木越治先生の思い出

木越治先生の思い出

  • 2020.11.10 Tuesday
木越 治 先生 の思い出

2018.03.10 Saturday

木越 治 先生 の思い出

木越 治氏 より来信   (現役の頃、昭和女子大学〔深沢秋男研究室〕の日録)

●金沢大学の木越治氏からメールを頂いた。昭和女子大のホームページを見ました。大学生の頃のレポート興味深く読みました。『春雨物語』の本文は、お説の通りです。という内容。有難いことである。

●実は、昭和61年『桜山本 春雨物語』を出版した時、最初に私の意見に耳を傾けて下さったのは、木越氏であった。平成元年8月「『春雨物語』へ--文化五年本からの出発--」という論文を発表され、イギリスの書誌学者、フィリップ・ギャスケルの理論を導入しながら、文学作品のテキストのあり方に論及された、画期的な論文である。

●この木越氏の論文が影響したものか、鷲山樹心氏も論文の中で、私の説に賛意を表明して下さった。そうして、その後、中央公論から出された、『上田秋成全集』では、長島弘明氏が、『春雨物語』の各テキストを原型のまま収録してくれた。門外漢の私の意見を専門家の方々が、お認め下さったとしたら、こんなに嬉しい事はない。それにしても、あの状況下で、あの論を出された木越氏に改めて敬意の念を捧げる。

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【追記】この本が出た時、近世文学界では、長らく黙殺された。学会へ行っても、私の側には、誰も近づいてくれなかった。恩師・重友毅先生、秋成研究の大家・中村幸彦先生をはじめ、多くの研究者の説を批判したのであるから、これは、覚悟の上のことであった。私の研究生活の中では、こんなことは、少なくなかったのである。

平成30年(2018)3月10日

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書評 深沢秋男編『桜山本 春雨物語』
      
木越 治

■朱筆と墨筆が同一人物の手になることを論証
■きわめて重要な意味持つ

上田秋成最晩年の傑作短編集『春雨物語』には多くの草稿(及びその写本)が残されている。今回刊行された桜山文庫は文化五年本と総称される写本のひとつで、西荘文庫旧蔵本とともに数少ない完本として『春雨物語』諸本中重要な位置を占めている。
 
 この写本が丸山季夫氏によって発見されたのは昭和二十六年のことで、これ以後『春雨物語』の研究は飛躍的に進むことになったのであった。すでにこの写本は、古典文庫などに翻刻されており、また底本として利用されることも多かったのであるが、今回の影印に関しては、従来ほとんど区別されることなく扱われていた朱筆と墨筆の区別が明確になされていることがまず第一にあげるべき特色である。そして、深沢氏はその解説」中で、この朱筆と墨筆が同一人物の手になること、墨筆の原本は秋成自筆本、朱筆は別系統の自筆本ないし写本によったと推測されることなどを他の稿本・写本や具体的な筆跡の比較を通して論証しているのである。こうした筆跡検討の具体的な成果として、従来「死首の咲顔」とも「死骨の咲顔」とも読まれてきた第六篇の題名について、この写本中に出る「首」と「骨」の字形すべてを、集めたうえで「死首」が正しいと結論づけている例を挙げることができよう。

 が、氏の解説のもつ意義は、こうした具体的ないちいちの成果にとどまるものではない。従来、おおざっぱな印象というかたちでしか語られてこなかった『春雨物語』諸本の筆跡の問題が、ようやく共通の基盤のうえで問題にし得るようになったという意味で研究史上きわめて重要な意味をもっていると私は思うのである。

 実は、本書が刊行された頃、私もちょうど『春雨物語』諸本の研究史を執筆したばかりで、その態度と方法についてあれこれ迷へところ多かったのであるが、そういう私にとって、深沢氏が腰を据えて本文一字一字の筆跡の検討から作業を始めている姿は、これからの本文研究のありようを示唆しているようで非常に感動的であり、かつ興味深く思われたのである。その意味で、本書の刊行によって今後の『春雨物語』の本文研究は大きく変わっていくと断言しても決して言い過ぎではないと思う。

 ただ、現在流布している『春雨物語』の本文がいずれも二種以上の写本・稿本の混合本文であることに関して氏が提出している疑義についていえば、たしかに、理論的には氏のいうとおりであるにしても、だからこいって、圧倒的に優れている富岡本をさしおいて、文化五年本を底本とする『春雨物語』を一般読者に提出することがはたして正しいことかどうか、なお検討が必要であろう。

 ともあれ、『春雨物語』の一写本についてだけでもこれだけの問題が存しているわけで、まして他の稿本・写本とのかかわりとなるとまだまだ多くの問題が残されているのであり、本書の刊行がこれらの問題に関するきわめて重要な指針となること
は疑いないと思われる。(A5、三八一頁・一二〇〇〇円・勉誠社)
(きごし・おさむ氏=金沢大学助教授・日本近世文学専攻)
 
【週刊読書人 1644号、1986年8月】
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●この後、木越治氏は、平成元年8月「『春雨物語』へ--文化五年本からの出発--」という、画期的な論文を発表された。

木越治氏の見識

木越治氏の見識

  • 2020.11.10 Tuesday
2014.03.14saikaku_repository
「近世文学会」的な、あまりに「近世文学会」的な!(木越治)【西鶴と浮世草子研究repository[投稿]】第三十八回 西鶴研究会・中野三敏氏[講演]「西鶴戯作者説再考」/広嶋 進氏「『西鶴置土産』神話の形成―無視された青果戯曲―」(2014年3月27日(木)、青山学院大学 総合研究ビル10階会議室)では、中野三敏氏の講演に関して、当日の議論が深まるようにということで、事前に「意見、感想」を募っています。本投稿はその第三弾です。以下お読みの上、ぜひ第三十八回 西鶴研究会にご参集下さい。お待ちしております。
第一弾●「その先」を考えるのはいけないことですか―中野三敏氏「西鶴戯作者説再考―江戸の眼と現代の眼の持つ意味―」への共感と疑義 (篠原 進)
第二弾●「西鶴戯作説」の議論に望みたいこと ―司会者の立場から―(有働 裕)
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「近世文学会」的な、あまりに「近世文学会」的な!

●木越治

三月末にある「西鶴研究会」は、あいにく勤務先の卒業式と重なるので出かけることができません。
ただ、事前にアナウンスのあった「文学」誌掲載の中野三敏先生の論文「西鶴戯作者説再考─江戸の眼と現代の眼の持つ意味」は読みましたし、笠間書院のリポジトリに載った篠原進氏による反応も、読みました。
それ以後も何人か書くのかと思っていましたが、いっこうにその気配がありません。
当日、出るのかもしれませんが、参加できないので、一応、私なりの感想を書きつけておきたいと思います。
なお、篠原氏のような丁寧な挨拶や前置きは、当方のキャラクターに合わないので、すべて省略し、早速本題に入りたいと思います。

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ふだん、いつも「文学」誌が出るたびにすぐ手に取るとような環境にいないので(すこし離れた建物である図書館の閲覧室まで出かけなければならない)、中野先生の論文を目にするのはちょっと遅れてしまった。が、雑誌を開いて目次を見た瞬間、ああ、この号だったのかと思った。というのは、東京新聞の名物コラム「大波小波」で、一月のはじめに、干支の「馬」にちなんだこの雑誌の特集がおもしろかったと書かれていたからである。ちょっとのぞいておこうかな、と思いつつ、そのままになっていたのがこの号であった。
そのコラムでは、中野先生の論文には全く触れていなかった。それは近世文学研究にたずさわるものとして、とても残念なことであるが、同時にまた、匿名コラムの筆者が取り上げる気にならなかったのもまた当然である、と思われた。なぜなら、中野先生の論文は、近世文学の研究者(というより、近世文学会)にむけてしか書かれていないからである。
私は、先生の論文における最大の問題点は、ここにあると思う。
「文学」という雑誌は、日本文学研究者のみならず、外国文学研究者も執筆している。当然、その系統の人も読む雑誌と考えるべきだろう。
にもかかわらず、こういううちわ向けの文章しか書かないというのは、非常に問題があると思う。
先生の書かれていることについて、特に、江戸という時代をどう見るか、ということに関して、私としては、何も反論すべきことはない。いや、中野先生の提唱する「滑稽と教訓」、あるいは、中村幸彦先生のテーゼであった「雅と俗」などに関して、私は、一方的に学んできただけの人間であるという自覚しか持ってない。だから、自分の受け持つ文学史の時間に、これらの点に関して、いやになるくらい語ってきているし、これからもずっとそうしつづけるだろう。
その意味では、今回の論文は、私に、なにも新しい知見を与えてくれなかった。読んで、余りトクしたという気にはならなかったのである。
ただ、今回、はじめてわかったのは、先生が、江戸人の眼で江戸の文学を読むことが、ほんとうに可能であると、本気で思っているらしいことだ。
私は、それをずっと比喩として受け取ってきた。作品の語句や背景にある同時代的コンテクストを無視してはいけない、というような、「読み」の枠組みに関することを述べているのだと、ずっと私は理解してきたのである。そして、その限りでは正当な主張であるから、その点の知識・教養が決定的に欠けている人間として、しばしば先生のお書きになったものから学んできたつもりである。
しかし、今回の論文を拝見すると、どうやら、近代の西洋の横文字理論などとつきあうのはやめ、できるだけ江戸のものに親しめ、『好色一代男』の版本を手に持てば、自ずから、江戸人の眼で読めるようになる、と言いたいのであるらしい。
しかし、私には、そんなことは、とても信じられない。
それと、先生が毛嫌いする「近代的」理論、「西洋的」理論なるものの内実は、お書きになっている内容から推測する限り、50年、いや、それ以上前のものでしかないように思える。とても古い研究モデルを仮想敵として語っているのではないだろうか。
読みながら、ときどき、「いまどき、こんな研究をやっている人間はいないよ」と口に出したいところがいくつもあった。
もっとも、先生の方は、そちらのことは知らなくても、充分にやっていけると考えているから、こういう文章をお書きになるのだろう。
しかし、これは、私には、受け入れられない。
その流れで書くが、先生の論文には、「作品」という項が欠けている。
文学史を語っているにもかかわらず、そして、今回は、主に西鶴について語っているにもかかわらず、時代と作者についてしか話題になっていないのである。作品は全く問題になっていない!
(念のために申し上げれば、「私とて西鶴作品の面白さが空前である事は認めている」などという言い方が、作品を論じたことにならないのはわかっていただけるはずである。)
私が、近世文学研究者であることを志したとき、この世界に一番欠けていると感じたものがそれ(=作品を論ずる方法の欠如)であった。だから、自分なりに、作品を論じるとはどういうことかについて、真剣に考えてきたつもりである。先生のいわゆる「近代主義的見方」についても、私のなかでは、とっくの昔に織り込みずみである。
テキストという概念を確立させることによって、作品を作者の手から奪うことになって以来、先生が考えているような「近代主義的な読み」というような批判は成立しなくなっている。「読み」のアナーキーは、「近代的」とか「近世的」というようなことを超えたところに存在しうるのである。
それらの理論すべてを承認する必要はないが、作者がどう考えていたか、ということと、あるテキストをどう読むか、ということとは、無関係である、ということは、私(たち)にとっては、常識である。
もちろん、だからといって、無茶苦茶な解釈が許されるわけではない。テキストにある文言の厳密な解釈や同時代的なコンテクストの理解は必須である。その点で、先生のもろもろのご研究は必読文献であるし、それらをないがしろにして、テキスト解釈は成り立たないと私は考えている。
私は篠原氏と異なり、秋成は自分を戯作者と考えていただろうと思っている。
というより、秋成も西鶴も、近世という時代において小説を書く人間はみなそうであったと思う。そんなことは、この国における物語や小説の歴史をすこし勉強してみれば当然のことである。
が、だからといって、私は、彼の浮世草子や『雨月物語』や『春雨物語』の評価を訂正する必要を全く感じない。彼自身の意図にかかわりなく、それらの作品は存在しているし、評価しうるからである。
もちろん、それらが生み出されるプロセスについて考察するときには、戯作者意識を含めたもろもろの近世的事情を勘案するはずである。
中野先生が、今回ヘンだと感じられた「西鶴カムフラージュ説」は、たぶん、先生の書かれているような近世の見方云々の問題ではない。すぐれて西鶴研究的な問題に過ぎないと思う。
篠原氏が提起している『武家義理物語』の解釈についていえば、問題は、「若殿御機嫌良く」という箇所に武家批判を読み取りうるか、という一点に尽きているのではないだろうか。
読み取りうる、というためには、論拠が必要であるが、私には、それが示されているとは思えない。あるのはただ、そう読みたいという願望のみであるように見える。
ここでの忠義が矛盾に満ちていることは、誰が読んでも感じるところだろう。問題は、『武家義理物語』というテキストの内部において、そういう武士道に対する批判をどう引き出してくるか、それが可能か、という一点にかかっている。
この話の読みに関する限り、中野先生や浜田氏のようにしか私には読めない。篠原氏の「その先を読む」というのは、私の考えている、作品本文から引き出しうる読みの範囲を超えている、としか思えない。
ただし、こういうことは、私が言うべきことではないような気がする。
西鶴研究を専門とする人たちが、なぜ、もっと活発に発言しないのだろうか?
かつて、西鶴研究の停滞を憂えて、雑誌の特集号の編集まで買って出た人間として、いまの、西鶴研究者たちの反応の鈍さは、なんとも歯がゆい気がする。
論争よ、起これ。
上の世代に遠慮なんかするな。
実証のカラに閉じこもっていてはダメだ。
あなたがたは、なんのために、西鶴をやっているのですか?
中野先生の論文に対して、表だった反応が篠原氏しかないことを含め、こういう光景は、とても「近世文学会」的であるように思える。
そして、それは、この学会のいちばん駄目なところだと思う。
それだから、なんのトクにもならないことを承知しつつ、あえてこの文章を公にする次第であります。

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●木越治先生は、秋成研究、私は仮名草子研究。近世文学と言っても、近世初期の大啓蒙期の文学と、上田秋成の時代とは、文学の質もだいぶ異なる。

●私は、以前、『桜山文庫本 春雨物語』を勉誠社から出した。複製本であるが、諸先学の、『春雨物語』のテキストの扱いに関して、愕然とした。私は、恩師・重友毅先生をはじめ、多くの先学の説に対して、批判的な態度をとらざるを得なかった。

●果たして、この本は、出版後、しばらく、学界から黙殺され続けた。そして、私の説に、正面から取り組み、適正な評価して下さったのが、木越治先生だった。

●私は、研究者の生命をかけて、この説を出した。作者・上田秋成の尊厳を守るために、この本を出したのである。35年前の事である。

「吉備津の釜」と「夕顔の巻」 再掲

「吉備津の釜」と「夕顔の巻」

  • 2020.07.27 Monday
●【深沢秋男の窓】で、アクセスが急上昇したという内容は、次のものだった。これは、私が大学3年の時に書いた、秋山虔先生提出のレポートである。

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「吉備津の釜」と「夕顔の巻」
2018.12.06 Thursday

●木越治先生の論文を読んで、学生時代を思い出した。工学部建築科から、文学部日本文学科に進路変更して、本当によかったと、今、思う。

●大学3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講読を履修した。年度末のレポートのテーマは「私の『源氏物語』」であった。私は「『源氏物語』夕顔の巻と『雨月物語』「吉備津の釜」」で提出した。4年の5月ころだったと思うが、重友先生から呼び出しがあり、教授室へ伺うと、キミ、秋山君に面白いレポートを出したそうだね、と仰る。で、よかったら、秋成研究会で発表してみないかね、と付け加えられた。

●秋成研究会は、当時、首都圏の大学の先生をはじめ各大学の院生も参加して、法政大学で行われていた。学部学生ながら、私も1、2回拝聴した事があった。重友毅先生をはじめ、森山重雄・鵜月洋・高田衛・丸山茂・東喜望等々の研究者が参加しておられた。発表原稿を来週までに清書して来たまえ。

●私は、感激した。学部学生の小生が書いたものを、発表させて下さる、と言う。次の週、勇んで原稿を持参した。先生は、見ておきましょう、来週また来たまえ、と私の拙い字の原稿を茶色の鞄に入れられた。

●1週間後の結果はさんざんでした。まず、表紙のタイトルの「吉備津の釜」の「備」を指され、こんな字はありませんッ! と鉛筆で斜線をひかれた。これで私の異例の抜擢は水に流された。拙い一文であるが、重友教授へ提出の原文のまま紹介する。

私の『源氏物語』―ー夕顔の巻を中心にーー

はじめに

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのである。
 夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
 夕顔は次の如く形象化されている。
「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかなるを重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」
 このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
 私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
 夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

本居宣長の『手枕』

 宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
 宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・
 「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
 さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
 この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写しとどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

 宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
 『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。

語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
 「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
 この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
 その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
 「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。

正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

 「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。
 このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。
 「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
 次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。
 これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。
 また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。
 さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。
 このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

 『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。
 
 また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
 正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し。」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。
 さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。
 また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。
 「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」
 粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。
 『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。
 秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

 『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。
 「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき[女ラシキ也]心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
 まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ[才能]の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌
 秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。

 この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。
 秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、
 「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。

 宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ刺しいれるものとして作られている。
 秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。
 『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。
 古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。

 島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』ト「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。
 秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。

(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)

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● 大学生の頃の文章であり、評論に流れ、幼いものではあるが、忘れられない思い出である。ネットの世界も進歩して、かなり大量の情報もアップできるようになった。

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  • 2020.07.26 Sunday
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「吉備津の釜」と「夕顔の巻」


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●グーグールから、こんなメールが届いた。
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約束 西鶴と秋成

約束 西鶴と秋成

  • 2020.06.11 Thursday
 約束は雪の朝飯(あさめし)        深沢秋男

 石川丈山は、近世初期の儒者である。武士であったが、仕えを辞し、京都・賀茂山に隠棲して詩歌の道を楽しんでいた。
 ある時、この草庵を小栗某が訪れる。この小栗も、もとは武士の出であったが、へつらい事の多い俗世を捨てた身である。二人は生き方も共通していたので、親しい間柄であった。
 しばらく語り合った後、別れぎわに、小栗は、所用があって備前・岡山まで行くと言う。京へ帰るのはいつ頃か、と問うと霜月(十一月)の末と言う。その二十七日は法事なので、ぜひ食事を共にしよう、と約束して別れた。   
 月日は過ぎて、十一月二十六日の夜、京都は大雪が降った。丈山は、早朝から草庵の庭の雪かきをしていた。すると、そこへ、破紙子(やぶれかみこ)姿の小栗がひょっこり現れた。
 久し振りの二人は、互いの無事を語り合ったが、丈山が、この寒空に何の用事か、と尋ねると、霜月の二十七日に食事をしようと約束したのを、お前は忘れたのか、と言う。丈山も約束を思い出し、早速、飯を炊き、柚味噌を添えただけの膳を出すと、小栗はうまそうに食べ終え、その箸を下に置くか置かないうちに、また、備前へ旅立って行った。
これは、井原西鶴の『武家義理物語』の一篇であるが、この話に、作者は、

「さては、此人、日外(いつぞや)かりそめに申しかはせし、言葉をたがへず、今朝の一飯喰ふばかりに、はるばるの備前より、京までのぼられけるよ。むかしは武士の実(まこと)在る心底を感ぜられし。」

と批評している。     
丈山も小栗も、共に風雅を好む隠棲者、二人の一飯を共にするという約束の様を、西鶴は爽やかに、さらりと描いて見せている。短い一篇ではあるが、忘れられない話である。

 同じ約束を描いたものとして、上田秋成の『雨月物語』の中の「菊花の約(ちぎり)」が思い出される。
 播磨の国、加古の宿(兵庫県加古川市)に、丈部左門という学者が住んでいた。富や地位を求めず、学問一筋に打ち込む生活をしていたが、年老いた母は機織りをして、我が子の学問を助けていた。
 ある日、一人の武士が、旅の途中、この加古の宿で急性の伝染病にかかって倒れる。人々は病気のうつるのを恐れて、だれ一人近づこうとはしなかった。
 左門は、旅の空で一人苦しむ武士を憐れみ、枕元を離れず、親身になって看病する。その甲斐があって、病は徐々に回復してゆく。
 その武士は、赤穴宗右衛門といい、自国・出雲(島根県)へ帰る途中であるとのこと。心細い旅先で出会った、左門の親切に宗右衛門は心から感謝する。
 宗右衛門は左門より年長で、中国の孔子・老子・孟子・荘子などの教えにも詳しく、左門は尊敬の気持ちが強くなり、やがて二人は義兄弟の約を結ぶ。
 宗右衛門は、義兄弟になった以上、君の母は、私にとっても母であるから是非お会いしたい、と言う。左門は感激して、早速家に案内すると、母も大変喜んで、未熟な弟と思って導いて欲しいと頼む。
 二人は人間の生き方などについて語り合い、楽しい日々を過ごすが、しばらくして、宗右衛門は、一度郷里へ帰ってきたいと思う、その後で、これまでの御恩返しをしたい、と言う。
 左門が、お帰りは何時ごろか、と問うと、菊の節句(九月九日)に帰って来ることにしよう、と言い残して旅立つ。
 季節は移り、いつしか約束の九月九日となる。左門は早朝から掃除を済ませ、菊の花を活け、宗右衛門を迎える準備をした。その子を見た母は、出雲は百里も離れているというのだから、約束通り来るとは限らない。姿を見てから準備してはどうか、と言う。しかし、左門は、相手は信義を守る武士だから、約束を違えるとは思えない、姿を見てから準備したのでは、相手を疑ったことになり、それは恥ずかしい、と答えて、良い酒を買い、鮮な魚を料理して宗右衛門の来るのを待った。
 その日は天気も良く、前の街道を、多くの旅人が通って行く。しかし、武士はいっこうに姿を見せない。日も暮れ、あたりは暗くなる。今日はこれまてとして、また明日待ってみてはどうか、と言う母の言葉に、さすがの左門もあきらめて、戸を閉め家に入ろうとした。
 その時である。何か人の気配を感じて、暗闇の方にハッと目をこらすと、それが赤穴宗右門であった。左門は、躍り上がって喜ぶ。
しかし、宗右衛門の素振りはどこか異常である。語るところによると、自分はもうこの世の者では無い。実は、出雲に帰ったところ、富田城主・尼子経久(あまこつねひさ)のたくらみによって、城中にと閉じ込められてしまった。そこで、

「人一日に千里(ちさと)をゆくことあはず。魂(たま)よく千里をゆく。」

という、ことわざを思い出し、自ら命を絶ち、霊魂となって、今宵の菊の節句の約束を果たすことができたのだ、と言って、涙をハラハラとこぼした。
 そして、これが永遠の別れだが、どうか母上を大事にして欲しい、と言い残して姿を消してしまう。
左門は、慌てて、止めようとしたが、再び宗右衛門に会うことは出来なかった。

 近世の代表的な二人の作者が約束をテーマに書き留めている。いくら約束したからとは言え、たった一度の食事を共にするために、わざわざ岡山から京都まで帰って来なくともよいかも知れない。
      
 旅先で病に倒れ、助けてくれた左門は、宗右衛門にとっては神様とも思えたに違いない。また、気脈相通じた二人の間で交わした約束ではあるが、自らの命を断ってまで守らなくともよいかも知れない。

しかし、西鶴も秋成もこのように描いている。そして、今もこの両作品は私達を感動させるものを持っている。一度読んだ者は、忘れることはないだろうし、約束についての考えは変わるだろう。それが文学である。
     (昭和女子大学『昭和学報』第373号、平成9年5月1日)

秋成『雨月物語』・〔吉備津の釜〕

上田秋成の『雨月物語』・〔吉備津の釜〕

  • 2020.06.10 Wednesday
秋成の『雨月物語』・〔吉備津の釜〕

上田秋成は、本居宣長の『手枕』に対して、厳しい評価を下している。その秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、

日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子

など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。

語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。

「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」

この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」

と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。

正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。

このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。

「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。

これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。

また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。

さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。

このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。

また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し。」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。

さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。

また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。

「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」

粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。

『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。

秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。

「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき〔女ラシキ也〕心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ〔才能〕の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌

秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。

この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。

秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、

「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。

宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ差し入れるものとして作られている。

秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。

『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。

古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。
島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』ト「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。

秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。
(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)

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●大学3年の時の、拙文である。その後、『雨月物語』の研究で、この問題は取り上げられた事はあるのだろうか。私が、法政の大学院へ進んでいたとしたら、重友先生は、上田秋成を研究するように指示しておられた。私としては、秋成の国学を解明したかった。

秋山虔先生と私

秋山 虔 先生 と私

  • 2020.06.09 Tuesday
秋山 虔 先生 と私

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秋山 虔 (あきやま けん)

概要[編集]  【ウィキペディア より抜粋】

岡山県出身の国文学者であり、主として中古文学を専攻した。『源氏物語』の成立論をはじめ、構造論、人物論、さらには作者である紫式部に関する作家論など、多彩な方法論を展開した[1]。その結果、『源氏物語』研究の指導的存在となり、学界に大きな影響を与えた。また、平安時代の和歌をはじめ、物語、説話文学、さらには漢文学に至るまで、作品成立時の社会的環境の下での作者の心理、意識、表現などを解明した[1]。国士舘短期大学、東洋大学、東京大学、東京女子大学、駒沢女子大学などで教鞭を執り、多数の後進を育成した[1]。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

岡山県出身。1941年東京府立第六中学校(現都立新宿高等学校)卒業。旧制第三高等学校卒業。東京帝国大学国文科卒業。

研究者として[編集]

1953年、国士舘短期大学助教授、1954年東洋大学助教授、1957年東京大学文学部助教授、1969年教授。1984年定年退官、名誉教授、東京女子大学教授、1993年駒沢女子大学教授、1999年退職。1989年紫綬褒章受章、2000年日本学士院会員。2001年文化功労者、勲二等瑞宝章叙勲。2015年11月18日、肺炎のため91歳で死去[2]。

研究[編集]

『源氏物語』の研究で知られる。校訂、事典、入門書の編纂多数。2006年には源氏物語千年紀のよびかけ人となり、古典の日推進呼びかけ人に名を連ねた[3]。また1996年には、皇居での講書始の進講者を務め、2001年の愛子内親王の命名時に勘申者を務めた。

著書[編集]

• 『評釈国文学大系 第3 源氏物語』河出書房 1955
• 『蜻蛉日記』弘文堂 1956 アテネ文庫 古典解説シリーズ
• 『源氏物語・更級日記』さ・え・ら書房 私たちの日本古典文学 1958
• 『源氏物語の解釈と問題研究』山田書院 1959
• 『宇津保物語・落窪物語・堤中納言物語』さ・え・ら書房 私たちの日本古典文学 1963
• 『源氏物語の世界 その方法と達成』東京大学出版会 1964
• 『王朝女流文学の形成』塙書房 1967
• 『源氏物語』岩波新書 1968
• 『考究日本古典』新塔社 1970
• 『源氏物語 若い人への古典案内』社会思想社・現代教養文庫 1971、のち新版
• 『王朝女流文学の世界』東京大学出版会 1972
• 『紫式部 宿業を生きた王朝の物語作家』平凡社、1979(日本を創った人びと)
• 『古今和歌集』尚学図書 1982 鑑賞日本の古典
• 『王朝の文学空間』東京大学出版会 1984
• 『王朝の歌人 伊勢』集英社 1985/『伊勢』 ちくま学芸文庫 1994
• 『源氏物語の女性たち』小学館 1987、同ライブラリー 1991
• 『古典をどう読むか 日本を学ぶための『名著』12章』笠間書院 2005
• 『源氏物語の論』笠間書院 2011
• 『平安文学の論』笠間書院 2011

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●私は法政大学で、3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講義を履修した。大学入学と同時に、大内兵衛先生のお言葉に刺激されて、『源氏物語』を、池田亀鑑の校注本、朝日古典全書で、全巻読破していた。そんな私にとって、秋山先生の講義は非常に魅力的だった。履修者も多く、大部分女性だったが、私は、最前列で、先生の講義を拝聴した。卒業後も、3年間は聴講させて頂いた。

●4年生になった4月、卒論の指導教授、重友毅先生から呼び出しがあった。教授室へ伺うと、「君、秋山君に、面白いレポートを出したそうだね。良かったら、〔秋成研究会〕で発表してみないかネ?」と申され、来週までに清書してきたまえ。と付け加えられた。

●勇んで清書して持参すると、読んでおくので、来週、また来たまえ。となり、来週伺うと、結果はボツだった。今、考えると、重友先生の説まで批判していたのだから、パスするはずはなかった。

●秋山先生からは、卒業後も、長年にわたって、あたたかく御指導を賜わり、私が本を出した時は差上げ、先生も著書出版の時は、必ず御恵与賜った。

●先生は、平成27年(2015)11月18日、91歳で御他界なされたが、それより前、一度、遊びにいらっしゃい、と声をかけて下さった。こちらの家庭の事情で、板橋の御自宅へお伺い出来なかったのが、一番、心残りのことである。

しかし、これは、私にとって、大きな名誉な事であった。

「田舎におはせば、言えり給へど・・・」

「田舎におはせば、言えり給へど・・・」

  • 2020.06.08 Monday
  • 07:08

「田舎におはせば、言えり給へど・・・」

私の『源氏物語』――夕顔の巻を中心に――

◆はじめに◆

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのである。

夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。

夕顔は次の如く形象化されている。

「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかな を重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」

このように夕顔は描かれ、形象化されている。これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。

私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。

夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

◆本居宣長の『手枕』◆

宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。

宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・

「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。

さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。

この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。

私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。

秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。

「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉 る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写しとどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、  時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。

【後略】

★これは、、大学3年の時、秋山虔先生に提出したレポートである。

三たび 『源氏物語』

三たび 『源氏物語』

 

  • 上田秋成は、『源氏物語』の各巻に対して、それぞれ、一首の歌を詠じている。

 

  • ある年の冬の夜長に、妻(かたはらにある人)に『源氏物語』を読んでもらい、一巻終わるごとに一首ずつ詠じたというのがある。高田衛氏によれば、『源語』を読んでくれたのは、妻でなく、足立紫蓮尼であるという。
  • この高田氏の説に従うならば、この歌は、紫蓮尼と出会った寛政十年から、『藤簍冊子』の自序の成った享和二年頃のものであったかも知れない。秋成六十五歳から六十九歳ということになる。

 

 以下、各巻の歌を具体的に見てゆきたい。

 

    桐 壷

よひのまにはかなの月は入にけり ねためる雲をかけしながらに

 

 まだ宵であるというのに、もう月は入ってしまった、それをあたかも残念がっているかのような雲を残したまま。

 

 宵のうちに姿を消してしまう月の、宵月の、なんとはなしにはかない情趣を詠じたものであるが、この歌における「月」は、桐壷帝の寵愛を一身に受ける桐壷更衣であり、それを妬む雲は弘徽殿女御をはじめとする多くの女御・更衣たちである。そして「よひのまに」の「よひ」は桐壷更衣の子・光君の幼さに通じる。

 この歌は桐壷巻頭のレジュメの如くであり、その内容をそれぞれの風物にたとえて、歌っているが「ねためる雲」の発想は、やはり秋成的であり、秋成の『源語』に対する考えの一端が出ていると思う。

 

    帚 木

さまざまに定めあらそふ人の上に はては心もさみだるゝ空

 

 お互いに女性(人の上)のよさについて批判し合うが、しまいには(これと定めることも出来ず)五月雨の空のように判然とせず、訳のわからない義論になったことである。

 これは、浅野氏の注にもある通り、雨夜の品定めを歌ったものであるが「はては心もさみだるゝ空」は、第五句を「自筆短冊」が「さみだれの夜半」としており、品定め末尾の「何方により果つともなく、はてはてはあやしき事どもになりて、明し給ひつ。」に対応する。

 秋成は『ぬば玉の巻』で「一部の大むねを求むれば、雨夜の物語に世にある女のうへを、さまかたち心ばへをまで、漏らさじと書いあらはしたる程に、筆のすさみの行くに任せて、そこはかとなく書きひろめたる物とこぞ覚ゆれ」と言い、また国学の師・加藤宇万伎の『雨夜物語たみことば』を刊行し、その序で、「物がたりぶみは世におほかめれど、光源氏のもの語ばかりあやにたくめるはなし。それが中にもあま夜のしなさだめなむ、いといと心得がたきを、静舎のうしいにしとし人のもとめによりて、そこをなむ書いでゝ、こと葉をそへつゝとかれしを、人のつてに見てしより……」と述べ、この帚木の巻を重視しているが、これは『源語』研究史上、従来の諸学者によって説かれてきた事であり、これを認め、更に、真淵・宇万伎の説に従っており、この一首も、そのような秋成の『源語』評価を背景として作られた歌である。

 

    空 蝉

やり水のほまれの門をひき入る 車は恋の重荷なりけり

 

 最初遣り水が涼しいからとくぐったこの門を、今引き入れる車は、恋に苦しみ悩む光源氏を乗せているのである。

 「やり水のほまれの門」は、光源氏が遣り水が涼しいからといって、紀伊守の家に方違えをし、再度、ここを訪れた時、紀伊守が「遣水の面目とかしこまりよろこ」んだことに拠る。

 伊予介の後妻・空蝉への恋にとりつかれた光の心境は、まさにこのように重苦しく、居たたまれぬものである。秋成は、最高の権威と、この上ない美貌の持ち主・光に対して、中流階層の女性として、また人妻として自らのモラルを貫き通した空蝉に直接ふれず、その彼女への恋のために苦しむ光源氏の姿をとらえた。やや、光を突き放した形でとらえているところに、秋成の光に対する考えが出ている。

 

    夕 顔

けやすしと思はゞなどてよりて見ん 明るをまたぬ夕がほの露

 

 夜の明けるのを待たずに散ってゆく夕顔の花の露のように、そんなにもはかない女性と知っていたならば、どうして寄って見ただろう、見はしない。

  「よりて見ん」は「寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔」という光源氏の歌からの連想と思われる。また、「けやすしと」に浅野氏は「源氏の君の心が消えやすいと。」と注を付しておられるが、ここは、光の心が消えやすいのではなく、夕顔の花の露が消えやすいのであり、夕顔という女性の、 一夜にして死んでしまったはかなさを言っているのだと思う。「けやすし」は 「消え易し」の意であるが、次に掲げる『万葉集』の用例でもわかるように、多くは、命などのはかないさまに使われている。「朝露の消易きわが身他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り」(巻五)「朝霜

の消やすき命誰がために千歳もがもとわが思はなくに」(巻七)「父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命は 朝露の 消やすき命 神の共……」(巻九)「朝露の消やすきわが身老いぬともまた若ちかへり君をし待たむ」(巻十一)「露霜の消やすきわが身老いぬともまた若反り君をし待たむ」(巻十二)

 五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を超えた場において愛し合うというこの巻の構想は『源語』本伝の世界から離脱することによってはじめて可能であった。雨夜の品定めで受領階層の女性に興味を覚えた光であるが、それを充たすためには、愛情と利害とが切離された新たな世界を必要とした。作者・式部は、光源氏を一介の男性として登場させることによって、夕顔との間に、より純粋な愛を描くことに成功したのである。

 秋成のこの歌は、はかなく消えていった恋人への心情としてみるとき、やや打算的に過ぎると思う。事実、光は夕顔の死を心から悼み、悲しみ、その故に病の床に臥している。その光源氏の姿を秋成は、皮肉をこめて冷ややかにとらえているのである。

 

    若 紫

九重の北山ざくら咲にけり かけし霞も名残なき空

 

 京の北山の桜も今を盛りかと咲き乱れ、空は一面に春霞につつまれて絵のようである。

 光源氏が北山を訪れた時の景色である。桜の花に霞がかかる、春特有のおぼろげなさまを詠じているが、この歌にはその裏に、この北山で幼い紫の上を垣間見た光の心中がこめられている。霞を通して見る桜は紫の上であり、下の句の「かけし霞も名残なき空」には「なんとはなしにかけた思いではあるが、はなはだ心残りのする心

地であるよ」の意が含められていると思われる。技巧をこらした一首と言えよう。

 

    末摘花

中川にことよき橋をわたされて 見るめなき野を分(け)もこしかな

 

 末摘花の住む中川へ、大輔命婦の調子のいい話に心を動かされて、それを見抜くことも出来ずによくも来たものだ。

 光は夕顔との死別を忘れられずに、「いかで、ことごとしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つつましき事なからむ、見つけてしがな、と、こりずまに思し渡」る、そんな折、大輔命婦のうまい話を耳にする。そして、醜い容貌の女性とも知らずに、頭の中将と張り合いながら、中川へのこのこと出かけでゆく。秋成は、この色好みの光源氏のさまをアイロニーをこめて歌っているが、得々と詠じた一首ではなかったかと思う。

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  • 上田秋成の『源語』観を解明しようと、間接的な歌を分析してみた作業である。「上田秋成と『源氏物語』――『源語』に寄せる五十四首の歌――」として、『文学研究』51号(1980)に掲載したもの。

『雨月物語』「吉備津の釜」と『源氏物語』

『雨月物語』「吉備津の釜」と『源氏物語』
2020.03.16 Monday07:26

●ネット上に、こんな遣り取りがあった。3年前である。

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長文失礼します(m´・ω・`)mさん
2017/6/1102:37:26

『雨月物語 吉備津の釜』と『源氏物語』の関係について
現在吉備津の釜について調べているのですが
吉備津の釜の注釈で源氏物語の葵巻よりは
夕顔巻の趣向がある
と書かれていました。
それはなぜなのでしょうか?
吉備津の釜のどこかの文が夕顔巻に出てくる文に似ているのでしょうか?

私は吉備津の釜での
正太郎の妻の磯良(鬼化になる)と妾の袖(磯良に取り殺される)の関係が、
源氏の正妻(葵の上)に次ぐ妻である六条御息所(御物の化になる)と葵の上(御息所に取り殺される)という関係よりは、
六条御息所と夕顔(御息所よりあとに源氏が妻とした)という関係のほうが近いから
夕顔の巻の趣向をとったのかなとおもっています
全然違うのかもしれませんが…

他に理由などありましたら教えていただけますと嬉しいです
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