刀剣 本庄政宗

刀剣 本庄政宗
2020.03.17 Tuesday08:59
本庄正宗
   『刀剣大辞典』より、抄出転載させて頂きました。

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本庄正宗(ほんじょうまさむね)

名物 本庄正宗
2尺1寸5分
旧国宝
• 「右馬頭太刀」、「東禅寺正宗」
• 享保名物帳所載
本庄正宗 磨上 長さ弐尺一寸五分半 無代 御物
上杉謙信、景勝兩代の内、侍大将に本庄越前守重長と云者あり、其頃庄内城主を大寶寺と云、其家の侍頭を東禪寺右馬允と申す、然るに越前守庄内の城を責落し安川原と云處に床机に腰掛居たる處、東禪寺右馬允味方の體にて首を提け刀をかたげ来り近々と寄り、重長か兜の鉢を割る、重長手を負ながら右馬允を打留め、右の刀を取る、兜を割たる故か「コボレ」あり、後ち秀次公金十三枚に召上らる秀吉公へ上る、島津兵庫殿拝領、家康公へ上る、御分物にて大納言殿へ進ぜらる、御隠居の砌、家綱公へ上る。
o 御物とは、名物帳が書かれた享保頃には徳川将軍家所有であったことを示す。
• 明治45年(1912年)刊行の「刀剣と歴史」には次のように記載されている。
拵へは慶長頃の物らしく、頭は角 藍革にて巻掛け大菱、鍔は直径二寸の金なり、目貫は丸に桐の紋、絽塗の鞘にて鐺なし、紫の下緒、笄付、いかにも古雅なる拵へである、総丈二尺一寸五分あり。
• 中心大磨上、目釘孔1つ、無銘。

由来
• 上杉家の武将本庄繁長が所持したことにちなむ。
本庄越前守繁景は越後の勇将なり。後景勝、上杉十郎憲景が禄を本庄に与へらる。本庄、出羽の庄内大宝寺義興と戦ひ勝て、二男千勝丸に庄内を与へけり。
本庄、最上、義光と出羽の千安が表にて軍しける時、最上の軍敗北せしに、義光の士大将東漸寺右馬頭、口惜き事に思ひ取て返し、首一つ提て越後の兵に紛れ、繁長を目にかけて、「只今敵の大将を討取て候。実検に入れ奉らん」と言て馬に鐙を合せかけ寄りて正宗の刀を以て胄を打つ。明珍の胄なりしかば筋四ツ切削りたり。繁長、右馬頭を切て落し、首に添て景勝に出したり。刀をば本庄に返し与へられしが、後故有て東照宮の御刀となり、本庄正宗といへるは此刀なり。

来歴
東禅寺勝正
• 天正16年(1588年)8月の十五里ヶ原の戦いにおいて、上杉家の武将本庄繁長が東禅寺城主である東禅寺義長と戦った際の話。
• 東禅寺義長の弟、東禅寺勝正(右馬頭光安とも)が上杉勢のふりをして単身繁長の本陣へ突入し、不意をついて本庄繁長に斬りかかろうと図る。
右馬頭は、数箇度の戦いに、餘多手負ひしが、首一つ取りて掲げ、血刀を振りかたげ、高名仕候間、大将本庄殿へ御目見せんと、味方のふりして、上杉勢の中へ入る
• 途中怪しむものがいたが、味方(越後黒川)のものだと騙したために本庄繁長の装束まで教えてしまう。東禅寺勝正はまんまと本庄に近づき、持っていた首を本庄に投げつけ斬りかかった。しかし逆に本庄繁長と側近達により討ち取られ分捕られてしまう。
時に上杉勢にて咎むる者あり、東禅寺答へて、越後黒川の者にて候といふ、上杉勢誠と心得て、馬上にて、霜色の扇披き遣ひ申され候武者こそは大将繁長にて候と教へければ、東禅寺馬を乗寄せ、敵の大将東禅寺右馬頭を討取ると申し乍ら、歩ませ近づく、繁長實にもと振廻す所へ、持首を、繁長の顔へ打付け、正宗の刀にて、繁長が甲の錣のはづれを切付くる、繁長が吹返を切割り、左の小耳へ切付くる、繁長心得たりと抜合せ切結ぶを、越後勢大勢馳せ重り、遂に東禅寺は、繁長に討取られ候、其刀を取り、首を見れば東禅寺右馬頭なり
• この時勝正の一撃で繁長の兜はこめかみから耳の下まで切り取られ、兜が割られたという。

• この時の様子は、如儡子こと斎藤親盛の記した「可笑記」にも載る。
むかしそれがし、ためしのよろひをおどし候はんとて、註文を仕り、おやにみせ候へば、親の申され候は、ためしのよろひはおもき物にて、汝がやうなる小男の用には立がたし。侍の諸道具は、其身々々に相應して取まはし自由なるがよしとて、其ついでにかたられけるは、汝が母かたの舅、東禪寺右馬頭(東禅寺勝正)つねに申されけるは、運は天にあり鎧はむねに有とて、幾度のかせん(合戦)にも、あかねつむぎの羽織のみうちきて、何時も人の眞先をかけ、しんがりをしられけれ共、一代かすで(かすり傷)をもおはず。一とせ出羽國庄内千安合戦(十五里ヶ原の戦い)の時、上杉景勝公の軍大将本庄重長とはせあはせ、勝負をけつする刻、敵大勢なるゆへに、四十三歳にして打死せられぬ。其時、本庄重長も星甲のかたびん二寸ばかり切おとされ、わたがみへ打こまれ、あやうき命いきられぬとうけ給はりしなり。きれたるも道理かな、相州正宗がきたいたる二尺七寸大はゞ物、ぬけば玉ちるばかりなる刀なり。此かたな重長が手にわたり、景勝公へまいり、それより羽柴大閤公へまいり、其後、當御家へまいり、只今は二尺三寸とやらんにすり上られ、紀州大納言公に御座あるよしをうけ給はり及申候。此右馬頭最期のはたらき、出羽越後兩國において、古き侍は多分見きゝおよびしりたる事なれば、子細に書付侍らず。
斎藤親盛の母方の叔父が東禅寺勝正という関係になる。この当時は紀州徳川家にあったことが記されている。

本庄繁長──┬本庄顕長
 ↑    ├本庄充長
(盟友)  └本庄重長(福島城代)
 ↓
大宝寺義増─┬大宝寺義氏
      └大宝寺義興━━大宝寺義勝(実父は本庄繁長。のち充長)

   (酒田代官・東禅寺城主)
      ┌前森蔵人(東禅寺義長)
      ├東禅寺勝正
      └─妹
        ├───斎藤親盛(如儡子)──斎藤秋盛(二本松藩士)
       斎藤広盛(最上家臣)

本庄繁長

• 分捕った正宗は上杉景勝に献上されたが本庄繁長に下賜された。このころは東禅寺右馬頭にちなみ、「右馬頭太刀」と呼ばれたという。
• また元は三尺八寸(三尺三寸、二尺七寸など諸説あり。)あったものを、景勝が二尺五寸に磨上させたという。
越前を呼び懸け、高名致し候といひながら近寄り、其首を本庄に投付けて、東禅寺右馬頭と名謁り、昔が子の三尺八寸の太刀を以て、本庄が直額をわれよ摧けよと二討つ、本庄、勝つて鍪の緒をしめて、首實驗し居たる故、兜は斬割られず、左方の吹返を斬割り、眼尻より頣かけて切付くる、本庄早く側に横たへたる薙刀を追取り、將机を少しも去らずして、右馬頭をはね倒すを脇より立合ひ右馬頭が起上らざる内に惨殺す、本庄は其儘又首實驗そ首帳を認めさせ凱歌の儀式を執行ひ武名世に高し、右馬頭が刀は相州正宗なり、本庄即ち景勝公へ上る、其後、景勝太閤へ進じ遣され、太閤より又権現様へ進ぜられ、今に紀伊頼宣卿に本庄正宗とて之ある由之を承る、寸長しとて今かね二尺五寸に御磨上げなされたりと聞傳へ候
しかし上杉将士書上などによれば、景勝はその場で正宗の刀を本庄繁長に与えている。景勝が磨上たのが事実だとすると、一度景勝に献上され、磨上たあと再度本庄繁長に与えたことになる。または景勝の命により磨上させたという可能性もあるが、本人の佩用刀でもないものを磨上させるのも不思議な話ではある。
羽柴秀次・秀吉
• その後文禄のころに伏見城築城の際に、本庄繁長は上杉家受け持ちの普請奉行として京都に上るが、経費多く困窮し、やむなく羽柴秀次に金130枚(大判13枚)にて譲渡し、さらに秀吉に献上される。
文禄の末、伏見御城御普請、天下の諸大名働きしに、景勝より人数普請奉行を差登せ、本庄繁長も其中にて、在伏見なりしが、自ら金銀を遣ひ盡し難儀にて、彼の正宗を拂ひに出したるを、本阿弥見て、出来格好、正宗の作には天下第一なりと申上げ家康公へ判金廿五枚に召上らる。
文禄年間は1596年まで。献上する経緯は諸説ある。また秀吉・島津義弘を経ず、直接家康に献上したとの説もある。
島津義弘
のち島津兵庫頭(島津義弘)

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●私は、『可笑記』に記録する、この 本庄政宗の探索をしたことがある。最終的には、アメリカの博物館の調査が必要だと考えるが、実行はしていない。

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。