事を吉田さんへ話
した。で、その日に決定。
御本できた時に、二、三部、私へ下さい。それで十分です。
四十五年十二月廿三日   横山 重」
【写真 ④⑤横山先生の葉書、表・裏 ⑥⑦絵入本『可笑
記』】
私は、即座に、横山先生宛に電報を打った。
「ゴ ホウシヨハイジ ユイタシマシタ。ヨコヤマセンセイノゴ
オンジ ヨウニフカクカンシヤモウシアゲ マス。フカサワアキ
オ。」
世の中には、このような事があるのだろうか。
実は、昭和40年9月12日、桜山文庫の所蔵者、鹿島則幸氏から、寛永十九年版十一行本を御恵与賜った。さらに、昭和45年4月29日、長澤規矩也先生から無刊記本を賜った。これは、結婚祝だと言われた。お金の無い私が、一所懸命『可笑記』の研究をしているので、三人の大先達が、御褒美に下さったのだと思う。御恩返しは、この作品と作者の研究を仕上げることであろう。そう自覚している。
平成17年、私は昭和女子大学を定年退職した。その折、2月16日の昭和女子大学・日本文学研究会で「仮名草子研究の思い出」と題して、最終講義をさせて頂いた。国文学科・日本文学科・図書館等の皆様、大学院生など30名ほどの方々が出席して下さった。私は、その場で、鹿島則幸、長澤規矩也、横山重の三先生から御恵与賜った『可笑記』3点は、私の研究がまとまった時、昭和女子大学図書館へ寄贈する旨を申し上げた。恐らく、この3本は、今後古書店に出ることは無いと思う。
★この3点は、新出写本と共に、昭和女子大学図書館に寄贈済みである。2019年7月9日。

横山先生御所蔵の絵入本には、先生の、次の識語が貼付されている。
「自分は此本を三つ買った。一つは村口。これは刊記のある巻末一
丁缺。八十円。又、一誠本も買った。八十円。これは完全本であ
ったが、虫入りが多かった。総じて、此本の紙、虫好むか。虫入
り本を見し事あり。然るに、昭和十九年、本書を得たり。極上本
なり。あだ物語 村口 千二百、不易物語弘文 千円といふに比
すれば、むしろ安しとすべし。500 昭和四年 杉本目 「絵
入風俗 可笑記 如儡子 帙入万治二年刊 チャンバーレン旧蔵
半五 百五拾円」
私は、この年の12月25日に、浅井了意の『可笑記評判』をタイプ印刷で自費出版で出したが、これに対しても、横山先生は温かい御返事を下さった。第二次世界大戦のさなか、先生は中世物語の本文を、コツコツと定着出版されていた。戦争が終って、若い研究者が帰って来た時、研究できるように、という思いだった、といつか話して下さった。百目鬼恭三氏が、古典作品のテキストを彫刻する学者、と朝日新聞で、横山先生の事を記していたのを思い出す。(昭和57年2月22日、山藤章二氏の似顔絵)

3、「近世文学資料類従」の頃

●昭和46年11月

昭和46年11月9日、前田金五郎先生より御連絡を頂き、碑文谷のお宅へお伺いした。今度、近世初期の俳諧・仮名草子などの影印本を勉誠社から出す事になった。その書誌解題を私にも担当させて下さるとのことである。前田先生は、収録作品のリストを示され、担当を希望する作品を選ぶように申された。『可笑記』は、田中伸先生と笠間書院から複製を出す予定であるゆえ、『可笑記評判』と『浮世物語』を担当させて下さるよう、お願い申し上げた。先生は、『堪忍記』も担当するようにと申されたが、この作品は、田中伸先生が適任ではないかと、御遠慮申し上げた。前田先生と打合せて、その日の夜、田中伸先生のお宅へ廻り、この件をお伝えした。このシリーズは、「近世文学資料類従」といい、横山先生と前田先生の企画であると、この時に知らされた。横山先生御所蔵の赤木文庫の原本を中心にして、最良の底本を使用する由。前田・横山両先生の御高配に感謝して、早速、横山先生に御報告を申し上げようとしたところ、先生から先にお便りを頂いてしまった。
「堪忍記と、江戸板「浮世はなし」と、貴兄に配当と、前田君の手紙。
貴兄やりますか。いそがしいが、一つのチャンスだから、おやり
なさい。安藤君、徳元を貰ひしとて、欣喜雀躍してゐる。笹野堅
のものより数段よくなるでせう。貴兄もフンパツして下さい。…
…今日(十一月十四日)東京古典会で、私は「いな物」に二十三
万円の札を入れる筈。及落は不明。遠近道印の貞享元年の江戸図
は八十五万まで入れた。これは取れるでせう。
十一月十四日       犬山  横山 重」
横山先生、前田先生の、この御配慮で、私の仮名草子研究の方向は大きく転換した。これは、研究生活生涯を通じての軌道修正であり、両先生に対して、心から感謝している。

●昭和46年12月

昭和46年12月3日、前田金五郎先生宅へ伺い、横山先生御所蔵の、次の2点を拝借した。
◎浮世はなし 江戸版 五巻五冊
◎浮世物語 京都 風月堂版 五巻五冊
以後、横山先生と連絡を取りながら、諸本調査を開始した。
●昭和47年3月

昭和47年3月18日、横山先生宅を訪問。今回も長時間に亙って、貴重な御指導を賜った。その折、先生の新しい御論文「遠近道印について」(『日本天文研究会報文』第5巻第1号、神田茂喜寿記念論集、1971)を頂いた。25頁の力作である。帰宅後、ゆっくり拝読したが、〔遠近道印〕という存在に対する、横山先生の尽きることの無い追尋の姿勢に圧倒された。
また、この時、先生は、深沢よ、美文を書く必要は無い。事実をツブツブと書きなさい。事実を正確に書き残せば、それは役立つものとなる。とお教え下さった。私は、学生以来、いずれかと言うならば、評論風を好んだ。しかし、この時以来、文章を一変した。
この日の昼食には、特製の鰻重を御馳走になった。鰻が二段になって入っていた。同行した妻も私も、生まれて初めての豪華な鰻重であった。長時間に亙って、御指導を賜る私の姿を、同席していた、先生の奥様も、私の妻も、一部始終を見ていたことになる。妻は、帰りのタクシーの中で、横山先生の奥様は美人ですね。先生は、学問に対して厳しいけれど、本当に純粋で、お優しい方ですね、と私に語った。私は、妻に横山先生を理解してもらえて、内心、幸せに思った。
昭和47年3月28日、横山先生から封書のお便りを頂いた。東京美術発行の、伊波普猷・東恩納寛惇・横山重編纂『琉球史料叢書』全5巻の内容見本が同封されていた。
「私は当地へ来て満十一年。当地へ来てから、四月になると、再
刊二十一、新刊九です。全部で三十冊。そして、印税もらへるの
は今度の琉球(五百部、一割)一冊だけです。新刊九の中で、七
冊は文部省助成出版です。無職三十一年で、全部「竹の子」で来た。
三月廿八日         横山 重」
頭の下がる、先生の生き方である。
【写真 ⑧⑨『琉球史料叢書』の内容見本】

●昭和47年5月

昭和47年5月15日、『浮世はなし』『浮世物語』『明心宝鑑』の解題原稿を前田先生にお届けする。
「浮世物語―浮世はなし の御原稿を前田君にお届け下さったよし。
大慶の至りです。又、その系統についての表記を私に御示し下さ
いまして、ありがたう存じます。よくやりましたね。
五月十八日夕  犬山  横山 重」

昭和47年8月20日、「近世文学資料類従 仮名草子編 12」『浮世ばなし 付 明心宝鑑』発行。

「昨日、勉誠社の池嶋さん、おいででした。で、天理の木村君が、
画面の大きさ、用紙の厚みなど羨ましいと書いて来た手紙を見せ
た。製版も見事なり。これからは売行を伸ばすこと大切と、当然
の事を申述べました。私は五部づゝ貰ふが……とにかく勉誠を盛
大にしたい。
御手紙で、浮世ばなし の解説の再校が出ましたよし。進行が早
いので、およろこび申上げます。校正を勉誠社に任せないで、最
後まで御自身でごらん下さい。森川さんの解題も上出来でした。
過不足なしの名解説でした。貴兄の博捜ぶりはすでに拝見したの
で、これ又、上出来と安心してゐます。
七月十二日夕方     犬山  横山 重」
【写真 ⑩『浮世はなし』はし書】

●昭和47年12月

「可笑記校異の原稿 一一五二枚を田中さんに差し出したと承りま
した。パスすると見て、笠間に早く着手するやう熱心に頼んで貰
ふこと。でないと、短い月日では本にならぬ。スタートを早くと
たのむ事。この事大切です。……即時スタートを田中さんから笠
間に申出て貰ひなさい。
十二月十四日   犬山   横山 重」

●昭和48年7月

「近世文学資料類従 西鶴編」では『新可笑記』を、仮名草子編第二期では『可笑記評判』を担当させて頂くことになった。
「近世文学資料類従で、可笑記評判と、新可笑記御担当と。御願ひ
致します。天理へおいでの次手に御来訪と。暑中で御疲れの御事
と思ひ、私宅へ御いでは省略して下さってよろしいと存じます。
勤労と、御勉強はよけれど、むりせぬ方よろしく、御家庭を大
切にして下さい。
七月十二日夕  犬山市大本町六五  横山 重」
7月20日、天理図書館の 新可笑記 2点 閲覧。金子和正先生、木村三四吾先生の御指導を賜る。21日には、大阪府立中之島図書館の新可笑記を閲覧させて頂き、犬山の横山先生宅へお伺いし、『新可笑記』の諸本に関する中間報告を申し上げ、御指導を賜った。

●昭和48年11月

昭和48年11月28日、「近世文学資料類従 西鶴編 11」『新可笑記』の発行は、昭和49年10月25日であるが、48年11月28日に、解題原稿を見て頂き、次のような御返事を頂いた。
「新可笑記拝見。よくやってあります。敬服します。挿絵を注
視して下さったこともありがたい。吉田さん、御本を出して
下さったこと、感謝。御自身の方で、本 出してゐる御方ゆ
ゑ、殊にありがたい。この事 銘記すべし。
十一月廿八日夕    横山 重」
実は『新可笑記』の諸本調査を進めていて、公共図書館所蔵本の調査が済み、最後に、吉田幸一先生の御所蔵本を閲覧させて頂いた。昭和48年9月1日だった。ところが、吉田先生所蔵本が、最も良い本であることが判明した。私は、横山先生に御連絡して、この解題担当は、吉田先生にお願いしたい、と担当を辞退した。この旨を横山先生が吉田先生に打診して下さった結果、予定通り、私に担当するように、御指示があった。そのような経緯があって、「この事 銘記すべし。」という、お便りを頂いたのである。この閲覧・調査の折に、吉田先生から、長時間に亙って様々な御指導を賜り、以後も大変な御高配を賜った。

4、『江戸雀』の頃

●昭和48年9月

「近世文学資料類従 古板地誌編」は、横山重監修である。私は、昭和48年9月11日、横山先生から封書を頂いた。古板地誌、28点のリストと、お手紙が入っていた。
「勉誠社で古板地誌の複製をやると。古板地誌は私に上本あり。九
分通り私の本でやれる。その解説者に、○○、○○、○○、○○、
貴兄を想定してゐる。貴兄は何と何を希望するか。順をつけて、
三、四点を挙げて下さい。……
九月十一日          横山 重」
昭和48年9月20日、葉書拝受。
「只今、速達の御手紙拝見しました。今日は○○君も来訪と。そ
こで、皆さんの希望のもの出揃ひますから、なるべく、そのやうに
考へながら、調節して申上げます。
尚、勉誠社が何と何をやるか、未決定です。原案を私が作って、
前田君の意見を加へて、勉誠社に話します。実現は少しおくれる
でせう。
九月二十日          横山 重」
御検討の結果、私は『江戸雀』の担当を指示された。
昭和48年10月22日、小川武彦氏が、横山先生の御所蔵本、『江戸雀』12巻、後印本を持参して下さった。

●昭和49年4月 横山先生伊豆へ御転居

「移転お知らせ
私は今回、勉誠社々長池嶋氏の厚意により、同氏の伊豆伊東の別
荘に移転いたしました。同氏別邸は、太平洋に面する国立公園の
中の自然公園の一隅、私の住宅とするには、もったいない程の立
派な別荘であります。周囲に樹木多く、しかも日本的の花木が多
い。ありがたい。私の終焉の地といたします。
伊豆伊東市赤沢うきやま浮山町一六八ノ三四
伊豆自然公園内  殖産○○号  横山 重
TEL 一五五七―五三―〇〇〇〇」
余白に、「江戸雀の全題簽 私の許に写真あり。さがして送ります。原本は藤園にある。必要ならば借り出してやる。」と書き込みあり。
昭和49年4月25日、横山先生より葉書を頂く。
「江戸雀の初印本と再印本の差を見て貰ひたい。私から藤園さんに
頼んで、本を池嶋宅まで送ってくれと云って見る。それ不可なら、
貴兄が藤園堂を訪問せねばならぬ。
藤園本の題簽と奥の写真は勉誠へ送りました。――江戸雀は
文字が小さいから、本文を大きく出す工夫をしたい。――本文
の中で、両者の差のある所は、再印本のその部分の写真も出し
て、解説の中で示す方よし。
四月廿四日          横山 重」
昭和49年5月26日、速達葉書を頂く。
「藤園堂さんから電話あり。六月はじめに、人をよこして、本を私
宅へ届けると。(郵送をきらふ由)本が来たら即時、貴兄か、親
しい人で、信頼できる人を私方へよこして下さい。本を渡します。
(本を人に渡すこと、目下、極秘)このほんを自宅で丁寧に見れ
ば、他の本は一見するのみでよろしいと思ふ。有峰書店(中央区
銀座五ノ十ノ十三)で、江戸地誌叢書十巻を出すと。内容見本を
見た。第一巻に「雀」を入れて、師宣撰画とあり。やはり後印本也。
しかし、雀は可なり後らし。
六月廿一日夕        横山 重」
【写真 有峰書店『江戸地誌叢書』の内容見本 〔11〕〔12〕】

■昭和49年6月7日、横山先生宅訪問。次の5点を拝借した。

1、江戸雀 初印本 十二巻十二冊
武州江戸之住 近行遠通撰之/同絵師 菱川吉兵衛/延宝五年丁
巳仲春日 江戸大伝馬三丁目 鶴屋喜右衛門板
2、江戸雀 後印本 十二巻十二冊
武州江戸之住 絵師 菱川吉兵衛/延宝五年丁巳仲 日江戸大伝
馬三丁目 鶴屋喜右衛門板
3、新板 江戸大絵図 本 寛文十庚戌年 十二月吉日/
遠近道印(花押)/日本橋南二町目 経師屋加兵衛(印)
4、東海道分間絵図 元禄参歳庚午孟春吉旦/作者 遠近道印(花押)/絵師 菱河吉兵衛/大門通新大坂町 板木屋七郎
兵衛板
5、改撰 江戸大絵図 一分十間積/遠近道印作 元禄九年正月吉日 遠近道印作(花押)/大門通田所町 板屋弥兵衛板
借用書は必要ないと申され、自分の手帳にメモしたのみであった。横山先生は「それだけあれば、家が一軒建つからね。決して電車の中ではひろげるナ、家に帰ってゆっくり見なさい。」と申された。
千葉の家に帰って、早速、初印本をゆっくり閲覧した。これが師宣か! と浮世絵の祖・モロノブの本物に出会って、目が開かれた思いがした。『可笑記』絵入本の調査以来、師宣風には悩まされていた。吉田●二氏の「浮世絵研究会」へも入って、指導してもらったが、判然としなかった。この初印本『江戸雀』に出会った時の感動を基として、学生に師宣の浮世絵を説明する時には、この瞬間の印象を念頭において述べてきた。犬小屋入りの江戸大絵図を八畳間一杯にひろげて調査出来た事にも感謝した。学生時代、日本美術史の授業で見せて頂いた『東海道分間絵図』に、再度廻り合えたのにも感激した。拝借した原本は、入念に調査させて頂き、12月21日に御返却申し上げた。
【写真  1、江戸雀、初印・後印各2、計4 ⑬⑭⑮⑯。
2、新板江戸大絵図 ⑰、3、東海道分間絵図 ⑱⑲、4、
改撰江戸大絵図 ⑳】
昭和49年6月21日、葉書を頂く。
「江戸雀の御調査 感謝。貴説、近行遠通が初印本に手を入れし
かといふ事、私、賛成。近行遠通の名を削りしも、彼の発意か。延
宝八年の「江戸方角安見図」にも、作者の名を出さず。当局の意向
をソンタクして、表へ顔を出さぬのかも知れぬ。尚、御調査願ふ。
――内容見本には、 ―最―上―本を出す位でよいか。
六月廿一日夕         横山 重」

昭和49年8月2日、葉書を頂く。
「江戸雀、初印本と再印本の大差のあるところ、再印本の方から、
三、四枚の写真を、解説のところで出して、初印本の頁を記して、
対照できるやうに、御配慮ありたし。○再印本も近行遠通の手を
経てゐるとの御説は、傾聴に値ひす。彼は、延宝八年、江戸方角
安見図では作者名を出してゐません。風向きの悪いのに気づいた
か。○しかし、私案に拘らず、貴説を通して下さい。
八月一日           横山 重」
昭和四十九年八月十七日、『江戸雀』初印本と再印本の異同関係、その他、解説の内容に関連して、詳細な報告を横山先生に申し上げた。
昭和49年8月20日、葉書の返事を頂く。
「御手紙ありがたう。方針はすべて貴案のやうでよろしく。削除の
ところは、撰者近行遠通の意志によるものらしとの貴説よろしき
か。江戸雀、はじめて真相を得るらし。その旨は、池嶋氏にも云
って、頁数の多くなるのを恐れるなと云って下さい。或いは二冊
にする方よきか。原本を私に返すのを急がずともよい。今はただ、
正確で行き亘る事のみを望む。健康が大切。あまり根をつめる事
勿れ。
八月廿日            横山 重」

●昭和50年2月6日 葉書を頂く。

「勉誠の「定本地誌」に「江戸雀」の解説を渡しませんか。……○その
場合、原本を出すべきか。(目下、私方にあり)……○年度末で
御多忙でせう。ハガキでよく、簡単な手紙ください。御用は私に
云って下さい。御指定のやうに致します。……
二月六日         横山 重」
昭和50年2月17日、返事の葉書を頂く。
「御手紙拝見しました。御勤務の方、大そう厳しいらし。御所労察
し入ります。――江戸雀は御予定のやうにてよろしく。原本。御
入用の場合は、ハガキ下さい。……
二月十五日          横山 重」
昭和50年8月13日、『江戸雀』解題原稿脱稿、66枚、勉誠社編集部へ渡し、横山先生に御報告。9月22日、初校出校、横山先生にコピーを送る。
昭和50年9月24日、横山先生より返信。
「江戸雀の解説の校正コッピー拝受。返送せずともよしとあり、私
許に止めておきます。
大兄の記述、すべてよく、過、不足もなく、公正と思ひました。
遠近道印作の地図は、私の書いた後に、改撰 江戸大絵図 元禄
二年二月 松屋板といふものを得ました。これは、延宝四年板と
同じく、一分十間ツモ積りの地図を、その後の変化を入れて、改撰
したものです。私は四十年かゝって、これだけを得たのです。
九月廿四日          横山 重」

●昭和50年12月13日 『江戸雀』発行。

昭和50年12月13日、近世文学資料類従・古板地誌編・9巻・江戸雀 発行。本の奥付は、昭和50年11月23日発行、となっているが、実際は12月13日に、編集の中村氏が、今、出来ました、と4冊届けてくれた。1ヶ月ずれたのかも知れない。
私は、その日に、長澤規矩也先生にお届けして、これまでの経緯を御説明申し上げ、失礼を謝罪した。
実は、長澤先生は、前年の5月に、有峰書店から「江戸地誌叢書・十巻」を企画し、その中に『江戸雀』を影印と活字翻刻で収録すると公表されていた。これを知った横山先生は、有峰書店のものは、やはり後印本のようである。しかし、それよりも、こちらは先に出すように、と解説原稿の脱稿を急ぐようにと指示された。私は、横山先生と長澤先生の板挟みの状態になってしまった。いずれも尊敬している大切な先生であった。私は、この間、長澤先生には一切お会いしないようにして、解説原稿を書き上げた。万一、お会いしたら、横山先生の、近世文学資料類従・古板地誌編の事をお話する可能性もある。それでは、横山先生に対して申し訳ない。私にとって、この1年間は厳しい日々の連続であった。
そんな経緯があって、今日になったのである。私は、事実を説明して、お詫び申し上げた。長澤先生は、勉誠社版『江戸雀』を広げて、御覧になり、「良い本だ。良くやった。こちらはもう出さなくていいね。」と申され、この間の私の失礼をお許し下さり、本の内容と出来映えを褒めて下さった。
長澤規矩也先生責任編集の有峰書店「江戸地誌叢書」は、第1期全10巻別巻2冊の予定でスタートしたが、平成23年現在、次の3冊が発行されている。
巻4(1976年)、巻5(1974年)、巻7(1974年)。
次の日、伊東の横山先生のお宅へ伺い、勉誠社から預かった本をお届けした。先生は、「良くやった。」と労いのお言葉をかけて下さり、大変喜ばれた。
この『江戸雀』は、1冊の複製本ではあるが、内容的には初印本を底本に使用して、本当の著者を解明した画期的な本である。私の解題は、これまで述べたところからも明らかな如く、初印・再印の関係を解明する過程で、常に、横山先生の御判断を頂いて進めたものであり、言ってみれば、先生と私の合作解題でもある。その意味でも、この貴重な資料の担当者に選ばれた私は幸せであった。
ただ、私としては、『井関隆子日記』や『可笑記大成』や『新可笑記』などの調査・研究と平行する仕事であり、しかも、尊敬する、お2人の先生の御意向の板挟みの中で進めた、調査研究であり、忘れることの出来ない1冊である。
【写真 〔21〕 古板地誌編9『江戸雀』の扉】

●昭和50年大晦日 永年の願ひ

「御手紙ありがたう。永年の願ひ(昭和九年からの)、遠近道印―
近行遠通説、大兄によって、かなり明白にして下さった。やがて、
通説となりませう。今まで、幸田成友先生、木村捨三先生に説明
して来たが、ついに御賛成なかりし。
昭和九年に、果園文庫本の江戸雀を見て、思ひついた。私は十五
年に笹川旧蔵本を得て、愈々その感を深くした。神道集と曽我(共
に真名本)の文章の一致をたしかめたのもその頃です。両本をう
つしたからです。その頃、一ばん窮迫してゐた時です。
(50年大晦日の日に記す)
横山 重」
●昭和51年 年賀状

「謹賀新年          昭和五十一年元旦
皆さまの御健勝と御繁栄を祈ります
降って私こと、この一月で、満八十歳になります。犬山時代、陋
屋に閉居してゐましたので、足腰がきかなくなり、色々の病気を
しました。が、一昨年、当地に移り住み、広い樹海の中、きれい
な空気と太陽の光のお蔭で、だんだんと丈夫になりました。
そこで、昨年の三月末、島木赤彦先生の五十年忌に際し、人々に
助けてもらひ、下諏訪の先生のお墓へお詣りして来ました。永年
の念願がかなひました。
恩ある人々、おほむねすでに、逝きませり、あはれ我は、まだ生
きてをり、アル中、足萎へにしてふる里の、信濃の国の、恋ほしけ
れ、常念のやま、鍋かんむりの山
窓ぎわに、スヽキと野菊を、植ゑしかば、朝戸をあけて、見れば
ともしき
伊東市赤沢浮山町○○○―○○
殖産住宅○○号 池嶋別邸内
横 山  重
愛子」
●昭和51年7月

「御手紙と、雑誌「文学研究」七月号 43号を下さいました あり
がたう。田中宏氏の「江戸雀」の紹介は、丁寧で、要点を得てゐま
す。その上、私の名をあげて下さったこと、恐縮の至りです。
……………
法大の近藤先生、御死去と。エライ先生、世に知られずして、御
逝去。されど、ゴク少数の学徒を導き玉ひし。
七月九日           横山 重」

●昭和53年11月 『書物捜索』刊行

昭和53年7月11日、横山先生から、速達の長文のお手紙を頂いた。
「私事、昨年一月からチョウ腸が痛み、大いに難義しましたが、東上 順
天堂病院で開腹手術を受け、十二月退院しました。老齢とて、躰
力回復はおくれてゐますが、大体、順調のやうです。二週間に一
度づゝ、伊東の国立病院へ通ってゐます。私方の家内も、昨年一
月から、頸柱脳底血行不全症とかで、フラフラやまひ病で、伊東の国
立へ入院したりしましたが、今はやゝよく、これ又、一週一度位、
国立へ通ってゐます。
……………………
近く、角川から、私の四十年前の雑文「書物捜索」上下が出ます。
私はこれは、出したくなかったが、角川が強行し、鈴木棠三、貴
志正造、森川昭が編集して、本にする由。秋口になるか。寄贈
名簿(五十人)を書き、その中に、貴兄の住所氏名も記しました。
これは、いくらか私の主観的な方面も出てゐるらし。今ごろ、
はぢ恥の上塗りのやうなものです。それも、なかった事ではない
から、やむを得ない。
七月十日             横山 重」
『書物捜索 上』A5判、426頁、口絵 22頁、昭和53五年
11月10日、角川書店発行、定価3900円。
『書物捜索 下』A5判、558頁、口絵 24頁、昭和54年4
月5日、角川書店発行、定価4600円。

「『書物捜索』の著者は、類稀な蔵書家であり、愛書家だ。ただ、
世間の書痴の徒との違いといえば、その等身大の業績だろう。神
道集・本地物から全室町物語の本文化へ。続いて琉球神道記・琉
球史料。さらに連動的に説経・古浄瑠璃へと全活字化の成果を生
みつつある。活字化を了した本文千余点。驚くべき精力である。
まさに、「正しい本文以前に正しい研究なし」という年来の信念の
見事な実践である。それらの善き底本を得るための書物捜索の旅
路五十年。その間、巡り合った書物と人間への、これは、自由か
つ克明な会見記である。」
(貴志正造氏のオビの文章)
私は、この大著を拝読して、横山重先生に、長年に亙って御指導を賜った、自分の研究生活は、恵まれたものであった事を再確認して、心からの感謝を捧げた。
【写真 〔22〕〔23〕 『書物捜索』上・下の箱】

5、横山重先生御他界の頃

昭和52年から55年にかけて、近世文学資料類従・仮名草子編第2期の『可笑記評判』(上・中・下)や『井関隆子日記』(上・中・下)の校注に忙殺されて、横山先生には、折々の御報告などを申し上げる位であった。ただ、この間、先生は体調を崩されて、御入院などをされ、その御様子は、原秋津氏御夫妻から伺っていた。

●昭和55年10月8日、横山重先生 御逝去

昭和55年10月9日、朝7時、横山先生の家からお電話があり、横山重先生は、昨8日午後3時15分に、御自宅で御逝去なされたとのこと、お知らせ下さった。84歳8ヶ月の御生涯であった。お電話を下さったのは、たぶん原秋津氏だろうと思う。また、昼頃には、渡辺守邦先生からもお電話を頂いた。原秋津氏の記録(『横山重先生 ご終焉のころ』)によれば、
「死亡時刻、午後三時十五分。
遂いに、総てが終ったのだ。急に、無性に淋しくなる。
医師の死亡診断書には、
急性気管肺炎
其の他の状況 肺気腫
となっていた。」
と記されている。原氏によれば、9日、ごく近しい人だけで、お通夜をされた。横山先生の御意向を察して、祭壇を飾ったり、戒名を付けたりはせず、家の周りの野花を採ってきて、御霊前に捧げたが、すすき薄の花が先生にはよく似合ったという。
私は、10日(金、仏滅)の告別式に参列して、横山先生に対して、感謝とお別れを申し上げた。納棺された御霊前に、松本隆信氏・村上学氏・雲英末雄氏が読経を捧げた。お棺の中の、横山先生は清楚な花々で埋められていた。
横山先生が、寝たきりになって100日の余を過ごしたというベッドの前には、大きな日めくりが掛かっていた。先生は毎日、1枚ずつめくって、1日1日、生を全うされたと思う。しかし、8日はめくられず、そのままだった。私は、原氏の許可を得て、8日・9日の分を頂いた。横山先生は、8日まで御在世であったが、この日めくりをめくることは出来なかった。私は、今も、この8日・9日の分を大切にしている。
午後1時、御出棺。伊東市立火葬所で荼毘に付された。私は、野田寿雄先生と、横山先生の骨揚げをさせて頂いた。
【写真 〔24〕〔25〕先生使用の日めくり2枚】
「この度は、横山重 死去に際しまして、一方ならぬ御厚志を賜り
ましたこと、有難く御礼申し上げますと共に、生前の御芳情を重
ね重ねお礼申し上げます。
遺骨は故人の意志に従いまして、暫くの間、好きな本と共に、自
宅に安置することにいたします。なお分骨は、生地松本で、近親
者によつて法要埋葬いたしました。
右、御礼旁々、御諒承のほどお願い申し上げます。
昭和五十五年十月   日
伊東市浮山町○○○―○○
横山  愛」

●昭和56年3月31日 納骨供養

「先般、故 横山 重葬儀の際に賜りました御香華料の一部で、
左記のお寺に新しく墓石を建て、遺骨を納めさせて頂くことにい
たしました。改めて御礼申上げます。
墓所の徳正寺は、故人一生の仕事であった、室町時代物語の校
訂刊行の協力者でいらっしゃる、松本隆信様が十六代目の住職を
されておられます。横山にとっても縁の深いお寺でございますの
で、故人も、ここで安らかに永眠できることを、喜んでくれるこ
とと存じます。
つきましては、来る三月三十一日(火)午前十一時三十分より、
納骨供養いたしたく存じますので、御多忙のところ恐れいります
が、御参りいただければ有難く存じます。
昭和五十六年二月  日
横山 あい」
私は、この日、仕事の関係で、都合がつかず参列することが出来なかった。3月22日、息子を連れて、松本隆信先生の徳正寺に伺い、横山先生のお墓にお参りした。
横山先生が犬山から伊東へ転居されたのは、昭和49年4月である。その8月に、私の息子が生まれた。先生は、大変喜んで下さり、後日、伊東へお伺いした折、息子の写真を先生にお見せしたら、おお、可愛い、可愛い、と申され、その写真を懐に入れてしまわれた。私は、チラと見て頂く積りだったので、大変光栄の事に思って、心から感謝申し上げた。そのような経緯もあって、息子にも、お参りさせたかったのである。
【写真 横山先生のお墓の写真〔26〕】

●昭和56年6月 横山あい様 住所変更

昭和56年6月14日、原秋津氏より連絡があり、横山先生の奥様は、伊東市浮山から茅ヶ崎へ移転された。
茅ヶ崎市南湖 七―一二八六九 太陽の郷
以後、ここの住所へ連絡した。

●昭和57年12月

「御真情のこもったお手紙ありがとうございました。
故人に対しての変らぬ御心持と、また私についての御心遣ひ、お
電話番号まで、お書き添へ下さいました事など、拝見して涙が出
ました。
誠実といふこと、偽りの多い今の世では、認められることも少く
て、怒りを覚えられることが多いことゝ存じます(横山の場合も
そうだったと思ひます)が、まことに立派なことゝ存じます。ど
うぞ胸を張って雄々しくお過し下さいますようお願ひ申上げます。
……亮治君のお写真と、お墓参り下さいました折の写真、嬉しく
拝見しました。写真箱の中から、生後三ヶ月とある、赤ちゃんの
亮治君の写真が出て来ました。二枚の写真を置いて見て居ります。
……
十二月三十一日              横山あい」

●平成3年7月 横山あい様 御逝去

平成3年7月28日、奥様の実兄の御長男、星野彰氏より、横山重先生の奥様、横山あい様の、御逝去と納骨式の御連絡を頂いた。
「長年にわたりご厚誼にあずかりました 叔母 横山あいは昨年来、
東海大学大磯病院で入院加療中のところ 七月六日(土)二二時
一五分 急逝いたしましたので謹んでお知らせいたします。
享年八十九才でありました。
…………………
通夜 七月七日(日)一九時  於 茅ヶ崎カトリック教会告別
式 七月八日(月)一〇時 於 茅ヶ崎カトリック教会
モーレ神父 司式
…………………
叔母は、昨年モーレ神父により洗礼を受けていたため、カトリッ
クでの葬儀を執り行いましたが、叔父横山重の眠る東京の墓所に
入ることが本人の希望でもありましたので、次のとおり 仏式で
四十九日並びに納骨法要をいたしたく、御案内を申し上げます。
ゆかりの方々にお集まり願えるのも最後の機会かと存じますので、
ご多忙とは存じますが、お繰り合わせ上ご参会いただき、生前を
偲びたくよろしくお願いいたします。
日時 八月一八日(日) 一一時~
場所 浄土宗 徳正寺
御住職 松本隆信 師
平成三年七月二十八日  喪主 星野彰(横山あいの実兄の長
男)」
横山重先生の奥様の、四十九日及び納骨法要は、平成3年8月18日、松本隆信先生の徳正寺で行われ、生前、お世話になった方々が参列された。私も参列して、奥様を偲んだ。ただ、原秋津氏御夫妻のお姿は無かった。

6、横山重先生御他界の後 ―原秋津氏のこと―

横山重先生は、昭和55年10月8日御他界、84歳8ヶ月であった。先生の奥様は、平成3年7月6日御他界、89歳であった。
原秋津氏に初めてお会いしたのは、年月は不確かながら、伊東の横山先生のお宅であった。横山先生から、原氏御夫妻を紹介して頂いた。原氏は、横山先生と同郷の長野出身で、私は山梨であったが、横山先生を尊敬申し上げている点では、私と全く同様であった。原氏は、トーシンユニホームという会社を経営しておられ、研究者ではないが、横山先生との付き合いは非常に長かった。そのような関係から、私は原氏と交流をもつようになった。
殊に、横山先生の晩年には、何かにつけて、原様御夫妻が、伊東に伺い、御世話をしておられたので、私は、横山先生御夫妻の御様子を原様から教えてもらう事も度々だった。そのころ、横山先生の病状も一進一退で、原様御夫妻が連日のように、先生宅に通っておられた。私は、電話で連絡を頂くこともしばしばであった。手紙のやり取りも多かった。原様の手紙は、ほとんど巻紙に毛筆で見事なものであった。

●昭和56年7月 「横山重先生 ご終焉のころ」
昭和56年7月11日、原秋津氏から、「横山重先生 ご終焉のころ」という、400字詰原稿用紙、50枚の原稿を頂いた。これは、昭和55年4月6日から56年3月31日までの、横山先生と奥様に関する詳細な記録であった。私は原稿を熟読して、原氏に御礼を申し上げ、この原稿の処置に関して相談した。事実を記録した内容は貴重であるが、これを公表するか否かについては、実在の関係者もいるので慎重に進めることで了解を頂いた。この原稿は、現在も私が保管しているが、執筆者の原秋津氏も原氏の奥様も、既に御他界なされ、御子息にも連絡してみたが、公表は、やはり故人の考えもあるので中止することになった。
【写真 「横山重先生 ご終焉のころ」の写真 〔27〕】

●平成6年8月 『横山重自傳(集録)』

平成6年5月27日、原氏より『横山重自傳(集録)』の校正が出たので宜しくと連絡があった。その前から、横山重先生の編著書に散見する「後記」等の文章を1冊にまとめて刊行したいと、計画されていた。私も賛成して、校正もお手伝いした。
9月8日、原氏から『横山重自傳(集録)』を拝受した。早速、原氏と相談して、この本の寄贈先を検討した。原氏からは、すでに16名の方々に贈呈した由で、そのリストも頂いたので、私から、国会図書館・国文学研究資料館・主要大学図書館、横山重先生関係者などの追加贈呈リストを作成して、原氏と検討して、合計60部を、私から発送した。
「拝啓 一月も半ばを過ぎましたが、館長先生をはじめ、皆様方には御多忙の毎日をお過ごしのことと、お察し申し上げます。
さて、昨年、原秋津氏によって、『横山重自傳(集録)』が刊行されました。
原氏は、横山先生とは長年に亙って親しく交際を重ねてこられた方です。殊に、先生晩年の伊東時代、先生御他界後の奥様のことなど、親身も及ばぬお世話をしておられました。
横山先生は、昭和五十五年十月八日、八十五歳で他界されました。十三回忌の昨年、原氏は本書を編纂刊行されました。この貴重な本書を、主要図書館に献呈したい、という私の希望を受入れて下さいましたので、お送り申し上げます。なお、手違いにより、大変遅延しましたがこの点、御了承下さいますよう、お願い申し上げます。原氏の御住所は左記の通りです。受領された旨のおはがきを、お願いできますなら、有り難いと思います。
113 東京都江戸川区南小岩〇―○―○
原  秋 津 様
右、御報告とお願いを申し上げます。当然のことですが、私への返信は御無用に、お願い申し上げます。          敬 具
平成七年一月十八日              深沢秋男
○○○○図書館御中」

『横山重自傳(集録)』
目 次
神道物語「後記」 昭和三六・五・一二(一九六一、六五歳)… 一
竹林抄古注「後記」 昭和四三・五・一一・二四(一九六八、七二歳)
… 一二
校訂にうちこんだ在野の第一人者……(俵 元昭)………… 五六
――書誌学者 横山しげる重君――
〈対談記録〉琉球史料をめぐって……(外間守善)………… 六七
年賀状 昭和五二・元旦(一九七七、八一歳)……………… 八七
患者横山重の病状、病歴(八一歳)…………………………… 八八
書物捜索「付記」昭和五三・五・末日日記(一九七八、八二歳)九〇
奥 付
横山重自傳(集録)
平成六年八月三十日 発行
編 者  原 秋津
133 東京都江戸川区南小岩〇―○―○
製 作  岩波ブックサービスセンター
原秋津氏と私との交流は、その後も続き、私は、横山先生のことを、事実だけでも記録して欲しいと、お願いしたが、それは、学問に関係のない私の任ではないと、引き受けては下さらなかった。平成6年、横山重先生の十三回忌に、『横山重自傳(集録)』は刊行されたが、横山先生御他界の後、原氏と交流のあったのは、松本隆信先生と私のみとなり、松本先生御他界の後は、私1人のみとなったと語られていた。
私は、横山重先生に廻り合えた人生に心から感謝し、横山先生を介して、原秋津氏と交流できたことに、深く感謝している。
【写真 〔28〕『横山重自傳(集録)』表紙、 〔29〕原氏の手紙】
(平成23年12月12日)

【注】本稿は、『芸文稿』第5号(平成24年4月1日発行)に掲載したものである。縦組を横組とし、表記などを一部改めた。なお、掲載の写真は全て省略した。
●2019年7月9日 改訂

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。