井関隆子  いせき たかこ

井関隆子 いせき たかこ

  • 2019.10.17 Thursday

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

井関 隆子(いせき たかこ、1785年(天明5年)6月21日 – 1844年(天保15年)11月1日)は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した女流歌人、日記作者、物語作者。

目次
• 1来歴
• 2著書
• 3書写本
• 4脚注
• 5参考文献

来歴

幕臣、大番組・庄田安僚の四女として、四谷表大番町(現在の新宿区大京町26の辺)に生れる。20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、23歳の頃に離婚。30歳の頃、納戸組頭・井関親興と再婚、2人の間に子は無かった。井関家の屋敷は、九段坂下(現在の千代田区九段1-5の辺)にあった。文政9年(1826年)に夫が没し、以後は、本を読み、歌を詠じ、日記や物語を書いて悠々自適の生涯を送ったという[1]。

著書

• 『井関隆子日記』全12冊
著者の自筆本が、昭和女子大学図書館に所蔵されている。天保11年1月1日から同15年10月11日までの900日間の日記。その日の天候、地震、四季折々の自然の変化、その日その日の出来事、様々な見聞、人物・社会・政治・学問・文学などに対する批評などが記されている。特に、子の親経や孫の親賢から伝えられる、江戸城内の様子が詳細に書き留められている。江戸時代の日記文学としても価値があり、また、当時の歴史的資料としても価値がある[1]。
• 『さくら雄が物かたり』 6巻1冊
著者の自筆本。東北大学附属図書館・狩野文庫蔵。内容は、平安朝の『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』などの構想を借りて、現実の仏教界を厳しく批判したものと解釈される[2]。
• 『神代のいましめ』写本、墨付28葉
昭和女子大学図書館所蔵の、鈴木重嶺の「翠園叢書」の、巻26の中に収録されている。内容は、平安朝の散逸物語『隠れ蓑』などに構想を得て創られた物語で、首席老中批判を通して、人間の表裏の二面性を描いている[1]。
• 『いなみ野』吉海直人氏所蔵の写本『物かたり合』墨付54葉の内、5葉
播磨の国、印南野を舞台にした物語である。隆子は、すすき・尾花が大好きで、その思いを作品化したものと思われる[3]。
• 『井関隆子長短歌』
『秋野の花』に短歌が収録されている。その外、『井関隆子日記』にも800首ほどの、長歌・短歌が収録されてい
• 『しのびね』写本、1冊、静嘉堂文庫蔵。擬古物語。井関隆子が、頭注、傍注を追加したもの。書写も井関隆子と推測される。
• 深沢秋男「井関隆子校注『しのびね』(静嘉堂文庫蔵)考」(『近世初期文芸』34号)。

書写本

1. 桑原やよ子著『宇津保物語考』 写本1冊、静嘉堂文庫蔵。
2. 蔵田茂樹著『恵美草』 写本1冊、国立国会図書館蔵。
3. 吉田兼好著『徒然草』 巻子本1巻、箱に「雅文 源隆子」とあり、『徒然草』第15段、第189段の書写[4]。

脚注

1. ^ a b c 深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
2. ^ 新田孝子「井関隆子の文芸―館蔵『さくら雄が物かたり』の著者」(『図書館学研究報告』東北大学、13号、1980年12月)
3. ^ 吉海直人「新出資料『物かたり合』の翻刻と解題―井関隆子周辺の創作活動―」(『同志社女子大学 日本語日本文学』8号、1996年10月)
4. ^ 吉海直人「〈新出資料〉井関隆子自筆『雅文』の影印と解題と紹介」(『文学研究』91号、2003年4月)

参考文献

• 『井関隆子日記』全3巻、深沢秋男校注、勉誠社、1978年11月 – 1981年6月。
• ドナルド・キーン「井関隆子日記 ①・②・③(百代の過客―日記にみる日本人―)」朝日新聞、1984年4月4日 – 6日
• 深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
• 深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』文春新書、2007年11月
• 真下英信『古代ギリシア史論拾遺』私家版、2008年2月
• 真下英信「『井関隆子日記』に見られる地震の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』26号、2009年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』29号、2012年3月
• 真下英信「音で読む『井関隆子日記』:天気の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』30号、2013年3月
• 真下英信「音で読む『井関隆子日記』:鳥」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』31号、2014年3月
• 真下英信「音で読む『井関隆子日記』:物売り」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』32号、2015年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』が綴られた頃の江戸の天候について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』天保15年4月29日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』 月の初日と末日の記述について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』天保11年7月3日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
• 真下英信「井関隆子の防災意識に学ぶ」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』35号、2018年3月
• 深沢秋男「『井関隆子日記』の日付訂正」『芸文稿』11号、2018年7月

典拠管理
• WorldCat Identities
• CiNii: DA04267090
• GND: 1029300984
• ISNI: 0000 0000 8439 7519
• LCCN: n79051546
• NDL: 00621867
• VIAF: 35729939

カテゴリ:
• 日本の女性歌人
• 江戸時代の女性
• 江戸時代の歌人
• 江戸時代の文人
• 武蔵国の人物
• 1785年生

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井関隆子日記   【はてな キーワード】

読書

井関隆子日記 いせきたかこにっき

目次

• 井関隆子日記とは

1、著者 井関隆子

井関隆子(いせき・たかこ) 幕末の旗本の主婦。天明5年(1785)6月21日出生~天保15年(1844)11月1日没、60歳。
江戸・四谷表大番町で生れた。現在の新宿区大京町26の辺である。父は大番組・庄田安僚である。
隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本、庄田安信を祖とする庄田家の分家である。庄田本家の第3代安勝は長男安利に2千6百石を与え、次男安議に4百石を分知して、これを分家とした。
安議を祖とする分家の庄田家は、延宝5年(1677)3月、四谷表大番町に6百60坪余の屋敷を拝領した。隆子はここで生れ、育った。
父は、分家4代の大番組・庄田安僚で、隆子には、3人の兄、3人の姉、1人の妹がいた。
父・安僚は、隆子が8歳の時に没したので、隆子は母親と長兄・安邦の下で成長した。
20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、間も無く離婚し、しばらく実家にいたが、30歳の頃、納戸組頭・井関親興の後妻として井関家へ嫁いだ。
嫁ぎ先の井関家は、江戸城に近い九段坂下の飯田町にあった。これは、井関家が代々、小納戸組や広敷用人など、将軍の側近くに仕える家柄であったためである。
井関家に嫁いでからも、暫くは旗本の主婦として多忙であったと思われるが、12年後に夫・親興が没し、家督を子の親経が継いだので、家庭の切り盛りも、親経の妻が引き継ぎ、隆子は悠々自適の生活を送ることになる。このような生涯を見わたすと、家庭環境の上でも時間的にも、比較的に自由に、文筆の道に打ち込む事ができたものと思われる。
隆子は、古学を教える塾に学んだり、冷泉流の老女に歌の指導を受けたり、また、国学者の林国雄を家に招いて講釈を聞いたりしたようであるが、いずれも満足できるものではなかったようである。結局は、賀茂真淵や本居宣長などの国学関係の本を読んで、独学で古典の知識を身につけ、教養を蓄えていったものと推測される。
隆子の著作には、『井関隆子日記』『さくら雄が物かたり』『神代のいましめ』『いなみ野』などがある。

2、『井関隆子日記』(いせきたかこにっき)

幕末・旗本主婦の日記。著者の自筆の原本が、昭和女子大学図書館・桜山文庫に所蔵されている(鹿島則幸氏旧蔵)。大本、12冊、合計966葉、毎半葉11行、1行約29字、挿絵18図、鹿島則文・鹿島敏夫の識語を付す。
内容は、天保11年(1840)1月1日から同15年10月11日までの日記。著者56歳から60歳までの5年間であるが、毎日記されている訳ではなく、全1753日間の内、898日について記されており、1日の分量も小は2行程度のものから、大は12葉(24ページ)に及ぶものもあり、必ずしも一定していない。各年の分量は、最初の11年が最も多く4冊、以後は各2冊と半分になっている。これは、12年以後、年中行事などの記述を省いたためと推測される。
『日記』に書かれている具体的な内容は、日付、その日の天候、地震、四季折々の自然の変化、その日その日の出来事、様々な見聞、幼い頃や若い頃の思い出、人物・社会・政治・学問・文学等に対する批評、折々に詠じた和歌などが、著者の意のおもむくままに記されている。
特筆すべき点は、著者の子の井関親経(ちかつね)が、御広敷御用人を勤めていて、第11代将軍・徳川家斉の正室・広大院(松の殿)の係であったところから、当時の江戸城大奥の様子が詳細に伝えられていることである。

【テキスト】

『井関隆子日記』全3巻(深沢秋男校注、昭和53年(1978)11月30日~昭和56年6月5日、勉誠社発行)

【参考文献】

○深沢秋男著『井関隆子の研究』(平成16年(2004)11月1日、和泉書院発行)
○音で読む『井関隆子日記』:物売り
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第32号 2015年3月刊行
○補遺2“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第32号 2015年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:鳥
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第31号 2014年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:天気の記述
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第30号 2013年3月刊行
○補遺“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第30号 2013年3月刊行
○『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第27号 2012年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述 補遺
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第28号 2011年3月刊行
○井関隆子の自然を見る目
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第27号 2010年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第26号 2009年3月刊行

●『井関隆子日記』は、次の大学入試に出題された。

〔3〕 平成23年度、京都大学入試に『井関隆子日記』出題
〔2〕 平成20年度、明治大学入試に『井関隆子日記』出題
〔1〕 平成11年度、センター入試に『井関隆子日記』出題

★詳細は → http://www.ksskbg.com/takako/index.html
■→「井関隆子日記」http://www.ksskbg.com/takako/index.html

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●「井関隆子」の項目は、【ウィキペディア】も【はてなキーワード】も共に、私が立項し、執筆した。【ウィキ】は初めて項目を立てたので、要領がよくわからず、どこかの方に、修正してもらって、ようやく登録できた。

●私は、昭和47年(1972)、鹿島則文の桜山文庫の中の写本12冊の『日記』に出会った。47年前のことである。仮名草子研究を中断して、世に送り出した。もちろん、日記文学である、という自信があった。

●しかし、この『日記』が、日記文学として認められるまでには、かなりの時間を必要とした。現在、近世文学の中の日記文学として、ほぼ、認められた。見識のある多くの方々の御配慮によるものである。長生きをすれば、こんな御褒美も貰える。 〔真理がわれらを自由にする〕

2019年10月17日


奥向研究の現状と課題

奥向研究の現状と課題

  • 2019.10.05 Saturday
奥向研究の現状と課題

●都立大学、首都大学東京の『メトロポリタン史学』第9号(2013年12月)に、福田千鶴氏の「奥向研究の現状と課題」が掲載されている。

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1、女性史からジェンダー史への進展
2、奥向研究の三つの動向
3、今後の奥向研究の展望
まとめ

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●この中で、福田氏は、次のような指摘をしておられる。

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「・・・こうしたシリーズ以外での個別女性史研究はそれなりに進んでいるが、とりわけ井関隆子・吉野みち・天璋院篤姫・浅井江などの研究が進展した。前二者は良質の史料に恵まれた研究といえようが、後二者はNHKの大河ドラマに触発されての研究、と指摘できよう。篤姫は二〇〇八年、江は二〇一一年であり、他にも春日局(一九八九年)、前田利家の妻まつ(二〇〇二年)、山内一豊の妻千代(二〇〇六年)が取り上げられ、その都度、関連著作が出版されて人物史が深められた。ただし、その一方で二次的な文献などに基づいたステレオタイプな人物伝が粗製濫造され、それらに埋没する形で良質な史料に基づいて示された研究成果が顧みられない弊害が出るなど、問題も多い。・・・」

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●近世女性史の中で、井関隆子の研究が着実に進められていることが指摘されている。

渡辺憲司ブログ

渡辺憲司ブログ

  • 2019.10.02 Wednesday
渡辺憲司ブログ

133回 夜長月日録
2019年9月14日

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9月14日。自由学園リベラルアーツ学会で研究発表。
75歳での研究発表は、たぶん最後。講演とはまったく緊張感が違った。終わると不整脈、それでも懇親会二次会と久しぶりの痛飲、翌朝宿酔。「江戸期環境文学への視座―印旛沼と井関隆子日記を中心に」と題したが、江戸期における環境文学の構想に時間を使いすぎ隆子の旗本夫人としての日記の個性などを述べる時間がなかった。反省のみ残る発表だった。印旛沼訪問記としてこのブログで別記したい。

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●自由学園、最高学部長の渡辺憲司先生のブログで、井関隆子の事について、言及されていた。このように、多くの研究者に認められることは、非常に嬉しい。

井関隆子の国学者批評

井関隆子の国学者批評

  • 2019.10.01 Tuesday
井関隆子の国学者批評

●今日、『井関隆子日記』の、天保11年2月26日の条を読んだ。

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「・・・今いにしへの学び、はた歌よむ人とて、月並にわざと人を集へ、世わたりめきて物する人、彼是あれど、秀たるも聞えず。かの得たる所えぬ所、たがひになんあるべけれど、さる人は大方、思ひ上りて互に人をそしりあひ、己れ世の中にいみじう思はれん事をはかるさまなれば、うはべのわざは雅かにて、心のうちは、きたなき人もまじりぬべし。
哥のさまも、いにしへぶりとはいへども、まことの古き調べに詠人はまれらにて、後の世めきたるぞ多き。・・・
・・・ふる事学びは、昔よりの人々もあれど、近き世に其名聞えたる、真淵翁はた宣長てふ人、次てくはしう古事をときめかし、歌の定りどもをも、つばらにあげ、其外あまたの文どもを著しつれば、今いにしへ学する人々、其文によらぬなんなき。然るを己れ、さる人にも勝れたらむさまを世にしめさんとて、さる書共の中にいさゝか誤りもし、はたいひうごかすべき事共のあなるを選いでゝ、いみじき僻事とそしりあざけりなどしつゝ、己がはじめ其書ともにより古事をも習ひ得て、さる業して世を渡るめぐみを忘れつる人なん多かる。それはた学びの業は、たとへ師といはんからに、僻事あらむをば、後より正し改むべきはさることなれど、さらんにはいひざまもあるべく、かつは中々に僻事どもゝあンめり。されど過にし人は、其答へもせざればさてあるを、さるたぐひの人どもの物争ひしたるを見るに、はじめの程こそいさゝかは其筋の事ども引出かきつゝ、互にまけじごゝろにいへ、二度三度になりもてゆけば、互ひに朧立つまゝに言ひつのり、はしたなうかたはらいたき事ども書きちらし、はてはては本の筋はさておきて、ようなきかたへの事などのゝしりあひ、えもいはぬ悪口など怒れるまゝに言過したる、文の上なれぼこそあれ、直に向ひたらむには、打あひもし、つかみもかゝりぬべき筆の勢ひどもに、日ごろ、よげに見えつるはうはべにて、もとよりいやしき、したの心皆顕れて、いみじう人わろうあさましとはおろかなり。・・・」

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●井関隆子は、和歌に関しての批評でも、かなり的確で厳しい意見を述べている。同時代の国学者批評も厳しく、的確のように思われる。

印旛沼開削

印旛沼開削

  • 2019.09.27 Friday
印旛沼開削

〔漬物という食品につながる・・・〕というサイトがある。

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漬物という食品につながるエピソード

天保の印旛沼開削工事で
2019年09月17日 | 福神漬

天保の印旛沼開削工事で全体を監督する南町奉行鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)でその配下の記録を見つけた。
天保期の印旛沼堀割普請 (千葉市史編纂委員会/編集)
その中の名前に佐久間健三郎・原善左衛門という名前を見つけた。佐久間健三郎長興は佐久間長敬・原胤昭の父であった。原善左衛門胤輝の娘と結婚したのが胤昭であった。この印旛沼開削工事の目付が戸田寛十郎氏栄(のちの戸田伊豆守氏栄・ぺリ-来航時浦賀奉行)だった。
花見川の横戸という地名のところが小高くなっていてさらに印旛沼方向の土地が軟弱で掘っても掘っても湧き出る水が泥と共に出るため工事が進まなかったようです。  【以下、略】

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●この、天保期の印旛沼開削は、水野忠邦の指揮で行われた。井関隆子の子の親経の後妻、戸田氏は、幕臣・戸田氏栄の妹である。そんな関係で、戸田氏栄は、隆子のところにも、時々立ち寄っている。この印旛沼開削工事の時も、その成り行きを詳細に隆子は書き留めている。

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〔天保14年閏9月20日〕

・・・戸田ノ何がしも来りぬ。此人の事をも世に沙汰しあへれば、かの印幡のことに今放れたれば打くづし、かれ是問ふに、
「誠はかの花嶋土に堀かゝり、力を尽せどいみじうわき出、いつ果べきこととも覚えず。御手つだひの国ノ守、つひには力尽て、国もむなしうなり果むことを思ひ、帰り来て、此こと共水野のぬしへ聞えしに、然らば家人をつかはし、其さま見せむといはれしを、己れいやしかれど、上の御目付としてつかさどる処なるを、またもの遺し見せ給はむこといかゞ也。自らいたりて見給はむこそよからめ、など申せしかば、心よからずぞ有けむ、其後、今の司に移されぬ。さて此度のさわぎ出来たれど、猶かの沼出来ぬべしと鳥井甲斐、榊原主計など申に付たゆたふべし。己れは折ようのがれて後ろやすし」
など語りぬ。

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●戸田氏栄は、目付としての誇りにかけて、水野忠邦に立ち向かっている。結果、浦賀奉行に左遷されたが、印旛沼開削は、失敗に終わっている。

●これらの、諸々の幕府内の事情を、隆子は知っていたのである。忠邦に対する、厳しい批判も納得がゆく。

ダウンロード

ダウンロード

  • 2019.09.25 Wednesday
井関隆子の研究 PDFダウンロード

詳細
• タイトル: 井関隆子の研究
• ファイル名: 井関隆子の研究.pdf
• 発売日: 2004
• ページ数: 442 pages
• 著者: 深沢秋男
• 出版社: 和泉書院

ご注意。当社は井関隆子の研究 のPDFファイルを tatsuyaokuyama.tk にて 我々自身でホストしていません。もし 著者による 深沢秋男 による書籍 井関隆子の研究 PDF版の入手をご希望の場合、当社のパートナーサーバーから入手してください。 下記にある赤いダウンロードボタンをクリックすれば、ファイルをホストしているパートナーのWebサイトへとアクセスします。ご注意: ファイルをダウンロードするには、登録する必要があります。
ダウンロード

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●今日、このようなサイトに出会った。

お墓参り

お墓参り

  • 2019.09.21 Saturday
  • 10:59
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井関隆子
いせき たかこ
1785 – 1844
幕末 歌人

命日まであと41日です。
亡くなってから174年323日過ぎました。
59歳で亡くなりました。
1785年06月21日に誕生、1844年11月01日に亡くなりました。
生誕234年が経過しました。没後174年が経過しました。
暮らした時代は、天明 から 天保 です。一覧
次の法要は24年47日後、2043年11月01日の二百回忌です 一覧
現在0人がこのページに訪れています。
1時間:1人 24時間:8人 1週間:29人 1ヶ月:58人 1年:407人 詳細

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●今日、井関隆子の、ネット上のお墓参りをしたところ、たくさんの、
お花が供えられていた。私以外の、何方かが、供えて下さった。
有難いことである。

天保12年11月1日

天保12年11月1日

  • 2019.09.17 Tuesday
天保12年11月1日

※天保12年(辛丑)11月1日(1841.12.13月)
赤松大三郎が江戸深川元町で生まれる。「明治維新人名辞典、日本歴史学会編、(吉川弘文館)」
※天保12年(辛丑)11月3日(1841.12.15水)
天保の改革の徹底の為、北町奉行の指示で江戸市中取締掛名主が17名から30名に増員される。
※天保12年(辛丑)11月5日(1841.12.17金)別紙
※天保12年(辛丑)11月6日(1841.12.18土)別紙
※天保12年(辛丑)11月7日(1841.12.19日)
※天保12年(辛丑)11月8日(1841.12.20月)
代官篠田藤四郎が勘定組頭上座御取箇掛に任命される。印旛沼干拓担当の技術者の大竹伊兵衛の上司である勘定組頭立田岩太郎に代わって利根川分水掛を兼務し、大竹の計画を奉行に進達することを押さえた、このため篠田と大竹の対立が発生する。
※天保12年(辛丑)11月10日(1841.12.22水)
幕医池田謙斎が生まれる。「明治維新人名辞典、日本歴史学会編、(吉川弘文館)」
緒方洪庵の門下で、幕府医官池田秀真の養子となる。蘭医ボードインについて西洋医学を修める。
唐人お吉(斉藤きち)が尾張国知多郡内海に生まれる。伊豆下田に引っ越したのは弘化元年「明治維新人名辞典、日本歴史学会編、(吉川弘文館)」
※天保12年(辛丑)11月11日(1841.12.23木)
※天保12年(辛丑)11月12日(1841.12.24金)別紙
※天保12年(辛丑)11月13日(1841.12.25土)
御広敷御用人井関親経が家斉の正室広大院の名代として、早朝江戸を発ち京都へ向かう。
徒士侍を先頭に、槍持、弓持ち、引き馬、具足の櫃などが並んで進む様子は、ちょっとした大名の出で立ちである。行程は戸塚、小田原、箱根、沼津、江尻、金谷、浜松、赤坂、宮、四日市、坂ノ下、石部、大津。京都には25日に到着する。
前の近衛殿の北の方円台院の上の葬儀のため広大院の名代として上京。
同行志願の親戚は拒絶する。
種々な物を賜っている、広大院からは御衣に添えて黄金60両、御文庫二つ、白羽重に八丈絹、御杯、様々の袋物、綾錦の楊枝差など。
東明(とめ)の宮からは、白紅の紗綾二巻、家定の君からは白紗綾二巻を賜る。峯寿院の上より白銀三包に御文庫を賜る。「旗本夫人が見た江戸のたそがれ、深沢秋男、文春新書」
※天保12年(辛丑)11月14日(1841.12.26日)
近衛家の吉村伊勢介は書状で清水寺成就院に「無御拠御方より御祈祷」を依頼する。
※天保12年(辛丑)11月15日(1841.12.27月)
前日、近衛家の吉村伊勢介からの書状で祈祷を依頼された月照が、この日、近衛家に直参し「関東御台様(西丸御台所有君、近衛忠凞の養女として家定の室となった)より御寿命長久等」の願望をたのまれ白銀三枚を受ける。
※天保12年(辛丑)11月17日(1841.12.29水)
長野義言夫妻が醒井をへて、近江坂田郡市場村(彦根藩の領地、現山東町)に到着する。
※天保12年(辛丑)11月18日(1841.12.30木)別紙
※天保12年(辛丑)11月19日(1841.12.31金)別紙
※天保12年(辛丑)11月20日(1842.1.1土)
幕府は医師の風儀戎・(かいちょく)令を出す。「日本史年表(日本歴史大辞典編集委員会編1990)河出書房新社」
月照が近衛家に参殿し祈祷の巻数を献上する。
昌平校の講演が再興され、庶民に聴講が許される。
※天保12年(辛丑)11月21日(1842.1.2日)
感応寺の日詮上人が池上檀林照栄院へ退身。
将軍世子家定と鷹司前関白政煕の末娘任子(ただこ、あつこ、有君御方、有姫、関白鷹司政通の養女)が西の丸において婚礼。
旗本夫人「井関隆子日記」では、有姫は実は光格天皇の子で関白鷹司政熙の養女となり家定の正室に下されたとなっている。「旗本夫人が見た江戸のたそがれ、深沢秋男、文春新書」
※天保12年(辛丑)11月23日(1842.1.4火)
幕府は昌平坂学問所日講、貴賎に限らず、聴聞すべき旨を令す。「徳川十五代史」
※天保12年(辛丑)11月24日(1842.1.5水)別紙
※天保12年(辛丑)11月25日(1842.1.6木)
前の近衛殿の北の方円台院の上の葬儀のため広大院の名代として広敷御用人井関親経が京都に到着する。「旗本夫人が見た江戸のたそがれ、深沢秋男、文春新書」
※天保12年(辛丑)11月26日(1842.1.7金)別紙
※天保12年(辛丑)11月27日(1842.1.8土)
◎夜、娘浄瑠璃 (女義太夫 )36人が召し捕られて入牢する。武江年表
※天保12年(辛丑)11月28日(1842.1.9日)
公家久我建通の長男久我通久が生まれる。
※天保12年(辛丑)11月29日(1842.1.10月)別紙
※天保12年(辛丑)11月30日(1842.1.11火)
夜、上野大仏堂より出火、仏像が焼損する。武江年表
薩摩藩士野津道貫(みちつら)が鹿児島城下高麗町に生まれる。野津鎮雄の弟。
戊辰戦争では兄が五番隊長、道貫が六番隊長で参加。「明治維新人名辞典、日本歴史学会編、(吉川弘文館)」
※天保12年(辛丑)11月 日付不明
1、泉涌寺(光格天皇が葬られている)が焼失する。
2、近江全域にわたる主に大小の川筋にある百カ村の庄屋が京都町奉行所に呼び出される。奉行から口頭で、幕府より直々に琵琶湖、仁保川、野洲川、草津川などの川筋の村の空き地、堤防の内側、川敷・寄り洲などで、開発可能な場所を検分するので、各準備するようにと言い渡される。幕府の真意は隠田畑の摘発にあった。この際、打ち出し(増し分)をねらい、1間の長さ六尺一分を改め、五尺八寸とした。
3、下旬、ジョン万次郎らを乗せた米国に捕鯨船ジョン・ホーランド号がホノルルに到着する。万次郎らはホノルルで生活を始める。
4、天保の改革により発足した北町奉行の市中取締掛が30名に増員される。
5、水野越前守忠邦は、土着住民の減少と無宿の横行を生み出す追放刑に替わる、適当な刑罰の有無を評議させたが、評定所は追放刑の存続を決める。
6.松平近直が目付となる。「明治維新人名辞典、日本歴史学会編、(吉川弘文館)」
P3-24/2011.3.6

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●この記録は、ある大きなサイトの、3頁から24頁のもので、2011年3月6日に追加されたものであろうか ?

風 KAZE ウェブ マガジン

風 KAZE ウェブ マガジン

  • 2019.09.16 Monday
風 KAZE ウェブ マガジン

●今日、〔ウェブ マガジン 風 KAZE〕というサイトに出会った。連想出版を運営しているらしい。新書の中に『旗本夫人・・・』も入っていた。

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理念
インターネットの急速な普及にともなって、わたしたちは多種・多量の情報を瞬時に得られるようになりました。しかし、その反面、情報の信頼性や公共性という点では、個々の情報によって千差万別です。一方、新聞や出版物など紙媒体を中心とする既存のメディアが発する情報は、信頼性や公共性を確保していますが、多様性や即応性という点では限界があります。
連想出版は、こうした二種類の情報がもつ特性を鑑みて、それぞれの利点を生かし、互いに補完しあう形をとることによって、より有用な情報を生み出すという考えに立って、公共の資産としての情報を収集・整理し、発信・提供していくことを目的としています。

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『井関隆子日記』と『源氏物語』〔3〕

『井関隆子日記』と『源氏物語』 〔3〕

  • 2019.09.13 Friday
『井関隆子日記』と『源氏物語』 〔3〕

四 考  察

以上、『井関隆子日記』と『源氏物語』の影響関係にあると思われる条々を列挙てみたが、以下に、隆子は『源氏物語』を如何に享受し、活用しているのか、その点を、やや具体的に考察したい。

【1】天保十一年三月一日→紅葉賀
『源氏物語』では、十歳過ぎると、雛遊びはしないものだと、右近は紫上に注意しているが、現在では、子供盛りはとうに過ぎた年老いた女までも、雛遊びをしている。時と共に風習の変化してゆく様を比較し、『源氏物語』の中に、当時の人々の習慣を推測している。隆子は文学作品にこそ、それぞれの時代の人々はよく描かれている、というのが持論であった。

【2】天保十一年四月九日→胡蝶
『湖月抄』に「細 召人也。てかけ物也。花 大和物語蜻蛉の日記にもあり。今略之」とあるように『源氏物語』真木柱にも「御めしうどだちてつかうまつりなれたる、もくの君、中将のおもとなどいふ人々だに、ほどにつけつゝやすからず、つらしと思聞えたるを、北方はうつしごゝろものし給ほどにて、いとなつかしう打なきてゐたまへり。」とあり、『かげろふ日記』(中)には「うせ給ひぬる小野の宮のおとゞの御めしうどどもあり、これらをぞおもひかくらん」ともある。隆子は「召人」の多くの用例の中から胡蝶の条を選んで引いている。それは、隆子が続けて書こうする内容と関わっているものと思われる。
堀某の召人は殿の寵愛を受けて、一人時めいている。彼女は殿に取り入って、自分の縁者を取り立ててもらったり、さらには就職の斡旋をして、手数料を取っている。その増長振りを、見るに見かねた二十歳ばかりの家臣が、主君のためを思って、この女を殺そうとする事件まで発生してしまった。このような内容故、同じ召人の中でも、余り芳しからぬ胡蝶の例が引き合いに出されたものと思われる。なお、この堀某は、現在、特定出来ないが、「世の御政事とりも」つ人物であると言い、『日記』の原本には欄外に杉嶋勾当らしい人物から、この事件の詳細を聞いたと注記している。そのような点から推測すると堀親寚の可能性がある。堀親寚は、文化十一年に奏者番、文政九年より寺社奉行を兼任、同十一年に若年寄、天保十二年には側用人になっている。

【3・4・5】天保十一年五月十七日→夕顔・空蝉
この条は、夕顔の宿の隣近所の碓の音や商人が生活の苦しさを語り合う、市井の喧騒から書き起こし、我が大江戸の町々の庶民の暮らしに筆を進めてゆく。『源氏物語』における最も庶民的な部分を思い出し、そこから、自分の住む江戸の現実へと視点を移している。隣家の子供の泣き声、使用人達の言い争う声、さらには、こちらは食事時だというのに、隣家ではトイレの汲み取りを始める事など、実に閉口すると書き進める。そう言えば、昔物語を見ると、トイレや糞尿の事も結構記されている、と指摘する。空蝉の女房が「あな腹あな腹」と走るのはトイレに行く様であり、『落窪物語』の少将の衣に糞が付いた事、『今昔物語』で本院ノ侍従のトイレの様を平仲が覗き見しようとした事、ある法師が仮名暦に「はこせぬ日はこせぬ日」と続けて書いて、女房が尻を抱えて困惑した事等々、延々とこの種の話柄を書き続けるのである。隆子の古典の利用は、引用的なものではない。このように自分の文章の中に、自由自在に取り入れて使っている。それは、並々の力量では出来ない事である。

【6】天保十一年五月二十六日→松風
隆子は、井関家に嫁いで二十年程過ぎた。四谷の実家の庄田家は、甥の安玄が家を継いだが、身持ちが悪く、弟の安明か後を継ぐ。しかし、若年という事もあって、幕府の役職にも就けない。築地の本家に居候している身では、実家の管理も思うに任せないのであろう。留守番の老人が一人いるのみで、六百余坪の庭も荒れ放題である。
久し振りに訪れた隆子は、その様子をこのように描写している。苔むした井戸に近寄って見ると、その水だけが昔と変わらず澄んでいる。すかさず作者は松風の明石の尼君の歌を想起する。
荒廃した我が家の前に立ち、悲しみに埋没する事無く、滅びゆく世のはかなさ、人の世の哀れさを、しみじみと文章化している。隆子は個の悲しさや寂しさや懐かしさやを、一般化して書く事の出来る強さを持った女性であった。そうでなければ、今の自分のおかれた立場を、あの明石の尼君に置き換えて表現する事は出来なかったであろう。決してめそめそしてはいない。強靭で繊細な精神の持ち主であった。なよなよとした女々しい精神の女性であったなら、このような雄勁な文章は書けなかったであろう。

【7】天保十一年七月十九日→花宴
隆子の部屋の襖障子であろうか、そこには源氏絵が描かれていたという。花宴の弘徽殿の細殿で、男は光源氏で、女は朧月夜であろう。源氏絵の花宴では、この場面の絵が最も多い。隆子の部屋の襖障子の絵は、土屋某が描いたものだという。この土屋某は土屋長有ではないかと思われる。土屋長有は、文化十年より小納戸、文政元年より西丸小納戸、天保七年より徒頭、同九年より先手鉄炮頭、天保十一五月二十六日没。この土屋が幕府絵所に勤めていたか、未確認である。江戸幕府の御用絵師には奥絵師と表絵師があり、いずれも狩野家が勤めていた。隆子は土屋某は「近ごろまで御前に仕うまつり御絵の事にあづかりたりしが、御先手仕うまつり」井関家へも折々遊びに来ていたが、去りし月に他界したと言う。
掲出の『源氏物語画帖』(ここでは省略)は土佐光起のもので江戸初期の成立である。この場面の絵で土佐光吉の『源氏物語画帖』(京都国立博物館蔵)は、光源氏を左下にした構図となっている。隆子の部屋の絵を土屋が描いた時、これらの土佐派
の源氏絵を参考にした可能性は大きいと思われる。隆子は「見もしらぬ雲の上、あとはかもなき空事とはいへども、式部の御許の、世にかしこき筆のすさびのいみじきにか、誠にむかし有けん人の心地せられて、をかしうあはれにもおもはる。」と言っている。おそらく、このような源氏絵のある部屋で、古典の世界に遊び、しかも、移りゆく現実の社会へも鋭い観察の目を向けながら生活していたのであろう。

【8】天保十一年七月二十六日→夕顔
七月二十六日、今年は開花が遅れていた朝顔が、隆子の住まいの東側の垣根に色とりどりの花を咲かせた。普段はぱっとしない垣根も、この朝顔のお蔭で家中から持て囃されている。隆子は、そこから『源氏物語』の夕顔の巻に想を転じる。源氏絵も見た事があるが、その夕顔の花は、どうという程のものではないが、荒れた垣根に咲いているからこそ趣も深いものがあるのであろう、と一首を詠じる。隆子は部屋の襖障子の花宴の他にも、源氏絵を観ながら、平安物語の世界を楽しんでいた事が知られる。

【9】天保十一年十月七日→葵
十月七日、玄猪の祝いである。そういえば、この行事はいつ頃から始まったのであろうか。あの『源氏物語』にも出ているので古くからの事であろう。ただ、それだけの事であるが、隆子は、折々、行事や習慣などがいつ頃から始まったのか、言ってみれば事物起源について言及している。これは、この幕末期に大流行した考証随筆と関連しているように思われる。しかし、それらの考証随筆の如く、疑問をどこまでも追尋することはしない。ここに、この『日記』が読みやすいものとなっている理由がある。

【10】天保十一年十一月十七日→浮舟
この条は、十年程前に起きた旗本心中事件を書き留めたものである。心中の女性は旗本・赤井某の妹、男性は同じ旗本の春日半五郎の弟・左門。旗本同志の春日家から赤井家に縁談が持ち込まれ、妹は、てっきり左門と思い込み、喜々として嫁入りしてみると、相手は兄の半五郎であった。しかも同じ屋敷内に左門も同居していた。このような経緯を知った左門も同情し、やがては恋情へと変わり、二人は一線を越えてしまう。進退極まった男女は心中を決意する。いざ心中という、その直前に、女は親宛の手紙を書く。このまま死んでしまえば、何も知らない両親は、ただ色好み故の心中と思うだろう。その事が悔しかったのである。隆子はこの時の女の気持ちは、あの『源氏物語』の浮舟に通うものがあると言う。薫と匂宮の間で苦しみ、入水を覚悟して、その直前に親宛に手紙を認める浮舟の心の中は、空事とは言いながら、誠に哀れで悲しく涙が落ちる。この時の新妻の悲しみも決して浮舟に劣るものではない、と書いている。この条は確かに実際にあった事件ではあるが、それは十年も前のことであり、隆子の手で書かれた創作と言ってもよい。同じ女性の立場から、旗本の新妻と浮舟に思いを寄せているのである。

【11】天保十二年一月一日→初音
二月一日に行われる歯固めという行事、ここでも『源氏物語』の記述を思い起こして比較している。隆子は一つ一つの行事で、昔物語の描写に思いを馳せ、当時と現在とを比較して、人の世の移り変りを想像しているのであろう。

【12】天保十二年一月五日→末摘花
一月五日、江戸九段坂下の朝は風が強く、寒さは一段と厳しい日であった。二階から前の大通りを見下ろすと、幕府に仕える人々は言うまでもなく、一般の人たちも入り交じって、忙しそうに行き交っている。人々の顔は、あの末摘花のように鼻先が真っ赤である。冬の日の早朝、家の前の通りを行き交う人々の表情を見て、例の『源氏物語』の常陸の姫君の赤い鼻を思い出す。隆子は、そんな文学体験の中で生活していたのである。

【13】天保十二年七月七日→須磨
天保十二年閏一月七日、第十一代将軍・徳川家斉が没すると、首席老中・水野忠邦は天保の改革に着手したが、それは家斉の側近三名の解任から始まった。ここで「水野の伺がし」と言っているのは、三人の内の一人、水野忠篤である。『徳川実紀』には「(七月)二日寄合水野美濃守〔忠篤〕とがめられてのち。行状よろしからずと聞えしかば。致仕し蟄居せしめられ。家はその嫡孫備前守に継がしめらる。」とある。この条は、その後の事であるが、隆子は、はかなき物語の須磨の記述を引き合いに出している。彼女の現実生活と『源氏物語』との関係は、極めて密接なものであった事が推測される。この条は引用的な使い方をしていて、隆子が使用した『源氏物語』の本文を推測する上で参考となる。

【14】天保十三年一月七日→末摘花
この条は、天保十二年十一月に起きた、伏見宮幾佐姫と勧修寺宮済範親王の出奔事件を取り上げている。事件の成り行きを詳細に述べてきて、終わりに落剥した屋敷の様から、末摘花の様子に思いを馳せている。

【15】天保十三年九月二十二日→玉かづら
第十二代将軍・徳川家慶は、有栖川●仁親王の王女・精姫を養女として江戸へ迎えた。天保十三年九月二十日に品川の宿に到着し、二十一日に江戸城に入った。このように、京都から江戸へ迎える時は、親元である有栖川家へ莫大な黄金を贈るのは当然として、衣類から調度にいたるまで、ことごとく徳川家で準備したらしい。
品川宿に着いたら、着物も着替え、髪型も梳きなおして、京都の様子は全て改めて江戸の仕来りに従って整える。姫の体ひとつのみを迎えた。また、お供の女中の衣服や調度も同様に新調した。
家慶は、このように養女を迎えた経験が無かったので、その対応には大変な力の入れようであった。有栖川家の姫宮たちは皆器量良しとも言われており、精姫はこの時十八歳で、体も一人前の女性である。家慶は何彼につけて姫の許へ通っているが、その様子を見ている人達は、本当は女性としての姫に興味があるのに、我が子を心配しているように取り繕っているのである、と噂していろとのことである。それは、ちょうど、光源氏が、自分の子として引き取った玉鬘に恋情を覚えたのに通じるところがあるようだ。清和源氏の末裔というのも似つかわしい事だ。事実は別として、隆子は城中の噂を親経か親賢から伝えられ、こんな批評をしている訳である。『源氏物語』をよく読み込んでいなければ出てこない評言であろう。

【16】天保十三年十二月十七日→橋姫
この条は、「火」の歌について述べている。『古事記』に履中天皇の歌があり、『源氏物語』には橋姫の巻に八の宮の歌があるが、さらに探せば、あるだろう、と言って「見人も」の歌を引用している。隆子は、これまで歌に詠まれない題材でも、特に品の無いものは別として、詠み込んでみたい、と言って積極的に取り組んでいる。ここも、その一例であり、この後に長歌と反歌を付加している。

【17】天保十四年十一月二十六日→夕顔
現在は蝋燭を便利に使用しているが、これは、いつ頃から使い始めたのであろうか。庭火、かゞり火、松の火串、油火なども記録に見えているし、『源氏物語』には紙燭召してなどと出ているが、これはどんな物であろうか。ここも、事物起源考的な興味から書かれている。

五 おわりに

『井関隆子日記』は、公的な記録や、学識者・賢人の私的な記録ではなく、一人の年老いた女性の心遣りとしての筆ずさみとして書かれた。したがって書き込まれる内容も、確たるものではなく、「ほかなき事」である、と隆子は言っている。彼女の言う「ほかなき事」とは、物語の世界であり、和歌の世界であり、言ってみれば、日常的な体験から触発されて想起する古典の世界であり、和歌を詠じたりする、心象の文芸的世界が中核をなしている。少なくとも、『日記』初発の頃はそうであった。当然のこととして、古典の諸作品が多く引用されたり、自らの行文の中に利用され
る事となる。

引用され利用される古典の中でも『源氏物語』は、『万葉集』『古今集』『拾遺集』『古事記』『日本書紀』等に続いて、多く利用されている。隆子が利用していた『源氏物語』の本文は、別本系統の版本ではないかと推測される。今回は、とりあえず『湖月抄』を使用したが、おそらく、隆子は、このように詳細な注のあるテキストではなく、もっとすっきりした版本を使っていたものと思われる。

隆子の『源氏物語』の利用は、いずれかと言うならば、引用的ではなく、自分の文章表現の雰囲気や情趣などに適合した条々を想起し、これを引き合いに出す、という事が多い。これは、十分に出典を理解し、咀嚼していて初めて可能な事である。隆子の教養の深さと、文章表現の力量の程が推測される。また、事物起源考的な興味から『源氏物語』本文を利用する事もあるが、これは、当時、考証随筆が流行していた事と関連しているものと思われる。ただし、隆子は、その疑問を徹底的に追究することなく、さらりと切り上げている。ここに創作者としての一面を知ることが
出来る。

隆子は、『源氏物語』をはじめ、多くの古典を高く評価し、これを利用はしているが、決して、その古典の世界に埋没してはいない。これは、文学ほど、その時代その時代の人々の様子を活き活きと伝えるものはない、という認識と、自分の生きている、現実の天保期の、この大江戸の様子を後世に伝えたい、という思いとがあったからであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・

●この一文は、「講座 源氏物語研究 第5巻 江戸時代の源氏物語」(平成20年9月20日、おうふう発行)に寄稿したものである。10年ほど前のものである。井関隆子の古典利用が、単に引用して利用するようなレベルではないことが、理解して頂けると思う。