庄内藩初代藩主、酒井忠勝公

●今日の荘内日報は、荘内大祭の様子を伝えている。元和8年(1622)8月18日、最上藩57万石は取り潰され、その後に、酒井忠勝が信州松代から庄内へ移った。395年前のことである。
●この時、如儡子の父、斎藤筑後守広盛は、最上家にあって、川北町奉行だったが、この改易で浪人となった。如儡子・斎藤親盛を研究する私は、複雑な思いで、この行事を見つめる。

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「入部行列」を再現 荘内大祭宵祭

荘内大祭「宵祭」の14日、庄内藩初代藩主・酒井忠勝公の庄内入部を再現した「入部行列」が、鶴岡市の鶴岡公園一帯で初めて行われた。甲冑(かっちゅう)武者など約20人の行列が鶴ケ岡城本丸址に鎮座する荘内神社を目指して練り歩いた。

酒井家3代忠勝公が信州松代から庄内へ入部した行列の再現を通して、2022年の入部400年の記念の年に向けて市民の機運を醸成する狙い。荘内神社の創建140周年を節目に今回初企画し、22年まで継続して行う。忠勝公役は酒井家19代目の酒井忠順さんが務め、荘内藩甲冑武者隊、荘内藩砲術隊などで行列をつくった。

甲冑研究家・熱田伸道さん(69)=名古屋市=制作の「金白檀塗」を忠順さんが身に着けた後、大寶館から「いざ出陣」の掛け声で出発。ほら貝の音を響かせながら、公園内、神社参道を通って厳かに練り歩き、荘内神社ではかたばみ太鼓が一行を迎えた。

到着後は式典が執り行われ、荘内神社の石原純一宮司が「遠い江戸時代の入部に思いをはせる行列。多くの方に感謝したい」と式辞。続く来賓あいさつで、酒井家18代当主の酒井忠久さんが「2日間を通して盛大な歴史絵巻が繰り広げられることを期待」、阿部真一鶴岡市商工観光部長が「にぎわいが生まれるとともに鎮魂の季節でもある。入部の長い歴史に思いをはせたい」とそれぞれ述べ、橋本政之鶴岡商工会議所観光部会長(荘内日報社社長)が「入部400年を迎えるこの5年の間に機運を高め、城下町鶴岡をさらに盛り上げる取り組みを進めていきたい」として鶴ケ岡城の再建を例に挙げた。
金色に輝く甲冑を身に着けた忠勝公役の酒井忠順さん(中央)らが395年前の入部を再現。「金白檀塗」は徳川家康公の甲冑がモチーフ
金色に輝く甲冑を身に着けた忠勝公役の酒井忠順さん(中央)らが395年前の入部を再現。「金白檀塗」は徳川家康公の甲冑がモチーフ
2017年(平成29年) 8月16日(水)付け紙面より

父母の心をもって我が心とす

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将棋~つのこの日記
趣味の将棋に関する日記です。初心者ですが毎日コツコツ頑張っています!

 

如儡子 より 名言
2013年03月04日(月)

父母の心をもって我が心となし、父母の体をもって我が体とせよ

如儡子(にょらいし)/斎藤親盛(さいとう ちかもり)・・・仮名草子作者。
[出典] 可笑記(かしょうき)

「可笑記」いまでは、なかなか手に入りにくくなりましたね~あせる
そういえば、国立図書館にありますが・・・
原本は、いい味でてるけど、読めないや(笑)

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●このようなサイトに出合った。これは、『可笑記』の、巻1の15段。

▲むかしさる人の云るは、
大聖孔子のをしへに、父母を持たる人は、遊山なぐさみの
ため斗に、遠くへゆき、日をかさねて、あるくべからず。
其しさいは、我いたづらに、とをく父母に立へだゝり、
日をかさねて、つかへず、ぶさたをいたす、かなしさよ。
もし、此うちに、父母の身命に、いかなる大事の出来んも、
しらず。又、いかなる用のあらんも、おぼつかなしと。
大切に、思ふのみならず、父母の、我をみたし、われに、
あひたし、心元なし、と、いかばかり、あんじ給ふらめ
と、父母の心をもかへり見べし。
されば、父母の心をもつて、我心となし、父母の躰をもつ
て、我躰とせよと、あるをや。
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●自分の父や母を、尊敬して生きることが出来れば、それは幸せな人生だろう。私は7人兄弟の末っ子ゆえ、何時までも母のもとにいた。意を決して東京へ出た次の年、母は他界した。65歳だった。体全体から力が抜けた。葬儀に帰るため、都電に乗ったが、力が出ず、乗り口のステップがあがれない。車掌さんが、どうしたの? と手をかしてくれた。
●次の年、私は大学へ入った。目標は、当時の日記を見ると、〝母のような人間になるため〟と書かれている。母は、無学で字も書けず、読めもしなかった。選挙の時は、私が平仮名で教えた。しかし、葬儀の時、村の長老から呼ばれて、「秋男さん、この香典の総額は、これまでの村の女性では最高額だよ、よく覚えておきなさい」と言われた。母は、そのような生き方をしたのである。死んだ時、人々から惜しまれるような人間になりたい、それが、学問をする、根本の目標だった。
●父母の生き方を、我が生き方とする。如儡子は、『礼記』に拠って、孔子の教えを易しく伝えた。

■将棋~つのこの日記

江戸初期の「うきよ」――『可笑記』と『浮世物語』

●内藤正人氏は『うき世と浮世絵』第3章の中で、次の如く述べておられる。

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3 「浮世絵」誕生の軌跡

江戸初期の「うきよ」――『可笑記』と『浮世物語』

これまでに、わが国における「うき世」の語のおもな用例を点検し、その意味するところの時代ごとの変遷や、ときに行きつ戻りつしながらも、しだいに新たな「浮世」へと導かれていく経緯を辿ってみた。「うき世」の語が平安期から鎌倉・室町にあっては、和製の「憂うべき世」の意が強かったこと、またその多くが仏教に説かれる無常観を中心に据えるものであったことなども、その歴史的経緯からは論じることが可能であろう。またこれらを概観することによって、そもそも「うき世」の語の定義は複雑でかつ多岐にわたっており、性急に単純化しすぎて無理やり型に押し込めることも難しいことがわかる。
ただし、時代がいよいよ近世の段階を迎え、桃山期を経て本格的な江戸時代へと入ると、新しい浮世観はいよいよ定着をみることになり、時代の思潮ともあいまってその輪郭線をくっきりと浮かび上がらせるようになる。
ここからは、近世江戸期の新しい浮世観について、やや詳しくみていくことにしよう。

寛永十九(一六四二)年季秋(九月)に刊行された如儡子の『可笑記』は、随筆風の仮名草子、すなわち、江戸初期に仮名交じりで書き著された小説である。御伽草子の系譜を引くこの小説は当然庶民文学であるものの、物語のほかにも随筆、評論などを含み興味深い形態を示している。作者の如儡子は斎藤親盛という山形藩主最上家の元家臣で、浪人経験もある彼が現世を冷めた目でとらえる感覚が、文章全体に漂っているのが注目される。
東北の酒田出身で、のちに江戸暮らしも経験した作者が浪人中に書いた文章、ということでも関心をそそるが、知識階級である武士がしたためた本書には、混乱する江戸初期の世相と揺れ動く筆者の思想も見え隠れしている。そうした性格付けの可能な本書だが、そこには江戸初期の「浮世」概念の定着ぶりがう
かがえる。

「可笑記 愚序
「蒙窃愚性を念じ、妄体をくわんずれば、あきじりめくら、おつしもむもうのごとし、其の磧礫にならつて、玉渕をうかゞふ事なければ、驪竜の蟠ところをしらず、たゝうき世の波にたゝよふ、一瓢のうきにういたる心にまかせ、よしあし難波入江のもしほ草、かきあつへたる海士のすさみ、猿猴が月を望ミ、ゑのこが塊を追に似たり、まことに傍観の巻爾掌をあハせん事必せり、かるがゆへに此草案をなづけて、可笑記としかいふ」
(『可笑記大成』笠間書院、一九七四年)

憂世でもあり、また当世でもある実際の現世をあらわすこの「うき世」観は、江戸草創期の寛永期の重要な用例でもあるが、これが次に紹介する都の僧の著述で、さらに大きく展開することになる。
寛文前期に刊行された仮名草子『浮世物語』の序文には、著者である浅井了意が草した有名な章句がある。ちなみに、浅井了意(慶長十七(一六一二)年―元禄四(一六九一)年)は都出身の浄土真宗の僧で、仮名草子の作者としてもよく知られた人物である。
浮世房なる主人公の一代記を通じて、その当時の享楽的な社会風俗を描写するこの小説の序には、以下のようにある。

一 浮世といふ事
今はむかし、国風の哥に、いな物ぢや、こゝろはわれがものなれど、まゝにならぬはと、たかきもいやしきも、おとこも女も、老たるもわかきも、皆うたひ侍べる。思ふ事かなはねばこそ、うき世なれといふ哥も侍べり、よろづにつけて、こゝろにかなはず、まゝにならねばこそ、浮世とはいふめれ。沓をへだてゝ、跟を掻くとかや、痒きところに、手のとゞかぬごとく、あたるやうにして、ゆきたらず、沈気なものにて、我ながら身も心もわかまゝにならで、いな物なり。まして世の中の事、ひとつもわか気にかなふことなし。さればこそうき世なれといへば、いや、その義理ではない。世にすめば、なにはにつけて、よしあしを見きく事、みなおもしろく、一寸さきは闇なり。なんの糸瓜の皮、思ひをきは、腹の病、当座〳〵にやらして、月雪花紅葉にうちむかひ、哥をうたひ酒のみ、浮にういてなぐさみ、手まへのすり切も苦にならず、しづみいらぬこゝろだての、水に流るゝ瓢箪のことくなる、これを浮世と名づくなりといへるを、それ者は聞て、誠にそれ〳〵とかんじけり。」
(寛文五(一六六五)年ごろ刊(『浅井了意全集』仮名草子編一、岩田書院、
二〇〇一年))

ここに説かれるのは、現実的であり、かつ現世謳歌的な上方の町人たちが主導的立場を担いながら、浮世そのものを肯定する、という思潮である。作者である浅井了意は、あの『可笑記』を踏まえた『可笑記評判』という著述も遺しており、このため前述した如儡子の浮世観を受け継いだ可能性も決して少なくはないと思われる。
しかも、小説の表題に「浮世」の語を登場させるこの『浮世物語』が寛文前期ごろに書かれたことは、ひときわ重い意味をもつ。おそらくこの書名の時代前後から「浮世」観が近世的に再定義され、浮世の語がいよいよ定立化の方向へ歩んでいくことになるのである。そしてそれがひいては浮世絵、浮世草子など多くの用語誕生にも繋がっていく、とも考えられるからである。
考えてみれば、慶長八(一六〇三)年から出雲の阿国が風流踊、ややこ踊などを発展させて歌舞伎踊を創始し、その興行を大々的におこなったのは、北野社や四条近辺であった。つまり、都こそが阿国歌舞伎や、それを模倣した遊女歌舞伎と呼ばれる初期歌舞伎の故郷であり、都びとたちの圧倒的な支持がその成長を見守ったのである。歌舞伎はその後遊女歌舞伎から、若衆歌舞伎、そして野郎歌舞伎へと変貌を遂げ男性のみで演じられる芝居となり、まさに若衆、浪人たちで溢れる男性都市に相応しい荒事芸として、江戸の地で江戸歌舞伎全盛の礎を築きあげていく。今日では、ともすれば江戸文化の代表とさえみられるこの歌舞伎も元来都生まれであったことを思えば、これまでみてきた浮世観、あるいは浮世絵も、そもそもは京・上方の文化が産み落とした卵があって、後年それが江戸の地で孵化、成長を遂げて全盛を迎えたことを、今更ながらもしっかりと追認しておく必要があるのである。
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●「憂世」→「浮世」は、「中世」→「近世」と、そのように把握して、これまで過ごしてきた。私は、そこに惹かれて近世初期を専攻した。仏教から儒教へ、という図式も同様である。それは、大筋では誤りではないにしても、その学問的裏付けは、十分ではなかった。内藤正人氏は、それを実証的に検証してくれた。
●近世初期の、現世肯定、人間重視の近世的思潮の潮流の中で、如儡子の『可笑記』も、了意の『浮世物語』も生れた。内藤氏が使用されたテキストは、いずれも、私の編著であり、校訂したものである。これもこれに合わせて、とても嬉しい。研究していて、よかった、そのよう思う。

■『可笑記大成』笠間書院

『百八町記』の研究史

●私は、如儡子研究を卒論に選んで、ここまで追究してきた。この『百八町記』は、初期の頃から読んでいたが、内容が単純なようでありながら、実は、仏教思想の処理がとても難しい。ついつい、後回しになり、最後に残ってしまったのである。

●この作品の諸本調査は、昨年、『近世初期文芸』第33号に報告した。個人的な事情で、思うように調査できなかったけれど、まず、実状は解明できたと思う。東京大学図書館蔵無刊記本に関しての疑問を残すが、諸本は、次の如く分類できる。

1、 無刊記本
2、 寛文4年5月、中野道伴版
3、 刊年未詳、中川茂兵衛・中川弥兵衛版
4、 寛文4年、銭屋三良兵衛版(儒仏二教水波問答)

●近代に入ってからの、この作品の研究をひとわたり見ると、余り進んでいなかった。何しろ、文学としては魅力に乏しい作品である。

① 潁原退蔵氏「仮名草子の三教一致的思想について」
昭和12年11月30日
② 鈴木 亨氏「『百八町記』の考察」
昭和46年1月
③ 野間光辰氏「如儡子系伝攷」
昭和53年12月
④ 千葉真也氏「『百八町記』の典拠について」
昭和57年3月
⑤ 青山忠一氏「百八町記」
平成11年2月28日

●潁原退蔵氏以下、いずれも力作・労作であるが、中でも、千葉真也氏の典拠の解明は画期的で、この論文によって、如儡子の著述の背景が解明された。次に、青山忠一氏の労作は、ただただ、敬服するのみである。青山氏は、紙数に気兼ねする事無く、100頁の大論文を執筆しておられる。逐条的に、この作品に真正面から向き合って、分析・解説・批評・評価しておられる。
●私は、野田寿雄先生の、第一期・仮名草子研究会に参加させて頂き、この会で、青山忠一先生から多くの御指導を賜った。特に仏教的な諸問題に関しての、お説は、今も有り難く感謝している。

 

如儡子と『百八町記』

●如儡子・斎藤清三郎は、慶長19年(1614)最上藩主・家親に近侍し、元和3年(1617)元服、主君・家親より、一字を賜り、「親盛」と称した。元和8年、山形藩57万石は取り潰され、親盛は、父・広盛と共に浪人の身となる。

●寛永6年(1629)『可笑記』執筆開始。同13年成る。同19年初版刊行。
●寛永18年、百人一首注釈書『砕玉抄』成る。
●正保2年(1645)『堪忍記』松平文庫本成る。
●承応4年(1655)『百八町記』序成る。
●寛文4年(1664)『百八町記』刊行。
●延宝2年(1674)3月8日没、72歳か。二本松・松岡寺に葬る。法名、武心士峯居士、俗名、以伝。
●斎藤親盛は、浪人の身となって、すぐ『可笑記』の執筆に着手した。それまで、酒田の地で蓄えた知識を全開させて、現実批判を展開した。続いて、さる田舎人〔おそらく、酒田時代の友人・後輩だろう〕の要請を受けて、『百人一首』の注釈にとりかかった。これ以上、易しい、注釈書は、他に無いだろう。親盛の啓蒙思想は、中途半端ではない。
●続いて、斎藤親盛は、110名の諸大名の知行高などを記した資料を見ることができたらしい。すかさず、その諸大名の素行や品性についての寸評を加えた。浪人の立場からする、批評は、自分の体験も加わったか、厳しいものであった。
●次に着手したのが、三教一致思想を主張する『百八町記』であった。これには、如儡子も苦しんだらしい。序を書き上げてから刊行まで、10年の歳月を費やしている。

 

薪つき減なん跡の思ひ出とこのもとことにのこすことの葉

身はかくて死すとも此書みん人の智恵の鑑の影は離れじ

如儡子は、この著作の巻五尾題の後に、この二首の歌を添えて筆を置いている。この世を辞する著者の真情が伝わってくる。

■『百八町記』原本

高校入試問題

●〔中学からの作文・論文〕というサイトに、 高校入試問題の出典が出ている。その中で、『可笑記』を、静岡県と香川県が出題していた。他に、京都府でも2回出題された。


古文1  宇治拾遺物語
古文2  遠野物語
古文3  徒然草
古文4  遠野物語
古文5  徒然草
古文6  奥の細道
古文7  伊勢物語
古文8  遠野物語
古文9  奥の細道
●古文10 可笑記
古文11 沙石集
古文12 仮名世説
古文13 今物語
古文14 宇治拾遺物語
古文15 遠野物語
古文16 御伽物語
古文17 遠野物語
古文18 徒然草
古文19 浮世物語
古文20 徒然草
古文21 江談抄
古文22 古今著聞集
古文23 沙石集
古文24 落栗物語
古文25 発心集
古文26 近世畸人伝
古文27 太閤記
古文28 落栗物語
古文29 草双紙
古文30 北越雪譜
古文31 古本説話集
古文32 公益俗説弁
古文33 宇治拾遺物語
古文34 沙石集
古文35 年々随筆
古文36 宇治拾遺物語
古文37 軽口御前男
古文38 続古事談
古文39 伊曾保物語
古文40 古今著聞集
古文41 堪忍記
古文42 落柿舎ノ記
古文43 花月草紙
古文44 今物語
古文45 発心集
古文46 仮名世説
古文47 徒然草
古文48 沙石集
古文49 宇治拾遺物語
古文50 徒然草
古文51 十訓抄
古文52 徒然草
古文53 古今著聞集
古文54 花月草紙
古文55 長崎夜話草
古文56 閑居友
古文57 十訓抄
古文58 古本説話集
古文59 徒然草
古文60 落栗物語
古文61 唐物語
古文62 東関紀行
古文63 花月草紙
古文64 奥の細道
古文65 奥の細道
古文66 当世手打笑
古文67 梅園叢書
古文68 徒然草
古文69 与謝蕪村集
古文70 枕草子
古文71 年々随筆
古文72 古本説話集
古文73 宇治拾遺物語
古文74 かの子はなし
古文75 伊曾保物語
古文76 常山紀談
古文77 伊曽保物語
古文78 耳嚢
古文79 唐物語
古文80 梅園叢書
古文81 醒睡笑
古文82 排蘆小船
古文83 道ゆきぶり
古文84 古今著聞集
●古文85 可笑記
古文86 十訓抄
古文87 連歌比況集
古文88 呂氏春秋
古文89 御伽草子集
古文90 徒然草
古文91 一休ばなし
古文92 十訓抄
古文93 徒然草
古文94 沙石集
古文95 沙石集
古文96 枕草子
古文97 続古事談
古文98 世説新語
古文99 今昔物語集
古文100 御伽草子
古文111 今昔物語集
古文112 沙石集
古文113 今昔物語集
古文114 大和物語
古文115 沙石集
古文116 古本説話集
古文117 軽口露がはなし
古文118 折々草
古文119 浮世の有様
古文120 今昔物語
古文121 たはれ草
古文122 宝物集
古文123 沙石集
古文124 堪忍記
古文125 徒然草
古文126 沙石集
古文127 筆のすさび
古文128 重ねを賀す
古文129 浮世物語
古文130 沙石集
古文131 古今著聞集
古文132 平家物語
古文133 花月草子
古文134 花月草子
古文135 月夜の卯兵衛
古文136 故事談
古文137 醒睡笑
古文138 注好選
古文139 おくの細道
古文140 江談抄
古文141 今昔物語集
古文142 花月草子
古文143 発心集
古文144 古今著聞集
古文145 沙石集
古文146 大和物語
古文147 おくの細道
古文148 伊曾保物語
古文149 正法眼蔵随聞記
古文150 落栗物語
古文151 正法眼蔵随聞記
古文152 ささなみ筆話
古文153 伊曾保物語
古文154 今物語
古文155 露休置土産
古文156 常山紀談
古文157 枕草子
古文158 露休置土産
古文159 徒然草
古文160 撰集抄
古文161 俊頼髄脳
古文162 古本説話集
古文163 日本霊異記
古文164 正法眼蔵随聞記
古文165 紀行かたらひ山
古文166 宝物集
古文167 花月草子
古文168 沙石集
古文169 発心集
古文170 たはれ草
古文171 徒然草
古文172 沙石集
古文173 堪忍記
古文174 宇治拾遺物語
古文175 御伽草子集
古文176 古本説話集

出羽三山の廃仏

●荘内日報に、出羽三山の散逸した仏像を収集したことが報じられている。

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神仏分離で散逸の仏像250体一堂に 出羽三山神社「羽黒山千佛堂」完成

羽黒山頂にある出羽三山神社(宮野直生宮司)参集殿脇に出羽三山の神仏習合時代の歴史を伝える仏像約250体を納めた「羽黒山千佛堂」が完成し10日、現地で竣功(しゅんこう)式が行われた。酒田市の収集家が1974年に同神社に奉納したもので、これまで出羽三山歴史博物館に安置されていた。竣功式は神道と、仏式の羽黒山法楽が融合した形で執り行われ、信仰の山としてのさらなる発展に祈りを込めた。

1868(明治元)年に神仏分離令が発令されるまで、神道と仏教が共存する「神仏習合」の信仰が受け継がれてきた。羽黒山中には多くの寺院があったが、神仏分離令によって寺は弾圧を受け、仏像仏具は羽黒山を下り散逸した。

日本最古の木造灯台である酒田市の日和山公園にある六角灯台などを手掛けた大工棟梁で信仰心のあつかった故佐藤泰太良氏が散在した仏像群を個人的に収集。1911(明治44)年に自宅敷地に土蔵の収蔵庫を「千佛閣」と名付けて安置。その後、ひ孫に当たる完司さん(68)=酒田市日吉町=が同神社に奉納し、出羽三山歴史博物館で安置してきた。

同博物館は冬期閉館となるため、より多くの人に神仏習合時代の仏像群を拝観してもらおうと新たなお堂の建設を計画。昨年秋に着工し、参集殿と霊祭殿の間に木造平屋建て高床式、床面積99平方メートルの建物を建設。羽黒山内の杉材を多用し、3つの建物は渡り廊下で結んだ。総事業費は7000万円。

この日の竣功式は明治以降初めてとなる神道と仏式の両方で行われ、神社関係者の他に羽黒修験法を受け継ぐ天台宗の羽黒山荒澤寺・正善院の島津慈道住職、金剛樹院の島津玄真住職らが参加。古くは平安後期作の大小さまざまな安置された仏像を前に、神式では祝詞奏上に続き玉串拝礼、仏式では般若心経の読経が響き参加者全員が焼香するなど、厳かに行われた。

完司さんは「仏像は多くの方に手を合わせていただいてこそ存在意義がある。独立した堂を建てていただき大変ありがたい。大勢の方に拝んでいただきたい」と話していた。

千佛堂の拝観は無料。仏像には県・市指定有形文化財も含まれている。
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明治の神仏分離で神社となった。1873年(明治6年)に国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において、伽藍・文物が徹底的に破却された。その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれた。旧社格は月山神社が官幣大社、出羽神社・湯殿山神社が国幣小社である。戦後、神社本庁の別表神社となった。【ウィキペディア より】
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●私は、出羽三山の神社を調査したことがある。5日間、手向の宿坊に泊り込んで、山内の寺社を調査した。最長老に面会させて頂き、その紹介状を持参して、多くの方々にお会いし、御配慮を賜った。
●仮名草子作者、如儡子の叔父は、羽黒山神社の警備の責任者だった。如儡子は、幼少期から、叔父の配慮で羽黒山内の寺社に所蔵されていた資料を閲覧することができたのではないか、そんな予測のもとで調査したのである。
●調査開始後、判明したことは、明治の初めに行われた、廃仏毀釈の愚行の痕跡だった。山内の至る所に石碑が転がっていた。300とも言われる寺が取り壊されたと言う。全国に分散してしまった貴重な資料を調査するのは、不可能に近い。
●今回、神仏分離で散逸した仏像250体が集められたというニュースを見て、感激とともに、嘆息がもれる。

■「羽黒山千佛堂」

酒田 上日枝神社

●酒田市の歴史散歩で、上日枝神社を廻ったと、報告されている。この神社の境内に建立された「齋藤筑後守記念碑」は、まだ、市民の皆さんに十分に受け入れられていないようであるが、あと、50年、100年も経過すれば、この神社に熱心にお参りした、戦国武将、齋藤筑後守広盛のことが、歴史上の出来事として、伝えられるだろう。

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ぶら探酒田 第4回「ここにもあった!知る人ぞ知る物語!」 その2「上日枝神社→天正寺」[山形県酒田市・2015/9/12]
平成27年9月12日ぶら探酒田 第4回「ここにもあった!知る人ぞ知る物語!」

続いては「上日枝神社」へ

寛永13年(1636)、亀ヶ崎城より現在地に移された。
通称「上の山王さん」として広く市民に親しまれている。

こちらが「上」、日和山のが「下」と呼ばれているのは、
こちらが「殿様」の、日和山のが「大衆の」神社であった事に由来しているとか。
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東京都道徳教育教材集に『可笑記』

東京都道徳教育教材集に『可笑記』

徳育科の実際 徳育科 わたしたちの道徳・東京都道徳教育教材集との関連

<3・4年生における礼儀に関わる指導の扱い>
1 文部科学省「わたしたちの道徳」(例:小学校3・4年生)
【だれに対しても真心をもって】
●礼ぎで通い合う心
●礼ぎ名人を目指そう
●日本の文化の中にある礼ぎ
【社会のきまりを守って】
●約束やきまりを大切にすること
●気持ちよくすごすためのきまりやマナーを見付けよう
2 東京都道徳教育教材集(例:小学校3・4年生版「心しなやかに」)
●先人の言葉に学ぶ 礼儀と云うは…(如儡子「可笑記」)
●自分を見つめて学ぶ 主として他の人との関わりに関すること
・礼儀で心を伝えよう 挨拶 動作 言葉遣い
・礼儀正しい自分を目指してやってみよう!(実践記録表)
これらの資料を活用し、「挨拶」「動作」「言葉遣い」についてはさらに指導すべき内容
について検討し、最終的には、より具体的な指導資料を作っていく必要がある。

最上騒動と斎藤親盛

●別冊宝島の、菅野俊輔監修『江戸の事件簿』を見た。3代将軍家光と実弟忠長の対立、松の廊下刃傷事件、桜田門外の変、などなど、300年の徳川時代だから、世継、大奥と、色々の事件が起った。諸藩の騒動も少なくなかった。

●私に関係するのは、東北の雄藩、最上57万石の取り潰しにつながる、最上藩のお家騒動である。この改易によって、仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛は浪人の身となってしまう。

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最上家改易

元和三年三月六日、最上藩主・家親は山形城中にて急死した。死
因に関して不審な点があり、幕府も吟味した結果、厳しい条件付き
で、五月に嫡子・義俊に遺領の相続を認めた。しかし、その後も藩
政の主導権をめぐって、家臣間の対立が激化した。そのような経過
を経て、幕府は、元和八年八月十八日、最上義俊の城地と領知を没
収し、近江・三河に一万石の領知を与えることに決めた。九〇〇人
以上の家臣は知行や扶知を失い浪人となった訳である。これらの経
緯に関しては、『山形県史 第二巻』(昭和60年3月)・『酒田市史
改訂版』(昭和62年3月)等に詳述されている。
さて、この時、川北奉行の立場にあった斎藤筑後守広盛は、最後
と思われる書類に署名している。『古代・中世史料 上巻』に収録
された資料である。

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505 元和八年(一六二二)九月二十八日

最上家改易につき庄内の万役(雑税)を書上げる

万役之事
一、 八拾六匁ハ 銀弐枚分 酒田灰吹之役年々定り申候。
銀や七右衛門。
一、 弐百四拾三匁五分 銀子 酒田ニ而船売買申役銀。
年々高下有。
(中略)

一、酒田湊上下出入船役之事、中物次第ニ申付候。
已上
戌九月廿八日       寺内近江(印影)
高橋伊賀(印影)
斎藤筑後(印影)
高倉右門(印影)
御奉行所
(以下略)
(鶴岡 高山昌久氏蔵)
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この資料に拠れば、斎藤広盛が最上家を辞して酒田を離れたのは、
元和八年九月二十八日以後という事になる。おそらく、十月、十一
月の、庄内地方に冬の寒さが迫って来る頃だったと思われる。
『世臣伝』は、最上家改易後の状況を、

「元和八年、最上家が争論の事起りて、国除かれし時、広盛越後に
赴きしに、土井大炊頭利勝、懇に招れて、佐倉の城留守の事頼れし
に、俄に病て空敷なる。年五十五歳とぞ聞へける。」

と記している。
斎藤広盛は、最上家の後に入った酒井家に仕えることはせず、酒
田を去り、父光盛の出身地・越後に向かう。その際、幕府の重鎮・
老中・土井利勝から、佐倉城の留守居をしないかと打診されたという。
土井利勝は、慶長十五年に佐倉藩主となり、数度の加増で、十四万二
千石を領有していた。斎藤広盛は、老中土井利勝にも認められていたことになる。しかし、広盛は、佐倉に赴く前に、急病で他界したという。

【拙稿「如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(5)――斎藤広盛、慶長出羽合戦から最上家改易まで――」(『近世初期文芸』第31号、平成26年12月)】
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●最上家親が急死せず、最上家の取り潰しがなければ、如儡子・斎藤親盛は、最上家親の家臣として、主君に側近く仕えていたと思う。斎藤清三郎は、主君・最上家親から「親」の1字を賜り「親盛」と名乗ることを許されていたのである。最上家が改易に合わなければ、親盛もまた異なる人生を送っていたものと推測されるし、また、異なる著作を遺していたかも知れない。私は、大学3年から4年にかけて、『可笑記』を読んで、この作者に、いたく惹かれた。55年も前のことである。

■別冊宝島 『江戸の事件簿』