如儡子・斎藤親盛の「百人一首」注釈

●仮名草子作者、如儡子は、寛永6年(1629)『可笑記』を執筆開始した。これは、中世の名随筆『徒然草』に倣った随筆風の作品である。この作品は『徒然草』の近世化とも言えるものである。この作品は、寛永19年(1642)に、全5巻本として出版された。

●著者は、その前年の、寛永18年に『砕玉抄』を書き上げている。これは、『百人一首』の注釈書である。日本の和歌史の上で、燦然と輝く和歌集の注釈書である。注釈書ではあるが、仮名草子作者は、この珠玉の和歌集を、上層階級の人々へではなく、十分に文字の読めない、一般庶民にも分るように、易しく、噛み砕いて伝えようと考えたのである。大啓蒙期の著者にふさわしい考えであり、著作・労作である。
●この著作の原本は、武蔵野美術大学に所蔵されている。このことを教えて下さったのは、御茶ノ水女子大学の浅田徹先生である。先生のお教えがなければ、この原本にめぐりあうことは出来なかった。私のみるところ、この写本は、如儡子・斎藤親盛の自筆本の可能性があると思われる。この写本には、次のような奥書がある。この奥書に、著者が付加した注釈の易しさに対して、心からの敬意を捧げる。
【奥書】
つれづれ〔1〕と、ながき曰くらし〔2〕、おしまづき〔3〕によつて、墨頭〔4〕の手中〔5〕よりおつるに、夢うちおどろかし、おろか心〔6〕の、うつり行にまかせて、此和歌集の、そのおもむきを綴り、しかうして、短き筆〔7〕に、書きけがらはし留めり。寔に、せいゑい〔8〕、海をうめんとするにことならずや。されば、かの三神〔9〕のみとがめ〔10〕をつゝしみ、おもむけず、かつまた、衆人〔11〕のほゝえみ〔12〕、嘲りをもかへりみ、わきまへざるに似りといゑども、さるひな人〔13〕の、せめ〔14〕をうけ、辞する〔15〕にことばたえ、退く〔16〕に道なくして、鈍き刃〔17〕に、樗櫪〔18〕をを削れり。人、是をあはれみ給へや。
時寛永巳之仲冬下幹江城之旅泊身
雪朝庵士峯ノ禿筆作
【自注】
〔1〕つれづれとは、徒然とかきて、つくづくとながめおり、物さびしき躰也。
〔2〕ひぐらしとは、終日の心。あさより晩までの事也。曰くらしのくもじ、
すみてよむべし。にごれば、むしのひぐらしの事になる也。
〔3〕おしまづきとは、つくゑの事也。
〔4〕ぼくとうとは、筆の事。
〔5〕手中は、てのうち也。
〔6〕おろか心は、愚知の心也。
〔7〕みじかき筆とは、悪筆などいふ心。ひげのことば也。
〔8〕せいゑいといふとり、草木のえだ葉などをもつて、大海をうめんとする
なり。たれたれもしり給へる古事なれば、かきつくるにおよばず。
〔9〕三神とは、住吉・北野・王津嶋を申也。わかの三じん是也。
〔10〕みとがめとは、御たゝりなどいふ心也。
〔11〕しうじんとは、世間の人といふ心。あまたの人々をさしていふ也。
〔12〕ほゝえむとは、につこりと笑ひがほをする事也。
〔13〕ひな人とは、いなか人と云事。
〔14〕せめとは、さいそくなどいふ心也。
〔15〕じするとは、詞にてしんしやくすること。
〔16〕しりぞくとは、身をひき、しんしやくするてい也。
〔17〕にぶきやえばとは、物のきれぬかなもの也。
〔18〕ちよれきとは、いかにもまがりゆがみて、物のようにたゝぬざいもく
也。■『砕玉抄』の奥書
武蔵野美術大学図書館所蔵

『可笑記』は、約280条400項 か

『可笑記』は、約280条400項 か


●今回、関係項目の、記載内容をサッと見たが、実に面白かった。中には、誤りもあり、あちこちからの孫引きもあるようだ。実は、私も、いくつかの辞典の項目執筆をしているので、執筆者の気持ちは、わかる。わかるけれど、〔辞典・事典〕であるから、出来るだけ、通説に従って、正しい事を書くべきだと思う。これらの中で、『世界大百科事典 第2版』の解説が、特に面白かった。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。③世界大百科事典 第2版の解説

かしょうき【可笑記】

仮名草子。如儡子(じよらいし)作。5巻。1636年(寛永13)成立。42年刊。《徒然草》にならって,約280条400項にわたり〈むかしさる人のいへるは〉の書出しで短文を収めた随筆集である。内容は文武儒仏,政治世俗,道徳宗教,故事見聞,笑話戯歌(ざれうた),自分の経験など多方面に及ぶが,特に小人(しようじん)がへつらいで出世し正義清廉の賢士が不遇であるという世相慨嘆や,武士道がすたれ,役人が腐敗するという批判的話題が多い。
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●『可笑記』という仮名草子作品が「約280条400項」であるとは、今日、初めて知った。人間、生きていれば、色々なお説に出会えるものである。念のため「情報」をクリックしたら、次の如く出ていた。
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世界大百科事典 第2版
各分野の専門家7,000人の知識が集結した平凡社の「世界大百科事典」です。(1)物事の中心的な基礎・原理を重点的に、(2)日本と関係が深い事柄ほど詳細に、(3)一つの物事を多角的な観点で記述、を基本方針とした日本最大級の百科事典です。
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●凡社の『世界大百科事典』に拠った事典のようであるが、「株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版」関係者から、この解説について、教えて頂けるなら有り難い。

コトバンク 可笑記

コトバンク 可笑記

可笑記 かしょうき

①ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

可笑記 かしょうき

仮名草子。如儡子 (にょらいし) 作。5巻。寛永 13 (1636) 年成立,同 19年刊。万治本は絵入り。約 280条の見聞,随想から成り,各条「昔さる人の云へるは」を冒頭とした随筆風の読み物で,『徒然草』の影響が強い。初期仮名草子にはまれな俗文体で,不遇で世に入れられぬ著者 (浪人) の憤慨,世相批判や,すたれゆく武士道についての慨嘆を述べている。仮名草子教訓物の最初の作品で,浅井了意の『可笑記評判』 (60) ,西鶴の『新可笑記』 (88) など後世に与えた影響は大きい。
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②デジタル大辞泉の解説

かしょうき〔カセウキ〕【可笑記】

仮名草子。5巻。如儡子(じょらいし)著。寛永19年(1642)刊。徒然草を模倣した俗文体の随筆で、本文280段から成る。
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③世界大百科事典 第2版の解説

かしょうき【可笑記】

仮名草子。如儡子(じよらいし)作。5巻。1636年(寛永13)成立。42年刊。《徒然草》にならって,約280条400項にわたり〈むかしさる人のいへるは〉の書出しで短文を収めた随筆集である。内容は文武儒仏,政治世俗,道徳宗教,故事見聞,笑話戯歌(ざれうた),自分の経験など多方面に及ぶが,特に小人(しようじん)がへつらいで出世し正義清廉の賢士が不遇であるという世相慨嘆や,武士道がすたれ,役人が腐敗するという批判的話題が多い。
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④大辞林 第三版の解説

かしょうき【可笑記】

仮名草子。五巻。如儡子によらいし作。1636年刊。「徒然草」にならって、当時の世相などに対する感想を随筆風に記したもの。模倣作や「可笑記評判」のような批判書を生んだ。
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⑤日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

可笑記  かしょうき

江戸前期の仮名草子(かなぞうし)。「おかしき」とも読む(本文中にこの振り仮名がある)。如儡子(じょらいし)作。1642年(寛永19)刊。『徒然草(つれづれぐさ)』に倣った随筆書で、本文280段よりなる。その内容は修身経国に関する教訓を中心とし、古今の故事例話、仏法論、儒仏論、見聞談、小咄(こばなし)など多岐にわたっているが、作者の経験に即した武士生活に関する意見が主となり、藩政を支配する家老たちへの厳しい批判や、浪人生活の悲惨さを語っている点などがその特色となっている。[田中 伸]
『田中伸他編『可笑記大成』(1974・笠間書院)』

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⑥可笑記  ウィキペディア  深沢秋男補訂

可笑記(かしょうき)とは近世初期の随筆風仮名草子である。作者は斎藤親盛、筆名「如儡子(にょらいし)」。
目次 [非表示]
1 概説
2 原典の構成と成立期
3 影響と価値
4 脚注
5 原典と参考書
6 関連項目
概説
序文で作者は「この書は、浮世の波に漂う瓢箪(ヒョウタン)のように浮き浮きした気持ちで世の中の事の良しあしの区別もすることなく書き綴ったものであるから、これを読んだ読者はきっと手をたたいて笑うであろう。だから書名を『可笑記』(笑いの書)としたのだ」と述べている。江戸の社会を簡潔明快な俗文体で表現していると同時に、作者の浪人という視点から無能な支配層に対する民衆の批判も代弁している。
作者の如儡子斎藤親盛は最上家の浪人で、武家社会の辛酸を舐めた人物だった。本書は『甲陽軍鑑』『沙石集』などからの引出が多く見られるが、林羅山の著書『巵言抄』『童観抄』から多くの言説を利用している。しかし、名は伏せられているものの、羅山の合理主義的な見地から聖賢の道を論ずる姿勢への批判も見られ(巻四)、作者の苦悩が読み取れる[1]。またこれは市井の一浪人が文筆を持って当代と渡り合う、文学史における最初の例と言える[1]。
原典の構成と成立期
五巻五冊。巻一・48段、巻二・48段、巻三・42段、巻四・52段、巻五・90段、これに序と跋を加え計282段で構成されている。形式は随筆の形態をとり、配列は相互に特別深い関係はない。内容は、侍の心得に関するもの、一般庶民の心得、さらに儒教仏教の教え、さらに説話的なものなど多岐にわたる。この作品の成立時期は、跋文より「于時寛永十三 孟陽中韓」とあり刊記に「寛永壬午季秋吉旦刊行」と記されている、よって寛永13年(1636)1月に成立し、6年半後の寛永19年(1642)9月に初版が出版されたことになる。しかし、作品のなかで、寛永15年(1638)の島原の乱について記述している箇所があることから成立後も加筆が続けられ、最終的には刊記にある寛永19年頃の完成で[2]あろうと推測される。
影響と価値
「徒然草」の近世版ともいわれる一方で、物事を無常観にとらわれる事無く全体としては明るく現実的にとらえている。また作者は兼好のように悟り切ることはできずむしろ感情の赴くまま批判的精神を吐露している。近世随筆文学の道を開いたものであり、その後多くの追随作品を生んでいる。すなわち「ひそめ草」「身の鏡」「他我身の上」「理非鏡」等々である。さらに仮名草子中最大の作者浅井了意はその著作活動の端緒で「可笑記評判」を著しその代表作「浮世物語」の後刷本を「続可笑記」として出版しているほどで、また井原西鶴も本書にちなんで「新可笑記」を発刊している。堂上俳諧人から高僧・武士・一般庶民にいたるまで多数の人に読まれ、いわゆる「〇〇可笑記」と呼ばれる浮世草子の嚆矢となりその影響は大きいものがある。
脚注
^ a b 江本 2000, pp. 19-21.
^ 昭和女子大教授・深沢秋男
原典と参考書
国書刊行会 編 『徳川文芸類聚』第二巻 国書刊行会、1914年、7頁。NDLJP:945807/7。
版本=寛永19年11行本・寛永19年12行本・無刊記本・万治2年絵入本
近代日本文学大系 1・仮名草子集成 14
参考書としては「仮名草子集成」(東京堂出版)他。
『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』 / 深沢秋男(所沢 : 近世初期文芸研究会、2010年10月)非売品。国立国会図書館請求記号:KG216-J12
江本裕 『近世前記小説の研究』 若草書房〈近世文学研究叢書〉、2000年。ISBN 494875563x。
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⑦可笑記 かしょうき   はてなキーワード      深沢秋男執筆

目次
可笑記とは
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『可笑記』(かしょうき)

随筆的仮名草子。版本、5巻5冊。
作者
如儡子(にょらいし)・斎藤親盛(さいとう ちかもり)
版本の奥書には「于時寛永十三/孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」とあり、「如儡子」の署名はない。しかし、当時の書籍目録にも「五冊 可笑記 大小 如儡子作」(寛文10年刊『増補書籍目録 作者付大意』)とあり、二本松藩の『相生集』にも『可笑記』及び作者に関して、詳細に記されているので、この「江城之旅泊身」が如儡子・斎藤親盛であることは明白である。

成立
寛永6年(1629)執筆開始か。二本松藩の『相生集』の編者は、斎藤家の子孫から『可笑記』の写本を見せてもらい、その跋に「寛永六年の秋の頃に思ひ初て、拙き詞をつゞり初め、……」とあったと記しているので、執筆開始は、親盛27歳の寛永6年としてよいだろう。最上家を辞し、浪人となって七年後のことである。

内容
中世の随筆、吉田兼好の『徒然草』の形式にならった随筆風の形式をとっている。巻1=48段、巻2=48段、 巻3=42段、巻4=52段、巻5=90段、これに、序と跋を加えて、全282の長短の文章から成る。
各段の配列は、相互に深い関連はなく、内容別に分類すると、一般人の心得に関するもの115段、侍の心得に関するもの51段、主君の道に関するもの39段、身辺雑記的なもの25段、儒教・仏教に関するもの22段、説話的なもの13段、その他15段となっている。

特色
この作品は、中世の『徒然草』の影響を受けているが、『徒然草』のように来世思想に基づくものではなく、近世初期の作品にふさわしく、明るい現世肯定・人間重視の立場から述べられている。第一の特色は、鋭い批評精神にあり、その批判の対象は、主として、無能な大名や、大名を補佐する、家老・出頭人に向けられている。「如儡子」というペンネームを使い、各段「昔さる人のいへるは」と書き出して、現実の話ではないような形式をとっているのは、この厳しい批判をカムフラージュするための手段であったと思われる。
次に注目すべき特色は、作品の文体である。当時の他の仮名草子作品の多くは、中世的な雅文体であったのに対して、この作品は、漢語や俗語など、現実に使われている言葉を自由に取り入れた、一種の俗文体で書かれている。この簡潔明快な文体は、神や仏に救いを求めることなく、人間の力を信じ、来世よりも現世を重視する、近世初期の新しい社会を表現するのに適したものであった。
次に指摘すべき点は、作者が、一段一段を作る時、実に多くの先行著作を摂取しているということである。長い戦乱で文化が中断していたこともあり、近世初期の人々は、自分たちの作品を創る前に、まず、古代・中世の文化の吸収・理解から着手した。仮名草子において、典拠の問題は、全体の作品にわたって言えることである。『可笑記』が多く利用した先行作品は、『徒然草』と『甲陽軍鑑』である。『徒然草』では、その注釈書の『野槌』や『寿命院抄』も利用している。そのほか、『沙石集』『十訓抄』『清水物語』『童観抄』『巵言抄』『論語』『孟子』などをはじめ、日本や中国の広範囲の著作に及んでいる。親盛は、若い頃、諸国を遊学して、書写するところの写本は数百巻に及んだと言うが、その素養が活かされているものと思われる。そして、これらの先行著作の利用にあたって、作者はそれらを充分に消化して、自由自在に取り入れている。その力量は高く評価してよいものと思われ、これも、この作品の重要な特色となっている。

諸本
1、写本、5巻10冊、寛永12年成立。 二本松藩士・大鐘義鳴は、天保12年(1841)に、『相生集』の「文学」の項を執筆するに当たって、斎藤親盛の子孫、9代・英盛から、斎藤家に代々伝わる資料を閲覧している。その中に『可笑記』の写本があったという。その序には「寛永十二年孟陽中幹東海旅泊身如儡子綴筆」とあり、跋には、「寛永六年の秋の頃思ひ初めて、拙き詞をつゞり初め、……万治庚子孟陽中幹武心士峯居士跋書」とあったという。この斎藤家の資料は、現在、所在が未詳であるが、今後、発見される可能性は十分にある。
2、寛永19年版11行本、大本、5巻5冊。この作品の初版本であり、写本に次ぐ原初的な形態を伝えている、最も優れた本文である。奥書には「于時寛永十三孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」 (1636)とあり、刊記は「寛永壬午季秋吉旦刊行」(寛永19年、1642)とある。
3、寛永19年版12行本、大本、5巻5冊。この12行本は、11行本の準かぶせ版であり、11行本をかなり忠実に伝えている。句読点を付加し、振り仮名を多くして、その普及に役立った点に意義がある。11行本を利用して1行増やしたもので、奥書も刊記も11行本と同じである。刊行年は断定できないが、慶安元年(1648)頃の刊行かと推測している。
4、無刊記本、大本、5巻5冊。この版は、12行本を底本にしたものと思われるが、特殊な表現を一般的に改め、回りくどい文章を簡略化し、話し言葉を書き言葉に改め、仮名を漢字に改め、字体も小さくしており、12行本以上に普及版としての性格を持っている。後続の絵入本や可笑記評判が、共にこの無刊記本を底本にしたものと推測され、その意味では、この本文は流布本的存在であると言い得る。
5、万治2年版絵入本、半紙本、5巻5冊。無刊記本を底本に使用し、底本に対して忠実であるが、むしろ盲従的である。機械的な誤読・誤刻が多く、劣った本文と言える。しかし、この版は師宣風の挿絵・41図を付加し、半紙本という軽装版にして読者に応えたという点で意義があったと思われる。
6、万治三年刊、可笑記評判、大本、10巻10冊。著者は浅井了意。厳密には『可笑記』の諸本には入らないが、『可笑記』の本文の大部分を収録しているので、参考として加えてもよいだろう。本書は、まず、可笑記の本文を掲げ、1字下げて、批評を加えるという体裁をとっている。可笑記本文の底本は無刊記本を使用したものと推測される。無刊記本の誤りを正す事も多いが、誤脱は多く、可笑記本文としては最も劣ったものと言い得る。全280段の内、批評を付加したのが231段、批評を省略したのが46段、可笑記本文・批評共に省略したのが3段となっている。

複製
1、仮名草子選集・国立台湾大学図書館本影印(1972年1月、台北・大新書局発行)。寛永19年版11行本の複製で、巻頭に、巻1・巻3・巻5の原表紙の写真を掲げ、略書誌を付す。複製は、原本を解体して、1丁開いた形で収めている。
2、可笑記大成―影印・校異・研究―(田中伸・深沢秋男・小川武彦共編著、昭和49年4月30日、笠間書院発行)。寛永19年版11行本を複製し、脚注の形式で、寛永19年版12行本・無刊記本・万治2年版絵入本との校異を掲げる。

翻刻
1、徳川文芸類聚・第2・教訓小説(朝倉無声例言、山田安栄・伊藤千可良・岩橋小弥太校、大正3年6月25日、国書刊行会発行)。振り仮名は省略。巻1は無刊記本、巻2~巻五は寛永19年版11行本を底本に使用しているものと推定される。
2、近代日本文学大系・第1・仮名草子集(笹川種郎解題、昭和3年12月18日、国民図書株式会社発行)。送り仮名・振り仮名など、原本とはかなり離れており、異同関係から推測すると、『徳川文芸類聚・第二・教訓小説』を参照して本文作成をした可能性がある。なお、『可笑記』の挿絵として掲げるものは、古浄瑠璃『公平天狗問答』の挿絵である。
3、仮名草子集成・第14巻(朝倉治彦・深沢秋男共編、1993年11月20日、東京堂出版発行)。寛永19年版11行本を底本として、無刊記本との異同を行間に示した。ただし、全面的な異同ではない。
4、教育社新書・原本現代訳51(渡辺守邦訳、1993年11月20日、教育社発行)。寛永19年版11行本を底本にした現代語訳(抄訳)。

参考
◎斎藤親盛(如儡子)の研究→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html
◎平成22年度香川県公立高校、平成23年度京都府公立高校、平成26年度京都府公立高校の入学者選抜学力検査に『可笑記』出題された。

 

仮名草子 『可笑記』関連クイズ

仮名草子 『可笑記』関連クイズ

●可笑記の読みは、 〔かしょうき〕か〔おかしき〕か 【かしょうき】が正解
●如儡子の読みは、 〔じょらいし〕か〔にょらいし〕か【にょらいし】が正解
●如儡子の父は、盛広か広盛か 【広盛】が正解
●如儡子の号は、意伝か以伝か 【以伝】が正解
●可笑記の諸本、寛文版か無刊記版か  【無刊記版】が正解
●『百八町記』の奥書の〔物故〕は、故人か出家か 【出家】が正解
●可笑記の章段数は、400段か280段か 【280段+序・跋】が正解
●可笑記の版本には、寛永19年版11行本、寛永19年版12行本、無刊記本、万治2年絵入本があるが、最も優れたテキストはどれか 【寛永19年版11行本】が正解
●如儡子・斎藤親盛の子・秋盛は、万治3年に、二本松藩・丹羽光重に仕えたが、2月か3月か 【3月】が正解
●可笑記の主要な典拠は何か、 【『徒然草』『甲陽軍鑑』】が正解
●如儡子・斎藤親盛は、斎藤家の1代目か3代目か 【3代目】が正解
●『百八町記』の典拠は何か、  【『帰元直指』】が正解
●大名評判記の『堪忍記』写本・1冊は、如儡子の著書か  【基本資料に拠った、如儡子の編著書】が正解

▲回答者 深沢秋男

■慶長11年(1606)年貢皆済状
 斎藤助左エ門

如儡子 にょらいし (コトバンク より

如儡子 にょらいし (コトバンク より)
①ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
如儡子
にょらいし
[生]?
[没]明暦1(1655)頃
江戸時代前期の仮名草子作者。「じょらいし」とも読む。 70歳くらいで没。本名未詳。最上家の浪人湯村式部,あるいは池田家に仕えた斎藤意伝ともいう。武心士峰,雪朝庵と号す。仮名草子『可笑記』にみずから記すところによると,母とともに江戸に出て仕官を志したが成功せず,不遇のうちに生涯を終えたらしい。ほかに仮名草子『百八町記』 (5巻,1655成立,64刊) ,和歌注釈『百人一首鈔』 (4巻) がある。
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②デジタル大辞泉の解説
じょらいし【如儡子】
[1603?~1674]江戸前期の仮名草子作者。本名、斎藤親盛。山形最上家に仕えたが浪人となり、江戸で医者を業とし、著作の筆をとった。著「可笑記」「百八町記」など。にょらいし。
にょらいし【如儡子】
⇒じょらいし(如儡子)
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③百科事典マイペディアの解説
如儡子【じょらいし】
江戸初期の仮名草子作者。本名斎藤親盛。意伝と号す。山形最上家の家臣の子として酒田に生まれる。江戸に出て儒者となるが,のち医を業とする。《従然草》にならった社会批判の短文集《可笑記》,また《百八町記》を書いた。
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④デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
如儡子 にょらいし
1603?-1674 江戸時代前期の仮名草子作者。
慶長8年?生まれ。もと出羽(でわ)山形藩主最上家の臣。主家改易(かいえき)により浪人となり,諸国を放浪。江戸で医を業とするかたわら,仮名草子を執筆した。延宝2年3月8日死去。72歳?姓は斎藤。名は親盛。通称は清三郎。号は「じょらいし」ともよむ。別号に以(意)伝,雪朝庵士峰。著作に「可笑記」「百八町記」など。
如儡子 じょらいし
⇒にょらいし
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⑤朝日日本歴史人物事典の解説
如儡子
没年:延宝2.3.8(1674.4.13)
生年:慶長8?(1603)
江戸時代の仮名草子作者。本名は斎藤清三郎親盛。意伝と号する。父斎藤盛広は出羽国山形藩最上家の家臣だったが,元和8(1622)年,家督相続をめぐる騒動のため藩は改易,浪人となる。親盛は江戸で医を業とする傍ら,当世批判の意を込めた『可笑記』(1642)を執筆。これに批評を加えたものに,浅井了意『可笑記評判』(1660)がある。万治2(1659)年,陸奥国二本松藩に仕官した長男秋盛に同行し,晩年はこの地で俳諧に遊んだ。著書にはほかに『百八町記』(写本)などがある。<参考文献>野間光辰『近世作家伝攷』
(樫澤葉子)
出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

⑥世界大百科事典 第2版の解説
じょらいし【如儡子】
1603ころ‐74(慶長8ころ‐延宝2)
仮名草子作者。本名斎藤親盛。号は意伝。山形最上家の臣斎藤盛広の子として酒田で生まれた。1622年(元和8)最上家改易で浪人となった父に伴い祖父の旧地越後に転じ,のち江戸に出て,一時松平光仲(政?)家の儒者となるが,浪人して医を業とする。59年(万治2)子秋盛(ときもり)の出羽二本松仕官に伴って下る。才能あって不遇の境涯から,社会批判の書として《可笑記》(1642)を書き,また《百八町記》(1664ごろ)を書いている。
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⑦大辞林 第三版の解説
じょらいし【如儡子】
⇒ にょらいし(如儡子)
にょらいし【如儡子】
(1603?~1674) 仮名草子作者。斎藤氏。別号、以伝・雪朝庵士峰。山形の人。戦国武士的道徳観に立ち、江戸初期の政治・世相に対する痛烈な批判を仮名草子中に展開した。著「可笑記」「堪忍記」など。
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⑧日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
如儡子 じょらいし (?―1674)
江戸前期の仮名草子(かなぞうし)作者。「にょらいし」ともいう。本名斎藤親盛(ちかもり)、号意伝、雪朝庵士峯(せっちょうあんじほう)。父斎藤筑後守盛弘(ちくごのかみもりひろ)とともに山形最上(もがみ)家に仕え、1622年(元和8)最上家改易のため浪人。放浪中に父を亡くし、江戸に出て、豊田屋喜右衛門(とみたやきうえもん)などの町人に助けられ、右筆(ゆうひつ)や医者を業とし、その間著作の筆をとった。1659年(万治2)嫡男秋盛が二本松藩の丹羽光重(にわみつしげ)に召され、これとともに二本松に移住し、俳諧(はいかい)に遊ぶなどの晩年を送った。延宝(えんぽう)2年3月8日没。墓は二本松市松岡町、松岡寺。著作には仮名草子『可笑記(かしょうき)』(1642刊)、『百八町記』(1664刊)があり、そのほか『百人一首鈔(しょう)』『堪忍記』が写本で残されている。[田中 伸]
[参照項目] | 可笑記
『可笑記』
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世界大百科事典内の如儡子の言及

【可笑記】より
…仮名草子。如儡子(じよらいし)作。5巻。…
※「如儡子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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如儡子の関連キーワード |インノケンティウス |ヌイツ |奈良屋茂左衛門 |明暦 |天文学史(年表) |新田義貞と福井 |小規模保育所 |天野酒 |稲生若水 |宇喜多秀家
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●如儡子 はてなキーワード  深沢秋男執筆

如儡子(にょらいし)  

仮名草子作者。「如儡子」の読みは「にょらいし」が正しい。姓は斎藤、字は清三郎(せいざぶろう)、本名は親盛(ちかもり)、号は以伝、法名は武心士峯居士。慶長8年(1603)頃出生、延宝2年(1673)3月8日没。酒田(山形県)の筑後町に生れる。父の広盛は最上家親に仕え、川北三奉行の職にあった。清三郎も家親に仕え、主君から一字を賜り、親盛の名を許された。元和3年(1617)に主君・家親が急死し、最上家57万石は没収され、1万石になってしまう。最上家の後には酒井家が入ったが、広盛・親盛の父子は、酒井家に仕えず、浪人となる。浪人になった親子は、一時、祖父・光盛の出身地越後(新潟県)に行くが、間もなく父が急死し、親盛は、やがて江戸へ出る。江戸へでてから、ある大名の祐筆を務めたが長続きせず、再び浪人となる。やがて、医者となり、越後から妻子を呼び、細々と生計をたてる。万治3年(1660)に子の秋盛(ときもり)が二本松(福島県)の丹羽光重に仕えることになり、二本松へ移住する。晩年の約15年間は二本松で俳諧などを楽しみ、その生涯を閉じた。享年72歳か。亡骸は二本松の神龍山松岡寺(臨済宗妙心寺派)に葬られた。

如儡子・斎藤親盛は、18歳ころまでは、酒田の奉行の子として勉学に励み、主君・最上家親に側近く仕えたが、最上家転封の後は浪人となり、貧しい生活を送った。そのような厳しい生活の中でも、武士としての誇りをもって著作活動に励んだ。

【著作】

◎ 『可笑記』(かしょうき) 5巻5冊、寛永6年(1629)執筆開始、同19年(1642)11行本刊行。以後、12行本・無刊記本・絵入本と刊行され、近世初期を代表する仮名草子のベストセラーになった。『徒然草』や『甲陽軍鑑』を利用して著作した随筆的な仮名草子である。内容的には批判精神の横溢したもので、作者の思想や生き方がよく盛り込まれている。浅井了意はこの作品に批評を付加した『可笑記評判』を著し、以後、『続可笑記』『可笑記跡追』『新可笑記』『一休可笑記』『歎異抄可笑記』『後前可笑記』『前句付可笑記』『後可笑記』などの作品が、著された。

◎ 『砕玉鈔』(さいぎょくしょう) これは、『百人一首』の注釈書で、寛永18年(1641)頃には成立していたものと推測される。武蔵野美術大学図書館に原本が所蔵されており、書写年代も近世初期と推測され、著者の自筆本の可能性がある。内容的には、易しく『百人一首』を解説したものである。この原本を書写した諸本が多く伝わっている。

◎ 『堪忍記』(かんにんき) これは、近世初期の諸大名の石高や藩の内情を記し批評を付加したもので、成立は、正保2年(1645)頃と推測される。この種の類書の中では最も早い成立で、貴重な著作である。このような、膨大な全国の大名の情報が、浪人の著者に収集できるものではなく、如儡子は、ベースになる情報を、何らかの方法で入手し、それに批評を付け加えたものであろう。福井県立図書館の松平文庫本と内閣文庫・2本の3点が伝存している。

◎『百八町記』(ひゃくはっちょうき) 5巻5冊、明暦元年(1655)の序があり、寛文4年(1664)に京都の書肆中野道判から出版された。儒教・仏教・道教の三教一致を主張した著作である。一里三十六町、三里で百八町という書名の付け方である。内容的には仏教に重点がおかれていて、晩年は仏道(臨済宗)に帰依した著者をみる事ができる。

◎ その他、晩年の俳諧作品が多く遺されている。

【参考文献】
◎ 田中伸「『可笑記』の研究」(『仮名草子の研究』桜楓社、昭和49年)
◎ 野間光辰「如儡子系伝攷」(『近世作家伝攷』中央公論社、昭和60年)
◎ 深沢秋男「如儡子(斎藤親盛)調査報告(1・2・3・4・5)」(「文学研究」「近世初期文芸」昭和63年~平成5年)
◎深沢秋男『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』(近世初期文芸研究会、平成22年)
◎深沢秋男『如儡子百人一首注釈の研究』(2012年3月20日、和泉書院発行)
◎「齋藤筑後守記念碑」が、山形県酒田市、上日枝神社境内に建立された(平成23年10月23日)。

『可笑記』写本、巻1・巻2、2冊、2000円

『可笑記』写本、巻1・巻2、2冊、2000円

現在の価格 2,000円(税0円)
残り時間 : 終了 (詳細な残り時間)
入札件数 : 1 (入札履歴)
開始時の価格 : 2,000 円
落札者 : D*1*E*** 評価:139
開始日時 : 2月 13日(月) 13時 43分
終了日時 : 2月 19日(日) 21時 42分
商品の状態 : 中古
商品画像
★K53和本江戸期仮名草子写本「可笑記」1冊如儡子古書古文書_画像1
『状態』
82丁。大本程度。手書き。少虫食い、印あり。状態は並上。
『データ』
【書名】 可笑記
【巻冊】 巻1と巻2で1冊になっています
【著者】 如儡子
【成立】 幕末期ぐらいの写本

●今日、久し振りに検索したら、こんなデータに出会った。今年の2月だろうか。ゴタゴタしていなければ、私も応札していたと思う。

平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

■平成26年度京都府公立高等学校入学者選抜のための学力検査に『可笑記』が出題された。平成23年に続いて、平成26年度も出題された。


●私は、大学2年の終りの頃、『徳川文芸類聚』でこの作品を初めて読んで、私自身、大変勉強になると思ったし、殊に、その批判的要素には感激した。それで、卒論に選び、以後、ずっとこの作品と作者について研究してきた。この作品やこの作者・如儡子、斎藤親盛は、決して軽く見るべきではなく、日本文学史の上でも、それなりの位置を占めるものと思う。その意味でも、平成23年に続いて、今回も出題されたことに感謝する。今回の出題は、巻3の25段から出題された。
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『可笑記』巻3の25段は、寛永19年版11行本では、次の如くである。
振り仮名は省略した。
▲むかし、弘法大師、諸国を修行有しに、江州すりはりとうげにて、
一人の老翁が、斧を石にあてゝひた物すりまはるあり。
弘法、御覧じて、
いかに翁殿、其斧をすりて、何にし給ふ。
翁答て、
針に仕る。
弘法、からからと、わらひて、
扨、いつの世にか、其をのをすりほそめて、針にし給ふべき。其をのよりは、
そなたの命こそ、はやく、すりへるべけれ。
翁、かしらをあげて、弘法の御かほを、つやつやと、まもり、
なふ御坊、其心中にては、学文成がたし。それ、世間の無常老若、さだめが
たし。其上、事をつとめんに、命期しられざるとて、むなしく、やむべけん
や。さあらば、さいふ法師の修行も、無益成へし。
と云に、弘法、あつと心付給へば、この翁、
我は、是、此山の神。
とて、光をはなちて、飛給ふ。すりはりの大明神、是也、と。

博打八法

●今日、ネットを通して、金沢の古書店から、ひろさちや著『「賭け」と宗教』を購入した。何と、100円、送料等300円、合計400円を配達者に支払った。学生時代、神田の古書店を廻り、少しでも安い本、少しでも奇麗な本を探した頃が懐かしい。著者のひろさちや氏とは、東大の哲学を出た人で、凄くたくさんの啓蒙書を出している。このような人生もあると言うことである。

●それはさておき、博打に関する項で、『可笑記』を引用している。
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〔藤原明衡の『新猿楽記』は、当時のさまざまな職業や職人についても伝えている面白い本である。その中に双六・博打についてについても述べられている。〕
(なお、この「心得」は、〝ばくち八法の事〟として、江戸時代の仮名草子である『可笑記』にも登場する。相当に人口に膾炙したものであったらしい)。
一、心………心は大きく持て。これは当たり前のことだ。
二、物……資本は多いほどよろしい。博奕の必勝法は――論理的には――倍々と賭けることだ。負けても負けても、常にその倍額を賭けてゆけば、必ず勝てる。問題は、その資本がつづかないことだ。倍々と増加すれば、すぐに天文学的な数字に到達する。
三、手……技術。技術の向上に励め。『可笑記』では、〝三上〟と表記している。上手であること。
四、勢……勢いとは、詮ずるところ強気であろうか。『可笑記』は〝四性〟といい、執着心の強いことだという。執着心がないと、見落したり、眠くなって欺かれたりする、と解説している。なるほど、その通りだと思う。
五、力……無理矢理、力ずくでも勝とうとすること。そろそろ、おっかない心得になってきた。
六、論……論争、口げんかによって相手を言いくるめること。
七、盗……それでも負けそうになれば、敵の持ち物を盗むこと。物騒な話だ。
八、害……最後には、相手を殺してでも負けを取りかえす事。桑原桑原。
これでは安心して麻雀もやれない、といった感想を洩したくなるが、しかし安心のために賭けごとをするのではない。安心したいのなら、賭けごとはせぬことだ。賭博をやる以上は、暴力を覚悟せよというのが、だいたいの結論であろうか……。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。●これは、『可笑記』巻5の72段に出てくる。この一段は、次の如くである。
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▲かかし、
さる人のをしへに曰、
侍と生れては、弓馬の家なれば、少、弓を射ならひ、馬をかんようと、のりならふべし。
馬下手なれば、山水のかけわたしもなりがたく、万不足おほし。馬上手なれば、五騎十騎が中に、とりこめられても、たやすく、きられつきおとされず、かけ引自在にして、手柄をするは馬故也。
扨、槍太刀の兵法、心得べし。皆人毎に、兵法用にたゝぬと、いへども、それがしは、さは存ぜず。いかにとなれば、木刀しなひうちをさせてみるに、何時も、むてなるものは、たゝかるゝ。さあらば、木刀しなひうちの時の心にて、誠の切合の時、はたらき候はゝ、かならすかつべし。
しからば、兵法の用に、たゝぬにはあらずして、をのれが
憶病成ゆへに、誠の切合の時は、兼てけいこの兵法をも、
うちわすれて、とり出さぬ故也。
扨、物かく事、たしなむべし。物かゝぬ人は、万、物云事
も、ふつゝかに、大事の用もかけ、諸事に不足也。
この外、奉公のひま〳〵にしたがつて、学文詩歌、しつけがた、鉄炮など、少づゝならふべし。かへす〳〵、博奕、諸勝負などの、もてあそび、しんしやくあるべし。天下一の、上手と、いはれたるよりは、しらぬ方こそ、まさりなれ。
されば、ばくちをうつには、一心、二物、三上、四性、五力、六論、七盗、八害、とて、八つの物そろはねば、かたぬと云。
まづ、一心とは、まけても大事なしと、こゝろをおほへいにもつ事。二物とは、銭金をたくさんにもちて、一番めに、金子一両まけたらば、二番めには弐両たてゝうつ、二十両まけたらば、四十両たてゝうつ。かくのごとくすれば、一度は、何としても、かつ事あるゆへに、つゐにはかちと成。三上とは、上手がよし。へたなれば、かつ事なし。四性とは、おもひ入の、つよきがよし。思ひ入がよはければ、見おとしもあり、又、ねぶたくもなりて、ぬすまるゝをもしらず。五力とは、あまりに、まけたる時には、むりひがことを、云かけて、うばいあふ時もあり。カよはくてかなふまじ。六論とは、口をきゝ口論をして云まくり、むかふのものに、気をせかせては、きほひをとる。七盗とは、人の目をくらまし、ぬすみを
せねばかたれぬぞ。八害とは、右の一心、二物、三上、四性、五力、六論、七盗の七つを以もまけたるときは、そのあひてを、きりころして、とるより外の事なし。かくのごとくしても、かちたるがよし。
さあれば、此勝負事と云は、内心に破戒のつみふかく、外義に、五常の罪おもし。しかれば、仏神の御めぐみにもゝれ、聖賢の御をしへにそむく。
さればにや、いにしへより、かちてさかへしものはなくて、まけて、身命をうしなへるものはおほし。たとひ又かちて、当座は、よしと思へども、まけたる者は、かならずてきかたきとなる。さあらは、わざとあたをつくりて、まうくるなるべし。
物のたとへにさへ、すりきりみぐるしき風情をみては、ふるばくちうちかと、いひあへり。たとひ当座のなぐさみにするといへ共、かちまけをあらそひ、つらをあかめたるも、見にくし。其上、やゝもすれば、いはれまじき詞を、あやまり、けんくはをしいたし、身命をあやまる。第一ぶ奉公の中だち、万事用所かくると心得べし。
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●阿部さんは、博打を導入したいと叫んでいる。いやはや。

大名配列の基準

●徳川時代の諸大名の配列は、どのような基準でなされたのか。この種の大名評判記の研究では、今井圓氏の『土芥寇讎記』が早い。金井氏によれば、

① 探索書   寛永4年(1627)
② 勧懲記   延宝3年(1675)
③ 土芥寇讎記 元禄3年(1690)
④ 諫懲後正  元禄14年(1701)
⑤ 諸将連続記 元禄12年(1699)

●このような類書があり、元禄3年現在の諸大名は、243名であるという。配列はは、ほぼ石高の大きいものから小さいものへと順次配列しているという。
如儡子の『堪忍記』はどうか。

1、 徳川義直 62万石 名古屋
2、 徳川義宣 55万石 和歌山
3、 徳川頼房 28万石 水戸

●これは御三家ゆえ、トップに置かれて当然であろう。しかし、以下は、石高でもなく、地域別でもなく、その配列基準がよくわからない。ただ、問題なのは、トップの御三家と対照的に、ドン尻に、
110、酒井忠勝、庄内、14万石 が配置されていることである。
さらに追加するならば、
100、堀田正勝、佐倉、11万石 も異状である。
●この『堪忍記』の編著者は、庄内と佐倉の配列位置に関して、特別の意図を持つ人物ではないか。そう、私は考えるのである。
●如儡子・斎藤親盛は、父・広盛とともに、庄内の最上家に仕えていた。広盛は川北奉行だった。ところが、元和8年(1622)、最上家57万石は取り潰しとなり、その後に、酒井忠勝が入った。この時、斎藤広盛・親盛父子は、酒井家に採用されること無く、永年住んだ、酒田を離れて浪々の身となる。本当は、酒田にあって、酒井家に仕えたかったと思われる。しかし、その望みは叶えられなかったのである。
●斎藤広盛は、東北の関ヶ原合戦とも言われる、長谷堂合戦の折、上杉軍の直江兼続の配下として参戦している。戦後、最上家に転じたのである。最上家にあっては、川北奉行を務めるなど、酒田・筑後町に住し、活躍していた。元和8年の最上家転封の折、佐倉城主で老中の土井利勝から、広盛は、佐倉城の留守居役を要請されたという。しかし、その折、急逝してしまった、と『世臣伝』は伝えている。この、一件と、「100」番という配列は関係していないか。そのように、私は考えている。
●斎藤広盛が、川北奉行を務めていた頃の年貢皆済状なと、多くの史料が現存している。現在、酒田市、上日枝神社境内には、「齋藤筑後守記念碑」が建っている。

 

如儡子・斎藤親盛の諸大名批判

●大石学監修の『江戸時代の「格付け」がわかる本』を読んで、参考になる点があった。私の研究している仮名草子『可笑記』は、近世初期にあって、批判的要素の強い著作である。その著者の手が付加されたと思われる『堪忍記』は、また、凄い著作である。

●『堪忍記』写本1冊は、福井藩の松平文庫(松平宗紀氏蔵)に所蔵されている。大名評判記という類書の中では、最も早いもので、如儡子、43歳、正保2年(1645)頃の成立と推測される。その概略を紹介したい。
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如儡子編『堪忍記』諸大名評価一覧 
 藩主名  国名  石高             評価(部分)
1・徳川義直・名護屋・62万・・     世間不受不施、江戸童、池
                                                                       上の御門徒也と申候。
2・徳川頼宣・若山・55万5千・・    家中手前にらず。米はらひよ
                        し、所も吉。
3・徳川頼房・水戸・28万・・      御暇不被下。立出、天下せはし。江戸詰
                                                                     扶知持方つら扶持。物毎せはしく、しはき
                                                                     御仕置也。
4・酒井忠勝・小浜・12万3千・・    物ことせはしく、武道の沙汰もなく、家中
                                                                      風儀悪 し。……□式部以来、無類の悪
                                                                     しき主人、下々ノ下。
5・松平(長沢)信綱・河越・7万・・  物毎せはしく、下々に同。
6・阿部忠秋・忍・5万・・       上下に情ふかし。万端気の付た
                      る主人。役儀もすくなし。諸侍心易家中、中也。
7・阿部重次・岩付・5万・・      米払悪シ。下也
8・井伊直孝・彦根・30万・・      米払吉。諸法度たたしく、武勇の沙汰有。家中風
                       儀吉。諸侍望の家也。
9・松平(結城)忠昌・福井・52万5千・・人により高下有之。中也。
10・松平(伊達)忠宗・仙台・61万5千・・古参者ハ手廻有之といへとも、新参者不望。
                       下々ノ下也。
11・佐竹義隆・秋田・20万・・     遠国ゆへ中也
12・上杉定勝・米沢・30万・・     下也
13・南部重直・森岡・10万・・     物毎大きに悪し。下也
14・丹羽光重・二本松・10万・・    父の御代より少ハ吉
15・内藤忠興・岩城・7万・・     手前不成、下也
16・保科正之・若松・23万・・     下々
17・松平(結城)光長・高田・25万・・ 米払悪しき故、中也
18・松平(結城)直政・松江・17万・・ 下也
19・酒井忠行・厩・橋・12万・・     下也
20・土井利隆・古河・16万・・     江戸詰悪し。下也
21・稲葉正則・小田原・8万・・    箱根御番しけし。中也
22・井上正利・横須加・5万・・    万事堪忍成よし。上也
23・安藤重長・高崎・6万6千6百・・ 堪忍成吉。上也
24・高力忠房・嶋原・4万・・     下々也
25・水野忠善・吉田・4万4千6百・・ 万歳々々。上々也
26・永井尚政・淀・10万・・      跡目少立により中也
27・藤堂高次・津・32万・・      主悪し。下也
28・加賀(前田)利長・小松・20万・・ 家中手前不成、下也
29・京極高和・館野・6万・・      中也。心安キ主也
30・松平(池田)光政・岡山・31万5千・・ 中也。家中風儀吉
31・松平(池田)光仲・鳥取・32万・・  家中情深シ。大方中也
32・本多政勝・大和・郡山・19万・・    国役上々。万歳々々
33・松平(峰須賀)忠英・徳嶋・25万7千・・ 家中風儀吉・上々也
34・松平(山内)忠豊・高知・20万2千6百・・ 下也
35・松平(久松)定行・松山・15万・・  中也
36・徳川(水戸)頼重・高松・13万・・  大方雖為上々
37・松平(浅野)光茂・広嶋・37万6千余・・ 上ノ家也
38・松平(毛利)秀就・萩・36万9干4百・・ 渡者ハ不望。大方中也
39・小笠原忠真・小倉・15万・・     家中作法吉。中也
40・小笠原長次・中津・8万・・     万事たゝすみ吉。上也
41・松平(黒田)忠之・福岡・52万余・・ 作法吉。上也
42・寺沢堅高・唐津・8万3千・・    家中作法悪シ。下也
43・鍋嶋勝茂・佐賀・36万7干・・    され共渡者不望。上也
44・立花忠茂・柳川・11万余・・     併渡者望家。中也
45・有馬忠頼・久留米・21万・・     主悪し。下々也
46・中川久盛・竹田・7万余・・     江戸詰吉。上也
47・稲葉信通・臼杵・5万・・      家中手前不成。中成
48・細川光尚・熊本・54万・・     下也
49・嶋津光久・鹿児嶋・60万5干7百・・ 善悪は不被申候
50・森長継・津山・18万6干5百・・  大分ハ下也
51・松平(奥平)忠明・姫路・!8万・・ 暇くれず、下也
52・松平(久松)定綱・桑名・11万・・ 風儀よし。中也
53・水野忠清・松本・7万・・     主人気遣なる家。下也
54・板倉重宗・京都所司代・4万8干・・ 下也
55・京極高広・宮津・7万5千・・   下々
56・亀井慈政・津和野・4万3千・・  下也
57・古田重恒・浜田・5万4千5百・・ 中ノ下也
58・小笠原忠知・吉田・4万・・    手前不成。下也
59・溝口宣勝・芝田・5万・・     中ノ下也
60・伊達秀宗・宇和嶋・10万・・    下也
61・長岡(細川)忠興・10万・・    人間とも鬼とも、言語演かたし
62・松平(榊原)忠次・館林・10万・・  上也
63・松浦隆信・平戸・6万3千2百・・  され共渡者不望。中也
64・伊東祐久・小肥・5万・・     万事下々也
65・小出吉英・出石・5万・・     上也
66・稲葉紀通・福知山・4万5千7百・・ 米払吉。上也
67・戸田氏鉄・大垣・10万・・    江戸詰悪し。…下也
68・松平(戸田)長重・加納・8万・・  不及紙面。下也
69・岡部定勝・岸和田・5万・・   在江戸吉。上也
70・内藤信照・棚倉・5万・・    風儀悪し。下也
71・牧野康成・長岡・7万・・    いとまくれず。下々
72・石川忠綱・膳所・7万・・    仕置悪し。下也
73・本多忠義・村上・10万・・    望やすし。下也
74・真田信之・松城・10万・・    たゝすみ不自由。下也
75・奥平忠昌・宇都宮・11万・・   作法吉。上々也
76・阿部正次・大坂城代・5万5千・・  江戸詰悪し。上也
77・仙石政俊・上田・6万・・    主人情ふかし。上也
78・浅野長直・赤穂・5万・・    家中堪忍成吉。上也
79・秋田俊季・宍戸・5万・・    無頼主不及紙面。下也
80・松平(結城)直基・最上・15万・・  下也
81・浅野長治・三吉・5万・・    上也
82・青山幸利・尼ヶ崎・5万・・   中也
83・松平(藤井)忠国・笹山・5万・・  ふるい〳〵。上也
84・松平(松井)康英・浜田・7万・・  しつかなる家中。中也
85・加藤泰興・大洲・5万・・    不及紙面。下也
86・本多俊次・勢州亀山・5万・・  せはしき事天下一也
87・菅沼定芳・亀山・4万・・    さんたんに不及悪し
88・水谷勝隆・松山・5万5千・・  渡者不望。下也
89・山崎家治・丸亀・5万・・    渡者不望。下々也
90・大久保忠季・明石・7万・・   たゝすミ吉。中也
91・黒田長興・秋月・5万・・    右衛門佐殿同前也
92・松平(久松)憲良・小室・5万・・  江戸結大方也。中也
93・津軽信義・津軽・4万7千・・   何共不及紙面
94・松平(形原)康信・高槻・4万6千・・  中ノ主也
95・本多利長・岡崎・5万1千・・   望なき家也
96・有馬康純・県・5万3千・・    万事しまらぬ御仕置
97・脇坂安元・飯田・5万3千・・   下也
98・松平(池田)輝澄・志曽・6万・・ 大方中ノ上也
99・戸沢政盛・新庄・6万8千・・   中也
●100・堀田正盛・佐倉・11万・・   せはしき御仕置強シ。手前不成、立退たかる者
                   多シ。然共御出頭に怖て、不立退不留心家。 下也。
101・織田高長・宇多・3万1千・・  人御抱無之家也
102・本多重能・丸岡・4万6千2百・・  優なる家。中也
103・新庄越前守・(麻生)・3万7千・・  中の上の主也
104・松平(能見英親)・木付・3万7千・・ 上々の主也
105・松平(大給)乗寿・館林・6万・・  中より下也
106・松平(久松)定房・今張・3万・・  中より上
107・松平(越前)昌冨・大野・5万・・  上の主也
108・堀親昌・烏山・2万・・       中の主也
109・松平(藤井)忠晴・掛川・3万・・  小身にても望家也
●110・酒井忠勝・庄内・14万・・    下の下也
拾四万石 酒井宮内殿 忠勝  庄内
物成四ツ八分。但三ツより四ツ迄に取。払悪し。牢人、済家、心はせ有者と、芸能有者を、御すき、本地をねきらす、肝煎をゑらます、望有家也。然共、近年、御舎弟、長門守殿御仕置にて、家中悪し。侍の善悪に不構、賄を以、長門守殿御意に入候ヘハ、郡代奉行役人に成、加増を取、少の事に過料を当ル。江戸詰ニ無扶持。長門守殿より金子を三割に御借、蔵米にておさへとられ候故、
家中過半身上つぶれ候。茶入、掛物、刀脇指なと、高直に御買候。金銀せめて半分も、家中へ御借、長門守殿仕置、無之ハ望の内の家也。近年の作法ハ、天下一二番のあしき主。下の下也。
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