『井関隆子日記』の複写

『井関隆子日記』の複写

  • 2020.05.29 Friday
『井関隆子日記』の複写

●この度、『芸文稿』第13号に「研究生活の思い出―井関隆子」という雑文を書いた。昨日、初校が終り、編集部へ返送した。この稿に『井関隆子日記』の部分の写真を掲載したいと、昭和女子大学図書館へ掲載許可願を提出したが、システムが変更になって、デジタルで、図書館で複写してくれることになった。

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◆平成18年6月16日(金)  2006年の記録

●13日は、久し振りに仕事をした、という1日であった。火曜日なので、大学へ行ったが、イデタチが凄い。我ながら行き過ぎかなと思った。両手にはProtecaのカバンと黒の布袋、いずれも教材。背中には、ニコンF6とD100を入れたリュックを背負った。慎重を期して駅までは妻に送ってもらう。

●2コマ終了後、図書館へ回り、かねて依頼してあった、『井関隆子日記』の複写をさせてもらった。3時から5時までの2時間。何回も何回も手にし、読みふけった幕末旗本夫人の日記の原本であるが、久し振りに挿絵等の部分を複写させてもらった。汗の出ないように冷房してもらい、夢中でシャッターを切り続けた。前之園さんに返却して図書館を出た時、ドット疲れが襲った。

●久し振りにキャンデーに回ってコーヒーを飲み、ひと息入れて、帰宅した。思えば、この喫茶店にもお世話になったものである。昭和に勤務していた頃は、毎朝ここに寄った。多くは副学長だった岡村先生と一緒。たまに、原田・松本両副学長も寄られた。22年間であるから長かった。今となれば、いずれも、良い思い出となった。岡村・原田・松本の先生はお元気だろうか。たまには、御連絡したいと思う。

●若い頃は、この出で立ちに三脚を追加して、全国の図書館や大学を歩いた。複写したものが失敗して、思うように撮れていない事もあり、そんな時は再度出かける。この労働に耐えられなくなったら、私の研究は終りである。昨日の疲労感は、ソロソロ終りかな、と思わせた。

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女性研究者

女性研究者
2020.05.28 Thursday00:21

  • 今日、ネット上で、女性研究者を対象とする研究に関して出ていた。その中に、私の『井関隆子の研究』も入っていた。私は、昭和女子大学で『井関隆子日記』を講義していた頃、近世の女性歌人・俳人・文人に関しても、研究しようと考えたが、時間的にゆとりがなく、あきらめた。やがて、若い研究者が、拡大・深化してくれるだろう。

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女性研究者を対象とした研究助成」A 実施報告書
所 属 部 局・職名 釧路校・
准教授 氏 名 雲岡梓

《上記研究助成を受けて得られた効果等について》
国文学に関する講義では、古典文学等の文学作品の他、それらに関連する研究書・研究 論文・一般書等を広く参照し、最新の学説・研究状況を反映させることが必須である。そ こで、女性研究者を対象とした研究助成金にて、第一に授業資料作成のための下記の参考 図書を購入した。

『井関隆子の研究』・『夫木和歌抄 編纂と享受』・『異体字の世界 最新版』・『新版 おく のほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き』・『現代語訳 南総里見八犬伝 上・下』・『現代語 訳 江戸怪異草子』・『平田篤胤 交響する死者・生者・神々』・『現代語訳江戸の伝奇小説』・ 『稲生物怪録 平田篤胤が解く』・『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を 読む』・『書いておぼえる江戸のくずし字いろは入門』・『古文書はこんなに面白い』・『江馬 細香―化政期の女流詩人』・『女性漢詩人 原采蘋詩と生涯』・『増訂 原采蘋伝』他
これらの図書は、担当する「日本文学講読」「日本文学特講」「日本文学概論」「日本文学 史」等で配布する授業資料作成のために活用する。

これらから得た知識を新年度の講義内 容に活かし、学生により良い学びを提供できるよう努力する所存である。 第二に、自身の研究課題である江戸女流文学の研究のため、和装本『列女百人一首』(緑 亭川柳編 葛飾北斎、豊国画、山口屋藤兵衛板、弘化 4 年刊)・『和漢三才図会』影印本(新 典社、昭和 54 年)・「怪世譚紙焼き資料」(実践女子大学図書館所蔵)を購入した。和装本、 紙焼き等の原資料や影印本を用いることによって、高い研究成果を出すことが期待できる。 第三に、ハンドスキャナー・SD カード・コピー用紙・ボールペン等の消耗品を購入した。 これらは日々の業務に活用していきたい。 女性研究者を対象とした研究助成にてご支援いただいたことで、教育・研究両面ともに 有効活用できる資料を収集することができ、深く感謝申し上げます。
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田中伸先生の批評眼

田中伸先生の批評眼

  • 2020.03.28 Saturday

●『井関隆子日記』がようやく刊行された。昭和53年(1978)~昭和56年。全3巻。

●本が出来れば、お世話になった方々に献呈する。しかし、仮名草子研究に打ち込んで来た私には、仮名草子研究者以外の知り合いはなかった。当然、寄贈された方々も、畑違いの『日記』には、戸惑うばかりだったと思う。

●そんな中で、田中伸氏は違っていた。上巻刊行と同時に、全体を読み、励ましの御返事を下さった。その上、二松学舎大学の公開講座で取り上げて下さり、大学院でも講義・購読に採用して下さったのである。

●完結と同時に、次のような新刊紹介を執筆して下さった。

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新刊紹介 『井関隆子日記』    田中伸
【『週刊読書人』第1402号、昭和56年10月12日】

昭和五十年頃から深沢秋男氏は、この『井関隆子日記』(一名「天保日記」)全十二冊についての研究を次々と発表し、遂に今年六月その校注本をB6判三巻として完成した。この日記は近世女流日記文学の代表作として位置すべきものと私は思っているが、これをこうして適切な脚汪までそえて発表された事は、近世文学研究に携わる立場からしても誠に有難いことである。それは第一にこの日記が女性の筆になるものでありながら、実に広い視野をもち、流麗な雅文でそれを叙しているからである。

作者隆子は、九段下四辻の東南角に屋敷を持つ旗本井関縫殿頭親経の義母に当り、文政九年(一八二六)に没した弥右衛門親興の未亡人である。日記は作者五十六才の天保十一年(一八四○)一月一日に始まり、十一年は四冊、十二~十五年は各二冊宛からなり、日々の生活・年中行事・四季の変化・折々の見聞・感想・思い出咄・社会の出来事・風俗・政治の動き・文学学問のこと・和歌等々が、実に多岐に亘った内容である。天保十一の記事が他に比して多いのは、作者が意識して社会的風俗的記事を盛り込んだためと見られ、親経は二丸御留守居(二百五十俵)という閑職にあり、孫親賢は御小納戸衆(三百俵)で、家庭的にも平穏でまた後年のような政変も少ないための叙述の意図と見られる。その社会風俗には婦人の服装・髪形には絵までそえ、花見の様子、料理仕出しの事、町家のさま、下肥えのこと、眼力太夫の見せ物、煙草のことと多彩で、作者がどうして知ったかと思われるような吉原の遊女のことから地獄宿にまで至っている。品川の岡場所にもふれ、落語の『品川心中』の原話かと思われる咄も長々と語られる。特に現在「とんびに油げさらわれる」の俗諺を地で行く天気の良い日、野原で飛び集ってくる鳶に油揚を投げ上げて、これをとらせるという遊びの様が描かれてもいるのは面白い。

しかも、これらはすべて擬古文ともいうべき雅文で綴られ、折々の四季の風物の描写と共に仲々の作と見られる和歌を折り込み、如何にも飾らない作者の感情が流れ、読む者を飽かせないのである。

政治の動き、将軍家の様子などにもくわしく、天保十二年閏一月晦日の薨去と一般に伝えられる将軍家斉は、実はその閏一月七日の夕刻であったことなども判る。更に水野越前守の政策で林肥後・水野美濃・美濃部筑前の失脚や、矢部駿河が司召放しに逢い、伊勢桑名に連行せられ、四ケ月後には絶食して果てたことなど、坦々とした叙述の中に作者の批判の眼がしのばれる。特に印旛沼干拓事業に対し「水鳥」という怪異物語を創作して暗に強い批判を示している。更には遂に水野越前の失脚の際、水野の屋敷に町人下衆どもが集って石を打ちつけ門など打ちこわすなどの騒ぎなども描かれている。

家族のことも、親経が御広敷用人(七百俵)になった喜び、広大院の使いで京都へ旅するを案じ、親賢が堅物射の競いで見事な腕を見せたことなど誠に楽しげに伝えている。

僅かの枚数でその内容を伝えるのはむずかしいのであるが、隆子は真に近世末のインテリ女性というにふさわしく、いたずらに花鳥風月にのみ遊ぶという日記ではなく、この天保末の息吹きを脈々と伝える日記というべきで、これをあえて世に知らしめた深沢氏の努力は、今後の研究によって一層大きな成果を示すであろう。

(各B6、〔上〕四五九頁・〔中〕四五六頁・〔下〕三九六頁・各四五〇〇円・勉誠社)

(たなか・しん氏=二松学舎大学教授・日本近世文専攻)

◇ 写真は天保11年2月1日分にそえられた婦人の服装・髪形の絵――上巻から

見出し=天保の息吹きを脈々と伝える
近世女流日記文学として位置すべき作品

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井関隆子の花見

井関隆子の花見

  • 2020.03.25 Wednesday

井関隆子の花見

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今日ただいま桜は満開。なんとなく日本人は浮かれている。さかのぼって江戸の人々の花見やいかに。渡辺京二著「逝きし世の面影」平凡社ライブラリーという著書の第十一章風景とコスモスの中に、江戸の花見の様子が記されている。なかなか面白いので、ちょっと長いが取り上げて昔の花見の様子を覗いてみる。

―川添登によれば、江戸の桜花見の元祖は上野寛永寺で、寛文・延宝期(十七世紀後半)にはすでに鳴り物入りで酒宴が行われていたという。しかし一六七〇年代になると、鳴り物はご法度などとかなり規制が進んで、元文年間(一七三〇年代)には賑わいは飛鳥山へ移り、さらに寛文期(一八世紀末)には日暮里が栄え、天保期(一八三〇年代)には向島が全盛期を迎えた。「寛政の頃の花見は、たんにドンチャン騒ぎをするのではなく、歌・浄るり・おどり・俳諧・狂歌などをする、という、はなはだ文化的な花見となって」いた。日本橋から四キロの地点にある飛鳥山が桜の名所となったのは、将軍吉宗が享保五(一七二〇)年から六年にかけて、江戸城内の吹き上げ御所から、桜一二七〇本を移植させたからだという。「それまでの飛鳥山は、欅の多い単なる雑木山にすぎなかった」。吉宗が開いたのは飛鳥山だけではない。品川御殿山、隅田川堤、小金井堤などの桜の名所は皆彼が開いたのである。

むろん花見に泥酔や喧嘩口論がつきものだった。オールコックが書いている。「江戸の日本人は四月いっぱい郊外の庭園や寺へピクニックに出かけるが、これは彼らの大きな楽しみのひとつである。男や女や子供の群れが一家ごとに野外の春を楽しむために木陰の道を列をなして進んでいるのを見かけることがある。……悲しいことには、このような牧歌的情景が、しばしば過度の飲食のためにだいなしにされている。男たちは野外の花のさわやかさを吸収するだけではあきたらず、酒を鯨飲する。この習慣が男だけに限られていればまだしもだが、実際は男だけに限られてばかりはいない。帰り道はこれらのこれらの酔っぱらいのためのけんのんである」。

井関隆子も天保十一年三月の日記に、飛鳥山の花見のさいの出来事を伝聞してこう記している。「矢部の何がしとかや女子(おなご)など引きつれて詣でけるに、夕づけて庚申塚てふわたりを帰りくる時、酔いしれたる男(をのこ)どもの打つれたるが、女ども具したりと見るよりわざとゆきあたり、いさかいせんとする様なれば、みなかいけち(掻い消ち)逃げけるに、幼き子を下郎におわせたる、遅れて来けるを、酔人ども引きとらえていたくうちさいなみ、稚児ともに打ち殺しつべき様なれば、あるじ引き返してさまざま言和(いいなご)め、詫びけるをさらに聞入れず、刀ぬきつれて切かかりければ、せんなく立ち向かい打あふほどに、壱人をば切たふし、いま一人は手を負ひ皆逃失せたりとぞ」。隆子はこういう酔漢について、「遠き国々より出(いで)来て、国の守りなどに仕うる男」が、酔いしれたるひたぶる心に、男女の打ちまじり遊びありくを見て、すずろに妬ましく思ふより、……とかくしていさかいを求め、浅ましき事をば仕出」すのだと注釈しているが、これではオールコックが「彼らの飲酒癖やけんか癖は、ヨーロッパの北方民族にけっしてひけおとらず、飲むと最悪で、狂暴となる」というのも無理はないところだ。

一方モースをはじめとして、祝祭や娯楽の場における日本人なマナーのよさを称賛している観察者は少なくない。シッドモアも明治十年代の向島の花見について、客たちのおどけぶりと陽気さを「全員が生まれつきの俳優、弁士、パントマイム役者なのだ」と評しながら、「こんなに酔っぱらいながらも、表現するのは喜悦と親愛の情だけで、いさかいや乱暴な振る舞いはない。野卑な言葉も聞かない」と述べている。いささか好意的に過ぎる見方かもしれないが、やはりこれは彼女の実感だったのである。それもこれも、古き日本人の一面だったのだとここでは言っておこう。―

どうやらやら昔も今も花見風景にあまり変わりがないようである。
(完)

平成 28年 4月 1日                    DOKKOU著

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●今日、このような記事に出会った。隆子は、草花が大好きで、上野の花見や隅田川の桜の時期には、よく出かけている。当時の上野の桜の様子も詳しく書き留めている。今年は、新型ウイルスの影響で、規制されているが、今も花見の名所である。

池田茂光氏『井関隆子日記』ちょっと覗き見 その3

池田茂光氏『井関隆子日記』ちょっと覗き見 その3

  • 2020.01.22 Wednesday
  • 06:37
池田茂光

【旗本婦人「井関隆子日記」】
・・・ちょっと覗き見・・・その3

井関隆子の屋敷は350坪くらいで、田安御門と清水御門に近く、所謂武家屋敷が軒を連ねている。現在の千代田区九段1丁目辺りである。屋敷は庭を広く取り、様々な草花を配している。隆子はその敷地に離れを設けて、そこに住んでいた。花を愛し、歌を愛し、酒を愛した。

1月19日
昨日から曇り空だったけれど、昼下がりになって雪が降って来た。去年から雪を見られなかったのでちょっと寂しい気がしていた。やはり雪は風情があって素晴らしい。
近くにある義姉(亡夫の姉)の屋敷を訪ね、私と同様に酒をたしなむ義姉と早速雪見酒としゃれてみました。庭の木や草にも雪が積もり、見事な景色です。この風情に感じて一首詠んでみました。
新玉の春をおぼゆる宿なれば
花と見えてぞ雪は降るらむ
居心地がよくつい飲み過ごしました。帰ろうとする頃になって、煎茶の用意ができたと言うので、なお長居になります。珍しい果物が設えられ、茶で木の芽なども味わい、心地よい香りで酔い心地も更に癒されます。

1月20日
今朝は良く晴れました。昨日の雪で木や草は花が咲いたようです。この素晴らしさは例えようもありません。日が差し始めれば、近頃やっと春めいたた陽光で、枝の雪がはらはらと散り、花のように美しい。
しかし古今和歌集にも「春たてば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く」とあるのに、この春は未だに鶯は聞こえません。今ここで鳴いてくれたら、どんなにか素晴らしい事でしょう。

1月23日
日が暮れて、6時過ぎたころ鳴神(なるかみ。雷の事)の音が聞こえた。3日の立春に豆まきをした残りの豆を気休めにみんなで食べました。
この頃お上(将軍家慶)では、ことさらに精進潔斎のご様子と聞こえます。何があったのだろうと感じていたところへ、今日になってその訳が公にされた。御台所様がお亡くなりになりました。家普請ばかりでなく物音をたてることさえ禁じられました。もちろん全ての遊興なども慎みます。位の上下に係わらず、お仕えする全ての者がお城に上がってご様子を窺う毎日です。

1月26日
この頃は牛嶋あたり(隅田川)が梅の盛りだと聞いています。しかし将軍家の御不幸が聞こえているので、梅をみて楽しむ者もいないだろう。

1月28日
上様をお慰めしようと高貴な方々から、果物や珍しい品々の御届け物が列をなして後を絶ちません。これらは処理しきれずに、上様のお側近くにお仕えする者たちへお下げ渡しされました。我が家にもたくさんいただきました。

1月29日
1月も今日明日だけと言う今になって、ふと鶯を聞くことができました。例えようもなく嬉しい事です。

1月晦日
晦日だから、いつもの様に家の内外を掃き清めます。
ところで、昔から法師と呼ばれる人たちの不埒な行いはありましたが、そのため今では取り締まりがたいそう厳しくなりました。しかしそれでも法師による、道を外れた男女の行いは多いようです。あいかわらず悪行は繰り返されています。近年でも多くの法師が処罰されたり、死罪になった者もいます。

2月1日
家普請の禁止は昨日までに終わりました。歌舞音曲を慎むのも8日までと聞いています。
数年来冷夏が続き、秋の長雨もあり、穀物が実りません。そのため物価が大幅に上がり、世間が大変騒々しくなっています。飢えた人の行倒れも見ますし、庶民は生活苦に喘いでいます。幕府はお蔵米を放出して民を救おうとしています。

2月2日
風の強い日が続き、火の取り扱いに厳重注意の申し渡しがありました。

2月5日
今朝起きたら一面の雪で驚きました。ご葬儀は明日だと聞いているので、この雪が大変気掛かりです。
それにしても、ご葬儀、ご葬送は全て白妙に御飾りされると思うので、見事なものになるでしょう。

次回は2月初旬に投稿の予定です。お楽しみいただければ幸いです。ご感想など戴ければありがたいのですが・・・
なおこの文章は原文を大幅に要約したものであることをご承知おきください。

酒場で歴史を語る会

酒場で歴史を語る会

  • 2020.01.22 Wednesday
  • 05:57
酒場で歴史を語る会

井関隆子と新見正路の家

2009/10/07 22:27
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『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』 の著者 深沢秋男 先生のブログ「fuakiの日記」に
2009-09-11
「久し振りの九段坂」があり、写真が掲載されているので、今日も勝手に引用させていただくと、
●今日は、全集の編集会議があり、久し振りに九段坂へ行った。会議は3時からという事ゆえ、その前に、九段坂下の変貌振りを確認した。幕末の旗本の主婦、井関隆子が、60歳でこの世を去ってから165年が過ぎた。その彼女の屋敷跡を確認したわけである。
●変りました。私が、井関家の伝記調査をしてからでも、30年以上が経過している。その様子を、シカとカメラに収めて来た。
九段下の交差点の右下の角の「りそな銀行」の所に井関隆子の住んでいた屋敷があった。
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『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』 が紹介する、日記を書いた井関隆子
旗本の庄田家に生まれ、結婚後、離婚して実家に戻っていた隆子。

その再婚相手、井関親興は、道を挟んだ向かいの旗本、新見正勝の親戚、新見正峰の三男から井関家に養子に入っていたので、親興が亡くなったあとも、隆子は度々向かいの新見の家に出かけて、当主の新見正路(幕府側用人役職としても学者としても有能で膨大な書籍を持っていた。その蔵書印が下の物)の蔵書を見せて貰い意見交換したようである。
その新見正路家は、安政大地震で壊滅したものか、転居したものか、地震後に発行された、安政3年1856年の切絵図では、既にこの年2月に設置が決まった塙保己一の「蕃書調所」の表記になっている。
現在の九段会館の駐車場と会館の場所である。深沢先生の写真付近を地図で示しておくと 下のようになる。
ここで、私に疑問がわいてきた。
井関親興やその子供の井関親経、孫の井関親賢、そして新見正路は、どこを通って、江戸城の表、中奥の、将軍側用人、側衆、広敷用人といった仕事場へ通勤していたのであろうか?
今の武道館の入り口になっている、田安門からであろうか。可能性の高い清水門であろうか。間違っても不浄門とされた平川門ではないだろう。しかし、その先は、北詰門から天守台を廻って行ったのか?その先を知りたい、調べたいと思っている。
なお、新見正勝・正路の家は、旗本で神奈川戸塚の品濃村(現在の川上町・前田町・品濃町)領主であったので、横浜市戸塚区品濃町の品濃谷宿公園前に碑がある。
この新見正路の養子が、三浦家からはいった新見正興で、のちに外国奉行となり神奈川奉行を兼ね、日米修好通商条約批准交換のアメリカ派遣正使に任命され、副使村垣範正、目付小栗忠順と、太平洋を横断、パナマ地峡を汽車で抜け、海路ワシントンに赴き批准交換を行う。大西洋・インド洋を航海して帰国して、側衆となるが、禁門の変ののち反動化した幕閣とあわず辞職したのであるが・・・・
私が子供の頃、勝、福沢らの咸臨丸を従えて行った正使の新見正興ら一行の記念写真をみて、姿勢の良い美男子の格好いい若者だなあと思った記憶がある。幕末に写真機が登場して、坂本龍馬はじめ多くの肖像写真が残るが、格好いいお兄さんは、新見正興だけという印象であった。この人を正使に選んだ理由の一端かも知れないと思ったり、苗字が「新見」であるのも、初めて海外へ行く幕府役人の名前にピッタリだと、子供心に思っていた。
姓は、はじめ「ニイミ」。のちに、徳川家康の命により、「シンミ」と呼ぶことになったという。

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●私は、井関隆子の屋敷を調査していて、江戸城には、入れる所には、何回も行って、事実を確認した。『井関隆子日記』の原稿の素読みも、江戸城の近くでしたこともあった。少しでも、現場の雰囲気を身に付けたかったのである。

●上梅林門、下梅林門、の実態も、現場に行って初めて納得した。太田道灌が植えたという梅は、今も、少しではあるが現存する。古典の本文の定着は、机の上だけでは、十分ではない。そのように、私は思っている。
2020年1月22日

井関隆子の九段下の屋敷

井関隆子の九段下の屋敷

  • 2020.01.21 Tuesday

井関隆子の九段坂下の屋敷

●井関隆子の嫁ぎ先の屋敷は、江戸城に近い九段坂下にあった。現在のりそな銀行九段支店の場所である。屋敷はおよそ500坪位だったと思われる。
北側は九段坂上から俎板橋への広い通りに面し、こちらに玄関があったものと推測される。西側は飯田町から清水門への通りに面していて、こちらの面の方が広かったようである。この西側の通りの向かい側には、井関家と親戚関係にある、新見正路の屋敷があった。現在の九段会館の場所である。東隣には榊原隠岐守の屋敷があり、南隣には能勢河内守の屋敷があった。
井関家の屋敷が、江戸城の近くにあるのは、井関家は代々、初めは小納戸衆という、将軍の身の回りの世話をする掛りであり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(将軍が政治を行う所)と大奥(将軍が私生活をする所)との接点である御広敷(おひろしき)の責任者になる、という家系であったからであろうと思われる。
隆子は、この江戸の中心の、文字通り将軍家のお膝元で、当時の江戸の様々な動きを見ていたのである。
2006/12/17(SUN) 12:23

隆子の実家・庄田家の新宿の屋敷

●隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本庄田安信の本家からの分家である。本家は築地の東本願寺の近くに屋敷があったが、第4代・安勝の時、長男・安利に2600石、次男・安議に400石を分知して、これを分家とした。分家・庄田家の屋敷は『庄田家系譜』の延宝5年(1677)の条に「於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」とあり、場所は現在の新宿区大京町26番地辺で、幕末まで存続していたと思われる。現在の慶応大学病院の辺りと推測される。
●余談であるが、赤穂事件で、元禄16年2月4日、幕府は、大石良雄ら46名に対して切腹を命じるが、その時の大目付・庄田下総守は、本家4代・安利である。
2006/12/17(SUN) 12:17

■この、りそな銀行の所が、井関家の屋敷だった。

■この高いビルの所が、水野監物の屋敷だった。
35年前、私は、このビルの屋上から、かつて井関家の屋敷があった所を写真撮影した。

江戸城本丸全焼

江戸城本丸全焼

  • 2020.01.19 Sunday

●ネット上で、このようなサイトに出会った。2007年11月出した、私の『旗本夫人・・・』も参考にしているようだ。情報の普及は、『井関隆子の研究』2004年よりも、文春新書のような、本の方が、効果がある。この回答者は、出典を表示していないが、私の本に拠ったものと思われる。

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天保年間の江戸城本丸全焼について
• 2011/04/06 08:55
• 質問No.6648035
• 閲覧数2244
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desster
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江戸城本丸は何回か火災に会っていますが、その中で、
天保年間の火災の日付が二通りあるようです。
(1)1844年6月25日(天保15年5月10日)
(2)1842年
広大院(ウィキペディア)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2

天保12年(1842年)に12代将軍・徳川家慶付き上臈・姉小路が食する天ぷら調理が原因で火事を起こし、本丸を全焼させてしまう。この火事で広大院は御末の奥女中におぶわれて吹上御殿に避難した。この火事は奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。

—————–

質問1. ネット上では、1842年、1844年とも数多く見られます。それぞれ、火事があったのでしょうか。それとも、1842年は1844年の間違いでしょうか。

質問2. もし、それぞれ火事があったのでしたら、1842年の日付を教えてください。

よろしくお願いします。回答は一部でもかまいません。
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質問者が選んだベストアンサー
• 2011/04/06 16:28
• 回答No.2
• ベストアンサー

bungetsu
ベストアンサー率 51% (834/1628)
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>(1)1844年6月25日(天保15年5月10日)、(2)1842年
まず回答から先に述べますと、天保12年(1842?1841)には火事は起きてはいません。
Wikiは、必ずしも専門家が書いている訳ではありませんので、間違いや勘違いがありますので、「参考程度」に読んでください。

>>天保12年(1842年)に12代将軍・徳川家慶付き上臈・姉小路が食する天ぷら調理が原因で火事を起こし、本丸を全焼させてしまう。この火事で広大院は御末の奥女中におぶわれて吹上御殿に避難した。この火事は奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。

この広大院の避難については、「井関隆子日記」に、天保15年5月10日(新暦・6月25日)に起こった江戸城炎上がかなり詳細に記されています。
「井関隆子日記」の著者はあくまで旗本の老後家(ろう ごけ)であったが、同居していた義理の子息や孫が御城大奥詰の上級役人であり、またこの老後家とは大変関係が良好であり、城中の様子を詳しく伝えていたため、意外に知られていないような城中(特に大奥関係)の様子を正確に残してある貴重な資料でもある。

当時を描いた幕府の正史「続徳川実紀」ではわずか数行に満たない文章で書きとめられているにすぎない天保の炎上は、実はかなり深刻なものであった。

要約すると、

火災は、大雨の降る早朝に起こっている。このところ長雨続きで、誰も火災の心配などしていなかったのが運のつきで、夏の短夜の事でもあり、ぐっすりと寝静まっている大奥で火の手が上がった。
気づいた端女が大声を上げたが、大雨の音にかき消され、気付く者が少ない。

ようやく気付いた女中衆はパニック状態に陥り、ただただ泣き騒ぐのみで右往左往するばかり。大奥には、避難経路などの取り決めがなかった。

大奥御広敷詰の役人(隆子の子息らもいる)がようやく気付き、女中衆に詳細を訪ねるが、誰も耳を貸さずに泣き騒ぐのみ。
出入り口の門なども、番する者が逃げてしまっているため開ける事が出来ず、やむなく役人が木槌などで壊し、そこに集まっていた女中達は、その破れ目から辛くも難を逃れた。

長雨が続いていたにも拘らず、本丸御殿の火の回りは非常に速かった。 火難を逃れた女中達や役人は、大雨の中を泥に足を取られながら吹上の庭へと非難した。

隆子の子息井関親経(いせき ちかつね)は、大御台所広大院が担当であったため、逃げ惑う女中衆から広大院の安否を聞き出そうとするが、誰も耳を貸そうとはしない。
大奥詰の役人といっても、大奥の中まで入る事はほとんどないため、大奥内がどうなっているか分からず、ようやく顔見知りの表使女中を捉まえ、広大院の居室へと案内させた。大騒ぎの渦中ではあるが、大納戸から乗り物(上流の使用する駕籠は「乗り物」と呼ぶ)を出して、女中衆に担がせて退避した。
将軍家慶の養女精姫君は、女中が背負って脱出したとある。

火が回るスピードが、大雨の中とは思えないほど速く、しかも大奥から見れば出口にあたる一の側の局付近から出火したため、脱出できなかった女中衆が大勢亡くなった。

翌日になっても火の勢いは衰えなかった。 以前、西の丸が炎上した折には、多くの町火消しを動員して消火に当たったそうだが、盗難が非常に多かったため、今回は自然に消えるのを待つという方針を、陣頭指揮にあたっていた老中・土井利位が打ち出していたためである。

ところが、火勢が衰えない上に風まで出てきたため、西の丸御殿までが危うくなってきたというので、富士見櫓や蓮池櫓などを火消しが打ち壊してようやく難を逃れた。

こうして、本丸御殿は残らず全焼。 書類、調度、宝物はもちろん、蔵の金銀まで焼け、特に銀は溶けて流れてしまっていた。
奥女中達の亡骸は親類縁者に引き渡すことになったが、判別不可能になるまで焼けてしまったものが多く、上﨟の遺体として親族に渡したのが端女であったという事もあったという。

火元は、広大院付き御年寄り・梅谷の管理下にあった端女の不始末という事になったらしい。水で消した炭を壺に入れて炭置きに置いたが、その炭の燠が燃え始めて周囲の炭俵に燃え移ったとされた。
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• 2011/04/06 12:21
• 回答No.1

jgk99
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5月10日の火災は、1844年6月25日の火災ですね。ただし、天保15年には改元がありましたから、普通は弘化元年(改元は12月2日)の火災と書かれますね。
さて、1842年の火災となると天保13年でしょうが、広台院が背負われて吹上に避難したとなると本丸炎上となります。
となれば、当然、年表に載る火災に該当するでしょうが、私の資料の中には見当たりませんでした。

アマゾン〔深沢秋男〕 27件

アマゾン 〔深沢秋男〕 27件

  • 2020.01.15 Wednesday

●今日、アマゾンを検索したら、27件出ていた。全て書籍。

●価格は、まあまあだったが、次のものが、注意される。

◎旗本夫人・・・  1円
◎仮名草子集成 10巻・11巻・13巻・47巻  1000円
◎井関隆子日記 上巻  35900円
◎井関隆子日記 中巻  14850円
◎井関隆子日記 下巻  26900円

●文春新書が、1円は、よくある事。仮名草子集成の、この巻が、どうして、1000円なのか。『井関隆子日記』が、3巻で、77650円は高い。新刊時の定価は、13500円である。〔日本の古本屋〕でも、3冊で2万~3万円であつたが、古書価が上昇しているのだろうか。その内、出版界で復刊の声が出てくるかも知れない。楽しみである。

老境

老境

  • 2020.01.14 Tuesday
  • 06:25

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大方人のなすまにまにまかせつゝ、明ればともしからず物くひ、暮れば酒のみて熟寐す。かゝればなすわざもなくて、鳥虫のつらにて世をなむ尽すべき。
然れども折にふれ時に付、いさゝかの心やりは、おのづからなむある。
まづ、春は鶯の声をきゝ、庭艸のもゆるを見、夏は涼しき方により、心のまゝにおきふしつゝ、夕月の光りをまちいで、秋は草むらの虫をきゝ、白露に打なびく尾花をめで、冬は厚肥たる衣ども打かさね、火により居て雪を見る。
昔折にふれ、気色あるわたりへゆき、はた人にも交りなどしつるに、さては興ある事もいさゝかはうちまじれど、はた心づかひせられて、中々に味気なきこと共も多かりしかば、今はをさをさいづくへもゆかず。
いつともわかぬ友とては、はかなき文どもを明暮の慰めにて、あるものともなくて世を経れば、いとなむ心やすき。

世のなかは苦しきものをかぎろひのあるにもあらであるが楽しさ

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●これは、『井関隆子日記』、天保13年2月20日の条。隆子は、この時、58歳である。私は、今、84歳である。酒こそ、隆子のように飲めないが、心境は同様である。