仮名草子 『可笑記』

仮名草子 『可笑記』

  • 2019.10.16 Wednesday
仮名草子 『可笑記』

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

可笑記   かしょうき

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

可笑記(かしょうき)とは近世初期の随筆風仮名草子である。作者は斎藤親盛、筆名「如儡子(にょらいし)」。

目次
• 1概説
• 2原典の構成と成立期
• 3影響と価値
• 4脚注
• 5原典と参考書
• 6関連項目

概説

序文で作者は「この書は、浮世の波に漂う瓢箪(ヒョウタン)のように浮き浮きした気持ちで世の中の事の良しあしの区別もすることなく書き綴ったものであるから、これを読んだ読者はきっと手をたたいて笑うであろう。だから書名を『可笑記』(笑いの書)としたのだ」と述べている。江戸の社会を簡潔明快な俗文体で表現していると同時に、作者の浪人という視点から無能な支配層に対する民衆の批判も代弁している。
作者の如儡子斎藤親盛は最上家の浪人で、武家社会の辛酸を舐めた人物だった。本書は『徒然草』『甲陽軍鑑』『沙石集』などを主たる典拠にしていて、、林羅山の著書『巵言抄』『童観抄』の言説も利用している。しかし、名は伏せられているものの、羅山の合理主義的な見地から聖賢の道を論ずる姿勢への批判も見られ(巻四)、作者の苦悩が読み取れる[1]。またこれは市井の一浪人が文筆を持って当代と渡り合う、文学史における最初の例と言える[1]。
原典の構成と成立期
五巻五冊。巻一・48段、巻二・48段、巻三・42段、巻四・52段、巻五・90段、これに序と跋を加え計282段で構成されている。形式は随筆の形態をとり、配列は相互に特別深い関係はない。内容は、侍の心得に関するもの、一般庶民の心得、さらに儒教仏教の教え、さらに説話的なものなど多岐にわたる。この作品の成立時期は、跋文に「于時寛永十三 孟陽中韓」とあり、刊記に「寛永壬午季秋吉旦刊行」と記されている、よって寛永13年(1636)1月に成立し、6年半後の寛永19年(1642)9月に初版が出版されたことになる。しかし、作品のなかで、寛永15年(1638)の島原の乱について記述している箇所があることから成立後も加筆が続けられ、最終的には刊記にある寛永19年頃の完成で[2]あろうと推測される。

影響と価値

『徒然草』の近世版ともいわれる一方で、物事を無常観にとらわれる事無く全体としては明るく現実的にとらえている。また作者は兼好のように悟り切ることはできずむしろ感情の赴くまま批判的精神を吐露している。近世随筆文学の道を開いたものであり、その後多くの追随作品を生んでいる。すなわち『ひそめ草』『身の鏡』『他我身の上』『理非鏡』等々である。さらに仮名草子中最大の作者浅井了意はその著作活動の端緒で『可笑記評判』を著しその代表作『浮世物語』の後刷本を『続可笑記』として出版しているほどで、また井原西鶴も本書にちなんで『新可笑記』を発刊している。堂上俳諧人から高僧・武士・一般庶民にいたるまで多数の人に読まれ、いわゆる「〇〇可笑記」と呼ばれる浮世草子の嚆矢となり、その影響は大きいものがある。

脚注

1. ^ a b 江本 2000, pp. 19-21.
2. ^ 昭和女子大教授・深沢秋男

原典と参考書

• 『可笑記』原本の諸本

• 【1】 寛永6年跋写本     現在、所在未詳。

• 【2】寛永十九年版十一行本

• 〔1〕 京都大学文学部 〔2〕 大阪女子大学図書館 〔3〕 小川武彦氏 〔4〕 香川大学図書館・神原文庫 〔5〕 九州大学国語学国文学研究室  〔6〕 京都大学図書館 〔7〕 国立公文書館・内閣文庫 〔8〕 後藤憲二氏 〔9〕 大東急記念文庫   〔10〕 東京大学教養学部第一研究室 〔11〕 東京大学図書館        〔12〕 平井隆太郎氏(平井太郎〈江戸川乱歩〉氏旧蔵) 〔13〕 横山重氏・赤木文庫 〔14〕 龍谷大学図書館 〔15〕 龍門文庫 〔16〕 早稲田大学図書館 〔17〕 渡辺守邦氏 〔18〕 鹿島則幸氏旧蔵・桜山文庫(深沢秋男旧蔵、昭和女子大学所現蔵) 〔19〕 深沢秋男 〔20〕 ケンブリッヂ大学図書館・アストンコレクション(未見) 〔21〕 台湾大学図書館(未見) 〔22〕 岐阜県立図書館(未見)

• 【3】 寛永十九年版十二行本

• 〔1〕 国立国会図書館 〔2〕 九州大学国語学国文学研究室 〔3〕 神宮文庫 〔4〕 日本大学図書館・武笠文庫 〔5〕 会津若松市立図書館(未見)

• 【4】 無刊記本

• 〔1〕 長澤規矩也氏旧蔵(深沢秋男旧蔵、昭和女子大学現蔵) 〔2〕 お茶の水図書館・成簣堂文庫・I 〔3〕 お茶の水図書館・成簣堂文庫・Ⅱ 〔4〕 香川大学図書館・神原文庫  〔5〕 学習院大学国語国文学研究室    ●学習院女子大学高等部 〔6〕 関西大学図書館 〔7〕 京都大学図書館・潁原文庫・I 〔8〕 京都大学図書館・潁原文庫・Ⅱ 〔9〕 慶応大学図書館 〔10〕 国学院大学図書館 〔11〕 国文学研究資料館 〔12〕 実践女子大学図書館・黒川真頼・黒川真道蔵書 〔13〕 天理図書館 〔14〕 東京国立博物館 〔15〕 東北大学図書館・狩野文庫 〔16〕 名古屋大学国文学研究室 〔17〕 西尾市立図書館・岩瀬文庫    ●弘前市立図書館 〔18〕 山岸徳平氏 〔19〕 龍門文庫 〔20〕 早稲田大学図書館 〔21〕 大倉精神文化研究所附属図書館(未見) 〔22〕 岐阜大学図書館(未見)


• 【5】 万治二年絵入本

• 〔1〕 横山重氏旧蔵・赤木文庫(深沢秋男旧蔵、昭和女子大学現蔵) 〔2〕 青森県立図書館・工藤文庫 〔3〕 秋田県立図書館 〔4〕 上田市立図書館・藤盧文庫 〔5〕 大洲市立図書館 〔6〕 小川武彦氏 〔7〕 お茶の水図書館・成簣堂文庫 〔8〕 香川大学図書館・神原文庫 〔9〕 学習院大学国語国文学研究室・Ⅰ 〔10〕 学習院大学国語国文学研究室・Ⅱ 〔11〕 京都府立総合資料館 〔12〕 慶応大学附属図書館 〔13〕 国立国会図書館・Ⅰ 〔14〕 国立国会図書館・Ⅱ 〔15〕 佐賀大学附属図書館・小城鍋島文庫 〔16〕 鶴岡市立図書館 〔17〕 天理図書館 〔18〕 東京国立博物館 〔19〕 東京大学附属図書館・青州文庫 〔20〕 東京大学文学部図書室・印度哲学研究所 〔21〕 東北大学附属図書館・狩野文庫 〔22〕 東洋文庫・岩崎文庫 〔23〕 都立中央図書館・加賀文庫 〔24〕 中野三敏氏 〔25〕 山口大学附属図書館・棲息堂文庫 〔26〕 龍門文庫 〔27〕 早稲田大学図書館 〔28〕 カリフォルニア大学・東亜図書館(未見) 〔29〕 大英博物館・図書館(未見)

• 【6】 その他、取合本

• 〔1〕 印刷博物館(取合本) 〔2〕 大阪府立中之島図書館(取合本) 〔3〕 学習院大学国語国文学研究室(取合本) 〔4〕 天理図書館(取合本) 〔5〕 早稲田大学図書館(取合本) 〔6〕 渡辺守邦氏(取合本)

• 【7】 写本

• 〔1〕 甲南女子大学図書館 〔2〕 東京大学国語国文学研究室 〔3〕 昭和女子大学図書館(深沢秋男旧蔵)

• 国書刊行会 編 『徳川文芸類聚』第二巻 国書刊行会、1914年、7頁。NDLJP:945807/7。
• 版本=寛永19年11行本・寛永19年12行本・無刊記本・万治2年絵入本
• 近代日本文学大系 1・仮名草子集成 14
• 田中伸・深沢秋男・小川武彦『可笑記大成』1974年4月、笠間書院。

参考書としては「仮名草子集成」(東京堂出版)他。
• 『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』 / 深沢秋男(所沢 : 近世初期文芸研究会、2010年10月)非売品。国立国会図書館請求記号:KG216-J12
• 江本裕 『近世前記小説の研究』 若草書房〈近世文学研究叢書〉、2000年。ISBN
関連項目
• 仮名草子
• 浮世草子
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

『可笑記』(かしょうき)    【はてな キーワード】

随筆的仮名草子。版本、5巻5冊。

作者

如儡子(にょらいし)・斎藤親盛(さいとう ちかもり)
版本の奥書には「于時寛永十三/孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」とあり、「如儡子」の署名はない。しかし、当時の書籍目録にも「五冊 可笑記 大小 如儡子作」(寛文10年刊『増補書籍目録 作者付大意』)とあり、二本松藩の『相生集』にも『可笑記』及び作者に関して、詳細に記されているので、この「江城之旅泊身」が如儡子・斎藤親盛であることは明白である。

成立

寛永6年(1629)執筆開始か。二本松藩の『相生集』の編者は、斎藤家の子孫から『可笑記』の写本を見せてもらい、その跋に「寛永六年の秋の頃に思ひ初て、拙き詞をつゞり初め、……」とあったと記しているので、執筆開始は、親盛27歳の頃、寛永6年としてよいだろう。最上家を辞し、浪人となって七年後のことである。

内容

中世の随筆、吉田兼好の『徒然草』の形式にならった随筆風の形式をとっている。巻1=48段、巻2=48段、 巻3=42段、巻4=52段、巻5=90段、これに、序と跋を加えて、全282の長短の文章から成る。
各段の配列は、相互に深い関連はなく、内容別に分類すると、一般人の心得に関するもの115段、侍の心得に関するもの51段、主君の道に関するもの39段、身辺雑記的なもの25段、儒教・仏教に関するもの22段、説話的なもの13段、その他15段となっている。

特色

この作品は、中世の『徒然草』の影響を受けているが、『徒然草』のように来世思想に基づくものではなく、近世初期の作品にふさわしく、明るい現世肯定・人間重視の立場から述べられている。第一の特色は、鋭い批評精神にあり、その批判の対象は、主として、無能な大名や、大名を補佐する、家老・出頭人に向けられている。「如儡子」というペンネームを使い、各段「昔さる人のいへるは」と書き出して、現実の話ではないような形式をとっているのは、この厳しい批判をカムフラージュするための手段であったと思われる。
次に注目すべき特色は、作品の文体である。当時の他の仮名草子作品の多くは、中世的な雅文体であったのに対して、この作品は、漢語や俗語など、現実に使われている言葉を自由に取り入れた、一種の俗文体で書かれている。この簡潔明快な文体は、神や仏に救いを求めることなく、人間の力を信じ、来世よりも現世を重視する、近世初期の新しい社会を表現するのに適したものであった。
次に指摘すべき点は、作者が、一段一段を作る時、実に多くの先行著作を摂取しているということである。長い戦乱で文化が中断していたこともあり、近世初期の人々は、自分たちの作品を創る前に、まず、古代・中世の文化の吸収・理解から着手した。仮名草子において、典拠の問題は、全体の作品にわたって言えることである。『可笑記』が多く利用した先行作品は、『徒然草』と『甲陽軍鑑』である。『徒然草』では、その注釈書の『野槌』や『寿命院抄』も利用している。そのほか、『沙石集』『十訓抄』『清水物語』『童観抄』『巵言抄』『論語』『孟子』などをはじめ、日本や中国の広範囲の著作に及んでいる。親盛は、若い頃、諸国を遊学して、書写するところの写本は数百巻に及んだと言うが、その素養が活かされているものと思われる。そして、これらの先行著作の利用にあたって、作者はそれらを充分に消化して、自由自在に取り入れている。その力量は高く評価してよいものと思われ、これも、この作品の重要な特色となっている。

諸本

1、写本、5巻10冊、寛永12年成立。 二本松藩士・大鐘義鳴は、天保12年(1841)に、『相生集』の「文学」の項を執筆するに当たって、斎藤親盛の子孫、9代・英盛から、斎藤家に代々伝わる資料を閲覧している。その中に『可笑記』の写本があったという。その序には「寛永十二年孟陽中幹東海旅泊身如儡子綴筆」とあり、跋には、「寛永六年の秋の頃思ひ初めて、拙き詞をつゞり初め、……万治庚子孟陽中幹武心士峯居士跋書」とあったという。この斎藤家の資料は、現在、所在が未詳であるが、今後、発見される可能性は十分にある。

2、寛永19年版11行本、大本、5巻5冊。この作品の初版本であり、写本に次ぐ原初的な形態を伝えている、最も優れた本文である。奥書には「于時寛永十三孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」 (1636)とあり、刊記は「寛永壬午季秋吉旦刊行」(寛永19年、1642)とある。

3、寛永19年版12行本、大本、5巻5冊。この12行本は、11行本の準かぶせ版であり、11行本をかなり忠実に伝えている。句読点を付加し、振り仮名を多くして、その普及に役立った点に意義がある。11行本を利用して1行増やしたもので、奥書も刊記も11行本と同じである。刊行年は断定できないが、慶安元年(1648)頃の刊行かと推測している。

4、無刊記本、大本、5巻5冊。この版は、12行本を底本にしたものと思われるが、特殊な表現を一般的に改め、回りくどい文章を簡略化し、話し言葉を書き言葉に改め、仮名を漢字に改め、字体も小さくしており、12行本以上に普及版としての性格を持っている。後続の絵入本や可笑記評判が、共にこの無刊記本を底本にしたものと推測され、その意味では、この本文は流布本的存在であると言い得る。

5、万治2年版絵入本、半紙本、5巻5冊。無刊記本を底本に使用し、底本に対して忠実であるが、むしろ盲従的である。機械的な誤読・誤刻が多く、劣った本文と言える。しかし、この版は師宣風の挿絵・41図を付加し、半紙本という軽装版にして読者に応えたという点で意義があったと思われる。

6、万治三年刊、可笑記評判、大本、10巻10冊。著者は浅井了意。厳密には『可笑記』の諸本には入らないが、『可笑記』の本文の大部分を収録しているので、参考として加えてもよいだろう。本書は、まず、可笑記の本文を掲げ、1字下げて、批評を加えるという体裁をとっている。可笑記本文の底本は無刊記本を使用したものと推測される。無刊記本の誤りを正す事も多いが、誤脱は多く、可笑記本文としては最も劣ったものと言い得る。全280段の内、批評を付加したのが231段、批評を省略したのが46段、可笑記本文・批評共に省略したのが3段となっている。

複製

1、仮名草子選集・国立台湾大学図書館本影印(1972年1月、台北・大新書局発行)。寛永19年版11行本の複製で、巻頭に、巻1・巻3・巻5の原表紙の写真を掲げ、略書誌を付す。複製は、原本を解体して、1丁開いた形で収めている。
2、可笑記大成―影印・校異・研究―(田中伸・深沢秋男・小川武彦共編著、昭和49年4月30日、笠間書院発行)。寛永19年版11行本を複製し、脚注の形式で、寛永19年版12行本・無刊記本・万治2年版絵入本との校異を掲げる。

翻刻

1、徳川文芸類聚・第2・教訓小説(朝倉無声例言、山田安栄・伊藤千可良・岩橋小弥太校、大正3年6月25日、国書刊行会発行)。振り仮名は省略。巻1は無刊記本、巻2~巻五は寛永19年版11行本を底本に使用しているものと推定される。
2、近代日本文学大系・第1・仮名草子集(笹川種郎解題、昭和3年12月18日、国民図書株式会社発行)。送り仮名・振り仮名など、原本とはかなり離れており、異同関係から推測すると、『徳川文芸類聚・第二・教訓小説』を参照して本文作成をした可能性がある。なお、『可笑記』の挿絵として掲げるものは、古浄瑠璃『公平天狗問答』の挿絵である。
3、仮名草子集成・第14巻(朝倉治彦・深沢秋男共編、1993年11月20日、東京堂出版発行)。寛永19年版11行本を底本として、無刊記本との異同を行間に示した。ただし、全面的な異同ではない。
4、教育社新書・原本現代訳51(渡辺守邦訳、1993年11月20日、教育社発行)。寛永19年版11行本を底本にした現代語訳(抄訳)。

参考

◎斎藤親盛(如儡子)の研究→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html
◎平成22年度香川県公立高校、平成23年度京都府公立高校の入学者選抜学力検査に『可笑記』出題された。詳細 → http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html
• 江戸時代の文学作品
• 江戸時代の随筆

。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●【ウィキペディア】は、何方かが立項。私が加筆したもの。【はてなキーワード】は、私が立項・執筆。
ネット百科事典で、仮名草子作品中、これほど詳細に記述されている作品は無いと思う。私が研究している作品ゆえ、リキを入れて記述した。

如儡子・斎藤親盛

如儡子・斎藤親盛

  • 2019.10.15 Tuesday
如儡子・斎藤親盛

。。。。。。。。。。。。。。。。。

如儡子(にょらいし)    【はてなキーワード】

仮名草子作者。「如儡子」の読みは「にょらいし」が正しい。姓は斎藤、字は清三郎(せいざぶろう)、本名は親盛(ちかもり)、号は以伝、法名は武心士峯居士。慶長8年(1603)頃出生、延宝2年(1673)3月8日没。酒田(山形県)の筑後町に生れる。父の広盛は最上家親に仕え、川北三奉行の職にあった。清三郎も家親に仕え、主君から一字を賜り、親盛の名を許された。元和3年(1617)に主君・家親が急死し、最上家57万石は没収され、1万石になってしまう。最上家の後には酒井家が入ったが、広盛・親盛の父子は、酒井家に仕えず、浪人となる。浪人になった親子は、一時、祖父・光盛の出身地越後(新潟県)に行くが、間もなく父が急死し、親盛は、やがて江戸へ出る。江戸へでてから、ある大名の祐筆を務めたが長続きせず、再び浪人となる。やがて、医者となり、越後から妻子を呼び、細々と生計をたてる。万治3年(1660)に子の秋盛(ときもり)が二本松(福島県)の丹羽光重に仕えることになり、二本松へ移住する。晩年の約15年間は二本松で俳諧などを楽しみ、その生涯を閉じた。享年72歳か。亡骸は二本松の神龍山松岡寺(臨済宗妙心寺派)に葬られた。
如儡子・斎藤親盛は、18歳ころまでは、酒田の奉行の子として勉学に励み、主君・最上家親に側近く仕えたが、最上家転封の後は浪人となり、貧しい生活を送った。そのような厳しい生活の中でも、武士としての誇りをもって著作活動に励んだ。

【著作】
◎ 『可笑記』(かしょうき) 5巻5冊、寛永6年(1629)執筆開始、同19年(1642)11行本刊行。以後、12行本・無刊記本・絵入本と刊行され、近世初期を代表する仮名草子のベストセラーになった。『徒然草』や『甲陽軍鑑』を利用して著作した随筆的な仮名草子である。内容的には批判精神の横溢したもので、作者の思想や生き方がよく盛り込まれている。浅井了意はこの作品に批評を付加した『可笑記評判』を著し、以後、『続可笑記』『可笑記跡追』『新可笑記』『一休可笑記』『歎異抄可笑記』『後前可笑記』『前句付可笑記』『後可笑記』などの作品が、著された。

◎ 『砕玉鈔』(さいぎょくしょう) これは、『百人一首』の注釈書で、寛永18年(1641)頃には成立していたものと推測される。武蔵野美術大学図書館に原本が所蔵されており、書写年代も近世初期と推測され、著者の自筆本の可能性がある。内容的には、易しく『百人一首』を解説したものである。この原本を書写した諸本が多く伝わっている。

◎ 『堪忍記』(かんにんき) これは、近世初期の諸大名の石高や藩の内情を記し批評を付加したもので、成立は、正保2年(1645)頃と推測される。この種の類書の中では最も早い成立で、貴重な著作である。このような、膨大な全国の大名の情報が、浪人の著者に収集できるものではなく、如儡子は、ベースになる情報を、何らかの方法で入手し、それに批評を付け加えたものであろう。福井県立図書館の松平文庫本と内閣文庫・2本の3点が伝存している。

◎『百八町記』(ひゃくはっちょうき) 5巻5冊、明暦元年(1655)の序があり、寛文4年(1664)に京都の書肆中野道判から出版された。儒教・仏教・道教の三教一致を主張した著作である。一里三十六町、三里で百八町という書名の付け方である。内容的には仏教に重点がおかれていて、晩年は仏道(臨済宗)に帰依した著者をみる事ができる。

◎ その他、晩年の俳諧作品が多く遺されている。

【参考文献】
◎ 田中伸「『可笑記』の研究」(『仮名草子の研究』桜楓社、昭和49年)
◎ 野間光辰「如儡子系伝攷」(『近世作家伝攷』中央公論社、昭和60年)
◎ 深沢秋男「如儡子(斎藤親盛)調査報告(1・2・3・4・5)」(「文学研究」「近世初期文芸」昭和63年~平成5年)
◎深沢秋男『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』(近世初期文芸研究会、平成22年)
◎深沢秋男『如儡子百人一首注釈の研究』(2012年3月20日、和泉書院発行)
◎「齋藤筑後守記念碑」が、山形県酒田市、上日枝神社境内に建立された(平成23年10月23日)。詳細は → http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html
■「斎藤親盛(如儡子)の研究」→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

。。。。。。。。。。。。。

●これは、私が立項し、執筆したものである。今となっては、修正すべき点があるが、パスワードを忘れてしまった。ま、いいか。

。。。。。。。。。。。

斎藤親盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

斎藤 親盛(さいとう ちかもり、慶長8年(1603年) – 延宝2年3月8日(1674年4月13日))は、江戸時代前期の武士、文人・仮名草子作者。通称は清三郎。筆名如儡子(にょらいし)。俗名斎藤以伝、法名武心士峯居士。墓は、福島県二本松市の松岡寺(臨済宗妙心寺派)。

概要

父は出羽山形藩最上氏家臣の斎藤広盛、母は東禅寺勝正の妹。領内の酒田に生まれ、藩主の最上家親に近侍して、一字を賜り「親盛」と称した。元和8年(1622年)の最上氏の改易で浪人し、父と共に、祖父光盛の出身地越後へ行くが、父の急死で江戸に出た。一時、西国大名に仕えたり医師をして生計をたてた。
その高い教養を生かした文学作品を執筆し、仮名草子の傑作『可笑記』で評価を得る。他に『百八町記』や俳諧作品、『砕玉抄』(百人一首の注釈書)がある。また、諸大名を批評した『堪忍記』もある。
万治3年(1660年)に長子の秋盛が陸奥二本松藩主の丹羽光重に仕官したことから、同地に移住して没した。

参考文献

• 『日本人名大辞典』、講談社、2001年
• 『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社、1994年
• 『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』、深沢秋男、近世初期文芸研究会、2010年
• 『如儡子百人一首注釈の研究』、深沢秋男、和泉書院、2012年
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔1〕深沢秋男(『文学研究』67号 1988年6月)
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』4号 1988年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔3〕深沢秋男(『文学研究』68号 1988年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔4〕 深沢秋男(『文学研究』70号 1989年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔5〕深沢秋男(『文学研究』78号 1993年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔1〕深沢秋男(『近世初期文芸』27号、2010年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』28号、2011年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔3〕深沢秋男(『近世初期文芸』29号、2012年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔4〕深沢秋男(『近世初期文芸』30号、2013年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔5〕深沢秋男(『近世初期文芸』31号、2014年12月)

典拠管理
• WorldCat Identities
• VIAF: 313456972

カテゴリ:

• 江戸時代の随筆家
• 山形藩士
• 二本松藩士
• 1603年生
• 1674年没

。。。。。。。。。。。。。。。。。

●これは、何方かが立項し、私が加筆修正したもの。

斎藤親盛の俳諧

斎藤親盛の俳諧

  • 2019.10.13 Sunday
斎藤親盛の俳諧

。。。。。。。。。。。。

今日の一句一首(小林勇一)

時事問題から思想哲学宗教問題、郷土史,文学、(俳句、短歌、詩)多様な問題を追求
(2005年11月29日開始)

<< 黄金虫(金運はあまりに不公平だ) | TOP | 白藤(供養は死者と語ること) >>
2009年05月10日

江戸時代の俳句(二本松の寛文時代の俳句)

三春迄着るや岩城のちゝみ布  斎藤親盛

 「三春まて」「岩城宇尓、縮布」(『毛吹草』)。岩城名産のちぢみ布は、三春の人々まで着ていることだ。如儡子は『梅花軒随筆』の著者・三休子ゆかりの地・三春に出かけた事があったのであろう
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/bungei/18/haikaige.html
寛文12年(1672)だからこの句は古い、芭蕉が出るのは元禄である。元禄1(1688)だから20年後になる、でもその前に俳句らしきものが二本松とか地方でも作られていた。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

斎藤親盛の発句一覧  深沢秋男

1 花の兄やこれも接木のたいかはり  
2 田舎にて花の都や和哥の友     
3 万代をかけて祝ふやおめて鯛    (夜の錦)
4 花の兄や是も接木のたいかはり   (佐夜中山集)
5 あけぬるや雲のいつこにいかのほり (夜の錦)
6 田舎にて花の都や和歌の友     (佐夜中山集)
7 夏引の手挽にするは麦粉かな    (夜の錦)
8 虚空より鉄花をふらす花火哉    (夜の錦)
9 塩くみやふりさけ見れは桶の月   (夜の錦)
10 金柑やけに色にそみ皮にめて    (夜の錦)
11 風ふけはをきつしらかに綿帽子   (夜の錦)
12 出立は足もとよりそ鷹の鳥     (時勢粧百韻発句)
13 たかや又生るを放つぬくめ鳥    (時勢粧)
14 お流れや二つ瓶子に三つの春    
15 松の戸やたえ/\ならぬ春の礼   
16 いはふとて朝に杖つく卯の日哉   
17 はま弓やひかりさしそふいはひ月  
18 笠鉾やかけ奉るひたち帯      
19 札押やみな身の祈祷二月堂     
20 をく露や声にちほ/\いもかへる  
21 栢の木に巣こもりやする碁石鳥   
22 秋もあれと松の海辺菊池の里    
23 うとの朱うはふ防風や膾のこ    
24 武さし野は本むらさきの菫かな   
25 けかれぬや蒜慈悲の高野山     
26 わらはへもあしたをまつやとり合せ 
27 あかなくにまたき生湯や如来肌   
28 いちこもやまいたるつるはいはら垣 
29 月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉   
30 宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし  
31 山復山みねより出てや雲の岑    
32 扇あれはいつも夏かと御影堂    
33 三春迄着るや岩城のちゝみ布    
34 一瓢も千金なれや水あそひ     
35 鼠火は尻に立ゝ大路かな      
36 口紅粉のあけをうはふやめはうつき 
37 是は畑のつくりもの也碁いしまめ  
38 祭見やいそしの栄花あはた口    
39 鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉   
40 手折てやまた見ぬ人にこい紅葉   
41 炭櫃もや一家ひらけて四方の冬   
42 かけはこそ菩提樹となれ木葉経   
43 菅笠や憂世の民のしもおほひ    
44 二季まてみきとこたへん帰花    
45 出雲にや雪垣つくる軒の妻     
47 降雪やこしのしら山馬のくら    
47 つく餅や手水のこりて薄氷     
48 追鳥やせこにもれたる草かくれ   
49 渋柿もしゆくしにけりな色紙子   
50 ひゝきらす神や手なつちあしなつち 
51 笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら  
52 今日斗あすはかすみの節季0    
53 海やあるまくらのしたにたから船  
54 はすを御池糸もかしこし花の色   
55 よきてけふ萩のあたりを鹿の笛   
56 霜八たび置てや鐘の七つ六つ    
57 老人や子に伏寅に置火燵      
58 鷹や又生るを放つぬくめ鳥     
59 猶おかし水無月祓虫払       
60 味はひもから紅の穂蓼哉      
61 はや乙矢順のこふしや弓始     
62 五月雨は船ながしたる酒屋哉    (参考)

  三,斎藤親盛と二本松の俳諧

 近世初期の二本松の俳諧について、田中正能氏が『二本松市史』第九巻で次の如く整理しておられる。

 「  二 奥州二本松の俳諧
  二本松丹羽家中の俳諧は、寛文期より元禄期には奥羽地方においては全国的に有名であった内藤風虎、その子内藤露沾の岩城平藩の平地方と等しく多数の俳人をもち、双璧をなすと称せられていた。藩政約二四〇年間で最高の文芸の花を咲かせた時代であった。以後は再びこの時代を超越する時代が現われない程の盛況であり、藩政の実証でもあったのである。
  二本松の俳人として最初の人に、江口塵言=江口三郎右衛門正倫と、水野林元=水野九郎右衛門林元の名が現われる。寛文五年(一六六五)四月、松江重頼(維舟)が岩城平藩主内藤風虎に招かれて京都を発し、近江路―木曽路―江戸着、さらに日光―宇都宮―白河―二本松に泊り、江口塵言・水野林元を尋ねたことが紀行中に見られ、当時第一級の俳人をして訪ねさせ得た程の俳人が当二本松藩に存在していたことが判る。重頼は松島一見後仙台・・・岩城平に永らく滞在して、冬になり平を出て江戸へ、東海道を経て師走上旬京都に帰っている。江口・水野の両氏の外に、二本松藩における俳人は、寛文十二年(一六七二)~延宝二年(一六七四)間に岩城平藩主内藤風虎・その子露沾の命により、松山玖也によって編纂された「桜川」に 見出せる。」

 とされ,収録俳人を掲げておられる。親盛の句が入っている撰集に採録された二本松の俳人を,その句数と共に整理すると次の如くである。

寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』(二〇名)
 水野氏/林元 二四   寺田氏/寒松  二
     塵言 二〇   伴 氏/人似  二
 日野氏/好元 一四       古硯  二
 長岡氏/道高 一三   不破氏/一与  二
 小沢氏/衆下 一一   小原氏/幸益  二
 中井氏/正成 一〇   斎藤氏/親盛  二
 小河氏/可著  八       元知  一
 斎藤氏/友我  七   釈 氏/智蔵主 一
 奥田氏/方格  四   根村氏/吉元  一
 古市氏/正信  二   槙 氏/陳旧  一

寛文六年,風虎撰『夜の錦』(二九名)
 江口氏/塵言 二六   今村氏/林昌  二
 水野氏/林元 二四   佐藤氏/幸之  一
 日野氏/好元 二一       正秀  一
 長岡氏/道高 一九   白岩氏/人任  一
 斎藤氏/親盛 一一   安保氏/一実  一
 同 氏/友我  七   豊田氏/政氏  一
 小沢氏/衆下  六   釈 氏/知蔵司 一
 不破氏/一与  五   古市氏/正信  一
 中井氏/正成  五   小池氏/又笑  一
 奥田氏/方格  四       秀伝  一
 小川氏/可著  四   伴 氏/人似  一
 斎藤氏/如酔  三   土屋氏/有房  一
 須藤氏/之也  三   下河辺氏/00 一
 寺田氏/寒松  三   釈 氏/随言  一
     古硯  一

寛文十二年,風虎撰『桜川』(四五名)
 水野林元 二〇一   長岡道高   八   佐藤萍心  一
 日野好元 一八二   座頭城益   五   寺田守昌  一
 小沢衆下 一一八   佐野相興   五   松下是一  一
 江口塵言 一〇八   伴 人似   五   土屋有次  一
 内藤未及  八〇   安田未元   五   金田古硯  一
 中井正成  七〇   0山子    五   津田正吉  一
 斎藤如酔  六六   日野好久   四   山田相知  一
 須藤之也  五一   大崎口友   四   貝山友志  一
 下河辺□□ 四三   佐藤幸之   四   清水直治  一
 斎藤親盛  四〇   藤村守幸   三   豊田政氏  一
 小池又笑  三九   青戸未入   三   石橋0同  一
 奥田方格  二六   滝川寸志   三   三崎如雲  一
 釈 随言  二三   寺田万之助  三   今村林昌  一
 白岩人任  一六   安積治水子  三   横山笑甫  一
 斎藤友我  一〇   小松崎破衣  一   鈴木友言  一

寛文十二年,維舟撰『時勢粧』(二七名)
   塵言  四一   釈 随言  五   伴 人似 二
 日野氏好元 四〇   斎藤親盛  四   丹羽捨拾 一
 水野林元  三九   不破一与  四   佐野相興 一
 小沢衆下  一五   小池又笑  四   野沢似言 一
 斎藤如酔  一四   下河辺□□ 三   毛利以由 一
 中井正成  一一   白岩人任  三   今村林昌 一
 須藤之也   八   内藤未及  二   奥田方格 一
 長岡道高   七   土屋有房  二   河村惣広 一
 斎藤友我   五   日野好久  二   釈 永雲 一

延宝三年,重安撰『糸屑集』(三名)
   道高 三   林元 二   親盛 一

延宝四年,季吟撰『続連珠』(八名)
 小沢氏/衆下 七  正成 二  親盛 一  塵言 一
 日野氏/好元 五  秀伝 二  林元 一  如酔 一

 また,各集の国別の俳人の数を整理すると次の如くである(『夜の錦』は除いた)。

寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』(二本松・二〇名)
 京之住       一三五   同(勢州)松坂之住   八
 摂津大坂之住     五九   備中之住        八
 金沢之住       四三   信州飯田之住      七
 備前岡山之住     二一   奥州岩城        七
 和州郡山之住     二〇   南都之住        五
 同(勢州)山田之住  二〇   近州大津之住      五
 二本松之住      二〇   美濃岐阜之住      五
 武州江戸       一九   加賀大正寺之住     五
 尾州名古屋之住    一八   長門萩之住       五
 肥後熊本之住     一八   同(和州)国箸尾之住  四
 因幡鳥取之住     一六   平野之住        四
 和泉境之住      一五   阿波之住        四
 羽州山形之住     一三   同(伊予)国松山之住  四
 下野宇都宮之住    一一   同(肥前)国平戸之住  四
 越前福井之住     一〇   同(和州)国田原本之住 三
 伊賀上野之住      九   河内波瀲之住      三
 会津之住        九   同(伊予)国小松之住  三
 兵庫之住        八   伏見之住        二
 勢州津之住       二   常陸水戸        一
 参河吉田之住      二   同(近州)柳川之住   一
 同(参河)御油之住   二   同(近州)河並之住   一
 相模鎌倉之住      二   同(下野)皆川之住   一
 同(相模)小田原之住  二   仙台之住        一
 伯耆之住        二   若狭之住        一
 淡路之住        二   越中高岡之住      一
 伊予今治之住      二   越後村上之住      一
 土佐之住        二   播磨明石之住      一
 豊後臼杵之住      二   同(播磨)完粟之住   一
 山崎之住        一   安芸広嶋之住      一
 同(和州)国長楽村之住 一   周防岩国之住      一
 同(和州)国今井之住  一   出雲之住        一
 同(和州)国宇多之住  一   同(伊予)国宇和嶋之住 一
 摂津柱本之住      一   豊前仲津之住      一
 同(摂津)国勝尾山   一

寛文十二年,風虎撰『桜川』(二本松・四五名)
 武蔵国江戸住  一三二    肥前国大村住    二
 山城国京住   一〇八    山城国山崎住    一
 摂津国大坂住   八五    大和国多武嶺住   一
 陸奥国岩城住   七二    大和国下市住    一
 陸奥国二本松住  四五    大和国新庄住    一
 伊勢国山田住   二八    河内国松原住    一
 下野国宇都宮住  二一    摂津国西宮住    一
 和泉国堺     二〇    摂津国榎並住    一
 尾張国名古屋住  一八    伊勢国津住     一
 近江国彦根住   一二    伊勢国桑名住    一
 参河国吉田住   一一    伊勢国一之瀬住   一
 参河国岡崎住   一〇    伊勢国鳥羽住    一
 加賀国金沢住   一〇    参河国藤川住    一
 陸奥国仙台住    八    参河国竹広住    一
 大和国郡山住    七    参河国牛久保住   一
 美濃国大垣住    七    遠江国中村住    一
 陸奥国会津住    七    甲斐国       一
 因幡国鳥取住    七    相模国鎌倉住    一
 摂津国尼ケ崎住   六    相模国小田原住   一
 伊賀国上野住    六    武蔵国岩村住    一
 尾張国熱田住    六    安房国歩行山住   一
 美濃国竹ケ鼻住   六    下総国横曽根住   一
 肥前国佐賀住    六    
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●小林氏は、〔近世初期文芸研究会〕の私の研究を引用しておられる。実は、斎藤親盛は、晩年、二本松で、俳諧を学び、晩年を楽しんでいたようである。それにしても、貞門俳諧の第一人者、松江重頼の指導を受けたのだから、ラッキーだったと言えよう。

●実は、二本松の初期俳諧は、東北では、岩城の俳諧と共に、非常に活発だったのである。そうでなければ、松江重頼が、10日間も泊まって、指導するはずがない。

「百人一首」と私

「百人一首」と私

  • 2019.10.04 Friday

「百人一首」と私  2019年10月4日

〔1〕「百人一首」との出会い

●私の研究のホームグランドは、近世初期の仮名草子である。百人一首に特に興味があった訳でもない。にも拘らず、百人一首に手を着けたのは、如儡子・斎藤親盛が『百人一首抄』という百人一首の注釈書を遺していたからである。斎藤親盛の全面的な解明がライフワークである以上、この注釈書を避ける訳にはゆかない。

●仮名草子の先学、野間光辰氏も、田中伸氏も、手は着けられたが、その入り口の段階で、共に他界されてしまった。また、百人一首研究者の方々は、仮名草子作者の著作など、軽視されたかどうかは知らないが、田中宗作氏の『百人一首古注釈の研究』の中で言及されているに過ぎなかった。それならば、私がやらなければならないではないか。そんな切迫した状況の中で、この主題に着手した。

〔2〕「百人一首」研究の最前線

●如儡子の『百人一首抄』の分析に着手して気付いたことは、世に多数伝存する百人一首のテキストに、歌人の配列の上で、2つの系列があるという事であった。そして、成立時期の点で、いずれが先か、というのが、専門家の間で問題の争点になっていた。平成8年(1996)頃のことである。

●吉海直人氏、齋藤彰氏などの専門家のアドバイスを頂きながら始めたが、実は、如儡子の『百人一首抄』は、いわゆる一般的な百人一首の配列とは異なる、百人秀歌型の配列であり、しかも、百人秀歌型とも完全には一致しない配列であった。仮名草子の作者・如儡子は如何なるテキストを底本に使ったのか。大きな課題があった。

●如儡子の百人一首注釈書には、水戸彰考館所蔵の『百人一首抄』の他に、国会図書館所蔵の『酔玉集』という伝本もあった。これは、一般的な配列である。私は、この2つの注釈書の関係を明らかにするために数年間を費やした。百人一首の研究は実にシンドイ。何をするにも100回繰り返す必要があるからである。

●如儡子は注釈書の「奥書」で「誠に、せいゑい、海をうめんとするにことならすや。」と言っている。「精衛塡海」という中国故事。不可能な事を企てて、ついに徒労に終わる、というたとえ。基礎的で、解りやすく啓蒙的な、この大部な注釈書を書き終えた著者・如儡子の思いがよく伝わってくる。

〔3〕如儡子の「百人一首」注釈書・4点

●如儡子の「百人一首」注釈は、私の推測では、寛永18年(1641)、著者39歳の頃成立したものと考えられる。従来次の2点の所在が明らかであった。

[A] 『百人一首抄』(水戸彰考館文庫蔵)
[B] 『酔玉集』(国立国会図書館蔵)
ところが、次の2点が、相次いで発見された。
[C] 『百人一首註解』(京都大学図書館蔵)
この本は、島津忠夫氏と乾安代氏が「百人一首注釈叢刊15」として刊行。両氏は著者未詳、江戸中期の写本として詳細な解説を付けている。ただし、私が調査した結果、この著者は如儡子と判明した。
[D] 『砕玉抄』(武蔵野美術大学図書館蔵)
これは、浅田徹氏が所蔵に気付き、如儡子の著書であると、私宛知らせて下さったものである。私は中世和歌研究の浅田氏とは、全く面識もなく、交流もなかった。万一、浅田氏の御教示が無かったら、このように、如儡子・斎藤親盛の百人一首の注釈書の解明は不可能であった。

これら4点の成立時期は、次の如く推測される。
[D] 『砕玉抄』万治3年(1660)58歳 ?
[A] 『百人一首抄』寛文2年(1662)60歳
[B] 『酔玉集』寛文3年(1663)61歳 ?
[C] 『百人一首註解』寛文5年(1665)63歳 ?
所在が明らかになった、4点の著作の関連を、これから解明する予定である。

・・・・・・・・・・・

●2012年、私は『如儡子百人一首注釈の研究』(百人一首注釈書叢刊 別巻2)を和泉書院から出して頂いた。百人一首研究者の方々の御配慮によるものである。

●この、如儡子の注釈書ほど、易しく書かれた、百人一首の注釈書は、他に無いだろう。これが、近世初期の大啓蒙期の、古典の注釈書の典型だと、私は考えている。

。。。。。。。。。。。。。。

『如儡子百人一首注釈の研究』
百人一首注釈書叢刊 別巻2
深沢 秋男著
平成24年3月20日、和泉書院発行
A5判、362頁、定価12000円+税

口絵写真
『砕玉抄』・『百人一首鈔』・『酔玉集』・『百人一首註解』
『神龍山松岡寺過去帳』・斎藤家位牌

目次

はじめに ……………………………………………………………   ⅰ
研究篇
第一章 研究史 ……………………………………………………   3
第一節 田中宗作氏の研究 …………………………………   3
第二節 田中伸氏の研究 ……………………………………   8
第三節 野間光辰氏の研究 …………………………………  14
第四節 島津忠夫氏・乾安代氏の研究 ……………………  17

第二章 諸本の書誌 ………………………………………………  29
第一節 『砕玉抄』 …………………………………………  29
第二節 『百人一首鈔』 ……………………………………  33
第三節 『酔玉集』 …………………………………………  37
第四節 『百人一首註解』 …………………………………  41

第三章 諸本関係の分析 ………………………………………  45
第一節 序説 ………………………………………………  45
一、はじめに ……………………………………………  45
二、著者・成立年・書写者 ……………………………  46
三、配列順序・使用古注釈 ……………………………  52
四、執筆意図とその特色 ………………………………… 56
第二節 『百人一首鈔』と『酔玉集』 …………………… 62
一、はじめに …………………………………………… 62
二、『百人一首鈔』・『酔玉集』歌人配列対照表 …… 63
三、『百人一首鈔』と『酔玉集』の本文異同 ……… 66
〔一〕省略・脱落関係 …………………………… 66
〔二〕漢字・仮名の異同 ………………………… 77
〔三〕用字の異同 ………………………………… 82
〔四〕仮名遣いの異同 …………………………… 84
〔五〕その他の異同 ……………………………… 87
〔六〕和歌の異同 …………………………………101
〔七〕まとめ ………………………………………114

第三節 『百人一首鈔』・『酔玉集』と『百人一首註解』…119
一、はじめに ……………………………………………119
二、京大本『百人一首註解』の書誌的問題点 ………120
〔一〕十七番歌・在原業平朝臣の脱文について …120
〔二〕配列について …………………………………122
三、乾安代氏の『百人一首註解』解説 …………………124
四、異同からみた『百人一首註解』の位置 ……………127
〔一〕序説について …………………………………127
〔二〕その他の異同について ………………………130
五、まとめ …………………………………………………127
第四節 『砕玉抄』と『百人一首鈔』 ……………………140
一、はじめに ………………………………………………140
二、武蔵野美術大学美術館・図書館金原文庫所蔵本概要
………………………………………………140
三、書名「砕玉抄」について …………………………141
四、『砕玉抄』の歌人配列順序(折丁明細一覧)……141
五、第七番歌、参議篁の歌 ……………………………146
六、『砕玉抄』と『百人一首鈔』の関係 ……………149
七、『砕玉抄』と『百人一首鈔』の異同 ……………150
〔一〕『百人一首鈔』の脱落・省略 ……………150
〔二〕『砕玉抄』の脱落・省略 …………………152
〔三〕その他の異同関係 …………………………152
八、『砕玉抄』の位置 …………………………………156

第五節 まとめ ………………………………………………158

第四章 如儡子・百人一首注釈書の意義 …………………………161
第一節 百人一首研究の現状 ………………………………161
第二節 如儡子の百人一首注釈書 …………………………163
第三節 如儡子の百人一首注釈書の特徴 …………………165
一、歌人配列の特異性 ………………………………165
二、啓蒙的執筆姿勢 ……………………………………166
三、如儡子的表現 ………………………………………171
四、儒教的立脚地 ………………………………………174
第四節 百人一首注釈書としての意義 ……………………176

翻刻篇

『砕玉抄』(武蔵野美術大学美術館・図書館金原文庫所蔵)
凡例 …………………………………………………………182
序説 …………………………………………………………183
1 天智天皇御製 ………………………………………………186
2 持続天皇 ……………………………………………………189
3 柿本人丸 ……………………………………………………191
4 山辺赤人 ……………………………………………………194
5 中納言家持 …………………………………………………197
6 安倍仲麿 ……………………………………………………199
7 参議篁 ………………………………………………………201
8 猿丸太夫 ……………………………………………………205
9 中納言行平 …………………………………………………206
10 在原業平朝臣 ………………………………………………208
11 藤原敏行 ……………………………………………………210
12 陽成院御製 …………………………………………………211
13 小野小町 ……………………………………………………212
14 喜撰法師 ……………………………………………………218
15 僧正遍昭 ……………………………………………………219
16 蝉丸 …………………………………………………………223
17 河原左太臣 …………………………………………………225
18 光孝天皇御製 ………………………………………………227
19 伊勢 …………………………………………………………229
20 元良親王 ……………………………………………………230
21 源宗于 ………………………………………………………232
22 素性法師 ……………………………………………………233
23 菅家 …………………………………………………………235
24 壬生忠岑 ……………………………………………………237
25 凡河内躬恒 …………………………………………………239
26 紀友則 ………………………………………………………240
27 文屋康秀 ……………………………………………………241
28 紀貫之 ………………………………………………………242
29 坂上是則 ……………………………………………………244
30 大江千里 ……………………………………………………245
31 藤原興風 ……………………………………………………247
32 春道列樹 ……………………………………………………250
33 清原深養父 …………………………………………………251
34 貞信公 ………………………………………………………252
35 三条右太臣 …………………………………………………254
36 中納言兼輔 …………………………………………………256
37 参議等 ………………………………………………………257
38 文屋朝康 ……………………………………………………259
39 右近 …………………………………………………………260
40 中納言敦忠 …………………………………………………261
41 平兼盛 ………………………………………………………262
42 壬生忠見 ……………………………………………………263
43 謙徳公…………………………………………………………266
44 中納言朝忠 …………………………………………………268
45 清原元輔 ……………………………………………………269
46 源重之 ………………………………………………………271
47 曽祢好忠 ……………………………………………………272
48 大中臣能宣朝臣 ……………………………………………273
49 藤原義孝 ……………………………………………………274
50 藤原実方朝臣 ………………………………………………275
51 藤原道信 ……………………………………………………276
52 恵慶法師 ……………………………………………………277
53 三条院御製 …………………………………………………279
54 儀同三司母 …………………………………………………280
55 右大将道綱母 ………………………………………………282
56 能因法師 ……………………………………………………283
57 良■法師 ……………………………………………………284
58 西行法師 ……………………………………………………286
59 大納言公任 …………………………………………………288
60 清少納言 ……………………………………………………289
61 和泉式部 ……………………………………………………292
62 大弐三位 ……………………………………………………292
63 赤染衛門 ……………………………………………………294
64 紫式部 ………………………………………………………298
65 伊勢太輔 ……………………………………………………299
66 小式部内侍 …………………………………………………300
67 中納言定頼 …………………………………………………302
68 周防内侍 ……………………………………………………304
69 左京太夫道雅 ………………………………………………305
70 大納言経信 …………………………………………………306
71 大僧正行尊 …………………………………………………307
72 中納言匡房 …………………………………………………309
73 祐子内親王家紀伊 …………………………………………311
74 相模 …………………………………………………………312
75 源俊頼朝臣 …………………………………………………313
76 崇徳院 ………………………………………………………314
77 待賢門院堀川 ………………………………………………315
78 法性寺入道前関白大政太臣 ………………………………316
79 左京太夫顕輔 ………………………………………………317
80 源兼昌 ………………………………………………………318
81 藤原基俊 ……………………………………………………320
82 道因法師 ……………………………………………………322
83 藤原清輔 ……………………………………………………322
84 俊恵法師 ……………………………………………………324
85 後徳大寺左太臣 ……………………………………………325
86 皇太后宮太夫俊成 …………………………………………326
87 皇嘉門院別当 ………………………………………………328
88 殷冨門院太輔 ………………………………………………329
89 式子内親王 …………………………………………………330
90 寂蓮法師 ……………………………………………………331
91 二条院讃岐 …………………………………………………332
92 後京極摂政前大政太臣 ……………………………………333
93 前大僧正慈円 ………………………………………………334
94 参議雅経 ……………………………………………………335
95 鎌倉右太臣 …………………………………………………336
96 正三位家隆 …………………………………………………338
97 権中納言定家 ………………………………………………339
98 入道前大政太臣 ……………………………………………340
99 後鳥羽院御製 ………………………………………………341
100 順徳院御製 ………………………………………………342
奥書 ………………………………………………………………343
あとがき …………………………………………………………347

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

はじめに

仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛は、『可笑記』『百八町記』『堪忍記』の他に「百人一首」の注釈書も著していた。如儡子は注釈書『砕玉抄』の奥書で次のように述べている。
〔注 振り仮名は省略した〕
「つれづれと、ながき日くらし、おしまづきによつて、墨頭の手中よりおつるに、夢うちおどろかし、おろか心の、うつり行にまかせて、此和哥集の、そのおもむきを綴、しかうして、短き筆に、書けがらはし留り。寔、せいゑい、海をうめんとするにことならずや。されば、かの三神のみとがめをつゝしみ、おもむげず、かつまた、衆人之ほゝえみ、嘲をもかへりみ、わきまへざるに似りといゑども、さるひな人の、せめをうけ、辞するにことばたえ、退に道なくして、鈍き刃に、樗櫪を削り。人、是をあはれみ給へや。
時寛永巳之仲冬下幹江城之旅泊身
雪朝庵士峯ノ禿筆作         如儡子居士」
『砕玉抄』は、雪朝庵士峯、如儡子居士が、寛永巳の年11月、江戸に仮寓の身で著述したものであった。ある鄙人から求められて、断りきれず書き始めたが、精衛海を填む、という中国故事と同様に、大変な事に手を出して、このような結果になってしまった。
しかし、この如儡子の「百人一首」注釈の労作も、長い年月の間、広く世間に知られる事はなかった。昭和41年に水戸彰考館文庫(現徳川ミュージアム)所蔵の『百人一首鈔』が公表され、続いて国会図書館所蔵の『酔玉集』の所在が明らかとなり、平成10年には京都大学附属図書館所蔵の『百人一首註解』が公刊され、さらに平成13年には武蔵野美術大学美術館・図書館金原文庫所蔵の『砕玉抄』が発見されるに至った。
百人一首の研究者及び仮名草子研究者の諸先学の調査・研究の成果によって、ようやく如儡子の「百人一首」注釈の全貌が明らかになった。今、その研究を纏める段階になったことを、まず感謝申し上げる。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

あとがき

如儡子斎藤親盛は、仮名草子『可笑記』の著者である。慶長8年(1603)の頃、酒田筑後町において、最上家家臣、斎藤筑後守広盛の長男として生まれた。幼少から最上家親に近侍し、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。しかし、元和8年(1622)、最上57万石は取り潰され、広盛・親盛父子は浪人となる。如儡子は、そのような浪々の身にありながら、著作の執筆に励んだ。
寛永6年(1629)の秋、『可笑記』の執筆を始め、同13年には全5巻が一応まとまった。初版の11行本の刊行は寛永19年であるが、如儡子は『可笑記』脱稿以後、百人一首の注釈の執筆に着手したものと思われる。
そして『砕玉抄』を書き上げたのが、寛永18年11月であったと推測される。この時、如儡子斎藤親盛は39歳位であったと思われる。
如儡子の百人一首注釈書を最初に学界に紹介されたのは、和歌研究者の田中宗作氏である。田中氏は、昭和41年に水戸彰考館(現徳川ミュージアム)の『百人一首鈔』を紹介された。続いて、仮名草子研究者側から、田中伸氏・野間光辰氏が、国会図書館の『酔王集』を紹介され、分析を進められた。平成10年には、島津忠夫氏・乾安代氏によって、京都大学附属図書館の『百人一首註解』が「百人一首注釈書叢刊 15」として公刊された。さらに、平成13年に、武蔵野美術大学美術館・図書館に如儡子の『砕玉抄』が所蔵されていることが、浅田徹氏によって明らかにされた。
そのような状況の中で、私も、如儡子の百人一首注釈の研究を進めてきた。そうは言っても、私にとって、和歌の研究は専攻以外の分野であり、全て一から学び始めた。昭和女子大学の齋藤彰氏や、同志社女子大学の吉海直人氏、国文学研究資料館の岡雅彦氏の温かい御指導で、少しずつ研究を進めることが出来た。
このたび、如儡子の百人一首注釈の研究を、一応まとめることが出来たが、それは、田中宗作氏、田中伸氏、野間光辰氏、吉海直人氏、島津忠夫氏、乾安代氏の研究に導かれるところが大きい。これらの研究がなければ、到底為し得なかったものと思う。
さらに、浅田徹氏は、武蔵野美術大学美術館・図書館の所蔵本調査の折、如儡子の『砕玉抄』に気付かれ、その情報を如儡子研究を進めている私に教えて下さった。浅田氏の御厚意が無ければ、私は如儡子の、百人一首注釈の中で最も優れたテキストに出合う事は出来なかったものと思う。
このように、多くの方々の御厚意によって、百人の和歌の注釈という、如儡子の膨大な著作の全貌をほぼ明らかにする事が出来たことに対して、心から感謝申し上げる。
本研究を進めるにあたり、原本所蔵の各機関には格別の御配慮を賜った。国立国会図書館には『酔玉集』の閲覧・複写をお願いし、雑誌『近世初期文芸』への全冊翻刻の許可を賜った。水戸彰考館(現徳川ミュージアム)には、『百人一首鈔』の閲覧・調査をお願いし、本文の複写は各巻の前半部分をお願いし、後半部分は国文学研究資料館のマイクロフィルムを閲覧させて頂いた。また、同館所蔵の、他の百人一首関係のフィルムも閲覧させて頂いた。京都大学附属図書館には『百人一首註解』の閲覧・調査・複写をお願いした。武蔵野美術大学美術館・図書館には、『砕玉抄』の閲覧・調査・複写をお願いし、本書への全冊翻刻の許可も頂いた。さらに、本書への写真掲載に関しても、各機関の御配慮を賜った。ここに記して厚く御礼申し上げます。
本書の出版に関しては、平成16年刊行の『井関隆子の研究』と同様に、和泉書院の社長廣橋研三氏に格別の御配慮を賜った。また、原稿の整理、校正段階では、同社専務廣橋和美氏の御助言にあずかった。両氏の御温情に対して、深甚の謝意を表する。
平成24年2月14日
。。。。。。。。。。。。。。。

講義 「武士道」

講義 「武士道」

  • 2019.09.24 Tuesday

講義 「武士道」

●FBで、1年前を振り返ったら、笠谷和比古氏の、大阪学院大学の講義「武士道」を紹介していた。

。。。。。。。。。。。。。。

2018年9月24日 22:33 ·
大阪学院大学講義「武士道」
2018.09.24 Monday

。。。。。。。。。。。。。。

1000709201
講義名 教養特別講義(武士道)201
担当教員

◎ 笠谷 和比古

武士道とは何であるのか、理想の武士像とはいかなるものであるのかを考える
講義(演習)概要
誰もが一度は耳にしたことのある「武士道」とは、かつてこの日本に存在した武士たちが自らを律する規範として育んできた思想であるが、同時に、現代の日本に生きる我々の心の奥底にも脈々と受け継がれている思想でもある。すなわち、武士道を知ることは現代の日本社会を考える上で重要な要素なのである。
この講義では、『甲陽軍鑑』や『葉隠』といった武士道の代表的な史料を題材として、武士道なる思想とはいかなるものであったか、その理想とする武士像とはいかなるものであったかを明らかにしていきたい。

講義スケジュール(授業計画)

第1回 武士道 ― 講義のプランと課題
第2回 武士の誕生・発展と「もののふの道」「弓矢とる身のならい」
第3回 17世紀の武士道・1(高坂昌信・小幡景憲編『甲陽軍鑑』)
第4回 17世紀の武士道・2(小笠原昨雲『諸家評定』)
第5回 17世紀の武士道・3(如儡子『可笑記』)
〔以下、省略〕

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●大阪学院大学では、教養特別講義として、武士道を取り上げ、その中に、『可笑記』も組み込まれている。担当者は、笠谷和比古氏である。笠谷氏は、日本の武士道を論じた画期的な研究で、初めて如儡子の『可笑記』を取り上げられた。浪人になって、厳しい生活の中でも、武士としての誇りを忘れず、庶民のために、著作活動を続けた、〔武心士峯居士〕も喜んでいると思う。寝転んで古典を読むような、態度では、この意義は理解出ないだろう。

●私は、笠谷和比古氏の研究を受けて、改めて『可笑記』と武士道に関して論じた。『近世初期文芸』第32号、平成27年(2015)12月。内容は、以下の通り。

目 次

一、はじめに
二、笠谷和比古氏の武士道研究
三、野田寿雄氏・田中伸氏の研究
1、野田寿雄氏説
2、田中伸氏説
四、『可笑記』―内容の類型分類
五、『可笑記』に描かれた武士
1、主君に対する批評(家老・出頭人を含めて)
2、臣下に対する批評(武士道を中心に)

●笠谷氏の研究に触発されて、『可笑記』の武士道に関して分析することが出来た。笠谷氏は、昭和39年発表の、私の第一論文「『可笑記』と儒教思想」に関しても指示して下さった。有難いことである。

私の伝記研究

私の伝記研究

  • 2019.09.23 Monday
私の伝記研究

●一昨日、『近世初期文芸』第36号の初校を済ませて、編集部へ返送した。36号の原稿締切りは、9月末日である。老人になると、何事も気短になり、せっかちになる。

●今回は、如儡子の祖父・斎藤光盛の出身地、新潟県東蒲原郡阿賀町の、阿賀野川沿いの赤岩地区の、斎藤家総本家に伝来する、陣羽織を紹介した。

●昨年の『近世初期文芸』第35号では、斎藤家総本家の『斎藤家系図』、分家の『斎藤家系図』、総本家の『藤原 斎藤家系図』の3点を紹介した。総本家の系図は、巻子本仕立てで、6m40㎝というみごとなものである。66代まで記載されていて、斎藤家総本家は、現在まで存続している。この系図に関して、近世歴史研究の専門家にお伺いしたところ、極めて貴重な史料であるとのことであった。

●今回、紹介する、斎藤家総本家に伝来する陣羽織は、これも、仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛の伝記研究上、極めて重要な史料である。

●斎藤家は、代々武士として活躍し、越後の金上家に仕えていた。第58代・斎藤義正の時、主家金上家が亡び、義正は西山日光寺辺に蟄居した。第59代・斎藤安近は、武士から農民に降り、名前も、西山吉兵衛と改め、家紋も代々続いてきた「下がり藤」を「丸に」に改めた。現在伝わる陣羽織は、この時、記念に作られたものであろう。

●如儡子・斎藤親盛が、酒田の最上家を辞し、越後の阿賀野川辺の斎藤家総本家をたずねたのは、まさにこの、第59代・斎藤安近・西山吉兵衛が当主の時だったのである。

●おそらく、西山吉兵衛は、如儡子・斎藤親盛に、武士から農民に降った経緯、家紋を「丸に」に改めたことなどを語って、記念に作った陣羽織を見せたものと推測される。

●斎藤親盛は、やがて、江戸へ出て、『可笑記』などの執筆を続けた。『可笑記』は世間の評判となり、寛永19年11行本、同12行本、無刊記本と版を重ね、万治2年には絵入本が出版された。

●如儡子は、絵入本の絵師に、「昔さる人」の背中の紋所に「丸に」を書くように指示したものと思われる。これは、『可笑記』絵入本の「昔さる人」の背中の紋所「丸に」は、偶然のことではなかったのである。

このように、私は推測している。

●私は、昭和37年(1962)1月10日、法政大学教務課へ卒業論文150枚を提出した。提出した後、許可を得て借り出し、全冊書き写した。それが、今も、手許にある。その作者の項には、次の如く書かれている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・以上のように、如儡子は、湯村式部とも、斎藤以伝とも、さては浅井了意とさえ言われており、このうち、いずれが、より有力であるか、ということさえ、断じ得ないのが現状である。これに関して、私は、絵入本挿絵中の「むかしさる人」の背中の家紋「丸に」が、かなり一貫して用いられていることに気付き、この面からも調査してみたいと考えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●それから、57年が経過した。私の伝記研究の新しい方法が、この結果をもたらした、ということは、許されるだろうか。


如儡子にもお花

如儡子さんに お花

  • 2019.09.21 Saturday
斎藤親盛(如儡子)さんに贈られたお花

斎藤親盛(如儡子)

斎藤親盛(如儡子)さんに贈られたお花を表示しています。

お花はあげてから14日過ぎると片付けられます。

匿名さん(09/21) 匿名さん(09/19) 匿名さん(09/19) 匿名さん(09/18) 匿名さん(09/18) 匿名さん(09/18) 匿名さん(09/18) 匿名さん(09/17) 匿名さん(09/17) 匿名さん(09/17) 匿名さん(09/17) 匿名さん(09/17) 匿名さん
(09/13)

●牢人、如儡子にも、お花が送られていた。

斎藤筑後守広盛

斎藤筑後守広盛

  • 2019.09.19 Thursday
斎藤筑後守広盛

●如儡子、斎藤親盛の父、斎藤広盛は、最上義光に仕え、酒田の川北町奉行を務めた。最上家転封の時、牢人となり、如儡子も浪々の身となる。その厳しい牢人生活の中で、『可笑記』『百人一首注釈』『堪忍記』『百八町記』を執筆した。

●私は、大学三年の時から、この牢人の研究を続けてきた。そうして、今、ようやく、まとまろうとしている。

。。。。。。。。。。。。。。。。。

齋藤筑後守記念碑

平成23年10月23日、山形県酒田市の上日枝神社境内に「齋藤筑後守記念碑」が建立された。

「齋藤筑後守記念碑

近世初期の戦乱の時代、越後(新潟)から出羽(山形)庄内に移住して活躍した齋藤一族があった。初代光盛、二代広盛、三代親盛と庄内・酒田を中心に活躍した。

齋藤家初代光盛  越後の出身。出羽の国に移り、庄内の守護、武藤義氏に仕える。天正元年(一五七三)以後、藤島城代となり、多くの戦功をあげた。天正十年頃に三十二歳で没する。

二代広盛  又十郎、助左衛門、筑後守。最上義光の武将で、亀ケ崎城代の志村光安・光惟父子に仕え、三奉行の一人として活躍した。光惟が没した後、川北代官として志村氏の領地である川北地方の行政にあたった。齋藤助左衛門、齋藤筑後守の名で、年貢皆済状、棟札が多く伝えられている。酒田の筑後町は、齋藤筑後守の屋敷があった場所であるとも伝えられている。妻は東禅寺筑前守の弟、東禅寺右馬守の娘であると思われる。最上家は、元和三年(一六一七)に最上家親が急死し、家中の内紛もあって、同八年に最上五十七万石は近江一万石に転封となる。この時、広盛は最上家を辞して酒田を去る。長年住み慣れた筑後町を後に、妻子を連れて、鼠ケ関を越えて越後へ向かったものと推測される。しかし、広盛は、にわかに病んで、五十五年の生涯を閉じた。

三代親盛  仮名草子作者。清三郎、号は以伝、筆名・如儡子、法名・武心士峯居士。慶長八年(一六〇三)頃、酒田筑後町にて、広盛の長男として生まれる。幼少から最上家親に側近く仕え、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。元和八年、最上家の改易と同時に、父広盛に従って主家を辞し、先祖の出身地・越後に赴くが、やがて江戸へ出て仮名草子作品などの執筆に励んだ。著作に『可笑記』(仮名草子)・『砕玉鈔』(百人一首注釈書)・『堪忍記』(諸大名の批評書)・『百八町記』(三教一致を説いたもの)などがあり、晩年、二本松で詠んだ俳諧も多く残されている。延宝二年(一六七四)三月八日没、享年七十二歳。二本松の松岡寺に葬られた。

その後の齋藤家  四代秋盛が二本松藩主丹羽光重に召抱えられたため、万治三年(一六六〇)、一家は江戸から福島の二本松に移住した。以後、五代富盛、六代常盛、七代親盛、八代邦盛、九代英盛、十代徳盛と、代々二本松藩に仕えた。齋藤家の子孫は、第十三代豪盛氏、第十四代康盛氏まで絶える事なく続き、現在、齋藤家は山形県長井市に居住し、墓所は、二本松の松岡寺にある。

平成二十三年十月吉日

昭和女子大学名誉教授  深沢秋男 撰文
昭和女子大学講師    承 春先 謹書
齋藤家 第十三代   齋藤豪盛 建立」


斎藤親盛(如儡子)の研究

斎藤親盛(如儡子)の研究

  • 2019.09.19 Thursday
斎藤親盛(如儡子)の研究

目次

① 仮名草子研究の思い出――今後の課題と計画――(昭和女子大学 最終講義資料)
②『可笑記』と儒教思想
③斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)
④斎藤親盛(如儡子)の俳諧(中)
⑤斎藤親盛(如儡子)の俳諧(下)
⑥『可笑記』の諸本
⑦斎藤親盛(如儡子)の著作
⑧川北奉行齋藤筑後守広盛の事績
⑨如儡子(斎藤親盛)の父、斎藤筑後守は「盛広」か「広盛」か
⑩平成22年度香川県公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑪平成23年度京都府公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑫「齋藤筑後守記念碑」建立
⑬一條八幡神社にあった筑後文書
⑭可笑記の著者について
⑮『如儡子百人一首注釈の研究』 刊行
⑯斎藤家の墓所、第3次改葬
⑰酒田古町名物語り(一)
⑱『東京都道徳教育教材集』に『可笑記』採録される
⑲武士道の系譜(講演)  笠谷和比古
⑳仮名草子研究の思い出(昭和女子大学 最終講義)
21平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題