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  • 2019.11.17 Sunday
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鹿島則文

(一般)

【かしまのりぶみ】     (深沢秋男執筆)

鹿島則文(かしま のりぶみ)

幕末・明治の神道家・蔵書家。天保10年(1839)〜明治34年(1901)。鹿島神宮大宮司家の67代・大宮司。明治34年没,63歳。吉川天浦・安井息軒に学ぶ。25歳の頃,勤皇の志士と交わり,八丈に遠島となる。赦免後,鹿島神宮大宮司となり,46歳の時,伊勢神宮大宮司を拝命する。以後,神宮皇学館の開学(2代目館長),林崎文庫の整備充実,『古事類苑』の編纂刊行に尽力した。明治31年,内宮が炎上し,その責任をとって,職を辞して鹿島へ帰った。著書には『南遊雑録』『八丈八景帖』『南島名勝集』(編著)がある。則文の蔵書・桜山文庫は珍籍奇冊3万冊と言われたが,現在,国文関係は昭和女子大学に、歴史書関係は茨城県立歴史館に,鹿島家関係は鹿島則良氏に所蔵されている。墓は鹿島家歴代の墓所と共に,鹿嶋市三笠山に在る。

■鹿島家家系

則文は,鹿島神宮・宮司家の第66代・則孝と瑳智の間に長男として生まれた。鹿嶋市に鎮座する神宮の宮司家・塙鹿島家の家系を『中臣鹿島連姓鹿島氏系譜』(鹿島神宮宮司・鹿島則良氏所蔵)によって略記すると次の如くである。
【1】天児屋命―【2】天押雲命―【3】天多禰伎命―【4】宇佐津臣命―【5】大御食津臣命―【6】伊香津臣命―【7】梨迹臣命―【8】神聞勝命―【9】久志宇賀主命―【10】国摩大鹿島命―【11】臣狭山命―【12】狭山彦命―【13】大広見命―【14】津彦命―【15】島根大連〔允恭天皇十五年丙寅賜大連〕―【16】波波良麻呂―【17】佐佐麻呂―【18】千志麻大連―【19】小主―【20】東麻呂―【21】春魚―【22】国石―【23】広庭―【24】鹿門―【25】諸躬―【26】武主〔天平十八年丙戌三月丙子賜中臣鹿島連姓〕―【27】大宗―【28】治嶋―【29】治風―【30】武則―【31】則高―【32】則成―【33】則助―【34】則綱―【35】則純―【36】則景―【37】則長―【38】則宗―【39】則常―【40】則行―【41】則雄―【42】則光―【43】則幹―【44】則仲―【45】則藤―【46】則国―【47】則密―【48】則弘―【49】則隆―【50】則満―【51】則煕―【52】則房―【53】則家―【54】則恒―【55】則久―【56】則興―【57】則盛―【58】則広―【59】則敦―【60】則直―【61】則長―【62】定則―【63】則備―【64】則峰―【65】則瓊―【66】則孝―【67】則文―則泰―則順―則元―敏夫―則幸―則良(現在,鹿島神宮 宮司)
鹿島則文の閲歴などに関しては『国学者伝記集成』等の記述によって,その概略を知ることは出来るが,より具体的な生涯を伝える,信頼すべきものとして,則文の次男・鹿島敏夫氏の作成された『先考略年譜稿』がある。それを参照して則文の生涯をたどる。

■八丈島送り

鹿島則文は尊王思想に傾倒し,やがて幕府の忌むところとなり,慶応元年(1865)7月,捕らえられ,10月島送りの刑に処せられた。二十七歳の時である。慶応2年5月25日,江戸鉄砲洲岸を出帆し,浦賀・網代・三崎・大島・三宅島を経て,6月5日八丈島に到着した。
明治元年(1868)11月赦免,翌2年6月帰郷した。則文は三年間に亙って八丈島で流人生活を送った。在島中は読書を以て楽しみとし,その間に寺子屋を開いて,学問を講じ,島民の教化にも当たった。
近藤富蔵の『八丈実記』に序文を寄せ,島民及び流人の有識者に呼びかけて『南島名勝集』(八丈八景)を編集したが,この他にも八丈島に遺した詩文は碑として現存する。また,揚屋入りから赦免帰国までの,八丈流人日誌ともいうべき『南島雑録』二巻を残しているが,これは流人生活を知る上で貴重な資料となっている。

■伊勢神宮・大宮司拝命

則文が赦免されて,鹿島に帰った明治2年,鹿島神宮は上知によって2千石の朱印地を失い,窮乏の極地にあった。則文は家財全部を売却して資金をつくり,稽照館を開校して,専ら子弟の教化に当たった。
明治17年4月2日,伊勢神宮・大宮司に任命された。それまで,伊勢神宮・大宮司は華族に限られていたが,沈滞している神宮を復活させるため,46歳の若さで鹿島から則文が抜擢されたのである。
明治17年3月17日,内務省社寺局の諫早生二・井上真優から,鹿島則文宛に,伊勢神宮宮司就任要請の書留速達便が届き,このあと,4月2日付で,太政大臣三条実美より,神宮宮司を任命された。当初3年間だけという事で,家族と共に赴任したが,明治31年5月,内宮炎上という不祥事が発生し,その責任を負って職を辞するまで,15年間の長きに亙って,この要職を勤めた。則文の生涯の中で最も充実した時期であったと推測される。

■皇学館大学の開校

皇学館大学の前身・神宮皇学館は,明治15年(1882)4月30日,神宮祭主・朝彦親王によって「皇学館創立令達」が発せられたが,未だ開校に至らず3年が経過していた。朝彦親王の神宮職員に対する,皇学館創立に関する令達をうけて,藤岡権宮司等がその実現に努力したが,開校に至らなかった。宮司田中頼庸が神宮教管長に転じ,その後を受けて宮司に就任した鹿島則文は,祭主宮の台命を奉じ,この開校に着手した。
則文は,明治18年1月,学制を定め,教授・教授補・助教・授読等の職員を置き,広く学生を募集し,同月11日,宇治浦田町神宮司庁の仮教室で開講式を挙げた。定員50名,神宮祀官の人材養成を目的として開校したが,学生は予想に反して集まらなかった。則文は,明治20年3月,神宮の関係者にあてて,勧学諭告文を送っているが,この諭告文には,神宮皇学館開学にかける則文の情熱が感じられる。以後,則文は,着々と学制の充実を図り,この4月大改革を実行した。館長に中田正朔,幹事に孫福弘坦,教頭に東貞吉,副教頭兼教授に下田義天類をそれぞれ任命し,科を尋常科と高等科に分け,修業年限を各4か年,定員100名とした。その後,明治23年5月には第1回目の卒業生2名を出し,27年には,祭主宮・有栖川熾仁親王を総裁に仰ぎ,則文自身館長の要職を兼ねて,その充実・発展に尽力した。
明治28年6月1日,則文は皇学館の官立化を計画し,内務大臣・野村靖に申請した。この申請が許可され,神宮皇学館官制が勅令をもって公布されたのは,則文が伊勢を去って5年後,他界して2年後の明治36年8月のことである。神宮皇学館の館長は,初代・中田正朔,2代・鹿島則文,3代・冷泉為紀,4代・桑原芳樹,5代・木野戸勝隆,6代・武田千代三郎,7代・松浦寅三郎,8代・上田万年,9代・森田実,10代・平田貫一,11代・山田孝雄……と,錚々たる人々がその任にあたり,学問発展のために尽くしてきたが,鹿島則文は,その礎を築いたと言っても,決して過言ではない。

■式年遷宮(明治22年 第56回)

則文が宮司就任後,5年目の明治22年に,伊勢神宮の大行事,第56回式年遷宮が行われた。
明治22年の式年遷宮の準備は,それより14年前の明治8年から開始されていて,様々な手続きは,田中頼庸宮司等を中心に進められている。明治15年4月,新宮造営に必要な材木伐採の御杣山は,信濃国西筑摩郡小川村字床沢并打越官林及び木曽谷官林と決定。鎮地祭は,19年3月5日に行われた。
仮御樋代木伐採式は20年11月9日に実施され,準備は着々と進行した。鎮地祭,仮御樋代木伐採式,立柱祭,御形祭,上棟祭,檐付祭,甍祭,御戸祭,御船代祭,洗清,心御柱奉建,杵築祭,後鎮祭,御装束神宝読合,川原大祓,御飾,遷御,奉幣,古物渡,御神楽御饌,御神楽と,この大祭を則文は,その最高責任者として,滞りなく実行したのである。

■内宮炎上

明治31年5月2日午後11時30分,伊勢神宮の内宮炎上という不祥事が突発した。参集所及び神宮司庁を焼失して,正殿にまで延焼しようとした時,則文は直ちに正殿に参り,御正体を風日祈宮に遷座し奉った。
則文は,事後処理を済ませた後,この責任を負って少宮司と共に職を辞した。7月鹿島に帰ったが,この事が頭を離れず,夜中に飛び起きることしばしばであったという。この事件が則文の死期を早めたものと思われる。明治34年5月,特旨を以て従四位に叙せられ,10月10日午後10時、63歳の生涯を閉じた。

■参考文献

◎『先考略年譜稿』鹿島敏夫,鹿島則良氏蔵。
◎『佐原喜三郎と鹿島則文』海野正造,昭和52年6月1日,柳翠史料館。
◎『神宮皇学館創立六十周年記念誌』(館友,第409号,昭和17年6月1日),神宮皇学館館友会。
◎『増補改訂 八丈流人銘々伝』葛西重雄・吉田貫三,昭和50年5月20日,第一書房。
◎『桑原芳樹翁伝』「桑原芳樹翁伝」刊行会,昭和51年12月20日。
◎『常総古今の学と術と人』大山地山,昭和51年11月25日(復刻),水戸学研究会。
◎「古事類苑編纂事歴」(『古事類苑』目録・索引,大正3年8月29日),神宮司庁。
◎「桜山文庫について」鹿島則幸,(『郷土文化』第18号,昭和52年3月31日)茨城県郷土文化研究会。
◎「鹿島則文と桜山文庫」深沢秋男,『井関隆子日記』中巻,昭和55年8月30日勉誠社。
◎『神宮・明治百年史』上巻,昭和62年9月1日,神宮司庁,神宮文庫。
◎『神宮・明治百年史』下巻,昭和63年10月20日,神宮司庁,神宮文庫。
◎『神宮々司拝命記』深沢秋男,平成10年7月25日,私家版。

■■「鹿島則文と桜山文庫」→http://www.ksskbg.com/kashima/index.html

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投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。