平成26年度京都府公立高校入試に『可笑記』出題

■平成26年度京都府公立高等学校入学者選抜のための学力検査に『可笑記』が出題された。平成23年に続いて、平成26年度も出題された。


●私は、大学2年の終りの頃、『徳川文芸類聚』でこの作品を初めて読んで、私自身、大変勉強になると思ったし、殊に、その批判的要素には感激した。それで、卒論に選び、以後、ずっとこの作品と作者について研究してきた。この作品やこの作者・如儡子、斎藤親盛は、決して軽く見るべきではなく、日本文学史の上でも、それなりの位置を占めるものと思う。その意味でも、平成23年に続いて、今回も出題されたことに感謝する。今回の出題は、巻3の25段から出題された。
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『可笑記』巻3の25段は、寛永19年版11行本では、次の如くである。
振り仮名は省略した。
▲むかし、弘法大師、諸国を修行有しに、江州すりはりとうげにて、
一人の老翁が、斧を石にあてゝひた物すりまはるあり。
弘法、御覧じて、
いかに翁殿、其斧をすりて、何にし給ふ。
翁答て、
針に仕る。
弘法、からからと、わらひて、
扨、いつの世にか、其をのをすりほそめて、針にし給ふべき。其をのよりは、
そなたの命こそ、はやく、すりへるべけれ。
翁、かしらをあげて、弘法の御かほを、つやつやと、まもり、
なふ御坊、其心中にては、学文成がたし。それ、世間の無常老若、さだめが
たし。其上、事をつとめんに、命期しられざるとて、むなしく、やむべけん
や。さあらば、さいふ法師の修行も、無益成へし。
と云に、弘法、あつと心付給へば、この翁、
我は、是、此山の神。
とて、光をはなちて、飛給ふ。すりはりの大明神、是也、と。

博打八法

●今日、ネットを通して、金沢の古書店から、ひろさちや著『「賭け」と宗教』を購入した。何と、100円、送料等300円、合計400円を配達者に支払った。学生時代、神田の古書店を廻り、少しでも安い本、少しでも奇麗な本を探した頃が懐かしい。著者のひろさちや氏とは、東大の哲学を出た人で、凄くたくさんの啓蒙書を出している。このような人生もあると言うことである。

●それはさておき、博打に関する項で、『可笑記』を引用している。
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〔藤原明衡の『新猿楽記』は、当時のさまざまな職業や職人についても伝えている面白い本である。その中に双六・博打についてについても述べられている。〕
(なお、この「心得」は、〝ばくち八法の事〟として、江戸時代の仮名草子である『可笑記』にも登場する。相当に人口に膾炙したものであったらしい)。
一、心………心は大きく持て。これは当たり前のことだ。
二、物……資本は多いほどよろしい。博奕の必勝法は――論理的には――倍々と賭けることだ。負けても負けても、常にその倍額を賭けてゆけば、必ず勝てる。問題は、その資本がつづかないことだ。倍々と増加すれば、すぐに天文学的な数字に到達する。
三、手……技術。技術の向上に励め。『可笑記』では、〝三上〟と表記している。上手であること。
四、勢……勢いとは、詮ずるところ強気であろうか。『可笑記』は〝四性〟といい、執着心の強いことだという。執着心がないと、見落したり、眠くなって欺かれたりする、と解説している。なるほど、その通りだと思う。
五、力……無理矢理、力ずくでも勝とうとすること。そろそろ、おっかない心得になってきた。
六、論……論争、口げんかによって相手を言いくるめること。
七、盗……それでも負けそうになれば、敵の持ち物を盗むこと。物騒な話だ。
八、害……最後には、相手を殺してでも負けを取りかえす事。桑原桑原。
これでは安心して麻雀もやれない、といった感想を洩したくなるが、しかし安心のために賭けごとをするのではない。安心したいのなら、賭けごとはせぬことだ。賭博をやる以上は、暴力を覚悟せよというのが、だいたいの結論であろうか……。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。●これは、『可笑記』巻5の72段に出てくる。この一段は、次の如くである。
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▲かかし、
さる人のをしへに曰、
侍と生れては、弓馬の家なれば、少、弓を射ならひ、馬をかんようと、のりならふべし。
馬下手なれば、山水のかけわたしもなりがたく、万不足おほし。馬上手なれば、五騎十騎が中に、とりこめられても、たやすく、きられつきおとされず、かけ引自在にして、手柄をするは馬故也。
扨、槍太刀の兵法、心得べし。皆人毎に、兵法用にたゝぬと、いへども、それがしは、さは存ぜず。いかにとなれば、木刀しなひうちをさせてみるに、何時も、むてなるものは、たゝかるゝ。さあらば、木刀しなひうちの時の心にて、誠の切合の時、はたらき候はゝ、かならすかつべし。
しからば、兵法の用に、たゝぬにはあらずして、をのれが
憶病成ゆへに、誠の切合の時は、兼てけいこの兵法をも、
うちわすれて、とり出さぬ故也。
扨、物かく事、たしなむべし。物かゝぬ人は、万、物云事
も、ふつゝかに、大事の用もかけ、諸事に不足也。
この外、奉公のひま〳〵にしたがつて、学文詩歌、しつけがた、鉄炮など、少づゝならふべし。かへす〳〵、博奕、諸勝負などの、もてあそび、しんしやくあるべし。天下一の、上手と、いはれたるよりは、しらぬ方こそ、まさりなれ。
されば、ばくちをうつには、一心、二物、三上、四性、五力、六論、七盗、八害、とて、八つの物そろはねば、かたぬと云。
まづ、一心とは、まけても大事なしと、こゝろをおほへいにもつ事。二物とは、銭金をたくさんにもちて、一番めに、金子一両まけたらば、二番めには弐両たてゝうつ、二十両まけたらば、四十両たてゝうつ。かくのごとくすれば、一度は、何としても、かつ事あるゆへに、つゐにはかちと成。三上とは、上手がよし。へたなれば、かつ事なし。四性とは、おもひ入の、つよきがよし。思ひ入がよはければ、見おとしもあり、又、ねぶたくもなりて、ぬすまるゝをもしらず。五力とは、あまりに、まけたる時には、むりひがことを、云かけて、うばいあふ時もあり。カよはくてかなふまじ。六論とは、口をきゝ口論をして云まくり、むかふのものに、気をせかせては、きほひをとる。七盗とは、人の目をくらまし、ぬすみを
せねばかたれぬぞ。八害とは、右の一心、二物、三上、四性、五力、六論、七盗の七つを以もまけたるときは、そのあひてを、きりころして、とるより外の事なし。かくのごとくしても、かちたるがよし。
さあれば、此勝負事と云は、内心に破戒のつみふかく、外義に、五常の罪おもし。しかれば、仏神の御めぐみにもゝれ、聖賢の御をしへにそむく。
さればにや、いにしへより、かちてさかへしものはなくて、まけて、身命をうしなへるものはおほし。たとひ又かちて、当座は、よしと思へども、まけたる者は、かならずてきかたきとなる。さあらは、わざとあたをつくりて、まうくるなるべし。
物のたとへにさへ、すりきりみぐるしき風情をみては、ふるばくちうちかと、いひあへり。たとひ当座のなぐさみにするといへ共、かちまけをあらそひ、つらをあかめたるも、見にくし。其上、やゝもすれば、いはれまじき詞を、あやまり、けんくはをしいたし、身命をあやまる。第一ぶ奉公の中だち、万事用所かくると心得べし。
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●阿部さんは、博打を導入したいと叫んでいる。いやはや。

大名配列の基準

●徳川時代の諸大名の配列は、どのような基準でなされたのか。この種の大名評判記の研究では、今井圓氏の『土芥寇讎記』が早い。金井氏によれば、

① 探索書   寛永4年(1627)
② 勧懲記   延宝3年(1675)
③ 土芥寇讎記 元禄3年(1690)
④ 諫懲後正  元禄14年(1701)
⑤ 諸将連続記 元禄12年(1699)

●このような類書があり、元禄3年現在の諸大名は、243名であるという。配列はは、ほぼ石高の大きいものから小さいものへと順次配列しているという。
如儡子の『堪忍記』はどうか。

1、 徳川義直 62万石 名古屋
2、 徳川義宣 55万石 和歌山
3、 徳川頼房 28万石 水戸

●これは御三家ゆえ、トップに置かれて当然であろう。しかし、以下は、石高でもなく、地域別でもなく、その配列基準がよくわからない。ただ、問題なのは、トップの御三家と対照的に、ドン尻に、
110、酒井忠勝、庄内、14万石 が配置されていることである。
さらに追加するならば、
100、堀田正勝、佐倉、11万石 も異状である。
●この『堪忍記』の編著者は、庄内と佐倉の配列位置に関して、特別の意図を持つ人物ではないか。そう、私は考えるのである。
●如儡子・斎藤親盛は、父・広盛とともに、庄内の最上家に仕えていた。広盛は川北奉行だった。ところが、元和8年(1622)、最上家57万石は取り潰しとなり、その後に、酒井忠勝が入った。この時、斎藤広盛・親盛父子は、酒井家に採用されること無く、永年住んだ、酒田を離れて浪々の身となる。本当は、酒田にあって、酒井家に仕えたかったと思われる。しかし、その望みは叶えられなかったのである。
●斎藤広盛は、東北の関ヶ原合戦とも言われる、長谷堂合戦の折、上杉軍の直江兼続の配下として参戦している。戦後、最上家に転じたのである。最上家にあっては、川北奉行を務めるなど、酒田・筑後町に住し、活躍していた。元和8年の最上家転封の折、佐倉城主で老中の土井利勝から、広盛は、佐倉城の留守居役を要請されたという。しかし、その折、急逝してしまった、と『世臣伝』は伝えている。この、一件と、「100」番という配列は関係していないか。そのように、私は考えている。
●斎藤広盛が、川北奉行を務めていた頃の年貢皆済状なと、多くの史料が現存している。現在、酒田市、上日枝神社境内には、「齋藤筑後守記念碑」が建っている。

 

如儡子・斎藤親盛の諸大名批判

●大石学監修の『江戸時代の「格付け」がわかる本』を読んで、参考になる点があった。私の研究している仮名草子『可笑記』は、近世初期にあって、批判的要素の強い著作である。その著者の手が付加されたと思われる『堪忍記』は、また、凄い著作である。

●『堪忍記』写本1冊は、福井藩の松平文庫(松平宗紀氏蔵)に所蔵されている。大名評判記という類書の中では、最も早いもので、如儡子、43歳、正保2年(1645)頃の成立と推測される。その概略を紹介したい。
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如儡子編『堪忍記』諸大名評価一覧 
 藩主名  国名  石高             評価(部分)
1・徳川義直・名護屋・62万・・     世間不受不施、江戸童、池
                                                                       上の御門徒也と申候。
2・徳川頼宣・若山・55万5千・・    家中手前にらず。米はらひよ
                        し、所も吉。
3・徳川頼房・水戸・28万・・      御暇不被下。立出、天下せはし。江戸詰
                                                                     扶知持方つら扶持。物毎せはしく、しはき
                                                                     御仕置也。
4・酒井忠勝・小浜・12万3千・・    物ことせはしく、武道の沙汰もなく、家中
                                                                      風儀悪 し。……□式部以来、無類の悪
                                                                     しき主人、下々ノ下。
5・松平(長沢)信綱・河越・7万・・  物毎せはしく、下々に同。
6・阿部忠秋・忍・5万・・       上下に情ふかし。万端気の付た
                      る主人。役儀もすくなし。諸侍心易家中、中也。
7・阿部重次・岩付・5万・・      米払悪シ。下也
8・井伊直孝・彦根・30万・・      米払吉。諸法度たたしく、武勇の沙汰有。家中風
                       儀吉。諸侍望の家也。
9・松平(結城)忠昌・福井・52万5千・・人により高下有之。中也。
10・松平(伊達)忠宗・仙台・61万5千・・古参者ハ手廻有之といへとも、新参者不望。
                       下々ノ下也。
11・佐竹義隆・秋田・20万・・     遠国ゆへ中也
12・上杉定勝・米沢・30万・・     下也
13・南部重直・森岡・10万・・     物毎大きに悪し。下也
14・丹羽光重・二本松・10万・・    父の御代より少ハ吉
15・内藤忠興・岩城・7万・・     手前不成、下也
16・保科正之・若松・23万・・     下々
17・松平(結城)光長・高田・25万・・ 米払悪しき故、中也
18・松平(結城)直政・松江・17万・・ 下也
19・酒井忠行・厩・橋・12万・・     下也
20・土井利隆・古河・16万・・     江戸詰悪し。下也
21・稲葉正則・小田原・8万・・    箱根御番しけし。中也
22・井上正利・横須加・5万・・    万事堪忍成よし。上也
23・安藤重長・高崎・6万6千6百・・ 堪忍成吉。上也
24・高力忠房・嶋原・4万・・     下々也
25・水野忠善・吉田・4万4千6百・・ 万歳々々。上々也
26・永井尚政・淀・10万・・      跡目少立により中也
27・藤堂高次・津・32万・・      主悪し。下也
28・加賀(前田)利長・小松・20万・・ 家中手前不成、下也
29・京極高和・館野・6万・・      中也。心安キ主也
30・松平(池田)光政・岡山・31万5千・・ 中也。家中風儀吉
31・松平(池田)光仲・鳥取・32万・・  家中情深シ。大方中也
32・本多政勝・大和・郡山・19万・・    国役上々。万歳々々
33・松平(峰須賀)忠英・徳嶋・25万7千・・ 家中風儀吉・上々也
34・松平(山内)忠豊・高知・20万2千6百・・ 下也
35・松平(久松)定行・松山・15万・・  中也
36・徳川(水戸)頼重・高松・13万・・  大方雖為上々
37・松平(浅野)光茂・広嶋・37万6千余・・ 上ノ家也
38・松平(毛利)秀就・萩・36万9干4百・・ 渡者ハ不望。大方中也
39・小笠原忠真・小倉・15万・・     家中作法吉。中也
40・小笠原長次・中津・8万・・     万事たゝすみ吉。上也
41・松平(黒田)忠之・福岡・52万余・・ 作法吉。上也
42・寺沢堅高・唐津・8万3千・・    家中作法悪シ。下也
43・鍋嶋勝茂・佐賀・36万7干・・    され共渡者不望。上也
44・立花忠茂・柳川・11万余・・     併渡者望家。中也
45・有馬忠頼・久留米・21万・・     主悪し。下々也
46・中川久盛・竹田・7万余・・     江戸詰吉。上也
47・稲葉信通・臼杵・5万・・      家中手前不成。中成
48・細川光尚・熊本・54万・・     下也
49・嶋津光久・鹿児嶋・60万5干7百・・ 善悪は不被申候
50・森長継・津山・18万6干5百・・  大分ハ下也
51・松平(奥平)忠明・姫路・!8万・・ 暇くれず、下也
52・松平(久松)定綱・桑名・11万・・ 風儀よし。中也
53・水野忠清・松本・7万・・     主人気遣なる家。下也
54・板倉重宗・京都所司代・4万8干・・ 下也
55・京極高広・宮津・7万5千・・   下々
56・亀井慈政・津和野・4万3千・・  下也
57・古田重恒・浜田・5万4千5百・・ 中ノ下也
58・小笠原忠知・吉田・4万・・    手前不成。下也
59・溝口宣勝・芝田・5万・・     中ノ下也
60・伊達秀宗・宇和嶋・10万・・    下也
61・長岡(細川)忠興・10万・・    人間とも鬼とも、言語演かたし
62・松平(榊原)忠次・館林・10万・・  上也
63・松浦隆信・平戸・6万3千2百・・  され共渡者不望。中也
64・伊東祐久・小肥・5万・・     万事下々也
65・小出吉英・出石・5万・・     上也
66・稲葉紀通・福知山・4万5千7百・・ 米払吉。上也
67・戸田氏鉄・大垣・10万・・    江戸詰悪し。…下也
68・松平(戸田)長重・加納・8万・・  不及紙面。下也
69・岡部定勝・岸和田・5万・・   在江戸吉。上也
70・内藤信照・棚倉・5万・・    風儀悪し。下也
71・牧野康成・長岡・7万・・    いとまくれず。下々
72・石川忠綱・膳所・7万・・    仕置悪し。下也
73・本多忠義・村上・10万・・    望やすし。下也
74・真田信之・松城・10万・・    たゝすみ不自由。下也
75・奥平忠昌・宇都宮・11万・・   作法吉。上々也
76・阿部正次・大坂城代・5万5千・・  江戸詰悪し。上也
77・仙石政俊・上田・6万・・    主人情ふかし。上也
78・浅野長直・赤穂・5万・・    家中堪忍成吉。上也
79・秋田俊季・宍戸・5万・・    無頼主不及紙面。下也
80・松平(結城)直基・最上・15万・・  下也
81・浅野長治・三吉・5万・・    上也
82・青山幸利・尼ヶ崎・5万・・   中也
83・松平(藤井)忠国・笹山・5万・・  ふるい〳〵。上也
84・松平(松井)康英・浜田・7万・・  しつかなる家中。中也
85・加藤泰興・大洲・5万・・    不及紙面。下也
86・本多俊次・勢州亀山・5万・・  せはしき事天下一也
87・菅沼定芳・亀山・4万・・    さんたんに不及悪し
88・水谷勝隆・松山・5万5千・・  渡者不望。下也
89・山崎家治・丸亀・5万・・    渡者不望。下々也
90・大久保忠季・明石・7万・・   たゝすミ吉。中也
91・黒田長興・秋月・5万・・    右衛門佐殿同前也
92・松平(久松)憲良・小室・5万・・  江戸結大方也。中也
93・津軽信義・津軽・4万7千・・   何共不及紙面
94・松平(形原)康信・高槻・4万6千・・  中ノ主也
95・本多利長・岡崎・5万1千・・   望なき家也
96・有馬康純・県・5万3千・・    万事しまらぬ御仕置
97・脇坂安元・飯田・5万3千・・   下也
98・松平(池田)輝澄・志曽・6万・・ 大方中ノ上也
99・戸沢政盛・新庄・6万8千・・   中也
●100・堀田正盛・佐倉・11万・・   せはしき御仕置強シ。手前不成、立退たかる者
                   多シ。然共御出頭に怖て、不立退不留心家。 下也。
101・織田高長・宇多・3万1千・・  人御抱無之家也
102・本多重能・丸岡・4万6千2百・・  優なる家。中也
103・新庄越前守・(麻生)・3万7千・・  中の上の主也
104・松平(能見英親)・木付・3万7千・・ 上々の主也
105・松平(大給)乗寿・館林・6万・・  中より下也
106・松平(久松)定房・今張・3万・・  中より上
107・松平(越前)昌冨・大野・5万・・  上の主也
108・堀親昌・烏山・2万・・       中の主也
109・松平(藤井)忠晴・掛川・3万・・  小身にても望家也
●110・酒井忠勝・庄内・14万・・    下の下也
拾四万石 酒井宮内殿 忠勝  庄内
物成四ツ八分。但三ツより四ツ迄に取。払悪し。牢人、済家、心はせ有者と、芸能有者を、御すき、本地をねきらす、肝煎をゑらます、望有家也。然共、近年、御舎弟、長門守殿御仕置にて、家中悪し。侍の善悪に不構、賄を以、長門守殿御意に入候ヘハ、郡代奉行役人に成、加増を取、少の事に過料を当ル。江戸詰ニ無扶持。長門守殿より金子を三割に御借、蔵米にておさへとられ候故、
家中過半身上つぶれ候。茶入、掛物、刀脇指なと、高直に御買候。金銀せめて半分も、家中へ御借、長門守殿仕置、無之ハ望の内の家也。近年の作法ハ、天下一二番のあしき主。下の下也。
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〔古典から学ぶ〕

●横井学院予備校の〔古典から学ぶ〕という項で、『可笑記』の一節を取り上げている。

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可笑記(かしょうき)

<原文>
 人のうき世にあらんうちは、川を渡る心持ちすべし。いかにといふに、川を渡らんとき、深きと知らば、はだかになり、着る物をいただき、用心して渡るべし。また、浅きと知らば、もすそをよきほどにかかげ、用心して渡るべし。さあらは、いづれもあやまちあるまじ。されば、深き川を見損なひ、うかうかと渡りたらば、かならずあやまち後悔あらん。また、浅き川を深きと見損なひ、はだかになりて渡らんも、用意ことごとしくて、人の評判もいかがあらん。さりながら、浅き川を深きと見損なひたるは、当座の批判ばかりにて、身命において憂へ悲しみの後悔あるまじ。深き川を浅きと見損なひ候はば、かならず身命において、憂へかなしみの後悔あらん。 よつて世を渡らん心得、深浅慎むべし。
可笑記

<現代語訳>
 人がこの世にいる間は、川を渡る時の心構えを持つべきである。どうしてかというと、川を渡ろうとする時、深いと分かったら、はだかになって、着る物を頭にのせ、用心をして渡るはずだ。また、浅いと分かったら、着物のすそを適当な高さまで上げて、用心をして渡るはずだ。そうするならば、どちらの場合でも、事故はないだろう。そうであるから、深い川を見誤り、うかうかと渡ったりしたら、かならず事故を起こして後悔をすることだろう。また、浅い川を深いと見誤って、はだかになって渡るのも、用意が大げさで、人の批判もどれほどだろうか。そうであるけれども、浅い川を深いと見誤ったのは、その場限りの批判だけでからだと命という点では嘆き悲しむような後悔はないはずだ。深い川を浅いともしも見誤ると、かならずからだと命の面で、嘆き悲しむような後悔をするだろう。こういうわけであるから世の中を渡るときの心得は、深いか浅いかを慎重に考えねばならないのである。

横井の総評
 「可笑記」には、上記のように人生をいろいろな例えであらわしているものがいくつかあります。物事の状況を常に考えて行動することの大切さを説いています。
 また、作者は浪人中だったこともあり、当時の藩と武士社会を風刺したものが多く、現代でいうと会社のトップと社員そして非正規職員(=浪人)のことにつながるものがあります。

横井学院予備校 のサイト
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●これは、『可笑記』巻5の32段である。このサイトの執筆者が、この原文のテキストに、何を使用したか分らないが、寛永19年版11行本は、次の如くである。
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▲むかし、それがしのおや申されけるは、
人のうき世にあらんうちは、河をわたる心もちすべし。いかにと云に、河をわたらん時、ふかきとしらば、はだかになり、きる物をいただき、用心してわたるべし。又、あさきと知らば、もすそをよきほどにかかゝげ、用心してわたるべし。さあらは、いづれもあやまち有まじ。
されば、ふかき河をみそこなひ、うか〳〵とわたりたらば、かならずあやまち後悔あるべし。
又、あさき河をふかきと見そこなひ、あかはだかになりてわたらんも、用意こと〳〵しくて、人のひはんもいかゞあらん。去ながら、浅き川をふかきとみそこなひたるは、当座のひはん斗にて、身命においてうれへかなしひ後悔あるまじ。ふかき川をあさきと見そこなひ候はゝ、かならす身命において、うれへかなしみの後悔有べし。 よつて世をわたらん心得、深浅つゝしむべし。
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●浅井了意は、この段を評して、次の如く記している。

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 第三十二 世に住人の心得の事
……河を渡るは、ふかき浅き、ともに足本に心を付べし。君子はさもなし。物の数ならぬ小人ばらにこそ、害になる事はおほけれ。吉田の兼好が哥に
  世の中渡りくらべて今ぞしる阿波の鳴戸は浪風もなし
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最上家浪人作のベストセラー 『可笑記』

最上家浪人作のベストセラー

「へ」と申す物ハ、音ありて、手にもとられず、目にもみえず、色にもそまず、火にもやけず、水にもぬれず、きってもきられず、かくてハ、元来なき物かと思えば、腹中のときにより、いくつもある物にて候(そうろう)

初手から、屁(へ)の話とはいささか唐突で胡散(うさん)臭い。でも、これはさる人が、高僧との問答の結末に得心して出たことばなのだ。話しのいきさつはこうである。
この男、仏に具わる三つの徳を知りたいと高僧を訪う。そこで先ず、「金剛(こんごう)の正体というものを考え出してみよ」とその僧にいわれる。とりあえず彼は「藁(わら)」と答える。金剛というはき物(金剛草履)が藁でできているから、というわけだ。高僧はかすかな笑みを浮かべ、それを打ち消す。そして、上記の文脈のように「金剛の正体というハ、音ありて(中略)なき物かと思えば、元来、その時にしたがって、あるもの也」と教える。
男は「難しい問答だなあ・・」と思いながら、ひとまず高僧のもとを辞す。ところが、山門近くまで来て突然、男の脳裏に何かがひらめいた。そして、高僧の所へ急ぎ立ち返り、「ただいま教わった金剛の正体は、へであるに違いない」という。高僧は片腹痛く、可笑しさをこらえ、「その心は」と問う。そこで出た答えが、冒頭の一節である。
「へ~っ」と、ついダジャレを飛ばしたくなるところだが、彼は落語に出てくる与太郎ではない。本文の作者の意図は、実はちぐはぐで分かりにくい禅問答を揶揄(やゆ)しているのだ。
これが最上家浪人のものした、『可笑記(かしょうき)』なる仮名草子の巻第四(11段)所載の一文である。ことほど左様に、全五巻の長短280段にわたる内容は、当世批判や風刺、それに教訓に満ちていて実に面白い。とりわけ、無能な主君や家老出頭人への痛烈で執拗な批判は、およそ120数段にも及んでいる。これら多くの部分に、現代のダメな組織体にも通じるものを見て取れる。
本書の著者は如儡子(にょらいし)、本名斎藤親盛(ちかもり)。慶長8年(1603)頃に酒田に生まれたという。彼は最上家親に側近く仕え、元服時には主君から一字拝領している。だが、元和8年(1623)に重臣たちの愚かな政争によって最上家が改易、不遇な浪人生活を余儀なくされる。上述のような批判は、作者自身のやり切れない憤りが心底にあっての表現と見られる。
各段のほとんどが「むかし去る人の云へるは」、またはこれに類する書き出しである。一見作者の意見でないように韜晦(とうかい)しているのが特徴。だが、和漢の故事を引用し、それらをよく自己のものとして文中に生かしている。また、儒仏論・仏法論・経世論、それに小咄・雑話・笑話の類も多く、作者の博学ぶりと筆力のほどをうかがわせる。
本書は寛永19年(1641)刊行されるや、たちまち評判になり、万治2年(1659)には絵入の本も出版された。また、浅井了意『可笑記評判』や井原西鶴『新可笑記』など、後続の作品に大きな影響を与えた。活字本としては、『仮名草子集成』第十四巻(1993年、東京堂出版)に所収されている。

■執筆:渋谷武士(二代長谷勘三郎改メ)「歴史館だより№13/研究余滴6」より

如儡子のことば、小学生に

●府中市立小柳小学校の『小柳小だより』(平成29年2月28日発行)
に『可笑記』の作者、如儡子のことばが紹介されていた。

副校長 宮内和夫

1年の締めくくりです

5 年生が 2 月 20 日から 5 日間、あいさ
つ運動に取り組みました。小中連携の一
環で府中第六中学校からも中学生が来て
くれました。さて、「元気よくあいさつ
ができること」の次はどのようなあいさ
つの力を身に付けていけばいいのでしょ
うか。
「礼儀と云うは、むかいの人によってお
こない、時にしたがっておこなう、万事
一ぺんに心得べからず」(如儡子『可笑
記』)の教えにあるように、礼儀という
のは、相手が誰で、どのような状況にあ
るかに応じて行うものであり、決してい
つでも同じように行えばよいというもの
ではありません。
例えば、廊下でお客様と会いました、
この場面では「こんにちは」でも、会釈
や黙礼でもいいのです。先生と廊下です
れ違ったときはどうでしょうか?この日
初めて会ったのなら「おはようございま
す」「こんにちは」が言えるといいです
ね。そうでなければ会釈、目礼で十分で
す。
“目礼”は、黙っていても心が通じる、
呼吸、タイミング、そして、深い信頼関係
がなければ成立しないコミュニケーション
です。4 年生以上はぜひあいさつ上級者を
目指してみてはどうでしょうか。・・・・・・

■『小柳小だより』

『家康に天下を獲らせた男 最上義光』

●松尾剛次著『家康に天下を獲らせた男 最上義光』(2016年4月10日、柏書房発行)を読んだ。最上義光は、山形藩57万石の初代藩主である。如儡子・斎藤清三郎・親盛は、二代藩主・最上家親に仕えた。
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目次
第1章 義光――幼少から家督を継ぐまで
第1節 最上一族とは
第2節 系図を読み解く
第3節 義光の父義守
第4節 幼少期の義光
第5節 義光の母が作った文殊菩薩……
第6節 義光の妻と家族
第7節 妹義姫について
第2章 義光――羽州探題の再興を目指して
第1節 村山盆地を平定する
第2節 義光の花押
第3節 義光の印判
第4節 山形の城下町をつくる
第5節 駒姫惨殺
第3章 初代山形藩主への道
第1節 関ヶ原合戦
第2節 山形における関ヶ原合戦――長谷堂城合戦
第3節 五七万石の大大名として
第4節 山形城下の整備
第5節 庄内を開発する
第6節 筆武将としての義光
第7節 義光の死
第4章 義光のその後を追う
第1節 嫡男義康
第2節 次男家親
第3節 東北における大坂の陣
第4節 嫡孫家信――最後の山形藩主

おわりに
あとがき
参考文献
最上義光略年譜
最上義光関連文書
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●東北の関ヶ原合戦の条も山形藩改易の条も、参考になる。巻末の関連文書も充実している。
●2代藩主家親は、慶長17年1月11日、市田喜三郎に「親」の1字を与えている。斎藤家3代・清三郎親盛について、『世臣伝』は次の如く記す。

「其子、清三郎親盛〔初めは、父と倶に最上家に在り。修理大夫家親に眤近して、諱の字賜ふて、親盛とは申せしよし也。〕」

●如儡子は、最上家親から「親」の1字を賜り、親盛と名乗ったのである。このようにして、新に発見された史料によって、新たな歴史が作られる。そのうちに、東北の関ヶ原合戦とも言われる、長谷堂城合戦や、最上義光の庄内平定の場面に、斎藤広盛の名が出てくるだろう。最上家親の研究が進めば、若い家臣、斎藤清三郎・親盛の名もどこかに列した記録が出てこない、とは言えない。それが、歴史である。

『堪忍記』の厳しい評言

自由と規制、ネット模索
2016.11.12 Saturday
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●今日の朝日新聞が、ネット上の、批評・批判の表現について取り上げている。匿名ゆえの開放感から、ついつい、言いたい放題になる、私もブログなどは、傀儡子とか、fuakiとか、老人とか、使ってはいるが、必ず深沢秋男と実名をプロフィールで表示している。
●私の研究している仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛は、凄い批判力の持ち主で尊敬しているが、全国の諸大名に対して、「悪しき主人、下々ノ下」「天下三人の悪主也。下々」「情けふかし。大形中之家也。」「家中作法悪し。主人下々也」「いやなる主。諸侍不望」「子息利右エ門悪候故中也」「人間とも鬼とも述べかたし」「書面にのせがたし。下也」「武の吟味沙汰も無之中也」と続き、庄内の酒井忠勝には「あしき主。下の下也」という評言を与えている。もっとも、この書は秘書として、人目にはさらされなかった。その点、現在のネット社会の、批評の言辞には、留意しなければならない。
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(Media Times)自由と規制、ネット模索 誹謗中傷なら削除も
2016年11月12日05時00分
 ネットメディアが、掲載するブログやコメントのルール作りに乗り出している。多くの人が自由に発言できる場として支持を広げてきたが、内容に批判が殺到して削除する例が相次いだ。閲覧者の増加で影響力が大きくなり、自由と公共性のはざまで模索している。
  【朝日新聞 ネット より】

東北の関ヶ原合戦と斎藤筑後守

東北の関ヶ原合戦と斎藤筑後守
2016.11.12 Saturday
● 伊藤清郎氏の『最上義光』(2016年4月25日、吉川弘文館発行)を読んだ。最新の研究状況を踏まえたもので、大変参考になった。
● 慶長5年の、関ヶ原合戦では、徳川家康の東軍が勝利を得たが、この時、東北では、上杉景勝は、徳川家康に対立して、最上領を攻めた。この、東北の関ヶ原合戦ともいう戦いは、『可笑記』の著者・如儡子の父、斎藤広盛にとっても、その渦中にあって、大変なものであったと推測される。
●伊藤氏は、〔北の関ヶ原合戦〕の条(142頁)で、
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「上杉勢は、徳川家康の西上によって白河口が安全であることを確認した上で、慶長五年(1600)九月八日と九日に分けて、直江兼続を総大将とする約二万の大軍をもって、米沢から長井・白鷹・五百川、畑谷へと進軍する。上杉勢には、畑谷城へと向かう主力軍(中越え道)、そこから分かれて八ツ沼城・鳥屋ケ森城へと向かう軍勢、小滝道を進む軍勢、米沢道を進んで上山高楯城に向かう軍勢があった。さらに庄内からは、鶴岡の下氏の軍勢が六十里越道を進み、酒田の志駄(田)氏の軍勢が最上川沿いに進軍していった。
志駄氏が拠る亀ヶ崎城に関して、発掘によって大量の荷札・木簡が出土し、そこには「慶長五年七月三日」「志駄修理亮」「なまり玉弐千入」「なまり玉千」等が記され、亀ヶ崎城に「なまり玉」(鉄砲玉)などの武器弾薬を集め、合戦の準備を着々としていたことが考古学的にも裏付けられている。」
           【引用にあたり、注記は省略した】
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このように記しておられる。
 伊藤氏は、この条に「長谷堂合戦略図」を掲載し、酒田城の志駄氏は、最上川沿いに進軍し、古口城、庭月城を攻略したとされているが、実は、この時、志駄修理亮の配下に、如儡子の父、斎藤広盛がいたのである。後年、如儡子・親盛の子、秋盛が仕えた、二本松藩の記録、『世臣伝』には、次の如く記録されている。
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「慶長五年、主の景勝、徳川家に背き参らせし時、直江兼続〔山城守〕最上表の先陣打て馳せ向ふと聞しかば、広盛も手勢三百余人にて古口・庭月〔最上方の取手也〕の両城に馳向ひ、不日に攻てせめ落し、庄内の通路も自由なりければ、直江も安々と討ち入りて、戦ふ毎に不利といふ事なし。」

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● この記録は、斎藤家に伝わる資料に拠っているが、いずれ、これを傍証する資料が発見されるものと思われる。如儡子の父・広盛は、最初は、上杉方に属し、最上氏と戦ったが、後に、最上家に仕え、川北奉行を勤めたのである。
● 私は、如儡子、斎藤親盛の伝記を研究してきて、その父の足跡を追尋して、ここまでたどり着いた。

■ 伊藤清郎著『最上義光』

■ 「長谷堂合戦略図」
左上にある、最上川が日本海に入る
所の〔28〕が酒田城、最上川をのぼり、
〔24〕が古口城、その上の〔26〕が庭月城