刀剣 本庄政宗

刀剣 本庄政宗
2020.03.17 Tuesday08:59
本庄正宗
   『刀剣大辞典』より、抄出転載させて頂きました。

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本庄正宗(ほんじょうまさむね)

名物 本庄正宗
2尺1寸5分
旧国宝
• 「右馬頭太刀」、「東禅寺正宗」
• 享保名物帳所載
本庄正宗 磨上 長さ弐尺一寸五分半 無代 御物
上杉謙信、景勝兩代の内、侍大将に本庄越前守重長と云者あり、其頃庄内城主を大寶寺と云、其家の侍頭を東禪寺右馬允と申す、然るに越前守庄内の城を責落し安川原と云處に床机に腰掛居たる處、東禪寺右馬允味方の體にて首を提け刀をかたげ来り近々と寄り、重長か兜の鉢を割る、重長手を負ながら右馬允を打留め、右の刀を取る、兜を割たる故か「コボレ」あり、後ち秀次公金十三枚に召上らる秀吉公へ上る、島津兵庫殿拝領、家康公へ上る、御分物にて大納言殿へ進ぜらる、御隠居の砌、家綱公へ上る。
o 御物とは、名物帳が書かれた享保頃には徳川将軍家所有であったことを示す。
• 明治45年(1912年)刊行の「刀剣と歴史」には次のように記載されている。
拵へは慶長頃の物らしく、頭は角 藍革にて巻掛け大菱、鍔は直径二寸の金なり、目貫は丸に桐の紋、絽塗の鞘にて鐺なし、紫の下緒、笄付、いかにも古雅なる拵へである、総丈二尺一寸五分あり。
• 中心大磨上、目釘孔1つ、無銘。

由来
• 上杉家の武将本庄繁長が所持したことにちなむ。
本庄越前守繁景は越後の勇将なり。後景勝、上杉十郎憲景が禄を本庄に与へらる。本庄、出羽の庄内大宝寺義興と戦ひ勝て、二男千勝丸に庄内を与へけり。
本庄、最上、義光と出羽の千安が表にて軍しける時、最上の軍敗北せしに、義光の士大将東漸寺右馬頭、口惜き事に思ひ取て返し、首一つ提て越後の兵に紛れ、繁長を目にかけて、「只今敵の大将を討取て候。実検に入れ奉らん」と言て馬に鐙を合せかけ寄りて正宗の刀を以て胄を打つ。明珍の胄なりしかば筋四ツ切削りたり。繁長、右馬頭を切て落し、首に添て景勝に出したり。刀をば本庄に返し与へられしが、後故有て東照宮の御刀となり、本庄正宗といへるは此刀なり。

来歴
東禅寺勝正
• 天正16年(1588年)8月の十五里ヶ原の戦いにおいて、上杉家の武将本庄繁長が東禅寺城主である東禅寺義長と戦った際の話。
• 東禅寺義長の弟、東禅寺勝正(右馬頭光安とも)が上杉勢のふりをして単身繁長の本陣へ突入し、不意をついて本庄繁長に斬りかかろうと図る。
右馬頭は、数箇度の戦いに、餘多手負ひしが、首一つ取りて掲げ、血刀を振りかたげ、高名仕候間、大将本庄殿へ御目見せんと、味方のふりして、上杉勢の中へ入る
• 途中怪しむものがいたが、味方(越後黒川)のものだと騙したために本庄繁長の装束まで教えてしまう。東禅寺勝正はまんまと本庄に近づき、持っていた首を本庄に投げつけ斬りかかった。しかし逆に本庄繁長と側近達により討ち取られ分捕られてしまう。
時に上杉勢にて咎むる者あり、東禅寺答へて、越後黒川の者にて候といふ、上杉勢誠と心得て、馬上にて、霜色の扇披き遣ひ申され候武者こそは大将繁長にて候と教へければ、東禅寺馬を乗寄せ、敵の大将東禅寺右馬頭を討取ると申し乍ら、歩ませ近づく、繁長實にもと振廻す所へ、持首を、繁長の顔へ打付け、正宗の刀にて、繁長が甲の錣のはづれを切付くる、繁長が吹返を切割り、左の小耳へ切付くる、繁長心得たりと抜合せ切結ぶを、越後勢大勢馳せ重り、遂に東禅寺は、繁長に討取られ候、其刀を取り、首を見れば東禅寺右馬頭なり
• この時勝正の一撃で繁長の兜はこめかみから耳の下まで切り取られ、兜が割られたという。

• この時の様子は、如儡子こと斎藤親盛の記した「可笑記」にも載る。
むかしそれがし、ためしのよろひをおどし候はんとて、註文を仕り、おやにみせ候へば、親の申され候は、ためしのよろひはおもき物にて、汝がやうなる小男の用には立がたし。侍の諸道具は、其身々々に相應して取まはし自由なるがよしとて、其ついでにかたられけるは、汝が母かたの舅、東禪寺右馬頭(東禅寺勝正)つねに申されけるは、運は天にあり鎧はむねに有とて、幾度のかせん(合戦)にも、あかねつむぎの羽織のみうちきて、何時も人の眞先をかけ、しんがりをしられけれ共、一代かすで(かすり傷)をもおはず。一とせ出羽國庄内千安合戦(十五里ヶ原の戦い)の時、上杉景勝公の軍大将本庄重長とはせあはせ、勝負をけつする刻、敵大勢なるゆへに、四十三歳にして打死せられぬ。其時、本庄重長も星甲のかたびん二寸ばかり切おとされ、わたがみへ打こまれ、あやうき命いきられぬとうけ給はりしなり。きれたるも道理かな、相州正宗がきたいたる二尺七寸大はゞ物、ぬけば玉ちるばかりなる刀なり。此かたな重長が手にわたり、景勝公へまいり、それより羽柴大閤公へまいり、其後、當御家へまいり、只今は二尺三寸とやらんにすり上られ、紀州大納言公に御座あるよしをうけ給はり及申候。此右馬頭最期のはたらき、出羽越後兩國において、古き侍は多分見きゝおよびしりたる事なれば、子細に書付侍らず。
斎藤親盛の母方の叔父が東禅寺勝正という関係になる。この当時は紀州徳川家にあったことが記されている。

本庄繁長──┬本庄顕長
 ↑    ├本庄充長
(盟友)  └本庄重長(福島城代)
 ↓
大宝寺義増─┬大宝寺義氏
      └大宝寺義興━━大宝寺義勝(実父は本庄繁長。のち充長)

   (酒田代官・東禅寺城主)
      ┌前森蔵人(東禅寺義長)
      ├東禅寺勝正
      └─妹
        ├───斎藤親盛(如儡子)──斎藤秋盛(二本松藩士)
       斎藤広盛(最上家臣)

本庄繁長

• 分捕った正宗は上杉景勝に献上されたが本庄繁長に下賜された。このころは東禅寺右馬頭にちなみ、「右馬頭太刀」と呼ばれたという。
• また元は三尺八寸(三尺三寸、二尺七寸など諸説あり。)あったものを、景勝が二尺五寸に磨上させたという。
越前を呼び懸け、高名致し候といひながら近寄り、其首を本庄に投付けて、東禅寺右馬頭と名謁り、昔が子の三尺八寸の太刀を以て、本庄が直額をわれよ摧けよと二討つ、本庄、勝つて鍪の緒をしめて、首實驗し居たる故、兜は斬割られず、左方の吹返を斬割り、眼尻より頣かけて切付くる、本庄早く側に横たへたる薙刀を追取り、將机を少しも去らずして、右馬頭をはね倒すを脇より立合ひ右馬頭が起上らざる内に惨殺す、本庄は其儘又首實驗そ首帳を認めさせ凱歌の儀式を執行ひ武名世に高し、右馬頭が刀は相州正宗なり、本庄即ち景勝公へ上る、其後、景勝太閤へ進じ遣され、太閤より又権現様へ進ぜられ、今に紀伊頼宣卿に本庄正宗とて之ある由之を承る、寸長しとて今かね二尺五寸に御磨上げなされたりと聞傳へ候
しかし上杉将士書上などによれば、景勝はその場で正宗の刀を本庄繁長に与えている。景勝が磨上たのが事実だとすると、一度景勝に献上され、磨上たあと再度本庄繁長に与えたことになる。または景勝の命により磨上させたという可能性もあるが、本人の佩用刀でもないものを磨上させるのも不思議な話ではある。
羽柴秀次・秀吉
• その後文禄のころに伏見城築城の際に、本庄繁長は上杉家受け持ちの普請奉行として京都に上るが、経費多く困窮し、やむなく羽柴秀次に金130枚(大判13枚)にて譲渡し、さらに秀吉に献上される。
文禄の末、伏見御城御普請、天下の諸大名働きしに、景勝より人数普請奉行を差登せ、本庄繁長も其中にて、在伏見なりしが、自ら金銀を遣ひ盡し難儀にて、彼の正宗を拂ひに出したるを、本阿弥見て、出来格好、正宗の作には天下第一なりと申上げ家康公へ判金廿五枚に召上らる。
文禄年間は1596年まで。献上する経緯は諸説ある。また秀吉・島津義弘を経ず、直接家康に献上したとの説もある。
島津義弘
のち島津兵庫頭(島津義弘)

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●私は、『可笑記』に記録する、この 本庄政宗の探索をしたことがある。最終的には、アメリカの博物館の調査が必要だと考えるが、実行はしていない。

25歳 → 85歳  文体の落差

25歳 → 85歳  文体の落差

  • 2020.03.14 Saturday
  • 00:39
25歳 → 85歳  文体の落差

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『可笑記』の研究 (卒論)             深沢 秋男
昭和36年12月

はしがき

日本文芸の歴史をながめるとき、 我々はそこに二つの頂点を見出す。そして、それが、古代後期に生まれた平安朝文学と、時代下って徳川治世下の元禄文芸であることはいうまでもない。このように素晴らしい文化的遺産を残した先祖をもつ我々は、それを一つの誇りとしてよかろう。
平安朝散文文学の筆頭とされる『源氏物語』の、あの香り高い美しさと、鋭い人間観照からくる偉大な芸術性は、後世に燦然とその光を放っている。そして、私は後世にこれを越えた作品を多く見出さない。しかし、それでいてなお、そこに何かもの足りなさを感じるのである。そこで、女性として問題になるのは、せいぜい受領階層までであり、宮廷生活の様子は、生き生きと写されているにしても、庶民生活のそれは、須磨 ・ 明石にとどまるのである。このことは、無数の農民たちの苦しみの上に繁栄していた、貴族社会、いわば限られた社会
の中にあって生れたものだけに、致し方のないものであったのであろう。そして、文芸が庶民のものとなるまでには、あの戦乱と仏教的色彩の強い中世を経なければならなかったのである。
来世的 ・ 貴族的な伝統文芸に対して、 現世的 ・ 庶民的な新しい文芸の発生、
それと共に近世は始まるとも言うことができよう。芭蕉 ・ 近松 ・ 西鶴らによって代衰される元禄文芸が、庶民のためのものであった事はいうまでもなく、この意味において、近代文芸の萌芽をここに求めることも、それほど唐突のことではないと思われる。要するに、我が日本文芸史上において、庶民の声が初めて下から突き上げるものとして、この領域に登場してきたこと、それこそ私が近世文芸に目を向け始めた最初の契機であった。
近世初頭にあって、従ってどの文学史にも、必ずその名を上げられていながら、文学的には、あまり高く評価されていないジャンル、つまり仮名草子がまず目についたのは必然的であったと言える。どのようにして来世的 ・ 信仰的 ・ 貴族的要素が、 現世的 ・ 知識的 ・ 庶民的要素に移行し、 近世的性格は形成されたか、 このテーマに対する第一歩が、『可笑記』の作品研究であった。従って当初は 『徒然草』 との対比によって『可笑記』の近世化を考察する予定であったが、予想外に作品が大きく、本文分析の域に止まってしまった。
第1章は、 作者 ・ 作品の成立時期 ・ 諸本など、 調査の段階のものをまとめた。諸本調査は、 時間的余裕を考えて、 当初は省略する予定であったが、 章段数について諸説があり、 そこに大きな差異があったので、 内容への影響を考え、 これを加えることにした。 なお、 歴史的時代背景についても述べる予定であったが、 紙数の関係で省略した。 第二章は本文分析であり。 ここに最も力点をおいたつもりである。第三章に、 他作品との関係を、 狭い範囲内でまとめてみた。第四章は未完成ながらではあるが、 評価を出した。 その後に参考文献と類型性に関する具体的章段とその数などを掲げた。 なお、 文中、 諸研究家の敬称はすべて省略させて頂いた。

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●昭和37年1月10日、245枚の卒論を、法政大学の教務課へ提出した。受付番号は、池森弘道氏が1番で、私が2番。提出後、重友先生の許可を頂いて、教務課に申請し、借り出した。245枚、1字1句、原本通りに書写して、現在まで保存している。

●卒論で書いたものは、その後、適宜、修正を加えて雑誌に発表したものもあるが、未発表のものもある。今回、最後の著書ゆえ、未発表のものも、収録したいものがある。

●そこで、修正を加えながら吟味しているが、〔はしがき〕にある如く、いかにも、勇ましいものである。これを、もう少し穏やかに修正して収録したいと思う。  2020年3月14日

最後の仕事

最後の仕事

  • 2020.01.31 Friday
最後の仕事

●2015年8月、5年前に私は、ネット社会から引退した。その時、ネット社会への置き土産として、次のような書き込みをした。皆様への最後の御報告と思って書き込んだのである。

●実は、いざネットを辞めてみると、何もできない。改めて、菊池先生と息子の御協力を頂いて、細々と再開した。その時、ほとんどの方々と、ネット上の交流はしないことにした。失礼もあったかと思うが、お許し頂きたい。

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最後の仕事

• 2015.08.30 Sunday

• by 如儡子(にょらいし)

●私は、生涯をかけて、仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛の研究をしてきた。しかし、それは、未だ、完了していない。永遠に完了しないかも知れない。それが、人間存在である。万一、完了した場合、内容は、以下の如くなるはずである。

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『如儡子・斎藤親盛の研究』 案

平成27年8月30日    2015年   〔21〕  ▲〔21〕 は、目次改訂の回数

目 次

序 章
はじめに
研究史

第一章 如儡子・斎藤親盛の伝記
第一節 初代、祖父・斎藤光盛
第二節 二代、父・斎藤広盛
第三節 三代、如儡子・斎藤親盛
第四節 四代、子・斎藤秋盛
第五節 五代以後の斎藤家

第二章 如儡子の著作『可笑記』
第一節 作者・成立時期・巻数・章段数
〔一〕作者
〔二〕成立時期
〔三〕巻数・章段数
〔四〕「如儡子」「可笑記」の意味と読み
第二節 諸本
第一項 諸本の書誌
〔一〕寛永六年跋写本
〔二〕寛永十九年版十一行本
〔三〕寛永十九年版十二行本
〔四〕無刊記本
〔五〕万治二年絵入本
〔六〕その他(取合本)
〔七〕写本
第二項 諸本の考察
〔一〕寛永六年跋写本
〔二〕寛永十九年版十一行本
〔三〕寛永十九年版十二行本
〔四〕無刊記本
〔五〕万治二年絵入本
〔六〕その他(取合本)
〔七〕写本
諸本系統図
翻刻・影印本等
注・付記
第三節 典拠
第一項 『徒然草』
〔一〕はじめに
〔二〕使用した『徒然草』のテキスト
〔三〕『徒然草』の注釈書
〔四〕『可笑記』巻一の二段と『徒然草』一四二段
〔五〕『可笑記』巻一の四段と『徒然草』一五七段
〔六〕まとめ

第二項 『甲陽軍鑑』
〔一〕『甲陽軍鑑』の成立年と刊行年
〔二〕『可笑記』・『甲陽軍鑑』関係章段一覧
〔三〕浅井了意の出典の指摘
〔四〕巻一の三十一段、巻三の三十九段の考察
〔五〕その他の関係章段
〔六〕関係章段の考察
〔七〕書名「可笑記」出処
〔八〕まとめ
第三項 その他
〔一〕『沙石集』
〔二〕『十訓抄』
〔三〕『無名冊子』
〔四〕『童観抄』
〔五〕『巵言抄』
第四節 内容 各章段の類型
〔一〕一般人の心得に関するもの
A、学問に関するもの
B、友および人付合いに関するもの
C、恋および婬慾に関するもの
D、貧福に関するもの
E、善悪に関するもの
F、親と子の道に関するもの
G、妻に関するもの
H、慈悲に関するもの
I、その他
〔二〕侍の心得に関するもの
A、日常の心得に関するもの
B、戦に関するもの
〔三〕主君の道に関するもの
A、日常の心得に関するもの
B、法度に関するもの
〔四〕仏教に関するもの
〔五〕儒教に関するもの
〔六〕儒仏に関するもの
〔七〕医道に関するもの
〔八〕説話的なもの
〔九〕身辺雑記的なもの
〔十〕その他のもの

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●前回から5年が経過した。目次改訂も、〔20〕から〔60〕になった。5年間で、40回改訂したことになる。

如儡子・斎藤親盛の研究 目次 案

令和2年1月28日 2020年 〔60〕

目 次

第一章 如儡子・斎藤親盛の伝記

第一節 研究史
一、水谷不倒氏の研究
二、森銑三氏の研究
三、田中伸氏の研究
四、野間光辰氏の研究
五、深沢秋男の伝記研究
■如儡子(斎藤親盛)調査報告(1)
■如儡子(斎藤親盛)調査報告(2)
■如儡子(斎藤親盛)調査報告(3)
■如儡子(斎藤親盛)調査報告(4)
■如儡子(斎藤親盛)調査報告(5)
■如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(1)
■如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(2)
■如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(3)
■如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(4)
■如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(5)
■如儡子の祖父、斎藤光盛の出自

第二節 如儡子・斎藤親盛の伝記資料

一、二本松、松岡寺、斎藤家関係資料
1、松岡寺
2、斎藤家墓所(改葬前の墓、第一次改葬、第二次改葬、第三次改
葬)
3、松岡寺所蔵、過去帳
4、松岡寺所蔵、位牌
5、斎藤家所蔵、位牌
6、斎藤家歴代一覧
7、斎藤家系図
8、〔斎藤家関係資料〕(仮称。現在、伝存未詳)
9、斎藤家縁起詞
【写真】

二、二本松藩関係資料
1、『世臣伝』
2、『相生集』
3、二本松諸資料、『二本松藩新規召抱帳』
4、『梅花軒随筆』
5、『二本松寺院物語』
6、二本松城下図
【写真】

三、如儡子・斎藤親盛、出生の地・酒田関係資料等
1、斎藤筑後関係文書等
2、如儡子・斎藤親盛出生の地・酒田筑後町
一、明暦二年・酒田絵図
二、元禄九年・酒田惣御町絵図
三、亀崎惣絵図
四、元禄以後絵図
五、近代酒田市街図等
六、亀ヶ崎城図
3、斎藤家初代光盛の出自
〔1〕『小川のしからみ』の記録
〔2〕『東蒲原郡史蹟誌』の記録
〔3〕『齋藤家系図』
① 総本家、斎藤吉三氏所蔵『斎藤家系図』
② 分家、斎藤平氏所蔵『斎藤家系図』
③ 総本家、斎藤吉三氏所蔵『藤原 斎藤系図』
〔4〕斎藤家関係年譜・Ⅰ
〔5〕西山日光寺と斎藤家
一、嘉堂照夫氏の研究・1
二、藤島玄氏の記録
三、嘉堂照夫氏の研究・2
四、『先祖三代之功作御記録』斎藤吉三氏蔵
〔6〕阿賀町赤岩区の斎藤本悦家
〔7〕斎藤家総本家家紋「下がり藤」と「丸に」
〔8〕斎藤家総本家所蔵の陣羽織
〔9〕『可笑記』絵入本の挿絵
〔10〕まとめ
〔11〕斎藤家関係年譜・Ⅱ
【写真】

第三節 初代、祖父・斎藤光盛
第四節 二代、父・斎藤広盛
第五節 三代、如儡子・斎藤親盛
第六節 四代、子・斎藤秋盛
第七節 五代以後の斎藤家
1、五代、斎藤富盛
2、六代、斎藤常盛
3、七代、斎藤親盛
4、八代、斎藤邦盛
5、九代、斎藤英盛
6、十代、斎藤徳盛
7、十一代、斎藤一(継盛)
8、十二代、斎藤源覇(興盛)
9、十三代、斎藤輝利(豪盛)
10、十四代、斎藤輝彦(康盛)

第二章 如儡子の著作『可笑記』

第一節 作者・成立時期・巻数・章段数
〔一〕作者
〔二〕成立時期・刊行時期
〔三〕巻数・章段数
〔四〕「如儡子」「可笑記」の意味と読み
1 「如儡子」の意味と読み
2 「可笑記」の意味と読み
第二節  諸本
第一項 諸本の書誌
〔一〕寛永六年跋写本(伝存未未
〔二〕寛永十九年版十一行本
〔三〕寛永十九年版十二行本
〔四〕無刊記本本
〔五〕万治二年絵入本
〔六〕その他(取合本)
〔七〕写本
第二項 諸本の考察
〔一〕寛永六年跋写本
〔二〕寛永十九年版十一行本
〔三〕寛永十九年版十二行本
〔四〕無刊記本
〔五〕万治二年絵入本
〔六〕その他(取合本)
〔七〕写本

諸本系統図
翻刻・影印本等
注・付記

第三節 典拠

第一項 『徒然草』
〔一〕はじめに
〔二〕使用した『徒然草』のテキスト
〔三〕『徒然草』の注釈書
〔四〕『可笑記』巻一の二段と『徒然草』一四二段
〔五〕『可笑記』巻一の四段と『徒然草』一五七段
〔六〕まとめ

第二項 『甲陽軍鑑』
〔一〕『甲陽軍鑑』の成立年と刊行年
〔二〕『可笑記』・『甲陽軍鑑』関係章段一覧
〔三〕浅井了意の出典の指摘
〔四〕巻一の三十一段、巻三の三十九段の考察
〔五〕その他の関係章段
〔六〕関係章段の考察
〔七〕書名「可笑記」出処
〔八〕まとめ

第三項 その他
〔一〕『沙石集』
〔二〕『無名冊子』
〔三〕『童観抄』『巵言抄』

第四項 『可笑記』と先行文献(典拠)

第四節 各章段の内容の類型分類
〔一〕武士の心得に関するもの
A、日常の心得に関するもの
B、戦に関するもの
〔二〕主君の道に関するもの
A、日常の心得に関するもの
B、法度に関するもの
〔三〕一般人の心得に関するもの
A、学問に関するもの
B、友および人付合いに関するもの
C、恋および婬慾に関するもの
D、貧福に関するもの
E、善悪に関するもの
F、親と子の道に関するもの
G、妻に関するもの
H、慈悲に関するもの
I、その他
〔四〕仏教に関するもの
〔五〕儒教に関するもの
〔六〕儒仏に関するもの
〔七〕医道に関するもの
〔八〕説話的なもの
〔九〕身辺雑記的なもの
〔十〕 その他のもの

第五節 『可笑記』に描かれた武士
一、 主君に対する批評
二、 臣下に対する批評

第六節 『可笑記』と武士道――笠谷和比古氏の研究
第七節 『可笑記』と儒教思想
第八節 『可笑記』と仏教思想

【以下略】  まだまだ続く。 未完に終わるかも知れない。

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松田修氏の 如儡子・了意 同一人説

松田修氏 如儡子・了意 同一人説

  • 2020.01.29 Wednesday
松田修氏  如儡子・了意、同一人説

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〔前 言〕

如儡子作「可笑記」、それは仮名草子と便宜的に総称される近世
初期文芸の最も早い光茫の一つであり、爾後の作品の特質と限界を
既に示してゐる点からも、寛永――寛文期を通じての第一の定型で
あった。
仮名草子作家中の第一人者たる瓢水子浅井了意が処女作としてこ
の「可笑記」の批判書「可笑記評判」を著した事は、即ち「可笑記」
をのりこえる事から浅井了意の作家生活を始めた事は、私にとって
始ど象徴的にさへ思はれた。「可笑記」から「可笑記評判」へ、如
儡子から了意へ、この系列はいはゞ常識として私の脳裡に印象づけ
られたのであるが、仔細に両書両者に対する私なりの検討が進むに
つれ、此の常識への疑惑は濃くなつていつた。一つの疑惑に他の疑
惑を呼び起し、その集積するところ、一つの仮説めいたものが、浮
びでてきた。
曰く、如儡子了意は同人なり――この奇矯の説を、実は私自身信
じてはゐないのであるが、腹ふくるる業の言葉にすがり、一応纏め
てみる事にした。
わんざくれ、論文も一つのカタルシスではある。

【以下略】  (『国語・国文』昭和28年4月)

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●67年前に発表された、松田修氏の、如儡子・了意、同一人説は、今や、研究史の上からは完全に消え去った。しかし、松田氏の、

わんざくれ、論文も一つのカタルシスではある。

の思いは、私には、よくわかる。論文は評論ではない。きちんと、証拠を揃えて裏付けなければならない。

●私は、昨年末、「斎藤家総本家所蔵〔如儡子も見た?〕陣羽織」を発表した(『近世初期文芸』第36号)。最初、この、1文のタイトルは、 〔如儡子も見た〕 だった。 初校で「?」を追加した。「論文も一つのカタルシスではある」という、松田氏と同じ思いだった。研究者も、時として、そんな思いに駆られることはある。評論家は、〔困る、困る〕と連呼したりして、自分の直観を表現する。その直観が、事の本質に迫っているからこそ、評論家の存在価値はあるのだろう。

●松田修氏の仮名草子関係の、論文というか、評論というか、これに対しては、私は、ことごとく批判してきた。しかし、松田氏は、晩年の頃、法政大学に勤めて、多くの名講義をされた(私は、拝聴していないが)。

山本周五郎 『可笑記』

山本周五郎 『可笑記』

  • 2020.01.27 Monday

山本周五郎の『可笑記』

●山本周五郎に『可笑記』という随筆がある。新潮文庫の全集に収録されているが、今、絶版で購入できない。

●〔harukaze lab @〕 というサイトで全文が読める。また 〔全文自家製朗読〕では全文を聞くことが出来る。

●山本周五郎は、何故、このようなタイトルの一文を書いたのであろうか。仮名草子『可笑記』と、特に関連があるとも思えない。或いは、山本周五郎は、『可笑記』を読んで、これを「笑いの書」と解釈し、面白おかしい話を書いたのかも知れない。

●『孟子』告子上 に関係するかも知れない。

●〔harukaze lab @〕 より一部掲載する

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可笑記
山本周五郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暴《ばく》

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(例)一|暴《ばく》

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(例)[#「ばせを」に傍点]

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一|暴《ばく》十|寒《かん》という言葉がある、働くのは一日であとの十日は遊んでいるという、つまりなまけ者のことだそうだ。こいつをみつけたときわたしはなんだか自分が当てこすりをくらったような気がして、しかしなんとなくふくらみのある旨《うま》い言葉だと思いさっそく紙に「一暴十寒戒」としたためて床間のまん中へはりつけた。
わたしくらい勤勉なような顔をしてその実なまけ者はあるまい、昔からよく睡眠は四時間でたくさんだとか、ひと月にかならず百枚以上原稿を書くとか、良い演劇や映画はみのがしたことがないとか、またこれから仏蘭西《フランス》語をやるつもりだとか、なにやかやずいぶんと出放題をならべてきた。もっともその時はべつに嘘《うそ》を云《い》うつもりではないので、自分でもたしかにそうする気で云うのだが、それが思うように行かなかったまでのことである、そう云ってもわたしがなまけ者でないということにはなるまいが――。
わたしは地震の翌年からこっち日記帳を六冊あまり書いている。なまけ者のくせによく日記などをつけたものであるとひとは訝《いぶか》しく思うであろうが、なに実はこれを繰ってみるといかにわたしがなまけ者で不勤勉で克己心のない人間であるかということを証明しているにすぎないのだから世話はない。
十年ほど前のある頁《ページ》をひらいてみると、「明日より断行のこと」と筆勢たくましい書きだしで、酒は一週に一度かぎり、当分菜食のこと、午前一時に寝て同じく六時に起床すべしという条目から、二十四時間を半時のあますところもなく読書執筆に精《くわ》しく割り当て、最後に大きく「若《も》しこれを破るときは拳骨《げんこつ》で頭をなぐる可《べ》し」としたためてある。いま見ても筆端に颯爽《さっそう》たる力があって、さぞりきみかえって書いたことだろうと思うが、さらにそれから二三日あとを披《ひら》くと、これまた酔後に書いたとしかみえぬ乱暴な字で「この大馬鹿《おおばか》野郎め」となぐり書きにしてあるという次第なのだ。拳骨で頭をなぐったかどうか今は覚えていない。つまり、――わたしの日記というのは、かような決心と変心とのみじめな記録なのである。
ある日、これから秋までは女色を断つとしたためてあるかと思うと、半月|経《た》たぬところに何やら詫《わ》びごとが書いてあるし、断酒と大きく楷書《かいしょ》で書いて赤い丸がつけてあるのに、明くる日のところには「断酒に囚《とら》わるるは断酒の妄念《もうねん》の俘虜《ふりょ》となるにすぎぬ如《し》かず万杯を挙げて妄念を断たんには」とやってある。
ある年の春、千葉県浦安町の生活がゆきづまって、にっちもさっちもならなくなったとき、東京から古本屋を呼んで貧弱な蔵書をたたき売ったことがあった。百円ちかくの金を手にしたわたしは、この金こそ有効につかわなくてはならぬと決心してふたつの案をたてた。ひとつは永年の望みであった北海道ゆきであり、ひとつはその金をどだいとしてもう一年浦安にいようというのである。わたしはひと晩かかって両案のこまかい計算書をつくった。
わたしの記憶が正しいとすれば、旅行案の方は木賃宿に泊まることから、車中の弁当までちゃんと定めてあったし、後案の方では一日一菜、あとは玄米と梅干しということがいかめしく決定していたと思う。

【中略】

これも浦安にいた時のことだが、ある年の四月につまらぬ原稿があたって五百円ほどもらったことがあった。あらゆる妄念をきりすてて断乎《だんこ》と北海道ゆきをきめ、上京して木挽町《こびきちょう》の恩人山本|翁《おう》を訪ねた。(山本翁はなが年わたしが生活の面倒をみて貰《もら》っている人である)
――玄米を喰べなくともよくなったそうじゃないか。翁は慈父のような頬笑をみせながら云った。
(玄米を炊《た》いて野草を喰っていると報告したのはその年の二月のことであるが、その時はまだ買い込んだ米が二三合減ったきりで、ひと月後わたしが北海道から帰ってみると、その米は全部ちいさな虫に化していた)――しかしわたしは、最もとりすました顔で、
――なに、やはり玄米を喰べます。
と答えた。
さて北海道旅行のことを相談すると、それもよかろうがおまえが金を持つとすぐに遣ってしまうから、ともかく五百円はおれが預かって置こう、旅行費用は百円だけにしてあとは勉学の持久にあてるが宜《よ》い。とてきぱき定めてくれた。
――百円あれば充分です、泊まりは木賃宿にするつもりですし旅中は酒をつつしみますから、持って行っても遣いようがありません、大名旅行をしたのでは勉強になりませんから。
わたしはそう誓言して、百円を手に東京を立った。日記にも書いてあるが、この時のわたしは陸奥《むつ》を遍歴したばせを[#「ばせを」に傍点]のような、貧しく寂《さ》びた旅路をおもい、遊女も雲水もひとつむしろのまろ寝を空想し、一|椀《わん》の麹飯と垢染《あかじ》みた夜具の泊まりを幻に描いていたのである。それにもかかわらず旅が始まるやいなや、「デンカワ五〇オクレ」という電報をつぎつぎと木挽町へ送るしまつになった。そしてひと月後に帰ったときには、預けてあった金がなくなったばかりでなく五十円あまり足をだしていたのである。(なんとしてもこれでは致し方がないではないか)
基督《キリスト》は一日に一度反省せよと教えるが、わたしは昔から二度や三度反省しても間にあわないような状態であった。したがってこの頃はもう自分でもすっかりあきらめができ、ながるるままの自然にまかせているから、日記へ大きなことを書く要もないし、また「この大馬鹿野郎め」と罵《ののし》ることもない。それでもべつに飢死をしないところをみるとありがたく思う。
仏蘭西の小話にこんなのがある、君はなにを煩悶《はんもん》しているのだという書きだしである。
「君が何を煩悶しようと問題はふたつより外《ほか》にない、君は健康か病気か、健康ならば云うことはあるまい。若し病気だとしても問題はふたつだ、その病気はなおるかそれとも死ぬかだ、なおる病気なら文句はないし、死ぬとしたところで問題はふたつしかない、即《すなわ》ち極楽へゆくか地獄|墜《お》ちかだ、極楽へ行くとすればこれまた不服はないであろう。地獄へ行くとしたら、――第一、君はそんなものがあるということを信ずるかね、信じないだろう、それなら結局君にはなにも煩悶はない筈《はず》ではないか」
[#地から2字上げ](「ぬかご」昭和九年八月号)

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底本:「艶書」新潮文庫、新潮社
1983(昭和58)年10月15日 発行
2009(平成21)年10月15日 二十八刷発行
底本の親本:「ぬかご」
1934(昭和9)年8月号
初出:「ぬかご」
1934(昭和9)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ

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麒麟山 〔紅葉〕

麒麟山 〔紅葉〕

  • 2020.01.24 Friday
麒麟山 〔紅葉〕

●昨日、新潟県東蒲原郡阿賀町赤岩の斎藤家総本家の御当主から、すごいプレゼントを頂いた。阿賀町津川の銘酒 麒麟山酒造の「紅葉」である。ケースの箱の上には「丸に」の紋所が入っている。

●仮名草子『可笑記』の著者・斎藤親盛の祖父、斎藤光盛の本貫の探索を開始してから30年、親盛の後裔、齋藤豪盛氏の協力も頂いて、1昨年、ようやくたどり着いた。それが、東蒲原郡西山日光寺辺の齋藤一族だったのである。一族は、やがて、西山日光寺の山岳地帯から、阿賀野川辺の赤岩地区に移動した。武士から農民に降ったこととも関連している推測される。400年前のことである。

●私が、『可笑記』絵入本の、「昔さる人」の背中の紋所「丸に」に注目したのは、何と、学部の卒論の時だった。60年前のことである。それが、研究生活の最終盤の今、大きな展開を見せたことになる。

●ここ、5、6年、私は家庭に縛り付けられて、外出もできず、電車に乗る事もできなかった。そんな状況の中で、新潟県東蒲原郡、阿賀野川沿いの赤岩地区の、齋藤姓、21軒にたどり付いたのである。この齋藤家の分家が、麒麟山酒造を創業された。

●私は酒が飲めない。頂いた銘酒〔紅葉〕は、書斎に飾って、ライフワーク『如儡子・齋藤親盛の研究』の完成を目指したい。この様に恵まれた研究人生は、そうは無いだろう。感謝、感謝、の思いをこめて、取り組んでゆきたい。

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■平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

■平成26年度京都府公立高等学校入学者選抜のための学力検査に『可笑記』が出題された。平成23年に続いて、平成26年度も出題された。

●私は、大学2年の終りの頃、『徳川文芸類聚』でこの作品を初めて読んで、私自身、大変勉強になると思ったし、殊に、その批判的要素には感激した。それで、卒論に選び、以後、ずっとこの作品と作者について研究してきた。この作品やこの作者・如儡子、斎藤親盛は、決して軽く見るべきではなく、日本文学史の上でも、それなりの位置を占めるものと思う。その意味でも、平成23年に続いて、今回も出題されたことに感謝する。今回の出題は、巻3の25段から出題された。

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『可笑記』巻3の25段は、寛永19年版11行本では、次の如くである。
振り仮名は省略した。

▲むかし、弘法大師、諸国を修行有しに、江州すりはりとうげにて、
一人の老翁が、斧を石にあてゝひた物すりまはるあり。
弘法、御覧じて、
いかに翁殿、其斧をすりて、何にし給ふ。
翁答て、
針に仕る。
弘法、からからと、わらひて、
扨、いつの世にか、其をのをすりほそめて、針にし給ふべき。其をのよりは、
そなたの命こそ、はやく、すりへるべけれ。
翁、かしらをあげて、弘法の御かほを、つやつやと、まもり、
なふ御坊、其心中にては、学文成がたし。それ、世間の無常老若、さだめが
たし。其上、事をつとめんに、命期しられざるとて、むなしく、やむべけん
や。さあらば、さいふ法師の修行も、無益成へし。
と云に、弘法、あつと心付給へば、この翁、
我は、是、此山の神。
とて、光をはなちて、飛給ふ。すりはりの大明神、是也、と。


『斎藤親盛伝記資料』 中国から ?

『斎藤親盛伝記資料』中国から ?

  • 2020.01.19 Sunday
  • 23:32
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【非売品・稀少】『 斎藤親盛(如儡子)伝記資料 』深沢秋男 著 近世初期文芸研究会 平成22年 ○江戸初期 文芸 仮名草子 可笑記
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商品數量
:1
起標價格
:3580円
最高出價者
: 無
開始時間
:2020年01月19日 21時43分(台灣時間)
結束時間
:2020年01月20日 21時43分(台灣時間)
拍賣編號
:m330599880
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松岡寺 墓所入口石段補修

松岡寺 墓所入口石段補修

  • 2020.01.15 Wednesday
  • 13:31
松岡寺 墓所入口石段補修

●二本松市の松岡寺の墓所は広大である。本堂に向かって左側にある。羅漢堂を過ぎると、左下に累代御住職の墓所があり、更に石段を登ると、諸家のお墓がある。途中、右手に羅漢堂へ登る石段がある。

●その登り坂の石段(図版の●印)が、風雪によって崩れた。この度、齋藤家、第13代・齋藤豪盛氏はこの石段の補修を寄進された。大変な工事だったと思うが、これからは、お墓参りする方々は、安全に通行できる。

●今日、長井市の齋藤豪盛氏から、補修完了後の写真を頂いた。齋藤家の御先祖様のみならず、松岡寺の墓所の皆さん、喜んでおられると思う。

●私の、如儡子・斎藤親盛の伝記研究は、御子孫、齋藤豪盛氏の御協力が無ければ、ここまで進める事は不可能であった。このような、御子孫にめぐり合えたことを、心から感謝申上げる。


ウィキペディア 【斎藤親盛】更新

ウィキペディア 【斎藤親盛】 更新

  • 2020.01.13 Monday
  • 06:36
斎藤親盛

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

斎藤 親盛(さいとう ちかもり、慶長8年(1603年) – 延宝2年3月8日(1674年4月13日))は、江戸時代前期の武士、文人・仮名草子作者。通称は清三郎。筆名如儡子(にょらいし)。幼名は清三郎、俗名斎藤以伝、法名武心士峯居士。墓は、福島県二本松市の松岡寺(臨済宗妙心寺派)。

概要

斎藤家初代光盛は、越後国、西山日光寺辺(現在の、新潟県東蒲原郡阿賀町払川)の出身と推測される。出羽の国(山形県)に移り、藤島城(山形県藤島町、現在は鶴岡市)の城代を務めたとされている。父は、斎藤家2代広盛。出羽山形藩最上氏家臣、母は東禅寺勝正の妹。清三郎は領内の酒田筑後町に生まれた。藩主の最上家親に近侍して、一字を賜り「親盛」と称した。元和8年(1622年)の最上氏の改易で浪人となり、父と共に、祖父光盛の出身地越後へ行くことになったが、父の急死で、母と共に越後へ行く。やがて江戸に出た。一時、西国大名に仕えたり医師をして生計をたてた。

その高い教養を生かして文学作品を執筆し、仮名草子の傑作『可笑記』で評価を得る。他に『百八町記』や俳諧作品、『砕玉抄』(百人一首の注釈書)がある。また、諸大名を批評した『堪忍記』もある。

万治3年(1660年)に長子の秋盛が陸奥二本松藩主の丹羽光重に仕官したことから、同地に移住して没した。

参考文献

『日本人名大辞典』、講談社、2001年
『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社、1994年

『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』、深沢秋男、近世初期文芸研究会、2010年
『如儡子百人一首注釈の研究』、深沢秋男、和泉書院、2012年
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔1〕深沢秋男(『文学研究』67号 1988年6月)
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』4号 1988年12月 )
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔3〕深沢秋男(『文学研究』68号 1988年12月 )
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔4〕 深沢秋男(『文学研究』70号 1989年12月 )
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔5〕深沢秋男(『文学研究』78号 1993年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔1〕深沢秋男(『近世初期文芸』27号、2010年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』28号、2011年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔3〕深沢秋男(『近世初期文芸』29号、2012年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔4〕深沢秋男(『近世初期文芸』30号、2013年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔5〕深沢秋男(『近世初期文芸』31号、2014年12月)
如儡子の祖父、斎藤家初代光盛の出自 深沢秋男(『近世初期文芸』35号、2018年12月)
典拠管理
WorldCat IdentitiesVIAF: 313456972
カテゴリ: 江戸時代の随筆家山形藩士二本松藩士1603年生1674年没

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●今日、ウィキペディアの〔斎藤親盛〕の項目を、このように更新した。私の研究を盛り込んだのである。

●斎藤家初代、斎藤光盛の出自に関しての、推測を追加した。

1年前の、斎藤親盛伝記研究

1年前の状況

  • 2019.11.26 Tuesday
斎藤筑後守広盛

●FBのコメントから、昨年の研究の状況がわかる。これらの資料を使用して、斎藤家の伝記を執筆した。現在、伝記研究は、ほぼ脱稿した。

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2018年11月26日 13:59 ·
斎藤筑後守関係資料
2018.11.26 Monday

●このところ、如儡子・斎藤親盛の伝記資料の整理をしている。二本松関係の整理が終わって、今、酒田・鶴岡関係資料を再検討している。現役の頃は、毎年毎年、二本松、酒田・鶴岡・藤島の調査に出かけていた。

●昭和63年(1988)8月17日~21日、羽田 → 庄内空港 → 酒田。田村寛三先生とお会いして、一条八幡神社へ。何と、酒田市で車を出して下さった。私は、毎回、あらかじめ、バス路線図を確認して出かけているが、このような御配慮にあずかることもあった。

●一条八幡神社では、如儡子の父、斎藤筑後守広盛の自筆文書を閲覧することが出来た。最初は、明治時代の転写本の閲覧だけという条件だった。この転写本が、極めて忠実なもので、虫損、汚れまで、詳細に写されていた。書写者の歴史史料への認識がすごい。

●宮司の小野宏司氏と、田村先生と、私と、様々話し合ううちに、小野氏は、席を外され、斎藤筑後守の自筆文書を書庫から出して来て下さった。そうして、閲覧を許され、その上、写真撮影も許可して下さったのである。

●これが、如儡子の父の筆跡か。その時の感激は、忘れることが出来ない。私の斎藤親盛の伝記研究は、このような、多くの方々の御高配によって進められたのである。
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