昭和女子大学 オンライン研修

昭和女子大学 オンライン研修

  • 2020.10.25 Sunday
昭和女子大学・オンライン研修
鶴岡再発見! -先端と伝統文化の魅力発信-

2020.7.22
第3回オンライン研修

こんにちは。
鶴岡再発見!プロジェクトです。
7/17(金)にオンライン研修が行われました。

(オンライン研修の様子)
今回は、出羽三山の山伏である伊藤賢一さん(山伏名:伊藤秀悦さん)のお話を伺いました。
研修中は伊藤さんが実際に羽黒山を歩きながら様々なことを説明してくださいました。
日本遺産である出羽三山では、3つのお山(羽黒山、月山、湯殿山)を回ることで生まれ変わることができます。

今まで神社やお寺に関してあまりよく知らなかったのですが、お話を聞いて古人の力を感じることができました。特に印象に残っているのは、上の写真にもある国宝羽黒山五重塔です。こちらの塔には心柱という柱が1階から5階まで貫いて立っています。この柱のおかげで今まで一度も倒れたことがありません。この免震構造は東京スカイツリーでも使われています。古の力が現代にも使われていることにとても驚きました。

この研修を通して、古の力を感じました。研修を生かして若い年代の方にも興味を持ってもらえるような活動をしていきたいと思いました。

。。。。。。。。。。。。

●私は、この出羽三山の調査を5日間、連続調査した。この山中には、明治以前は、300もの寺があった。それらが全て破却されたのである。明治の神仏分離とういう、愚による。

●研修の学生にも、そこに目を向けて欲しいと思った。

斎藤親盛(如儡子)の研究

斎藤親盛(如儡子)の研究

  • 2020.10.21 Wednesday
斎藤親盛(如儡子)の研究

目次

① 仮名草子研究の思い出――今後の課題と計画――(昭和女子大学 最終講義資料)
②『可笑記』と儒教思想
③斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)
④斎藤親盛(如儡子)の俳諧(中)
⑤斎藤親盛(如儡子)の俳諧(下)
⑥『可笑記』の諸本
⑦斎藤親盛(如儡子)の著作
⑧川北奉行齋藤筑後守広盛の事績
⑨如儡子(斎藤親盛)の父、斎藤筑後守は「盛広」か「広盛」か
⑩平成22年度香川県公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑪平成23年度京都府公立高校入学者選抜学力検査に、仮名草子『可笑記』出題
⑫「齋藤筑後守記念碑」建立
⑬一條八幡神社にあった筑後文書
⑭可笑記の著者について
⑮『如儡子百人一首注釈の研究』 刊行
⑯斎藤家の墓所、第3次改葬
⑰酒田古町名物語り(一)
⑱『東京都道徳教育教材集』に『可笑記』採録される
⑲武士道の系譜(講演)  笠谷和比古
⑳仮名草子研究の思い出(昭和女子大学 最終講義)
21平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

21平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

■平成26年度京都府公立高等学校入学者選抜のための学力検査に『可笑記』が出題された。平成23年に続いて、平成26年度も出題された。

●私は、大学2年の終りの頃、『徳川文芸類聚』でこの作品を初めて読んで、私自身、大変勉強になると思ったし、殊に、その批判的要素には感激した。それで、卒論に選び、以後、ずっとこの作品と作者について研究してきた。この作品やこの作者・如儡子、斎藤親盛は、決して軽く見るべきではなく、日本文学史の上でも、それなりの位置を占めるものと思う。その意味でも、平成23年に続いて、今回も出題されたことに感謝する。今回の出題は、巻3の25段から出題された。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●これは、【近世初期文芸研究会】の中の〔斎藤親盛(如儡子)研究〕の内容である。このサイトを立ち上げた時のメインの内容である。立ち上げたのは、30年も前のことであろうか。

●今日、これを紙の本にしたいと、原稿をまとめた。3600枚である。いずれ、出版されるものと思う。

●大学以来のテーマであり、何と多くの方々の御指導、御援助を賜ったことか。今は、感謝、感謝、の思いのみである。  2020年10月21日 深沢秋男

伝記研究の方法

伝記研究の方法

  • 2020.10.13 Tuesday

。。。。。。。。。。。。

2010-09-30
伝記研究の方法

■伝記研究の方法

●私の、如儡子伝記研究は、これまで、全て〔調査報告〕となっている。これには、1つの理由がある。従来の伝記研究は、伝記関係資料を研究者が収集した範囲で、伝記として纏め上げていた。その収集は徹底したものもあるが、やや中途半端なものものもある。勿論、調査・収集は徹底することが理想である。私も、かつて、井関隆子や鹿島則孝や鹿島則文などの略伝を纏める時、同様の方法を採用していた。しかし、これでは、科学として見た時、適切ではない事に気付いた。その反省の上に立って進めたのが、如儡子の伝記研究であり、〔調査報告〕とした所以である。

■明日不所求

●当然の事ながら、人間には寿命がある。これは、作者も研究者も同様である。故に、歴史上の人物の伝記を志しながら、業半ばにして世を去った人々の何と多い事か。私の伝記研究の方法は、この人間存在のアヤウサにも着目して打ち出されたものである。出来得る限り、客観的な事実を把捉したい。しかる後に、1人の人物の伝記の執筆に取り掛かりたい。しかし、我が命は、明日までかも知れない。ならば、まず、命のある限り、事実の収集をしておこう。さすれば、その事実の記録を後人が利用してくれるかも知れない。まかりまちがえば、調査も自分の思った通りに進み、自分で伝記の執筆が出来るかも知れない。

■伝記資料

我々が過去の歴史上の人物の伝記を作成する場合、さまざまな資料を使う。その場合、重要なことは、伝記資料のランク付けをして、資料批判を加えて、その上で利用すべきであるということである。私はこれまで、井関隆子・鹿島則文・鹿島則孝・鈴木重嶺・飯田龍一など、歴史上の人物の伝記研究をしてきたが、その間に多くの先学の御指導を賜った。その経験と反省から、仮名草子作者・如儡子(斎藤親盛)の伝記研究の方法を模索してきた。

私はかねがね、伝記資料を次のように区分すべきではないかと考えている。

第一資料 過去帳・位牌・墓石
第二資料 本人の作品・著作、自筆の記録類
第三資料 公的記録(幕府の史料、藩の史料、市町村の記録、棟札、地図等)
第四資料 父・子・先祖・子孫・親族・友人・知人等の関連資料
第五資料 軍記・軍書・物語
第六資料 その他

このように区分して、出来るだけ、各々を混合せずに活用するように努力してきた。また、伝記資料は、原資料を出来得る限り、手を加えず、資料全体を写真や翻刻で定着するように努力してきた。「如儡子(斎藤親盛)調査報告」として公表してきたのは、そのためである。出来得る限り、信頼できる資料に基づいて骨格を組み上げ、その他の資料で肉付けしたいと願っている。しかし、これは、言うは易く、実行するは、誠に大変な事で、未だに思うような水準までたどりついてはいない。
fuaki 10年前

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●10年前に、こんなことを書いた。10年経って、調査はようやく、自分の納得する水準まで来た。さあ、纏めよう。

2020年10月13日

如儡子・斎藤親盛の研究 余談

如儡子・斎藤親盛 研究の思い出

  • 2020.09.21 Monday

研究生活の思い出 〔2〕 如儡子・斎藤親盛

目次

一、卒業論文に『可笑記』を選択
二、『可笑記』の章段数――280段か400段か――
三、『可笑記』の諸本調査
四、如儡子の作品研究――『可笑記』・『砕玉抄』・『堪忍記』・『百八町記』・俳諧――
五、如儡子・斎藤親盛の伝記研究
六、伝記研究の方法
七、『如儡子・斎藤親盛の研究』

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●ようやく脱稿して、編集部へ送った。30頁になった。こんな雑文を発表する〔場〕があることに感謝している。

●何しろ、大学の卒論以来の思い出話だから、書き出せばキリがない。私は、一軒の家を建てるつもりで、この人物の研究を重ねてきた。さて、この家は、風雨にさらされて、短時間で消え去るか、それは、私の関知した事ではない。

研究生活の思い出

研究生活の思い出

  • 2020.09.17 Thursday
研究生活の思い出 〔2〕 如儡子・斎藤親盛

 目次

一、卒業論文に『可笑記』を選択
二、『可笑記』の章段数――280段か400段か――
三、『可笑記』の諸本調査
四、如儡子の作品研究――『可笑記』・『砕玉抄』・『堪忍記』・『百八町記』・俳諧――
五、如儡子=斎藤親盛の研究
六、如儡子の伝記研究、伝記研究の方法
七、『如儡子・斎藤親盛の研究』

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●今、こんな雑文を書いている。学生時代を思い出して、実に懐かしい。当時、複写という技術は、一般に普及していなかった。全て、手で書く。コピペ全盛の今から考えると隔世の感がある。

●法政大学図書館、上野図書館、三宅坂図書館、日比谷図書館、早稲田大学図書館。まず読んで、重要部分は書写する。引用に堪えるように、正確に書く。

●作品の原本調査も、日本全国を歩き回った。時間もお金も大変だった。夜行列車を乗り継ぎ、ホテル代を節約したこともある。新幹線や飛行機に乗れるようになり、時間の短縮ができて感謝した。

●原稿も、手書き、ワープロ、パソコン、と変わった。文章作成ソフトは、私は最初からワードのみ使った。現在、大部分の人がワードだろう。

『可笑記』と『甲陽軍鑑』

『可笑記』と『甲陽軍鑑』

  • 2020.09.04 Friday
『可笑記』と『甲陽軍鑑』

近世初期文芸と近世軍書――『可笑記』と『甲陽軍鑑』――
            深沢秋男

1、『可笑記』・『甲陽軍鑑』の成立年と刊行年
2、『可笑記』と『甲陽軍鑑』関係一覧
3、浅井了意の出典の指摘
4、書名「可笑記」の出処
5、浅井了意の『可笑記評判』との関連
6、各章段の分析
 【補注】 当該本文

・・・・・・・・・・・・

   427頁~523頁

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●これは、【17世紀日本における中国・韓国の漢籍受容の分析並びに総合的研究】という共同研究の一部である。

●私は一時、武田信玄の軍記、『甲陽軍鑑』の研究に没頭したことがある。仮名草子『可笑記』の作者が、余りに『甲陽軍鑑』を利用していたからである。如儡子というペンネームしか分からなかった時期は、この作者は、甲斐の武田信玄と関連のある人物ではないかと思た事もあった。

●やがて、如儡子は、出羽の武士・斎藤親盛のペンネームだと分かってきた。近世初期において、『甲陽軍鑑』は、多くの武士たちに読まれていたのである。

推敲、推敲、推敲。

2020.09.01 Tuesday

推敲、推敲、また推敲。

●いよいよ、9月、酷暑の夏も終わり、読書の秋になった。大学の研究者も、あと1ヶ月で、後期が始まる。夏季休暇中の研究成果を纏め上げる時期だろう。この仕事が大変である。纏まらなければ、大学の紀要に投稿できない。論文を書かなければ、学生に対する講義も、何故か充実しない。

●私は、大学を定年退職して15年。85歳になった。この老齢で、こんなに苦しむことは、自分の計画には無かった。定年退職間際に、朝倉治彦先生から依頼された、東京堂出版の『仮名草子集成』が、私の定年後の全ての計画を狂わせた。是非に・・・、学界のために・・・、と頼まれれば、これは、断れない。

●今、本来の自分の著書の原稿の仕上げに取り組んでいる。大学の卒論以来だから、60年近くなる。その間に書き溜めた研究論文・データ記録の総仕上げである。

●一般的な論文は、40枚前後である。ようやく脱稿して、振り返ったら、原稿は、3700枚になった。それでも、削ぎ落して、削ぎ落して、この枚数にしたのである。

●60年の間には、進化もあれば、深化もあり、さらに退化もある。その間の、精粗のある内容をどのように調整するか。推敲、と言っても、一筋縄ではゆかない作業である。老齢になると、忘れっぽくなり、思考の回転も緻密さも劣化する。視野も狭くなる。

●若い頃の原稿に、助けられたり、感心したり、そんな点も少なくない。こんなに苦労しても、果たして、陽の目を見るか、どうか。それは、まだわからない。それが、本の出版の常識である。さて、どうなるか・・・。

2020年9月1日

齋藤豪盛 著 『みちの奥の町工場物語』

齋藤豪盛 著 『みちの奥の町工場物語』

  • 2020.08.30 Sunday
齋藤豪盛 著 『みちの奥の町工場物語』 発刊  
2016.06.09 Thursday●斎藤豪盛氏の自分史 『みちの奥の町工場物語』が完成し発行された。
私も、自分のことのように嬉しい。
●稲栄社印刷の吉田さんと、山形の斎藤さんと、電話で話して、
感謝したり、労をねぎらったり、嬉しい1日となった。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

『みちの奥の町工場物語』
      齋藤豪盛 著

  平成28(2016)年6月10日
      近世初期文芸研究会 発行
       A5判・142頁・非売品
 
 目  次

一、目黒不動尊 …………………………………    5
二、山形に転校 …………………………………    7
三、東洋酒造と酒との出会い …………………    9
四、川崎電気に入社 ……………………………   11
五、結婚、そして独立 …………………………   13
六、日立多賀工場と西宮さんとの出会い ……   15
七、父の死と銀行 …………………………………  19
八、ハイメカと叶内さん …………………………  24
九、ケンタッキーに行く …………………………  26
十、グレイさんとの出会い ………………………  29
十一、 ご迷惑を掛けて済みません ……………  31
十二、 激動の昭和48年 ………………………  33
十三、 ドルショック ……………………………  35
十四、 契約更新 …………………………………  37
十五、 北工業団地の開発 ………………………  39
十六、 オーストラリアGE ……………………  42
十七、 『可笑記』と先祖 ………………………  45       
十八、 上日枝神社 ………………………………  47         
十九、 塗装と組立工場建設 ……………………  49
二十、 中学校のバレーのコーチになる ………  51
二十一、社員旅行 …………………………………  54
二十二、西宮さんと再会 …………………………  56
二十三、能率機械 …………………………………  59
二十四、ジャパックス ……………………………  62
二十五、MCLの誘致 ……………………………  65
二十六、昭和から平成へ …………………………  67
二十七、自動車電話機 ……………………………  69       
二十八、輸出から撤退 ……………………………  71
二十九、塚田さんと通電 …………………………  75
三十、 最初の携帯電話 …………………………  77
三十一、木村先生と天目 …………………………  79        
三十二、神水会 ……………………………………  82            
三十三、振り返ってみて …………………………  84        
三十四、長井の将来と企業誘致 …………………  86
三十五、誘致への具体的提案 ……………………  88
三十六、人生余話 …………………………………  90
  1、アメリカに情報交換の場があった ……  90
  2、キャパシタ ………………………………  92
  3、ボブさん …………………………………  94
  4、ラスベガス ………………………………  96
  5、ハリケーン ………………………………  98
  6、七人の侍 ………………………………… 100
  7、免許皆伝 ………………………………… 102
  8、殿様拝領の釣竿 ………………………… 104      
三十七、終章 ……………………………………… 107           
  [逃げない]
  [媚びない]
  [恐れない]

  附 録 ………………………………………… 109
  一、『世臣伝』 ………………………………… 109
  二、『相生集』 ………………………………… 117
  三、『梅花軒随筆』 …………………………… 120
  四、斎藤家墓所 ………………………………… 121        
  五、「齋藤筑後守記念碑」 ……………………… 126    
  六、斎藤家略年譜 ……………………………… 129
  七、斎藤豪盛氏との出会い … 深沢秋男 … 138
  八、斎藤家系図 …………………………………  巻末   
 
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

口 上

 暗黒の戦中から戦後の混乱期に、我々の年代は、食糧難の時代に生き抜き育てる為にやりくりして時代を乗り切った逞しい母親達の後ろ姿を見て育った。
 亦、男達も、やりきれない敗戦の中に農業は開拓、開墾に汗を流し、工業は軍事工場から転換して、蠢くように、遅々と平和産業に切替えていった。昭和四〇年代になると、戦艦大和を造った技術が大型タンカーになり、電子技術がテレビ、トランジスタラジオになっていった。しかし、大正、昭和の初めの日本製品は外国では粗悪品として定着しており、売り込みは大変だったらしい。私か初めてアメリカに行って知ったのは、戦後、カタログを持参してアメリカ全土を回ったセールスマンである。都会では相手にされず、田舎の奥まで入り込み逆に評価が都会に至るようになって初めてメイド・イン・ジャパンが信頼され売れるようになったそうである。我々、地方にあっても同じ苦労をした。
 今回、筆を取ったのは、置賜地方の昭和の時代の工業の変遷を書き残しておきたいからであった。時代の証人として、私の体験を通じての範囲しか網羅出来ないが少しでも時代の背景を含めてご理解頂ければ幸いです。改めて感じるのは、地方迄、工業が行き渡ったのは 一、ファクシミリの発明、二、宅配便の発達、三、高速自動車道の整備と思っています。起稿に当たり、古い手帳を引っ張り出し記憶の断片を繋ぎ合わせて何とか纏める事が出来ました。只、私には本を出す方法が分からないので、先祖、親盛の作品をご研究して下さっている昭和女子大学文学部名誉教授の深沢秋男先生にお願いしました。先生には快くお引受け頂き発刊に至りました。
 齢、八十歳になり若い時お世話になった先輩諸氏はほとんど幽界に在し、ここに改めまして心よりお礼を申し上げ、併せまして深くご冥福をお祈りする次第であります。
 最後に、ご尽力頂いた深沢先生と出版関係の皆様に衷心よりお礼申し上げます。                                敬白                                                           
                       斎 藤  輝 利
                         諱  豪 盛

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
■斎藤豪盛著『みちの奥の町工場物語』

齋藤豪盛氏を悼む

齋藤豪盛氏を悼む

  • 2020.08.28 Friday
齋藤豪盛氏を悼む

●斎藤親盛(如儡子)の後裔、第13代斎藤豪盛氏が、8月27日、御他界なされた。
享年84歳。

謹んでお悔やみ申し上げ 心から御冥福をお祈り申し上げます

。。。。。。。。。。。。。。。。。


• 2018.10.21 Sunday

斎藤輝利 株式会社 斎藤金型製作所 代表取締役
昭和62年8月6日(1987)

●如儡子・斎藤親盛の、第13代目の御子孫、斎藤豪盛(輝利)氏。

●京都大学名誉教授・野間光辰氏は、1987年4月30日、御逝去。
野間光辰氏の「如儡子系伝攷」は、『可笑記』の作者の伝記研究としては画期的な論文であった。野間氏の御生前中、氏の研究に対して、検討を加えることを、私は、要請され、許されていた。野間氏の御逝去を機に、氏との約束を果たすために、如儡子の伝記研究に着手したのである。

●昭和62年(1987)8月6日、二本松市、松岡寺において、初めて、齋藤豪盛氏とお会いした。以後、齋藤氏の御配慮を頂いて、齋藤親盛(如儡子)の伝記研究を進めることができた。
今、ようやく、『如儡子・斎藤親盛の研究』の脱稿に漕ぎ着けたが、調査段階で、最もお世話になった、齋藤氏の御逝去に接し、心の処し方がわからない。人の世の儚さ・・・。

●私は、研究の手順として、
作品研究 → 作者の伝記研究 → 再び作品研究
このような計画を立てていた。

●私は、伝記研究の方法を検討していたが、従来の方法から脱したいと考えた。

■伝記研究の方法

私も、井関隆子、鈴木重嶺、鹿島則文、鹿島則孝、飯田龍一、等の歴史上の人物の伝記研究では、従来の方法で執筆してきた。しかし、この方法では、科学として考えた時、十分とは思えなかった。そこで打ち出したのが、如儡子の伝記研究の方法である。

•如儡子(斎藤親盛)調査報告〔1〕深沢秋男(『文学研究』67号 1988年6月)
•如儡子(斎藤親盛)調査報告〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』4号 1988年12月 )
•如儡子(斎藤親盛)調査報告〔3〕深沢秋男(『文学研究』68号 1988年12月 )
•如儡子(斎藤親盛)調査報告〔4〕 深沢秋男(『文学研究』70号 1989年12月 )
•如儡子(斎藤親盛)調査報告〔5〕深沢秋男(『文学研究』78号 1993年12月)
•如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔1〕深沢秋男(『近世初期文芸』27号、2010年12月)
•如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』28号、2011年12月)
•如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔3〕深沢秋男(『近世初期文芸』29号、2012年12月)
•如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔4〕深沢秋男(『近世初期文芸』30号、2013年12月)
•如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔5〕深沢秋男(『近世初期文芸』31号、2014年12月)

■伝記資料のランク付け

 我々が過去の歴史上の人物の伝記を作成する場合、さまざまな資料を使う。私は、かねがね、伝記資料を次のように区分すべきではないか、と考えていた。

 第一資料 過去帳・位牌・墓石
 第二資料 本人の作品・著作・自筆の記録類
 第三資料 公的記録(幕府の史料、藩の史料、市町村の記録、棟札、地図等)
 第四資料 父・子・先祖・子孫・親族・友人・知人等の関連資料
 第五資料 軍記・軍書・物語
 第六資料 その他

このように区分して、出来るだけ、各々を混合せずに活用するように努力してきた。また、伝記資料は、原資料を出来る限り、手を加えず、資料全体を写真や翻刻で定着するように努力してきた。「如儡子(斎藤親盛)調査報告」として公表してきたのは、そのためである。出来得る限り信頼できる資料に基づき、これらの資料に資料批判を加えて、これらに基づいて骨格を組み上げ、その他の資料で肉付けしたいと願っている。しかし、これは、言うは易く、実行するは誠に大変な事で、未だに思うような水準までたどりついてはいない。

●ただ、平成30年7月、斎藤家の初代、如儡子の祖父、斎藤光盛の出自を、新潟県東蒲原郡阿賀町赤岩である、と推測する説を提出できたのは、誠に僥倖であった。多くの方々の協力があっての事ではあるが、事実への肉薄を願う執念に対して、天が与えてくれた御褒美だと、思っている。

●さて、斎藤豪盛氏との初対面は、昭和62年8月6日、二本松市松岡の松岡寺であった。初めて、斎藤家の墓所へお参りした。この時、斎藤氏の御配慮で、漆間瑞雄氏、大隈正光氏、渋谷信雄氏ともお会いすることができた。以後、如儡子の伝記研究で、多くの御指導を賜わることになる。
●斎藤氏は、名刺代わりだと言って、二本松から、山形を経て、御自宅の長井市へ案内して下さり、斎藤家の仏壇にお参りさせて下さった。長井に1泊し、次の日は、出羽三山を越えて、日本列島を横断し、鶴岡、酒田まで案内して下さった。酒田では、田村寛三先生を紹介して下った。
●以後、私は、ほとんど毎年の夏休みを利用して、二本松、鶴岡、酒田へ調査にでかけたが、斎藤氏とも何回も調査した。羽黒山の宿坊に一週間泊まって、出羽三山の調査をしたこともある。

●平成27年(2015)6月23日、斎藤氏は、私たち夫婦を招待して下さった。斎藤氏御夫妻と4名で、郡山、松島遊覧、二本松(斎藤家墓所参詣)、蔵王温泉宿泊、米沢、と回って、4名で、往時を語りあった。斎藤氏の奥様は、武家の主婦として、万事控えめではあるが、斎藤氏を全面的に支えておられる。
●仮名草子『可笑記』の作者、如儡子・斎藤親盛の伝記を研究する私にとって、その御子孫の斎藤豪盛氏に出会えたのは、奇跡と言ってもいいことで、30年間にわたって、共に斎藤家の調査を実施できたことに対して、心から、感謝している。

●本年、平成30年12月発行の『近世初期文芸』35号に、斎藤家初代、斎藤光盛の出自に関して、長年あたためてきた新説を提出できるのも、斎藤豪盛氏の協力があったからである。感謝、感謝、また感謝である。

■斎藤家墓所

如儡子、写真

如儡子、写真

  • 2020.08.22 Saturday
如儡子・斎藤親盛、写真

〔1〕神龍山松岡寺(臨済宗妙心寺派)
〔2〕松岡寺豊前(斎藤家奉納の献灯)
〔3〕松岡寺墓地略図
〔4〕改葬以前の墓所
〔5〕第1次改葬後の墓所(昭和44年)
〔6〕第2次改葬工事
〔7〕発掘された墓石の破片
〔8〕第2次改葬後の墓所
〔9〕第2次改葬後の墓所
〔10〕第3次改葬(須賀川斎藤家合祀)
〔11〕松岡寺過去帳表紙
〔12〕松岡寺過去帳、斎藤以伝の条
〔13〕松岡寺位牌 ②
〔14〕斎藤家位牌 ①
〔15〕斎藤家位牌 ②
〔16〕斎藤家仏壇
〔17〕斎藤家仏壇、上段・中談
〔18〕斎藤家仏壇、下段
〔19〕二本松城下図(元禄頃)
〔20〕二本松城下図(文久年間)
〔21〕慶長八年、山口村年貢皆済状(渡辺正一氏蔵)
〔22〕慶長十四年、山口村年貢皆済状(渡辺正一氏蔵)
〔23〕慶長十五年、一条八幡神社文書(斎藤広盛筆)
〔24〕亀ケ崎八幡神社、棟札(伊東家文書)
〔25〕亀ケ崎八幡神社、棟札(大泉叢誌)
〔26〕蕨岡大物忌神社、棟札
〔27〕明暦二年酒田絵図(全体図)
〔28〕明暦二年酒田絵図(部分図)
〔29〕元禄九年酒田惣御町絵図(全体図)
〔30〕元禄九年酒田惣御町絵図(部分図)
〔31〕元禄九年酒田惣御町絵図(部分図)
〔32〕亀崎惣絵図(全体図)
〔33〕亀崎惣絵図(部分図)
〔34〕亀崎惣絵図(部分図)
〔35〕亀崎惣絵図(部分図)
〔36〕亀崎惣絵図(部分図)
〔37〕慶応二年酒田細見図
〔38〕昭和酒田市街図
〔39〕昭和六十三年酒田市街図
〔40〕旧筑後町から亀ケ崎城址を臨む
〔41〕旧筑後町の街並
〔42〕斎藤家総本家系図、巻頭
〔43〕斎藤家総本家系図、第59代、西山吉兵衛の条
〔44〕現在の新潟県東蒲原郡阿賀町赤岩地区
〔45〕現在の斎藤家総本家斎藤吉三氏宅
〔46〕斎藤家位牌
〔47〕下がり藤の紋(高澤等氏、『家紋歳時記』)
〔48〕丸にの紋(斎藤家総本家、斎藤本悦氏直筆の家紋)
〔49〕斎藤家総本家所蔵陣羽織(表)
〔50〕斎藤家総本家所蔵陣羽織(裏)

■鹿島則文氏旧蔵 寛永19年版11行本
■長澤規矩也氏旧蔵、無刊記本
■横山重氏旧蔵、絵入本
■「齋藤筑後守記念碑」