『歴史手帳』2021

●今日、息子に頼んで、吉川弘文館の『歴史手帳 2021』買ってきてもらった。私は大学時代は、法政大学の手帳だったが、卒業と同時に、吉川弘文館の『歴史手帳』に切り替えた。以後、今日まで使用している。

●毎年、その年の研究目標を書き込み、努力はしてきたが、成果は思うように上がらなかった。それでも、今年こそ、継続してきた。

●来年の計画は、最後の著書の仕上げだけである。さて、どうなるか。

 

斎藤親盛の研究

斎藤親盛(如儡子)の研究

目次
① 仮名草子研究の思い出――今後の課題と計画――(昭和女子大学 最終講義資料)
②『可笑記』と儒教思想
③斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)
④斎藤親盛(如儡子)の俳諧(中)
⑤斎藤親盛(如儡子)の俳諧(下)
⑥『可笑記』の諸本
⑦斎藤親盛(如儡子)の著作
⑧川北奉行齋藤筑後守広盛の事績
⑨如儡子(斎藤親盛)の父、斎藤筑後守は「盛広」か「広盛」か
⑩平成22年度香川県公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑪平成23年度京都府公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑫「齋藤筑後守記念碑」建立
⑬一條八幡神社にあった筑後文書
⑭可笑記の著者について
⑮『如儡子百人一首注釈の研究』 刊行
⑯斎藤家の墓所、第3次改葬
⑰酒田古町名物語り(一)
⑱『東京都道徳教育教材集』に『可笑記』採録される
⑲武士道の系譜(講演)  笠谷和比古
⑳仮名草子研究の思い出(昭和女子大学 最終講義)
21平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

21平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

■平成26年度京都府公立高等学校入学者選抜のための学力検査に『可笑記』が出題された。平成23年に続いて、平成26年度も出題された。

●私は、大学2年の終りの頃、『徳川文芸類聚』でこの作品を初めて読んで、私自身、大変勉強になると思ったし、殊に、その批判的要素には感激した。それで、卒論に選び、以後、ずっとこの作品と作者について研究してきた。この作品やこの作者・如儡子、斎藤親盛は、決して軽く見るべきではなく、日本文学史の上でも、それなりの位置を占めるものと思う。その意味でも、平成23年に続いて、今回も出題されたことに感謝する。今回の出題は、巻3の25段から出題された。
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『可笑記』巻3の25段は、寛永19年版11行本では、次の如くである。
振り仮名は省略した。

▲むかし、弘法大師、諸国を修行有しに、江州すりはりとうげにて、
一人の老翁が、斧を石にあてゝひた物すりまはるあり。
弘法、御覧じて、
 いかに翁殿、其斧をすりて、何にし給ふ。
翁答て、
 針に仕る。
弘法、からからと、わらひて、
 扨、いつの世にか、其をのをすりほそめて、針にし給ふべき。其をのよりは、 
 そなたの命こそ、はやく、すりへるべけれ。
翁、かしらをあげて、弘法の御かほを、つやつやと、まもり、
 なふ御坊、其心中にては、学文成がたし。それ、世間の無常老若、さだめが
 たし。其上、事をつとめんに、命期しられざるとて、むなしく、やむべけん
 や。さあらば、さいふ法師の修行も、無益成へし。
と云に、弘法、あつと心付給へば、この翁、
 我は、是、此山の神。
とて、光をはなちて、飛給ふ。すりはりの大明神、是也、と。

有難い情報

有難い情報

  • 2020.11.09 Monday
2014-03-25
有り難い情報

●私は、仮名草子の『可笑記』の研究に取り組み、その原本の調査も、大学時代から始めて、現在も続けている。締め括りは何度もしたが、未だに完結はしていない。生きている間にまとまるか、見通しはつかない。

●昭和56年(1981)に、ケンブリッジ大学図書館・アストンコレクションに『可笑記』の寛永19年版11行本が所蔵されていることを法政の島本昌一先生から教えて頂いた。先生は、1年間イギリスに研修調査で行かれた。初期俳諧の調査の合間に、仮名草子に関しても目配りをして下さったのである。ただ、1つの作品に、多くの時間はかけられない。先生から頂いた書誌情報は限定的であった。

●その後、ケンブリッジ大学のラウラ・モレッティ先生から、貴重な情報を頂いた。この『可笑記』について、もう少し詳しい情報が欲しい、という、私の依頼に対するものである。ラウラ先生は、仮名草子を中心にして日本文学を研究されていて、日本に留学中は、私も何度もお会いしている。学問に対して、まことに誠実、尽きることのない情熱の持ち主、私が尊敬している研究者の一人である。そのようなラウラ先生からの情報ゆえ信頼はできる。私は、この本の実体に関して、さらに1歩を近づけることが出来た。有り難いことである。

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●このように、多くの方々から、あたたかい御教えを賜り、ようやく、諸本の実態に迫ることが出来た。この作品の章段数が、275段だ、400段だ、と、論文や事典類に書かれていた頃を思うと、実に懐かしい。
2020年11月9日

笠谷和比古氏の提言

笠谷和比古氏の提言

  • 2020.11.08 Sunday
笠谷和比古氏の提言

●笠谷和比古氏の「提言 思想史と実体史との往還――丸山真男理論の社会不適合説をめぐる議論に寄せて――」(日本思想史学 45 2013)を拝読した。

はじめに――問題提起
一、 赤穂事件をめぐる儒学思想問題
二、 近世武士の教養Ⅰ――香西頼山『七種宝納記』をめぐって
三、 近世武士の教養Ⅱ――斎藤親盛『可笑記』
むすびに

論文はこのような内容である。

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三、近世武士の教養――斎藤親盛『可笑記』

元禄時代よりはだいぶ前のことになるが、寛永年間に出版された『可笑記』は興味深い書物である。『可笑記』は五巻からなる武士教訓書であり、寛永十九年(一六四二)年の板行。
作者は如儡子としているが、山形藩最上家の元家臣であった斎藤親盛という人物であることが分かっている。最上家が幕府より改易に処せられたのち、流浪の境涯にあった作者であるが、武士としての誇りは高く、また諸学諸道に通じた学識教養の水準の高さも刮目すべきものがある。
同書には当時の武士一般の教養の程度に関して注目すべき記述がある。
  あづまの侍は、仏道、儒道、歌、連歌、詩作など、よくこそは知ね、少づ
つは百人のうち七八十人は心得申候(巻二)
 これは関東の武士の教養について語られている箇所であるが、そこではやや意外なことに、『可笑記』の記された寛永年間において、仏教や連歌もさることながら、儒学についても、委しくはなくとも基礎的教養ぐらいならば百人のうち七、八十人は身につけているという指摘である。
 あるいはまた、客人を招待するときの部屋のかざりとして、「四書、七書、かながきの養生論、つれづれ、甲陽軍鑑、すずりれうし〔硯料紙〕の類置きたるもよし」(巻三)とあって、儒学の四書、『孫子』『呉子』『六韜』『三略』などの武経七書、和書の『徒然草』『甲陽軍鑑』、そして養生書などが武士の教養的嗜みのシンボルとして受け止められていたことを示している。
 ここに、あづまの侍と断っているのは、都、上方の侍は不心得であるという明言である。何とならば、都、上方方面には高僧、学者が大勢いるために学問、文筆事はそれら任せになってしまって、本人たちは無学、不教養のまま打ち過ぎているとの意である。
 些か苦笑を禁じ得ないくだりではあるが、都、上方云々は別として、武士のうち七、八割ほどの者は、詳しくはないにしても儒学の四書の内容ぐらいは一通りの教養として身に付けていたという証言として受け止めてよいであろう。時代はいまだ寛永年間である。この段階で、一般武士の教養レベルがここまで到達していることに驚かされる人も少なくないのではなかろうか。
 同書では無教養と非難されている上方方面の武士であるが、このような数字を見せられると、京都堀川に学舎を設けていた朱子学者・山崎闇斎の門人が総数六千人を数えていたいわれている話も、あながち誇張でないようにも思えてくる。
 近世武士の儒学教養は、兵学、仏道、和歌、連歌などと並行する形で、予想以上に高いレベルを備えていた可能性があると言わなくてはならないだろう。

 むすびに

 以上、丸山・尾藤論争の驥尾に付して粗雑な文章を書き連ねてきたが、浅学非才のゆえと御寛恕を希うばかりである。
 それにしても、このような初歩的な検討だけでも朱子学的思惟と幕藩性社会との適合・不適合を判定する作業は、相当に困難な問題であろうということがお分かりいただけたのではないであろうか。
 『可笑記』の斎藤親盛は、儒学の四書でも初級的教養としては七、八割の者は心得ていると述べていた。同書が刊行されたのが寛永年間であるが、彼が最上家中としてあったのは元和年間である。山形藩最上家の改易は元和八(一六二二)年であり、そのような時期にそのようなレベルを持していたというのである。
 そもそも現実政治の指針としての儒学という考えは、古く「十七条憲法」の時代から始まり、奈良・平安の貴族政治の中にも継承され、さらには鎌倉・室町の武家政治にも、戦国大名の領国政治や戦国家法の中にも取り入れられているように、一貫した立場でであったろう。その学問的伝統は清原、大江といった儒学を家職とする公家たちによって、また五山の禅僧たちによって担われていたことも周知のことである。このような伝統を継承した近世武家社会の武士たちが、儒学の基礎的教養を身につける機会のあったことは、むしろ当然と言うべきなのかも知れない。
 ただし入門的なレベルの彼らに儒学概念の厳密な分析などできようもないし、朱子学と陽明学との区別も定かではあるまい。その学習はひたすらテキストの素読であり、儒者の行う講釈の聴講であったろう。
 そのような素読、講釈の中において『大学』の有名な「修身斉家治国平天下」という章句は、おそらく何の疑いをも抱かれることなく人々の通念、常識となって体の中に沁みこんでいったことであろう。人は学習と修養を重ねることによって道徳的陶冶を深めて人格を確立し、そしてそのように確固たる人格を確立するならば家は安定したものとなり、そのような人物が天下国家の政治を司るならば、自ずから良き統治が実現するという観念は、あまりにも当然の常識であったのではなかろうか。
 それ故に、荻生徂徠が「豆はいくら煮ても米にはならぬ」と譬えて、個々人の道徳的陶冶が良い政治を実現するという考えを退け、道とは道徳の意ではなく、聖人の定めた礼楽刑政の総称であり、それを究明して現実世界に適用し、もって経世済民の実を挙げることが儒学の課題であると聞かされたとき、人は始めてそのような考え方、見方があるのかということに気づかされ、思いを新たにしたことであろう。
 そこに大きなコペルニクス的転回が認められるのであり、それあればこそ、それ以前の近世前期の思想状況を明らかにすることがいっそう求められることになる。『可笑記』が語っている、元和・寛永期にも武士の七、八割は儒学の基礎的教養をそなえていたという実態の解明は今後の大きな課題となることであろう。
 また東国と都・西国との間に地域差があるのか否か、両者の間に文化風土の点で顕著な違いがあるのかどうか、そしてこの時代の儒学はおそらく仏教・神道とともに三教兼修の形で存在していたと思われるが、それらの相互関係づけはどのようなものであったのか、等々。疑問と興味には尽きないものがある。
 これらの諸問題の究明はまさに学際的領域をなすものであり、思想史学とともに政治史、社会史、教育史そして国文学の研究者たちの協同作業によって推し進められていくべではないか愚考する次第である。

        (国際日本文化研究センター教授)

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●以前、笠谷和比古氏の「武士道論」の研究に接して、大きな感激を覚えた。武士道論で、斎藤親盛の『可笑記』の意義を論じられたのは、笠谷氏が最初である。私は、卒論以来、『可笑記』を研究してきたが、この最晩年に、笠谷氏の優れた研究に出会い、感謝している。

田村寛三先生と齋藤豪盛氏

田村寛三先生と齋藤豪盛氏

  • 2020.10.30 Friday
田村寛三先生と齋藤豪盛氏

●田村寛三先生に、斎藤豪盛氏との出会いを伝える文章がある。貴重な記録であるので、紹介したい。

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筑後町(相生町)
田村 寛三

数年前、元酒田工業高校校長の我妻氏が一人の巨漢をつれて私の家を訪ねてきた。巨漢は我妻氏が米沢工業高校時代の教え子で、長井市で斎藤金型製作所の社長をしている斎藤輝利(豪盛)氏である。年は40才位でもあろうか。1m90cm、100キロ以上の堂々たる体躯の持主である。
きくと、斎藤輝利氏の先祖は最上氏時代、酒田(亀ケ崎城)城代だった斎藤筑後守広盛で、社運が安定してきたので、先祖の地である酒田を訪れたという。私は内心「なるほど、これはまさしく戦国武将の子孫であるわい」と舌を巻いた。そして斎藤筑後がすんでおったといわれる筑後町に案内し、ゆかりの上日枝神社に参拝したのだった。斎藤筑後は川北三奉行時代、同町の現斎藤英男医院のところへ屋敷を持っており、そこから筑後町という名前が起ったのである。
それから数年が過ぎて、私はこのことを忘れるともなく忘れていた。ことしの5月の初め頃、輝利氏から電話があり、「7月頃長井市北工業団地へ金型、成形両部門の工場が完成するので、その御礼に、上日枝神社へ拾万円を寄附かたがた5月19日参上したい。ついては宮司さんへよろしくとりなしていただきたい」とのことである。
感激した私は早速、この旨を宮司さんに伝えた。こうして山王祭りの宵祭りでにぎわう19日の午前10時頃、輝利氏といっしょに上日枝神社へゆき、無事拾万円を奉納し、正式に神社参拝をしてめでたく念願を果したのである。その夜、会食しながらの話では、億以上の金をかけて大工場を建設したことは、ちょうど、小なりとはいえ一国一城のあるじになったようなものであるから、これを機会に参拝にきたのだとのことだった。
斎藤筑後守広盛の父は斎藤玄蕃光盛といい、越後の出身。戦国時代出羽庄内にきて武藤義氏へつかえ、藤島の城代となった。16才から戦陣にのぞみ、一生の戦功かぞえるにいとまあらずという豪傑で、中でも土佐林中務少輔を討取り、武名を天下にあげた。さきがけ、しんがりとして、首を切ること32、今1つ討取って首塚を築こうとしたとき、1人の敵と引組んで互いに刺違えて戦死した。時に32才である。
その子広盛(筑後守)も父におとらぬ豪勇の士で、16才の初陣から幾度かの戦いに従軍し、数々の武勲をたてた。
慶長5年には、志田修理の介添として酒田城(亀ケ崎城)におり、最上義光の嫡男家親の軍勢をむかえ討って一ヶ月も戦い、旧友の下対馬の仲裁で城を明け渡し、最上家につかえた。一時、酒田城代となり、さらに高橋伊賀、寺内近江とともに最上氏の川北三奉行となった。おそらくこの頃筑後町へ屋敷を持っていたのであろう。
この広盛の子親盛は、慶長8年に、東禅寺勝正の妹を母として酒田に生まれ、幼年から主君家親の側近に侍し、主君の一字を賜って親盛とした。主君家親の急死、家中の内紛で、元和8年、最上家は改易となり、広盛・親盛父子は主家を辞して酒田を立退き、越後におもむいた。
まもなく父の急死にあい、若干20才で最大の悲劇に直面した。やむを得ず、家族の糊口は母の手にゆだね、単身、江戸に上り、奉公先を求めた。しかし、色が黒く、背の低い、東北なまりの武士のこととて仕官の口もなく、浪々の身となった。
寛永9年頃に一家けん族をむかえ、江戸品川裏河岸の鍋町に、刀、脇差を捨てて兀僧頭、十徳姿に身をやつし、医を業とした。この筑後町生れの親盛は母の血をうけて文学の才能があり、以伝または如儡子の号で、わが国、仮名草子の傑作とされる『可笑記』『百八町記』等を発表し、日本文学史上不朽の光芒を放っている。
輝利氏は如儡子からかぞえて11代に当っている。

(『季刊珈琲街』第6号、昭和57年11月28日発行)

●斎藤豪盛氏は、本年8月、急逝された。如儡子・斎藤親盛の13代目の後裔、御先祖の事を尊び、手厚く対応してこられた。私より1歳年下。金型会社の社長さんだった。

●私は、斎藤豪盛氏と出会う事で、如儡子の伝記を仕上げる事が出来た。何回も何回も、伝記調査旅行に出かけた。仮名草子研究者として、こんなに恵まれた事はない。

●今、『齋藤家系図』を、承春先先生の直筆で作製中である。豪盛氏に見て頂けないのが、一番、悔やまれる。

2020年10月30日

 

父母の心をもって我が心とす

父母の心をもって我が心とす

  • 2020.11.03 Tuesday
父母の心をもって我が心とす

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将棋~つのこの日記
趣味の将棋に関する日記です。初心者ですが毎日コツコツ頑張っています!

如儡子 より 名言

2013年03月04日(月)

父母の心をもって我が心となし、父母の体をもって我が体とせよ
如儡子(にょらいし)/斎藤親盛(さいとう ちかもり)・・・仮名草子作者。
[出典] 可笑記(かしょうき)
「可笑記」いまでは、なかなか手に入りにくくなりましたね~あせる
そういえば、国立図書館にありますが・・・
原本は、いい味でてるけど、読めないや(笑)

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●このようなサイトに出合った。これは、『可笑記』の、巻1の15段。

むかしさる人の云るは、
大聖孔子のをしへに、父母を持たる人は、遊山なぐさみの
ため斗に、遠くへゆき、日をかさねて、あるくべからず。
其しさいは、我いたづらに、とをく父母に立へだゝり、
日をかさねて、つかへず、ぶさたをいたす、かなしさよ。
もし、此うちに、父母の身命に、いかなる大事の出来んも、
しらず。又、いかなる用のあらんも、おぼつかなしと。
大切に、思ふのみならず、父母の、我をみたし、われに、
あひたし、心元なし、と、いかばかり、あんじ給ふらめ
と、父母の心をもかへり見べし。
されば、父母の心をもつて、我心となし、父母の躰をもつ
て、我躰とせよと、あるをや。

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●自分の父や母を、尊敬して生きることが出来れば、それは幸せな人生だろう。私は7人兄弟の末っ子ゆえ、何時までも母のもとにいた。意を決して東京へ出た次の年、母は他界した。65歳だった。体全体から力が抜けた。葬儀に帰るため、都電に乗ったが、力が出ず、乗り口のステップがあがれない。車掌さんが、どうしたの? と手をかしてくれた。

●次の年、私は大学へ入った。目標は、当時の日記を見ると、〝母のような人間になるため〟と書かれている。母は、無学で字も書けず、読めもしなかった。選挙の時は、私が平仮名で教えた。しかし、葬儀の時、村の長老から呼ばれて、「秋男さん、この香典の総額は、これまでの村の女性では最高額だよ、よく覚えておきなさい」と言われた。母は、そのような生き方をしたのである。

●当時、戦時下、村には、朝鮮の人々が住んでいた朝鮮集落があった。余り日本人は寄り付かなかったが、母は違った。よく遊びに行った。だから、私も、外の日本人の友達と同じように遊びに行った。朝鮮の人々が、日本から引き上げる時、韓国と北朝鮮に分かれて帰国した。一家で、北と南に分かれて帰国した家もあった。以後、友達との文通は途絶えた。

●死んだ時、人々から惜しまれるような人間になりたい、それが、学問をする、根本の目標だった。

●父母の生き方を、我が生き方とする。如儡子は、『礼記』に拠って、孔子の教えを易しく伝えた。

昭和女子大学 オンライン研修

昭和女子大学 オンライン研修

  • 2020.10.25 Sunday
昭和女子大学・オンライン研修
鶴岡再発見! -先端と伝統文化の魅力発信-

2020.7.22
第3回オンライン研修

こんにちは。
鶴岡再発見!プロジェクトです。
7/17(金)にオンライン研修が行われました。

(オンライン研修の様子)
今回は、出羽三山の山伏である伊藤賢一さん(山伏名:伊藤秀悦さん)のお話を伺いました。
研修中は伊藤さんが実際に羽黒山を歩きながら様々なことを説明してくださいました。
日本遺産である出羽三山では、3つのお山(羽黒山、月山、湯殿山)を回ることで生まれ変わることができます。

今まで神社やお寺に関してあまりよく知らなかったのですが、お話を聞いて古人の力を感じることができました。特に印象に残っているのは、上の写真にもある国宝羽黒山五重塔です。こちらの塔には心柱という柱が1階から5階まで貫いて立っています。この柱のおかげで今まで一度も倒れたことがありません。この免震構造は東京スカイツリーでも使われています。古の力が現代にも使われていることにとても驚きました。

この研修を通して、古の力を感じました。研修を生かして若い年代の方にも興味を持ってもらえるような活動をしていきたいと思いました。

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●私は、この出羽三山の調査を5日間、連続調査した。この山中には、明治以前は、300もの寺があった。それらが全て破却されたのである。明治の神仏分離とういう、愚による。

●研修の学生にも、そこに目を向けて欲しいと思った。

斎藤親盛(如儡子)の研究

斎藤親盛(如儡子)の研究

  • 2020.10.21 Wednesday
斎藤親盛(如儡子)の研究

目次

① 仮名草子研究の思い出――今後の課題と計画――(昭和女子大学 最終講義資料)
②『可笑記』と儒教思想
③斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)
④斎藤親盛(如儡子)の俳諧(中)
⑤斎藤親盛(如儡子)の俳諧(下)
⑥『可笑記』の諸本
⑦斎藤親盛(如儡子)の著作
⑧川北奉行齋藤筑後守広盛の事績
⑨如儡子(斎藤親盛)の父、斎藤筑後守は「盛広」か「広盛」か
⑩平成22年度香川県公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑪平成23年度京都府公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑫「齋藤筑後守記念碑」建立
⑬一條八幡神社にあった筑後文書
⑭可笑記の著者について
⑮『如儡子百人一首注釈の研究』 刊行
⑯斎藤家の墓所、第3次改葬
⑰酒田古町名物語り(一)
⑱『東京都道徳教育教材集』に『可笑記』採録される
⑲武士道の系譜(講演)  笠谷和比古
⑳仮名草子研究の思い出(昭和女子大学 最終講義)
21平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

21平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

■平成26年度京都府公立高等学校入学者選抜のための学力検査に『可笑記』が出題された。平成23年に続いて、平成26年度も出題された。

●私は、大学2年の終りの頃、『徳川文芸類聚』でこの作品を初めて読んで、私自身、大変勉強になると思ったし、殊に、その批判的要素には感激した。それで、卒論に選び、以後、ずっとこの作品と作者について研究してきた。この作品やこの作者・如儡子、斎藤親盛は、決して軽く見るべきではなく、日本文学史の上でも、それなりの位置を占めるものと思う。その意味でも、平成23年に続いて、今回も出題されたことに感謝する。今回の出題は、巻3の25段から出題された。

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●これは、【近世初期文芸研究会】の中の〔斎藤親盛(如儡子)研究〕の内容である。このサイトを立ち上げた時のメインの内容である。立ち上げたのは、30年も前のことであろうか。

●今日、これを紙の本にしたいと、原稿をまとめた。3600枚である。いずれ、出版されるものと思う。

●大学以来のテーマであり、何と多くの方々の御指導、御援助を賜ったことか。今は、感謝、感謝、の思いのみである。  2020年10月21日 深沢秋男

伝記研究の方法

伝記研究の方法

  • 2020.10.13 Tuesday

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2010-09-30
伝記研究の方法

■伝記研究の方法

●私の、如儡子伝記研究は、これまで、全て〔調査報告〕となっている。これには、1つの理由がある。従来の伝記研究は、伝記関係資料を研究者が収集した範囲で、伝記として纏め上げていた。その収集は徹底したものもあるが、やや中途半端なものものもある。勿論、調査・収集は徹底することが理想である。私も、かつて、井関隆子や鹿島則孝や鹿島則文などの略伝を纏める時、同様の方法を採用していた。しかし、これでは、科学として見た時、適切ではない事に気付いた。その反省の上に立って進めたのが、如儡子の伝記研究であり、〔調査報告〕とした所以である。

■明日不所求

●当然の事ながら、人間には寿命がある。これは、作者も研究者も同様である。故に、歴史上の人物の伝記を志しながら、業半ばにして世を去った人々の何と多い事か。私の伝記研究の方法は、この人間存在のアヤウサにも着目して打ち出されたものである。出来得る限り、客観的な事実を把捉したい。しかる後に、1人の人物の伝記の執筆に取り掛かりたい。しかし、我が命は、明日までかも知れない。ならば、まず、命のある限り、事実の収集をしておこう。さすれば、その事実の記録を後人が利用してくれるかも知れない。まかりまちがえば、調査も自分の思った通りに進み、自分で伝記の執筆が出来るかも知れない。

■伝記資料

我々が過去の歴史上の人物の伝記を作成する場合、さまざまな資料を使う。その場合、重要なことは、伝記資料のランク付けをして、資料批判を加えて、その上で利用すべきであるということである。私はこれまで、井関隆子・鹿島則文・鹿島則孝・鈴木重嶺・飯田龍一など、歴史上の人物の伝記研究をしてきたが、その間に多くの先学の御指導を賜った。その経験と反省から、仮名草子作者・如儡子(斎藤親盛)の伝記研究の方法を模索してきた。

私はかねがね、伝記資料を次のように区分すべきではないかと考えている。

第一資料 過去帳・位牌・墓石
第二資料 本人の作品・著作、自筆の記録類
第三資料 公的記録(幕府の史料、藩の史料、市町村の記録、棟札、地図等)
第四資料 父・子・先祖・子孫・親族・友人・知人等の関連資料
第五資料 軍記・軍書・物語
第六資料 その他

このように区分して、出来るだけ、各々を混合せずに活用するように努力してきた。また、伝記資料は、原資料を出来得る限り、手を加えず、資料全体を写真や翻刻で定着するように努力してきた。「如儡子(斎藤親盛)調査報告」として公表してきたのは、そのためである。出来得る限り、信頼できる資料に基づいて骨格を組み上げ、その他の資料で肉付けしたいと願っている。しかし、これは、言うは易く、実行するは、誠に大変な事で、未だに思うような水準までたどりついてはいない。
fuaki 10年前

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●10年前に、こんなことを書いた。10年経って、調査はようやく、自分の納得する水準まで来た。さあ、纏めよう。

2020年10月13日

如儡子・斎藤親盛の研究 余談

如儡子・斎藤親盛 研究の思い出

  • 2020.09.21 Monday

研究生活の思い出 〔2〕 如儡子・斎藤親盛

目次

一、卒業論文に『可笑記』を選択
二、『可笑記』の章段数――280段か400段か――
三、『可笑記』の諸本調査
四、如儡子の作品研究――『可笑記』・『砕玉抄』・『堪忍記』・『百八町記』・俳諧――
五、如儡子・斎藤親盛の伝記研究
六、伝記研究の方法
七、『如儡子・斎藤親盛の研究』

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●ようやく脱稿して、編集部へ送った。30頁になった。こんな雑文を発表する〔場〕があることに感謝している。

●何しろ、大学の卒論以来の思い出話だから、書き出せばキリがない。私は、一軒の家を建てるつもりで、この人物の研究を重ねてきた。さて、この家は、風雨にさらされて、短時間で消え去るか、それは、私の関知した事ではない。