「吉備津の釜」と「夕顔の巻」 再掲

「吉備津の釜」と「夕顔の巻」

  • 2020.07.27 Monday
●【深沢秋男の窓】で、アクセスが急上昇したという内容は、次のものだった。これは、私が大学3年の時に書いた、秋山虔先生提出のレポートである。

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「吉備津の釜」と「夕顔の巻」
2018.12.06 Thursday

●木越治先生の論文を読んで、学生時代を思い出した。工学部建築科から、文学部日本文学科に進路変更して、本当によかったと、今、思う。

●大学3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講読を履修した。年度末のレポートのテーマは「私の『源氏物語』」であった。私は「『源氏物語』夕顔の巻と『雨月物語』「吉備津の釜」」で提出した。4年の5月ころだったと思うが、重友先生から呼び出しがあり、教授室へ伺うと、キミ、秋山君に面白いレポートを出したそうだね、と仰る。で、よかったら、秋成研究会で発表してみないかね、と付け加えられた。

●秋成研究会は、当時、首都圏の大学の先生をはじめ各大学の院生も参加して、法政大学で行われていた。学部学生ながら、私も1、2回拝聴した事があった。重友毅先生をはじめ、森山重雄・鵜月洋・高田衛・丸山茂・東喜望等々の研究者が参加しておられた。発表原稿を来週までに清書して来たまえ。

●私は、感激した。学部学生の小生が書いたものを、発表させて下さる、と言う。次の週、勇んで原稿を持参した。先生は、見ておきましょう、来週また来たまえ、と私の拙い字の原稿を茶色の鞄に入れられた。

●1週間後の結果はさんざんでした。まず、表紙のタイトルの「吉備津の釜」の「備」を指され、こんな字はありませんッ! と鉛筆で斜線をひかれた。これで私の異例の抜擢は水に流された。拙い一文であるが、重友教授へ提出の原文のまま紹介する。

私の『源氏物語』―ー夕顔の巻を中心にーー

はじめに

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのである。
 夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
 夕顔は次の如く形象化されている。
「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかなるを重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」
 このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
 私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
 夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

本居宣長の『手枕』

 宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
 宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・
 「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
 さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
 この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写しとどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

 宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
 『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。

語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
 「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
 この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
 その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
 「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。

正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

 「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。
 このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。
 「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
 次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。
 これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。
 また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。
 さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。
 このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

 『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。
 
 また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
 正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し。」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。
 さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。
 また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。
 「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」
 粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。
 『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。
 秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

 『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。
 「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき[女ラシキ也]心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
 まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ[才能]の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌
 秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。

 この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。
 秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、
 「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。

 宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ刺しいれるものとして作られている。
 秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。
 『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。
 古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。

 島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』ト「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。
 秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。

(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)

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● 大学生の頃の文章であり、評論に流れ、幼いものではあるが、忘れられない思い出である。ネットの世界も進歩して、かなり大量の情報もアップできるようになった。

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  • 2020.07.26 Sunday
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「吉備津の釜」と「夕顔の巻」


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●グーグールから、こんなメールが届いた。
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約束 西鶴と秋成

約束 西鶴と秋成

  • 2020.06.11 Thursday
 約束は雪の朝飯(あさめし)        深沢秋男

 石川丈山は、近世初期の儒者である。武士であったが、仕えを辞し、京都・賀茂山に隠棲して詩歌の道を楽しんでいた。
 ある時、この草庵を小栗某が訪れる。この小栗も、もとは武士の出であったが、へつらい事の多い俗世を捨てた身である。二人は生き方も共通していたので、親しい間柄であった。
 しばらく語り合った後、別れぎわに、小栗は、所用があって備前・岡山まで行くと言う。京へ帰るのはいつ頃か、と問うと霜月(十一月)の末と言う。その二十七日は法事なので、ぜひ食事を共にしよう、と約束して別れた。   
 月日は過ぎて、十一月二十六日の夜、京都は大雪が降った。丈山は、早朝から草庵の庭の雪かきをしていた。すると、そこへ、破紙子(やぶれかみこ)姿の小栗がひょっこり現れた。
 久し振りの二人は、互いの無事を語り合ったが、丈山が、この寒空に何の用事か、と尋ねると、霜月の二十七日に食事をしようと約束したのを、お前は忘れたのか、と言う。丈山も約束を思い出し、早速、飯を炊き、柚味噌を添えただけの膳を出すと、小栗はうまそうに食べ終え、その箸を下に置くか置かないうちに、また、備前へ旅立って行った。
これは、井原西鶴の『武家義理物語』の一篇であるが、この話に、作者は、

「さては、此人、日外(いつぞや)かりそめに申しかはせし、言葉をたがへず、今朝の一飯喰ふばかりに、はるばるの備前より、京までのぼられけるよ。むかしは武士の実(まこと)在る心底を感ぜられし。」

と批評している。     
丈山も小栗も、共に風雅を好む隠棲者、二人の一飯を共にするという約束の様を、西鶴は爽やかに、さらりと描いて見せている。短い一篇ではあるが、忘れられない話である。

 同じ約束を描いたものとして、上田秋成の『雨月物語』の中の「菊花の約(ちぎり)」が思い出される。
 播磨の国、加古の宿(兵庫県加古川市)に、丈部左門という学者が住んでいた。富や地位を求めず、学問一筋に打ち込む生活をしていたが、年老いた母は機織りをして、我が子の学問を助けていた。
 ある日、一人の武士が、旅の途中、この加古の宿で急性の伝染病にかかって倒れる。人々は病気のうつるのを恐れて、だれ一人近づこうとはしなかった。
 左門は、旅の空で一人苦しむ武士を憐れみ、枕元を離れず、親身になって看病する。その甲斐があって、病は徐々に回復してゆく。
 その武士は、赤穴宗右衛門といい、自国・出雲(島根県)へ帰る途中であるとのこと。心細い旅先で出会った、左門の親切に宗右衛門は心から感謝する。
 宗右衛門は左門より年長で、中国の孔子・老子・孟子・荘子などの教えにも詳しく、左門は尊敬の気持ちが強くなり、やがて二人は義兄弟の約を結ぶ。
 宗右衛門は、義兄弟になった以上、君の母は、私にとっても母であるから是非お会いしたい、と言う。左門は感激して、早速家に案内すると、母も大変喜んで、未熟な弟と思って導いて欲しいと頼む。
 二人は人間の生き方などについて語り合い、楽しい日々を過ごすが、しばらくして、宗右衛門は、一度郷里へ帰ってきたいと思う、その後で、これまでの御恩返しをしたい、と言う。
 左門が、お帰りは何時ごろか、と問うと、菊の節句(九月九日)に帰って来ることにしよう、と言い残して旅立つ。
 季節は移り、いつしか約束の九月九日となる。左門は早朝から掃除を済ませ、菊の花を活け、宗右衛門を迎える準備をした。その子を見た母は、出雲は百里も離れているというのだから、約束通り来るとは限らない。姿を見てから準備してはどうか、と言う。しかし、左門は、相手は信義を守る武士だから、約束を違えるとは思えない、姿を見てから準備したのでは、相手を疑ったことになり、それは恥ずかしい、と答えて、良い酒を買い、鮮な魚を料理して宗右衛門の来るのを待った。
 その日は天気も良く、前の街道を、多くの旅人が通って行く。しかし、武士はいっこうに姿を見せない。日も暮れ、あたりは暗くなる。今日はこれまてとして、また明日待ってみてはどうか、と言う母の言葉に、さすがの左門もあきらめて、戸を閉め家に入ろうとした。
 その時である。何か人の気配を感じて、暗闇の方にハッと目をこらすと、それが赤穴宗右門であった。左門は、躍り上がって喜ぶ。
しかし、宗右衛門の素振りはどこか異常である。語るところによると、自分はもうこの世の者では無い。実は、出雲に帰ったところ、富田城主・尼子経久(あまこつねひさ)のたくらみによって、城中にと閉じ込められてしまった。そこで、

「人一日に千里(ちさと)をゆくことあはず。魂(たま)よく千里をゆく。」

という、ことわざを思い出し、自ら命を絶ち、霊魂となって、今宵の菊の節句の約束を果たすことができたのだ、と言って、涙をハラハラとこぼした。
 そして、これが永遠の別れだが、どうか母上を大事にして欲しい、と言い残して姿を消してしまう。
左門は、慌てて、止めようとしたが、再び宗右衛門に会うことは出来なかった。

 近世の代表的な二人の作者が約束をテーマに書き留めている。いくら約束したからとは言え、たった一度の食事を共にするために、わざわざ岡山から京都まで帰って来なくともよいかも知れない。
      
 旅先で病に倒れ、助けてくれた左門は、宗右衛門にとっては神様とも思えたに違いない。また、気脈相通じた二人の間で交わした約束ではあるが、自らの命を断ってまで守らなくともよいかも知れない。

しかし、西鶴も秋成もこのように描いている。そして、今もこの両作品は私達を感動させるものを持っている。一度読んだ者は、忘れることはないだろうし、約束についての考えは変わるだろう。それが文学である。
     (昭和女子大学『昭和学報』第373号、平成9年5月1日)

秋成『雨月物語』・〔吉備津の釜〕

上田秋成の『雨月物語』・〔吉備津の釜〕

  • 2020.06.10 Wednesday
秋成の『雨月物語』・〔吉備津の釜〕

上田秋成は、本居宣長の『手枕』に対して、厳しい評価を下している。その秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、

日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子

など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。

語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。

「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」

この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」

と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。

正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。

このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。

「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。

これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。

また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。

さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。

このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。

また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し。」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。

さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。

また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。

「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」

粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。

『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。

秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。

「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき〔女ラシキ也〕心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ〔才能〕の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌

秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。

この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。

秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、

「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。

宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ差し入れるものとして作られている。

秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。

『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。

古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。
島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』ト「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。

秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。
(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)

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●大学3年の時の、拙文である。その後、『雨月物語』の研究で、この問題は取り上げられた事はあるのだろうか。私が、法政の大学院へ進んでいたとしたら、重友先生は、上田秋成を研究するように指示しておられた。私としては、秋成の国学を解明したかった。

秋山虔先生と私

秋山 虔 先生 と私

  • 2020.06.09 Tuesday
秋山 虔 先生 と私

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秋山 虔 (あきやま けん)

概要[編集]  【ウィキペディア より抜粋】

岡山県出身の国文学者であり、主として中古文学を専攻した。『源氏物語』の成立論をはじめ、構造論、人物論、さらには作者である紫式部に関する作家論など、多彩な方法論を展開した[1]。その結果、『源氏物語』研究の指導的存在となり、学界に大きな影響を与えた。また、平安時代の和歌をはじめ、物語、説話文学、さらには漢文学に至るまで、作品成立時の社会的環境の下での作者の心理、意識、表現などを解明した[1]。国士舘短期大学、東洋大学、東京大学、東京女子大学、駒沢女子大学などで教鞭を執り、多数の後進を育成した[1]。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

岡山県出身。1941年東京府立第六中学校(現都立新宿高等学校)卒業。旧制第三高等学校卒業。東京帝国大学国文科卒業。

研究者として[編集]

1953年、国士舘短期大学助教授、1954年東洋大学助教授、1957年東京大学文学部助教授、1969年教授。1984年定年退官、名誉教授、東京女子大学教授、1993年駒沢女子大学教授、1999年退職。1989年紫綬褒章受章、2000年日本学士院会員。2001年文化功労者、勲二等瑞宝章叙勲。2015年11月18日、肺炎のため91歳で死去[2]。

研究[編集]

『源氏物語』の研究で知られる。校訂、事典、入門書の編纂多数。2006年には源氏物語千年紀のよびかけ人となり、古典の日推進呼びかけ人に名を連ねた[3]。また1996年には、皇居での講書始の進講者を務め、2001年の愛子内親王の命名時に勘申者を務めた。

著書[編集]

• 『評釈国文学大系 第3 源氏物語』河出書房 1955
• 『蜻蛉日記』弘文堂 1956 アテネ文庫 古典解説シリーズ
• 『源氏物語・更級日記』さ・え・ら書房 私たちの日本古典文学 1958
• 『源氏物語の解釈と問題研究』山田書院 1959
• 『宇津保物語・落窪物語・堤中納言物語』さ・え・ら書房 私たちの日本古典文学 1963
• 『源氏物語の世界 その方法と達成』東京大学出版会 1964
• 『王朝女流文学の形成』塙書房 1967
• 『源氏物語』岩波新書 1968
• 『考究日本古典』新塔社 1970
• 『源氏物語 若い人への古典案内』社会思想社・現代教養文庫 1971、のち新版
• 『王朝女流文学の世界』東京大学出版会 1972
• 『紫式部 宿業を生きた王朝の物語作家』平凡社、1979(日本を創った人びと)
• 『古今和歌集』尚学図書 1982 鑑賞日本の古典
• 『王朝の文学空間』東京大学出版会 1984
• 『王朝の歌人 伊勢』集英社 1985/『伊勢』 ちくま学芸文庫 1994
• 『源氏物語の女性たち』小学館 1987、同ライブラリー 1991
• 『古典をどう読むか 日本を学ぶための『名著』12章』笠間書院 2005
• 『源氏物語の論』笠間書院 2011
• 『平安文学の論』笠間書院 2011

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●私は法政大学で、3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講義を履修した。大学入学と同時に、大内兵衛先生のお言葉に刺激されて、『源氏物語』を、池田亀鑑の校注本、朝日古典全書で、全巻読破していた。そんな私にとって、秋山先生の講義は非常に魅力的だった。履修者も多く、大部分女性だったが、私は、最前列で、先生の講義を拝聴した。卒業後も、3年間は聴講させて頂いた。

●4年生になった4月、卒論の指導教授、重友毅先生から呼び出しがあった。教授室へ伺うと、「君、秋山君に、面白いレポートを出したそうだね。良かったら、〔秋成研究会〕で発表してみないかネ?」と申され、来週までに清書してきたまえ。と付け加えられた。

●勇んで清書して持参すると、読んでおくので、来週、また来たまえ。となり、来週伺うと、結果はボツだった。今、考えると、重友先生の説まで批判していたのだから、パスするはずはなかった。

●秋山先生からは、卒業後も、長年にわたって、あたたかく御指導を賜わり、私が本を出した時は差上げ、先生も著書出版の時は、必ず御恵与賜った。

●先生は、平成27年(2015)11月18日、91歳で御他界なされたが、それより前、一度、遊びにいらっしゃい、と声をかけて下さった。こちらの家庭の事情で、板橋の御自宅へお伺い出来なかったのが、一番、心残りのことである。

しかし、これは、私にとって、大きな名誉な事であった。

「田舎におはせば、言えり給へど・・・」

「田舎におはせば、言えり給へど・・・」

  • 2020.06.08 Monday
  • 07:08

「田舎におはせば、言えり給へど・・・」

私の『源氏物語』――夕顔の巻を中心に――

◆はじめに◆

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのである。

夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。

夕顔は次の如く形象化されている。

「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかな を重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」

このように夕顔は描かれ、形象化されている。これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。

私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。

夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

◆本居宣長の『手枕』◆

宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。

宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・

「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。

さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。

この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。

私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。

秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。

「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉 る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写しとどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、  時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。

【後略】

★これは、、大学3年の時、秋山虔先生に提出したレポートである。

三たび 『源氏物語』

三たび 『源氏物語』

 

  • 上田秋成は、『源氏物語』の各巻に対して、それぞれ、一首の歌を詠じている。

 

  • ある年の冬の夜長に、妻(かたはらにある人)に『源氏物語』を読んでもらい、一巻終わるごとに一首ずつ詠じたというのがある。高田衛氏によれば、『源語』を読んでくれたのは、妻でなく、足立紫蓮尼であるという。
  • この高田氏の説に従うならば、この歌は、紫蓮尼と出会った寛政十年から、『藤簍冊子』の自序の成った享和二年頃のものであったかも知れない。秋成六十五歳から六十九歳ということになる。

 

 以下、各巻の歌を具体的に見てゆきたい。

 

    桐 壷

よひのまにはかなの月は入にけり ねためる雲をかけしながらに

 

 まだ宵であるというのに、もう月は入ってしまった、それをあたかも残念がっているかのような雲を残したまま。

 

 宵のうちに姿を消してしまう月の、宵月の、なんとはなしにはかない情趣を詠じたものであるが、この歌における「月」は、桐壷帝の寵愛を一身に受ける桐壷更衣であり、それを妬む雲は弘徽殿女御をはじめとする多くの女御・更衣たちである。そして「よひのまに」の「よひ」は桐壷更衣の子・光君の幼さに通じる。

 この歌は桐壷巻頭のレジュメの如くであり、その内容をそれぞれの風物にたとえて、歌っているが「ねためる雲」の発想は、やはり秋成的であり、秋成の『源語』に対する考えの一端が出ていると思う。

 

    帚 木

さまざまに定めあらそふ人の上に はては心もさみだるゝ空

 

 お互いに女性(人の上)のよさについて批判し合うが、しまいには(これと定めることも出来ず)五月雨の空のように判然とせず、訳のわからない義論になったことである。

 これは、浅野氏の注にもある通り、雨夜の品定めを歌ったものであるが「はては心もさみだるゝ空」は、第五句を「自筆短冊」が「さみだれの夜半」としており、品定め末尾の「何方により果つともなく、はてはてはあやしき事どもになりて、明し給ひつ。」に対応する。

 秋成は『ぬば玉の巻』で「一部の大むねを求むれば、雨夜の物語に世にある女のうへを、さまかたち心ばへをまで、漏らさじと書いあらはしたる程に、筆のすさみの行くに任せて、そこはかとなく書きひろめたる物とこぞ覚ゆれ」と言い、また国学の師・加藤宇万伎の『雨夜物語たみことば』を刊行し、その序で、「物がたりぶみは世におほかめれど、光源氏のもの語ばかりあやにたくめるはなし。それが中にもあま夜のしなさだめなむ、いといと心得がたきを、静舎のうしいにしとし人のもとめによりて、そこをなむ書いでゝ、こと葉をそへつゝとかれしを、人のつてに見てしより……」と述べ、この帚木の巻を重視しているが、これは『源語』研究史上、従来の諸学者によって説かれてきた事であり、これを認め、更に、真淵・宇万伎の説に従っており、この一首も、そのような秋成の『源語』評価を背景として作られた歌である。

 

    空 蝉

やり水のほまれの門をひき入る 車は恋の重荷なりけり

 

 最初遣り水が涼しいからとくぐったこの門を、今引き入れる車は、恋に苦しみ悩む光源氏を乗せているのである。

 「やり水のほまれの門」は、光源氏が遣り水が涼しいからといって、紀伊守の家に方違えをし、再度、ここを訪れた時、紀伊守が「遣水の面目とかしこまりよろこ」んだことに拠る。

 伊予介の後妻・空蝉への恋にとりつかれた光の心境は、まさにこのように重苦しく、居たたまれぬものである。秋成は、最高の権威と、この上ない美貌の持ち主・光に対して、中流階層の女性として、また人妻として自らのモラルを貫き通した空蝉に直接ふれず、その彼女への恋のために苦しむ光源氏の姿をとらえた。やや、光を突き放した形でとらえているところに、秋成の光に対する考えが出ている。

 

    夕 顔

けやすしと思はゞなどてよりて見ん 明るをまたぬ夕がほの露

 

 夜の明けるのを待たずに散ってゆく夕顔の花の露のように、そんなにもはかない女性と知っていたならば、どうして寄って見ただろう、見はしない。

  「よりて見ん」は「寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔」という光源氏の歌からの連想と思われる。また、「けやすしと」に浅野氏は「源氏の君の心が消えやすいと。」と注を付しておられるが、ここは、光の心が消えやすいのではなく、夕顔の花の露が消えやすいのであり、夕顔という女性の、 一夜にして死んでしまったはかなさを言っているのだと思う。「けやすし」は 「消え易し」の意であるが、次に掲げる『万葉集』の用例でもわかるように、多くは、命などのはかないさまに使われている。「朝露の消易きわが身他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り」(巻五)「朝霜

の消やすき命誰がために千歳もがもとわが思はなくに」(巻七)「父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命は 朝露の 消やすき命 神の共……」(巻九)「朝露の消やすきわが身老いぬともまた若ちかへり君をし待たむ」(巻十一)「露霜の消やすきわが身老いぬともまた若反り君をし待たむ」(巻十二)

 五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を超えた場において愛し合うというこの巻の構想は『源語』本伝の世界から離脱することによってはじめて可能であった。雨夜の品定めで受領階層の女性に興味を覚えた光であるが、それを充たすためには、愛情と利害とが切離された新たな世界を必要とした。作者・式部は、光源氏を一介の男性として登場させることによって、夕顔との間に、より純粋な愛を描くことに成功したのである。

 秋成のこの歌は、はかなく消えていった恋人への心情としてみるとき、やや打算的に過ぎると思う。事実、光は夕顔の死を心から悼み、悲しみ、その故に病の床に臥している。その光源氏の姿を秋成は、皮肉をこめて冷ややかにとらえているのである。

 

    若 紫

九重の北山ざくら咲にけり かけし霞も名残なき空

 

 京の北山の桜も今を盛りかと咲き乱れ、空は一面に春霞につつまれて絵のようである。

 光源氏が北山を訪れた時の景色である。桜の花に霞がかかる、春特有のおぼろげなさまを詠じているが、この歌にはその裏に、この北山で幼い紫の上を垣間見た光の心中がこめられている。霞を通して見る桜は紫の上であり、下の句の「かけし霞も名残なき空」には「なんとはなしにかけた思いではあるが、はなはだ心残りのする心

地であるよ」の意が含められていると思われる。技巧をこらした一首と言えよう。

 

    末摘花

中川にことよき橋をわたされて 見るめなき野を分(け)もこしかな

 

 末摘花の住む中川へ、大輔命婦の調子のいい話に心を動かされて、それを見抜くことも出来ずによくも来たものだ。

 光は夕顔との死別を忘れられずに、「いかで、ことごとしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つつましき事なからむ、見つけてしがな、と、こりずまに思し渡」る、そんな折、大輔命婦のうまい話を耳にする。そして、醜い容貌の女性とも知らずに、頭の中将と張り合いながら、中川へのこのこと出かけでゆく。秋成は、この色好みの光源氏のさまをアイロニーをこめて歌っているが、得々と詠じた一首ではなかったかと思う。

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  • 上田秋成の『源語』観を解明しようと、間接的な歌を分析してみた作業である。「上田秋成と『源氏物語』――『源語』に寄せる五十四首の歌――」として、『文学研究』51号(1980)に掲載したもの。

『雨月物語』「吉備津の釜」と『源氏物語』

『雨月物語』「吉備津の釜」と『源氏物語』
2020.03.16 Monday07:26

●ネット上に、こんな遣り取りがあった。3年前である。

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長文失礼します(m´・ω・`)mさん
2017/6/1102:37:26

『雨月物語 吉備津の釜』と『源氏物語』の関係について
現在吉備津の釜について調べているのですが
吉備津の釜の注釈で源氏物語の葵巻よりは
夕顔巻の趣向がある
と書かれていました。
それはなぜなのでしょうか?
吉備津の釜のどこかの文が夕顔巻に出てくる文に似ているのでしょうか?

私は吉備津の釜での
正太郎の妻の磯良(鬼化になる)と妾の袖(磯良に取り殺される)の関係が、
源氏の正妻(葵の上)に次ぐ妻である六条御息所(御物の化になる)と葵の上(御息所に取り殺される)という関係よりは、
六条御息所と夕顔(御息所よりあとに源氏が妻とした)という関係のほうが近いから
夕顔の巻の趣向をとったのかなとおもっています
全然違うのかもしれませんが…

他に理由などありましたら教えていただけますと嬉しいです
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私の『源氏物語』

私の『源氏物語』 ――夕顔の巻を中心に――

  • 2020.03.15 Sunday
  • 14:00

私の『源氏物語』――夕顔の巻を中心に――

はじめに

五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのであ。
夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
夕顔は次の如く形象化されている。
「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかな を重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」
このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

本居宣長の『手枕』

宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・
「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉 る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写し
とどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、  時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高き から、御むすめの御ため、しうねき性をあらはし  て、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)
宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。
語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。

正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。
このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。
「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。
これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。
また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。
さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。
このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。
また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し。」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。
さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。
また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。
「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」
粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。
『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。
秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。
「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき〔女ラシキ也〕心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ〔才能〕の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌

秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。
この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。
秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、
「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。
宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ差し入れるものとして作られている。
秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。
『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。
古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。
島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』ト「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。
秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。
(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784~85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)

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●大学4年の時の、拙文である。その後、『雨月物語』の研究で、この問題は取り上げられた事はあるのだろうか。私が、法政の大学院へ進んでいたとしたら、重友先生は、上田秋成を研究するように指示しておられた。私としては、秋成の国学を解明したかった。

●これは、雑誌には発表していない。秋成研究者が、これにヒントを得て、さらに精緻な論文に仕上げることは自由である。
2020年3月17日 深沢秋男

再び 『源氏物語』 へ

◆再び『源氏物語』へ

 

  • 学生時代に『源氏物語』を読んだことは、以後の日本文学研究に大変役立った。昭和55年(1980)、再び、『源氏物語』を読んだ。これは、上田秋成の目を通して、読むという作業であった。私は、大学3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講義を履修し、年度末のレポートの課題は、「私の原紙物語」だった。

 

  • 私は、「『源氏物語』夕顔の巻と上田秋成『吉備津の釜』」と題して提出した。4年生になって、重友毅先生から呼び出しがあって、教授室へ伺うと、「君、秋山君へのレポートで、秋成の事を書いたそうだね。秋成研究会で発表してみないかね。」というお言葉。

 

  • 来週清書して持って来たまえ。という事になった。当時、法政大学に〔秋成研究会〕があり、重友先生、森山繁雄氏、中村博保氏、等を始め、各大学の院生が集まって行われていた。私も学部生ながら、何回か拝聴したことがあった。

 

  • それにしても、学部4年の私に、このような、お声をかけて頂けるとは、大変な感激だった。来週、清書して、重友先生にお届けした。読んでみるから、また、来週來たまえ。来週、教授室へ伺うと、結果は、大変なお叱りを受けて、ボツになった。怖いもの知らずで、重友先生の説も含めて批判めいた事を書いたのだから、これが通るはずがない。良い経験だった。

 

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