関口すみ子著 『御一新とジェンダー 荻生徂徠から教育勅語まで』

関口すみ子著

『御一新とジェンダー 荻生徂徠から教育勅語まで』
2005年3月15日、東京大学出版会発行●著者は、「あとがき」で次の如く記している。
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本書は、自分が感じたちょっとした疑問、どうも俯に落ちない点を追っていくことから始まり、それらが互いに繋がってくることで完成にいたったものである。たとえば、荻生胆株の『政談』は、何故、大名の妻を「埓もなき者」などと罵倒するのだろうか、あるいは、明治の女権運動家が帝国憲法発布の頃になると「家庭に入って」しまうのは何故なのだろうか等である。そして、また、東京大学総合博物館で『シーボルト展』を見た時、公家の絵かと思って近寄ってみたら、「将軍」とあり、目を疑った体験などである。
……さて、初めの問いに戻れば、はたして、「江戸時代、女性は弱かった」のであろうか。
それには、こう答えるべきであろう。「ことはそう単純ではない。」
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●この本は、関口氏の東大での博士論文に手を加えたものであると言う。今や、当然のように、このようなテーマの時、井関隆子は取り上げられるようになった。隆子の見識が、このように、後世に伝えられて、嬉しい。
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真葛が『独考』で問題にしたように、「妾」、とくに、「町よりのぼる妾」が実権を握るのではないかという恐れが、身分制の下にある人々の心をかき乱していた。家の秩序がめちゃくちゃになるのではないかという恐れである。「妖
婦」の成敗を実行した例もみられる。
旗本の妻、井関隆子の日記(天保十一年四月九日)には、ある大家で、若い家臣が、寵愛をタテに専横を恣にしていた妾を殺害したという事件が記されている。「堀の何がし殿とやらむ、世の御政事とりもち給ふ人」の家で、妾が若い家臣に殺されたという事件である。「此女、お部屋といひていみじうおごり、勢ひあれば、其気色とらでは己らなどは、え立まじりがたうなん」と言われる雰囲気の中で、「こゝに仕うる某とか聞ゆる男、年などもいまだ二十にたらぬ程なりとか、此女のなほいみじうよがらぬ事共ぞつのりたりけむ、殿の御為に己れ身をすてゝ是を殺さむと思ひ定め、ある日たばかりより、あまた手負せ」、ついに死に至らせたという。
さらに、隆子かある者に内情を聞いたところ、じつは、「其妾を殺せしは同じ殿に仕うる女にて、かたへの人々によく頼まれ、家の治まらむ事をばかりで、殺したり」と答えたという。すなわち、これでは家が治まらない、これでは家が傾くと妾が殺され、懲悪が実行されたということである。
隆子自身は、寵姫を悪としで懲悪を敢行する馬琴流でもなく、「町よりのぼる妾」に注意せよと武家の女に忠告する真葛流でもない。この事件は、妾に罪をなすりつけるものであると見ている。「然れども是またく女の罪のみにあらず」とし、あるいは、また、「此事出くるまで、さる女にあざむかれ、何ごとも打任せ給ひしは、殿のあやまちなめり」と、責任が「殿」にあることを指摘する。そして、「女ひとりに罪を負せて、事なく済されけん。かの玄宗が、今国の滅びんとするきはみに及びて、楊貴妃に死をゆるしたりげんたぐひ、思ひ合されぬべし」とする。責任の所在は、楊貴妃ではなく、権力を握っていた玄宗にこそある、という意見である。しかし、こうした見方はごく少数派であったであろう。隆子自身は、押しも押されぬ上級旗本(家慶の世子時代の側近で、西丸納戸組頭)夫人で、しかもすでに隠居の身であるという余裕があってこそ、はじめて可能な発想であったかもしれない。
不満を抱えた武士、失意の女中、読本作者と読者――様々な人々の間で「妲己]「楊貴妃」のイメージが広範に共有されていた。そして、その眼差しは、将軍家に向けられていく。
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●この天保11年4月9日、隆子は興に乗ったのであろう、原本で12丁、24頁にわたって、様々なことを記している。
関口すみ子著
『御一新とジェンダー 荻生徂徠から教育勅語まで』

防災情報新聞  天保15年 江戸城本丸大奥火災

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○幕府、本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける(370年前)[追補]

1639年11月3日(寛永16年10月8日)
幕府内の事績を記録した寛永日記に、この日、江戸城の“火之番之内、奥方火之番に九人被仰付之旨、老中被申渡之”とある。
城内や外郭を巡回し火元の注意をしたという火之番が、いつごろ任命されたのか定かではないが、大奥にも奥女中が勤める“御火之番”という役目があり、昼夜を問わず局や女中部屋を何回も巡回し火元の注意をしていたので、職制とまでいかないまでも、いつの世でも集団生活をする建物などには防災上必要な存在であり、1590年8月(天正18年8月)徳川家康江戸城入城(江戸入府)以来、在任していたと思われる。
1639年9月8日(寛永16年8月11日)天守閣を残し本丸殿舎がほとんど焼失した。幕府では火災3日後の9月11日(旧暦・8月14日)、本丸殿舎の再建を計画し総奉行と2名の奉行、4名の作事奉行を決め、翌10月12日(旧・9月16日)から普請に掛かりはじめた。そして火災シーズンの11月(旧・10月)に入り、殿舎造営中の城内及び江戸城近傍の市内警邏役や、火災警戒の担当者を次々と任命する。せっかく造作中の殿舎がまた焼けては元も子もないからであろう。
まず11月2日(旧・10月7日)、城内の夜廻り担当に将軍の親衛隊“番方”から30名を任命。江戸城近傍の市中夜廻之衆は、神田筋、山之手筋、桜田筋の3方面に、宵(夜間早々)と暁(明け方)の当番として、それぞれ2名ずつ3番(組)編成とし合計36名任命、翌3日(旧・8日)から夜廻りをスタートさせている。奥方火之番(奥火之番)の任命はその3日(旧・8日)で、これも本丸殿舎再建に係わる警備強化の一環である。
そこで奥方火之番の役割だが、江戸城大奥の玄関脇に大奥の事務と警備を取り扱う“広敷役人(男性)”の詰め所(事務所)“広敷向”があり、日常はここに詰めここと大奥外郭の火元の注意をした。大奥に一歩入った所になぜ火の番担当の者をおいたのか。それは先の本丸殿舎焼失の火元が、大奥の台所だったというのが大きな理由だろう。
二度と火災を起こさせないために、大奥及び周辺で出火すれば、まず直接の上司の広敷用人の指示を受けて、奥女中の御火之番と協力し火元を確認する。ぼや程度であれば、一緒に初期消火をする。大火事になりそうであれば、奥女中では通報できない老中などに通報したり、緊急の場合には同僚とともに大奥に乗り込み、奥方や側室、姫君、奥女中などの避難誘導をするところにあったのではないか。江戸城大奥火災

事実、幕末1844年6月(天保15年5月)同じように大奥から出火し本丸殿舎が焼失した際、御広敷詰の役人が大奥内に立ち入って、奥女中たちを避難させている。
一方、表火之番だが、特にこの日、分化したというよりも、奥方火之番が独立したので対照的に表火之番と呼ばれたと思われる。また火之番の上司は、表火之番が幕府の政務全般を観察した“目付”、定員は30名で10名づつで1組を形成し、それぞれ交代で毎夕酉の刻(午後6時ごろ)から翌朝寅の下刻(5時ごろ)まで宿直をし城内などを巡回した。一方奥方火之番(奥火之番)の上司は、大奥を管轄した“留守居”で、定員は初期の9名から後に20名に増員、1792年5月3日(寛政4年3月13日)からは、広敷向のトップ広敷番之頭の指示を受けることになる。

(出典:東京都編「東京市史稿:データベース選択>所蔵史料目録データベース>東京市史稿>No.2>皇城編 第1>01155:本丸殿舎火ク(焼く)」、同皇城編第1:01167~011804:本丸殿舎の営造」、大石学編「江戸幕府大事典>第二部 職制 107頁:奥火之番、116頁~117頁:表火之番、363頁~364頁:火之番(大奥)、375頁:広敷用人」、井関隆子著「井関隆子日記 下巻>天保15年5月>十日 、十一日 277頁~283頁」、深沢秋男著「旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記>第四章 江戸城大奥>五 江戸城炎上す 195頁~201頁」)
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●『井関隆子日記』天保15年5月10日の条

十日、雨きのふの夜より降出、ひねもすやまず、昨夜も晴れ間なし。けさ、いまだ暁深う火のしらせあれど、雨のおと高きに、おこたり、誰も誰もおどろかず。さる間に、おきさわぐ人あり。はた、となりにも、ののしる声すれば、やをら起出、板戸かいばなちて見れば、南の方におどろおどろしう、炎もえあがり、其光りなべて雨雲にかがよひ、大空をやくが如、いみじとはおろかなり。
かかる程に、人走り来て大城に火おこれりといふ。
げに一とせ、西の殿の火よりは、少し左の方によれり。昨夜、あるじ親子、御宿直也。まづ胸うちつぶれて、たちゐの空もしられず。はた、きけば犬殿にとりても、御広敷なる局より起れる火なりといふに、いとど、覚束無させん方なし。

●隆子は、江戸城大奥に火災発生の時、その様子をこのように記している。この日、子の親経も、孫の親賢も、宿直で江戸城内に泊り込んでいた。

そもそも、上の御事は制あれば、詳しきことな、近しき中らひといへども、夢もらすべくもあらねば、はた、問ふ事もせず。されど常ならぬゆゆしき折には、例の御掟にたがふべかめれば、それに触たる下郎などの来て、語れるをほの聞て、今朝の有様、おしはかるに、奥の方、いみじくさわかしく、女房達ののしり、どよみ、御しまり明たるに、あるじ、おどろきさめためり。其気色、火のおこりたりとおしはかり、板戸はなちて見出しけるに、はや、むかひの屋いみじく燃えあがりたれば、あわて着に衣ども着替へ、御宿直の仕丁ども呼び上げ、急ぎ、引きゐて、御座をさして走りゆく。……

●隆子は、将軍家のことは、規定によって、たとえ親しい間でも、洩らしてはならない、と言いながら、これは、一大事、とこの大火の事を詳細に記している。

見しれる女房来つれるを押へて、案内とらせ、常に用意ありける御乗物かきよせさせ、とくとくと催し申せば、女房たちよりて、御前をばとかくしつつ、乗せまゐらせたるべし。さて急ぎ、三ノ口より出し奉る。精姫君は女房おひ奉り、おもてによりてのがれさせ給ふ。

●親経は、広大院を常備の輿に乗せて、三ノ口から外へ脱出させた。精姫君は女房がおんぶして、助け出した。御広敷用人と言えども、大奥へ入るのは初めてだった。とにかく、親経の気転で、広大院も精姫君も救出できたのである。
●過去の歴史の真実を解明するのは、記録に頼るほかはない。徳川家の歴史は『徳川実紀』という膨大な記録が残されていて、私達は、これを大いに使う。しかし、これは、徳川家の立場で記されているので、そのあたりの資料批判を加えて使う必要がある。この天保15年の江戸城大奥の火災に関しても『徳川実紀』は記録しているが、極めて簡略である。その点、井関隆子のような、何事にも興味津々の人物は、詳細に書き留める。これが、やがて、歴史の真実に迫る資料の一つになるのである。
●隆子は、過去の歴史を知るのには、その時代の文学を読むことだと書いている。そのような考えから、膨大な日記を残したのである。幕末維新の膨大な記録、『桜斎随筆』も、筆まめな、鹿島則孝によって記録されたものであるが、この時代を知る上で、貴重な資料である。

〔井関隆子 のつながり〕

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井関隆子 のつながり
ウェブ上のデータ分析により、次の方とのつながりが検出されました。
(なお、ウェブ上の氏名の出現をもとに推定しているため、必ずしも正しい情報ではありません。)

1 深沢秋男
深沢 秋男(ふかさわ あきお、1935年11月 – )は、国文学者。山梨県生まれ。身延高等学校、1962年法政大学文学部日本文学科卒。昭和女子大学短期大学部助教授、昭和女子大学教授。近世文学、歴史が専 …

2 水野忠邦
水野 忠邦(みずの ただくに)は、江戸時代後期の大名・老中。肥前唐津藩主、のち遠州浜松藩主。

3 桜山文庫
桜山文庫桜山文庫 井関隆子日記〈全3〉◆ 幕末/旗本/江戸大奥/日記 資料◆校注本価格 20,700円 E◇旗本夫人が見た江戸のたそがれ 深沢秋男 文春新書価格 300円 …

4 新見正路
新見正路 【しんみ まさみち】 4件の用語解説(新見正路で検索) Tweet 朝日日本歴史人物事典の解説 生年: 寛政3.9.12 (1791.10.9) 没年: 嘉永1.6.27

5 ドナルド・キーン
キーン ドナルド(1922年6月18日 – )は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本国籍取得後、米国籍での氏名

6 徳川家斉
徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 – 1837年)。御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。

7 鹿島則文
鹿島 則文(かしま のりぶみ、1839年1月13日 – 1901年10月10日)は、幕末・明治時代の神職。鹿島神宮大宮司であった鹿島則孝の子として生まれる。号は桜宇。儒書を安井息軒に学び、また、..

8 真下英信
伝クセノポン「アテーナイ人の国制」の研究真下英信:著 A5判 372ページ 上製 定価:7,000円+税 ISBN978-4-7664-0837-9(4-7664-0837-3) C3022 奥付の初版発行年月:2001年02月 発行:慶應義塾大学出版会オンライン書店で買うアマゾン|HonyaClub.com|紀伊國屋BookWeb|ブックサービス|honto|セブンネットショッピング|e-hon|楽天ブックス(在庫あり)|文教堂Jbooks|ライブドアブックス|丸善&ジュンク堂書店|HMV|TSUTAYA|店頭在庫を確認紀伊國屋書店(新宿本店)|ジュンク堂書店|旭屋倶楽部|三省堂書店 岩波ブックセンター|TSUTAYA|東京都書店案内 内容紹介内容紹介ソクラテスの弟子クセノポン作として伝わる『アテーナイ人の国制』の我が国初の研究書。
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●私は、トップに上げられて光栄である。〔ウィキペディア〕でも、私のことを「井関隆子の研究で知られる」と書いている。どなたが執筆したかは解らない。実は、私は〔ウィキ〕の記述には不満がある。しかし、自分では増補修正は出来ない規定である。
●私の研究は、◎如儡子・斎藤親盛の研究。◎仮名草子の研究。◎井関隆子の研究。◎鈴木重嶺・翠園の研究。鹿島則文・鹿島則孝も加えてもいいか。そんな風に、自分では考えている。
●あの世へ行ったら、まず、如儡子・斎藤親盛が、よく来たね、と出迎えてくれるらしい。私が居なくなった、この世では、井関隆子の発見者として、小さく名前が出るかも知れない。それでも、出すぎた人生ということになる。
●それよりも、8番目にランクされた、真下英信氏こそ、真の井関隆子の発見者である。真下氏の研究書を拝見できないのが残念である。それと、東北大の新田孝子氏の研究が大きいだろう。

〔利他に徹する〕

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利他に徹する 
2017年8月15日

今迄は中下級武士の生活でしたが、今度は生活に心配の無い
上流武士の生活です。

旗本駕籠登城
旗本など役人は50歳を過ぎると、申請を出せば駕籠での登城は
許可されて登城できます。
勿論、足が悪ければ同じように申請すれば許可が出ます。
御庭番の川村家もも足が弱くなってからは、
申請を出して駕籠での登城でした。
但し、大番組や書院番などは親衛隊で、原則は武官なので
馬が当たり前であったようです。

さて旗本といえば井関隆子という旗本夫人が居ました。
このブログでお馴染みの女性で大変魅力的な方です。
幕臣庄田安僚(しょうだやすとも)の4女として天明5(1785)年に
江戸の四谷に生まれました。
[私が生まれた所は四谷と言って旗本の中でも特にこれというほどでもない人々が、かれこれ住んでいて萱葺き、板屋などの田舎めいた家が混じっていた。]
四谷という町は、田舎であったようで隆子は母が嫌いであった蛇を退治したくらいですから緑豊かであったのでしょう。

大番組衆など警備を担当する部署で、生家の庄田家は400石取り、
屋敷は660坪であった。
文中にあるようにこれといった家ではない人々と言いますが、実はそうではないのです。

隆子が書いた「井関隆子日記」というのがあり、天保11年(1840)56才の時から60才で亡くなる4年間 丹念に日記を書き綴っています
もう悠々自適の隠居の身分ですから自由に何の遠慮も無く率直に書いてるのが魅力です。

何の遠慮も無くとあるが同じような日記で尾張徳川家の御畳奉行を勤めた方のもあるが、此方は余りに藩主の悪い行状を赤裸々に描いたためか、死後に日記は公開されずに長い間人の目に触れることは無かった。
隆子も結構、12代家慶の事を辛辣に書いてるのもあるが、旗本という身分が関係あるのか死後も何ら制約は無かったようです。

それと今気が付いたのですが尾張徳川家で御畳奉行とあるが、「御」というのは将軍に関連してるケースが普通で、御書物奉行のように身分の低い旗本が付く役ではあるが、将軍に敬意を表して御が付いてる。
それに対して、尾張徳川家で御が付いてるというのは御三家の一つであり、神君家康の血筋であるという印であったのでしょうか?妙な所が気になります。

隆子はこの時56才ですが、この日記を始めるに当たり、こう述べています。
「老いの身の私としては、とりとめない事でも書き記すよりないのである」
この時代の50歳は、隠居が当たり前の時代です。
亡くなる60歳過ぎまで日記が続くのである。

因みに隆子は天保15年(1844)に亡くなった。
この頃にはもう既に異国船がたびたび日本に来て開国を迫られていて
1853年黒船が襲来して、それ以降騒然とした時代を迎え、やがて、
幕末となるのです。
そういう意味では隆子は、自ら言う有難い御代に生まれたというべきでしょう。
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●推測するに、このブログには、井関隆子は、時々、登場しているらしい。
利己中、自分の事だけ考えてきた私は、恥ずかしい。

水野忠邦罷免の時の様子

●野口武彦氏が、天保14年、水野忠邦罷免の頃の、水野屋敷の様子をブログで書いていた。その時、その場で生活をしていた、井関隆子はどのように書き留めていたか。

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十四日  十四日天気よろし。親賢まかでて、昨夜のさわぎを語るをきくに、かの人、御咎め有て門とぢたりときくより、町人をはじめ、えもいはぬ下衆ども、いと多く西の丸下なる、水野の屋敷のめぐりに立より、にく気なること口々に罵りさわぎたるを、昼のみと思ひしに、夜にいたりて、其人ますますかさなり、喚き叫ぶこと火のさわぎに似て、大城に聞えしかば、上にも聞し召し、おどろかせ給ひ、御庭の高山より見わたさせ給ふに、いくらとも数しらぬ人ども、かの屋敷をとり囲み、大きなる石ども雨あられの如く、つぶてにうちつつ、からき目に合つるうらみども、言ひ罵るなるべし。勝ち鬨の声をあげ、おびただし。
大城に近き町々の人、はた、此さわぎ見むとて集まる人おそひかさなり、大手桔梗の御門のわたりに、みちみちたれば、警衛のため、わたりに近き国の守たち、皆火にかかるべき折のよそひして、御門々をかため、町の司何くれの奉行など、あまた立さわぎ、いといみじうゆすりみちたり。
されば夜中ばかり、此事、一ノ司より上へも聞えあげ、大殿の内いぬる人まれなり。
さるは、かの人、昨夜屋敷を引払ひ、ほかへ移ろべくおしはかり、其をりを得て、恥見せ日頃の恨みをかへさむとて、しか集まりたるなるべし。今まかり出し、かのわたりを見わたせしに、猶、人くろむ斗、長屋のめぐりをとり囲みたり。昨夜かの屋敷に付たる番所、いたく打破りたり。
今朝人の沙汰するをきくに、皆下郎共なれば、制し追払はば、払ひもしつべきを、たれもたれも、かかるめ見るを、したには心地よ気に思ふなめり、見物の人、はた制すとて出たる人らさへ、くらまぎれなれば、手つだひて礫うてば、しひて迫払ふ人なかりしとか。かかる事、ききしらず、珍らかかることをや、など語りぬ。
かの上地の事、はた、印旛沼、かならず出来ぬべしと、すすめさかしだちつる篠山の某、きのふ御咎有て、司とられ、御たうばりも、中ら召し放たれ、逼塞とかいふ御咎め有とぞ。是に次たる人々もいかがあらむなど聞ゆ。
後にきくに、かの水野の屋敷とり囲みたる人ども、大路より仇したるのみならず、鳶口てふ笞、あるは梯子などもち来て、長屋を乗こえ多くの人、みだれいり、出合ものあらば、打ち殺さむとののしり、番所によりたる小き門を打わり、瓦を打落すこといみじければ、立合ふ人なかりしとぞ。然のみならず、此人の屋敷青山のわたり、はた芝の三田とぶ所にあり。そこをも、其夜同じう数しらぬ人、押かかり、いみじう荒したりと聞ゆ。……
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●隆子は、水野忠邦には、日頃から、厳しい批判の言葉を発していたので、ここでは、その騒ぎの様子を、さらに詳細に書きとどめている。

■『井関隆子日記』天保14年閏9月14日の条

文春新書の頃の思い出

●私は、平成17年(2005)3月、昭和女子大学を定年退職した。その後、2年間は非常勤で出講した。2005年5月、三猿舎の編集者安田氏から電話があり、文春新書の原稿依頼があった。その前年2月、『歴史読本』に編集長だった安田氏の依頼で、「旗本夫人井関隆子がみた幕末の江戸城」を執筆した関係である。6月14日、高田馬場でお会いして、文春新書の概要を説明され、執筆を引き受けた。250枚、10月末。

●7月29日、目次、30枚の草稿を安田氏に送る。安田氏より電話で、この調子で進めるようにとのこと。
●10月26日、200枚、安田氏に送る。
●10月30日、安田氏が文春と打ち合わせて検討の結果、重すぎるので、軽く改稿するようにとのこと。
●12月7日、文春の和賀氏へメール連絡する。
株式会社 文藝春秋
文春新書編集部統括次長
和賀 正樹様
こんばんは。
本日、お便りを頂きました。この度は、安田清人氏を通じて、私の研究に目をとめて下さり、誠に有難う御座います。
安田さんに言われるままに引き受けたのですが、なにしろ、このような易しい文章を書くのは、初めてのことです。安田さんは『歴史読本』の調子で宜しい、と言われますので、兎に角、書いてみました。
最初のものが、重すぎると言うので、軽く書き直しましたが、何度でも書き直しますし、また、どしどし、手を入れてくれるよう、安田さんにも伝えてあります。
現在、第四の江戸城内の部分を書いています。一応纏まったらチェックして頂いて、書き直すようにします。分かりやすく、易しく書くのは、こちらが、よく知っていなければ出来ませんので、非力な私には、大変な仕事です。頑張ってみますので、どうぞ、宜しくお願い申し上げます。
12月7日  深沢秋男
●2006年5月27日、287枚、安田氏へ送る。
安田氏と和賀氏が検討したが、まだ硬すぎるとのことであった。
●10月19日、いったん、全原稿を私宛に返送してもらって、改めて改稿することにした。
株式会社 文藝春秋
文春新書編集部統括次長
和賀正樹様この度、文春新書の、私の原稿の件ですが、状況がよくわかりました。
本日、安田さん宛、以下のようなメールを差し上げました。そちらは大分
お忙しい御様子ですので、私の方で、もう一度、検討して見ます。その後で
改めて御相談いたしたく思います。
以上、御了承願います。
2006年10月19日  深沢秋男
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三猿舎・安田様

この度の、文春新書という事で依頼され、お渡しした、私の原稿処理の状況、よくわかりました。
安田さんも大分御多忙の御様子ですので、私の原稿とフロッピーと写真原稿の全てを、一旦、私に返却して頂きたく思います。改めて、安田さんと和賀さんの御意向を参考に、私が検討してみます。それから、改めて、御相談したいと思います。お手数ですが、今回の全ての資料を、こちらにお送り下さいますよう、お願い申し上げます。
2006年10月19日  深沢秋男
・・・・・・・・・・・・
●この時期、私は、研究書の出版や講演がたくさん重なり、啓蒙書の執筆どころではなかった。それに、一般の人々宛ての啓蒙書の執筆は、誠に難しかった。友人の作家、長谷川卓氏に質問したら、話すように書きなさい、とアドバイスしてくれた。いっそ、資料を提供して、長谷川氏に執筆してもらうことも考えた。しかし、それは、和賀氏に了承してもらえなかった。正直、嫌気がさしていたのである。原稿を引き上げて、ほっぽっておいたのである。
●2007年4月10日、書き直し開始。特に安田さんや和賀さんから、電話があったり、メールで急がされたのではない。多分、他の原稿との兼ね合いだと思う。
●8月16日、前半の原稿送付。
文春の和賀さんの返事が凄い。私は、この言葉に踊らされて、残りの原稿を仕上げた。
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一読、感嘆。
これです。
この調子です。
読者が待っていたのは。
ご指示の図版がはいると、一段とまた、読みやすくなるでしょう。
どうぞ、どんどん前にお進めください。
多少必要なかんな掛けは、ゲラでいたしましょう。
酷暑のなか、恐縮ですが、なにとぞよろしくお願いいたします。
今月末の脱稿をぜひに。
読書の秋、11月には、ご本にいたしたく。
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●8月21日脱稿。文春へ送付。
●8月27日、和賀氏から電話、入稿と。
●9月8日、初校出校。
●9月18日初校了。
この間、和賀さんは、所沢まで来て下さると言われたが、我が家は、散らかっていて、困るので、と、池袋の喫茶店・椿茶寮でお会いした。
●10月24日、責了。
●11月8日、見本届く。文春新書・11月の新刊は、
◎ドストエフスキー 謎とちから  亀山郁夫
◎力士の世界  木村庄之助
◎旗本夫人が見た江戸のたそがれ――井関隆子の日記  深沢秋男
◎旅順と南京――日中五十年戦争の起源  一ノ瀬俊也
◎若き世代に語る日中戦争  伊藤桂一・野田明美
●私の本は、何故か好調で、増刷が続いた。
2刷 2007年12月25日
3刷 2008年1月10日
4刷 2008年1月20日
5刷 2008年2月5日
6刷 2008年4月25日
●私にとっては、夢のような出来事であった。印税もたくさんもらった。その後他の出版社から、原稿依頼が3社あったが、私は原稿は書かなかった。
●書評も、朝日新聞の、野口武彦氏を初め、たくさんの方々が書いて下さった。これも夢のような出来事だった。

■『歴史読本』

9年前の新刊紹介

●拙著、文春新書が出た頃、医学関係の雑誌に紹介が出たことは知ったが、何回か検索しても読めなかった。今日、ひょんなことからその新刊紹介を見ることが出来た。医科大の先生で、大変な読書家である。9年も前のものであるが、記録しておく。

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☆江戸の女性の宗教観と科学認識

深沢秋男著 旗本夫人が見た江戸のたそがれ:井関隆子のエスプリ日記 文芸春秋新書、2007年、767 円

宗教に対する公正な評価
最初に、次の文章を読んで下さい。
「他界した人の法要も、古くは行わなかったようだが、現在は当然のように行うようになった。家計が苦しい人は、その費用のために借金をしても行う。大変苦しいことであるが、菩提寺から法要日の案内があって、断ることもできずに執り行うが、このような法事は無用である。
「今は、大方の人が仏教に傾いているようだが、法事のために寺へお参りした人々は、お経を聞いても訳はわからず、ただ、うるさいと思っている者が多い。人の代りに来た男などは、座っている足も痛いので、早く読経が終って欲しいと、陰であくびをして、早く物を食べたいと、それが待ち遠しい様子である。
「法事の料理が良ければ心を入れた法事と誉め、質素な料理を省略した法事だという。誉めるのもけなすのも、料理によっている。また、法事を行う施主とても、今日の法事は心がこもっていて、まことに尊いものである、これで亡くなった人もきっと成仏してくれる、など思う信心深い人はめったにいない。かりにそう思う人がいたとしても、それは賢明な人ともいえない。」
正直なところ、私(諏訪)自身が法事に出席する気分はここにある通りで、仏(私の場合は親)に対する敬意は失わないとしても、御経は訳がわからず、うるさくて座っている足も痛くて、早く終って欲しいと思っています。2008 年夏に大峰山の頂上で講話を聞かされたのも、まさにこれでした。
驚くべきことに、この文章を書いたのは天保 11 年つまり 1840 年、著者は旗本夫人の井関隆子という当時 56 歳の女性です。現在から 170 年の昔、江戸時代後期に宗教行事に対してこれほど突き放した見事な態度を表明しています。私の場合は、「だから葬儀は無宗教で、墓はつくらず散骨」と表明していますが、200 年近く後ですから、その程度の変革はあって当然でしょう。

井関隆子女史の透徹したものの見方
この方は、タイトルにあるとおり旗本夫人ですが、少し複雑な経歴で、20 歳で一度結婚したものの 3 年後に離別し、30 歳の時に井関家へ嫁ぎますが、12 年後の 42 歳で夫(19 歳年長)が没して、その後は義理の長男とさらにその長男(義理の孫)の納める家で、悠々自適の比較的豊かでしかも気ままに暮らしたようです。
江戸期の女性に「女史」という敬称はあまりつけませんが、この方の場合は敢えてそう呼びたくなり、不自然に感じません。著者の評価では、幼時より利発で『生意気だ』と親に嫌われたこともあるようですが、何しろ勉強好きで少女時代も、二つの結婚の間も、42 歳で夫をなくしてからも、たくさんの書物を読み、さらに小説も書いている由です。
1840 年 1 月 1 日から 1844 年 11 月 1 日に 60 歳で没する直前までのほぼ 5 年間にわたって書き続けた日記が残り、本書の著者が出版している由で、冒頭の文章もその一部です。
井関家は、隆子の夫から 3 代にわたって幕府の要職にあり、九段下に 350 坪の土地に屋敷をかまえ、年収が 3 千万円ほどあったと推測し、家計の苦労はまったくなかったようで、いろいろと豪華な話も登場します。
しかし、何よりも興味深いのが世相に対するコメントで、いろいろと感心させられます。原文は読んでいないけれど本書を読みながら、徒然草を思い浮かべました。徒然草も、現代の私たちが読んで、古くない普遍的な真実を述べている点で、本書に共通します。唯一大きな差は、徒然草は原文を読みなれているのに対して、井関隆子日記は上記の本の紹介が必要で、冒頭の文章も著者深沢氏の現代語訳です。本書のところどころに原文が載っていて、手に負えないこともなさそうですが。
最後に、この日記の素晴らしい例をもう一つ。
「蘭学者は、地球の大きさや深さ、周囲の長さ、月や太陽までの距離などを断定的にいう。また、紅毛人(西洋人)は、地球は円いと書物に書いてあるという。実際自分で見ていないのに、断定的にいうことは納得できない。すべて推測ばかりである。未知の場合は、実際そうであろうか、どうであろうか、というように推測すべきである。証拠もないのに断定してはいけない。この天地の有様を完全に知りたいと思うならば、一度この地球から出て、遠くから観察しなければ断定はできないだろう。」
立派な科学的な態度と感じませんか。この記述を読んだドナルド・キーン氏は「彼女が早くも人工衛星を予見していたとも思わせる・・・」と述べている由で、賛成です。
江戸末期の文化について芸術面の評価が高いのは言うまでもないとして、しばらく前に「北越雪譜」を読んで、その科学性・文明考察のレベルの高さに感心しました。今回、この日記でさらに驚かされました。ただ、当時も今も日記自体の入手がむずかしいのが残念です。
[諏訪邦夫、2008/12 月頃執筆]
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諏訪 邦夫
J-GLOBALへ 更新日: 17/04/12 16:24
学位
医学博士(東京大学)
プロフィール
1937年生まれ。東京大学医学部卒業,マサチュ-セッツ総合病院レジデント,ハーバード大学助手,カリフォルニア大学助教授,東京大学助教授,帝京大学教授(医学部)、帝京大学教授(八王子キャンパス)を経て、現在は帝京短期大学教授(臨床工学主任)。
専門は麻酔学.呼吸管理と血液ガスの問題,呼吸と循環のシミュレ-ションなど。
著書:『血液ガスの臨床』,『呼吸不全の臨床と生理』,『医学の古典を読む』、『医学の古典をインターネットで読もう』、『血液ガスをめぐる物語』(以上,中外医学社),『パソコンをどう使うか』(中央新書),『発表の技法』(講談社ブルーバックス)、『英会話はスポーツだ』、『論文を書いてみよう!』(以上、克誠堂)、『医科学者のための知的活動の技法』(メディカル・サイエンス・インターナショナル)など。

近世末・近代の都市居住性に関する研究

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住総研研究論文集
Vol. 39 (2013) p. 85-96
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http://doi.org/10.20803/jusokenronbun.39.0_85近世末・近代の都市居住性に関する研究
東京都墨田区民家の地域的特質と変遷を通して
真鍋 怜子1), 中川 武2), 小岩 正樹2)

1) 早稲田大学大学院 2) 早稲田大学

公開日 20170810
Copyright © 2013 一般財団法人 住総研
本文PDF [1394K]
抄録

本研究は,「奥」という概念の再考を動機とし,土間や外部との接点および家族団欒の場と,台所作業場の平面的な関係性を通して,近世末から近代への移行期の夫人の居場所の変遷を捉えることを目的とする。幕末期の旗本夫人・井関隆子による日記を分析し,家族個人間のプライバシーの時代的萌芽を指摘した。墨田区民家においては,台所の空間的な「奥」を深化させる一方,家事労働軽減が目指されても,家庭の中心的な場に一体化されることはなかった。それにより,中廊下型でも居間中心型でもない「江戸期農家の土間・台所の縮小再編型」という特有の住居平面構成を持ち,夫人の新たな居場所が形成されたと見ることのできる可能性を示した。
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CG 江戸 EDO

CG 江戸 EDO


●CG作家、中村宣夫氏のHP〔江戸 EDO〕を見た。
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中村宣夫さん CG作家
略歴:1979年東京デザイナー学院商業デザイン科卒業。卒業後、デザイン事務所勤務、大手百貨店等の広告を制作。2000年からフリーで活動。広告及び美術館の建築CG、ゲームの背景CG等を制作。
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●参考文献の項があり、そのドン尻に「井関隆子の日記」と出ていた。CG作家作家らしいと感心した。

井関隆子校注『しのびね』考 入稿

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井関隆子校注『しのびね』(静嘉堂文庫蔵)考

 

目 次
一、 はじめに
二、 静嘉堂文庫所蔵本『しのびね』
〔1〕書誌
〔2〕『しのびね』本文の系統
〔3〕校注者・書写者・書写年
三、付加した頭注
〔1〕頭注の内容
〔2〕引用書目
〔3〕誤りの指摘
〔4〕語意・解釈
〔5〕脱字・脱文
〔6〕衍字・衍文
〔7〕俗語
四、付加した傍注
五、掲出された異本の本文
六、まとめ

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●今年、1月、岩坪健氏の『『しのびね物語』注釈』(二〇一五年一二月一五日、和泉書院発行)に出合った。底本が、どうも、井関隆子の書写本のようである。これでは、私が発言しない訳にはゆかないだろう。慣れない、擬古物語の『しのびね』である。
「忍音物語 一巻。擬古物語。作者未詳。【成立】『月詣和歌集』『和歌色葉』
に名が見え、『風葉和歌集』に和歌三首入集している古本『忍音物語』は
散佚して、現存するのはその古本を梗概化して、『風葉和歌集』撰進の文永
八年(一二七一)以後に成立したものであろう。」
(一九八四年、岩波書店『日本古典文学大辞典』桑原博史氏執筆)
●何とか、私見をまとめて、『近世初期文芸』第34号の原稿として、今日、入稿した。長生きすれば、このようなことにも出会う。今、世間では、寿命が延びて、定年の年齢を引き上げようか、と話題になっている。私は、定年退職後、10年が経過した。その感想は、今、定年後の10年が問われている、といことである。