井関隆子と杉嶋カツイチ

●隆子は、天保期の一人の文化人として、かなり知られていたようである。従って当時の文化人との交流も多かった。ここでは、現在、余り知られていない、盲目の歌人・杉嶋カツイチを紹介致したい。
●杉嶋は名をカツイチ(一一=かずいち かという、吉海直人氏の説がある)は、勾当(検校の下、座頭の上の位)で、歌人としても良い歌を詠み、隆子のもとをよく訪れている。隆子は、この盲目の歌人を温かく迎え、『古事記伝』や『万葉集』を読んで聞かせている。また、著者未詳とされている『当道要録』は、どうも、この杉嶋の著作のようである。郷里は府中の六社あたりだという事はわかっている。
●この盲目の歌人を紹介するのは、天保14年11月5日に隆子の許を訪れて、前田夏蔭の文会に出す物語の執筆を依頼していて、この物語が、面白い内容であるためである。
●隆子は、木村定良・北村季文・蔵田茂樹・桑原やよ子・賀茂季鷹などとも交流があった。これらについても、おいおい紹介したいと思う。
2007/01/03(WED) 09:27

●●これは、以前、昭和女子大学の私の【日録】に書き込んだものである。隆子は、この盲目の歌人に、あたたかく接し、交流を続けていた。彼女の人となりが、しのばれる。

井関隆子の人と文学――近世後期・一旗本女性の生涯――

報告者 国語国文学科教授  深沢秋男氏

昭和女子大学女性文化研究所、第5回研究会(通算49回)
日時=1994年12月6日(火) 15:00-16:30
会場=光葉庵

近世初期の仮名草子がご専門の深沢氏は、あるきっかけから、個人蔵書に眠っていた、近世後期の一旗本女性の書いた日記を発見した。以来、氏はこの日記に取り組み、綿密な校訂を行うとともに、著者の名前にちなんで『井関隆子日記』と命名し、全三巻本として公刊した。この仕事に費やした歳月を、氏は「十年間の寄り道」と表現しておられる。
こうして世に送り出された『日記』は、ドナルド・キーン氏によって、朝日新聞紙上で高く評価され、文学作品として、また最近では女性史の史料としても注目を浴びている。 隆子に関する研究が盛んになる中、資料の発見者である深沢氏は、これまで『日記』の内容や評価についての発言は控えてこられたのであるが、このたび、当研究所の研究会において、発見者自らが初めて語るというかたちでお話しいただいた。テーマは「井関隆子の人と文学」。『日記』だけにとどまらず、他の作品をも含めた著者の全体像を探る意味で設定されている。
氏のご報告は、①「井関隆子の生涯」②「井関隆子の文学」③「作品に見る隆子像」の3部で構成され、①では一度縁談が壊れた後、裕福な旗本井関親興の後妻となり、夫の死後は義子や孫夫婦にかしずかれ、晩年5年間に『日記』を書いて60歳で没した生涯を、史料を基に実証的に説明し、②では『日記』以外の作品、『さくら雄が物語』『神代のいましめ』という隆子作の2つの物語が紹介された。
③は、いよいよ中核部分の『日記』についてである。当日は、本学図書館に所蔵されている『日記』の原本全12冊を借用し、出席者一同に回覧された。雅文体の見事な筆跡は、ほとんど書き間違いがなく、ミスは、全61万字中わずか10数カ所にとどまるという。また細密画を思わせるその挿し絵からは、洗練の極に達したという、化政期江戸文化の名残が感じられた。『日記』の内容は、身辺の雑事ではなく、当時の社会情勢や風俗が記されて史料価値が高いとともに、これらに対する隆子の見解がはっきりと示されて、全体が著者の思想の披瀝となっている。女性には、稀な日記である。
深沢氏は、本文を抜粋して実際に読み上げながら、部分毎に他の研究者の解釈を紹介した後、氏ご自身の見解を提出した。中でも印象的だったのは、「天保十一年二月十二日」の項である。氏はここで、隆子は日記がいずれ公開されるだろうことを予測し、読者を意識して書いていると明言された。著者の秘めた願いを見抜いたればこそ、深沢氏は十年の歳月をこの仕事にかけたのである。事実、『日記』は隆子の言う500年を待つことなく、140年後に公刊された。
最後に氏は、井関隆子像を次の5点に纏めた。①批評精神のある女性であること。これは隆子の資質であり、拠り所となっているのは、豊かな学識と鋭い感性である。古典に暁通していたその学識は、一説には夫の死後勉強を始めたというが、そんな一朝一タに出てきたものではなく、若い頃からの蓄積があったはずである。②しっかりした歴史観、人間観を持っている。従って、生きた人間が把握されている。③『日記』は感傷を排除して書かれており、隆子は理知的な性格であったと思われるが、その底流には激しいものを秘めていたであろう。④自分の考えを素直に表現している。⑤『日記』の話題の広さから見て、旺盛な好奇心を持っていた。以上、井関隆子を知る事、発見者が一番深いと思われる結びであった。
質疑応答では,女は無知文盲なるが好しとされていた時代、隆子が政治や社会に関心をを持ち、自分の意見を表明出来たのは何故かという質問がなされた。深沢氏は、後妻とはいえ「母」の地位の高さであるとして、井関家の当主である子や孫が、江戸城から帰宅すると、母上にその日の出来事を報告する様を描写して見せた。隆子の学識は尊敬されていたのである。また、酒好きだったことや、妙な探求心を発揮する、隆子のユーモラスな一面も紹介された。
隆子はその晩年の日々を、『日記』を書く事に没頭した。『日記』の最後の日付けから20日後、隆子はこの世を去った。いかに死ぬかは、人がいかに生きたかを問われる最後の機会という。後世に残る作品に費やした隆子の豊かな晩年は、われわれに生きる勇気を与えてくれる。実り多い研究会であった。 (文責・塩谷千恵子)
(『昭和女子大学女性文化研究所 ニューズレター』№20。1995年6月25日発行)

【深沢追記】
このレポートをまとめて下さったのは、当時、女性文化研究所の研究員だった、塩谷千恵子氏である。塩谷氏は、『近世初期文芸』第15号(平成10年12月)に「家族物語としての『山椒太夫』(一)――説経正本間の推移――」などを発表されていた研究者で、時々、私の研究室に見えられていた。
そんな折に、『井関隆子日記』が話題になり、井関隆子とは、どんな女性ですか、この日記は、どの程度の価値があるのですか、そんな質問をされた。そう言われてみると、私は、この女性の特色や、この日記の価値について、余り発言してこなかった。発見者の私が、自分から、このくらいの価値の日記だとか、優れた内容の日記だとか発言するのは、自重すべきだと考えて慎んでいたからである。
10年間、この日記に時間を消費した、その行動で判断して欲しいとも思ったし、私の小さな才能で、この日記の価値を限定すべきではない、そう考えたからである。
塩谷氏は、是非、女性文化研究所の研究会で、本音を話して欲しい、そう依頼されて、腹をくくったのである。当日は、大学院の長谷川強先生や、日本文学科の杉本邦子先生、大塚豊子先生もお出で下さり、恐縮しながら、発表させて頂いた。
これは余談であるが、後に、文春新書から、『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』を出した時は、余りに褒めすぎて、読者からきついコメントを頂いた。
今日、屋根裏の物置を整理していて、この冊子が出てきたので、紹介することにした。
(平成27年3月)

『井関隆子日記』の評価

●今、井関隆子の、校訂、校注した、古物語の『しのびね』を読んでいる。素養豊かな女性が、幕末に居たことを再確認した。私など、足許にも及ばない。

●鈴木よね子氏は『日本女性文学大事典』に収録された「近世女性文学の概観」を、1 漢詩、2 俳諧と出家と、3 和歌とジェンダー、4 文章、の4章に分けて、その、「四 文章」の中で、

「近世は、漢詩と同じく文章の時代でもある。近世の女性たちは数多くの短編の紀行文を残した。また、『独考』『井関隆子日記』のような思索を交えた自在な長編の文章も書き残すようになった。」

と述べられ、『井関隆子日記』に関しては、次の如く評価しておられる。

「第四に挙げる作品は、旗本女性井関隆子(一七八五~一八四四)による『井関隆子日記』である。天保一一年から一五年までの五年間、変化しつつある社会を政治も含めて見聞し、また多くの書物を読み、それらについて思索しながら膨大な日記を書き続けた。その文体は町子や麗女と相違して、和文である必要性はなかった。平易でありながら行き届いたものであり、近世における女性の随想文の一つの到達点としても良いだろう。思索の内容は、政治社会論や女性論に注目すべきものがある。」

『井関隆子日記』の文章は、決して、当時の国学者の多用した擬古文ではない。言ってみれば、古代語ではなく、近代語の文章なのである。これが、文学史的には価値のあることである。そのように、私は考えて、この日記を評価したのである。

花月草紙と記せるふみ六巻あり。こをある人の貸したりけるを見るに、……従四位少将定信ぬしの物せられし文也。……もとより、漢才ありて、手などよく書かれしと聞けば、おのづから唐心になづみたることもまじれれど、猶、一トふしありて、近き世に、いにしへ学びとて、物する人の文に似ず、はた、雲の上人の筆のすさびにもたがひて、一つの姿あり。……

●隆子は、松平定信の『花月草紙』の文章をこのように評価している。本居宣長などの国学者が多用した擬古文や、雲上人の文章をも意識して、自分らしい文章を書いていたのである。樋口一葉の初期の日記とほとんど変わらない文章である。

井関隆子の足跡

●●今、私は、静嘉堂文庫所蔵の、写本1冊『しのびね』を目の前にして、幕末天保期に江戸、九段下に住まい、日本の古典に向き合っている1人の女性に対し、畏敬の念を懐く。

●●人は、死をもって、この世から去り、何百億という、ケシ粒の1つとなって、忘れ去られてゆく。その中の、ごく一部の人が、歴史の上に、その名を留める。それは、生きている時、何を創り、それがどのように記録されたか、そうして、それらが、どのようにして、伝えられたか、という事であろう。
●●現役の頃、大学の私のサイトに書き込んだ日録がある。井関隆子の伝記に関する、第一資料『庄田家系譜』についてである。庄田家の系譜は、正本と副本がある。正本は、巻子本仕立で、第2次世界大戦の時も、東京にあって、御子孫によって守り続けられ、戦後は、銀行の貸金庫に保管されて守られてきた。井関隆子の伝記に関して研究する私達は、庄田家第11代安豊氏と、その実母、井下澄江氏の、御先祖を敬愛する姿勢に対して、感謝しなければならない。
●●第11代安豊氏は大妻女子大学教授であったが、『井関隆子日記』が、センター試験に出題されたのを契機として、お会いすることができた。そうして、多くの事を教えて頂いた。
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平成16年5月1日(土)
『庄田家系譜 副本』増補完了
●井関隆子の実家は庄田家である。庄田本家の嫡祖は、徳川家康に仕えた安勝。3000石を食む旗本であったが、長男・安利に2600石を、次男・安僚に400石を与えて、これを分家とした。隆子は、この分家の出である。
●庄田家には、系譜が、正本と副本の2点が伝えられている。正本は巻子本で、極めて貴重な存在であるが、これは、7代・安明までの記載である。これに対して、副本は冊子本であるが、10代・満洲五郎まで記載されていて、これはこれで存在価値がある。
●11代・安豊氏は、大妻女子大学の教授として活躍されていたが、平成15年2月7日、58歳の若さで他界されてしまわれた。安豊氏の実母の澄江氏は、この副本に、11代まで記録して、系譜を締め括りたい、という希望を出された。井関隆子を研究している私としては、断る訳にもゆかない。そこで、原稿を書いてもらって、増補することにした。
●本日届けられた『庄田家系譜 副本』の末尾には、次の如くある。
「追記 平成十六年四月三十日/庄田安豊母 井下澄江 稿/昭和女子大学講師 承春先 書」
つまり、今回の増補の追記は、本学の講師の承春先先生に依頼して書いて頂いた。
●私は、この重大な仕事を進めるに当たって、熟慮した。承先生の、展覧会での作品や、学生指導の様子、年賀状の文字、研究発表の内容、そして、何よりも、その人柄に引かれて、先生に白羽の矢を立てた。先生の側からすれば、文字通り白羽の矢を立てられた訳で、御迷惑であったかも知れない。しかし、先生は快く引き受けて下さった。
●4月17日、貴重な原本をお渡しした。あれから2週間、もう、そろそろか、昨夜、お電話をしようかと思った。しかし、芸術家をせきたてるのは失礼か、と一旦とった受話器をおいた。本日、2講時終了後、承先生が研究室に見えられ、補写完了の系譜を持参して下さった。
●昨夜、書写完了の見通しがつけば、私宛に電話しようと思った。しかし、時間は過ぎてゆき、完了は12時少し前であった。で、「四月三十日」とし、電話はできなかった。と承先生は申された。
●先生は、今回の書写に先立ち、母国・中国の父君に電話して、書体やその他の事に関して、指導を受けたという。父君は、書体はいずれでも問題はない。大切な事は、一字一字、真心を込めて書くことである。と教えて下さったという。
●私は、今、増補完了の『系譜』を手にして、承先生の墨書を読みながら、落涙に及ぶ寸前である。原稿を書いて下さった井下澄江氏も、黄泉の安豊先生も、きっと喜んで下さるだろう。だから、人間の社会は楽しいのである。承先生とお父さんに感謝。

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●●現在、『庄田家系譜 正本』も『庄田家系譜 副本』も、昭和女子大学図書館に所蔵されている。『井関隆子日記』の原本と共に、後世に伝えたい、という、庄田家の御子孫の御先祖を思い、歴史を考える、尊い意志が実現させたのである。

■『庄田家系譜 正本』巻頭 複製

井関隆子の墓参

●今日、死去ネットで、井関隆子のお墓を見たら、たくさんのお花が供えられていた。これまでは、私以外に献花する者はいなかった。とても嬉しい。隆子に思いを致す方々が供えて下さったのだと思う。隆子も、きっと喜んでいると思う。私からも御礼を申上げます。
●現実のお墓は、文京区小石川の曹洞宗喜運寺である。現在は、文京区白山2丁目、共同印刷の前に移転している。喜運寺のお墓は、道路に面して、細長くあり、奥の正面に大きな石仏像があり、その、一番前に井関家の墓石がある。小石川の頃は、20数基の墓石があったが、現在は、1基のみ存する。これは、隆子の子・親経、孫・親賢が建立したものと推測される。
●隆子、親経、親賢、の法名を紹介する。

◎隆子法名
知清院殿悟菴貞心大姉 井関縫殿 祖母 天保十五年十一月一日
◎親経法名
親経院伝殿〔従五位下前総州刺吏〕守真捲亭大居士 井関下総守殿 安政五年拾五月廿五日
◎親賢法名
親賢院伝殿〔従五位下前総州刺吏〕梅軒道香大居士 井関下総守殿 元治二年拾二月廿六日

隆子は、喜運寺の御住職様、子の親経、孫の親賢、から、この最高の法名を贈られて、この世を去ったのである。

井関隆子 『しのびね物語』 に注を付す

井関隆子 『しのびね物語』 に注を付す

●岩坪健氏著『『しのびね物語』注釈』(2015年12月15日、
和泉書院発行)を見た。この著書の底本は、静嘉堂文庫所蔵
「しのびね」(松井簡治旧蔵)である。
その第三章第二段に、次の如くある。
【表記など、省略したり、変えた部分がある。】
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いかさまにも、ことの気色〔けしき〕ゆかしければ、また立ち返りて、『誰とか尋ぬべからむ』と思ひ煩ひ給ふに、「中納言の君や、こちへ参り給ひね」と言ふ声につきて立ち寄り給ひて、随身して、「ここに人の、月に引かれてあくかれ侍る。御宿申さむや」【注4】と言はせ給ふ。いと思ひかけぬ狩衣〔かりぎぬ〕姿の男なり。『いかなる人にておはすらむ。このあばら屋には、いかでか明かし給ふべき』と休らふに、君、さし寄り給ひて、「いと苦しからぬ者にて侍る。ただ、ここの御簾〔みす〕の前に、御宿直〔とのゐ〕申し侍らむ。夜も更けぬれば、行くほど侍らじ」と、のたまふ御気色、世の常の人とも見えず美しければ、「申し侍らむ」とて入りぬ。
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この本文に、次の如く注を加えている。
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【注4】頭注「御やと申さんや 井関隆子云、「申さんや」にては自他わかたす。申させ玉はンや 又は 申させ王はなんやなとゝ有へし」(小字の「ん」【引用ではンとした】は後筆。傍線は写本のまま【引用では省略した】)。井関隆子(生没一七八五~一八四四年)の実家(庄田家)も嫁ぎ先(井関家)も、代々徳川家に仕えた旗本。特定の師には就かず、真淵・宣長・千蔭などの著書について学ぶ(深沢秋男氏『井関隆子日記』解題。勉誠社、昭和五三年)。
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●この外、第十八章第一段でも、
「……ついで見せ奉らんと思ふぞ」とのたまへば、……」【注9】
に対して、
【注9】頭注「ついて 井関隆子云ついてはゐての誤ならん」。筑波大学本は「つゐてに」。
と注を付けている。

●ざっと見たのみであるから、まだ、見落としもあるかと思う。
それにしても、このような擬古物語の写本に、井関隆子は、
どうして注を加えたのであろうか。原本の写本を直接調査すれば、
この注記が、隆子の自筆であるか否かは判明する。これは、
今後の課題である。
●岩坪健氏の労作に対して感謝申上げる。

平成29年1月7日
深沢秋男

『井関隆子日記』 の古書価

2016.12.29 Thursday

●今日、〔日本の古本屋〕で在庫検索してみたら、
「深沢秋男」の検索結果は、66件、
「井関隆子日記」、6点
だった。
●『井関隆子日記』は、新刊当初の定価は、3冊で 13500円。
現在の古書価は、27000~28000円。約2倍になっている。
●これらの古書店に出ている本の中には、昭和女子大学でテキストに
使用したものもあると思う。履修学生には、本には出来るだけ書き込み
をせず、ノートに記録しなさい、その方が古書店で高く売れます。
と伝えた。ただ、下巻の奥付には「幻」の朱印が押してある。この印が
あれば、私の講義・講読のテキストである。

① 井関隆子日記〈下巻〉
BBR 愛知県春日井市 ¥13,500
校)深沢秋男  勉誠社  昭和
カゴに入れる
クレジットカード使用可 銀行振込可 代引き可 公費可 海外発送不可

② 井関隆子日記 中巻
加能屋書店 石川県金沢市泉 ¥10,000
深沢秋男 校注、勉誠社、昭55、1冊
函、ビニカバ付

③ 井関隆子日記 上・中・下 全3冊揃
西秋書店 東京都千代田区西神田 ¥28,000
深沢秋男・校注/鹿島則幸(原本所蔵)、勉誠社、昭和53年、3冊

④ 井関隆子日記
黒崎書店 大阪府大阪市阿倍野区長池町 ¥27,000
深沢秋男校注、勉誠社、昭56、3冊
上中下3冊揃セット 函(シミ・汚れ・少破れ)付 全体ヤケ 表紙少シミ・少ヨレ 地に大学名印・日付印有り 見返し・始頁シミ

⑤ 井関隆子日記 上中下揃
五山堂書店 東京都世田谷区上祖師谷 ¥27,000
井関隆子、深沢秋男校注、校倉書房、昭53、3冊
函背少ヤケ 後見返しに2桁ナンバーリング 本文良好 20x14cm

〔アマゾン〕

▲井関隆子日記〈上巻〉 (1978年)1978/11
井関 隆子、 深沢 秋男
¥ 14,850 中古 & 新品(1 出品)

▲井関隆子日記〈中巻〉 (1980年)1980/8
井関 隆子、 深沢 秋男
¥ 14,849 中古 & 新品(1 出品)

■日本の古本屋

『君の名は』と『井関隆子日記』

『君の名は』と『井関隆子日記』
2016.12.12 Monday

●今日、高校生のツイッターで、このような一文に出合った。
多才な隆子の一面を見た気がする。
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2016年10月30日(日)
希宮 @1_saboten
昨日、君の名は。をレイトショーで観てきました。
たまたま、昨日の午前中にしたマーク模試の古典(井関隆子日記)と内容がちょっと被りました。
「時空を超えた夢での逢瀬」って感じの、日本人大好きだね。
13:17:26

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●私は、2006年7月1日、江戸東京博物館で行われた「江戸の女性史フォーラム(東京)」で、井関隆子の女性像と題して報告をした。1時間の報告のあと、30分ほどの質疑応答があった。その質疑応答の中に、次のような質問が出された。

④  日記と創作の相違
質問
井関隆子には、『日記』の外に、『神代のいましめ』『桜雄が物語』などの作品があり、その内容、表現などに、余りにも違いがある。これは、果たして、同じ人間の作品と言い得るのか、その点、疑問に思う。
深沢
御指摘のように、『日記』の内容と、創作の諸作品とは、表現方法も、内容もかなりの違いがある。しかし、これらは、井関隆子の書いた作物として、違和感はない。平安朝の散逸物語に想を得て、『神代のいましめ』は創られている。古典から構想を得て、それを自分の作品に利用する、そういう能力が隆子にはある。隆子は、『日記』の中に、大量の古典を引用し、利用しているが、古典を引き写していない。古典が、一旦、隆子の中に吸収されると、彼女の知性と感性を通って、一味違ったものとして、表現されている。ここに、隆子の、古典吸収の質の高さが伺える。
『日記』の中にも、印旛沼開鑿批判をテーマにした条、お化け銀杏などの、空想的な創作が収められている。
〔イセキタカコ〕は、最初、存在しなかった。『日記』があり、創作があった。その作り手を手繰っていって、そこに、〔井関隆子〕が在った。という、経過をとっている。
井関隆子は、多才だなあ、こんな日記も書き、こんな作品も創り、1日100首の歌を詠じ、10日間連続して詠じた、1000首の歌を、賀茂真淵の県居神社に奉納している。大した女性だなあ、というのが私の実感である。

『井関隆子日記』 を読む(立正大学)

●立正大学の〔ワン・コイン古文書講座〕で、『井関隆子日記』を
採り上げるとのこと、ネットで知った。少しでも多くの方々に
知られてゆくことが、嬉しい。
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第88回ワン・コイン古文書講座
○日時:11月24日(木曜日)14時~16時
○場所:宮前市民館(川崎市宮前区宮前平2-20-4宮前文化センター[最寄り駅は東急田園都市線宮前平駅])第4会議室 宮前市民館のホーム・ページ
○料金:500円(一ヶ月会費)
○講師:高尾善希 たかお・よしき 立正大学文学部史学科非常勤講師・博士(文学)
○演題:「井関隆子日記を読む」
〇講師から一言 旗本家の奥方井関隆子日記の内容をご紹介します。江戸時代の女性も、日記を書くのですが、さほど点数は残っておりません。その稀少性もさることながら、内容もとても興味深く、各所で紹介されている日記です。自らの身辺日常から、江戸城の噂話まで、多岐にわたります。
○参加方法 参加する際には必ず下記ワン・コイン古文書講座事務局宛メールアドレス宛てに参加希望の旨のメールをご送信下さい(メール題名は「講座希望」と記入して下さい。なお、下記のyahooメールはわたし宛のメールではなくワン・コイン古文書講座事務局宛のメールです。高尾個人に対するメールはysktko@nifty.comです。お間違えのないようにお願いします)。 ワン・コイン古文書講座事務局宛メールアドレス:komonjyo_yomukai@yahoo.co.jp
 運営の都合上、多くのところは自己責任でお願いします。お出かけ直前に、このブログの内容をご確認下さい。変更点などがある可能性があるためです。次回は12月22日(木曜日)です。
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