〔年寄りの漬物歴史散歩〕

〔年寄りの漬物歴史散歩〕

  • 2020.08.09 Sunday

〔年寄りの漬物歴史散歩〕

東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

井関隆子日記 中巻
2011年05月28日 | 福神漬

井関隆子日記 中巻
天保の改革時代の幕府中枢部の情報を知り得た婦人の日記。
天保12年初めに徳川家斉が亡くなると天保の改革が始まった。この日記を書いた井関隆子は後にペリー来航時に久里浜でアメリカの国書を日本代表で受け取った戸田伊豆守氏栄の妹が嫁いでいた井関家に住んで優雅に生活をし、幕府の内部情報を記述している。

天保12年閏1月24日
西小姓組戸田寛十郎氏栄はようやく願いがかない徒士の頭となる。
天保12年2月27日
氏栄は井関家を訪問し、上野の御堂の様子を語る。
天保12年7月1日
氏栄は徒頭から使番に出世する。(使番とは幕府の職制の一種で目付けと共に遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する事となる。)
天保13年6月13日
戸田氏栄が井関家を訪れ、今の本郷6丁目付近にあった森川宿で水戸の殿様の下郎と2千石の侍の下郎とのいさかいがあったことを井関隆子が氏栄に質した。氏栄の森川宿付近にあって今の文京区小日向1丁目付近だった。
天保13年7月24日
井関家の家刀自(氏栄の妹)が21日に7年前に盗賊によって殺害された父の法要のため寺に赴き、ついでに実家に訪れた。そこで氏栄が駿府に、当時百日目付といわれていた駿府使番となり出発するという情報を得る。
天保13年8月14日
戸田氏栄が朝に井関家を訪れ、20日過ぎに旅立つと告げに来た。甲斐の国に立ち寄り、駿府に向かい,公事を処理し江戸に帰ってくるのは暮れになるだろう告げてあわただしく帰った。
天保13年9月3日
印旛沼埋め立ての記事。この様な話が出ていたと思われる。
天保13年12月14日
戸田氏栄が駿府から戻る。

天保14年の印旛沼工事に目付として戸田氏栄が出てくるにはこの様な経歴があった。

単行本の解説

単行本の解説

  • 2020.08.04 Tuesday
『井関隆子日記』 完結
• 2017.01.09 Monday

【4】井関隆子日記(下) 昭和56年6月5日,勉誠社発行,4500円。『井関隆子日記』天保14年・15年の4冊分を収録。巻末に索引と「井関隆子関係資料(補訂)」を収録。

井関隆子関係資料(補訂) 平成29年1月補訂

 上巻の解説末に「井関隆子関係資料」を掲げたが、その後知り得たもの等を追加し、次の如く補訂する。

 著 作

〔1〕 井関隆子日記(別名 天保日記)
   桜山文庫(鹿島則幸氏)所蔵。全十二冊。著者自筆の日記。本書に全文翻刻。現在は、昭和女子大学図書館所蔵(桜山文庫)。

〔2〕 さくら雄が物かたり
   東北大学附属図書館所蔵(狩野文庫)。著者自筆、全三十九葉の物語。奥書は「此たはれふみはある人文会とて月毎にかれ是つどひておのが心〳〵の文出しける時に物しはへりし也/天保とふとしの九とせ/鹿屋園のいほぬし/源隆子しるす」とある。
  内容 「えばらの君と桜の木の精の間に生れた桜雄が、花のやうに匂ひ、光るばかりに美しいので、人々がもてはやし、成長するに及んで求婚者がしきり、親はゆたかになるが、桜雄はすべて拒絶し、ある年の春おたぎ山の麓の河に投身して死ぬ。その河のほとりに桜の木があり、「残りなく散るぞめでたき桜花ありて世の中はてのうければ」の短冊をつけてゐたので、人々はこの河を桜河と呼んだ。
  『竹取物語』・『伊勢物語』・『源氏物語』などの構想を借りながら、近世的な散華の思想に彩られた擬古物語である。又、中世の児物語や軍記物の色も濃くあらはれてゐる。」(新田孝子氏)
  『図書館学研究報告』第十号(昭和52年12月、東北大学附属図書館発行)に新田孝子氏が全文翻刻。

〔3〕 神代のいましめ
  松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二十六に収録。現在は、昭和女子大学図書館所蔵、「翠園文庫」に収録されている。全二十七葉の物語。末尾に「此一巻は、井関親経朝臣の御母君におはしゝ隆子の君の筆ずさみ也。茂樹いむさき江門に在し時、御もとにまゐでけるに、見せ給ひしが、いと珍らかにおぼえつれど、何くれと事しげかれば、うつしあへざりしを、後に消息の序、其よしねぎ侍つるに、やがて御みづから書て給へるになむ。君今はなき員に入給へば、わすれ形見とかくは物し置ぬ。/弘化四年文月 松隠所」という、佐渡の歌人・蔵田茂樹の識語を付す。
  内容 主人公は公事に従事する某の少将で、経済的にも地位の上でも。また家庭の中もすべてに満ち足りた生活をしている。が、この少将は、ある時、平公誠の歌「隠れ蓑隠れ笠をも得てしがなきたりと人にしられざるべく」を見てから、隠れ蓑笠が無性に欲しくなる。近習に相談しても効果がないので、屋敷の内の大国神に祈願したところ、その甲斐があって、これを入手する事が出来る。この隠れ蓑笠に身をかくした少将は、無二の友や、少将の所へ出入りしている歌人や、家中のすべてを任せておく家長や、深い契りを交わしている女性などの所へ行き、自分に対する様々の批評や批判、予想外の行動に接し、驚き、怒り、悔しがる。そんな事を続けているうちに、長男に、隠れ蓑のみ着ているところ(首のみ見える状態)を見られてしまい、それを知った少将は、変な噂の立つのを恐れて、隠れ蓑笠を神に返す。
  『拾遺集』・『狭衣物語』・『宝物集』等を通じて、平安朝の散逸物語『隠れ蓑』を頭に浮かべ、更に『今昔物語』等に伝えられる隠れ蓑の伝承や『日本書紀』をも参照して一編とした物語で、天保十年には成っていたものと推測される。『文学研究』第四十六号(昭和52年12月)に全文翻刻。

〔4〕 井関隆子長短歌
  松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二十六に収録。蔵田茂樹に書き送った長歌三首と反歌等を収める。
  現在は、昭和女子大学図書館所蔵、「翠園文庫」に収められている。
  学習院大学図書館には『神代之誡』『井関隆子 歌』の写本が所蔵されている。これは明治十七年十二月に佐藤硯湖が右の翠園叢書から転写したもので、雕虫居写本全一六〇冊の内、第一四五冊目に収められている。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に全文翻刻。

〔5〕 野山の夢・跋
  蔵田茂樹著『野山の夢』の巻末に書き添えたもので、末尾に「天保とふ歳のとゝせ冬の中ら源隆子しるす」とある。巻頭の序は清水巡が記している。松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二十八に収録。『文学研究』第四十六号(昭和52年12月)に全文翻刻。現在は、昭和女子大学図書館所蔵、「翠園文庫」に収録されている。

〔6〕和歌一首
  蔵田茂樹の『恵美草』を書写した折、千畳敷の条に書き添えたもので。桜山文庫(鹿島則幸氏)所蔵本と『佐渡史林』所収本に見られる。歌は「いづくはあれど、こゝのあそびのいとうらやましくて、/すがだゝみ千重敷いそにうたげせるさどのしま人ともしきろ鴨  隆子」

〔7〕 和歌三首
  木内有渓編、天保四年刊の歌集『秋野の花』全三巻に「隆子」の歌として次の三首が入っている。
  上巻、九丁表、一首目に「夜春雨 隆子/宵のまはしられざりしを春の雨更ゆくまゝに音の聞ゆる」 上巻、二十九丁表、五首目に「夏風 隆子/月花と人はいへども夏の日に風ふくばかり嬉しきはなし」 中巻、十一丁裏、四首目に「月前菊 隆子/手にとらばこぼれやせまし菊の露月影乍らおらまほしきを」
  巻末の入集歌人一覧に「三首 同(江戸) 紀州家大奥侍女 隆子」とあるが、この「隆子」が井関隆子と同一人物か否か、現在のところ未詳である。参考のため掲げた。

 書写本

〔1〕 宇津保物語考
  静嘉堂文庫所蔵。。一冊。桑原やよ子の著作を隆子が書写したもの。書写は『井関隆子日記』と同筆で、巻末に、
  「此ふみは臼井房輝ぬしのもたるをかりてうつせる也/天保のとゝせとふ年の秋なが月  隆子」とある。

〔2〕 恵美草
  国会図書館所蔵。一冊。蔵田茂樹の著作を隆子が書写したもの。書写は『井関隆子日記』と同筆で、巻末に「天保十三年三月写之 みなもとのたか子」とある。

 著者関係

〔1〕 井関家過去帳
  井関家所蔵。菩提寺・喜運寺の過去帳より昭和九年に転写したもの。喜運寺の過去帳が焼失してしまった現在、貴重な存在である。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に全文翻刻。

〔2〕 井関家墓石(喜運寺に現存)
  正面 紋(丸の内に剱梅鉢)「賢良院殿徳翁宗善居士/慶長十四己酉歳四月十二日/一参道吸居士/慶長二十乙卯歳六月十二日」
  向かって左「井関家始祖近江国住人次郎右衛門親秀法号賢良院葬地不知右嫡男猪兵衛親正 法号一参道吸慶長二十乙卯年大坂御陳御供負深手於尾州熱田同年六月十二日死去葬地不知」
  向かって右「嘉永五壬子年十月再建/井関氏/普光院義山清道居士 昭和八年五月二十六日 清/花水豊徳大姉 昭和四十三年四月十三日 トヨ」 ★昭和56年4月「瑞光院花水豊徳大姉」と追贈された。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に全文翻刻。

〔3〕 庄田家系譜
  庄田家所蔵。正本と副本がある。

〔4〕 昌清寺過去帳
  昌清寺所蔵。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に一部翻刻。

〔5〕 庄田家墓石(昌清寺に現存)
  正面「寂光院殿通誉理徹居士/元禄十一戊寅年十月廿六日」
  向かって右「俗名/庄田五郎左衛門尉安議」『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に写真掲載。

〔6〕 井関親経・短冊「くもりなく西にかたふく月影にいやしのはるゝむかしなる哉 親経」 (千蔭翁年回に捧げる一首)北野克氏所蔵。

 調査・報告・論考

〔1〕 鹿島則文氏識語
  明治十五年の調査結果を記したもので『井関隆子日記』の原本に付されている。親賢の実家・戸張家の子孫と直接言葉を交わした様子も知られ、貴重な記録である。(本書・上巻、四二三頁)
〔2〕 国立国会図書館所蔵『恵美草』の書写者について
  深沢秋男。(『参考書誌研究』〈国会図書館〉第十一号、昭和50年6月)
〔3〕 桜山文庫所蔵『天保日記』とその著者について 深沢秋男。(『文学研究』〈日本文学研究会〉第四十二号、昭和50年11月)
〔4〕 或る旗本夫人の日記から見た江戸の風俗について――新資料『天保日記』の紹介をかねて――
  深沢秋男。(東京の歴史研究会・第一二四回例会、昭和51年2月21日、新宿区立中央図書館)  ★この内容は、口頭発表で活字化されていない。
〔5〕 井関隆子研究覚え書
  深沢秋男。(『文学研究』第四十四号、昭和51年11月)
〔6〕 井関隆子研究覚え書(二)――新資料『神代のいましめ』の紹介――
  深沢秋男。(『文学研究』第四十六号、昭和52年12月)
〔7〕 「さくら雄が物かたり」――館蔵稀覯本翻刻 1――
  新田孝子。(『図書館学研究報告』〈東北大学附属図書館〉第十号、昭和52年12月)
〔8〕 『井関隆子日記』の歴史的記述――徳川家斉の歿日について――
  深沢秋男。(日本随筆大成第三期二十三巻付録、昭和53年7月)
〔9〕 井関隆子作『神代のいましめ』について
  深沢秋男。(『文学研究』第四十七号、昭和53年7月)
〔10〕 井関隆子のこと
  深沢秋男。(掃苔会・月例会、昭和54年10月27日、芝増上寺)
   ★これは、口頭発表であり、活字化されていない。
〔11〕 井関隆子の文芸――館蔵「さくら雄が物かたり」の著者――
  新田孝子。(『図書館学研究報告』第十三号、昭和55年12月)
〔12〕 井関隆子日記の文芸性
  新田孝子。(日本文芸研究会・月例会、昭和56年1月17日、東北大学)

 【正誤表】  【省略 原本参照】
 この誤りについて、新田孝子・清水正男・新島繁、三先生の御教示を賜りました。厚く御礼申し上げます。

  付  記

 上巻を出してから、この下巻まで予想以上の日時を費やしてしまいましたが。これは全く私の事情によるもので、この点誠に申し訳なく思います。殊に桜山文庫の所蔵者・鹿島則幸様には、貴重な御所蔵本を八年間という長期に亙って借覧させて頂く結果になってしまいました。隆子自筆の孤本でもありますので、勉誠社の御配慮で全冊複写してフィルムを別に保管し、原本も使用しない時は銀行の貸金庫に入れ、この『日記』の保全に留意してきましたが、今、事無く桐箱入りの元の姿で御返却できます事を本当によかったと感謝しております。★昭和56年7月25日、御返却済みです。
 中巻刊行後、東北大学附属図書館・狩野文庫に隆子の物語『さくら雄が物かたり』が所蔵されていろ事を知り、新田孝子先生は以前からこの作品を手がけておられた事を知ることができました。これで隆子の作品は『神代のいましめ』(松本誠先生蔵)・『水鳥』(『日記』所収)と合わせて三つになりました。また、長い伝統をもつ掃苔会でお話しさせて頂いたお蔭で、北野克先生から隆子の子息・親経の短冊を見せて頂くこともできました。『日記』を核として、井関隆子という、今まで埋もれてきた一人の女性、一人の作者が次第に明らかになってきましたが、これは非常にうれしい事です。
 上巻刊行後、『日記』にお寄せ下さいました、諸先生のお心のこもった御批評は、この作業を続ける上で大かな励みとなりました。
 以上の皆様方に深甚なる感謝の意を表します。
 この下巻には『日記』以外の隆子の作品・書写本等を口絵として掲げることを得ました。これら諸資料の使用を御許可下さいました、東北大学附属図書館をはじめとする各所蔵者に対し、厚く御礼申し上げますと共に、この困難な出版を快くお引受け下さり、最後まで御高配を賜りました勉誠社に対し、心から感謝申し上げます。                                       
                       昭和五十六年一月十七日
                           深 沢 秋 男

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【追 記】

〔日記文学として〕

鹿島則文の〔桜山文庫〕の中に所蔵されていた、近世末期の女性に出会ったのは、昭和47年(1972)である。今から45年前になる。8年間かけて、全3冊の校注を終え、世に問うた。しかし、世間は甘くなかった。なかなか、日記文学としては認めてもらえなかった。私は、日記文学とは何か、という提言を繰り返さなければならなかったのである。
 仮名草子研究を8年間中断して取り組んだ仕事である。これが、日記文学として認められなければ、私の、この作品に対する文学的評価は誤っていたことになり、文学研究者としての生命は絶たれることになる。私にとっては、切実な問題だったのである。
 しかし、この作品をじっくりと読み、その価値を認めてくれる研究者が次第に出てきた。重友毅氏、田中伸、新田孝子氏、野口武彦氏、秋山虔氏、堤精二氏、ドナルド・キーン氏、江本裕氏、……。思いつくままに掲げると、このような方々が、日記文学として評価して下さったのてある。文学の解る方は、まだ、いると思う。私は、これらの識者に救われたのである。

〔大学入試問題に出題〕

〔1〕 平成11年度、センター入試・国語、本試験に出題
〔2〕 平成11年度、センター入試・日本歴史、追試験に出題
〔3〕 平成20年度、明治大学入試に出題
〔4〕 平成23年度、京都大学入試に出題

 大学入試問題に出題される、という事は、何を意味するか。その文章が一人前である、ということであろう。文章が水準に達していなければ文学作品の価値は無い。私が、この著作物を世に問う決断をしたのは、この文章であった。この文体は、当時の国学者流の擬古文ではない。井関隆子の文体である。しかも、間違いが少ない。約64万字の中で、誤りと思われるのは、10箇所前後に過ぎない。古代語ではなく、近代語である。驚くべき文章である。しかも、著者の意の赴くままに、いかなる内容も書き込んでいる。驚くべき熟達した文章力である。私は、大学入試に採用される度に、自分の校訂にミスは無いか確認した。幸い、これまでのところ、私のミスは無いように思う。校訂者の責任は、ここまで負わなければならない、と私は考えている。

〔優れた研究論文〕

『井関隆子日記』に関する研究も、最近は、かなり行われるようになった。近世の日記文学として認められてきた、そう言ってもよいかと思う。それらの研究の中で、真下英信氏の一連の研究が、最も注目される。今後、この作品の文学的研究は、新田孝子氏と真下英信氏の研究を踏まえて行われる必要がある。

○『井関隆子日記』に見られる地震の記述
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第26号 2009年3月刊行
○井関隆子の自然を見る目
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第27号 2010年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述 補遺
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第28号 2011年3月刊行
○『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第27号 2012年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:天気の記述
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第30号 2013年3月刊行
○補遺“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第30号 2013年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:鳥
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第31号 2014年3月刊行
○補遺2“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第32号 2015年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:物売り
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第32号 2015年3月刊行

 私は、この井関隆子の研究として、『井関隆子の研究』を、平成16年、2004年に和泉書院から出した。これが、私の研究の総まとめである。未知の作品を校注した私には、ここまでしか解らなかった。今後は、多くの方々によって、この幕末の女性の価値が解明されることを願っている。

〔自筆原本の所蔵者〕

【桜山文庫】

 井関隆子自筆の原本は、鹿島神宮、第67代宮司、伊勢神宮宮司・鹿島則文のコレクション「桜山文庫」に所蔵されていた。
 私は、所蔵者の鹿島則幸氏の依頼を受けて、「桜山文庫」の一括譲渡の件を進めた。その結果、昭和61年9月17日、昭和女子大学図書館は、桜山文庫、第1次、5683冊受入れ完了したのである。第2次、第3次と進められ、現在、国文関係書は、昭和女子大学図書館の所蔵となっている。

【翠園文庫】

 鈴木重嶺・翠園の蔵書、「翠園文庫」は、最後の佐渡奉行、明治の歌人としても知られる鈴木重嶺・翠園の自筆草稿を含む貴重なコレクションである。御子孫の松本誠先生御夫妻の御厚意によって、これらの蔵書が、昭和女子大学図書館に寄贈されることになり、平成8年2月20日(1996)、『翠園叢書』全68冊、『翠園雑録』全23冊を始め、鈴木重嶺の自筆本等、貴重な蔵書が、昭和女子大学図書館に寄贈された。

        平成29年、2017年1月9日
                         深沢秋男
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●私は、単行本の解説などを纏めて、1冊の本にしようと考えた事もある。これは、その一部である。老齢の、今となっては、それは、無理だろう。
2020年8月4日

上野図書館の樋口一葉

上野図書館の樋口一葉

  • 2020.08.02 Sunday
上野図書館の樋口一葉

●菊池先生のエッセイに、上野図書館での樋口一葉の様子を、薄田泣菫が書き留めていると指摘されている。

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泣菫の見た一葉

薄田泣菫『泣菫小品』(明治四十二年。隆文館)に、
「たけくらべの作者」という一編がある。
上野の帝国図書館で見かけた姿を描く。

引締つた勝気な顔
口元のきつとした……そして眼つきの拗ねた調子といつたら…………
私には其折の皮肉な眼つきと屹(きつ)とした口元とが、恰(ちやう)どあの人の有(も)つて生れた才分の秘密にたどり入る緒(いとぐち)のやうに思はれて
思ひなしかは知らないが、あの眼つきには吾とわが心の食(は)みつくさねば止まない才の執念(しうね)さが仄(ほの)めいてゐた

とある。
泣菫には、一葉の眼と口元が強く印象に残ったようだ。

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●実は、樋口一葉の日記の文章と、井関隆子の日記の文章が極めて酷似している。これは、隆子と一葉が、同じような教養を身に付けていたからではないかと推測している。一葉は、上野図書館で、古典作品を読んでいたのだろう。そんなことを思う。

堀新・井上泰至 編 『信長徹底解読』

堀新・井上泰至 編 『信長徹底解読』

  • 2020.08.01 Saturday

堀新・井上泰至 編 『信長徹底解読』

2020年7月31日、文学通信発行
A5判、398頁、定価2700円+税

目次

序  歴史と文学の共謀――五十五年の夢、五十年の夢  井上泰至×堀 新

1、若き日の信長と織田一族  谷口克広×湯浅佳子
2、今川義元と桶狭間の戦い  堀 新×湯浅佳子
3、美濃攻め  土山公仁×丸井貴史 
4、堺と茶の湯  吉田豊×石塚修 
5、信長と室町幕府  水野嶺×菊池庸介
6、元亀の争乱  桐野作人×井上泰至 
7、本願寺と一向一揆  大澤研一×塩谷菊美  
8、長篠の戦い  金子拓×柳沢昌紀
9、中国攻め(摂津播磨を含む)  天野忠幸×菊池庸介
10、信長の城  松下浩×森暁子
11、信長と女性  桐野作人×網野可苗
12、信長と天皇・朝廷  堀新×井上泰至  
13、武田攻め(長篠以降)  柴辻俊六×森暁子
14、明智光秀と本能寺の変  福島克彦×原田真澄  

●コラム

太田牛一と信長公記  堀 新 
信長とフロイス  桐野作人
長篠合戦図屏風  金子拓 
洛中洛外図屏風と安土図屏風  堀 新
信長の肖像画  堀 新

●付録

信長関連作品目録  竹内洪介 編
信長関連演劇作品初演年表  原田真澄 編

●あとがき  堀 新
●執筆者プロフイール

◆編者

堀  新(ほり・しん)  共立女子大学教授
井上泰至(いのうえ・やすし)  防衛大学校教授

◆執筆者

堀  新
井上泰至
谷口克広(たにぐち・かつひろ)  戦国史研究家。
湯浅佳子(ゆあさ・よしこ)  東京学芸大学教授。
土山公仁(つちやま・きみひと)  元岐阜市歴史博物館学芸員。
丸井貴史(まるい・たかふみ)  就実大学講師。
吉田 豊(よしだ・ゆたか)  元堺市博物館学芸員。
石塚 修(いしづか・おさむ)  筑波大学人文社会系教授。
水野 嶺(みずの・れい)  東京大学地震研究所特任研究員。
菊池庸介(きくち・ようすけ)  福岡教育大学教授。
桐野作人(きりの・さくじん)  武蔵野大学政治経済研究所客員研究員。
大澤研一(おおさわ・けんいち)  大阪歴史博物館館長。
塩谷菊美(えんや・きくみ)  同朋大学仏教文化研究所客員所員。
金子 拓(かねこ・ひらく)  東京大学史料編纂所准教授。
柳沢昌紀(やなぎさわ・まさき)中京大学教授。
天野忠幸(あまの・ただゆき)  天理大学准教授。
松下 浩(まつした・ひろし)  滋賀県文化スポーツ部文化財保護課主幹兼安土城・
城郭調査係長。
森 暁子(もり・あきこ)  お茶の水女子大学グローバルリーダーシップ研究所
特任アソシエイトフェロー。
網野可苗(あみの・かなえ)  
柴辻俊六(しばつじ・しゅんろく)  元日本大学大学院講師。
福島克彦(ふくしま・かつひこ)  大山崎町歴史資料館館長・学芸員。
原田真澄(はらだ・ますみ)  早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助教。
竹内洪介(たけうち・こうすけ)  北海道大学大学院文学院博士後期課程。

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●とても興味深い本である。織田信長に関する、1つ1つの主題を、実像(歴史史料)と虚像(文学)の両面から探究している。歴史史料にしても、『信長記』にしても、人物が信長だけに大変である。各項の執筆者は、近世後期の史料まで探索して、説得力のある内容となっているように思う。文学と歴史史料の関係は、実に興味深い。

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歴史における事実と虚構
• 2020.07.12 Sunday

歴史における事実と虚構

第18回大会講演要旨(平成18年12月16日)

歴史における事実と虚構 ――『井関隆子日記』の記述から――
                  前昭和女子大学教授   深 沢 秋 男

一、 はじめに

 近代的国語辞典の最初の名著、大槻文彦の『大言海』は「文学」の語の意味に、小説・詩歌などと共に「歴史」を含めている。これは決して誤りではない。現在、私達は、歴史と文学を別の学問としで扱っているが、それは研究が進み細分化されたという事に過ぎない。
 歴史学とは、過ぎ去った時代の、我々の先祖が、それぞれの時代において、どんな事を行い、どんなモノを後世に伝えたか、そして、それは、人類の歴史において、どんな意味をもっているか、それを解明する学問であり、それは、あくまでも、残された事実に基づくもので無ければならない。その点で、フィクションが中心になる文学とは異なる。しかし、文学は時として、過去の出来事の背後にひそむ真実を伝えている事がある。

二、「井関隆子日記し(昭和女子大学図書館蔵)について

 昭和女子大学図書館・桜山文庫には『井関隆子日記』が所蔵されている。著者自筆の写本、十二冊、全九六六葉。著者は、井関隆子(いせき・たかこ、一七八五~ 一八四四)で、旗本の主婦である。『日記』は晩年の五年間(一八四〇~四四)に亙つて記されている。その内容は、その日の天候、四季折々の自然の変化、日々の出来事、様々な見聞、当時の風俗・習慣、年中行事、幼い頃の思い出、人物・社会・政治・学問・文学等に対する批評、折々に詠じた和歌などが、著者の意のおもむくままに記されている。
 殊に、この『日記』の特色は、徳川幕府の動静や江戸城中の様子が具体的に、また比較的に正確に記録されている事である。それは、著者の子の親経(ちかっね)や孫の親賢(ちかかた)が、将軍や大奥に深く関わる係を担当していて、その情報を隆子に、詳細に、また正確に伝えていだからであろう。

三、『井関隆子日記』に見られる天保期の歴史的記述

 天保十一年~十五年の社会状況は、近世の歴史の上から見ても、激動の時代であった。天保十二年閏一月に第十一代将軍・家斉が没するのと前後して、首席老中・水野忠邦を中心とする幕府首脳は、天保の改革に着手した。十ー年十一月の三方所替、十二年四月の家斉側近の罷免、十四年三月の日光社参、同年六月の印旛沼干拓工事、同年八月の上知令などを次々と行ったが、これらの諸政策実施の様子が、『井関隆子日記』には極めて具体的に記されている。

四、第十」代将軍・徳川家斉の没日をめぐって

 第十一代徳川将軍・家斉の没日は。天保十二年閏一月晦日が通説である。それは、徳川幕府の正史ともいうべき、『徳川実紀』『徳川幕府家譜』『柳営次記』等がそのように記録しているからである。しかし、井関隆子は『日記』の閏一月十日の条で、西の丸の大殿・家斉は、久しく病気勝ちであったが、昨年の暮から特に重体となり、年の初めまでもつだろうかと、皆心配していたが、ついに閏一月七日の夕方に他界されたという事である、と記している。
徳川家斉の没日は、天保十二年閏一月七日没、というのが、歴史上の事実であったようである。しかし、十二代将軍・家慶はじめ、徳川幕閣らは、家斉の死を伏せて、菩提寺の寛永寺に祈祷料として銀五百枚を与えて、葬儀の準備をさせ、御三家・御三卿の当主も江戸に集まり、次期政権の準備も万事整えて、閏一月晦日に家斉の死を公表した。これが、歴史上の事実であったらしい。
 徳川幕府の公式の記録とも言うべき諸史料に、このような、事実とは異なる事が記され、その虚構の記録に拠って歴史が認識されて後世へ伝えられている。しかし、他方では一人の旗本夫人の私的な曰記に、歴史の事実が記録され、同様に後世へ伝えられる訳である。

五、おわりに

 徳川幕府は、三百年という長い間、日本を統治してきた。巨人な組織を機能的に円滑に運営しようとする時、様々な虚構をつくり出した。このような事が、明治以降の日本の国家組織に無いと言えるだろうか。歴史研究は、これらの事実を突き止め、その背後にある真実へ迫る任務があるように思う。

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●これは、昭和女子大学日本文化史学科の研究会の依頼でお話したものである。私は、卒論の頃から、文学の隣接諸科学、歴史学、国語学には、留意し、諸資料を活用して来た。それが、文学の解明に役立った。

●文学作品は、テキストクリティークを加え、歴史史料には、史料批判を加えて使用する必要がある。
2020年7月31日

真下英信氏の『井関隆子日記』研究

真下英信氏の『井関隆子日記』研究

  • 2020.07.31 Friday
真下英信氏

真下英信氏は、平成30年11月、御他界なされた。77歳であった。

 
  真下英信氏の御逝去を悼み 心から御冥福をお祈り申し上げます

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真下英信 プロフィール

1941年群馬県高崎市に生まれる。1971年慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。現職慶応義塾女子高等学校教諭。著作に『地中海世界と宗教』(共著 慶応通信(現・慶応義塾大学出版会)1989)。『ペリクレスの演説』(大学書林 1991)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『伝クセノポン「アテーナイ人の国制」の研究』より

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〔井関隆子〕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

井関 隆子(いせき たかこ、1785年(天明5年)6月21日 – 1844年(天保15年)11月1日)は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した女流歌人、日記作者、物語作者。

来歴

幕臣、大番組・庄田安僚の四女として、四谷表大番町(現在の新宿区大京町26の辺)に生れる。20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、23歳の頃に離婚。30歳の頃、納戸組頭・井関親興と再婚、2人の間に子は無かった。井関家の屋敷は、九段坂下(現在の千代田区九段1-5の辺)にあった。文政9年(1826年)に夫が没し、以後は、本を読み、歌を詠じ、日記や物語を書いて悠々自適の生涯を送ったという[1]。

著書

●『井関隆子日記』全12冊
著者の自筆本が、昭和女子大学図書館に所蔵されている。天保11年1月1日から同15年10月11日までの900日間の日記。その日の天候、地震、四季折々の自然の変化、その日その日の出来事、様々な見聞、人物・社会・政治・学問・文学などに対する批評などが記されている。特に、子の親経や孫の親賢から伝えられる、江戸城内の様子が詳細に書き留められている。江戸時代の日記文学としても価値があり、また、当時の歴史的資料としても価値がある[1]。

●『さくら雄が物かたり』 6巻1冊
著者の自筆本。東北大学附属図書館・狩野文庫蔵。内容は、平安朝の『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』などの構想を借りて、現実の仏教界を厳しく批判したものと解釈される。

●『神代のいましめ』写本、墨付28葉
昭和女子大学図書館所蔵の、鈴木重嶺の「翠園叢書」の、巻26の中に収録されている。内容は、平安朝の散逸物語『隠れ蓑』などに構想を得て創られた物語で、首席老中批判を通して、人間の表裏の二面性を描いている。

●『いなみ野』吉海直人氏所蔵の写本『物かたり合』墨付54葉の内、5葉播磨の国、印南野を舞台にした物語である。隆子は、すすき・尾花が大好きで、その思いを作品化したものと思われる[3]。

●『井関隆子長短歌』
『秋野の花』に短歌が収録されている。その外、『井関隆子日記』にも800首ほどの、長歌・短歌が収録されている。

●『しのびね』写本、1冊、静嘉堂文庫蔵。擬古物語。井関隆子が、頭注、傍注を追加したもの。書写も井関隆子と推測される。

●深沢秋男「井関隆子校注『しのびね』(静嘉堂文庫蔵)考」(『近世初期文芸』34号)

書写本

●桑原やよ子著『宇津保物語考』 写本1冊、静嘉堂文庫蔵。

●蔵田茂樹著『恵美草』 写本1冊、国立国会図書館蔵。

●吉田兼好著『徒然草』 巻子本1巻、箱に「雅文 源隆子」とあり、『徒然草』第15段、第189段の書写[4]。

脚注

1^ a b c 深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
1^ 新田孝子「井関隆子の文芸―館蔵『さくら雄が物かたり』の著者」(『図書館学研究報告』東北大学、13号、1980年12月)
1^ 吉海直人「新出資料『物かたり合』の翻刻と解題―井関隆子周辺の創作活動―」(『同志社女子大学 日本語日本文学』8号、1996年10月)
1^ 吉海直人「〈新出資料〉井関隆子自筆『雅文』の影印と解題と紹介」(『文学研究』91号、2003年4月)

参考文献

●『井関隆子日記』全3巻、深沢秋男校注、勉誠社、1978年11月 – 1981年6月。
●ドナルド・キーン「井関隆子日記 ①・②・③(百代の過客―日記にみる日本人―)」朝日新聞、1984年4月4日 – 6日
●深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
●深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』文春新書、2007年11月
●真下英信『古代ギリシア史論拾遺』私家版、2008年2月
●真下英信「『井関隆子日記』に見られる地震の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』26号、2009年3月
●真下英信「『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』29号、2012年3月
●真下英信「音で読む『井関隆子日記』:天気の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』30号、2013年3月
●真下英信「音で読む『井関隆子日記』:鳥」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』31号、2014年3月
●真下英信「音で読む『井関隆子日記』:物売り」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』32号、2015年3月
●真下英信「『井関隆子日記』が綴られた頃の江戸の天候について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
●真下英信「『井関隆子日記』天保15年4月29日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
●真下英信「『井関隆子日記』 月の初日と末日の記述について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
●真下英信「『井関隆子日記』天保11年7月3日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
●深沢秋男「井関隆子校注『しのびね』(静嘉堂文庫蔵)考」『近世初期文芸』34号、2017年12月
●真下英信「井関隆子の防災意識に学ぶ」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』35号、2018年3月
●深沢秋男「『井関隆子日記』の日付訂正」『芸文稿』11号、2018年7月

★参考事項 『井関隆子日記』は、 現在、池田茂光氏によって、現代語訳が進められている。刊行時期は未定。

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●この記録でも解るように、真下英信氏の『井関隆子日記』に関する研究は、注目すべきものである。

●私は、平成27年(2015)、家庭の事情で、転居した。蔵書も整理し、研究資料も整理した。この時、殆んどの方々とお別れした。

●真下英信氏には、井関隆子関係の写真などを送り、御研究を単行本として出版する時の参考にして欲しいと、お願いしてお別れした。真下氏は、健康が心配だと申されていたので、内心、無事を願わずにはいられなかった。

●この度、『芸文稿』第13号の雑文をお送りして、氏の御逝去を知った。世の無常を思わずにいられない。

●真下英信氏の『井関隆子日記』研究に対して、心から敬意を捧げ、感謝申上げる。

2020年7月31日

大奥に勤めた ? 井関隆子

井関隆子は大奥に勤めた ?

  • 2020.07.01 Wednesday
大奥に勤めた ? 井関隆子

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井関隆子【いぜき たかこ】

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

井関隆子 いぜき-たかこ

1785-1844 江戸時代後期の歌人。
天明5年6月21日生まれ。30歳ごろ西丸納戸組頭井関親興の後妻となったが,42歳のとき死別。和歌,国学をおさめ,大奥につとめた。天保(てんぽう)11年から15年までの「井関隆子日記」には800首余の和歌がしるされ,当時の世相をつたえる貴重な史料とされる。天保15年11月1日死去。60歳。江戸出身。本姓は庄田。歌集に「井関隆子長短歌」

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●井関隆子は大奥に勤めたと記されている。これは、さる御仁が書いた〔辞典?〕の孫引きだろう。こわい、こわい。

池田氏の小説『サンセット』に井関隆子

池田氏の小説『サンセット』に井関隆子

  • 2020.06.28 Sunday
池田氏の小説『サンセット』に井関隆子

●山梨日日新聞連載中の、池田茂光氏の小説『サンセット』191回(2020年6月19日)に井関隆子が登場した。

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前回までのあらすじ

72歳の夫・茂光と69歳の妻・裕美は、脳梗塞で倒れた認知症の母親・鈴(95)を身延町で「老老介護」している。裕美との会話で、妻への感謝について話題になった。在宅1人暮らしの高齢者は男性よりも女性の方が多い。10年先も2人元気でいられるだろうか。老後の孤独について考えた。

・・・・・・・・・・・

●小説は、95歳と高齢の母を介護する夫婦の日常を描写する展開。認知症を抱える母は、ショートステイに世話になりながら、夫婦が面倒を見ている。

●現在、日本全国、高齢化社会の問題、認知症の高齢者の問題を抱えている。小説は、この大きな、そして切実な主題を取り上げている。

●今、新ウイルスが、この社会に追い打ちをかけている。対応できるワクチンは、未だ開発はされていない。私たちは、三密の生活を心がけているが、江戸時代は、神仏への祈願をしたり、占い師にすがったりして疫病に対応して来た。

●そんな時代に、迷信にとらわれない、井関隆子の言い分を、『サンセット』の作者は自作に取り込んでいる。隆子の合理的な考え方もいいが、「政治家という不思議な職業?」と書き飛ばす作者に好感を持った。

池田茂光氏の『井関隆子日記』6

池田茂光氏の『井関隆子日記』6

  • 2020.06.26 Friday

**幕末の才女「井関隆子日記」**

・・・ちょっと覗き見・・・その6

幕末の旗本婦人・井関隆子は天保11年から5年間、大変優れた日記を書き残しました。当時(1840年~)は明治維新まで28年と言う激動の時代でした。隆子はこの日記の中で日常生活、社会の矛盾、天保の改革について、歴史や文学について、宗教について、その他当時の世相や現実から縦横に発想を飛ばし、忌憚のない批評眼を持って日記に記録しました。歌人としても当時から有名で、この5年間い及ぶ日記の中に、およそ800首も歌を詠んでいます。
先年亡くなったドナルドキーン氏もこの日記を大絶賛しています。
私はこの日記の意訳に取り組んでいますが、完成までに数年かかる予定ですので、その間、少しずつ「覗き見」的に内容を紹介しようとしています。ほんの僅かな抜き書きですが「井関隆子日記」の雰囲気だけでも感じて頂けたら幸いです。

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天保11年4月6日(現在の5月~6月)
今日は右大将の君(徳川家定、後の13代将軍)の疱瘡快癒を願って酒を入れた湯を浴びさせる儀式あった。そのため皆登城して、酒肴を頂いたそうだ。我が家の主親経(隆子の子)も登城し、紅葉の間で饗応に与った。この平癒を願う願掛けや祈祷などは各地で行われている。
疱瘡は近年冬から春夏に掛けて病む者が絶えない。亡くなる人も多い。私の孫も一人この病で亡くなった。4歳だった。
多くの家では疱瘡の神を祀って神頼みする。しかし我が家では孫が亡くなって以来、忌々しくて全くしなくなった。だいたいこんな神を祀っても、かえって祟られたり苦しめられたりすることも多いのだ。
世間では様々なことを考えて生業とする者がいる。そんな中で人の道に外れたことをする者も増えて来た。
人の性と言う者だろうか、例えば家相を見るなどと言って、家の建て方が悪いから禍があるぞとか、地相が悪いから不幸を招いてしまうなどと言い要らない工事をさせたりして大切な貯えを失わせる。埒もない事に騙され、財を投げうってしまう。これも人間の性だと言うのだろうか。
いずれにしても人の心はそれほど惑いやすいものだと言うことだ。

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流行り病の疱瘡も当時は命取りになった。今の新型コロナのようなものだろうか。新型コロナもワクチンの開発が待たれる。

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●池田茂光氏の御努力で、井関隆子が、よみがえる。有難い事である。

『旗本夫人・・・』 74円

『旗本夫人・・・』 74円

  • 2020.06.24 Wednesday

深沢秋男の「旗本夫人が見た江戸のたそがれ」を読んだ感想とあらすじ

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2020.06.13 2008.06.21
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覚書/感想/コメント

旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記 (文春新書 606)
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『旗本夫人が見た・・・』

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幕末の江戸城に近い九段坂下に井関隆子という旗本夫人がいた。彼女の存在を後世に伝える事になったのは、五年間にわたる膨大な日記である。
日記は天保の改革が行われた天保十一年(一八四〇)一月一日から十五年(一八四四)十月十一日まで書かれている。井関隆子が五十六歳から六十歳までである。
息子は御広敷御用人で十一代将軍徳川家斉の正室・広大院(松の殿)の掛を長年勤めたので、江戸城大奥の様子が詳細に伝えられる事となる。
正確な情報に裏付けられているため、天保期の歴史に修正を迫るものを少なからず持っている。
この日記は蔵書家の鹿島則文が桜山文庫として蒐集したものの中にあった。
日記は著者自筆の写本で天下一本である。全十二冊、墨付合計九百六十六丁(千九百三十二頁)、十八の挿し絵が入っている。
彼女がこの日記を書き始めたのは「とりたてて、何事かは言はれむ。しかれども、つれづれなるもののすさびには、はかなき事をも記しつつ、心を遣るよりほかの慰めなむなき」という心境からの事であった。
日記に書かれている江戸の年中行事では、元旦、年越し、鏡開き、十四日年越し、初午、雛祭、出替わり、更衣、灌仏会、流鏑馬、端午の節句、両国の川開き、山王祭、七夕、四万六千日、草市、廿六夜待ち、十五夜、重陽、十三夜、神田祭、玄猪の祝い、子祭、宮参り、事始め、煤払い、等である
日記には落語の「品川心中」と筋立てが非常に共通するものが書かれている。この事件が落語の原話となっている可能性があるようだ。
天保の改革の迷走ぶりを示す事件として「三方所替」が書かれている。松平斉典を庄内へ、酒井忠器を長岡へ、牧野忠雅を川越へというものだった。
結局は様々な事情から中止する事になるのだが、幕府の権威の衰退を象徴する事件として扱われる事になる。
この「三方所替」については、藤沢周平が小説「義民が駆ける」で描いている。
将軍の没日に関して。従来の歴史書等と井関隆子の日記との間には日時に差違が見られる。
幕府の正史などとともに、地方の史料等を参照しなければ、真相は明らかにならない。
そもそも、将軍の没日の公表は遅れてされるものである。政治的な意図によるのだが、同じく、幕府の徳川正史などにも政治的な意図が入り込む可能性が否定できない。そうした意味で、井関隆子のような一次史料というのはとても重要性を帯びてくる。
この井関隆子の日記のような重要な史料というのは各地に眠っている可能性が高い。
従来の時の権力が遺した史料を裏付けるため、もしくはその誤りを修正するためにも、こうした史料から真実を探り出す必要がある。同じ側からしか歴史を見ないというのは、歴史学の科学性を否定しているようなものである。多角的に見るためには、地方に散らばっている史料を新たに掘り出す必要があるはずだ。
こうした重要な史料で、陽の目を浴びていないものはまだまだあるはずである。ものによっては海外に流出している可能性もあるだろう。
学者たちのやるべき事はまだまだある。
研究室に閉じこもってばかりではなく、このような一級の史料を探し求めていくのが今後の歴史学者のあるべき姿だと思う。

【詳細な目次】

はじめに
第一章 旗本夫人の批評眼-心の風景と幕末の記録
 一 鹿島則文と桜山文庫
    蔵書家の数奇な生涯 三万の珍籍奇冊
 二 血縁なき家族との暮らし
    隆子の離婚と再婚 恵まれた家計
 三 活き活きとした主婦の記録
    多岐にわたる筆先 旺盛な批判精神 情報が集まる環境 書かねばならぬ日記へ
第二章 江都有情-武士と町人の生活
 一 井関家の四季
    九段坂下の屋敷 鹿屋園の庵主 豪華な元旦の拝領物 愛酒家の月見 花見の趣向 絶好の酒肴 四谷の実家の復興
 二 江戸の風俗・風聞
    将軍上覧の天下祭り 改革下の神田祭 両国の川開き 盛大な佃島の花火 浅草の「眼力太夫」 平将門の首を拝む 永代寺の陰間
 三 江戸の事件簿
   イ.旗本心中事件
      思わぬ人違い 一線を越える 心中決行の暁
   ロ.品川心中事件
      冤罪・騙り・恨み 江戸詰め侍の女遊び 女の裏切り 幽霊登場 落語の原話か
   ハ.余聞・風聞
      上総のふたなり 長安寺の好色僧
第三章 天保の改革-衰退する統治力
 一 迷走する改革
    書かずにおれない三方所替 出羽の駕籠訴 羽黒の山伏 三方所替の中止 家斉没日の謎 家斉側近の罷免 大奥も粛清 三佞人の評判 寄合に降格された人々 天保の改革、発令さる 二宮尊徳の印旛沼工事 氏栄の左遷 燃える土 工事が中止に 上地令に不満続出 将軍の真意 忠邦への反発 利で行えば恨み多し
 二 日光東照宮への長い道のり
    将軍、最後の参詣 葬式用具を持参 演習の見物衆 将軍家慶、出発す 社参の意義
 三 水野忠邦批判
    賄賂を求める人物 八王子村のいざこざ 隆子の小説のモデル 罷免に世間は歓呼 忠邦の返り咲き
第四章 江戸城大奥-エリート官僚は見た
 一 中奥と大奥をつなぐ御広敷
    大奥のトップ事務官・井関親経 御用人拝命 名代で京に出張 莫大な出張手当て 大名並みの旅立ち うるわしの上方土産
 二 将軍家斉の素顔
    植物愛好家 九段坂上の火除け地 権勢ふるう中野碩翁 同性愛の殿様たち 大奥に粛清の嵐 家斉の没日は? 幕府の公式記録 奥医師の大失態 家斉の葬儀 あやしい徳川正史
 三 将軍家慶の心持ち
    猿楽愛好家 家慶夫人の没日 日蓮宗批判 養女を歓待
 四 家定夫人の謎
    正夫人の実父 光格天皇の崩御 有姫との縁組 有姫の実父は誰か
 五 江戸城、炎上す
    早朝の出火 大慌ての大奥 早い火の廻り 黄金白金も焼失 出火元と死体の始末 家定の見舞い品
終章 井関隆子という自我-近代の眼差し
 一 確かな歴史意識と人間意識
 二 天保期の批評者
 三 豊かな学識と知性
 四 旺盛な好奇心と執筆意欲
 五 旗本夫人の気位と気品
 六 敬愛された母・祖母
あとがき
井関隆子関連略年表
参考文献

日大文理で『井関隆子日記』講読

日大文理学部で『井関隆子日記』講読

  • 2020.06.21 Sunday
日大文理学部で『井関隆子日記』講読

●FBの2年前を振り返ろう、とメッセージがあった。日大で『井関隆子日記』を講読に取り上げているというもの。

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2018.06.21 Thursday

●日本大学文理学部の史学料で『井関隆子日記』を教えている。

◆日本資料研究4、石田陽子、2単位、2年~4年、選択必修、史料から読み解く日本近世史、12=『井関隆子日記』を読む 〔準備〕第11回の授業に配布したプリントを一読し、旗本について調べておくこと。

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●『井関隆子日記』は日記文学としての価値とともに、歴史の史料としても、優れた内容を備えている。実は、この日記は、大学入試センター試験の古典に出題されたが、その外、日本史の追試にも出題されている。

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平成11年度(1999)センター入試(日本史追試)に『井関隆子日記』出題
平成11年度大学入試センター試験追試験日本史に『井関隆子日記』の天保14年6月17日の条が出題された。
これは、ネット上の情報である。試験問題の原物を確認して、正式の問題を紹介したい。

『井関隆子日記』センター試験に出題
1999年 日本史追試験
(日本史、センター追試験・1999)
1843年(天保14年)6月
武蔵はいうべくもあらず、隣に付きたる国々、大城(注1)より四方へかけ十里四方御領(注2)になし給(たま)う御定め出(い)でぬ。されば御旗本の人々の知る所(注3)、田畑の実りよろしき辺(わた)り皆召して、かわりの地は後に給わるべしと仰せ下りたるにぞ、かの人々おもほえず(注4)浅ましうあきれつつ打ちわぶる人数しらず。(『井関隆子日記』)
(注1)「大城」とは、ここでは江戸城のこと。
(注2)「御領」とは、ここでは幕府の領地のこと。
(注3)「知る所」とは、知行地のこと。
(注4)「おもほえず」とは、思いがけずということ。
問.史料は、天保の改革の時期に出されたある法令について、著者が 批判的に記したものである。その法令の説明として正しいものを、 次から1つ選びなさい。
1.江戸への流入者を強制的に帰村させ、農村の復興をはかろうとしたものである。
2.札差らからの借金を整理させ、窮乏する旗本・御家人を救おうとしたものである。
3.金銭貸借についての訴訟を受理せずに、当事者間で解決させようとしたものである。
4.幕府の直轄地を江戸や大坂周辺に集中させることで、幕府の収入の増加や対外防備の強化などをはかろうとしたものである。

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