三たび 『源氏物語』

三たび 『源氏物語』

 

  • 上田秋成は、『源氏物語』の各巻に対して、それぞれ、一首の歌を詠じている。

 

  • ある年の冬の夜長に、妻(かたはらにある人)に『源氏物語』を読んでもらい、一巻終わるごとに一首ずつ詠じたというのがある。高田衛氏によれば、『源語』を読んでくれたのは、妻でなく、足立紫蓮尼であるという。
  • この高田氏の説に従うならば、この歌は、紫蓮尼と出会った寛政十年から、『藤簍冊子』の自序の成った享和二年頃のものであったかも知れない。秋成六十五歳から六十九歳ということになる。

 

 以下、各巻の歌を具体的に見てゆきたい。

 

    桐 壷

よひのまにはかなの月は入にけり ねためる雲をかけしながらに

 

 まだ宵であるというのに、もう月は入ってしまった、それをあたかも残念がっているかのような雲を残したまま。

 

 宵のうちに姿を消してしまう月の、宵月の、なんとはなしにはかない情趣を詠じたものであるが、この歌における「月」は、桐壷帝の寵愛を一身に受ける桐壷更衣であり、それを妬む雲は弘徽殿女御をはじめとする多くの女御・更衣たちである。そして「よひのまに」の「よひ」は桐壷更衣の子・光君の幼さに通じる。

 この歌は桐壷巻頭のレジュメの如くであり、その内容をそれぞれの風物にたとえて、歌っているが「ねためる雲」の発想は、やはり秋成的であり、秋成の『源語』に対する考えの一端が出ていると思う。

 

    帚 木

さまざまに定めあらそふ人の上に はては心もさみだるゝ空

 

 お互いに女性(人の上)のよさについて批判し合うが、しまいには(これと定めることも出来ず)五月雨の空のように判然とせず、訳のわからない義論になったことである。

 これは、浅野氏の注にもある通り、雨夜の品定めを歌ったものであるが「はては心もさみだるゝ空」は、第五句を「自筆短冊」が「さみだれの夜半」としており、品定め末尾の「何方により果つともなく、はてはてはあやしき事どもになりて、明し給ひつ。」に対応する。

 秋成は『ぬば玉の巻』で「一部の大むねを求むれば、雨夜の物語に世にある女のうへを、さまかたち心ばへをまで、漏らさじと書いあらはしたる程に、筆のすさみの行くに任せて、そこはかとなく書きひろめたる物とこぞ覚ゆれ」と言い、また国学の師・加藤宇万伎の『雨夜物語たみことば』を刊行し、その序で、「物がたりぶみは世におほかめれど、光源氏のもの語ばかりあやにたくめるはなし。それが中にもあま夜のしなさだめなむ、いといと心得がたきを、静舎のうしいにしとし人のもとめによりて、そこをなむ書いでゝ、こと葉をそへつゝとかれしを、人のつてに見てしより……」と述べ、この帚木の巻を重視しているが、これは『源語』研究史上、従来の諸学者によって説かれてきた事であり、これを認め、更に、真淵・宇万伎の説に従っており、この一首も、そのような秋成の『源語』評価を背景として作られた歌である。

 

    空 蝉

やり水のほまれの門をひき入る 車は恋の重荷なりけり

 

 最初遣り水が涼しいからとくぐったこの門を、今引き入れる車は、恋に苦しみ悩む光源氏を乗せているのである。

 「やり水のほまれの門」は、光源氏が遣り水が涼しいからといって、紀伊守の家に方違えをし、再度、ここを訪れた時、紀伊守が「遣水の面目とかしこまりよろこ」んだことに拠る。

 伊予介の後妻・空蝉への恋にとりつかれた光の心境は、まさにこのように重苦しく、居たたまれぬものである。秋成は、最高の権威と、この上ない美貌の持ち主・光に対して、中流階層の女性として、また人妻として自らのモラルを貫き通した空蝉に直接ふれず、その彼女への恋のために苦しむ光源氏の姿をとらえた。やや、光を突き放した形でとらえているところに、秋成の光に対する考えが出ている。

 

    夕 顔

けやすしと思はゞなどてよりて見ん 明るをまたぬ夕がほの露

 

 夜の明けるのを待たずに散ってゆく夕顔の花の露のように、そんなにもはかない女性と知っていたならば、どうして寄って見ただろう、見はしない。

  「よりて見ん」は「寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔」という光源氏の歌からの連想と思われる。また、「けやすしと」に浅野氏は「源氏の君の心が消えやすいと。」と注を付しておられるが、ここは、光の心が消えやすいのではなく、夕顔の花の露が消えやすいのであり、夕顔という女性の、 一夜にして死んでしまったはかなさを言っているのだと思う。「けやすし」は 「消え易し」の意であるが、次に掲げる『万葉集』の用例でもわかるように、多くは、命などのはかないさまに使われている。「朝露の消易きわが身他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り」(巻五)「朝霜

の消やすき命誰がために千歳もがもとわが思はなくに」(巻七)「父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命は 朝露の 消やすき命 神の共……」(巻九)「朝露の消やすきわが身老いぬともまた若ちかへり君をし待たむ」(巻十一)「露霜の消やすきわが身老いぬともまた若反り君をし待たむ」(巻十二)

 五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を超えた場において愛し合うというこの巻の構想は『源語』本伝の世界から離脱することによってはじめて可能であった。雨夜の品定めで受領階層の女性に興味を覚えた光であるが、それを充たすためには、愛情と利害とが切離された新たな世界を必要とした。作者・式部は、光源氏を一介の男性として登場させることによって、夕顔との間に、より純粋な愛を描くことに成功したのである。

 秋成のこの歌は、はかなく消えていった恋人への心情としてみるとき、やや打算的に過ぎると思う。事実、光は夕顔の死を心から悼み、悲しみ、その故に病の床に臥している。その光源氏の姿を秋成は、皮肉をこめて冷ややかにとらえているのである。

 

    若 紫

九重の北山ざくら咲にけり かけし霞も名残なき空

 

 京の北山の桜も今を盛りかと咲き乱れ、空は一面に春霞につつまれて絵のようである。

 光源氏が北山を訪れた時の景色である。桜の花に霞がかかる、春特有のおぼろげなさまを詠じているが、この歌にはその裏に、この北山で幼い紫の上を垣間見た光の心中がこめられている。霞を通して見る桜は紫の上であり、下の句の「かけし霞も名残なき空」には「なんとはなしにかけた思いではあるが、はなはだ心残りのする心

地であるよ」の意が含められていると思われる。技巧をこらした一首と言えよう。

 

    末摘花

中川にことよき橋をわたされて 見るめなき野を分(け)もこしかな

 

 末摘花の住む中川へ、大輔命婦の調子のいい話に心を動かされて、それを見抜くことも出来ずによくも来たものだ。

 光は夕顔との死別を忘れられずに、「いかで、ことごとしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つつましき事なからむ、見つけてしがな、と、こりずまに思し渡」る、そんな折、大輔命婦のうまい話を耳にする。そして、醜い容貌の女性とも知らずに、頭の中将と張り合いながら、中川へのこのこと出かけでゆく。秋成は、この色好みの光源氏のさまをアイロニーをこめて歌っているが、得々と詠じた一首ではなかったかと思う。

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  • 上田秋成の『源語』観を解明しようと、間接的な歌を分析してみた作業である。「上田秋成と『源氏物語』――『源語』に寄せる五十四首の歌――」として、『文学研究』51号(1980)に掲載したもの。

『雨月物語』「吉備津の釜」と『源氏物語』

『雨月物語』「吉備津の釜」と『源氏物語』
2020.03.16 Monday07:26

●ネット上に、こんな遣り取りがあった。3年前である。

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長文失礼します(m´・ω・`)mさん
2017/6/1102:37:26

『雨月物語 吉備津の釜』と『源氏物語』の関係について
現在吉備津の釜について調べているのですが
吉備津の釜の注釈で源氏物語の葵巻よりは
夕顔巻の趣向がある
と書かれていました。
それはなぜなのでしょうか?
吉備津の釜のどこかの文が夕顔巻に出てくる文に似ているのでしょうか?

私は吉備津の釜での
正太郎の妻の磯良(鬼化になる)と妾の袖(磯良に取り殺される)の関係が、
源氏の正妻(葵の上)に次ぐ妻である六条御息所(御物の化になる)と葵の上(御息所に取り殺される)という関係よりは、
六条御息所と夕顔(御息所よりあとに源氏が妻とした)という関係のほうが近いから
夕顔の巻の趣向をとったのかなとおもっています
全然違うのかもしれませんが…

他に理由などありましたら教えていただけますと嬉しいです
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私の『源氏物語』

私の『源氏物語』 ――夕顔の巻を中心に――

  • 2020.03.15 Sunday
  • 14:00

私の『源氏物語』――夕顔の巻を中心に――

はじめに

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのであ。
夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
夕顔は次の如く形象化されている。
「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかな を重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」
このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

本居宣長の『手枕』

宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・
「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉 る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写し
とどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、  時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高き から、御むすめの御ため、しうねき性をあらはし  て、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)
宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。
語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。

正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。
このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。
「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。
これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。
また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。
さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。
このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。
また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し。」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。
さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。
また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。
「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」
粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。
『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。
秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。
「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき〔女ラシキ也〕心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ〔才能〕の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌

秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。
この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。
秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、
「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。
宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ差し入れるものとして作られている。
秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。
『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。
古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。
島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』ト「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。
秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。
(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)

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●大学4年の時の、拙文である。その後、『雨月物語』の研究で、この問題は取り上げられた事はあるのだろうか。私が、法政の大学院へ進んでいたとしたら、重友先生は、上田秋成を研究するように指示しておられた。私としては、秋成の国学を解明したかった。

●これは、雑誌には発表していない。秋成研究者が、これにヒントを得て、さらに精緻な論文に仕上げることは自由である。
2020年3月17日 深沢秋男

再び 『源氏物語』 へ

◆再び『源氏物語』へ

 

  • 学生時代に『源氏物語』を読んだことは、以後の日本文学研究に大変役立った。昭和55年(1980)、再び、『源氏物語』を読んだ。これは、上田秋成の目を通して、読むという作業であった。私は、大学3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講義を履修し、年度末のレポートの課題は、「私の原紙物語」だった。

 

  • 私は、「『源氏物語』夕顔の巻と上田秋成『吉備津の釜』」と題して提出した。4年生になって、重友毅先生から呼び出しがあって、教授室へ伺うと、「君、秋山君へのレポートで、秋成の事を書いたそうだね。秋成研究会で発表してみないかね。」というお言葉。

 

  • 来週清書して持って来たまえ。という事になった。当時、法政大学に〔秋成研究会〕があり、重友先生、森山繁雄氏、中村博保氏、等を始め、各大学の院生が集まって行われていた。私も学部生ながら、何回か拝聴したことがあった。

 

  • それにしても、学部4年の私に、このような、お声をかけて頂けるとは、大変な感激だった。来週、清書して、重友先生にお届けした。読んでみるから、また、来週來たまえ。来週、教授室へ伺うと、結果は、大変なお叱りを受けて、ボツになった。怖いもの知らずで、重友先生の説も含めて批判めいた事を書いたのだから、これが通るはずがない。良い経験だった。

 

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田舎におはせば

田舎におはせば
2018.12.08 Saturday

「・・・古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。
是は写しとどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりしなど書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

●これは、本居宣長の『手枕』に対する、秋成の評価である。当時の商都大坂に住む秋成にとって、伊勢に住む宣長は、田舎者であったのである。田舎者の意見など、見当違いである。引っ込めよ、と実に厳しい。

●私は、学生時代から、秋成に興味を持っていて、重友先生の『雨月物語』の演習も履修していたが、ほとんど発言はしなかった。だから、成績も〔優〕ではなく〔良〕だった。卒論の面接諮問の時、突然、大学院へ進まないか、と言われて、大変戸惑った。既に、函館ラサール高校が内定し居て、卒業後は北海道へ行く予定だったのである。学生時代の私は、重友先生との接触も少なく、卒論指導は、2回のみ、極めて、短時間だった。そのような状態の結果だろうと思う。

●法政の大学院へ進んだら、秋成の国学を研究しようと、密かに考えていた。宣長は偉大ではあるが、どこか、とらわれているところがあるように、薄々、感じていた。それを、秋成との関係で解明したいと思ったのである。「田舎におは」した宣長と関係しているようにも思う。

「吉備津の釜」と「夕顔の巻」

「吉備津の釜」と「夕顔の巻」
2018.12.06 Thursday

●木越治先生の論文を読んで、学生時代を思い出した。工学部建築科から、文学部日本文学科に進路変更して、本当によかったと、今、思う。

●大学3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講読を履修した。年度末のレポートのテーマは「私の『源氏物語』」であった。私は「『源氏物語』夕顔の巻と『雨月物語』「吉備津の釜」」で提出した。4年の5月ころだったと思うが、重友先生から呼び出しがあり、教授室へ伺うと、キミ、秋山君に面白いレポートを出したそうだね、と仰る。で、よかったら、秋成研究会で発表してみないかね、と付け加えられた。
●秋成研究会は、当時、首都圏の大学の先生をはじめ各大学の院生も参加して、法政大学で行われていた。学部学生ながら、私も1、2回拝聴した事があった。重友毅先生をはじめ、森山重雄・鵜月洋・高田衛・丸山茂・東喜望等々の研究者が参加しておられた。発表原稿を来週までに清書して来たまえ。
●私は、感激した。学部学生の小生が書いたものを、発表させて下さる、と言う。次の週、勇んで原稿を持参した。先生は、見ておきましょう、来週また来たまえ、と私の拙い字の原稿を茶色の鞄に入れられた。
●1週間後の結果はさんざんでした。まず、表紙のタイトルの「吉備津の釜」の「備」を指され、こんな字はありませんッ! と鉛筆で斜線をひかれた。これで私の異例の抜擢は水に流された。拙い一文であるが、重友教授へ提出の原文のまま紹介する。

私の『源氏物語』―ー夕顔の巻を中心にーー

はじめに

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのである。
 夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
 夕顔は次の如く形象化されている。
「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかなるを重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」
 このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
 私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
 夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

本居宣長の『手枕』

 宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
 宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・
 「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
 さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
 この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写しとどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

 宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
 『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。

語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
 「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
 この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
 その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
 「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。

正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

 「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。
 このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。
 「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
 次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。
 これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。
 また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。
 さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。
 このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

 『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。
 
 また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
 正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し。」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。
 さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。
 また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。
 「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」
 粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。
 『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。
 秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

 『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。
 「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき[女ラシキ也]心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
 まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ[才能]の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌
 秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。

 この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。
 秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、
 「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。

 宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ刺しいれるものとして作られている。
 秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。
 『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。
 古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。

 島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』ト「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。
 秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。

(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)

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● 大学生の頃の文章であり、評論に流れ、幼いものではあるが、忘れられない思い出である。ネットの世界も進歩して、かなり大量の情報もアップできるようになった。

追悼 木越治先生

 追悼 木越治先生     

                深沢 秋男

 木越治先生が御逝去なされた。

  木越治先生の御逝去を悼み
  心から御冥福をお祈り申し上げます

 木越治先生は、平成三十年二月二十三日御逝去なされた。御年六十九歳であった。いかにも早すぎる御他界である。先生としては、もっともっと、研究を進められ、多くの事を発信し、後世へ伝えたかったものと拝察され、その心中をお察し申し上げずにはいられない。
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木越治先生〔ウィキペディア より抜粋〕
「木越 治(きごし おさむ、1948年11月20日 ― 2018年2月23)は、日本近世文芸の研究者、金沢大学名誉教授、元上智大学教授。石川県金沢市出身1971年金沢大学国文科卒、75年東京大学大
学院博士課程中退、富山大学講師、79年助教授、83年金沢大学助授、のち教授、96年「秋成論」で東大文学博士。2010年上智大学授。
上田秋成が専門だが、近年は秋成作品の講談化と口演、講談と韓国の評弾の比較などを行う。『秋成論』では、呉智英の石川淳批判に反論している。
著書
『秋成論』ぺりかん社1995
共編著・校注
『浮世草子怪談集』国書刊行会 (叢書江戸文庫) 1994
『都賀庭鐘・伊丹春園集』稲田篤信、福田安典共編 国書刊行会(江戸怪異綺想文芸大系) 2001
『西鶴挑発するテキスト』至文堂 (「国文学解釈と鑑賞」別冊) 2005
『秋成文学の生成』飯倉洋一共編 森話社 2008
『講談と評弾 伝統話芸の比較研究』八木書店 2010
『江戸怪談文芸名作選 第1巻 新編浮世草子怪談集』校訂代表 国書刊行会 2016」
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 私は近世初期の仮名草子が専攻ゆえ、木越先生とは、ほとんど交流がなかった。ところが、昭和六十一年、様々な経緯から、上田秋成の『桜山本 春雨物語』を出すことになった。そのような関係から、木越先生に多大な御教示を賜ることになったのである。昭和女子大学に勤務していた頃、大学の研究室のサイトの〔日録〕に、次のような記録がある。

「木越治氏より来信
●金沢大学の木越治氏からメールを頂いた。昭和女子大のホームページを見ました。大学生の頃のレポート興味深く読みました。『春雨物語』の本文は、お説の通りです。という内容。有難いことである。
●実は、昭和61年『桜山本 春雨物語』を出版した時、最初に私の意見に耳を傾けて下さったのは、木越治氏であった。平成元年8月「『春雨物語』へ――文化五年本からの出発――」という論文を発表され、イギリスの書誌学者、フィリップ・ギャスケルの理論を援用しながら、文学作品のテキストのあり方に論及された、画期的な論文である。
●この木越氏の論文が影響したものか、鷲山樹心氏も論文の中で、私の説に賛意を表明して下さった。そうして、その後、中央公論から出された、『上田秋成全集』では、長島弘明氏が、『春雨物語』の各テキストを原型のまま収録してくれた。門外漢の私の意見を専門家の方々が、条件つきながらではあるが、お認め下さったとしたなら、こんなに嬉しい事はない。それにしても、あの状況下で、あの論を出された木越氏に対して、改めて敬意の念を捧げる。」

 実は、この本が出た時、近世文学界でこの本は、長らく黙殺されたのである。学会へ行っても、私の側には、誰も近づいてくれなかった。恩師・重友毅先生、秋成研究の大先学・中村幸彦先生をはじめ、多くの研究者の説を批判したのであるから、これは、覚悟の上のことであった。
 木越先生は、そのような状況の中で、拙著の書評を執筆して下さったのである。『春雨物語』本文の研究史上、貴重な発言であると思われるので紹介したい。

「書評 深沢秋男編『桜山本 春雨物語』      
                         木越 治
■朱筆と墨筆が同一人物の手になることを論証
■きわめて重要な意味持つ

 上田秋成最晩年の傑作短編集『春雨物語』には多くの草稿(及びその写本)が残されている。今回刊行された桜山文庫は文化五年本と総称される写本のひとつで、西荘文庫旧蔵本とともに数少ない完本として『春雨物語』諸本中重要な位置を占めている。 
 この写本が丸山季夫氏によって発見されたのは昭和二十六年のことで、これ以後『春雨物語』の研究は飛躍的に進むことになったのであった。すでにこの写本は、古典文庫などに翻刻されており、また底本として利用されることも多かったのであるが、今回の影印に関しては、従来ほとんど区別されることなく扱われていた朱筆と墨筆の区別が明確になされていることがまず第一にあげるべき特色である。そして、深沢氏はその解説の中で、この朱筆と墨筆が同一人物の手になること、墨筆の原本は秋成自筆本、朱筆は別系統の自筆本ないし写本によったと推測されることなどを他の稿本・写本や具体的な筆跡の比較を通して論証しているのである。こうした筆跡検討の具体的な成果として、従来「死首の咲顔」とも「死骨の咲顔」とも読まれてきた第六篇の題名について、この写本中に出る「首」と「骨」の字形すべてを、集めたうえで「死首」が正しいと結論づけている例を挙げることができよう。
 が、氏の解説のもつ意義は、こうした具体的ないちいちの成果にとどまるものではない。従来、おおざっぱな印象というかたちでしか語られてこなかった『春雨物語』諸本の筆跡の問題が、ようやく共通の基盤のうえで問題にし得るようになったという意味で研究史上きわめて重要な意味をもっていると私は思うのである。
 実は、本書が刊行された頃、私もちょうど『春雨物語』諸本の研究史を執筆したばかりで、その態度と方法についてあれこれ迷うところ多かったのであるが、そういう私にとって、深沢氏が腰を据えて本文一字一字の筆跡の検討から作業を始めている姿は、これからの本文研究のありようを示唆しているようで非常に感動的であり、かつ興味深く思われたのである。その意味で、本書の刊行によって今後の『春雨物語』の本文研究は大きく変わっていくと断言しても決して言い過ぎではないと思う。
 ただ、現在流布している『春雨物語』の本文がいずれも二種以上の写本・稿本の混合本文であることに関して氏が提出している疑義についていえば、たしかに、理論的には氏のいうとおりであるにしても、だからといって、圧倒的に優れている富岡本をさしおいて、文化五年本を底本とする『春雨物語』を一般読者に提出することがはたして正しいことかどうか、なお検討が必要であろう。
 ともあれ、『春雨物語』の一写本についてだけでもこれだけの問題が存しているわけで、まして他の稿本・写本とのかかわりとなるとまだまだ多くの問題が残されているのであり、本書の刊行がこれらの問題に関するきわめて重要な指針となることは疑いないと思われる。(A5、三八一頁・一二〇〇〇円・勉誠社)(きごし・おさむ氏=金沢大学助教授・日本近世文学専攻)」 【週刊読書人 1644号、1986年8月】

 この後、木越治先生は、平成元年八月「『春雨物語』へーー文化五年本からの出発――」(『日本文学』38巻8号、後、一九九五年五月三一日、ぺりかん社発行『秋成論』に収録)という、画期的な論文を発表された。その中で、次の如く述べておられる。

「……今回、深沢氏や鷲山氏の指摘を念頭に置きつつ改めて文化五年本を読み返したときに、まず最初にいだいた感想は、これまで文化五年本は果たして自立したテキストとして読まれたことがあったのだろうかという疑問である。少なくとも(その出発点において各稿本の位置づけについて言及し、その後も繰り返し稿本群全体を作品論の対象とせよと主張し、かつ実践してきた)私自身についていえば、もちろんこれまで文化五年本を読まなかったということはありえないにしても、従来は中間的な草稿であるという認識が邪魔をして、富岡本・巻子本・冊子本等との先後関係いかん、というような興味でのみ対することが多かったように思う。また、作品を読む場合にも文化五年本でしか読めない「二世の縁」「死首の咲顔」「捨石丸」「樊噲下」以外は、とりたてて五年本の本文をそれ自体として意識して読むことはなかったと思う。結局は作者自身によって改訂されることになる本文である、という認識が、この稿本の本文としての価値を低くみるという結果につながっていたと今になって反省するのである。そしてそれは、私ひとりだけの特殊な態度というわけでもなかろうと思うのである。
 では、改めて文化五年本の全体を読んだ結果はどうなのか、ということになるが、とりあえず、大変わかりやすい本文である、ということが最大の特色といえそうである。
その意味で、これらの作品では富岡本と五年本とはそのめざすところが異なっているという前提から出発しなければならないと思われる。五年本の「樊噲」が荒ぶる樊噲のイメージを強く押し出していること(本書第一部Ⅱ第6章参照)も同様の問題として考察されねばならないのである。
 にもかかわらず、そうしたちがいが明確にされないまま、五年本は予定調和的に最終稿へと収斂していく、過渡的な稿本として位置づけられるだけに終わっていたのである。

以上、五年本がかなりわかりやすく、しかも、富岡本とは異なる独自の性格を持つ本文であることが理解されたかと思う。
 今後、文化五年本は、『春雨物語』を考えるためのすべての出発点にすべきことを再度主張して、とりあえずこの稿を終えることにする。」
 上田秋成が、作者生活の最晩年、明を失いながらも、創り上げ、推敲を重ねた文学作品に対して、真摯に対応する研究者の姿が、ここにはある。
 木越治先生は、二〇〇八年(平成二〇年)二月二〇日、森話社発行の『秋成文学の生成』所収の「『春雨物語』新稿、三 上級編――近世文学を専攻する研究者のために」で、さらに深化した、『春雨物語』テキスト論を述べておられる。
 現在、市販されている校注書の中から、
 Ⓐ『新編日本古典文学全集』小学館、一九九五年
 Ⓑ『新潮日本古典集成』新潮社、一九八〇年
 Ⓒ『日本古典文学大系』岩波書店、一九五九年
 Ⓓ『全対訳日本古典新書』創英社、一九八一年
の四点を取り上げ、底本の使用状態を一覧表にして示しておられる。この内、Ⓐ・Ⓒは作品よって、天理巻子本と文化五年本を取り合わせて使用している。Ⓑ・Ⓓは、富岡本と文化五年本を使用しているが、各作品の中では取り合わせはしていない。文学作品の場合、どのような底本の使用の仕方が妥当であるか、現在は明らかであると、私は考えている。
 木越先生は、この論の終わりのところで、次の様にまとめておられる。

 「こうしてみてくると、混乱の根は一つである。すなわち、本文の選択及び改稿過程に関してこれまで富岡本に主軸をおいて形成されてきた通説に疑問を呈している当の論者たち自身が、それにかわるものを提示し得ていない、という事実、もっと簡単に言えば、私も長島氏も、
⑴ 文化五年本が現存『春雨物語』諸稿のうちもっともすぐれたテキストである。
⑵ 一般に流布すべきテキストの底本は、文化五年本のみを底本にする。
⑶ 文化五年本は秋成の最終的な意志を実現したテキストでありり、他の諸稿はここに至る草稿にすぎない。
というふうに主張しえないところに最大の問題が存するのである。」

 この、木越先生の締めくくりの言葉は、先生の『春雨物語』テキスト研究の到達点であり、先生の本音であり、後世への遺言ともいうべきものだと思う。
 今後、桜山文庫本の書写者が使用した、上田秋成自筆の本文が発見されるかも知れない。そこから、『春雨物語』のテキストについての検討がなされる可能性もある。その時、木越治先生は、もう、おられない。それが、誠に残念でならない。
 今回、木越先生の御逝去に際して、先生を追悼する1文を草したが、『春雨物語』のテキストに関することに限定した。先生は、もっと広い範囲で、多大な業績を残しておられる。しかし、そのことに触れることは、私にはできない。
 今は、木越先生が提出された、『春雨物語』のテキストに関する見解が、今後の資料発見や、研究によって、確定されることを熱望して木越先生への追悼の言葉としたい。
 木越先生、有難うございました。
                  平成三十年三月二十四日

(『芸文稿』第11号、2018年7月)

秋成『春雨物語』テキストの今

『春雨物語』テキストの現在 

●上田秋成の『春雨物語』の諸本の状況に出会ったのは、昭和61年、1986年、32年前のことである。近世初期の仮名草子研究の私が、なにゆえ、上田秋成の『春雨物語』に手を出したのか。それは、今は省略する。
●それよりも、その時、近代の秋成研究者の校訂・校注した、『春雨物語』の底本の使い方に関して、大きな衝撃を受けた。私は、文章を使って表現する芸術が文学だと心得て、仮名草子や『井関隆子日記』を研究してきた。
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明治以後現在までの、諸先学が作られた、〔秋成〕の『春雨』の本文を一覧して気付くことが一つある。それは底本の使い方についてである。各校注本の使用状態をみると、果たしてこれで良いのか否か、少なからず疑問が残る。確かに文化六年本(最終稿本)が秀れた本文である事は問題ないにしても、統一体としての一編の本文を作るのに、創作時点の異なる本文を組み合わせる事は果たして許される事であるのかどうか。私は精粗の差のある本文を取り合わせて使用すべきではないと思う。
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●私は、『桜山本 春雨物語』の研究篇で、この様に述べた。恩師・重友毅先生をはじめ、諸先学を批判することは、ためらわれたが、晩年の秋成の心中を大切にしたいという念いから、あえて提言した。
●今回、木越治先生の御逝去に接し、改めて、その後の『春雨物語』のテキストの研究を確認して、今、〔真理が我らを自由にする〕という金言を味わっている。
●木越治先生は、2008年(平成20年)2月20日、森話社発行の『秋成文学の生成』所収の「『春雨物語』新稿、三 上級編――近世文学を専攻する研究者のために」で、さらに深化した、『春雨物語』テキスト論を述べておられる。
 現在、市販されている校注書の中から、
 Ⓐ『新編日本古典文学全集』小学館、一九九五年
 Ⓑ『新潮日本古典集成』新潮社、一九八〇年
 Ⓒ『日本古典文学大系』岩波書店、一九五九年
 Ⓓ『全対訳日本古典新書』創英社、一九八一年
の4点を取り上げ、底本の使用状態を一覧表にして示しておられる。この内、Ⓐ・Ⓒは作品よって、天理巻子本と文化五年本を取り合わせて使用している。Ⓑ・Ⓓは、富岡本と文化五年本を使用しているが、各作品の中では取り合わせはしていない。文学作品の場合、どのような底本の使用の仕方が妥当であるか、現在は明らかであると、私は考えている。
●木越先生は、この論の終わりのところで、次の様にまとめておられる。

 「こうしてみてくると、混乱の根は一つである。すなわち、本文の選択及び改稿過程に関してこれまで富岡本に主軸をおいて形成されてきた通説に疑問を呈している当の論者たち自身が、それにかわるものを提示し得ていない、という事実、もっと簡単に言えば、私も長島氏も、
⑴ 文化五年本が現存『春雨物語』諸稿のうちもっともすぐれたテキストである。
⑵ 一般に流布すべきテキストの底本は、文化五年本のみを底本にする。
⑶ 文化五年本は秋成の最終的な意志を実現したテキストであり、他の諸稿はここに至る草稿にすぎない。
というふうに主張しえないところに最大の問題が存するのである。」

●この、木越先生の締めくくりの言葉は、先生の『春雨物語』テキスト研究の到達点であり、先生の本音であり、後世への遺言ともいうべきものだと思う。
●32年前の、門外漢の私の疑問に、耳を傾けて下さり、上田秋成の『春雨物語』の諸本に、真摯に対応し、ここまで研究をお進め下さった、木越治先生、長島弘明先生に感謝申し上げる。
●文化五年本、桜山文庫本の書写者が使用したと推測される、上田秋成の自筆本が、今後、出現するかも知れない。そうなれば、さらに一歩、真実に近づくことが出来るかも知れない。
●桜山文庫本『春雨物語』は、現在、昭和女子大学図書館に所蔵されている。

■ 桜山文庫本『春雨物語』

木越 治 先生 の思い出

木越 治 先生 の思い出
2018.03.10 Saturday

木越 治 先生 の思い出

木越 治氏 より来信   (現役の頃、昭和女子大学〔深沢秋男研究室〕の日録)

●金沢大学の木越治氏からメールを頂いた。昭和女子大のホームページを見ました。大学生の頃のレポート興味深く読みました。『春雨物語』の本文は、お説の通りです。という内容。有難いことである。
●実は、昭和61年『桜山本 春雨物語』を出版した時、最初に私の意見に耳を傾けて下さったのは、木越氏であった。平成元年8月「『春雨物語』へ--文化五年本からの出発--」という論文を発表され、イギリスの書誌学者、フィリップ・ギャスケルの理論を導入しながら、文学作品のテキストのあり方に論及された、画期的な論文である。
●この木越氏の論文が影響したものか、鷲山樹心氏も論文の中で、私の説に賛意を表明して下さった。そうして、その後、中央公論から出された、『上田秋成全集』では、長島弘明氏が、『春雨物語』の各テキストを原型のまま収録してくれた。門外漢の私の意見を専門家の方々が、お認め下さったとしたら、こんなに嬉しい事はない。それにしても、あの状況下で、あの論を出された木越氏に改めて敬意の念を捧げる。

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【追記】この本が出た時、近世文学界では、長らく黙殺された。学会へ行っても、私の側には、誰も近づいてくれなかった。恩師・重友毅先生、秋成研究の大家・中村幸彦先生をはじめ、多くの研究者の説を批判したのであるから、これは、覚悟の上のことであった。私の研究生活の中では、こんなことは、少なくなかったのである。
平成30年(2018)3月10日

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書評 深沢秋男編『桜山本 春雨物語』      
木越 治

■朱筆と墨筆が同一人物の手になることを論証
■きわめて重要な意味持つ

上田秋成最晩年の傑作短編集『春雨物語』には多くの草稿(及びその写本)が残されている。今回刊行された桜山文庫は文化五年本と総称される写本のひとつで、西荘文庫旧蔵本とともに数少ない完本として『春雨物語』諸本中重要な位置を占めている。 
 この写本が丸山季夫氏によって発見されたのは昭和二十六年のことで、これ以後『春雨物語』の研究は飛躍的に進むことになったのであった。すでにこの写本は、古典文庫などに翻刻されており、また底本として利用されることも多かったのであるが、今回の影印に関しては、従来ほとんど区別されることなく扱われていた朱筆と墨筆の区別が明確になされていることがまず第一にあげるべき特色である。そして、深沢氏はその解説」中で、この朱筆と墨筆が同一人物の手になること、墨筆の原本は秋成自筆本、朱筆は別系統の自筆本ないし写本によったと推測されることなどを他の稿本・写本や具体的な筆跡の比較を通して論証しているのである。こうした筆跡検討の具体的な成果として、従来「死首の咲顔」とも「死骨の咲顔」とも読まれてきた第六篇の題名について、この写本中に出る「首」と「骨」の字形すべてを、集めたうえで「死首」が正しいと結論づけている例を挙げることができよう。’
 が、氏の解説のもつ意義は、こうした具体的ないちいちの成果にとどまるものではない。従来、おおざっぱな印象というかたちでしか語られてこなかった『春雨物語』諸本の筆跡の問題が、ようやく共通の基盤のうえで問題にし得るようになったという意味で研究史上きわめて重要な意味をもっていると私は思うのである。
 実は、本書が刊行された頃、私もちょうど『春雨物語』諸本の研究史を執筆したばかりで、その態度と方法についてあれこれ迷へところ多かったのであるが、そういう私にとって、深沢氏が腰を据えて本文一字一字の筆跡の検討から作業を始めている姿は、これからの本文研究のありようを示唆しているようで非常に感動的であり、かつ興味深く思われたのである。その意味で、本書の刊行によって今後の『春雨物語』の本文研究は大きく変わっていくと断言しても決して言い過ぎではないと思う。
 ただ、現在流布している『春雨物語』の本文がいずれも二種以上の写本・稿本の混合本文であることに関して氏が提出している疑義についていえば、たしかに、理論的には氏のいうとおりであるにしても、だからこいって、圧倒的に優れている富岡本をさしおいて、文化五年本を底本とする『春雨物語』を一般読者に提出することがはたして正しいことかどうか、なお検討が必要であろう。
 ともあれ、『春雨物語』の一写本についてだけでもこれだけの問題が存しているわけで、まして他の稿本・写本とのかかわりとなるとまだまだ多くの問題が残されているのであり、本書の刊行がこれらの問題に関するきわめて重要な指針となること
は疑いないと思われる。(A5、三八一頁・一二〇〇〇円・勉誠社)(きごし・おさむ氏=金沢大学助教授・日本近世文学専攻) 【週刊読書人 1644号、1986年8月】
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●この後、木越治氏は、平成元年8月「『春雨物語』へ--文化五年本からの出発--」という、画期的な論文を発表された。

上田秋成の思い出

秋成研究会と私

●大学3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講読を履修した。年度末のレポートのテーマは「私の『源氏物語』」であった。私は「『源氏物語』夕顔の巻と『雨月物語』「吉備津の釜」」で提出した。4年の5月ころだったと思うが、重友先生から呼び出しがあり、教授室へ伺うと、キミ、秋山君に面白いレポートを出したそうだね、と仰る。で、よかったら、秋成研究会で発表してみないかね、と付け加えられた。
●秋成研究会は、当時、首都圏の大学の先生をはじめ各大学の院生も参加して、法政大学で行われていた。学部学生ながら、私も1、2回拝聴した事があった。重友毅先生をはじめ、森山重雄・鵜月洋・高田衛・丸山茂・東喜望等々の研究者が参加しておられた。発表原稿を来週までに清書して来たまえ。
●私は、感激した。学部学生の小生が書いたものを、発表させて下さる、と言う。次の週、勇んで原稿を持参した。先生は、見ておきましょう、来週また来たまえ、と私の拙い字の原稿を茶色の鞄に入れられた。
●1週間後の結果はさんざんだった。まず、表紙のタイトルの「吉備津の釜」の「備」を指され、こんな字はありませんッ! と鉛筆で斜線をひかれた。これで私の異例の抜擢は水に流された。重友教授へ提出したレポートを読むと懐かしい。

 私の『源氏物語』ー夕顔の巻を中心にー

はじめに

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのである。
 夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
 夕顔は次の如く形象化されている。
「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかなるを重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」
 このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
 私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
 夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

 本居宣長の『手枕』

 宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
 宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・
 「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
 さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
 この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写し とどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりしなど書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

 宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
 『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。

語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
 「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
 この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
 その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
 「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そうして強調したいのである。

 正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。
 このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。
 「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
 次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。
 これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。
 また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。
 さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。
 このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

 『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。
 
 また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
 正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。
 さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。
 また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。
 「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」
 粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。
 『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。
 秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

 『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。
 「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき[女ラシキ也]心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
 まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ[才能]の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌
 秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。

 この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。
 秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、
 「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。

 宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ差しいれるものとして作られている。
 秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。
 『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。
 古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。

 島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』と「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。
 秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。

(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)

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 大学生の頃のレポートであり、誠に評論的であるが、忘れられない思い出である。
今、秋山虔先生も、重友毅先生も、黄泉の世界に逝かれた。私は、順調に法政大学の大学院へ進んでいたなら、重友先生御指導のもと、上田秋成研究をする予定だった。
【平成30年、2018年2月20日】