書き原稿 → USBメモリ

書き原稿 → USBメモリ
2020.07.20 Monday00:11
●私の原稿執筆の方法を振り返ると、先ずは、400字詰め原稿用紙にモンブラン149で書いた。下書きは、原稿用紙の裏に書いて、発想を自由にした。第一論文は、昭和39年(1964)『文学研究』第19号に発表した。重友先生はじめ、編集部の先生方に査読してもらうため、5部書写した。コピー機の無い時代、同じ文章を5回書く、これは大変な作業だった。
●昭和44年(1969)、島本昌一先生と『近世初期文芸』を創刊。30字×22行の専用原稿用紙を作成、当然、万年筆の手書き。原稿用紙、見開き1枚で1頁とした。マス目は少し小さめだったが、何とか使えた。これは、島本先生と相談して決めた。
●『井関隆子日記』は、神田のK社の原稿用紙で、脚注は、罫紙を貼って書いた。この時、横山先生が注の文字が小さすぎると申されたが、このスタイルは変更できなかった。『日記』の本文は、全て妻が清書してくれた。これは、私的な事ではあるが、今も妻に感謝している。何しろ、5年間くらいの長丁場だったので、大変だった。
●昭和64年(1989)から、朝倉先生の『仮名草子集成』に参加させて頂いた。これは、ボールペンで、まずノートに下書きをし、東京堂出版の原稿用紙に清書した。ボールペンは、バレンチノガラバーニを使った。これは、極細字UBR-300のステンレス替芯であった。1本で1冊分の原稿が書けた。インク漏れ、途切れのしない優れものだった。
●やがて、ワープロの時代となり、当初は大判のフロッピーだった。やがてパソコンの時代となり、保存も、MFD—2HDとコンパクトになり、これをテキストファイルに変換して原稿とした。この頃、昭和女子大学の『学苑』にフロッピーで出したら、受け付けてくれなかった。まだ、書き原稿だった。
●やがて、CDから今は、USBメモリでなければ通用しない時代になった。私は、その度ごとに、印刷所や息子に助けられて、原稿が書けない事は無かった。引用は正確さを第一とし、自分の文章は、パソコンの文体から極力遠ざけるようにした。原稿は、プリントアウトして赤を入れる。大体、5回~10回位は書き換えてきた。だから、初校で加筆・削除は少ない。
●人によっては、作家並に、初校で訂正する御仁もいるが、これは、研究者には向かない。
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池田茂光

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。