德川宗家と甲斐の山猿

德川宗家と甲斐の山猿
2018.11.29 Thursday

●平成21年(2009)9月12日、第36回・東京原村会で、お話しする機会を頂いた。それまで研究してきた、幕末旗本女性・井関隆子に関して話すように、という斎藤会長さんの依頼によるものであった。現在の身延町になる前の、原村会、親戚もいた、同級生もいた、隣近所の人々もいた。八日市場・大子山・伊沼・飯富などの人々が集まる。そこで、〔徳川宗家と甲斐の山猿〕というようなサブタイトルを付けた。
●実は、私は、徳川将軍家、第16代・徳川家達(いえさと)の娘の繁子氏と交流があった。徳川繁子氏は、伯爵松平直国の妻であったが、非常に学問好きであって、昭和57年9月、縁あって『井関隆子日記』を差し上げたところ、大変喜ばれ、一度会いましょう、ということになった。お会いするのを楽しみしていた。
●ところが、その12月に繁子氏は他界されてしまった。 12月11日に上野寛永寺で葬儀・告別式が行われ、私も参列した。緋の衣の僧侶が10人以上はいたと思う。造形美術大学の上木敏郎先生と一緒に行ったが、上木先生が御多忙ということで、焼香の順番を繰り上げて、親族の次に変更してもらった。
●お焼香までの間、私は、そこで、徳川家の親族の方々の会話に接した。徳川時代にタイムスリップしたのではないかと、大変なショックを受けた。一族の間では、このような儀式の時には、現在もなお、江戸時代の言葉遣いで、その仕来りが伝えられているのである。
●世が世であれば、甲斐の山猿の子孫の私が、徳川将軍家の葬儀に参列して、親族の次、まるで大老・老中の順番で焼香する事などは不可能である。これも、研究の御蔭かも知れないと、このようなサブタイトルを付けた。
●東京原村会も、多忙な時は参加できなかったが、原小学校の同級生、望月光弥君が会長になってからは、積極的に参加した。それで、このようなチャンスを頂いた。感謝感激、お礼の意味で、『旗本夫人が見た江戸・・・』を30冊ほど持参して、抽選で差し上げたら、サインしてくれと頼まれた。何か、有名人になったような気分を味わった。有難い思い出である。

德川家斉と盆栽

德川家斉と盆栽
2018.11.23 Friday

●白根孝胤氏の「名古屋城庭園の植栽空間と徳川斉朝」(『徳川林政史研究所研究紀要』第48号、2014年3月)で、『井関隆子日記』の記述を引用している。天保11年10月4日の条である。
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「 将軍家斉は盆栽を好み、自ら鉢植えの手入れをするほどであった。旗本井関親興の妻である隆子の日記には、「西の太政大臣の君、殊に植木を好ませ給ふとぞ。一とせ此松のつくり様を御覧ぜしに、葉の打繁りたるさま御心にかなひ、愛させ給へりしより、なべて世にももてはやしけるとなん。此木の種かずある中に、葉のいとさゝやかなるを、根岸五葉、会津五葉などいへり」とあり、とくに松の盆栽に関心をもち、葉の繁る様子から五葉松が好みであったことがうかがえる。当主斉朝は、「公方様御手自御鉢江土添被為遊御手植ニ而御拝領、文政五午年十一月廿二日御渡」と、将箪
家斉自身が手入れしていた鉢植えの五葉松を拝領している。……」
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●井関隆子の孫、親賢も盆栽に凝っていて、庭には棚を作って沢山並べている。家斉の盆栽好きに影響されたのであろうか。

今日は何の日

今日は何の日
2018.11.17 Saturday

●今日、北中理髪店へ行ったら、御主人が、先生から貰った手拭が出てきました。と見せてくれた。そういえば、この理髪店には、40年間、お世話になっている。髪の毛がフサフサしている頃から、白髪が混じり出した頃、そうして、ツルツルになった現在まで、お世話になってきた。長い付き合いである。床屋さんは、2時間近く、お世話になるので、世間話や身の上話、様々話し合う。それで、こんな手拭を差し上げたのだろう。それを捨てないで、保存していてくれたのである。

●平成16年(2004)、大阪の和泉書院から『井関隆子の研究』を出した。その時、ごく親しい方々に、本に添えて、半分に切断して、布巾にして下さい、と差上げたものである。実は、その前年、息子と2人で、ドイツ、スイス、フランスの観光旅行に行った。8日間の旅であるから、一行の人々とも仲良しになる。その中に、亀戸の染色会社の社長さんがいた。雑談の中で、作って上げますよ、となって作って貰ったもの。

●この旅行は、40名位のツアーであったが、私は、何もせず、全て息子に任せた。最終日、パリで自由時間ができた。ルイヴィトンの本店にも行ったが、息子に頼んで、ロダン美術館へ連れて行ってもらった。息子は、地下鉄の路線図を確認して、私の願いを叶えてくれた。地下鉄から地上へ出たら、目の前が、ロダン美術館だった。バルザック像の第1号を観られて、大感激し、息子に感謝、感謝だった。

古典の現代語訳・2題

古典の現代語訳・2題
2018.11.05 Monday

① 『井関隆子日記』の現代語訳
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井関隆子日記〈上巻〉 (1978年)
2012年2月6日

未読 現代語訳でないので難しい。
でも、この本を参考文献にした作家達のコメントを見ると、どうやらとても面白い内容が書いてあるらしい。
是非、現代語訳を誰か書いて欲しい。
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●今日、この『井関隆子日記』の現代語訳に関して、このようなブログを見た。実は、大阪の和泉書院から、井関隆子の研究書を出す前、ある大学の教授から、某新聞社が、この日記の現代語訳を出さないか、と言っている、やりませんか、と問い合わせがあった。私としては、研究書も出していないので、引き受けられない、とお答えしたことがあった。
●文春新書から『旗本夫人・・・』を出した時、あるブログで、この本の現代語訳が「ぞんざい」であると書いているのにであった。私は、現代語訳を「いいかげん」に扱ってはいない。それに、この本の中では、原本の意訳であると明記している。
●古典の文章を現代の人々に伝える時、現代語訳をする。いい例が、『源氏物語』である。数多くの『源語』の現代語訳が出ている。これを比較してみれば、よく解ることである。問題は、原典の言いたいことを、現代の人々に伝えることが大切なのである。その場合、時として、文法的に正確な現代語訳よりも、意訳の方が効果的なのである。
●ついでに書くが、この文春新書を出した時、様々なコメントが、ネット上に書き込まれた。毀誉褒貶、様々であった。その主要なものは、『芸文稿』第4号(平成23年4月)に、44頁にわたって紹介した。
投稿日:2018年2月7日作成者fukaakiカテゴリー井関隆子【深沢秋男の窓】

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② 古典の現代語訳  (2014-12-10)

●今日の朝日新聞で、池澤夏樹と大江健三郎の対談を取り上げている。池澤夏樹個人編集の「日本文学全集」全30巻、河出書房新社に関連してのもの。今度の全集で、古典の現代語訳に取り組むのは25人だという。大江は、
●「翻訳することで、作家は自分の表現や文学観を超えるだろう。日本文学が変わると思う」と期待しているという。私も、この全集の内容見本を見て、古典の現代語訳の担当者を見て、期待できるという予感を覚えた。
●古典の現代語訳は、訳者によって、かなり違う。『与謝野源氏』と『谷崎源氏』を比較しても、その差は歴然たるものがある。私が、学生時代に感じたことを、近時、田中宏氏が実証してくれた。(『芸文稿』1号~11号)
●以前、『井関隆子日記』を新書で紹介した時、私の原文の〈意訳〉の部分をとらえて「ぞんざいな現代語訳」とネット上で評した御仁がいた。古典を現在の一般読者に紹介するには、それなりの方法・手段があるのである。大学入試の問題とは、全くちがう。
●何はともあれ、今度の「日本文学全集」の古典の現代語訳の担当者の手腕に期待したい。何よりも、古典の良さを現在の人々に知って欲しい
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●池澤夏樹氏の「日本文学全集」は、売れ行き好調で、作家による、古典の現代語訳が現代の人々に受け入れられていることを物語っている。
●昨日、とても嬉しいことがあった。ある作家が、『井関隆子日記』を全巻、現代語訳しようか、とメールをくれた。私が、この日記を出したのは、もう40年も前のことである。その後、大学センター試験、明治大学入試、京都大学入試、にも採用され、今では、高校の授業でも取り上げられている。また、近世の日記文学としての評価も定着しつつある。
●このような状況の折、原典を現在の人々にも解りやすく読める、現代語訳が出ることは、誠に有難い。この日記の良さ、面白さを、より多くの人々に知って欲しい。全巻現代語訳は、大事業であるが、この提案が実現することを願っている。

〔幕末気象台〕

〔幕末気象台〕
2018.09.27 Thursday

自己紹介
日本史好きの気象予報士です、天気予報の技術革新について行けず、各種の日記から幕末の天気を調べています。よろしく

天保十一年十一月一日(西暦1840年11月24日)、江戸城黒書院の天気
2018-03-14 23:07:33 | Weblog
天保十一年十一月一日、酒井忠発が、江戸城黒書院で、三方領地替を言い渡されました。
忠発と庄内藩にとりましては、まさに「青天の霹靂」 でありました。

ところで、当日の江戸の天気はどうだったでしょうか。
江戸九段下の【井関隆子日記】によりますと、「時雨の雲も昨日に尽ぬるにか、日影花やかに晴わたりぬ 」
となりまして、前日までのぐずついた天気がようやく晴渡ったようです。

全国の天気分布図を見ますと、

となっており、日本海側の一部を除き日本列島は概ね晴 になっております。
忠発の言い渡された時間は正午前後と考えられますので、

午正晴、55度、29寸7分【霊憲候簿】 言い渡された時の江戸城黒書院での天気は晴、気温は摂氏12,8度前後で、
暮れも程近い、新暦11月24日としては穏やかな天気でしたが、天気とは裏腹に「神田大黒」の庄内藩江戸屋敷は
暗雲 の中にあったと考えられます。

柴又の寅さんに言わせれば「空は晴れても、心は闇よ」と言ったところでしょうか。

冗談はさておき、暮れには早速国元に向けて、矢口弥兵衛が早駕篭で出立します 。
早駕篭出発の時は、気温は摂氏11.7度と高めでしたが、江戸も曇り となりました。

秋田、山形では、一月前の十月一日に初雪 が降っており、道中の雪も心配です。

興味は尽きませんが、夜も更けましたので、今日はこの辺で「おやすみなさい」

出版と私 ③

出版と私 ③
2018.09.19 Wednesday

文春新書『旗本夫人・・・』のこと

●私は、一生に一度だけ、啓蒙書を書いた。大学を定年退職してからである。それが、文春新書の『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』たった。
●啓蒙書は、初めてのことでもあり、文春の担当編集者の協力で、何回も何回も書き直した。途中で嫌になり、一時、ほっておいたこともあったが、気を取り直して、やっと書き上げた。編集者の、甘辛のアドバイスがなければ、日の目はみなかった本である。
●発行後は、予想外の売れ行きで、驚いた。以下、その状況を列挙してみる。

『旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記』

発行・販売経過

2007年(平成19年)11月20日 第1刷発行
2007年(平成19年)12月25日 第2刷発行
2008年(平成20年)1月10日 第3刷発行
2008年(平成20年)1月20日 第4刷発行
2008年(平成20年)2月5日 第5刷発行
2008年(平成20年)4月25日 第6刷発行

紀伊国屋書店BookWeb 新書 週間ベストセラー
●2007年12月10日~2007年12月16日
 ①女性の品格 ②大人の見識 ③水妖日にご用心 〔61〕旗本夫人
●2007年12月17日~2007年12月23日
 ①親の品格 ②女性の品格 ③ビジネスマナー入門 〔23〕旗本夫人
●2007年12月24日~2007年12月30日
 ①女性の品格 ②親の品格 ③日本の10大新宗教 〔49〕旗本夫人
●2007年12月31日~2008年01月06日
 ①女性の品格 ②親の品格 ③日本の10大新宗教 〔42〕旗本夫人
●2008年01月07日~2008年01月13日
  ①親の品格 ②女性の品格 ③大人の見識〔51〕旗本夫人
●2008年01月21日~2008年01月27日
  ①親の品格 ②女性の品格 ③大人の見識〔26〕旗本夫人

八重洲ブックセンター ベストセラー 新書
●期間 2007年12月16日~2007年12月22日
 ①大人の見識 ②日本の10大新宗教 ③親の品格 ⑥旗本夫人
●期間 2008年01月20日~2008年01月26日
 ①大人の見識 ②占領と改革 ③昭和天皇 ⑨旗本夫人

アマゾン売れ筋ランキング ノンフィクション
●2007年12月27日
 ①ひとつ村上さんでやってみるか ②今日は口めにもってこいの日 ③クラークゲイブル ⑥旗本夫人
●2008年2月12日
 ①余命1ヶ月の花嫁 ②スティーブ ジョブズ 偉大なるクリエイティブ・ディレクターの軌跡 ③うつから帰って参りました 〔15〕旗本夫人

アマゾンの図書館 ノンフィクション  歴史・地理
●2007年12月27日
 ①チ工・ゲバラ伝 ②墜落遺体一御巣鷹山の日航機123便 ③旗本夫人
●2008年01月08日
 ①旗本夫人 ②一冊の手帳で夢は必ずかなう ③本田宗一郎 夢を力に
●2008年01月28日
 ①ローマ人の物語 ②ローマ人の物語 ③ねこばば ⑨旗本夫人

TSUTAYA online 新書・教養
●2007年11月28日
 ①女性の品格 ②いつまでもデブと思うなよ ③脳が冴える・・ 〔57〕旗本夫人

呉服町店 新書ランキング 2007年:L2月14日
 ①脳が冴える15の習慣 ②生物と無生物の間 ③ST桃太郎伝説殺人ファイル ⑧旗本夫人

ブックストア談 浜松町店 教養新書 2007年12月16日
① 生物と無生物の間 ②親の品格 ③女性の品格 〔16〕旗本夫人

セブンアンドワイ 教養新書、選書 2007年12月19日
① 親の品格 ②女性の品格 ③熱湯経営 〔11〕旗本夫人

オリオン書房 新書ベストセラー 2007年12月25日
① 親の品格 ②女性の品格 ③水妖日にご用心 〔20〕旗本夫人

GUPPY ノンフィクション 2007年12月27日
① 累犯障害者 ②外資系トップの仕事力 ③人生の旋律 ⑩旗本夫人
【以下、省略】

●とにかく、増刷に次ぐ増刷で、最初の頃は、誤植の訂正もした。平成20年(2008)元旦の、文藝春秋の広告〔謹賀新年〕の中にも入った。書評も、朝日新聞の、野口武彦氏の大きなものを始め、たくさんの新聞・雑誌に出た。印税もたくさんまらった。私にとっては、一生に一回の、夢のようなひと時だったと言える。
●しかし、出版と私の関りは、このような事ではなかった。〔出版〕の語源の、EDERE(ラテン語)=〔生み出す〕だったのである。これなくして、出版の意義はない。そのように思っている。

■朝日新聞 平成20年(2008)1月1日

■房日新聞 2007年12月16日

今日の花 ススキ

今日の花 ススキ
2018.09.15 Saturday

●9月15日、今日の花はススキ、花ことばは〔活力〕。朝、ラジオで聞いた。ススキと言えば、井関隆子を思い出す。隆子は草花の中で、ススキを、その司だとして好んでいた。
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「己れ、とりわき薄をめでゝ、昔も今も、せばき前栽にところせう植置て、明暮見れども、あくよなむなき。こゝら繁れる中に、早稲穂の薄一卜村、きのふけふ、かつがつ穂に咲出ぬ。一とせ五月の二十日あまりに、穂に出たりしを、ある人につかはすとて、
  郭公きなく五月の花すゝき をりたがへりと人の見るらむ   
今年は降続きたるげにか、こよなうおくれたり。……」
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●春も夏も秋も、冬でさえも、ススキを愛でていた。自分の庭にはススキを植えて、鹿屋園(かやぞの)と名付け、自分を、鹿屋園の庵主(かやぞののいおぬし)と称していた。
●9月15日、井関隆子の日、言ってもいいだろう。

『井関隆子日記』の新情報

『井関隆子日記』の新情報
2018.09.12 Wednesday

「井関隆子日記」の出品商品、直近30日の落札商品はありませんでした。
•新品参考価格
77,474円
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●「日本の古本屋」では、次の通り。77474円は、どのようにして算出したのだろうか。

●井関隆子日記 中巻
¥10,000
深沢秋男 校注、勉誠社、昭55、1冊
函、ビニカバ付
●井関隆子日記 全 3巻揃
¥23,500
深沢秋男校注、勉誠社、昭53-56、3冊
函、ビニカバ、美
●井関隆子日記 上・中・下 全3冊揃
¥20,000
深沢秋男・校注/鹿島則幸(原本所蔵)、勉誠社、昭和53年、3冊 函
●井関隆子日記
¥19,000
深沢秋男校注、勉誠社、昭56、3冊
上中下3冊揃セット 函(シミ・汚れ・少破れ)付 全体ヤケ 表紙少シミ・少ヨレ 地に大学名印・日付印有り 見返し・始頁シミ

上知令と『井関隆子日記』

上知令と『井関隆子日記』
2018.09.06 Thursday

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『井関隆子日記』にみられる武家の「家」観念
              朝倉有子

 日本の近世史研究において家族史研究、及び女性史研究に欠くことのできない史料の一つに宗門人別帳があるが、最近は宗門帳を利用した研究が著しい進展をみせている。たとえば、農村女性のライフサイクルといった観点からの分析、封建制の動揺が農民の家督相続の上にどのような変化を与えたかを検証したもの、さらに一ケ村のみでなく、より広い地域の中で農民家族の動向を考えるもの等々、貴重な成果が蓄積されている。
 家族史、女性史の立場から光をあてることによって、すでに定説化されている、あるいは評価が定まっている歴史事象の新しい側面を描き出していくのが家族史、女性史研究の眼目の一つであり、前述の諸成果もそのような立場から新しい歴史像を構築したものである。私の家族史に対する関心もそこにあるといえよう。
 一方、農民ではなく、武家の家族の日常を窺いうる史料の一つに『井関隆子日記』(深沢秋男校注・勉誠社刊)があるが、この『日記』は井関家に代表される旗本層の日常を伝えてくれるとともに、従来とは多少異なる歴史の見方を提示してくれる素材であるように思われる。
 たとえば、天保改革時の上知令は、江戸、大坂周辺の大名、旗本の領知を上知することで幕領の一円化をめざした、幕権強化政策であると評価されている。しかし、『日記』では、「おのおの遠つ祖のいさをにより、いともかしこき神ノ命の身自ら御杖先もてさし給はれる処、あるは末の世長うかはることあるまじき標のふみに、御朱印おして給はれるなど、家と宝とひめおきしもこたびの御定によりみないたづらとなりぬ」、「其祖の墓などあるはことに歎きわびあへる」と、家の祖先の戦功によって獲得した知行地の喪失、家宝である朱印状を反故とし、累代の墓所を失うことと、もっぱら「家」の観点から述べられている。すなわち、上知令とは旗本層にとって「家」の存続の危機であり、幕府による彼らの「家」の否定として認識されているのである。したがって、『日記』では「利を思ふ」のではなく、「家」の存続の面から、上知令に対する批判が展開されていくのである。
 ささやかな例ではあるが、今後このような事例をつみ重ねていくことで、歴史事実を見直す作業を続けてゆきたい。
               (お茶の水女子大・日本近世史)
(『比較家族史研究』創刊号、1986年9月、比較家族史学会)
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●30年前に出た〔研究余滴 ?〕に、今日、出会った。筆者は、その後、研究を進めておられるのであろうか。それは、確認していない。とにかく、このようにして、天保期の井関隆子の記録が、後世の人々に活用されることは、隆子自身の望んだことである。隆子は、情報の出所、情報の信頼度を意識して記録している。それ故に、天保期の江戸の状況を知る上で役立つのだと思う。文学史の上でも、歴史の上でも、耐えるものだと信じている。

新田孝子氏の「文章千古事」

新田孝子氏の「文章千古事」

●新田孝子氏は、東北大学を定年退官するにあたって、次のような文章を書いておられる。井関隆子に関する文献として、極めて貴重な内容であると思われるので、ここに収録させて頂くことにした。新田氏の御研究は、井関隆子研究の上で、重要な位置を占めている。改めて感謝申し上げます。
2018年8月21日   深沢秋男
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定年退官にあたって

調査研究室研究員・文博   新田孝子

『さくら雄が物かたり』との遭遇

学部・院生時代は、研究室備え付け図書で充分だったので、あまり図書館を利用しなかったのだが、『東北大学所蔵和漢書古典分類目録』編纂事業のスタッフとして、東北大学附属図書館に勤務するようになると、本館の蔵書構成の素晴らしさは、古典研究者としての新田を魅了してやまなかった。どこに行っても、これほど研究上高度な蔵書を有する大学はない。それは火を見るよりも明らかだった。
研究者の常として、蔵書を利用するにしても、とかく自分の守備範囲に限られがちである。しかし、蔵書目録を編纂するという仕事は、蔵書全般に立ち入って、広く博捜する手続きを踏まなければならない。平安朝文芸を専攻した新田が、江戸期の作品に親炙するようになったのは「狩野文庫」の大部分が、江戸期の作品によって占められていたからである。
「狩野文庫」に「さくら雄が物かたり」という写本があった。一丁十三行の擬古物語である。仮名垣魯文の蔵書印が捺され、「此たはれふミハある人文会とて月毎にかれ是つどひておのが心々の文出しける時に物しはべりし也/天保とふとしの九とせ/
鹿屋園のいほぬし源隆子しるす」という奥書が附されている。新田には、この「鹿屋園」をどう読むべきか、少しも見当がつかなかったので、目録の編纂者としては、作者名を「源隆子ミナモトノリュウシ」と記入して済ませたのだが、長い間、後味の悪い思いに苛まれた。

『井関隆子日記』の出現

数年が過ぎた。ある日、参考コーナーで勉誠社の出版目録を見て、『井関隆子日記』という図書が出版されたことを知り、ゆくりなくも〈鹿屋園の源隆子〉を思い出した。早速、取り寄せてみたところ、「源隆子」はまさに、「井関隆子」その人であることが判明するに至ったのである。おのずから、どうにも読めなかった「鹿屋園」が、「カヤソノ」であることも明らかになった。「かや」はすなわち「薄ススキ」であり、隆子は、群草の中に一きわ高々と抜きん出てさく薄を、「草の司クサノツカサ」として鍾愛し、その薄のいっぱい生えている自宅の庭を「かやその」と自称し、記紀の野の神「鹿屋野比売神カヤノヒメノカミ」の名に因んで、「鹿屋園」と表記したのである。この明快なる解答を得た瞬間の、天にも昇る嬉しさは、まさに譬えようもなかった。さしづめ『更級日記』の著者の、「后のくらゐも何にかはせむ」というところであった。
 改めて、『国書総目録』を繰ると、第三巻に「さくら雄か物かたり 六巻一冊 源隆子編 写 東北大狩野」とあり、第五巻に「天保日記 一二冊 井筒隆女 写 桜山」と見えている。誰であれ、この両者の著者が同一人であることに、どうして気付き得るだろうか。『国書総目録著者別索引』では。前者を「ミナモトノリュウシ」とし、後者を「ヰツツタカ」として、別々に配列させざるを得なかったのも無理はないと思う。正しくは「ヰセキタカコ」である。

深沢秋男氏の研究

 さて、『井関隆子日記』は「桜山文庫」に伝来された。井関隆子の〈自筆日記〉で、全十二冊におよぶ大部のものである。「桜山文庫」は鹿島神社宮司家鹿島則幸氏の蔵書を指呼する称であって、隆子の〈自筆日記〉は、先代鹿島則文氏の識語により、明治14年神田淡路町の書肆から購入されたものであることがわかる。隆子の創作である「さくら雄が物かたり」が「狩野文庫」に、〈自筆日記〉が「桜山文庫」にあるということは、明治維新により、瓦解した士族階級から流出した蔵書類が書肆の手を経て、それぞれ、狩野亨吉氏と鹿島則文氏によって購入されることになるという、当代の文庫形成の流れを如実に示す好例であろう。
 勉誠社刊『井関隆子日記』の校注者深澤秋男氏は、隆子の死後百三十年を数える昭和47年から調査を開始し、ほぼ十年の研鑚を経て、上中下三巻に編み、昭和53年~56年に勉誠社から刊行したのであった。深澤氏の研究によれば、隆子の子孫である井関家は、戦前東京三ノ輪に居住し、昭和20年3月9日の東京大空襲により全焼したという。したがって、それより以前に、〈自筆日記〉が井関家から持ち出されていなかったとしたら、当然にそのまま灰燼に帰してしまったに相違ない。「鹿屋園」の疑問も、永遠に解けることはなかった。それを思うと、〈自筆日記〉が今日に伝来し、深澤秋男氏と出会って、学界に紹介されるに至ったという幸運を、心から感謝せずにはいられない。

井関隆子の生涯

 井関隆子の実家庄田家は、代々徳川将軍家に仕える旗本である。隆子は、本家三千石から分知した、分家四百石大番衆庄田安僚の四女として、天明5年6月21日に生まれた。幼名を「キチ」という。『庄田家系譜』の隆子の条に「大御番山口周防守組 松波源右衛門妻 不縁に付 西丸御納戸組頭 井関弥右衛門」とある。
 隆子はなぜか、所縁ととのわず、年闌けてから後妻として再婚したのである。しかも、自らの子には恵まれず、義理ある二児を育てたのみで十余年の結婚生活ののち、夫に先立たれた。嫁ぎ先の井関家もまた、代々将軍家に仕えた旗本であり、隆子は、常に将軍家の繁栄のみをひたすら祈念する生粋の旗本人種であった。〈自筆日記〉は、天保11年の元旦を始発とする。この時の井関家の家族構成をみると、五十六歳になる著者隆子、二丸留守居を勤める当主の親経、親経の妻、家慶の小納戸を勤める親賢、親賢の妻(親経の長女)、親経の三女(二十三四歳になるが未婚)、十一歳になる親賢の長男、以上の七名である。隆子は、いわば、〈旗本家の御後室様〉であり、別棟の離れに住んで、通常は食事なども、独りで摂っていた。したがって、隆子はあり余る時間を持っていたのであり、その時間を、すべて執筆に注ぎ込んだのである。〈自筆日記〉は、「日次ヒナミ」の日記ではあるが毎日ではなく、天保11年2月10日の日付が重複している一例により、草稿を清書するという手続きを経て現在の姿になったものであることが知られる。

「文章千古事」

 〈自筆日記〉は天保15年10月11日で終り、その二十日後の11月1日、かねて望んでいた通り、ただ、三日ほど寝込んだだけで隆子は没した。その二十年後には明治維新を迎え、隆子の生き甲斐であった「上様の御旗本」の世界は跡形もなく崩壊する。けだし、隆子が薄を「草の司」として鍾愛したのは、「公仕うまつる家」の誇りを抱きつつ、将軍家と共に過去から現代へ、さらに現在から未来へと連綿と繋がり栄えていく旗本階級に自然にはぐくまれるであろう、高きもの、すくよかなるもの、毅然たるもの、健全なるもの、支配者的なるものに対する傾倒に他にらなかった。
 振り返れば、茫々たる来し方にただ一つ、燦として虚空にかかるのは、「文章千古事」の真実である。   (にった・たかこ)
(『東北大学附属図書館報』Vol,20,No4,1996)
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●この文章を頂いた時、私は、篆刻家、冨樫省艸氏に依頼して、「文章千古事」を刻してもらって、新田氏に差し上げた。