山形藩士 → 斎藤親盛

山形藩士 → 斎藤親盛

  • 2019.11.09 Saturday
山形藩士 → 斎藤親盛

●【ウィキペディア】 で「山形藩士」を検索すると、「さ行」に「斎藤親盛」が出てくる。山形藩57万石が改易となり、20歳位の、斎藤親盛は牢人となる。如儡子のペンネームで、『可笑記』 『百人一首注釈』 『堪忍記』 『百八町記』 等の著作を遺し、晩年は多くの俳諧作品を詠じている。

●没後345年、ネットの時代に、このように扱われると、斎藤親盛は予測していたのであろうか。

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斎藤親盛

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斎藤 親盛(さいとう ちかもり、慶長8年(1603年) – 延宝2年3月8日(1674年4月13日))は、江戸時代前期の武士、文人・仮名草子作者。通称は清三郎。筆名如儡子(にょらいし)。俗名斎藤以伝、法名武心士峯居士。墓は、福島県二本松市の松岡寺(臨済宗妙心寺派)。

概要[編集]
父は出羽山形藩最上氏家臣の斎藤広盛、母は東禅寺勝正の妹。領内の酒田に生まれ、藩主の最上家親に近侍して、一字を賜り「親盛」と称した。元和8年(1622年)の最上氏の改易で浪人し、父と共に、祖父光盛の出身地越後へ行くが、父の急死で江戸に出た。一時、西国大名に仕えたり医師をして生計をたてた。
その高い教養を生かした文学作品を執筆し、仮名草子の傑作『可笑記』で評価を得る。他に『百八町記』や俳諧作品、『砕玉抄』(百人一首の注釈書)がある。また、諸大名を批評した『堪忍記』もある。
万治3年(1660年)に長子の秋盛が陸奥二本松藩主の丹羽光重に仕官したことから、同地に移住して没した。

参考文献[編集]
• 『日本人名大辞典』、講談社、2001年
• 『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社、1994年
• 『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』、深沢秋男、近世初期文芸研究会、2010年
• 『如儡子百人一首注釈の研究』、深沢秋男、和泉書院、2012年
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔1〕深沢秋男(『文学研究』67号 1988年6月)
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』4号 1988年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔3〕深沢秋男(『文学研究』68号 1988年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔4〕 深沢秋男(『文学研究』70号 1989年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔5〕深沢秋男(『文学研究』78号 1993年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔1〕深沢秋男(『近世初期文芸』27号、2010年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』28号、2011年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔3〕深沢秋男(『近世初期文芸』29号、2012年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔4〕深沢秋男(『近世初期文芸』30号、2013年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔5〕深沢秋男(『近世初期文芸』31号、2014年12月)


投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。