〔幕末気象台〕

〔幕末気象台〕
2018.09.27 Thursday

自己紹介
日本史好きの気象予報士です、天気予報の技術革新について行けず、各種の日記から幕末の天気を調べています。よろしく

天保十一年十一月一日(西暦1840年11月24日)、江戸城黒書院の天気
2018-03-14 23:07:33 | Weblog
天保十一年十一月一日、酒井忠発が、江戸城黒書院で、三方領地替を言い渡されました。
忠発と庄内藩にとりましては、まさに「青天の霹靂」 でありました。

ところで、当日の江戸の天気はどうだったでしょうか。
江戸九段下の【井関隆子日記】によりますと、「時雨の雲も昨日に尽ぬるにか、日影花やかに晴わたりぬ 」
となりまして、前日までのぐずついた天気がようやく晴渡ったようです。

全国の天気分布図を見ますと、

となっており、日本海側の一部を除き日本列島は概ね晴 になっております。
忠発の言い渡された時間は正午前後と考えられますので、

午正晴、55度、29寸7分【霊憲候簿】 言い渡された時の江戸城黒書院での天気は晴、気温は摂氏12,8度前後で、
暮れも程近い、新暦11月24日としては穏やかな天気でしたが、天気とは裏腹に「神田大黒」の庄内藩江戸屋敷は
暗雲 の中にあったと考えられます。

柴又の寅さんに言わせれば「空は晴れても、心は闇よ」と言ったところでしょうか。

冗談はさておき、暮れには早速国元に向けて、矢口弥兵衛が早駕篭で出立します 。
早駕篭出発の時は、気温は摂氏11.7度と高めでしたが、江戸も曇り となりました。

秋田、山形では、一月前の十月一日に初雪 が降っており、道中の雪も心配です。

興味は尽きませんが、夜も更けましたので、今日はこの辺で「おやすみなさい」

出版と私 ③

出版と私 ③
2018.09.19 Wednesday

文春新書『旗本夫人・・・』のこと

●私は、一生に一度だけ、啓蒙書を書いた。大学を定年退職してからである。それが、文春新書の『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』たった。
●啓蒙書は、初めてのことでもあり、文春の担当編集者の協力で、何回も何回も書き直した。途中で嫌になり、一時、ほっておいたこともあったが、気を取り直して、やっと書き上げた。編集者の、甘辛のアドバイスがなければ、日の目はみなかった本である。
●発行後は、予想外の売れ行きで、驚いた。以下、その状況を列挙してみる。

『旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記』

発行・販売経過

2007年(平成19年)11月20日 第1刷発行
2007年(平成19年)12月25日 第2刷発行
2008年(平成20年)1月10日 第3刷発行
2008年(平成20年)1月20日 第4刷発行
2008年(平成20年)2月5日 第5刷発行
2008年(平成20年)4月25日 第6刷発行

紀伊国屋書店BookWeb 新書 週間ベストセラー
●2007年12月10日~2007年12月16日
 ①女性の品格 ②大人の見識 ③水妖日にご用心 〔61〕旗本夫人
●2007年12月17日~2007年12月23日
 ①親の品格 ②女性の品格 ③ビジネスマナー入門 〔23〕旗本夫人
●2007年12月24日~2007年12月30日
 ①女性の品格 ②親の品格 ③日本の10大新宗教 〔49〕旗本夫人
●2007年12月31日~2008年01月06日
 ①女性の品格 ②親の品格 ③日本の10大新宗教 〔42〕旗本夫人
●2008年01月07日~2008年01月13日
  ①親の品格 ②女性の品格 ③大人の見識〔51〕旗本夫人
●2008年01月21日~2008年01月27日
  ①親の品格 ②女性の品格 ③大人の見識〔26〕旗本夫人

八重洲ブックセンター ベストセラー 新書
●期間 2007年12月16日~2007年12月22日
 ①大人の見識 ②日本の10大新宗教 ③親の品格 ⑥旗本夫人
●期間 2008年01月20日~2008年01月26日
 ①大人の見識 ②占領と改革 ③昭和天皇 ⑨旗本夫人

アマゾン売れ筋ランキング ノンフィクション
●2007年12月27日
 ①ひとつ村上さんでやってみるか ②今日は口めにもってこいの日 ③クラークゲイブル ⑥旗本夫人
●2008年2月12日
 ①余命1ヶ月の花嫁 ②スティーブ ジョブズ 偉大なるクリエイティブ・ディレクターの軌跡 ③うつから帰って参りました 〔15〕旗本夫人

アマゾンの図書館 ノンフィクション  歴史・地理
●2007年12月27日
 ①チ工・ゲバラ伝 ②墜落遺体一御巣鷹山の日航機123便 ③旗本夫人
●2008年01月08日
 ①旗本夫人 ②一冊の手帳で夢は必ずかなう ③本田宗一郎 夢を力に
●2008年01月28日
 ①ローマ人の物語 ②ローマ人の物語 ③ねこばば ⑨旗本夫人

TSUTAYA online 新書・教養
●2007年11月28日
 ①女性の品格 ②いつまでもデブと思うなよ ③脳が冴える・・ 〔57〕旗本夫人

呉服町店 新書ランキング 2007年:L2月14日
 ①脳が冴える15の習慣 ②生物と無生物の間 ③ST桃太郎伝説殺人ファイル ⑧旗本夫人

ブックストア談 浜松町店 教養新書 2007年12月16日
① 生物と無生物の間 ②親の品格 ③女性の品格 〔16〕旗本夫人

セブンアンドワイ 教養新書、選書 2007年12月19日
① 親の品格 ②女性の品格 ③熱湯経営 〔11〕旗本夫人

オリオン書房 新書ベストセラー 2007年12月25日
① 親の品格 ②女性の品格 ③水妖日にご用心 〔20〕旗本夫人

GUPPY ノンフィクション 2007年12月27日
① 累犯障害者 ②外資系トップの仕事力 ③人生の旋律 ⑩旗本夫人
【以下、省略】

●とにかく、増刷に次ぐ増刷で、最初の頃は、誤植の訂正もした。平成20年(2008)元旦の、文藝春秋の広告〔謹賀新年〕の中にも入った。書評も、朝日新聞の、野口武彦氏の大きなものを始め、たくさんの新聞・雑誌に出た。印税もたくさんまらった。私にとっては、一生に一回の、夢のようなひと時だったと言える。
●しかし、出版と私の関りは、このような事ではなかった。〔出版〕の語源の、EDERE(ラテン語)=〔生み出す〕だったのである。これなくして、出版の意義はない。そのように思っている。

■朝日新聞 平成20年(2008)1月1日

■房日新聞 2007年12月16日

今日の花 ススキ

今日の花 ススキ
2018.09.15 Saturday

●9月15日、今日の花はススキ、花ことばは〔活力〕。朝、ラジオで聞いた。ススキと言えば、井関隆子を思い出す。隆子は草花の中で、ススキを、その司だとして好んでいた。
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「己れ、とりわき薄をめでゝ、昔も今も、せばき前栽にところせう植置て、明暮見れども、あくよなむなき。こゝら繁れる中に、早稲穂の薄一卜村、きのふけふ、かつがつ穂に咲出ぬ。一とせ五月の二十日あまりに、穂に出たりしを、ある人につかはすとて、
  郭公きなく五月の花すゝき をりたがへりと人の見るらむ   
今年は降続きたるげにか、こよなうおくれたり。……」
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●春も夏も秋も、冬でさえも、ススキを愛でていた。自分の庭にはススキを植えて、鹿屋園(かやぞの)と名付け、自分を、鹿屋園の庵主(かやぞののいおぬし)と称していた。
●9月15日、井関隆子の日、言ってもいいだろう。

『井関隆子日記』の新情報

『井関隆子日記』の新情報
2018.09.12 Wednesday

「井関隆子日記」の出品商品、直近30日の落札商品はありませんでした。
•新品参考価格
77,474円
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●「日本の古本屋」では、次の通り。77474円は、どのようにして算出したのだろうか。

●井関隆子日記 中巻
¥10,000
深沢秋男 校注、勉誠社、昭55、1冊
函、ビニカバ付
●井関隆子日記 全 3巻揃
¥23,500
深沢秋男校注、勉誠社、昭53-56、3冊
函、ビニカバ、美
●井関隆子日記 上・中・下 全3冊揃
¥20,000
深沢秋男・校注/鹿島則幸(原本所蔵)、勉誠社、昭和53年、3冊 函
●井関隆子日記
¥19,000
深沢秋男校注、勉誠社、昭56、3冊
上中下3冊揃セット 函(シミ・汚れ・少破れ)付 全体ヤケ 表紙少シミ・少ヨレ 地に大学名印・日付印有り 見返し・始頁シミ

上知令と『井関隆子日記』

上知令と『井関隆子日記』
2018.09.06 Thursday

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『井関隆子日記』にみられる武家の「家」観念
              朝倉有子

 日本の近世史研究において家族史研究、及び女性史研究に欠くことのできない史料の一つに宗門人別帳があるが、最近は宗門帳を利用した研究が著しい進展をみせている。たとえば、農村女性のライフサイクルといった観点からの分析、封建制の動揺が農民の家督相続の上にどのような変化を与えたかを検証したもの、さらに一ケ村のみでなく、より広い地域の中で農民家族の動向を考えるもの等々、貴重な成果が蓄積されている。
 家族史、女性史の立場から光をあてることによって、すでに定説化されている、あるいは評価が定まっている歴史事象の新しい側面を描き出していくのが家族史、女性史研究の眼目の一つであり、前述の諸成果もそのような立場から新しい歴史像を構築したものである。私の家族史に対する関心もそこにあるといえよう。
 一方、農民ではなく、武家の家族の日常を窺いうる史料の一つに『井関隆子日記』(深沢秋男校注・勉誠社刊)があるが、この『日記』は井関家に代表される旗本層の日常を伝えてくれるとともに、従来とは多少異なる歴史の見方を提示してくれる素材であるように思われる。
 たとえば、天保改革時の上知令は、江戸、大坂周辺の大名、旗本の領知を上知することで幕領の一円化をめざした、幕権強化政策であると評価されている。しかし、『日記』では、「おのおの遠つ祖のいさをにより、いともかしこき神ノ命の身自ら御杖先もてさし給はれる処、あるは末の世長うかはることあるまじき標のふみに、御朱印おして給はれるなど、家と宝とひめおきしもこたびの御定によりみないたづらとなりぬ」、「其祖の墓などあるはことに歎きわびあへる」と、家の祖先の戦功によって獲得した知行地の喪失、家宝である朱印状を反故とし、累代の墓所を失うことと、もっぱら「家」の観点から述べられている。すなわち、上知令とは旗本層にとって「家」の存続の危機であり、幕府による彼らの「家」の否定として認識されているのである。したがって、『日記』では「利を思ふ」のではなく、「家」の存続の面から、上知令に対する批判が展開されていくのである。
 ささやかな例ではあるが、今後このような事例をつみ重ねていくことで、歴史事実を見直す作業を続けてゆきたい。
               (お茶の水女子大・日本近世史)
(『比較家族史研究』創刊号、1986年9月、比較家族史学会)
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●30年前に出た〔研究余滴 ?〕に、今日、出会った。筆者は、その後、研究を進めておられるのであろうか。それは、確認していない。とにかく、このようにして、天保期の井関隆子の記録が、後世の人々に活用されることは、隆子自身の望んだことである。隆子は、情報の出所、情報の信頼度を意識して記録している。それ故に、天保期の江戸の状況を知る上で役立つのだと思う。文学史の上でも、歴史の上でも、耐えるものだと信じている。

新田孝子氏の「文章千古事」

新田孝子氏の「文章千古事」

●新田孝子氏は、東北大学を定年退官するにあたって、次のような文章を書いておられる。井関隆子に関する文献として、極めて貴重な内容であると思われるので、ここに収録させて頂くことにした。新田氏の御研究は、井関隆子研究の上で、重要な位置を占めている。改めて感謝申し上げます。
2018年8月21日   深沢秋男
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定年退官にあたって

調査研究室研究員・文博   新田孝子

『さくら雄が物かたり』との遭遇

学部・院生時代は、研究室備え付け図書で充分だったので、あまり図書館を利用しなかったのだが、『東北大学所蔵和漢書古典分類目録』編纂事業のスタッフとして、東北大学附属図書館に勤務するようになると、本館の蔵書構成の素晴らしさは、古典研究者としての新田を魅了してやまなかった。どこに行っても、これほど研究上高度な蔵書を有する大学はない。それは火を見るよりも明らかだった。
研究者の常として、蔵書を利用するにしても、とかく自分の守備範囲に限られがちである。しかし、蔵書目録を編纂するという仕事は、蔵書全般に立ち入って、広く博捜する手続きを踏まなければならない。平安朝文芸を専攻した新田が、江戸期の作品に親炙するようになったのは「狩野文庫」の大部分が、江戸期の作品によって占められていたからである。
「狩野文庫」に「さくら雄が物かたり」という写本があった。一丁十三行の擬古物語である。仮名垣魯文の蔵書印が捺され、「此たはれふミハある人文会とて月毎にかれ是つどひておのが心々の文出しける時に物しはべりし也/天保とふとしの九とせ/
鹿屋園のいほぬし源隆子しるす」という奥書が附されている。新田には、この「鹿屋園」をどう読むべきか、少しも見当がつかなかったので、目録の編纂者としては、作者名を「源隆子ミナモトノリュウシ」と記入して済ませたのだが、長い間、後味の悪い思いに苛まれた。

『井関隆子日記』の出現

数年が過ぎた。ある日、参考コーナーで勉誠社の出版目録を見て、『井関隆子日記』という図書が出版されたことを知り、ゆくりなくも〈鹿屋園の源隆子〉を思い出した。早速、取り寄せてみたところ、「源隆子」はまさに、「井関隆子」その人であることが判明するに至ったのである。おのずから、どうにも読めなかった「鹿屋園」が、「カヤソノ」であることも明らかになった。「かや」はすなわち「薄ススキ」であり、隆子は、群草の中に一きわ高々と抜きん出てさく薄を、「草の司クサノツカサ」として鍾愛し、その薄のいっぱい生えている自宅の庭を「かやその」と自称し、記紀の野の神「鹿屋野比売神カヤノヒメノカミ」の名に因んで、「鹿屋園」と表記したのである。この明快なる解答を得た瞬間の、天にも昇る嬉しさは、まさに譬えようもなかった。さしづめ『更級日記』の著者の、「后のくらゐも何にかはせむ」というところであった。
 改めて、『国書総目録』を繰ると、第三巻に「さくら雄か物かたり 六巻一冊 源隆子編 写 東北大狩野」とあり、第五巻に「天保日記 一二冊 井筒隆女 写 桜山」と見えている。誰であれ、この両者の著者が同一人であることに、どうして気付き得るだろうか。『国書総目録著者別索引』では。前者を「ミナモトノリュウシ」とし、後者を「ヰツツタカ」として、別々に配列させざるを得なかったのも無理はないと思う。正しくは「ヰセキタカコ」である。

深沢秋男氏の研究

 さて、『井関隆子日記』は「桜山文庫」に伝来された。井関隆子の〈自筆日記〉で、全十二冊におよぶ大部のものである。「桜山文庫」は鹿島神社宮司家鹿島則幸氏の蔵書を指呼する称であって、隆子の〈自筆日記〉は、先代鹿島則文氏の識語により、明治14年神田淡路町の書肆から購入されたものであることがわかる。隆子の創作である「さくら雄が物かたり」が「狩野文庫」に、〈自筆日記〉が「桜山文庫」にあるということは、明治維新により、瓦解した士族階級から流出した蔵書類が書肆の手を経て、それぞれ、狩野亨吉氏と鹿島則文氏によって購入されることになるという、当代の文庫形成の流れを如実に示す好例であろう。
 勉誠社刊『井関隆子日記』の校注者深澤秋男氏は、隆子の死後百三十年を数える昭和47年から調査を開始し、ほぼ十年の研鑚を経て、上中下三巻に編み、昭和53年~56年に勉誠社から刊行したのであった。深澤氏の研究によれば、隆子の子孫である井関家は、戦前東京三ノ輪に居住し、昭和20年3月9日の東京大空襲により全焼したという。したがって、それより以前に、〈自筆日記〉が井関家から持ち出されていなかったとしたら、当然にそのまま灰燼に帰してしまったに相違ない。「鹿屋園」の疑問も、永遠に解けることはなかった。それを思うと、〈自筆日記〉が今日に伝来し、深澤秋男氏と出会って、学界に紹介されるに至ったという幸運を、心から感謝せずにはいられない。

井関隆子の生涯

 井関隆子の実家庄田家は、代々徳川将軍家に仕える旗本である。隆子は、本家三千石から分知した、分家四百石大番衆庄田安僚の四女として、天明5年6月21日に生まれた。幼名を「キチ」という。『庄田家系譜』の隆子の条に「大御番山口周防守組 松波源右衛門妻 不縁に付 西丸御納戸組頭 井関弥右衛門」とある。
 隆子はなぜか、所縁ととのわず、年闌けてから後妻として再婚したのである。しかも、自らの子には恵まれず、義理ある二児を育てたのみで十余年の結婚生活ののち、夫に先立たれた。嫁ぎ先の井関家もまた、代々将軍家に仕えた旗本であり、隆子は、常に将軍家の繁栄のみをひたすら祈念する生粋の旗本人種であった。〈自筆日記〉は、天保11年の元旦を始発とする。この時の井関家の家族構成をみると、五十六歳になる著者隆子、二丸留守居を勤める当主の親経、親経の妻、家慶の小納戸を勤める親賢、親賢の妻(親経の長女)、親経の三女(二十三四歳になるが未婚)、十一歳になる親賢の長男、以上の七名である。隆子は、いわば、〈旗本家の御後室様〉であり、別棟の離れに住んで、通常は食事なども、独りで摂っていた。したがって、隆子はあり余る時間を持っていたのであり、その時間を、すべて執筆に注ぎ込んだのである。〈自筆日記〉は、「日次ヒナミ」の日記ではあるが毎日ではなく、天保11年2月10日の日付が重複している一例により、草稿を清書するという手続きを経て現在の姿になったものであることが知られる。

「文章千古事」

 〈自筆日記〉は天保15年10月11日で終り、その二十日後の11月1日、かねて望んでいた通り、ただ、三日ほど寝込んだだけで隆子は没した。その二十年後には明治維新を迎え、隆子の生き甲斐であった「上様の御旗本」の世界は跡形もなく崩壊する。けだし、隆子が薄を「草の司」として鍾愛したのは、「公仕うまつる家」の誇りを抱きつつ、将軍家と共に過去から現代へ、さらに現在から未来へと連綿と繋がり栄えていく旗本階級に自然にはぐくまれるであろう、高きもの、すくよかなるもの、毅然たるもの、健全なるもの、支配者的なるものに対する傾倒に他にらなかった。
 振り返れば、茫々たる来し方にただ一つ、燦として虚空にかかるのは、「文章千古事」の真実である。   (にった・たかこ)
(『東北大学附属図書館報』Vol,20,No4,1996)
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●この文章を頂いた時、私は、篆刻家、冨樫省艸氏に依頼して、「文章千古事」を刻してもらって、新田氏に差し上げた。

人文系データベース去議会 の 〔井関隆子日記〕

人文系データベース協議会 の 〔井関隆子日記〕
2018.08.16 Thursday

人文系データベース協議会の 〔井関隆子日記〕

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1. DBの名称(日本語) 井関隆子日記
2. DBの名称(英語)
3. DBの名称(ひらがな) イセキタカコニツキ
4. DB構築責任者氏名 深沢秋男
5. DB構築責任者氏名(ひらがな) フカザワアキオ
6. DB構築責任者氏名(ローマ字)
7. 構築責任者の所属機関(日本語)
8. 構築責任者の所属機関(英語)
9. 所属機関の住所
10. 構築開始年月
11. 最終更新年月
12. 今後の更新予定の有無
13. DB設置場所の北緯
14. DB設置場所の東経
15. 原資料
16. 原資料の概要(400字以内)
17. テーブル名とデータ項目
18. レコード件数
19. データベース管理システム(DBMS)
20. 運用形態 • インターネットから一般公開している。
21. インターネットから公開している場合のURL http://www.ksskbg.com/takako/
22. 年間アクセス件数
23. 利用登録者数
24. 利用規程の有無
25. 構築のために助成を受けた補助金
26. データベースの構築目的
27. データベースの検索・利用方法
28. データベースを活用した研究成果
29. 今後の開発計画・課題
30. DB構築に関する論文・著書(5点以内)
31. DBの活用成果をまとめた論文・著書(5点以内)
32. DBの主題NDC • 91. 日本文学
33. 資源タイプ(NDL) • 辞書・事典
34. DBサイトに関する変更履歴
35. 最終変更年月日

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●〔井関隆子日記〕に関する、〔人文系データベース協議会〕の表示は、このようになってる。「21、インターネットから公開している場合のURL」は示されているが、このホームページは、2年前に閉鎖され、閲覧できない。現在は、〔j-texts日本文学電子図書館〕の中で閲覧できる。〔井関隆子日記〕データは、以下の通りである。

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『井関隆子の研究』

井関隆子関係講演等

井関隆子の人と文学

平成23年度、京都大学入試に『井関隆子日記』出題される

平成20年度、明治大学入試に『井関隆子日記』出題される

平成11年度、センター入試に『井関隆子日記』出題される

平成11年度、センター入試(日本史追試)に『井関隆子日記』出題される

『旗本夫人が見た江戸のたそがれ――井関隆子のエスプリ日記』

『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』書評・新刊紹介等【1】

『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』書評・新刊紹介等【2】

『井関隆子の研究』新刊紹介・書評・その他

新刊紹介 『井関隆子の研究』 坂梨隆三

『井関隆子日記』――その後の認知度と評価

最近の『井関隆子日記』の研究状況

『井関隆子日記』新刊紹介

『井関隆子日記』解説

『井関隆子日記』原本の古書価

『井関隆子日記』関係資料

井関隆子の批評精神

井関隆子の女性像

井関隆子の女性像・2

井関隆子作『桜雄が物語』

井関隆子作『神代のいましめ』

井関隆子研究覚書(六)―『庄田家系譜(正本)』―

井関隆子関係墓所・過去帳・家譜

国立国会図書館所蔵『恵美草』の書写者について

大宅壮一文庫・平成ウェブ版の「井関隆子」

『井関隆子日記』 高校の授業に

『井関隆子日記』 上野高校の授業に

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●このようなケースが、今後も生じる可能性がある。私の〔井関隆子日記〕のデータは、以前、国会図書館から収録承認の要請が、郵便で送られて来た。以後、自動的に収録して良いと、返答したようにも思う。〔井関隆子日記〕のデータは、国会図書館のデータベースに収録されているのだろうか。このような、民間のデータの保存も、内容を吟味して保存する必要があると思う。

上野高校の授業に『井関隆子日記』

『井関隆子日記』 上野高校の授業に
2018.05.31 Thursday

●都立上野高校、平成30年度、文系必修選択古典演習の年度計画
5月は、4・讃岐典侍日記、5・大鏡、6・井関隆子日記、である。

井関隆子日記は、時数・3、指導目標は、

◎助動詞「ず・じ・まじ」の用法を理解する
◎古文単語の意味を理解し、訳すことができる
◎文章の展開に即しながら内容を理解し、作品を鑑賞する
◎作品固有の文学的知識や「日記」の特徴を理解する

●46年前、私は、この日記を初めて読んで、この文章に圧倒された。読み進めると、優れた文章であると、次第に評価できると思うようになった。今、私の、この時の評価は、妥当であった、と確認できる。
●5月も、今日で終わりであるが、今月、上野高校の生徒は、上村先生、田崎先生から、3時間『井関隆子日記』の授業を受けたのである。

歴史上の記述の修正

歴史上の記述の修正
2018.05.28 Monday

第11代将軍、德川家斉   ウィキペディア より抜粋
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最晩年と最期[編集]
天保8年(1837年)4月、次男・家慶に将軍職を譲っても幕政の実権は握り続けた(大御所時代)。最晩年は老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用している。
天保12年(1841年)閏1月7日に死去した。享年69。
このように栄華を極めた家斉であったが、最期は誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられ、侍医長・吉田成方院は責任を問われ処罰された(『井関隆子日記』)。なお、死亡日は『井関隆子日記』には閏1月7日と記されているが、『続徳川実紀』は「閏1月30日」としており、幕府が死を秘匿したと考えられている。
家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定されて、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷される。そうして間部詮勝や堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。
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●1980年8月15日発行『井関隆子日記』天保12年閏1月10日の条に、私は次の如く注を付した。
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「光りかくれさせ給へり―家斉死没。この没日について『家譜』は、「同十二辛丑年閏正月晦日薨御」『実紀』は「三十日 大御所御危篤の御ありさまなるとて。群臣総出仕ありて御けしきうかゞふ。辰刻ばかりに遂に 大御所かくれさせ給ふ」と、いずれも閏一月三十日(晦日)とし、『柳営日次記』七日の条にも、「殿中無別条」とあるが『徳川十五代史』は、「晦日、前将軍文恭公薨、実は本月七日に薨御ずと云。」
と、この『日記』と同様に閏一月七日没が実際であるとている。」
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●38年経って、ネット上の百科事典に、このように記されるようになった。家斉在世という前提に立って書かれた、23日間の過去の歴史的記述の修正は、今後、行われなければならないだろう。

井関隆子 ウィキペディア 2018年現在

井関隆子 ウィキペディア 2018年現在
2018.05.12 Saturday

井関 隆子(いせき たかこ、1785年(天明5年)6月21日 – 1844年(天保15年)11月1日)は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した歌人、日記作者、物語作者。
目次
• 1来歴
• 2著書
• 3書写本
• 4脚注
• 5参考文献
来歴[編集]
幕臣、大番組・庄田安僚の四女として、四谷表大番町(現在の新宿区大京町26の辺)に生れる。20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、23歳の頃に離婚。30歳の頃、納戸組頭・井関親興と再婚、2人の間に子は無かった。井関家の屋敷は、九段坂下(現在の千代田区九段1-5の辺)にあった。文政9年(1826年)に夫が没し、以後は、本を読み、歌を詠じ、日記や物語を書いて悠々自適の生涯を送ったという[1]。
著書[編集]
• 『井関隆子日記』全12冊
著者の自筆本が、昭和女子大学図書館に所蔵されている。天保11年1月1日から同15年10月11日までの898日間の日記。その日の天候、地震、四季折々の自然の変化、その日その日の出来事、様々な見聞、人物・社会・政治・学問・文学などに対する批評などが記されている。特に、子の親経や孫の親賢から伝えられる、江戸城内の様子が詳細に書き留められている。江戸時代の日記文学としても価値があり、また、当時の歴史的資料としても価値がある[1]。
• 『さくら雄が物かたり』 6巻1冊
著者の自筆本。東北大学附属図書館・狩野文庫蔵。内容は、平安朝の『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』などの構想を借りて、現実の仏教界を厳しく批判したものと解釈される[2]。
• 『神代のいましめ』写本、墨付28葉
昭和女子大学図書館所蔵の、鈴木重嶺の「翠園叢書」の、巻26の中に収録されている。内容は、平安朝の散逸物語『隠れ蓑』などに構想を得て創られた物語で、首席老中批判を通して、人間の表裏の二面性を描いている[1]。
• 『いなみ野』吉海直人氏所蔵の写本『物かたり合』墨付54葉の内、5葉
播磨の国、印南野を舞台にした物語である。隆子は、すすき・尾花が大好きで、その思いを作品化したものと思われる[3]。
• 『井関隆子長短歌』
『秋野の花』に短歌が収録されている。その外、『井関隆子日記』にも800首ほどの、長歌・短歌が収録されてい
• 『しのびね』写本、1冊、静嘉堂文庫蔵。擬古物語。井関隆子が、頭注、傍注を追加したもの。書写も井関隆子と推測される。
• 深沢秋男「井関隆子校注『しのびね』(静嘉堂文庫蔵)考」(『近世初期文芸』34号)。
書写本[編集]
1. 桑原やよ子著『宇津保物語考』 写本1冊、静嘉堂文庫蔵。
2. 蔵田茂樹著『恵美草』 写本1冊、国立国会図書館蔵。
3. 吉田兼好著『徒然草』 巻子本1巻、箱に「雅文 源隆子」とあり、『徒然草』第15段、第189段の書写[4]。
脚注[編集]
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1. ^ a b c 深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
2. ^ 新田孝子「井関隆子の文芸―館蔵『さくら雄が物かたり』の著者」(『図書館学研究報告』東北大学、13号、1980年12月)
3. ^ 吉海直人「新出資料『物かたり合』の翻刻と解題―井関隆子周辺の創作活動―」(『同志社女子大学 日本語日本文学』8号、1996年10月)
4. ^ 吉海直人「〈新出資料〉井関隆子自筆『雅文』の影印と解題と紹介」(『文学研究』91号、2003年4月)
参考文献[編集]
• 『井関隆子日記』全3巻、深沢秋男校注、勉誠社、1978年11月 – 1981年6月。
• ドナルド・キーン「井関隆子日記 ①・②・③(百代の過客―日記にみる日本人―)」朝日新聞、1984年4月4日 – 6日
• 深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
• 深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』文春新書、2007年11月
• 真下英信『古代ギリシア史論拾遺』私家版、2008年2月
• 真下英信「『井関隆子日記』に見られる地震の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』26号、2009年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』29号、2012年3月
• 真下英信「音で読む『井関隆子日記』:天気の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』30号、2013年3月
• 真下英信「音で読む『井関隆子日記』:鳥」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』31号、2014年3月
• 真下英信「音で読む『井関隆子日記』:物売り」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』32号、2015年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』が綴られた頃の江戸の天候について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』天保15年4月29日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』:月の初日と末日の記述について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』天保11年7月3日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月

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●46年前、桜山文庫の中に、12冊の写本を見つけた。「天保日記」という。その記者は「井筒隆」とも「井筒隆女」とも言われていた。その後、ネット社会となり、ネット上に「ウィキペディア」という「百科事典」が登場し、このように記載されるようになった。私の目的は、達成された。 2018年5月、深沢秋男