『可笑記』の 人の口

『可笑記』の 人の口
2019.02.18 Monday
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可笑記の人の口の現代語訳をお願いします。 人の口は一切善悪の出で入りする門戸なり。 から始まり 少し
• 質問者:Lara.
• 質問日時:2019/01/08 14:19

可笑記の人の口の現代語訳をお願いします。
人の口は一切善悪の出で入りする門戸なり。
から始まり
少しもこの番衆油断しては、大事出来すべし。
の部分です。
全文書けなくてすいません。
お願いします。
この質問への回答は締め切られました。

• ベストアンサー優先
• 回答日時:2019/01/08 16:09

人の口はあらゆる良いことも悪いことも出入りする出入り口である。
だから、良い見張り番を置き出入りをチェックなさるべきである。その理由は口にしてはいけない人の噂を口にしてあざけり、作り話をして身を危険にさらす。これは口の中から外へ出る詰まらない事柄である。また食うべきでないものを食い、飲むべきでないものを飲み、病気になって身命を危険にさらす、これは口の外から内へ入る詰まらない者である。また金言や格言を口にし詩歌文章で雅びな文章を作るのは口の内から外へ出る良いことである。またもろもろの病気に苦しむとき、それに応じた薬を飲んで平癒し、あるいは飢え渇いたときに水を飲み食べ物を食べて普通の体に戻るなどは口の外から内へ入る良い者である。前述の見張り番と申すのは、それぞれの善者悪者が心におります間、しっかりとそれらの善悪を見分けて、善なる者を出入り自由にさせ、悪である者を出入り厳禁にしなければならない。少しでもこの見張り番が油断をしたならば、大ごとになるに違いない。
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『可笑記』巻2の26段

▲むかし、さる人の云るは、されば、人の口は、一切善悪のいで入する門戸也。
かるがゆへに、よき番衆をすゑをきて、出入するもの共を、あらためらるべし。
其いはれは、云まじき人のうはさを、あざけり、へうりなどを云て、身命をあやまつ。是は、口のうちより外へいづる、いたづらものども也。
又、くうまじき物をくゐ、のむまじき物をのみ過して、病を生じ、身命をあやまつ。是は、口の外より内へいる、いたづらもの共也。
又、金言妙句を云、詩歌文章のおもしろきをつくるなどは、口のうちより外へいづる、よきもの共也。
又、もろもろの病にくるしむ時、それぞれの薬をのミて平兪し、或は、うへかつゑにおよんで水をのみ、食をくらひ、本復するなとは、外より口のうちへ入よき物共也。
かの番衆と申は、をのれをのれが心にて候間、よくよくこの善悪をわきまへ分別して、善をは出入自由自在に、あしきをは出入かたくきんせいすべし。少も此番衆ゆだんしては大事出来すべし。
惣じて、大事といふ物は、少の所より出るもの也。たとへば、堤をつきて水をふせぐに、蟻といふ虫がとをりたるあなより、次第次第に、水がうるほひ、そろりそろりと流出て、後々には広大なる穴となりて、其堤をおしやぶるとかや。

●これが全文である。質問者は中学生かも知れない。

柳の枝に雪折れはなし

柳の枝に雪折れはなし
2019.02.13 Wednesday

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レファレンス事例詳細(Detail of reference exampl
提供館
(Library) 埼玉県立久喜図書館 (2110009)
管理番号
(Control number) 埼久-1997-081
事例作成日
(Creation date) 1998/01/16 登録日時
(Registration date) 2007年03月24日 02時10分 更新日時
(Last update) 2008年06月13日 19時40分
質問
(Question) ことわざ「柳の枝に雪折れはなし」に、対句(反対の意味)となる「松の雪折れ」という言葉があるか。子どもの頃、親から聞いた言葉。
回答
(Answer) 『徳川文芸類聚 2』に「可笑記」が収録。「・・・柳の枝に雪おれはなし げにも松杉などのたぐひをみるに、おのが枝のつよきによつて、雪ふりつめばおされておるゝ事あり、是をなん雪をれの枝といふ、・・・」とある。これを紹介する。
回答プロセス
(Answering process) 『成語大辞苑』『成語林』『たとえことば辞典』『日本語使いさばき辞典』『動植物ことわざ辞典』等なし。ただし『成語大辞苑』には関連語として対語「堅い木は折れる」があり。
『日本国語大辞典』には「仮名草子・可笑記」に「柳の枝に雪をれはなし」とあり。
自館目録の『彩-BISC』を〈カショウキ〉から検索すると『徳川文芸類聚 2』に収録されていることがわかる。「・・・柳の枝に雪おれはなし げにも松杉などのたぐひをみるに、おのが枝のつよきによつて、雪ふりつめばおされておるゝ事あり、是をなん雪をれの枝といふ、・・・」とある。このことを言っていると推測される。
事前調査事項 「故事・俗信ことわざ大辞典」「中国故事成語辞典」「国語慣用句辞典」「世界ことわざ大事典」等になし。
NDC 語彙 (814 9版)

参考資料 『徳川文芸類聚 2 教訓小説』(国書刊行会 1987)

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『可笑記』巻1の23段

▲むかし、何とやらん云人のよめる哥也とて、人のずしけるを聞
  中々によはきをゝのがちからにて 柳の枝に雪をれはなし
げにもげにも、松杉などのたぐひをみるに、をのがえだの、つよきによつて、雪ふりつめば、おされて、おるゝ事有。是をなん、雪おれの枝といふ。
真、其ごとく、歯といふものは、つよき物なる故に、力をいだし、かたき物をも、かみくだく。又、舌といふ物は、よはき物なるゆへに、やわらかにして、力を出す事もなし。さるほどに、人間四十にも、あまりぬれば、歯は朽うごき、かけおつれ共、舌は其人一期のうち、かけおち、ゆるぎくつる事なし。
又、火と云物は、そのせい、きびしく、つよきによつて、鉄石山岩をもやきくづし、灰とはなせども、薪をそへざれば、めつしやすく、又、水にあふ時はきえやすし。
又、水といふ物は、其せい、やはらかに、よはきによつて、かみーゑをもつて、へだつれどもへだてやすく、又、かみの毛一すぢをもつて、とをせども、さはる所なけれ共、千石万石つみたる大舟をも、かるがるとうかべ、又、波となる時は、大山をぬき、ばんじやくをもうちくだく。
さる間、心もあらん侍は、じひふかく、義理つよく、老たるをうやまひ、わかきをとりたて、同年にしたしく、欲あさく、いんぎんにしてなさけふかく、剛なる心を、おしかくし、しかも、底にはゆたんせず、うはベむつくりと、人あひよきこそ、真実の大剛強無類の武士なるべけれ。
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●これが『可笑記』巻1の23段の全文である。埼玉県立久喜図書館では、読者の質問に対して、ネット検索を駆使して、出典『可笑記』にたどり着いた。『日本国語大辞典』を見ても、出典に『可笑記』を示す例が少なくない。『可笑記』は、近世初期の言葉の資料としても利用価値があるようだ。

◆『可笑記』寛永19年版11行本

文学研究とは

文学研究とは
2019.02.10 Sunday

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文学研究って、作家の「伝記」を書くことですか?そうじゃないでしょ?あくまでも作品研究でしょ。
作家と作品は乖離してもいるのだ。
作者:星出小路 超宇宙

文学研究家のしばしば陥る「落とし穴」がある。

そもそも文学研究とは
そこにある、小説なりポエムなりを
つまり「作品」そのものを分析する?研究するってことでしょ?
それが本筋のハズ。
ところが真正面から作品自体の分析をするのは大変?なので
ついつい?
作家と作品との相関関係について?
つまり作品を作った作家の分析から始めてしまうのである。
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●今日、こんな御意見のサイトが目に付いた。お説は、ご尤もである。文学研究は作品の研究に始まり、作品の研究で終わる。作家が何を言っているかは、問題ではない。作品の中で何を言っているかが、問われるのである。

●私は、大学卒業と同時に、重友毅博士の主宰される、〔日本文学研究会〕に入れて頂いた。この会の機関誌が、学術刊行物『文学研究』だった。法政大学の先輩の方々が、昭和26年(1951)に創刊されたもので、年2冊発行。全国に一般会員が数百名、常任委員は20名前後だった。
●常任委員を主体とする研究会は、毎月1回開催された。午前10時から、午後3時まで。午前中は、古代文学、中世文学、近世文学、近代文学の作品を取り上げ、ゼミ形式で講読、解釈、批評、討論を行った。最後には、重友先生の講評があった。
●午後は、常任委員各自の研究主題によって研究発表を行う。発表は順番に担当した。だいたい、1年に1回弱担当した。発表後、各委員から、質問、反論等が出され、討論の後、修正した原稿を編集部へ提出する。その後、編集部が査読して、合格の論文が『文学研究』に掲載されるという仕組みだった。

●さて、私の場合、発表が終わると、「それで、文学的にはどうですか?」という、詰問が出されることが、しばしばであった。私は、仮名草子研究を志した時から、いわゆる一般的な〔文学研究〕の方法は、採用しなかった。作品解明に当たって、細分化した方法で取り組んだ。啓蒙期の仮名草子研究には、その方が有効だと考えたからである。
●しかし、私は、作品研究を疎かにしたり、軽視していた訳ではない。〔作品研究 → 作者の伝記研究 → 再び作品研究〕という進め方をしたのである。

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「賓事求是」

 文学研究は対象が主として文学作品であるから、研究に関する要件も自然科学などの分野とはいささか異なる。文学の研究者には、鋭い感受性と緻密な思考力が求められるだろう。小説・詩歌・随筆・評論などに出会って、研究者自身が何を感受するかが大切であり、その感受したものを、客観的に文章化しようとした時、緻密な思考力が動員されることになるからである。
 私は、大学2年の時、仮名草子の『可笑記』を初めて読んで、このように批判精神に富み、しかも、ものごとの中枢を道破する見識を持った作者が、封建時代の近世初期にいたということに心を動かされた。それをきっかけに、この作品を卒論に選んだ。また、後年、幕末の名も無い女性の日記を読んだ時、その熟達した文章力に圧倒されて、この作品を紹介しようと決意した。それが『井関隆子日記』であり、この日記は、本学の大学院でも講義・講読・演習に採り上げた。
【『35周年記念誌』昭和女子大学大学院文学研究科 2009年3月31日】

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●『井関隆子日記』に関しては、和泉書院から『井関隆子の研究』を出した。仮名草子『可笑記』の研究は、いまだ未完である。もし、まとまれば、こんな具合になるだろう。

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 目 次

序 章
  はじめに
  研究史

第一章 如儡子・斎藤親盛の伝記 
 第一節 研究史
  一、水谷不倒氏の研究
  二、森銑三氏の研究
  三、田中伸氏の研究
  四、野間光辰氏の研究
  五、私の伝記研究
 第二節 如儡子・斎藤親盛の伝記資料

  一、二本松、松岡寺、斎藤家関係資料
   1、松岡寺
   2、斎藤家墓所(改葬前の墓、第一次改葬、第二次改葬、第三次改葬)
   3、松岡寺所蔵、過去帳
   4、松岡寺所蔵、位牌
   5、斎藤家所蔵、位牌
   6、斎藤家歴代一覧
   7、斎藤家系図
   8、〔斎藤家関係資料〕(仮称。現在、伝存未詳)
   9、斎藤家縁起詞

  二、二本松藩関係資料
   1、『世臣伝』
   2、『相生集』
   3、二本松諸資料、『二本松藩新規召抱帳』
   4、『二本松寺院物語』
   5、二本松城下図
  三、如儡子・斎藤親盛、出生の地・酒田関係資料等
   1、斎藤筑後関係文書等
   2、如儡子・斎藤親盛出生の地・酒田筑後町
   3、斎藤家初代光盛の出自
    〔1〕『小川のしからみ』の記録
    〔2〕『東蒲原郡史蹟誌』の記録
    〔3〕『齋藤家系図』
    〔4〕斎藤家関係年譜・Ⅰ
    〔5〕西山日光寺と斎藤家
    〔6〕阿賀町赤岩区の斎藤本悦家
    〔7〕斎藤家家紋「下がり藤」と「丸に」
    〔8〕斎藤家所蔵の陣羽織
    〔9〕『可笑記』絵入本の挿絵
    〔10〕まとめ
    〔11〕斎藤家関係年譜・Ⅱ

  第三節 初代、祖父・斎藤光盛  
  第四節 二代、父・斎藤広盛
  第五節 三代、如儡子・斎藤親盛
  第六節 四代、子・斎藤秋盛
  第七節 五代以後の斎藤家

第二章 如儡子の著作『可笑記』          
  第一節 作者・成立時期・巻数・章段数        
   〔一〕作者
   〔二〕成立時期                   
   〔三〕巻数・章段数                
   〔四〕「如儡子」「可笑記」の意味と読み         

  第二節 諸本                   
   第一項 諸本の書誌               
    〔一〕寛永六年跋写本             
    〔二〕寛永十九年版十一行本           
    〔三〕寛永十九年版十二行本           
    〔四〕無刊記本         
    〔五〕万治二年絵入本     
    〔六〕その他(取合本)
    
     (以下省略)
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●文学研究の方法に関しても、明治以後、偉大な先学が、それぞれ、お示し下さったが、未だ、確立はしていないように思う。今後の研究者に期待したい。

如儡子の見た陣羽織

如儡子の見た陣羽織
2019.01.24 Thursday

●元和8年(1622)、山形藩、最上57万石は、最上義俊の代で取り潰しとなる。そこで、最上家に仕えていた、斎藤広盛、親盛父子は、浪人の身となる。酒田に留まれればよかったが、その後に、庄内へ入った、酒井忠勝には召し抱えてはもらえなかったのである。
●この時、斎藤広盛は、幕府の老中土井利勝に、佐倉の城の留守居役を要請された。しかし、折も折、広盛は、にわかに病にかかり、急死してしまう。父の死後、如儡子・斎藤親盛は、酒田を去って、越後東蒲原郡、赤岩へ向かう。斎藤家総本家の第59代斎藤安近、西山吉兵衛の家を訪ねたのである。

●時に、斎藤親盛は21歳、斎藤安近は36歳だった。親盛は、この赤岩の斎藤家総本家にしばらく逗留して、やがて、江戸へ出る。この逗留の間に、安近から、斎藤家総本家の大きな転換の経緯を聞くことになる。

●斎藤家は、先祖代々、武家として活躍して来たが、第58代・斎藤義正は、主家・金上家が滅亡して、西山日光寺辺に蟄居した。59代・斎藤安近は、武士から農民に降り、住居も、山岳地帯の西山日光寺辺から、阿賀野川辺の赤岩に移住した。
歴代、武士として活躍してきた斎藤家、私の代で農民に降る。これは、御先祖様に対して申し訳ないことである。以後、斎藤安近を西山吉兵衛と改め、家紋も〔下がり藤〕から〔丸に吉〕に改めた。その記念に、〔丸に吉〕の家紋入りの陣羽織を作ったのである。

●如儡子・斎藤親盛は、そのように、西山吉兵衛から説明されて、この〔丸に吉〕の家紋の入った陣羽織を見せてもらったのであろう。それが『可笑記』絵入本の挿絵に繋がったのである。

●如儡子が見た、その陣羽織が、今、私の書斎にある。これは、奇跡である。新潟県東蒲原郡阿賀町赤岩の斎藤家総本家の御当主に対して、万感の思いを籠めて、感謝申し上げたい。
●斎藤光盛の後裔、第13代の斎藤豪盛氏は、かつて、申された。先生(私)が、あの世へ行かれたら、真っ先に、如儡子が出迎えるでしょう、と。あるいは、実現するかも知れない。
嗚呼。
【写真あり】

陣羽織 じんばおり

陣羽織 じんばおり
2019.01.23 Wednesday

●陣羽織(読み)じんばおり  【ネット より引用】
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

陣羽織
じんばおり
羽織の一種。武士が陣中で用いたところから,この名称がある。形態は袖なし,袖付き,丈にも長短があり,長いものは背縫いの腰から下が割れている。襟には異国的な風俗の影響がみられる。室町時代の文安~宝徳年間 (1444~52) 頃から用いられ,明応年間 (92~1501) に入って戦国武将が大胆華麗な文様色彩を駆使したものを用い,敵味方にその威光を誇示した。錦,金襴 (きんらん) ,唐織,緞子,ラシャ,鳥毛,革などでつくられ,明治維新の際には肩章をつけたものが流行した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉の解説

じん‐ばおり〔ヂン‐〕【陣羽織】
近世、武士が陣中で、当世具足の上に着用した上着。普通は袖がなく絹・ラシャ・麻・革などで作り、刺繍(ししゅう)を施したものもある。具足羽織。押羽織。陣胴服。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディアの解説
陣羽織【じんばおり】
武士が戦場で具足の上に着用した上衣。具足羽織,陣胴服(じんどうふく)とも。形は袖(そで)なしのものが多いが,大きな広袖のついたものや,小袖式の袂(たもと)がついたものもある。初期の陣羽織には南蛮服の影響が見られるものがあるが,全体に自由な意匠が施されている。絹,羅紗(らしゃ),麻,紙,革などを用い,描絵(かきえ),刺繍(ししゅう),切嵌(きりばめ)等で紋や模様をつけたものや,鳥毛を蓑毛(みのげ)に植えつけた珍しいものもある。江戸時代に入ってからはもっぱら威儀服として装飾的な形式ばったものとなった。
→関連項目羽織
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

じんばおり【陣羽織】
武士が合戦のときに具足の上に着用した上衣。室町時代の中ごろから用いられ,具足羽織,あるいは陣胴服(じんどうぶく)などとも称した。このころになって,武士の着る鎧が,機動力を必要とする戦闘法の変化によって軽快な具足(当世具足)となり,一方に防寒防雨などの必要からこのようなものが補助衣として発達したものであろう。元来が軍陣用のものであるため,実用を主としてはいるが,なかには威厳を示すためにはでやかなくふうをこらしたものもあった。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

陣羽織
じんばおり
中世末期、戦国時代に武将が具足(ぐそく)の上に羽織った衣服で、胴服などに由来するものとされる。元来は、軍陣で具足を脱いだ場合の鎧(よろい)下着の上に着用したものであろう。近世初頭とされる遺例には、唐織(からおり)や外国産のビロード、羅紗(らしゃ)なども用い、猩々緋(しょうじょうひ)、鳥毛など色、意匠、模様も自由で華麗闊達(かったつ)なものが多い。また、広袖(ひろそで)や、マント風のものなどもあり、紋様のきりばめの手法、ボタン掛け、フリルなど、布地とともに南蛮的嗜好(しこう)が強く反映している。古く『室町殿日記』に具足羽織の語がみえるので、天文(てんぶん)・永禄(えいろく)(1532~70)ごろには軍陣専用の羽織の類があったのである。陣羽織の語は江戸時代に定着したもので、しだいに軍陣の礼服の一種のようになり、威儀化、定式化し、非常の際の衣服ともなった。同時に戦時の役職を示す標識ともなり、幕府や諸藩において制服的な衣服として規定される陣羽織も生じた。多くは背に定紋、合印(あいじるし)などをつけ、肩章(けんしょう)様の太刀受(たちうけ)、立襟(たちえり)に、きらびやかな布地の返襟(かえしえり)、ぼたん掛けの板紐(いたひも)などの意匠で、少なからず当初の南蛮風俗の影響を残しつつ、ほぼ一定した形式として用いられた。[齋藤愼一]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の陣羽織の言及

【胴服】より
…武士が私的な服装をしてくつろいだ場合,小袖の上にかさねて用い,また野外や旅行のさいにも用いた。胴服でとくに戦陣用に作られたものを,陣胴服,または陣羽織と称する。陣羽織【山辺 知行】。…

【羽織】より
… 《貞丈雑記》によると,《室町殿日記》を引いて天文(1532‐55)のころの書状に〈具足羽織〉という言葉が出てくるのを初見としている。陣羽織ともいったこの袖無羽織は南蛮服の影響をうけ,当時舶来の金襴(きんらん),緞子(どんす),ラシャ(羅紗)などの高級織物で仕立て武将が愛用した。江戸時代には種類が非常に多く,袖丈よりも羽織丈の短い若衆の蝙蝠(かわほり)羽織,市井の老人が着た袖無羽織(甚兵衛羽織),袖丈と袖口が同寸の広袖羽織,腰に差した刀や馬に乗る武士のための腰から下が割れている背割(せわれ)羽織(打裂(ぶつさき)羽織),防火用として大名などが着たラシャや革製の火事羽織,幕末の洋式訓練に用いた筒袖羽織など,用途や身分によって形態や地質などさまざまであった。…
※「陣羽織」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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●今、私の書斎には、専修大学教授板坂則子先生から、大英博物館のお土産として頂いた、ロゼッタストーン、法政大学名誉教授林田不二生先生揮毫の〔風林火山〕の軸、そうして、天正~慶長(1573~1614)頃の作成と推測される陣羽織が掛けられている。そんな中で、如儡子・斎藤親盛の伝記を執筆している。

【陣羽織 ネット より】

酒田市 上日枝神社

酒田市、上日枝神社
2019.01.13 Sunday

好奇心いっぱいこころ旅
「余生を楽しく有意義に過ごす」という目的の為のお婆のブログです。

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•●上日枝神社(酒田市)
• 2017年03月19日 22:17
• 【正式名称】日枝神社
【所在地】山形県酒田市浜田1-10-27
【祭神】大己貴神、大山咋神、胸肩仲津姫神
• 【公式サイト】-

【由緒】貞観17年(875)日吉大社(滋賀県大津市坂本)の分霊を勧請したのがはじまりとされます。

当初は酒田港袖の浦に鎮座していましたが、後に亀ヶ崎城内に遷座し、寛永13年(1636)4月に山王堂町から遷座、当初は南に面していました。通称「上の山王さん」として広く市民に親しまれています。

【写真あり】

齋藤筑後守記念碑があります。

「齋藤筑後守記念碑
 近世初期の戦乱の時代、越後(新潟)から出羽(山形)庄内に移住して活躍した齋藤一族があった。初代光盛、二代広盛、三代親盛と庄内・酒田を中心に活躍した。 齋藤家初代光盛  越後の出身。出羽の国に移り、庄内の守護、武藤義氏に仕える。天正元年(一五七三)以後、藤島城代となり、多くの戦功をあげた。天正十年頃に三十二歳で没する。  二代広盛  又十郎、助左衛門、筑後守。最上義光の武将で、亀ケ崎城代の志村光安・光惟父子に仕え、三奉行の一人として活躍した。光惟が没した後、川北代官として志村氏の領地である川北地方の行政にあたった。齋藤助左衛門、齋藤筑後守の名で、年貢皆済状、棟札が多く伝えられている。酒田の筑後町は、齋藤筑後守の屋敷があった場所であるとも伝えられている。妻は東禅寺筑前守の弟、東禅寺右馬守の娘であると思われる。最上家は、元和三年(一六一七)に最上家親が急死し、家中の内紛もあって、同八年に最上五十七万石は近江一万石に転封となる。この時、広盛は最上家を辞して酒田を去る。長年住み慣れた筑後町を後に、妻子を連れて、鼠ケ関を越えて越後へ向かったものと推測される。しかし、広盛は、にわかに病んで、五十五年の生涯を閉じた。  三代親盛  仮名草子作者。清三郎、号は以伝、筆名・如儡子、法名・武心士峯居士。慶長八年(一六〇三)頃、酒田筑後町にて、広盛の長男として生まれる。幼少から最上家親に側近く仕え、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。元和八年、最上家の改易と同時に、父広盛に従って主家を辞し、先祖の出身地・越後に赴くが、やがて江戸へ出て仮名草子作品などの執筆に励んだ。著作に『可笑記』(仮名草子)・『砕玉鈔』(百人一首注釈書)・『堪忍記』(諸大名の批評書)・『百八町記』(三教一致を説いたもの)などがあり、晩年、二本松で詠んだ俳諧も多く残されている。延宝二年(一六七四)三月八日没、享年七十二歳。二本松の松岡寺に葬られた。
 その後の齋藤家  四代秋盛が二本松藩主丹羽光重に召抱えられたため、万治三年(一六六〇)、一家は江戸から福島の二本松に移住した。以後、五代富盛、六代常盛、七代親盛、八代邦盛、九代英盛、十代徳盛と、代々二本松藩に仕えた。齋藤家の子孫は、第十三代豪盛氏、第十四代康盛氏まで絶える事なく続き、現在、齋藤家は山形県長井市に居住し、墓所は、二本松の松岡寺にある。

             平成二十三年十月吉日
             昭和女子大学名誉教授  深沢秋男 撰文
             昭和女子大学講師    承 春先 謹書
             齋藤家 第十三代    齋藤豪盛 建立 」
                                  2016年9月13日

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◆〔好奇心いっぱいこころ旅〕「余生を楽しく有意義に過ごす」という目的の為のお婆のブログです。◆

というブログであるが、どの項目も、紹介する内容が実に丁寧で、写真もみごとである。
●平成23年(2011)に、酒田市の上日枝神社の境内に、〔齋藤筑後守記念碑〕を、齋藤家第13代豪盛氏が、多くの方々の御支援、御協力を頂いて建立した。その記念碑も、このブログは、丁寧に紹介している。このようにして、歴史の遺跡は、時間を超えて、後世へ伝えられたゆくのか、そう思うと、感謝、感激である。有難うございました。

『可笑記』の家老批判

『可笑記』の家老批判
2019.01.10 Thursday

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「表現弾圧がエログロナンセンスから始まったなんて偽史」と言った人が「西鶴以前の仮名草子に好色本取り締まりがあった」というのであれば、江戸初期に政治がらみの表現弾圧事件がないといけないですよね。おかしいな、出羽山形最上藩の藩政を批判した『可笑記』が弾圧された話はあったかな?
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『可笑記』は「無能な主君や家老出頭人への痛烈で執拗な批判は、およそ120数段にも及んでいる。」(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=53029 )という政治批判の書なんですけどねえ。ちなみに最上藩は大幅な減転封をされてますけど組織としては存続していたからね?

8:17 – 2017年11月11日
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斎藤親盛(死去ネット)

斎藤親盛 〔死去ネット〕
2019.01.08 Tuesday

斎藤親盛 さいとうちかもり(にょらいし)
1603 – 1674

仮名草子作者

• 亡くなってから344年305日過ぎました。
• 71歳で亡くなりました。
• 1603年に誕生、1674年03月08日に亡くなりました。
• 生誕416年が経過しました。没後344年が経過しました。
暮らした時代は、慶長 から 延宝 です。
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斎藤親盛(如儡子)さんについて
近世初期、出羽の酒田に生まれた。庄内、川北奉行、斎藤筑後守広盛の長男。最上家親に仕える。最上家57万石が1万石に改易された時、浪人となる。苦しい浪人生活の中で、仮名草子『可笑記』や、『砕玉抄』『堪忍記』『百八町記』などを著作した。

斎藤親盛(如儡子)さんへコメントする

2019 1 7
深沢秋男
『近世初期文芸』第35号(2018年12月)に「如儡子の祖父、斎藤光盛の出自」を発表しました。元和8年(1622)8月、山形藩57万石が、取り潰しになった時、貴殿は、酒田から越後のどこかへ行ったのですが。現在の阿賀町、赤岩地区ではないかと、私は推測しました。二本松の資料が発見されれば、明らかになるかも知れませんね。

2018.06.03 ID:240117 ×
深沢秋男
斎藤家初代・光盛は、越後のどこから、出羽庄内に来たのか、それを探究している。私は、卒論の頃、『可笑記』絵入本の「昔さる人」の背に家の家紋に注目した。それは、作者の祖父。斎藤光盛の出自に関係するのだろうか。やがて、明らかになるだろう。

2017.10.11 ID:202395
深沢秋男
『百八町記』の考察を脱稿しました。この難解な著作を、妻や子のために残したとは、敬服しました。しかし、奥さんや、秋盛は読みましたでしょうか。とにかく、最晩年の力作、私は疲れました。

2016.06.09 ID:159604
齋藤家、第13代、豪盛氏が、自分史『みちの奥 町工場物語』を出版しました。平成28年、2016年6月10日発行です。立派な生涯だと思います。御報告いたします。

2015.06.26 ID:143359
akio fukasawa
齋藤家 墓所 参詣

2015年6月23日、二本松、松岡寺の齋藤家のお墓にお参りしました。
齋藤家第13代豪盛氏御夫妻と、私たち夫婦の4人です。齋藤氏ご夫妻が招待して下さいました。
第二墓誌の裏面に、その後の状況を新たに追加しました。
これで、豪盛氏と私の研究は一段落しました。
以上、御報告申し上げます。

2015.01.01 ID:137550
akiofukasawa
昨日、第13代・齋藤豪盛氏から電話があり、齋藤家御先祖の代々の上に話題が及びました。御報告致します。

2014.09.23 ID:134816
akiofukasawa
父、斎藤筑後守広盛の伝記、『世臣伝』に基づいての検証、最上家改易までまとめました。171枚、昨日、印刷所へ入稿しました。これで、父上の伝記はほぼ、終りました。御報告申し上げます。

2014.08.30 ID:134146
akiofukasawa
父・斎藤筑後守広盛の長谷堂合戦の頃の活躍の様子が、検証できました。『世臣伝』の拠り所となった、斎藤家の記録は、貴殿が書いたのではありませんか。私は、そのように考えるようになりました。

2014.05.24 ID:131154
akiofukasawa
●笠谷和比古氏が『武士道 侍社会の文化と倫理』の中で、『可笑記』の意見を取り上げています。御報告いたします。

2014.04.03 ID:93018
akiofukasawa
武州川越の豪商、榎本弥左衛門の記録『榎本弥左衛門覚書』の、正保2年の条に「心のうちに詮議仕り候らえども、合点参らず候につき、落ち着き申さざる所に、『可笑記』を読み候らいて、心落ち着き申し候也。」と書かれています。御報告いたします。

2014.03.22 ID:92738
akiofukasawa
●東京都中央区立泰明小学校の『泰明だより』平成26年3月号に、校長・和田利次先生の生徒に贈ることばで「礼儀と云うは、むかいの人によっておこない、時にしたがっておこなう、万事一ぺんに心得べからず」(如儡子『可笑記』)と書いています。これは『可笑記』巻2の48段にあるものです。貴殿の書いた言葉が現在も活用されていることを報告します。

2014.02.14 ID:92136
akiofukasawa
現在、私は、ライフワークとしての『如儡子・斎藤親盛の研究』を執筆中です。貴殿は、『徒然草』と共に『甲陽軍鑑』をよく読んで利用しましたね。尊敬します。

2013.12.20 ID:91279
akiofukasawa
『近世初期文芸』第30号に、斎藤広盛と藤島城のことを掲載しました。貴殿の伝記資料も少しずつ充実しています。

2013.11.05 ID:90466
akiofukasawa
『可笑記』が、平成22年度香川県公立高校入試、平成23年度京都府公立高校入試に出題されました。

2013.11.02 ID:90402
深沢秋男
近世初期の激動の社会を生き抜いた人生に敬意を捧げます。大学3年の時、仮名草子『可笑記』に出会えたことを幸せだと思っています。

2013.11.02 ID:90401
お悔やみ申し上げます
• 斎藤親盛(如儡子)さんのお墓について
• 松岡寺
• 二本松市松岡77
• 山形県酒田市、上日枝神社境内に「齋藤筑後守記念碑」が建立されている。

斎藤筑後守 自筆文書

斎藤筑後守広盛 自筆文書
2018.12.27 Thursday

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一條八幡神社にあった筑後文書
                 田村寛三

 去年の八月十六日から二十日までの五日間、国文学者の深沢秋男先生が来酒され、斎藤筑後関係の史料調査を綿密にされていった。先生は酒田出身のかな草子文学者斎藤親盛如儡子をこれから生涯をかけて研究されようと志ざされ、その手始めに父筑後の研究をしようというのであった。
 筑後の子孫はいま長井市で斎藤金型製作所の社長をしておられる。この人は先祖が戦国時代、筑後町にすんでおられた関係から上日枝神社への崇敬があつく、山王祭りには毎年のように正式参拝され、数年前の社殿改造には多額の寄付をされている。一昨年、この社長と深沢先生が私を訪ねてこられ、面識があったので、昨年は前もって知らせがあり、私は五日間、先生と行動を共にした。
 先生の調査は誠に徹底したもので、およそ筑後のものは一点といえどもゆるがせにしなかった。私は学問の研究はこういうものかと頭のさがる思いをした。幸い五日間とも天気に恵まれ、本当に楽しい日々を過ごさせてもらった。
 この中で今まで斎藤筑後は、筑後町に果してすんでいたのかどうかあやふやであったのが本間美術館所蔵の「永田文書」に「筑後は酒田町筑後町ニ居候」とはっきり書いてあり、従って高名な文学者の如儡子は筑後町で生まれたことが確認されたことは大きな収穫だった。
 それともう一つ、これはむしろ私にとって忘れられなかったことは十七日、一條八幡神社を訪れたときのことだった。ここでは主君志村伊豆守の命により筑後が一條八幡神社の樹木の伐採を禁じた文書が所蔵されているのでそれを見せてもらうのが目的だった。来意をつげると若い神主さんが「それではどうぞ」と社殿へ案内された。しかし。「古文書は破損がひどいのでおみせすることは禁じられておりますので、これを見て下さい」と明治期に同社社家の小野好信が書写した「一條県社八幡宮御宝物之調」を出してくれた。これには筑後の文書も虫損にいたるまで克明に模写されていたが、靴の下からかゆい所をかくようなうらみを禁じえなかった。それでもやむをえないのでしげしげと眺めたり、写真をとったりしていた。
 そのうち神主さんが、どうした風の吹き廻しか、白い手袋をはめられ、おもむろに小さい箱を持ってこられ「これをどうぞ」という。そこには筑後の本物の文書が入っていた。思いがけないことに私たちは大喜び、ありがたく拝見することにした。写真もとってよいという。所々に虫損があって読みかねるところもあったがかろうじてつぎのように読んでみた。

 一條八幡之杉並木ハ何木成共
返々ほりとるまじく候(ことことく)
  きらいに候らへてさへ
しんセられ候ニたゝいまとり候
事ハかたく口口被仰出候者也 仍如件
慶十五
   壬月廿三日
    斎藤筑後 黒印
  一條八幡社人衆

 ところが小野好信の写書したものには慶長九となっている。そこであとで『飽海郡誌』をみると、著者の斎藤美澄もやはり「慶九」と読んでいて、いささか疑問だったとみえ、その下へ「慶九ハ慶十九ノ剥落ナラン」と記している。
 深沢先生はこんどの調査で計三十三点も史料の写真をとられたが、その中で圧倒的に多いのは年貢皆済状である。この皆済状によると、慶長十三年までは斎藤助左衛門となっており、翌十四年からはじめて斎藤筑後と名乗っている。
 それに慶長十六年八月七日には志村伊豆守が病没しており、慶長十九年かとの推測は明らかに誤まりである。こう考えてみると筆者が最初読ん
だように慶長十五年(一六一〇)が正しいようであるが、どうだろうか。このことは飽海にとって大切なことと思われるので写真をのせ、みなさんの判断を乞いたい。深沢先生も「如儡子(斎藤親盛)調査報告(2)-父・斎藤筑後と如儡子出生の地―」を「近世初期文芸」第五号(昭和六三年十二月刊)の中で、この文書の読み方は、虫損の部も含めて未解決の点かあるとし、その解決を求められいる。
 (酒田市本町一丁目一の五)
   【『荘内日報』平成元年(1989)5月16日】
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●これは、昭和63年(1988)8月17日~21日、酒田等の調査をした折のことである。田村寛三先生の御配慮で、酒田市から車を出して頂き、非常に効率的、かつ徹底的な調査が出来た。
●歴史学者、色川大吉氏は、『歴史の方法』の中で、地方の調査の場合、旅行者の目、定住者の目、という事を言っている。私は、地方に定住は出来なかったが、その視点は常に忘れないように注意した。
●酒田・鶴岡・羽黒・藤島などの調査で、多くは、大学の夏季休暇を利用して実施してきた。雪国の調査に、夏の調査のみでは不十分である。その点、地元の方々の協力は、非常に有難いことである。改めて、感謝申し上げる。

齋藤筑後守記念碑碑文

齋藤筑後守記念碑碑文
2018.12.26 Wednesday

 齋藤筑後守記念碑碑文

「齋藤筑後守記念碑
 近世初期の戦乱の時代、越後(新潟)から出羽(山形)庄内に移住して活躍した齋藤一族があった。初代光盛、二代広盛、三代親盛と庄内・酒田を中心に活躍した。
 齋藤家初代光盛  越後の出身【出自は、現在の新潟県東蒲原郡阿賀町払川地区の西山日光寺近辺か】。出羽の国に移り、庄内の守護、武藤義氏に仕える。天正元年(一五七三)以後、藤島城代となり、多くの戦功をあげた。天正十年頃に三十二歳で没する。
 二代広盛  又十郎、助左衛門、筑後守。最上義光の武将で、亀ケ崎城代の志村光安・光惟父子に仕え、三奉行の一人として活躍した。光惟が没した後、川北代官として志村氏の領地である川北地方の行政にあたった。齋藤助左衛門、齋藤筑後守の名で、年貢皆済状、棟札が多く伝えられている。酒田の筑後町は、齋藤筑後守の屋敷があった場所であるとも伝えられている。妻は東禅寺筑前守の弟、東禅寺右馬守の娘であると思われる。最上家は、元和三年(一六一七)に最上家親が急死し、家中の内紛もあって、同八年に最上五十七万石は近江一万石に転封となる。この時、広盛は最上家を辞して酒田を去る。長年住み慣れた筑後町を後に、妻子を連れて、鼠ケ関を越えて越後へ向かったものと推測される。しかし、広盛は、にわかに病んで、五十五年の生涯を閉じた。
 三代親盛  仮名草子作者。清三郎、号は以伝、筆名・如儡子、法名・武心士峯居士。慶長八年(一六〇三)頃、酒田筑後町にて、広盛の長男として生まれる。幼少から最上家親に側近く仕え、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。元和八年、最上家の改易と同時に、父広盛に従って主家を辞し、先祖の出身地・越後に赴くが、やがて江戸へ出て仮名草子作品などの執筆に励んだ。著作に『可笑記』(仮名草子)・『砕玉鈔』(百人一首注釈書)・『堪忍記』(諸大名の批評書)・『百八町記』(三教一致を説いたもの)などがあり、晩年、二本松で詠んだ俳諧も多く残されている。延宝二年(一六七四)三月八日没、享年七十二歳。二本松の松岡寺に葬られた。
 その後の齋藤家  四代秋盛が二本松藩主丹羽光重に召抱えられたため、万治三年(一六六〇)、一家は江戸から福島の二本松に移住した。以後、五代富盛、六代常盛、七代親盛、八代邦盛、九代英盛、十代徳盛と、代々二本松藩に仕えた。齋藤家の子孫は、第十三代豪盛氏、第十四代康盛氏まで絶える事なく続き、現在、齋藤家は山形県長井市に居住し、墓所は、二本松の松岡寺にある。
平成二十三年十月吉日
           昭和女子大学名誉教授 深沢秋男 撰文
           昭和女子大学講師   承 春先 謹書
           齋藤家 第十三代   齋藤豪盛 建立」
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●【 】の中を追加したいけれど、推測の説ゆえ、ためらわれないことも無い。
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「斎藤筑後守記念碑」 建立にあたって

                    平成23年10月23日 午前11時
                    酒田市 上日枝神社
                    深沢 秋男

●本日は「斎藤筑後守記念碑」の御建立を、心からお祝い申し上げます。この記念碑建立に当って、情熱をもって進められた、斎藤家、第十三代・豪盛氏の、御先祖への敬愛の念と、その活躍の場となった酒田の地への篤い想いに対して、心からの感激を新たにしています。
●また、この記念碑建立は、上日枝神社宮司の藤井恒明様、神社総代の前田直己様をはじめとして、神社関係者の御理解があって始めて実現した事であり、私からも、厚く御礼申し上げます。
●ただ、一つ、残念な事があります。本日、酒田市研究の第一人者・田村寛三先生の、お姿が無いという事です。先生は、本年一月、御他界なされました。皆様の、お手許には、先生が『荘内日報』に昨年末発表された「川北奉行斎藤筑後守広盛の事績」というプリントがあると思います。私は、田村先生と共に、本日の式典を、お祝い申し上げたかったのです。
●本日、建立させて頂いた、「斎藤筑後守記念碑」の碑文は、斎藤豪盛氏の依頼で、不肖、私か執筆させて頂きました。大変、光栄に思っています。また、記念碑の清書は、昭和女子大学の、承春先先生が、一字一字、精魂こめて、書き上げて下さいました。承先生は、母国・中国では、高名な文化史の研究者、承名世という、父君の御指導を受けて精進されました。このような、立派な先生に、この記念碑を書いて頂いた事は、斎藤家の先祖代々の皆様に対しても、大変よかったと、心から感謝申し上げます。
●皆様方には、『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』という小冊子を差し上げてあると思いますが、これは、斎藤筑後守広盛をはじめ、斎藤家の伝記に関する、これまでの調査結果を纏めたものです。これを見て頂けば、斎藤家の歴史に関する詳細は分かります。また、本日、建立した記念碑の碑文のプリントを見て頂けば、その概略はお分かりになります。
●本日は、酒田出身の、仮名草子作者、斎藤家3代斎藤親盛・如儡子と、私が出会った頃の思い出を、少し紹介したいと思います。
大学二年から三年にかけて、卒業論文の選択があります。いろいろの作品を読んでいる内に、仮名草子作品の『可笑記』に出会って、私は、この作品に大変興味を持って、この作品を研究する事に決めました。内容が面白いし、明るいし、しかも、批判精神に満ち溢れていました。近世初期に、このような作者がいて、このような作品を遺している、という事に大変驚きました。この作品ならば、自分の全力を注ぎ込めると思いました。
●当時の、この作品に対する評価は、極めて不十分なものに、私には思えました。それから40年余が過ぎましたが、私の学生時代の『可笑記』に対する評価は誤っていなかったと、現在、思っています。
●ただ、この斎藤親盛・如儡子の研究に関しては、京都大学の野間光辰先生、二松学舎大学の田中伸先生の、優れた御研究がありました。私は、その研究成果の上に立って、仕上げようとしているに過ぎません。野間先生も、田中先生も、私よりも年上で、たまたま、私が、現在まで生きていて、本日の役回りを果たしているに過ぎないのです。研究とは、そういうものでしょう。
●野間先生も田中先生も、田村先生も、あの世で、本日の「齋藤筑後守記念碑」の事を、きっと、喜んでいてくれるものと思います。
●本日は、皆さん、本当に有り難うございました。これをもって、私のお祝いと御礼の御挨拶にさせて頂きます。
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