私の『源氏物語』――夕顔の巻を中心に――

はじめに
五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのであ。
夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
夕顔は次の如く形象化されている。
「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかな を重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」
このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。
本居宣長の『手枕』

 

宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・
「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉 る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写し
とどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、  時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高き から、御むすめの御ため、しうねき性をあらはし  て、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。

語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。

 

正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

 

「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。
このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。
「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。
これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。
また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。
さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。
このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

 

人物造形と情景描写

 

『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。

また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し。」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。
さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。
また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。
「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」
粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。
『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。
秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

 

秋成の『源語』観

 

『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。
「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき[女ラシキ也]心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ[才能]の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

 

『源語』に寄せる五十四首の歌
秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。

この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。
秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、
「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。

宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ刺しいれるものとして作られている。
秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。
『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。
古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。

島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』ト「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。
秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。

(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)
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●大学4年の時の、拙文である。その後、『雨月物語』の研究で、この問題は取り上げられた事はあるのだろうか。私が、法政の大学院へ進んでいたとしたら、重友先生は、上田秋成を研究するように指示しておられた。私としては、秋成の国学を解明したかった。
2017年3月5日 深沢秋男

私の『源氏物語』

●私は、昭和33年(1958)法政大学に入学した。入学式の式辞で、総長の大内兵衛先生は、諸君、入学おめでとう、と祝福して下さり、君たちが、在学中に『資本論』を読んだなら、君たちの大学生活は充実したものとなるだろう、というような事を申された。
●私は、早速、〔資本論研究会〕に入会し、『資本論』の勉強を始めた。毎週1回、先輩が指導してくれた。テキストは合同出版のものだったと思う。ノートを取りながら指導してもらったが、とにかく、難しい。会員は30名位だったと思うが、経済学部や法学部が大部分で、文学部は私1人だった。
●3ヶ月ほどで〔資本論研究会〕を退会した。日本文学にとっての『資本論』は何か。『源氏物語』だろう。私は、『源氏物語』の読破を目指した。ます、与謝野晶子の現代語訳を読んで、池田亀鑑の、朝日新聞社の『日本古典全書』で全巻読破した。大学1年の時、『源氏物語』を読んだことは、その後の、研究に、大変、有効であったと、今、思っている。
●そんな学生が、秋山虔先生の『源氏物語』の講義・講読を履修したのである。実に素晴らしい内容である。私は、毎時間、一番前の席で、先生の講義を拝聴して、ノートをとった。
●大学3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講読の年度末のレポートのテーマは「私の『源氏物語』」であった。私は「『源氏物語』夕顔の巻と『雨月物語』「吉備津の釜」」で提出した。4年の5月ころだったと思うが、重友先生から呼び出しがあり、教授室へ伺うと、キミ、秋山君に面白いレポートを出したそうだね、と仰る。で、よかったら、秋成研究会で発表してみないかね、と付け加えられた。
●秋成研究会は、当時、首都圏の大学の先生をはじめ各大学の院生も参加して、法政大学で行われていた。学部学生ながら、私も1、2回拝聴した事があった。重友毅先生をはじめ、森山重雄・鵜月洋・高田衛・丸山茂・東喜望等々の研究者が参加しておられた。発表原稿を来週までに清書して来たまえ。
●私は、感激した。学部学生の小生が書いたものを、発表させて下さる、と言う。次の週、勇んで原稿を持参した。先生は、見ておきましょう、来週また来たまえ、と私の拙い字の原稿を茶色の鞄に入れられた。
●1週間後の結果はさんざんだった。まず、表紙のタイトルの「吉備津の釜」の「備」を指され、こんな字はありませんッ! と鉛筆で斜線をひかれた。これで私の異例の抜擢は水に流された。

野口武彦氏の 秋山先生を悼むことば

●尊敬申上げている、野口武彦氏の、秋山虔先生を悼むお言葉を拝読することが出来た。野口氏は、東大で、秋山先生の講義を受けられた。その折の様子が追悼文に記されている。
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野口武彦公式サイト

2015-12-05 | 日暦

秋山虔先生を悼む

平安文学者の秋山虔先生の訃報を知って、悲しみに暮れています。心から哀悼の意を表します。
秋山先生は文化功労者にもなられた方ですし、『源氏物語』研究の第一人者でいらっしゃいましたから、一般社会からも学会からもいろいろな追悼の言葉が寄せられると思います。後継者もお弟子さんも大勢おられます。平安文学の徒でもなく、ただ講筵(こうえん)の端に連なった程度の不肖の弟子にすぎなかった拙老の分際では多少おこがましいかもしれませんが、御生前の先生から深い薫陶(くんとう)を受けた者として一言先生の御学恩に感謝を述べたいと思います。
故あって早稲田に6年、本郷に6年――都合12年間学生生活を送り、それからすぐ神戸に職を得て定年まで居続けた、つまり一生の大部分を学生気分で過ごしてきた不肖拙老のことですから、その間ずっと定まった師というものはありませんでした。今日曲がりなりにも物を書いて暮らせるようになった下地は、おおむね独学によるものです。今でも時々そのマイナス面が出ますが、おおむねプラス面の方が多かったという自信を持っています。
それでもこれまでほんの時たま、心から「先生」とお呼びしたくなる人物にめぐり会いました。そしていうまでもなく、秋山先生こそはそんな人物の一人でした。
思い出すのは、最初の授業の日です。はにかんだようなお顔で教壇に立たれた秋山先生は、学生に向かって語りかける口調で講義を始められたのです。新鮮な驚きを感じました。今はどうか知りませんが、当時の本郷では、国文学の先生の大部分は用意して来たノートを教壇でゆっくり読み上げ、学生は必死でそれを一言一句聞き逃すまいと自分のノートに書き取るという方式が当たり前だったのです。チョー真面目な学生の中には、時折息抜きとして授業の合間にさしはさむ雑談や冗句まで忠実に書き写す人もいました。クシャミまで筆記した笑い話もあるくらいです。
そんなノート読み上げ/書き取り方式全盛の時代に、秋山先生の講義スタイルは、清新であり、魅力的でした。話が高揚してくると頬を紅潮させ、間々言葉を句切って宙に眼を凝らして、「あ、先生今考えているな」と実感させる表情からは伝説として語り伝えられる往年の美少年ぶりも仄見え、何よりも、考えて考えぬく思惟過程がそのまま言葉を生む、思考現場の実況に立ち合っているという本物の臨場感を与えてくれました。
先生の講義ノートを作るのは一仕事でした。ノート読み上げ方式と違って、先生のスタイルの場合、耳で聞いた言葉をはじから書き付けるという具合にはゆかない。耳でキャッチした内容をいったん咀嚼(そしゃく)し、自分流の言葉に言い直して文章にしなければならないのです。意図を取違えたらおしまいです。耳で聞き取ったことを記憶に留めておきながら、それを自分の文脈でノートに書いてゆく。だから聞くことと書くことの間にはいつも「時差」があります。緊張のしっ放しでした。同時に、毎回の講義はそういう種類の稀な緊張を体験できる又とない時間でした。
これが学恩でなくて何でしょう。そんな貴重な時間を与えて下さった先生にはいくら感謝してもしきれない思いです。
――最後に、深い感謝と追悼の気持を籠めて、つたないながら哀悼の歌2首を捧げることをお許し下さいますように。
きみいたむ声も涙に途切れつつ光隠れしよにまどふなり
木々の葉も紫鈍(むらさきにび)に散り敷きて踏み分けがたき秋 の山かな
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●素晴らしい、追悼の文である。東大での授業の様子の中で、
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チョー真面目な学生の中には、時折息抜きとして授業の合間にさしはさむ雑談や冗句まで忠実に書き写す人もいました。
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このように記しておられる。私は、どちらかと言うと、この学生のように、秋山先生の口から出る言葉は、全て書き取った。雑記帳に書き取り、帰宅して、正式のノートに整理して転記していた。
●ある時、先生が、先週、どこまで話しましたが、と私のノートを覗き込まれた。まずい字で、ナグリガキのノートである。先生は、呆れておられた。しかし、私は、後で、きちんと整理して、先生の御講義を吸収していたのである。

秋山 虔 先生

●今日、「中世王朝物語全集」の、第10巻、『しのびね・しら露』が届いた。その栞の第4号に、秋山虔先生が一文を寄せておられる。

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豊饒な古典遺産を享受

秋山虔(東京大学名誉教授)

 源氏物語の光彩の陰で細々と伝流し、少数の研究
者によってのみ手がかけられてきた、いわゆる「擬
古物語」の諸作品が、周到な校注、斬新な現代語訳
によって、粧いもみごとに新生した。その魅力的な
形姿と対面するにつけても、あの無名草子に源氏物
語が最大級に賞賛されつつも、「かれを才覚にて作
らむに、源氏にまさりたらむことを作りいだす人も
ありなむ」と語られた文言が思い起こされる。源氏
の後の物語は、その世界がいかに現実に近いかとい
う形でではなく、源氏において達成の極められた王
朝物語言語のしたたかな伝統がどのような形で生き
つづけているかにあるといえよう。この「中世王朝
物語全集」によって、私たちはあらためて豊饒な古
典遺産を享受することができよう。
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●私は、法政大学で、非常勤の秋山先生の、源氏物語講読を履修させて頂き、卒業後も、3年間聴講させて頂いた。素晴らしい講義・講読だった。非常に多くの事をお教え頂いた。先生は、まだ、駆け出しで、身分のない私に、東大図書館への、懇切な紹介状を書いて下さったこともあった。また、『可笑記』の諸本に関して、調査している方がいるので、学界発表を急ぐように、とアドバイスしても下さった。
●秋山先生は、私が『井関隆子日記』を出した時も、『蜻蛉日記』下巻と、同趣の点がある、と励まして下さった。海のものとも山のものともわからない著作を手がける、私にとって、こんなに励まされるお言葉はなかった。
●先生は、最晩年、遊びにいらっしゃい、とお声をかけて下さった。私の都合で、実現しなかったが、私にとって、これは勲章である。

大学を去る

平成19年(2007年)3月20日(火)
昭和女子大学に感謝!!!

●平成17年(2005年)3月2日(水) 「さようなら・・・昭和女子大学」  として、次のように書いた。

●本年度で、昭和女子大学ともお別れである。20年間お世話になった。学長の人見楠郎先生、副学長の原田親貞先生、同じく松本昭先生、同じく岡村浩先生、そのほか、多くの方々の御指導を頂いた。未熟者の私が、曲りなりにも定年まで勤務できたのも、皆様の御厚情によるものである。心からの感謝と御礼を申し上げます。
●このサイト「深沢秋男研究室」も間も無く閉鎖する。ただし、これらのデータは、菊池真一先生の御配慮で、私のHP「近世初期文芸研究会」にコピーされる。今後は、そこで更新を継続してゆきたい。御興味のある方は、アクセスしてみて下さい。
◎「近世初期文芸研究会」→http://www.ksskbg.com/
◎「近世文学研究所」→http://www.gwaikotsu.com/
◎「日本文学電子図書館」→http://www.j-texts.com/

●2年間が経過した。毎週、火曜日に日本文学科で、仮名草子と近世出版文化・版本書誌学を講じてきた。その任務もこの3月で終り、非常勤講師も辞める。24年間、昭和女子大学にお世話になった。この間、私の講義を受けた学生は、少しは得るものがあったのだろうか。はなはだ、覚束ない。しかし、私は、昭和女子大学によって身分を保証され、研究を進める事ができた。このことに、心から感謝している。
●「深沢秋男研究室」も予定通り「近世初期文芸研究会」に移行し、それなりに追加更新をしてきた。これには、菊池真一先生の御配慮があった。合せて感謝する。ただ、その後、「近世文学研究所」は閉鎖され、データは「近世初期文芸」に移動した。
●私が「近世初期文芸研究会」のHPを開設したのは平成10年であるから、9年前である。この時、昭和女子大に自分のHPを作りたい、と申し出たが、そのようなシステムは無い、と断られた。システムが完備して、「深沢秋男研究室」を開設できたのは、5年後の平成15年であった。今、振り返ると懐かしい。
●昭和女子大学は、この3月で完全に辞するが、この研究室は、今後も継続追加更新してゆく予定である。

●●研究生活を振り返ると、実に感慨深い。ネット社会への対応も懐かしい。私は、この文明の利器を、今後も、フル活用してゆきたいと念じている。

2017年3月3日  深沢秋男

定年後の、予定と結果

●●定年の時、私は定年後の計画を、大学の自分の日録に、次の如く書き込んでいる。それから、12年間が経過した。結果はどうか。各項目を一渡りながめると、人様から依頼された事は、どうにかこなしたと言えるかもしれないが、自分のことが、実現していない。致し方のない、人生だと思う。

平成17年3月1日(火)
定年退職後の計画(予定)
●定年退職後は、自分の研究のまとめをしたいと思う。何年か前のある人の年賀状に、私も80歳になったので、研究のまとめをしたい、とあった。この方は、多分、まとめは出来ないだろうと思う。まとめる分量にもよるだろうが、80歳では遅すぎるだろう。私の見るところ、70歳でなければ、まとめは出来ないように思う。
●私は、これまで、校注・校訂・複製等の単行本を約50冊出した。しかし、雑誌等に発表した論文を集めて単行本にした事は一度も無い。言ってみれば、リプリントのような作業は、余り意義は無いと考えているからである。しかし、これで、現役を引退する訳だし、個人的な人生の締めくくりとしては、これも悪くはない、と思う。そこで、これまで雑誌に発表した論文や、単行本等の解説などを主題別に編纂して出したいと思う。

■研究書の出版
①『仮名草子の書誌学的研究』
②『斎藤親盛(如儡子)の研究』
③『鈴木重嶺(翠園)の研究』
④『近世文学雑纂』
⑤『雑録集 付、年譜・著作年表』?
■資料等の出版
①『如儡子著「百人一首注釈」砕玉抄』
②『斎藤親盛(如儡子)全集』
●果たして、どこまで実現するか覚束ない。特に『・・・全集』は膨大であり、5巻位になるだろうから、これは困難なところがある。しかし、その他のものは、是非出版したいと思う。

■執筆活動等
●私は、これまでの執筆活動で、原稿料の出るものは極力避けてきた。お金になる仕事となると、何故か意欲がわかない。結果的には、他の方に回したり、出版社が怒って関係資料を引き上げられたりした。50冊ほど単行本も出したが、印税は全く貰っていない。(本は頂いたが、お金は貰っていない。)。また、昭和女子大以外から、非常勤講師の依頼も3回ほどあったが、全てお断りしてきた。講演なども、アチコチから依頼されて、応じてきたが、千葉の市民文化大学での講演(上田秋成の『雨月物語』)を最後に、全てお断りしている。本学で協力していた館山市の講座で、芭蕉について話すようにとお声をかけて頂いたが、これもお断りした。理由は、未だ一人前の研究者ではない、と自覚したからである。
●一人前になったかな、と自分で思ったのは、日本女子大の、石川松太郎先生の主宰される学会でお話した時である。一般よりも遅い自立ではあった。今後は、お金になる原稿も書きたいと思う。現に、何点か依頼がきているが、これらも喜んで執筆し、原稿料や謝礼を頂くことにしている。年金生活者となる訳であるから、あまりミギレイにばかりにもなっていられないだろうと思う。講演も依頼があれば、今度はお受けして、謝礼も頂くつもりである。勿論、原稿料や講演料のない仕事の方が、楽しくもあり、これらを優先させてゆく事に、些かの変りも無い。

■困った、大事業
●大先生から、私の定年を待っていたかの如きタイミングで『・・・・集成』を引き継いでくれ、と依頼された。このシリーズは、現在、36巻まで出版され、おそらく完結は60巻にはなるものと予想される。これはオオゴトである。私の人生設計からすると、予定外の事で、しかも命取りにもなりかねない大事業である。本心ではお断りしたい。しかし、人間として、研究者としては、迷うところである。自分勝手な事も随分してきたが、ここは、お引き受けせざるを得ないか・・・。若い研究者の協力を頂いて、完結を目指すか・・・。今、思案中である。

■『近世初期文芸』の継承
●私は、昭和44年12月、島本昌一氏と共に「近世初期文芸研究会」を設立して、機関誌『近世初期文芸』を創刊した。現在、第21号まで発行し、近世初期の論文をかなり発信してきた。執筆者も次第に増えて、内容も充実してきた(と、自分では思っている)。
●創刊以来35年間、全て私が編集実務を担当してきたが、定年を機に、この4月1日から、若い研究者、甲南女子大学の菊池眞一氏に引き継いでもらう事にした。近世初期の文芸状況を解明したいと、熱い意欲をもって創刊した学術雑誌が、曲がりなりにも、ここまで続き、さらに、私の後を継承してもらえる事に感謝せずにいられない。

大学の年度末、研究室の整理

●今年も年度末の3月がやってきた。大学では、大学入試、在学生の年度末試験、卒業式、終業式、新しい人事に拠る配置換え、そうして、4月の新年度を迎える。定年の教員は、研究室の整理、最終講義、送別会、などを済ませて大学を去る。

●私は、研究室の書籍・雑誌の整理が大変だった。大学近くの家具屋さんに頼んで、天井まで届く、大きな本棚を設置して、書籍を入れていた。2000冊位はあったかと思う。定年も近付いた頃、大学の担当部署に相談して、上海交通大学への寄贈を考えた。検討の結果、引き受けてくれることになり、2回にわたって、寄贈した。中国へ送る送料は、大学が負担してくれた。1000冊位は寄贈したと思う。残りは、近世・近代担当の先生方に差し上げたり、後は、9回のロビーに出して、宜しかったらお持ち下さい、と札を出しておいたら、教員や学生達が、大部分、持ち去ってくれた。
●自宅へは、80箱位、宅急便で送った。3ヶ月位かけて、書斎や物置に整理して保管した。今は、大部分を古書店に売却して、研究生活に終止符をうった。実に懐かしい。

■定年間際の研究室
本棚は、『新古典文学大系』など大きいものは、上海交通大学に
寄贈したので、ガランとしている。

サイト内コンテンツのバイト数

●2003年、昭和女子大学のHPを開設して、ヒマヒマにデータを追加更新していたら、だいぶ大きくなってきた。因みに、スコア上位3つのサイトのバイトをチェックしてみたら、次の通りであった。我ながら驚いている。(2004.10.30現在)

①芦川研究室(score:30)18万7276bytes
②深沢秋男研究室(score:28)412万1630bytes
③佐野研究室(score:28) 3万4550bytes

●私は、バイト数の増大を防止するため、写真等は極力入れず、文字情報に主点をおいて追加更新してきた。それにしても、論文全文のアップなどを含めているので、情報量は大きくなってしまう。
●私は、甲南女子大学の菊池真一氏と共同運営のHPを2つ〔①近世初期文芸研究会、②J-TEXTES(日本文学電子図書館)〕を運営している。この内、特に②の情報量は膨大なもので、プロバイダーの運営者の予想をはるかに上回るもので、利用規定を変更した程であった。ネット社会も、未だ発展途上である。

●●これは、現役中の記録であるが、現在は、問題にならないだろう。②のJ-TEXTES(日本文学電子図書館)〕は、現在も継続していて、アクセスも、間もなく、100万になる。

 

研究の伝統

●湯浅佳子氏の大著『近世小説の研究――啓蒙的文芸の展開――』が発行された。先日の、『仮名草子集成』第57巻に続いて、仮名草子研究に関する著書の刊行で、大変嬉しい。
●650余頁という、湯浅氏の大著を目の前にして、この研究の源泉に思いを寄せた。湯浅氏は、この著書の「あとがき」の中で、次のように述べておられる。
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東京学芸大学在学中には、故小池正胤先生の近世文学ゼミに加わり。先生のご指導のもとで丼原西鶴の浮世草子について卒業論文を書いた。思えばそれが筆者の研究の出発点であった。学部卒業後もなお小池先生主催の叢の会にお
うかがいする機会をいただいた。
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二松学舎大学大学院では、青山忠一先生のご指導の下で仮名草子研究に取り組んだ。青山先生の御授業では名調子の雑談が面白く、それをお聴きしているだけで瞬く間に時が過ぎていったものであるが、しかしそうしたとりとめもな
いお話の中に、仮名草子や西鶴浮世草子をどう読むかという文学研究の本質的な問題や、研究者としてあるべき心構えといった、院生にとって大切なメッセージが込められていたのであった。この青山先生の、仏教学から読む近世前期草子論が、やがて筆者の研究の拠り所となった。……
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●湯浅氏が、小池正胤先生と青山忠一先生の御指導を受けられたことを、今、私は知った。この大著の目次を一覧して、全て了解できたように思う。
●東京学芸大学の、小池正胤先生を中心とする【叢の会】の地道な活躍、大きな研究業績には、多くの学恩を賜り、感謝していた。また、青山忠一先生には、野田寿雄先生が主宰された、第一次仮名草子研究会で、たくさんの御指導を賜った。特に仏教思想と仮名草子との関係では、腹蔵なく、貴重なお教えを賜った。
●湯浅氏は、この偉大な先学の御指導を頂いて、卒論を書き、その後の研究会でも研鑽を積まれ、大学院では、青山先生の下で、仮名草子を研究された由である。湯浅氏の論文は、これまでも、ある程度は読んでいて、多くの事を教えられてきた。今回、この労作・大著によって、さらに受ける学恩は大きい。大著の刊行を祝し、感謝申上げる。

ネット上の記事削除

●今日の朝日新聞に、ネット上の記事削除に関して報じられていた。この件では、私は、長年、ネット上に、情報発信してきたので、何回か失敗もしていて、迷惑をかけたこともあるので、無関心ではいられない。

●ネット上の情報は、初期の頃は、収録容量の問題で、各サイト、プロバイダーも、整理したり、削除していたが、開発が進み、大容量でも保存可能になった。そこで、ネット上の情報が、いつまでも流通することになった。10年後、50年後、100年後は、とのように進化してゆくのであろうか。
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朝日新聞 2月21日
請負、弁護士以外は違法 ネット上の記事削除依頼 東京地裁
2017年2月21日05時00分

ネット上の記事削除を業者が請け負う契約は弁護士法に違反するとして、関西に住む男性が東京都内のネットサービス会社に支払った報酬約50万円の返還などを求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であった。原克也裁判長は「弁護士ではない被告が報酬目的で法律事務を扱う契約にあたる」として、同法違反(非弁行為)を認定…
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●弁護士相談室では、次の如く記している。
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弁護士相談室

著名人でなくても,犯人が有名企業の社員や公務員などの場合,また事件の性質から,犯人の実名とともに犯罪事件がニュース報道されることがあり,ひとたび犯罪事件が新聞社のニュースサイトに掲載されると,またたくまに掲示板やブログにも転載されます。
しかし,ひとたびネット上に掲載され,拡散した犯罪に関する記事は半永久的に残り続けてしまいます。例えば,その人の名前を検索すると簡単に過去の犯罪に関する記事が出てきてしまうため,就職活動において書類審査だけで何十社も落とされてしまうといったケースが生じます。このように,就職や結婚などの人生の節目に過去の犯罪に関する記事が障害となり,社会生活に重大な影響を及ぼしてしまうことは切実な問題です。
犯罪記事は客観的な事実だから消すことはできないと思われるかもしれませんが,裁判上,過去の犯罪に関する記事を公表することは,一定の場合にプライバシー権侵害となることが認められています。
その判断は,その者の生活状況,事件自体の社会的な意義,当事者の重要性,影響力,時間の経過,事件の公表による不利益の程度などの要素の総合的な判断が必要です。その点,当サイトの弁護士はこれまでに多くのプライバシー権侵害事件を手がけており,その経験を生かした判断・対応が可能です。

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