ウィキペディア 【斎藤親盛】更新

ウィキペディア 【斎藤親盛】 更新

  • 2020.01.13 Monday
  • 06:36
斎藤親盛

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

斎藤 親盛(さいとう ちかもり、慶長8年(1603年) – 延宝2年3月8日(1674年4月13日))は、江戸時代前期の武士、文人・仮名草子作者。通称は清三郎。筆名如儡子(にょらいし)。幼名は清三郎、俗名斎藤以伝、法名武心士峯居士。墓は、福島県二本松市の松岡寺(臨済宗妙心寺派)。

概要

斎藤家初代光盛は、越後国、西山日光寺辺(現在の、新潟県東蒲原郡阿賀町払川)の出身と推測される。出羽の国(山形県)に移り、藤島城(山形県藤島町、現在は鶴岡市)の城代を務めたとされている。父は、斎藤家2代広盛。出羽山形藩最上氏家臣、母は東禅寺勝正の妹。清三郎は領内の酒田筑後町に生まれた。藩主の最上家親に近侍して、一字を賜り「親盛」と称した。元和8年(1622年)の最上氏の改易で浪人となり、父と共に、祖父光盛の出身地越後へ行くことになったが、父の急死で、母と共に越後へ行く。やがて江戸に出た。一時、西国大名に仕えたり医師をして生計をたてた。

その高い教養を生かして文学作品を執筆し、仮名草子の傑作『可笑記』で評価を得る。他に『百八町記』や俳諧作品、『砕玉抄』(百人一首の注釈書)がある。また、諸大名を批評した『堪忍記』もある。

万治3年(1660年)に長子の秋盛が陸奥二本松藩主の丹羽光重に仕官したことから、同地に移住して没した。

参考文献

『日本人名大辞典』、講談社、2001年
『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社、1994年

『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』、深沢秋男、近世初期文芸研究会、2010年
『如儡子百人一首注釈の研究』、深沢秋男、和泉書院、2012年
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔1〕深沢秋男(『文学研究』67号 1988年6月)
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』4号 1988年12月 )
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔3〕深沢秋男(『文学研究』68号 1988年12月 )
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔4〕 深沢秋男(『文学研究』70号 1989年12月 )
如儡子(斎藤親盛)調査報告〔5〕深沢秋男(『文学研究』78号 1993年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔1〕深沢秋男(『近世初期文芸』27号、2010年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』28号、2011年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔3〕深沢秋男(『近世初期文芸』29号、2012年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔4〕深沢秋男(『近世初期文芸』30号、2013年12月)
如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔5〕深沢秋男(『近世初期文芸』31号、2014年12月)
如儡子の祖父、斎藤家初代光盛の出自 深沢秋男(『近世初期文芸』35号、2018年12月)
典拠管理
WorldCat IdentitiesVIAF: 313456972
カテゴリ: 江戸時代の随筆家山形藩士二本松藩士1603年生1674年没

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●今日、ウィキペディアの〔斎藤親盛〕の項目を、このように更新した。私の研究を盛り込んだのである。

●斎藤家初代、斎藤光盛の出自に関しての、推測を追加した。

1年前の、斎藤親盛伝記研究

1年前の状況

  • 2019.11.26 Tuesday
斎藤筑後守広盛

●FBのコメントから、昨年の研究の状況がわかる。これらの資料を使用して、斎藤家の伝記を執筆した。現在、伝記研究は、ほぼ脱稿した。

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2018年11月26日 13:59 ·
斎藤筑後守関係資料
2018.11.26 Monday

●このところ、如儡子・斎藤親盛の伝記資料の整理をしている。二本松関係の整理が終わって、今、酒田・鶴岡関係資料を再検討している。現役の頃は、毎年毎年、二本松、酒田・鶴岡・藤島の調査に出かけていた。

●昭和63年(1988)8月17日~21日、羽田 → 庄内空港 → 酒田。田村寛三先生とお会いして、一条八幡神社へ。何と、酒田市で車を出して下さった。私は、毎回、あらかじめ、バス路線図を確認して出かけているが、このような御配慮にあずかることもあった。

●一条八幡神社では、如儡子の父、斎藤筑後守広盛の自筆文書を閲覧することが出来た。最初は、明治時代の転写本の閲覧だけという条件だった。この転写本が、極めて忠実なもので、虫損、汚れまで、詳細に写されていた。書写者の歴史史料への認識がすごい。

●宮司の小野宏司氏と、田村先生と、私と、様々話し合ううちに、小野氏は、席を外され、斎藤筑後守の自筆文書を書庫から出して来て下さった。そうして、閲覧を許され、その上、写真撮影も許可して下さったのである。

●これが、如儡子の父の筆跡か。その時の感激は、忘れることが出来ない。私の斎藤親盛の伝記研究は、このような、多くの方々の御高配によって進められたのである。
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令和版『可笑記』

令和版『可笑記』

  • 2019.11.25 Monday
令和版『可笑記』

●山形新聞、2019年11月8日付の〔談話室〕、如儡子・斎藤親盛を取り上げていた。御子孫の、斎藤豪盛氏に依頼して、コピーを送って頂いた。

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山形新聞 2019年11月8日〔談話室〕

▼▽日本で木版印刷術が急激に発達した江戸初期、仮名書きの書物「仮名草子」が流行した。「可笑記」もその一つである。多彩な分野の本が出版される中、「徒然草」に倣った随筆風の世相批判で広く人気を集めた。
▼▽浪人・如儡子の筆による。仕官がまならぬ立場故か、身分や欲得などにまつわる人生訓はひねたおかしみをまといながらも極めて鋭い。例えば他人からの贈り物について。「この品物を受け取る正当な理由があるか否か」を直ちに判断することをおろそかにするなと説く。
▼▽それを怠れば欲が生じて、受ける理由のない贈り物を受け取り後悔することになるだろうーと続く。某電力会社の幹部たちには遅すぎる警句か。さてこの如儡子、本名を斎藤親盛といい元は最上家の家臣だった。最上家の改易に伴って流転の末に、江戸で文才を開花させた。
▼▽可笑記の跋文には、若者の読書離れを憂え、書物に親しむ糸口になることを願って書いた旨が記されている。文化庁の直近の世論調査で67%強が「読書量が減っている」
と答えた。可笑記の初版から約380年。如儡子のことだ、冥府で令和版を執筆しているかもはれない。

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【はてなブログタグ】 〔堪忍記〕

【はてなブログ・タグ】  〔堪忍記〕

  • 2019.11.23 Saturday
【はてなブログタグ】  〔堪忍記〕

堪忍記    (深沢秋男執筆)

★浅井了意の『堪忍記』ではなく、如儡子の『堪忍記』

(一般)

【かんにんき】
堪忍記(かんにんき)

諸大名の藩主・石高・内情等を記し、批評したもの。写本、1冊。

【注】この『堪忍記』は、浅井了意の版本『堪忍記』とは別の、斎藤親盛(如儡子)の写本『堪忍記』である。

著者・編者

この著書には、著者名・編者名は記されていない。棚倉藩士・上坂平次郎(三休子)の『梅花軒随筆』に「……儒者斎藤意伝浪人して後、可笑記、百八丁記……、堪忍記抔を作りけるゆへ、かへつて用ひられざりしとなり。」とあり、本書の序・記述内容・批評態度・文体等を考慮すると、藩主名・石高などの基本的な資料を入手した著者が、批評などを付加したものと推測される。如儡子・斎藤親盛は、浪人中に、短期間ではあるが、さる西国大名の祐筆を勤めたことがあるという。そんな関係もあって、このような諸大名を鳥瞰する如き基礎資料に接する事もあり、これを利用して、本書を作ったのではないか。その意味では、如儡子は編著者くらいが妥当のように思う。

成立

松平文庫本(松平宗紀氏蔵、福井県立図書館保管)の内題の下に「私ニ云正保ノ比出来歟」とある。収録主要藩主の着任・離任の年を検討した結果、正保元年前後の4年間の歴史的事実を基にして作られたと推定される。松平文庫本(A)は、正保2年(1645)、内閣文庫本(B)は、正保4年(1647)の成立と思われる。

内容

松平文庫本(A)は、110の藩について、知行高・藩主・藩名・知行・物也・家臣の勤務条件・藩主に対する評価などが記され、内閣本(B)には、106の藩について、さらに、序・室・子息・家紋・旗印・江戸屋敷・家老の名等が記されている。
特色
江戸時代、諸大名の国名・知行高・物成・江戸屋敷などを記し、その主君の人となり、家臣の使い方などを批評したものに、『武家諫忍記』『武家勧懲記』『土芥寇讎記』などの類書がある。如儡子の『堪忍記』は、それらの中では、最も早い時期のものであり、また、諸大名に対する批評も厳しいものがある。『可笑記』の作者にふさわしい、批判精神旺盛な著者の特色が出ている。

諸本

1、 松平文庫所蔵本(松平宗紀氏蔵、福井県立図書館保管)。写本、半紙本、1冊。26丁。表紙は本文紙と共紙で、中央上部に「堪忍記 全 百十人」とある。内題は「堪忍記」とあり、その下に「私ニ云正保ノ比出来歟」とある。記述体裁は、110の大名について、知行高・姓名・藩名・物成・米払いの良否・年貢率・国役・江戸詰の良否・家中の風儀・主人の善悪等について簡略に記す。
2、 国立公文書館蔵、内閣文庫・和学講談所本。写本、大本、1冊。38丁。薄茶色刷毛目表紙の左肩に子持枠題簽で「堪忍記 全」と墨書。巻頭に序がある。記述体裁は、106の大名について、知行高・姓名・官位・御前・子息・家紋・旗印・領国・居城・物成・米払いの良否・年貢率・国役・江戸詰の良否・家中の跡目取立ての有無・家中の風儀・主君の善悪・江戸屋敷・家老の姓名等について記す。
3、 国立公文書館蔵、内閣文庫・昌平坂学問所本。写本、大本、1冊。38丁。薄茶色原表紙の左肩に四周単辺題簽で「堪忍記 完」と墨書。序・記述体裁など、和学講談所本と同様である。本書は、内閣文庫の蔵書目録に、昌平坂学問所本とされているが、「秘閣図書之章」の蔵書印があること、その他の点から、紅葉山文庫の旧蔵という可能性もある。

翻刻
1、 松平文庫本 堪忍記(深沢秋男校訂、『近世初期文芸』第6号、平成元年10月)。
2、 内閣文庫本 和学講談所本・昌平坂学問所本(深沢秋男校訂、『近世初期文芸』第7号、平成2年12月)。

参考

「斎藤親盛(如儡子)の研究」→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

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【はてなキーワード】の〔如儡子〕

【はてなキーワード】の〔如儡子〕

  • 2019.11.12 Tuesday
【はてなキーワード】 の〔如儡子〕

如儡子

(一般)
【にょらいし】
如儡子(にょらいし)

仮名草子作者。「如儡子」の読みは「にょらいし」が正しい。姓は斎藤、字は清三郎(せいざぶろう)、本名は親盛(ちかもり)、号は以伝、法名は武心士峯居士。慶長8年(1603)頃出生、延宝2年(1673)3月8日没。酒田(山形県)の筑後町に生れる。父の広盛は最上家親に仕え、川北三奉行の職にあった。清三郎も家親に仕え、主君から一字を賜り、親盛の名を許された。元和3年(1617)に主君・家親が急死し、最上家57万石は没収され、1万石になってしまう。最上家の後には酒井家が入ったが、広盛・親盛の父子は、酒井家に仕えず、浪人となる。浪人になった親子は、一時、祖父・光盛の出身地越後(新潟県)に行くが、間もなく父が急死し、親盛は、やがて江戸へ出る。江戸へでてから、ある大名の祐筆を務めたが長続きせず、再び浪人となる。やがて、医者となり、越後から妻子を呼び、細々と生計をたてる。万治3年(1660)に子の秋盛(ときもり)が二本松(福島県)の丹羽光重に仕えることになり、二本松へ移住する。晩年の約15年間は二本松で俳諧などを楽しみ、その生涯を閉じた。享年72歳か。亡骸は二本松の神龍山松岡寺(臨済宗妙心寺派)に葬られた。
如儡子・斎藤親盛は、18歳ころまでは、酒田の奉行の子として勉学に励み、主君・最上家親に側近く仕えたが、最上家転封の後は浪人となり、貧しい生活を送った。そのような厳しい生活の中でも、武士としての誇りをもって著作活動に励んだ。

【著作】

◎ 『可笑記』(かしょうき) 5巻5冊、寛永6年(1629)執筆開始、同19年(1642)11行本刊行。以後、12行本・無刊記本・絵入本と刊行され、近世初期を代表する仮名草子のベストセラーになった。『徒然草』や『甲陽軍鑑』を利用して著作した随筆的な仮名草子である。内容的には批判精神の横溢したもので、作者の思想や生き方がよく盛り込まれている。浅井了意はこの作品に批評を付加した『可笑記評判』を著し、以後、『続可笑記』『可笑記跡追』『新可笑記』『一休可笑記』『歎異抄可笑記』『後前可笑記』『前句付可笑記』『後可笑記』などの作品が、著された。
◎ 『砕玉鈔』(さいぎょくしょう) これは、『百人一首』の注釈書で、寛永18年(1641)頃には成立していたものと推測される。武蔵野美術大学図書館に原本が所蔵されており、書写年代も近世初期と推測され、著者の自筆本の可能性がある。内容的には、易しく『百人一首』を解説したものである。この原本を書写した諸本が多く伝わっている。
◎ 『堪忍記』(かんにんき) これは、近世初期の諸大名の石高や藩の内情を記し批評を付加したもので、成立は、正保2年(1645)頃と推測される。この種の類書の中では最も早い成立で、貴重な著作である。このような、膨大な全国の大名の情報が、浪人の著者に収集できるものではなく、如儡子は、ベースになる情報を、何らかの方法で入手し、それに批評を付け加えたものであろう。福井県立図書館の松平文庫本と内閣文庫・2本の3点が伝存している。
◎『百八町記』(ひゃくはっちょうき) 5巻5冊、明暦元年(1655)の序があり、寛文4年(1664)に京都の書肆中野道判から出版された。儒教・仏教・道教の三教一致を主張した著作である。一里三十六町、三里で百八町という書名の付け方である。内容的には仏教に重点がおかれていて、晩年は仏道(臨済宗)に帰依した著者をみる事ができる。
◎ その他、晩年の俳諧作品が多く遺されている。

【参考文献】

◎ 田中伸「『可笑記』の研究」(『仮名草子の研究』桜楓社、昭和49年)
◎ 野間光辰「如儡子系伝攷」(『近世作家伝攷』中央公論社、昭和60年)
◎ 深沢秋男「如儡子(斎藤親盛)調査報告(1・2・3・4・5)」(「文学研究」「近世初期文芸」昭和63年〜平成5年)
◎深沢秋男『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』(近世初期文芸研究会、平成22年)
◎深沢秋男『如儡子百人一首注釈の研究』(2012年3月20日、和泉書院発行)
◎「齋藤筑後守記念碑」が、山形県酒田市、上日枝神社境内に建立された(平成23年10月23日)。詳細は → http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

■「斎藤親盛(如儡子)の研究」→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

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山形藩士 → 斎藤親盛

山形藩士 → 斎藤親盛

  • 2019.11.09 Saturday
山形藩士 → 斎藤親盛

●【ウィキペディア】 で「山形藩士」を検索すると、「さ行」に「斎藤親盛」が出てくる。山形藩57万石が改易となり、20歳位の、斎藤親盛は牢人となる。如儡子のペンネームで、『可笑記』 『百人一首注釈』 『堪忍記』 『百八町記』 等の著作を遺し、晩年は多くの俳諧作品を詠じている。

●没後345年、ネットの時代に、このように扱われると、斎藤親盛は予測していたのであろうか。

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斎藤親盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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斎藤 親盛(さいとう ちかもり、慶長8年(1603年) – 延宝2年3月8日(1674年4月13日))は、江戸時代前期の武士、文人・仮名草子作者。通称は清三郎。筆名如儡子(にょらいし)。俗名斎藤以伝、法名武心士峯居士。墓は、福島県二本松市の松岡寺(臨済宗妙心寺派)。

概要[編集]
父は出羽山形藩最上氏家臣の斎藤広盛、母は東禅寺勝正の妹。領内の酒田に生まれ、藩主の最上家親に近侍して、一字を賜り「親盛」と称した。元和8年(1622年)の最上氏の改易で浪人し、父と共に、祖父光盛の出身地越後へ行くが、父の急死で江戸に出た。一時、西国大名に仕えたり医師をして生計をたてた。
その高い教養を生かした文学作品を執筆し、仮名草子の傑作『可笑記』で評価を得る。他に『百八町記』や俳諧作品、『砕玉抄』(百人一首の注釈書)がある。また、諸大名を批評した『堪忍記』もある。
万治3年(1660年)に長子の秋盛が陸奥二本松藩主の丹羽光重に仕官したことから、同地に移住して没した。

参考文献[編集]
• 『日本人名大辞典』、講談社、2001年
• 『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社、1994年
• 『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』、深沢秋男、近世初期文芸研究会、2010年
• 『如儡子百人一首注釈の研究』、深沢秋男、和泉書院、2012年
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔1〕深沢秋男(『文学研究』67号 1988年6月)
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』4号 1988年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔3〕深沢秋男(『文学研究』68号 1988年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔4〕 深沢秋男(『文学研究』70号 1989年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔5〕深沢秋男(『文学研究』78号 1993年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔1〕深沢秋男(『近世初期文芸』27号、2010年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』28号、2011年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔3〕深沢秋男(『近世初期文芸』29号、2012年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔4〕深沢秋男(『近世初期文芸』30号、2013年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔5〕深沢秋男(『近世初期文芸』31号、2014年12月)


『可笑記』香川県公立高校入試に出題

『可笑記』香川県公立高校入試に出題

  • 2019.10.31 Thursday
『可笑記』香川県公立高校入試に出題

■ 平成22年度香川県公立高等学校入学者選抜のための学
 力検査に『可笑記』が出題された。

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平成二十二年度 国語問題

問題 1 小説  村山由佳 「約束」
問題 2 古文  如儡子  「可笑記」
問題 3 論説文 渓内謙  「現代史を学ぶ」
問題 4 課題作文

………………………………………………………………………

問題 二 次の文章を読んで、あとの(一)~(五)の問い
     に答えなさい。

昔もろこし漢の文帝の御代に、一日千里をかくる名馬を進上しける時、公卿大臣、めでたき御重宝かなと申しあへりければ、文帝あざ笑ひ給ひて仰せけるは、我此の馬を重宝とは思はず、其の仔細は、我たまたま遊山なぐさみにありく時は、一日にやうやう三十里、また合戦などの時も、多くて五十里に過ぎず。かやうにそろりそろりとありきてこそ、数万の人馬も疲れず、我に続いて忠功をなす。もしまた時によつていそぐ事ありといへども、かねて疲れぬ人馬なれば、我によく続いて忠功をはげます。されば我一人千里をかくる馬に乗りたりとも、数万の人馬、千里をかけずんばあへて益なしとて、主のもとへ返し給ふ。

(注1)もろこし=昔、日本で中国を指して呼んだ名称。
(注2)漢の文帝=漢の第五代皇帝。
(注3)千里をかくる=非常に長い距離を走る。里は距離の
    単位。
(注4)公卿=朝廷に仕える高官。
(注5)仔細=事の詳しい事情。詳細。
(注6)遊山なぐさみにありく=遊びや気晴らしに出歩く。

(一)①に めでたき御重宝かな とあるが、この言葉には
  公卿大臣のどのような気持ちが表れているか。次の1~
  4から最も適当なものを一つ選んで、その番号を書け。
  1 おめでたい宝物になりますようにと祈願する気持ち
  2 すばらしい宝物でございますなあと感嘆する気持ち
  3 役に立つ宝物になるのでしょうかと困惑する気持ち
  4 ぜいたく過ぎる宝物でございますと忠告する気持ち

(二)②に 文帝あざ笑ひ給ひて仰せける とあるが、文帝
  が言った言葉はどこからどこまでか。初めと終わりの三
  字をそれぞれ抜き出して書け。

(三)③に 合戦などの時も、多くて五十里に過ぎず とあ
  るが、これはどういう意味か。それを説明しようとした、
  次の文の □□□□□ 内にあてはまる言葉を、五字以
  内で書け。
   合戦などの時であっても、自分の乗る馬が一日に□□
   □□□は、多くても五十里に過ぎない

(四)④の かやうに は、現代かなづかいでは、どう書く
  か。ひらがなを用いて書きなおせ。

(五)⑤に 主のもとへ返し給ふ とあるが、なぜ文帝は
  名馬を持ち主のもとへ返したのか。次の1~4から最も
  適当なものを一つ選んで、その番号を書け。

  1 非凡な能力を持つ珍しい馬ではあるが、持久力に劣
   るという欠点を持っているため、平凡な馬に比べ使い
   にくいから
 2 この馬は合戦の時には役立つが、平常時にはその能
  力をいかせず、平和なこの時代にはあまり必要のない
  ものだから
 3 自分ひとりが名馬に乗っても、それに家臣たちがつ
  いて来られないのでは意味がなく、価値があるとは言
  えないから
 4 自分だけが名馬を持つと、家臣の中にはそれをねた
  む心を持つ者が生まれ、自分への忠誠心が弱くなって
  しまうから
……………………………………………………………………
● この段は、『可笑記』巻4の30段である。出題にあたって、漢字仮名、送り仮名など、一部改められている。

■ 平成23年度京都府公立高等学校入学者選抜のための
  学力検査に『可笑記』が出題された。

〈各教科の特色と傾向〉の【国語】では、次のようにある。

「1 古文では、近世の文章を題材とし、内容を読み取る力
  をみるとともに、歴史的仮名遣いなどについて問い、古
  典を理解する基礎が身に付いているかどうかをみた。
 〔出典〕 「可笑記(かしょうき)」(「近代日本文学大系 第
  一巻」国民図書株式会社 より)
  如儡子(にょらいし)による、江戸時代初期の仮名草子。
  随筆風の形式をとっている。
  問題文は、人の口を出入りする「よきもの」「いたづら
  もの」と、それらの出入りに際しての態度について述べ
  た文章である。自分自身の言動にも結びつく内容を読み
  取る中で、考えを深め、古典に親しむ態度が養われてい
  くことを期待する。

 2 現代文では、(省略)」
…………………………………………………………………
一 次の文章は、「可笑記」の一節である。注を参考にして
 これを読み、問い⑴~⑸に答えよ。(12点)

  人の口は、一切善悪の出で入りする門戸なり。かるがゆゑによき番衆をすゑおきて、出入りするものどもをあらためらるべし。其のいはれは、いふまじき人のうはさをあざけり、表裏などをいひて身命をあやまつ。是れは口のうちより、外へ出づるいたづらものどもなり。又くふまじき物をくひ、のむまじき物をのみ過して、病を生じ身命をあやまつ、是れは口の外よりうちへ入るいたづらものどもなり。又金言妙句をいひ、詩歌文章のおもしろきを作りなどは、口のうちより外へ出づるよきものどもなり。又もろもろの病にくるしむ時、それぞれの薬をのみて平愈し、あるひはきかつにおよんで、水をのみ食をくらひ本復するなとは、外より口のうちへ入るよきものどもなり。かの番衆と申すは、をのれおのれが心に御座候間、よくよくこの善悪をわきまへ分別して、善をば出入り自由自在に、悪をば、出入りかたくきんぜいすべし。少しも此の番衆ゆだんしては、大事出来すべし。
             (「近代日本文学大系」による)

 注
① かるがゆゑに=だから
② 番衆=番人
③ いはれ=理由
④ 表裏=作りごと
⑤ 身命をあやまつ=身を危険にさらす
⑥ 金言妙句=立派な格言や優れた言葉
⑦ きかつ=飢えと渇き
⑧ 御座候間=ございますので
⑨ きんぜい=禁止

⑴ 本文中の 人の口は、一切善悪の出で入りする門戸なり
 は、「口」を「門戸」にたとえた比喩表現である。このように、
 比喩表現が用いられているものとして最も適当なものを、
 次の(ア)~(エ)から一つを選べ。……答の番号【1】
(ア) 今は昔、竹取の翁といふものありけり
(イ) 雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、い
  とをかし
(ウ) 沖には平家、舟をいちめんに並べて見物す
(エ) 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人
  なり

⑵ 本文中の すゑをきて・いひて は歴史的仮名遣いで書
 かれている。これらをすべて現代仮名遣いに直して、それ
 ぞれ平仮名で書け。…………………………答の番号【2】
⑶ 本文中の 出入りするものどもをあらためらるべし の
 解釈として最も適当なものを、下段の(ア)~(エ)から
 一つ選べ。………………………………………答の番号【3】
(ア) 出入りするものを改善することで新しくなさるのが
  よい
(イ) 出入りするものを吟味して善か悪か見分けなさるの
  がよい
(ウ) 出入りするものの善悪をわかりやすく説明なさるの
  がよい
(エ) 出入りするもののうち悪を善に置き換えなさるのが
  よい

⑷ 次の会話は、本文をもとに行われた、花子さんと太郎さ
 んの話し合いの一部である。これを読み、後の問い㊀・㊁
 に答えよ。
―――――――――――――――――――――――――――
 花子さん 人の口を門やとびらに見立てるという発想は
      おもしろいね。                         
 太郎さん 確かにいろいろなものが口を出入りするから
      ね。口の「番衆」として、「□□□」が果たす役
      割は重要だよ。
 花子さん そう。この「番衆」の役割は、少しの「ゆだん」
      もなく「□□□」をすることだね。
 太郎さん うん。ことわざの「口はわざわいの門」という
      のは、「番衆」が「□□□」を通してしまうこと
      を戒めたものだろう。
 花子さん でも、口に出したことが「わざわい」をもたら
      すばかりではないよ。この前の体育大会の
      「大縄跳び」を思い出してみて。
 太郎さん あのときはみんなが大声で応援してくれて、
      どんどん記録がよくなっていったね。跳んで
      いて楽しかったよ。
 花子さん 跳ぶ回数が増えるにつれて、私も大きな声を
      出して応援していたよ。あの声援は、まさし
      く「□□□」だったと思うな。
―――――――――――――――――――――――――――
㊀□□□・□□□に入る最も適当な語を、本文中から□□□
 は漢字一字で、□□□は漢字二字て、それぞれ抜き出して
 書け。……………………………………………答の番号【4】

㊁本文中の二重傍線部(  )のうち、□□□・□□□に入
 る最も適当なものを、それぞれ次の(ア)~(エ)から一
 つずつ選べ。……………………………………答の番号【5】
(ア) 口のうちより、外へ出づるいたづらものども
(イ) 口の外よりうちへ入るいたづらものども
(ウ) 口のうちより外へ出づるよきものども
(エ) 外より口のうちへ入るよきものども

⑸ 本文に述べられていることとして最も適当なものを、次
 の(ア)~(エ)から一つ選べ。………………答の番号【6】
(ア) 口にするものの善悪をよく判断して、その出入りを
  厳しく取り締まるべきだということ。
(イ) 口には善だけを選んで入れることと悪だけを選んで
  出すことの二つの役割があるということ。
(ウ) 口にするものには善悪ともに含まれているので、適
  度な量の出入りにとどめておくべきだということ。
(エ) 口はすべての善悪を生み出すもとであるから、言葉
  や食べ物には気をつけなければならないということ。

…………………………………………………………………

● 出題されたのは、『可笑記』巻二の二十六段である。近世
 初期の仮名草子作品は、仮名遣いなど、混乱しているが、
 その点は、問題作成の時に修正されている。

京都公立高校入試に『可笑記』出題

京都府公立高校入試に『可笑記』出題

  • 2019.10.31 Thursday
京都府公立高校入試に『可笑記』出題

■平成26年度京都府公立高等学校入学者選抜のための学力検査に『可笑記』が出題された。平成23年に続いて、平成26年度も出題された。

●私は、大学2年の終りの頃、『徳川文芸類聚』でこの作品を初めて読んで、私自身、大変勉強になると思ったし、殊に、その批判的要素には感激した。それで、卒論に選び、以後、ずっとこの作品と作者について研究してきた。この作品やこの作者・如儡子、斎藤親盛は、決して軽く見るべきではなく、大啓蒙期の作品として、日本文学史の上でも、それなりの位置を占めるものと思う。その意味でも、平成23年に続いて、平成26年度でも出題されたことに感謝する。今回の出題は、巻3の25段から出題された。

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『可笑記』巻3の25段は、寛永19年版11行本では、次の如くである。
振り仮名は省略した。

▲むかし、弘法大師、諸国を修行有しに、江州すりはりとうげにて、
一人の老翁が、斧を石にあてゝひた物すりまはるあり。
弘法、御覧じて、
いかに翁殿、其斧をすりて、何にし給ふ。
翁答て、
針に仕る。
弘法、からからと、わらひて、
扨、いつの世にか、其をのをすりほそめて、針にし給ふべき。其をのよりは、
そなたの命こそ、はやく、すりへるべけれ。
翁、かしらをあげて、弘法の御かほを、つやつやと、まもり、
なふ御坊、其心中にては、学文成がたし。それ、世間の無常老若、さだめが
たし。其上、事をつとめんに、命期しられざるとて、むなしく、やむべけん
や。さあらば、さいふ法師の修行も、無益成へし。
と云に、弘法、あつと心付給へば、この翁、
我は、是、此山の神。
とて、光をはなちて、飛給ふ。すりはりの大明神、是也、と。

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仮名草子 『可笑記』

仮名草子 『可笑記』

  • 2019.10.16 Wednesday
仮名草子 『可笑記』

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可笑記   かしょうき

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

可笑記(かしょうき)とは近世初期の随筆風仮名草子である。作者は斎藤親盛、筆名「如儡子(にょらいし)」。

目次
• 1概説
• 2原典の構成と成立期
• 3影響と価値
• 4脚注
• 5原典と参考書
• 6関連項目

概説

序文で作者は「この書は、浮世の波に漂う瓢箪(ヒョウタン)のように浮き浮きした気持ちで世の中の事の良しあしの区別もすることなく書き綴ったものであるから、これを読んだ読者はきっと手をたたいて笑うであろう。だから書名を『可笑記』(笑いの書)としたのだ」と述べている。江戸の社会を簡潔明快な俗文体で表現していると同時に、作者の浪人という視点から無能な支配層に対する民衆の批判も代弁している。
作者の如儡子斎藤親盛は最上家の浪人で、武家社会の辛酸を舐めた人物だった。本書は『徒然草』『甲陽軍鑑』『沙石集』などを主たる典拠にしていて、、林羅山の著書『巵言抄』『童観抄』の言説も利用している。しかし、名は伏せられているものの、羅山の合理主義的な見地から聖賢の道を論ずる姿勢への批判も見られ(巻四)、作者の苦悩が読み取れる[1]。またこれは市井の一浪人が文筆を持って当代と渡り合う、文学史における最初の例と言える[1]。
原典の構成と成立期
五巻五冊。巻一・48段、巻二・48段、巻三・42段、巻四・52段、巻五・90段、これに序と跋を加え計282段で構成されている。形式は随筆の形態をとり、配列は相互に特別深い関係はない。内容は、侍の心得に関するもの、一般庶民の心得、さらに儒教仏教の教え、さらに説話的なものなど多岐にわたる。この作品の成立時期は、跋文に「于時寛永十三 孟陽中韓」とあり、刊記に「寛永壬午季秋吉旦刊行」と記されている、よって寛永13年(1636)1月に成立し、6年半後の寛永19年(1642)9月に初版が出版されたことになる。しかし、作品のなかで、寛永15年(1638)の島原の乱について記述している箇所があることから成立後も加筆が続けられ、最終的には刊記にある寛永19年頃の完成で[2]あろうと推測される。

影響と価値

『徒然草』の近世版ともいわれる一方で、物事を無常観にとらわれる事無く全体としては明るく現実的にとらえている。また作者は兼好のように悟り切ることはできずむしろ感情の赴くまま批判的精神を吐露している。近世随筆文学の道を開いたものであり、その後多くの追随作品を生んでいる。すなわち『ひそめ草』『身の鏡』『他我身の上』『理非鏡』等々である。さらに仮名草子中最大の作者浅井了意はその著作活動の端緒で『可笑記評判』を著しその代表作『浮世物語』の後刷本を『続可笑記』として出版しているほどで、また井原西鶴も本書にちなんで『新可笑記』を発刊している。堂上俳諧人から高僧・武士・一般庶民にいたるまで多数の人に読まれ、いわゆる「〇〇可笑記」と呼ばれる浮世草子の嚆矢となり、その影響は大きいものがある。

脚注

1. ^ a b 江本 2000, pp. 19-21.
2. ^ 昭和女子大教授・深沢秋男

原典と参考書

• 『可笑記』原本の諸本

• 【1】 寛永6年跋写本     現在、所在未詳。

• 【2】寛永十九年版十一行本

• 〔1〕 京都大学文学部 〔2〕 大阪女子大学図書館 〔3〕 小川武彦氏 〔4〕 香川大学図書館・神原文庫 〔5〕 九州大学国語学国文学研究室  〔6〕 京都大学図書館 〔7〕 国立公文書館・内閣文庫 〔8〕 後藤憲二氏 〔9〕 大東急記念文庫   〔10〕 東京大学教養学部第一研究室 〔11〕 東京大学図書館        〔12〕 平井隆太郎氏(平井太郎〈江戸川乱歩〉氏旧蔵) 〔13〕 横山重氏・赤木文庫 〔14〕 龍谷大学図書館 〔15〕 龍門文庫 〔16〕 早稲田大学図書館 〔17〕 渡辺守邦氏 〔18〕 鹿島則幸氏旧蔵・桜山文庫(深沢秋男旧蔵、昭和女子大学所現蔵) 〔19〕 深沢秋男 〔20〕 ケンブリッヂ大学図書館・アストンコレクション(未見) 〔21〕 台湾大学図書館(未見) 〔22〕 岐阜県立図書館(未見)

• 【3】 寛永十九年版十二行本

• 〔1〕 国立国会図書館 〔2〕 九州大学国語学国文学研究室 〔3〕 神宮文庫 〔4〕 日本大学図書館・武笠文庫 〔5〕 会津若松市立図書館(未見)

• 【4】 無刊記本

• 〔1〕 長澤規矩也氏旧蔵(深沢秋男旧蔵、昭和女子大学現蔵) 〔2〕 お茶の水図書館・成簣堂文庫・I 〔3〕 お茶の水図書館・成簣堂文庫・Ⅱ 〔4〕 香川大学図書館・神原文庫  〔5〕 学習院大学国語国文学研究室    ●学習院女子大学高等部 〔6〕 関西大学図書館 〔7〕 京都大学図書館・潁原文庫・I 〔8〕 京都大学図書館・潁原文庫・Ⅱ 〔9〕 慶応大学図書館 〔10〕 国学院大学図書館 〔11〕 国文学研究資料館 〔12〕 実践女子大学図書館・黒川真頼・黒川真道蔵書 〔13〕 天理図書館 〔14〕 東京国立博物館 〔15〕 東北大学図書館・狩野文庫 〔16〕 名古屋大学国文学研究室 〔17〕 西尾市立図書館・岩瀬文庫    ●弘前市立図書館 〔18〕 山岸徳平氏 〔19〕 龍門文庫 〔20〕 早稲田大学図書館 〔21〕 大倉精神文化研究所附属図書館(未見) 〔22〕 岐阜大学図書館(未見)


• 【5】 万治二年絵入本

• 〔1〕 横山重氏旧蔵・赤木文庫(深沢秋男旧蔵、昭和女子大学現蔵) 〔2〕 青森県立図書館・工藤文庫 〔3〕 秋田県立図書館 〔4〕 上田市立図書館・藤盧文庫 〔5〕 大洲市立図書館 〔6〕 小川武彦氏 〔7〕 お茶の水図書館・成簣堂文庫 〔8〕 香川大学図書館・神原文庫 〔9〕 学習院大学国語国文学研究室・Ⅰ 〔10〕 学習院大学国語国文学研究室・Ⅱ 〔11〕 京都府立総合資料館 〔12〕 慶応大学附属図書館 〔13〕 国立国会図書館・Ⅰ 〔14〕 国立国会図書館・Ⅱ 〔15〕 佐賀大学附属図書館・小城鍋島文庫 〔16〕 鶴岡市立図書館 〔17〕 天理図書館 〔18〕 東京国立博物館 〔19〕 東京大学附属図書館・青州文庫 〔20〕 東京大学文学部図書室・印度哲学研究所 〔21〕 東北大学附属図書館・狩野文庫 〔22〕 東洋文庫・岩崎文庫 〔23〕 都立中央図書館・加賀文庫 〔24〕 中野三敏氏 〔25〕 山口大学附属図書館・棲息堂文庫 〔26〕 龍門文庫 〔27〕 早稲田大学図書館 〔28〕 カリフォルニア大学・東亜図書館(未見) 〔29〕 大英博物館・図書館(未見)

• 【6】 その他、取合本

• 〔1〕 印刷博物館(取合本) 〔2〕 大阪府立中之島図書館(取合本) 〔3〕 学習院大学国語国文学研究室(取合本) 〔4〕 天理図書館(取合本) 〔5〕 早稲田大学図書館(取合本) 〔6〕 渡辺守邦氏(取合本)

• 【7】 写本

• 〔1〕 甲南女子大学図書館 〔2〕 東京大学国語国文学研究室 〔3〕 昭和女子大学図書館(深沢秋男旧蔵)

• 国書刊行会 編 『徳川文芸類聚』第二巻 国書刊行会、1914年、7頁。NDLJP:945807/7。
• 版本=寛永19年11行本・寛永19年12行本・無刊記本・万治2年絵入本
• 近代日本文学大系 1・仮名草子集成 14
• 田中伸・深沢秋男・小川武彦『可笑記大成』1974年4月、笠間書院。

参考書としては「仮名草子集成」(東京堂出版)他。
• 『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』 / 深沢秋男(所沢 : 近世初期文芸研究会、2010年10月)非売品。国立国会図書館請求記号:KG216-J12
• 江本裕 『近世前記小説の研究』 若草書房〈近世文学研究叢書〉、2000年。ISBN
関連項目
• 仮名草子
• 浮世草子
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『可笑記』(かしょうき)    【はてな キーワード】

随筆的仮名草子。版本、5巻5冊。

作者

如儡子(にょらいし)・斎藤親盛(さいとう ちかもり)
版本の奥書には「于時寛永十三/孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」とあり、「如儡子」の署名はない。しかし、当時の書籍目録にも「五冊 可笑記 大小 如儡子作」(寛文10年刊『増補書籍目録 作者付大意』)とあり、二本松藩の『相生集』にも『可笑記』及び作者に関して、詳細に記されているので、この「江城之旅泊身」が如儡子・斎藤親盛であることは明白である。

成立

寛永6年(1629)執筆開始か。二本松藩の『相生集』の編者は、斎藤家の子孫から『可笑記』の写本を見せてもらい、その跋に「寛永六年の秋の頃に思ひ初て、拙き詞をつゞり初め、……」とあったと記しているので、執筆開始は、親盛27歳の頃、寛永6年としてよいだろう。最上家を辞し、浪人となって七年後のことである。

内容

中世の随筆、吉田兼好の『徒然草』の形式にならった随筆風の形式をとっている。巻1=48段、巻2=48段、 巻3=42段、巻4=52段、巻5=90段、これに、序と跋を加えて、全282の長短の文章から成る。
各段の配列は、相互に深い関連はなく、内容別に分類すると、一般人の心得に関するもの115段、侍の心得に関するもの51段、主君の道に関するもの39段、身辺雑記的なもの25段、儒教・仏教に関するもの22段、説話的なもの13段、その他15段となっている。

特色

この作品は、中世の『徒然草』の影響を受けているが、『徒然草』のように来世思想に基づくものではなく、近世初期の作品にふさわしく、明るい現世肯定・人間重視の立場から述べられている。第一の特色は、鋭い批評精神にあり、その批判の対象は、主として、無能な大名や、大名を補佐する、家老・出頭人に向けられている。「如儡子」というペンネームを使い、各段「昔さる人のいへるは」と書き出して、現実の話ではないような形式をとっているのは、この厳しい批判をカムフラージュするための手段であったと思われる。
次に注目すべき特色は、作品の文体である。当時の他の仮名草子作品の多くは、中世的な雅文体であったのに対して、この作品は、漢語や俗語など、現実に使われている言葉を自由に取り入れた、一種の俗文体で書かれている。この簡潔明快な文体は、神や仏に救いを求めることなく、人間の力を信じ、来世よりも現世を重視する、近世初期の新しい社会を表現するのに適したものであった。
次に指摘すべき点は、作者が、一段一段を作る時、実に多くの先行著作を摂取しているということである。長い戦乱で文化が中断していたこともあり、近世初期の人々は、自分たちの作品を創る前に、まず、古代・中世の文化の吸収・理解から着手した。仮名草子において、典拠の問題は、全体の作品にわたって言えることである。『可笑記』が多く利用した先行作品は、『徒然草』と『甲陽軍鑑』である。『徒然草』では、その注釈書の『野槌』や『寿命院抄』も利用している。そのほか、『沙石集』『十訓抄』『清水物語』『童観抄』『巵言抄』『論語』『孟子』などをはじめ、日本や中国の広範囲の著作に及んでいる。親盛は、若い頃、諸国を遊学して、書写するところの写本は数百巻に及んだと言うが、その素養が活かされているものと思われる。そして、これらの先行著作の利用にあたって、作者はそれらを充分に消化して、自由自在に取り入れている。その力量は高く評価してよいものと思われ、これも、この作品の重要な特色となっている。

諸本

1、写本、5巻10冊、寛永12年成立。 二本松藩士・大鐘義鳴は、天保12年(1841)に、『相生集』の「文学」の項を執筆するに当たって、斎藤親盛の子孫、9代・英盛から、斎藤家に代々伝わる資料を閲覧している。その中に『可笑記』の写本があったという。その序には「寛永十二年孟陽中幹東海旅泊身如儡子綴筆」とあり、跋には、「寛永六年の秋の頃思ひ初めて、拙き詞をつゞり初め、……万治庚子孟陽中幹武心士峯居士跋書」とあったという。この斎藤家の資料は、現在、所在が未詳であるが、今後、発見される可能性は十分にある。

2、寛永19年版11行本、大本、5巻5冊。この作品の初版本であり、写本に次ぐ原初的な形態を伝えている、最も優れた本文である。奥書には「于時寛永十三孟陽中韓江城之旅泊身筆作之」 (1636)とあり、刊記は「寛永壬午季秋吉旦刊行」(寛永19年、1642)とある。

3、寛永19年版12行本、大本、5巻5冊。この12行本は、11行本の準かぶせ版であり、11行本をかなり忠実に伝えている。句読点を付加し、振り仮名を多くして、その普及に役立った点に意義がある。11行本を利用して1行増やしたもので、奥書も刊記も11行本と同じである。刊行年は断定できないが、慶安元年(1648)頃の刊行かと推測している。

4、無刊記本、大本、5巻5冊。この版は、12行本を底本にしたものと思われるが、特殊な表現を一般的に改め、回りくどい文章を簡略化し、話し言葉を書き言葉に改め、仮名を漢字に改め、字体も小さくしており、12行本以上に普及版としての性格を持っている。後続の絵入本や可笑記評判が、共にこの無刊記本を底本にしたものと推測され、その意味では、この本文は流布本的存在であると言い得る。

5、万治2年版絵入本、半紙本、5巻5冊。無刊記本を底本に使用し、底本に対して忠実であるが、むしろ盲従的である。機械的な誤読・誤刻が多く、劣った本文と言える。しかし、この版は師宣風の挿絵・41図を付加し、半紙本という軽装版にして読者に応えたという点で意義があったと思われる。

6、万治三年刊、可笑記評判、大本、10巻10冊。著者は浅井了意。厳密には『可笑記』の諸本には入らないが、『可笑記』の本文の大部分を収録しているので、参考として加えてもよいだろう。本書は、まず、可笑記の本文を掲げ、1字下げて、批評を加えるという体裁をとっている。可笑記本文の底本は無刊記本を使用したものと推測される。無刊記本の誤りを正す事も多いが、誤脱は多く、可笑記本文としては最も劣ったものと言い得る。全280段の内、批評を付加したのが231段、批評を省略したのが46段、可笑記本文・批評共に省略したのが3段となっている。

複製

1、仮名草子選集・国立台湾大学図書館本影印(1972年1月、台北・大新書局発行)。寛永19年版11行本の複製で、巻頭に、巻1・巻3・巻5の原表紙の写真を掲げ、略書誌を付す。複製は、原本を解体して、1丁開いた形で収めている。
2、可笑記大成―影印・校異・研究―(田中伸・深沢秋男・小川武彦共編著、昭和49年4月30日、笠間書院発行)。寛永19年版11行本を複製し、脚注の形式で、寛永19年版12行本・無刊記本・万治2年版絵入本との校異を掲げる。

翻刻

1、徳川文芸類聚・第2・教訓小説(朝倉無声例言、山田安栄・伊藤千可良・岩橋小弥太校、大正3年6月25日、国書刊行会発行)。振り仮名は省略。巻1は無刊記本、巻2~巻五は寛永19年版11行本を底本に使用しているものと推定される。
2、近代日本文学大系・第1・仮名草子集(笹川種郎解題、昭和3年12月18日、国民図書株式会社発行)。送り仮名・振り仮名など、原本とはかなり離れており、異同関係から推測すると、『徳川文芸類聚・第二・教訓小説』を参照して本文作成をした可能性がある。なお、『可笑記』の挿絵として掲げるものは、古浄瑠璃『公平天狗問答』の挿絵である。
3、仮名草子集成・第14巻(朝倉治彦・深沢秋男共編、1993年11月20日、東京堂出版発行)。寛永19年版11行本を底本として、無刊記本との異同を行間に示した。ただし、全面的な異同ではない。
4、教育社新書・原本現代訳51(渡辺守邦訳、1993年11月20日、教育社発行)。寛永19年版11行本を底本にした現代語訳(抄訳)。

参考

◎斎藤親盛(如儡子)の研究→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html
◎平成22年度香川県公立高校、平成23年度京都府公立高校の入学者選抜学力検査に『可笑記』出題された。詳細 → http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html
• 江戸時代の文学作品
• 江戸時代の随筆

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●【ウィキペディア】は、何方かが立項。私が加筆したもの。【はてなキーワード】は、私が立項・執筆。
ネット百科事典で、仮名草子作品中、これほど詳細に記述されている作品は無いと思う。私が研究している作品ゆえ、リキを入れて記述した。

如儡子・斎藤親盛

如儡子・斎藤親盛

  • 2019.10.15 Tuesday
如儡子・斎藤親盛

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如儡子(にょらいし)    【はてなキーワード】

仮名草子作者。「如儡子」の読みは「にょらいし」が正しい。姓は斎藤、字は清三郎(せいざぶろう)、本名は親盛(ちかもり)、号は以伝、法名は武心士峯居士。慶長8年(1603)頃出生、延宝2年(1673)3月8日没。酒田(山形県)の筑後町に生れる。父の広盛は最上家親に仕え、川北三奉行の職にあった。清三郎も家親に仕え、主君から一字を賜り、親盛の名を許された。元和3年(1617)に主君・家親が急死し、最上家57万石は没収され、1万石になってしまう。最上家の後には酒井家が入ったが、広盛・親盛の父子は、酒井家に仕えず、浪人となる。浪人になった親子は、一時、祖父・光盛の出身地越後(新潟県)に行くが、間もなく父が急死し、親盛は、やがて江戸へ出る。江戸へでてから、ある大名の祐筆を務めたが長続きせず、再び浪人となる。やがて、医者となり、越後から妻子を呼び、細々と生計をたてる。万治3年(1660)に子の秋盛(ときもり)が二本松(福島県)の丹羽光重に仕えることになり、二本松へ移住する。晩年の約15年間は二本松で俳諧などを楽しみ、その生涯を閉じた。享年72歳か。亡骸は二本松の神龍山松岡寺(臨済宗妙心寺派)に葬られた。
如儡子・斎藤親盛は、18歳ころまでは、酒田の奉行の子として勉学に励み、主君・最上家親に側近く仕えたが、最上家転封の後は浪人となり、貧しい生活を送った。そのような厳しい生活の中でも、武士としての誇りをもって著作活動に励んだ。

【著作】
◎ 『可笑記』(かしょうき) 5巻5冊、寛永6年(1629)執筆開始、同19年(1642)11行本刊行。以後、12行本・無刊記本・絵入本と刊行され、近世初期を代表する仮名草子のベストセラーになった。『徒然草』や『甲陽軍鑑』を利用して著作した随筆的な仮名草子である。内容的には批判精神の横溢したもので、作者の思想や生き方がよく盛り込まれている。浅井了意はこの作品に批評を付加した『可笑記評判』を著し、以後、『続可笑記』『可笑記跡追』『新可笑記』『一休可笑記』『歎異抄可笑記』『後前可笑記』『前句付可笑記』『後可笑記』などの作品が、著された。

◎ 『砕玉鈔』(さいぎょくしょう) これは、『百人一首』の注釈書で、寛永18年(1641)頃には成立していたものと推測される。武蔵野美術大学図書館に原本が所蔵されており、書写年代も近世初期と推測され、著者の自筆本の可能性がある。内容的には、易しく『百人一首』を解説したものである。この原本を書写した諸本が多く伝わっている。

◎ 『堪忍記』(かんにんき) これは、近世初期の諸大名の石高や藩の内情を記し批評を付加したもので、成立は、正保2年(1645)頃と推測される。この種の類書の中では最も早い成立で、貴重な著作である。このような、膨大な全国の大名の情報が、浪人の著者に収集できるものではなく、如儡子は、ベースになる情報を、何らかの方法で入手し、それに批評を付け加えたものであろう。福井県立図書館の松平文庫本と内閣文庫・2本の3点が伝存している。

◎『百八町記』(ひゃくはっちょうき) 5巻5冊、明暦元年(1655)の序があり、寛文4年(1664)に京都の書肆中野道判から出版された。儒教・仏教・道教の三教一致を主張した著作である。一里三十六町、三里で百八町という書名の付け方である。内容的には仏教に重点がおかれていて、晩年は仏道(臨済宗)に帰依した著者をみる事ができる。

◎ その他、晩年の俳諧作品が多く遺されている。

【参考文献】
◎ 田中伸「『可笑記』の研究」(『仮名草子の研究』桜楓社、昭和49年)
◎ 野間光辰「如儡子系伝攷」(『近世作家伝攷』中央公論社、昭和60年)
◎ 深沢秋男「如儡子(斎藤親盛)調査報告(1・2・3・4・5)」(「文学研究」「近世初期文芸」昭和63年~平成5年)
◎深沢秋男『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』(近世初期文芸研究会、平成22年)
◎深沢秋男『如儡子百人一首注釈の研究』(2012年3月20日、和泉書院発行)
◎「齋藤筑後守記念碑」が、山形県酒田市、上日枝神社境内に建立された(平成23年10月23日)。詳細は → http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html
■「斎藤親盛(如儡子)の研究」→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

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●これは、私が立項し、執筆したものである。今となっては、修正すべき点があるが、パスワードを忘れてしまった。ま、いいか。

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斎藤親盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

斎藤 親盛(さいとう ちかもり、慶長8年(1603年) – 延宝2年3月8日(1674年4月13日))は、江戸時代前期の武士、文人・仮名草子作者。通称は清三郎。筆名如儡子(にょらいし)。俗名斎藤以伝、法名武心士峯居士。墓は、福島県二本松市の松岡寺(臨済宗妙心寺派)。

概要

父は出羽山形藩最上氏家臣の斎藤広盛、母は東禅寺勝正の妹。領内の酒田に生まれ、藩主の最上家親に近侍して、一字を賜り「親盛」と称した。元和8年(1622年)の最上氏の改易で浪人し、父と共に、祖父光盛の出身地越後へ行くが、父の急死で江戸に出た。一時、西国大名に仕えたり医師をして生計をたてた。
その高い教養を生かした文学作品を執筆し、仮名草子の傑作『可笑記』で評価を得る。他に『百八町記』や俳諧作品、『砕玉抄』(百人一首の注釈書)がある。また、諸大名を批評した『堪忍記』もある。
万治3年(1660年)に長子の秋盛が陸奥二本松藩主の丹羽光重に仕官したことから、同地に移住して没した。

参考文献

• 『日本人名大辞典』、講談社、2001年
• 『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社、1994年
• 『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』、深沢秋男、近世初期文芸研究会、2010年
• 『如儡子百人一首注釈の研究』、深沢秋男、和泉書院、2012年
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔1〕深沢秋男(『文学研究』67号 1988年6月)
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』4号 1988年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔3〕深沢秋男(『文学研究』68号 1988年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔4〕 深沢秋男(『文学研究』70号 1989年12月 )
• 如儡子(斎藤親盛)調査報告〔5〕深沢秋男(『文学研究』78号 1993年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔1〕深沢秋男(『近世初期文芸』27号、2010年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔2〕深沢秋男(『近世初期文芸』28号、2011年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔3〕深沢秋男(『近世初期文芸』29号、2012年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔4〕深沢秋男(『近世初期文芸』30号、2013年12月)
• 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題〔5〕深沢秋男(『近世初期文芸』31号、2014年12月)

典拠管理
• WorldCat Identities
• VIAF: 313456972

カテゴリ:

• 江戸時代の随筆家
• 山形藩士
• 二本松藩士
• 1603年生
• 1674年没

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●これは、何方かが立項し、私が加筆修正したもの。