池田茂光氏『井関隆子日記』ちょっと覗き見 その3

池田茂光氏『井関隆子日記』ちょっと覗き見 その3

  • 2020.01.22 Wednesday
  • 06:37
池田茂光

【旗本婦人「井関隆子日記」】
・・・ちょっと覗き見・・・その3

井関隆子の屋敷は350坪くらいで、田安御門と清水御門に近く、所謂武家屋敷が軒を連ねている。現在の千代田区九段1丁目辺りである。屋敷は庭を広く取り、様々な草花を配している。隆子はその敷地に離れを設けて、そこに住んでいた。花を愛し、歌を愛し、酒を愛した。

1月19日
昨日から曇り空だったけれど、昼下がりになって雪が降って来た。去年から雪を見られなかったのでちょっと寂しい気がしていた。やはり雪は風情があって素晴らしい。
近くにある義姉(亡夫の姉)の屋敷を訪ね、私と同様に酒をたしなむ義姉と早速雪見酒としゃれてみました。庭の木や草にも雪が積もり、見事な景色です。この風情に感じて一首詠んでみました。
新玉の春をおぼゆる宿なれば
花と見えてぞ雪は降るらむ
居心地がよくつい飲み過ごしました。帰ろうとする頃になって、煎茶の用意ができたと言うので、なお長居になります。珍しい果物が設えられ、茶で木の芽なども味わい、心地よい香りで酔い心地も更に癒されます。

1月20日
今朝は良く晴れました。昨日の雪で木や草は花が咲いたようです。この素晴らしさは例えようもありません。日が差し始めれば、近頃やっと春めいたた陽光で、枝の雪がはらはらと散り、花のように美しい。
しかし古今和歌集にも「春たてば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く」とあるのに、この春は未だに鶯は聞こえません。今ここで鳴いてくれたら、どんなにか素晴らしい事でしょう。

1月23日
日が暮れて、6時過ぎたころ鳴神(なるかみ。雷の事)の音が聞こえた。3日の立春に豆まきをした残りの豆を気休めにみんなで食べました。
この頃お上(将軍家慶)では、ことさらに精進潔斎のご様子と聞こえます。何があったのだろうと感じていたところへ、今日になってその訳が公にされた。御台所様がお亡くなりになりました。家普請ばかりでなく物音をたてることさえ禁じられました。もちろん全ての遊興なども慎みます。位の上下に係わらず、お仕えする全ての者がお城に上がってご様子を窺う毎日です。

1月26日
この頃は牛嶋あたり(隅田川)が梅の盛りだと聞いています。しかし将軍家の御不幸が聞こえているので、梅をみて楽しむ者もいないだろう。

1月28日
上様をお慰めしようと高貴な方々から、果物や珍しい品々の御届け物が列をなして後を絶ちません。これらは処理しきれずに、上様のお側近くにお仕えする者たちへお下げ渡しされました。我が家にもたくさんいただきました。

1月29日
1月も今日明日だけと言う今になって、ふと鶯を聞くことができました。例えようもなく嬉しい事です。

1月晦日
晦日だから、いつもの様に家の内外を掃き清めます。
ところで、昔から法師と呼ばれる人たちの不埒な行いはありましたが、そのため今では取り締まりがたいそう厳しくなりました。しかしそれでも法師による、道を外れた男女の行いは多いようです。あいかわらず悪行は繰り返されています。近年でも多くの法師が処罰されたり、死罪になった者もいます。

2月1日
家普請の禁止は昨日までに終わりました。歌舞音曲を慎むのも8日までと聞いています。
数年来冷夏が続き、秋の長雨もあり、穀物が実りません。そのため物価が大幅に上がり、世間が大変騒々しくなっています。飢えた人の行倒れも見ますし、庶民は生活苦に喘いでいます。幕府はお蔵米を放出して民を救おうとしています。

2月2日
風の強い日が続き、火の取り扱いに厳重注意の申し渡しがありました。

2月5日
今朝起きたら一面の雪で驚きました。ご葬儀は明日だと聞いているので、この雪が大変気掛かりです。
それにしても、ご葬儀、ご葬送は全て白妙に御飾りされると思うので、見事なものになるでしょう。

次回は2月初旬に投稿の予定です。お楽しみいただければ幸いです。ご感想など戴ければありがたいのですが・・・
なおこの文章は原文を大幅に要約したものであることをご承知おきください。

酒場で歴史を語る会

酒場で歴史を語る会

  • 2020.01.22 Wednesday
  • 05:57
酒場で歴史を語る会

井関隆子と新見正路の家

2009/10/07 22:27
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『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』 の著者 深沢秋男 先生のブログ「fuakiの日記」に
2009-09-11
「久し振りの九段坂」があり、写真が掲載されているので、今日も勝手に引用させていただくと、
●今日は、全集の編集会議があり、久し振りに九段坂へ行った。会議は3時からという事ゆえ、その前に、九段坂下の変貌振りを確認した。幕末の旗本の主婦、井関隆子が、60歳でこの世を去ってから165年が過ぎた。その彼女の屋敷跡を確認したわけである。
●変りました。私が、井関家の伝記調査をしてからでも、30年以上が経過している。その様子を、シカとカメラに収めて来た。
九段下の交差点の右下の角の「りそな銀行」の所に井関隆子の住んでいた屋敷があった。
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『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』 が紹介する、日記を書いた井関隆子
旗本の庄田家に生まれ、結婚後、離婚して実家に戻っていた隆子。

その再婚相手、井関親興は、道を挟んだ向かいの旗本、新見正勝の親戚、新見正峰の三男から井関家に養子に入っていたので、親興が亡くなったあとも、隆子は度々向かいの新見の家に出かけて、当主の新見正路(幕府側用人役職としても学者としても有能で膨大な書籍を持っていた。その蔵書印が下の物)の蔵書を見せて貰い意見交換したようである。
その新見正路家は、安政大地震で壊滅したものか、転居したものか、地震後に発行された、安政3年1856年の切絵図では、既にこの年2月に設置が決まった塙保己一の「蕃書調所」の表記になっている。
現在の九段会館の駐車場と会館の場所である。深沢先生の写真付近を地図で示しておくと 下のようになる。
ここで、私に疑問がわいてきた。
井関親興やその子供の井関親経、孫の井関親賢、そして新見正路は、どこを通って、江戸城の表、中奥の、将軍側用人、側衆、広敷用人といった仕事場へ通勤していたのであろうか?
今の武道館の入り口になっている、田安門からであろうか。可能性の高い清水門であろうか。間違っても不浄門とされた平川門ではないだろう。しかし、その先は、北詰門から天守台を廻って行ったのか?その先を知りたい、調べたいと思っている。
なお、新見正勝・正路の家は、旗本で神奈川戸塚の品濃村(現在の川上町・前田町・品濃町)領主であったので、横浜市戸塚区品濃町の品濃谷宿公園前に碑がある。
この新見正路の養子が、三浦家からはいった新見正興で、のちに外国奉行となり神奈川奉行を兼ね、日米修好通商条約批准交換のアメリカ派遣正使に任命され、副使村垣範正、目付小栗忠順と、太平洋を横断、パナマ地峡を汽車で抜け、海路ワシントンに赴き批准交換を行う。大西洋・インド洋を航海して帰国して、側衆となるが、禁門の変ののち反動化した幕閣とあわず辞職したのであるが・・・・
私が子供の頃、勝、福沢らの咸臨丸を従えて行った正使の新見正興ら一行の記念写真をみて、姿勢の良い美男子の格好いい若者だなあと思った記憶がある。幕末に写真機が登場して、坂本龍馬はじめ多くの肖像写真が残るが、格好いいお兄さんは、新見正興だけという印象であった。この人を正使に選んだ理由の一端かも知れないと思ったり、苗字が「新見」であるのも、初めて海外へ行く幕府役人の名前にピッタリだと、子供心に思っていた。
姓は、はじめ「ニイミ」。のちに、徳川家康の命により、「シンミ」と呼ぶことになったという。

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●私は、井関隆子の屋敷を調査していて、江戸城には、入れる所には、何回も行って、事実を確認した。『井関隆子日記』の原稿の素読みも、江戸城の近くでしたこともあった。少しでも、現場の雰囲気を身に付けたかったのである。

●上梅林門、下梅林門、の実態も、現場に行って初めて納得した。太田道灌が植えたという梅は、今も、少しではあるが現存する。古典の本文の定着は、机の上だけでは、十分ではない。そのように、私は思っている。
2020年1月22日

井関隆子の九段下の屋敷

井関隆子の九段下の屋敷

  • 2020.01.21 Tuesday

井関隆子の九段坂下の屋敷

●井関隆子の嫁ぎ先の屋敷は、江戸城に近い九段坂下にあった。現在のりそな銀行九段支店の場所である。屋敷はおよそ500坪位だったと思われる。
北側は九段坂上から俎板橋への広い通りに面し、こちらに玄関があったものと推測される。西側は飯田町から清水門への通りに面していて、こちらの面の方が広かったようである。この西側の通りの向かい側には、井関家と親戚関係にある、新見正路の屋敷があった。現在の九段会館の場所である。東隣には榊原隠岐守の屋敷があり、南隣には能勢河内守の屋敷があった。
井関家の屋敷が、江戸城の近くにあるのは、井関家は代々、初めは小納戸衆という、将軍の身の回りの世話をする掛りであり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(将軍が政治を行う所)と大奥(将軍が私生活をする所)との接点である御広敷(おひろしき)の責任者になる、という家系であったからであろうと思われる。
隆子は、この江戸の中心の、文字通り将軍家のお膝元で、当時の江戸の様々な動きを見ていたのである。
2006/12/17(SUN) 12:23

隆子の実家・庄田家の新宿の屋敷

●隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本庄田安信の本家からの分家である。本家は築地の東本願寺の近くに屋敷があったが、第4代・安勝の時、長男・安利に2600石、次男・安議に400石を分知して、これを分家とした。分家・庄田家の屋敷は『庄田家系譜』の延宝5年(1677)の条に「於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」とあり、場所は現在の新宿区大京町26番地辺で、幕末まで存続していたと思われる。現在の慶応大学病院の辺りと推測される。
●余談であるが、赤穂事件で、元禄16年2月4日、幕府は、大石良雄ら46名に対して切腹を命じるが、その時の大目付・庄田下総守は、本家4代・安利である。
2006/12/17(SUN) 12:17

■この、りそな銀行の所が、井関家の屋敷だった。

■この高いビルの所が、水野監物の屋敷だった。
35年前、私は、このビルの屋上から、かつて井関家の屋敷があった所を写真撮影した。

江戸城本丸全焼

江戸城本丸全焼

  • 2020.01.19 Sunday

●ネット上で、このようなサイトに出会った。2007年11月出した、私の『旗本夫人・・・』も参考にしているようだ。情報の普及は、『井関隆子の研究』2004年よりも、文春新書のような、本の方が、効果がある。この回答者は、出典を表示していないが、私の本に拠ったものと思われる。

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天保年間の江戸城本丸全焼について
• 2011/04/06 08:55
• 質問No.6648035
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desster
お礼率 0% (0/374)

江戸城本丸は何回か火災に会っていますが、その中で、
天保年間の火災の日付が二通りあるようです。
(1)1844年6月25日(天保15年5月10日)
(2)1842年
広大院(ウィキペディア)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2

天保12年(1842年)に12代将軍・徳川家慶付き上臈・姉小路が食する天ぷら調理が原因で火事を起こし、本丸を全焼させてしまう。この火事で広大院は御末の奥女中におぶわれて吹上御殿に避難した。この火事は奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。

—————–

質問1. ネット上では、1842年、1844年とも数多く見られます。それぞれ、火事があったのでしょうか。それとも、1842年は1844年の間違いでしょうか。

質問2. もし、それぞれ火事があったのでしたら、1842年の日付を教えてください。

よろしくお願いします。回答は一部でもかまいません。
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• 2011/04/06 16:28
• 回答No.2
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bungetsu
ベストアンサー率 51% (834/1628)
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>(1)1844年6月25日(天保15年5月10日)、(2)1842年
まず回答から先に述べますと、天保12年(1842?1841)には火事は起きてはいません。
Wikiは、必ずしも専門家が書いている訳ではありませんので、間違いや勘違いがありますので、「参考程度」に読んでください。

>>天保12年(1842年)に12代将軍・徳川家慶付き上臈・姉小路が食する天ぷら調理が原因で火事を起こし、本丸を全焼させてしまう。この火事で広大院は御末の奥女中におぶわれて吹上御殿に避難した。この火事は奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。

この広大院の避難については、「井関隆子日記」に、天保15年5月10日(新暦・6月25日)に起こった江戸城炎上がかなり詳細に記されています。
「井関隆子日記」の著者はあくまで旗本の老後家(ろう ごけ)であったが、同居していた義理の子息や孫が御城大奥詰の上級役人であり、またこの老後家とは大変関係が良好であり、城中の様子を詳しく伝えていたため、意外に知られていないような城中(特に大奥関係)の様子を正確に残してある貴重な資料でもある。

当時を描いた幕府の正史「続徳川実紀」ではわずか数行に満たない文章で書きとめられているにすぎない天保の炎上は、実はかなり深刻なものであった。

要約すると、

火災は、大雨の降る早朝に起こっている。このところ長雨続きで、誰も火災の心配などしていなかったのが運のつきで、夏の短夜の事でもあり、ぐっすりと寝静まっている大奥で火の手が上がった。
気づいた端女が大声を上げたが、大雨の音にかき消され、気付く者が少ない。

ようやく気付いた女中衆はパニック状態に陥り、ただただ泣き騒ぐのみで右往左往するばかり。大奥には、避難経路などの取り決めがなかった。

大奥御広敷詰の役人(隆子の子息らもいる)がようやく気付き、女中衆に詳細を訪ねるが、誰も耳を貸さずに泣き騒ぐのみ。
出入り口の門なども、番する者が逃げてしまっているため開ける事が出来ず、やむなく役人が木槌などで壊し、そこに集まっていた女中達は、その破れ目から辛くも難を逃れた。

長雨が続いていたにも拘らず、本丸御殿の火の回りは非常に速かった。 火難を逃れた女中達や役人は、大雨の中を泥に足を取られながら吹上の庭へと非難した。

隆子の子息井関親経(いせき ちかつね)は、大御台所広大院が担当であったため、逃げ惑う女中衆から広大院の安否を聞き出そうとするが、誰も耳を貸そうとはしない。
大奥詰の役人といっても、大奥の中まで入る事はほとんどないため、大奥内がどうなっているか分からず、ようやく顔見知りの表使女中を捉まえ、広大院の居室へと案内させた。大騒ぎの渦中ではあるが、大納戸から乗り物(上流の使用する駕籠は「乗り物」と呼ぶ)を出して、女中衆に担がせて退避した。
将軍家慶の養女精姫君は、女中が背負って脱出したとある。

火が回るスピードが、大雨の中とは思えないほど速く、しかも大奥から見れば出口にあたる一の側の局付近から出火したため、脱出できなかった女中衆が大勢亡くなった。

翌日になっても火の勢いは衰えなかった。 以前、西の丸が炎上した折には、多くの町火消しを動員して消火に当たったそうだが、盗難が非常に多かったため、今回は自然に消えるのを待つという方針を、陣頭指揮にあたっていた老中・土井利位が打ち出していたためである。

ところが、火勢が衰えない上に風まで出てきたため、西の丸御殿までが危うくなってきたというので、富士見櫓や蓮池櫓などを火消しが打ち壊してようやく難を逃れた。

こうして、本丸御殿は残らず全焼。 書類、調度、宝物はもちろん、蔵の金銀まで焼け、特に銀は溶けて流れてしまっていた。
奥女中達の亡骸は親類縁者に引き渡すことになったが、判別不可能になるまで焼けてしまったものが多く、上﨟の遺体として親族に渡したのが端女であったという事もあったという。

火元は、広大院付き御年寄り・梅谷の管理下にあった端女の不始末という事になったらしい。水で消した炭を壺に入れて炭置きに置いたが、その炭の燠が燃え始めて周囲の炭俵に燃え移ったとされた。
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• 2011/04/06 12:21
• 回答No.1

jgk99
ベストアンサー率 40% (16/40)
5月10日の火災は、1844年6月25日の火災ですね。ただし、天保15年には改元がありましたから、普通は弘化元年(改元は12月2日)の火災と書かれますね。
さて、1842年の火災となると天保13年でしょうが、広台院が背負われて吹上に避難したとなると本丸炎上となります。
となれば、当然、年表に載る火災に該当するでしょうが、私の資料の中には見当たりませんでした。

アマゾン〔深沢秋男〕 27件

アマゾン 〔深沢秋男〕 27件

  • 2020.01.15 Wednesday

●今日、アマゾンを検索したら、27件出ていた。全て書籍。

●価格は、まあまあだったが、次のものが、注意される。

◎旗本夫人・・・  1円
◎仮名草子集成 10巻・11巻・13巻・47巻  1000円
◎井関隆子日記 上巻  35900円
◎井関隆子日記 中巻  14850円
◎井関隆子日記 下巻  26900円

●文春新書が、1円は、よくある事。仮名草子集成の、この巻が、どうして、1000円なのか。『井関隆子日記』が、3巻で、77650円は高い。新刊時の定価は、13500円である。〔日本の古本屋〕でも、3冊で2万~3万円であつたが、古書価が上昇しているのだろうか。その内、出版界で復刊の声が出てくるかも知れない。楽しみである。

老境

老境

  • 2020.01.14 Tuesday
  • 06:25

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大方人のなすまにまにまかせつゝ、明ればともしからず物くひ、暮れば酒のみて熟寐す。かゝればなすわざもなくて、鳥虫のつらにて世をなむ尽すべき。
然れども折にふれ時に付、いさゝかの心やりは、おのづからなむある。
まづ、春は鶯の声をきゝ、庭艸のもゆるを見、夏は涼しき方により、心のまゝにおきふしつゝ、夕月の光りをまちいで、秋は草むらの虫をきゝ、白露に打なびく尾花をめで、冬は厚肥たる衣ども打かさね、火により居て雪を見る。
昔折にふれ、気色あるわたりへゆき、はた人にも交りなどしつるに、さては興ある事もいさゝかはうちまじれど、はた心づかひせられて、中々に味気なきこと共も多かりしかば、今はをさをさいづくへもゆかず。
いつともわかぬ友とては、はかなき文どもを明暮の慰めにて、あるものともなくて世を経れば、いとなむ心やすき。

世のなかは苦しきものをかぎろひのあるにもあらであるが楽しさ

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●これは、『井関隆子日記』、天保13年2月20日の条。隆子は、この時、58歳である。私は、今、84歳である。酒こそ、隆子のように飲めないが、心境は同様である。

〔江戸連〕の思い出

〔江戸連〕の思い出

  • 2019.12.07 Saturday

江戸連の思い出

2011年8月20日(土)

葉月講 旗本夫人が見た江戸のたそがれ

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◆未知を知ることは楽しい。それが一級品の資料や日記に裏打ちされているものなら尚更のことだ。20日に開催した工戸連葉月講で、講師・深沢秋男氏(昭和女子大名誉教授)が語ってくれた「井関隆子日記」はまさにそう。講演会場
となった日本橋伊場仙7階ホールは「旗本夫人が見た江戸のたそがれ」というタイトルに魅せられたのか、講演行事でば今年最高の入りの4フ人が参加した。その中で深沢氏が語った要旨は次の通り。

◆1、『井関隆子日記』は幕末に生きた、バツイチで酒好きで古典に精通した豊
かな教養を持った旗本夫人が残した、天保年間5年間の日記である。近世仮名草子を専門とする深沢先生にとっては、全くの専門外であり、不安を抱えたままの研究だったが、いつか隆子という人物に惹かれるようになしり、この魅力的な女性を世に知らしめたいと決意するようなったという。

◆2、隆子という女性は、井関家に嫁いだ後も、旗本の主婦として夫に慕われ、
子や孫からも尊敬され、蓄積した教養と天性の批評眼で、様々な対象に対して的
確な批評・感想・意見を書き残した。「目の前にしている様々な出来事を書き留
めていると・・・百年も経過すると・・・貴重な記録にもなる」という隆子の歴史認識の確かさには驚かされる。また、天下祭り・四季遊び・見世物・地震などの市井や自然など、あらゆることに旺盛な好奇心を示し、貴重な記録として残してくれた。

◆3、井関家は代々将軍や大奥に仕える仕事柄であったため、『徳川実紀』など
の公式見解とは異なった真実の情報(将軍の死亡日ほか)が『日記』に書かれて
いるのも興味深い。子や孫は尊敬する隆子に、折にふれて城内・大奥の情報を密
かに伝えていたのである。天保15年の江戸城本丸全焼の様子なども、現場に居合わせた者からの情報として臨場感あふれた記録になっている。

◆4、『日記』の文章・文字、そして絵を見ても隆子の教養の深さが半端でないことを物語っており、10年以上前からいくつかの大学入試で出題されるなど『日記』記』の評価が高まっている。

◆講演要旨はこんなところだ。講演の中で印象的だったのは、深沢氏が語った
「研究者に必要なことは、何かを発見すること、そして歴史を正しく修正すること」の一言。井関日記からは知られていない江戸近世末期の世相・流行が読み取れると語った。またその日記が最近大学入試で出題されていると語った時、深沢氏のうれしそうな顔が大変印象的たった。本来研究の仮名草子から十年間も寄り道して井関曰記に没頭してきた成果が評価された結果の満面の笑みなのだろう。(圓山稔)

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●大学を定年になって、間もない頃に、〔江戸連〕の圓山稔氏から依頼されて、講演した。その様子を、今日、ネットで見つけた。

●ここに掲げた、圓山氏の記録を読むと、私が、『井関隆子日記』が評価されてきて、喜んでいる様子を伝えてくれていて、とても嬉しい。8年間も、仮名草子研究を放り出して、取り組んだ作品が、世に受け入れられなければ、自分の研究が否定されたことになる。

●しかし、新しい道を拓く、という事は簡単ではない。今、当時を振り返って思うことは、まず、勉誠社の社長・池嶋洋次氏の批評眼と決断である。最初依頼された出版社が企画を中止して、私の3000枚の原稿は行き場を失った。
長年お世話になっていた、勉誠社の池嶋氏に出版をお願いした。池嶋氏は、御自分で、原稿を読んで下さり、出版を引き受けくれたのである。
しかも「これは、日記文学として出しましょう」と言って下さったのである。その時の感謝、感激の気持ちは、今も決して忘れていない。

●池嶋氏は、その言を実行して下さった。しかし、世間は、甘くなかった。「これは歴史史料ですね」とか「これは日記文学ではない、岩波の古典文学大辞典をみても解る」とか、批評力のない御仁は、言い放った。そのような時間を経て、大学入試センター試験や、明大、京大の入試にも採用され、研究面でも、具眼の士によって、評価されるようになったのである。

●講演の時の、私の喜びを、圓山稔氏は、見逃さずに記録して下さった。


井関隆子が見た江戸城

井関隆子が見た江戸城

  • 2019.12.01 Sunday
井関隆子が見た江戸城

旗本夫人 井関隆子がみた幕末の江戸城

深沢秋男

(『歴史読本』 2004年4月号)

■井関家の人々■

井関隆子は幕末に旗本の子として生まれ、旗本に嫁いだ生粋の旗本夫人である。
嫁ぎ先の井関家は九段坂下(今の、りそな銀行九段支店)にあった。屋敷は五百坪位かと推測されるが、北側は九段坂上から俎板橋への広い通りに面し、西側は飯田町から清水門への通りに面している。西側の通りの向かい側には、井関家と親戚関係にある、新見伊賀守正路の屋敷(今の九段会館)があり、東隣には榊原隠岐守の屋敷、南隣には能勢河内守の屋敷があった。
『井関隆子日記』は天保十一年(一八四〇)から十五年にわたる詳細な記録であり、この時、隆子は五十五歳、夫の親興は十五年前に没しているが、子の親経、孫の親賢はいずれも徳川家に仕えていた。井閉家の屋敷が江戸城の近くにあるのは、代々、初めは小納戸衆という将軍の身の回りの世話をずる掛りであり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(政治を行う所)と大奥(将軍が私生活をする所)との接点である御広敷の責任者になる、という家系であったからであろう。
隆子が日記を記していた頃、子の親経は、御広敷御用人を勤め、十一代将軍家斉の正室である広大院(日記では、松の殿と記されている)の掛りをしていた。孫の親賢は十二代将軍家慶の掛りとなっている。
隆子の日記には、将軍家の動静や政治に関する事がかなり詳しく記されているが、その情報は極めて正確で、しかも迅速に伝えられている。

■家斉はいつ死んだか■

隆子は非常に文才のある女性で、親経の母、親賢の祖母としで、家中から尊敬されていたように思われる。そんな関係から、親経も親賢も、その日その日の、江戸城内での出来事をしい。それは口頭で伝える事もあったし、内容によっては書写して渡していたものと推測当れる。
江戸城内を中心とする、徳川家関係の記述はかなり多い。徳川宗家をはじめ、尾張・紀伊・水戸の御三家、清水・田安・一橋の御三卿に関する事が記されている。
一例として、徳川家主要一人物の没日に関する記述を紹介したい。この五年間に他界した主要人物の没日を一覧表にすると別表の通りである。【ここでは一覧表は省略した】政治の最高権力者であった、十一代将軍家斉について少し具体的に述べよう。
家斉は現在の歴史上の通説では、天保十一年閏一月晦日に没したと言われている。これは、徳川家の正史である、『徳川幕府家譜』や『徳川実紀』に拠っているためである。しかし、井関隆子は、「七日の夕日のくだち、光りかくれさせ給へりとほの聞」と記している。家斉は、実は晦日の二十三日も前の七日の夕方に没していたのである。しかし、幕府はこの事を秘して、『柳営日次記』は七日に「殿中無別状」と記している。さらに、十三日には、家斉の病気の祈祷料として銀五百枚を上野寛永寺に、十九日には芝増上寺に銀百枚をそれぞれ遣わしている。これらは、葬儀の準備金であったものと推測される。実は、家斉の墓は、最初は芝増上寺の予定であったが、御台所の願いによって寛永寺に急遽変更されたと隆子は記している。五百枚と百枚の差はこのあたりに関係しているようである。
この間に、御三家・御三卿の要人は江戸に集まり、家慶をはじめ幕閣たちは、家斉亡き後の政治態勢を整え、しかる後に、その死を公表したというのが歴史上の事実であり、真実に近いものであったように思われる。
もう一つ、家斉他界に関連することを紹介すると、その後の五月十五日に西丸奥医師筆頭の吉田成方院が処罰されているが、その理由について公的記録は触れていない。しかし、隆子は、吉田成方院は家斉臨終の折、その変化に気付かず、周囲の人から注意されて驚くという失態を演じてしまった。それが処罰理由であると記している。
没日一覧を見てわかるように、徳川家の公的記録の日は、実際に没した日ではなく、それを公表した日と解すれば納得がゆくものとなる。従来の歴史書は、この二十三日間は、家斉生存を前提として記述されている。隆子の伝える、歴史的事実に基づいて、是非とも再検討して欲しい。

■幕府への論評■

隆子は、この時期の幕府の政治・政策に関しても極めて積極的に記している。印旛沼干拓工事、上知令、三方所替、一連の天保の改革に関する事、日光社参等々に関して記し、これらに厳しい論評・批判をも加えているが、それらは極めて的確なものとなっている。隆子が得る情報は即時的で正確なものであったらしい。情報源としては、前述のように、親経・親賢父子からもたらされていたわけであるが、その外に、徒頭・目付・駿府奉行・日光奉行・浦賀奉行等の役職を勤めた戸田氏栄は親経の妻の兄であり、時折、井関家にも立ち寄っている。この戸田からも多くの情報を得ている事が日記の記述からもわかる。
隆子は『浜松中納言物語』の欠落した部分を補って書写した本を、『万葉集略解』の書写本とともに、広大院に献上している。これは親経が広敷用人で広大院の掛りであったからできたことである。そんな関係からか、将軍家に、諸大名から献上される各地の名産品は、毎日のように井関家にも下げ渡されている。隆子は大の酒好きで、親経が持ち帰る。それらの山海の珍味を頂きながら、酒を飲み、庭の草花や月見をして楽しんでいる。親経はあまり酒好きではないが、孫の親賢は大好きで、折々隆子に付き合っている。そんな時の話題も、おそらくは城中での出来事が多かったらしい。
天保十一年六月八日にはこんな事を記している。将軍家慶は、中山の法華経寺の祖師を信用して、時々城中へ呼び、加持祈祷をさせて、使いなど毎日絶えることが無いほどである。そんな状況を大奥へ勤める役人も心得て、振る舞う者もいた。井上某などは、本来信仰心など無いのに、勤務中に瑕を見つけては法華経を書写していた。その姿が大奥で噂になり、やがて、将軍の耳に入り、目論見通り、異例の出世をしたと言う。
また、尾張家の大奥の初瀬と延命院の僧侶の密会事件なども記録していて、当時の仏教に対しては厳しい批判を加えている。これは隆子か国学者としての立場も関連していると思われるが、かなり激烈ではある。
隆子は、寛政の改革を断行した松平定信は高く評価しているが、これに反して、天保の改革の推進者。水野忠邦には厳しい批判を加えている。定信と違って忠邦は、何かにつけて賄賂を要求するような人柄であり、この点が隆子には気に入らなかったようである。
井関隆子は日記の外に創作も残している。『神代のいましめ』は、政治の中枢にある某の少将が主人公であるが、このモデルは水野忠邦ではないかと推測される。この作品は、人間社会の表裏の二面性を取り上げており、ここには、天保期の社会の腐敗・頽廃ぶりが描かれ、そこに生きる人々が批判の対象になっているが、最終的に向けられる批判の対象は某の少将である。少将への批判は、色好みで、負けじ魂のみ募り、それでいて文才は無い、という個人的な側面と、税金の増額からくる庶民生活の窮乏、公の人事の不公平、少ない禄に対する旗本たちの不平不満など、政治家としての公的な側面の両面からなされている。この作品は、現在、政権の中心にあり、天保の改革を推し進めている、首席老中・水野忠邦に対する批判を作品化したものという事ができる。
このように、井関隆子は、極めて批評精神の強い女性であった。その彼女が現実の社会を厳しく論評しているのである。     (了)

ふかさわ・あきお/一九三五年生まれ/昭和女子大学教授

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●私は、恩師・重友毅先生の教えを守って、啓蒙的な雑誌への執筆は、一切しない方針であった。この『歴史読本』からも、以前、執筆依頼があったけれど、遠回しに断っていた。どうも、お金になる原稿は書きたくなかった。しかし、この『歴史読本』編集部からの依頼は、井関隆子の宣伝にもなるし、大学の定年も近いことだし、引き受けた。

●この編集部の安田清人氏が、その後、文春新書への執筆を進めて下さった。これも定年後の事ゆえ、快く引き受けたのである。

●この文春新書は、第6刷まて発行され、印税もたくさん頂いた。私は、単行本を66冊出したが、印税は、お金では貰っていない。全て現物(本)で頂き、関係者へ寄贈してきた。

2019年12月1日


江戸城大奥と井関隆子

江戸城大奥と井関隆子

  • 2019.11.30 Saturday
江戸城大奥と井関隆子

清水昇/川口素生 著『大奥 女たちの暮らしと権力闘争』

2007年12月22日、ブルボンクリエイション発行
A5版、284頁、定価1900円+税

●この本の中に、井関隆子の項目がある。

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井関隆子
天明5年(1785)~天保j1S年(1844)。御広敷用人・井関親経の母、女流文
人。幕臣・庄田安僚の娘で、同じく幕臣・井関親興の後妻となる。井関家は、将軍の身の回りの世話をする御小納戸、大奥御広敷の責任者である御広敷用人の職に就任する家柄であった。女流文人として隆子は考証学者・屋代弘賢に師事した才媛で、『神代のいましめ』などの著作を残す。一方、幕臣の主婦としての隆子は、天保11年(1840)から病没する同15年(1844)までのあいだの詳細な日
記『井関隆子日記』(昭和女子大学所蔵)を記している。親経が広大院(徳川家斉の正室)付の御広敷用人であった関係で、日記には将車や妻妾、子女の実際の没年月日などの費重な情報が満載されている。なお、隆子自身は大奥に勤務した経験はないが、『浜松中納言日記』などを書写して広大院に献上したこともあっ
た。また、諸大名から大奥へ献上された品々は連日、井関家に下げ渡されている。女中同様に大奥の内情を知るポジションにいたわけである。隆子は同15年11月1日に病没した。行年は60である。

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懐かしい読者の感想

  • 2019.11.29 Friday
マッタリ風景

真実は

2008年06月05日 | 大河ドラマ

近所の遊歩道で撮影。
後ボケ部分が、いささか目立ちすぎたようです。

今日は、一日研修で建物の中に缶詰状態でした。
で、夕方研修が終わって外に出たら雨模様、確か朝は曇っていたはずなのだけど、途中の天候が分からずに過ごしてしまいました。

今年の大河ドラマの影響で、江戸時代に付いて書かれた本を読み漁っています。
その江戸時代関係で、先日図書館で借りた本がとても面白かったです。
その本は、深沢秋男/著「旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記 」と言う本です。

井関隆子と言う女性は幕末を生きた人です。
旗本の姫様として生まれ育ち、一度嫁いで離婚、旗本の井関弥右衛門へ後妻として再婚と言う人生を送りました。
彼女が、晩年に著した「井関隆子日記」が上記の本の底本となっています。
子供(義理とはなりますが)で井関家当主親経が広敷用人となり、十一代将軍家斉の正妻だった広大院の掛となったため、当時の正式記録とは異なった将軍家の出来事が書かれていたりします。
余談ですが広大院は島津家から家斉の御台所として入輿した女性で、篤姫にとっては大叔母に当たる人だそうです。

小説、天璋院篤姫の中でも、夫の将軍家定の実際の亡くなった日と、幕府から公にされた日が異なっている様に書かれています。
家斉が亡くなった時も、井関隆子日記によれば異なっていたことが書かれています。
まあ、天下の将軍が薨去した場合、政治的な対応が必要なので、必然的にそうなってしまうのでしょうね。
そんな歴史的な証言も面白いですが、何よりも彼女のエスプリ=知性を感じさせる文書が素晴らしいと感じました。(ただし、原文はとても私のスキルでは読めません、著者の深沢氏の解釈を通じてではありますが)

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●10年ひと昔前のブログに出会った。思い出しても、懐かしい。