『江戸期おんな表現者事典』

『江戸期おんな表現者事典』

  • 2019.11.27 Wednesday
〔井関隆子〕

【江戸期おんな表現者事典】
桂文庫編、柴桂子監修
2015年2月18日、現代書館発行

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隆子 天明五年(一七八五)~天保一五年
(一八四四) 享年六〇
日記・和歌・画。旗本庄田安僚の娘。八歳
で父に死別。母と兄安邦の手で育てられる。
学問好きな兄の影響で早くから古典に親し
んだ。二〇歳頃に結婚したが離婚し、三〇
歳頃、旗本井関親興の後妻となる。実子は
なく、養子親経を迎える。夫の没後、四〇
歳頃から本格的に古典、国学などを学ぶ。
政治・社会・風俗などに及ぶ広範囲な知識
欲で、五六歳の天保一一年(一八四〇)から
一五年までの五年間、日記を記す。子の親
経が一一代将軍徳川家斉の室広大院のかか
りを務めたこともあり、江戸城大奥の様子
や家斉の素顔、天保の改革などが、旗本家
の女性の目を通して綴られている。その背
景には膨大な読書量があり、新見正路(親
戚)や屋代弘賢らとの交流からも大きな影
響を受けている。「天保日記」のほか「神
代のいましめ」「さくら雄が物かたり」な
どの作品がある。法号、知清院。
〔参〕『井関隆子日記』『井関隆子の研究』
「天保改革期の一旗本女性の肖像」
(『女性の近世』)『旗本夫人が見た江戸
のたそがれ』    (柴・山口)

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●菊池眞一先生から教えて頂き、昨日、所沢市立図書館へ行って閲覧した。この事典の「刊行にあたって」を読むと、桂文庫主宰・柴桂子氏の情熱に対して敬意を表する。女性に参政権が与えられたのが、第二次世界大戦後のことを思えば、一事が万事、了解される。

●女性の占める文学部の比率を見て、女性が大学を滅ぼす、と叫んだ御仁もおられた。未だに、医学部では男女差別しているとも報じられている。そのようなことを思って、この編者に敬意を表する。

●それにしても、このような事典に〔井関隆子〕が収録されるようになって、45年前に、全く無名だった女性の『日記』に出会った私は感慨深い。

【はてなキーワード】 → 【はてなブログ・タグ】

【はてなキーワード】 → 【はてなブログ・タグ】

  • 2019.11.12 Tuesday
【はてなキーワード】 → 【はてなブログ・タグ】

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はてなブログ タグ とは?
はてなブログ タグでは、ある言葉についてネット上の意見や感想をさまざまな角度から知ることができる機能です。 はてなブログ・はてなブックマーク等の情報を活用しており、はてなブログをご利用の方も、そうでない方も、自分の興味のある記事を探せます。
たとえばこんなタグをチェック!
意味を知る
はてなブログ タグは、みんなで解説(編集)するWeb百科事典「はてなキーワード」の後継サービスです。気になる言葉のタグページを読めば、知りたいことについて少しだけ、詳しくなれます。
タグの説明文は、はてなキーワードの説明文を引き継ぎました。そのため、新しく作られたタグ(はてなキーワードに存在しなかった言葉)は、説明がありません。
今後登場タグ説明の編集が可能に!
今後、タグの説明を投稿したり、投稿された説明を編集できるようにアップデートする予定です。お楽しみに!

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●これによると、【はてなキーワード】が【はてなブログ・タ】に変わるらしい。私は、【はてなキーワード】に、立項し、執筆する資格を得るために,〔FUAKIの日記〕をせっせと着込んだ。そうして、かなりの数の項目を書き込んだ。【ウィキペディア】とは違って、書き込みの様式などが、自由だったので書き込みやすかった。

●途中で中断したので、再度、ログインするか、検討したい。

【はてなキーワード】の〔井関隆子日記〕

【はてなキーワード】 の 〔井関隆子日記〕

  • 2019.11.12 Tuesday
【はてなキーワード】 の 〔井関隆子日記〕

●今日、ネットで 【はてなキーワード】 の〔井関隆子日記〕を検索したら、末尾に、次のコメントがついていた。

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この解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

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●この項目は、私が執筆して投稿したものである。【はてなキーワード】は閉鎖したらしい。ネット上の百科事典も、経営は苦しいらしい。【ウィキペディア】も、時々、カンパを呼び掛けている。

●以下は、私の執筆した〔井関隆子日記〕である。

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井関隆子日記

(読書)

【いせきたかこにっき】

1、著者 井関隆子
井関隆子(いせき・たかこ) 幕末の旗本の主婦。天明5年(1785)6月21日出生〜天保15年(1844)11月1日没、60歳。
江戸・四谷表大番町で生れた。現在の新宿区大京町26の辺である。父は大番組・庄田安僚である。
隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本、庄田安信を祖とする庄田家の分家である。庄田本家の第3代安勝は長男安利に2千6百石を与え、次男安議に4百石を分知して、これを分家とした。
安議を祖とする分家の庄田家は、延宝5年(1677)3月、四谷表大番町に6百60坪余の屋敷を拝領した。隆子はここで生れ、育った。
父は、分家4代の大番組・庄田安僚で、隆子には、3人の兄、3人の姉、1人の妹がいた。
父・安僚は、隆子が8歳の時に没したので、隆子は母親と長兄・安邦の下で成長した。
20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、間も無く離婚し、しばらく実家にいたが、30歳の頃、納戸組頭・井関親興の後妻として井関家へ嫁いだ。
嫁ぎ先の井関家は、江戸城に近い九段坂下の飯田町にあった。これは、井関家が代々、小納戸組や広敷用人など、将軍の側近くに仕える家柄であったためである。
井関家に嫁いでからも、暫くは旗本の主婦として多忙であったと思われるが、12年後に夫・親興が没し、家督を子の親経が継いだので、家庭の切り盛りも、親経の妻が引き継ぎ、隆子は悠々自適の生活を送ることになる。このような生涯を見わたすと、家庭環境の上でも時間的にも、比較的に自由に、文筆の道に打ち込む事ができたものと思われる。
隆子は、古学を教える塾に学んだり、冷泉流の老女に歌の指導を受けたり、また、国学者の林国雄を家に招いて講釈を聞いたりしたようであるが、いずれも満足できるものではなかったようである。結局は、賀茂真淵や本居宣長などの国学関係の本を読んで、独学で古典の知識を身につけ、教養を蓄えていったものと推測される。
隆子の著作には、『井関隆子日記』『さくら雄が物かたり』『神代のいましめ』『いなみ野』などがある。
2、『井関隆子日記』(いせきたかこにっき)
幕末・旗本主婦の日記。著者の自筆の原本が、昭和女子大学図書館・桜山文庫に所蔵されている(鹿島則幸氏旧蔵)。大本、12冊、合計966葉、毎半葉11行、1行約29字、挿絵18図、鹿島則文・鹿島敏夫の識語を付す。
内容は、天保11年(1840)1月1日から同15年10月11日までの日記。著者56歳から60歳までの5年間であるが、毎日記されている訳ではなく、全1753日間の内、898日について記されており、1日の分量も小は2行程度のものから、大は12葉(24ページ)に及ぶものもあり、必ずしも一定していない。各年の分量は、最初の11年が最も多く4冊、以後は各2冊と半分になっている。これは、12年以後、年中行事などの記述を省いたためと推測される。
『日記』に書かれている具体的な内容は、日付、その日の天候、地震、四季折々の自然の変化、その日その日の出来事、様々な見聞、幼い頃や若い頃の思い出、人物・社会・政治・学問・文学等に対する批評、折々に詠じた和歌などが、著者の意のおもむくままに記されている。
特筆すべき点は、著者の子の井関親経(ちかつね)が、御広敷御用人を勤めていて、第11代将軍・徳川家斉の正室・広大院(松の殿)の係であったところから、当時の江戸城大奥の様子が詳細に伝えられていることである。

【テキスト】

『井関隆子日記』全3巻(深沢秋男校注、昭和53年(1978)11月30日〜昭和56年6月5日、勉誠社発行)

【参考文献】

○深沢秋男著『井関隆子の研究』(平成16年(2004)11月1日、和泉書院発行)
○音で読む『井関隆子日記』:物売り
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第32号 2015年3月刊行
○補遺2“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第32号 2015年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:鳥
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第31号 2014年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:天気の記述
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第30号 2013年3月刊行
○補遺“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第30号 2013年3月刊行
○『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第27号 2012年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述 補遺
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第28号 2011年3月刊行
○井関隆子の自然を見る目
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第27号 2010年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第26号 2009年3月刊行

●『井関隆子日記』は、次の大学入試に出題された。
〔3〕 平成23年度、京都大学入試に『井関隆子日記』出題
〔2〕 平成20年度、明治大学入試に『井関隆子日記』出題
〔1〕 平成11年度、センター入試に『井関隆子日記』出題

★詳細は → http://www.ksskbg.com/takako/index.html
■→「井関隆子日記」http://www.ksskbg.com/takako/index.html
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この解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。


〔井関隆子を知る会〕 開設

〔井関隆子を知る会〕開設

  • 2019.11.07 Thursday
「井関隆子を知る会」開設

●昭和女子大学コミュニティ に新しく「井関隆子を知る会」という掲示板を開設した。昭和女子大学図書館には、『井関隆子日記』をはじめ、関係資料が多く所蔵されているので、これらを知って貰いたいと言う意図のものである。その内容も、折々、こちらで紹介したいと思う。

【1】江戸博で『井関隆子日記』を御覧下さい。

●昨日、江戸東京博物館へ行って、特別展「江戸城」を見学して来た。素晴らしい展示会である。私など未見の資料が多く江戸博の質の高さを痛感した。

●桜山文庫所蔵の『井関隆子日記』が2箇所に展示されていた。畑尚子氏の適切な解説が付いていて、隆子の子の親経が、将軍家から賜った五葉松の盆栽の絵の部分が展示されていた。

●また、昭和女子大学の平井学長の御配慮かと思うが、昭和女子大学所蔵の弘化年間の江戸城の「大広間模型」も展示されていた。

●いずれにしても、このようにして、多くの一般の方々に『井関隆子日記』の原本を見て頂ける事は、誠に有難く、そこに「昭和女子大学所蔵」と出されていることも、おのずと、パブリシティとしての効果もあり、喜ばしい事だと思う。
2007/01/05(FRI) 07:56

【2】井関隆子と杉嶋カツイチ

●隆子は、天保期の一人の文化人として、かなり知られていたようである。従って当時の文化人との交流も多かった。ここでは、現在、余り知られていない、盲目の歌人・杉嶋カツイチを紹介致したい。

●杉嶋は名をカツイチ(一一=かずいち かという、吉海直人氏の説がある)は、勾当(検校の下、座頭の上の位)で、歌人としても良い歌を詠み、隆子のもとをよく訪れている。隆子は、この盲目の歌人を温かく迎え、『古事記伝』や『万葉集』を読んで聞かせている。また、著者未詳とされている『当道要録』は、どうも、この杉嶋の著作のようである。郷里は府中の六社あたりだという事はわかっている。

●この盲目の歌人を紹介するのは、天保14年11月5日に隆子の許を訪れて、前田夏蔭の文会に出す物語の執筆を依頼していて、この物語が、面白い内容であるためである。
●隆子は、木村定良・北村季文・蔵田茂樹・桑原やよ子・賀茂季鷹などとも交流があった。これらについても、おいおい紹介したいと思う。
2007/01/03(WED) 09:27

【3】 井関隆子の創作紹介・3 『いなみ野』

●この作品は同志社女子大学の吉海直人氏が発見された。吉海氏は古書店で『物かたり合』という写本を発見され、その中にこの作品が収録されていたのである。他の作者の作品19点と共に入っていた。隆子の作品の分量は5葉である。

●播磨の国の印南野(兵庫県加古川と明石川の間に広がる平野)に1人の男が住んでいた。6月の頃涼を求めて野原へ出かける。あちこちに秋の花の蕾が見られ、誠に風情がある。男は思わず一首口ずさむ。すると、どこからともなく、歌が返って来る。一段と高いススキ(尾花)の陰から美しい女性が現れる。男はススキが大好きで、野原に出てきたと伝えると、女性も感激して、2人はしばらく語り合う。やがて、男は女性の色香に惹かれて、つい言い寄ると、女性は「いな(否)」とのみ答えて姿を消してしまう。

●隆子は、草花の中では、ススキ・尾花が大好きであった。ススキこそ、草花の中の筆頭にあると評価している。その彼女の好みを作品化したものと、私は考えている。隆子は『日記』の中には、極めて現実的な事を書きとめているが、創作となると、非常に空想的な構想を使用している。彼女の創作的な才能の豊かさを示しているものと思う。

●この作品は、『同志社女子大学・日本語日本文学』第8号(1996年10月)と、私の『井関隆子の研究』に全文収録されている。是非、一度お読み頂きたい。
2006/12/31(SUN) 08:17

【4】 井関隆子の創作紹介・2 『神代のいましめ』

●原本は、昭和女子大学図書館・翠園文庫の「翠園叢書」巻26に収録されている。写本、半紙本、墨付28葉。佐渡の歌人・蔵田茂樹の子の茂時が書写して、佐渡奉行・鈴木重嶺に献上したものと推測される。

●この一編の冒頭に「武蔵野の原」とあり、「ならぶ国なくなん栄えたり」とあることから解るように、江戸がその舞台となっている。

●主人公は公事に従事する某の少将で、経済的にも地位の上でも、また家庭の中も全て満ち足りた生活をしている。ところが、この少将は、ある時、平公誠の歌「隠れ蓑隠れ笠をも得てしがな……」を見てから、隠れ蓑笠が無性に欲しくなる。近習に相談しても効果がないので、屋敷の内の大国神に祈願したところ、その甲斐があって、これを入手する事が出来る。この隠れ蓑笠に身をかくした少将は、無二の友や、少将の所へ出入りしている歌人や、家中の全てを任せておく家長や、深い契りを交わしている女性などの所へ行き、自分に対する様々の批評や批判、また世間の人々の予想外の行動に接し、驚き、怒り、悔しがる。

●そんな事を続けているうちに、長男に、隠れ蓑のみを着ているところ(首のみ見える状態)を見られてしまい、それを知った少将は、変な噂の立つのを恐れて、隠れ蓑笠を神に返す、というのが、この物語の荒筋である。

●この主人公は領地を広く持ち、将軍の覚えも第一で、世間の人々も少将に従い、全てが思いのままである。妻もしかるべき人の娘を迎え、子供も皆それぞれに立派に成人している。使用人も目やすい者を選び、遊びも雅びを好んで、歌合わせ・絵合わせなどが絶えない。住まいも立派で見所が多く、調度品も日本の物は勿論、唐の物まで集め、何不足ない生活ぶりで、少将自身「大方あかぬ事なき身」と言って、この生活に満足している。

●このように現実生活で、全ての面で満ち足りた日々を送っている人間が、次に望むことは、自分の身を隠すというような、超現実的な望みしか残っていない。主人公は、隠れ蓑笠を入手したいと願うようになり、もしその願いが実現出来たなら、自分の思う所へ行き、知らない人の側に立ち、世間の人々の有様を見て、「公の御ため後ろめだきことをも聞出」す事が出来るであろう、もしそれが実現できたなら、さらに満足であると思う。

●つまり、隠れ蓑笠に身を隠して、世の中を見て歩く理由として、幕府に対する陰での批判を聞き出す事をあげている。これは、政治を司っている老中クラスの人物としてみれば当然の事と言えるのであり、好色的な目的が第一であったであろうと推測される、平安朝の『隠れ蓑』とは大きな違いである。

●作者は、この一編を通して、人間の表裏の二面性を指摘し、最終的には、徳川幕府の政治の中心にある、首席老中・水野忠邦批判をしているのである。女性の作品としては、注目すべきものだと思う。
2006/12/24(SUN) 07:26

【5】井関隆子の九段坂下の屋敷

●井関隆子の嫁ぎ先の屋敷は、江戸城に近い九段坂下にあった。現在のりそな銀行九段支店の場所である。屋敷はおよそ500坪位だったと思われる。
北側は九段坂上から俎板橋への広い通りに面し、こちらに玄関があったものと推測される。西側は飯田町から清水門への通りに面していて、こちらの面の方が広かったようである。この西側の通りの向かい側には、井関家と親戚関係にある、新見正路の屋敷があった。現在の九段会館の場所である。東隣には榊原隠岐守の屋敷があり、南隣には能勢河内守の屋敷があった。
井関家の屋敷が、江戸城の近くにあるのは、井関家は代々、初めは小納戸衆という、将軍の身の回りの世話をする掛りであり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(将軍が政治を行う所)と大奥(将軍が私生活をする所)との接点である御広敷(おひろしき)の責任者になる、という家系であったからであろうと思われる。
隆子は、この江戸の中心の、文字通り将軍家のお膝元で、当時の江戸の様々な動きを見ていたのである。
2006/12/17(SUN) 12:23

【6】隆子の実家・庄田家の新宿の屋敷

●隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本庄田安信の本家からの分家である。本家は築地の東本願寺の近くに屋敷があったが、第4代・安勝の時、長男・安利に2600石、次男・安議に400石を分知して、これを分家とした。分家・庄田家の屋敷は『庄田家系譜』の延宝5年(1677)の条に「於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」とあり、場所は現在の新宿区大京町26番地辺で、幕末まで存続していたと思われる。現在の慶応大学病院の辺りと推測される。

●余談であるが、赤穂事件で、元禄16年2月4日、幕府は、大石良雄ら46名に対して切腹を命じるが、その時の大目付・庄田下総守は、本家4代・安利である。
2006/12/17(SUN) 12:17

【7】井関隆子の創作紹介 ・1 『さくら雄が物語』

●原本は、東北大学狩野文庫所蔵、自筆本、全39葉。
主人公・桜雄は、荏原の君と桜の木の精との間に生まれた男の子でおるが、花のように香り、光源氏のように美しく、その評判は江戸中に広まりまった。成人すると求婚者が次々とあらわれ、親は豊かになって喜ぶが、桜雄は全ての相手を拒絶して、桜の花の咲き乱れる頃、愛宕山の川に投身して死んでしまう。その川をいつからか桜川と呼ぶようになった。

●この作品は、『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』などの構想をかりて創られた物語である。天保9年(1838)、隆子が54歳の時の成立である。

●この作品は、『竹取物語』のかぐや姫(女性)の位置に、桜雄(男性)をおいて、天保期の仏教界の腐敗ぶりを徹底的に批判したもので、作者の厳しく烈しい批判精神を伺うことができる。
2006/12/17(SUN) 12:05

【8】歴史における事実と虚構

●本日、12月16日、歴史文化学科の「文化史学会」で「歴史における事実と虚構―『井関隆子日記』の記述から」と題して、お話しさせて頂いた。同学会の諸先生、歴史文化学科の学生の皆さんが参加して下さった。さらに驚いたのであるが、いつも、お世話になっている図書館の皆さんが聞きに来て下さった。これには感謝している。図書館の方々にも昭和女子大学所蔵の資料に関心を持って欲しいと願っている。

●このようにして、少しでも多くの方々に、この『日記』や、その著者の事を知って頂ければ、有難いことだと感謝している。
2006/12/16(SAT) 19:33

【9】『井関隆子日記』 江戸博へ

●昭和女子大学図書館・桜山文庫所蔵の『井関隆子日記』が東京江戸博物館の特別展〔これを見ずして江戸は語れない 江戸城〕に出品展示される予定である。なかなか閲覧できない貴重本であるから、是非、会期中に江戸博へ足を運んで頂きたい。

●江戸東京博物館の、この特別展は、平成19年1月2日~3月4日 に開催される。アクセスは、JR総武線 両国駅西口、都営地下鉄 大江戸線 両国駅A4出口 である。詳細は私のHP「近世初期」の「近世文学関係ニュース」を御覧頂きたい。 →http://www.ksskbg.com/
2006/12/14(THU) 10:51

【10】井関隆子の批評精神

井関隆子(いせきたかこ)が世間に少し知られてきたのは、平成11年度の大学入試センター試験の、本試験の国語Ⅰ・Ⅱの古文に『井関隆子日記』が採り上げられてからである。
しかし、私と隆子との出会いは、もう30年も前になる。鹿島神宮宮司家・67代の鹿島則文のコレクション・桜山文庫の中に,桐箱入り・全12冊の自筆の『日記』を発見した時から彼女との付き合いが始まった。
この全く無名の著者の『日記』を初めて読んだ時、大変驚いた。『日記』は幕末の天保11年(1840)から5年間に亙って書かれていたが、そこには、徳川11代将軍・家斉、12代・家慶、13代・家定の名が所々に出てきて、しかも将軍家の動静がかなり詳しく書かれていたからである。
隆子は江戸城に近い九段坂下に住んでいた。夫は、この時すでに他界していたが、子の親経は御広敷御用人を勤め、家斉の正室の広大院の掛をしていた。孫の親賢も家慶の御小納戸を勤め、後には御広敷御用人となり、和宮の掛となっている。
井関家は、代々、初めは将軍の身の回りの世話をする掛であり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(政治を行う所)と大奥(将軍の私生活の場)との接点である御広敷の責任者になる、そんな家柄であった。隆子は将軍家へ仕える子や孫から、毎日、江戸城中での出来事を聞き、それを『日記』に書さ残していたものと推測される。
一例を紹介すると、将軍・家斉は天保12年閏1月30日に他界した、というのが、現在でも定説になっている。しかし、隆子は、閏1月7日に家斉が没した事を記している。徳川家の正史ともいうべき『徳川実紀』には虚構があり、一女牲の日記に真実が伝えられていると言う訳である。隆子は、当時の女性としては珍しく、広い視野の持ち主で、その興味は、歴史・文芸・文化・政治・社会と多方面に亙っている。国学者の鹿島則文は、最初、男性の日記かと間違えた程である。そして、単に興味を示すに止まらず、それらに、ことごとく論評を加えているが、その批評は極めて厳しく、しかも的確なものが多いのである。
隆子が的確な批判をする事が出来たのは、彼女自身、広く古典を渉猟し、豊かな学識を備えていて、人間を歴史の流れの中でとらえるという、視点を持っていたからだと思う。その上、親経・親賢父子から、江戸城内の様子や幕政等に関する正確な情報を得ていた事も関係しているように思う。
首席老中・水野忠邦は、家斉没後、天保の改革に着手し、強引な政策を実行しているが、隆子はこれらを手厳しく批判している。そこに、彼女の老いてますます衰えることのない批評精神を見る事ができる。
2006/12/13(WED) 23:14

【11】『井関隆子日記』 との出会い

●昭和47年、恩師・重友先生の使いとして、桜山本『春雨物語』を返却するため、鹿島則幸氏の御自宅へお伺いした。用件が済んだ時、鹿島様は「こんなものもございますが」と言って、桐箱入りの12冊の写本を見せて下さった。私の専攻は近世初期の仮名草子であり、幕末の名も無い女性の日記に手を着けるのは、憚られた。しかし、初めから読み進めるうちに、その文体と内容に、グングン惹かれていった。

●岩波の『国書総目録』は書名を「天保日記」とし、著者は「井筒隆女」から「井筒隆」へと変更していた。女性の日記か、男性の著作か、それさえはっきりはしていなかったのである。

●『日記』を読みながら、著者の調査も進めた。幕末の旗本の妻であり、「井関隆子(いせき たかこ)」と言う女性である事が明らかになっていった。もともと出版社の要請で原稿作成に着手したのであるが、オイルショックで企画は中止となってしまった。しかし、その時、私は、この『日記』のトリコになってしまっていた。

●勉誠社に頼み込んで、全3冊の校注を終えるまでに8年間の年月を費やした。仮名草子研究者としては、8年間の寄り道だったのである。
2006/12/13(WED) 08:09

【12】『井関隆子日記』 とは?

●昭和女子大学図書館の桜山文庫に、桐箱入りの、12冊の写本が所蔵されている。これは、幼名・庄田キチ、後に井関隆子の自筆の日記である。天保11年(1840)から5年間に亙る日記で、隆子が55歳から60歳で没するまで書き記したものである。

●隆子は、55歳の正月、老いの身として、これと言って為す事もない、手持ち無沙汰な日々の自分の心遣りとして日記を書き始める。『日記』は年老いた女性の心の発散の場として出発している。

●しかし、生来の批評精神の旺盛な彼女の、目に触れ、耳にする天保の時代は、極めて興味深い現実の連続だったのである。そこから、『日記』に書かれる内容に変化が生じてくる。

●このように、この女性の日記には、極めて主観的な心の発散と、結果的には、その対極にある、この天保期の社会の動き、政治的な変動の裏面をも伝えることとなった。

●私たちは、この一人の幕末の旗本夫人の日記を読む時、江戸時代の人々の生活の様子を多く学ぶことになる。
2006/12/13(WED) 00:47

【13】井関隆子は幕末の旗本夫人

●井関隆子は、天明5年(1785)に江戸の四谷で生まれた。現在の慶応病院のあたりである。この辺は当時は、大番衆という、江戸城などを警護する旗本が住んでいた。隆子の実家は庄田家で、代々、江戸城や大坂城の警備を担当する家系であった。隆子は、天保15年(1844)に60歳で没している。

●20歳の頃、松波に嫁いだが、事情があって間もなく離婚した。その後、実家で本を読んだり、和歌を作ったりしていたが、30歳の頃、今度は井関親興(いせき・ちかおき)と再婚した。そこで、井関隆子になった訳である。

●井関家は、実家の庄田家とは異なり、江戸城に近い九段坂下の飯田町に屋敷があった。井関家は、代々、将軍の近くに使える役目の家柄だったので、お城の近くに屋敷を拝領していたのである。およそ350坪位の広さだった。現在の九段会館の前あたりである。ここで、人生の後半の、およそ30年間を過ごした。
2006/12/11(MON) 19:30

【14】井関隆子(いせき・たかこ) について

●井関隆子と言っても、あまり知られていない。私が初めてこの女性の日記に出会ったのは、もう30年以上前であるが、その時、「名前はまだ無い」であった。ナツケ親は私である。漱石ではない。何年も調査を重ねた結果、ようやく「いせき・たかこ」の名前を付ける事が出来た。

●昭和女子大学には、井関隆子の自筆の日記が所蔵されている。昭和の関係者に、少しでも、この女性を知って頂きたいと思って、掲示板を新設た。今後、この女性に関する事を書き込んで行きたいと思う。皆様の御意見や御質問が寄せられる事を、楽しみに待っている。
2006/12/11(MON) 14:03

井関隆子 ウィキベディア 増補

井関隆子 ウィキペディア 増補

  • 2019.11.01 Friday

●今日、【ウィキペディア】の〔井関隆子〕の項の、「参考文献」の項を増補した。

参考文献

『井関隆子日記』全3巻、深沢秋男校注、勉誠社、1978年11月 – 1981年6月。
ドナルド・キーン「井関隆子日記 ①・②・③(百代の過客―日記にみる日本人―)」朝日新聞、1984年4月4日 – 6日
深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』文春新書、2007年11月
真下英信『古代ギリシア史論拾遺』私家版、2008年2月
真下英信「『井関隆子日記』に見られる地震の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』26号、2009年3月
真下英信「『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』29号、2012年3月
真下英信「音で読む『井関隆子日記』:天気の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』30号、2013年3月
真下英信「音で読む『井関隆子日記』:鳥」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』31号、2014年3月
真下英信「音で読む『井関隆子日記』:物売り」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』32号、2015年3月
真下英信「『井関隆子日記』が綴られた頃の江戸の天候について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
真下英信「『井関隆子日記』天保15年4月29日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
真下英信「『井関隆子日記』 月の初日と末日の記述について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
真下英信「『井関隆子日記』天保11年7月3日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
深沢秋男「井関隆子校注『しのびね』(静嘉堂文庫蔵)考」『近世初期文芸』34号、2017年12月
真下英信「井関隆子の防災意識に学ぶ」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』35号、2018年3月
深沢秋男「『井関隆子日記』の日付訂正」『芸文稿』11号、2018年7月

ススキ。。。 昭和女子大学の

ススキ。。。 昭和女子大学の

  • 2019.10.31 Thursda
ススキ。。。 昭和女子大学の

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二十四節気「霜降」を迎えていますが、今日はぽかぽか汗ばむ陽気です。グラウンドでは日の光に透けたススキが黄金色に輝いています。
#昭和女子大学 #setagayagram

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●井関隆子は、ススキを、こよなく愛でた。秋も冬も春も夏も。そんな歌人は見当たらない。


考証随筆と『井関隆子日記』

考証随筆と『井関隆子日記』

  • 2019.10.29 Tuesday
考証随筆と『井関隆子日記』

●私は、長い研究生活を振り返ると、研究テーマに行き詰まり、日々を空無に過ごした時もあった。私は、近世初期の文芸の研究を目指してきたが、江戸文芸、江戸文化に関して、やや手薄だった。江戸の雑学に関して、不足していたのである。

●この空無の時間に、江戸後期の、考証随筆を、一渡り読んだ。来る日も、来る日も、これらの考証随筆を読んだ。『瓦礫雑考』・『還魂紙料』・『嬉遊笑覧』・『近世女風俗考』・『骨董集』・『書檜贅筆』・『用捨箱』・『擁書漫筆』・『柳亭記』・『柳亭筆記』・『歴世女装考』などなど、その一例に過ぎないが、これらを毎日読んだ。

●これらの考証随筆は、知識的な点では有効ではあったが、読み物としては、面白くない。そのような時代に書かれた『井関隆子日記』も時として、事物起源的な興味に惹かれて言及することはある。しかし、彼女は、深入りはしない。文学作品としての配慮がなされているのである。

井関隆子  いせき たかこ

井関隆子 いせき たかこ

  • 2019.10.17 Thursday

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

井関 隆子(いせき たかこ、1785年(天明5年)6月21日 – 1844年(天保15年)11月1日)は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した女流歌人、日記作者、物語作者。

目次
• 1来歴
• 2著書
• 3書写本
• 4脚注
• 5参考文献

来歴

幕臣、大番組・庄田安僚の四女として、四谷表大番町(現在の新宿区大京町26の辺)に生れる。20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、23歳の頃に離婚。30歳の頃、納戸組頭・井関親興と再婚、2人の間に子は無かった。井関家の屋敷は、九段坂下(現在の千代田区九段1-5の辺)にあった。文政9年(1826年)に夫が没し、以後は、本を読み、歌を詠じ、日記や物語を書いて悠々自適の生涯を送ったという[1]。

著書

• 『井関隆子日記』全12冊
著者の自筆本が、昭和女子大学図書館に所蔵されている。天保11年1月1日から同15年10月11日までの900日間の日記。その日の天候、地震、四季折々の自然の変化、その日その日の出来事、様々な見聞、人物・社会・政治・学問・文学などに対する批評などが記されている。特に、子の親経や孫の親賢から伝えられる、江戸城内の様子が詳細に書き留められている。江戸時代の日記文学としても価値があり、また、当時の歴史的資料としても価値がある[1]。
• 『さくら雄が物かたり』 6巻1冊
著者の自筆本。東北大学附属図書館・狩野文庫蔵。内容は、平安朝の『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』などの構想を借りて、現実の仏教界を厳しく批判したものと解釈される[2]。
• 『神代のいましめ』写本、墨付28葉
昭和女子大学図書館所蔵の、鈴木重嶺の「翠園叢書」の、巻26の中に収録されている。内容は、平安朝の散逸物語『隠れ蓑』などに構想を得て創られた物語で、首席老中批判を通して、人間の表裏の二面性を描いている[1]。
• 『いなみ野』吉海直人氏所蔵の写本『物かたり合』墨付54葉の内、5葉
播磨の国、印南野を舞台にした物語である。隆子は、すすき・尾花が大好きで、その思いを作品化したものと思われる[3]。
• 『井関隆子長短歌』
『秋野の花』に短歌が収録されている。その外、『井関隆子日記』にも800首ほどの、長歌・短歌が収録されてい
• 『しのびね』写本、1冊、静嘉堂文庫蔵。擬古物語。井関隆子が、頭注、傍注を追加したもの。書写も井関隆子と推測される。
• 深沢秋男「井関隆子校注『しのびね』(静嘉堂文庫蔵)考」(『近世初期文芸』34号)。

書写本

1. 桑原やよ子著『宇津保物語考』 写本1冊、静嘉堂文庫蔵。
2. 蔵田茂樹著『恵美草』 写本1冊、国立国会図書館蔵。
3. 吉田兼好著『徒然草』 巻子本1巻、箱に「雅文 源隆子」とあり、『徒然草』第15段、第189段の書写[4]。

脚注

1. ^ a b c 深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
2. ^ 新田孝子「井関隆子の文芸―館蔵『さくら雄が物かたり』の著者」(『図書館学研究報告』東北大学、13号、1980年12月)
3. ^ 吉海直人「新出資料『物かたり合』の翻刻と解題―井関隆子周辺の創作活動―」(『同志社女子大学 日本語日本文学』8号、1996年10月)
4. ^ 吉海直人「〈新出資料〉井関隆子自筆『雅文』の影印と解題と紹介」(『文学研究』91号、2003年4月)

参考文献

• 『井関隆子日記』全3巻、深沢秋男校注、勉誠社、1978年11月 – 1981年6月。
• ドナルド・キーン「井関隆子日記 ①・②・③(百代の過客―日記にみる日本人―)」朝日新聞、1984年4月4日 – 6日
• 深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
• 深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』文春新書、2007年11月
• 真下英信『古代ギリシア史論拾遺』私家版、2008年2月
• 真下英信「『井関隆子日記』に見られる地震の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』26号、2009年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』29号、2012年3月
• 真下英信「音で読む『井関隆子日記』:天気の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』30号、2013年3月
• 真下英信「音で読む『井関隆子日記』:鳥」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』31号、2014年3月
• 真下英信「音で読む『井関隆子日記』:物売り」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』32号、2015年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』が綴られた頃の江戸の天候について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』天保15年4月29日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』 月の初日と末日の記述について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
• 真下英信「『井関隆子日記』天保11年7月3日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
• 真下英信「井関隆子の防災意識に学ぶ」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』35号、2018年3月
• 深沢秋男「『井関隆子日記』の日付訂正」『芸文稿』11号、2018年7月

典拠管理
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• CiNii: DA04267090
• GND: 1029300984
• ISNI: 0000 0000 8439 7519
• LCCN: n79051546
• NDL: 00621867
• VIAF: 35729939

カテゴリ:
• 日本の女性歌人
• 江戸時代の女性
• 江戸時代の歌人
• 江戸時代の文人
• 武蔵国の人物
• 1785年生

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井関隆子日記   【はてな キーワード】

読書

井関隆子日記 いせきたかこにっき

目次

• 井関隆子日記とは

1、著者 井関隆子

井関隆子(いせき・たかこ) 幕末の旗本の主婦。天明5年(1785)6月21日出生~天保15年(1844)11月1日没、60歳。
江戸・四谷表大番町で生れた。現在の新宿区大京町26の辺である。父は大番組・庄田安僚である。
隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本、庄田安信を祖とする庄田家の分家である。庄田本家の第3代安勝は長男安利に2千6百石を与え、次男安議に4百石を分知して、これを分家とした。
安議を祖とする分家の庄田家は、延宝5年(1677)3月、四谷表大番町に6百60坪余の屋敷を拝領した。隆子はここで生れ、育った。
父は、分家4代の大番組・庄田安僚で、隆子には、3人の兄、3人の姉、1人の妹がいた。
父・安僚は、隆子が8歳の時に没したので、隆子は母親と長兄・安邦の下で成長した。
20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、間も無く離婚し、しばらく実家にいたが、30歳の頃、納戸組頭・井関親興の後妻として井関家へ嫁いだ。
嫁ぎ先の井関家は、江戸城に近い九段坂下の飯田町にあった。これは、井関家が代々、小納戸組や広敷用人など、将軍の側近くに仕える家柄であったためである。
井関家に嫁いでからも、暫くは旗本の主婦として多忙であったと思われるが、12年後に夫・親興が没し、家督を子の親経が継いだので、家庭の切り盛りも、親経の妻が引き継ぎ、隆子は悠々自適の生活を送ることになる。このような生涯を見わたすと、家庭環境の上でも時間的にも、比較的に自由に、文筆の道に打ち込む事ができたものと思われる。
隆子は、古学を教える塾に学んだり、冷泉流の老女に歌の指導を受けたり、また、国学者の林国雄を家に招いて講釈を聞いたりしたようであるが、いずれも満足できるものではなかったようである。結局は、賀茂真淵や本居宣長などの国学関係の本を読んで、独学で古典の知識を身につけ、教養を蓄えていったものと推測される。
隆子の著作には、『井関隆子日記』『さくら雄が物かたり』『神代のいましめ』『いなみ野』などがある。

2、『井関隆子日記』(いせきたかこにっき)

幕末・旗本主婦の日記。著者の自筆の原本が、昭和女子大学図書館・桜山文庫に所蔵されている(鹿島則幸氏旧蔵)。大本、12冊、合計966葉、毎半葉11行、1行約29字、挿絵18図、鹿島則文・鹿島敏夫の識語を付す。
内容は、天保11年(1840)1月1日から同15年10月11日までの日記。著者56歳から60歳までの5年間であるが、毎日記されている訳ではなく、全1753日間の内、898日について記されており、1日の分量も小は2行程度のものから、大は12葉(24ページ)に及ぶものもあり、必ずしも一定していない。各年の分量は、最初の11年が最も多く4冊、以後は各2冊と半分になっている。これは、12年以後、年中行事などの記述を省いたためと推測される。
『日記』に書かれている具体的な内容は、日付、その日の天候、地震、四季折々の自然の変化、その日その日の出来事、様々な見聞、幼い頃や若い頃の思い出、人物・社会・政治・学問・文学等に対する批評、折々に詠じた和歌などが、著者の意のおもむくままに記されている。
特筆すべき点は、著者の子の井関親経(ちかつね)が、御広敷御用人を勤めていて、第11代将軍・徳川家斉の正室・広大院(松の殿)の係であったところから、当時の江戸城大奥の様子が詳細に伝えられていることである。

【テキスト】

『井関隆子日記』全3巻(深沢秋男校注、昭和53年(1978)11月30日~昭和56年6月5日、勉誠社発行)

【参考文献】

○深沢秋男著『井関隆子の研究』(平成16年(2004)11月1日、和泉書院発行)
○音で読む『井関隆子日記』:物売り
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第32号 2015年3月刊行
○補遺2“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第32号 2015年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:鳥
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第31号 2014年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:天気の記述
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第30号 2013年3月刊行
○補遺“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第30号 2013年3月刊行
○『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第27号 2012年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述 補遺
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第28号 2011年3月刊行
○井関隆子の自然を見る目
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第27号 2010年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第26号 2009年3月刊行

●『井関隆子日記』は、次の大学入試に出題された。

〔3〕 平成23年度、京都大学入試に『井関隆子日記』出題
〔2〕 平成20年度、明治大学入試に『井関隆子日記』出題
〔1〕 平成11年度、センター入試に『井関隆子日記』出題

★詳細は → http://www.ksskbg.com/takako/index.html
■→「井関隆子日記」http://www.ksskbg.com/takako/index.html

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●「井関隆子」の項目は、【ウィキペディア】も【はてなキーワード】も共に、私が立項し、執筆した。【ウィキ】は初めて項目を立てたので、要領がよくわからず、どこかの方に、修正してもらって、ようやく登録できた。

●私は、昭和47年(1972)、鹿島則文の桜山文庫の中の写本12冊の『日記』に出会った。47年前のことである。仮名草子研究を中断して、世に送り出した。もちろん、日記文学である、という自信があった。

●しかし、この『日記』が、日記文学として認められるまでには、かなりの時間を必要とした。現在、近世文学の中の日記文学として、ほぼ、認められた。見識のある多くの方々の御配慮によるものである。長生きをすれば、こんな御褒美も貰える。 〔真理がわれらを自由にする〕

2019年10月17日


奥向研究の現状と課題

奥向研究の現状と課題

  • 2019.10.05 Saturday
奥向研究の現状と課題

●都立大学、首都大学東京の『メトロポリタン史学』第9号(2013年12月)に、福田千鶴氏の「奥向研究の現状と課題」が掲載されている。

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1、女性史からジェンダー史への進展
2、奥向研究の三つの動向
3、今後の奥向研究の展望
まとめ

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●この中で、福田氏は、次のような指摘をしておられる。

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「・・・こうしたシリーズ以外での個別女性史研究はそれなりに進んでいるが、とりわけ井関隆子・吉野みち・天璋院篤姫・浅井江などの研究が進展した。前二者は良質の史料に恵まれた研究といえようが、後二者はNHKの大河ドラマに触発されての研究、と指摘できよう。篤姫は二〇〇八年、江は二〇一一年であり、他にも春日局(一九八九年)、前田利家の妻まつ(二〇〇二年)、山内一豊の妻千代(二〇〇六年)が取り上げられ、その都度、関連著作が出版されて人物史が深められた。ただし、その一方で二次的な文献などに基づいたステレオタイプな人物伝が粗製濫造され、それらに埋没する形で良質な史料に基づいて示された研究成果が顧みられない弊害が出るなど、問題も多い。・・・」

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●近世女性史の中で、井関隆子の研究が着実に進められていることが指摘されている。

渡辺憲司ブログ

渡辺憲司ブログ

  • 2019.10.02 Wednesday
渡辺憲司ブログ

133回 夜長月日録
2019年9月14日

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9月14日。自由学園リベラルアーツ学会で研究発表。
75歳での研究発表は、たぶん最後。講演とはまったく緊張感が違った。終わると不整脈、それでも懇親会二次会と久しぶりの痛飲、翌朝宿酔。「江戸期環境文学への視座―印旛沼と井関隆子日記を中心に」と題したが、江戸期における環境文学の構想に時間を使いすぎ隆子の旗本夫人としての日記の個性などを述べる時間がなかった。反省のみ残る発表だった。印旛沼訪問記としてこのブログで別記したい。

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●自由学園、最高学部長の渡辺憲司先生のブログで、井関隆子の事について、言及されていた。このように、多くの研究者に認められることは、非常に嬉しい。