武士道と『可笑記』

武士道と『可笑記』

  • 2019.08.14 Wednesday
武士道と『可笑記』 笠谷和比古氏の講演

NPO 法人成育環境研究開発機構講演会
「武士道と現代について」―商道徳との関わりにおいてー
国際日本文化研究センター教授  笠谷和比古(かさや かずひこ)
平成 22 年 5 月 19 日 大阪国際交流センター 小ホール

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国際日本文化研究センターの笠谷でございます。 今日はお招きに預かりまして、どうもありがとうございます。 私の専門は歴史学でありも、歴史の問題は研究として大事なのでありますが、同時に現代の社会に対してどう いう意味合いがあるかという実践的な観点からも必要になるかと思います。武士道の問題として、現代に関わる ところが少なからずあるということです。 これからお話ししますのは私の一つの考えであり、武士道の持っている意味は人さまざまでありますから、こう でなければならないということではない。こういうふうな局面において意味があるのではないか、ということの一端 をお話しさせていただきます。

1.はじめに

【中略】
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2.武士道とは 武士道と言うと、なにか宮本武蔵が刀を振り回して剣術をやっているような印象を受けられるかと思いますが、 必ずしもそうではない。戦国時代は確かに戦場におけるそういう勇猛果敢な行動を指して言うこともありましたけ れども、実際の徳川時代の武士道はむしろ人間の特性を涵養する方向で、高める方向で考える方が主流です。 参考に一つ事例を挙げました。1642 年に刊行されました一つの本があります。これは『可笑記』という随筆です。「笑うべき記」というのでやや自嘲気味に書いていますが、作者は山形藩最上家の浪人、斎藤親盛です。浪 人者です。この本の中には、山形藩最上家がたどった運命がかなり色濃く入り込んでいます。山形藩最上家とい ったら伊達政宗と近いのですが、最上義光という非常に勇猛な戦国武将がいましたが、その後はどうも当主があ まりしっかりしない人がおり藩政を顧みない、遊興三昧で、遊芸とか茶の湯をやって藩政を顧みない。そこで藩政 は実力家老たちが行うわけでありますが、この実力家老達の間でまた派閥党争があり、いつも内紛がある。当主 は遊びほうけて、政治を顧みない。内部抗争、足の引っ張り合いとか中傷と、果ては藩主を毒殺したのだのという風評が立つ、そういうようにお家騒動がどんどん悪化しまいます。50万石の大藩がバラバラの状態になりまし た。 徳川幕府は「しめた!」というので潰すのではなく、徳川幕府はむしろこれを支える方向で処理をやるのです。 山形 50 万石は安定勢力であるから、そこが内紛でゴタゴタしていたら困るというので、幕府は繰り返し内紛をやめて融和して、そして藩主をもり立てるように繰り返し勧告するわけでありますが、一方の派は他方の派を見殺し にし、俺はもう一緒にやらないとなったために、遂に幕府も見放してお取り潰しになってしまいました。 その時斎藤親盛は若い、元服ぐらいの年齢であります。藩政のお家騒動の何の責任もなかったわけでありますが、結局浪人になります。侍であっても浪人をしますと哀れなものでありまして、雪深い越後の国をさまよっている、その間に父親もなくなってしまい、年老いた母親と共に何とか生き延びて江戸まで行く。幸いに学問がありましたので、文筆でもって生計を立てたわけです。そういう山形藩最上家の教訓を踏まえて、こういう馬鹿なこと (10.05.19.)「武士道と現代について」笠谷和比古 4 をやっていると藩政は乱れ、藩民からもそっぽを向かれるという、そういう自戒・自嘲を込めて武士の有り様、政治の有り様というものを随筆風に、兼好法師の『徒然草』のスタイルで書いたのが『可笑記』であります。 なかなかよくできた本でありまして、これは実は近世小説の元祖とまで言われており、一つの近世小説のお手本とまで言われている。井原西鶴もこの本に習いまして、『新可笑記』という本を書いているくらいにこの本は非常によく読まれたのであります。その本の中にこうい文章があります。原文でありますが、お付き合いいただきたいと思います。 「武士道の吟味と云は」、武士道の吟、吟はテイスティングでありますが、武士道というものを研究、検討、分析するならば、つまりこれは武士道とは何かいうことについての分析的な研究であります。「嘘をつかず、軽薄をせず、佞人ならず」。佞人というのはおべっかつかいです。藩主に対しておべっかを使うのが佞人であります。「表裏を言はず、胴欲ならず、不礼ならず、物毎じまんせず」。少し省略しまして、「慈悲深く、義理つよきを肝要と心 得べし、命をしまぬ計をよき侍とはいはず」というわけです。つまり武士道というのは刀を振り回して、撃剣・決闘するのが武士道であるかの如く思っているけれども、それは大きな誤りである。むしろこのような人間としての特性を涵養することが武士道としての本質である。こういう考え方が 17 世紀の半ばにはもうかなり広まり、そしてまたこういう教えの本が多くの人に読まれています。この本は武士のために書かれたというよりも、むしろ一般市民のために書かれています。そのため非常によく読まれました。

【以下略】
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●日本の武士道を論じる時、仮名草子『可笑記』を、近世初期の著作として位置づけたのは、笠谷和比古氏が最初である。このことは、私が『可笑記』論を展開する時、非常に参考になった。改めて、笠谷氏に対して感謝申上げたい。
2019年8月14日  深沢秋男

私の第一論文 『可笑記』と儒教思想

私の第一論文 『可笑記』と儒教思想

  • 2019.08.03 Saturday
私の第一論文  『可笑記』と儒教思想

この作品が主として儒教的教義に立脚して書かれているということは,水谷不倒氏以来諸家の指摘するところであり,あえてここで取り上げる必要もないのであるが,しかしそれらの大部分は概説の域を出るものではなかった。このような中にあって,昭和二十九年三月号の『国語国文』誌上における寺谷隆氏の「仮名草紙に於ける庶民教化の一断面」と題する論文は,作品に即して具体的に論を進めているという点において,またそこに示されたものが,従来のそれとかなり異なる意見の提示である,というこの二つの点においてこれを避けることはできない。そこで私はこの論文との係わりにおいてこの作品と儒教思想との関連について考えてみたいと思う。

寺谷氏はまず,巻三の37を取り上げて「『可笑記』は仁義を規定して「仁とは慈悲ある事、義とは義理をたつる事」であると言う。(巻六の十二)然し作者が此処で戒めて居るのは吝嗇と無情な態度に過ぎず、敢へて儒教道徳の強調とは言ひ難い。」といっている。このことはこの段に限るならば妥当であるとも思えるのであり,そしてさらに「仁義の勇者血気の勇者」についての一段(五の76)における仁義が,戦国時代から受け継がれた主従関係を中核とする生活の道義性としての仁義であることも明らかであるが,問題なのは,このような段のみをとらえて『可笑記』の仁義規定を評価してしまっていることである。この作品において仁義は単にこのような面からのみとらえられてはいない。

たとえば巻二の36では,大名が鷹の餌のために多くの犬を殺す現実を見て「しかるをめたところさん事何かよからん、人はたゞかりそめにも、じひありたき事也。」と批判し,さらに巻五の75では「むかしさる人の云るはそれ万の物を、かはゆく思ひ、てうあいせんにも段々次第あるべし。先父母をはじめ、主君妻子兄弟親類他人畜類鳥類虫のたぐひ、草木まてをも、のこす事あるへからず。先父母をいとおしく愛して、其あまりをもつて、主君をいとおしく愛し」といっているが,このように博く人物を慈愛するという意見は,この他にも作中かなり色濃く反映しているのであり,さらにここで見のがしてならないのは,その愛にも段々次第があるとして,まず父母を愛し,その余りをもって主君を愛すべきだといっていることである。ここでは明らかに,主君よりも父母,つまり忠よりも孝が優先しているのであり,これはあくまで忠優先を主張する日本特有の思想と対立するものであり,そしてこれが,儒教的思想であることはこれまたいうに及ばないと思われる。また巻五の56では慈悲を施すにも時と場と相手によるという相対的な考えを提出し「おそれながら、此こゝろを、おしひろめて、じひの御がつてんまいり候はゞ、天下国家を、おさめ給はん、大慈大悲も、御あやまり、有べからず。」と結んでいるのであるが,この作品において慈悲は常に治める者に対して説かれているのであり,これは仁が常に君子に対して説かれることの強い儒教と決して無関係ではないと思う。

また作者は「義理をたつる」とは,主君において,まず無欲であり,善き臣下を用い,似合い似合いの役を与え,直なる法度を定めることである(三の41)としているが,ここで注意されることは,仁義をいう場合「(主君が)よくしんふかく、仁義をしり給はねば、又下々もよくふかく、仁義をしらず」(三の8)のように常にそれと並列して無欲でなければならぬことを説いている(二の34・三の4・39・四の16・五の51・89)ことである。これは「子◇言利。与命与仁」(『論語』子◇篇)あるいは「孟子対曰。王何必曰利。亦有仁義而已矣。」(『孟子』梁恵王・上)などの孔孟のことばでも解るように,儒教においてもかなり一貫したものであり,この両者の共通性は「されば孟子にも、仁者は富まずと見えたり」(一の35)のように儒教典籍に拠ったところのことば(二の43・三の8・12・四の10・16・五の53など)が,単に語句の引用や故事の紹介の域にとどまらないことの証左になるものと思われる。このようにみてくると『可笑記』における仁義は,「敢へて儒教道徳の強調とは言ひ難い。」一面があるにしても,かなり儒教的要素を含んだものといわなければならない。

さらに寺谷氏は続けて「又『可笑記』は度々天道を論じて居るが(巻一の二十)その天道観は夙に武士階級に存して居た絶対者としての天道信仰と余り距って居らぬ。」といっているのであるが,このこともまた作品全体に散見する作者の天道についての意見を合わせみるとき,そういい去ることはできない。

巻一の20において作者は「不行儀沙汰のかぎり」をした者は「御家めつばうあやう」いのであるという。これは無道の行いをした者は必ず天罰を蒙る時がくる,そしてそれは天道の働きである,とみる戦国武士間にみられる天道観と同じ発想をもつものといえる。しかし『可笑記』はさらに続けては,その不道の主君をそのまま是認することなく,臣は君をして善に赴かせるように分別すべきだと力説するのである。これは栄枯盛衰を以て天道のならわしとし,したがって世に栄えているものは天道にかなったものであるとしたところの戦国武士の天道観とはかなりずれてきており,それを道徳的なものとしてみている点において儒教の影響が認められる。また大将が国を攻め取ることについての段(二の19)においては「無理なるかせんをくはだて給ふべからず」ではあるが,ただ相手が天命に背く場合は別であるといい,国を攻め取るのは「其国郡の万民うれへかなしみめいはくするところを、やすんぜんがため」でなければならないという。この意見は敵を打ち破るに手段を選ばず,自分の領地を拡大し,自らの欲望のみを遂げようとした戦国武士のそれから大きく展開したものであり,そしてこれが『孟子』の「文王一怒而安天下之民。」(梁恵王・下),「其子之賢不肖、皆天也。非人之所能為也。莫之為而為者天也。莫之致而至者命也。」(万章・上),「王曰、無畏。寧爾也。非敵百姓也。若崩厥角稽首。征之為言正也。」(尽心・下)などの思想に裏付けられていることは「周の文王殷の紂王をせめほろぼし給ふためしあるをや。」といっているのでも解ることである。巻四の1は学問についての一段であるが,物を知ることは,人の道を行うためであり,その根本は天道である。故に聖人はその天道を解明してそれを万民に教えなければならない,といっている。これは「天道に恵まれ奉る」ことは聖人の道に通ずるものである,といっている(一の27)のとともに天の道,人の道は共通のものであるとする立場からの発言であり,天人合一を説く儒教思想(朱子,孟子など)に通じるものといえる。

さらに『礼記』のことばに拠っているもの(四の10),仁義礼智信の五常と天道は通じるものであるという考え(四の27)などを考え合わせるとき,儒仏並列の場から天道をとらえている(一の12・27など)というすっきりしない面があるにせよ,その他にみられる天道(一の3・8・41・43・三の5・21・22・35・四の16・47・五の13など)も儒教思想と無関係であるとは思われないのである。『可笑記』における天道説は決して「夙に武士階級に存して居た絶対者としての天道信仰」のみではなく,むしろその立場はいずれかというならば儒教的であると断じてよいと思われる。

しかし寺谷氏はさらに主従観と項を改めてこの作品が反儒教的であることを強調するのである。巻二の18における作者の主従観をまず指摘し,さらに続けて「如儡子によれば、主従関係とは「君のきみたらざる時は臣のしんたるものなし」(巻三)「重賞の家には死夫あ」り(同上)であって武士の奉公とは所詮「家名と老後のたのしみ」の為に帰着する。…中略…『可笑記』の主従観は例へ著者がどれ程儒教的扮飾を施しても、恩賞を主従関係の基礎に置く事によって、近世封建社会の下にあっては、甚だ反社会的な性質を有して居たと言はねばならぬ。」と結論づけている。そしてこれに関しては松田修氏も『文学』昭和三十八年五月号において言及し「『可笑記』を支える基本的理念は、さまざまの留保条件をつけても、やはり儒教ないし儒教的、最小限漢学的性格を示している。その主従観を以て、反儒教的と全巻を決することには、にわかに従いがたい。」といってはいるが結局は寺谷氏の見解の域を出ていない。

さて巻二の18であるが,ここで説く家臣の心境は確かに主君に対する態度についての作者の発言ではあろう。しかしそれは「主君おほくはみ内の者共に、蚊のまなこほどの恩賞もあたへ給はず、あはのさね程のなさけをもかけ給はず、やゝもすれば、無理ひがごとのみしげくいひかけてめいはくさせ給ふ」という事実を前提としてのそれであり、決して家臣は主君に対してこのような心得で仕えてよいといっているのではない。いわば不道の主君に対する家臣の態度の一つをあげているにすぎない。また『可笑記』の主従観において「君のきみたらざる時は、臣のしんたるもなし」(三の41)は常に一貫したものであり(一の28・32・二の43など),そして「重賞の家には死夫あり」(三の2)もその一端を補うものであることは間違いない。しかしだからといって、これらをただちに戦国時代的主従観であると断定し,故に反儒教的なのだと結論づけることは妥当と思われない。

「君のきみたらざる時は臣のしんたるもなし」ということばにかける作者の意図は「君が君なら臣も臣でよいのだ」にあるのではなく,あくまでも「臣が臣であるためにはまず君が君たらねばならない」というところにこそあったのである。だからこそ主君に対して徹底的にその道徳的責任を求めているのである。このように主君は常に正しくなければならないとし,あるいは主君を善に導かなければならないとする態度は作中一貫するものであり,我欲をとげるためには、いかなる手段も選ばず争い合った戦国武士の間にこのような見解が見出し得るであろうか。私はここに治められる者よりも治める者に対して説くことの強い,そして仁政思想の影響をみてとるのである。因みにこの「君のきみたらざる時は臣のしんたるもなし」は「孟子曰、君仁莫不仁、君義莫不義。」(『孟子』離婁・下)をはじめとして『孟子』あるいは『論語』中に散見するこの種のことばに拠っていることはいうまでもない。また「香餌のもとには懸魚あり、重賞の家には死夫ありと、申つたへぬ」は「香餌之下有死魚、似重禄之下有死士也」という『六韜』の文韜第一にその典拠を求め得るが,これをとらえて寺谷氏は「恩の反対給付に依存して居た」戦国武士の主従観と断定するのであるが,この解釈は作品全体からみるとき,適切なものではないと思われる。巻五の51で「おんよりも情の主と云事は、仁義にたつせし侍の事、但情は、質にをかれぬとして、恩賞を望む、侍こそおほけれ」といって,その無欲でなければならぬことを説いていることを,さらに仁義を重んじ無欲でなければならないと力説するのがこの作品の基調であること等を考え合わせる時「重賞の家には死夫あり」の用語例を以て戦国時代の武士の主従観に直結することはやや無理なものとなってくる。また作者は恩賞を適度に与えるようにと説いてはいるが,決してそれを主従関係の基礎に置いてはいない(二の18・五の1など)。『可笑記』の主従観は,よしそこに戦国的な要素が介在するにしても,それは現実の主従関係そのものが戦国時代的なものを少なからず踏襲していたことを考えるとき,あるいは当然のことといえるのであり,概していうならば,禄を与える者と受ける者との関係にある現実の主従関係を肯定し,さらにそれを儒教的立場から説こうとした(一の28・二の34・42・三の8・30・41・四の14・五の7・30・35・41・43など)ものであるということができる。また儒教的主従観と武士本来の主従観は本質的には決して同じものではないが,初期三代,家康・秀忠・家光と徳川政権安定を目ざす,改易,転封などの大名統制が頻繁に行われ,反面その所産として生まれる多くの浪人に苦しまなければならなかったところの歴史的現実においては,かかる儒教的主従観がそれほど抵抗なく受け入れられたものと思われる。

以上二,三の項目を中心にみてきたのであるが,その他にも儒教思想と関連のあるものは少なくないのであり(一の15・二の40・三の24・四の25・五の67など多数),要するに作品全体に流れる思想は単に戦国武士のそれからでもなければ,まして反儒教的でないことはいうまでもない。そしてそれは,主君は常に百姓町人を保護しなければならないと主張しはするが,所詮「侍がとみさかへぬれば、百姓かならずゆたかにさかへ」る(三の1)というように,あくまで武士を最上段に置くという,当時の武士の現実から把握されたところの儒教であったのであり,そこには当然武士と儒教を結びつけようとする一面もあったのである(四の16)。そしてこの間の事情は作品みずからが説明している。すなわち「四書七書、かながきの養生論、つれつれ甲陽軍鑑、すゞりれうしの類置たるもよし」(三の23)「家にありたき物はよまずとも四書七書、法語、和漢の集」(五の63)といい,巻四の43・五の79では『太平記』を読むようにとすすめている。これらのことばからも解るように,儒教および儒教的典籍は作中『史記』『十八史略』『礼記』『春秋』『毛詩』『周易』『戦国策』,それに「七書」等かなり広範囲にわたるようではあるが,やはり「四書」それも『孟子』『論語』がその主たるものと思われる。また『太平記』『甲陽軍鑑』の世界をよきものとして肯定していることは,戦国時代からの武士気質を多少なりとも体験として受けとめていたと思われる作者であってみれば,自然のものと思えるが,さらにこの二書のいずれもが単に軍記物や軍学の書ではなく,そこに少なからず儒教的要素が介在していたという点において一層納得のゆくものとなるのである。

しかしさらにここで注意すべきことは,これらの儒教あるいは儒教的な書物とともに「法語」をそこに連ねていることである。この作品において仏教思想は一見ことごとく難じ去られているかの感があるが,しかしそれらを子細にながめてゆくと,実利的,物質的意識がたかまり,仏教本来の意味からすれば著しく堕落したところの現実の仏教は激烈な批判を加えられながらも(一の29・四の11・36・五の10,特に五の4・8・24など)なお釈尊はその尊さを作者に対して維持していたのであり(三の16など),さらに儒仏双方が互に難じ合うのを指摘して無用な論争だとし,各々自分の道を究明すべきだと批判するのである(四の5,他に一の35・四の40・五の17)。また「儒者仏者」「儒道仏道」等のように儒仏を並列的にあつかった語句はなかば慣習的かとさえ思えるくらい作中一貫して使われており(一の35・二の44・三の4・四の40・五の37など多数),さらに儒教を現世的なものとし、仏教を来世的なものとみる傾向もあったのであり(五の17)これらのことごとを考え合わせるとき,後年に『百八町記』を著し仏教に帰依したと思われる作者の心的推移も決して不自然なものでなかったことに気づくのである。そして潁原退蔵氏が古く指摘した(『国語国文』昭和七年十二月号)ように『百八町記』の三教一致の思想は,すでに『可笑記』の中に芽ばえていたということができよう。なお『百八町記』の儒釈道の三教一致思想は,一名『儒仏二教/水波問答』と題したものがあるのをみても解るように,その中心は儒仏二教にあるとされているが,このことは『可笑記』においても同様であり,老荘思想はきわめて希薄である(三の17・四の15・五の8)。

要するにこの作品には,作者自身の体験から得たであろうところの当時の武士の思想と,そして勿論それと無関係ではなかろうが,もう一つこの仏教的要素が包含されているのである。しかしその中心となるものはあくまでも,新しい知識としての儒教思想であったということができる。また作者は儒教をかなり知識的,学問的に受けとめていたのであり,したがってこれに決して盲従してはいない。このことは近世初頭の儒者,羅山などが時として狂信的態度を示していたのと対照的であり,このいってみれば科学的,それだけに自由な態度,これこそこの作品の一つの重要な特色になっていると思われる。
(『文学研究』第19号,昭和39年5月)

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●これは、大学を卒業した2年後に、重友毅先生はじめ、『文学研究』の編集部の先生方の推薦を頂いて、発表されたものである。私は、この論文を、5部、手で書写し、先生方に査読して頂いている。当時は、コピー機が無かった。全て手書きであった。大量のデータをネツトで発信できる現在は、夢のような社会である。

●この論文は、55年前に書いたものである。近時、笠谷和比古氏は、武士道論の中で、この拙論を指示して下さった。大学を出たばかりの時に発表した、未熟な論文が、よく、50年の時間に堪えたと思い、このことを誇りに思っている。


私の伝記研究

私の伝記研究 〔49〕

  • 2019.08.01 Thursday

私の伝記研究 〔49〕 2019・8・1

第1章 如儡子・斎藤親盛の伝記

第1節 研究史

1、水谷不倒氏の研究
2、森銑三氏の研究
3、田中伸氏の研究
4、野間光辰氏の研究
5、深沢秋男の伝記研究

第2節 如儡子・斎藤親盛の伝記資料

一、二本松、松岡寺、斎藤家関係資料

1、松岡寺
2、斎藤家墓所(改葬前の墓、第一次改葬、第二次改葬、第三次改葬)
3、松岡寺所蔵、過去帳
4、松岡寺所蔵、位牌
5、斎藤家所蔵、位牌
6、斎藤家歴代一覧
7、斎藤家系図
8、〔斎藤家関係資料〕(仮称。現在、伝存未詳)
9、斎藤家縁起詞

二、二本松藩関係資料

1、『世臣伝』
2、『相生集』
3、二本松諸資料、『二本松藩新規召抱帳』
4、『梅花軒随筆』
5、『二本松寺院物語』
6、二本松城下図

三、如儡子・斎藤親盛、出生の地・酒田関係資料等

1、斎藤筑後関係文書等
2、如儡子・斎藤親盛出生の地・酒田筑後町
3、斎藤家初代光盛の出自
〔1〕『小川のしからみ』の記録
〔2〕『東蒲原郡史蹟誌』の記録
〔3〕『齋藤家系図』
〔4〕斎藤家関係年譜・Ⅰ
〔5〕西山日光寺と斎藤家
〔6〕阿賀町赤岩区の斎藤本悦家
〔7〕斎藤家家紋「下がり藤」と「丸に」
〔8〕斎藤家所蔵の陣羽織
〔9〕『可笑記』絵入本の挿絵
〔10〕まとめ
〔11〕斎藤家関係年譜・Ⅱ

第3節 初代、祖父・斎藤光盛

第4節 二代、父・斎藤広盛

第5節 三代、如儡子・斎藤親盛

第6節 四代、子・斎藤秋盛

第7節 五代以後の斎藤家

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●昭和63年(1988)、野間光辰先生が御他界なされた。この年、私の、如儡子伝記研究は開始された。30年経過して、ここまできた。〔49〕は、改稿した回数である。今、一応、目途はついたが、まだ、まだ、改稿されることはある。

●前田金五郎先生は、私たちの『近世初期文芸』第27号(2010年)に寄稿して下さった。90歳の時である。私は、前田先生をお手本にして、研究を続けている。しかし、人間の存在ほど、アヤフヤなものはない。この〔私の伝記研究〕は、どのような展開になるか・・・。

お墓参り 〔2〕

お墓参り 〔2〕

  • 2019.07.29 Monday
  • 06:00
お墓参り 〔2〕

② 松岡寺 『可笑記』の作者、如儡子・斎藤親盛の菩提寺。
神龍山松岡寺。臨済宗妙心寺派。福島県二本松77番地。寛文4年(1664)太獄祖清禅師開山。

〔A〕第一次改葬(昭和四十四年)

昭和四十四年六月十五日、十二代・源覇(法名、長光院本源道徹居士)が六十一歳で没した。この折、スペースの関係で、墓全体が改葬された。四十四基の代々の墓石は、全て表面の刻字を削り去り、白布に包み、墓域の土中に埋められたとの事である。そして、先祖代々の供養塔と十二代・源覇(興盛)の墓石が建てられた。

〔B〕第二次改葬(平成四年)

平成四年三月二十七日、再度改葬する事となり、唯一神道奉神会館長・庄司浩士氏の指導の下に、墓全体の発掘作業を開始した、同年五月九日、十日にほぼ完了。発掘されたお骨は本堂に安置して供養を行った。墓石は、全て水で洗い清め、石の種類別に分類して調査したが、軟質の墓石は表面の刻字が削られ、硬質のものは細かく破砕されていた。

調査の結果、六代・常盛の「自得院譲巌道謙居士」、八代・昇盛の「真源院法性常円居士」、慶応四年七月二十七日に戊辰の役で没した、斎藤又十郎のものと思われる墓石の一部を確認し得たに過ぎなかった。また、豪盛氏によれば、自然石の墓石は一基のみで、それは入ってすぐ左の所に在った「雄嶽紹英居士」であると明瞭に記憶しておられる由であるので、発掘された自然石の墓石は、如儡子の長男・秋盛のものであるかも知れない。

発掘された、お骨、墓石は全て、供養の後に、斎藤家一族の方々による写経と共に埋葬さ九た。同年七月三十日、墓所完成、松岡寺住職、満願寺第十六世・大隈正光氏を招き、斎藤家第十三代、現当主・豪盛氏以下、一族の方々によって法要が営まれた。

完成した墓所は、正面奥に大きな供養塔があり、その右に、先祖代々の墓石、左には、小さな供養塔と、十二代・源覇(興盛)の墓石がある。また、向って左側には、奥に「墓誌」があり、「斎藤家先祖代々之霊位/斎藤家一門眷族之霊位」として。「初代/斎藤玄蕃助藤原光盛之霊位 天正十年/妻之霊位」から「十二代/長光院本源道徹居士 昭和四十四年六月十五日六十一才」までの法名、没年等が刻されている。また、その手前には、二枚の大きな江持石(須賀川産出)に「斎藤家伝略」として「出羽国、庄内地方での祖先・斎藤家と東禅寺家・二本松の祖先・それからの斎藤家・斎藤家にまつわる出版物」が刻まれている。なお、この撰文は、第十三代当主・豪盛(輝利)氏によるものであり、墓石の製造建立は、高橋石材工業(社長・高橋清氏は輝利氏の叔父)によるものである。

●この改葬は、私の伝記研究の要請を、斎藤家の当主、斎藤豪盛氏が理解して、実施して下さった。研究者としては、ただ、感謝するのみである。

●墓石は、伝記研究の第一資料と、私は位置付けている。その第一資料が、スペースの問題で、墓域の土中に埋められている、そのように言われると、研究者としては、その墓石を見て調査したくなる。その願いを斎藤豪盛氏が叶えて下さったのである。

〔3〕第三次改葬(平成二十四年)

平成二十二年十月十七日、斎藤家一三代・斎藤豪盛氏は、須賀川斎藤家の墓石が発見された。須賀川市諏訪町八八の、天台宗・妙林寺の墓所に無縁仏として保存されていたのである。

自然石の墓石には「斎藤一葉墓/明治十一年九月三十日死/行年七拾六歳」とあり、斎藤家第七代・親盛の曾孫に当ると推定される。

平成二十四年五月十六日、第三次改葬が完了した。これは、須賀川斎藤家の墓石が発見され、これを須賀川の妙林寺から二本松の松岡寺、斎藤家の墓所に移して埋葬したためである。これで、斎藤家の墓所は、ほぼ、歴史的事実に基づいたものとして、後世へ伝えられる事になった。


品川町裏河岸

日本橋 品川町裏河岸

  • 2019.07.22 Monday
  • 08:25
●江戸に出た、斎藤親盛、如儡子は、ここに住んでいたのか。そうして、『可笑記』や『砕玉抄』や『堪忍記』を書いたのか。

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町番号:日本橋①015
町名:品川町裏河岸

読み方:しながわちょううらがし Shinagawacho-Ura-Gashi
区分:河岸→河岸(町丁扱い)
起立:江戸期
廃止:1932(昭和7)年
冠称:なし
現町名:中央区日本橋室町一丁目
概要:江戸期から日本橋川沿いにあった河岸名。安政版『日本橋北内神田両国浜町明細絵図』は日本橋の北詰から西へ「品川町裏河岸」と記載。それより西方一石橋までの河岸地は北鞘町の鞘町河岸。『府志料』に「品川町裏河岸。里俗釘店と云う、鋳物肆多き故なり。古図に北河岸とあり」とあり、『案内』には「昔時品革を製するもの居住せるを以て名づけ、後、革を川に改む」とある。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数67・人口353(府志料)。1878(明治11)年11月2日、東京府日本橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市日本橋区に所属。1932(昭和7)年、帝都復興計画の一環により、室町一丁目に編入となり消滅。現行の日本橋室町一丁目のうち。日本橋大栄ビル・日本橋三越別館の南側を含む辺り。
撮影場所:品川町裏河岸
撮影地:中央区日本橋室町一丁目1番(日本橋川 西河岸橋北詰)
←014品川町 016本船町→
• 日本橋①(94)

裏河岸
________________________________________

説 明 板
裏河岸(北河岸)
所在地 中央区日本橋本石町一‐一~日本橋室町一‐一地域
明治十年十二月、東京府は「日本橋ヨリ以西 一石橋迄」の河岸地、西河岸の対岸を「裏河岸」と命名しました。江戸時代初期、寛永江戸図(一六三四)などでは「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川町があり、御府内沿革図書では、一石橋側を「北鞘町河岸」、日本橋側を「品川町裏河岸」としており、いくつかの里俗名を確認することができます。
『江戸名所図会』によると、品川町裏河岸の通りには、釘・金物の店が多く、釘店(くぎだな)とも呼ばれたといいます。

平成十二年三月
中央区教育委員会

日本橋室町界隈

室町という地名は江戸から続いています。現在のように‘日本橋’が冠称されるようになったのは昭和22年以降です。江戸時代は今の日本橋室町1~2丁目の中央通りをはさんだ一部で、徳川家康の入国後に町屋として開かれました。町名は京都の室町にならったもので、江戸第一の繁華街でした。明治になると東京府に所属し、明治2年に本町3丁目裏河岸を合併、同年11月に日本橋区に所属しました。この頃から資生堂・千疋屋などの有名商店が軒を連ねました。昭和6年から7年に行われた区画整理によって、品川町・品川裏河岸・十軒店町の全部と、駿河町・安針町・伊勢町・炭町・瀬戸物町・長浜町・本皮屋町・金吹町・本町・本小田原町・本船町・本石町・本銀町の一部を編入して室町1~4丁目となりました。

【日本橋 河岸】裏河岸

河岸名:裏河岸
読み方:うらがし Ura-gashi

区分:河岸
成立:1877(明治10)年12月
廃止:不明
現町名:中央区日本橋室町一丁目
概要:中央区教育委員会が西河岸橋北詰東側の喫煙所に設置している説明板を引用。
「明治10年(1877)12月、東京府は「日本橋ヨリ以西 一石橋迄」の河岸地、西河岸の対岸を「裏河岸」と命名しました。江戸時代初期、寛永江戸図(1634)などでは「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川町があり、御府内沿革図書では、一石橋側を「北鞘町河岸」、日本橋側を「品川町裏河岸」としており、いくつかの里俗名を確認することができます。『江戸名所図会』によると、品川町裏河岸の通りには、釘・金物の店が多く、釘店(くぎだな)とも呼ばれたといいます。平成12年3月 中央区教育委員会」
撮影場所:裏河岸
撮影地:中央区日本橋室町一丁目1番3号(紅花ビル)
←北河岸 品川町裏河岸(日本橋①)→
• 河岸(298)

裏河岸(北河岸)

所在地 中央区日本橋本石町1-1・中央区日本橋室町1-1
明治10年(1877年)12月、東京府は「日本橋ヨリ以西 一石橋迄」の河岸地、西河岸の対岸を「裏河岸」と命名しました。江戸時代初期、寛永江戸図(1634年)などでは「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川町があり、御府内沿革図書では、一石橋側を「北鞘町河岸」、日本橋側を「品川町裏河岸」としており、いくつかの里俗名を確認することができます。
「江戸名所図会」によると、品川町裏河岸の通りには、釘・金物の店が多く、釘店(くぎだな)とも呼ばれたといいます。


『如儡子百人一首注釈の研究』

『如儡子百人一首注釈の研究』刊行

  • 2019.07.18 Thursday
 『如儡子百人一首注釈の研究』

百人一首注釈書叢刊 別巻2
深沢 秋男著
平成24年3月20日、和泉書院発行
A5判、362頁、定価12000円+税

口絵写真

『砕玉抄』・『百人一首鈔』・『酔玉集』・『百人一首註解』『神龍山松岡寺過去帳』・斎藤家位牌

目次

はじめに ……………………………………………………………   ⅰ

研究篇

第一章 研究史 ………………………………………   3
第一節 田中宗作氏の研究 …………………   3
第二節 田中伸氏の研究 ……………………   8
第三節 野間光辰氏の研究 …………………  14
第四節 島津忠夫氏・乾安代氏の研究 ……  17

第二章 諸本の書誌 …………………………………  29
第一節 『砕玉抄』 ……………………………  29
第二節 『百人一首鈔』 ………………………  33
第三節 『酔玉集』 ……………………………  37
第四節 『百人一首註解』 ……………………  41

第三章 諸本関係の分析 ………………………………  45

第一節 序説 ………………………………………  45
一、はじめに ……………………………………  45
二、著者・成立年・書写者 …………………  46
三、配列順序・使用古注釈 …………………  52
四、執筆意図とその特色 ……………………… 56

第二節 『百人一首鈔』と『酔玉集』 ……… 62
一、はじめに ……………………………………… 62
二、『百人一首鈔』・『酔玉集』歌人配列対照表 63
三、『百人一首鈔』と『酔玉集』の本文異同 … 66
〔一〕省略・脱落関係 …………………………… 66
〔二〕漢字・仮名の異同 ………………………… 77
〔三〕用字の異同 ………………………………… 82
〔四〕仮名遣いの異同 …………………………… 84
〔五〕その他の異同 ……………………………… 87
〔六〕和歌の異同 …………………………………101
〔七〕まとめ ………………………………………114

第三節 『百人一首鈔』・『酔玉集』と『百人一首註解』………119
一、はじめに ……………………………………………119
二、京大本『百人一首註解』の書誌的問題点 ………120
〔一〕十七番歌・在原業平朝臣の脱文について …120
〔二〕配列について …………………………………122
三、乾安代氏の『百人一首註解』解説 ……………124
四、異同からみた『百人一首註解』の位置 ………127
〔一〕序説について …………………………………127
〔二〕その他の異同について ………………………130
五、まとめ …………………………………………………127

第四節 『砕玉抄』と『百人一首鈔』 …………………140
一、はじめに ………………………………………………140
二、武蔵野美術大学美術館・図書館金原文庫所蔵本概要
………………………………………………140
三、書名「砕玉抄」について …………………………141
四、『砕玉抄』の歌人配列順序(折丁明細一覧)……141
五、第七番歌、参議篁の歌 ……………………………146
六、『砕玉抄』と『百人一首鈔』の関係 ……………149
七、『砕玉抄』と『百人一首鈔』の異同 ……………150
〔一〕『百人一首鈔』の脱落・省略 ……………150
〔二〕『砕玉抄』の脱落・省略 …………………152
〔三〕その他の異同関係 …………………………152
八、『砕玉抄』の位置 …………………………………156

第五節 まとめ ………………………………………………158

第四章 如儡子・百人一首注釈書の意義 ………………161

第一節 百人一首研究の現状 …………………………161
第二節 如儡子の百人一首注釈書 ……………………163
第三節 如儡子の百人一首注釈書の特徴 ……………165
一、歌人配列の特異性 ………………………………165
二、啓蒙的執筆姿勢 ……………………………………166
三、如儡子的表現 ………………………………………171
四、儒教的立脚地 ………………………………………174
第四節 百人一首注釈書としての意義 ………………176

翻刻篇

『砕玉抄』(武蔵野美術大学美術館・図書館金原文庫所蔵)

凡例 …………………………………………………………182
序説 …………………………………………………………183
1 天智天皇御製 ………………………………………………186
2 持続天皇 ……………………………………………………189
3 柿本人丸 ……………………………………………………191
4 山辺赤人 ……………………………………………………194
5 中納言家持 …………………………………………………197
6 安倍仲麿 ……………………………………………………199
7 参議篁 ………………………………………………………201
8 猿丸太夫 ……………………………………………………205
9 中納言行平 …………………………………………………206
10 在原業平朝臣 ………………………………………………208
【中 略】
95 鎌倉右太臣 …………………………
99 後鳥羽院御製 ………………………………………………341
100 順徳院御製 ………………………………………………342
奥書 ………………………………………………………………343
あとがき ………………………………………………………347
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

はじめに

仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛は、『可笑記』『百八町記』『堪忍記』の他に「百人一首」の注釈書も著していた。如儡子は注釈書『砕玉抄』の奥書で次のように述べている。
〔注 振り仮名は省略した〕
「つれづれと、ながき日くらし、おしまづきによつて、墨頭の手中よりおつるに、夢うちおどろかし、おろか心の、うつり行にまかせて、此和哥集の、そのおもむきを綴、しかうして、短き筆に、書けがらはし留り。寔、せいゑい、海をうめんとするにことならずや。されば、かの三神のみとがめをつゝしみ、おもむげず、かつまた、衆人之ほゝえみ、嘲をもかへりみ、わきまへざるに似りといゑども、さるひな人の、せめをうけ、辞するにことばたえ、退に道なくして、鈍き刃に、樗櫪を削り。人、是をあはれみ給へや。
時寛永巳之仲冬下幹江城之旅泊身
雪朝庵士峯ノ禿筆作        如儡子居士」
『砕玉抄』は、雪朝庵士峯、如儡子居士が、寛永巳の年11月、江戸に仮寓の身で著述したものであった。ある鄙人から求められて、断りきれず書き始めたが、精衛海を填む、という中国故事と同様に、大変な事に手を出して、このような結果になってしまった。
しかし、この如儡子の「百人一首」注釈の労作も、長い年月の間、広く世間に知られる事はなかった。昭和41年に水戸彰考館文庫(現徳川ミュージアム)所蔵の『百人一首鈔』が公表され、続いて国会図書館所蔵の『酔玉集』の所在が明らかとなり、平成10年には京都大学附属図書館所蔵の『百人一首註解』が公刊され、さらに平成13年には武蔵野美術大学美術館・図書館金原文庫所蔵の『砕玉抄』が発見されるに至った。
百人一首の研究者及び仮名草子研究者の諸先学の調査・研究の成果によって、ようやく如儡子の「百人一首」注釈の全貌が明らかになった。今、その研究を纏める段階になったことを、まず感謝申し上げる。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

あとがき

如儡子斎藤親盛は、仮名草子『可笑記』の著者である。慶長8年(1603)の頃、酒田筑後町において、最上家家臣、斎藤筑後守広盛の長男として生まれた。幼少から最上家親に近侍し、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。しかし、元和3年(1617)、最上57万石は取り潰され、広盛・親盛父子は浪人となる。如儡子は、そのような浪々の身にありながら、著作の執筆に励んだ。
寛永6年(1629)の秋、『可笑記』の執筆を始め、同13年には全5巻が一応まとまった。初版の11行本の刊行は寛永19年であるが、如儡子は『可笑記』脱稿以後、百人一首の注釈の執筆に着手したものと思われる。
そして『砕玉抄』を書き上げたのが、寛永18年11月であったと推測される。この時、如儡子斎藤親盛は39歳位であったと思われる。
如儡子の百人一首注釈書を最初に学界に紹介されたのは、和歌研究者の田中宗作氏である。田中氏は、昭和41年に水戸彰考館(現徳川ミュージアム)の『百人一首鈔』を紹介された。続いて、仮名草子研究者側から、田中伸氏・野間光辰氏が、国会図書館の『酔王集』を紹介され、分析を進められた。平成10年には、島津忠夫氏・乾安代氏によって、京都大学附属図書館の『百人一首註解』が「百人一首注釈書叢刊 15」として公刊された。さらに、平成13年に、武蔵野美術大学美術館・図書館に如儡子の『砕玉抄』が所蔵されていることが、浅田徹氏によって明らかにされた。
そのような状況の中で、私も、如儡子の百人一首注釈の研究を進めてきた。そうは言っても、私にとって、和歌の研究は専攻以外の分野であり、全て一から学び始めた。昭和女子大学の斎藤彰氏や、同志社女子大学の吉海直人氏、国文学研究資料館の岡雅彦氏の温かい御指導で、少しずつ研究を進めることが出来た。
このたび、如儡子の百人一首注釈の研究を、一応まとめることが出来たが、それは、田中宗作氏、田中伸氏、野間光辰氏、吉海直人氏、島津忠夫氏、乾安代氏の研究に導かれるところが大きい。これらの研究がなければ、到底為し得なかったものと思う。
さらに、浅田徹氏は、武蔵野美術大学美術館・図書館の所蔵本調査の折、如儡子の『砕玉抄』に気付かれ、その情報を如儡子研究を進めている私に教えて下さった。浅田氏の御厚意が無ければ、私は如儡子の、百人一首注釈の中で最も優れたテキストに出合う事は出来なかったものと思う。
このように、多くの方々の御厚意によって、百人の和歌の注釈という、如儡子の膨大な著作の全貌をほぼ明らかにする事が出来たことに対して、心から感謝申し上げる。
本研究を進めるにあたり、原本所蔵の各機関には格別の御配慮を賜った。国立国会図書館には『酔玉集』の閲覧・複写をお願いし、雑誌『近世初期文芸』への全冊翻刻の許可を賜った。水戸彰考館(現徳川ミュージアム)には、『百人一首鈔』の閲覧・調査をお願いし、本文の複写は各巻の前半部分をお願いし、後半部分は国文学研究資料館のマイクロフィルムを閲覧させて頂いた。また、同館所蔵の、他の百人一首関係のフィルムも閲覧させて頂いた。京都大学附属図書館には『百人一首註解』の閲覧・調査・複写をお願いした。武蔵野美術大学美術館・図書館には、『砕玉抄』の閲覧・調査・複写をお願いし、本書への全冊翻刻の許可も頂いた。さらに、本書への写真掲載に関しても、各機関の御配慮を賜った。ここに記して厚く御礼申し上げます。
本書の出版に関しては、平成16年刊行の『井関隆子の研究』と同様に、和泉書院の社長廣橋研三氏に格別の御配慮を賜った。また、原稿の整理、校正段階では、同社専務廣橋和美氏の御助言にあずかった。両氏の御温情に対して、深甚の謝意を表する。
平成24年2月14日


如儡の「百人一首」注釈書・4部

如儡子の「百人一首」注釈書・4部

  • 2019.07.18 Thursday
如儡子の「百人一首」注釈書・4部

●如儡子の「百人一首」注釈は、私の推測では、寛永18年(1641)、著者39歳の頃成立したものと考えられる。従来次の2点の所在が明らかであった。

[A] 『百人一首抄』(水戸彰考館文庫蔵)
[B] 『酔玉集』(国立国会図書館蔵)

ところが、次の2点が、相次いで発見された。

[C] 『百人一首註解』(京都大学図書館蔵)
この本は、島津忠夫氏と乾安代氏が「百人一首注釈叢刊15」として刊行。両氏は著者未詳、江戸中期の写本として詳細な解説を付けている。ただし、私が調査した結果、この著者は如儡子と判明した。

[D] 『砕玉抄』(武蔵野美術大学図書館蔵)
これは、浅田徹氏が所蔵に気付き、如儡子の著書であると、私宛知らせて下さったものである。

このようにして、如儡子・斎藤親盛の百人一首の注釈書は、現在、その所在が明らかになった。これら4点の成立時期は、次の如く推測される。

[D] 『砕玉抄』万治3年(1660)58歳 ?
[A] 『百人一首抄』寛文2年(1662)60歳
[B] 『酔玉集』寛文3年(1663)61歳 ?
[C] 『百人一首註解』寛文5年(1665)63歳 ?

これら4点の著作の関連を、これから解明する予定である。

●これは、昭和女子大学現役時代の日録である。国文科の和歌の研究者、齋藤彰先生のアドバイスを頂きながら、調査・分析を進めた。懐かしい思い出である。

「百人一首」と私

私と「百人一首」

  • 2019.07.17 Wednesday
「百人一首」との出会い

●私の研究のホームグランドは、近世初期の仮名草子である。百人一首に特に興味があった訳でもない。にも拘らず、百人一首に手を着けたのは、如儡子・斎藤親盛が『百人一首抄』という百人一首の注釈書を遺していたからである。斎藤親盛の全面的な解明がライフワークである以上、この注釈書を避ける訳にはゆかない。

●仮名草子の先学、野間光辰氏も、田中伸氏も、手は着けられたが、その入り口の段階で、共に他界されてしまった。また、百人一首研究者の方々は、仮名草子作者の著作など、軽視されたかどうかは知らないが、田中宗作氏の『百人一首古注釈の研究』の中で言及されているに過ぎない。ならば、私がやらねばならぬではないか。そんな切迫した状況の中で、この主題に着手した。

「百人一首」研究の最前線

●如儡子の『百人一首抄』の分析に着手して気付いたことは、世に多数伝存する百人一首のテキストに、歌人の配列の上で、2つの系列があるという事であった。そして、成立時期の点で、いずれが先か、というのが、専門家の間で問題の争点になっていた。それは、平成8年(1996)頃のことである。

●吉海直人氏などの専門家のアドバイスを頂きながら研究を始めた。実は、如儡子の『百人一首抄』は、いわゆる一般的な百人一首の配列とは異なる、百人秀歌型の配列であり、しかも、百人秀歌型とも完全には一致しない配列であった。仮名草子の作者・如儡子は如何なるテキストを底本に使ったのか。

●如儡子の百人一首注釈書には、水戸彰考館所蔵の『百人一首抄』の他に、国会図書館所蔵の『酔玉集』という伝本もあった。これは、一般的な配列である。私は、この2つの注釈書の関係を明らかにするために数年間を費やした。百人一首の研究は実にシンドイ。何をするにも100回繰り返す必要があるからである。

●如儡子は注釈書の「奥書」で「誠に、せいゑい、海をうめんとするにことならすや。」と言っている。「精衛■(土偏+眞)海」という中国故事。不可能な事を企てて、ついに徒労に終わる、というたとえである。基礎的で、解りやすく啓蒙的な、この大部な注釈書を書き終えた著者・如儡子の思いがよく伝わってくる。

大啓蒙期の注釈

大啓蒙期の注釈

  • 2019.07.07 Sunday

大啓蒙期の注釈

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時寛永巳之仲冬下幹江城之旅泊身
雪朝庵士峯ノ禿筆作  如儡子居士

①つれづれとは、徒然とかきて、つくづくとながめおり、物さびしき躰也。
②ひくらしとは、終日の心。あさより晩までの事也。曰くらしのくもじ、すみてよむべし。にごれば、むしのひぐらしの事になる也。
③おしまづきとは、つくゑの事也。
④ぼくとぅとは、筆の事。
⑤手中は、てのうち也。
⑥おろか心は、愚知の心也。
⑦みじかき筆とは、悪筆などいふ心。ひげのことば也。
⑧せいゑいといふとり、草木のえだ葉などをもつて、大海をうめんとするなり。たれたれもしり給へる古事なれば、かきつくるにおよばず。
⑨二神とは、住吉・北野・玉津嶋を申也。わかの三じん是也。
⑩みとがめとは、御たゝりなどいふ心也。
⑪しうじんとは、世間の人といふ心。あまたの人々をさしてぃふ也。
⑫ほゝえむとは、につこりと笑ひがほをする事也。
⑬ひな人とは、いなか人と云事。
⑭せめとは、さいそくなどいふ心也。
⑮じするとは、詞にてしんしやくすること。
⑯しりぞくとは、身をひき、しんしやくするてい也。
⑰にぶきやえばとは、物のきれぬかなもの也。
⑱ちよれきとは、いかにもまがりゆがみて、物のようにたゝぬざいもく也。

。。。。。。。。。。。。。

●ここに掲げたのは、『砕玉抄』(百人一首の注釈書)の奥書に加えた注である。自分の文章に注を付す。いわゆる自注である。如儡子は、和歌の珠玉の集、「百人一首」に詳細な注釈を加えているが、その執筆姿勢は、極めて平易である。読者対象は、知識人ではなく、一般庶民である。しかも、内容的には、島津忠夫氏も評価するほどである。

●『如儡子百人一首注釈の研究』(2012年、和泉書院発行)参照。

大啓蒙期の文学

2019.07.06 Saturday

大啓蒙の文章

▲むかしさる人の云るは、人間において時理の二つを分別し心得べき事也。
時理の二つと云は、春の花さく時には秋のもみぢせん時を思ひ、秋のもみぢする時には春の花さかん時を思ひ、冬のさむき時には夏のあつからん時を思ひ、夏のあつき時には冬のさむからん時を思ひ、雨ふらばはれべき時を思ひ、晴たる時には雨ふらん時を思ひ、物をならふ時にはならはざるときを思ひ、ならはざる時にはならひし時を思ひ、すりきりおちぶれたる時にはふつきなる時を思ひ、ふつきなる時にはすりきりおちぶれたる時を思ひ、奉公の時には牢人のときを思ひ、牢人の時には奉公の時を思ひ、よき事ある時には悪事あらん時を思ひ、悪事ある時はよき事あらん時をおもひ、わかき時には年よるべきときをおもひ、年よりたる時にはわかき時をおもひ、無病なる時にはわづらはん時を思ひ、わづらはん時には無病なる時を思ひ、命ある時にはしぬべきときを思ひ、しぬべき時には命ある時を思ひ、憶病なる時には剛なる時を思ひ、かうなる時には憶病なる時を思ひ、大身なる時には小身なる時を思ひ、小身なる時には大身なる時を思ひ、不忠功なる時には忠節の時をおもひ、忠節の時には不忠の時を思ひ、不孝のときには孝行なる時をおもひ、孝行なる時には不孝の時を思ひ、人のしたしき時にはうとかりし時を思ひ、うとき時にはしたしかるべき時を思ひ、おさまりてしづかなる時にはみだれてさはがしかるべき時を思ひ、みだれてさはがしき時にはおさまりてしづかなるべき時を思ひて、少もゆだんすべからず。

【『可笑記』巻5の48段】