如儡子の後裔

如儡子、斎藤親盛の後裔、豪盛氏

●昨日、昼寝をしていたら電話が鳴った。長井の斎藤豪盛氏からであった。如儡子の御子孫、斎藤家、第13代である。この度の『近世初期文芸』第34号の拙稿「如儡子『百八町記』の考察」が着いたという。しばし雑談、やがて、話題は斎藤家の本貫に移った。二人の間で、この件に話が及ぶと、延々と続く。どちらも、話したいことばかりである。
●斎藤氏は、私と同じ年で、金型工場を経営していて、昨年、自分史『みちの奥の町工場物語』を出した。発行所が、近世初期文芸研究会である。つまり、私が出した。戦後の東北に生きて、自分の道を切り開いた1人の経営者の、見事な姿が、そこにはあった。
●戦後の、北海道、東北、九州・四国などは、首都圏から遠く離れ、とても、文化的には、ハンデを背負っていた。齋藤氏は、東北が活気づいたのは、自動車道路の整備、ファックス、インターネットだと書いている。彼は、そんな中で、いち早くアメリカに行き、大会社・GEと取引契約を結んだのである。まだ、日本の企業が余り進出していない頃だ。斎藤氏は、トヨタの白色のセルシオを愛用している。先祖の斎藤筑後守広盛が白馬にまたがって戦場を駆け抜けた如く、戦後の、山形、長井・福島・鶴岡・酒田・出羽三山などを走り回った。
●私は、野間光辰先生の、如儡子伝記研究の後を受けて、その検証と充実に努力してきた。昭和62年、野間先生が御他界なされ、翌年、私は如儡子の伝記研究を開始した。昭和63年、初めて、二本松の斎藤家の墓所で、豪盛氏とお会いした。それから、斎藤氏の愛車セルシオに乗せてもらって、如儡の足跡を調査・検証し続けてきたのである。
●斎藤氏にとっては、御自分の先祖であり、私にとっては、仮名草子『可笑記』の作者である。お互いに、〔如儡子〕の伝記を知りたいと思う気持ちは、同じだった。だから、1本の電話でも、長くなる。このような、研究の軌跡をたどった私は、本当にラッキーだったし、幸せに思う。そんな、長い電話だった。

酒田・上日枝神社

酒田・上日枝神社
2017.12.21 Thursday

酒田・上日枝神社

●〔好奇心いっぱいこころ旅〕というサイトを見た。酒田・上日枝神社が紹介されいてた。境内に建っている〔齋藤筑後守記念碑〕も紹介されていた。このように、紹介されて、歴史的事実のように、後世へ伝わるのだろう。サイトには、たくさんの写真が掲載されている。

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好奇心いっぱいこころ旅

歴史のこと、町のこと、乗った列車のことなど、好奇心いっぱいで書いています。62歳、まだまだ学ぶことがいっぱいです。

上日枝神社(酒田市浜田)
2017年03月19日 22:17

【祭神】大己貴神、大山咋神、胸肩仲津姫神
上日枝神社の創建は、貞観17年(875)日吉大社(滋賀県大津市坂本)の分霊を勧請したのがはじまりとされます。
当初は酒田港袖の浦に鎮座していましたが、後に亀ヶ崎城内に遷座し、寛永13年(1636)4月に山王堂町から遷座、当初は南に面していました。通称「上の山王ん」として広く市民に親しまれています。
【中略】
齋藤筑後守記念碑があります。

「齋藤筑後守記念碑
 近世初期の戦乱の時代、越後(新潟)から出羽(山形)庄内に移住して活躍した齋藤一族があった。初代光盛、二代広盛、三代親盛と庄内・酒田を中心に活躍した。
 齋藤家初代光盛  越後の出身。出羽の国に移り、庄内の守護、武藤義氏に仕える。天正元年(一五七三)以後、藤島城代となり、多くの戦功をあげた。天正十年頃に三十二歳で没する。
 二代広盛  又十郎、助左衛門、筑後守。最上義光の武将で、亀ケ崎城代の志村光安・光惟父子に仕え、三奉行の一人として活躍した。光惟が没した後、川北代官として志村氏の領地である川北地方の行政にあたった。齋藤助左衛門、齋藤筑後守の名で、年貢皆済状、棟札が多く伝えられている。酒田の筑後町は、齋藤筑後守の屋敷があった場所であるとも伝えられている。妻は東禅寺筑前守の弟、東禅寺右馬守の娘であると思われる。最上家は、元和三年(一六一七)に最上家親が急死し、家中の内紛もあって、同八年に最上五十七万石は近江一万石に転封となる。この時、広盛は最上家を辞して酒田を去る。長年住み慣れた筑後町を後に、妻子を連れて、鼠ケ関を越えて越後へ向かったものと推測される。しかし、広盛は、にわかに病んで、五十五年の生涯を閉じた。
 三代親盛  仮名草子作者。清三郎、号は以伝、筆名・如儡子、法名・武心士峯居士。慶長八年(一六〇三)頃、酒田筑後町にて、広盛の長男として生まれる。幼少から最上家親に側近く仕え、主君から「親」の一字を賜り、「親盛」の名を許された。元和八年、最上家の改易と同時に、父広盛に従って主家を辞し、先祖の出身地・越後に赴くが、やがて江戸へ出て仮名草子作品などの執筆に励んだ。著作に『可笑記』(仮名草子)・『砕玉鈔』(百人一首注釈書)・『堪忍記』(諸大名の批評書)・『百八町記』(三教一致を説いたもの)などがあり、晩年、二本松で詠んだ俳諧も多く残されている。延宝二年(一六七四)三月八日没、享年七十二歳。二本松の松岡寺に葬られた。
 その後の齋藤家  四代秋盛が二本松藩主丹羽光重に召抱えられたため、万治三年(一六六〇)、一家は江戸から福島の二本松に移住した。以後、五代富盛、六代常盛、七代親盛、八代邦盛、九代英盛、十代徳盛と、代々二本松藩に仕えた。齋藤家の子孫は、第十三代豪盛氏、第十四代康盛氏まで絶える事なく続き、現在、齋藤家は山形県長井市に居住し、墓所は、二本松の松岡寺にある。

平成二十三年十月吉日
昭和女子大学名誉教授  深沢秋男 撰文
昭和女子大学講師    承 春先 謹書
齋藤家 第十三代    齋藤豪盛 建立 」

訪問日:2016年9月13日
あとがき:泊まったホテルから早朝に歩いて行った。
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如儡子、斎藤親盛の先祖

如儡子の先祖
2017.12.21 Thursday

斎藤光盛の本貫

●注文していた『越佐叢書』第19巻が、今日、届いた。『津川旧記』『小川のしからみ』が収録されていた。その中に、次のような記録があった。小躍りするような感激である。

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「 斎 藤 氏
 斎藤氏ハ、本姓、藤原藤原秀郷ノ第五子、千常陸奥守トナリ、又鎮守府将軍ニ任ス。 千常ノ第三子、公光相模守トナル。公光ノ第七子、公秀始メテ氏ヲ斎藤卜称シ、後チ剃髪シテ法眼行禅卜称ス。公秀ノ第三子、公資本工頭卜称ス。其子、文郷式部丞卜称シ、其子、光郷兵部少輔卜称ス。光郷ノ次子、朝光伊賀守ニ任セラル。 朝光ノ長子、光季伊賀判官卜称ス。永久中、戦死シ、其末弟、朝長襲ク。朝長ノ次子、光時、光時ノ長子、光重、光重ノ長子、光真、光真ノ長子、光広相襲テ、代々備中国ニ居リ、北条氏ニ事フ。
 元弘元年五月、鎌倉滅ヒ、高時死スルヤ、三弟之ニ殉ス。 後チ光広、弟広則卜与ニ、二子ヲ提テ本荘ニ来リ、西山ニ居ル。建武二年、北条時行ノ鎌倉ヲ恢復スルヤ、芦名氏之ヲ援ケ、遂ニ盛員敗死スルニ至ル。 思フニ、光広ノ来ル、其当時ニアラサル力。
 光広、後チ出テヽ、金上盛泰ニ仕フ。其子、広長太郎卜称シ、弟、将武、小見山孫次郎卜称シ、共ニ金上盛尹ニ仕フ。 広長ノ子、通恒内蔵進卜称シ、金上時敏ニ仕へ、通恒カ子、通隆主計卜称シ、金上盛玄ニ仕へ、通隆カ子、景氏与三左衛門卜称シ、金上盛頼ニ仕へ、其弟、正氏新十郎卜称シ、金上盛姿ニ仕へ、景氏ノ子、正元太郎兵衛卜称シ、金上盛勝ニ仕ヘ、正元カ子、秀一平八ト称シ、金上貞直ニ仕フ。 秀一子ナシ。其弟、秀次ヲシテ襲カシム。秀次カ子、光衡次郎左衛門卜称シ、金上盛信ニ仕へ、光衡カ子、義国文蔵卜称シ、金上盛備ニ仕フ。
 義国、天正十七年六月五日、摺上原ノ戦ニ、主盛備ニ従テ、之ニ殉セリ。 義国カ子、義正、吉右衛門ト称シ、父ト共ニ金上氏ニ仕ヘシカ、金上氏亡ヒテ後チ、西山ニ蟄居シ、其弟、義重、津川ニ住シ、子孫津川ニ在リ。
 義正カ子、近安、西山吉兵衛ト称シ、慶長十二年、西村ノ内、赤岩ヲ開拓シ、之ニ移リ居ル。其子、政則ニ至リテ、又、氏ヲ斎藤ニ復シ、コレヨリ子孫、農トナリ連綿今ニ至ル。」

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●私は、『可笑記』の作者の伝記を作成したいと、調査を続けてきた。この老齢になって、このような記録に出会える幸せを切実に思う。

わが故郷

わが故郷
●昨日のお達者クラブで、クラブの先輩、堀さんとしばらく語り合った。堀さんは、山形・酒田の御出身、私は、如儡子・斎藤親盛の調査で、毎年、毎年酒田に行き、まるで、自分の故郷のように、酒田を思っている。堀さんに差し上げようと、古いブログを一覧したら、こんな記録が出てきた。6年前の出来事である。
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2011-01-04
田村寛三先生を悼む
●今日、長井市の齋藤豪盛氏から電話があった。酒田の田村寛三先生が御他界なされたという。1月2日午後10時、くも膜下出血、81歳だと言われる。

 田村寛三先生の御逝去を心からお悔やみ申し上げます

●先生は、12月3日の『荘内日報』に「川北奉行齋藤筑後守広盛の事績」を執筆して下さった。それを私は12月25日に、齋藤豪盛氏を通して拝見した。酒田市の郷土史研究の第一人者による、齋藤広盛に関する論説である。余人では書くことの出来ない内容である。これを「近世初期文芸研究会」のHPにアップしたいと先生にお願いした。先生は12月30日の御返事で、どうぞ、と許可して下さった。そのお便りの終りで、

「・・・先生との、めぐりあいは、深い因縁のように思われます。そんなに、あわないのに、なつかしい人に思えます。よいお年をおとり下さい。合掌」

と書いて下さった。その3日後に、先生は御他界なされた。
●田村先生に、初めてお会いしたのは、昭和63年のことである。当時、先生は酒田市史編纂室長をされていた。以後、何度も何度も酒田を訪れて、調査を重ねたが、田村先生には、その都度、御指導を賜った。先生のお導きがなければ、如儡子の伝記研究を進めることは出来なかった。この学恩を、どのように謝すればよいのか。伝記を完成させることなのか・・・。
★田村先生の許可を頂いて、「川北奉行齋藤筑後守広盛の事績」の全文を「近世初期文芸研究会」のサイトに全文をアップした。
→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html
■一条八幡神社調査の折の田村先生、右端。正面は、酒田市役所の方で、車を運転してくれた。市は、私の如儡子調査のために、車を出してくれた。

■齋藤広盛自筆と推測される文書

■吹浦大物忌神社調査の折の田村先生

『東蒲原郡史蹟誌』の記録

『東蒲原郡史蹟誌』の記録
●今日、古書店から、『東蒲原郡史蹟誌』が届いた。いかにも、自費出版の、軽装の1冊。しかし、内容は、郷里を愛する情熱に満ちた、著者の人柄があふれるものである。
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 発行所=東蒲原郡教育会、著者=寺田徳明、発行人=石川林益、発行=昭和3年11月、A5判、330頁。
 目 次
  第1編
   1 地位地勢
   2 郡内交通の蹤
   3 本郡郷荘沿革考
   4 本郡領主沿革
  第2編
   〇津川町 〇両鹿瀬村 〇日出谷村 〇豊実村 〇小川村 〇上条村 〇西川村 〇東川村
   〇揚川村 地勢、角島部落、京瀬部落、諏訪峠、鍾馗大神、西村八幡神社、赤岩部落、風穴、阿賀川通、    
    小花地部落、洞照寺、山戸の勝、谷沢部落、龍耕寺、若宮八幡神社、館跡、山嶽
   〇三川村 〇下条村
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●平成5年8月、私は、仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛の御子孫、斎藤豪盛氏と2人で、新潟県東蒲原郡津川、阿賀野を訪れた。この中の、ある集落は、大部分が〔斎藤姓〕だった。しかし、何の手掛かりも証拠もない。

1 斎藤光盛、2 広盛、3 親盛(如儡子)、4 秋盛、5 富盛、6 常盛、7 親盛、8 邦盛、9 英盛、10 徳盛、11 継盛、12 興盛、13 豪盛、14 康盛、・・・・・・

この斎藤家の初代・光盛は、越後から出羽へ移ったというが、その本貫は、越後のどこであろうか。
●如儡子、斎藤親盛の伝記を探究してきて、ほぼ、調査は終えた。が、しかし、初代・光盛の出自がわからない。ここからは、推理小説のような探索になるかも知れない。
●昭和43年5月15日、東京池袋の、江戸川乱歩氏の応接室で、江戸川乱歩氏〔平井太郎氏〕旧蔵、平井隆太郎氏所蔵の『可笑記』寛永19年版11行本を調査した。調査終了後、平井隆太郎氏に、この江戸川乱歩氏旧蔵本の位置付けを御説明申し上げた。平井氏は、まるで、推理小説のようですね、と申された。何事も、真実に肉薄するためには、事実に基づいて、その先は、推測とならざるを得ない。しかし、事実の探究は、ぎりぎりまで、する必要がある。

野間光辰先生

野間光辰先生

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野間 光辰(のま こうしん、1909年11月 – 1987年4月30日)は、日本の国文学者。号は般庵。京都大学名誉教授。専門は近世日本文学で、井原西鶴研究の第一人者。大阪府出身。
来歴・人物
旧制浪速高等学校を経て、1933年、京都帝国大学国文科卒業。1949年、京都大学助教授となり、1951年、教授に昇任した。
実証的な学風で知られ、「刪補 西鶴年譜考證」で1984年、読売文学賞(研究・翻訳賞)を受賞した。日本近世文学会の創設に参画するなど、学界でも指導的立場にあった。
1973年、定年退官し名誉教授、皇學館大学教授を1983年まで務めた。1974年、藤本箕山の『色道大鏡』を刊行した。終生、羽織はかま姿で教壇に立ち、文人の風格を漂わせる名物教授だった。
また、近松門左衛門や滝沢馬琴の研究においても成果を残している。
勲二等受章。1987年4月30日叙正四位。
娘は人形作家の夢童由里子。弟に地理学者の野間三郎、甥にはフジテレビアナウンサーの野間脩平がいる。
主な著書
西鶴新攷(筑摩書房 1948)
西鶴年譜考証(中央公論社 1952)
洛中独歩抄(淡交新社 1967)
日本の旅人 高山彦九郎(京都日記 淡交社 1974)
西鶴新新攷(岩波書店 1981)
初期浮世草子年表・近世遊女評判記年表(青裳堂書店 1984)
近世芸苑譜(八木書店 1985)
近世作家伝攷(中央公論社 1985)
談林叢談(岩波書店 1987)
  【ウィキペディア より】
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●今、私は、野間光辰先生の「如儡子系伝攷」を最終的に拝読している。昭和53年、野間先生から抜刷を頂いてから、何度拝読したことであろうか。と言うよりも、先生の御論文を片手に、如儡子の伝記研究を進めてきた、と言った方が適切である。
●野間先生は「如儡子系伝攷」の中で、
「……如儡子の作品に関心を抱き、進んでその人となりを知らんと欲する研究者に対しては、以下に挙げる資料とその攷証を熟読、吟味・検討を加えられんことを懇請する。」
と述べておられる。私は、抜刷を拝受した時、即座にお手紙を差し上げて、野間先生の御研究を熟読、吟味させて頂き、検討を加えさせて頂く旨を申上げた。先生は、折り返し御返事を下さり、許可を頂いたのである。
●昭和62年、野間先生は、「如儡子系伝攷」を完結されることなく、御他界なされた。そこで、私は、野間先生とのお約束を果すべく、如儡子の伝記研究に着手したのである。

■如儡子(斎藤親盛)調査報告(1) 『文学研究』67号 63年6月
■如儡子(斎藤親盛)調査報告(2)―父・斎藤筑後と如儡子出生の地―『近世初期文芸』4号 63年12月
■如儡子(斎藤親盛)調査報告(3)―『世臣伝』・『相生集』― 『文学研究』68号 63年12月
■如儡子(斎藤親盛)調査報告(4)―二本松藩諸資料― 『文学研究』70号 平成元年年12月
■如儡子(斎藤親盛)調査報告(5)―如儡子の墓所― 『文学研究』78号 平成5年12月
■如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(1)―父、斎藤筑後守は「盛広」か「広盛」か― 『近世初期文芸』27号 平成22年12月
■如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(2)―「如儡子」は「にょらいし」か「じょらいし」か― 『近世初期文芸』28号 平成23年12月
■如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(3)―十五里ケ原合戦と斎藤広盛―『近世初期文芸』29号 平成24年12月
■如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(4)―斎藤広盛と藤島城―『近世初期文芸』30号 平成25年12月
■如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(5)―斎藤広盛、慶長出羽合戦から最上家改易まで―『近世初期文芸』31号 平成26年12月

●野間光辰先生と約束をした、私の伝記研究の方法は、これであった。この方法を発表した当初、この伝記研究の方法が理解できない方々は、不審を唱えた。新しい方法とは、そんなものである。私は、それまでに、何人かの、歴史上の人物の伝記を書いていたが、仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛の伝記では、全く異なる伝記研究の方法を考えたのである。私は、如儡子(斎藤親盛)の伝記は、自分でまとめられなくてもよいと考えていた。しかし、今、どうやら、締めくくりが出来そうな按排である。

■野間光辰先生 ネツトより

日本近世文学会での研究発表

日本近世文学会


第34回 昭和43年6月22・23・24日

会場 熱田神宮文化殿

●延宝期の芭蕉 ……笠間 愛子
一時軒惟中年譜の二、三……上野 洋三
山岡浚明伝略……中野 三敏
天満宮社家の連歌生活 ―御祈?連歌論への試み―……棚町 知弥
暁台と岡崎俳壇……清水 孝之

●『可笑記』の諸本について……深沢 秋男
芭蕉俳文における鼓舞について……井上 敏幸
岸本調和の撰集活動……檀上 正孝
読本と浄瑠璃……井口 洋
●『梅児誉美』の一問題……丸山 茂
南北作『四天王産湯玉川』について……井草 利夫
明治初年の大沼枕山……前田 愛
浅井了意の出自について……野間 光辰
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●私は、重友毅先生の御指示に従って、日本近世文学会で、『可笑記』の諸本に関して発表した。この時、近世文学会に入会したのである。●印の笠間愛子先生、丸山茂先生は、重友門下の先輩である。
●私は2日目のトップに発表した。最後に、浅井了意の出自に関して発表された、野間光辰先生は、発表の冒頭で、私の発表について言及して下さった。また、この時、野間光辰先生、中村幸彦先生、野田寿雄先生、田中伸先生、安藤武彦先生、森川昭先生、谷脇理史先生など、多くの先生方から、温かいお声をかけて頂いた。今も、心から感謝している。

 

乞食・非人への慈悲――『可笑記』論――

●小原亨氏の「乞食・非人への慈悲のありかた―『可笑記』より―」(『人権と部落問題』第905号、2017年11月)を読んだ。この号、特集は「老いて生きる」である。いずれも共感できる内容である。

●さて、小原氏のものは研究随想ともいえる、長いものではないが、『可笑記』の著者、如儡子が、乞食・非人に対する慈悲について、どのような態度であるか、ということを取り上げている。小原氏は『可笑記』巻五の56段の解釈に関して、中尾健次氏の説に疑問を呈しておられる。中尾氏は、「施行一般に対して批判的な意見を持っていたことがわかる」と理解している。これに対して、小原氏は、「これは「慈悲の心ざし」を論ずるために持ち出した例」であると指摘し、この56段全体をみると、慈悲の必要性を説いている、と解釈しておられる。ここは、小原氏の説が妥当と思われる。
●『可笑記』は随筆であり、280段の章段が収録されている。一つの主題に対して、異なる角度から述べていることもあり、全体からみると、異なる事を述べている場合もある。従って、『可笑記』全体の意見が、どうか、と言う場合は、あれこれ、総合して考える必要も出てくる。従って、文学研究以外の分野、例えば、歴史や、今回のように思想などの分野の研究者が、素材として採り上げる場合は注意する必要もある。ただ、思想史から読んだ場合でも、笠谷和比古氏の武士道研究のように、優れた解釈を提出する場合もあって、一概には言えない。
●今回の、小原氏の見解は、よく、章段全体、作品全体を見渡して出されており、私も参考になった。この作品は、今後も、多くの研究者によって、研究され、論じられることを期待している。それだけの内容をもった作品だと思う。今回は、嬉しい研究に出会えた。

■『人権と部落問題』第905号

ふくしまの古典文学

ふくしまの古典文学


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【25】可笑記 斎藤親盛 仮名草子 寛永十九年(1642)
   『徒然草』にならって、日本や唐の国(中国)の故事や自分の見聞を記したもので、仮名草子に共通する教訓的内容となっている。〔以下、省略〕

斎藤親盛 さいとう・ちかもり
  ?~延宝2。山形の最上家臣の家に生まれたが、浪人して武蔵の国(江戸近在か)に住んでいた。その人物を知った二本松藩主丹羽光重が、親盛の子秋盛を召しかかえて以来、二本松に住むようになったらしい。二本松には子孫が現在も在住し、松岡寺には親盛ら一族の墓がある。

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●このようなサイトを見た。


酒田大火

酒田大火
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現場 山形県酒田市
発生日 1976年(昭和51年)10月29日
17時40分頃[1] (日本標準時)
類焼面積 22.5ha
原因 ボイラーの失火
死者 1人
酒田大火(さかたたいか)は、1976年(昭和51年)10月29日に山形県酒田市で発生した大火。この火災で酒田市中心部の商店街約22万5000m2(22.5ha)を焼失した。
概要
1976年(昭和51年)10月29日17時40分頃、酒田市中町2丁目にあった映画館「グリーンハウス」のボイラー室から出火。すぐに観客20名は避難したが当日の酒田市は風が強く、またたく間に隣接していた木造ビルや木造家屋に燃え広がった。火災は西よりの強風(元々酒田市周辺は、日本海から内陸部への風の通り道であり、最大瞬間風速26.7m/sの風が吹いていた[1])によって更に範囲が拡大していく。また、その強風により大量の飛び火や火の粉が発生し、消火活動が思うように進まなかった。
日付が変わった30日の午前3時には火勢は新井田川まで迫ったものの、対岸からの直上放水実施や降雨の影響で延焼を食い止めることが出来たことにより、午前5時に鎮火した。
なお、酒田地区消防組合管内(酒田市・遊佐町・庄内町)の火災発生件数は、1976年が118件だった(2015年は38件)[2]。
【ウィキペディア より】
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●私は、仮名草子『可笑記』の研究をライフワークにしていて、作品研究が一段落して、作者・如儡子の調査にかかった。それが、昭和63年である。最初に如儡子終焉の地、福島二本松の調査から始め、やがて、出生の地山形酒田の調査を開始した。毎年、夏季休暇を利用して、5日間、10日間と酒田へ出かけた。多くの方々の御配慮で調査は進んだが、折々、酒田の大火で、資料が焼失したというお話に出合った。その度に残念に思ったが、その大火が40年前の今日の出来事だった。
●人災・天災で文化は消失し、また、修復の努力で、歴史的事実は後世へ伝承される。私は、この事を考慮して、如儡子の伝記調査を進めた。如儡子出生の地酒田は、私にとっても出生の地のように、大切な所である。
今日は、感慨深い日である。

航空写真
酒田大火による焼失区域周辺の約1100メートル四方を写した航空写真。暗くなっている部分が焼失区域、赤色の丸印が火元となった映画館のグリーンハウス、緑色の丸印が山形地方法務局酒田支局。1976年9月16日撮影。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成  【ウィキペディア より】