沖田総司の誕生日

沖田総司の誕生日

  • 2020.10.12 Monday
沖田総司の誕生日は7月15日か その3
2020年02月11日 09:00
『津山藩江戸日記』にあった

「五月廾八日  晴嵐」

の記載。
沖田総司の誕生日は、果たしてこの日なのか?

歴史天候データベース(以下、歴史天候DBと表記します)では、この日の天候は「晴」と「小雨」となっています。
「小雨」と「嵐」では、だいぶ違います。

他の日記等を探してみたところ、江戸の女流歌人・井関隆子日記に、雨が降り風も吹いたという内容の記載がありました。

その他、江戸の藤岡屋日記、横浜の関口日記、武蔵村山の指田日記、八王子の石川日記の5月28日を調べた結果、以下の表のようになりました。

表を見ると同じ江戸であっても、まちまちです。

歴史天候DBと津山藩江戸日記に共通するのは「晴」と「雨」。
対して津山藩江戸日記と井関隆子日記に共通するのは「雨」と「風」です。
前日から横浜に強い南風が吹いているので、江戸にもこの風が吹き込んでいた可能性があります。
風はあったとみていいでしょう。

では、雨はどうだったのか。

井関隆子日記には雨の程度は書かれていませんが、この日隆子は午前11時ごろ、仏事で寺へと外出しています。
雨のため駕籠で行ったようですが、外出できないほどの暴風雨ではなかったことがわかります。

歴史天候DBも「小雨」としているところを見ると、大雨ではないが風が強かったため、津山藩江戸日記では「嵐」と表記したとも考えられます。

藤岡屋日記には、天気の記載はありませんが
「両国夜見世開、花火有之」
とあります。

この日は、隅田川の川開きの日でした。
8月28日までの夕涼み期間のみ、日没までしか営業できなかった両国橋あたりの料理屋などに、夜半営業が許可されるそうで、その初日ということでしょう。
そして、花火もあがった、ということは、夜には晴れていたことになります。

津山藩江戸日記の天候は時系列で書かれていることが多いので、「晴嵐」は、晴が先でしょう。
とすると、この日は
晴→小雨→風も吹く(嵐)→夜には晴
であったのかもしれません。

「ひどい大暴風雨」でしたら印象も強く、記載が一致すると思われるので、
やはりこの日の雨はそれほどではなかったのではないでしょうか。
また晴もあるので、「大変に暗い日」にも一致しない可能性があります。

一方、6月8日(新暦7月15日)はこうなっていました。

八王子以外は薄曇りから大雷雨で一致しています。
広範囲で悪天候であったようです。

この日の井関隆子日記には、

「未のくだちいかづちなりふためくと思ふほど、雨ふる事いといみじう、いはほも何も打とほしぬべく、いとおどろおどろし。やり戸をもさしあへぬ間に風さへあれて吹き入り」

とあります。

大まかに訳すと
「未刻の後半(4時前くらいか?) 雷が鳴り、ひどい雨が降って来た。岩も貫いてしまうに違いないくらいの雨で、ひどく恐ろしい。戸を閉める間にも風まで荒れて吹き入ってきた」
という感じでしょうか…。

この日の雷雨ははっきりしていましたが、この日記で、かなりの強風であったことがわかります。
まさに大暴風雨です。

前回、津山藩江戸日記での「曇 晩雷雨」の「晩」を、夜と解釈してしまいましたが、
正確には「夕方」のことだそうです。
失礼しました。

夕方とすれば、井関隆子日記とも一致します。

6月8日は、朝から曇りで、夕方から大暴風雨。
「夏」 「たいへんに暗い日」 「大暴風雨」
の条件を満たしています。

以上の事から、沖田総司の誕生日は、やはり天保13年6月8日(新暦7月15日)ではないか、
と考える次第です。

【今回の引用・参考文献等】(敬称略)
・歴史天候データベース・オン・ザ・ウェブ 吉村稔
・津山藩松平家「江戸日記」 津山郷土博物館
・井関隆子日記 中巻 深沢秋男 校注 勉誠社
・藤岡屋日記 第2巻 (11~17(天保八年~弘化二年)) (近世庶民生活史料)
藤岡屋由蔵 [著], 鈴木棠三, 小池章太郎 編 三一書房
・横浜市文化財調査報告書 第8輯の9 横浜市文化財研究調査会 編 横浜市教育委員会
・石川日記 11 (郷土資料館資料シリーズ ; 第28号)
八王子市郷土資料館 編 八王子市教育委員会
・注解指田日記 上巻 武蔵村山市立歴史民俗資料館 編 武蔵村山市教育委員会
・隅田川の川開きについて レファレンス共同データベース
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德川将軍家をたずねて――江戸から令和へ――

德川将軍家を訪ねて――江戸から令和へ――

  • 2020.10.10 Saturday
  • 00:15

德川将軍家を訪ねて――江戸から令和へ――

昭和女子大学創立100周年記念特別展

カタログ

目次

ごあいさつ 

  学校法人昭和女子大学理事長・総長     
      坂東眞理子

「徳川将軍家を訪ねて――江戸から令和へ――」展の開催にあたって

  德川宗家第十八代当主・公益財団法人徳川記念財団副理事長
      徳川恒孝 

図版・資料解説

第Ⅰ部 徳川幕府を創った家康と歴代将軍

「『徳川の平和』の三つの柱」
  公益財団法人徳川記念財団副理事長館長
     徳川家広

第Ⅰ部 1章 平和を担った将軍と文化

第Ⅰ部 2章 家名存続に尽くした二人の正室

 「戊辰戦争期における天璋院と静寛院宮」

  公益財団法人徳川記念財団学芸員 岩立将史

第Ⅰ部 3章 伝統と近代化の両立を図った徳川宗家

第Ⅱ部 女性によって継がれた徳川将軍家と井関隆子日記

 「大奥ファーストレディとキャリアウーマン」
      東京学芸大学名誉教授  大石学

 第Ⅱ部 1章 将軍家の婚礼と大奥のくらし

第Ⅱ部 2章 大奥で愛でられた人形と小さき品々

 第Ⅱ部 3章 旗本夫人井関隆子が語る大奥のくらし

 「『井関隆子日記』と記録された江戸城大奥]
     昭和女子大学名誉教授  深沢秋男

徳川宗家ゆかりの地めぐり

徳川将軍家年表

出品目録/参考図版リスト

参考文献

謝辞・奥付

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特別展開催日時

日時:2020年10月3日(土)~12月5日(土) 11:00~16:00
  ※日月祝休館
  ※10月25日~11月6日は展示総入れ替えのため休館

共催:公益財団法人徳川記念財団

入館料:無料
場所:昭和女子大学光葉博物館
  (東京都世田谷区太子堂1-7-57)

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●昭和女子大学創立100周年記念特別展において、井関隆子を取り上げて貰えたのは、大変名誉な事である。徳川宗家の超貴重な資料と共に展示して頂けるのは、徳川家斉の御台所・広大院に、『浜松中納言物語』『萬葉集略解』を献上していた隆子にとっても、この上ない事でああろう。

●天保の井関隆子は、令和によみがえった。長年研究して来た、私にとっても大変な御褒美である。心から感謝申上げたい。

昭和女子大学 光葉博物館 秋の特別展

昭和女子大学 光葉博物館 秋の特別展

  • 2020.09.03 Thursday

昭和女子大学 光葉博物館 秋の特別展

2020/08/28
徳川将軍家を訪ねて ―江戸から令和へ— 第Ⅰ部 徳川幕府を創った家康と歴代将軍

昭和女子大学創立100周年記念 秋の特別展

「徳川将軍家を訪ねて —江戸から令和へ—」

第 Ⅰ 部 徳川幕府を創った家康と歴代将軍

【共催】公益財団法人 德川記念財団
※新型コロナウイルス感染の状況により、日程等変更が生じる可能性がございます。
ご来館前に当ホームページ等で最新の情報をご確認ください。

※ご来館者の人数により、入場制限を行う場合がございます。
※ご来場の際には、必ずマスクをご着用ください。感染予防にご協力願います。

期間

2020/10/03(土) 〜 2020/10/24(土)
開催時間
11:00 〜 16:00
休館日
日曜日・月曜日

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2020/08/28
徳川将軍家を訪ねて ―江戸から令和へ— 第Ⅱ部 女性によって継がれた徳川将軍家と井関隆子日記

昭和女子大学創立100周年記念 秋の特別展
「徳川将軍家を訪ねて —江戸から令和へ—」

第 Ⅱ 部 女性によって継がれた徳川将軍家と井関隆子日記

【共催】公益財団法人 德川記念財団
※新型コロナウイルス感染の状況により、日程等変更が生じる可能性がございます。
ご来館前に当ホームページ等で最新の情報をご確認ください。

※ご来館者の人数により、入場制限を行う場合がございます。
※ご来場の際には、必ずマスクをご着用ください。感染予防にご協力願います。

期間

2020/11/07(土) 〜 2020/12/05(土)
開催時間
11:00 〜 16:00
休館日
日曜日・月曜日・祝日

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●光葉博物館の、昭和女子大学創立100周年記念展に、徳川将軍家の貴重な史料とともに、将軍家の家臣として仕えた、将軍に側近く仕えた、井関家の主婦の日記、『井関隆子日記』が取り上げられて、隆子も喜んでいるに違いない。私も嬉しい。

書家・井関隆子

書家・井関隆子

  • 2020.08.21 Friday

書家・井関隆子

●あるサイトを見たら、井関隆子が物故書家の中に入っていた。

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物故書家一覧

相沢春洋(1896-1963年11月23日)日本書道美術院の創設に参画
会沢正志斎(1782-1863)江戸後期から幕末の水戸藩士
相沢龍雪(1928-1999年05月15日)日展会友、読売書法会理事、太玄会理事長
相沢六風(1886-1972)収(横浜市民ギャラリー)
相田みつを(1924?-1991年12月17日)仏教の教えや仏の心を平易な文章にした書を発表
会津八一(1881-1956年11月21日)歌人・美術史家・書家、号に秋艸堂人・秋艸堂・渾斎

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泉原寿石(1911-1987年05月25日)日展会員、読売書法展総務、謙慎書道会事務局長
出雲路敬通(1878-1939)京都かな書道界の代表的存在

井関隆子(1785-1844)江戸後期から幕末の歌人・日記作者・物語作者

伊勢屋光華(1916-2002年10月05日)毎日書道堂審査会員、奎星会同人

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●井関隆子の書も認められるようになった。はるか昔、鹿島神宮の桜山文庫を訪問した時、『井関隆子日記』に初めて出会って、同席していた妻は、隆子の書に惹かれ誉めていた。

●妻は、今関脩竹先生に書を指導して頂き、先生は、良い書体だと褒めておられた。私としては、妻に書を続けて欲しかった。九段の平安堂から羅門石の大きな硯を求めてプレゼントもしたが、妻は、書よりも美容師を選び、35年間、美容院2店舗を経営して、その人生を終えた。人には、それぞれの生き方があるものだ。

 

遠山の金さんから井関隆子を読む

遠山の金さんから井関隆子を読む

  • 2020.08.20 Thursday
【年寄りの歴史散歩】

遠山の金さんから井関隆子日記を再び読む
2020年08月19日 | 宅老のグチ

遠山影元(金さん)の時代。天保から嘉永にかけて今調べているが、井関隆子日記が引用されている例が目立ち,図書館から借りだし再びパラパラ読みをする。上・中・下巻の3冊があるが戸田氏栄が出てきそうなところとして中巻から読む。本の終わりにこの井関隆子日記を所蔵していた茨城県鹿島神宮の鹿島則文氏の経歴があった。
さらに鹿島氏の紹介の中に八丈実記(近藤富蔵著)があったのに、気が付きさらに読み進む。慶応元年に幕府により、八丈島に島送りとなり、近藤富蔵の世話になったようだ。八丈実記の序文に鹿島則文の名前があるのはこのような事情があった。序文から鹿島氏は北方領土のことを近藤富蔵から聞いていたと思われる。
石井研堂の明治事物起源(缶詰の始まり)にはあまり関係ない文があって、年代の誤りが多く、学者の引用・研究対象から外れていてこの記述の意図することは今でも解らない。

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〔年寄りの漬物歴史散歩〕

〔年寄りの漬物歴史散歩〕

  • 2020.08.09 Sunday

〔年寄りの漬物歴史散歩〕

東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

井関隆子日記 中巻
2011年05月28日 | 福神漬

井関隆子日記 中巻
天保の改革時代の幕府中枢部の情報を知り得た婦人の日記。
天保12年初めに徳川家斉が亡くなると天保の改革が始まった。この日記を書いた井関隆子は後にペリー来航時に久里浜でアメリカの国書を日本代表で受け取った戸田伊豆守氏栄の妹が嫁いでいた井関家に住んで優雅に生活をし、幕府の内部情報を記述している。

天保12年閏1月24日
西小姓組戸田寛十郎氏栄はようやく願いがかない徒士の頭となる。
天保12年2月27日
氏栄は井関家を訪問し、上野の御堂の様子を語る。
天保12年7月1日
氏栄は徒頭から使番に出世する。(使番とは幕府の職制の一種で目付けと共に遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する事となる。)
天保13年6月13日
戸田氏栄が井関家を訪れ、今の本郷6丁目付近にあった森川宿で水戸の殿様の下郎と2千石の侍の下郎とのいさかいがあったことを井関隆子が氏栄に質した。氏栄の森川宿付近にあって今の文京区小日向1丁目付近だった。
天保13年7月24日
井関家の家刀自(氏栄の妹)が21日に7年前に盗賊によって殺害された父の法要のため寺に赴き、ついでに実家に訪れた。そこで氏栄が駿府に、当時百日目付といわれていた駿府使番となり出発するという情報を得る。
天保13年8月14日
戸田氏栄が朝に井関家を訪れ、20日過ぎに旅立つと告げに来た。甲斐の国に立ち寄り、駿府に向かい,公事を処理し江戸に帰ってくるのは暮れになるだろう告げてあわただしく帰った。
天保13年9月3日
印旛沼埋め立ての記事。この様な話が出ていたと思われる。
天保13年12月14日
戸田氏栄が駿府から戻る。

天保14年の印旛沼工事に目付として戸田氏栄が出てくるにはこの様な経歴があった。

単行本の解説

単行本の解説

  • 2020.08.04 Tuesday
『井関隆子日記』 完結
• 2017.01.09 Monday

【4】井関隆子日記(下) 昭和56年6月5日,勉誠社発行,4500円。『井関隆子日記』天保14年・15年の4冊分を収録。巻末に索引と「井関隆子関係資料(補訂)」を収録。

井関隆子関係資料(補訂) 平成29年1月補訂

 上巻の解説末に「井関隆子関係資料」を掲げたが、その後知り得たもの等を追加し、次の如く補訂する。

 著 作

〔1〕 井関隆子日記(別名 天保日記)
   桜山文庫(鹿島則幸氏)所蔵。全十二冊。著者自筆の日記。本書に全文翻刻。現在は、昭和女子大学図書館所蔵(桜山文庫)。

〔2〕 さくら雄が物かたり
   東北大学附属図書館所蔵(狩野文庫)。著者自筆、全三十九葉の物語。奥書は「此たはれふみはある人文会とて月毎にかれ是つどひておのが心〳〵の文出しける時に物しはへりし也/天保とふとしの九とせ/鹿屋園のいほぬし/源隆子しるす」とある。
  内容 「えばらの君と桜の木の精の間に生れた桜雄が、花のやうに匂ひ、光るばかりに美しいので、人々がもてはやし、成長するに及んで求婚者がしきり、親はゆたかになるが、桜雄はすべて拒絶し、ある年の春おたぎ山の麓の河に投身して死ぬ。その河のほとりに桜の木があり、「残りなく散るぞめでたき桜花ありて世の中はてのうければ」の短冊をつけてゐたので、人々はこの河を桜河と呼んだ。
  『竹取物語』・『伊勢物語』・『源氏物語』などの構想を借りながら、近世的な散華の思想に彩られた擬古物語である。又、中世の児物語や軍記物の色も濃くあらはれてゐる。」(新田孝子氏)
  『図書館学研究報告』第十号(昭和52年12月、東北大学附属図書館発行)に新田孝子氏が全文翻刻。

〔3〕 神代のいましめ
  松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二十六に収録。現在は、昭和女子大学図書館所蔵、「翠園文庫」に収録されている。全二十七葉の物語。末尾に「此一巻は、井関親経朝臣の御母君におはしゝ隆子の君の筆ずさみ也。茂樹いむさき江門に在し時、御もとにまゐでけるに、見せ給ひしが、いと珍らかにおぼえつれど、何くれと事しげかれば、うつしあへざりしを、後に消息の序、其よしねぎ侍つるに、やがて御みづから書て給へるになむ。君今はなき員に入給へば、わすれ形見とかくは物し置ぬ。/弘化四年文月 松隠所」という、佐渡の歌人・蔵田茂樹の識語を付す。
  内容 主人公は公事に従事する某の少将で、経済的にも地位の上でも。また家庭の中もすべてに満ち足りた生活をしている。が、この少将は、ある時、平公誠の歌「隠れ蓑隠れ笠をも得てしがなきたりと人にしられざるべく」を見てから、隠れ蓑笠が無性に欲しくなる。近習に相談しても効果がないので、屋敷の内の大国神に祈願したところ、その甲斐があって、これを入手する事が出来る。この隠れ蓑笠に身をかくした少将は、無二の友や、少将の所へ出入りしている歌人や、家中のすべてを任せておく家長や、深い契りを交わしている女性などの所へ行き、自分に対する様々の批評や批判、予想外の行動に接し、驚き、怒り、悔しがる。そんな事を続けているうちに、長男に、隠れ蓑のみ着ているところ(首のみ見える状態)を見られてしまい、それを知った少将は、変な噂の立つのを恐れて、隠れ蓑笠を神に返す。
  『拾遺集』・『狭衣物語』・『宝物集』等を通じて、平安朝の散逸物語『隠れ蓑』を頭に浮かべ、更に『今昔物語』等に伝えられる隠れ蓑の伝承や『日本書紀』をも参照して一編とした物語で、天保十年には成っていたものと推測される。『文学研究』第四十六号(昭和52年12月)に全文翻刻。

〔4〕 井関隆子長短歌
  松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二十六に収録。蔵田茂樹に書き送った長歌三首と反歌等を収める。
  現在は、昭和女子大学図書館所蔵、「翠園文庫」に収められている。
  学習院大学図書館には『神代之誡』『井関隆子 歌』の写本が所蔵されている。これは明治十七年十二月に佐藤硯湖が右の翠園叢書から転写したもので、雕虫居写本全一六〇冊の内、第一四五冊目に収められている。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に全文翻刻。

〔5〕 野山の夢・跋
  蔵田茂樹著『野山の夢』の巻末に書き添えたもので、末尾に「天保とふ歳のとゝせ冬の中ら源隆子しるす」とある。巻頭の序は清水巡が記している。松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二十八に収録。『文学研究』第四十六号(昭和52年12月)に全文翻刻。現在は、昭和女子大学図書館所蔵、「翠園文庫」に収録されている。

〔6〕和歌一首
  蔵田茂樹の『恵美草』を書写した折、千畳敷の条に書き添えたもので。桜山文庫(鹿島則幸氏)所蔵本と『佐渡史林』所収本に見られる。歌は「いづくはあれど、こゝのあそびのいとうらやましくて、/すがだゝみ千重敷いそにうたげせるさどのしま人ともしきろ鴨  隆子」

〔7〕 和歌三首
  木内有渓編、天保四年刊の歌集『秋野の花』全三巻に「隆子」の歌として次の三首が入っている。
  上巻、九丁表、一首目に「夜春雨 隆子/宵のまはしられざりしを春の雨更ゆくまゝに音の聞ゆる」 上巻、二十九丁表、五首目に「夏風 隆子/月花と人はいへども夏の日に風ふくばかり嬉しきはなし」 中巻、十一丁裏、四首目に「月前菊 隆子/手にとらばこぼれやせまし菊の露月影乍らおらまほしきを」
  巻末の入集歌人一覧に「三首 同(江戸) 紀州家大奥侍女 隆子」とあるが、この「隆子」が井関隆子と同一人物か否か、現在のところ未詳である。参考のため掲げた。

 書写本

〔1〕 宇津保物語考
  静嘉堂文庫所蔵。。一冊。桑原やよ子の著作を隆子が書写したもの。書写は『井関隆子日記』と同筆で、巻末に、
  「此ふみは臼井房輝ぬしのもたるをかりてうつせる也/天保のとゝせとふ年の秋なが月  隆子」とある。

〔2〕 恵美草
  国会図書館所蔵。一冊。蔵田茂樹の著作を隆子が書写したもの。書写は『井関隆子日記』と同筆で、巻末に「天保十三年三月写之 みなもとのたか子」とある。

 著者関係

〔1〕 井関家過去帳
  井関家所蔵。菩提寺・喜運寺の過去帳より昭和九年に転写したもの。喜運寺の過去帳が焼失してしまった現在、貴重な存在である。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に全文翻刻。

〔2〕 井関家墓石(喜運寺に現存)
  正面 紋(丸の内に剱梅鉢)「賢良院殿徳翁宗善居士/慶長十四己酉歳四月十二日/一参道吸居士/慶長二十乙卯歳六月十二日」
  向かって左「井関家始祖近江国住人次郎右衛門親秀法号賢良院葬地不知右嫡男猪兵衛親正 法号一参道吸慶長二十乙卯年大坂御陳御供負深手於尾州熱田同年六月十二日死去葬地不知」
  向かって右「嘉永五壬子年十月再建/井関氏/普光院義山清道居士 昭和八年五月二十六日 清/花水豊徳大姉 昭和四十三年四月十三日 トヨ」 ★昭和56年4月「瑞光院花水豊徳大姉」と追贈された。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に全文翻刻。

〔3〕 庄田家系譜
  庄田家所蔵。正本と副本がある。

〔4〕 昌清寺過去帳
  昌清寺所蔵。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に一部翻刻。

〔5〕 庄田家墓石(昌清寺に現存)
  正面「寂光院殿通誉理徹居士/元禄十一戊寅年十月廿六日」
  向かって右「俗名/庄田五郎左衛門尉安議」『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に写真掲載。

〔6〕 井関親経・短冊「くもりなく西にかたふく月影にいやしのはるゝむかしなる哉 親経」 (千蔭翁年回に捧げる一首)北野克氏所蔵。

 調査・報告・論考

〔1〕 鹿島則文氏識語
  明治十五年の調査結果を記したもので『井関隆子日記』の原本に付されている。親賢の実家・戸張家の子孫と直接言葉を交わした様子も知られ、貴重な記録である。(本書・上巻、四二三頁)
〔2〕 国立国会図書館所蔵『恵美草』の書写者について
  深沢秋男。(『参考書誌研究』〈国会図書館〉第十一号、昭和50年6月)
〔3〕 桜山文庫所蔵『天保日記』とその著者について 深沢秋男。(『文学研究』〈日本文学研究会〉第四十二号、昭和50年11月)
〔4〕 或る旗本夫人の日記から見た江戸の風俗について――新資料『天保日記』の紹介をかねて――
  深沢秋男。(東京の歴史研究会・第一二四回例会、昭和51年2月21日、新宿区立中央図書館)  ★この内容は、口頭発表で活字化されていない。
〔5〕 井関隆子研究覚え書
  深沢秋男。(『文学研究』第四十四号、昭和51年11月)
〔6〕 井関隆子研究覚え書(二)――新資料『神代のいましめ』の紹介――
  深沢秋男。(『文学研究』第四十六号、昭和52年12月)
〔7〕 「さくら雄が物かたり」――館蔵稀覯本翻刻 1――
  新田孝子。(『図書館学研究報告』〈東北大学附属図書館〉第十号、昭和52年12月)
〔8〕 『井関隆子日記』の歴史的記述――徳川家斉の歿日について――
  深沢秋男。(日本随筆大成第三期二十三巻付録、昭和53年7月)
〔9〕 井関隆子作『神代のいましめ』について
  深沢秋男。(『文学研究』第四十七号、昭和53年7月)
〔10〕 井関隆子のこと
  深沢秋男。(掃苔会・月例会、昭和54年10月27日、芝増上寺)
   ★これは、口頭発表であり、活字化されていない。
〔11〕 井関隆子の文芸――館蔵「さくら雄が物かたり」の著者――
  新田孝子。(『図書館学研究報告』第十三号、昭和55年12月)
〔12〕 井関隆子日記の文芸性
  新田孝子。(日本文芸研究会・月例会、昭和56年1月17日、東北大学)

 【正誤表】  【省略 原本参照】
 この誤りについて、新田孝子・清水正男・新島繁、三先生の御教示を賜りました。厚く御礼申し上げます。

  付  記

 上巻を出してから、この下巻まで予想以上の日時を費やしてしまいましたが。これは全く私の事情によるもので、この点誠に申し訳なく思います。殊に桜山文庫の所蔵者・鹿島則幸様には、貴重な御所蔵本を八年間という長期に亙って借覧させて頂く結果になってしまいました。隆子自筆の孤本でもありますので、勉誠社の御配慮で全冊複写してフィルムを別に保管し、原本も使用しない時は銀行の貸金庫に入れ、この『日記』の保全に留意してきましたが、今、事無く桐箱入りの元の姿で御返却できます事を本当によかったと感謝しております。★昭和56年7月25日、御返却済みです。
 中巻刊行後、東北大学附属図書館・狩野文庫に隆子の物語『さくら雄が物かたり』が所蔵されていろ事を知り、新田孝子先生は以前からこの作品を手がけておられた事を知ることができました。これで隆子の作品は『神代のいましめ』(松本誠先生蔵)・『水鳥』(『日記』所収)と合わせて三つになりました。また、長い伝統をもつ掃苔会でお話しさせて頂いたお蔭で、北野克先生から隆子の子息・親経の短冊を見せて頂くこともできました。『日記』を核として、井関隆子という、今まで埋もれてきた一人の女性、一人の作者が次第に明らかになってきましたが、これは非常にうれしい事です。
 上巻刊行後、『日記』にお寄せ下さいました、諸先生のお心のこもった御批評は、この作業を続ける上で大かな励みとなりました。
 以上の皆様方に深甚なる感謝の意を表します。
 この下巻には『日記』以外の隆子の作品・書写本等を口絵として掲げることを得ました。これら諸資料の使用を御許可下さいました、東北大学附属図書館をはじめとする各所蔵者に対し、厚く御礼申し上げますと共に、この困難な出版を快くお引受け下さり、最後まで御高配を賜りました勉誠社に対し、心から感謝申し上げます。                                       
                       昭和五十六年一月十七日
                           深 沢 秋 男

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【追 記】

〔日記文学として〕

鹿島則文の〔桜山文庫〕の中に所蔵されていた、近世末期の女性に出会ったのは、昭和47年(1972)である。今から45年前になる。8年間かけて、全3冊の校注を終え、世に問うた。しかし、世間は甘くなかった。なかなか、日記文学としては認めてもらえなかった。私は、日記文学とは何か、という提言を繰り返さなければならなかったのである。
 仮名草子研究を8年間中断して取り組んだ仕事である。これが、日記文学として認められなければ、私の、この作品に対する文学的評価は誤っていたことになり、文学研究者としての生命は絶たれることになる。私にとっては、切実な問題だったのである。
 しかし、この作品をじっくりと読み、その価値を認めてくれる研究者が次第に出てきた。重友毅氏、田中伸、新田孝子氏、野口武彦氏、秋山虔氏、堤精二氏、ドナルド・キーン氏、江本裕氏、……。思いつくままに掲げると、このような方々が、日記文学として評価して下さったのてある。文学の解る方は、まだ、いると思う。私は、これらの識者に救われたのである。

〔大学入試問題に出題〕

〔1〕 平成11年度、センター入試・国語、本試験に出題
〔2〕 平成11年度、センター入試・日本歴史、追試験に出題
〔3〕 平成20年度、明治大学入試に出題
〔4〕 平成23年度、京都大学入試に出題

 大学入試問題に出題される、という事は、何を意味するか。その文章が一人前である、ということであろう。文章が水準に達していなければ文学作品の価値は無い。私が、この著作物を世に問う決断をしたのは、この文章であった。この文体は、当時の国学者流の擬古文ではない。井関隆子の文体である。しかも、間違いが少ない。約64万字の中で、誤りと思われるのは、10箇所前後に過ぎない。古代語ではなく、近代語である。驚くべき文章である。しかも、著者の意の赴くままに、いかなる内容も書き込んでいる。驚くべき熟達した文章力である。私は、大学入試に採用される度に、自分の校訂にミスは無いか確認した。幸い、これまでのところ、私のミスは無いように思う。校訂者の責任は、ここまで負わなければならない、と私は考えている。

〔優れた研究論文〕

『井関隆子日記』に関する研究も、最近は、かなり行われるようになった。近世の日記文学として認められてきた、そう言ってもよいかと思う。それらの研究の中で、真下英信氏の一連の研究が、最も注目される。今後、この作品の文学的研究は、新田孝子氏と真下英信氏の研究を踏まえて行われる必要がある。

○『井関隆子日記』に見られる地震の記述
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第26号 2009年3月刊行
○井関隆子の自然を見る目
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第27号 2010年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述 補遺
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第28号 2011年3月刊行
○『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第27号 2012年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:天気の記述
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第30号 2013年3月刊行
○補遺“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第30号 2013年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:鳥
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第31号 2014年3月刊行
○補遺2“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第32号 2015年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:物売り
 真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第32号 2015年3月刊行

 私は、この井関隆子の研究として、『井関隆子の研究』を、平成16年、2004年に和泉書院から出した。これが、私の研究の総まとめである。未知の作品を校注した私には、ここまでしか解らなかった。今後は、多くの方々によって、この幕末の女性の価値が解明されることを願っている。

〔自筆原本の所蔵者〕

【桜山文庫】

 井関隆子自筆の原本は、鹿島神宮、第67代宮司、伊勢神宮宮司・鹿島則文のコレクション「桜山文庫」に所蔵されていた。
 私は、所蔵者の鹿島則幸氏の依頼を受けて、「桜山文庫」の一括譲渡の件を進めた。その結果、昭和61年9月17日、昭和女子大学図書館は、桜山文庫、第1次、5683冊受入れ完了したのである。第2次、第3次と進められ、現在、国文関係書は、昭和女子大学図書館の所蔵となっている。

【翠園文庫】

 鈴木重嶺・翠園の蔵書、「翠園文庫」は、最後の佐渡奉行、明治の歌人としても知られる鈴木重嶺・翠園の自筆草稿を含む貴重なコレクションである。御子孫の松本誠先生御夫妻の御厚意によって、これらの蔵書が、昭和女子大学図書館に寄贈されることになり、平成8年2月20日(1996)、『翠園叢書』全68冊、『翠園雑録』全23冊を始め、鈴木重嶺の自筆本等、貴重な蔵書が、昭和女子大学図書館に寄贈された。

        平成29年、2017年1月9日
                         深沢秋男
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●私は、単行本の解説などを纏めて、1冊の本にしようと考えた事もある。これは、その一部である。老齢の、今となっては、それは、無理だろう。
2020年8月4日

上野図書館の樋口一葉

上野図書館の樋口一葉

  • 2020.08.02 Sunday
上野図書館の樋口一葉

●菊池先生のエッセイに、上野図書館での樋口一葉の様子を、薄田泣菫が書き留めていると指摘されている。

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泣菫の見た一葉

薄田泣菫『泣菫小品』(明治四十二年。隆文館)に、
「たけくらべの作者」という一編がある。
上野の帝国図書館で見かけた姿を描く。

引締つた勝気な顔
口元のきつとした……そして眼つきの拗ねた調子といつたら…………
私には其折の皮肉な眼つきと屹(きつ)とした口元とが、恰(ちやう)どあの人の有(も)つて生れた才分の秘密にたどり入る緒(いとぐち)のやうに思はれて
思ひなしかは知らないが、あの眼つきには吾とわが心の食(は)みつくさねば止まない才の執念(しうね)さが仄(ほの)めいてゐた

とある。
泣菫には、一葉の眼と口元が強く印象に残ったようだ。

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●実は、樋口一葉の日記の文章と、井関隆子の日記の文章が極めて酷似している。これは、隆子と一葉が、同じような教養を身に付けていたからではないかと推測している。一葉は、上野図書館で、古典作品を読んでいたのだろう。そんなことを思う。

堀新・井上泰至 編 『信長徹底解読』

堀新・井上泰至 編 『信長徹底解読』

  • 2020.08.01 Saturday

堀新・井上泰至 編 『信長徹底解読』

2020年7月31日、文学通信発行
A5判、398頁、定価2700円+税

目次

序  歴史と文学の共謀――五十五年の夢、五十年の夢  井上泰至×堀 新

1、若き日の信長と織田一族  谷口克広×湯浅佳子
2、今川義元と桶狭間の戦い  堀 新×湯浅佳子
3、美濃攻め  土山公仁×丸井貴史 
4、堺と茶の湯  吉田豊×石塚修 
5、信長と室町幕府  水野嶺×菊池庸介
6、元亀の争乱  桐野作人×井上泰至 
7、本願寺と一向一揆  大澤研一×塩谷菊美  
8、長篠の戦い  金子拓×柳沢昌紀
9、中国攻め(摂津播磨を含む)  天野忠幸×菊池庸介
10、信長の城  松下浩×森暁子
11、信長と女性  桐野作人×網野可苗
12、信長と天皇・朝廷  堀新×井上泰至  
13、武田攻め(長篠以降)  柴辻俊六×森暁子
14、明智光秀と本能寺の変  福島克彦×原田真澄  

●コラム

太田牛一と信長公記  堀 新 
信長とフロイス  桐野作人
長篠合戦図屏風  金子拓 
洛中洛外図屏風と安土図屏風  堀 新
信長の肖像画  堀 新

●付録

信長関連作品目録  竹内洪介 編
信長関連演劇作品初演年表  原田真澄 編

●あとがき  堀 新
●執筆者プロフイール

◆編者

堀  新(ほり・しん)  共立女子大学教授
井上泰至(いのうえ・やすし)  防衛大学校教授

◆執筆者

堀  新
井上泰至
谷口克広(たにぐち・かつひろ)  戦国史研究家。
湯浅佳子(ゆあさ・よしこ)  東京学芸大学教授。
土山公仁(つちやま・きみひと)  元岐阜市歴史博物館学芸員。
丸井貴史(まるい・たかふみ)  就実大学講師。
吉田 豊(よしだ・ゆたか)  元堺市博物館学芸員。
石塚 修(いしづか・おさむ)  筑波大学人文社会系教授。
水野 嶺(みずの・れい)  東京大学地震研究所特任研究員。
菊池庸介(きくち・ようすけ)  福岡教育大学教授。
桐野作人(きりの・さくじん)  武蔵野大学政治経済研究所客員研究員。
大澤研一(おおさわ・けんいち)  大阪歴史博物館館長。
塩谷菊美(えんや・きくみ)  同朋大学仏教文化研究所客員所員。
金子 拓(かねこ・ひらく)  東京大学史料編纂所准教授。
柳沢昌紀(やなぎさわ・まさき)中京大学教授。
天野忠幸(あまの・ただゆき)  天理大学准教授。
松下 浩(まつした・ひろし)  滋賀県文化スポーツ部文化財保護課主幹兼安土城・
城郭調査係長。
森 暁子(もり・あきこ)  お茶の水女子大学グローバルリーダーシップ研究所
特任アソシエイトフェロー。
網野可苗(あみの・かなえ)  
柴辻俊六(しばつじ・しゅんろく)  元日本大学大学院講師。
福島克彦(ふくしま・かつひこ)  大山崎町歴史資料館館長・学芸員。
原田真澄(はらだ・ますみ)  早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助教。
竹内洪介(たけうち・こうすけ)  北海道大学大学院文学院博士後期課程。

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●とても興味深い本である。織田信長に関する、1つ1つの主題を、実像(歴史史料)と虚像(文学)の両面から探究している。歴史史料にしても、『信長記』にしても、人物が信長だけに大変である。各項の執筆者は、近世後期の史料まで探索して、説得力のある内容となっているように思う。文学と歴史史料の関係は、実に興味深い。

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歴史における事実と虚構
• 2020.07.12 Sunday

歴史における事実と虚構

第18回大会講演要旨(平成18年12月16日)

歴史における事実と虚構 ――『井関隆子日記』の記述から――
                  前昭和女子大学教授   深 沢 秋 男

一、 はじめに

 近代的国語辞典の最初の名著、大槻文彦の『大言海』は「文学」の語の意味に、小説・詩歌などと共に「歴史」を含めている。これは決して誤りではない。現在、私達は、歴史と文学を別の学問としで扱っているが、それは研究が進み細分化されたという事に過ぎない。
 歴史学とは、過ぎ去った時代の、我々の先祖が、それぞれの時代において、どんな事を行い、どんなモノを後世に伝えたか、そして、それは、人類の歴史において、どんな意味をもっているか、それを解明する学問であり、それは、あくまでも、残された事実に基づくもので無ければならない。その点で、フィクションが中心になる文学とは異なる。しかし、文学は時として、過去の出来事の背後にひそむ真実を伝えている事がある。

二、「井関隆子日記し(昭和女子大学図書館蔵)について

 昭和女子大学図書館・桜山文庫には『井関隆子日記』が所蔵されている。著者自筆の写本、十二冊、全九六六葉。著者は、井関隆子(いせき・たかこ、一七八五~ 一八四四)で、旗本の主婦である。『日記』は晩年の五年間(一八四〇~四四)に亙つて記されている。その内容は、その日の天候、四季折々の自然の変化、日々の出来事、様々な見聞、当時の風俗・習慣、年中行事、幼い頃の思い出、人物・社会・政治・学問・文学等に対する批評、折々に詠じた和歌などが、著者の意のおもむくままに記されている。
 殊に、この『日記』の特色は、徳川幕府の動静や江戸城中の様子が具体的に、また比較的に正確に記録されている事である。それは、著者の子の親経(ちかっね)や孫の親賢(ちかかた)が、将軍や大奥に深く関わる係を担当していて、その情報を隆子に、詳細に、また正確に伝えていだからであろう。

三、『井関隆子日記』に見られる天保期の歴史的記述

 天保十一年~十五年の社会状況は、近世の歴史の上から見ても、激動の時代であった。天保十二年閏一月に第十一代将軍・家斉が没するのと前後して、首席老中・水野忠邦を中心とする幕府首脳は、天保の改革に着手した。十ー年十一月の三方所替、十二年四月の家斉側近の罷免、十四年三月の日光社参、同年六月の印旛沼干拓工事、同年八月の上知令などを次々と行ったが、これらの諸政策実施の様子が、『井関隆子日記』には極めて具体的に記されている。

四、第十」代将軍・徳川家斉の没日をめぐって

 第十一代徳川将軍・家斉の没日は。天保十二年閏一月晦日が通説である。それは、徳川幕府の正史ともいうべき、『徳川実紀』『徳川幕府家譜』『柳営次記』等がそのように記録しているからである。しかし、井関隆子は『日記』の閏一月十日の条で、西の丸の大殿・家斉は、久しく病気勝ちであったが、昨年の暮から特に重体となり、年の初めまでもつだろうかと、皆心配していたが、ついに閏一月七日の夕方に他界されたという事である、と記している。
徳川家斉の没日は、天保十二年閏一月七日没、というのが、歴史上の事実であったようである。しかし、十二代将軍・家慶はじめ、徳川幕閣らは、家斉の死を伏せて、菩提寺の寛永寺に祈祷料として銀五百枚を与えて、葬儀の準備をさせ、御三家・御三卿の当主も江戸に集まり、次期政権の準備も万事整えて、閏一月晦日に家斉の死を公表した。これが、歴史上の事実であったらしい。
 徳川幕府の公式の記録とも言うべき諸史料に、このような、事実とは異なる事が記され、その虚構の記録に拠って歴史が認識されて後世へ伝えられている。しかし、他方では一人の旗本夫人の私的な曰記に、歴史の事実が記録され、同様に後世へ伝えられる訳である。

五、おわりに

 徳川幕府は、三百年という長い間、日本を統治してきた。巨人な組織を機能的に円滑に運営しようとする時、様々な虚構をつくり出した。このような事が、明治以降の日本の国家組織に無いと言えるだろうか。歴史研究は、これらの事実を突き止め、その背後にある真実へ迫る任務があるように思う。

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●これは、昭和女子大学日本文化史学科の研究会の依頼でお話したものである。私は、卒論の頃から、文学の隣接諸科学、歴史学、国語学には、留意し、諸資料を活用して来た。それが、文学の解明に役立った。

●文学作品は、テキストクリティークを加え、歴史史料には、史料批判を加えて使用する必要がある。
2020年7月31日

真下英信氏の『井関隆子日記』研究

真下英信氏の『井関隆子日記』研究

  • 2020.07.31 Friday
真下英信氏

真下英信氏は、平成30年11月、御他界なされた。77歳であった。

 
  真下英信氏の御逝去を悼み 心から御冥福をお祈り申し上げます

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真下英信 プロフィール

1941年群馬県高崎市に生まれる。1971年慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。現職慶応義塾女子高等学校教諭。著作に『地中海世界と宗教』(共著 慶応通信(現・慶応義塾大学出版会)1989)。『ペリクレスの演説』(大学書林 1991)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『伝クセノポン「アテーナイ人の国制」の研究』より

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〔井関隆子〕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

井関 隆子(いせき たかこ、1785年(天明5年)6月21日 – 1844年(天保15年)11月1日)は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した女流歌人、日記作者、物語作者。

来歴

幕臣、大番組・庄田安僚の四女として、四谷表大番町(現在の新宿区大京町26の辺)に生れる。20歳の頃、大番組の松波源右衛門と結婚したが、23歳の頃に離婚。30歳の頃、納戸組頭・井関親興と再婚、2人の間に子は無かった。井関家の屋敷は、九段坂下(現在の千代田区九段1-5の辺)にあった。文政9年(1826年)に夫が没し、以後は、本を読み、歌を詠じ、日記や物語を書いて悠々自適の生涯を送ったという[1]。

著書

●『井関隆子日記』全12冊
著者の自筆本が、昭和女子大学図書館に所蔵されている。天保11年1月1日から同15年10月11日までの900日間の日記。その日の天候、地震、四季折々の自然の変化、その日その日の出来事、様々な見聞、人物・社会・政治・学問・文学などに対する批評などが記されている。特に、子の親経や孫の親賢から伝えられる、江戸城内の様子が詳細に書き留められている。江戸時代の日記文学としても価値があり、また、当時の歴史的資料としても価値がある[1]。

●『さくら雄が物かたり』 6巻1冊
著者の自筆本。東北大学附属図書館・狩野文庫蔵。内容は、平安朝の『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』などの構想を借りて、現実の仏教界を厳しく批判したものと解釈される。

●『神代のいましめ』写本、墨付28葉
昭和女子大学図書館所蔵の、鈴木重嶺の「翠園叢書」の、巻26の中に収録されている。内容は、平安朝の散逸物語『隠れ蓑』などに構想を得て創られた物語で、首席老中批判を通して、人間の表裏の二面性を描いている。

●『いなみ野』吉海直人氏所蔵の写本『物かたり合』墨付54葉の内、5葉播磨の国、印南野を舞台にした物語である。隆子は、すすき・尾花が大好きで、その思いを作品化したものと思われる[3]。

●『井関隆子長短歌』
『秋野の花』に短歌が収録されている。その外、『井関隆子日記』にも800首ほどの、長歌・短歌が収録されている。

●『しのびね』写本、1冊、静嘉堂文庫蔵。擬古物語。井関隆子が、頭注、傍注を追加したもの。書写も井関隆子と推測される。

●深沢秋男「井関隆子校注『しのびね』(静嘉堂文庫蔵)考」(『近世初期文芸』34号)

書写本

●桑原やよ子著『宇津保物語考』 写本1冊、静嘉堂文庫蔵。

●蔵田茂樹著『恵美草』 写本1冊、国立国会図書館蔵。

●吉田兼好著『徒然草』 巻子本1巻、箱に「雅文 源隆子」とあり、『徒然草』第15段、第189段の書写[4]。

脚注

1^ a b c 深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
1^ 新田孝子「井関隆子の文芸―館蔵『さくら雄が物かたり』の著者」(『図書館学研究報告』東北大学、13号、1980年12月)
1^ 吉海直人「新出資料『物かたり合』の翻刻と解題―井関隆子周辺の創作活動―」(『同志社女子大学 日本語日本文学』8号、1996年10月)
1^ 吉海直人「〈新出資料〉井関隆子自筆『雅文』の影印と解題と紹介」(『文学研究』91号、2003年4月)

参考文献

●『井関隆子日記』全3巻、深沢秋男校注、勉誠社、1978年11月 – 1981年6月。
●ドナルド・キーン「井関隆子日記 ①・②・③(百代の過客―日記にみる日本人―)」朝日新聞、1984年4月4日 – 6日
●深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
●深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』文春新書、2007年11月
●真下英信『古代ギリシア史論拾遺』私家版、2008年2月
●真下英信「『井関隆子日記』に見られる地震の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』26号、2009年3月
●真下英信「『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』29号、2012年3月
●真下英信「音で読む『井関隆子日記』:天気の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』30号、2013年3月
●真下英信「音で読む『井関隆子日記』:鳥」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』31号、2014年3月
●真下英信「音で読む『井関隆子日記』:物売り」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』32号、2015年3月
●真下英信「『井関隆子日記』が綴られた頃の江戸の天候について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
●真下英信「『井関隆子日記』天保15年4月29日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』33号、2016年3月
●真下英信「『井関隆子日記』 月の初日と末日の記述について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
●真下英信「『井関隆子日記』天保11年7月3日の日付について」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』34号、2017年3月
●深沢秋男「井関隆子校注『しのびね』(静嘉堂文庫蔵)考」『近世初期文芸』34号、2017年12月
●真下英信「井関隆子の防災意識に学ぶ」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』35号、2018年3月
●深沢秋男「『井関隆子日記』の日付訂正」『芸文稿』11号、2018年7月

★参考事項 『井関隆子日記』は、 現在、池田茂光氏によって、現代語訳が進められている。刊行時期は未定。

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●この記録でも解るように、真下英信氏の『井関隆子日記』に関する研究は、注目すべきものである。

●私は、平成27年(2015)、家庭の事情で、転居した。蔵書も整理し、研究資料も整理した。この時、殆んどの方々とお別れした。

●真下英信氏には、井関隆子関係の写真などを送り、御研究を単行本として出版する時の参考にして欲しいと、お願いしてお別れした。真下氏は、健康が心配だと申されていたので、内心、無事を願わずにはいられなかった。

●この度、『芸文稿』第13号の雑文をお送りして、氏の御逝去を知った。世の無常を思わずにいられない。

●真下英信氏の『井関隆子日記』研究に対して、心から敬意を捧げ、感謝申上げる。

2020年7月31日