井関隆子の『神代のいましめ』

井関隆子の『神代のいましめ』
2019.02.21 Thursday

●井関隆子は、天保10年(1839)前後に『神代のいましめ』という雅文小説を創っている。55歳の頃である。この作品の原本は、最後の佐渡奉行であった、翠園・鈴木重嶺の「翠園叢書」の中に収録されている。「翠園叢書」は重嶺の御子孫の松本誠氏が所蔵しておられたが、現在は松本氏から寄贈されて、昭和女子大学図書館・翠園文庫に所蔵されている。
 
 ●『神代のいましめ』の内容
 
 この一編の冒頭に「武蔵野の原」とあり、「ならぶ国なくなん栄えたり」とあることから解るように、江戸がその舞台となっている。

 主人公は公事に従事する某の少将で、経済的にも地位の上でも、また家庭の中も全て満ち足りた生活をしている。ところが、この少将は、ある時、平公誠の歌「隠れ蓑隠れ笠をも得てしがな……」を見てから、隠れ蓑笠が無性に欲しくなる。近習に相談しても効果がないので、屋敷の内の大国神に祈願したところ、その甲斐があって、これを入手する事が出来る。この隠れ蓑笠に身をかくした少将は、無二の友や、少将の所へ出入りしている歌人や、家中の全てを任せておく家長や、深い契りを交わしている女性などの所へ行き、自分に対する様々の批評や批判、また世間の人々の予想外の行動に接し、驚き、怒り、悔しがる。そんな事を続けているうちに、長男に、隠れ蓑のみを着ているところ(首のみ見える状態)を見られてしまい、それを知った少将は、変な噂の立つのを恐れて、隠れ蓑笠を神に返す、というのが、この物語の荒筋である。

 この主人公は,領地を広く持ち,将軍の覚えも第一で,世間の人々も少将に従い,全てが思いのままである。妻もしかるべき人の娘を迎え,子供も皆それぞれに立派に成人している。使用人も目やすい者を選び,遊びも雅びを好んで,歌合わせ・絵合わせなどが絶えない。住まいも立派で見所が多く,調度品も日本の物は勿論,唐の物まで集め,何不足ない生活ぶりで,少将自身「大方あかぬ事なき身」と言って,この生活に満足している。
 このように現実生活で,全ての面で満ち足りた日々を送っている人間が,次に望むことは,自分の身を隠すという如き,超現実的な望みしか残っていない。主人公は,隠れ蓑笠を入手したいと願うようになり,もしその願いが実現出来たなら,自分の思う所へ行き,知らない人の側に立ち、世間の人々の有様を見て、「公の御ため後ろめだきことをも聞出」す事が出来るであろう,もしそれが実現できたなら,さらに満足であると思う。
 つまり,隠れ蓑笠に身を隠して,世の中を見て歩く理由として,幕府に対する陰での批判を聞き出す事をあげている。これは,政治を司っている老中クラスの人物としてみれば当然の事と言えるのであり,好色的な目的が第一であったであろうと推測される,平安朝の『隠れ蓑』とは大きな違いである。
 
 ●現実社会への批判
 
 隠れ蓑笠に身を隠した少将の行動や見聞した事を整理してみると次の如くである。

1,「二つなき友」と思っている某殿の家へ第一に行ってみると,主人と共に二,三人が杯を傾けている。この
 人々はいずれも,少将の所へ出入りしている者で,楽しそうに語り合っている。
 (a),主人―「あの少将の所へはよく行っているかい? 最近,美しい妾を引き入れたそうだが,私には何の心隔てもないようであるが,少しも見せてくれないのは妬ましいことだ。」
 (b),話し相手―「見苦しいほど睦れ合っているそうだ。女性の世話は何でも叶えてくれるというので,私は長い間,それを期待して,折にふれ贈り物などしているが,未だに何の効果もない。」
 (c),別の相手―「公の人事についても,少将の気に入った者は,それ程の人物でなくでも出世しているが不公平な事だ。それに最近は,負けじ魂だけがまさって付き合いづらい。この間も碁を打っていて,私が少しでもいい手を打つと機嫌が悪いので,わざと負けたら,髭をなでながら誇らし気に笑っていたが,憎らしいものだ。」
 少将は,これらの親友と思っている人々の会話を立ち聞きして「味気なう腹だゝしう」思いながら立ち帰る。

2,その後,風邪のために公の勤めも休んだが,ようやく回復したので,今度は自分の知っている人々の家を見て歩く。
 (a),日頃,真面目で恥じらいのある者も,内々の様子を見ると,みだりで,はしたなく,まるで別人のようである。
 (b),仏の再来かとまで尊ばれている僧侶も,陰ではあだあだしき女と戯れ,酒を飲んでいる。
 (c),少将は少将で,生まれながらの色好みの性格から,他人の娘や,人妻の所へ勝手にに忍び込み,心をときめかしている。
 (d),路上で,いろいろ噂話をしている者もいるが,この少将の事を良く言う人はほとんどいない。
 (e),物を背負った行商人らしい者は「全く世知辛い世の中だ。税金は年々増えて,利益が少なく,暮らしも楽ではない」と嘆く。
 (f),旗本の身分の低い者が連れ立って歩きながら「今年の禄はもっと良いと思っていたが,悪い年よりも更にに少ない。これは政治を司る老中たちが,自分達だけ奢って,下の者を労らないからである」と批判する。

3,少将は,これらの噂や批判を聞いて,自分独りの過ちの如く受け止め,心地を悪くして,家に引き籠もってしまう。すると,次々と見舞いの人々が訪れ、見舞いの品は山のように積み上げられる。これらの品々を眺め,大した病でもないのに,心配そうに毎日様子を伺う者が居るのに接すると,少将は,意を強くして「世間は憎い者のみではない」と思い返す。

4,一日,多くの歌人達を呼び集めて歌会を催したが,席上,自分の歌が皆から賞賛された少将は機嫌をよくして,それぞれに物を与える。翌日,隠れ蓑笠に姿を隠した少将は,歌会の判者の家を窺うと,ちょうど皆で少将の歌について話し合っている。少将はそっと近づいて,会話に耳を傾けると,その批評たるや,歌会の席上の評価とはまるで反対で,ことごとに貶し,「初の五文字よ,中の句のいひかけよ,むすびの七文字よ,文のはし,いさゝかも見給はむには,かゝるつたなきこと有なんや。いかめしき御身の程には似もつかず」と少将の文才の無さを弄じている。これらを聞いた少将は「打も殺しつべく思ほせど,せめて念じて」帰る。

5,帰る途中に,若者に講義をしている学者の家がある。少将は,猶もこりずに覗くと「利によりて行へば恨み多し」という『論語』の一節を講じている。それを聞いた少将は「ただ我事」と思って,このまま聞いていたら,何を言われるかわからないと,早々に逃げ帰る。

6,このように,世間の人の心が信用できないので,自分の家の中まで不安になって,家中の様子を見て廻ると,自分の決めた掟は全く守られていず,厳禁されているはずの博奕さえ堂々と行われている。

7,そこで,家中の事は公私共に全て任せている,家老の家へ行って見ると,ちょうど,奉行をはじめ,使いの者が大勢来ている。家の中には進物が所狭しと積み上げられている。家老は妻と向かい合って何事か話し合っ
 ているので,近づいて聞いてみると,「この五百両は某殿から少将殿へ差し上げて,今度の雑役をのがれようとのものである。しかし,これは少将殿へは差し上げないで,次にまた持って来るだろうから,それを差し上げることにしよう。」と言う。妻も相槌をうって「そうそう,それがよい。これで私の望みも叶います。」と微笑む。万事がこの有様なので,少将は,人間の両面にあきれ果てて,家に帰る。

8,北の方へ行こうと思い,途中のある局に立ち寄り,日頃から深く契っている女房の所をのぞくと,女は他の男から来た手紙への返事を書いている。胸がつぶれる思いで,その書きさしの返事を盗み読みした少将は,妬ましく,また立腹する。
 
 以上が,隠れ蓑笠に身をかくして歩き廻った少将が知り得た,人間社会の裏面・実相であり,それは,少将の予想をはるかに越える事々であった。ここには,人前では,礼儀正しく,恥じらいの有る者が,自分独りになると,何の遠慮もなく,猥りがわしい行動をとる様子。この上なく尊ばれている僧侶の,陰での酒色にふける様子。課役をのがれる為に賄賂を贈る大名,また,出世のために幣をおくる旗本たちなど,社会の腐敗・頽廃ぶりが描かれており,さらに,友人や,歌人や,家老や,女房等の表裏の二面性も自ずから批判されている訳であるが,しかし,それらを通して,最終的に向けられている批判の対象は、主人公・少将自身であると言ってよい。少将への批判は,色好みで,負けじ魂のみ募り,その身分に似合わず文才もない,という個人的な面と,税金の増額からくる庶民生活の窮乏,公の人事の不公平,少ない禄に対する旗本たちの不平不満など,政治家としての公的
な面の両面からなされている。
 主人公は,すでにみた如く,将軍が第一に重用している人物であり,種々の政策批判を自分一人の過ちと受けとめる程の人物であれば,その地位は首席老中とみてよいと思われる。この幕閣第一の人物に対する批判,これがこの一編の主題であると言い得る。
 
 この『神代』は,まさに「今めかしき事を雅かにとりな」した一編と言う事が出来る。井関隆子の特色の一つは、厳しい批評精神にあると思うが,その点、この一編は注意すべき作品であると思う。
 滑稽本『人間万事虚誕計』は,前編は式亭三馬の作で文化10年に刊行され,後編は滝亭鯉丈の作で天保四年の出版であるが,これは人間の表裏の二面性を笑いの種にした作品である。隆子は同じ主題を,隠れ蓑笠という超現実的な道具を利用する事によって,現実の首席老中批判という形で一編にまとめた訳である。
 主人公・某の少将は,現実生活において,何の不足もない幸せな日々を送っている。それ以上の望みといえば,人間業では不可能な超現実的なものとなる。主人公はその望みさえも叶えられた。しかし,その瞬間から,驚き,怒り,妬み,苦しまなければならなかった。それが人間社会の真実なのだ,と作者は言いたかったのではなかろうか。
 「神代のいましめ」という題が示す如く,この作品は国学者的立場から創られている。文章も雅文体である。古典を尊重し,それらを巧みに作中に採り入れている。しかし,それは宣長の『手枕』の如く,王朝文学の補完としての筆ずさみではない。王朝文学に想を借り,超現実的な構想の上に成ってはいるが,その内容は,あまりに現実的なものである。ここに,とかく現実と遊離しがちな,いわゆる国学者流の作物と異なる,この一編の特色があり,作者・井関隆子の特色もあるものと思われる。
 
●主人公・某の少将のモデル―松平定信か水野忠邦か―
 
 作品の主人公は,将軍が第一に重用する人物であるから,幕府の政策を担当する,老中の中で最も地位の高い首席老中とみることが出来る。この時期の首席老中で,この作品のモデルに相応しい人物として,松平定信と水野忠邦という,2つの意見が出されている。
 松平定信説を出されたのは,新田孝子氏である。新田氏の説を要約すると,次の通りである。
 
1,『神代』の書かれた時期は,蔵田茂樹が江戸を出発した天保11年5月20余日以前であったことは確実である。
2,水野忠邦は,文政11年西丸老中,天保5年本丸老中,同10年12月老中首座となり,11年12月に、3ケ年の倹約令が公布され,天保の改革が宣言されたのは同12年5月であった。したがって,『神代』が忠邦の人物や政策を諷刺していたとすれば,それは西丸老中であった忠邦のそれであったことになる。
3,忠邦は,天保十二年に新見正路(井関家と親戚関係にある)を御側御用取次に起用し,井関親経(隆子の子)もこの年広敷用人になって七百俵を与えられている。天保14年9月に目付・戸田氏栄(新経の妻の兄)が印旛沼開鑿に関連して左遷されるまでは,隆子が特に忠邦を憎む理由はなかった。
4,「烏滸の者として描出されるその人間像には,敬愛する人物を擬するのは憚られるのだが,それも最終的には反省され,修正されるていのものであれば,あながち冒涜的であるとも言へないであらう。したがって,主人公某の少将は「たそがれの少将」のニックネームを持つ為政者松平定信と考へた方がよい。」
5、蔵田茂樹が,この物語を気に入ったというが,それは,老中水野忠邦批判のゆえとは考え難く,むしろ,歌人として名声が抜群であった松平定信を想い,そこに惹かれたものと思われる。
 以上,論拠を要約したが,長い文章故,十分でない点があるにしても,氏の論旨は,ほぼ,これで尽くしていると思う。
 
 これに対して,私は,水野忠邦説を主張している。以下に結論のみを掲げる。

 第一に,忠邦とした場合,西丸老中、本丸老中の間の政策が批判の対象になる,とされているが,これは,右に見てきた如く,10年12月には本丸老中首座となっているし,また,本丸老中の間を含めても差し支えないと思う。本丸老中昇進後,1,2年で,松平康任と共に幕政を動かしていたと推測されるからである。

 第二に,隆子は,縁戚関係にある戸田氏栄が左遷された天保14年9月以前は,忠邦を憎む理由がなかった,という点であるが,この『神代』は,そのような私的感情の捌け口として創られたものではないし,戸田氏栄の一件が発生する前も後も,忠邦に対する隆子の態度に大きな変化は見られない。

 第三に,松平定信の官位は少将まで進んでおり「たそがれの少将」のニックネームを持っていた,という点であるが,確かに忠邦は侍従であり,少将ではなかった。しかし,隆子自身「ゆくすゑはしらず,此ごろ殊にならぶ人なう時めき給へり。」(12年6月3日)と言っている如く,おそらく,天保9年~11年には,忠邦は並ぶ人無き状態であり,それは,侍従の中の,〃一ノ人〃であり,〃少将〃に匹敵する存在であったと思われる。歴史的事実としても,もし,忠邦が天保の改革を為し遂げ,円満に職を辞していたならば、定信と同様,少将に昇進する,という事は十分に予測し得る事であり,隆子がそのように予測していた可能性もある。

 また,隆子が,主人公を「少将」とした点に関しては,このような,現実的社会との関連の他に,この作品の構想の上で影響の認められる『宝物集』の「少将」も合わせ考慮されなければならない。さらに言うならば,この「少将」は,目の前の現実を描く上での一種のカムフラージュであったかも知れないのである。

 さて,この場合,それよりも重要な事は,新田氏が「烏滸の者として描出されるその人間像には,敬愛する人物を擬するのは憚かられる」と述べられている如く,この主人公が極めて厳しい批判の対象になっているという事である。新田氏は最終的には,反省され,修正されているので,あながち冒涜的であるとも言えない,としておられるが,そうとは言えない。主人公・某の少将への批判は,色好みで,負けじ魂のみ募り,身分相応の文才もない,という個人的な面と,税金の増額からくる庶民生活の窮乏,公の人事の不公平,少ない禄に対する旗本たちの不平不満等、政治家としての公的な面の両面からなされており,これらには,反省・修正し得るものと,修正し得ないものがあり,そのような主人公に,自分の尊敬する人物を擬する,という事は考え難い。そして,それよりも,さらに重要な事は,創作心理に関する事である。将軍の権威を後ろ盾に,幕閣第一の実力者として,幕政を思いのままに動かそうとする主人公を描こうとした時,現に,目の前に,そのモデルに最もふさわしい人物・忠邦が居るのに,どうして,50年も前の,たとえ「少将」であろうと,自分の敬愛し尊敬してやまない定信を登場させる必要があるだろうか。このような創作者の心理から考えても,定信説は妥当と思えない。

 第四に,蔵田茂樹が,この物語を気に入ったのは,歌人として有名であった定信を想い,そこに惹かれたものである,という点であるが,この事は,一読者である茂樹がどこに惹かれようとも,それは,作品それ自体に何の関係もない事である。それにしても,この主人公は、歌会の席上で賞賛された歌を,その選者たち(北村季文等がモデルか?)から,陰では徹底的に批判,嘲笑されているのであり,そのような某の少将(定信)に,茂樹が惹かれたという説も理解し難いものである。
    
●山本博文氏の『武士の仕事』を読んで、井関隆子の水野忠邦批判を思い出した。彼女は、現実を見る、確かな見識を持っていたし、創作力にも優れたものを持っていた。私は、このような、女性にめぐり合ったことを幸せに思っている。

明治大学の出題傾向

明治大学の出題傾向
2019.02.18 Monday

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明治大学

出題傾向
※旺文社刊行の「全国大学入試問題正解」より転載しています。
※過去問または出題傾向のある科目のみ表示されます。
 「出題傾向」欄の科目名をクリックすると、その科目の「出題分野」「単元」「難易度」表示画面が展開します。
 国語の場合、「単元」には出題文の著者名または出典名を記しています。

• 2018
学科 入試 出題傾向を見る
国語 日本史 世界史地理

全学部統一入試(1) 英語 数学 地理

分野 単元 難易度
現代文 永田和宏 標準
古文 井関隆子日記 標準
漢文 大東世語 標準
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●明治大学の入試の古文の出題傾向に『井関隆子日記』が出ていた。明治大学では、2008年には出題されたけれど、2018年にも出題されたのだろうか。

受験期

受験期
2019.01.22 Tuesday

●19日、20日は、センター試験があった。今年の国語の古典は、御伽草子の『玉水物語』だった。今日、だいぶ前のものだけれど、こんなブログを見た。
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受験期ですねえ

投稿者:管理人 投稿日:2009年 1月20日(火)02時51分24秒   通報

 「最新号を送ってください」などのメールが相次いでいます(中には合評会にも出席との方も)。でも、逆にその合評会に、仕事の関係で出られない(かも)という人も多いようです。確かにいま受験期突入で、その関係の人は、雑誌自体も読む時間もないでしょうね。ま、小生も同じで、いくつもの仕事を抱え、センター試験問題も電車内で読解していました。いろいろな試験作成・校閲、レビューテスト、解答速報、模範解答・解説の作成など、いっきにやっていきます。もちろん、情報化時代、ネットは欠かせません(PCがダウンしたらどうしようという不安はありますが)。

 学燈社の『入試詳解』はもう20年以上やっていますが(当時解答員では最年少だったがいまは中堅?)、当時、問題解答の正確を期すため、早大など厄介なものは、こっそりYゼミの解答速報を見にも行ったものでした(いまは、各予備校が迅速・正確を競っているようです)。
 当方は現代文・古文ともにやるのですが(最近は漢文も)、研究の方も進んできたのか、いろいろ見知らぬ出典が出ています(今年のは「一本菊」という室町の説話。やたら注は多いが、やさしい方だと思う。ある予備校はやや難、という評価だったが)。

 先日、古典の出典調べで「ささやき竹」というのが類本にないので、ネットにかけたら、YAHOO!ではあまり出ていなくて(今回の「一本菊」も同様で、案外だななと思った)。「井関隆子日記」などは、センター出題がもとで?だいぶ研究が進んでいるのに(ネットに出ているのに)。たいてい、出ているのは国文学資料館の奈良絵本などの写本だったりで、沿革をとりあえず知りたい側としては、古典の一覧本などほしいな、と思った(岩波・新大系の「索引」集も、デカすぎて役に立たない(特に漢文の出典などは、調べるのに苦労した。図書館でもさっと調べられれず、結局、学燈社の出典集に頼った)。

 先の「ささやき竹」は、ネットで出てきたのは(さすがにというべきだろう)、松岡正剛の「千一夜」HPであった。これはなんと、『御伽草子』の一節だった。また、この『御伽草子』の話譚は数百種類もあるので、これだけで、まだ当分試験問題のネタには事欠かないだろうと思ったことだった(「鉢かづき」や「一寸法師」「物くさ太郎」など有名なのはほんの一部)。
 センター出題部分だけでも感動的な文章はあるもので、先日紹介した、昨年の「うなゐ松」(江戸・木下長嘯子『挙白集』収載)は、よかった。
 井関隆子は、小生も訳出を試みたが、九段にすんでいたという聡明な武家女性だったようで、将軍のことや幕政内部にも通じていたようで、昨年の大河ドラマの天祥院と比肩できるであろう。

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『井関隆子日記』の現代語訳

『井関隆子日記』の現代語訳
2019.01.04 Friday

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sab********さん
2015/5/2920:56:05

井関隆子日記、ふるさとへの思いの現代語訳をおねがいします!
ふるさとの荒れたる様を見て、昔の人の嘆きつる歌共、いと多かる。そはいみじかりつる都の年経てあらずなりぬる様、はた己が住めりし里など、いつしか異やうに変はれるを見ては、おのづからあはれ催すべかめり。己が生まれつる所は、四つ屋といひて、公人などいふかひなきものの彼是住みわたりつれど、かやるに板屋などむねむねしからず。大方田舎めきよろほびたる家ども打ちまじれり。一とせ如月のつごもりばかり、此のわたりを行きかひしけるついでに、入りて見けるに、昔すめりし家のあとは草むらとなりぬ。そこはかとなく分け入るに、しかすがに庭とおぼしきわたりは植木など枯れ残り敷石所々にあり。いたく苔むひたる井筒に立ちより見れば、水のみ昔にかはらず澄めり。かの「あるじ顔なる」と詠めりしもことわりにて、はやくのことさへ思ひ出でらる。古くおぼえし木どもみだりがはしう繁りあひ、はた垣のもとに並植ゑたる桜の木ども、かたへは枯れてむらむらに残れるが、折知り顔に色めきたれど、花もてはやす人もなかめるを、誰見よとてかと思ふに、おもほえずうち嘆かれぬ。此の花の木どもはそのかみ母屋に向かひたれば、親はらから打ちつどひ春毎に、盃とりつつ打ち興じもてはやしつるを、今は其の世の人独りだに残らず、ただ我のみたちおくれて、昔の春の夢語りを、さらに語らふ友もなし。

こととは花とはおもへどいにしへをとはまくまほしき庭ざくら哉

奥の方は少しくだりて、片山かけたる坂をゆくに、父君の愛でて植ゑつると聞きおきたる、梅の木どもの大きなる、かたへは朽ちなどしつれど
若葉の色いと清気にて、花の盛りには雪とのみ見渡されにしも、ただ今の心地してすずろに物がなし。

おねがいします!(TT)
できれば省略されてある部分も補ってほしいです(TT)
この質問は、活躍中のチエリアン・専門家に回答をリクエストしました。

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回答数:
1

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ベストアンサーに選ばれた回答

lie********さん

リクエストマッチ
2015/5/3019:54:56

『井関隆子日記』(生家跡を尋ねる)

昔住んでいたところの荒れた様子を見て、昔の人が嘆いた歌などは、たいそう多い。
それは殷賑であった都が年がたって昔の面影もなくなった様子とか、また、自分が住んでいたところなどが、いつのまにかまるで違ってしまったように変わっているのを見て、自然としみじみとした思いになるのであろう。

私が生まれた所は、四つ屋(今の四谷)といって、役人などのどうということもない者が あれこれ住みついていたが、かやるに(かやる、不明、誤写?)板葺きの家などぱっとしなかった。だいたい田舎めいた倒れそうな家などが立ちまじっていた。
先年、二月の末ごろに、このあたりを行き来したついでに、入って見たところ、昔住んでいた家のあとは草むらとなっていた。どこがどこともわからぬままに分け入ったところ、そうはいっても(昔の)庭とおぼしきあたりは植木などが枯れ残り、敷き石が所々にある。たいそう苔むした井筒に立ち寄って見うと、水ばかりが昔と変わらず澄んでいた。
例の(古歌に)「あるじ顔なる」(注)と詠んだのも道理であって、昔のことさえ自然と思い出される。

(注)「あるじ顔なる」……『源氏物語』松風の「住みなれしひとはかへりてたどれども清水は宿のあるじ顔なる」に拠る。

すみません。過去履歴がほとんどゼロの方ですので、ここまでとさせてください。
新規IDでの回答泥棒(回答がつくと質問を取り消す人)が多いので。
違反報告

質問した人からのコメント
2015/5/30 20:50:29

質問逃げのようなことをするつもりはなかったですが、ありがとうございました。

お礼の枚数考えてください。

『江戸の都市力』

『江戸の都市力』
2018.12.30 Sunday

『江戸の都市力』(歴史REAL 2018年11月)

●歴史REALの『江戸の都市力』を見た。「江戸はなぜ豊かな都市だったのか」と問いかける。その答えを特集している。とても面白い内容である。執筆陣を見ると、法政大学の「江戸東京研究センター」の方々が多い。陣内秀信氏は、テレビでもよく見ていて、優れたレポートをしていたので、知っていた。田中優子氏も、よくテレビに出るし、江戸文化を扱い、総長でもあるので知っている。小林ふみ子氏は、近世文学ゆえ、これも知っている。その他の方々は、これまで知らなかった。法政大学では、今度「江戸東京研究センター」を創設して、活動を開始した。

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●法政大学 江戸東京研究センター
2018年01月18日

文部科学省 平成29(2017)年度「私立大学研究ブランディング事業」支援対象に選定された本学事業「江戸東京研究の先端的・学際的拠点形成」を展開するにあたり、「江戸東京研究センター」を設立し、ウェブサイトを開設しましたのでお知らせします。
「私立大学研究ブランディング事業」は、学長のリーダーシップの下、優先課題として全学的な独自色を大きく打ち出す研究に取り組む私立大学を重点的に支援するものです。
本学では、大学憲章「自由を生き抜く実践知」に基づき、本事業を通して、江戸東京に蓄積され現在に生きる知見を、地球社会の諸課題を解決する〈実践知〉として育み広める教育研究を目指します。「江戸東京研究センター」をその拠点として、江戸学研究者でもある田中優子総長を先頭に、日本文化の国際的発信者として、持続可能な地球社会の創造にいっそう貢献してまいります。
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●それで、今度のムックの執筆陣に、法政大学関係者が多いのだろう。その中で、江戸東京研究センター長の横山泰子氏は、江戸のカッパを取り上げている。『一話一言』『耳袋』・『甲子夜話』などを取り上げている。

実は、『井関隆子日記』にも、カッパが出てくる。
●天保11年10月3日の条である。隆子は、孫の同僚の旗本、土屋某から、ガラスの箱に入ったカッパの像を借りて見て、それを描いている。

「此像、箱に入て、打むかふ方にビイドロといふ物を張て、うちにこめたり。此おもてのさま、よろこひいひに出て、打ゑみたるかほなめり。あな、あいぎやうなのゑ顔や。」

と、その挿絵に書き込んでいる。

 『井関隆子日記』の挿絵

井関隆子の人と文学

井関隆子の人と文学
2018.12.24 Monday

井関隆子の人と文学――近世後期・一旗本女性の生涯――
                 報告者 国語国文学科教授  深沢秋男氏

昭和女子大学女性文化研究所、第5回研究会(通算49回)
日時=1994年12月6日(火) 15:00-16:30
会場=光葉庵

 近世初期の仮名草子がご専門の深沢氏は、あるきっかけから、個人蔵書に眠っていた、近世後期の一旗本女性の書いた日記を発見した。以来、氏はこの日記に取り組み、綿密な校訂を行うとともに、著者の名前にちなんで『井関隆子日記』と命名し、全三巻本として公刊した。この仕事に費やした歳月を、氏は「十年間の寄り道」と表現しておられる。
 こうして世に送り出された『日記』は、ドナルド・キーン氏によって、朝日新聞紙上で高く評価され、文学作品として、また最近では女性史の史料としても注目を浴びている。 隆子に関する研究が盛んになる中、資料の発見者である深沢氏は、これまで『日記』の内容や評価についての発言は控えてこられたのであるが、このたび、当研究所の研究会において、発見者自らが初めて語るというかたちでお話しいただいた。テーマは「井関隆子の人と文学」。『日記』だけにとどまらず、他の作品をも含めた著者の全体像を探る意味で設定されている。
 氏のご報告は、①「井関隆子の生涯」②「井関隆子の文学」③「作品に見る隆子像」の3部で構成され、①では一度縁談が壊れた後、裕福な旗本井関親興の後妻となり、夫の死後は義子や孫夫婦にかしずかれ、晩年5年間に『日記』を書いて60歳で没した生涯を、史料を基に実証的に説明し、②では『日記』以外の作品、『さくら雄が物語』『神代のいましめ』という隆子作の2つの物語が紹介された。
 ③は、いよいよ中核部分の『日記』についてである。当日は、本学図書館に所蔵されている『日記』の原本全12冊を借用し、出席者一同に回覧された。雅文体の見事な筆跡は、ほとんど書き間違いがなく、ミスは、全61万字中わずか10数カ所にとどまるという。また細密画を思わせるその挿し絵からは、洗練の極に達したという、化政期江戸文化の名残が感じられた。『日記』の内容は、身辺の雑事ではなく、当時の社会情勢や風俗が記されて史料価値が高いとともに、これらに対する隆子の見解がはっきりと示されて、全体が著者の思想の披瀝となっている。女性には、稀な日記である。
 深沢氏は、本文を抜粋して実際に読み上げながら、部分毎に他の研究者の解釈を紹介した後、氏ご自身の見解を提出した。中でも印象的だったのは、「天保十一年二月十二日」の項である。氏はここで、隆子は日記がいずれ公開されるだろうことを予測し、読者を意識して書いていると明言された。著者の秘めた願いを見抜いたればこそ、深沢氏は十年の歳月をこの仕事にかけたのである。事実、『日記』は隆子の言う500年を待つことなく、140年後に公刊された。
 最後に氏は、井関隆子像を次の5点に纏めた。①批評精神のある女性であること。これは隆子の資質であり、拠り所となっているのは、豊かな学識と鋭い感性である。古典に暁通していたその学識は、一説には夫の死後勉強を始めたというが、そんな一朝一タに出てきたものではなく、若い頃からの蓄積があったはずである。②しっかりした歴史観、人間観を持っている。従って、生きた人間が把握されている。③『日記』は感傷を排除して書かれており、隆子は理知的な性格であったと思われるが、その底流には激しいものを秘めていたであろう。④自分の考えを素直に表現している。⑤『日記』の話題の広さから見て、旺盛な好奇心を持っていた。以上、井関隆子を知る事、発見者が一番深いと思われる結びであった。 
 質疑応答では,女は無知文盲なるが好しとされていた時代、隆子が政治や社会に関心をを持ち、自分の意見を表明出来たのは何故かという質問がなされた。深沢氏は、後妻とはいえ「母」の地位の高さであるとして、井関家の当主である子や孫が、江戸城から帰宅すると、母上にその日の出来事を報告する様を描写して見せた。隆子の学識は尊敬されていたのである。また、酒好きだったことや、妙な探求心を発揮する、隆子のユーモラスな一面も紹介された。
隆子はその晩年の日々を、『日記』を書く事に没頭した。『日記』の最後の日付けから20日後、隆子はこの世を去った。いかに死ぬかは、人がいかに生きたかを問われる最後の機会という。後世に残る作品に費やした隆子の豊かな晩年は、われわれに生きる勇気を与えてくれる。実り多い研究会であった。 (文責・塩谷千恵子)
(『昭和女子大学女性文化研究所 ニューズレター』№20。1995年6月25日発行)

【深沢追記】
 このレポートをまとめて下さったのは、当時、女性文化研究所の研究員だった、塩谷千恵子氏である。塩谷氏は、『近世初期文芸』第15号(平成10年12月)に「家族物語としての『山椒太夫』(一)――説経正本間の推移――」などを発表されていた研究者で、時々、私の研究室に見えられていた。
そんな折に、『井関隆子日記』が話題になり、井関隆子とは、どんな女性ですか、この日記は、どの程度の価値があるのですか、そんな質問をされた。そう言われてみると、私は、この女性の特色や、この日記の価値について、余り発言してこなかった。発見者の私が、自分から、このくらいの価値の日記だとか、優れた内容の日記だとか発言するのは、自重すべきだと考えて慎んでいたからである。
10年間、この日記に時間を消費した、その行動で判断して欲しいとも思ったし、私の小さな才能で、この日記の価値を限定すべきではない、そう考えたからである。
塩谷氏は、是非、女性文化研究所の研究会で、本音を話して欲しい、そう依頼されて、腹をくくったのである。当日は、大学院の長谷川強先生や、日本文学科の杉本邦子先生、大塚豊子先生もお出で下さり、恐縮しながら、発表させて頂いた。
これは余談であるが、後に、文春新書から、『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』を出した時は、余りに褒めすぎて、読者からきついコメントを頂いた。
今日、屋根裏の物置を整理していて、この冊子が出てきたので、紹介することにした。
                       (平成27年3月)

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●この時、昭和女子大学図書館所蔵の『井関隆子日記』の原本を特別に借り出し、参加者に回覧した。また、私が、この『日記』を出した時に、特別に作成した、栃折久美子門下生制作の、パッセカルトンも回覧した。私としては、この『日記』に関しての評価を、初めて発言したものである。【2018年12月24日】

鹿島則孝の 井関隆子評価

鹿島則孝の 井関隆子評価
2018.12.14 Friday

旧幕府時代和歌文章に優れたる三婦人

●鹿島則孝の『桜斎随筆』は、大本、54巻、60冊、合計3514丁、7000余頁の膨大な記録である。その巻6上に次の如くある。
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旧幕府時代和歌文章に優れたる三婦人

松かげ日記の作者  元禄宝永の頃の人
  松平 本氏 柳沢 美濃守吉保妾
        正親町大納言実豊卿女

著書数多あり    明和天明の頃の人
  伊勢国都会郡山田 八日市場町住
  神宮荒木田武遇女 慶徳如松 名 雅妻  慶徳麗女

天保年間の日記   文政天保の頃の人
  江戸飯田町九段阪下南側住
  幕府臣 井関下総守親経母 たか子
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 鹿島神宮、第66代大宮司・鹿島則孝は、文化10年(1813)江戸牛籠に生れた。天保8年(1837)65代・鹿島則瓊の養子となり、安政5年(1858)大宮司となる。慶応元年(1865)、勤王の志士と交わったとして謹慎を命じられたが、翌2年免される。明治9年(1876)隠居し、同25年10月2日没、80歳であった。子の則文が伊勢神宮の大宮司に任命され、伊勢に移住してしたため、宇治山田市浦田町今北山に葬られた。
 則瓊・則孝・則文、ともに文事を好み、隠居後の則孝は、則文がその要職を継いだこともあって、悠々自適の生活か送ったものと推測される。則孝は、元来筆まめであったらしく、その著作がかなり現存する。鹿島則幸氏所蔵のものか掲げると次の如くである。
○都日記・2冊。○上京日記・1冊。○万我津比の記・3冊。○桜斎書牘集・7冊。○桜斎雑記・1冊。○桜斎雑録・1冊。○則孝雑記・2冊。○飛島川附録・1冊。○家茂将軍謁見記・1冊。○幕府朱印改渡記・2冊。○幕府祈祷次第記・1冊。○朝廷御寄附米記・1冊。○末社遷宮記・2冊。○官弊使御参向記・1冊。○復古二年紀・3冊。○桜斎家督記・1冊。○水戸家書類・1冊。○則文諸祝儀・1冊。○大宮司鹿島連家系・1冊。○日記(大宮司としてのもの。天保13年・15年・弘化2年・嘉永3年・4年・明治2年・3年20年)。そして、『桜斎随筆』60冊があり、その他、詠草などもある。
『桜斎随筆』は、大本・54巻・60冊の写本(則孝自筆)であるが、その巻6の上に井関隆子に関する記述がある。六の上は、全59丁。

 則文の父・則孝は比較的時間にゆとりもあったためか、その読書範囲は非常に広い。それは『桜斎随筆』の内容からも推察できる。また、歌文を能くした人であったとも思われ、その則孝が、近世の和歌文章に優れた女性として、正親町町子・荒本田麗女と共に井関隆子を掲げている事実は、この作者に対する一つの評価として紹介するに値するものと思う。

麗女と隆子

麗女と隆子
2018.12.13 Thursday

●今日、このような書き込みを見た。2004年12月の記事である。かなり力量のある方のサイトの様であるが、何方か分からない。このような、一つ一つの発言が積み重なって、文学作品の評価は、少しずつ、決まってゆく。何の論証もない発言であるが、その人の批評眼が、根底にある。
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 これは『歴路』の「文学大路」の記事です。

江戸時代の女流文人

 平安時代は女流の時代だったし、近代も女流作家が大きな力を発揮した時代だった。現代文学は女性の存在なしでは語れない。平安から近代までの間でも女性作家は活躍していた。しかし、その領域が和歌を中心とした伝統的な領域に限られていたので、文学史に華々しく登場するというわけには行かなかった。中世文学では作家がはっきりしない軍記ものや説話などが重要な存在になっているので、男女どちらが携わっていたのか分からないものが多いが、やはり寺院を中心に成立していたらしいことを考えると、女性が作品に関わった可能性は低いだろう。散逸してしまった平安物語の模倣作のような物語には女性の関与があったと思われるし、江戸時代に御伽草子として再編された中世の物語の中には女性の手になるものもあったかも知れないが、はっきりはしない。
 江戸時代になると、女性の文学活動はかなり盛んになる。そこにはいくつかの要因が考えられるのだが、一つは、徳川幕府の性格に依るように思える。幕府は征夷大将軍を頂点にしているのだから、鎌倉幕府を雛形にしているように見える。事実、鎌倉・室町と引き継がれる武家政治の末端に徳川幕府は来る。一方で、幕府の文化的な方針は平安の文化を引き継ぐという意識が強い。ただ、平安文化は軟弱なところがあり、それを武家の硬派な意識で補うのだというのが、彼等の主張であった。
 江戸時代に著名な二人の女性が居た。一人は伊勢の御師の家に生まれた荒木田麗女で、彼女は自らが紫式部を継ぐ者だという自負を持っていたらしい。数多くの小説を残しているが、今ではあまり読まれない。歴史小説を書くときにも、戦乱の時代を描くのに、文事、つまり歌会などの行事を中心に描こうとするので、あまり面白くない。彼女としては、平安の文事の継承を主題にしたのだろう。後に与謝野晶子は、「なんであなたが紫式部の後継者なのよ。」といわんばかりの解題を、自分が編纂した『麗女小説集』に書く。それは晶子が心ひそかに、自分こそ紫式部を継ぐ者だと思っていたからかもしれない。
 もう一人の女流文人は井関隆子という。最近『井関隆子の研究』という深沢秋男の研究書が出たが、この女性は幕府の書院番の夫人で当代きっての歌人であった。同時に、詳しい日記を残している。ところどころに絵も入っているこの日記は、江戸後期の市井研究にとても役立だけでなく、江戸時代の日記文学として評価されても良い作品だ。
彼女はこの日記のなかで、平安の女性達と江戸の女性との比較をしている。平安時代が後に乱れてしまうのは、当時の男達が女々しかったためであり、それに比べて江戸の男達は武士として世の中をきちんと治めていて、幕府もしっかりしている。その上、平安の男達は女をつくって外まわりをしていたが、今はその習慣もなく、夫は必ず帰ってくる。しかも物資は豊富であり、安心した生活が出来る。平安に比べて江戸は格段に優れているというのである。ただ、彼女には一つ分からない。それはどうして当時の女性達のような良い歌人がでてこないかということなのだ。彼女はそれを日記に記している。
この二人の女性以外にも、多くの女性達が文学に遊ぼうとした。特に、上流武家の女性達にとって、和歌と文章は必須の教養だった。下級武士の女性達はそうした教養を身に着けて、上流武士の家庭に奉公し、それを出世の糸口にするのだ。それは自分の出世だけでなく、兄や弟はもちろん、一族全体に関わる“家”の出世につながっていた。
樋口一葉の文学修行も、そうした江戸の武家女性の教養として始められたのであるが、明治維新は結果として、彼女には苦労を、文学史にはすばらしい作品をもたらしてくれた。
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「講談社 日本人名大辞典」のミス

2018.12.12 Wednesday

「講談社 日本人名大辞典」のミス

●「デジタル版・日本人名大辞典+plus」の「井関隆子」の項を見たら、ミスが見つかった。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
記・紀神話の時代から、現代に至るまで、政治・法律・思想・宗教・経済・産業・科学・社会・教育・文学・絵画・音楽・建築・工芸・芸能・スポーツなどあらゆる分野で活躍した人々を網羅した、日本最大規模の人名辞典です。女性や、日本を舞台に活動した外国人にも注目し、75614項目を収録しました。
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。
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井関隆子(読み)いぜき たかこ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

井関隆子 いぜき-たかこ

1785-1844 江戸時代後期の歌人。
天明5年6月21日生まれ。30歳ごろ西丸納戸組頭井関親興の後妻となったが,42歳のとき死別。和歌,国学をおさめ,大奥につとめた。天保(てんぽう)11年から15年までの「井関隆子日記」には800首余の和歌がしるされ,当時の世相をつたえる貴重な史料とされる。天保15年11月1日死去。60歳。江戸出身。本姓は庄田。歌集に「井関隆子長短歌」。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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●ミス ① 「井関隆子」の読みは「いせき たかこ」が正しい。
●ミス ② 井関隆子 は、大奥には勤めていない。

德川宗家と甲斐の山猿

德川宗家と甲斐の山猿
2018.11.29 Thursday

●平成21年(2009)9月12日、第36回・東京原村会で、お話しする機会を頂いた。それまで研究してきた、幕末旗本女性・井関隆子に関して話すように、という斎藤会長さんの依頼によるものであった。現在の身延町になる前の、原村会、親戚もいた、同級生もいた、隣近所の人々もいた。八日市場・大子山・伊沼・飯富などの人々が集まる。そこで、〔徳川宗家と甲斐の山猿〕というようなサブタイトルを付けた。
●実は、私は、徳川将軍家、第16代・徳川家達(いえさと)の娘の繁子氏と交流があった。徳川繁子氏は、伯爵松平直国の妻であったが、非常に学問好きであって、昭和57年9月、縁あって『井関隆子日記』を差し上げたところ、大変喜ばれ、一度会いましょう、ということになった。お会いするのを楽しみしていた。
●ところが、その12月に繁子氏は他界されてしまった。 12月11日に上野寛永寺で葬儀・告別式が行われ、私も参列した。緋の衣の僧侶が10人以上はいたと思う。造形美術大学の上木敏郎先生と一緒に行ったが、上木先生が御多忙ということで、焼香の順番を繰り上げて、親族の次に変更してもらった。
●お焼香までの間、私は、そこで、徳川家の親族の方々の会話に接した。徳川時代にタイムスリップしたのではないかと、大変なショックを受けた。一族の間では、このような儀式の時には、現在もなお、江戸時代の言葉遣いで、その仕来りが伝えられているのである。
●世が世であれば、甲斐の山猿の子孫の私が、徳川将軍家の葬儀に参列して、親族の次、まるで大老・老中の順番で焼香する事などは不可能である。これも、研究の御蔭かも知れないと、このようなサブタイトルを付けた。
●東京原村会も、多忙な時は参加できなかったが、原小学校の同級生、望月光弥君が会長になってからは、積極的に参加した。それで、このようなチャンスを頂いた。感謝感激、お礼の意味で、『旗本夫人が見た江戸・・・』を30冊ほど持参して、抽選で差し上げたら、サインしてくれと頼まれた。何か、有名人になったような気分を味わった。有難い思い出である。