名刺 雑感 ⑪

名刺 雑感 ⑪
2018.10.19 Friday

ジャニーン・バイチマン 文学博士 図書館情報大学外国人教師 昭和59年11月30日

●現在は、大東文化大学の名誉教授である。同大の教員紹介には、次の如く出ている。現役の頃のものだろう。
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ジャニーン・バイチマン

研究領域:    世界における日本の詩歌
比較文学の観点から日本の詩歌を専門に研究します。中世連歌、近代の訳詩集、現代女性詩等がテーマです。
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●ネットを見たら、 大岡信の『折々のうた』 を英訳している。

●昭和59年11月30日、東京開館で、ドナルト・キーン氏の 『百代の過客』 特装本の出版記念会が行われた。『井関隆子日記』の関係で、私も出席させて頂いた。受付には、発起人の井上靖氏がおられて、びっくりした。受付をしていると、カメラマンがフラッシュをたいた。翌日の朝日新聞に出るのかな、とは思ったが、出るハズはない。

●とにかく、参加者がすごい。巌谷大四、篠田一士、大岡信、庄司薫、小西甚一、山本健吉、宇野千代、遠藤周作、加藤周一、北杜夫、佐伯彰一、安岡章太郎、永井道雄、草野心平、井上靖・・・・・・。文壇の大ものの方々が顔をそろえていた。皆さんのスピーチも楽しかった。

●私は、小西甚一氏、古川清彦氏など、国文学関係者と一緒だった。そこに、図書館情報大学のジャニーン・バイチマン氏(女性、文学博士)が見えられて、私と話したいとのこと。
 
 私は、ドナルド・キーン先生に教えて頂いている。キーン先生から、『井関隆子日記』を訳すように勧められているが、この日記の面白い点は、どのような所でしょうか。

私は、突然の質問で、あわてたが、とにかく、この作者は、何にでも興味津々なんです。そうして、批評力がすごいと思います。そんなことを、出まかせに話したように思う。

●その後、気には留めていたが、彼女が『井関隆子日記』を翻訳したという話は聞かなかった。今日、ネット検索したら、詩や歌の方向に進んだようである。30年以上前の出来事であり、ここにも、1人の研究者の軌跡がうかがえて、興味深い。

名刺 雑感 ⑩

名刺 雑感 ⑩
2018.10.18 Thursday

浦井正明  寛永寺執事 天台宗典編纂所研究員、昭和57年8月28日
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浦井 正明(うらい しょうみょう、1937年―)は、東叡山寛永寺長臈。天台宗僧侶。

経歴
東京生まれ。1961年慶應義塾大学文学部史学科卒業。東叡山現龍院前住職。寛永寺執事長、台東区教育委員会委員長、台東区文化財保護審議会委員等を歴任。[1]
著書
• 『もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎』誠文堂新光社 1983
• 『「上野」時空遊行 歴史をひもとき、「いま」を楽しむ』プレジデント社 2002
• 『上野寛永寺将軍家の葬儀』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー 2007
共著・監修
• 『目で見る台東区の100年』監修 郷土出版社 2007
• 『不惑の心得 林家三平、人生の師・浦井正明に教えを乞う』竹書房新書 2013
【ウィキペディア より抜粋】
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●昭和57年8月28日、日本文学研究会の夏の文学散歩の担当者だった私は、上野寛永寺の徳川霊廟にした。電話で予約して、謝礼はと尋ねると、お気持ちで結構ですとのこと。会計係の笠間先生と相談して、研究会の財政も苦しいことだし、〔お気持ち〕の金額を袋に入れて、「御礼 日本文学研究会」と書いて、当日持参した。
●常任委員10名位で見学した。この時、説明して下さったのが、浦井正明先生だった。説明は、3時間以上になった。「先生方は、御存知でしょうが・・・」として話される内容がすごかった。私たちの知らない事ばかり、私は、感動につぐ感動で先生の説明を拝聴した。
●講義が終わって、例の〔御礼〕を差し上げた。帰宅して、思うに、あの講義内容はすごかった。それにしても、あの〔御礼〕は失礼だった。後日、御礼状と共に、私の『井関隆子日記』3冊をお送りした。これが御縁となって、『もうひとつの徳川物語』が誕生したのである。
●『もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎』誠文堂新光社 1983
私は、辞典部だったが、辞典の新企画が保留になったので、当時、NHKの大河ドラマ『徳川家康』に合わせて、浦井先生の本を出そうと、企画書を提出し、即パスとなった。私は、毎朝、出社前に、上野の浦井先生のお宅に伺い、原稿を貰って進めた。3枚でも、5枚でも、毎日、伺った。時間とのたたかいであった。
●昭和58年2月、誠文堂新光社を退職した。昭和女子大学に移籍したのである。浦井先生の本は、同僚の東谷さんが引き受けて、仕上げて下さった。とても良い装丁の本になった。
●退職する時、辞典編集の進め方、増刷の手順など、ノート5冊に、記録して、後任の者が困らないようにした。また、私は、『玉川児童百科辞典』の国語編の補訂も引き受けていたので、これにも対応する処置をした。
●浦井正明先生の『もうひとつの徳川物語』は、大河ドラマと、時期がすれてしまって、この点は残念であったが、上製本として出して頂けて、東谷さんにも感謝している。東谷さんは、その後、編集局の役員になられて、社の運営に御尽力されたが、急逝されてしまった。
●昭和女子大学へ移ってからも、浦井先生には、多くの御指導、御配慮を賜った。私としては、人生の切り替え時に、浦井先生にお会いできて、心から感謝している。

■日本文学研究会 文学散歩 徳川家斉霊廟前で

■ 浦井先生の『もうひとつの徳川物語』

名刺 雑感 ⑨

名刺 雑感 ⑨
2018.10.17 Wednesday

冨樫信雄(省艸) 昭和59年2月15日、池袋ルノアール。
●冨樫省艸、篆刻家、酒田出身。私は、冨樫氏に出会って、篆刻遊印を通じて、人間としての生き方ゃ、研究の姿勢について指導して頂いた。

●私も少し蔵書が貯まりだした頃、蔵書印のことが、チラチラと頭に浮かんだ。しかし、町のハンコ屋さんで彫ってもらう気はしなかった。まして、書店などで売っているゴムのものなど問題外であった。かといって、プロの篆刻家にお願いする身分でもなかった。

●大学卒業以来だから、長年続いている、〔池袋の土曜会〕という、何の目的も無いグループがあった。第3土曜日に、都合のよい者が集まる。メンバーに資格は要らない。学歴も年齢も職業もバラバラ。ただ、1人1人が何かに取り憑かれている、そんなグループであった。主宰者は、仲小路彰の教え子・大久保力雄氏だった。何か、森銑三先生の〔三古会〕に似ていた。私も、法政同期の大久保トホル君の紹介で、都合がつく時は参加させて頂いていた。
●その中に、トガシという人がいた。塗料か何かの会社で頑張っているそうであった。趣味は詩吟で、これは定評があり、玄人の域に達していると伺っていた。知り合って10年以上も経った頃、石をカジッている、と耳にした。私は穏やかではいられなくなった。時間をかけて印影集を閲覧させてもらうところまで漕ぎ着けた。
●私も、集まりの度に、様々な印譜集や蔵書印集を持参して、機の熟するのを待った。兎に角、冨樫氏の印影は見事であり、今、ハバを利かせている印譜協会の方々の作品に比して、決して見劣りはしない。聞くと、協会には意識して入らないとのこと。さもありなん、と納得した。
●折をみて、恐る恐る、ヒトツ蔵書印を、と切り出してみた。案の定、余り良い顔色では無かったが、引き受けてくれた。こちらの希望は、20ミリの方形で「深沢蔵書」ということのみで、あとは、何も言えなかった。何時出来るかもわからなかった。3ケ月位経って、印影のみ見せてくれた。私は、即座に気に入り、頂くことにした。
●問題は謝礼である。金で彫るのではないから、石代だけでよい、と言われた。石の程度も分からない。私は、芸術家に対して失礼にならないような謝礼をした。こんな経緯で私は、念願の蔵書印を持つことが出来た。小さいものであるが、気に入っていて、自分の蔵書として恥ずかしく無い本にのみ、この印を押した。

●冨樫氏の篆刻家としての雅号は〔省艸(せいそう)〕という。冨樫氏は酒田の御出身で、漢籍の世界に通じていて、厳しい処世観の持ち主であった。ちょっと近寄りがたいところはあるが、根は温かく、情に厚い方であった。
●蔵書印に味をシメテ、氏・名、と進み、やがて遊印の世界へ広がっていった。
●私の手元には,冨樫省艸刻のものを主体とした篆刻遊印が、おおよそ400本はあった(一部、昭和女子大学光葉菊物館に引き取ってもらったので、現在は無い)。日本橋の丸善に森林楽の仕様で特注したケースに入れてある。大小様々であるが、数はそれ位ある。しかも、冨樫氏のものは、殆ど袴(ハカマ)付きである。
●冨樫氏は、深沢は貧乏学者だから、金は要らない、気持ちだけでイイ、その分、金持ちからもらうヨ、と言って、私の希望を叶えてくれた。私の研究する斎藤親盛(如儡子)が冨樫氏と同じ酒田の奉行の子であった、という点で好意を持っていてくれたのかナ、と今は思ったりしている。私は失礼のないように対応してきた。冨樫氏はお酒が大好きで、特に洋酒を好んだ。私は専ら三越のオールドパーを活用していた。
●印文は私が古典の中で出会ったもので、しかも冨樫氏が納得したもののみ彫ってくれた。私は常に冨樫さんにテストされていた事になる。また、冨樫さんの印影を見せてもらい、気に入ったものをお願いしたりもした。私としては,身に余る道楽であったが、これらの印文から生き方を学んだ点も多い。感謝、感謝、感謝。

●冨樫氏の篆刻作品は見事である。私も蔵書印譜など多く見ているが、見劣りは決してしない。40年間も彫り続けて、その数も膨大なものであった。
●我々、池袋土曜会は、「省艸印譜刊行会」を設立して、平成4年12月12日、『省艸印譜』を刊行した。限定30部、収録印は、厳選して144点。全て、中国、西玲印社の印泥による手押し。和装本で、匡郭・丁付・題簽は木版、印文等は全て活版。
●寄贈先は、国立国会図書館・都立中央図書館・東大・京大・芸大・武蔵美・多摩美・早稲田・慶応・明治・法政・立教・昭和女子等の図書館である。明治時代には三村竹清などとという粋人がいて、見事な印譜集を残しているが、この『省艸印譜』もきっと,後世の人々の目を楽しませてくれるものと確信している。
●今日、国立国会図書館で検索したら、次の如くであった。
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省艸印譜

富樫省艸刻
 詳細情報
  タイトル=省艸印譜
    著者=冨樫省艸 刻
  著者標目=冨樫、省艸
   出版地=所沢
   出版社=省艸印譜刊行会
出版年月日等=1992.12
大きさ、容量等=32丁;26cm
    注記=限定版ホルダー入
    注記=装丁:和装
   JP番号=93051003
   出版年=1992
    件名=印譜
 対象利用者=一般
 資料の種別=図書
    言語=日本語
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●以下,少し刻印を紹介する。(印材は,注記の無い場合,中国産の石である)

1=「深/蔵書/澤」方形陽刻(蔵書)・陰刻(深澤)混合、20ミリ×20ミリ。中央に陽刻で「蔵書」、左右の「深」「澤」のサンズイは旁の中に組み込まれている。深沢の第1蔵書印で、自分の蔵書に相応しい本のみに押した。
2=「深澤/蔵」陽刻方形、20ミリ×20ミリ。
3=「深澤/蔵印」陽刻方形、25ミリ×25ミリ。
4=「深澤/蔵印」陽刻方形、24ミリ×24ミリ。
5=「氏/従拝受〔深〕/年月日」陽刻縦長方形、43ミリ×28ミリ。本を寄贈された場合に押して、寄贈者と年月日を書き込む。
6=「我心在/古典」陽刻方形、40ミリ×40ミリ。神田の古書店で頂いた短冊から。
7=「我心在/古典」陽刻方形、38ミリ×38ミリ。
8=「我心在古典」陽刻縦長方形、45ミリ×23ミリ。
9=「 /我心在古典/ 」陽刻方形、39ミリ×39ミリ。指導した卒業論文の末尾におす。右に題目、左に面接諮問実施日を書き込む。
10=「人間探究」陽刻縦長方形、90ミリ×22ミリ。文学研究の目標として、恩師・重友先生からお教え頂いたもの。
11=「人間/探究」陽刻方形、23ミリ×23ミリ。
12=「人間/探究」陽刻方形、24ミリ×24ミリ。
13=「人間/探究」陽刻方形,23ミリ×23ミリ。
14=「人間探究」陽刻縦長方形、30ミリ×14ミリ。
15=「實事/求是」陰刻縦長方形、46ミリ×30ミリ。研究姿勢として、実践を目指している。天理図書館入口の額にある。木村三四吾先生からのアドバイスも頂いた。中国浙江大学の校訓は「求是」であった。
16=「實事/求是」陽刻縦長方形、45ミリ×29ミリ。
17=「實事/求是」陽刻方形、30ミリ×30ミリ。平成7年の年賀状に使用。前年に中国旅行をして浙江大学を訪問。
18=「實事求是」陽刻縦長方形、22ミリ×8ミリ。
19=「實事求是」陽刻縦長方形、18ミリ×8ミリ。
20=「願讀/人間未/見書」陰刻方形、30ミリ×30ミリ。平成6年の年賀状に使用。新しい資料にめぐり合いたいという願望を込めた。
21=「好古/成癖」陰刻方形、30ミリ×30ミリ。平成8年の年賀状に使用。
22=「有所/不為」陰刻方形、30ミリ×30ミリ。平成9年の年賀状に使用。平成8年4月、国語国文学科の学科長となる。
23=「一事不/成両/鬢糸」陰刻方形、30ミリ×30ミリ。晩年の年賀状に使用。
24=「莫若/書籍」陽刻方形、30ミリ×30ミリ。平成10年の年賀状に使用。人の神智を益するは書籍に若くは莫し。とかく実用が重んじられ、書物が軽んじられている。
25=「盈而/不溢」陽刻方形、30ミリ×30ミリ。
26=「體道/不倦」陰刻方形、30ミリ×30ミリ。道を追究してあきることがない。
27=「花意/竹情」陽刻方形、30ミリ×30ミリ。なにやら,己に通うが如し。
28=「馳神/運思」陽刻方形、30ミリ×30ミリ。
29=「獨樂/其志不/厭思道」陽刻方形、30ミリ×30ミリ。平成15年の年賀状に使用。『礼記』の「楽記」第19にある。独り其の志を楽しんで,其の道を厭わず。つぶさに其の道を挙げて,其の欲を私せず。こんな調子で1年を送りたいものと。
30=「朽木不/可雕」陰刻方形、24ミリ×24ミリ。
31=「改過/不吝」陰刻方形,24ミリ×24ミリ。
32=「行素/夢/常情」陰刻方形、30ミリ×30ミリ。
33=「安貧/樂道」陽刻方形、30ミリ×30ミリ。
34=「書不可/妄讀」陽刻方形、25ミリ×25ミリ。
35=「書不可/妄讀」陽刻方形、29ミリ×29ミリ。
36=「無所不/用其極」陽刻方形、30ミリ×30ミリ。
37=「地不長/無名之/艸」陽刻方形、35ミリ×35ミリ。
38=「存生不/可言」陽刻方形、30ミリ×30ミリ。いずれは、発信したかった印文。
39=「朝聞/道夕/死可」陰刻方形、34ミリ×34ミリ。
40=「存生不/可言」陰刻方形、20ミリ×20ミリ。
41=「萬巻/蔵書/宜子弟」陽刻方形、40ミリ×40ミリ。
42=「校書如/掃塵」陰刻縦長方形、40ミリ×18ミリ。長年古典の校訂・校注の仕事をしてくると、切実に感じる。
43=「瀟灑/林書瞑」陰刻方、25ミリ×25ミリ。
44=「後生/可畏」陰刻方形、20ミリ×20ミリ。
45=「他山/之石」陰刻方形、25ミリ×25ミリ。
46=「録而/不作」陰刻方形、25ミリ×25ミリ。論文もかくありたきもの。
47=「間/是宝」陰刻方形、30ミリ×30ミリ。平成14年の年賀状に使用。14年から15年にかけて,まさにこのような時間が経過している。「間」は誠に大切なもの。その「間」を活かすか空費するか。
48=「焉/用佞」陰刻方形、35ミリ×35ミリ。誠に厳しい。
49=「勉而/壱」陽刻方形、30ミリ×30ミリ。平成12年の年賀状に使用。
50=「好書/到手不/論銭」陰刻方形、35ミリ×35ミリ

■一部、昭和女子大学光葉博物館へ保存して頂いた。

名刺 雑感 ⑧

名刺 雑感 ⑧
2018.10.16 Tuesday

●人見楠郎、昭和女子大学理事長、学長。原田親貞、昭和女子大学教授、副学長。
昭和57年12月27日。原田先生にお会いして、人見先生に引き合わせて頂いた。昭和女子大学へ就職したいという、私のお願いのためである。ことここに至る前に、様々な出来事があった。それを整理しておきたい。 

※この〔名刺 雑感〕は、自分史でもあるので、少し詳しく整理したい。

●誠文堂新光社の辞典部で、諸橋徹次門下の今井宇三郎先生等の『筆順部首 机上漢和辞典』を完成させた私は、辞典部の次の仕事として、新しい辞典の企画書を作成して提出した。初版の諸経費は約2000万円である。企画会議で検討の結果、承認された。しかし、その上の段階で、保留になってしまった。〔保留〕は中止である。つまり、この出版社では、この辞典は出せないということである。長澤先生との義理は、既に果たした。ここで、アクションを起こしても悪くはない、と思った。

●私は、B出版社のI社長さんにお願いして、時間をとって頂き、一夜、詳細な御説明を申し上げた。社長さんは、全て了承し、私の移籍とこの辞典の出版を引き受けて下さった。私たち二人は、東急プラザでの会談を終えて、渋谷駅に向かった。歩きながら、社長さんは、

「深沢さん、研究業績もあることだし、ここで、研究職に転ずるのも一つの道ではないでょうか」

と申された。この一言で、私の人生は、急展開したのである。新しい辞典の事は、編者のM先生と、社長さんに進めてもらい、私が側面から応援することにした。

●実は、2、3年前に、昭和女子大へ行きませんか、というお話を頂いて、その時は、辞典の仕事の責任者として、移籍は無理だったのでお断りした。そんな経緯があり、今度は、こちらからお願いしてみた。お願いしたのは、S先生と、T先生である。両先生の御尽力で、原田先生に面接して頂くことができ、人見先生にも、引き合わせて頂くことが出来た。という経過である。

●実は、人見先生も、原田先生も、東大時代の、長澤規矩也先生の教え子であった。私は、法政大学で長澤先生に御指導を頂いた。そのような関係で採用して頂いたのである。昭和58年度の『昭和学報』の新人事を見て、ほとんどの方が大学院なのに、学部卒の私がいて驚いた、と当時の教務課長が言っていた。
●実は、私は法政の大学院へ進めなくなった時、大学教員になることは諦めていたのである。ただ、研究は大好きで、継続していた。不思議なことに、そんな私に、高知からも、鳴門からも、富山からも、来ないか、とお声をかけて頂いた。しかし、私は、東京を離れると研究できない、という研究方法だったので、地方の大学へは行けなかった。
●私が昭和女子大へ移籍した、昭和58年当時は、入学志願者が多く、また、学部よりも短大が人気だった。そんな時代背景があって、私の願いは実現したのだと思う。この点、ラッキーだった。

●昭和女子大学にお世話になってから、人見先生にも、原田先生にも、大変な御配慮、御指導を賜わった。私のような、勝手気ままな人間が、よく定年まで勤務できたものと、自分でも、驚いている。その場、その場で、謝ったり、弁解したりして勤めあげたのだろう。
●人見楠郎先生は、理事長であり、学長でもあったので、ヒラの教授では、1対1で面談することは、少ないと思う。私は、柄にもなく、国文科の学科長を6年間も仰せつかったので、人見先生と直接お話しする機会が少なくなかった。秘書の指示に従って、分刻みでお会いした。
●多くは、人事関係であり、新規採用の素案を見て頂き、承認を貰うことが多かった。現在のように公募ではなく、学科長の力量で、より優秀な人材を集めていた。これには、学界との人脈がものをいう。

●ある時、諸事案件終了の後、先生、一つ小さなお願いがありますが、宜しいでしょうか、と切り出した。人見先生は、ウン、と申された。当時、古書店に鈴木重嶺関係資料が出て、私は、即座に個人的に購入した。金額は数百万円。これを大学で購入して欲しいというもの。そういうものは、貴重だから、優先的に購入しなさい。とお許し下さった。稟議書に〔人見先生御了承済〕という付箋をつけて回して、関係者の押印を頂いた。
●実は、現在、昭和女子大学図書館には、鈴木重嶺の〔翠園文庫〕が所蔵されている。これは、重嶺の御子孫、松本誠先生の奥様の御厚意によって、寄贈されたものである。
●私は、国語学者の松本誠先生には、大変お世話になっていたが、先生が大学研究室で、突然急逝されてしまった。その時、先生の御蔵書を私が整理してあげたのである。そんな関係から、重嶺関係資料が昭和女子大学に寄贈されたのである。
●この際、古典籍の購入の件で付言しておきたい。昭和女子大学図書館には、鹿島則文の〔桜山文庫〕の国文学関係の古典籍が所蔵されている。昭和59年、文庫の所蔵者、鹿島則幸氏から一括譲渡を依頼されて、移籍間もない私が進めたものである。これも、原田親貞先生、人見楠郎先生の御許可を頂いて実現したものである。
●さらに、もう一つ、南部新一旧蔵、児童文学関係書のことが思い出される。

■大阪国際児童文学館には「南部新一記念文庫」が所蔵されている。図書約9000部、雑誌約5000冊、その他約1000点、と同館の目録は記載している。南部新一氏は明治27年京都に生まれ、児童文学に興味をもち、博文館で児童雑誌等の編集を担当、自らも創作を続けた。昭和61年他界され、生涯をかけて収集した児童文学関係の蔵書は膨大なものであった。
●昭和63年1月5日、友人の伊藤さんから電話をもらった。伊藤さんは児童文学に関連する出版や様々のイベントを手がけて、世界を飛び回っていた。伊藤さんは、長年、南部氏と交流があり、南部氏没後、その残された蔵書の処置を一任されているという。南部氏の奥さんは、既に他界され、親戚関係の方々はおられるが相続に関して、権利等全く主張していない、との事であった。
●私は、翌々日、伊藤さんにお会いして、事実関係を確認した。現物は品川の一軒家に保管されていて、書籍・雑誌等、およそ2万点、他に、吉川英治等近代作家の書簡などがかなりある。寄贈の条件は、所蔵者・南部新一氏の児童文学研究を顕彰する意味で、このコレクションを南部新一文庫等の名をつけて、一括永久保存すること。また、極力早い時期に、この文庫の全目録を作成して出版する、というものであった。
●帰宅後、文学部長の原田先生に報告、原田先生は学長の人見先生に御説明、学長も、この受け入れを承諾して下さった。人見先生は、場合によっては、コレクションの鈴の部屋を空けて下さるとも仰ったと、原田先生から伺った。
●私は、伊藤さんとも相談しながら、内々計画を立てた。予算を1000万ほど計上し、伊藤さんに週2日ほど来学してもらい、大学院生を募集して目録作成をする。
新年の大学が始まった時、原田先生には詳細に文書で報告して、御承諾を頂いて、その後の進展を待った。
●数ヶ月後だと記憶するが、伊藤氏から連絡があり、関係者と検討を重ねた結果、昭和女子大学が最有力候補であったが、相続人の希望は、南部氏の出身の関西の地に保管して欲しいということであり、最終的には大阪国際児童文学館に依頼する事になった、との事であった。
結果的には、昭和女子大には入らなかったが、資料は収まる所に収まったと、これはこれで、よかったと思っている。

●これらの蔵書に関連して、人見先生と原田先生の御配慮を賜ったことは、私にとっては、大変名誉な事であり、終生忘れられない事である。
人見楠郎先生、原田親貞先生、有難うございました。

名刺 雑感 ⑦

名刺 雑感 ⑦
2018.10.15 Monday

●赤井三男 東京都保谷市立保谷小学校長。赤井先生は、原村立原小学校、6年生の時の担任だった。私は、小学校へ入学しても、勉強は余りしなかった。60人中の30番目の辺りをうろうろしていた。
●6年になった頃だと思う。悪事を働いて、赤井先生に教員室に呼び出された。お前のようないたずら者は、原小学校ではもう面倒見きれない。静川村の切石小学校に転校させる、と言い渡された。私は、涙を流して、心の底から謝った。勉強しだしたのは、この頃からだと思う。

●赤井三男先生は、昭和23年3月の、私の〔成績通信簿〕に次の如く記入して下さった。
■極めて子供は内気にして、女性的な所がみうけられます。男らしい、ハキハキした子供となるべく御指導下され度く。発表を好マズ、女性的ニシテ、授業中特ニ活気ニ乏シ。(赤井)
■活発なる学習を望む。明朗活発なる気持ちに漸次移って参りました。発表も次第に旺盛になることと思はれます。成績もこの分では、著しく向上するものと思はれます。是非とも今の気持ちを持続させて、益々努力するよう御鞭撻下さい。
■成績向上顕著なり。学業全般に亘り佳良なり。顕著な成績向上をみて、定めし御父兄にもお喜びの事と思ひます。子供は実に克く活躍して参りました。子供の家庭での躾が斯様な立派な成績を揚げる素因となったと思ひます。何卒新学期には、益々努力させて勉学するよう御指導下さい。(赤井)
◆国語=優、社会=優、数学=良上、理科=優、音楽=良上、図工=優、家庭=優、体育=良上。
●優等賞5名、佳良賞2名、だったと思う。だから、30番目くらいから、一挙に6、7番目位になったわけである。それからは、学ぶことが好きになった。

●また、6年の時、こんなこともあった。体操の時間に、富士川へ泳ぎに連れて行ってもらった。水に入って立っていたら、足元の砂が崩れ出した。足を揚げたトタンに、すーっと吸い込まれて気を失った。目が覚めたら、大きな岩の上に寝かされていた。一度、水底に沈んで浮き上がった時、赤井先生が助けてくれたという。2度目に沈めば、私は死んでいた。先生は、文字通り、命の恩人でもある。
●赤井先生は、同じ原小学校の石田須磨子先生と結婚され、共に、東京へ出られて、杉並区などの小学校で教えられた。保谷小学校、小金井市立前原小学校の校長先生を務められ、昭和61年に定年退職された。永年の教育界への貢献によって、晴れの叙勲を授与されている。

赤井三男先生の御学恩に対して、心から感謝申し上げます。

新聞協会賞受賞 朝日新聞

新聞協会賞受賞 朝日新聞
2018.10.15 Monday

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新聞協会賞受賞、朝日新聞

●取材と検証 浮かぶ真相

歴史の真実を明らかにし、謙虚に向き合い、未来への糧とする

戦史・日記・新聞・・・資料を集め街再現

記録を掘り起こし、権力を監視する

●「財務省公文書改ざん」特報に新聞協会賞

記録を追う 歴史を残す
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●今日の朝日新聞を見て、感動した。新聞記者の魂が伝わった。

名刺 雑感 ⑥

名刺 雑感 ⑥
2018.10.13 Saturday

●原 秋津氏、株式会社トーシンユニホーム 代表取締役。原さんとお会いしたのは、横山重先生が、伊東市赤沢浮山町に御転居なされてからであるから、昭和49年(1974)以後の事である。伊東の横山先生の御自宅で、先生から紹介して頂いた。横山先生は、昭和55年に御逝去なされたので、先生御生前中の、原さんとの交流は長くはない。しかし、人間関係の付き合いの密度は、物理的な時間とは比例しない。
●横山先生、最晩年の時期と、先生御他界後の、原さんとの交流は、非常に濃密なものであった。特に横山先生御他界の頃は、私としては、辞典の仕上げに入っていて、早出、残業で大多忙の状態だった。しかし、横山先生の御病状の細部にわたって、全て、原さんから知らせて頂いていたのである。このような、人間関係は、そうそう、ある事ではないだろう。
●昭和55年10月、横山先生が御逝去なされた。その暮れに、私は、原さんに一つのお願いをした。原さんの見た横山先生、原さんの目を通した横山先生についてまとめて欲しい、というものであった。しかし、原さんからの返事は厳しかった。
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 「……私は、横山先生に対して、そのような柄ではありません。大正、昭和初期の言葉で言えば、私風情の及ぶところではないと思っています。……」
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●原さんは、その返事の中で、次のような事を教えてくれた。
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「……晩年の先生は、懸案だったのでしょう。老体をおして、島木赤彦の下諏訪の墓詣をされました。墓は丘の上にあるのでしょうか。赤彦の息、健次氏が、横山先生を背に負って登ったようです。久保田健次氏も先生の恩師赤彦の墓参を喜んで、横山先生のお墓を赤彦の墓の、そばに確保しましょうと云はれた由。その時は「とんでもない」とさえぎったようです。その時の先生の真剣なお顔が彷彿とします。先生の折目正しいご性格でしょう。……」
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●横山先生は、御自分のお墓について、「伊豆の海に放下せ」と仰っておられたという。今、横山先生は、松本隆信先生の、東京麻布の徳正寺に、奥様と俱に眠っておられる。
●原さんは、昭和56年7月『横山重先生 ご終焉のころ』という、46枚の原稿を、私宛に送って下さった。しかし、この原稿は、発表されることなく、私の手許にある。今、その処置を済ませて、私も、この世を辞したいと思っている。
●原さんは、平成8年8月、『横山重自傳(集録)』を刊行された。この本の時も、私は校正をお手伝いし、全面的に御協力申し上げた。
●原さんとの関係は、〔名刺雑感〕では語り尽くせない。いずれ、まとめたいと思う。

名刺 雑録 ⑤

名刺 雑録 ⑤
2018.10.10 Wednesday

●草間彌生さんの名刺がある。氏名・住所・電話番号のみ印刷。お会いしたのは、昭和53年(1978)4月22日である。
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草間 彌生[2](くさま やよい、1929年(昭和4年)3月22日 – )は、日本の芸術家。長野県松本市生まれ。
幼い頃から悩まされていた幻覚や幻聴から逃れるために、それらの幻覚・幻聴を絵にし始めた。1957年(昭和32年)に渡米すると絵画や立体作品の制作だけではなくハプニングと称される過激なパフォーマンスを実行し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった。
草間彌生のいくつかの作品は、水玉模様などの同一のモチーフの反復によって絵画の画面や彫刻の表面を覆うことが特徴の一つである。合わせ鏡を用いて光やオブジェを無限に広がるように見せるインスタレーションや、男根状のオブジェを日用品などに張り付ける立体作品も制作している。カボチャをモチーフにした作品もしばしば見られる。
また、ファッションデザインや小説執筆などの活動も行う。  【ウィキペディア より抜粋】
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2011-07-10
尊敬すべき芸術家 草間彌生
●朝日新聞の「仕事力」欄、7月3日に芸術家の草間彌生氏が登場し、「芸術は、命がけ」と題して、若い頃のことを回想している。また、今日、7月10日の2回目では、「私の主戦場ニューヨーク」と題して、芸術修業の頃の、貧窮の中での絵画制作の様子を語っている。渡米の経緯は、まず、アメリカ大使館へ行き、ジョージア・オキーフの住所をたずね、14枚の作品と共に「美術の道で生きていくすべを教えて欲しい」と手紙を出した。オキーフは、あたたかい返事をくれた。そこで、草間氏は、息苦しい日本からニューヨークへ移住したという。
●100万円を持って渡米して、ニューヨークで安いアトリエを借りて絵画制作に打ち込む。持参した金はたちまち使い果たし、極貧の生活が若い画家を襲う。窓ガラスが割れても修理できない、魚屋のくず箱から魚の頭を拾ってきて餓えをしのぎ、毛布1枚で寒さを凌ぎ、ひたすら描き続けた。見かねたオキーフが訪れて、ニューメキシコに来るようすすめてくれたが、競争が熾烈なニューヨークで闘い続けたいと言って、自分の納得する芸術活動に打ち込んだ、という。
●草間氏は、1973年(昭和48年)帰国された。私が草間さんにお会いしたのは、確か1978年だったと思う、友人の松本君の依頼であった。要件は『マンハッタン自殺未遂常習犯』という小説を出したが、出版社は、その広告に草間さんの作品を使い、しかも、作品の1部分を切り取って使用した。これは著作権の侵害ではないか、という相談であった。私は、さすがに、アメリカ帰りの方らしく、厳し過ぎるとも思ったが、草間氏にとっては1枚の作品も、その画家そのものであり、これは、れっきとした人格権の侵害だと考えた。
●この事をきっかけにして、草間氏とは、その後も、いろいろ、お付き合いしてきたが、この度の、朝日新聞の回想を読んで、芸術に生涯を捧げた草間氏の壮絶な生き方に感動し、尊敬の念が深い。編目・葉脈から水玉へ、自分の世界を追い続ける芸術家に敬意を捧げる。
●余談であるが、私が最初にお会いした時、草間さんは、日本語よりも英語がうまく、日本語に不安があると、筆談を交えていた。また、その時に頂いた、小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』の序を、ハーバート・リード卿が書き、跋文を瀧口修造氏が書いていて、私は吃驚してたずねたら、ハーバート・リードは友達だと言っていた。私は、大学時代、ハーバート・リードの『芸術の意味』を谷川徹三先生に習っていた。素晴らしい著書である。みすず書房のその本は、瀧口修造氏が訳していて、谷川先生は、その訳に詳細な注釈を追加して下さった。私は、この谷川先生の講義で、芸術への眼を開かれた。今は、みんな、いい思い出である。
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●草間さんとの雑談の中で、こんなこともあった。ある大手新聞社の管理職クラスの記者が、草間さんのアトリエから、絵を1枚、無断で持ち去った。それが発覚して、週刊誌に載ることになった。某新聞社は、大日本印刷の輪転機をストップさせて、他の記事と差し替えさせた、という話。
●後の事になるが、草間さんの作品は、ニューヨークのオークションで、日本人で、生存画家としては、最高の値段がついたのである。
●草間さんとの交流は、昭和女子大学へ移籍してからも続いた。草間さんが入院されていた、病院へも伺い、制作中の画家にお会いしたこともある。

◆草間彌生  【ウィキペディア より】

ドナルドキーンセンター柏崎 開館五周年記念公演

ドナルドキーン・センター柏崎 開館五周年記念公演
2018.10.09 Tuesday

ドナルドキーン・センター柏崎
開館五周年記念講演・公演会

古浄瑠璃をもっと楽しむ講座

●近松門左衛門作
「平家女護島」鬼界が島の段
出演 猿八座 渡部八太夫

●記念対談
「古浄瑠璃から近松へ」
出演 西橋八郎兵衛 (猿八座座長)
   川村知行 (上越教育大学名誉教授)

◆2018年10月21日(日)
  開場 13時30分  開演 14時  終演 17時(予定)
  場所 ブルボン統合研修センター 3階 多目的ホール
  入場料 一般 1000円  高校生以下無料
  定員  100名
  問い合わせ ドナルド・キーンセンター柏崎 
0257-28-5755

名刺 雑感 ④

名刺 雑感 ④
2018.10.09 Tuesday

●佐野公重さん、佐野英勝さん、土橋毅さん。皆さん、郷里身延町の出身。毎年、東京在住の人々が集まる、〔東京原村会〕のお世話をして下さっている。かなり前、同級生の、望月光弥君が会長に就任した時から、積極的に参加した。
●私は、大学を卒業以来、郷里身延へは、余り帰っていない。冠婚葬、クラス会、以外はほとんど行かなかった。如儡子・斎藤親盛の出生の地・山形県酒田、没した福島県二本松、ここには、毎年、長期滞在して調査を重ねた。また、仮名草子作品の諸本調査では、全国の図書館を訪問している。しかし、郷里には失礼の連続だった。
●〔東京原村会〕は、極力参加してきた。この会では、政界、財界などで活躍しておられる方々が、多く参加されて、感心していたが、書道の望月翠山先生、短歌の若宮貞次先生に出会うことが出来た。お二人とも、私と同じ、身延町伊沼の御出身である。
●望月翠山先生は、毎年、銀座で個展を開催されていて、おそらく50回になっていると思われる。若宮貞次先生は、アララギ派の歌人で、その活躍は見事であった。
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2012-09-10
合宿研修短歌会

●若宮貞次先生が編集兼発行人である、短歌雑誌『あかね』第28巻第5号が発行された。巻頭に「平成24年度あかね夏の合宿研修短歌会 平成24年8月25日 水月ホテル鷗外荘」の写真が掲載されている。また、その折の参加者の作品も収録されている。このようにして、歌の道に精進する人々が、研鑽を重ねて、日々の生活を一首の中に盛り込んでおられるのだと、初めて教えられた。
●五味保義先生の遺歌集に続いて、若宮先生の作品が掲載されている。
 ささやかな冊子づくりの日々にしてピアノに寄らむいとまのあらず
 新刊の「あかね」をくばり街めぐる行く先々の歌のわが友
 リュック背に門を出で発つ月々の甲府歌会は二十年を超ゆ
 「あかね」誌のゲラが届かむやすらかに朝寝してゐるわけにはゆくまい
 八十代半ばとなりし貞次の眉毛は黒し髪はふさふさ
 レジ袋下げ店を出づほしいまま選び食する日々となりたる
 唐国に逝きにし阿倍仲麻呂は二国語使用の先駆者ならむ
●若宮先生の日常が、つつみかくさず詠じられている。まさに「生活に即した真情の歌」である。できたての『あかね』を歌の仲間に届ける先生の嬉々とした様子。進行中の『あかね』の校正が出てきては、朝寝もしていられない、ちょっと辛いけれど、張りのある日々。歌の材料を背に甲府へ出掛ける、思えば20年間か、よく継続したものだ。八十代の半ばになったのに、眉毛は黒く、髪はふさふさしている、まだまだ、やれるなあ。若宮先生の尽きることの無い芸術意欲に、ひしひしと尊敬の念が湧いてくる。
●17歳の時、遣唐使として中国へわたった、阿倍仲麻呂に寄せる連作の9首に関する分析は、自分の作品についての評価だけに、至難の研究だと思った。私は、平成6年に2週間ほど中国旅行をしたが、阿倍仲麻呂の記念碑の建つ興慶宮公園へも行った。若宮先生の「長安の月」に寄せる連作を拝読して、仲麻呂への思いを新たにしたことである。
■短歌雑誌『あかね』第28巻第5号