私の第一論文 『可笑記』と儒教思想

私の第一論文 『可笑記』と儒教思想

  • 2019.08.03 Saturday
私の第一論文  『可笑記』と儒教思想

この作品が主として儒教的教義に立脚して書かれているということは,水谷不倒氏以来諸家の指摘するところであり,あえてここで取り上げる必要もないのであるが,しかしそれらの大部分は概説の域を出るものではなかった。このような中にあって,昭和二十九年三月号の『国語国文』誌上における寺谷隆氏の「仮名草紙に於ける庶民教化の一断面」と題する論文は,作品に即して具体的に論を進めているという点において,またそこに示されたものが,従来のそれとかなり異なる意見の提示である,というこの二つの点においてこれを避けることはできない。そこで私はこの論文との係わりにおいてこの作品と儒教思想との関連について考えてみたいと思う。

寺谷氏はまず,巻三の37を取り上げて「『可笑記』は仁義を規定して「仁とは慈悲ある事、義とは義理をたつる事」であると言う。(巻六の十二)然し作者が此処で戒めて居るのは吝嗇と無情な態度に過ぎず、敢へて儒教道徳の強調とは言ひ難い。」といっている。このことはこの段に限るならば妥当であるとも思えるのであり,そしてさらに「仁義の勇者血気の勇者」についての一段(五の76)における仁義が,戦国時代から受け継がれた主従関係を中核とする生活の道義性としての仁義であることも明らかであるが,問題なのは,このような段のみをとらえて『可笑記』の仁義規定を評価してしまっていることである。この作品において仁義は単にこのような面からのみとらえられてはいない。

たとえば巻二の36では,大名が鷹の餌のために多くの犬を殺す現実を見て「しかるをめたところさん事何かよからん、人はたゞかりそめにも、じひありたき事也。」と批判し,さらに巻五の75では「むかしさる人の云るはそれ万の物を、かはゆく思ひ、てうあいせんにも段々次第あるべし。先父母をはじめ、主君妻子兄弟親類他人畜類鳥類虫のたぐひ、草木まてをも、のこす事あるへからず。先父母をいとおしく愛して、其あまりをもつて、主君をいとおしく愛し」といっているが,このように博く人物を慈愛するという意見は,この他にも作中かなり色濃く反映しているのであり,さらにここで見のがしてならないのは,その愛にも段々次第があるとして,まず父母を愛し,その余りをもって主君を愛すべきだといっていることである。ここでは明らかに,主君よりも父母,つまり忠よりも孝が優先しているのであり,これはあくまで忠優先を主張する日本特有の思想と対立するものであり,そしてこれが,儒教的思想であることはこれまたいうに及ばないと思われる。また巻五の56では慈悲を施すにも時と場と相手によるという相対的な考えを提出し「おそれながら、此こゝろを、おしひろめて、じひの御がつてんまいり候はゞ、天下国家を、おさめ給はん、大慈大悲も、御あやまり、有べからず。」と結んでいるのであるが,この作品において慈悲は常に治める者に対して説かれているのであり,これは仁が常に君子に対して説かれることの強い儒教と決して無関係ではないと思う。

また作者は「義理をたつる」とは,主君において,まず無欲であり,善き臣下を用い,似合い似合いの役を与え,直なる法度を定めることである(三の41)としているが,ここで注意されることは,仁義をいう場合「(主君が)よくしんふかく、仁義をしり給はねば、又下々もよくふかく、仁義をしらず」(三の8)のように常にそれと並列して無欲でなければならぬことを説いている(二の34・三の4・39・四の16・五の51・89)ことである。これは「子◇言利。与命与仁」(『論語』子◇篇)あるいは「孟子対曰。王何必曰利。亦有仁義而已矣。」(『孟子』梁恵王・上)などの孔孟のことばでも解るように,儒教においてもかなり一貫したものであり,この両者の共通性は「されば孟子にも、仁者は富まずと見えたり」(一の35)のように儒教典籍に拠ったところのことば(二の43・三の8・12・四の10・16・五の53など)が,単に語句の引用や故事の紹介の域にとどまらないことの証左になるものと思われる。このようにみてくると『可笑記』における仁義は,「敢へて儒教道徳の強調とは言ひ難い。」一面があるにしても,かなり儒教的要素を含んだものといわなければならない。

さらに寺谷氏は続けて「又『可笑記』は度々天道を論じて居るが(巻一の二十)その天道観は夙に武士階級に存して居た絶対者としての天道信仰と余り距って居らぬ。」といっているのであるが,このこともまた作品全体に散見する作者の天道についての意見を合わせみるとき,そういい去ることはできない。

巻一の20において作者は「不行儀沙汰のかぎり」をした者は「御家めつばうあやう」いのであるという。これは無道の行いをした者は必ず天罰を蒙る時がくる,そしてそれは天道の働きである,とみる戦国武士間にみられる天道観と同じ発想をもつものといえる。しかし『可笑記』はさらに続けては,その不道の主君をそのまま是認することなく,臣は君をして善に赴かせるように分別すべきだと力説するのである。これは栄枯盛衰を以て天道のならわしとし,したがって世に栄えているものは天道にかなったものであるとしたところの戦国武士の天道観とはかなりずれてきており,それを道徳的なものとしてみている点において儒教の影響が認められる。また大将が国を攻め取ることについての段(二の19)においては「無理なるかせんをくはだて給ふべからず」ではあるが,ただ相手が天命に背く場合は別であるといい,国を攻め取るのは「其国郡の万民うれへかなしみめいはくするところを、やすんぜんがため」でなければならないという。この意見は敵を打ち破るに手段を選ばず,自分の領地を拡大し,自らの欲望のみを遂げようとした戦国武士のそれから大きく展開したものであり,そしてこれが『孟子』の「文王一怒而安天下之民。」(梁恵王・下),「其子之賢不肖、皆天也。非人之所能為也。莫之為而為者天也。莫之致而至者命也。」(万章・上),「王曰、無畏。寧爾也。非敵百姓也。若崩厥角稽首。征之為言正也。」(尽心・下)などの思想に裏付けられていることは「周の文王殷の紂王をせめほろぼし給ふためしあるをや。」といっているのでも解ることである。巻四の1は学問についての一段であるが,物を知ることは,人の道を行うためであり,その根本は天道である。故に聖人はその天道を解明してそれを万民に教えなければならない,といっている。これは「天道に恵まれ奉る」ことは聖人の道に通ずるものである,といっている(一の27)のとともに天の道,人の道は共通のものであるとする立場からの発言であり,天人合一を説く儒教思想(朱子,孟子など)に通じるものといえる。

さらに『礼記』のことばに拠っているもの(四の10),仁義礼智信の五常と天道は通じるものであるという考え(四の27)などを考え合わせるとき,儒仏並列の場から天道をとらえている(一の12・27など)というすっきりしない面があるにせよ,その他にみられる天道(一の3・8・41・43・三の5・21・22・35・四の16・47・五の13など)も儒教思想と無関係であるとは思われないのである。『可笑記』における天道説は決して「夙に武士階級に存して居た絶対者としての天道信仰」のみではなく,むしろその立場はいずれかというならば儒教的であると断じてよいと思われる。

しかし寺谷氏はさらに主従観と項を改めてこの作品が反儒教的であることを強調するのである。巻二の18における作者の主従観をまず指摘し,さらに続けて「如儡子によれば、主従関係とは「君のきみたらざる時は臣のしんたるものなし」(巻三)「重賞の家には死夫あ」り(同上)であって武士の奉公とは所詮「家名と老後のたのしみ」の為に帰着する。…中略…『可笑記』の主従観は例へ著者がどれ程儒教的扮飾を施しても、恩賞を主従関係の基礎に置く事によって、近世封建社会の下にあっては、甚だ反社会的な性質を有して居たと言はねばならぬ。」と結論づけている。そしてこれに関しては松田修氏も『文学』昭和三十八年五月号において言及し「『可笑記』を支える基本的理念は、さまざまの留保条件をつけても、やはり儒教ないし儒教的、最小限漢学的性格を示している。その主従観を以て、反儒教的と全巻を決することには、にわかに従いがたい。」といってはいるが結局は寺谷氏の見解の域を出ていない。

さて巻二の18であるが,ここで説く家臣の心境は確かに主君に対する態度についての作者の発言ではあろう。しかしそれは「主君おほくはみ内の者共に、蚊のまなこほどの恩賞もあたへ給はず、あはのさね程のなさけをもかけ給はず、やゝもすれば、無理ひがごとのみしげくいひかけてめいはくさせ給ふ」という事実を前提としてのそれであり、決して家臣は主君に対してこのような心得で仕えてよいといっているのではない。いわば不道の主君に対する家臣の態度の一つをあげているにすぎない。また『可笑記』の主従観において「君のきみたらざる時は、臣のしんたるもなし」(三の41)は常に一貫したものであり(一の28・32・二の43など),そして「重賞の家には死夫あり」(三の2)もその一端を補うものであることは間違いない。しかしだからといって、これらをただちに戦国時代的主従観であると断定し,故に反儒教的なのだと結論づけることは妥当と思われない。

「君のきみたらざる時は臣のしんたるもなし」ということばにかける作者の意図は「君が君なら臣も臣でよいのだ」にあるのではなく,あくまでも「臣が臣であるためにはまず君が君たらねばならない」というところにこそあったのである。だからこそ主君に対して徹底的にその道徳的責任を求めているのである。このように主君は常に正しくなければならないとし,あるいは主君を善に導かなければならないとする態度は作中一貫するものであり,我欲をとげるためには、いかなる手段も選ばず争い合った戦国武士の間にこのような見解が見出し得るであろうか。私はここに治められる者よりも治める者に対して説くことの強い,そして仁政思想の影響をみてとるのである。因みにこの「君のきみたらざる時は臣のしんたるもなし」は「孟子曰、君仁莫不仁、君義莫不義。」(『孟子』離婁・下)をはじめとして『孟子』あるいは『論語』中に散見するこの種のことばに拠っていることはいうまでもない。また「香餌のもとには懸魚あり、重賞の家には死夫ありと、申つたへぬ」は「香餌之下有死魚、似重禄之下有死士也」という『六韜』の文韜第一にその典拠を求め得るが,これをとらえて寺谷氏は「恩の反対給付に依存して居た」戦国武士の主従観と断定するのであるが,この解釈は作品全体からみるとき,適切なものではないと思われる。巻五の51で「おんよりも情の主と云事は、仁義にたつせし侍の事、但情は、質にをかれぬとして、恩賞を望む、侍こそおほけれ」といって,その無欲でなければならぬことを説いていることを,さらに仁義を重んじ無欲でなければならないと力説するのがこの作品の基調であること等を考え合わせる時「重賞の家には死夫あり」の用語例を以て戦国時代の武士の主従観に直結することはやや無理なものとなってくる。また作者は恩賞を適度に与えるようにと説いてはいるが,決してそれを主従関係の基礎に置いてはいない(二の18・五の1など)。『可笑記』の主従観は,よしそこに戦国的な要素が介在するにしても,それは現実の主従関係そのものが戦国時代的なものを少なからず踏襲していたことを考えるとき,あるいは当然のことといえるのであり,概していうならば,禄を与える者と受ける者との関係にある現実の主従関係を肯定し,さらにそれを儒教的立場から説こうとした(一の28・二の34・42・三の8・30・41・四の14・五の7・30・35・41・43など)ものであるということができる。また儒教的主従観と武士本来の主従観は本質的には決して同じものではないが,初期三代,家康・秀忠・家光と徳川政権安定を目ざす,改易,転封などの大名統制が頻繁に行われ,反面その所産として生まれる多くの浪人に苦しまなければならなかったところの歴史的現実においては,かかる儒教的主従観がそれほど抵抗なく受け入れられたものと思われる。

以上二,三の項目を中心にみてきたのであるが,その他にも儒教思想と関連のあるものは少なくないのであり(一の15・二の40・三の24・四の25・五の67など多数),要するに作品全体に流れる思想は単に戦国武士のそれからでもなければ,まして反儒教的でないことはいうまでもない。そしてそれは,主君は常に百姓町人を保護しなければならないと主張しはするが,所詮「侍がとみさかへぬれば、百姓かならずゆたかにさかへ」る(三の1)というように,あくまで武士を最上段に置くという,当時の武士の現実から把握されたところの儒教であったのであり,そこには当然武士と儒教を結びつけようとする一面もあったのである(四の16)。そしてこの間の事情は作品みずからが説明している。すなわち「四書七書、かながきの養生論、つれつれ甲陽軍鑑、すゞりれうしの類置たるもよし」(三の23)「家にありたき物はよまずとも四書七書、法語、和漢の集」(五の63)といい,巻四の43・五の79では『太平記』を読むようにとすすめている。これらのことばからも解るように,儒教および儒教的典籍は作中『史記』『十八史略』『礼記』『春秋』『毛詩』『周易』『戦国策』,それに「七書」等かなり広範囲にわたるようではあるが,やはり「四書」それも『孟子』『論語』がその主たるものと思われる。また『太平記』『甲陽軍鑑』の世界をよきものとして肯定していることは,戦国時代からの武士気質を多少なりとも体験として受けとめていたと思われる作者であってみれば,自然のものと思えるが,さらにこの二書のいずれもが単に軍記物や軍学の書ではなく,そこに少なからず儒教的要素が介在していたという点において一層納得のゆくものとなるのである。

しかしさらにここで注意すべきことは,これらの儒教あるいは儒教的な書物とともに「法語」をそこに連ねていることである。この作品において仏教思想は一見ことごとく難じ去られているかの感があるが,しかしそれらを子細にながめてゆくと,実利的,物質的意識がたかまり,仏教本来の意味からすれば著しく堕落したところの現実の仏教は激烈な批判を加えられながらも(一の29・四の11・36・五の10,特に五の4・8・24など)なお釈尊はその尊さを作者に対して維持していたのであり(三の16など),さらに儒仏双方が互に難じ合うのを指摘して無用な論争だとし,各々自分の道を究明すべきだと批判するのである(四の5,他に一の35・四の40・五の17)。また「儒者仏者」「儒道仏道」等のように儒仏を並列的にあつかった語句はなかば慣習的かとさえ思えるくらい作中一貫して使われており(一の35・二の44・三の4・四の40・五の37など多数),さらに儒教を現世的なものとし、仏教を来世的なものとみる傾向もあったのであり(五の17)これらのことごとを考え合わせるとき,後年に『百八町記』を著し仏教に帰依したと思われる作者の心的推移も決して不自然なものでなかったことに気づくのである。そして潁原退蔵氏が古く指摘した(『国語国文』昭和七年十二月号)ように『百八町記』の三教一致の思想は,すでに『可笑記』の中に芽ばえていたということができよう。なお『百八町記』の儒釈道の三教一致思想は,一名『儒仏二教/水波問答』と題したものがあるのをみても解るように,その中心は儒仏二教にあるとされているが,このことは『可笑記』においても同様であり,老荘思想はきわめて希薄である(三の17・四の15・五の8)。

要するにこの作品には,作者自身の体験から得たであろうところの当時の武士の思想と,そして勿論それと無関係ではなかろうが,もう一つこの仏教的要素が包含されているのである。しかしその中心となるものはあくまでも,新しい知識としての儒教思想であったということができる。また作者は儒教をかなり知識的,学問的に受けとめていたのであり,したがってこれに決して盲従してはいない。このことは近世初頭の儒者,羅山などが時として狂信的態度を示していたのと対照的であり,このいってみれば科学的,それだけに自由な態度,これこそこの作品の一つの重要な特色になっていると思われる。
(『文学研究』第19号,昭和39年5月)

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●これは、大学を卒業した2年後に、重友毅先生はじめ、『文学研究』の編集部の先生方の推薦を頂いて、発表されたものである。私は、この論文を、5部、手で書写し、先生方に査読して頂いている。当時は、コピー機が無かった。全て手書きであった。大量のデータをネツトで発信できる現在は、夢のような社会である。

●この論文は、55年前に書いたものである。近時、笠谷和比古氏は、武士道論の中で、この拙論を指示して下さった。大学を出たばかりの時に発表した、未熟な論文が、よく、50年の時間に堪えたと思い、このことを誇りに思っている。


投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。