蓬左文庫の蔵書検索

蓬左文庫の検索システム
2019.04.17 Wednesday

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資料詳細情報

資料名 「可笑記」の諸本について 1冊
資料名ヨミ カショウキノショホンニツイテ
年代1 昭和43
年代2
作成者
宛名
著編者 深沢秋男
出版書写地
出版書写者
出版書写年 昭和43
大きさ(cm)
叢書名
注記その他 文学研究 28
印記
旧蔵
別書名
分類 抜刷 (五十音順)カーコ
資料所蔵情報
コレクション区分 2
請求番号 尾S -22- – – –
重要図書区分 -
複写

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●蓬左文庫に『文学研究』は寄贈していない。書店で購入したか、何方かが寄贈したものと思う。〔諸本調査〕故に保存したのであろうか。有名な文庫に所蔵して頂いて感謝する。

禿筆

禿筆
2019.04.15 Monday

●菊池先生のエッセイに「禿筆」について書き込まれていた。
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禿筆
2019/04/12_Fri_13:52

佐藤明が『柳橋新誌』の現代語訳をしている。大分県立芸術文化短期大学研究紀要第33巻(1995年)。
柳北序の「禿筆」を「先の禿げた筆」としているのには首をかしげざるをえない。『日本国語大辞典』の「禿筆」は「使いふるされて、穂先がすり切れた筆。ちびた筆」、『広辞苑』は「さきのすり切れた筆。ちびふで」、『明鏡国語辞典』は「穂先のすりきれた筆。ちびた筆」となっている。「禿げる」というのは毛が抜け落ちてしまうことだから、「先」が「禿げ」る、というのはあり得ない。
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●この「禿筆」では、私も如儡子の百人一首注釈の研究で出会っている。
武蔵野美術大学図書館所蔵の『砕玉抄』(百人一首注釈書)の末尾には、次の如くある。

「時寛永巳之仲冬下江城之旅泊身 雪朝庵士峯ノ禿筆作」

寛永18年(1641)11月下旬、江戸に仮寓する雪朝庵士峯・如儡子・斎藤親盛が、ちびた筆を右から左へのばして、これを書いた、ということであろう。如儡子、39歳の頃の著作と推測される。

●如儡子は、身長も低く、小男だったらしい。その上、この「禿筆」をみると、頭も髪の毛は薄かったのではないかとも推測される。

●武蔵野美術大学所蔵の『砕玉抄』は、如儡子の自筆本の可能性が高い。私は、平成13年(2001)3月6日、初めて閲覧・調査することが出来た。これは、御茶ノ水女子大学教授、浅田徹氏の御教示によるものである。浅田氏は中世和歌の研究者で、私との面識は全くなかった。本書の末尾に「如儡子」とあったので、私に教えて下さったのである。学問の世界には、このような事もある。美しいかな。

社長と主君

社長と主君
2019.04.10 Wednesday

●今日、こんなブログに出会った。『可笑記』の普及に関しては、渡辺守邦氏の現代語訳が、大変役立っていると思われる。長年、この作品を核にして研究している私は、感謝しなければならない。
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江口 克彦
1月4日 17:37

【侍の善悪(よしあし)は、結局はその仕(つか)える主君次第である】

🔴 会社を判断するのに、有名無名、大小、あるいは所在地を基準にすると、将来、禍根、あるいは後悔することになるだろう。
🔴 なにより、基準にすべきは、「社風」である。いわば、その会社特有の気風、雰囲気ということ。
🔴 その社風は、いろいろな要因によって形成されるが、経験的に、結局は、社長一人によって形成されることは確かだ。
🔴 社長が有能であれば、会社全体も活気のある、闊達な、勢いのある社風になる。社長が、社員、来客、誰に対しても、丁寧に接すれば、会社全体も穏やかで、明るい社風になる。社長が和顔愛語であれば、会社全体も温かく、優しい社風になる。社長が常に身を正しくすれば、会社全体も不正を忌み嫌い、拒否する社風になる。
🔴 社長が無能であれば、会社全体も活気なく、暗い社風になる。社長が乱暴な言動をすれば、会社全体も猛々しく、荒々しい社風になる。社長が会社の金を使って遊び呆(ほう)けておれば、会社全体も金にだらしのない社風になる。社長が不正をすれば、会社全体も不正に痛痒(つうよう)を感じない社風になる。
🔴 前者のような社風のいい会社は、大抵、倒産することもなく、むしろ発展する。
🔴 後者のような社風に問題がある会社は、大抵、5年、10年、長くても20年の間に衰退するか、消滅する。
🔴 社長一人の責任は、今も昔も変わらない。寛永年間(1640年頃)に書かれた書物に次のようなくだりがある。

🔴 「昔、ある人の言うに、“侍の善悪は、結局はその仕える主君次第である。心善なる主君に仕えた侍は、その主君に心服する家老、近習衆(きんじゅうしゅう)、あるいは同僚の感化を受けて、知らず知らずのうちに善人になる。
また、悪心の固まりのような主君に仕えた侍は、その主君に服従する家老、近習衆、あるいは同僚の悪化を受け、いつのまにか悪人となる”とのこと。
まことにその通りであろう。つまりは侍たるもの、主君を選んで仕官する必要があろう」
『可笑記」(如儡子=斎藤清三郎親盛著 渡辺守邦訳)

🔴 若い社員が“善人”になるか、“悪人”になるか、あるいは、将来、有能な社員に成長するか、無能な社員に堕するかは、社長一人の責任だということを、社員に年頭の訓示をする前に、社長たる者、己れ自身を振り返ってみる必要があろうかと思う。

可笑記・・・江戸の社会を簡潔明快な俗文体で表現していると同時に、作者の浪人という視点から無能な支配層に対する民衆の批判も代弁している。
羅山の合理主義的な見地から聖賢の道を論ずる姿勢への批判も見られ、作者の苦悩が読み取れる。
これは市井の一浪人が文筆を持って当代と渡り合う、文学史における最初の例と言える。
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言語的資料としての『可笑記』

言語的資料としての『可笑記』
2019.03.17 Sunday

柳の枝に雪折れはなし

レファレンス事例詳細(Detail of reference exampl

提供館
(Library) 埼玉県立久喜図書館 (2110009)
管理番号
(Control number) 埼久-1997-081
事例作成日
(Creation date) 1998/01/16 登録日時
(Registration date) 2007年03月24日 02時10分 更新日時
(Last update) 2008年06月13日 19時40分

質問

(Question) ことわざ「柳の枝に雪折れはなし」に、対句(反対の意味)となる「松の雪折れ」という言葉があるか。子どもの頃、親から聞いた言葉。

回答

(Answer) 『徳川文芸類聚 2』に「可笑記」が収録。「・・・柳の枝に雪おれはなし げにも松杉などのたぐひをみるに、おのが枝のつよきによつて、雪ふりつめばおされておるゝ事あり、是をなん雪をれの枝といふ、・・・」とある。これを紹介する。

回答プロセス

(Answering process) 『成語大辞苑』『成語林』『たとえことば辞典』『日本語使いさばき辞典』『動植物ことわざ辞典』等なし。ただし『成語大辞苑』には関連語として対語「堅い木は折れる」があり。
『日本国語大辞典』には「仮名草子・可笑記」に「柳の枝に雪をれはなし」とあり。
自館目録の『彩-BISC』を〈カショウキ〉から検索すると『徳川文芸類聚 2』に収録されていることがわかる。「・・・柳の枝に雪おれはなし げにも松杉などのたぐひをみるに、おのが枝のつよきによつて、雪ふりつめばおされておるゝ事あり、是をなん雪をれの枝といふ、・・・」とある。このことを言っていると推測される。
事前調査事項 「故事・俗信ことわざ大辞典」「中国故事成語辞典」「国語慣用句辞典」「世界ことわざ大事典」等になし。
NDC 語彙 (814 9版)

参考資料 『徳川文芸類聚 2 教訓小説』(国書刊行会 1987)

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『可笑記』巻1の23段

▲むかし、何とやらん云人のよめる哥也とて、人のずしけるを聞

中々によはきをゝのがちからにて 柳の枝に雪をれはなし

げにもげにも、松杉などのたぐひをみるに、をのがえだの、つよきによつて、雪ふりつめば、おされて、おるゝ事有。是をなん、雪おれの枝といふ。
真、其ごとく、歯といふものは、つよき物なる故に、力をいだし、かたき物をも、かみくだく。又、舌といふ物は、よはき物なるゆへに、やわらかにして、力を出す事もなし。さるほどに、人間四十にも、あまりぬれば、歯は朽うごき、かけおつれ共、舌は其人一期のうち、かけおち、ゆるぎくつる事なし。
又、火と云物は、そのせい、きびしく、つよきによつて、鉄石山岩をもやきくづし、灰とはなせども、薪をそへざれば、めつしやすく、又、水にあふ時はきえやすし。
又、水といふ物は、其せい、やはらかに、よはきによつて、かみーゑをもつて、へだつれどもへだてやすく、又、かみの毛一すぢをもつて、とをせども、さはる所なけれ共、千石万石つみたる大舟をも、かるがるとうかべ、又、波となる時は、大山をぬき、ばんじやくをもうちくだく。
さる間、心もあらん侍は、じひふかく、義理つよく、老たるをうやまひ、わかきをとりたて、同年にしたしく、欲あさく、いんぎんにしてなさけふかく、剛なる心を、おしかくし、しかも、底にはゆたんせず、うはベむつくりと、人あひよきこそ、真実の大剛強無類の武士なるべけれ。
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●これが『可笑記』巻1の23段の全文である。埼玉県立久喜図書館では、読者の質問に対して、ネット検索を駆使して、出典『可笑記』にたどり着いた。『日本国語大辞典』を見ても、出典に『可笑記』を示す例が少なくない。『可笑記』は、近世初期の言葉の資料としても利用価値があるようだ。

『可笑記』の 人の口

『可笑記』の 人の口
2019.02.18 Monday
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可笑記の人の口の現代語訳をお願いします。 人の口は一切善悪の出で入りする門戸なり。 から始まり 少し
• 質問者:Lara.
• 質問日時:2019/01/08 14:19

可笑記の人の口の現代語訳をお願いします。
人の口は一切善悪の出で入りする門戸なり。
から始まり
少しもこの番衆油断しては、大事出来すべし。
の部分です。
全文書けなくてすいません。
お願いします。
この質問への回答は締め切られました。

• ベストアンサー優先
• 回答日時:2019/01/08 16:09

人の口はあらゆる良いことも悪いことも出入りする出入り口である。
だから、良い見張り番を置き出入りをチェックなさるべきである。その理由は口にしてはいけない人の噂を口にしてあざけり、作り話をして身を危険にさらす。これは口の中から外へ出る詰まらない事柄である。また食うべきでないものを食い、飲むべきでないものを飲み、病気になって身命を危険にさらす、これは口の外から内へ入る詰まらない者である。また金言や格言を口にし詩歌文章で雅びな文章を作るのは口の内から外へ出る良いことである。またもろもろの病気に苦しむとき、それに応じた薬を飲んで平癒し、あるいは飢え渇いたときに水を飲み食べ物を食べて普通の体に戻るなどは口の外から内へ入る良い者である。前述の見張り番と申すのは、それぞれの善者悪者が心におります間、しっかりとそれらの善悪を見分けて、善なる者を出入り自由にさせ、悪である者を出入り厳禁にしなければならない。少しでもこの見張り番が油断をしたならば、大ごとになるに違いない。
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『可笑記』巻2の26段

▲むかし、さる人の云るは、されば、人の口は、一切善悪のいで入する門戸也。
かるがゆへに、よき番衆をすゑをきて、出入するもの共を、あらためらるべし。
其いはれは、云まじき人のうはさを、あざけり、へうりなどを云て、身命をあやまつ。是は、口のうちより外へいづる、いたづらものども也。
又、くうまじき物をくゐ、のむまじき物をのみ過して、病を生じ、身命をあやまつ。是は、口の外より内へいる、いたづらもの共也。
又、金言妙句を云、詩歌文章のおもしろきをつくるなどは、口のうちより外へいづる、よきもの共也。
又、もろもろの病にくるしむ時、それぞれの薬をのミて平兪し、或は、うへかつゑにおよんで水をのみ、食をくらひ、本復するなとは、外より口のうちへ入よき物共也。
かの番衆と申は、をのれをのれが心にて候間、よくよくこの善悪をわきまへ分別して、善をは出入自由自在に、あしきをは出入かたくきんせいすべし。少も此番衆ゆだんしては大事出来すべし。
惣じて、大事といふ物は、少の所より出るもの也。たとへば、堤をつきて水をふせぐに、蟻といふ虫がとをりたるあなより、次第次第に、水がうるほひ、そろりそろりと流出て、後々には広大なる穴となりて、其堤をおしやぶるとかや。

●これが全文である。質問者は中学生かも知れない。

柳の枝に雪折れはなし

柳の枝に雪折れはなし
2019.02.13 Wednesday

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レファレンス事例詳細(Detail of reference exampl
提供館
(Library) 埼玉県立久喜図書館 (2110009)
管理番号
(Control number) 埼久-1997-081
事例作成日
(Creation date) 1998/01/16 登録日時
(Registration date) 2007年03月24日 02時10分 更新日時
(Last update) 2008年06月13日 19時40分
質問
(Question) ことわざ「柳の枝に雪折れはなし」に、対句(反対の意味)となる「松の雪折れ」という言葉があるか。子どもの頃、親から聞いた言葉。
回答
(Answer) 『徳川文芸類聚 2』に「可笑記」が収録。「・・・柳の枝に雪おれはなし げにも松杉などのたぐひをみるに、おのが枝のつよきによつて、雪ふりつめばおされておるゝ事あり、是をなん雪をれの枝といふ、・・・」とある。これを紹介する。
回答プロセス
(Answering process) 『成語大辞苑』『成語林』『たとえことば辞典』『日本語使いさばき辞典』『動植物ことわざ辞典』等なし。ただし『成語大辞苑』には関連語として対語「堅い木は折れる」があり。
『日本国語大辞典』には「仮名草子・可笑記」に「柳の枝に雪をれはなし」とあり。
自館目録の『彩-BISC』を〈カショウキ〉から検索すると『徳川文芸類聚 2』に収録されていることがわかる。「・・・柳の枝に雪おれはなし げにも松杉などのたぐひをみるに、おのが枝のつよきによつて、雪ふりつめばおされておるゝ事あり、是をなん雪をれの枝といふ、・・・」とある。このことを言っていると推測される。
事前調査事項 「故事・俗信ことわざ大辞典」「中国故事成語辞典」「国語慣用句辞典」「世界ことわざ大事典」等になし。
NDC 語彙 (814 9版)

参考資料 『徳川文芸類聚 2 教訓小説』(国書刊行会 1987)

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『可笑記』巻1の23段

▲むかし、何とやらん云人のよめる哥也とて、人のずしけるを聞
  中々によはきをゝのがちからにて 柳の枝に雪をれはなし
げにもげにも、松杉などのたぐひをみるに、をのがえだの、つよきによつて、雪ふりつめば、おされて、おるゝ事有。是をなん、雪おれの枝といふ。
真、其ごとく、歯といふものは、つよき物なる故に、力をいだし、かたき物をも、かみくだく。又、舌といふ物は、よはき物なるゆへに、やわらかにして、力を出す事もなし。さるほどに、人間四十にも、あまりぬれば、歯は朽うごき、かけおつれ共、舌は其人一期のうち、かけおち、ゆるぎくつる事なし。
又、火と云物は、そのせい、きびしく、つよきによつて、鉄石山岩をもやきくづし、灰とはなせども、薪をそへざれば、めつしやすく、又、水にあふ時はきえやすし。
又、水といふ物は、其せい、やはらかに、よはきによつて、かみーゑをもつて、へだつれどもへだてやすく、又、かみの毛一すぢをもつて、とをせども、さはる所なけれ共、千石万石つみたる大舟をも、かるがるとうかべ、又、波となる時は、大山をぬき、ばんじやくをもうちくだく。
さる間、心もあらん侍は、じひふかく、義理つよく、老たるをうやまひ、わかきをとりたて、同年にしたしく、欲あさく、いんぎんにしてなさけふかく、剛なる心を、おしかくし、しかも、底にはゆたんせず、うはベむつくりと、人あひよきこそ、真実の大剛強無類の武士なるべけれ。
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●これが『可笑記』巻1の23段の全文である。埼玉県立久喜図書館では、読者の質問に対して、ネット検索を駆使して、出典『可笑記』にたどり着いた。『日本国語大辞典』を見ても、出典に『可笑記』を示す例が少なくない。『可笑記』は、近世初期の言葉の資料としても利用価値があるようだ。

◆『可笑記』寛永19年版11行本

文学研究とは

文学研究とは
2019.02.10 Sunday

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文学研究って、作家の「伝記」を書くことですか?そうじゃないでしょ?あくまでも作品研究でしょ。
作家と作品は乖離してもいるのだ。
作者:星出小路 超宇宙

文学研究家のしばしば陥る「落とし穴」がある。

そもそも文学研究とは
そこにある、小説なりポエムなりを
つまり「作品」そのものを分析する?研究するってことでしょ?
それが本筋のハズ。
ところが真正面から作品自体の分析をするのは大変?なので
ついつい?
作家と作品との相関関係について?
つまり作品を作った作家の分析から始めてしまうのである。
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●今日、こんな御意見のサイトが目に付いた。お説は、ご尤もである。文学研究は作品の研究に始まり、作品の研究で終わる。作家が何を言っているかは、問題ではない。作品の中で何を言っているかが、問われるのである。

●私は、大学卒業と同時に、重友毅博士の主宰される、〔日本文学研究会〕に入れて頂いた。この会の機関誌が、学術刊行物『文学研究』だった。法政大学の先輩の方々が、昭和26年(1951)に創刊されたもので、年2冊発行。全国に一般会員が数百名、常任委員は20名前後だった。
●常任委員を主体とする研究会は、毎月1回開催された。午前10時から、午後3時まで。午前中は、古代文学、中世文学、近世文学、近代文学の作品を取り上げ、ゼミ形式で講読、解釈、批評、討論を行った。最後には、重友先生の講評があった。
●午後は、常任委員各自の研究主題によって研究発表を行う。発表は順番に担当した。だいたい、1年に1回弱担当した。発表後、各委員から、質問、反論等が出され、討論の後、修正した原稿を編集部へ提出する。その後、編集部が査読して、合格の論文が『文学研究』に掲載されるという仕組みだった。

●さて、私の場合、発表が終わると、「それで、文学的にはどうですか?」という、詰問が出されることが、しばしばであった。私は、仮名草子研究を志した時から、いわゆる一般的な〔文学研究〕の方法は、採用しなかった。作品解明に当たって、細分化した方法で取り組んだ。啓蒙期の仮名草子研究には、その方が有効だと考えたからである。
●しかし、私は、作品研究を疎かにしたり、軽視していた訳ではない。〔作品研究 → 作者の伝記研究 → 再び作品研究〕という進め方をしたのである。

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「賓事求是」

 文学研究は対象が主として文学作品であるから、研究に関する要件も自然科学などの分野とはいささか異なる。文学の研究者には、鋭い感受性と緻密な思考力が求められるだろう。小説・詩歌・随筆・評論などに出会って、研究者自身が何を感受するかが大切であり、その感受したものを、客観的に文章化しようとした時、緻密な思考力が動員されることになるからである。
 私は、大学2年の時、仮名草子の『可笑記』を初めて読んで、このように批判精神に富み、しかも、ものごとの中枢を道破する見識を持った作者が、封建時代の近世初期にいたということに心を動かされた。それをきっかけに、この作品を卒論に選んだ。また、後年、幕末の名も無い女性の日記を読んだ時、その熟達した文章力に圧倒されて、この作品を紹介しようと決意した。それが『井関隆子日記』であり、この日記は、本学の大学院でも講義・講読・演習に採り上げた。
【『35周年記念誌』昭和女子大学大学院文学研究科 2009年3月31日】

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●『井関隆子日記』に関しては、和泉書院から『井関隆子の研究』を出した。仮名草子『可笑記』の研究は、いまだ未完である。もし、まとまれば、こんな具合になるだろう。

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 目 次

序 章
  はじめに
  研究史

第一章 如儡子・斎藤親盛の伝記 
 第一節 研究史
  一、水谷不倒氏の研究
  二、森銑三氏の研究
  三、田中伸氏の研究
  四、野間光辰氏の研究
  五、私の伝記研究
 第二節 如儡子・斎藤親盛の伝記資料

  一、二本松、松岡寺、斎藤家関係資料
   1、松岡寺
   2、斎藤家墓所(改葬前の墓、第一次改葬、第二次改葬、第三次改葬)
   3、松岡寺所蔵、過去帳
   4、松岡寺所蔵、位牌
   5、斎藤家所蔵、位牌
   6、斎藤家歴代一覧
   7、斎藤家系図
   8、〔斎藤家関係資料〕(仮称。現在、伝存未詳)
   9、斎藤家縁起詞

  二、二本松藩関係資料
   1、『世臣伝』
   2、『相生集』
   3、二本松諸資料、『二本松藩新規召抱帳』
   4、『二本松寺院物語』
   5、二本松城下図
  三、如儡子・斎藤親盛、出生の地・酒田関係資料等
   1、斎藤筑後関係文書等
   2、如儡子・斎藤親盛出生の地・酒田筑後町
   3、斎藤家初代光盛の出自
    〔1〕『小川のしからみ』の記録
    〔2〕『東蒲原郡史蹟誌』の記録
    〔3〕『齋藤家系図』
    〔4〕斎藤家関係年譜・Ⅰ
    〔5〕西山日光寺と斎藤家
    〔6〕阿賀町赤岩区の斎藤本悦家
    〔7〕斎藤家家紋「下がり藤」と「丸に」
    〔8〕斎藤家所蔵の陣羽織
    〔9〕『可笑記』絵入本の挿絵
    〔10〕まとめ
    〔11〕斎藤家関係年譜・Ⅱ

  第三節 初代、祖父・斎藤光盛  
  第四節 二代、父・斎藤広盛
  第五節 三代、如儡子・斎藤親盛
  第六節 四代、子・斎藤秋盛
  第七節 五代以後の斎藤家

第二章 如儡子の著作『可笑記』          
  第一節 作者・成立時期・巻数・章段数        
   〔一〕作者
   〔二〕成立時期                   
   〔三〕巻数・章段数                
   〔四〕「如儡子」「可笑記」の意味と読み         

  第二節 諸本                   
   第一項 諸本の書誌               
    〔一〕寛永六年跋写本             
    〔二〕寛永十九年版十一行本           
    〔三〕寛永十九年版十二行本           
    〔四〕無刊記本         
    〔五〕万治二年絵入本     
    〔六〕その他(取合本)
    
     (以下省略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●文学研究の方法に関しても、明治以後、偉大な先学が、それぞれ、お示し下さったが、未だ、確立はしていないように思う。今後の研究者に期待したい。

如儡子の見た陣羽織

如儡子の見た陣羽織
2019.01.24 Thursday

●元和8年(1622)、山形藩、最上57万石は、最上義俊の代で取り潰しとなる。そこで、最上家に仕えていた、斎藤広盛、親盛父子は、浪人の身となる。酒田に留まれればよかったが、その後に、庄内へ入った、酒井忠勝には召し抱えてはもらえなかったのである。
●この時、斎藤広盛は、幕府の老中土井利勝に、佐倉の城の留守居役を要請された。しかし、折も折、広盛は、にわかに病にかかり、急死してしまう。父の死後、如儡子・斎藤親盛は、酒田を去って、越後東蒲原郡、赤岩へ向かう。斎藤家総本家の第59代斎藤安近、西山吉兵衛の家を訪ねたのである。

●時に、斎藤親盛は21歳、斎藤安近は36歳だった。親盛は、この赤岩の斎藤家総本家にしばらく逗留して、やがて、江戸へ出る。この逗留の間に、安近から、斎藤家総本家の大きな転換の経緯を聞くことになる。

●斎藤家は、先祖代々、武家として活躍して来たが、第58代・斎藤義正は、主家・金上家が滅亡して、西山日光寺辺に蟄居した。59代・斎藤安近は、武士から農民に降り、住居も、山岳地帯の西山日光寺辺から、阿賀野川辺の赤岩に移住した。
歴代、武士として活躍してきた斎藤家、私の代で農民に降る。これは、御先祖様に対して申し訳ないことである。以後、斎藤安近を西山吉兵衛と改め、家紋も〔下がり藤〕から〔丸に吉〕に改めた。その記念に、〔丸に吉〕の家紋入りの陣羽織を作ったのである。

●如儡子・斎藤親盛は、そのように、西山吉兵衛から説明されて、この〔丸に吉〕の家紋の入った陣羽織を見せてもらったのであろう。それが『可笑記』絵入本の挿絵に繋がったのである。

●如儡子が見た、その陣羽織が、今、私の書斎にある。これは、奇跡である。新潟県東蒲原郡阿賀町赤岩の斎藤家総本家の御当主に対して、万感の思いを籠めて、感謝申し上げたい。
●斎藤光盛の後裔、第13代の斎藤豪盛氏は、かつて、申された。先生(私)が、あの世へ行かれたら、真っ先に、如儡子が出迎えるでしょう、と。あるいは、実現するかも知れない。
嗚呼。
【写真あり】

陣羽織 じんばおり

陣羽織 じんばおり
2019.01.23 Wednesday

●陣羽織(読み)じんばおり  【ネット より引用】
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

陣羽織
じんばおり
羽織の一種。武士が陣中で用いたところから,この名称がある。形態は袖なし,袖付き,丈にも長短があり,長いものは背縫いの腰から下が割れている。襟には異国的な風俗の影響がみられる。室町時代の文安~宝徳年間 (1444~52) 頃から用いられ,明応年間 (92~1501) に入って戦国武将が大胆華麗な文様色彩を駆使したものを用い,敵味方にその威光を誇示した。錦,金襴 (きんらん) ,唐織,緞子,ラシャ,鳥毛,革などでつくられ,明治維新の際には肩章をつけたものが流行した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉の解説

じん‐ばおり〔ヂン‐〕【陣羽織】
近世、武士が陣中で、当世具足の上に着用した上着。普通は袖がなく絹・ラシャ・麻・革などで作り、刺繍(ししゅう)を施したものもある。具足羽織。押羽織。陣胴服。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディアの解説
陣羽織【じんばおり】
武士が戦場で具足の上に着用した上衣。具足羽織,陣胴服(じんどうふく)とも。形は袖(そで)なしのものが多いが,大きな広袖のついたものや,小袖式の袂(たもと)がついたものもある。初期の陣羽織には南蛮服の影響が見られるものがあるが,全体に自由な意匠が施されている。絹,羅紗(らしゃ),麻,紙,革などを用い,描絵(かきえ),刺繍(ししゅう),切嵌(きりばめ)等で紋や模様をつけたものや,鳥毛を蓑毛(みのげ)に植えつけた珍しいものもある。江戸時代に入ってからはもっぱら威儀服として装飾的な形式ばったものとなった。
→関連項目羽織
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世界大百科事典 第2版の解説

じんばおり【陣羽織】
武士が合戦のときに具足の上に着用した上衣。室町時代の中ごろから用いられ,具足羽織,あるいは陣胴服(じんどうぶく)などとも称した。このころになって,武士の着る鎧が,機動力を必要とする戦闘法の変化によって軽快な具足(当世具足)となり,一方に防寒防雨などの必要からこのようなものが補助衣として発達したものであろう。元来が軍陣用のものであるため,実用を主としてはいるが,なかには威厳を示すためにはでやかなくふうをこらしたものもあった。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

陣羽織
じんばおり
中世末期、戦国時代に武将が具足(ぐそく)の上に羽織った衣服で、胴服などに由来するものとされる。元来は、軍陣で具足を脱いだ場合の鎧(よろい)下着の上に着用したものであろう。近世初頭とされる遺例には、唐織(からおり)や外国産のビロード、羅紗(らしゃ)なども用い、猩々緋(しょうじょうひ)、鳥毛など色、意匠、模様も自由で華麗闊達(かったつ)なものが多い。また、広袖(ひろそで)や、マント風のものなどもあり、紋様のきりばめの手法、ボタン掛け、フリルなど、布地とともに南蛮的嗜好(しこう)が強く反映している。古く『室町殿日記』に具足羽織の語がみえるので、天文(てんぶん)・永禄(えいろく)(1532~70)ごろには軍陣専用の羽織の類があったのである。陣羽織の語は江戸時代に定着したもので、しだいに軍陣の礼服の一種のようになり、威儀化、定式化し、非常の際の衣服ともなった。同時に戦時の役職を示す標識ともなり、幕府や諸藩において制服的な衣服として規定される陣羽織も生じた。多くは背に定紋、合印(あいじるし)などをつけ、肩章(けんしょう)様の太刀受(たちうけ)、立襟(たちえり)に、きらびやかな布地の返襟(かえしえり)、ぼたん掛けの板紐(いたひも)などの意匠で、少なからず当初の南蛮風俗の影響を残しつつ、ほぼ一定した形式として用いられた。[齋藤愼一]
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世界大百科事典内の陣羽織の言及

【胴服】より
…武士が私的な服装をしてくつろいだ場合,小袖の上にかさねて用い,また野外や旅行のさいにも用いた。胴服でとくに戦陣用に作られたものを,陣胴服,または陣羽織と称する。陣羽織【山辺 知行】。…

【羽織】より
… 《貞丈雑記》によると,《室町殿日記》を引いて天文(1532‐55)のころの書状に〈具足羽織〉という言葉が出てくるのを初見としている。陣羽織ともいったこの袖無羽織は南蛮服の影響をうけ,当時舶来の金襴(きんらん),緞子(どんす),ラシャ(羅紗)などの高級織物で仕立て武将が愛用した。江戸時代には種類が非常に多く,袖丈よりも羽織丈の短い若衆の蝙蝠(かわほり)羽織,市井の老人が着た袖無羽織(甚兵衛羽織),袖丈と袖口が同寸の広袖羽織,腰に差した刀や馬に乗る武士のための腰から下が割れている背割(せわれ)羽織(打裂(ぶつさき)羽織),防火用として大名などが着たラシャや革製の火事羽織,幕末の洋式訓練に用いた筒袖羽織など,用途や身分によって形態や地質などさまざまであった。…
※「陣羽織」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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●今、私の書斎には、専修大学教授板坂則子先生から、大英博物館のお土産として頂いた、ロゼッタストーン、法政大学名誉教授林田不二生先生揮毫の〔風林火山〕の軸、そうして、天正~慶長(1573~1614)頃の作成と推測される陣羽織が掛けられている。そんな中で、如儡子・斎藤親盛の伝記を執筆している。

【陣羽織 ネット より】

酒田市 上日枝神社

酒田市、上日枝神社
2019.01.13 Sunday

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•●上日枝神社(酒田市)
• 2017年03月19日 22:17
• 【正式名称】日枝神社
【所在地】山形県酒田市浜田1-10-27
【祭神】大己貴神、大山咋神、胸肩仲津姫神
• 【公式サイト】-

【由緒】貞観17年(875)日吉大社(滋賀県大津市坂本)の分霊を勧請したのがはじまりとされます。

当初は酒田港袖の浦に鎮座していましたが、後に亀ヶ崎城内に遷座し、寛永13年(1636)4月に山王堂町から遷座、当初は南に面していました。通称「上の山王さん」として広く市民に親しまれています。

【写真あり】

齋藤筑後守記念碑があります。

「齋藤筑後守記念碑
 近世初期の戦乱の時代、越後(新潟)から出羽(山形)庄内に移住して活躍した齋藤一族があった。初代光盛、二代広盛、三代親盛と庄内・酒田を中心に活躍した。 齋藤家初代光盛  越後の出身。出羽の国に移り、庄内の守護、武藤義氏に仕える。天正元年(一五七三)以後、藤島城代となり、多くの戦功をあげた。天正十年頃に三十二歳で没する。  二代広盛  又十郎、助左衛門、筑後守。最上義光の武将で、亀ケ崎城代の志村光安・光惟父子に仕え、三奉行の一人として活躍した。光惟が没した後、川北代官として志村氏の領地である川北地方の行政にあたった。齋藤助左衛門、齋藤筑後守の名で、年貢皆済状、棟札が多く伝えられている。酒田の筑後町は、齋藤筑後守の屋敷があった場所であるとも伝えられている。妻は東禅寺筑前守の弟、東禅寺右馬守の娘であると思われる。最上家は、元和三年(一六一七)に最上家親が急死し、家中の内紛もあって、同八年に最上五十七万石は近江一万石に転封となる。この時、広盛は最上家を辞して酒田を去る。長年住み慣れた筑後町を後に、妻子を連れて、鼠ケ関を越えて越後へ向かったものと推測される。しかし、広盛は、にわかに病んで、五十五年の生涯を閉じた。  三代親盛  仮名草子作者。清三郎、号は以伝、筆名・如儡子、法名・武心士峯居士。慶長八年(一六〇三)頃、酒田筑後町にて、広盛の長男として生まれる。幼少から最上家親に側近く仕え、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。元和八年、最上家の改易と同時に、父広盛に従って主家を辞し、先祖の出身地・越後に赴くが、やがて江戸へ出て仮名草子作品などの執筆に励んだ。著作に『可笑記』(仮名草子)・『砕玉鈔』(百人一首注釈書)・『堪忍記』(諸大名の批評書)・『百八町記』(三教一致を説いたもの)などがあり、晩年、二本松で詠んだ俳諧も多く残されている。延宝二年(一六七四)三月八日没、享年七十二歳。二本松の松岡寺に葬られた。
 その後の齋藤家  四代秋盛が二本松藩主丹羽光重に召抱えられたため、万治三年(一六六〇)、一家は江戸から福島の二本松に移住した。以後、五代富盛、六代常盛、七代親盛、八代邦盛、九代英盛、十代徳盛と、代々二本松藩に仕えた。齋藤家の子孫は、第十三代豪盛氏、第十四代康盛氏まで絶える事なく続き、現在、齋藤家は山形県長井市に居住し、墓所は、二本松の松岡寺にある。

             平成二十三年十月吉日
             昭和女子大学名誉教授  深沢秋男 撰文
             昭和女子大学講師    承 春先 謹書
             齋藤家 第十三代    齋藤豪盛 建立 」
                                  2016年9月13日

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というブログであるが、どの項目も、紹介する内容が実に丁寧で、写真もみごとである。
●平成23年(2011)に、酒田市の上日枝神社の境内に、〔齋藤筑後守記念碑〕を、齋藤家第13代豪盛氏が、多くの方々の御支援、御協力を頂いて建立した。その記念碑も、このブログは、丁寧に紹介している。このようにして、歴史の遺跡は、時間を超えて、後世へ伝えられたゆくのか、そう思うと、感謝、感激である。有難うございました。