ドナルド・キーン・センター柏崎の『井関隆子日記』

公益財団法人ブルボン吉田記念財団
ドナルド・キーン・センター柏崎
〒945-0063 新潟県柏崎市諏訪町10-17

●このセンターのデータベースには、『井関隆子日記』が収録されている。詳細を見ると、復元された、キーン先生の書斎に配架されていて、その本には、先生の書き込みがある。朝日新聞に『百代の過客』を連載された時の、キーン先生の感想や批評や評価などを知ることができるのではないか。そんな、衝動に駆られる。

●昭和56年(1981)、『日記』が完結した時、勉誠社の編集者・山田さんから電話がきた。朝日新聞から注文がありました、何か採り上げてくれるかも知れませんッ。それが、キーン先生の、この『百代の過客』に関連していたのである。今から、35年前の事になる。

ドナルド・キーン氏の『井関隆子日記』評価

■『井関隆子日記』① ドナルド・キーン氏、金関寿夫氏訳

【百代の過客 178】朝日新聞、昭和59年4月4日

 井関隆子の曰記は、昭和四十七年、深沢秋男氏がそれを発見するまで、全く世に知られることはなかった。その六年後に深沢氏は、この日記を、注釈付きの三巻本として上梓した。だがそれでもなお、世の注目を惹くところまではいかなかった。しかしこれは、まことに興味深い日記なのである。幕末期のドキュメントとして、馬琴の日記と比肩ずる価値十分であり、しかも文学的には、むしろ馬琴を凌駕している。彼女の日記の記載は、ある出来事の記述に始まり、それに関連する一つ、ないし二つの随筆へと発展ずるのが特徴である。そういう意味で隆子の信奉者は、彼女のことを、「江戸時代の清少納言」と呼ぶほどである。しかし彼女の日記は、清少納言の鋭い機智とは縁がない。
とはいえ、世間に対する己の考えを生きいきと表現したところ、また取り扱う話題の広さからいって、隆子には、重要な先輩日記作者の数々と比肩する価値は十分備わっている。
 隆子が日記を付けたのは、天保十一年(一八四〇)から、五年間、すなわち彼女が五十六歳から六十歳の間であった。日記の最後の日付から三週間後に、彼女は没している。晩年に書いた日記である以上、平安朝の女流日記に出る、いわゆるロマンチックな興味は当然見出し得ない。事実自伝的な材料には、驚くほど乏しい。だが天保年間における日本人の生活を呼び起こしてくれる点では、この日記に勝るものは他にないのである。
 隆子はさる旗本の娘であったが、また別の旗本の男に嫁いでいる。夫は彼女より十九歳年長の男やもめであった。しかし彼女は、夫の息子や孫に、あたかも自分自身の息子や孫であるかのごとく、ごく自然に接することが出来たようである。彼女自身の生まれに加え、将軍の殿中における息子と孫の地位のおかけで、彼女は最も上流の社会に入り得ている。したがって彼女の日記は、将軍
家の公式記録よりも、時としてはさらに正確なのである。
 日記をつ、ける理由として、隆子は次のように言っている。「今己がみじかき(至らない)心、つたなき筆して轡くことは、世に散すべき物ならず。こゝの幼き人の、其子どもなどの末の世に、此家の今の有かた、世の中のことなどもいさゝかしらむためとて記しおけど、かゝる反故(ほご)どもは紙魚(しみ)の住かはさるものにて(当然のこととして)、鼠のうぶ屋にやひかれん。よしさばれ(そうではあるが)、せん方なさのずさびになむ」
 右の一節には、隆子日記の文体が、まさに典型的に現れている。雅文を用いたのは、おそらく彼女の国学への心酔と、日記の至る所で明ら
かなように、「混りけなく日本的なもの」への、彼女の好みとによるものであろう。馬琴が用いた候文や、他の日記作者が採用した和漢混淆文ではなく、雅文を使用するのは、当時の教育ある女性には自然であった。だが隆子の場合、
子孫のためのみに書くとは言うものの、日記を付けることの中に、はっきりと文学的意図がこめられていたのである。ある心中未遂事件に関する、あのきわめて劇的な長い記述を始め、いくらかの叙述には、彼女のすぐれた文才が歴然と現れている。
 だが同時に隆子は、己が生きた「世の中のことなども」、子孫に知らしめたいと言った時、確かに真実を語っていたのである。隆子は次のように信じていた。すなわち人間は、大本(おおもと)では決して変わることがない、とはいえ人間社会の習わしは、時代時代で変わってゆく、そして昔の人間がどのように生きたかを、私たちにわからせてくれるのは、ほかならぬ文学なのだ。「古き世の物語文どもを見るに、其かみは世のならはし人の有様など、ありのまにまにおもしろうもをかしうもとりなし、書出せる物になんあるらし。さるを世のいたう移りもてゆくまゝに、人の心こそさのみは変らざるらめ、世の掟(おきて)よりはじめ、人のたゝずまひも、いにしへとは異なる事あまたにて、大方のさま違へることなん多かるべき。然るを今文書物語など作らむにも、たゞ
いにしへのおもむきのみならひて、今の愛度(めでたき)御世の有様ども記さゞらんは、あかず口惜しきわざになんあるべき」
 この一節が示すように、隆子は決して、単なる過去の盲目的な崇拝者ではなかった。現在を知ることの大事さをも主張し、物は「古きがゆえに尊からず」ということを人に戒めていた。「すべての物も書どもゝ、ふるきをたふとぶ人心なれば、いにしへの文も歌もなべて愛度のみにはあらさなれどふるきが故に人のようする(求める)也けり。いときたなげに見にくきも、五百年も経にこし物は、人の宝とめづるぞかし」。このように率直、かつ現実的な考え方は、いかにも隆子らしい。しかし、盲目的な過去崇拝はしりぞけたものの、同時代の言葉で書くという、さらに大胆な手段を取ることは、彼女もあえてなし得なかったのである。

■『井関隆子日記』② ドナルド・キーン氏、金関寿夫氏訳
【百代の過客 179】朝日新聞、昭和59年4月5日

■『井関隆子日記』③ ドナルド・キーン氏、金関寿夫氏訳
【百代の過客 180】朝日新聞、昭和59年4月6日

● キーン氏は、3回に亙って、朝日新聞に『井関隆子日記』を採り上げて下さったが、その締め括りを、次の如く結んでおられる。

「この日記は、信じがたいほど、多様な話題に満ちており、しかもその一つ一つが、このきわめて非凡な女性の、明敏な知性と感性を通して、見事に表現されている。」

●『日記』の刊行が完結して3年後の、評価である。それが、天下の朝日新聞に掲載されたのである。私は、小躍りをして、喜び、この評価に感謝した。

■朝日新聞、昭和59年4月4日


田中 伸 先生の批評眼

田中 伸 先生の批評眼


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新刊紹介 『井関隆子日記』    田中伸

  【『週刊読書人』第1402号、昭和56年10月12日】

 昭和五十年頃から深沢秋男氏は、この『井関隆子日記』(一名「天保日記」)全十二冊についての研究を次々と発表し、遂に今年六月その校注本をB6判三巻として完成した。この日記は近世女流日記文学の代表作として位置すべきものと私は思っているが、これをこうして適切な脚汪までそえて発表された事は、近世文学研究に携わる立場からしても誠に有難いことである。それは第一にこの日記が女性の筆になるものでありながら、実に広い視野をもち、流麗な雅文でそれを叙しているからである。
 作者隆子は、九段下四辻の東南角に屋敷を持つ旗本井関縫殿頭親経の義母に当り、文政九年(一八二六)に没した弥右衛門親興の未亡人である。日記は作者五十六才の天保十一年(一八四○)一月一日に始まり、十一年は四冊、十二~十五年は各二冊宛からなり、日々の生活・年中行事・四季の変化・折々の見聞・感想・思い出咄・社会の出来事・風俗・政治の動き・文学学問のこと・和歌等々が、実に多岐に亘った内容である。天保十一の記事が他に比して多いのは、作者が意識して社会的風俗的記事を盛り込んだためと見られ、親経は二丸御留守居(二百五十俵)という閑職にあり、孫親賢は御小納戸衆(三百俵)で、家庭的にも平穏でまた後年のような政変も少ないための叙述の意図と見られる。その社会風俗には婦人の服装・髪形には絵までそえ、花見の様子、料理仕出しの事、町家のさま、下肥えのこと、眼力太夫の見せ物、煙草のことと多彩で、作者がどうして知ったかと思われるような吉原の遊女のことから地獄宿にまで至っている。品川の岡場所にもふれ、落語の『品川心中』の原話かと思われる咄も長々と語られる。特に現在「とんびに油げさらわれる」の俗諺を地で行く天気の良い日、野原で飛び集ってくる鳶に油揚を投げ上げて、これをとらせるという遊びの様が描かれてもいるのは面白い。
 しかも、これらはすべて擬古文ともいうべき雅文で綴られ、折々の四季の風物の描写と共に仲々の作と見られる和歌を折り込み、如何にも飾らない作者の感情が流れ、読む者を飽かせないのである。
 政治の動き、将軍家の様子などにもくわしく、天保十二年閏一月晦日の薨去と一般に伝えられる将軍家斉は、実はその閏一月七日の夕刻であったことなど
も判る。更に水野越前守の政策で林肥後・水野美濃・美濃部筑前の失脚や、矢部駿河が司召放しに逢い、伊勢桑名に連行せられ、四ケ月後には絶食して果てたことなど、坦々とした叙述の中に作者の批判の眼がしのばれる。特に印旛沼干拓事業に対し「水鳥」という怪異物語を創作して暗に強い批判を示している。更には遂に水野越前の失脚の際、水野の屋敷に町人下衆どもが集って石を打ちつけ門など打ちこわすなどの騒ぎなども描かれている。
 家族のことも、親経が御広敷用人(七百俵)になった喜び、広大院の使いで京都へ旅するを案じ、親賢が堅物射の競いで見事な腕を見せたことなど誠に楽しげに伝えている。
 僅かの枚数でその内容を伝えるのはむずかしいのであるが、隆子は真に近世末のインテリ女性というにふさわしく、いたずらに花鳥風月にのみ遊ぶという日記ではなく、この天保末の息吹きを脈々と伝える日記というべきで、これをあえて世に知らしめた深沢氏の努力は、今後の研究によって一層大きな成果を示すであろう。
 
(各B6、〔上〕四五九頁・〔中〕四五六頁・〔下〕三九六頁・各四五〇〇円・勉誠社)

(たなか・しん氏=二松学舎大学教授・日本近世文専攻)

◇ 写真は天保11年2月1日分にそえられた婦人の服装・髪形の絵――上巻から

見出し=天保の息吹きを脈々と伝える
    近世女流日記文学として位置すべき作品

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●『井関隆子日記』を出した時、田中伸先生が、『週刊読書人』に、新刊紹介を執筆して下さった。その『週刊読書人』が見付からない。先年の引越しの時、処分した資料の中に入っていたか。国会図書館へ複写依頼をしようとしたが、うまく進まなかった。発行元の〔週刊読書人〕へ、電話して、そのコピーを頂いた。私のサイト〔近世初期文芸研究会〕の中の〔井関隆子日記〕の項に、刊行当時の新刊紹介をアップしようと思い立った。この日記の初発の頃を記録したいと思ったからである。
●田中伸先生には、私は、仮名草子研究で御指導を賜っていた。それなのに、ある日、突然、仮名草子とは全く無関係の、近世末期の女性の日記に手を出した。日記は出たけれど、寄贈したい先生方は、仮名草子研究者しか知らない。贈られてた方でも、畑違いの日記には、御迷惑だったことと思う。
●しかし、田中先生は、いちはやく新刊紹介を書いて下さり、「近世女流日記文学として位置すべき作品」と評価して下さった。しかも、二松学舎大学の公開講座でも採り上げて下さったのである。本が出た時、これは、歴史資料であり、日記ではあるが、日記文学ではない、とう評価をされた方々が多かった。もし、日記文学では無く、単なる日記だったら、私はどうなるだろうか。文学研究者の資格が無いことになる。私にとっては、研究者としての生命をかけた仕事だったのである。だから、田中伸先生には、心から感謝申上げたのである。

■隆子の描く、女性の髪形

江本裕先生の学恩

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江本 裕(えもと ひろし、1936年 – )は、日本の国文学者、近世文学研究者、大妻女子大学名誉教授。 1959年、熊本大学国文科卒。1962年、早稲田大学大学院修士課程修了。1967年、都留文科大学講師、のち助教授。1972年、文部省初中局教科書調査官。1979年、大妻女子大学助教授、のち教授。2000年、退職、名誉教授。浮世草子が専門。

著書
『近世前期小説の研究』若草書房 2000 近世文学研究叢書
『西鶴研究 小説篇』新典社 2005
編著
『庶民仏教と古典文芸』渡辺昭五共編 世界思想社 1989
『講座日本の伝承文学 第4巻 散文文学<説話>の世界』共編 三弥井書店 1996
『西鶴事典』谷脇理史共編 おうふう 1996
『西鶴のおもしろさ 名篇を読む』谷脇理史共著 勉誠出版 2001 勉誠新書
『江戸時代の源氏物語』編 おうふう 2007 講座源氏物語研究  
校訂・訳
浅井了意『伽婢子 近世怪異小説の傑作』訳 教育社新書、1980
井原西鶴『好色五人女』全訳注 講談社学術文庫、1984
浅井了意『伽婢子』校訂 平凡社・東洋文庫、1987-88 
林義端『玉くしげ』湯沢賢之助共編 古典文庫 1990
『西鶴諸国はなし 翻刻』おうふう 1993 西鶴選集
小瀬甫庵『太閤記』新日本古典文学大系 桧谷昭彦と校注 岩波書店 1996
喜多村筠庭『嬉遊笑覧』長谷川強,渡辺守邦,岡雅彦,花田富二夫,石川了と校訂 岩波文庫、2002-09 
【ウィキペディア より】
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江本 裕 先生の新刊紹介

〈新刊紹介〉

深沢秋男校注 『井関隆子日記』      江本 裕

 『井関隆子日記』、桜山文庫蔵。大本十二冊にも及ぶ長大な、そして近世女流文学で高い位置を与えねばならぬこの日記がおおやけにされたのは、ひとえに校注者深沢秋男氏の十年にわたる努力の結果である。既に「近世の清少納言か」(サンデー毎日56・9・13)、「近世女流日記の代表作」(週刊読書人56・10・12)など高い評価を得ており、いまさら贅言不要かもしれぬが、以下に率直な読後感を記して責めをはたしたい。
 まず、筆者が通読して感じた驚きは、やわらかな雅文体にかかわらず、ともすればその文体からはみだそうとする内容のある意味でのすごさと、その事を浮彫させようとする深沢氏のていねいな仕事ぶりだった。日記は、天保十一年(一八四〇)から十五年までの五年間、作者五十六歳から六十歳までの日録であるが(ただし毎日記されているわけではない。例えば天保十一年は三五五日中一八五日)、B6判に翻字して上中下三巻一一九六頁、十一年四月九日を例にとると、この日だけで十五頁に及ぶ。天候に始まり、万物の中での人間に思い到ると、奥平某家の嬌慢な検校の話に移り、宮廷への憧れと賛美、在家法体への批判、かと思うと堀某家のスキャンダル、蘭学・渡辺崋山への批評と、記事は雅俗さまざまな事象にいきわたっている。この一事を以てしでも、本日記が単なる日録ではないことは、容易に察せられよう。
 作者井関隆子についても多くは深沢氏により明らかにされたのだが、隆子は幕府旗本大番衆庄田安僚の四女、若くして縁あれど不嫁(又は離縁)を体験して、文化十一年(とすれば三十歳)頃、九段下に屋敷を持つ旗本、西丸納戸組頭井関弥五右衛門親興(井関家七代)に後妻として嫁した。夫との年の隔たりは十九、十三年の生活で死別。しかし義理の子の八代親経は二丸留守居(文政八年)から広敷用人(天保十二年)を務め、九代親賢も家慶小納戸(天保+年)、広敷用人(文久三年)となって家庭は安泰。親経の後妻の兄戸田氏栄は大坂町奉行を、親類の新見正路は大坂町奉行から御側衆を務めるなど一族にも恵まれ、かつ彼女は江戸城の情報を得やすい立場にもあった。その後半生は殆ど学芸を中心としたおのれの時間に充でられたらしく、日記には、古典への感想や親賢ぞの他教養人士との和歌の贈答、また井関家で催される将棋の会などの様子が、楽しげに記されている。
 隆子は学問上特定の師に就く事なく、真渕・宣長・千蔭等の著書を熟読して身を修めた由であるが、彼女の学問また思想上の根幹が国学にあった事は疑いなく(天保十三年二月二十一日の条でまことの心を強調)、それは儒家・仏家への強い批判にもかなりあらわに示されている。しかし同時に隆子は、同じ国学者にしても、林国雄(天保11・11・6)、八代弘賢(同12・2・9)、平田篤胤(同13・3・18)、橘守部(同15・9・13)等は激しく難じて峻拒した。好悪のはっきりした潔癖な人柄だったといえよう。記紀や続日本紀等、また源氏・伊勢、万葉・古今等、おびただしい数にのぼる史書・古典類の引用紹介は、この作者の読書量の広さを示すと同時に、それが単なる引用に終らず随意自在に行文化されている巧みさの中に、その身につけた深さをも示しているのである。
  月かはりぬ。今日も雲たち、日影ほのぼのとにほひたる如月の空のどかに
 霞みわたり、打わたす垣根の梅、時しりがほに咲かりたるに、ひとひ初音も
 らししより、朝さらず来鳴く鴬も、おのづから此花のしるべにかあらむ(天
 保12・2・1)
 任意に出したが、女性らしいみずみずしい季節感である。典雅な文体といえよう。日記は概ねかく始まり、和歌が詠まれ、古典が語られたりする。そして、これに終始すればこの日記も、江戸後期教養婦人の典型的たしなみ、と言い切ってしまってもよいだろうが、しかしこの日記の最大の特徴は、前条と殆ど変らぬ文体で、生々しい政治の動きや俗臭紛々たる世話事、つまりは天保の改革を中軸とした江戸の状況を、上は城中将軍の動向から下は私娼窟の噂まで、実に克明に記している処にあるのである。作者が城中の情報に接しやすい立場にいた事は前述したが、日記はほぼ全篇通してその模様を詳細に伝える。なかでも、書評子の共通して取りあげる天保十一年閏一月に死去する十一代将軍家斉関係の記事(日記は七日死、晦日公表とする)、深沢氏は徳川実紀等多くの資料によって、日記の日時の正確な事を証明された。他の将軍一族また大名等の死の公表がほぼすべて遅れて出る事、日記の作者がいちはやくその事実を知っている事をも、我々は知るのである。しかして作者の眼は、ただ城中にのみ注がれているのではなかった。江戸中喪に服するため魚屋は商い叶わず青菜が時めき、糸竹等遊芸に従事する者の困惑等、作者は市民生活を見る事も忘れていない。
 水野忠邦の失脚までを逐う天保の改革関連記事はさながら緊迫した政治ドキュメントというべく、免じ罰せられる諸役人や追放される僧侶等の情報、その原因、伝聞、噂、そして作者の批判が、ほぼ連日のごとく記される。そしてここでも作者の眼は、灯が消えたように暗くなっていく、江戸の街中の世態・風俗にまで注がれていた。特筆すべきは、これらの諸事象を、作者がかなり醒めた眼で見ている事だろう。むろん、一族が全面的に頼る将軍家は絶対に近く、かつ彼女が国学に立脚している以上、大塩平八郎(天保11・2・12)、シーボルト(同12・3・24)、蘭学(同11・4・9等)などに手厳しいのばやむを得ない。がしかし、幕府から発せられる諸政策に対する批評は鋭かった。印旛沼開墾の失敗に対しては風刺的創作を試み(天保14・11・5)、酒井忠器転封の失政は天保十一年十一月十二日から批判的に記述される事七回に及ぶ。水野忠邦の登場から失脚に到る過程は文学的意図を感得できるほど細かく(索引によれば45回)、しかもそれは掟厳しすぎて沈滞した世相にまで及んでいて、もしこれだけを抽出して並べれば、一人の政治家の浮沈の歴史が成るだろう。逆に、利権に群がり一時の栄耀からはかなく散っていく人々の姿に対しては、作者は非難というよりは人間の持つ業としてその生きざまを凝視しでいる。
 この醒めた眼はどこからくるのだろうか。さまざま考えられるだろうが隆子の語る次の三つが筆者の興味を惹いた。即ち、名利を捨て清貧に甘んずる生き方を偽りと断ずる現世主義的人生観(天保13・2・21)と掟厳しき当代をそのおおらかであった上つ代に比較して批判する処(同13・5・16)等、いま一つは、作者が変化の木(化銀杏)の話を聞いで筆録する折自らを宇治大納言隆国になぞらえる処(同11・9・23)である。前二者の内現実重視の発想は幼時への回想等随所に認められる処であるが、作者は古典の世界に身をひたしながらそれにのめりこむ事なかった。むしろ自ら学んだ上つ代で当代を相対視して、その趨勢を冷静に見つめている。これは彼女に認識者としでの眼が備っていた事を示すといえよう。平将門の叛を藤家の政治の奢りと対比させて弁護する処(天保11・9・23)等にこの作者の学問が決して趣味だけでなかった事を示すが、この曇らぬ眼が当代を鋭く批判させたといえよう。そして、内に寵る事殆どであった女性であると考えれば。右ぱ稀有の事といえそうである。
 いま一つ宇治拾遺に関すれば、天保の改革云々にかかわらず、作者の巷街に対する興味は異常に強かった。花見その他四季折々の景物への関心はむろんの事、節句等年中行事の習俗、諸職商の世態、女髪結・鳥追い、浅草の楊枝店・見世物、怪異奇事の紹介、鼠小僧、旗本と召使いのスキャンダル、僧房の乱れ、吉原の遊女、品川の飯盛女、はては最下等の地獄女まで、その取材範囲の広さはまさに驚異に値する。彼女をかくまで衝き動かしたのは何なのか。筆者は先に隆子が自らを宇治大納言隆国になぞらえたと記したが、日記は宇治拾遺(隆国と記すも含む)に七回触れる。この回数は古事記や源氏物語等に比すべくもないが、しかし我が身を隆国にたとえたのは重要である。作者はまた、浅草の見世物(眼力大夫)を紹介する折、隆国に見せたら必ず書き留めるだろうと言って自らも書き留めた(天保11・10・25)。右の事実は、隆子に、隆国に倣って天保の世相を採録する意図のあった事を示すといえよう。この説話採録者的姿勢、これこそが本日記を特異ならしめた最大の理由と筆者は考えるのである。日記は元来内省を旨とするが本日記の過半は外に向けられそこで光彩を放つ。曇らぬ眼と、叙事・批評を旨とする説話作家的精神が日記文学の枠を越えて天保の世相を写し得たと考えるのだがどうだろうか。
 いたずらに駄弁を弄しすぎ、深沢氏の仕事ぶりに触れる事少なかった。全篇に施された詳細的確な脚注は本日記を読む上に大いに役立つが、下巻末に付される索引の人名を一覧するだけで、この日記に登場する人物のいかに多くまたその考証が難事であるかを知るだろう。上巻解説には本書の書誌並びに内容の概説、庄田・井関家の家系・閲歴、関係文献一覧が収まり、中巻には桜山文庫主鹿島川文の閲歴、下巻には関係資料の補訂が付されている。現時点での隆子
関係の資料は網羅されているといってよく、その関係資料を一見するだけで、深沢氏がこの日記にうちこまれてきた事も瞭然とする。近世女流文学を語るに新たな視点を与える本書が日の目を見たのは全く深沢氏の功績と言い切ってよかろう。氏はこれまでどちらかというと初期の仮名草子で緻密な論考を公表されてきた研究者であるが、本書との出あいを語られるを聞くにつけても(上巻解説)、筆者は邂逅という語を感慨をもって感ずるを禁じ得ない。
       (B6判、上中下三巻、勉誠社刊、各巻四五〇〇円)
          【『文学研究』第54号 昭和56年12月】
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●昭和56年6月、『井関隆子日記』は、ようやく完結した。ほぼ10年間を費やしたことになる。仮名草子研究を完全に捨てた訳ではなかった。この間、『浮世はなし』(勉誠社)、『可笑記大成』(笠間書院)、『新可笑記』(勉誠社)、『江戸雀』(勉誠社)、『可笑記評判』上・中・下(勉誠社)、などを出している。しかし、研究の主力は『井関隆子日記』だった。
●日記が完結した時、江本先生が、この新刊紹介を執筆して下さった。私は、10年間の仕事が終わり、空虚な、寂寥の日々だった。そんな時、この江本先生の新刊紹介に出会うことができたのである。私は、心の底から、救済してもらったのである。

■『文学研究』第54号、昭和56年12月


江戸時代の文学ランキング

■斎藤親盛は…


江戸時代の人物 4379番目に有名

●江戸時代の文学 207番目に有名
出羽国の人物   91番目に有名
1674年に亡くなった人物 15番目に有名
1603年生まれの人物 11番目に有名
山形藩の人物 12番目に有名
日本史の人物 (総合) 4528番目に有名
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■井関隆子は…

歌人 41番目に有名
江戸時代の女性 118番目に有名
武蔵国の人物 107番目に有名
江戸時代の人物 730番目に有名
●江戸時代の文学 44番目に有名
1785年生まれの人物 1番目に有名
●江戸時代の歌人 21番目に有名
江戸時代の文人 31番目に有名
1844年に亡くなった人物 7番目に有名
江戸時代の作家 105番目に有名
日本史の人物 (総合) 837番目に有名
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● 井関隆子は、江戸時代の文学 44番目に有名 江戸時代の作家 105番目に有名
● 〔井関隆子〕が、現在のメディアで、これだけのランクを得たことに、私は満足している。仮名草子研究に取り組む私が、この女性の日記に出会ったのは、昭和47年(1972)だった。45年前である。生没も、身分も、親も兄弟姉妹も、名前そのものが未詳であった。この女性〔井関隆子〕は、もう、日本歴史の上からも、近世日記文学史の上からも消えることは無いだろう。
● 昭和女子大学の国文科で、講義・講読に採用された時、私は、毎時間、〔井関隆子・いせきたかこ〕と連呼した。学生の脳裏にこの女性の名前を刻みつけて欲しかったのである。今、それは実現した。

小渕恵三・武田信玄・徳川家斉 の死

藤田 覚(ふじた さとる、1946年6月5日 ―)は、日本近世史学者、東京大学名誉教授。長野県生まれ。【ウィキペディア より】


●日本近世史の研究者、藤田覚氏に、「時代劇を読む 二十二時間・二十三日間・三年間」がある。2000年7月発行の『本郷』第28号に発表されたもの。私は、東京大学名誉教授、坂梨隆三先生から、この雑誌を拝受した。老舗出版社・吉川弘文館のピーアール誌であり、分量も3頁と短いもので、研究随想というべきものかも知れない。しかし、その内容は、極めて重要なものである。

●時の総理大臣・小渕恵三、戦国武将・武田信玄、第11代将軍・徳川家斉の死を取り上げている。家斉の死は、井関隆子の日記と関係するので、坂梨先生が配慮して下さったのである。藤田覚氏は、『井関隆子日記』刊行の折、最初に『史学雑誌』の新刊紹介で取り上げて下さった方でもある。この新刊紹介は、先日、このブログで紹介した。この新刊紹介を読むと、藤田氏の「時代劇を読む 二十二時間・二十三日間・三年間」も読みたくなった。実は、一昨年の引越しで、蔵書の殆どを処分してしまった。そこで、国会図書館へ申込んで、複写してもらったが、それが、今日、届いたのである。

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 小渕恵三前首相が脳梗塞の病に倒れ、森喜朗氏が新首相に就任した。一寸先は闇、まことに予期せぬ展開に驚きを覚える。そのなかで、人々を憂慮させ批判を受けたのが二十二という時間で、政治家としては官房長官とその他の数人が、小渕氏の入院と病状を把握し、外部には隠していた時間である。国家の最高指導者、指揮官である首相が、病気により判断不能に陥っているにもかかわらず公表せず、代理も置かなかったことに批判と憂慮が生まれた。さらには、新首相の正統性さえ国会で質問されるという事態も起こった。
 小渕氏の場合は、重体に陥ったという事実が隠されたので、それと一緒にするのは不見識の誹りを受けるかもしれないが、二十二時間の空白、あるいは秘匿のことを聞いてすぐに思い起こしたのが、江戸幕府十一代将軍徳川家斉と、甲斐の戦国大名武田信玄の名で、二十三日間とは、家斉の死が隠された日数であり、三年間とは、信玄の秘喪の年数である。
 武田信玄の三年の秘喪は、黒澤明監督作品『影武者』でも知られる。信玄は、上洛作戦を展開して織田・徳川連合軍と対決、徳川家康の領国三河に攻め入り野田城を包囲したが、天正元(一五七三年)四月に発病、甲府へ引き返す途中の十二日に五十三歳で死去した。あとを嗣いだ武田勝頼は、信玄の死を隠し、三年後の天正四年に葬儀をおこなった。さまざまな憶測と懐疑を生みつつ、信玄は死後なお三年のあいだ生き続けた。三年の秘喪とは、戦国期の情報のレベルを象徴するものでもある。
 家斉の病状と死の公表までの動静を、老中水野忠邦の日記から抜き出してみよう。
 天保十二(一八四一)年閏正月八日、大御所(家斉)は先日から病気だったところ、昨日(七日)から病状が重くなったと側衆から伝えられた水野忠邦らは、家斉の住む西丸へゆき側衆に病状を伺っている。十日に忠邦らがまた側衆に家斉の容態を伺うと、病状に変化なしと伝えられる。十三日、将軍徳川家慶(家斉の子)が忠邦に、毎日西丸に詰め、詳細を報告するよう命じ、同じ日に幕府は家斉の全快を、東照宮、日枝神社、寛永寺、増上寺、箱根伊豆権現、三島大明神、鹿取・鹿島神宮、駿河浅間社に祈祷させ、十四日には御匙(将軍の侍医)楽多院が、家斉に実脾散を調合している。十五日に御三家、二十日に溜詰め諸大名以下諸役人、さらに二十八日には、溜詰め大名、国持大名、外様大名以下諸役人が、家斉のお見舞いに西丸へ登城している。二十九日には、家斉の容態は「御くつろぎ」(落ち着いたという意味)ということで、将軍家慶と大納言家定(家斉の孫)が家斉に対顔(面会)し、老中以下も家斉にお目見えしている。しかし晦日には危篤となり、午前八時過ぎに亡くなったと公表された。
 水野忠邦の日記だけ読んでいると、家斉は閏正月七日に病状が重くなったが、二十九日までは生きていて、晦日に亡くなったと読める。しかし、まったくウソの記事だった。井関隆子という旗本の奥様(子が広敷用人、孫が将軍家慶の小納戸という奥勤め)の日記には、家斉は去年の冬から病んでいたが、
  たちし七日の夕日のくだち、光りかくれさせ給えへりとほの聞ゆ、後の御おきてども
  大方ならぬ御事なめれば、世に秘させたまひて未だおはしますに変らず。上もたびた
  びわたらせ給ひて何くれの御沙汰どもあめり
     (深沢秋男『井関隆子日記』中巻、二四頁、勉誠社、一九八〇年)
とあるように、家斉は病が重くなったという七日には死去していた。そののち晦日まで生きていることにして、周囲の者はそれらしく振る舞っていたにすぎなかった。つまり二十三日間、その死は隠されていた。
 水野忠邦は、七日に死去したことを知らなかったかもしれない。実権を握る家斉の側近たちが、忠邦らに隠した可能性かおるからだ。しかし、忠邦を二十三日間も騙すことはできなかったろう。忠邦にしても側近勢力と同様、家斉の死を隠し、生きているかのように行動し、日記にもおくびにも家斉の死の影は見えない。ここには、おそらく家斉の側近勢力と忠邦らとの対抗、権力抗争が想像される。
 将軍の死が隠された事例に、十代将軍家治がいる。家治は、天明六(一七八六)年九月八日に五十歳で亡くなったとされる。しかし、旗本の森山孝盛の日記(内閣文庫影印叢刊『自家年譜』上、国立公文書館、一九九四年)によると、家治は八月に入って「御不例」(病気)となり、十五日の諸大名出仕の場にも出なかったが、十八日には「順快」(快方)に向かったと伝えられた。ところが、二十五日に御医師衆が総登城し、将軍の後継者である家斉や、田安家、一橋家も駆けつけるなど、江戸城内は大騒動になった。この時は、病状は「御快然」になったと披露されたが、森山孝盛が「今暁御他界之由」と記しているように、家治はその二十五日に亡くなったらしい。森山が九月八日に、「公方様 薨御之旨御広メ有之」と書くように、九月八日とは、家治の死が公表された日にすぎない。権勢を誇った田沼意次は、病気を理由に老中辞任を願い出ていたところ、八月二十七日に認められた。家治の死、死の公表の日時と微妙な関係にある。
 歴代将軍の死亡の日にちは、ほとんどが怪しいのではないか。歴史辞典に載せられている将軍の死亡年月日は、江戸幕府が公表した日にちに従っているようだが、再検討が必要だろう。江戸幕府の有力者の権勢は、多く将軍との個人的、人格的な諸関係のなかで生まれ、かつ保たれるのが実態なので、将軍の死は有力者だちにとってその権勢を失わせかねない。前将軍のもとで冷飯をくっていた人々は、新将軍のもとでの権勢を虎視耽々と狙っているわけだから、そこに厳しい政治的暗闘が繰び広げられただろう。だから、将軍の死とその公表の時間的なズレは、きわめて政治的な操作なのである。
 しかし、その時間的なズレは将軍だけでのことではない。天皇も同じだった。一九八九年の天皇の代替わりのように、近代では間髪を入れず新天皇が践祚する。だが、江戸時代の明和七(一七七○)年に即位した後桃園天皇は、安永八(一七七九)年の七月頃から病気がちとなり、十月二十九日には二十二歳で急逝した。しかし、この天皇には男の子がなく皇嗣を決めていなかったため、いそぎ次の天皇をたてなければならなくなり、閑院宮典仁親王の第六王子祐宮(後の光格天皇)に白羽の矢が立てられた。朝廷では後桃園天皇を生きていることにして、十一月八日に、祐宮を養子とし践祚させるという天皇の意思が伝えられた。そして、その翌日の九日午前四時に後桃園天皇が亡くなった、と公表された。これは、政治的暗闘ではなく、天皇の空位、空白をつくらないための操作だった。
                         (ふじた さとる・日本近世史)

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■『本郷』第28号

〔リードカンパニー〕???

®

リードカンパニー

2016年8月3日水曜日
旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記 [著]深沢秋男
■風俗から政治の裏面までリアルに

女性の日記文学は必ずしも平安時代の特産ではない。江戸幕府が改革か衰退かの選択を迫られた天保年間、女ざかりの日々の出来事を日記に綴(つづ)った旗本の妻がいた。
その名は井関隆子。江戸城で納戸組頭(なんどぐみがしら)を勤めていた井関親興(ちかおき)の後妻である。天保十一年(一八四〇)から同十五年(一八四四)までの膨大な日記は、長らく桜山文庫に秘蔵されていたが、著者の三十五年にわたる努力で翻刻・研究され、『井関隆子日記』と名付けて世に知られるところとなった。そのサワリを紹介したのが本書である。
夫との間に子は生まれなかったが、隆子は旗本家の刀自(とじ)として一家をてきぱき取り仕切る。九段下の屋敷は庭が広く、種々の草木が植えられて四季折々の自然が楽しめる。田安御門も程近く、江戸城とは手頃な距離にあった。
義理の息子の親経(ちかつね)は広敷用人に出世した。広敷は大奥の受付にあたる部署であり、将軍家斉(いえなり)の公私の接点をなしている。孫の親賢(ちかかた)は世子家慶(いえよし)の小納戸(こなんど)(雑務係)を勤め、ここからも城内の情報が入ってくる。隆子日記の豊富なトピックはあちこちに張りめぐらされたアンテナ網から提供されていたのである。
本書の構成は、前半が江戸の花鳥風月、年中行事、社会風俗の絵巻である。心中事件や破戒僧に向けられるオバサン的好奇心も旺盛だ。後半それが一転して天保改革の話題に切り替わる呼吸がいい。
権力の座に就いた水野忠邦は、家斉の死を待ちかねたように荒療治に取りかかる。追放された旧政権の佞人(ねいじん)に殿中で誰も声を掛けなくなる雰囲気がリアルだ。果断な倹約政治に対してくすぶる不満の声もじわじわと伝わってくる。
忠邦の命運を賭けた上知令(あげちれい)が、それで不利益を蒙(こうむ)る大名・旗本のひそかな結束で葬られてゆく政治の裏面がよくわかる。隆子日記は、家斉薨去(こうきょ)の日付など幕府の公式発表と隠された真相との隙間(すきま)を埋める一級史料でもあるのだ。
隆子の文章にはしっかりした芯(論理性)が通っている。欲をいうなら、原文の達者な和文をもっと大胆に生かしてもよかったと思う。
評・野口武彦(文芸評論家)

文春新書・767円/ふかさわ・あきお 35年生まれ。元昭和女子大教授。著書に『井関隆子日記』など。
投稿者 柳原鉄太郎 時刻: 6:22
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■ 会社名
有限会社リードカンパニー
■ 代表取締役
土屋 秋男
■ 所在地
〒362-0807
埼玉県北足立郡伊奈町寿2-145-1 寿ビル2F
■ 連絡先
TEL/FAX:048-729-4325
■ 資本金
300万円
■ 会社設立
平成18年3月6日
■ 事業目的
インターネットホームページの企画立案
インターネットを利用した各種情報サービス
インターネット用パーソナルコンピューター・その他周辺機器及びソフトウェアの販売・システム開発
インターネットを利用した各種商品売買予約サービス
インターネットを利用した広告及び宣伝業
書籍、DVD、CD、ゲーム機、ゲームソフト、アクセサリー、宝石、貴金属、化粧品、服飾雑貨、衣料品、寝具、日用品雑貨、家具、インテリア用品、什器備品、健康機器、食料品、文具、玩具、スポーツ用品及びベビー用品並びに通信機器、コンピュータ及びそれらの部品の売買、賃貸及び輸出入並びにそれらの仲介
古物の売買
前各号に付帯関連する一切の業務
※埼玉県公安委員会 古物商許可証 第431320025374号

 

四十路からの覚書

四十路からの覚書


2009 07 11
借りたよ
もーー図書館通いづめ!市民税分本を見てやる!!と意気込んでおります。ケチケチマーン
旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記 (文春新書 606)
作者: 深沢秋男
出版社/メーカー: 文藝春秋
発売日: 2007/11/16
メディア: 新書
クリック: 18回1840年〜1844年までバツイチで井関家に嫁いできた隆子さん56歳の日記の面白い所抜粋本です。隆子さんは二十歳で初めて結婚したんだけど、別れて、30歳で再婚。小さい頃から日本や中国の古典を読んでたそうです。光源氏がどうの〜とちらりと書いてあって、やん!あたいも読んだ!と親しみがわくよねぇ〜

【大きな地図で見る】
ここに住んでらしたんですって!
わぁ!4月に行った時ここちょうど歩いた!お向かいのマックで朝ご飯食べた!2階の窓際に座って元隆子さんの家の方を見ながら朝マックした!やーん★と、勝手に親近感!

お酒と植物が大好きで、なんだかさばさばした人な印象でございました。絵も上手だし相当インテリよね!深沢さんが読みやすく日記を訳されてるので、大変面白く読みました。

お祭りの様子や、うわさ話(心中だの好色僧だの男色だの!!)、江戸城や大奥のことなど、息子や孫が江戸城勤めだったのでいち早くリアルな情報が入ってきてたようで、歴史な江戸が身近に感じました。

「政治に関わる人は、いくら金銀を積み上げても、うまくはゆかない。人々を慈しむ心こそ大切であり、人を思いやる心があって初めて、従うものである。それなのに、上の御為といって、人々を苦しめ、よの騒ぎになるようなことを企てるのは、むしろ罪人ともいうべきである。この人(水野忠邦 天保の改革 わ!習った習った)は、これほど愚かな人物ではないと思うが、自分から身を滅ぼしたのは、多くの人々のうらみによるものであろう」ですって!今とそう変わんない!

あと、息子ちゃんが京都に出張するんだけど、徳川家斉の正室、広大院の名代として行くわけだから、服装とか持ってく物、連れてく人の人選等々その準備が大わらわで、何日もかけて準備してるの。でもその時でさえ、隆子さんは「昔と変わって今は便利になった」って言ってる!21世紀から見たらまったく不便、だって京都まで12日もかかってる!ああ、今はアホみたいに便利だねぇ〜。人間の中身はそう変ってないのにねぇ〜〜。

興味深いので

井関隆子日記〈上巻〉 (1978年)
作者: 井関隆子,深沢秋男
出版社/メーカー: 勉誠社
発売日: 1978/11
井関隆子日記〈中巻〉 (1980年)
作者: 井関隆子,深沢秋男
出版社/メーカー: 勉誠社
発売日: 1980/08
これも借りてみる! 江戸に夢中!もっと歴史を脳内に畳み込みたい!年号見たら「ああ、あの時代ね」なんて思いたい!!!

あと

わたしのマトカ
作者: 片桐はいり
出版社/メーカー: 幻冬舎
発売日: 2006/03
メディア: 単行本
購入: 7人 クリック: 67回
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これも借りました。はいりさんサクサクしてていいなー。もうあっという間に読める素敵本。
やっぱりエッセイや日記が大好きだ!

romasen 8年前

38年前の新刊紹介

●私が『井関隆子日記』上巻を出した時、最初の新刊紹介を、東大史学会の『史学雑誌』に書いて下さったのは、藤田覚氏である。その文章が、PDFで公開されていた。今日、初めて見て、感激を新にした。

●昭和53年11月、勉誠社から、全3巻の内、上巻を発行した。その次の年の4月、『史学雑誌』第88編4号に、藤田覚氏が紹介して下さったのである。
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深沢秋男校注
『井関隆子日記』(上巻)
勉誠社  一九七八・十一刊
B6 四六〇頁 四五〇〇円
本書は、旗本井関親興の妻井関隆子(い
せきたかこ)の天保十一~十五年の日記で
ある。日記とはいえ、毎日の出来事を書き
留めた記録としての日記という性格ではな
く、それを素材としつつ雅文調の日記文学
の作品とする意図のもとに叙述され、基本
的性格は、日記文学の作品であり、近世文
学研究の対象である。しかし、以下で紹介
するように、文学研究の素材にとどまらな
い内容を、本書はもっている。
原本は、水戸の桜山文庫(鹿島則幸氏)
の所蔵で、天保十一年が四冊、同十二~十
五年が各二冊の合計十二冊からなる。この
十二冊を上・中・下の三巻に分冊し、今回、
天保十一年の四冊が上巻として刊行された
わけである。中巻には十二・十三年、下巻
には十四・十五年が収められ、続刊の予定
という。
著者の井関隆子(天明五年~天保十五年)
は、旗本庄田安僚(高四〇〇石)の子とし
て生まれ、同じく旗本井関親興(俸禄二五
〇俵)の後妻として稼し、その晩年の五年
間にこの日記を著わしたのである。若い時
から古典に親しんでいたが、夫の親興没後
に学問を始め、しかも、特定の師にはつか
ず、国学者の著作を読み、また何人かの文
化人との交流のなかで古典の理解、文筆の
才を磨いたとされている。
日記には、政治・経済・社会の各方面に
わたる現実の社会におこる出来事や巷説、
過去の出来事に対する感想と批判、学芸上
の批評、正月・年越し・流鏑馬・川開き・
山王・神田祭り、四万六千日等の江戸市
中・自家の祭事、年中行事、風俗、習慣等
の日常生活が生き生きと描写されている。
天保期の江戸市中の様相や旗本の日常生活
をうかがい知りうる史料ともなっている。
しかし、いまひとつ重要な点は、将軍の
奥向きや幕政にかかわる叙述が散見される
点である。上巻では、将軍家慶室有栖川宮
王女の死去、大御所斉昭の病状、法華宗の
大奥への浸透、三方領知替についての各種
の噂などかある。夫の親興が新見家からき
た関係で、将軍の御側御用取次となる新見
正路と親類であり、子の親経が広敷御用人
(斉昭夫人の掛り)、孫の親賢は家慶の小納戸、
親経の妻戸田氏は、天保十四年に老中水野
忠邦によって登用され目付となり、印旛沼
工事を担当し、その後駿府町奉行を経て、
嘉永期の浦賀奉行となる戸田氏栄(伊豆守、
寛十郎)の妹であるという家族、親類関係
が意味をもってくる。校注者深沢秋男氏の
巻末の解説には、戸田氏栄が語る印旛沼工
事の話と、それに対する隆子の批判が、下
巻の箇所で出てくることが紹介されている。
中・下巻は、ちょうど幕府の天保改革の時
期にあたるので、その記述は、政治史的に
も興味あるものであろう。  (藤田 覚)
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●藤田覚氏の新刊紹介は、思いもよらないもので、私は、この権威ある雑誌の紹介を、勉誠社の社長、池嶋洋次から知らされ、本当に嬉しかった。歴史学の藤田氏が、この日記を日記文学して認めて下さり、さらに、その内容は、この天保期の歴史を知る上でも、参考になる史料でもある、と評価して下さったのである。この評価は、38年後の現在、真下英信氏によって確認されている。学問の世界は、実に楽しい。

■藤田覚氏の新刊紹介

日本の女はじつは強いのだ

●関口すみ子氏は『御一新とジェンダー』で、次の如く記している。

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江戸中期、女帝エカテリーナの存在を知っていた真葛は、天照大神と神功皇后について次のように述べている。

かけまくはかしこけれども、天照大御神は女がみにこそませ。またおき長たらし姫のみことも女神にましで、外国をすべしたがへさせ給へりき。世くだりて、紫式部の君のあやなされし、光源氏の物語に次文なし。西国よりわたりし解体の書にも、女にしてときそめしといふをも見たりき。

 そして、「されば、女たりとも、などか心を起さざらめや」と奮起して、『独考』という挑戦的な書を書いた。
 江戸末期の井関隆子は、アヘン戦争に関しては、「初のほどは清国打負けるが、後にははかりごともて敵の舟どもを焼すて、力を合せ戦ひつゝ終に打勝て、敵の軍の君よりけじめ、あまたとりこになしたりとぞ」と、清が最後には打ち勝ったと聞いていたが、「その軍の君は女にて、国王の娘とか」と日記で注目している。そして、次のように啖呵を切る。

そも/\この大御国こそ女にもいみじうたけく、男にもまさりて戦ひせしものまれにぱあれ、あだし国にはさる女はをさ/\聞えぬものを、まして末の世にいたりて、さるえびすの娘のこざかしう、軍の君に出たちし事、いと片腹痛きわざなりかし。

 ともに、本居宣長の『古事記伝』か読んでいた。隆子にいたっては、「此ごろ宣長の物しつる古事記の伝へ聞むとてまでく。神代の巻など三回ばかり読に、大方そらに聞きとりぬ」というほどである。
 日本の女はじつは強いのだ――

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●隆子は、盲目の歌人、杉嶋勾当と親しく交流している。この杉嶋は、『当道要録』の著者だと推測される。
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さ月つきたちの日、夕べの雨なごりなく打晴ぬ。今朝ここの人々、よろこび
申に疾く大城に詣でぬ。杉嶋ノ勾当来れり。一年も文読をきかむとて、物したりしが、此ごろ宣長の物しつる古事記の伝へ聞むとてまでく。神代の巻など三回ばかり読に、大方そらに聞とりぬ。
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●隆子の古典の吸収の仕方は、人並みではなかった。十分に理解し、咀嚼して、いったん、自分の肉体に取り込み、それを、自分流に放出しているのである。故に、その引用は、しかるべき所に、しかるべき形でなされているのである。
●テレビで見たことであるが、大江健三郎は、創作する時、参考書など、外国の原書等を読むが、さて原稿の執筆は、画板に原稿用紙を敷いて、立って、歩きながら書いていた。出典を左に置いて、それを写し書きするのではない。井関隆子と同じようであった。

■『井関隆子日記』天保11年5月1日の条