大阪学院大学講義 「武士道」

大阪学院大学講義「武士道」
2018.09.24 Monday

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講義名 教養特別講義(武士道)201
開講責任部署 大阪学院大学
講義開講時期 後期
講義区分 講義
基準単位数 2
時間 26.00
開講年度 2018
配当年次 1
曜日講時 月2

担当教員

氏名
◎ 笠谷 和比古
郡司  健
横山 輝樹

講義(演習)テーマ
武士道とは何であるのか、理想の武士像とはいかなるものであるのかを考える
講義(演習)概要
誰もが一度は耳にしたことのある「武士道」とは、かつてこの日本に存在した武士たちが自らを律する規範として育んできた思想であるが、同時に、現代の日本に生きる我々の心の奥底にも脈々と受け継がれている思想でもある。すなわち、武士道を知ることは現代の日本社会を考える上で重要な要素なのである。
この講義では、『甲陽軍鑑』や『葉隠』といった武士道の代表的な史料を題材として、武士道なる思想とはいかなるものであったか、その理想とする武士像とはいかなるものであったかを明らかにしていきたい。

到達目標
1、武士の誕生とともに形成された武士独自の規範・道徳が、「武士道」として昇華していく過程を理解する。
2、社会の変容とともに武士道思想の説く武士の規範・理想像がどのような変化を遂げたのかを理解し、各時期の武士道思想の特徴を把握する。
3、武士道の現代的な意義、つまり今を生きる我々にとって武士道がどのような意味を持つのか、自分なりの答えを見出す。

講義スケジュール(授業計画)
回 内容
第1回 武士道 ― 講義のプランと課題
第2回 武士の誕生・発展と「もののふの道」「弓矢とる身のならい」
第3回 17世紀の武士道・1(高坂昌信・小幡景憲編『甲陽軍鑑』)
第4回 17世紀の武士道・2(小笠原昨雲『諸家評定』)
第5回 17世紀の武士道・3(如儡子『可笑記』)
第6回 18世紀の武士道・1(山本常朝『葉隠』)
第7回 18世紀の武士道・2(大道寺友山『武道初心集』)
第8回 武士道の諸相・1(武家屋敷駆込慣行、仇討ち)
第9回 武士道の諸相・2(庶民への伝播、影響)
第10回 武芸の発展・1(武芸奨励)
第11回 武芸の発展・2(武芸と武士道)
第12回 幕末の軍制改革、幕末・明治の武士道
第13回 武士道の現代的意義

評価基準・方法
定期試験 : 0 %
レポート : 50 % 題目については講義内で指示します。
日常点 : 50 % 随時小テストを実施します。

テーマについては講義内で指示します。レポートは採点後に返却します。
その他 : 0 %

授業外学習の指示
教科書を読んで予習習をしておいて下さい(合わせて1時間)。
 ※次の講義の該当箇所については講義の最後に指示します。
 ※第1回の講義の前に序章を読んでおいて下さい。余裕のある人は教科書を全部読んでおいて下さい。

修上の注意
私語をはじめとして周りの迷惑となる行為、講義の妨げとなる行為は一切禁止します。
武士道の説く規範や道徳について、自分であればどう考えるか、この視点が大切です。単に覚えるというだけに留まらない姿勢を求めます。

オフィスアワー
笠谷・郡司担当回→4月に学生ホームページに掲載する。
横山担当回→第1・3・5週の講義後に教室で受け付ける。

教科書
笠谷和比古『武士道の精神史』(ちくま新書、2017)

参考文献
笠谷和比古『武士道―侍社会の文化と倫理―』(NTT出版、2014)
横山輝樹『徳川吉宗の武芸奨励―近世中期の旗本強化策―』(思文閣出版、2017)
 ※この他の参考文献については講義中に指示します。
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●大阪学院大学では、教養特別講義として、武士道を取り上げ、その中に、『可笑記』も組み込まれている。担当者は、笠谷和比古氏である。笠谷氏は、日本の武士道を論じた画期的な研究で、初めて如儡子の『可笑記』を取り上げられた。浪人になって、厳しい生活の中でも、武士としての誇りを忘れず、庶民のために、著作活動を続けた、〔武心士峯居士〕も喜んでいると思う。寝転んで古典を読むような、態度では、この意義は理解出ないだろう。

如儡子・斎藤親盛の墓

如儡子・斎藤親盛の墓所
2018.09.24 Monday

■松岡寺の斎藤家墓所(第一次改葬)

●松岡寺の墓所は、本堂に向かって左手にある。墓地へ登って行くと、入ってすぐ右手に花沢家のお墓があり、その奥に斎藤家の墓地がある。お墓に向かって右手に観音堂があり、左隣には、手前に高橋家、その奥に阿部家の墓がある。つまり、斎藤家は二軒分に近い、広い墓地である。何故、このように広いのであろうか。
●斎藤家の墓地は、昭和44年、第12代・源覇(興盛)が没した時、先祖代々の墓石44基を整理して改葬したという。その時、44基の墓石は白布に包み、墓の中に埋めたと、現在の当主・豪盛 (輝利)氏は仰る。如儡子の伝記を研究する私は、その埋められた墓石を是非とも見て調査したいと切望した。間口は、4m55cm、奥行きは8m22cmである。墓石はどのように埋められているのであろうか。

■墓石の位置の疑問点

●斎藤家の墓石は、第一次改葬以前は44基あり、当然のことながら、墓石は周囲に並んでいた。しかし、墓所の左右中央で、奥行きは中央よりやや奥に、一段と大きな墓石があり、これが最も古いもので、斎藤家では、「お姫様のお墓」と言い伝えてきたとの事である。現在の当主・豪盛氏は、これが如儡子の母(東禅寺氏)の墓ではないかと推測しておられる。
●それにしても、お墓の中央で、やや奥に建てられている、この墓石の位置は、いかにも不自然である。推測するに、斎藤家の墓は、最初の奥行きはこの母の墓石の所までであり、その後、その奥の山を切り拓いて拡張したため、母の墓石がこの位置に残されたのではないか、と推測される。
●おそらく、二本松に移住した如儡子は、妻あるいは娘の他界に直面し、創建間もない松岡寺を菩提寺に定め、すでに江戸在住中に他界していた、母を供養し、大きな自然石の墓石を、左右中央の一番奥に建てたのではないかと思われる。

■墓所の大改葬(第二次)

●平成4年、斎藤豪盛氏から、墓所を全面的に掘り起こすので、立ち会ってもらいたい、という連絡をもらった。私は涙が出るほど感激した。3月27日、長井市から大勢の人が来て、墓所の全面的な発掘作業が開始された。私も同じホテルに泊まって立ち会い、逐一写真に記録した。改葬は5月10日にほぼ完了した。
●発掘されたお骨は、新しい骨壷に納め本堂に安置して供養した。墓石は、全て水で洗い清め、石の種類別に分類して調査したが、軟質の墓石は表面が削りとられ、硬質の墓石は細かく破砕されていた。残された刻字から推測できたのは、3名に過ぎなかった。墓石全体を見ても、44基を埋葬したとはとても思えない。昭和44年に改葬した業者に連絡しても、来てはくれなかった。昭和44年の改葬の時、私も立ち会っていたら、こんな結果にはならなかったであろう。悔やまれてならない。
●先祖代々の骨壷は本堂で供養され、墓石は洗い清められ、斎藤家一族の方々の写した写経と共に、再び墓域内に埋葬された。
●私は一部始終の作業に立会い、記録し写真を撮った。密かに、墓石の破片の一つをもらい、如儡子の伝記研究をしている机の上に置きたい、と思った。しかし、それは、伝記研究を志す者の態度としては不遜であると反省し、思い止まった。

■第2次改葬の様子

如儡子の墓所

如儡子の墓所
2018.09.23 Sunday

●今、如儡子・斎藤親盛のお墓の事を再確認している。念のためグーグルの航空写真で確認したら、見事に見る事ができた。斎藤家の墓は、松岡寺の本堂から墓所に入って、すぐ右手にあるが、間口=4メートル55センチ、奥行き=8メートル22センチである。他の家の倍ほどの広さである。航空写真で見ても、その広さがわかる。松岡寺の墓所全体を空から見ると、空地が目立つ。やはり、現在の、お墓離れの現象だろう。
●松岡寺は、寛文4年(1664)に、二本松藩主・丹羽光重の許可を得て創建された。臨済宗妙心寺派、開山は太嶽祖清禅師である。斎藤親盛は、延宝2年(1674)に没した。72歳だったようだ。法名は「武心士峯居士」俗名斎藤以伝。
●思えば、大学3年の時、仮名草子『可笑記』に出会って、その解明に取り組んできたが、ようやく伝記をまとめる段階になった。まとめられるか否か、寿命のこともあって、不安は残るが、決して急がない。完成するかしないかは、天命である。ここまで研究を継続できて、感慨深いものがある。

■松岡寺の墓所

『可笑記大成』 1000円

『可笑記大成』 1000円
2018.09.11 Tuesday

●今日、神田の古書店から『可笑記大成ー影印・校異・研究』を、1000円で購入した。もう、45年程前に出した本である。定価は、10000円。文部省の出版助成を受けて出した。新人の私を、田中伸先生の御配慮で、共編著者に加えて下さったものである。
●その後の古書価は、3万、4万と高かったが、現在は、かなり安くなった。安くはなったけれど、1000円には驚いた。で、早速購入した。現在の古書価を検索したら、以下の如くである。
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●可笑記大成影印・校異・研究
¥9,000
田中/深沢/小川、風間書房、昭和49、1
●可笑記大成 影印・校異・研究
¥4,000
田中伸・深沢秋男他編著、昭49、1冊
●可笑記大成 影印・校異・研究
¥3,500
田中伸他 笠間書院、昭49、1冊
●可笑記大成 影印・校異・研究
¥4,320
田中伸/深沢秋男/小川武彦 編著、
●可笑記大成 : 影印・校異・研究 <可笑記>
¥3,800
如儡子 著 ; 田中伸, 深沢秋男, 小川武彦 編著、笠間書院、昭49、
●可笑記大成:影印・校異・研究
¥6,480
田中伸他、笠間書院、昭49、1
●可笑記大成―影印・校異・研究―
¥10,000
田中伸・深沢秋男・小川武彦編著、笠間書院、昭和49、1
●可笑記大成 -影印・校異・研究-
¥2,700
田中伸、深沢秋男、小川武彦、笠間書院、1974、1

足立区立千寿第八小学校 『可笑記』

足立区立千寿第八小学校 『可笑記』
2018.09.08 Saturday

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“あいさつ”について学ぶ
                                校長 中田眞由美
 【前略】
 本校では、登校班ごとに行う「朝のあいさつ運動」やPTAの方々による「1008あいさつプロジェクト」を継続実施しています。毎朝校門で立っていると、気持ちのよいあいさつをする子、力いっぱい大きな声を出す子、目礼をする子等、様々です。一日の始まりにふさわしい「おはようございます。」という元気な声を聞くと、さわやかな気持ちになります。まず、勇気を出して、しっかりとした声であいさつすることが大切です。
 さらに、時と場合を考えたあいさつができるようになるとすばらしいです。先人の教えに、 『礼儀と云うは、むかいの人によっておこない、時にしたがっておこなう、万事一ぺんに心得べからず。』(如儡子「可笑記」)があります。礼儀というのは、相手の様子や周りの状況などによって、時に応じて行うものであり、すべて同じ型がよいわけではないということです。
 礼儀の基本は、“あいさつ”です。あいさつは人と人との心を通い合わせ、コミュニケーションを図るもとになります。学年が上がるにつれ、状況に応じて、声の強弱はもちろんタイミングや間の取り方も考えてあいさつをする子供に育ってほしいと願っています。

 そこで、第3回の課題詩暗唱は、詩ではないのですが、江戸時代前期の仮名草子「可笑記」にある前述の一節にしました。(東京都教育委員会発行【東京都道徳教育教材集 小学校3・4年生版「心しなやかに」】の第一章「先人のことばに学ぶ」にも掲載されています。)

礼儀と云うは、むかいの人によっておこない、時にしたがっておこなう、
万事一ぺんに心得べからず。    如儡子 「可笑記」

 7月21日から、夏休みが始まります。多くの方々との交流や体験の中で、“あいさつ”について学ぶ夏休みであってほしいと思います。保護者・地域の皆様には、7月、8月も多方面でお世話になりますが、益々のご支援ご協力の程よろしくお願い申し上げます。

(『千八小だより』平成28年7、8月 NO4)

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私の 伝記研究の方法

私の 伝記研究の方法
2018.08.30 Thursday

      
伝記研究の方法

平成17年(2005) 昭和女子大学最終講義 より

●私の、如儡子伝記研究を見ても分かるように、全て〔調査報告〕となっている。これには、1つの理由がある。従来の伝記研究は、伝記関係資料を研究者が収集した範囲で、伝記として纏め上げていた。その収集は徹底したものもあるが、やや中途半端なものものもある。勿論、調査・収集は徹底することが理想である。私も、かつて、井関隆子や鹿島則孝や鹿島則文などの略伝を纏める時、同様の方法を採用していた。しかし、これでは、科学として見た時、適切ではない事に気付いた。その反省の上に立って進めたのが、如儡子の伝記研究であり、〔調査報告〕とした所以である。

■明日不所求

●当然の事ながら、人間には寿命がある。これは、作者も研究者も同様である。故に、歴史上の人物の伝記を志しながら、業半ばにして世を去った人々の何と多い事か。私の伝記研究の方法は、この人間存在のアヤウサにも着目して打ち出されたものである。出来得る限り、客観的な事実を把捉したい。しかる後に、1人の人物の伝記の執筆に取り掛かりたい。しかし、我が命は、明日までかも知れない。ならば、まず、命のある限り、事実の収集をしておこう。さすれば、その事実の記録を後人が利用してくれるかも知れない。まかりまちがえば、調査も自分の思った通りに進み、自分で伝記の執筆が出来るかも知れない。

■雪朝庵士峯・武心士峯居士

●これは、斎藤親盛・如儡子の号である。如儡子は、酒田筑後町で、川北奉行・斎藤筑後守広盛の嫡男として生まれた。延宝2年(1674)3月8日に没したが、歳は72歳位であったか。父・広盛は、山形藩主・最上家親に仕えた。親盛も幼少から、主君・家親に側近く仕え、元服の時は、主君の名の一字「親」を賜った程である。
●従来、言われてきた如く、尾羽打ち枯らした、みすぼらしい浪人ではない。その心底には、57万石の大大名に近侍した武士としての誇りがあったのである。
●雪深い東北の、酒田の地に生まれ、育った親盛。厳しい寒さの朝、雪は深々と積もる。しかし、武士の子として成長した如儡子は、気高い武士の誇りを身につけ、その頂を目指し、生きていた。

■最上57万石、取り潰し

●最上57万石は、お家騒動にかこつけた徳川幕府の取り潰しに合って、1万石に減らされる。大量の浪人が発生した。後に酒井氏が入ったが、広盛・親盛父子は何故か酒井氏に採用されず、浪人の道を選ぶ。ここから、如儡子の苦しい浪人生活が始まる。

■酒田・筑後町

●酒田の古地図を見ると、現在の相生町と幸町の辺りにに筑後町がある。この町名は筑後守に縁がある。如儡子は若い頃、諸国を修行して歩き、書写するところの典籍は数百巻に及んだと言われる。また、母方の叔父は羽黒山の警備を担当する掛の責任者でもあった。幼い清三郎(親盛の幼名)の教育には、奉行の父よりも、母の影響が大きかったのではないかとも推測され、おそらく、羽黒山の蔵書も閲覧のチャンスがあったものと思われる。
●如儡子は、成人するまでは、歴とした武家の子として酒田の地に過ごし、学問もきちんと身に付けていたのである。決して聞きかじりの、耳学問ではなかった。

■父・斎藤筑後守

●如儡子の父・斎藤筑後守広盛は越後の出身。祖父・光盛と共に出羽庄内に移り、最上氏に仕えた。義光・家親・義俊の3代に仕え、川北奉行をつとめた。酒田・遊佐・飽海地方には、斎藤筑後の年貢皆済状がかなり多く伝存している。私はこれらを出来得る限り写真に収めて報告した。また、神社などの棟札も貴重な記録である。これも、全て元の形で報告した。これらには、慶長頃の年月日と場所が明瞭に記されている。中には、斎藤筑後の自筆と推測される文書も閲覧する事ができた。如儡子の父は、この日、ここに居た、という証拠である。如儡子は、その広盛の子である。これが、伝記を執筆する時、いかに多くの事を我々に教えてくれることか。

■本貫・越後の調査

●如儡子の祖父・光盛は越後の出であった。戦国の世に、故あって出羽に移った。藤島城代を任せられてもいるので、越後でもそれなりの武将であったものと推測される。おそらく、一族郎党を引き連れて、鼠ケ関の難所をこえたものと思われる。新発田あたりかと、見当をつけて調べたり、集落全て「斎藤」姓の所にも行って、調べてみたが、現在のところ確たるものに出会っていない。
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●13年後に、ようやく斎藤光盛の本貫を推測ではあるが、確認することが出来た。これは、僥倖としか言いようがない。

酷暑の中での奮闘 ?

酷暑の中での奮闘 ?
2018.08.30 Thursday

●今年の夏は暑かった。日中は外出せず、夕方から散歩に出た。妻と2人で、自然の風に感謝して歩く。なんとも生産性のない日々である。そんな中で、なんと多くの方々の御配慮を賜ったことか。
●4月には、北村薫氏の『小萩のかんざし』が出て、横山重先生の事をあたたかく描写して下さった。8月には、なんと、郷里身延の広報誌に、池田茂光氏が、思いがけない紹介をして下さった。
●年末に出る予定の『近世初期文芸』第35号に投稿する3点、この酷暑の中で脱稿した。
① 如儡子の祖父、斎藤光盛の出自
② 新出写本『可笑記』の紹介
③ 仮名草子の書誌的研究
●①では、越後阿賀町の斎藤家総本家の、6メートル40センチという、長大な系図が決定的な証拠となった。昭和37年1月に法政大学に提出した卒論の推測に結び付いたのである。こんな劇的なことも、長年研究しているとある、ということであろう。
●とにかく、年老いた私は、多くの方々の御配慮、御協力に感謝して、これらの原稿を、今日、印刷所に送った。8月も終わり、9月に入る。

ツイッターの中の『可笑記』

ツイッターの中の『可笑記』
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「表現弾圧がエログロナンセンスから始まったなんて偽史」と言った人が「西鶴以前の仮名草子に好色本取り締まりがあった」というのであれば、江戸初期に政治がらみの表現弾圧事件がないといけないですよね。おかしいな、出羽山形最上藩の藩政を批判した『可笑記』が弾圧された話はあったかな?
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その他
『可笑記』は「無能な主君や家老出頭人への痛烈で執拗な批判は、およそ120数段にも及んでいる。」(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=53029 )という政治批判の書なんですけどねえ。ちなみに最上藩は大幅な減転封をされてますけど組織としては存続していたからね?
2017年11月11日
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◆◇◆最上家浪人作のベストセラー◆◇◆

「へ」と申す物ハ、音ありて、手にもとられず、目にもみえず、色にもそまず、火にもやけず、水にもぬれず、きってもきられず、かくてハ、元来なき物かと思えば、腹中のときにより、いくつもある物にて候(そうろう)
 
 初手から、屁(へ)の話とはいささか唐突で胡散(うさん)臭い。でも、これはさる人が、高僧との問答の結末に得心して出たことばなのだ。話しのいきさつはこうである。
 この男、仏に具わる三つの徳を知りたいと高僧を訪う。そこで先ず、「金剛(こんごう)の正体というものを考え出してみよ」とその僧にいわれる。とりあえず彼は「藁(わら)」と答える。金剛というはき物(金剛草履)が藁でできているから、というわけだ。高僧はかすかな笑みを浮かべ、それを打ち消す。そして、上記の文脈のように「金剛の正体というハ、音ありて(中略)なき物かと思えば、元来、その時にしたがって、あるもの也」と教える。
 男は「難しい問答だなあ・・」と思いながら、ひとまず高僧のもとを辞す。ところが、山門近くまで来て突然、男の脳裏に何かがひらめいた。そして、高僧の所へ急ぎ立ち返り、「ただいま教わった金剛の正体は、へであるに違いない」という。高僧は片腹痛く、可笑しさをこらえ、「その心は」と問う。そこで出た答えが、冒頭の一節である。
 「へ~っ」と、ついダジャレを飛ばしたくなるところだが、彼は落語に出てくる与太郎ではない。本文の作者の意図は、実はちぐはぐで分かりにくい禅問答を揶揄(やゆ)しているのだ。
 これが最上家浪人のものした、『可笑記(かしょうき)』なる仮名草子の巻第四(11段)所載の一文である。ことほど左様に、全五巻の長短280段にわたる内容は、当世批判や風刺、それに教訓に満ちていて実に面白い。とりわけ、無能な主君や家老出頭人への痛烈で執拗な批判は、およそ120数段にも及んでいる。これら多くの部分に、現代のダメな組織体にも通じるものを見て取れる。
 本書の著者は如儡子(にょらいし)、本名斎藤親盛(ちかもり)。慶長8年(1603)頃に酒田に生まれたという。彼は最上家親に側近く仕え、元服時には主君から一字拝領している。だが、元和8年(1623)に重臣たちの愚かな政争によって最上家が改易、不遇な浪人生活を余儀なくされる。上述のような批判は、作者自身のやり切れない憤りが心底にあっての表現と見られる。
 各段のほとんどが「むかし去る人の云へるは」、またはこれに類する書き出しである。一見作者の意見でないように韜晦(とうかい)しているのが特徴。だが、和漢の故事を引用し、それらをよく自己のものとして文中に生かしている。また、儒仏論・仏法論・経世論、それに小咄・雑話・笑話の類も多く、作者の博学ぶりと筆力のほどをうかがわせる。
 本書は寛永19年(1641)刊行されるや、たちまち評判になり、万治2年(1659)には絵入の本も出版された。また、浅井了意『可笑記評判』や井原西鶴『新可笑記』など、後続の作品に大きな影響を与えた。活字本としては、『仮名草子集成』第十四巻(1993年、東京堂出版)に所収されている。

■執筆:渋谷武士(二代長谷勘三郎改メ)「歴史館だより№13/研究余滴6」より

『可笑記』諸本研究の思い出

2018.06.06 Wednesday

『可笑記』研究の思い出

●私の第一論文は、昭和39年(1964)5月発行の『文学研究』第19号の「『可笑記』と儒教思想」である。54年前になる。
●今日、慶應義塾大学学術情報リポジトリで、1969年3月発行『芸文研究』27号掲載、関場武氏の論文「如儡子とその作品――「可笑記」―― その一」を見た。懐かしい論文である。関場氏は、「諸本について」の中の 注10 で、次の如く記しておられる。
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京都府立図書館(現京都府立総合資料館)所蔵の万治二年版可笑記には、巻第五の後表紙見返しに、「定栄堂蔵版目録」、すなわち大坂書林吉文字屋市兵術・同源十郎の刊行書目が附せられている。深沢秋男氏は「可笑記の読者」(文学研究 第二十六
号 〈研究余滴〉昭和四十二年十二月)で、その中に「西鶴織留」や「西鶴置土産」の名が見られるところから、この「可笑記」の刷りたてられた時期を、万治二年より三十数年後の西鶴没年前後と推定されたが、これはもう少し引き下げて考えるべきものであると思われる。例えばこの「西鶴織留」は、元禄七年三月刊の初刻本を指すものではなく、いわゆる享保版のそれである。同書の巻六後表紙見返しには、「廣大節用集 享保十五年新板」と年次の明記されている一書の名を含む「板本 心斎橋筋 吉文字屋市兵衛」の出版書目が貼付されている。またこの「可笑記」に附せられた蔵板目録の第一番にあげられている「古今百物語」は、「拾遺御伽婢子」(宝永元年正月刊)の改題本たる、宝暦元年正月 大坂 吉文字屋市兵衛・同源十郎・江戸 同次良兵衛刊のそれをさすものであろう。そこでこの「可笑記」を、仮に宝暦初年頃の求板本とすれば、万治二年より約九十数年後のものとなり、またその同じ吉文字屋が「可笑記」の小説化とも言われている「浮世物語」を宝暦七年に「続可笑記」と改題した意図の、奈辺に存するかも、かなり明白になってくると思われる。
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●関場氏の論文は、私の研究余滴の誤りを指摘して下さったもので、現在も、感謝している。当時、勉誠社の『近世文学資料類従』では、編集会議などで同席したり、諸本調査の折に、偶然会って、お茶を飲んだりして、いろいろ教えて頂いた。その後、関場氏は、国語学や古辞書の研究に進まれたように思う。
●今日は、リポジトリなどという、新しい媒体のお陰で、懐かしい論文にであった。

デジタル データー の不備

デジタル データーの不備
2018.06.02 Saturday

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ハーティトラスト   【ウィペディア より抜粋】
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ハーティトラスト(英語: HathiTrust)とは図書館独自によるコンテンツのデジタル化だけでなく研究図書館にあるGoogle ブックスやインターネットアーカイブにてデジタル化されたコンテンツの大規模協同作業レポジトリである。
概要[編集]
2008年10月にカリフォルニア大学やCommittee on Institutional Cooperationに加盟する13の大学によって創設された。共有統治構造を基に欧米60以上の研究所[1]と提携している。運営コストは参加図書館や図書館コンソーシアムで共有される。リポジトリはインディアナ大学とミシガン大学によって運営されている。ハーティトラストの業務執行取締役は1990年代中期よりミシガン大学にて大規模なデジタル化を主導しているジョン・プライス・ウィルキンである。
2012年1月現在、ハーティトラストは1000万冊で構成され、そのうち270万冊以上はパブリックドメインであり、アクセスサービス、リポジトリ全体への全文検索を提供している。
2011年9月、作家協会(英語版)は大規模な著作権侵害を犯しているとしてハーティトラストを提訴した。2012年10月、連邦裁判所(英語版)はハーティトラストによるGoogleがスキャンした書籍の仕様は米国法によるフェアユースにあたると判断し作家協会の訴えを退けた[2]。
「Hathi」はヒンディー語/ウルドゥー語でゾウを意味し、優れた記憶力で有名な動物である。
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●今日、『可笑記』を検索したら、慶應義塾大学の絵入本の影印が全冊デジタル版で出ていた。データの発信もとは、上記の〈ハーティトラスト〉。データーは極めてお粗末である。墨と朱の分離も出来ていない。こんなデータが、世界を駆けまわる。これからの研究者は、大いに注意しないと、墓穴を掘ることになろう。