井関隆子が見た江戸城

井関隆子が見た江戸城

  • 2019.12.01 Sunday
井関隆子が見た江戸城

旗本夫人 井関隆子がみた幕末の江戸城

深沢秋男

(『歴史読本』 2004年4月号)

■井関家の人々■

井関隆子は幕末に旗本の子として生まれ、旗本に嫁いだ生粋の旗本夫人である。
嫁ぎ先の井関家は九段坂下(今の、りそな銀行九段支店)にあった。屋敷は五百坪位かと推測されるが、北側は九段坂上から俎板橋への広い通りに面し、西側は飯田町から清水門への通りに面している。西側の通りの向かい側には、井関家と親戚関係にある、新見伊賀守正路の屋敷(今の九段会館)があり、東隣には榊原隠岐守の屋敷、南隣には能勢河内守の屋敷があった。
『井関隆子日記』は天保十一年(一八四〇)から十五年にわたる詳細な記録であり、この時、隆子は五十五歳、夫の親興は十五年前に没しているが、子の親経、孫の親賢はいずれも徳川家に仕えていた。井閉家の屋敷が江戸城の近くにあるのは、代々、初めは小納戸衆という将軍の身の回りの世話をずる掛りであり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(政治を行う所)と大奥(将軍が私生活をする所)との接点である御広敷の責任者になる、という家系であったからであろう。
隆子が日記を記していた頃、子の親経は、御広敷御用人を勤め、十一代将軍家斉の正室である広大院(日記では、松の殿と記されている)の掛りをしていた。孫の親賢は十二代将軍家慶の掛りとなっている。
隆子の日記には、将軍家の動静や政治に関する事がかなり詳しく記されているが、その情報は極めて正確で、しかも迅速に伝えられている。

■家斉はいつ死んだか■

隆子は非常に文才のある女性で、親経の母、親賢の祖母としで、家中から尊敬されていたように思われる。そんな関係から、親経も親賢も、その日その日の、江戸城内での出来事をしい。それは口頭で伝える事もあったし、内容によっては書写して渡していたものと推測当れる。
江戸城内を中心とする、徳川家関係の記述はかなり多い。徳川宗家をはじめ、尾張・紀伊・水戸の御三家、清水・田安・一橋の御三卿に関する事が記されている。
一例として、徳川家主要一人物の没日に関する記述を紹介したい。この五年間に他界した主要人物の没日を一覧表にすると別表の通りである。【ここでは一覧表は省略した】政治の最高権力者であった、十一代将軍家斉について少し具体的に述べよう。
家斉は現在の歴史上の通説では、天保十一年閏一月晦日に没したと言われている。これは、徳川家の正史である、『徳川幕府家譜』や『徳川実紀』に拠っているためである。しかし、井関隆子は、「七日の夕日のくだち、光りかくれさせ給へりとほの聞」と記している。家斉は、実は晦日の二十三日も前の七日の夕方に没していたのである。しかし、幕府はこの事を秘して、『柳営日次記』は七日に「殿中無別状」と記している。さらに、十三日には、家斉の病気の祈祷料として銀五百枚を上野寛永寺に、十九日には芝増上寺に銀百枚をそれぞれ遣わしている。これらは、葬儀の準備金であったものと推測される。実は、家斉の墓は、最初は芝増上寺の予定であったが、御台所の願いによって寛永寺に急遽変更されたと隆子は記している。五百枚と百枚の差はこのあたりに関係しているようである。
この間に、御三家・御三卿の要人は江戸に集まり、家慶をはじめ幕閣たちは、家斉亡き後の政治態勢を整え、しかる後に、その死を公表したというのが歴史上の事実であり、真実に近いものであったように思われる。
もう一つ、家斉他界に関連することを紹介すると、その後の五月十五日に西丸奥医師筆頭の吉田成方院が処罰されているが、その理由について公的記録は触れていない。しかし、隆子は、吉田成方院は家斉臨終の折、その変化に気付かず、周囲の人から注意されて驚くという失態を演じてしまった。それが処罰理由であると記している。
没日一覧を見てわかるように、徳川家の公的記録の日は、実際に没した日ではなく、それを公表した日と解すれば納得がゆくものとなる。従来の歴史書は、この二十三日間は、家斉生存を前提として記述されている。隆子の伝える、歴史的事実に基づいて、是非とも再検討して欲しい。

■幕府への論評■

隆子は、この時期の幕府の政治・政策に関しても極めて積極的に記している。印旛沼干拓工事、上知令、三方所替、一連の天保の改革に関する事、日光社参等々に関して記し、これらに厳しい論評・批判をも加えているが、それらは極めて的確なものとなっている。隆子が得る情報は即時的で正確なものであったらしい。情報源としては、前述のように、親経・親賢父子からもたらされていたわけであるが、その外に、徒頭・目付・駿府奉行・日光奉行・浦賀奉行等の役職を勤めた戸田氏栄は親経の妻の兄であり、時折、井関家にも立ち寄っている。この戸田からも多くの情報を得ている事が日記の記述からもわかる。
隆子は『浜松中納言物語』の欠落した部分を補って書写した本を、『万葉集略解』の書写本とともに、広大院に献上している。これは親経が広敷用人で広大院の掛りであったからできたことである。そんな関係からか、将軍家に、諸大名から献上される各地の名産品は、毎日のように井関家にも下げ渡されている。隆子は大の酒好きで、親経が持ち帰る。それらの山海の珍味を頂きながら、酒を飲み、庭の草花や月見をして楽しんでいる。親経はあまり酒好きではないが、孫の親賢は大好きで、折々隆子に付き合っている。そんな時の話題も、おそらくは城中での出来事が多かったらしい。
天保十一年六月八日にはこんな事を記している。将軍家慶は、中山の法華経寺の祖師を信用して、時々城中へ呼び、加持祈祷をさせて、使いなど毎日絶えることが無いほどである。そんな状況を大奥へ勤める役人も心得て、振る舞う者もいた。井上某などは、本来信仰心など無いのに、勤務中に瑕を見つけては法華経を書写していた。その姿が大奥で噂になり、やがて、将軍の耳に入り、目論見通り、異例の出世をしたと言う。
また、尾張家の大奥の初瀬と延命院の僧侶の密会事件なども記録していて、当時の仏教に対しては厳しい批判を加えている。これは隆子か国学者としての立場も関連していると思われるが、かなり激烈ではある。
隆子は、寛政の改革を断行した松平定信は高く評価しているが、これに反して、天保の改革の推進者。水野忠邦には厳しい批判を加えている。定信と違って忠邦は、何かにつけて賄賂を要求するような人柄であり、この点が隆子には気に入らなかったようである。
井関隆子は日記の外に創作も残している。『神代のいましめ』は、政治の中枢にある某の少将が主人公であるが、このモデルは水野忠邦ではないかと推測される。この作品は、人間社会の表裏の二面性を取り上げており、ここには、天保期の社会の腐敗・頽廃ぶりが描かれ、そこに生きる人々が批判の対象になっているが、最終的に向けられる批判の対象は某の少将である。少将への批判は、色好みで、負けじ魂のみ募り、それでいて文才は無い、という個人的な側面と、税金の増額からくる庶民生活の窮乏、公の人事の不公平、少ない禄に対する旗本たちの不平不満など、政治家としての公的な側面の両面からなされている。この作品は、現在、政権の中心にあり、天保の改革を推し進めている、首席老中・水野忠邦に対する批判を作品化したものという事ができる。
このように、井関隆子は、極めて批評精神の強い女性であった。その彼女が現実の社会を厳しく論評しているのである。     (了)

ふかさわ・あきお/一九三五年生まれ/昭和女子大学教授

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●私は、恩師・重友毅先生の教えを守って、啓蒙的な雑誌への執筆は、一切しない方針であった。この『歴史読本』からも、以前、執筆依頼があったけれど、遠回しに断っていた。どうも、お金になる原稿は書きたくなかった。しかし、この『歴史読本』編集部からの依頼は、井関隆子の宣伝にもなるし、大学の定年も近いことだし、引き受けた。

●この編集部の安田清人氏が、その後、文春新書への執筆を進めて下さった。これも定年後の事ゆえ、快く引き受けたのである。

●この文春新書は、第6刷まて発行され、印税もたくさん頂いた。私は、単行本を66冊出したが、印税は、お金では貰っていない。全て現物(本)で頂き、関係者へ寄贈してきた。

2019年12月1日


投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。