昭和女子大の就職率

昭和女子大の就職率

■ 東洋経済オンライン (11月10日配信) より
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女子学生の4年制大学志向が止まらない。文部科学省が公表している2017年度版の学校基本調査(速報)によると、大学学部の女子学生は、前年を1万5000人上回る115万6000人で、占有率は44.8%。人数、占有率ともに、過去最高を更新した。

こうした流れを受け、総合大学の女子占有率が高まっている。一般入試の合格者に対する女子の占有率を、1997年と2017年で比較すると、早稲田大学が25%から36%、明治大学が21%から35%、法政大学が22%から35%などとなっている。大規模な総合大学を中心に大幅に上がっているのが現状だ。

志願者鈍化でも就職率高い”お得”な女子大

一方、同時期の女子大学の入試状況に注目すると、総合大学のような伸びは感じられない。一般入試において実質倍率(受験者数÷合格者数)が上がっている大学は多くないのだ。東京の津田塾大学や東京女子大学、日本女子大学、また関西の京都女子大学、同志社女子大学、神戸女学院大学といった、東西の女子大御三家でも、実質倍率はほぼ横ばいで大半が2倍台。中には大幅に下がった大学もある。

ランキング上位に比較的小規模の大学が並ぶ中、異彩を放つのは、卒業生が1400人を超えるにも関わらず7位に入った、昭和女子大学だ。キャリア支援センターの職員と教員の連携によって、学生の状況を把握し、ていねいな支援を行っている成果が出ている。卒業者数1000人以上の女子大実就職率ランキングに限ると、7年連続でトップになった。同大のOGは企業からの評価が高く、卒業生を採用したいという声が多いという。こうしたOGの活躍は、伝統のある女子大に共通する強さだ。
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小出昌洋氏の思い出

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小出昌洋 こいで まさひろ

小出昌洋とは
編集者、出版社経営者。1948年東京都生まれ。
自身の出版社「個人社」で、森銑三の著作の刊行を行う。
また、森をはじめとした過去の文人たちの著書の編集作業も行っている。

編纂
『森銑三遺珠』1-2 編 研文社 1996
海賀変哲『新編落語の落』1-2 編 平凡社 1997.東洋文庫
亀井孝『お馬ひんひん 語源を探る愉しみ』編 1998.12.朝日選書
加賀翠溪編『新耽奇会図録』監修 吉川弘文館 1998.10.続日本随筆大成 別冊
山田三川『想古録 近世人物逸話集』1-2 編 平凡社 1998.4.東洋文庫
森銑三『新橋の狸先生 私の近世畸人伝 増補』編 1999 岩波文庫
柴田宵曲『新編俳諧博物誌』編 1999.1.岩波文庫
柴田宵曲『団扇の画 随筆集』編 2000.8.岩波文庫
森銑三『新編明治人物夜話』編 2001.8 岩波文庫
森銑三『新編おらんだ正月』編 2003.1.岩波文庫
川上行蔵『食生活語彙五種便覧』編 岩波書店 2006.1.完本日本料理事物起源
川上行蔵『日本料理事物起源』編 岩波書店 2006.1.完本日本料理事物起源
森銑三『古人往来』編.2007.9.中公文庫
森銑三『風俗往来』編 2008.3.中公文庫
森銑三『落葉籠』編 2009.6.中公文庫
柴田宵曲『漱石覚え書』編 2009.9.中公文庫
相磯凌霜『荷風余話』編 岩波書店 2010.5.
【はてなキーワード より】
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●森銑三氏の著作等で、しばしば名前の出る、小出昌洋氏は、実は、法政の後輩である。私がまだ桃源社の編集部に居た頃、入社したきた。まだ、若いのに、読書量は半端ではなかった。私など、とても足許にも及ばない状態だった。私は、小出君は、まだ若い、決して時期が来るまで、モノを書かないように、とアドバイスした。しっかり基礎が出来てから書き始めても遅くない、そう思った、そんな逸材だった。私が桃源社を退職する時、編集の仕事の後を小出君に引き継いでもらった。その後、森銑三氏に認められ、森氏の仕事を手伝うようになった。森氏の汲めども尽きない探究心と、その博覧強記ぶり、これは、小出氏にも共通している。小出氏は、森氏に出会って、素晴らしい人生を獲得した。私など問題に成らないような存在になった。桃源社時代を思い出して、実に懐かしい。

森銑三氏の研究

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森 銑三(もり せんぞう、1895年(明治28年)9月11日 – 1985年(昭和60年)3月7日)は、昭和期日本の在野での歴史学者、書誌学者[1]。
概要
高等教育を経験しなかったにもかかわらず、図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学・国史の研究にいそしみ、図書館・資料館等に保管された資料の発掘と、それらを元に人物伝や典籍について精密に記した膨大な量の執筆活動を通じ、近世日本の文化・文芸関係の人物研究の分野で多大な業績を残した。
略歴
愛知県碧海郡刈谷町に出生。生家は呉服商。沢山の小説本を買い与えられ、文学に親しむ。刈谷尋常小学校時代は利発で学業に秀でていたが、刈谷には中学校が設立されておらず、中学校進学を希望するならば近隣の岡崎で下宿する以外になく、小商人の子弟がその選択肢をとることは、様々な意味で困難であったため、高等小学校への進学を選択した。森の学力を惜しんだ小学校の教師が中学校への中途編入に奔走したが、結局かなわず、森は高等教育を受ける機会を逸した。1910年、高等小学校卒業後、叔父を頼って東京へ上り、工手学校に入学したが、すぐに体調を崩し帰郷する。
1915年、刈谷町の図書館に採用され、村上忠順旧蔵書(村上文庫)の整理や、古版本・古写本などの分類目録の作成にたずさわる[2]。その後、母校の後身である亀城尋常高等小学校の代用教員となる[3]。
1918年、再度上京し、雑誌社・大道社[1]の『帝国民』の編集者兼記者となるが、すぐのちに群馬県高崎市の南尋常高等小学校の代用教員に転じる。同僚と童話雑誌『小さな星』を刊行するが、問題とされて小学校を解雇される。1920年、刈谷に戻り、名古屋市立名古屋図書館に勤める。このころ、知人の紹介で地元紙『新愛知』に『偉人暦』という記事を1年間連載する。
31歳となった1925年、東京・上野にあった文部省図書館講習所(現:筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)に入学する。このころ、隣接する帝国図書館の蔵書を乱読する。翌年講習所を卒業し、大道社時代に知己を得ていた歴史学者・辻善之助の紹介を受け、東京帝国大学史料編纂所の図書係となり[4]、松岡於菟衛の指導を仰ぐ[5]。このころ、柴田宵曲と知り合い、終生にわたり親交を結ぶ[6]。1934年、40歳を記念して『近世文藝史研究』を出版[7]。その後は雑誌『子供の科学』への執筆や、それをまとめた『おらんだ正月』の上梓を行う[8]。1939年、在職13年で編纂所を退職[9]。
編纂所退職後、名古屋市立図書館長・阪谷俊作と知り合い、目白の尾張徳川家の邸宅にあった蓬左文庫の主任となる[10]。在任中に『渡辺崋山』『佐藤信淵 疑問の人物』を発表。従来の説を覆し、学会の物議を醸す[11]。1942年、蓬左文庫を退職し、帝国図書館や、加賀豊三郎(加賀翠渓)の書庫に日参しながら執筆に専念する。1943年、50歳の時、随筆集『月夜車』を出版。太平洋戦争が激化する中、図書館での抄録を資料とし、本郷区駒込動坂町の自宅で整理する、という研究方法をとっていた森は疎開をしたくてもできないまま、1945年4月13日の東京大空襲により自宅を焼かれ、膨大な研究資料を失う[12]。
1948年、『近世文藝史研究』の版元である古書肆・弘文荘の店主・反町茂雄と偶然再会し、反町に弘文荘の在庫整理を依頼される。反町は家を失った森を自身が所有する神奈川県藤沢市鵠沼の邸宅に転居させるなど、終生森の活動を支えた。弘文荘勤務のかたわら、執筆を再開したほか、1950年から15年間、早稲田大学講師(書誌学)として教壇に立ち、後進の育成にあたった[13]。
1970年から1972年にかけて、『森銑三著作集』全13巻を刊行。1972年に読売文学賞を受賞。1985年、脳軟化症のため死去。愛知県刈谷市の正覚寺森家墓地に葬られる。のちに知人や教え子によって、藤沢市の万福寺に分骨され、夫妻の墓が建てられた。1992年から1995年にかけて、『森銑三著作集 続編』全17巻刊行。
研究業績
著作は『著作集』(全13巻)『著作集 続編』(全17巻)にまとめられている。森の著述は、江戸・明治期の風俗研究、人物研究を行う上での基点となっている。
森の著述は歴史小説家たちにとって、作品を書く上での必須の資料になっている。森自身は生前、このことをおおむね好意的に受け止めていたが、大げさな表現を用い、出典もろくに記さず、根本資料から調べ上げたような態度で独善的な史観を展開する、著名歴史小説家の姿勢には批判的であった。
江戸学の始祖の一人と目されている。
西鶴研究
後半生は井原西鶴の研究に注力し、『西鶴本叢考』『西鶴一家言』『西鶴三十年』『一代男新考』などを著した(大半は『著作集続編 第4巻 西鶴論集』所収)。
森はこれらの著作を通じて、用語や文体などの徹底した考証検討から、浮世草子の中で西鶴作品として扱われているもののうち、実際に西鶴が書いたのは『好色一代男』ただひとつであり、それ以外は西鶴が監修をのみ行ったに過ぎない作品(西鶴関与作品)、または西鶴に擬して書かれてだけで関与もしていない作品(摸擬西鶴作品)だと主張した(井原西鶴#森銑三説参照)。この説は学会で正式に認知されていないが、近年に至り、西鶴の作品について森の主張を裏付ける研究成果が徐々に現れ始めている。
人物
『赤い鳥』への寄稿で知られる童話作家の森三郎は弟である[14]。
公私にかかわらず一貫して清廉な姿勢を貫き、華美を嫌った。それを永井荷風は、「森さんのような人こそ、真の学者である」と評している。
江戸風俗研究家・漫画家の杉浦日向子は森を深く敬愛していた。
著書
単行本
近世文藝史研究(弘文荘 1934年)
おらんだ正月(冨山房百科文庫 1938年)。新版1978年、富士川英郎解説
「おらんだ正月」 角川文庫 1953年、岩波文庫 2003年(小出昌洋新編・外山滋比古解説)
【中略】
森銑三遺珠 1・2(研文社 1996年、小出昌洋編・解説)
偉人暦 上・下(中公文庫 1996年、小出昌洋編・解説)
偉人暦 続編 上・下(中公文庫 1997年、小出昌洋編・解説)
【中略】
著作集
●森銑三著作集 全12巻別巻1(中央公論社、1970-72年)
中村幸彦ほか編。第23回読売文学賞受賞(研究・翻訳部門)。初版は函入、のちカバー装の普及版と新装愛蔵版を刊行。別巻は、人名・書名の索引・著作目録ほか。
●森銑三著作集 続編 全16巻別巻1(中央公論社、1992-95年)
小出昌洋・朝倉治彦ほか編。カバー装。正編以降の著書、未収録著作等の集大成。別巻は、初期文集・総索引ほか。
【後略】 【ウィキペディア より】
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●今、森銑三氏の、如儡子研究を拝読している。この研究は、何回も何回も拝読し、今は、最終的な拝読である。最初は、学生時代に読んだ。凄い研究者だと思っていた。『井関隆子日記』を出した頃、松本誠先生に勧められて、森銑三氏の主宰されていた〔三古会〕に参加したこともあった。私には、余り合わない会だったので、短期間で行かなくなった。
●都立日比谷図書館の特殊文庫にも、しばしばお世話になったが、そんな時、隣室で森氏が図書館の方々と、古文書を判読されていた。声を出して読まれていたが、森氏の実力の凄さを確認できた。

森銑三氏 ネットより

清水房雄先生

清水房雄先生

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清水 房雄(しみず ふさお、1915年8月7日 – 2017年3月3日)は、歌人。
経歴
千葉県生まれ。本名・渡辺弘一郎。東京文理科大学卒。大学で加藤楸邨と同期。1938年『アララギ』に入会、土屋文明・五味保義に師事、九州小倉で国語教師、のち予科練の教官になり、土浦、西宮、高野山と移り倉敷海軍航空隊で敗戦を迎える。戦後は都立高校で教え、東京都立北園高等学校校長、昭和女子大学教授などを歴任。そのかたわら『アララギ』編集に携わる。90年から2008年まで読売歌壇選者。97年『アララギ』終刊後、『青南』編集委員。漢詩・漢籍に造詣が深く、宮中歌会始選者も務めた。
受賞歴
1964年『一去集』で第8回現代歌人協会賞
1977年「春の土」で第13回短歌研究賞
1990年『絑間抄』で第17回日本歌人クラブ賞
1998年『旻天何人吟』で第32回迢空賞
1999年『老耄章句』『斎藤茂吉と土屋文明』で第22回現代短歌大賞
2004年『獨孤意尚吟』で第15回斎藤茂吉短歌文学賞
2008年『已哉微吟』で第23回詩歌文学館賞受賞
著書
『一去集 歌集』白玉書房 1963 のち短歌新聞社文庫 
『又日々 歌集』白玉書房 1971
『長塚節の秀歌 覚書』短歌新聞社(現代短歌鑑賞シリーズ) 1984
『天南 歌集』短歌新聞社(現代短歌全集) 1987
『子規漢詩の周辺』明治書院 1996
『旻天何人吟』不識書院 1997
『斎藤茂吉と土屋文明 その場合場合』明治書院 1999
『碌々散吟集 歌集』短歌研究社 2005
『已哉微吟 歌集』角川短歌叢書 2007
『如丘小吟 自選歌集』不識書院 2007
『蹌踉途上吟』不識書院 2009
『残余小吟』不識書院 2012
『残吟抄』不識書院 2013
    【ウィキペディア より】
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●私は、この清水房雄先生(渡辺弘一郎先生)の後任として、昭和女子大学の短期大学部国文科に採用された。教務として、渡辺先生の担当していた事も引き継いだのである。また、授業では、1年生の必修の国文法も担当した。専攻は、近世文学であったが、教員構成の関係で、命じられた事は何でも担当したのである。それが、やがて、近世の女流日記文学『井関隆子日記』を講じさせて頂けるようになった。有り難い経過である。

先哲の慰霊祭

●10月5日、昭和女子大学で、先哲の慰霊祭が行われた。『昭和学報』の11月号で、詳細を知った。環境デザイン学科の佐野武仁先生は、建築のドームの研究で知られていた。昭和女子大学の教員のホームページでは、建築の芦川先生、佐野先生、それに、私のものがコンテンツが大きい方だった。そんな関係もあって、いろいろ教えて頂いたのである。

●代文化研究所の野々山三枝先生は、近代文学の研究者でもあり、歌人でもあった。先生には、国文学科で、実作者として、短歌の講義をして頂いた。渡辺弘一郎先生は、有名な歌人である。実は、この渡辺先生の後任として、私は、昭和女子大学に採用されたのである。入れ違いゆえ、直接お会いしていないが、先生の歌集は拝読している。

御他界なされた先生方の、御冥福を心からお祈り申上げます

死後に残る個人の記憶

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(科学の扉)「想定外」を考える 死後も残る、個人の記憶 外部にデータ、過去の思考検索も
2017年11月5日05時00分
 20xx年、Aさんの家族がタブレット端末に話しかける。「イヌを飼いたいけれど、どう思う?」。すると、画面上でAさんが笑った。「きちんと世話をするなら。プードルかシバイヌがいいな」。実は、Aさんはもうこの世にいない。家族と話しているのは、生前の記憶データをもとに人格を忠実に再現した人工知能(AI)だ。
【朝日新聞 デジタル】
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●死後に、自分のやったことが記録され、伝えられる、それだけでも驚きであるが、登録しておけば、自分の記憶が伝えられるという。私が学び始めた頃は、紙に記録されたものが、一部分、後世へ伝えられる、という程度だった。それが、科学の進歩で、次々に開発されて、自分のやってきた事が、10年後30年後に確認できるようになり、それを、客観的に公開できるようになった。
●私は、こんなことをしてきて、周囲の人々は、こんな風に評価してくれました、そんなことが、確認できるようになった、それだけでも、私は驚いて感謝している。多分、〔私の記憶〕は、私の書いた事や、やってきた事をコンピューターが集積・分析するのだろう。当たらずとも遠からず、という結果になるだろう。
●今日の、朝日新聞〔GLOBE〕は「未来をあきらめない」だった。国連が策定した〔SDGs〕というのも初めて知った。人間は、大自然の摂理の中で、どのように生きてゆくのか。

 

久し振りの BMW

●2日は、10ヶ月振りに、息子と合った。上石神井の会計事務所へ、妻と3人で挨拶に行ったのである。妻は、35年間経営してきた美容院を閉鎖して、現役から引退した。美容院を経営していた、有限会社を閉鎖したのである。20名前後の従業員に助けられて、こまで来ることが出来た。会計事務所の先生達の御厚意に対して、感謝感激だった。

●久し振りに、息子のBMWに乗って、つくづく幸せを思った。息子は、パルサー、トレノ、シルビア、カブトムシ、プジョー、BMW(3回)と乗り換えた。妻は、ジェミニー、シーマ(3回)、レクサス、BMWと乗り換えてきたが、現在は、免許証を返還して乗らない。私は、運転できないのいので、ただ、乗せてもらうだけだったが、思えば、いろいろな車に乗せてもらった。有り難いことである。

ロダンのバルザック像

●今夜、NHKザ・プロファイラーで、ロダンをみた。凄い彫刻家の生涯を思う。

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一八九一年、オーギュスト・ロダンは、フランス文芸家協会から、同協会の初代会長である、小説家、オノレ・ド・バルザックの記念像の制作を依頼された。七年後、ロダンは、ガウンをまとったバルザック像を完成させた。しかし、当時の文芸家協会は、「フランスが誇る偉大な作家を侮辱するもの」として、作品の引き取りを拒否した。

ロダンは、その石膏像を自宅に秘蔵し、終生、外に出さなかった。この作品がブロンズ像として、モンパルナスの美術の丘に立ったのは、それから四十年も後のことであった。

このバルザック像の制作過程を伝えるものに、リルケの『ロダン』がある。

ライナー・マリア・リルケは、一九〇一年、単身パリに移住し、彫刻家・ロダンに傾倒し、親しくその教えを受けた。このリルケの記録によれば、ロダンは、バルザック像の制作において、機械的な模写を考えず、また、あらかじめ自分の意図した変容をバルザックの実像に加えることはしなかった。

ロダンは、バルザックを知るために、彼の故郷、トゥレーヌ地方を訪ね、彼の手紙を読み、彼を描いた絵を研究し、彼の文学作品を精読した。

「彼はバルザックの作品の中を何度も何度もとおった。」(高安国世訳・岩波文庫)

作品の中で、ロダンは、バルザックの創った人々と、いたる所で出会い、まるで自分自身がバルザックによって創られた人物であるかのような状態で数年間を過ごした。

ロダンは、さらに、バルザックの金属板写真、画像、彫像、同時代の詩人・作家の手記などを研究し、全くバルザックの精神に充たされた中で、いよいよ、彫像の制作に取りかかった。

ロダンは体かっこうが似た生きたモデルを使って、様々な姿勢の七つの原型を作った。しかし、それでも、究極のものが表現されていないことを感じた。そして、詩人・ラマルティーヌの次の言葉に出会う。

「彼は元素(Element)の顔つきをそなえていた。」

「彼はその重いからだを無のようにかるがるとはこぶほど多くのたましいを 持っていた。」

ロダンは、この言葉の中に自分の求めているバルザック像の大部分を発見し、イメージをふくらませていく。

彼は、七つの裸体にバルザックが作品執筆の時によく着ていたような僧服を着せたり、僧侶の頭巾をかぶせてみたりして、様々な試みを重ねながら、次第に自分の目指すモノヘと近づいていった。

このように、あらゆる手段を尽くして、バルザックの立像の完成に到達したのである。

リルケは、この像について、次のように記している。

「ついに彼はバルザックの姿を見た。堂々と、大股に闊歩する姿、ゆたかに垂れさがるマントのためにすべての重さを失った姿であった。頑丈なうなじに頭髪がしっかりと身をささえ、その髪の毛の中へもたれかかるようにして顔がある、観ている顔、観る酩酊陶酔の中にある顔、創造に泡立ちたぎっている顔。これこそ元素の持つ顔であった。これこそあふれるばかりの創造力の中のバルザックであった。世代の創造者、運命の浪費者バルザックであった。」

「ロダンはこの像に、おそらくこの文学者の実際の姿をしのぐ偉大さを与えた。彼はバルザックをその本質の根本から捉えたのだ。」

ロダンは、このような長い苦闘の末、その全体を象徴的に表現した、バルザック像を完成することができたのである。

しかし、この苦心の末の成果も、それが、実際のバルザックの姿に似ていないという理由のもとに、この作品は、注文者から受け取りを拒否され、長い間陽の目をみることができなかった。彼の芸術は、当時のフランスのサロンに理解されなかったのである。

ロダンが制作過程で示したこの態度は、文学研究を志す私達に、一つの貴重なヒントを与えてくれている。

ロダンは、バルザックの本質を究めようとした時、彼の写真や、画像や、彫像や、同時代の詩人・作家等の手記など、あらゆるものを丹念に調査している。さらに驚くべきことは、彼の文学作品を何度も何度も読み、作品の中に自分を置き、作中人物と言葉を交わし、まるで、自分自身がバルザックによって創られた人間であるかのような状態で長時間を過ごしていることである。このような鑑賞を通して、作品の底に流れる作者の本質を発見しようと努力している。

ロダンは、作者の真実の姿を究める第一の資料は作品であることを身をもって示している。しかも、彼の目的が、作品研究ではなく、彫刻家であることを思うとき、この真剣で異常とも言うべき打ち込み方に、私達は大きな感動を覚えずにいられない。文学研究の第一資料が作品それ自体にあることを改めて教えてくれているからである。

【注記 これは、平成11年1月発表の拙文です】

■NHKテレビ より

上海交通大学留学生レポート

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昭和女子大学
【学科ブログ更新】国際学部国際学科
10月31日
第8期生・中国留学便り ~上海交通大学 9月編・その1~<日本の授業と違いはありますか>
まず留学生のキャンパスであるため、様々な国籍の学生がいるので、よく授業内では国ごとに質問されることも多くあります。その時に、今までは知らなかったそれぞれの国の文化や生活習慣、規則等を学ぶことができ、それらは留学ならではだと感じます。また日本の授業と違って、3~10人で討論をし、意見をまとめて発表するといったことが現在とっている授業では一般的になっています。さらに、名前の順等であてられ発言を求められることが多々あります。日本は消極的な文化なので、いい刺激を受けています。

<寮での生活について>
もう二年目になるので、去年とは違って正直不安等はほとんどありません。どうしたら自分の部屋がよりよくなるか、みな考えて買い物をしに行きます。また、私の寮にはキッチンがないのですが、友人がIHをくれたので、今年は少しでも自炊をして健康にも気を付けて生活していきたいなと考えています。
さらに一階にはカフェがあるので、部屋で勉強するのが苦手な私は、だらだらしてしまうのを避けるためにも積極的に利用していきたいです。そしてそこで新たに友人が作れることも期待しています。
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● 上海交通大学の正門の写真を見て、実に懐かしい。私は、平成6年(1994)9月、人見楠郎先生、原田親貞先生をはじめ、77名の先生方と中国旅行をした。最初に訪問したのが、上海交通大学だった。「熱烈歓迎日本昭和女子大学教職員研修団」の深紅の横断幕で歓迎してもらった。
● 昼食は、大学の食堂で素晴らしい料理を御馳走になった。ただ、私は中国料理が苦手で、インスタントラーメンをたくさん持参した。この昼食会の時、私の隣席に、何と、上海交通大学の副学長先生が座られた。食事に手を出さない私に、どうされました? とおたずね。はい、今、お腹の具合が良くなくて、とごまかした。バスに乗り、出発の時、副学長先生は、私の居る窓に近寄られて、お腹に注意して、よい中国旅行をお楽しみ下さい、とお声をかけて下さった。心の中で、お詫びと御礼を申上げて、お別れした。
● 上海交通大学は、かの、江沢民主席の出身大学である。閔行キャンパスの学術活動センターの文字は見事だった。この12日間の中国旅行は、中国文化の偉大さを理解する上で、貴重なものとなった。個人的には、大西先生、南さん、関さんなどと、本当に楽しい旅だった。

■ 現在の上海交通大学正門

■閔行キャンパスの学術活動センター

ああ、谷脇理史先生

谷脇理史先生

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谷脇理史
谷脇 理史(たにわき まさちか、1939年11月24日 – 2009年8月28日)は、近世日本文学研究者。
群馬県館林市生まれ。1961年早稲田大学文学部国文科卒、1968年同大学院博士課程中退、跡見学園女子大学専任講師、のち助教授、1976年筑波大学助教授、のち教授、1983年「西鶴研究序説」で早大文学博士、1990[早稲田大学文学部教授。のち文学学術院教授。2009年、胆嚢癌により定年前に死去した。
西鶴など近世文芸を研究。
著書[編集]
『西鶴研究序説』新典社 1981
『西鶴研究論攷』新典社 1981
『元禄文化西鶴の世界』教育社歴史新書 1982
『井原西鶴 浮世の認識者』新典社(日本の作家)1987
『笑いのこころ 古典の楽しみ』筑摩書房 1993
『西鶴 研究と批評』若草書房(近世文学研究叢書)1995
『江戸のこころ 浮世と人と文学と』新典社 1998
『近世文芸への視座 西鶴を軸として』新典社 1999
『『好色一代女』の面白さ・可笑しさ(西鶴を楽しむ 1)』清文堂出版 2003
『経済小説の原点『日本永代蔵』(西鶴を楽しむ 2)』清文堂出版 2004
『創作した手紙『万の文反古』(西鶴を楽しむ 3)』清文堂出版 2004
『『日本永代蔵』成立論談義 回想・批判・展望(西鶴を楽しむ 別巻1)』清文堂出版 2006
編著・共編著・校訂[編集]
『日本古典文学全集 井原西鶴集 3』神保五彌、暉峻康隆と校注・訳 小学館 1972
『年表資料近世文学史』松崎仁、白石悌三共編 笠間書院 1977
『西鶴物語 自由奔放な西鶴文学の全貌』浅野晃共編 有斐閣ブックス 1978
『新日本古典文学大系 77 武道伝来記・西鶴置土産・万の文反古・西鶴名残の友』井原西鶴 岩波書店 1989
『井原西鶴(新潮古典文学アルバム)』吉行淳之介共著 新潮社 1991
『講座元禄の文学』全5巻 浅野晃,宗政五十緒,雲英末雄,原道生共編 勉誠社 1992-93
『西鶴を学ぶ人のために』西島孜哉共編 世界思想社 1993
『西鶴必携』 学燈社 1993
『西鶴事典』江本裕共編 おうふう 1996
『新編日本古典文学全集 64 仮名草子集』岡雅彦、井上和人と校注・訳 小学館 1999
『西鶴のおもしろさ 名篇を読む』江本裕共著 勉誠出版・新書 2001
『好色五人女 現代語訳付き』角川ソフィア文庫、2008
【ウィキペディア より】
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●先日、小原亨先生から西鶴論、

非人・乞食の位相――『日本永代蔵』における創作意識の一面――

を頂いた。最初から、じっくり拝読し、教えられることが多かった。とにかく、作品それ自体に密着し、丁寧に読み取ってゆく、先行研究もよく吸収し、自論を提出する。読者は、作品を読んでいても、居なくても、論旨についてゆける。文学論の実証性とは、作品にしっかりと向き合うことだろう。
●私は、近世文学研究を目指した頃、重友毅先生の『雨月物語の研究』を読んで、うなってしまった。先生は、自説を提出する前に、反論されそうな意見を、まず並べて、そうして吟味して、じゅんじゅんと、自説を述べられた。これには、私は、本当に参った。
●西鶴研究の、谷脇理史先生の、御論文も、御著書も、大部分拝受し、拝読してきた。なぜか、研究のスタートの頃から、谷脇先生とは、ウマが合ったのか、とても、温かく付き合って下さった。何よりも、先生の論文は、私には、よく理解できた。谷脇先生に従って、西鶴を学んできた、そう言ってもよいと思う。先生の研究の中にある、創意・独創性、批判性も好きだった。
●今、思うことであるが、私には、この、重友、谷脇、小原、三先生のような、作品論は、とても書けない。それは、自分の能力も、もちろん関係するが、横山重先生に出合ったことが大きいようにも思う。私は、横山先生に出会って、文体を一変したからである。
●平成21年9月1日、館林の葬儀場で、谷脇先生とお別れした。大学院生が、先生にすがりつくようにして、涙をぬぐっていた。早稲田大学を御定年になる前だったのである。西鶴研究の第一人者、谷脇先生の学恩は忘れられない。