笠谷和比古氏の提言

笠谷和比古氏の提言

  • 2020.11.08 Sunday
笠谷和比古氏の提言

●笠谷和比古氏の「提言 思想史と実体史との往還――丸山真男理論の社会不適合説をめぐる議論に寄せて――」(日本思想史学 45 2013)を拝読した。

はじめに――問題提起
一、 赤穂事件をめぐる儒学思想問題
二、 近世武士の教養Ⅰ――香西頼山『七種宝納記』をめぐって
三、 近世武士の教養Ⅱ――斎藤親盛『可笑記』
むすびに

論文はこのような内容である。

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三、近世武士の教養――斎藤親盛『可笑記』

元禄時代よりはだいぶ前のことになるが、寛永年間に出版された『可笑記』は興味深い書物である。『可笑記』は五巻からなる武士教訓書であり、寛永十九年(一六四二)年の板行。
作者は如儡子としているが、山形藩最上家の元家臣であった斎藤親盛という人物であることが分かっている。最上家が幕府より改易に処せられたのち、流浪の境涯にあった作者であるが、武士としての誇りは高く、また諸学諸道に通じた学識教養の水準の高さも刮目すべきものがある。
同書には当時の武士一般の教養の程度に関して注目すべき記述がある。
  あづまの侍は、仏道、儒道、歌、連歌、詩作など、よくこそは知ね、少づ
つは百人のうち七八十人は心得申候(巻二)
 これは関東の武士の教養について語られている箇所であるが、そこではやや意外なことに、『可笑記』の記された寛永年間において、仏教や連歌もさることながら、儒学についても、委しくはなくとも基礎的教養ぐらいならば百人のうち七、八十人は身につけているという指摘である。
 あるいはまた、客人を招待するときの部屋のかざりとして、「四書、七書、かながきの養生論、つれづれ、甲陽軍鑑、すずりれうし〔硯料紙〕の類置きたるもよし」(巻三)とあって、儒学の四書、『孫子』『呉子』『六韜』『三略』などの武経七書、和書の『徒然草』『甲陽軍鑑』、そして養生書などが武士の教養的嗜みのシンボルとして受け止められていたことを示している。
 ここに、あづまの侍と断っているのは、都、上方の侍は不心得であるという明言である。何とならば、都、上方方面には高僧、学者が大勢いるために学問、文筆事はそれら任せになってしまって、本人たちは無学、不教養のまま打ち過ぎているとの意である。
 些か苦笑を禁じ得ないくだりではあるが、都、上方云々は別として、武士のうち七、八割ほどの者は、詳しくはないにしても儒学の四書の内容ぐらいは一通りの教養として身に付けていたという証言として受け止めてよいであろう。時代はいまだ寛永年間である。この段階で、一般武士の教養レベルがここまで到達していることに驚かされる人も少なくないのではなかろうか。
 同書では無教養と非難されている上方方面の武士であるが、このような数字を見せられると、京都堀川に学舎を設けていた朱子学者・山崎闇斎の門人が総数六千人を数えていたいわれている話も、あながち誇張でないようにも思えてくる。
 近世武士の儒学教養は、兵学、仏道、和歌、連歌などと並行する形で、予想以上に高いレベルを備えていた可能性があると言わなくてはならないだろう。

 むすびに

 以上、丸山・尾藤論争の驥尾に付して粗雑な文章を書き連ねてきたが、浅学非才のゆえと御寛恕を希うばかりである。
 それにしても、このような初歩的な検討だけでも朱子学的思惟と幕藩性社会との適合・不適合を判定する作業は、相当に困難な問題であろうということがお分かりいただけたのではないであろうか。
 『可笑記』の斎藤親盛は、儒学の四書でも初級的教養としては七、八割の者は心得ていると述べていた。同書が刊行されたのが寛永年間であるが、彼が最上家中としてあったのは元和年間である。山形藩最上家の改易は元和八(一六二二)年であり、そのような時期にそのようなレベルを持していたというのである。
 そもそも現実政治の指針としての儒学という考えは、古く「十七条憲法」の時代から始まり、奈良・平安の貴族政治の中にも継承され、さらには鎌倉・室町の武家政治にも、戦国大名の領国政治や戦国家法の中にも取り入れられているように、一貫した立場でであったろう。その学問的伝統は清原、大江といった儒学を家職とする公家たちによって、また五山の禅僧たちによって担われていたことも周知のことである。このような伝統を継承した近世武家社会の武士たちが、儒学の基礎的教養を身につける機会のあったことは、むしろ当然と言うべきなのかも知れない。
 ただし入門的なレベルの彼らに儒学概念の厳密な分析などできようもないし、朱子学と陽明学との区別も定かではあるまい。その学習はひたすらテキストの素読であり、儒者の行う講釈の聴講であったろう。
 そのような素読、講釈の中において『大学』の有名な「修身斉家治国平天下」という章句は、おそらく何の疑いをも抱かれることなく人々の通念、常識となって体の中に沁みこんでいったことであろう。人は学習と修養を重ねることによって道徳的陶冶を深めて人格を確立し、そしてそのように確固たる人格を確立するならば家は安定したものとなり、そのような人物が天下国家の政治を司るならば、自ずから良き統治が実現するという観念は、あまりにも当然の常識であったのではなかろうか。
 それ故に、荻生徂徠が「豆はいくら煮ても米にはならぬ」と譬えて、個々人の道徳的陶冶が良い政治を実現するという考えを退け、道とは道徳の意ではなく、聖人の定めた礼楽刑政の総称であり、それを究明して現実世界に適用し、もって経世済民の実を挙げることが儒学の課題であると聞かされたとき、人は始めてそのような考え方、見方があるのかということに気づかされ、思いを新たにしたことであろう。
 そこに大きなコペルニクス的転回が認められるのであり、それあればこそ、それ以前の近世前期の思想状況を明らかにすることがいっそう求められることになる。『可笑記』が語っている、元和・寛永期にも武士の七、八割は儒学の基礎的教養をそなえていたという実態の解明は今後の大きな課題となることであろう。
 また東国と都・西国との間に地域差があるのか否か、両者の間に文化風土の点で顕著な違いがあるのかどうか、そしてこの時代の儒学はおそらく仏教・神道とともに三教兼修の形で存在していたと思われるが、それらの相互関係づけはどのようなものであったのか、等々。疑問と興味には尽きないものがある。
 これらの諸問題の究明はまさに学際的領域をなすものであり、思想史学とともに政治史、社会史、教育史そして国文学の研究者たちの協同作業によって推し進められていくべではないか愚考する次第である。

        (国際日本文化研究センター教授)

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●以前、笠谷和比古氏の「武士道論」の研究に接して、大きな感激を覚えた。武士道論で、斎藤親盛の『可笑記』の意義を論じられたのは、笠谷氏が最初である。私は、卒論以来、『可笑記』を研究してきたが、この最晩年に、笠谷氏の優れた研究に出会い、感謝している。

投稿者:

fukaaki

近世文学、特に、仮名草子、近世日記文学を研究している。 昭和女子大学に勤務していたが、定年退職。現在、同大学名誉教授。 仮名草子は、特に、如儡子・斎藤親盛を研究。日記文学では、井関隆子の研究をしている。