アクテイブ女子の恋路

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

アクテイブ女子の恋路。
question

おほかた、昔より世の人の心ども、ことわりによりて思ひとり、
まことの心にはあらぬうはべのつくろひのみ多かり。

大体、昔から世の中の人の人の心は、道理によって納得し、真実の心ではないうわべを取り繕っていることばかりが多い。

井関隆子日記

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

『井関隆子日記』天保13年2月21日の条

ふたたびとあはぬ此世を惜し気なくさかしらいふは人のまこと歟
大方、昔より世の人の心ども、ことわりによりておもひとり、まことの心にはあらぬ、うはべのつくろひのみ多かり。そは生死のうへのみにあらず。心にはうれしとおもへど、人には其色を見せず、あるは、いと貧しき人も、うへには足りがほつくりなど、かゝかるたぐひいとなむ多かる。……

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●〔アクテイブ女子の恋路〕は、霜月早歌氏のサイトらしい。霜月氏にはいくつかの作品があり、公開されているようであるが、よくわからない。今、盛んになっている、ライトノベルか。それにしても、隆子の文章が、このように、摘出されている。

■〔アクテイブ女子の恋路〕

『性なる江戸の秘め談義』

『性なる江戸の秘め談義』

氏家幹人 著

2017年7月30日、朝日新聞出版発行
朝日文庫、312頁、定価720円+税

目次

はじめに

1、 性なる日記「三本市幡」
2、 制裁と寛容
3、 不倫なんて「おなら」と同じ
【中略】
72、高貴な駆け落ち
73、彼女が駆け落ちした理由
74、幕末維新編① 京都の厚化粧
75、幕末維新編② セックスとお金

主な参考文献・引用史料
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
●巻末の参考文献・引用史料を拝見し、著者が、いかに多くの文献・史料に目を通し、この著書のために大量のデータを収集しているかを知り、敬服する。

■63、恋する女の名は兄嫁
■72、高貴な駆け落ち
この2話は、『井関隆子日記』の記録に基づいている。
●63、恋する女の名は兄嫁 に関して、私は、かつて、『井関隆子の研究』2004年11月1日、和泉書院発行で、次の如く述べた。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

旗本心中事件

天保十一年十一月十七日、この旗本の心中事件は、十年程前の事であるが、心中した当人の歌の友人某から、当時の様子を聞いて書き留めたものである、という。旗本の春日半五郎・左門兄弟は、未だ独身で同じ屋敷(小日向水道
町)に住んでいた。ある日、同じ旗本の赤井某の家に遊びに行き、十六歳になる赤井の妹は、色白の弟・左門を垣間見て心をとめる。後日、春日家より縁談の申入れがあり、親もお互いに知り合った中でもあり、娘に聞くと、娘は、てっきり相手は左門と思い込んでこれを承諾する。
話はとんとん拍子に進み、祝言も済み、その夜、かずき綿をとって見たところ思いもよらぬ人であった。結婚相手は左門と思っていたが、実は兄の半五郎であった。この娘の思い違いから、悲劇は起こった。驚いているところへ、弟だと言って挨拶に来たのが、実は意中の人であった。
やがて二人は、兄嫁と弟という、最も戒められている間柄でありながら、同情が愛へと変わり、越えてはならぬ一線を踏み越えてしまう。しかし、こんな関係が同じ屋根の下で長く続くはずもなく、切迫した二人は、兄がお城の宿直で出掛けた夜、寝所を血潮に染めて心中を決行する。女は息絶え、男は首の傷が浅く助かってしまう。
こんな荒筋であるが、この経緯を隆子は、実に丁寧に描いている。愛も恋も感じない男の妻として尽くす日々、しかも、恋する相手が弟として同じ家にいる。自分の思い違いとは言え、十六歳の若妻には酷い状況である。様子を薄々察した夫や姑の冷たい態度、私は色好みでこんな事になっだのではありません、そんな遺言を両親に残すことしか出来ない、封建武家社会の女性の心中を隆子は詳細に描いている。
春日家では、嫁にはとったが、幕府へはまだ屈け出ていなかったので、事は
内密に処理された。
「此娘のいたづら心こそにくきやうなれど、はじめ己が男と頼みつる人の違ひけむほどの心地、いかに口惜しかりけん。さてつひに、あたらさかりをいたづらにしけること、かゝる筋はいとわりなき物になむ。」
このようにして男女が死ぬのを相対死と言って、昔から庶民には多いが、允恭天皇の日嗣の御子の例もあり、「是やいとやごとなきうへにも、さるわざ有けむはじめなめりかし。」と結んでいる。
新田孝子氏は、これらの事件の記録について、以下の如く評価しておられる。
「二月二十一日の条は、落語『品川心中』の原話と目される話(二月二十一日の脚注による)を、十一月十七日の条は、十年前に起った赤井某の娘の情死事件をそれぞれ数丁にわたって、延々と叙述したものでもある。右のやうな叙述を専らとする限り、日記はその素材には事欠かないであらう。
しかしその場合、そこに記述されたものは、果たして一個の人間のかけがへのない一日の鮮かな自覚の表現であると言へるであらうか。移ろひ行く一日一日に、我が人生を刻み込み、生の記憶を収斂して形成した個の歳時記であると言へるであらうか。それはもはや実録や事件簿であり、或ひは説話や随筆ではあり得ても、日記ではないのではないか。換言すれば、それは天保年間の世相や風物の表現ではあり得ても、井関隆子の個の生の証ではないであらう。」
この、新田氏の見解は、氏の日記の定義とも関わっているものと思われ、その点は第十節でやや詳しく検討したいと思うが、とりあえず、右に見た二つの条、品川の心中と旗本の心中、これらが、単なる実録や事件簿でない事は既
に見た通りである。隆子は、平安朝の日記文学の如く、内へ内へとのみ向かってはいない。日記文学にどうして、説話的要素、随筆的要素、評論的要素等々が入ってはいけないのか。「日記」は、平安朝の研究者・新田氏の基準に叶
う点もあるが、それ以外の部分もあえて切り捨てる必要は無い、と私は考えている。このような要素こそ、近世の作者の特色の一つであり、そのように広く解釈してゆく時、この作品の全体を把捉し得るものと考えている。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
●隆子は、平安朝の文学作品の後追いだけではなく、自分の生きている、天保期の江戸の、今を、後世に伝えようとしている。そこにこそ、現代文学の意義があったのである。

■氏家幹人著『性なる江戸の秘め談義』

大学入試レベル問題集 古文 ②センター試験レベル

大学入試レベル問題集 古文 ②センター試験レベル


2017年7月12日、旺文社発行
伊藤紫野富著
A5判、136頁、950円+税

目 次

古文ジャンル解説
① 説話 狗張子
② 説話 今昔物語
③ 物語 一本菊
④ 物語 源氏物語
⑤ 物語 保元物語
⑥ 物語 木草物語
⑦ 日記 うなゐ松
⑧ 日記 井関隆子日記
⑨ 日記 松しま日記
⑩ 評論 野守鏡

●大学入試の参考書に『井関隆子日記』が収録された。1999年のセンター試験に出題されたものである。多くの参考書の著者の詳細な分析・解説に、井関隆子の文章は、よく耐えている。

11代将軍・徳川家斉の葬儀

 ●メタボンのブログ に次の如くある。

2016-06-26 06:06:36

11代家斉の葬列

将軍・家斉の死と葬儀
将軍の葬儀の際には、諸大名は黒門から御霊屋まで
袴の股立ちを取って、裸足でお供するのである。
家斉の葬儀は盛大であった。
将軍は、日常大勢の人に囲まれていたはずですが、
亡くなった時は誰もいなかった為に判らず、
後に医師が処罰されました。
吹上から矢来御門まで20町(2キロ)を畳を敷き空には
雨覆いをして皆白装束である。
道の両側には、昔は松明を使ったというが、
今は提灯を隙間無い位連ねて、実に夥しい人である。
御輿を担ぐ人は皆白い浄衣を着てその数千人以上という。」
旗本夫人の井関隆子の日記では、こう記されている。
人は、喪に服し月代も剃らず髭も払わない。
親経も親賢も容貌が変わって別人のようにみえた。とある。
「20日、空も晴れ晴れやらず、心なしか哀れである。
御出棺は牛の下刻(午後1時)。
御側に仕えていた人は、薙髪と云い、
髻を切ってお供する人が大勢いた。
女房達は尼になった人が多いという。」
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●『井関隆子日記』は、天保12年2月20日、21日の条に、次の如く書き留めている。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

廿日、昨日いみじう風吹き、おそろしかりしが、今日はやみぬれど、空の気色は、はればれしからず、思ひなしにかあはれ気なり。
きのふけふ、大路に人おと聞えず、家々に煙たたず、ただむら鳥の声のみ聞えて、しらぬ御山に入りけむもかかるらむ。
牛のくだにち御葬也と聞ゆ。古き御あとによらせ給ふめれど、いにしへよりも猶こと加りて、いみじき御事まねばむは中々浅かるべし。
けさ、上、右大将の君にも、西の大城へ渡らせ給ふ。此ほどよりの御有様。あがれりし御代に殯ノ宮とて、仕うまつれりしにひとしく、かの草壁ノ皇子の刀禰たちの、「きのふもけふも召こともなし」と、打歎きけむ、そのかみ思ひやられて、御前近う年頃馴仕うまつれりし人々、なき御影に仕うまつるもかぎりありて、今は是にさへ引わかれ奉らかほど、いかぶ悲しからざらむ。
御台所と聞え奉るは、従三位ノ中将、重豪の御娘也。世に薩摩の栄翁殿と聞えて、八十にあまりて、一とせ失られき。然るを近衛殿の御養とならせ給ひて、大城にうつらせ給ひしより、其かみ御契り浅からず、御儲の君だち次々生れさせ給へりしが、皆かくれさせ給ひき。いまはた、残りすくなき御老の世に、さるべき世のことわりながらも、おくれさせ給へる御歎き、とかくかけ奉らむは畏うおろかかるべし。
はた、御恵みかうぶりぬる御妻達も、いとあまたおはせれば、かたがたに、ほしあへぬ袖の気色、いまはと見おくらせ給はむ、なべての御心地、世の中の歎きの限りを尽すめるに、折しも空さへただならず、催しがほにほろほろと降りかかるもあやにく也。
近う仕うまつれる男には、薙髪とて、もとどりを切て、今日の御供に従ひ奉る人々あまたあり。女房たちは、尼になり給ふかたがた多かりなど聞ゆ。
御内通りは、山里吹上より、矢来の御門まで、はたまち斗のほど、たたみ敷きわたし、空に雨おほひし、皆白栲にかざりまつりて、御柩の御車引奉ることとぞ。
夫より御輿にすゑ奉り、御読経有りて、竹橋・一ツ橋・筋違などいへる御門々、
ちまたはさら也、御山の内までかため、さるべき人々うけ給りぬとぞ。
今は古き世の手火には光りかはりて、挑灯とふ物、間なくたてつらね、其のひまひまに提に水をもりて、警衛したる事おびただしとなむ。
御輿かき、皆白き浄衣きたる、千人に余れりとぞ。大方世の中の人仕うまつらざるはまれなるべし。此のわたりだに、かう打しめれれば、まして其御道筋の家ども、いか斗にかとおしはからる。
御おくりの連は、いとことごとしう、記さむもわづらはしければとどめつ。
御霊屋は、数の限りあればか建られず、先つ御祖のと、一つ殿に座さしめ給へりと聞ゆ。
此御山の桜、とく咲く花は今盛也と聞ゆるに、去年といひ今年といひ、ゆゆしき御事うちしきり、花もてはやす人もなう、あたら盛を過すめり。
昔より木草の花なむ、人のうれひをもしらず、色めきわたるにつけ、見る人の心々に、常ならぬ世のうらめしさを、花に付てかこちつつ、打ち歎きつる言の葉ども、げにさる事也。
今天の下のかなしびを、しらずがほに咲き匂ふらむさま、おもひやりて、
鶏が鳴あづまの比叡の山ざくら此世をよそに花さけるらむ

廿一日、天気静也。きのふいささか雨降りしが夕付てやみぬ。
今朝、御気色うかがひあり。御定によりて、ここの人々も月代そりぬ。かの御葬、けさの卯のはじめまでに、事無ふはてさせ給へりとぞ。其御ことしろしめすまで、上、おほとのごもらせ給はず、御前の人々はさら也、なべて夜ひとよまどろむことなしとなむ。
昨日より屋作りする事なむゆりたる。今日より御法はじまりて、たたむ月の八日のまで、らゆる御経ども読誦あり。
大御台所よりも、おこなはせ給ふ。はじめの日は、百光明供、胎曼供、それより御七日七日をわかちて、八講、論儀、六道講式、布薩戒、法華三昧なと、なほ種々の御法ども、さる方にたふときかぎりなめり。中にも胎曼供、金曼供、合曼供、をば三曼供とかいひて、殊にいみじき御こと也とぞ。
是にあづかり給ふ御司々の人々、それ果るまで警衛仕うまつれりとなむ。
はた、芝の御寺にも御読経せさせ給ふ。かの垂仁天皇の御世に定め給へりし、石城作り、土師部など聞えしものども、今はとなへこそ変れ、みな御墓のことに仕うまつるめり。
此太政大臣の上、久しう政事しろしめしたる御栄のたぐひなきにそひて、後の御有様、天の下ゆすりみちたる御ひびき、御墓の岩がまへ、御宝塔の御あらましなどの、又なくいみじきことと、世に沙汰するを聞て、さばれ人の世の限りある南、あぱれなる物には有けるなど、おもひつつ、
万代に朽ぬ物から何しかも岩戸をたててかくりますらむ
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

『ドナルド・キーン 知の巨人、日本美を語る!』

●小学館の『和楽ムック』から『ドナルド・キーン 知の巨人、日本美を語る!』が出た。2017年6月18日発行、定価2400円+税。95歳になる、日本文学研究者の今を伝える。

●1922年、ニューヨークのブルックリンにて生れた。89歳でコロンビア大学を退任。最終講義は「能」について。文化勲章受賞。90歳で日本国籍取得。
●〔日記が物語る、日本文化〕の項で、『蜻蛉日記』について、次の如く述べておられる。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
『蜻蛉日記』を書いた女性は古い物語をかなり読んだが、読むたびに、そこにえがかれている情熱的な恋愛と自分の人生とを比べてみずにはいられない。こうした物語は完全な作り事だが、身分の高い女性の人生とは本当はどういうものなのか、何の虚構も交えず書いてみたら一興ではなかろうかと思い、それを日記を書く目標にした。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
●平安朝日記文学の白眉『蜻蛉日記』は、後世に燦然と文学的光を放っている。
私は、キーン氏の労作『百代の過客』の特別装丁本の出版記念会に出席させてもらった。キーン氏が『井関隆子日記』を取り上げてくれた関係である。当時の有名な作家など、多くの方々にお目にかかれた。
●この記念会の折、コロンビア大学の、キーン氏の教え子の女性とお話した。彼女は、『井関隆子日記』を英訳したいと言っていたが、まだ、出版されてはいないようである。楽しい、思い出である。

■『ドナルド・キーン 知の巨人、日本美を語る!』

今もなお、旗本夫人

散財さんの完全散財!

2017.06.065月の読書録(☆)

 さてさて。なんだかまただいぶん久しぶりな気もしますが、6月にはも入ったということで、先月5月の読書録であります。
読書管理がブックフォワードに変わった関係で、ちょっと体裁も変わっていますが。と言うより、エクセルに吐き出したデータから体裁を整えるのがなかなか大変で、これで四苦八苦しておりました……。

双亡亭壊すべし(4) (2017/5/2)
ジグソークーソー 空想地図研究会 (2) (2017/5/2)
鬼滅の刃 6 (2017/5/2)
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:レガシー (2017/5/7)
ヴィジランテ-僕のヒーローアカデミア ILLEGALS- 1 ヴィジランテ―僕のヒーローアカデミアILLEGALS― (2017/5/8)
ORIGIN(1) (2017/5/8)
ORIGIN(2) (2017/5/8)
人形の国(1) (2017/5/9)
旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記 (2017/5/10)
マーベル宇宙の歩き方 THE COMPLETE MARVEL COSMOS (2017/5/16)
ヒットマン3 (2017/5/20)
ヒットマン4 (2017/5/20)
ヒットマン5 (2017/5/20)
EX-ARM エクスアーム リマスター版 7 (2017/5/25)
新潟「地理・地名・地図」の謎 (2017/5/25)

なんかまたずいぶんさらっとしてしまいましたが。
5月は点数は少なかったものの、非常に面白いものが多い月でした。まずなによりも挙げなくちゃいけないのは「旗本夫人が見た江戸のたそがれ」。この人が大岡越前や鳥居耀蔵、勝小吉とかと同時代人だと考えると、なおさら面白みが増します。
第一話の圧倒的なドライブ感からぐいぐい引っ張る「人形の国」は有無を言わさぬ力強さ。「マーベル宇宙の歩き方」は、最近世界設定が大きく変わったマーベル世界の、最新の事情を総括できる、世界設定中毒患者にはまったくたまらないガイドブックの上物。「ヴィジランテ」、ヒーローアカデミア本編で語りにくい「世界のそのほかの部分」を、特に物語からこぼれ落ちた視点で描いているのが魅力なのに、これがまた全然単独でもすごい面白い、と言う、これこれ感のあるエクストラストーリー。これは正直楽しみ。
ORIGINは絵の凄さに引かれて買ったんですが、お話もこれまた、社会に溶け込み潜伏しようとするロボットの話で。とても続きの気になるところ。
そしてアメコミ者の末席としては、とても見逃すことはできなかったヒットマンの一気三冊続刊。これが読めて本当に良かったなあ、と思いつつ、スーパーマンさんはでもほんとにいい人なんだな、と感慨を深くする。読めて良かったと思った三冊でした。色々重かったですが。

とまあ、そんなかんじでさらっと。5月の読書録でありました。

コトバンク 井関隆子 いせき たかこ コトバンク 井関隆子 いせき たかこ

コトバンク 井関隆子 いせき たかこ

コトバンク 井関隆子 いせき たかこ

井関隆子 いぜき たかこ
①デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

井関隆子 いぜき-たかこ
1785-1844 江戸時代後期の歌人。
天明5年6月21日生まれ。30歳ごろ西丸納戸組頭井関親興の後妻となったが,42歳のとき死別。和歌,国学をおさめ,大奥につとめた。天保(てんぽう)11年から15年までの「井関隆子日記」には800首余の和歌がしるされ,当時の世相をつたえる貴重な史料とされる。天保15年11月1日死去。60歳。江戸出身。本姓は庄田。歌集に「井関隆子長短歌」。
出典|講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

②朝日日本歴史人物事典の解説

井関隆子
没年:弘化1.11.1(1844.12.10)
生年:天明5.6.21(1785.7.26)
江戸後期の旗本庄田安僚の娘。名はキチ。江戸生まれ。30歳ごろ,旗本井関弥右衛門の後妻となる。特定の師につかず,蔵書を熟読して独学で古典への理解を深めた。天保11(1840)年から他界する20日前の弘化1(1844)年の約5年間の日記には,江戸城内の動きや世間の事件,家族の動向,自身の文化活動を記述している。そのなかには公の記録より真実を伝えるものも多い。仏者や儒者には好感を持たず,国学的思想や平安朝文学などに影響を受け,『神代のいましめ』,『さくら雄物かたり』(1838)などの擬古物語も著している。<参考文献>深沢秋男校注『井関隆子日記』全3巻
(柴桂子)
出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

③367日誕生日大事典の解説

井関隆子 (いせきたかこ)

生年月日:1785年6月21日
江戸時代後期の旗本庄田安僚の娘;日記作者
1844年没
出典|日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について | 情報

井関隆子の関連キーワード |ベルトレ |井関隆子 |バンディエラ兄弟 |曲芸 |ペテーフィ |マルクス経済学 |三ツ峠山 |稲葉小僧 |功子内親王 |藤枝外記
井関隆子の関連情報
旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記 [著]深沢秋男(2007-12-16)
朝日新聞 DIGITAL
VOYAGE GROUP
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

④井関隆子  ウィキペディア 深沢秋男執筆
井関 隆子(いせき たかこ、1785年(天明5年)6月21日 – 1844年(天保15年)11月1日)は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した歌人、日記作者、物語作者。
目次 [非表示]
1 来歴
2 著書
3 書写本
4 脚注
5 参考文献
来歴
幕臣、大番組・庄田安僚の四女として、四谷表大番町(現在の新宿区大京町26の辺)に生れる。20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、23歳の頃に離婚。30歳の頃、納戸組頭・井関親興と再婚、2人の間に子は無かった。井関家の屋敷は、九段坂下(現在の千代田区九段1-5の辺)にあった。文政9年(1826年)に夫が没し、以後は、本を読み、歌を詠じ、日記や物語を書いて悠々自適の生涯を送ったという[1]。
著書
『井関隆子日記』全12冊
著者の自筆本が、昭和女子大学図書館に所蔵されている。天保11年1月1日から同15年10月11日までの898日間の日記。その日の天候、地震、四季折々の自然の変化、その日その日の出来事、様々な見聞、人物・社会・政治・学問・文学などに対する批評などが記されている。特に、子の親経や孫の親賢から伝えられる、江戸城内の様子が詳細に書き留められている。江戸時代の日記文学としても価値があり、また、当時の歴史的資料としても価値がある[1]。
『さくら雄が物かたり』 6巻1冊
著者の自筆本。東北大学附属図書館・狩野文庫蔵。内容は、平安朝の『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』などの構想を借りて、現実の仏教界を厳しく批判したものと解釈される[2]。
『神代のいましめ』写本、墨付28葉
昭和女子大学図書館所蔵の、鈴木重嶺の「翠園叢書」の、巻26の中に収録されている。内容は、平安朝の散逸物語『隠れ蓑』などに構想を得て創られた物語で、首席老中批判を通して、人間の表裏の二面性を描いている[1]。
『いなみ野』吉海直人氏所蔵の写本『物かたり合』墨付54葉の内、5葉
播磨の国、印南野を舞台にした物語である。隆子は、すすき・尾花が大好きで、その思いを作品化したものと思われる[3]。
『井関隆子長短歌』
『秋野の花』に短歌が収録されている。その外、『井関隆子日記』にも800首ほどの、長歌・短歌が収録されている。
書写本[編集]
桑原やよ子著『宇津保物語考』 写本1冊、静嘉堂文庫蔵。
蔵田茂樹著『恵美草』 写本1冊、国立国会図書館蔵。
吉田兼好著『徒然草』 巻子本1巻、箱に「雅文 源隆子」とあり、『徒然草』第15段、第189段の書写[4]。
脚注
[ヘルプ]
^ a b c 深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
^ 新田孝子「井関隆子の文芸―館蔵『さくら雄が物かたり』の著者」(『図書館学研究報告』東北大学、13号、1980年12月)
^ 吉海直人「新出資料『物かたり合』の翻刻と解題―井関隆子周辺の創作活動―」(『同志社女子大学 日本語日本文学』8号、1996年10月)
^ 吉海直人「〈新出資料〉井関隆子自筆『雅文』の影印と解題と紹介」(『文学研究』91号、2003年4月)
参考文献[編集]
『井関隆子日記』全3巻、深沢秋男校注、勉誠社、1978年11月 – 1981年6月。
ドナルド・キーン「井関隆子日記 ①・②・③(百代の過客―日記にみる日本人―)」朝日新聞、1984年4月4日 – 6日
深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』文春新書、2007年11月
真下英信『古代ギリシア史論拾遺』私家版、2008年2月
真下英信「『井関隆子日記』に見られる地震の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』26号、2009年3月
真下英信「『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』29号、2012年3月
真下英信「音で読む『井関隆子日記』:天気の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』30号、2013年3月
真下英信「音で読む『井関隆子日記』:鳥」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』31号、2014年3月
真下英信「音で読む『井関隆子日記』:物売り」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』32号、2015年3月
→ 井関隆子 http://www.ksskbg.com/takako/index.html

⑤井関隆子日記  はてなキーワード 深沢秋男執筆
読書
井関隆子日記いせきたかこにっき

目次
井関隆子日記とは
言及しているブログ
関連ニュース
関連キーワード

1、 著者 井関隆子

井関隆子(いせき・たかこ) 幕末の旗本の主婦。天明5年(1785)6月21日出生~天保15年(1844)11月1日没、60歳。
江戸・四谷表大番町で生れた。現在の新宿区大京町26の辺である。父は大番組・庄田安僚である。
隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本、庄田安信を祖とする庄田家の分家である。庄田本家の第3代安勝は長男安利に2千6百石を与え、次男安議に4百石を分知して、これを分家とした。

安議を祖とする分家の庄田家は、延宝5年(1677)3月、四谷表大番町に6百60坪余の屋敷を拝領した。隆子はここで生れ、育った。
父は、分家4代の大番組・庄田安僚で、隆子には、3人の兄、3人の姉、1人の妹がいた。
父・安僚は、隆子が8歳の時に没したので、隆子は母親と長兄・安邦の下で成長した。
20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、間も無く離婚し、しばらく実家にいたが、30歳の頃、納戸組頭・井関親興の後妻として井関家へ嫁いだ。
嫁ぎ先の井関家は、江戸城に近い九段坂下の飯田町にあった。これは、井関家が代々、小納戸組や広敷用人など、将軍の側近くに仕える家柄であったためである。
井関家に嫁いでからも、暫くは旗本の主婦として多忙であったと思われるが、12年後に夫・親興が没し、家督を子の親経が継いだので、家庭の切り盛りも、親経の妻が引き継ぎ、隆子は悠々自適の生活を送ることになる。このような生涯を見わたすと、家庭環境の上でも時間的にも、比較的に自由に、文筆の道に打ち込む事ができたものと思われる。
隆子は、古学を教える塾に学んだり、冷泉流の老女に歌の指導を受けたり、また、国学者の林国雄を家に招いて講釈を聞いたりしたようであるが、いずれも満足できるものではなかったようである。結局は、賀茂真淵や本居宣長などの国学関係の本を読んで、独学で古典の知識を身につけ、教養を蓄えていったものと推測される。
隆子の著作には、『井関隆子日記』『さくら雄が物かたり』『神代のいましめ』『いなみ野』などがある。

2、『井関隆子日記』(いせきたかこにっき)

幕末・旗本主婦の日記。著者の自筆の原本が、昭和女子大学図書館・桜山文庫に所蔵されている(鹿島則幸氏旧蔵)。大本、12冊、合計966葉、毎半葉11行、1行約29字、挿絵18図、鹿島則文・鹿島敏夫の識語を付す。
内容は、天保11年(1840)1月1日から同15年10月11日までの日記。著者56歳から60歳までの5年間であるが、毎日記されている訳ではなく、全1753日間の内、898日について記されており、1日の分量も小は2行程度のものから、大は12葉(24ページ)に及ぶものもあり、必ずしも一定していない。各年の分量は、最初の11年が最も多く4冊、以後は各2冊と半分になっている。これは、12年以後、年中行事などの記述を省いたためと推測される。
『日記』に書かれている具体的な内容は、日付、その日の天候、地震、四季折々の自然の変化、その日その日の出来事、様々な見聞、幼い頃や若い頃の思い出、人物・社会・政治・学問・文学等に対する批評、折々に詠じた和歌などが、著者の意のおもむくままに記されている。
特筆すべき点は、著者の子の井関親経(ちかつね)が、御広敷御用人を勤めていて、第11代将軍・徳川家斉の正室・広大院(松の殿)の係であったところから、当時の江戸城大奥の様子が詳細に伝えられていることである。

【テキスト】

『井関隆子日記』全3巻(深沢秋男校注、昭和53年(1978)11月30日~昭和56年6月5日、勉誠社発行)

【参考文献】

○深沢秋男著『井関隆子の研究』(平成16年(2004)11月1日、和泉書院発行)
○音で読む『井関隆子日記』:物売り
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第32号 2015年3月刊行
○補遺2“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第32号 2015年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:鳥
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第31号 2014年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:天気の記述
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第30号 2013年3月刊行
○補遺“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第30号 2013年3月刊行
○『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第27号 2012年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述 補遺
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第28号 2011年3月刊行
○井関隆子の自然を見る目
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第27号 2010年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」
第26号 2009年3月刊行

●『井関隆子日記』は、次の大学入試に出題された。
〔3〕 平成23年度、京都大学入試に『井関隆子日記』出題
〔2〕 平成20年度、明治大学入試に『井関隆子日記』出題
〔1〕 平成11年度、センター入試に『井関隆子日記』出題
この年、国語・古典と日本史に出題された。

〔二葉亭餓鬼録〕氏のブログ

●二葉亭餓鬼録氏のブログで、『井関隆子日記』を取り上げている。以前にも取り上げておられた。改めて、このブログをチェックしてみたら、大変なボリュームである。見たこと、聞いたこと、考えたことを記述する、とある。これは、私も同じ基準であるが、足許にも及ばない迫力である。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

井関隆子の日記。

2017年04月26日(水) 11時52分41秒

テーマ: エッセイ
井関隆子の日記。

さいきん若い人と寿司を食べながら、ドナルド・キーン氏の話をした。「ドナルド・キーン賞」の授与式が5月6日にひらかれる。それを前にして、彼らに「井関隆子日記」の話をした。
井関隆子?
そういっても、だれも知らない。で、以前書いた話をここに転載する。

幕末の時代に、オランダ人との交渉を書いた文書を読む過程で、ぼくは、そのころの時代を記録した「井関隆子日記」という書物があることを知った。
これはドナルド・キーン氏の書いた「百代の過客」を読んでいて知ったものである。井関隆子の日記は、昭和47年(1972年)、深沢秋男先生によって発見され、それまで、この日記の存在はまったく知られていなかったというのだが、その6年後、深沢秋男先生は、注釈つきの3巻本として出版された。それで知られるようになった。
これに注目したのはドナルド・キーン氏だった。これは興味深い日記で、幕末期のドキュメントとして、馬琴の日記とくらべてみると、その文学的な価値は、それよりずっと凌駕しているという。ぼくは、そういう側面から読もうとはしなかったけれど、幕末期の日本をもっと知りたいという動機から、この本に注目した。
そのころの隆子の日記は、清少納言に匹敵するとまでいわれたそうだ。ところが、清少納言のような機知に富んだものではなく、自分の感じたこと、考えたことをありのままにつづった日記で、その綴り方が歯に衣着せぬところが魅力的で、これまた清少納言とはずいぶん趣きが違うおもしろさがある。
隆子が日記をつけはじめたのは、天保11年(1840年)から15年までで、彼女が56歳から60歳までのあいだにつづられたものである。日記の最後の日付けから3週間後に彼女は亡くなっている。
天保年間における日本人の暮らしを呼び起こしてくれる史料としては、たいへん貴重なもので、この日記の原本は、関東大震災で焼失してしまったと書いたが、さいわいにも、昭和女子大学図書館にて所蔵されているという話を、このたび、深沢秋男氏ご本人から直接メールをいただいたので、ここに訂正させていただく。

日記は、「関東大震災で消失してしまい、明治になって饗庭篁村らがつくった抜粋版によるしかなくなった」と書いたが、これは、ドナルド・キーン氏の「百代の過客」によるもので、饗庭篁村らがつくった抜粋版というのがほんとうに存在するのかどうか、ぼくにはわからない。
隆子は、文政9年(1826年)に夫が亡くなり、国学の勉強をはじめるようになったと書かれている。おそらく、だれの教えを乞うたというのではなく、みずから独学で勉強したのだろうといわれている。「古事記」「日本書紀」や、その周辺の史書はもとより、加茂真淵、本居宣長その他、国学者の著書をむさぼり読んでいる。当時はだれでもそうだった。とくに宣長には、称賛のことばを惜しまない。
隆子のナショナリズムは、当時日本が、内外の脅威にさらされていることに危機感をつのらせた結果であろう。たとえば大塩平八郎の乱には、隆子の憎悪が見え隠れしている。
大塩のことを「大盗人(おほぬすびと)」と呼んでいる。
そして隆子の蘭学嫌いは、ことのほか徹底し、オランダ書を学ぶような日本人なら、将来、国を裏切るであろうとまでいっている。そのころ、書物奉行をかねていた高橋景保には、怒りをあらわにしている。このようにいう言論の自由が保障されていたという証拠でもあり、ぼくは事実はどうあれ、隆子の目に映った現実を理解しようとした。
隆子は日本人をとても愛している。ひとりの男が拷問によって殺され、その死体を塩漬けにして捨て置くという報せに、憤りを感じる女性だった。同時に、オランダ学を嫌ったように、オランダ学を勉強する人間まで嫌っている。蘭学などに手を出すから、こういう目に遭うのだとも書かれている。
彼女の愛国心は男性的で、それほど極端だったといわれている。そういう女性だから、彼女の日記は、ぼくにはとても魅力的なものにおもえる。オランダ人が数々の科学的な発見をしたことを吹聴するのを聴いて、いぶかっている。たとえば「地球は丸い」というのを聴いても、町人同様、にわかに信ずることができず、そういうことは、遠方より観察するしか方法はないといっている。隆子の科学への反発は、近代的思想に向けても、かたくなに反発している。
蘭学にたいする嫌悪はあっても、隆子には、信じられないほど弱点があった。
それは医学にかかわることで、当時、天然痘がはやり、オランダ医学はこれを治すことができるという考えには、どういうわけか、隆子らしい反発を少しも示していない。人間の上下に関係なく、天然痘はだれにでもかかる恐ろしい病いで、たとえ将軍でも、将軍の殿中にいたものでさえ、これを免れることはなかった。
隆子の孫が、じっさいに天然痘にかかり、そのときはおとなしくオランダ医学に頼っている。当時のオランダ医学といっても、たかが水灸である。それをほどこせば、天然痘も治せるというので、みんな長崎のオランダ人医師に会うために出かけていった。隆子はそういう庶民を見て、何もいっていない。
オランダ人が持ち込んだ近代医学というものの真価は、だれにもわからなかった。天然痘にかかってはじめて、異国か持ち込まれたクスリを用いることの正当性について、隆子も諾々と従っている。いっこうに疑問を持つ気配がない。
そうかといって、隆子がオランダ医学のことを多少なりとも知っていたとはいいがたく、未曽有の猖獗(しょうけつ)をきわめた天然痘については、ただおそろしいとしか書かれていない。しかし、この「井関隆子日記」は、その時代の世の中のようすを、あますところなく伝えているのには変わりなく、信じがたいほどの話題の多さに驚かされる。そのひとつひとつが、非凡な女性の目を通して書かれ、その明敏な知性は、特筆される。

【以下省略】
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

在庫書店

●拙著、『旗本夫人が見た……』が、書店で品切れになった。10年経って、ようやく売り切れたか、そう思ったら、まだまだ、在庫はあった。出版は、実に難しい。私は、これまで、研究書を70冊ほど出して来た。しかし、殆どが、発行部数300部、500部、というもので、中には、限定50セット、というものもあった。これらは、現在、大部分が発行元には在庫が無く、古書店で流通している。

●今日、念のため、文藝春秋のHPを見たら、まだ、品切れではなかった。一部の大型書店には在庫していた。現在の出版流通とは、このようなシステムである。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
文春新書
井関隆子のエスプリ日記
旗本夫人が見た江戸のたそがれ
深沢秋男
定価:本体730円+税
発売日:2007年11月20日
書店の在庫を確認>
オンライン書店で購入>作品紹介
こんなに近代的な女性がいたなんて
離婚し、再婚。家族に慕われ、酒を愛し、充実の生涯を送った賢夫人が書き綴った日記を発掘。知られざる江戸城の最奥部に、ご案内!

担当編集者より
歴史は新しい事実の発見によって修正を迫られます。つまり、歴史とは「常に書き直される運命にある」と著者。幕末期、江戸は九段に住む井関隆子は、おそろしく開明的な女性でした。自宅でサロンをひらき、天保の改革を批判。大奥や好色僧の不祥事にも興味津々。離婚し再婚。未亡人となり、血縁関係のない家族と円満に暮らします。なんと江戸の近いこと! 近代の自我をもつ女性の登場です。(WM)
商品情報
書名(カナ) イセキタカコノエスプリニッキ ハタモトフジンガミタエドノタソガレ
ページ数 232ページ
判型・造本・装丁 新書版
初版奥付日 2007年11月20日
ISBN 978-4-16-660606-1
Cコード 0221
著者
深沢 秋男

書店在庫
各書店のリンクを選択すると、この書籍の在庫検索ページへ移動します。

紀伊國屋書店
丸善&ジュンク堂書店
三省堂書店(本店のみ)・岩波ブックセンター
旭屋書店
有隣堂
TSUTAYA
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

江戸の名所と美女 飯田町

●【メタポンのブログ】に、「江戸の名所と美女 飯田町」  2016-09-25 06:39:35 がある。酒好きの井関隆子のことに触れているのて、少し引用する。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
絵を見ると、並行する3本の坂道が見えます。
一番左は九段坂、或いは田安坂とも言います 。
由来は、土留が九段あったからとも、坂沿いの家が
九段あったからとかの説が有ります。

今も、急な坂であり、坂の左は牛が淵という堀があります。
これは、銭を積んだ牛車が、この淵に落ちて、
遂に登ることが出来なかったという故実にあります。

九段坂を登ると田安門が有り、千鳥ヶ淵に至る。
千鳥の形に名ているからともいう。

隣の中坂との間の町を飯田町と云います。
中坂の途中に、世継稲荷社が有ります。
2代秀忠の由来が有ると社史は伝えている。

真ん中の坂が中坂、一番広く、荷車が見えます。
ところが、「東京府資料」によると、
九段坂の幅は16間合、中坂が9間7号、
もちのき坂は4間であり、九段坂が一番広い。(約29m)
しかし、中坂にのみ、荷車があることから上り下りには
一番平坦な道だったのでしょう。

江戸は起伏の多い土地で、坂だけでも300あると
云われてます。
坂の所に居て、荷車を押す仕事もあります。
これは明治になってもよく見かけたそうです。
九段坂などは現代よりもはるかに急であったのです。
他の坂も同様で、ちょっとした坂の所には男が立ってました。
大八車などを押して小遣い稼ぎをするのです

一橋家に嫁入した元大垣藩の姫・徳川元子は、
毎朝、学習院に通学の時、人力車で通うのですが、
この九段坂に来ると、車夫が可哀相で
自分が下りて押してあげようかと、何時も、申し訳なく
思っていたそうです。

右側の坂は、もちの木坂。
坂の上の青山家の庭に、もちのきの大木が有ったからともいう。

川は飯田川、橋は俎板橋。火の見の辺りは、
荷上げ場になっていて、材木が山積みになっている。
何処の川でも同じだが、いつも舟が一杯である。
荷物を満載した舟、荷上げを待っている舟、
江戸は水路で成り立っているという事実が実感として良く判る。

飯田町は武家屋敷が大半だが商業地も少しあった。
特に葉茶屋とお菓子屋が多かったようである。
そして酒も売っていたようで、度々登場する旗本婦人の
井関隆子の屋敷は、この近くにあったが、大の酒好きな
隆子は日記でこう述べている。

「近頃酒が高くなっている。
元からある剣菱や滝水は最近味が落ち、名前だけである。
それに比べて新川で売っている酒は良い。
ここの飯田町で売っているものは劣るので買わない。」

新川というのは新酒が上方から到着する様子を描いてますが
新川河岸のことでしょうか、
そこで小売もやっていたのでしょう
【以下省略】
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●『井関隆子日記』天保14年1月3日の条に、次の如くある。

「近きころ、価のしやしうなれりしは酒なり。さるは、もと滝水・剣菱などいふたぐひ名のみいみじう記しつつ、其の品いたくおとりたり。此の物、新川にてひさぐは、其の中によろし。ここの町なるは、殊にあしければ、買はず。」

●隆子は、大の酒好きで、よく、家族が集まって、月見だ花見だと、酒を飲んでいる。子の親経は、余り酒を飲めないが、孫の親賢は、酒が好きで、隆子と2人で、よく飲んでいる。