第一論文

第一論文

  • 2019.06.20 Thursday
第一論文

【1】『可笑記』と儒教思想 『文学研究』19号 昭和39年5月

●昨日、急に思い立って、自分の書いてきた論文などを整理してみた。最初に書いたのは、これである。これは、法政大学で行われた、研究会の公開研究会で口頭発表して、機関誌『文学研究』に掲載されたもの。
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〔研究会の窓〕

十年の歴史を持つ日本文学研究会は月例研究会を持ち、作品に即してその文学的意義を究明する立場に立ち着実な研究を続けて来た。機関誌「文学研究」はすでに本号を以て十九号を数える。今年、十一年目を迎える本学会は一層の飛躍と発展をめざして年三回程度の公開研究会を持つ事にした。その第一回が去る五月十六日、法政大学に於て行われた。先ず深沢秋男氏が「可笑記と儒教思想」を、続いて清水正男氏が「京伝の洒落本について」を発表した。深沢氏の発表については本誌の巻頭論文がこれをつくしている。清水氏は洒落本作者の第一人者である京伝の「令子洞房」「総籬」「錦之裏」等を中心に、京伝洒落本の特質と変遷をたどった興味ある発表であっ
た。最後に明大教授水野 稔氏の「江戸小説について」と題する講演があり、重友 毅会
長の挨拶があって会を閉じた。水野氏の講演要旨次の通り。
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●この私の論文について、嬉しいことがあった。43年後の、2007年に、笠谷和比古氏が、「武士道概念の史的展開」(『日本研究』35号、2007年5月)で、私の説を利用して下さったことである。

●駆け出しの、新参者を、重友毅先生はじめ、研究会の大先輩の方々が、あたたかく御指導くださったのである。有難い、研究のスタートだった。第一論文が、40年を経て、なお利用されるということと共に、感謝申上げたい。


池田光政の日記

記録王・池田光政

  • 2019.06.19 Wednesday
記録王・池田光政

●今、岡山藩・31万5千石藩主、池田光政の日記を読んでいる。寛永14年(1637)~寛文9年(1669)の膨大な日記である。池田光政は、学問好きで、領民を愛した名君と評価されている。

●池田光政は、熊沢蕃山を用い、学問に励んだらしい。また、日記を読むと、何度も牢人を採用したことが記されている。

●『可笑記』の作者、如儡子・斎藤親盛は、酒田の最上家、57万石が取り潰された時、祖父・光盛の本貫、越後を訪れるが、やがて、日本の首都・江戸へ出る。生活には困窮する。そんな時、親切な知人が、大名の祐筆をしたらどうか、と勧める。どうも、その時、仕えたのが、岡山藩主、池田光政ではないかと、予測される。

●それで、『池田光政日記』を読んでいる。すごい政治家だと思う。今、関税を上乗せしている大統領や、老後2000万円がどうのと、騒がれている財務大臣などとは、まるで、天と地の違いである。

●私は、天理大学の金子和正先生から、〔記録王〕の称号を授与された。この事を誇りに思う。

■『池田光政日記』藤井駿・水野恭一郎・谷口澄夫 編  より


ベストセラー『可笑記』

『可笑記』長い付き合い

2019.06.01 Saturday

◆◇◆最上家浪人作のベストセラー◆◇◆

「へ」と申す物ハ、音ありて、手にもとられず、目にもみえず、色にもそまず、火にもやけず、水にもぬれず、きってもきられず、かくてハ、元来なき物かと思えば、腹中のときにより、いくつもある物にて候(そうろう)

初手から、屁(へ)の話とはいささか唐突で胡散(うさん)臭い。でも、これはさる人が、高僧との問答の結末に得心して出たことばなのだ。話しのいきさつはこうである。

この男、仏に具わる三つの徳を知りたいと高僧を訪う。そこで先ず、「金剛(こんごう)の正体というものを考え出してみよ」とその僧にいわれる。とりあえず彼は「藁(わら)」と答える。金剛というはき物(金剛草履)が藁でできているから、というわけだ。高僧はかすかな笑みを浮かべ、それを打ち消す。そして、上記の文脈のように「金剛の正体というハ、音ありて(中略)なき物かと思えば、元来、その時にしたがって、あるもの也」と教える。
男は「難しい問答だなあ・・」と思いながら、ひとまず高僧のもとを辞す。ところが、山門近くまで来て突然、男の脳裏に何かがひらめいた。そして、高僧の所へ急ぎ立ち返り、「ただいま教わった金剛の正体は、へであるに違いない」という。高僧は片腹痛く、可笑しさをこらえ、「その心は」と問う。そこで出た答えが、冒頭の一節である。
「へ~っ」と、ついダジャレを飛ばしたくなるところだが、彼は落語に出てくる与太郎ではない。本文の作者の意図は、実はちぐはぐで分かりにくい禅問答を揶揄(やゆ)しているのだ。
これが最上家浪人のものした、『可笑記(かしょうき)』なる仮名草子の巻第四(11段)所載の一文である。ことほど左様に、全五巻の長短280段にわたる内容は、当世批判や風刺、それに教訓に満ちていて実に面白い。とりわけ、無能な主君や家老出頭人への痛烈で執拗な批判は、およそ120数段にも及んでいる。これら多くの部分に、現代のダメな組織体にも通じるものを見て取れる。

本書の著者は如儡子(にょらいし)、本名斎藤親盛(ちかもり)。慶長8年(1603)頃に酒田に生まれたという。彼は最上家親に側近く仕え、元服時には主君から一字拝領している。だが、元和8年(1623)に重臣たちの愚かな政争によって最上家が改易、不遇な浪人生活を余儀なくされる。上述のような批判は、作者自身のやり切れない憤りが心底にあっての表現と見られる。
各段のほとんどが「むかし去る人の云へるは」、またはこれに類する書き出しである。一見作者の意見でないように韜晦(とうかい)しているのが特徴。だが、和漢の故事を引用し、それらをよく自己のものとして文中に生かしている。また、儒仏論・仏法論・経世論、それに小咄・雑話・笑話の類も多く、作者の博学ぶりと筆力のほどをうかがわせる。

本書は寛永19年(1641)刊行されるや、たちまち評判になり、万治2年(1659)には絵入の本も出版された。また、浅井了意『可笑記評判』や井原西鶴『新可笑記』など、後続の作品に大きな影響を与えた。活字本としては、『仮名草子集成』第十四巻(1993年、東京堂出版)に所収されている。

■執筆:渋谷武士(二代長谷勘三郎改メ)「歴史館だより№13/研究余滴6」より


伝記研究の方法

伝記研究の方法

2019.05.29 Wednesday


●私の、如儡子伝記研究は、全て〔調査報告〕とした。これには、一つの理由がある。従来の伝記研究は、伝記関係資料を研究者が収集した範囲で、伝記として纏め上げていた。その収集は徹底したものもあるが、やや中途半端なものもある。勿論、調査・収集は徹底することが理想である。私も、かつて、井関隆子や鹿島則文・鈴木重嶺などの略伝を纏める時、同様の方法を採用していた。しかし、これでは、科学として見た時、適切ではないだろう。その反省の上に立って進めたのが、如儡子の伝記研究であり、〔調査報告〕とした所以である。

■明日不所求

●当然の事ながら、人間には寿命がある。これは、作者も研究者も同様である。故に、歴史上の人物の伝記研究を志しながら、業半ばにして世を去った人々の何と多い事か。私の伝記研究の方法は、この人間存在のアヤウサにも着目して打ち出されたものである。出来得る限り、客観的な事実を把捉したい。しかる後に、その人物の伝記の執筆に取り掛かりたい。しかし、我が命は、明日までかも知れない。それならば、まず、命のある限り、事実の収集をしておこう。そうすれば、その事実の記録を後人が利用してくれるかも知れない。まかりまちがえば、調査も自分の思った通りに進み、自分で伝記の執筆が出来るかも知れない。

■伝記資料のランク付け

我々が過去の歴史上の人物の伝記を作成する場合、さまざまな資料を使う。その場合、重要なことは、伝記資料のランク付けをして、資料批判を加えて、その上で利用すべきであるということである。私はこれまで、井関隆子・鹿島則文・鹿島則孝・飯田龍一・鈴木重嶺など、歴史上の人物の伝記研究をしてきたが、その間に多くの先学の御指導を賜った。その経験と反省から、仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛の伝記研究の方法を模索してきたのである。
私は、かねがね、伝記資料を次のように区分すべきではないか、と考えている。

第一資料 過去帳・位牌・墓石
第二資料 本人の作品・著作・自筆の記録類
第三資料 公的記録(幕府の史料、藩の史料、市町村の記

      録、棟札、地図等)
第四資料 父・子・先祖・子孫・親族・友人・知人等の関連
      資料
第五資料 軍記・軍書・物語
第六資料 その他

このように区分して、出来るだけ、各々を混合せずに活用するように努力してきた。また、伝記資料は、原資料を出来る限り、手を加えず、資料全体を写真や翻刻で定着するように努力してきた。「如儡子(斎藤親盛)調査報告」として公表してきたのは、そのためである。出来得る限り信頼できる資料に基づき、これらの資料に資料批判を加えて、これらに基づいて骨格を組み上げ、その他の資料で肉付けしたいと願っている。しかし、これは、言うは易く、実行するは誠に大変な事である。

如儡子・斎藤親盛の生涯

如儡子・斎藤親盛の生涯

2019.05.28 Tuesday


●私は、昭和63年(1988)に如儡子・斎藤親盛の本格的な伝記研究に着手した。研究の先達、水谷不倒氏も、森銑三氏も、田中伸氏も、野間光辰氏も、すでに、御逝去なされていた。
●野間光辰氏と生前に約束した、氏の「如儡子系伝攷」の徹底的な検討に入ったのである。それから30年後の今日、次のような「斎藤親盛の生涯一覧」にたどりついた。

●私は、大学の卒論以来、この人物の作品の検討と、人物の調査・検討に取り組んできたわけで、その意味では、57年が経過している。しかし、この研究経過に対して、いささかの後悔もしていない。

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斎藤家、第三代、清三郎、親盛、如儡子の出生から没年までを、推測をも含めて整理すると次の如くである。

◎慶長五年(一六〇三) 酒田筑後町にて出生。
◎慶長一九年(一六一四) 一二歳、最上家親に近侍する。
◎元和三年(一六一七) 一五歳、元服。主君・家親より一字を賜り、以後「親盛」と称する。
◎元和四年(一六一八) 一六歳、以後、五年間の間に、諸方面に遊学し、書写するところの写本は数百巻に及んだ。
◎元和八年(一六二二) 二〇歳、八月十八日、山形藩五十七万石、最上義俊は、近江の大森藩一万石に転封となり、斎藤広盛、親盛父子は、最上家を辞す。この時、父盛広に対して、幕府老中・土井利勝から、佐倉の城の留守居役を請われたが、折も折、広盛は病を得て急逝する。親盛は、母と共に、祖父光盛の郷里、越後の国、東蒲原郡赤岩(現在の、新潟県東蒲原郡阿賀町赤岩地区)へ赴く。赤岩の斎藤家総本家、第五九代斎藤安近の許にしばらく逗留した後、江戸へ出る。
◎寛永六年(一六二九) 二七歳、写本『可笑記』執筆開始。 ?
◎寛永一〇年(一六三三) 三一歳、江戸では、日本橋品川町裏河岸(俗称、釘店)に住す。
◎寛永一二年(一六三五) 三三歳、写本『可笑記』五巻十冊、序 一応成る。 ?
◎寛永一三年(一六三六) 三四歳、『可笑記』跋 成る。
◎寛永一八年(一六四一) 三九歳、『砕玉抄』(百人一首注釈書) 成る。 ?
◎寛永一九年(一六四二) 四〇歳、『可笑記』十一行本刊。
◎正保二年(一六四五) 四三歳、『堪忍記』A 成る。 ?
◎正保四年(一六四七) 四五歳、『堪忍記』B 成る。 ?
◎慶安元年(一六四八) 四六歳、『可笑記』十二行本刊は、この頃 ?
◎明暦元年(一六五五) 五三歳、『百八町記』序
◎明暦三年(一六五七) 五五歳、『可笑記』無刊記本刊は、この頃 ?
◎万治二年(一六五九) 五七歳、『可笑記』絵入本刊
◎万治三年(一六六〇) 五八歳、写本『可笑記』五巻十冊、跋、成る。 ?
◎寛文元年(一六六一) 五九歳、娘没(一竿宗筠禅定尼)、二本松の松岡寺に葬る。
◎寛文元年(一六六一) 五九歳 この頃、二本松藩士、江口塵言、水野林元、日野好元、長岡道高、斎藤友我、小沢衆下、中井正成等と交わり、俳諧を楽しむ。
◎寛文二年(一六六二) 六〇歳、『百人一首鈔』重賢書写本成る。
◎寛文三年(一六六三) 六一歳、『酔玉集』(百人一首注釈書)成る。
◎寛文四年(一六六四) 六二歳、『百八町記』刊。
松江重頼『佐夜中山集』に二句入集。
妻没(玄光妙宗大姉)、二本松の松岡寺に葬る。
◎寛文五年(一六六五) 六三歳、『百人一首註解』成る。 ?
十一月、斎藤友我と『兩吟百韻』を詠み、二本松に逗留中の松江重頼の評点をけた。
◎寛文六年(一六六六) 六四歳、内藤風虎の『夜の錦』に七句入集。
◎寛文一二年(一六七二) 七〇歳、内藤風虎『桜川』に四十句入集。
松江維舟『俳諧時勢粧』に、斎藤友我との『兩吟百韻』入集。
松江維舟『俳諧時勢祥粧小鏡』に一句入集。
◎延宝二年(一六七四) 七二歳、三月八日没。法名「武心士峯居士 俗名斎藤以伝」 二本松の松岡寺に葬る。
◎延宝三年(一六七五) 没後一年、宗善庵重安『糸屑』に一句入集。
◎延宝四年(一六七六) 没後二年、北村季吟『続連珠』に一句入集。
◎延宝八年(一六八〇) 没後六年、『酔玉集』(百人一首注釈書)、書写本。
〇妻、寛文四年(一六六四)没。法名「玄光妙宗大姉」、二本松の松岡寺に葬る。年令未詳。
〇長男・秋盛。斎藤家四代。二本松丹羽家に仕える。元禄一二年(一六九九)没。法名「雄岳紹英居士」、二本松の
松岡寺に葬る。
〇次男・又右衛門。元禄一〇年(一六九七)没。法名「法雲玄要居士」、二本松の松岡寺に葬る。
〇娘 寛文元年(一六六一)没。法名「一竿宗筠禅定尼」、二本松の松岡寺に葬る。

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如儡子の伝記研究

2019.05.19 Sunday


●昭和63年(1988)4月24日(日)午前10時~、東京都教育会館、日本文学研究会、常任委員会月例会。ここで、私は「如儡子(斎藤親盛)調査報告(1)」と題して口頭発表させて頂いた。発表後、諸先生の質問、批判、御指導を賜わり、修正を加えて、学術刊行物『文学研究』第67号(1988年6月)に発表させて頂いた。

●これが、如儡子の伝記研究のスタートだった。30年後の今、その調査結果を基にして、如儡子の伝記研究をまとめている。私の計画では、もっと早くまとめる予定であったが、なかなか計画通りには進まなかった。『仮名草子集成』という、大仕事が割り込んだからである。

●私は、雑誌に発表した論文を集めて、単行本にしたことは無い。その手間で、新しい論文を書いてきた。リプリントに意味はないと考えたからである。しかし、今、研究の第一線から退き、生み出すことも出来なくなった。過去の論文を集めて、ひとまとまりにする事も、意味はアリか、そのように思う。

●それにしても、30年前に、日本文学研究会の月例会で発表した時の、諸先生を前にした、自分の録音を聞くと、若くて、情熱が伝わってくる。御出席の諸先生、今は皆、冥界の人となられた、その御指導の御学恩が、蘇って、感謝の念を新たにした。
●私の研究は、重友毅先生を中心に活動された、日本文学研究会が、ホームグランドであった。改めて、感謝申上げたい。

『文学研究』 第67号


『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』5000円

『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』5000円

2019.05.03 Friday


●今日、ネットオークションに、拙著『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』が出ていて、開始価格が5000円と出ていた。私の献呈用紙が添付されている。

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ネット オークション

【非売品・稀少】
『 斎藤親盛(如儡子)伝記資料 』深沢秋男 著 近世初期文芸研究会 平成22年 ○江戸初期 文芸 仮名草子 可笑記

• 個数
:1
• 開始日時
:2019.05.02(木)22:56
• 終了日時
:2019.05.03(金)22:56
• 自動延長
:あり
• 早期終了
:あり
• 返品
:返品不可
• 入札者評価制限
:あり
• 入札者認証制限
:なし
• 最高額入札者
:ログインして確認
• 開始価格
:5,000 円
• オークションID
:m330599880


藤島城

藤島城

2019.04.29 Monday

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藤島城  (ウィキペディアより抜粋)
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藤島城(ふじしまじょう)は山形県鶴岡市藤島にあった日本の城で、市指定史跡。

概要
天守閣を持たない平城であり、本丸の周りには内堀が囲み、外堀は自然の河川である藤島川を利用している。周辺領域には、向楯、平形楯、古郡楯、柳久瀬楯、勝楽寺楯等の前衛支城を擁する難攻堅固な城であった。
築城された時期は、資料が残っていないため不明であるが、和銅年間(西暦708年から714年)に、平(平形)に国府が置かれた時の府城ではないかと考えられ、出羽守や鎮守府将軍の居城であった。
現在、本丸跡には八幡神社の社が建っており、二の丸と三の丸跡は山形県立庄内農業高等学校の校舎と敷地になっている。

来歴
1333年(元弘3年)、葉室光顕が出羽国司として下向する。
1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)、北畠顕信が守永親王を奉じて挙兵する。
南北城時代より土佐林氏の居城となる。
1571年(元亀2年)、丸岡兵庫頭(後の大宝寺義興)が城主となる。
1590年(天正18年)、太閤検地の際、地侍が農民を扇動し一揆を起こして篭城する。
1615年(元和元年)、最上氏の改易によって廃城となる。
1976年(昭和51年)、藤島町指定文化財史跡(現・鶴岡市指定文化財史跡)となる。
所在地
所在住所 – 〒999-7601 鶴岡市藤島古楯跡
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●今、私は、藤島城のことをまとめている。如儡子・斎藤親盛の祖父・光盛は、元亀3年(1572)の頃、この城の城代になっている。父・広盛は、祖父と共に、この藤島城に居た。信長・秀吉・家康の時代に、東北で戦った、斎藤光盛・広盛・親盛(如儡子)の生きた時空を追跡している。

●現在は、鶴岡市と合併しているが、グーグルで空から眺められる。藤島川を利用した城で、その跡地には、庄内農業高校がある。私は、何回も、この高校を訪れ、地元の研究者の御指導、御配慮を賜った。

名古屋大学所蔵『可笑記』

名古屋大学所蔵『可笑記』

2019.04.24 Wednesda


●名古屋大学国語国文学研究室には、『可笑記』無刊記本が所蔵されている。私は昭和42(1967)年7月7日閲覧調査させて頂いた。50年前である。昨日、ネットで国文学研究資料館が、マイクロで公開しているのを見た。「奇石軒蔵書印」(陽刻縦長方形朱印)の蔵書印がある。この本は、本文用紙が、他の諸本に比して、非常に薄い。
●念のため、確認したところ、私の調査ミスを発見した。巻2の24丁裏の上欄に墨書の書き込みがある。「病也恨也」これは「痛也恨也」の誤読であった。訂正したい。

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【書誌詳細】

統一書名, 国書レコードか否か, 国書内同名異書連番, 分類, 作品著者名, 成立年, 書誌件数, WID
可笑記, K, 1, 仮名草子, 如儡子 , 寛永一三, 42, 1365

書誌URL:http://dbrec.nijl.ac.jp/KTG_B_100001318
書誌ID 100001318
刊写の別 刊
形態 5冊
所蔵者 名大旧国文, マイクロ
マイクロ請求記号 8-3-4, 242コマ, A
紙焼写真請求記号 E307, 242コマ, A
画像データ 全冊 ※翻刻・掲載について


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2019.04.17 Wednesday

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資料詳細情報

資料名 「可笑記」の諸本について 1冊
資料名ヨミ カショウキノショホンニツイテ
年代1 昭和43
年代2
作成者
宛名
著編者 深沢秋男
出版書写地
出版書写者
出版書写年 昭和43
大きさ(cm)
叢書名
注記その他 文学研究 28
印記
旧蔵
別書名
分類 抜刷 (五十音順)カーコ
資料所蔵情報
コレクション区分 2
請求番号 尾S -22- – – –
重要図書区分 -
複写

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●蓬左文庫に『文学研究』は寄贈していない。書店で購入したか、何方かが寄贈したものと思う。〔諸本調査〕故に保存したのであろうか。有名な文庫に所蔵して頂いて感謝する。