田舎におはせば

田舎におはせば
2018.12.08 Saturday

「・・・古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。
是は写しとどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりしなど書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

●これは、本居宣長の『手枕』に対する、秋成の評価である。当時の商都大坂に住む秋成にとって、伊勢に住む宣長は、田舎者であったのである。田舎者の意見など、見当違いである。引っ込めよ、と実に厳しい。

●私は、学生時代から、秋成に興味を持っていて、重友先生の『雨月物語』の演習も履修していたが、ほとんど発言はしなかった。だから、成績も〔優〕ではなく〔良〕だった。卒論の面接諮問の時、突然、大学院へ進まないか、と言われて、大変戸惑った。既に、函館ラサール高校が内定し居て、卒業後は北海道へ行く予定だったのである。学生時代の私は、重友先生との接触も少なく、卒論指導は、2回のみ、極めて、短時間だった。そのような状態の結果だろうと思う。

●法政の大学院へ進んだら、秋成の国学を研究しようと、密かに考えていた。宣長は偉大ではあるが、どこか、とらわれているところがあるように、薄々、感じていた。それを、秋成との関係で解明したいと思ったのである。「田舎におは」した宣長と関係しているようにも思う。

「吉備津の釜」と「夕顔の巻」

「吉備津の釜」と「夕顔の巻」
2018.12.06 Thursday

●木越治先生の論文を読んで、学生時代を思い出した。工学部建築科から、文学部日本文学科に進路変更して、本当によかったと、今、思う。

●大学3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講読を履修した。年度末のレポートのテーマは「私の『源氏物語』」であった。私は「『源氏物語』夕顔の巻と『雨月物語』「吉備津の釜」」で提出した。4年の5月ころだったと思うが、重友先生から呼び出しがあり、教授室へ伺うと、キミ、秋山君に面白いレポートを出したそうだね、と仰る。で、よかったら、秋成研究会で発表してみないかね、と付け加えられた。
●秋成研究会は、当時、首都圏の大学の先生をはじめ各大学の院生も参加して、法政大学で行われていた。学部学生ながら、私も1、2回拝聴した事があった。重友毅先生をはじめ、森山重雄・鵜月洋・高田衛・丸山茂・東喜望等々の研究者が参加しておられた。発表原稿を来週までに清書して来たまえ。
●私は、感激した。学部学生の小生が書いたものを、発表させて下さる、と言う。次の週、勇んで原稿を持参した。先生は、見ておきましょう、来週また来たまえ、と私の拙い字の原稿を茶色の鞄に入れられた。
●1週間後の結果はさんざんでした。まず、表紙のタイトルの「吉備津の釜」の「備」を指され、こんな字はありませんッ! と鉛筆で斜線をひかれた。これで私の異例の抜擢は水に流された。拙い一文であるが、重友教授へ提出の原文のまま紹介する。

私の『源氏物語』―ー夕顔の巻を中心にーー

はじめに

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのである。
 夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
 夕顔は次の如く形象化されている。
「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかなるを重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」
 このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
 私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
 夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

本居宣長の『手枕』

 宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
 宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・
 「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
 さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
 この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写しとどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

 宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
 『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。

語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
 「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
 この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
 その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
 「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。

正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

 「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。
 このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。
 「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
 次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。
 これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。
 また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。
 さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。
 このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

 『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。
 
 また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
 正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し。」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。
 さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。
 また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。
 「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」
 粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。
 『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。
 秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

 『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。
 「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき[女ラシキ也]心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
 まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ[才能]の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌
 秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。

 この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。
 秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、
 「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。

 宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ刺しいれるものとして作られている。
 秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。
 『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。
 古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。

 島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』ト「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。
 秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。

(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)

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● 大学生の頃の文章であり、評論に流れ、幼いものではあるが、忘れられない思い出である。ネットの世界も進歩して、かなり大量の情報もアップできるようになった。

追悼 木越治先生

 追悼 木越治先生     

                深沢 秋男

 木越治先生が御逝去なされた。

  木越治先生の御逝去を悼み
  心から御冥福をお祈り申し上げます

 木越治先生は、平成三十年二月二十三日御逝去なされた。御年六十九歳であった。いかにも早すぎる御他界である。先生としては、もっともっと、研究を進められ、多くの事を発信し、後世へ伝えたかったものと拝察され、その心中をお察し申し上げずにはいられない。
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木越治先生〔ウィキペディア より抜粋〕
「木越 治(きごし おさむ、1948年11月20日 ― 2018年2月23)は、日本近世文芸の研究者、金沢大学名誉教授、元上智大学教授。石川県金沢市出身1971年金沢大学国文科卒、75年東京大学大
学院博士課程中退、富山大学講師、79年助教授、83年金沢大学助授、のち教授、96年「秋成論」で東大文学博士。2010年上智大学授。
上田秋成が専門だが、近年は秋成作品の講談化と口演、講談と韓国の評弾の比較などを行う。『秋成論』では、呉智英の石川淳批判に反論している。
著書
『秋成論』ぺりかん社1995
共編著・校注
『浮世草子怪談集』国書刊行会 (叢書江戸文庫) 1994
『都賀庭鐘・伊丹春園集』稲田篤信、福田安典共編 国書刊行会(江戸怪異綺想文芸大系) 2001
『西鶴挑発するテキスト』至文堂 (「国文学解釈と鑑賞」別冊) 2005
『秋成文学の生成』飯倉洋一共編 森話社 2008
『講談と評弾 伝統話芸の比較研究』八木書店 2010
『江戸怪談文芸名作選 第1巻 新編浮世草子怪談集』校訂代表 国書刊行会 2016」
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 私は近世初期の仮名草子が専攻ゆえ、木越先生とは、ほとんど交流がなかった。ところが、昭和六十一年、様々な経緯から、上田秋成の『桜山本 春雨物語』を出すことになった。そのような関係から、木越先生に多大な御教示を賜ることになったのである。昭和女子大学に勤務していた頃、大学の研究室のサイトの〔日録〕に、次のような記録がある。

「木越治氏より来信
●金沢大学の木越治氏からメールを頂いた。昭和女子大のホームページを見ました。大学生の頃のレポート興味深く読みました。『春雨物語』の本文は、お説の通りです。という内容。有難いことである。
●実は、昭和61年『桜山本 春雨物語』を出版した時、最初に私の意見に耳を傾けて下さったのは、木越治氏であった。平成元年8月「『春雨物語』へ――文化五年本からの出発――」という論文を発表され、イギリスの書誌学者、フィリップ・ギャスケルの理論を援用しながら、文学作品のテキストのあり方に論及された、画期的な論文である。
●この木越氏の論文が影響したものか、鷲山樹心氏も論文の中で、私の説に賛意を表明して下さった。そうして、その後、中央公論から出された、『上田秋成全集』では、長島弘明氏が、『春雨物語』の各テキストを原型のまま収録してくれた。門外漢の私の意見を専門家の方々が、条件つきながらではあるが、お認め下さったとしたなら、こんなに嬉しい事はない。それにしても、あの状況下で、あの論を出された木越氏に対して、改めて敬意の念を捧げる。」

 実は、この本が出た時、近世文学界でこの本は、長らく黙殺されたのである。学会へ行っても、私の側には、誰も近づいてくれなかった。恩師・重友毅先生、秋成研究の大先学・中村幸彦先生をはじめ、多くの研究者の説を批判したのであるから、これは、覚悟の上のことであった。
 木越先生は、そのような状況の中で、拙著の書評を執筆して下さったのである。『春雨物語』本文の研究史上、貴重な発言であると思われるので紹介したい。

「書評 深沢秋男編『桜山本 春雨物語』      
                         木越 治
■朱筆と墨筆が同一人物の手になることを論証
■きわめて重要な意味持つ

 上田秋成最晩年の傑作短編集『春雨物語』には多くの草稿(及びその写本)が残されている。今回刊行された桜山文庫は文化五年本と総称される写本のひとつで、西荘文庫旧蔵本とともに数少ない完本として『春雨物語』諸本中重要な位置を占めている。 
 この写本が丸山季夫氏によって発見されたのは昭和二十六年のことで、これ以後『春雨物語』の研究は飛躍的に進むことになったのであった。すでにこの写本は、古典文庫などに翻刻されており、また底本として利用されることも多かったのであるが、今回の影印に関しては、従来ほとんど区別されることなく扱われていた朱筆と墨筆の区別が明確になされていることがまず第一にあげるべき特色である。そして、深沢氏はその解説の中で、この朱筆と墨筆が同一人物の手になること、墨筆の原本は秋成自筆本、朱筆は別系統の自筆本ないし写本によったと推測されることなどを他の稿本・写本や具体的な筆跡の比較を通して論証しているのである。こうした筆跡検討の具体的な成果として、従来「死首の咲顔」とも「死骨の咲顔」とも読まれてきた第六篇の題名について、この写本中に出る「首」と「骨」の字形すべてを、集めたうえで「死首」が正しいと結論づけている例を挙げることができよう。
 が、氏の解説のもつ意義は、こうした具体的ないちいちの成果にとどまるものではない。従来、おおざっぱな印象というかたちでしか語られてこなかった『春雨物語』諸本の筆跡の問題が、ようやく共通の基盤のうえで問題にし得るようになったという意味で研究史上きわめて重要な意味をもっていると私は思うのである。
 実は、本書が刊行された頃、私もちょうど『春雨物語』諸本の研究史を執筆したばかりで、その態度と方法についてあれこれ迷うところ多かったのであるが、そういう私にとって、深沢氏が腰を据えて本文一字一字の筆跡の検討から作業を始めている姿は、これからの本文研究のありようを示唆しているようで非常に感動的であり、かつ興味深く思われたのである。その意味で、本書の刊行によって今後の『春雨物語』の本文研究は大きく変わっていくと断言しても決して言い過ぎではないと思う。
 ただ、現在流布している『春雨物語』の本文がいずれも二種以上の写本・稿本の混合本文であることに関して氏が提出している疑義についていえば、たしかに、理論的には氏のいうとおりであるにしても、だからといって、圧倒的に優れている富岡本をさしおいて、文化五年本を底本とする『春雨物語』を一般読者に提出することがはたして正しいことかどうか、なお検討が必要であろう。
 ともあれ、『春雨物語』の一写本についてだけでもこれだけの問題が存しているわけで、まして他の稿本・写本とのかかわりとなるとまだまだ多くの問題が残されているのであり、本書の刊行がこれらの問題に関するきわめて重要な指針となることは疑いないと思われる。(A5、三八一頁・一二〇〇〇円・勉誠社)(きごし・おさむ氏=金沢大学助教授・日本近世文学専攻)」 【週刊読書人 1644号、1986年8月】

 この後、木越治先生は、平成元年八月「『春雨物語』へーー文化五年本からの出発――」(『日本文学』38巻8号、後、一九九五年五月三一日、ぺりかん社発行『秋成論』に収録)という、画期的な論文を発表された。その中で、次の如く述べておられる。

「……今回、深沢氏や鷲山氏の指摘を念頭に置きつつ改めて文化五年本を読み返したときに、まず最初にいだいた感想は、これまで文化五年本は果たして自立したテキストとして読まれたことがあったのだろうかという疑問である。少なくとも(その出発点において各稿本の位置づけについて言及し、その後も繰り返し稿本群全体を作品論の対象とせよと主張し、かつ実践してきた)私自身についていえば、もちろんこれまで文化五年本を読まなかったということはありえないにしても、従来は中間的な草稿であるという認識が邪魔をして、富岡本・巻子本・冊子本等との先後関係いかん、というような興味でのみ対することが多かったように思う。また、作品を読む場合にも文化五年本でしか読めない「二世の縁」「死首の咲顔」「捨石丸」「樊噲下」以外は、とりたてて五年本の本文をそれ自体として意識して読むことはなかったと思う。結局は作者自身によって改訂されることになる本文である、という認識が、この稿本の本文としての価値を低くみるという結果につながっていたと今になって反省するのである。そしてそれは、私ひとりだけの特殊な態度というわけでもなかろうと思うのである。
 では、改めて文化五年本の全体を読んだ結果はどうなのか、ということになるが、とりあえず、大変わかりやすい本文である、ということが最大の特色といえそうである。
その意味で、これらの作品では富岡本と五年本とはそのめざすところが異なっているという前提から出発しなければならないと思われる。五年本の「樊噲」が荒ぶる樊噲のイメージを強く押し出していること(本書第一部Ⅱ第6章参照)も同様の問題として考察されねばならないのである。
 にもかかわらず、そうしたちがいが明確にされないまま、五年本は予定調和的に最終稿へと収斂していく、過渡的な稿本として位置づけられるだけに終わっていたのである。

以上、五年本がかなりわかりやすく、しかも、富岡本とは異なる独自の性格を持つ本文であることが理解されたかと思う。
 今後、文化五年本は、『春雨物語』を考えるためのすべての出発点にすべきことを再度主張して、とりあえずこの稿を終えることにする。」
 上田秋成が、作者生活の最晩年、明を失いながらも、創り上げ、推敲を重ねた文学作品に対して、真摯に対応する研究者の姿が、ここにはある。
 木越治先生は、二〇〇八年(平成二〇年)二月二〇日、森話社発行の『秋成文学の生成』所収の「『春雨物語』新稿、三 上級編――近世文学を専攻する研究者のために」で、さらに深化した、『春雨物語』テキスト論を述べておられる。
 現在、市販されている校注書の中から、
 Ⓐ『新編日本古典文学全集』小学館、一九九五年
 Ⓑ『新潮日本古典集成』新潮社、一九八〇年
 Ⓒ『日本古典文学大系』岩波書店、一九五九年
 Ⓓ『全対訳日本古典新書』創英社、一九八一年
の四点を取り上げ、底本の使用状態を一覧表にして示しておられる。この内、Ⓐ・Ⓒは作品よって、天理巻子本と文化五年本を取り合わせて使用している。Ⓑ・Ⓓは、富岡本と文化五年本を使用しているが、各作品の中では取り合わせはしていない。文学作品の場合、どのような底本の使用の仕方が妥当であるか、現在は明らかであると、私は考えている。
 木越先生は、この論の終わりのところで、次の様にまとめておられる。

 「こうしてみてくると、混乱の根は一つである。すなわち、本文の選択及び改稿過程に関してこれまで富岡本に主軸をおいて形成されてきた通説に疑問を呈している当の論者たち自身が、それにかわるものを提示し得ていない、という事実、もっと簡単に言えば、私も長島氏も、
⑴ 文化五年本が現存『春雨物語』諸稿のうちもっともすぐれたテキストである。
⑵ 一般に流布すべきテキストの底本は、文化五年本のみを底本にする。
⑶ 文化五年本は秋成の最終的な意志を実現したテキストでありり、他の諸稿はここに至る草稿にすぎない。
というふうに主張しえないところに最大の問題が存するのである。」

 この、木越先生の締めくくりの言葉は、先生の『春雨物語』テキスト研究の到達点であり、先生の本音であり、後世への遺言ともいうべきものだと思う。
 今後、桜山文庫本の書写者が使用した、上田秋成自筆の本文が発見されるかも知れない。そこから、『春雨物語』のテキストについての検討がなされる可能性もある。その時、木越治先生は、もう、おられない。それが、誠に残念でならない。
 今回、木越先生の御逝去に際して、先生を追悼する1文を草したが、『春雨物語』のテキストに関することに限定した。先生は、もっと広い範囲で、多大な業績を残しておられる。しかし、そのことに触れることは、私にはできない。
 今は、木越先生が提出された、『春雨物語』のテキストに関する見解が、今後の資料発見や、研究によって、確定されることを熱望して木越先生への追悼の言葉としたい。
 木越先生、有難うございました。
                  平成三十年三月二十四日

(『芸文稿』第11号、2018年7月)

秋成『春雨物語』テキストの今

『春雨物語』テキストの現在 

●上田秋成の『春雨物語』の諸本の状況に出会ったのは、昭和61年、1986年、32年前のことである。近世初期の仮名草子研究の私が、なにゆえ、上田秋成の『春雨物語』に手を出したのか。それは、今は省略する。
●それよりも、その時、近代の秋成研究者の校訂・校注した、『春雨物語』の底本の使い方に関して、大きな衝撃を受けた。私は、文章を使って表現する芸術が文学だと心得て、仮名草子や『井関隆子日記』を研究してきた。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

明治以後現在までの、諸先学が作られた、〔秋成〕の『春雨』の本文を一覧して気付くことが一つある。それは底本の使い方についてである。各校注本の使用状態をみると、果たしてこれで良いのか否か、少なからず疑問が残る。確かに文化六年本(最終稿本)が秀れた本文である事は問題ないにしても、統一体としての一編の本文を作るのに、創作時点の異なる本文を組み合わせる事は果たして許される事であるのかどうか。私は精粗の差のある本文を取り合わせて使用すべきではないと思う。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●私は、『桜山本 春雨物語』の研究篇で、この様に述べた。恩師・重友毅先生をはじめ、諸先学を批判することは、ためらわれたが、晩年の秋成の心中を大切にしたいという念いから、あえて提言した。
●今回、木越治先生の御逝去に接し、改めて、その後の『春雨物語』のテキストの研究を確認して、今、〔真理が我らを自由にする〕という金言を味わっている。
●木越治先生は、2008年(平成20年)2月20日、森話社発行の『秋成文学の生成』所収の「『春雨物語』新稿、三 上級編――近世文学を専攻する研究者のために」で、さらに深化した、『春雨物語』テキスト論を述べておられる。
 現在、市販されている校注書の中から、
 Ⓐ『新編日本古典文学全集』小学館、一九九五年
 Ⓑ『新潮日本古典集成』新潮社、一九八〇年
 Ⓒ『日本古典文学大系』岩波書店、一九五九年
 Ⓓ『全対訳日本古典新書』創英社、一九八一年
の4点を取り上げ、底本の使用状態を一覧表にして示しておられる。この内、Ⓐ・Ⓒは作品よって、天理巻子本と文化五年本を取り合わせて使用している。Ⓑ・Ⓓは、富岡本と文化五年本を使用しているが、各作品の中では取り合わせはしていない。文学作品の場合、どのような底本の使用の仕方が妥当であるか、現在は明らかであると、私は考えている。
●木越先生は、この論の終わりのところで、次の様にまとめておられる。

 「こうしてみてくると、混乱の根は一つである。すなわち、本文の選択及び改稿過程に関してこれまで富岡本に主軸をおいて形成されてきた通説に疑問を呈している当の論者たち自身が、それにかわるものを提示し得ていない、という事実、もっと簡単に言えば、私も長島氏も、
⑴ 文化五年本が現存『春雨物語』諸稿のうちもっともすぐれたテキストである。
⑵ 一般に流布すべきテキストの底本は、文化五年本のみを底本にする。
⑶ 文化五年本は秋成の最終的な意志を実現したテキストであり、他の諸稿はここに至る草稿にすぎない。
というふうに主張しえないところに最大の問題が存するのである。」

●この、木越先生の締めくくりの言葉は、先生の『春雨物語』テキスト研究の到達点であり、先生の本音であり、後世への遺言ともいうべきものだと思う。
●32年前の、門外漢の私の疑問に、耳を傾けて下さり、上田秋成の『春雨物語』の諸本に、真摯に対応し、ここまで研究をお進め下さった、木越治先生、長島弘明先生に感謝申し上げる。
●文化五年本、桜山文庫本の書写者が使用したと推測される、上田秋成の自筆本が、今後、出現するかも知れない。そうなれば、さらに一歩、真実に近づくことが出来るかも知れない。
●桜山文庫本『春雨物語』は、現在、昭和女子大学図書館に所蔵されている。

■ 桜山文庫本『春雨物語』

木越 治 先生 の思い出

木越 治 先生 の思い出
2018.03.10 Saturday

木越 治 先生 の思い出

木越 治氏 より来信   (現役の頃、昭和女子大学〔深沢秋男研究室〕の日録)

●金沢大学の木越治氏からメールを頂いた。昭和女子大のホームページを見ました。大学生の頃のレポート興味深く読みました。『春雨物語』の本文は、お説の通りです。という内容。有難いことである。
●実は、昭和61年『桜山本 春雨物語』を出版した時、最初に私の意見に耳を傾けて下さったのは、木越氏であった。平成元年8月「『春雨物語』へ--文化五年本からの出発--」という論文を発表され、イギリスの書誌学者、フィリップ・ギャスケルの理論を導入しながら、文学作品のテキストのあり方に論及された、画期的な論文である。
●この木越氏の論文が影響したものか、鷲山樹心氏も論文の中で、私の説に賛意を表明して下さった。そうして、その後、中央公論から出された、『上田秋成全集』では、長島弘明氏が、『春雨物語』の各テキストを原型のまま収録してくれた。門外漢の私の意見を専門家の方々が、お認め下さったとしたら、こんなに嬉しい事はない。それにしても、あの状況下で、あの論を出された木越氏に改めて敬意の念を捧げる。

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【追記】この本が出た時、近世文学界では、長らく黙殺された。学会へ行っても、私の側には、誰も近づいてくれなかった。恩師・重友毅先生、秋成研究の大家・中村幸彦先生をはじめ、多くの研究者の説を批判したのであるから、これは、覚悟の上のことであった。私の研究生活の中では、こんなことは、少なくなかったのである。
平成30年(2018)3月10日

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書評 深沢秋男編『桜山本 春雨物語』      
木越 治

■朱筆と墨筆が同一人物の手になることを論証
■きわめて重要な意味持つ

上田秋成最晩年の傑作短編集『春雨物語』には多くの草稿(及びその写本)が残されている。今回刊行された桜山文庫は文化五年本と総称される写本のひとつで、西荘文庫旧蔵本とともに数少ない完本として『春雨物語』諸本中重要な位置を占めている。 
 この写本が丸山季夫氏によって発見されたのは昭和二十六年のことで、これ以後『春雨物語』の研究は飛躍的に進むことになったのであった。すでにこの写本は、古典文庫などに翻刻されており、また底本として利用されることも多かったのであるが、今回の影印に関しては、従来ほとんど区別されることなく扱われていた朱筆と墨筆の区別が明確になされていることがまず第一にあげるべき特色である。そして、深沢氏はその解説」中で、この朱筆と墨筆が同一人物の手になること、墨筆の原本は秋成自筆本、朱筆は別系統の自筆本ないし写本によったと推測されることなどを他の稿本・写本や具体的な筆跡の比較を通して論証しているのである。こうした筆跡検討の具体的な成果として、従来「死首の咲顔」とも「死骨の咲顔」とも読まれてきた第六篇の題名について、この写本中に出る「首」と「骨」の字形すべてを、集めたうえで「死首」が正しいと結論づけている例を挙げることができよう。’
 が、氏の解説のもつ意義は、こうした具体的ないちいちの成果にとどまるものではない。従来、おおざっぱな印象というかたちでしか語られてこなかった『春雨物語』諸本の筆跡の問題が、ようやく共通の基盤のうえで問題にし得るようになったという意味で研究史上きわめて重要な意味をもっていると私は思うのである。
 実は、本書が刊行された頃、私もちょうど『春雨物語』諸本の研究史を執筆したばかりで、その態度と方法についてあれこれ迷へところ多かったのであるが、そういう私にとって、深沢氏が腰を据えて本文一字一字の筆跡の検討から作業を始めている姿は、これからの本文研究のありようを示唆しているようで非常に感動的であり、かつ興味深く思われたのである。その意味で、本書の刊行によって今後の『春雨物語』の本文研究は大きく変わっていくと断言しても決して言い過ぎではないと思う。
 ただ、現在流布している『春雨物語』の本文がいずれも二種以上の写本・稿本の混合本文であることに関して氏が提出している疑義についていえば、たしかに、理論的には氏のいうとおりであるにしても、だからこいって、圧倒的に優れている富岡本をさしおいて、文化五年本を底本とする『春雨物語』を一般読者に提出することがはたして正しいことかどうか、なお検討が必要であろう。
 ともあれ、『春雨物語』の一写本についてだけでもこれだけの問題が存しているわけで、まして他の稿本・写本とのかかわりとなるとまだまだ多くの問題が残されているのであり、本書の刊行がこれらの問題に関するきわめて重要な指針となること
は疑いないと思われる。(A5、三八一頁・一二〇〇〇円・勉誠社)(きごし・おさむ氏=金沢大学助教授・日本近世文学専攻) 【週刊読書人 1644号、1986年8月】
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●この後、木越治氏は、平成元年8月「『春雨物語』へ--文化五年本からの出発--」という、画期的な論文を発表された。

上田秋成の思い出

秋成研究会と私

●大学3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講読を履修した。年度末のレポートのテーマは「私の『源氏物語』」であった。私は「『源氏物語』夕顔の巻と『雨月物語』「吉備津の釜」」で提出した。4年の5月ころだったと思うが、重友先生から呼び出しがあり、教授室へ伺うと、キミ、秋山君に面白いレポートを出したそうだね、と仰る。で、よかったら、秋成研究会で発表してみないかね、と付け加えられた。
●秋成研究会は、当時、首都圏の大学の先生をはじめ各大学の院生も参加して、法政大学で行われていた。学部学生ながら、私も1、2回拝聴した事があった。重友毅先生をはじめ、森山重雄・鵜月洋・高田衛・丸山茂・東喜望等々の研究者が参加しておられた。発表原稿を来週までに清書して来たまえ。
●私は、感激した。学部学生の小生が書いたものを、発表させて下さる、と言う。次の週、勇んで原稿を持参した。先生は、見ておきましょう、来週また来たまえ、と私の拙い字の原稿を茶色の鞄に入れられた。
●1週間後の結果はさんざんだった。まず、表紙のタイトルの「吉備津の釜」の「備」を指され、こんな字はありませんッ! と鉛筆で斜線をひかれた。これで私の異例の抜擢は水に流された。重友教授へ提出したレポートを読むと懐かしい。

 私の『源氏物語』ー夕顔の巻を中心にー

はじめに

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのである。
 夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
 夕顔は次の如く形象化されている。
「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかなるを重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」
 このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
 私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
 夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

 本居宣長の『手枕』

 宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
 宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・
 「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
 さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
 この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写し とどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりしなど書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

 宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
 『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。

語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
 「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
 この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
 その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
 「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そうして強調したいのである。

 正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。
 このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。
 「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
 次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。
 これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。
 また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。
 さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。
 このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

 『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。
 
 また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
 正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。
 さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。
 また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。
 「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」
 粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。
 『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。
 秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

 『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。
 「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき[女ラシキ也]心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
 まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ[才能]の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌
 秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。

 この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。
 秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、
 「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。

 宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ差しいれるものとして作られている。
 秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。
 『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。
 古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。

 島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』と「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。
 秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。

(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 大学生の頃のレポートであり、誠に評論的であるが、忘れられない思い出である。
今、秋山虔先生も、重友毅先生も、黄泉の世界に逝かれた。私は、順調に法政大学の大学院へ進んでいたなら、重友先生御指導のもと、上田秋成研究をする予定だった。
【平成30年、2018年2月20日】

西鶴と秋成 〔約束〕

約束は雪の朝飯(あさめし)          深沢秋男

 石川丈山は、近世初期の儒者である。武士であったが、仕えを辞し、京都・賀茂山に隠棲して詩歌の道を楽しんでいた。
 ある時、この草庵を小栗某が訪れる。この小栗も、もとは武士の出であったが、へつらい事の多い俗世を捨てた身である。二人は生き方も共通していたので、親しい間柄であった。
 しばらく語り合った後、別れぎわに、小栗は、所用があって備前・岡山まで行くと言う。京へ帰るのはいつ頃か、と問うと霜月(十一月)の末と言う。その二十七日は法事なので、ぜひ食事を共にしよう、と約束して別れた。   
 月日は過ぎて、十一月二十六日の夜、京都は大雪が降った。丈山は、早朝から草庵の庭の雪かきをしていた。すると、そこへ、破紙子(やぶれかみこ)姿の小栗がひょっこり現れた。
 久し振りの二人は、互いの無事を語り合ったが、丈山が、この寒空に何の用事か、と尋ねると、霜月の二十七日に食事をしようと約束したのを、お前は忘れたのか、と言う。丈山も約束を思い出し、早速、飯を炊き、柚味噌を添えただけの膳を出すと、小栗はうまそうに食べ終え、その箸を下に置くか置かないうちに、また、備前へ旅立って行った。
これは、井原西鶴の『武家義理物語』の一篇であるが、この話に、作者は、

「さては、此人、日外(いつぞや)かりそめに申しかはせし、言葉をたがへず、今朝の一飯喰ふばかりに、はるばるの備前より、京までのぼられけるよ。むかしは武士の実(まこと)在る心底を感ぜられし。」

と批評している。     
丈山も小栗も、共に風雅を好む隠棲者、二人の一飯を共にするという約束の様を、西鶴は爽やかに、さらりと描いて見せている。短い一篇ではあるが、忘れられない話である。

 同じ約束を描いたものとして、上田秋成の『雨月物語』の中の「菊花の約(ちぎり)」が思い出される。
 播磨の国、加古の宿(兵庫県加古川市)に、丈部左門という学者が住んでいた。富や地位を求めず、学問一筋に打ち込む生活をしていたが、年老いた母は機織りをして、我が子の学問を助けていた。
 ある日、一人の武士が、旅の途中、この加古の宿で急性の伝染病にかかって倒れる。人々は病気がうつるのを恐れて、だれ一人近づこうとはしなかった。
 左門は、旅の空で一人苦しむ武士を憐れみ、枕元を離れず、親身になって看病する。その甲斐があって、病は徐々に回復してゆく。
 その武士は、赤穴宗右衛門といい、自国・出雲(島根県)へ帰る途中であるとのこと。心細い旅先で出会った、左門の親切に宗右衛門は心から感謝する。
 宗右衛門は左門より年長で、中国の孔子・老子・孟子・荘子などの教えにも詳しく、左門は尊敬の気持ちが強くなり、やがて二人は義兄弟の約を結ぶ。
 宗右衛門は、義兄弟になった以上、君の母は、私にとっても母であるから是非お会いしたい、と言う。左門は感激して、早速家に案内すると、母も大変喜んで、未熟な弟と思って導いて欲しいと頼む。
 二人は人間の生き方などについて語り合い、楽しい日々を過ごすが、しばらくして、宗右衛門は、一度郷里へ帰ってきたいと思う、その後で、これまでの御恩返しをしたい、と言う。
 左門が、お帰りは何時ごろか、と問うと、菊の節句(九月九日)に帰って来ることにしよう、と言い残して旅立つ。
 季節は移り、いつしか約束の九月九日となる。左門は早朝から掃除を済ませ、菊の花を活け、宗右衛門を迎える準備をした。その子を見た母は、出雲は百里も離れているというのだから、約束通り来るとは限らない。姿を見てから準備してはどうか、と言う。しかし、左門は、相手は信義を守る武士だから、約束を違えるとは思えない、姿を見てから準備したのでは、相手を疑ったことになり、それは恥ずかしい、と答えて、良い酒を買い、新鮮な魚を料理して宗右衛門の来るのを待った。
 その日は天気も良く、前の街道を、多くの旅人が通って行く。しかし、武士はいっこうに姿を見せない。日も暮れ、あたりは暗くなる。今日はこれまでとして、また明日待ってみてはどうか、と言う母の言葉に、さすがの左門もあきらめて、戸を閉め家に入ろうとした。
 その時である。何か人の気配を感じて、暗闇の方にハッと目をこらすと、それが赤穴宗右門であった。左門は、躍り上がって喜ぶ。
しかし、宗右衛門の素振りはどこか異常である。語るところによると、自分はもうこの世の者では無い。実は、出雲に帰ったところ、富田城主・尼子経久(あまこつねひさ)のたくらみによって、城中にと閉じ込められてしまった。そこで、

「人一日に千里(ちさと)をゆくことあたはず。魂(たま)よく千里をゆく。」

という、ことわざを思い出し、自ら命を絶ち、霊魂となって、今宵の菊の節句の約束を果たすことができたのだ、と言って、涙をハラハラとこぼした。
 そして、これが永遠の別れだが、どうか母上を大事にして欲しい、と言い残して姿を消してしまう。
左門は、慌てて、止めようとしたが、再び宗右衛門に会うことは出来なかった。

 近世の代表的な二人の作者が約束をテーマに書き留めている。いくら約束したからとは言え、たった一度の食事を共にするために、わざわざ岡山から京都まで帰って来なくともよいかも知れない。      
 旅先で病に倒れ、助けてくれた左門は、宗右衛門にとっては神様とも思えたに違いない。また、気脈相通じた二人の間で交わした約束ではあるが、自らの命を断ってまで守らなくともよいかも知れない。
しかし、西鶴も秋成もこのように描いている。そして、今もこの両作品は私達を感動させるものを持っている。一度読んだ者は、忘れることはないだろうし、約束についての考えは変わるだろう。それが文学である。
     (昭和女子大学『昭和学報』第373号、平成9年5月1日)

菊花の約 長島弘明『雨月物語』

長島弘明氏校注 『雨月物語』

待望の書 長島弘明氏校注 『雨月物語』
2018.02.19 Monday

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長島弘明氏校注 『雨月物語』(岩波文庫)

雨月物語 作者・上田秋成 校注者・長島弘明
2018年2月16日、岩波書店発行
岩波文庫(30-220-3)、258頁、定価780円+税

目次
凡例
『雨月物語』あらすじ
雨月物語序
巻之一
 白峰
 菊花の約
巻之二
 浅茅が宿
 夢応の鯉魚
巻之三
 仏法僧
 吉備津の釜
巻之四
 蛇性の婬
巻之五
 青頭巾
 貧福論

解説   長島弘明
 一 作者 上田秋成
 二 『諸道聴耳世間狙』『世間妾形気』から『雨月物語』へ
 三 『雨月物語』の成立年時
 四 二人の先生――都賀庭鐘と加藤宇万伎
 五 『雨月物語』という書名
 六 『雨月物語』序と「剪枝畸人」
 七 諸版
 八 各話の素材

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●上田秋成研究の第一人者、長島弘明氏の校注書『雨月物語』が刊行された。待望の書である。
●本文の文字は、大き目で、脚注は、簡略ながら、要を得ていて、十分に作品を理解できる。巻末の解説は詳細で、作者、上田秋成を知る上でも、『雨月物語』を理解する上でも、大変参考になり、教えられる点が多い。老人の身ながら、何編か読んで、非常に懐かしかった。手軽な文庫本ゆえ、今後、長く愛読されるものと思う。

グーグルブックスと『桜山本 春雨物語』

グーグル ブックス と 『桜山本 春雨物語』
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Googleブクスとは、世界最大のインターネット企業Googleが、ポータルサイトGoogle内で提供している、書籍の全文検索サービスである。
書籍内の全文を対象に検索を行なうことができ、検索結果として表示された書籍の内容の一部(著作権切れの書籍であれば全ページ)が無料で表示される。検索・表示されるデータはGoogle社が紙製の書籍からスキャンしかもの。
著作権の保護期間が満了した書籍は、全文が公開されている。この場合Googleブクスは電子図書館として機能する。 これに対し、著作権保護期間が存続している書籍は、書籍の一部がプレビュ一表示され、同時に書籍販売サイトへのリンクが表示される。この場合Googleブックスは広告・販売促進サイトとして機能する。
【ウィキヘディア より抜粋】
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●このところ、グーグルブックスで、自分の関係書を検索してみた。複製本などは、ペンシルベニア大学などの所蔵本を使用しているようだ。
●もう、大部前のことであるが、このシステムが日本の出版界で問題になった時、文芸春秋から、その対応に関して打診されたように思う。承諾します、と返信したと記憶している。
●今回、『桜斎随筆』・『可笑記評判』・『可笑記大成』・『江戸雀』・『仮名草子集成』・『井関隆子の研究』・『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』・『仮名草子研究叢書』・『仮名草子研究文献目録』・『新可笑記』・『浮世ばなし』等々、思いつくままに検索して確認した。まだ、見落としもあるかと思うが、ひとつ、気になるのは、昭和61年に勉誠社から出した、『桜山本 春雨物語』が見つからない。この本は、原本を2色刷りで複製したものである。そのうちに、また、検索してみたい。

『春雨物語』のテクスト――その後

●今日、ネットで、高田衛氏の『春雨物語論』の書評を読んだ。小澤笑理子氏の「書評 高田衛著『春雨物語論』」である。ネット上にPDFでアップされていて、その掲載誌は、確認出来なかった。しかし、一読、とても楽しい内容であった。『春雨物語』のテクストは、その後、こんな経過を辿っていたのか、それが推測できるものだった。高田氏の本は、2009年12月、岩波書店から出版されたもの。その書評ゆえ、2010年ころのものだろう。今から7年位前のことになる。

●私は、学部学生の頃、法政大学で行われていた〔秋成研究会〕にも、何回か参加していた。そこで、高田衛氏、中村博保氏にお会いしている。もちろん、言葉など交わしてはいない。遠くから、拝見したのみである。さて、小澤氏は、その書評で次の如く述べておられる。
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 五〇年の起点は、中村幸彦氏の校訂による古典文学大系所収の
『春雨物語』〔以下〈中村本〉とする〕出来に置かれる。
 『春雨物語』を読む上で不可欠な、どのテクストを選ぶか、と
いう問題と関わるのであるが、『春雨物語』が出板された作品で
はなく、複数の稿本によって残ったという事情、さらにそれらテ
クストが少しずつ異なり、いずれもが「異本関係」にあるという
ように近世の作品としてはやや特殊な様相を示しているという前
提がある。〈中村本〉は、自筆稿本である富岡本、天理巻子本を
基本に、さらに「樊噲」で欠けた後半部分を別の稿本によって補
うという、いわば継ぎ接ぎして全体を復元したものである。ゆえ
に作品論を展開する上で〈中村本〉をテクストとするのは研究に
は馴染まないとするのが、近年ではいわばごく標準的なスタンス
である。諸本成立の問題は『春雨』研究の前提となる重要課題と
して、中村幸彦氏をはじめ、中村博保、浅野三平、深沢秋男、長
島弘明、木越治ら諸氏の研究・検討が重ねられ、その画期として
『上田秋成全集』第八巻の出来をみた。さらに長島弘明氏によっ
て、春雨草紙→天理冊子本→富岡本→天理巻子本→文化五年本原
本…桜山文庫本~西荘文庫本・漆山文庫本という成立過程に整理
されるに至っている。私もその過程を〈研究史〉としては理解し
ているつもりでいた。
 しかしながら、高田氏はそれを承知の上で、「中村幸彦の最良
の判断によるテクスト作成」という。また、本書で五年本を作品
論の基準として採用したことについて「中村本の存在という安定
感の上で行った」と述べている。これらは私にとっていささか意
外な響きのある言辞であった。だが、思いめぐらせてみれば、木
越治氏の「『春雨物語』諸本研究史の試み」(『秋成論』所収)は、
〈中村本〉に真っ向から挑戦したものであるし、『上田秋成全集』
の刊行によって各稿本を一覧できることの意味、さらにこれら諸本
をめぐる研究の進展についても、〈中村本〉という基準が存在す
る上に展開された、そのことを再認識できたのは大きな収穫で
あった。私個人の問題としてだが、テクスト間の異同によって読
み解くことの可能性に思い至ったのも、そもそもすぐそこに〈中
村本〉が始点としてあったから、ということを改めて実感として
気付かされたのである。
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●私は、昭和61年(1986)2月発行の『桜山本 春雨物語』の中で、次の如く述べている。

「明治以後現在までの、諸先学が作られた、秋成の『春雨』の本文を一覧して気付くことが一つある。それは底本の使い方についてである。これらの中の、12・13・15・17・19の各校注本の底本の使用状態をみると、果たしてこれで良いのか否か、少なからず疑問が残る。確かに文化六年本(最終稿本)が秀れた本文である事は問題ないにしても、統一体としての一編の本文を作るのに、創作時点の異なる本文を組み合わせる事は果たして許される事であるのかどうか。私は精粗の差のある本文を取り合わせて使用すべきではないと思う。」
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●秋成研究という点からは、私は門外漢である。しかし、私が順調に法政の大学院へ進んでいたならば、重友先生の下で、上田秋成を研究する予定だった。学部の頃から、秋成が大好きだったのである。心情的には、私は、門外漢では無かった。そうでなければ、重友毅先生や中村幸彦先生の研究を批判する訳がない。
●小澤笑理子氏の書評の御蔭で、『春雨物語』のテクストに関する、その後の状況を知ることができた。学問の世界は、これだから楽しい。