調布市での講演

●調布市立図書館の、平成20年度の事業一覧をネットで見た。9年前のことである。
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調布市立図書館 平成20年度 事業一覧

事業名  実施日・場所ほか  内容  講師 参加人数

◎講演 文芸講演会 6月9日(月)
文化会館たづくり 大会議場
「生涯現役の児童文学者石井桃子の道」
児童文学者 岩崎京子氏  150人

◎講演会 7月8日(火)
文化会館たづくり  大会議場
「旗本夫人が見た江戸のたそがれ」
昭和女子大学名誉教授
深沢秋男氏    200人

【以下 省略】
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●私の本籍は、調布市国領町である。そんな関係もあって、昭和女子大学の頃、雑誌『学苑』の編集責任者だった、萩谷氏から講演依頼の電話を貰い、喜んでお引き受けした。調布市は、文化レベルが高い所である。
●当日、会場へ入って、大勢の方々がおられて、大変驚いた。今回のデータで200人とある。大学の同期の松本靖君も聞きに来てくれた。また、昭和女子大の教え子が、調布に住んでいて、聞きにきてくれた。彼女の結婚式には、私も出ていたので、これも嬉しかった。

『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』 絶版

『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』 絶版

 

●先日、近所の書店に、文春新書の『旗本夫人が見た……』を注文したら、在庫無しで購入できません、と言われた。これまでも、自著ながら、時々、20冊、30冊と注文していたが、とうとう、絶版品切れになった。2007年初版、何故か好評で、6刷まで増刷された。10年間かかって、ようやく在庫なし、絶版となった。
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あとがき
歴史上の人物、それも全く知られていない人物と出会うということは、どういうことであろうか。本書は、全く知られていなかった人物、それも興味の対象外にある時代の人物との出会いの記録であり、それは、鹿島神宮の大宮司家に秘蔵されていた、著者自筆の十二冊の日記から始まった。
私の専攻は近世初期の仮名草子であるが、鹿島則幸氏から幕末の女性の日記を見せて頂き、一読、その魅力にとりつかれてしまった。三十五年前のことである。一時仮名草子から離れて、思わぬ寄り道はしたが、そのお蔭で、一人の幕末の旗本夫人にめぐりあうことができた。
本書を御覧になって、井関隆子という女性に興味をもたれた方は、『井関隆子日記』全三冊(一九七八年~八一年、勉誠社)と『井関隆子の研究』(二〇〇四年、和泉書院)を是非とも手にとって頂きたい。この女性について、もっと多くのことを知って頂けると思う。
『井関隆子日記』の写真、その他の資料の掲載に関して御配慮を賜った、昭和女子大学図書館、および関係諸機関に対して感謝申し上げる。
この稿を書き進めるにあたっては、知人・友人のアドバイスに助けられた点が多かった。ありがたいことと感謝申し上げる。
本書執筆のきっかけをつくってくれたのは、編集プロダクション三猿舎の安田清人氏である。安田氏は『歴史読本』への執筆を勧めて下さり、この企画も提案して下さった。
本書が曲がりなりにも一書としてのまとまりを得たのは、文春新書編集部の和賀正樹氏の粘り強い励ましと、全面的な助言のお蔭である。さらに校閲部の御指摘によって文章の修正統一をすることができた。安田氏、和賀氏、校閲部諸氏の御厚情に対して心からの御礼を申し上げる。
                                                                                         二〇〇七年九月   深沢秋男
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●これは、文春新書の「あとがき」である。私は、この種の啓蒙的著作は、一切書いてこなかった。出版社の編集者や雑誌から依頼されたことは、何度もあったが、引き受けなかった。金のために原稿を書くのは、気が進まなかったからである。
●この本は、昭和女子大を定年退職の時であったので、もう、引き受けてもいいか、そう思って書いた本である。

Heroine~存在を主張した女性たち~

Heroine~存在を主張した女性たち~

●深谷市立図書館、深谷市男女共同参画推進センターで、歴史上、自分の存在を主張した女性に関する著作を取り上げている。男女平等雇用法が施行されて何年になるだろうか。この審議会には、当時、昭和女子大学におられた、青柳武先生も参加しておらた。
●ところで、この深谷市のリストに、井関隆子も入っている。人間は、このようにして、歴史を創って行くのだろう。
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深谷市立図書館、深谷市男女共同参画推進センター(L・フォルテ)、
県立春日部女子高等学校との共催で、
「Heroine~存在を主張した女性たち~」と題し、
With You さいたまでは、歴史上の女性に関する本、
女性が活躍する時代小説を集めました!
いつの時代にも、懸命に生き、輝いた、女性たち♪
本を手に取って、その生き方に触れてみてください!!

1 時代を変えた女たち 童門冬二/著 潮出版社 2004
2 乳母の力 : 歴史を支えた女たち 田端泰子/著 吉川弘文館 2005
3 女のきっぷ : 逆境をしなやかに 森まゆみ/著 岩波書店 2014
4 新島八重ハンサムな女傑の生涯 同志社同窓会/編 淡交社 2012
5 新島八重 : 武家の女はまつげを濡らさない 石川真理子/著 PHP研究所 2012
6 あなたみたいな明治の女 (ひと) 群ようこ/著 朝日新聞社 2002
7 ニコライの首飾り : 長崎の女傑おエイ物語 白浜祥子/著 彩流社 2002
8 明治快女伝 : わたしはわたしよ 森まゆみ/著 文藝春秋 2000
9 幕末の志士を支えた「五人」の女 : 坂本龍馬の「おりょう」から近藤勇の「おつね」良生/著 講談社 2009
10 物語幕末を生きた女101人 『歴史読本』編集部/編 新人物往来社 2010
11 幕末競艶録 : 志士と女たち 木村幸比古/著 高知新聞社 1999
12 徳川和子 : 新装版 久保貴子/著 吉川弘文館 2008
13 旗本夫人が見た江戸のたそがれ : 井関隆子のエスプリ日記 深沢秋男/著 文藝春社 2007
14 天璋院篤姫 : 徳川家を護った将軍御台所 徳永和喜/著 新人物往来社 2007
15 天璋院篤姫のすべて 芳即正/編 新人物往来社 2007
16 幕末の大奥 : 天璋院と薩摩藩 畑尚子/著 岩波書店 2007
17 女たちの会津戦争 星亮一/著 平凡社 2006
18 女たちの幕末京都 辻ミチ子/著 中央公論新社 2003
19 杉浦日向子の江戸塾 : 特別編 杉浦日向子/著 PHP研究所 2008
20 大江戸百華繚乱 : 大奥から遊里まで54のおんなみち 森実与子/著 学習研究社 2007
21 大江戸の姫さま : ペットからお輿入れまで 関口すみ子/著 角川学芸出版 2005
22 江戸の女の底力 :大奥随筆 . 氏家幹人/著 世界文化社 2004
23 百花繚乱江戸を生きた女たち 石丸晶子/著 清流出版 2004
24 江戸の百女事典 橋本勝三郎/著 新潮社 1997
25 北政所と淀殿 : 豊臣家を守ろうとした妻たち (歴史文化ライブラリー ; 274). 小和田哲男/著 吉川弘文館  2009
26 北政所おね : 大坂の事は、ことの葉もなし(ミネルヴァ日本評伝選). 田端泰子/著 ミネルヴァ書房 2007
27 山内一豊と千代 : 戦国武士の家族像 (岩波新書 ; 新赤版 974). 田端泰子/著 岩波書店 2005
28 戦国名城の姫たち 楠戸義昭/著 静山社 2010
29 姫君たちの大戦国絵巻 : 戦国武将に嫁いだ女たちの真実新人物往来社/編 新人物往来社 2009
30 戦国の女性たち : 16人の波乱の人生 小和田哲男/編著 河出書房新社 2005
31 戦国の妻(おんな)たち 山村竜也/著 リイド社 2005
32 波瀾万丈中世・戦国を生きた女たち 石丸晶子/著 清流出版 2005
33 戦国の女たちを歩く : 乱世を生き抜いた13人の足跡 田端泰子/著 山と渓谷社 2004
34 北条政子 : 幕府を背負った尼御台 田端泰子/著 人文書院 2003 289.1/ホ
35 「源氏物語」の時代を生きた女性たち(NHKライブラリー ; 115). 服藤早苗/著 日本放送出版協会 2000
36 平安朝女の生き方 : 輝いた女性たち 服藤早苗/著 小学館 2004
37 京を彩った女たち : 恋と歴史の女人絵巻 川端洋之/文 ;中田昭/写真 学習研究社 2004
38 江 : 姫たちの戦国 /上 田淵久美子/著 日本放送出版協会 2010
39 江 : 姫たちの戦国 /中 田淵久美子/著 日本放送出版協会 2010
40 江 : 姫たちの戦国 /下 田淵久美子/著 日本放送出版協会 2010
41 浅井三姉妹の戦国日記 : 姫たちの夢 八幡和郎,八幡衣代/著 文藝春秋2010
42 お龍 植松三十里/著 新人物往来社 2009
43 めのと 植松三十里/著 講談社 2009
44 美女いくさ 諸田玲子/著 中央公論新社 2008
45 南北朝乱世を生きた女たち 豊浜紀代子/著 中日出版社 2007
46 算法少女 遠藤寛子/著 筑摩書房 2006
47 風神秘抄 荻原規子/作 徳間書店 2005
48 平家物語の女たち 宮尾登美子/著 朝日新聞社 2004
49 和泉式部 : 小説 : 憂愁の歌人 山口八重子/著 国研出版 2003
50 暁の女帝推古 小石房子/著 作品社 2002
51 女たちの忠臣蔵 : いのち燃ゆる時 橋田寿賀子/著 集英社 1995
52 細川ガラシャ夫人 /上巻 三浦綾子/著 新潮社 1986
53 細川ガラシャ夫人 /下巻 三浦綾子/著 新潮社 1986

【以下 省略】
■深谷市立図書館、深谷市男女共同参画推進センター

本丸御殿の「赤い部屋」 氏家幹人

 ●氏家幹人氏が。2017年3月21日の〔幕臣伝説 第29回 本丸御殿の「赤い部屋」〕で、『井関隆子日記』を引用しておられる。
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紅葉の山より美しい

文政9年(1826)に夫の井関親興が亡くなった後も井関家の屋敷に住み続けていた隆子は、天保11年(1840)3月28日の日記に次のように記している(深沢秋男校注『井関隆子日記』)。ちなみに隆子はこの年56歳。4年後の11月に「卒中」(脳梗塞か脳出血)でこの世を去った。

右大将様の御痘瘡の症状はたいそう穏やかなものだというから、とりあえず心配はない。それでも御側に仕える人たちは、みな紅色の衣をまとっているという。このようなとき黒や紫は禁物。にわかに紅色の衣に替えたのである。衣だけではない。右大将様の御膳やさまざまな調度も紅で彩り、柱まで赤い毛氈で包まれているとか【意訳】。

右大将様とは、後に13代将軍となる徳川家定で、この年17歳。3日前の3月25日に痘瘡(疱瘡とも。今日は一般に天然痘と呼ばれる。痘瘡ウィルスがひきおこす病)を発症した旨が触れられ、紀伊大納言はじめ群臣が御機嫌伺いに総出仕したと『慎徳院殿御実紀』(『徳川実紀』)は伝えている。
当時、赤色は痘瘡から子どもを守るとされ、赤一色の版画(赤絵)や赤色のオモチャ(赤物)が痘瘡除け、あるいは痘瘡の症状を軽くするために贈られたことをご存じの読者もすくなくないだろう。しかし、江戸城の御殿内までそんな風習が大々的に行われていたとは、ちょっと驚きだ。なにしろ隆子ですら、家定が床に臥す部屋全体が赤一色となったと聞いて、次のように感嘆しているのである。

「伝え聞にもさる御しつらひ、目も耀(かがよ)ふばかりにて、紅葉の山にわけ入ぬとも、さばかりはあらじとなむおしはからる、痘瘡の神の御棚、其わたりの御しつらひ仕うまつる人なども、皆赤う装ひぬとぞ」

隆子は、家定が臥す一間の中が人々の衣服から調度、柱まで赤色で覆われていると聞いて、「紅葉真っ盛りの山中でも、これほどみごとではないかも」と楽しげに想像している。痘瘡平癒のために設けられた神棚で痘瘡神を祀る人々の装いまで赤一色であることにも言及。赤く染まった理由が痘瘡という忌まわしい病魔であると承知のうえで、彼女は「なんて美しい!」とウキウキしている。まるで「ぜひ拝見したいわ」とでもいうように。家定の症状が軽いと知って心配が解けたからかもしれない。

赤尽くしの効能

それにしてもどうして赤(紅や桃色も)なのか。なぜ黒と紫は忌まれたのか。
江戸時代の人々にとって、それは荒唐無稽な迷信でも、あやしい呪術でもなかった。あやしいどころか、ジェンナーの種痘法が伝来しその効果が証明されるまでは、一流の医師たちも赤が痘瘡に効果があると確信し、あわせて黒と紫の害を説いていた。
豊前中津藩主の侍医を務め、のちに京都に隠棲した香月牛山(1656~1740)もその一人だ。牛山は、元禄16年(1703)に著した『小児必用養育草』(しょうにひつようそだてぐさ)の中で、痘瘡の治療法について、こう述べている。

痘瘡の患者が臥す一間は、きれいに掃除して屏風を引き回し、乳香を焚くべし。不浄や穢れを避け、冬は暖かく、夏は蝿や蚊が痘瘡(皮膚に生じる水疱や膿疱)の上にとまらないよう蚊帳を吊るべし【意訳】。

まあ常識的なところだろう。問題はこの先で、牛山は「屏風衣桁に赤き衣類をかけ、そのちごにも赤き衣類を着せしめ、看病共みな赤き衣類を着るへし」と述べている。病室に置かれた屏風や衣桁(衣類を掛ける台)には赤い衣類を掛け、痘瘡に罹った「ちご」(子ども)だけでなく看病人も、みな赤い衣服を身に着けよ、というわけ。
再び問う。なぜ赤なのか。答は痘瘡の形や色の善し悪しを述べたくだりにあった。
「痘の色、紅(くれない)にして黄なる色を面部にあらはす者は吉也」。痘瘡で皮膚に発するできもの(水疱膿疱)の色が紅(赤)で、顔面が黄色くなれば軽症で済むという意味だろうか。牛山はこうも述べている。「痘出て、其色紫黒にしてかはき枯(かるる)者、九死一生もなし、大悪症としるへし」。膿疱が痂(かさぶた)になったときの色が紫黒だったら重症。まず助かる見込みはないというのである。
そう、赤、紫、黒といった色はたんなる呪術的な迷信ではなく、多くの症例から得られた医者の経験知だった。
ついでにもう一例、痘科医(痘瘡の専門医)で、幕府に招かれ医学館(漢方医学の教育と研究のための機関)の医官となった池田錦橋(1735~1816)の著書『痘疹戒草』(とうしんいましめぐさ 1806年刊)をひもといてみよう。
痘瘡治療の第一人者が、一般向けに著したものだけに、記述は『小児必用養育草』に劣らず具体的でわかりやすい。なにしろ錦橋は、医師であるにもかかわらず、神棚を設けて痘瘡の神(いわゆる疱瘡神)を祀る方法まで懇切に解説している。そうすれば痘瘡が軽く済むということらしい。一部を要約すると。

――家の入口や病室の入口に紅紙で幣を垂らしてもいいし、病室に神棚を設け、紅紙を敷いた上に達磨や猿面を飾る場合もある。祭り方はさまざまだ。ただし供物の菓子や魚も赤い物でなければならない。たとえば紅団子に赤小豆飯、赤鯛、アカメバル、ホウボウ、イトヨリダイ、カナガシラというように(赤鯛以下、どの魚も赤みを帯びている)。とにかくすべて紅色に――。

錦橋は「唐土にても痘の正色は紅を貴ひ喜慶(よろこび)」とも述べている。痘瘡が軽い場合、水疱膿疱は紅色なので、中国でも紅色を〝正しい色〟として喜ぶというのだ。紅(赤)は重症でない(命が助かる)ことを示すという。牛山の見解と同じだ。
着衣や供物まで赤色で統一せよという言説は、純粋に医学的な治療法とは思えない。しかし周囲を赤く染めることで痘瘡の疱まで赤くしよう(症状を軽くしよう)とするのは、いわゆる類感呪術の一種であり、それによって患者や看病人に安心感をもたらす効果はあったのではないか。

奥坊主小道具役の日誌にも

旗本井関家の未亡人隆子が思い描いた家定の病室は、紅葉の山にもまさる美しさだった。はたして家定が病床に就いていた本丸御殿では、実際に病室の赤色化が行われていたのだろうか。

【以下、省略】
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●ところで、今日、書店に、拙著、文春新書『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』を注文したら、在庫なし、との事である。10年も前に出した本で、何故か好評で、6刷まで増刷した。ようやく、版元在庫切れ、になったらしい。今後は、古書店で買うことになる。

何でも読んでみよう

何でも読んでみよう

●今日、こんなサイトを見た。井関隆子も、多くの人々に注目されるようになって、本当によかったと、思う。昨日、私は、自分の研究生活を振り返ったが、後世、私の名前は消滅しても、「井関隆子」の名前は、存在し続けるだろう。それが、研究者の存在意義だと、私は思っている。
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何でも読んでみよう

図書館」と「インターネット」を活用!

なぞなぞ(昆虫)・・・釜を斬る
※は特に注目したいもの
(インターネット古文書講座)
群馬県立文書館
新潟県立文書館
(インターネット拾い読み)
「文書館たより」ほか(和歌山県立文書館)
「高木家文書」(名古屋大学図書館)
「おあむ物語」(早稲田大学)
「お竹大日如来縁起絵巻」(日文研)
「運上家の掟」(北海道立文書館)
(記録)
三井文庫史料叢書「大坂両替店聞書」
喜田川守貞「守貞謾稿」(商人)
「藤岡屋日記」(情報屋)

なぞなぞ(有名な温泉地)
○○八里は馬でも越すが
(法律)
「御触書寛保集成」
「御仕置例類集」
※「幕末御触書集成」(岩波書店)
(思想・教材)
「農業全書」
「庭訓往来」
「世界商売往来」(明治4年)
(戦国武将)
「続・日曜日の歴史学」(信長・秀吉・光秀・家康の古文書)

(日記)
「京都岩倉実相院日記」(講談社メチエ)
江戸東京博物館「酒井伴四郎日記」 (紀州藩士の江戸勤番日記)
●「井関隆子日記」
(手紙)
小林正博編「利休・歌麿・芭蕉の”くずし字”を読む」
宮地佐一郎「龍馬の手紙」
※「南浦(なんぽ)書簡」(ペリー来航時の浦賀奉行の書簡集)
(本居宣長の本)
本居宣長「玉くしげ」・・・紀州藩への上申
(吉田松陰の本)
※吉田松陰「癸丑(きちゅう)遊歴日録」1853・・・ペリー来航

なぞなぞ(江戸の盛り場)
(幕末明治)
※「日本近代思想体系Ⅰ 開国」(岩波書店)
(かわら版、新聞)
小野秀雄「かわら版物語」(雄山閣)
「新聞が語る明治史」(原書房)
(引札)
増田太次郎「引札・絵びら・錦絵広告」(誠文堂新光社)
大阪引札研究会「大阪の引札・絵びら(南木コレクション)」(東方出版)
中田節子「広告で見る江戸時代」(角川書店)

(なまづ絵)
「なまづ絵コレクション」(日文妍データベース)
「幕末・明治のメディア展」(早稲田大学)
(総合)
「日本庶民生活史料集成」、「日本庶民文化史料集成」
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「井関隆子日記」

■井関隆子
・1785-1844
・30歳ころ旗本の後妻となったが、42歳の時死別。和歌・国学をおさめた。天保11年(1840)から15年(1844)までの「井関隆子日記」は、当時の世相を伝える貴重な史料とされる。

江戸の風俗・風聞
■将軍上覧の天下祭(山王祭)
来ん望の日は山王の御祭とて、今より言ひ騒ぐ。神田の明神と、この山祇神と、夏秋の御祭り、一年がはりなるうちに、夏の方(山王祭)は所狭く、人押合、人もみぬれば、暑さにたへがたう苦しかんめれど、若き人、童などは、物とも思はで、御指折りつつ、待遠に日を数ふめり。

■倹約令下の神田祭
御世の御おきての、時の間にゆきたらひて、かかるも、いとかしこう、いみじき御光りになむ。

★ 神田祭は倹約令で質素。

■盛大な佃島の花火
かの両国の花火を、いみじげに、人いふめれど、是に比べなば、さやけきともし火に向かへる、蛍の光りともいひつべく、いとかそけかるべし。

■浅草の「眼力太夫」、平将門の首を拝む、永代寺の陰間

江戸城大奥
■御広敷
夕付てあるじ(親経=隆子の子)まかでぬ。移されつる司は、御広敷の長にて、広大院の上の御事よりはじめ、すべて女房がたの事ども、あずかり申す職にて、守山主水正、小野佐渡守など此司なる、ひとしなみに召されたる也。

D.キーン「百代の過客」より
■僧侶
かれらは皆世渡る業にて、はじめは物ほしからぬさまにもてなし、人をすかし、扨物とらぬは無し。

■神道・・・隆子は宣長崇拝者
此神の御国に生るゝ人は、此国のふるき御代の伝へをまもり、さかしら心を出さず、奇(く)しくあやしき天地などの、及なくしられぬことは、しらであるなむ中々おほらかに、心ひろうまさりたるべき。

■市川海老蔵・・・隆子は天保の改革を支持
こたび拾里四方の追放になりぬとぞ。其故は家居よりはじめ、庭など、あるは調度衣(きぬ)のたぐひにいたるまで、いみじくおごりを極め、・・・

■高橋景保(かげやす)・・・シーボルト事件
此大御国の絵図をかいなで(通りいっぺん)にはあらで、公にをさめありしを写して、異国に遣したりける事あらはれ、いみじう勘(かうが)へ(罪を攻め)、たゞされけるほどに失たりけるを、おほ方ならぬ罪人なれば、なほかうがへ給ふほど、なきがらを塩につけ置たりとか。

読者の感想

旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記 (文春新書 606)

深沢秋男
230ページ

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井関隆子…幕末に生きた生活が当時では珍しく、人間性溢れる言葉と表現で綴られている。近世文学の大学教授が記しただけに、文学的解明より、むしろ比較文化の視点で解明してあり、何度も、隆子さんの「鋭く厳しい批評精神」を誉めそやしている(くどいけどね)縦横がんじがらめの当時では、立ち居振舞い全て人の口が煩い。しかも彼女は旗本の後妻として入り、義理の家族ばかりの三世代、広大な屋敷に同居歌舞音曲や花に囲まれ一生を終えた。庶民からすると鼻持ちならぬほどのエッセーとも言えようが。こんな女性もいたのねで流し読み。感慨は少ない
ナイス! ★38 – コメント(0) – 2015年10月15日

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本書は隆子が天保11(1840)年から15年に没する直前まで書かれた日記を通して見た当時の江戸の様子が描かれている。幕末明治に来日した外国人の日記・記述は何冊も読んだが、当時の主婦が書いた記録を読むのは初めてであり、外国人では書けないような話も多くある。例えば天保11年7月に佃島で行われた大規模な花火は、当時清ではアヘン戦争が勃発しており、それを知った幕府が火力の演習の余技として行った一種のデモンストレーションの意味合いがあった。また水野忠邦と松平定信を比較して、水野をこき下ろし、松平を清貧潔白と称える。

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私たちが歴史で学んできたことと照らし合わせて当時の江戸の様子がリアルに目に浮かんできた。井関隆子と言う人は批評精神を持っていたり封建武家社会の理不尽さを指摘したり、合理的であったりとあの時代にあったのに現代社会に通じる感覚を持っていたのだなと驚きでした。特別な文学作品ではないのだけれど当時の様子を残した貴重なものでした。一線を退いた旗本夫人から見た当時の江戸を日記として書くことによって自分自身の気晴らしや慰めにしている様子を見ていると、今も昔も人は文字にすることで発散させていたんだと親近感も湧いてきました
ナイス! ★7 – コメント(0) – 2014年6月9日

onasu
著者は言う。歴史は新しい事実の発見によって修正を迫られる。それは、時として全く知られていなかった人物と出会うことによる場合もある。  井関隆子、江戸後期の旗本の奥方である。大変な読者家で、絵も描き歌も詠み、煙草を喫すれば酒も嗜む。日記は天保11年(1840)より5年、その時56歳、後妻として嫁した夫は既に亡く、継子、孫は将軍の側近くに勤め、内情も豊なら、千代田のお城の生の話しも入る。  得難い位置で、近世では持ち得ない怜悧な目、旺盛な意欲で時代、風俗を見ている。そこには確かに、まだ見ぬ江戸があった。
ナイス! ★25 – コメント(1) – 2014年5月19日

kaguyam
ずっと井関隆子関連の本を読みたいなと思っていたら、地元の図書館にあった。やっぱりマニアックな本、置いてるよなぁ。ありがたいけど。 彼女の感覚はとても江戸の女性と思えない現代の匂いがして、読んでいて小難しくない。 日記本文をやっぱり読みたい!と思います。
ナイス! ★3 – コメント(0) – 2014年4月6日

ほたる
面白かった。法事など無用、見た事もないのに地球は丸いというな など、なんと合理的な。日記自体も読みたし。
ナイス! ★1 – コメント(0) – 2014年1月10日

たかち
すごくおもしろかった。5年間に書かれた日記のダイジェスト版みたいですが、現代文に訳されているのでわかりやすく、読みやすい文章でした。生活を楽しんでいる様子がうかがえて、かなりリアルな世相が記されているので面白い。江戸時代っていいですよね。
ナイス! ★3 – コメント(0) – 2013年9月3日


現代で言うとキャリア官僚の奥さんが書いた日記の、当時の世相が分かる部分を抜粋して現代文に訳したもの。この奥さんが非常に頭がいいので、読んでいて面白い。水野忠邦についてはボロクソ言っててかなり笑えた。三方領知替え断念の話が書いてあって教科書と一緒だ!と興奮してしまったwところどころに描いてある絵が妙にうまくて挿絵は別の人が描いたのかと思ったらそうではないらしい。さすが旗本夫人だなあと思った。
ナイス! ★2 – コメント(0) – 2013年3月6日

ひとよ
あたしもとりとめもなく自分の産まれたこの時代のことを後世に伝えてみたいな、と思った。真正面からでなく斜めから見る天保紀、おもしろかったです。
ナイス! ★2 – コメント(0) – 2012年11月21日

GaGa
旗本家に嫁いだ女性の日記をベースに天保の時代に触れることが出来る本。第三章天保の改革では将軍家斉の死去した日が歴史的事実よりも23日ずれていることがわかるなど興味深い。第四章では江戸城大奥での出火の模様が綴られており、なかなか楽しめる。
ナイス! ★46 – コメント(0) – 2012年6月6日

印度洋一郎
江戸時代後期、将軍の御側仕えをする家柄の旗本家の夫人が書いた日記を読み説く。余り記録が無いが、実は盛大だった佃島の花火(砲術の演習を兼ねていた?)、公式記録より早く死んでいた将軍家斉、悪評ばかりの天保の改革など、町の話題から幕府中枢の極秘情報まで縦横無尽に書いている。時代を考えると、驚くほど合理的な考えを持った女性であり、様々な事柄を冷静に記録している。もし、この女性が生きていたら、明治維新をどう感じたことだろうか。
ナイス! ★4 – コメント(0) – 2010年10月12日

なかがわみやこ
面白かったです。この時代にこんな合理的/客観的な考えを持った女性がいたというのは驚き。機会があったら日記全文を読んでみたいです。
ナイス! ★4 – コメント(0) – 2010年7月11日

玉露
旗本夫人の日記をもとにした本。江戸城の内幕を知る立場にあった夫人の記述から、正史とされていることが実は違うのではないかと指摘されているのには驚いた。普段の生活の描写もおもしろい。
ナイス! ★5 – コメント(0) – 2010年2月24日

けれん
 小説新潮4月号日記特集にあった本。とある旗本夫人が晩年の5年間書きつづった日記。当然ながら日本史教科書の無味乾燥な歴史とは大違いで天保の改革の頃のリアルな江戸の世の中が描かれている。  この本の作者は著者(旗本夫人)が批判精神を持っていたと持ち上げているが、辛口世相日記という見方もできる。当時の社会で話題になったことを冷静にぶった切っている。知らなかったが曽根崎心中以来の「心中」も「相対死」と改めて言葉を禁じたらしい(当然行為も)。水野忠邦の評判(上知令・・・習ったような)が具体的で面白い(うわさ話な
ナイス! ★1 – コメント(0) – 2009年2月23日

sfこと古谷俊一
面白いネタをつまみ食い。原本の現代語訳あたりが欲しいとこですね。
ナイス! ★1 – コメント(0) – 2008年7月7日

らいおん親方
日記も書いてみるものだな。
ナイス! – コメント(0) – 2008年1月10日

UN
なんとも面白い日記があったものである(偽書かと思ってしまうほど)天保11年(1840)から同15年(1844)までの記録である井関隆子日記を一般読者向けにサマリーを示したもの。幕末の江戸の様子、幕府内の様子、水野忠邦への評価など、しっかりとした教養と批評眼の上に立って、鋭く描いている。書いたのは井関隆子。江戸城で納戸組頭(なんどぐみがしら)を勤めていた旗本・井関親興の後妻。全文を読み通してみたいものだ(が、難しそう)。
ナイス! ★2 – コメント(0) – 2007年12月26日

レイノー
2007年刊行。天保期、旗本に嫁した夫人の日記。将軍・世相・武士の下世話な物語など、江戸の実相を。同性愛の殿様、不人気(特に上知令)の忠邦などを細かく記録している。なお、家定正室は篤姫ではない(継室とのこと)
ナイス! ★1 – コメント(0) – 2007年11月26日

『庄田家系譜』(正・副) 、昭和女子大学図書館へ

平成16年5月1日(土)
『庄田家系譜 副本』増補完了

●井関隆子の実家は庄田家である。庄田本家の嫡祖は、徳川家康に仕えた安勝。3000石を食む旗本であったが、長男・安利に2600石を、次男・安僚に400石を与えて、これを分家とした。隆子は、この分家の出である。
●庄田家には、系譜が、正本と副本の2点が伝えられている。正本は巻子本で、極めて貴重な存在であるが、これは、7代・安明までの記載である。これに対して、副本は冊子本であるが、10代・満洲五郎まで記載されていて、これはこれで存在価値がある。
●11代・安豊氏は、大妻女子大学の教授として活躍されていたが、平成15年2月7日、58歳の若さで他界されてしまわれた。安豊氏の実母の澄江氏は、この副本に、11代まで記録して、系譜を締め括りたい、という希望を出された。井関隆子を研究している私としては、断る訳にもゆかない。そこで、原稿を書いてもらって、増補することにした。
●本日届けられた『庄田家系譜 副本』の末尾には、次の如くある。
「追記 平成十六年四月三十日/庄田安豊母 井下澄江 稿/昭和女子大学講師 承春先 書」
つまり、今回の増補の追記は、本学の講師の承春先先生に依頼して書いて頂いた。
●私は、この重大な仕事を進めるに当たって、熟慮した。承先生の、展覧会での作品や、学生指導の様子、年賀状の文字、研究発表の内容、そして、何よりも、その人柄に引かれて、先生に白羽の矢を立てた。先生の側からすれば、文字通り白羽の矢を立てられた訳で、御迷惑であったかも知れない。しかし、先生は快く引き受けて下さった。
●4月17日、貴重な原本をお渡しした。あれから2週間、もう、そろそろか、昨夜、お電話をしようかと思った。しかし、芸術家をせきたてるのは失礼か、と一旦とった受話器をおいた。本日、2講時終了後、承先生が研究室に見えられ、補写完了の系譜を持参して下さった。
●昨夜、書写完了の見通しがつけば、私宛に電話しようと思った。しかし、時間は過ぎてゆき、完了は12時少し前であった。で、「四月三十日」とし、電話はできなかった。と承先生は申された。
●先生は、今回の書写に先立ち、母国・中国の父君に電話して、書体やその他の事に関して、指導を受けたという。父君は、書体はいずれでも問題はない。大切な事は、一字一字、真心を込めて書くことである。と教えて下さったという。
●私は、今、増補完了の『系譜』を手にして、承先生の墨書を読みながら、落涙に及ぶ寸前である。原稿を書いて下さった井下澄江氏も、黄泉の安豊先生も、きっと喜んで下さるだろう。だから、人間の社会は楽しいのである。承先生とお父さんに感謝。

平成16年7月22(木)
『庄田家系譜』(正・副)の閲覧

●昨21日、3時に、井関隆子の実家の庄田家の方が『庄田家系譜』(正本・副本)の閲覧にお出でになった。グループ研究室を予約しておいて、ゆっくりご覧頂いた。庄田家第11代安豊氏が昨年2月急逝され、実母の井下氏から本学に寄贈されたものである。本学図書館・桜山文庫に『井関隆子日記』の原本が所蔵されている関係による。
●私は、この日記の研究過程で、第10代・満洲五郎氏の弟の金造氏にもお世話になり、大妻女子大学教授であった、安豊氏にも大変お世話になっている。本日来学されたのは、金造氏のお子様の豊彦氏と信彦氏である。お二人とも、御自分の先祖の系譜を、心ゆくまでご覧になって帰られた。
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●●これは、現役時代の、昭和女子大学のサイトの、私の日録である。一つは、『庄田家系譜』(副本)の追加補筆を、昭和女子大の承春先先生にお願いした時のもの。もう一つは、庄田家第10代満洲五郎氏の弟・金造氏の御子息が、『庄田家系譜』(正本・副本)を御覧するため、昭和女子大学図書館にお出でになった時のものである。
●●実は、庄田家第11代安豊氏が、平成15年2月急逝された。実母の井下澄江氏によれば、安豊氏は、生前、『庄田家系譜』を大切に保管してきたが、今後の処置に関して、悩んでおられたという。ちょうど、井関隆子が、庄田家の出生という事もわかり、それだけでも、大切に保管してきた意義はあったと思う。このあたりで、この系図を締め括ることも考えられる、ともらしておられた由である。
●●そのような、安豊氏の遺志を受けて、母上は、この『庄田家系譜』(正本・副本)を、『井関隆子日記』の原本が所蔵されている、昭和女子大学図書館に寄贈したい、という申し出をされた。私は、図書館長とも相談して、この御厚意をお受けして、『井関隆子日記』の原本と共に保管させて頂くことになったのである。
●●庄田キチ・井関隆子も、庄田安豊氏も、井下澄江氏も、庄田金三氏も、今は、黄泉の人である。この処置を喜んでくれていると思う。私も、井関隆子の研究者として、よかった思う。
平成29年2月28日  深沢秋男

『庄田家系譜(正本)』

 ●今、私は、毎日、毎日、静嘉堂文庫所蔵、写本一冊、『しのひね』を読んでいる。この写本は、井関隆子の自筆本で、彼女の校訂・校注書である。改めて隆子の実力に圧倒される。
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 井関隆子は庄田家四代・安僚の四女として、天明五年(一七八五)六月二十一日、江戸四谷表大番町で出生した。隆子の伝記資料として『庄田家系譜(副本)』はすでに閲覧・調査済みであったが、記述に未詳の箇所もあった。この度、庄田家第十一代・庄田安豊氏の御配慮で正本を閲覧することが出来たので紹介したい。
『庄田家系譜(正本)』は巻子本一巻で、縦二八七ミリ。系譜原本は、縦二四六ミリの巻紙であったが、後に製本されたものと思われる。金色の題簽があるが、題簽題は書かれていない。巻頭は、庄田家本家の三代・安勝から書き始められている。各代の横の寸法は次の通りである。
(平成十一年三月三十一日調査)
嫡 祖・安勝  約八〇〇ミリ。
(約六〇〇ミリの余白)
初 代・安議  約八三〇ミリ。
二代目・安清  約九六〇ミリ。
三代目・安信  約八二〇ミリ。
四代目・安僚  約八四〇ミリ。
五代目・安邦  約一三二〇ミリ。
六代目・安玄  約四七〇ミリ。
七代目・安明  約三三〇ミリ。
(以下、かなりの白紙がある。)
墨付、全長六メートル余、ということになる。余白を入れると、八メートル以上である。筆跡から判断すると、五代・安邦の途中までは一筆のように思われるので、安邦は文筆もあったと思われるので、この系譜は、安邦が整理作成し、以後は、七代・安明、八代・安栄あたりが書き継いだものと推測される。

『庄田家系譜正本』巻頭は、次の如くである。
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嫡祖 三太夫 幼名 千代松
安勝
母 永井右近太夫直勝養女〔実者長田理助吉久女〕
慶安二己丑六月五日死去浅草浄土宗化用山浄念寺葬
法名 清徳院殿照誉固栄大姉
妻 駿河大納言忠長江御附小畑勘兵衛景憲養女〔実ハ今川家浪人中村四郎兵衛秀安女〕
寛文十庚辛年十月九日病死葬地右同断
法名 宝成院殿静誉教心大姉

一 元和二丙辰年[六月十五日]於駿河出生号千代松□□□台徳院様江御目見〔年月不知〕
大猷院様御代寛永十一甲戌年十一月〔日不知〕十九歳ニ而御書院番七/番朽木民部少輔組江御番入所 仰付候
一 明暦二丙甲年父庄田小左衛門安照 跡式三千石以下/置候
一 同三丁酉年正月〔十八日/十九日〕両日江戸大火ニ而十九日屋鋪類焼[節金四百両拝領仕]
厳有院様御代万治元戊戌年九月廿六日駿府在番酒井飛騨守/源重之組之節罷登候
一 同二巳亥年〔月日不知〕病気ニ付奉願小普請瀧川長門守利貞/組江入其後病気快候ニ付帰番奉願候処寄合並/御礼日登 城可仕旨被 仰付候
一 寛文七丁未年十月朔日牛込口御門番所/仰付候 相番堀田権右衛門 鍋嶋帯刀
一 同八戊申年二月六日□□□□組其後〔同月六日〕牛込御門番/御免〔年月不知〕其後知行高三千石之内惣領小左衛門/安利江弐千六百石二男五郎左衛門安議江四百石分知/仕度奉願置寛文九己酉年三月廿六日五十歳/ニ而病死武州浅草浄土宗化用山浄念寺葬/法名 寂用院殿行誉悳居士
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●以下、各代についてしるす。

二代目 庄田主税
安清
三代目 庄田内蔵助 隠居名岩水
安信
四代目 庄田主税 始名隼人
安僚
五代目 庄田五郎左衛門 始友吉
安邦
安固 庄田熊蔵
女子 クニ 早世
女子 ツジ 早世 当歳死去
●女子 キチ 天明五乙巳年六月廿一日出生
大御番 山口周防守組松波源右衛門妻不縁ニ付
西丸御納戸組頭 井関弥右衛門
女子 トメ 寛政元酉年

六代目 庄田谷次郎
安玄
七代目 庄田金之助
安明
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『庄田家系譜』には正本と副本があり、副本はすでに調査済みであった。ただ、副本には疑問点もあり、それらの中には、書写の折の誤りもあるのではないか、と推測はしていた。私にとって、最も重要な『日記』の記者・隆子の条についても疑問点があった。副本は、
「    キチ
女子 天明五乙巳年六月廿一日出生
大御番
山口周防守組松波源右衛門妻不嫁ニ付
西丸御納戸組
井関弥右衛門           」
とあり、「不嫁」をどう解釈するか迷った。「妻」でありながら「嫁がざるに付き」とはどういう事か。様々な推測をしていた。この部分の正本は、次の如くなっている。
「    キチ
女子 天明五乙巳年六月廿一日出生
大御番
山口周防守組松波源右衛門妻不縁ニ付
西丸御納戸組頭
井関弥右衛門           」
これで氷解した。つまり、隆子は松波源右衛門と結婚したが、何らかの理由で離婚し、その後、井関弥右衛門・親興の許へ後妻として嫁いだのである。
推測するに、隆子は、旗本の松波源右衛門と結婚したが、故あって離婚した。結婚の時期は、教養もあり気位も高かった彼女の事を考えると、やや晩婚の二十歳の、文化元年(一八〇四)の頃であったかも知れない。離婚の時期は、松波源右衛門が、大番組頭・山口周防守弘致の配下であった頃であるので、その在任期間、文化四年(一八〇七)~文政元年(一八一八)の間という事になる。結婚後三年目とすれば、文化四年である。井関親興(弥右衛門)の後妻として井関家へ嫁いだのは、親興の先妻が文化九年八月に没しているので、文化十一年(一八一四)の頃ではないかと思われる。この時、隆子は三十歳であり、親興は四十九歳であった。
また、副本は、井関親興について「西丸御納戸組」としているが、これも、正本の「西丸御納戸組頭」が正しい。『柳営補任』巻之十六、西丸納戸組頭の条に、
「同日(寛政九巳二月十三日)同断(御本丸御納戸)ヨリ/下田幸太郎/井関弥右衛門/佐々木次郎太郎」
とある。
寛政九年(一七九七)四月廿一日、徳川家慶(大納言)は西丸に移徙している。『徳川実紀』寛政九年四月廿一日の条に、
「○廿一日巳の牌 大納言殿西城御移徙あり。黒木書院より大広間通り。御車寄にして駕輿奉り。西城大手門玄関より入らせらる。西城附属の輩その他玄関前白洲塀重門前に一同並居て見えたてまつる。」
とある。井関親興はこの、家慶の西丸入りの時、本丸の納戸組から西丸の納戸組頭へ転じ、家慶に仕えたのである。三十二歳であった。
隆子は、十二冊、全一千丁に及ぶ『日記』の中で、自分の最初の結婚と離婚の経緯に関して全く触れていない。この事を伝えるのは、現在のところ『庄田家系譜』のみである。

付 記
この度、長年の懸案であった、『庄田家系譜』正本を閲覧・調査することが出来た。正本は現在、トランク・ルームに預けられ、安全に保管されている。閲覧に際し、格別の御配慮を賜った、庄田安豊氏に深甚なる謝意を表します。
(『文学研究』第88号、平成12年4月 掲載)

●これは、平成12年、2001年に調査した折の報告である。その後、平成16年の『井関隆子の研究』和泉書院発行で、正本と副本の詳細な報告をした。それにしても、隆子は、井関家に嫁ぐ前に、松波源右衛門と結婚し、離婚したことを、『井関隆子日記』の中で、一言も触れていない。私は、この庄田家の系譜を見るまで、このことに気づくことが出来なかった。このことは、隆子の文学を理解し、評価する上で、極めて重要なことである。
● 大妻女子大学教授、庄田家第十一代・庄田安豊氏の御厚情に対して、改めて感謝申上げる。

井関隆子と杉嶋カツイチ

●隆子は、天保期の一人の文化人として、かなり知られていたようである。従って当時の文化人との交流も多かった。ここでは、現在、余り知られていない、盲目の歌人・杉嶋カツイチを紹介致したい。
●杉嶋は名をカツイチ(一一=かずいち かという、吉海直人氏の説がある)は、勾当(検校の下、座頭の上の位)で、歌人としても良い歌を詠み、隆子のもとをよく訪れている。隆子は、この盲目の歌人を温かく迎え、『古事記伝』や『万葉集』を読んで聞かせている。また、著者未詳とされている『当道要録』は、どうも、この杉嶋の著作のようである。郷里は府中の六社あたりだという事はわかっている。
●この盲目の歌人を紹介するのは、天保14年11月5日に隆子の許を訪れて、前田夏蔭の文会に出す物語の執筆を依頼していて、この物語が、面白い内容であるためである。
●隆子は、木村定良・北村季文・蔵田茂樹・桑原やよ子・賀茂季鷹などとも交流があった。これらについても、おいおい紹介したいと思う。
2007/01/03(WED) 09:27

●●これは、以前、昭和女子大学の私の【日録】に書き込んだものである。隆子は、この盲目の歌人に、あたたかく接し、交流を続けていた。彼女の人となりが、しのばれる。