【4】『井関隆子日記』(下)

【4】『井関隆子日記』(下)

編著書・仮名草子以外

【4】井関隆子日記(下) 昭和565年6月5日,勉誠社発行,4500円。『井関隆子日記』天保14年・15年の4冊分を収録。巻末に索引と「井関隆子関係資料(補訂)」を収録。
井関隆子関係資料(補訂) 平成29年1月補訂

上巻の解説末に「井関隆子関係資料」を掲げたが、その後知り得たもの等を追加し、次の如く補訂する。
著 作

〔1〕 井関隆子日記(別名 天保日記)
桜山文庫(鹿島則幸氏)所蔵。全十二冊。著者自筆の日記。本書に全文翻刻。現在は、昭和女子大学図書館所蔵(桜山文庫)。

〔2〕 さくら雄が物かたり
東北大学附属図書館所蔵(狩野文庫)。著者自筆、全三十九葉の物語。奥書は「此たはれふみはある人文会とて月毎にかれ是つどひておのが心〳〵の文出しける時に物しはへりし也/天保とふとしの九とせ/鹿屋園のいほぬし/源隆子しるす」とある。
内容 「えばらの君と桜の木の精の間に生れた桜雄が、花のやうに匂ひ、光るばかりに美しいので、人々がもてはやし、成長するに及んで求婚者がしきり、親はゆたかになるが、桜雄 はすべて拒絶し、ある年の春おたぎ山の麓の河に投身して死ぬ。その河のほとりに桜の木が あり、「残りなく散るぞめでたき桜花ありて世の中はてのうければ」の短冊をつけてゐたので、人々はこの河を桜河と呼んだ。
『竹取物語』・『伊勢物語』・『源氏物語』などの構想を借りながら、近世的な散華の思想に彩られた擬古物語である。又、中世の児物語や軍記物の色も濃くあらはれてゐる。」(新田孝子氏) 『図書館学研究報告』第十号(昭和52年12月、東北大学附属図書館発行)に新田孝子氏が全文翻刻。

〔3〕 神代のいましめ
松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二十六に収録。現在は、昭和女子大学図書館所蔵、「翠園文庫」に収録されている。全二十七葉の物語。末尾に「此一巻は、井関親経朝臣の御母君におはしゝ隆子の君の筆ずさみ也。茂樹いむさき江門に在し時、御もとにまゐでけるに、見せ給ひしが、いと珍らかにおぼえつれど、何くれと事しげかれば、うつしあへざりしを、後に消息の序、其よしねぎ侍つるに、やがて御みづから書て給へるになむ。君今はなき員に入給へば、わすれ形見とかくは物し置ぬ。/弘化四年文月 松隠所」という、佐渡の歌人・蔵田茂樹の識語を付す。
内容 主人公は公事に従事する某の少将で、経済的にも地位の上でも。また家庭の中もすべてに満ち足りた生活をしている。が、この少将は、ある時、平公誠の歌「隠れ蓑隠れ笠をも得てしがなきたりと人にしられざるべく」を見てから、隠れ蓑笠が無性に欲しくなる。近習に相談しても効果がないので、屋敷の内の大国神に祈願したところ、その甲斐があって、これを入手する事が出来る。この隠れ蓑笠に身をかくした少将は、無二の友や、少将の所へ出入りしてい
る歌人や、家中のすべてを任せておく家長や、深い契りを交わしている女性などの所へ行き、自分に対する様々の批評や批判、予想外の行動に接し、驚き、怒り、悔しがる。そんな事を続けているうちに、長男に、隠れ蓑のみ着ているところ(首のみ見える状態)を見られてしまい、それを知った少将は、変な噂の立つのを恐れて、隠れ蓑笠を神に返す。
『拾遺集』・『狭衣物語』・『宝物集』等を通じて、平安朝の散逸物語『隠れ蓑』を頭に浮かべ。
更に『今昔物語』等に伝えられる隠れ蓑の伝承や『日本書紀』をも参照して一編とした物語で、
天保十年には成っていたものと推測される。『文学研究』第四十六号(昭和52年12月)に全文翻刻。

〔4〕 井関隆子長短歌
松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二十六に収録。蔵田茂樹に書き送った長歌三首と反歌等を収める。現在は、昭和女子大学図書館所蔵、「翠園文庫」に収められている。学習院大学図書館には『神代之誡』『井関隆子 歌』の写本が所蔵されている。これは明治十七年十二月に佐藤硯湖が右の翠園叢書から転写したもので、雕虫居写本全一六〇冊の内、第一四五冊目に収められている。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に全文翻刻。

〔5〕 野山の夢・跋
蔵田茂樹著『野山の夢』の巻末に書き添えたもので、末尾に「天保とふ歳のとゝせ冬の中
ら源隆子しるす」とある。巻頭の序は清水巡が記している。松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻
二十八に収録。『文学研究』第四十六号(昭和52年12月)に全文翻刻。現在は、昭和女
子大学図書館所蔵、「翠園文庫」に収録されている。

〔6〕和歌一首
蔵田茂樹の『恵美草』を書写した折、千畳敷の条に書き添えたもので。桜山文庫(鹿島則
幸氏)所蔵本と『佐渡史林』所収本に見られる。歌は「いづくはあれど、こゝのあそびのいとうらやましくて、/すがだゝみ千重敷いそにうたげせるさどのしま人ともしきろ鴨隆子」

〔7〕 和歌三首
木内有渓編、天保四年刊の歌集『秋野の花』全三巻に「隆子」の歌として次の三首が入っ
ている。
上巻、九丁表、一首目に「夜春雨 隆子/宵のまはしられざりしを春の雨更ゆくまゝに音
の聞ゆる」 上巻、二十九丁表、五首目に「夏風 隆子/月花と人はいへども夏の日に風
ふくばかり嬉しきはなし」 中巻、十一丁裏、四首目に「月前菊 隆子/手にとらばこぼ
れやせまし菊の露月影乍らおらまほしきを」
巻末の入集歌人一覧に「三首 同(江戸) 紀州家大奥侍女 隆子」とあるが、この「隆
子」が井関隆子と同一人物か否か、現在のところ未詳である。参考のため掲げた。
書写本

〔1〕 宇津保物語考
静嘉堂文庫所蔵。。一冊。桑原やよ子の著作を隆子が書写したもの。書写は『井関隆子日
記』と同筆で、巻末に、
「此ふみは臼井房輝ぬしのもたるをかりてうつせる也/天保のとゝせとふ年の秋なが月
隆子」とある。

〔2〕 恵美草
国会図書館所蔵。一冊。蔵田茂樹の著作を隆子が書写したもの。書写は『井関隆子日記』
と同筆で、巻末に「天保十三年三月写之 みなもとのたか子」とある。
著者関係

〔1〕 井関家過去帳
井関家所蔵。菩提寺・喜運寺の過去帳より昭和九年に転写したもの。喜運寺の過去帳が焼
失してしまった現在、貴重な存在である。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に全文翻刻。
〔2〕 井関家墓石(喜運寺に現存)
正面 紋(丸の内に剱梅鉢)「賢良院殿徳翁宗善居士/慶長十四己酉歳四月十二日/一参道吸居士/慶長二十乙卯歳六月十二日」
向かって左「井関家始祖近江国住人次郎右衛門親秀法号賢良院葬地不知右嫡男猪兵衛親正法号一参道吸慶長二十乙卯年大坂御陳御供負深手於尾州熱田同年六月十二日死去葬地不知」
向かって右「嘉永五壬子年十月再建/井関氏/普光院義山清道居士 昭和八年五月二十六日 清/花水豊徳大姉 昭和四十三年四月十三日 トヨ」 ★昭和56年4月「瑞光院花
水豊徳大姉」と追贈された。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に全文翻刻。

〔3〕 庄田家系譜
庄田家所蔵。正本と副本がある。

〔4〕 昌清寺過去帳
昌清寺所蔵。『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)に一部翻刻。

〔5〕 庄田家墓石(昌清寺に現存)
正面「寂光院殿通誉理徹居士/元禄十一戊寅年十月廿六日」
向かって右「俗名/庄田五郎左衛門尉安議」『文学研究』第五十三号(昭和56年6月)
に写真掲載。

〔6〕 井関親経・短冊「くもりなく西にかたふく月影にいやしのはるゝむかしなる哉 親経」
(千蔭翁年回に捧げる一首)
北野克氏所蔵。
調査・報告・論考

〔1〕 鹿島則文氏識語
明治十五年の調査結果を記したもので『井関隆子日記』の原本に付されている。親賢の実
家・戸張家の子孫と直接言葉を交わした様子も知られ、貴重な記録である。(本書・上巻、
四二三頁)
〔2〕 国立国会図書館所蔵『恵美草』の書写者について
深沢秋男。(『参考書誌研究』〈国会図書館〉第十一号、昭和50年6月)
〔3〕 桜山文庫所蔵『天保日記』とその著者について
深沢秋男。(『文学研究』〈日本文学研究会〉第四十二号、昭和50年11月)
〔4〕 或る旗本夫人の日記から見た江戸の風俗について――新資料『天保日記』の紹介をか
ねて――
深沢秋男。(東京の歴史研究会・第一二四回例会、昭和51年2月21日、新宿区立中央図
書館)  ★この内容は、口頭発表で活字化されていない。
〔5〕 井関隆子研究覚え書
深沢秋男。(『文学研究』第四十四号、昭和51年11月)
〔6〕 井関隆子研究覚え書(二)――新資料『神代のいましめ』の紹介――
深沢秋男。(『文学研究』第四十六号、昭和52年12月)
〔7〕 「さくら雄が物かたり」――館蔵稀覯本翻刻 1――
新田孝子。(『図書館学研究報告』〈東北大学附属図書館〉第十号、昭和52年12月)
〔8〕 『井関隆子日記』の歴史的記述――徳川家斉の歿日について――
深沢秋男。(日本随筆大成第三期二十三巻付録、昭和53年7月)
〔9〕 井関隆子作『神代のいましめ』について
深沢秋男。(『文学研究』第四十七号、昭和53年7月)
〔10〕 井関隆子のこと
深沢秋男。(掃苔会・月例会、昭和54年10月27日、芝増上寺)
★これは、口頭発表であり、活字化されていない。
〔11〕 井関隆子の文芸――館蔵「さくら雄が物かたり」の著者――
新田孝子。(『図書館学研究報告』第十三号、昭和55年12月)
〔12〕 井関隆子日記の文芸性
新田孝子。(日本文芸研究会・月例会、昭和56年1月17日、東北大学)

【正誤表】  【省略 原本参照】
この誤りについて、新田孝子・清水正男・新島繁、三先生の御教示を賜りました。厚く御礼
申し上げます。
付  記

上巻を出してから、この下巻まで予想以上の日時を費やしてしまいましたが。これは全く私の事情によるもので、この点誠に申し訳なく思います。殊に桜山文庫の所蔵者・鹿島則幸様には、貴重な御所蔵本を八年間という長期に亙って借覧させて頂く結果になってしまいました。隆子自筆の孤本でもありますので、勉誠社の御配慮で全冊複写してフィルムを別に保管し、原本も使用しない時は銀行の貸金庫に入れ、この『日記』の保全に留意してきましたが、今、事無く桐箱入りの元の姿で御返却できます事を本当によかったと感謝しております。★昭和56年7月25日、御返却済みです。
中巻刊行後、東北大学附属図書館・狩野文庫に隆子の物語『さくら雄が物かたり』が所蔵されていろ事を知り、新田孝子先生は以前からこの作品を手がけておられた事を知ることができました。これで隆子の作品は『神代のいましめ』(松本誠先生蔵)・『水鳥』(『日記』所収)と合わせて三つになりました。また、長い伝統をもつ掃苔会でお話しさせて頂いたお蔭で、北野克先生から隆子の子息・親経の短冊を見せて頂くこともできました。『日記』を核として、井関隆子という、今まで埋もれてきた一人の女性、一人の作者が次第に明らかになってきましたが、これは非常にうれしい事です。
上巻刊行後、『日記』にお寄せ下さいました、諸先生のお心のこもった御批評は、この作業を続ける上で大かな励みとなりました。
以上の皆様方に深甚なる感謝の意を表します。
この下巻には『日記』以外の隆子の作品・書写本等を口絵として掲げることを得ました。これら諸資料の使用を御許可下さいました、東北大学附属図書館をはじめとする各所蔵者に対し、厚く御礼申し上げますと共に、この困難な出版を快くお引受け下さり、最後まで御高配を賜りました勉誠社に対し、心から感謝申し上げます。
昭和五十六年一月十七日
深 沢 秋 男

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【追 記】
〔日記文学として〕

鹿島則文の〔桜山文庫〕の中に所蔵されていた、近世末期の女性に出会ったのは、昭和47年(1972)である。今から45年前になる。8年間かけて、全3冊の校注を終え、世に問うた。しかし、世間は甘くなかった。なかなか、日記文学としては認めてもらえなかった。私は、日記文学とは何か、という提言を繰り返さなければならなかったのである。
仮名草子研究を8年間中断して取り組んだ仕事である。これが、日記文学として認められなければ、私の、この作品に対する文学的評価は誤っていたことになり、文学研究者としての生命は絶たれることになる。私にとっては、切実な問題だったのである。
しかし、この作品をじっくりと読み、その価値を認めてくれる研究者が次第に出てきた。重友毅氏、新田孝子氏、野口武彦氏、秋山虔氏、堤精二氏、田中伸氏、ドナルド・キーン氏、江本裕氏、……。思いつくままに掲げると、このような方々が、日記文学として評価してくれたのてある。思いつくままに掲げたが、まだ、いると思う。私は、これらの識者に救われたのである。
〔大学入試問題に出題〕

〔1〕 平成11年度、センター入試・国語、本試験に出題
〔2〕 平成11年度、センター入試・日本歴史、追試験に出題
〔3〕 平成20年度、明治大学入試に出題
〔4〕 平成23年度、京都大学入試に出題

大学入試問題に出題される、という事は、何を意味するか。その文章が一人前である、ということであろう。文章が水準に達していなければ文学作品の価値は無い。私が、この著作物を世に問う決断をしたのは、この文章であった。この文体は、当時の国学者流の擬古文ではない。井関隆子の文体である。しかも、間違いが少ない。約64万字の中で、誤りと思われるのは、10箇所前後に過ぎない。古代語ではなく、近代語である。驚くべき文章である。しかも、著者の意の赴くままに、いかなる内容も書き込んでいる。驚くべき熟達した文章力である。私は、大学入試に採用される度に、自分の校訂にミスは無いか確認した。幸い、これまでのところ、私のミスは無いように思う。校訂者の責任は、ここまで負わなければならない、と私は考えている。
〔優れた研究論文〕

『井関隆子日記』に関する研究も、最近は、かなり行われるようになった。近世の日記文学として認められてきた、そう言ってもよいかと思う。それらの研究の中で、真下英信氏の一連の研究が、最も注目される。今後、この作品の文学的研究は、新田孝子氏と真下英信氏の研究を踏まえて行われる必要がある。

○『井関隆子日記』に見られる地震の記述
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第26号 2009年3月刊行
○井関隆子の自然を見る目
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第27号 2010年3月刊行
○『井関隆子日記』に見られる地震の記述 補遺
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第28号 2011年3月刊行
○『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第27号 2012年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:天気の記述
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第30号 2013年3月刊行
○補遺“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第30号 2013年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:鳥
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第31号 2014年3月刊行
○補遺2“江戸は諸国の掃き溜め”との表現について
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第32号 2015年3月刊行
○音で読む『井関隆子日記』:物売り
真下英信 「慶應義塾女子高等学校研究紀要」第32号 2015年3月刊行

私は、この井関隆子の研究として、『井関隆子の研究』を、平成16年、2004年に和泉書院から出した。これが、私の研究の総まとめである。未知の作品を校注した私には、ここまでしか解らなかった。今後は、多くの方々によって、この幕末の女性の価値が解明されることを願っている。
〔自筆原本の所蔵者〕
【桜山文庫】

井関隆子自筆の原本は、鹿島神宮、第67代宮司、伊勢神宮宮司・鹿島則文のコレクション「桜山文庫」に所蔵されていた。
私は、所蔵者の鹿島則幸氏の依頼を受けて、「桜山文庫」の一喝譲渡の件を進めた。その結果、昭和61年9月17日、昭和女子大学図書館は、桜山文庫、第1次、5683冊受入れ完了したのである。第2次、第3次と進められ、現在、国文関係書は、昭和女子大学図書館の所蔵となっている。

【翠園文庫】

鈴木重嶺・翠園の蔵書、「翠園文庫」は、最後の佐渡奉行、明治の歌としても知られる鈴木重嶺・翠園の自筆草稿を含む貴重なコレクションである。御子孫の松本誠先生御夫妻の御厚意によって、これらの蔵書が、昭和女子大学図書館に寄贈されることになり、平成8年2月20日(1996)、『翠園叢書』全68冊、『翠園雑録』全23冊を始め、鈴木重嶺の自筆本等、貴重な蔵書が、昭和女子大学図書館に寄贈された。

平成29年、2017年1月9日
深沢秋男

【3】『井関隆子日記』(中)

【3】『井関隆子日記』(中)

編著書・仮名草子以外

【3】井関隆子日記(中) 昭和55年8月30日,勉誠社発行,4500円。『井関隆子日記』天保12年・13年の4冊分を収録。巻末に「鹿島則文と桜山文庫」を収録。

鹿島則文と桜山文庫

鹿 島 則 文
      生  二四九九  天保一〇年正月一三日
      没  二五六一  明治三四年一〇月一〇日〔年〕六三

  総叙 〔国学者概伝〕桜宇卜号ス、則瓊ノ孫ニシテ則孝ノ長子ナリ、吉川天
  浦安井息軒等ニ学ビ儕輩ニ重ゼラル、文久二年京師ニ到り深ク皇室ノ式微ヲ
  患ヒ広ク諸藩ノ有志卜交り奔走スル所アリ此年従五位ニ叙シ出羽守ニ任ズ、
  同三年神武館ヲ鹿島ニ起シ専ラ志士ヲ招キテ以テ他日ニ期セソトス、慶応元
  年幕府ノ忌ム所トナリ八丈島ニ流サル、明治二年赦サレテ帰国シ、其私有セ
  ル田野ヲ資トツテ稽照館ヲ建テ大ニ人材ノ養成ヲ計ル、六年父ニ代リテ大宮
  司トナリ、公務ノ余益々育英ノ業ニ力ム、十七年伊勢神宮々司ニ任ゼラレ、
  大ニ積年ノ弊ヲ一洗シ、祭儀ヲ復古シ官制ヲ改革ス、別ニ神苑会ヲ起シテ両
  宮ニ神苑ヲ開キ皇学館ヲ建テ徒ヲ養ヒ、編纂所ヲ設ケテ古事類苑以下有益ノ
  出版アリ、又林崎文庫ヲ修メ広ク異本ヲ集ム、同三十一年職ヲ辞シテ郷里ニ
  帰り老ヲ養フ、三十四年特旨ヲ以テ従四位ニ叙ス、同年秋ニ至り病ニカヽリ
  テ没ス。

 『国学者伝記集成』の右の記述によって、鹿島則文の大略は知り得るが、以下、その生涯と業績とについて、やや具体的に紹介してみたい。
 則文は鹿島神宮・宮司家の六十六代・則孝と瑳智の間に長男として生まれた。鹿島町に鎮座する神宮の宮司家・塙鹿島家の家系を略記すると次の通りである(注一)。
 天児屋命――大押雲命――天多弥伎命――宇佐津臣命――大御食津臣命――伊香津臣命――迹臣命――神聞勝命――久志宇賀主命――国摩大鹿島命――臣狭山命――狭山彦命――大鹿見命――建彦命――島根大連――波波良麻呂――佐佐麻呂――千志麻大連――小主――東麻呂――春魚――国石――広庭――鹿門――諸躬――武主〔天平十八(七四六)年三月中臣鹿島連の姓を賜う〕――大宗――治嶋――治風――武則――則高――則成――則助――則綱――則純――則景――則長――則宗――則常――則行――則雄――則光――則幹――則仲――則藤――則国――則密――則弘――則隆――則満――則煕――則房――則家――則恒――則久――則興――則盛――則広――則敦――則直――則長――定則――則備――則峰――則瓊――則孝――則文――則泰・敏夫――則幸――則良
      【★終わりの部分一部省略 原本参照】 

 則文の生涯を伝えるものとして、『先考略年譜稿』が鹿島家に所蔵されている。これは、則文の次男・鹿島敏夫氏が作成されたものであるが、信頼し得る貴重な資料であると思われるので、その全文を紹介したいと思う(注二)。       

先 考 略 年 譜 稿      鹿島敏夫

天保十年〔己亥〕正月十三日辰刻出生布美磨卜命ズ   
  十四年〔癸卯 五歳〕初メテ歌ヲ詠ズ祖父君ノぱ膝上ニ抱カレ小説〔草双紙〕 
    ヲ読ム 初メテ孝経ヲ読ム
弘化元年〔甲辰 六歳〕三月十一日袴着祝夕ヲ為ス
  四年〔丁未 九歳〕初メテ詩ヲ作ル
嘉永四年〔辛亥 十三歳〕吉川天浦ニ付キ左氏伝ヲ読ム
  六年〔癸丑 十五歳〕十一月二日元服矗之輔卜改名
安政三年〔丙辰 十八歳〕比年ヨリ意ヲ詩文ニ用フ
  六年〔己未 廿一歳〕二月朔日参宮初メ大宮司職見習〔祖父則瓊君拝礼教授
    セラル永年ノ勤務吉例ニ依也〕 三月三日祖父父卜三名参宮〔家ニ於テ
    初メテノ儀式ナリ〕
万延元年〔庚申 廿二歳〕此年江戸息軒安井仲平ノ塾ニ入有志ノ輩卜交ル
文久元年〔辛酉 廿三歳〕十二月十一日下総佐倉藩植松求馬永躬長女鉉子ヲ妻ル
    〔十八歳〕
  二年〔壬戌 廿四歳〕十一月禁中ヨリ米丗石御寄附ニヨリ七日父ニ代り上京
    ス十二月十三日御米受取ル廿四日叙従五位下任出羽守〔上卿冷泉中
    納言為理卿職事葉室右大弁長順朝臣〕   
  三年[癸亥 廿五歳]正月十日帰郷十一月水戸藩士及浪士有志等誠心組卜称
    シ下生根本寺ニ屯集文武館ヲ建テ神宮ニ奉納スルヲ乞フ此ノ輩尊王攘
    夷敬神廃仏ヲ説キ過激ノ徒之ニ雷同シ神宮寺ノ大仏ヲ毀リ寺ヲ焚キ富
    蒙ニ金ヲ課スルニ至ル神官ノ中之ニ党スルモノアリ〔是ヨリ前水戸有
    志水戸ニ水門館小川ニ小川館潮来ニ潮来館ヲ起シ文武ヲ磨キ攘夷ノ先
    鋒タランヲ期スケダシ之ニ習ヒ機脈ヲ通ズルナリ〕
元治元年〔甲子 廿六歳〕正月水戸藩士根本寺屯集ノ徒藩名ヲ濫用シタリトテ捕
    ヘテ潮来ニ押送シ遂ニ水戸ニ送ル〔実ハ幕府ヨリ手入アルヲ聞キ己ガ藩
    ニ伴ヒシナリトイフ〕後之ヲ免スト云六月寺社奉行ヨリ浪士ノ件ニ付父
    則孝ヲ召ヨセ尋問セラル東鹿島江戸ニ出則文暴徒ニ与同スト誣告スルヲ
    以テナリ則文出府之ヲ弁ス是レヨリ明年迄父子度々出府ス
慶応元年〔乙丑 廿七歳〕七月廿五日妄ニ浪士ニ文武館ノ地ヲ貸シ之レト交通ス
    ルニ坐シテ揚屋入十月廿九日遂ニ遠島セラル〔掛寺社奉行土屋采女正父
    則孝職務取上ゲ押込〕鹿島家落晩此ノ時ニ究ハマル
  二年〔丙寅 廿八歳〕五月廿四日八丈島ニ謫セラル〔二月廿一日父則孝押込
    御免三月廿七日則瓊大宮司再任〕
  三年〔丁卯 廿九歳〕十二月七日則泰出生幼字太郎
明治二年〔己巳 丗一歳〕五月朔日遠島御免廿八日帰京六月五日赦免職掌位階従
    前ノ通リ十日帰島御礼奏者所へ出頭十三日帰国七月朔日稽照館開講〔従
    前ノ会議所ヲ校舎ニ用フ父祖以来ノ素志ヲ達ス〕八月二日父代理トシテ
    神宮祭典復古ノ儀ヲ神祇官へ出願〔康安ノ祭式ニヨル〕四日本氏鹿島ニ
    復スルヲ同官へ届〔中世ヨリ居住ノ地名ニ依塙卜云〕廿日総神官改補職
    禄加増式ノ儀ヲ出願〔文永ノ補任ニヨリ禄ハ上ヲ減ジ下ヲ益ス人皆悦
    服ス〕其許サル廿日太郎初メテ鹿島ニ下向ス九月九日復古大祭典修行十
    一日在島中島地へ奉祀シタル鹿島香取両御分霊ヲ斎祀ス十一月廿三日学
    校保存資トシテ伝来ノ除地収納米ヲ寄附ス
三年〔庚午 丗二歳〕七月十一日神幸祭始メテ執行〔数百年来中絶再興〕九月四
    日大奉幣使参向父ノ介副ヲ命ゼラレ父子ニテ勤ム
四年〔辛未 丗三歳〕六月廿八日父子三名位記返上七月十七日総神官御暇乞トシ
    テ香取神宮へ参拝〔則孝則文同伴〕長村神祇少史千代田史生出張諸調ア
    リ十月廿六日后三時敏夫出生
五年〔壬申 丗四歳〕七月八日教部省ヨリ総神官被免神勤即日少宮司ニ任ゼラル
    九日大講義兼補
六年〔癸酉 丗五歳〕三月四日大宮司ニ任ゼラレ権少教正ニ兼補七月十二日士族
    編入十四日新治県管内教導取締申付ラル八月廿二日大教院詰被申付九月
    茨城県内教導取締被申付是レヨリ十五年神職教職分離ニ至ル迄東西奔走
    一年内六分(旅宿ニアリ
七年〔甲戌 丗六歳〕 一月一日大教院焼失〔芝増上寺〕御撰迀座ヨリ事後処分
    ニ至ル寧日ナシ五月廿二日正七位ニ叙セラル十一月十九日少教正廿三日
    前三時祖父則瓊君卒年八十九三笠山ニ葬ル
八年〔乙亥 丗七歳〕 一月四日祖母真志子君卒〔七十七〕三笠山ニ葬ル
九年〔丙子 丗八歳〕 一月十四日前三時三子出生九月七日父則孝君隠居則文家
    督相続
十年〔丁丑 丗九歳〕十二月八日大宮司免ゼラル十二日宮司ニ任ゼラル
十一年〔戊寅 四十歳〕二月六日兼補権中教正六月廿六日前六時淑男出生七月日
    比谷神道事務局詰被命
十二年〔己卯 四十一歳〕十二月四日祖父母君ノ碑ヲ三笠山ノ墓地ニ建〔撰文吉
    川久勁 書松岡正久〕
十三年〔庚辰 四十二歳〕四月廿六日配当禄下賜〔二百石現米六十四石五ヶ年合
    計金七百八十六円○五銭〕八月廿五日神道事務局ヨリ茨城県下神道事務
    分局長ヲ命ゼラル
十四年[辛巳 四十三歳]二月仮殿ヲ東方ニ移シ二ノ鳥居ヨリ神前ニ至ル敷石出
    来三月廿二日神道総裁〔一品勲一等〕有栖川宮幟仁親王殿下ヨリ幹事交
    代員被申付御暇ノ節末広平甕下賜二月九日后五時丗分五止子出生
十五年〔壬午 四十四歳〕一月神官教導職兼補被廃九月廿日皇典講究所委員委托
    被申付同日茨城県皇典講究分所詰被申付十一月四日皇典講究所開畳
十六年〔癸未 四十五歳〕十二月茨城県下水戸筑波大原神道事務三分局統理被申
    付同月茨城県皇典講究分所長被申付
十七年〔甲申 四十六歳〕四月二日神宮々司任命五月八日家ヲ擕テ赴任
十八年〔乙酉 四十七歳〕四月廿一日叙従六位七月家族卜尾濃ニ遊ブ七月五日二
    女いと子死ス宇治今北山ニ葬ル
十九年〔丙戌 四十八歳〕三月七日家族卜京坂ニ遊ブ五月四日三重県皇典講究分
    局督被申付
二十年〔丁亥 四十九歳〕三月七日皇大皇后神宮御参拝ニ付拝謁三月廿五日叙正
    六位六月廿五日久邇宮ヨリ神苑会仮会頭被申付
廿一年〔戊子 五十歳〕六月廿五日三重県へ転籍十一月父君中風ヲ病ム三週間ニ
    シテ癒十二月十一日新築皇城拝観          
廿二年〔己丑 五十一歳〕十月二日神宮式年迀宮奉仕同五日豊受宮奉仕〔式年迀
    宮ハ維新後明治二年一回ノミ維新ノ際ナルヲ以テ行卜ヾカズ今回ハ神殿
    神室皆十分ノ取調ヲ経残所ナシ〕
廿三年〔庚寅 五十二歳〕三月妻卜畿内紀州播磨辺漫遊同廿七日神宮御造営祭典
    挙行其他旧儀取調尽力不尠ニ付特旨叙従五位八月神祇官運動ノ為メ上京
    〔今井主典木庭仝〕時ニ熱田神宮御新築神宮卜仝構造卜為サントスル議
    アリ又正義之ヲ論弁ス事端縺テ解ケズ祭主宮御気嫌能力ラズ攻撃大ニ起
    ル然レドモ遂ニ事ナシ十一月十三日妻卜赤坂御所菊花拝観十二月四日隠
    居則泰家督ス
廿四年〔辛卯 五十三歳〕八月六日皇太子殿下両宮御参拝十月廿四日祭主久邇宮
    神嘗祭ニ御参向宇治ノ官舎ニテ薨去ニ付繁忙
廿五年〔壬辰 五十四歳〕十月二日父則孝君卒年八十宇治今北山ニ葬ル
廿六年〔癸巳 五十五歳〕十月十五日母瑳智子卒ス年七十宇治今北山父君ノ傍ニ
    葬ル
廿七年〔甲午 五十六歳〕神都名勝誌成ル二月神宮皇学館ヲ□□ス是レヨリ先赴
    任後直チニ学校ヲ興シ神官子弟ヲ教育ス此ニ至り館舎ヲ新築シ教員を増
    聘シ生徒ヲ全国ニ募リ大ニ之ヲ拡張ス
廿八年〔乙未 五十七歳〕一月十五日祭主有栖川宮薨去同廿八日広島大本営土方
    宮内大臣ヨリ召アリ出頭ス後任久邇宮二ノ宮卜決定宮司宜ク補佐スペシ
    云々ノ旨ヲ伝ラル四月故事類苑編纂着手事務所ヲ東京ニ置ク六月廿一日
    叙正五位
廿九年〔丙申 五十八歳〕十一月丗日叙高等官三等
丗年 〔丁酉 五十九歳〕再ビ皇学館ヲ拡張シ文部省認可校トス故事類苑一部出
    板
丗一年〔戊戌 六十歳〕五月二日午後十一時半神宮参集所失火同庁類焼 御正殿
    へ飛火ス風宮へ迀座六月黒木御殿出来迀御六月廿七日依願免本官七月一
    日事引継三日家族卜帰郷ス神宮ニ在職スル十五年御事ヨリ此ニ至ル二ケ
    月余寝食ヲ安ゼズ黒木仮殿迀御ヲ終ル
丗三年〔庚子 六十二歳〕十月マラリヤ熱ニ感染ス癒エズ
丗四年〔辛丑 六十三歳〕四月水戸ニ往テ病ヲ療ス五月十三日特旨ヲ以テ叙従四
    位十月十日后十時没ス三笠山先塋ニ葬ル

君幼ヨリ学ヲ好ミ長ジテ博覧強記夙ニ尊公ノ説ヲ唱へ遂ニ罪ヲ幕府ニ得テ遠島ニ滴セラル然レドモ猶学ヲ捨ズ島人ヲ化シテ学ニ向ハシム赦サレテ帰ルヤ先ヅ稽照館ヲ起シ子弟ヲ教育シ祭典ノ儀式ヲ復古シ神官ノ禄ヲ改メ上ヲ損シ下ヲ益ス部下皆悦服ス維新ノ変革ニ際シヨク上意ヲ奉ジテ冝ヲ致ス召サレテ大教院ニ在ルヤ斯道ノ為メ尽ス処少々ナラズ大教院焼亡スルヤ身ヲ挺シテ善後ノ処置ニ勉メ布教ノ
為県下ヲ奔走シ家ニアル一年三ケ月ニ過ギズ神官教職分離ノ後ハ皇典講究所ニ尽シ神宮ノ宮司ニ任ゼラルヽヤ先ヅ皇学館ヲ興シ国書ノ講究ヲ盛ニシ迀宮ノ故実ヲ調査シテ遺漏ナカラシメ神苑会ニ会頭トナリ宮域附近ヲ清浄ナラシム故事類苑ヲ引継テ出板シ神都名勝志ヲ篇輯出板シ古玉篇ノ残冊ヲ世ニ出ス官制ヲ改革シ神宮積年ノ宿弊ヲ一洗シ多大ノ借入金ヲ返却シ積立金数十万円ニ至ル久邇宮有栖川両祭主ノ宮ノ重スル所トナリ殊ニ賀陽宮ノ祭主ニ任ゼラルヽヤ特旨宮ヲ補佐スベキノ命アリ不幸神宮ノ変災ニ会シ職ヲ辞スルニ至ル性書ヲ愛スル人ニ過ギ公暇手書ヲ舎カズ用ヲ節シ費ヲ省キ書ヲ求メテ息マズ飢ル者ノ食ヲ求ムルガ如シ経史小説高尚卑近ヲ問ハズ晩年家ニ蓄財ナキモ珍籍奇冊三万冊人之ヲ云へバ曰ク妓ヲ聘シ酒ヲ飲ムハ世ノ通例ナリ予飲ヲ解セズ書ハ予が妓ナリ予が酒ナリト

 『先考略年譜稿』は則文の生涯を簡潔に伝えているが、この中から殊に重要と思われる点を二、三とり上げてみたい。

  八丈島送り

 かねて尊王思想を鼓吹していた則文は幕府の忌むところとなり、慶応元年七月、浪士に文武館を貸し、これらと交わったとして揚屋入りを仰せ付けられ、十月島送りの刑に処せられた。二十七歳の時である。慶応二年五月二十五日江戸鉄砲洲岸を出帆、浦賀、網代、三崎、大島、三宅島を経て六月五日八丈島到着。
 明治元年十一月赦免されたが、帰郷したのは翌二年六月である。則文は三年間に亙って八丈島で流人生活を送った。在島中は読書を以て楽しみとし、その間に寺子屋を開いて学問を講じ、島民の教化にも当たった。
 近藤富蔵の『八丈実記』に序を寄せ、島民及び流人の有識者に呼びかけて『南島名勝集』(八丈八景)を編んだが、この他にも八丈島に遺した詩文は碑として現存する。また、揚屋入りから赦免帰国までの、八丈流人日誌ともいうべき『南遊雑録』二巻を残しているが、これは流人生活を知る上で貴重な資料となっている。今は『八丈実記』の序を掲げるにとどめたい。

   八 丈 実 記 序

  人之世に処するや、文有て而して名朽ちず。而して、文は記事より難きは莫
  く、地誌より難きは莫し。地誌を作る、荀も博学にして広聞、身険阻を渉り、
  而して疲労せず、歳月の久しきを経て、而して倦厭せざる者に非ずんば、焉
  ぞ能く其の梗概を尽さん耶。余幼より地誌を好み、風土記と称する自り、今
  人の遊記に至るまで之れを読まざる無し。嘗て正斎近藤先生の辺要分界図考
  を閲し、案を拍ちて曰く、憶、斯の如き人にして、而して地誌は大成すると
  謂う可しと。夫れ皇国南北の海上を距つこと数十里、而して王化に服する者、
  蝦夷と八丈と有る而已。然れども、蝦夷之地は広漠数百里、地は寒帯に際し、
  秋冬之間、雪天陰濠日色を見ず。加之、居人甚だ少なく、毒蛇猛獣昼猶横行
  す。古自り曽て其の北地を窺うもの無し。或は山丹に属すと云い、或は魯西
  亜に属すと云い、定説有る無し。而るに先生飽学文質に富むを以て、重嶺大
  海人之難しとする所を経渉し、熟に其の地の険易沃瘠を覧、博く国史に徴し、
  漢籍を旁捜し、考証引例、其の委曲を悉す。蝦夷之山川、席上画を指して知
  る可し。近来、官、蝦夷の地を闢くことを命ず。信を此の書に取らざる無し。
  其の功も亦大なる哉。八丈島は一弾丸子之地、北蝦の九牛之一毛耳。且つ国
  地を距たること遠からず。而して其の風土を紀す者、慨ね疎にして簡、毎に
  人の意に慊らざる者は何ぞ耶。益其の人に無き也。若し先生の如き有らば必
  ず記載して憾み無がる可し。余南鼠之三日、聞斎近藤翁の余を来訪する有り。
  余其の履歴を問う。曰く正斎先生之子也と。是に於て一見旧の如し。談八丈
  の地理に及ぶ。徴かに其の説を叩くに、翁答えず。志料若干巻を出して相示
  す。乃ち展べて之れを読む。名勝と風土とを論ずること無く、凡そ此の島に
  関係する者、土地之変換、吏民の隆替、男女之風俗、物産之多寡、悉く旧史
  野乗を考究し、諸れを野叟村婆之談に徴し、四十余年之久しきを積む。而し
  て網羅包挙、備具せざる無し。余、昔日未だ懐いに慊らざる者、是に於て復
  憾みを遺すこと無し。豈大快事に非ず乎。嗚呼、父子にして南北辺土の事実
  を著す。偶然ならざるに似たり。当今朝政漸く復古、他日若し国誌を此の著
  に徴する有らば、稗益すること、分界図考の下に在らざる有らん。翁、軀幹
  雄壮、曠懐偉度、険岸絶嶺を跋踄して窮せず、其の勝るるは一事も措かず。
  差錯有れば寝食を廃して校正す。故に草稿屡成り、屡毀ちて、自ら其の労を
  知らざる也。故に此の書にして世に伝うることを果さば、則ち翁の身孤島に
  窮居すると雖も、名不朽に垂るるは此の文也。然りと雖も、篤く学を好み、
  厚く道を信ずる者に非ざれば、成す可からざる也。因て其の感を巻端に書し、
  之れが序と為すと云う。
    明治二年歳次己巳夏五月
                前の朝散大夫  中 臣 則 文  撰

 明治元年十一月、新政府の大赦によって帰郷することを許された。ここに掲げた写真はその時の則文の赦免状である。一行目「常陸国」の「陸」が「■」とあるのは、明治天皇の御名「睦仁」を憚って一画を欠いたもの。【写真省略 原本参照】しかし則文が地役人菊地秀右衛門から赦免の申し渡しを受けたのは、翌明治二年五月一日であり、八丈島を出たのは二十三日未明である。二十八日江戸着船、御赦免御礼等の諸事を済ませた後、六月十三日郷里・鹿島に帰った。神官をはじめ市中の人々およそ百人に迎えられた則文は、神宮に参拝御礼の上、帰宅した。

 伊勢神宮・大宮司拝命 

 この時、鹿島神宮は上地によって二千石の朱印地を失い窮乏の極地にあった。七月一日、則文は家財全部を売却して資金をつくり、稽照館を開いて、専ら子弟の教化に当たった。明治五年七月八日、鹿島神宮・少宮司を拝命、九日、大講義に補せられた。翌六年三月大宮司に昇り、権少教正に進んだ。この写真は明治三年十月二十六日撮影、則文三十二歳の時のものであるが、維新志士の気概を伝えている【写真省略 原本参照】。この間の様子を、八丈島の近藤富蔵あて書簡の中で次の如く記している。
  昨年中、御申越之八丈詩歌冊ハ。未ダ点削出来上り不申、加之小生多忙ニテ
  乍存延引致候、近年之内ニ清書御マハシ可申候、扨国地モ弥々郡県ニ相成、
  三府京西・東京・大坂七十二県ニテ政事ヲ致シ、県モ聴訟・断獄ハ司法省之
  官員出張、取扱候事ニテ。県之官員ハ租税ノミニ関係致候、上下尽ク人口ニ
  テ自ラ勉励致候事ニテ、四民平等ノ権ニテ、家ニハ権ナク、徳卜人材トニ威
  有之候事ニテ、神宮抔モ当夏悉ク改正ニテ、当地モ八十五人免職ニ相成、十
  三人新補ニ相成候、小生モ少宮司ニ相成、大講義ヲ拝命致候、是ハ教部省卜
  申シテ、当三月以来、神祇官御廃シニ相成、相立候省ニテ、大教正、権大教
  正・中―・権―・小―・権―・大講義・権大―・中―・権―・小―・権―、
  几十四級有之、村々ヲ回リ、神教ヲ説候ニテ、敬神愛国ノ上旨ヲ体スヘキコ
  ト、天理人道ヲ明ニスベキコ卜、皇上ヲ奉戴シ、朝旨ヲ遵守セシムベキコト、
  此三則ヲ綱ニシ、近来ノ孝子・貞女・忠士ノ説ヲ引喩シ、神代ノコトヲ説諭
  致候事ニテ、神官・僧侶モ悉ク此旨ヲ説候事ニテ、妙法ヤ阿弥陀ヤ菩薩ヲ止
  メ、高天原・黄泉ノ国ヲ説候事ニテ。肉食・妻帯・蓄髪勝手ニ相成候事ニ候、
  小生モ兼任ニテ村々順回説諭致候事ニテ、多事此事ニ候。……(明治五年八
  月二十九日付)
 明治十一年権中教正に補せられ、十七年四月二日、伊勢神宮・大宮司に任命された。『先考略年譜稿』には「神宮々司任命」とあるが、当時の職制の宮司は今の大宮司のことである。伊勢神宮・大宮司は華族に限られていたが、沈滞している神宮を復活させるため、四十六歳の若さで鹿島から抜擢された。当初、三年間だけという事で家族と共に赴任したが、明治三十一年五月、内宮炎上という不祥事が発生、その責を負って職を辞するまで、十五年間の長きに亙ってこの要職を勤めた。則文の生涯の中で最も充実した時期であったと推測される。

 皇学館大学の開校 

 皇学館大学の前身・皇学館は明治十五年四月三十日、神宮祭主・朝彦親王によって「皇学館創立令達」が発せられたが、未だ開校に至らず三年が経た。則文は大宮司に就任するや、祭主宮の台命を奉じ、この開校に着手した。明治十八年一月、学制を定め、教授・教授補・助教・授読等の職員を置き、広く学生を募り、同月十一日、宇治浦田町神宮司庁の仮教室で開講式を挙げた。定員五十名、神宮祠官の人材養成を目ざして開校したが、学生は思うほど集まらなかった。則文は明治二十年三月、神宮宮掌の人々にあてて、次の如き勧学諭告文を送っている。

  今般宮掌雇学術研究スルノ所、僅カニ五六名ニ過ギズ。然ラバ其ノ余ハ無学
  ノ人卜言ハザルヲ得ズ。是迄再三研究ノ義、訓諭ニ及ブモ、曰ク老年ノ読書
  ハ難シ、曰ク庁務ヲ専ラト心得学問ハ怠レリト。是大ナル謬見也。読書ハ他
  ノ技卜違ヒ、老年ニテモ一日研究スル一日ノ益アリ。又庁務ヲ口実トスルハ、
  神官ノ何タルヲ知ラスト云フペシ。賽銭ノ勘定、文書ノ往復、神饌ノ買入レ、
  奉仕ノ分課ナドハ神官本務ヨリ生ズル末事也。譬バ農商ニモセヨ金銭ノ出納、
  味噌薪ノ買入レ、書状ノ遣取ハ一家ノ本務卜ハセズ。抑々今日ノ学問ハ実地
  ノ事業、則チ宇内ノ形勢古今ノ治乱ニ通暁シ、事物ノ理ヲ精査研究脳裏ニ含
  蓄シ、発シテ日用俗務万般ニ作用スルモノニシテ、彼ノ詩歌風雅ヲ玩ビ、字
  ヲ識リ事ニ博ク所謂本箱学問ノ比ニシテ、世事ニ迂遠俗務ニ達セズ昔日ノ学
  問ニハアラズ。俗務学問決シテ二途ニハ非ザルナリ。然リ。而シテ神官ノ本
  務タル神冥ニ奉仕スルヤ、誠意真心ヲ以テ神慮ヲ感格スルヲ主トス。徒ラニ
  外貌ノ礼容虚飾ヲ指スモノニアラズ。其ノ誠実廉脱ヲ興起確守スルハ学問ノ
  培養ニ基ク故ニ、神官ノ本務学問ヲ舎テ他ニ執ル所ナシ。今ヤ天下ノ風潮、
  博学有為ノ神官スラ度外無用視セラル。況ヤ碌々タル鄙陋寡聞ノ神官ニシテ
  世間ニ信任ヲ得ルハ、豈難カラズヤ。本月十一日ノ官報ニ神宮ハ壱万六千余
  円ノ経費ヲ増額セラレ、去ル十一月ニハ官等一階昇級アリ。是ニ反シテ十七
  八日ノ官報ニ各社ノ神官ハ廃セラレ無給ノ神職トナレリ。各社ノ神官悉ク
  不学無術無用ノ人ニシテ、独リ神宮ノ神官有用ノ人材トモ云難シ。他ナシ偏
  ヘニ奉仕ノ大神宮ノ恩徳ノ然ラシムルヨリ興廃地ヲ異ニセリ。嗚呼、本宮ノ
  神官内ニハ妻子飢餓ノ顧ナク、外ニハ奏判任ノ官ヲ辱スル栄ヲ思惟スレバ、
  一日片時神恩神徳ヲ軽忽スルヲ得ンヤ。肝ニ銘ジ骨ニ刻ミ、其ノ涯リナキ恩
  徳ニ報セントナラバ、世ニ無用視セラレズ、学ヲ修メ行ヲ慎ミ、誠意真心天
  下ヲシテ神宮ノ神官ナリ、卜言ハレルヨリ外ノ義ナシ。唇亡テ歯寒シ。各社
  神官ノ廃ハ前車ノ覆轍ナリ。加之官吏試験法不日ニ発布芒フル、卜云フ。其
  ノ時ニ臨ミ臍ヲ噛ノ悔ナカラン。事ヲ屢スレバ疎ゼラルト古人ノ言アリ。従
  来学事ニ付再三訓諭其ノ効ナキモ、則文老婆心ノアマリ不得止更ニ忠告ニ及
  ベリ。篤卜熟慮反省シテ、過日来令セズシテ洋服ニ改装ナリシ如ク、翻然子
  弟ヲ督責シテ皇学館ニ入レ、自己モー層勉励神官ノ神官タル本務ヲ尽サレン
  事ヲ希望ス。
   言ハ意ヲ尽サズ。論アラバ面議セラレヨ。
   各自各字ノ下ニ可否ヲ記シテ返戻アリタシ。
              明治廿年三月廿二日   宮司 鹿島則文

 則文は、着々と学制の充実を図り、この四月大改革を行った。館長に中田正朔、幹事に孫福弘坦、教頭に東貞吉、副教頭兼教授に下田義天類をそれぞれ任命し、科を尋常科と高等科に分け、修業年限を各四か年、定員百名とした。その後、明治二十三年五月には第一回目の卒業生二名を出し、二十七年には、祭主宮・有栖川熾仁親王を総裁に仰ぎ、則文自身館長の要職を兼ねて、その充実・発展に努力を重ねた。明治二十八年六月一日、則文は皇学館の官立化を計り、「神宮皇学館之儀ハ、去明治十六年五月中、御省へ伺済之上、設置、専ラ補典及国史・国文ヲ教
授罷在候処、爾来、漸次隆盛ニ立至り候ニ付、……一層規模ヲ拡張シ、御省所管ノ官立学校ニ被成下度……」と内務大臣・野村靖に申請した。この申請が許可され、神宮皇館官制か勅令をもって公布されたのは、則文が伊勢を去って五年後、他界して二年後の明治三十六年八月のことである。神宮皇学館の館長は、初代中田正朔、二代鹿島則文、三代冷泉為紀、四代桑原芳樹、五代木野戸勝隆、六代武田千代三郎、七代松浦寅三郎、八代上田万年、九代森田実、十代平田貫一、十一代山田孝雄……と錚々たる人々がその任にあたり、学問発展のために尽くしてこられたが、則文はその礎を築いたと言っても、決して過言ではない。
   「皇学館館長時代の則文」 【写真省略、原本参照】

 古事類苑の編纂刊行 

 『古事類苑』は、本文一千巻、洋装本五十一冊(和装本三五〇冊)、日本最大の
百科事彙である。明治十二年、西村茂樹の建議に基づいて文部省が小中村清矩を主任として編纂に着手、その後、東京学士会院、良典講究所、最後に神宮司庁に移管されて、大正三年、三十五年の歳月を費やして完成した。編修には、川田剛、細川潤次郎、佐藤誠実、松本愛重、黒川真頼、本居豊穎、木村正辞、井上頼国等をはじめ多数の人々が携わった。明治二十八年、皇典講究所は契約の期限になっ                                       ことが出来ず、「文部省が国家文運ノ為ニ計画シタル此一大事業モ、或「瑳鉄セントスルノ状況(注三)」に至った。この時、社寺局長・阿部浩は神宮宮司の則文に議り、これを完成させようとした。則文は意を決し、
その許可を内務大臣に申請した。

  秘甲第一〇号
  世界執ノ邦モ、文運ノ開クルニ従ヒ、類聚書ノ必須ナル自然ノ勢ニシテ、漢
  洋共ニ其ノ書ニ乏シカラズ、然ルニ吾邦ニ於テハ、文運夙ニ開ケタルモ、未
  類聚書ノ完全ナルモノアラズ、是壹盛世ノ一大闕典ナラズヤ、文部省曩ニ此
  ニ見ル所アリテ、古事類苑編纂ノ挙アリ、然レドモ其事未ダ成ルニ及バズシ
  テ、予メ完成ノ期ヲ定メ、之ヲ皇典講究所に委託セリ、皇典講究所、又孜孜
  編纂ニ従事シタルモ、未完成ニ至ラズシテ、既ニ約スル所ノ年期ニ達セリ、
  豈又遺憾ノ至ナラズヤ、故ニ今之ヲ同所ニ謀リ、文部省ニ稟請シテ、神宮司
  庁、編纂ノ責務ヲ負ヒ、五ヶ年ヲ期シテ完成セシメソトス、仰ギ願クハ神宮
  司庁ニ於テ、該編纂ニ従事スヘキ件、併セテ向フ五ヶ年間、累積スベキ社入
  金非常予備金ヲ以テ、之ガ費用ニ充ツルコトヲ、御許可アランコトヲ、抑遠
  近子来ノ崇敬者、奉献スル所ノ金ヲ以テ、コノ国家無前ノ大業ヲ成シ、大ニ
  文運ノ開進ヲ裨補スルコトアラバ、幸ニ
  天覆ノ
  神徳ヲ、偏ク衆庶ニ蒙ラシムルノ一端卜相成、天祖愛民ノ御盛意ニモ協ヒ候
  儀ニ存候ニ付、前件御許可ノ程奉願候也、
    明治二十八年二月十二日          神宮宮司 鹿島則文
      内務大臣子爵野村靖殿

 この申請は、三月二十九日付で許可され、神宮司庁は、文部省及び東京学士会院作成の原稿二三四巻と皇典講究所作成の原稿四〇七巻、合計六四一巻を受領し、『古事類苑』編纂の事業を引き継いだ。明治二十九年十一月八日、第一冊目帝王部第二十七巻を刊行、則文は明治三十一年職を辞し帰郷したが、この大事業は、冷泉為紀、三室戸和光、岡部譲、桑原芳樹、木野戸勝隆等によって続けられ、大正三年完結した。
 明治三十一年五月二日午後十一時三十分、内宮炎上という不祥事が突発した。参集所及び神宮司庁を焼失して、正殿にまで延焼しようとした時、則文は直ちに正殿に候し、御正体を風日祈宮に遷座し奉った。則文はこの責任を負って少宮司と共に職を辞した。七月鹿島に帰ったが、この事が頭を離れず、夜中に飛び起きることしばしばであったという。この事件が則文の死期をも早めたものと思われる。明治三十四年五月、特旨を以て従四位に叙せられ、十月十日午後十時、六十三歳の生涯を閉じた。

 桜山文庫 

 則文は、五歳にして歌を詠じ小説を読んだという。幼くして吉川天浦の指導を受け、長じては安井息軒の門に学んだ。しかし、後世に自らの詩文を遺すことには、あまり意を用いなかったようである。則文の書き残したものでまとまっているのは、八丈流人時代の『南遊雑録』『八丈八景帖』『南島名勝集』(編著)くらいのものである。全身全霊を以て神に仕え、子弟の教育に専念する時、自分の詩文を作るゆとりはない、そんな生き方を則文はしたのかも知れない。
 日本自然科学思想史の開拓者と言われる、哲学者で大教育者の狩野亨吉は、死後、書き残したものを集めたところ、一部の小冊にしかならなかったという。しかし、亨吉の蒐収した貴重な古典籍は「狩野文庫」として残された。

 性書ヲ愛スル人ニ過ギ、公瑕手書ヲ舎カズ、用ヲ節シ費ヲ省キ、書ヲ求メテ息
 マズ、飢ル者ノ食ヲ求ムルガ如シ。経史小説高尚卑近ヲ問ハズ、晩年家ニ蓄財
 ナキモ、珍籍奇冊三万冊、人之ヲ云ヘバ、曰ク、妓ヲ聘シ酒ヲ飲ムハ世ノ通例
 ナリ、予飲ヲ解セズ、書ハ予ガ妓ナリ、予ガ酒ナリト。(『先考略年譜稿』)

 則文が生涯をかけて蒐集した珍籍奇冊は「桜山文庫」として後世に残された。則文と亨吉と、その思想的立場は異なっているが、両者の生き方に、何か相通ずるものがあるように思われてならない。
 さて、この則文の「桜山文庫」は、その後、鹿島敏夫氏、鹿島則幸氏によって保存され、今日に及んでいる。その中から何点かを、現所蔵者・則幸氏に選んで頂いたので、それを次に掲げたい。

     桜 山 文 庫 目 録 抄

  一、神皇正統記 写四冊 慶長十八年鹿島則広写
  一、倭玉篇 刊三冊 慶長十八年刊
  一、下学集 刊二冊 元和三年刊 「紀伊国古学館之印」「松阪学問所」の印
  一、童蒙先習 刊二冊 慶長十七年刊
一、撰集抄 刊三冊 「此本三冊全部洛西嵯峨角倉与一入道素庵墨蹟板行之
  即従素庵直賜之 元和八年 豊松庵法橋玄伯(花押)」の奥書
  一、五百家註音弁唐柳先生文集、刊四十五巻十八冊 嘉慶板
  一、新板五百家註音弁唐柳先生文集 刊四十五巻十五冊 嘉慶板
  一、風雅選詩補註 古写十三冊 「寛永廿年林道春一校」の奥書
  一、南華真経 刊十冊 元和五年石川丈山訓点
  一、皇宋事宝類苑 刊十五冊 元和七年勅版
  一、新刊吾妻鏡 刊五十二巻二十五冊 慶長十年刊
  一、雑筆要集 写一冊 足代弘訓の奥書 「寛居」の印
  一、万葉集註釈 刊廿巻六冊 清水浜臣書入本 「清水浜臣蔵書」以下の印
  一、さごろも 刊十冊 伴直方書入本
  一、六百番歌合 刊十冊 村田たせ子書入本
  一、とりかへばや 写四冊 岸本由豆流本
  一、枕草子春曙抄、刊六冊、岸本由豆流書入本
一、うつぼものがたり 刊三十冊 前半村田春雨書入本 
                後半村田たせ子書入本
  一、源氏物語忍草 刊五冊 成島柳北書入本
  一、おちくぼ物語 刊四冊 寛政十一年刊 久米幹文書入本
  一、万葉集師説 写五十二冊 入江昌喜書入本
  一、さやさや草紙 刊三冊 木下幸文著 文政五年刊 「藤恒内印」の印
  一、額咢の歌 写一冊 斎藤彦麿著 自筆本
  一、大祓詞正解 写二冊 大高秀明著(自筆稿本) 平田篤胤評
  一、燕石十種 写六十九冊 活東子書入本 「達磨屋五一」の印
一、雑兵物語 写二巻一冊 「南畝文庫」「大田氏蔵書」の印

参考文献

○『先考略年譜稿』鹿島敏夫 桜山文庫蔵
○『佐原喜三郎と鹿島則文』 海野正造 昭和五十二年六月一日 柳翠史料館
○『神宮皇学館創立六十周年記念誌』 (館友 第四〇九号 昭和十七年六月一
 日) 神宮皇学館館友会
○『増補改訂 八丈流人銘々伝』 葛西重雄・吉田貫三 昭和五十年五月二十日 
 第一書房
○『桑原芳樹翁伝』「桑原芳樹翁伝」刊行会 昭和五十一年十二月二十日
○『常総古今の学と術と人』 大内地山 昭和五十一年十一月二十五日(復刻) 
 水戸学研究会
○「古事類苑編纂事歴」 (『古事類苑』目録・索引 大正三年八月二十九日) 
 神宮司庁
○「桜山文庫について」 鹿島則幸 (郷土文化 第十八号 昭和五十二年三月
 三十一日) 茨城県郷土文化研会究

 注一 海野正造氏著『佐原喜三郎と鹿島則文』に拠る。
 注二 『先考略年譜稿』は表紙に「先考略年譜稿/鹿島敏夫」とあり、薄青色
   刷の「さくらのや」の四百字詰め専用原稿用紙・十枚に清書されている。
   紹介するにあたり、原本の小字二行書きの部分は一行書きに改め〔 〕で
   囲んだ。また、年齢の下に「歳」を補って統一した。
 注三 「古事類苑編纂事歴」

  付  記

 『井関隆子日記』の、しかも中巻の末にこのような一文を付する事は、やや異例であると思うが、あえて掲げさせて頂いた。
 桜山文庫の所蔵者・鹿島則幸氏に初めてお会いしたのは、昭和四十年九月、仮名草子『可笑記』の諸本調査を進めていた折の事である。桜山文庫所蔵本は、寛永十九年版十一行本の初版本であるが、「斎藤文庫」(斎藤幸成)、「不覊斎図書記」(秋山不覊斎)、「西荘文庫」(小津桂窓)等の蔵書印を存し、幕末
の錚々たる人々の旧蔵本であり、この点にまず目をみはった。これが機縁となって鹿島氏は若輩の私に温かく接して下さり、種々御指導を賜った。
 その後、昭和四十一年二月には、恩師重友毅先生に従って桜山文庫をおたずねし、『春雨物語』『忠義水滸伝』『山花帖』(村田了阿自筆の歌集)『雑兵物語』など、
八点の貴重な御蔵書を拝借させて頂いた。そして、六年後の四十七年十一月御返却のため、水戸へお伺いしたが、この時、嵯峨本『撰集抄』三冊、『大祓詞正解』二冊、『新葉集』二十巻。『堀河院百首』三巻、『万葉類葉抄補闕』十八巻等と共に、初めて『井関隆子日記』にめぐり合った。この間、桜山文庫の蒐集者・鹿島則文氏についても調べたが、氏の全貌を伝える文献は無かった。八丈流人時代、伊勢神宮・大宮司時代など部分的なものにとどまる。そこで、それらを整理してまとめたのが、この一文である。桜山文庫については、もしその機会が与えられるなら、全御蔵書の目録作成を夢みているが、今は、その一部分の紹介にとどめた。
 この一文は、前掲の参考文献と鹿島則幸氏の御教示に全て負っている。ここに記して、心からなる感謝の意を表します。
                 昭和五十五年七月二十日
                          深 沢 秋 男

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【追 記】

1、 鹿島則幸氏との出会い

 今、36年前のこの「付記」を読んで、感慨ふかいものがある。私は、大学の卒業論文に、仮名草子の『可笑記』を選択した。この作品は、原本の写本・版本がたくさん伝存していて、その実態は明らかではなかった。全国の大学図書館・公共図書館の諸本を調べ、特殊文庫・個人蔵書の調査に取り掛かったのが、昭和40年ころだった。この時、桜山文庫の鹿島則幸氏に初めてお会いしたのである。 
 その出会いは、実に、衝撃的、感激的なものであった。未熟者の私は、閲覧願を「鹿島町則幸様」で郵送した。正しくは「鹿島町一番地 鹿島則幸様」とすべきであった。しかし、郵便は配達され、鹿島則幸氏から、原本は、水戸市の常磐神社で閲覧可能との返事を頂いた。早速、日程を予約して、閲覧・調査させて頂いた。その折の様子を、昭和女子大学の最終講義で、次のように述べた。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 【A】 寛永十九年版十一行本(鹿島則幸氏、桜山文庫本)
 〔桜山文庫〕は、鹿島神宮大宮司・鹿島則文のコレクションであ
る。この文庫は、則文のお孫さんの鹿島則幸氏が管理しておられた。
公共図書館等の調査が終わった昭和四十年、閲覧願を郵送したとこ
ろ、則幸氏は、鹿島の書庫から水戸へ取り寄せて、調査させて下さっ
た。当時、鹿島則幸氏は、水戸の常磐神社の宮司だった。社務所に
通され、鹿島氏の使用される文机で、二時間ほどかけて、閲覧・調
査させて頂いた。終了後、この本の調査結果を御説明申し上げ、辞
去しようとすると、「どうぞ、お持ち下さい」と申される。初め、
私は、鹿島氏のお言葉の意味がよく理解できなかった。「伯楽にお
持ち頂ければ、祖父も喜ぶと思います」ようやく、鹿島氏の真意が
理解は出来た。理解することは出来たが、ハイ、そうですか、とは
お答え出来なかった。一度、帰宅して、改めて御返事致します、と
申し上げて辞去した。水戸駅から帰りの電車に乗った。このような
事が現実に有り得るのか。「桜山文庫」の円形朱印を持つ本であり、
岩波の『国書総目録』にも搭載されている原本である。私は世の中
の不思議な事実に出会い、感激と感動の数時間を、電車の中で過ご
した。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 この衝撃的な出会いが、以後の私の生き方に大きく影響し、それは現在まで継続されている。 

2、 鹿島則文と桜山文庫

 『井関隆子日記』中巻の末尾に、このような一文を掲載することは、ある意味、不自然である。実は、この『日記』の校注を進めている時、鹿島則幸氏から、祖父則文には略伝が無い、と言われ、出来得るならば、まとめて欲しい、と依頼されたのである。
 私は、何を置いてもまとめたいと、早速、調査にとりかかった。伊勢の神宮文庫も調べた。その結果、鹿島則文の、内に秘めた、改革の精神を常に燃焼させ続けた、その生涯の充実と苦悩とを知ることができた。
 則文は、明治17年、46歳の時、伊勢神宮の大宮司に抜擢され、伊勢に移住する。明治31年5月、伊勢神宮参集所失火、その責任を取って大宮司を辞して、鹿島へ帰った。この13年間、則文は、伊勢神宮のために全身全霊を尽くして奉仕した。私は、神宮文庫等で、調査を重ねる度に、則文のなみなみならぬ、神宮に対する情熱と、それに伴う苦悩とを痛感した。
 則文は、八丈島流人の時、近藤富蔵の『八丈実記』に序文を寄せている。その冒頭で、
「人之世に処するや、文有て而して名朽ちず。而して、文は記事より難きは莫く、地誌より難きは莫し。」
と書いている。しかし、則文の伝記を書く為に調査を重ねたが、則文の書き残したものが、実に少ないのである。「文有て而して名朽ちず」という則文に「文」が少ないのである。これでは、則文の伝記など書けない。2ヶ月も3ヶ月も、私は苦しんだ。則幸氏に、他に則文の著書は有りませんか、とたずねても、「ございません」とのお答え。万事休すである。
 そんな時、ふと、思い出したのが、あの、狩野亨吉であった。
 日本自然科学思想史の開拓者と言われる、哲学者で大教育者の狩野亨吉は、死後、書き残したものを集めたところ、一部の小冊にしかならなかったという。しかし、亨吉の蒐収した貴重な古典籍は「狩野文庫」として残された。東北大学図書館の狩野文庫には、私も多くの学恩を賜っている。
 明治期には、狩野亨吉や鹿島則文のような、偉大な先学がいて、時代をリードしたのである。
 鹿島則文の蒐集した桜山文庫「珍籍奇冊三万冊」は、その後、鹿島則幸氏によって管理保管され、国文学関係の大部分は、現在、昭和女子大学図書館に所蔵されている。この、昭和女子大学への移管について、私は関わることが出来て、これも有り難いことであった。鹿島則文氏、鹿島則幸氏に対して、改めて心から感謝申上げる。

                      平成28年12月24日
                             深沢秋男

【2】『井関隆子日記』上

【2】『井関隆子日記』上

【2】井関隆子日記(上) 昭和53年11月30日,勉誠社発行,4500円。『井関隆子日記』(桜山文庫蔵本,現在,昭和女子大学図書館蔵)を全文校注し,解説を付したもの。天保11年の4冊分を収録。

  一 、 書  誌

所蔵者  桜山文庫(鹿島則幸氏)。
装 訂  袋綴。大本。縦262ミリ×横190ミリ(第一冊)。
表 紙  第一冊~第三冊は白茶色布目表紙。第四冊~第十二冊は幹色(薄黄茶色)布目表紙。
匡 郭  なし。一行の字の高さは215ミリ前後。
題 簽  第一冊~第三冊は縹色、第十一冊・第十二冊は濃縹色の書題簽(191ミリ×横32ミリに、他は直接表紙に次の如くある。
   第一冊…「天保十一年  壱」   第七冊…「天保十三年  漆」
   第二冊…「天保十一年  弐」   第八冊…「天保十三年  捌」
   第三冊…「天保十一年  参」   第九冊…「天保十四年  玖」
   第四冊…「天保十一年  肆」   第十冊…「天保十四年  拾」
   第五冊…「天保十二年  伍」   第十一冊…「天保十五年 一」   
   第六冊…「天保十二年  陸」   第十二冊…「天保十五年 二」
序 跋  なし。
冊 数  十二冊。
墨 付  合計 九六六葉。  
     第一冊…88葉。  第五冊…100葉。   第九冊…75葉。
     第二冊…99葉。  第六冊…94葉。   第十冊…71葉。
     第三冊…77葉。  第七冊…105葉。   第十一冊…84葉。
     第四冊…76葉。  第八冊…66葉。   第十二冊…31葉                                
   外に、第一冊巻頭に遊紙一葉を切り取った痕跡がある。また第十二冊の九月と十月の間
   (28葉と29葉の間)に白紙一葉、巻末に道遊紙一葉がある。
行 数  毎半葉11行。
字 数  一行約29字。
句読点  「、」
挿 絵  合計 一八図。
   第一冊…2図(11葉表・11葉裏、24葉表)。
   第二冊…5図(14葉表、31葉表、34葉裏、59葉表、69葉表)。
   第三冊…3図(13葉裏、19葉裏・20葉表、53葉表)。
   第四冊…5図(5葉表、7葉裏、22葉裏、26葉表、38葉表)。
   第九冊…2図(59葉表、62葉表)。
   第十冊…1図(6葉表)。
蔵書印・識語  第三冊を除く各冊第1葉に「桜山文庫」の円形朱印。第一冊前表紙右上に、 
   白紙を貼付「丙十八 十二」と墨書、表紙に直接「五十八号 共十二本」と朱書。
   縦262ミリ×横174ミリの白紙が添付されており、墨書(一部朱書)にて鹿島則文氏
   の次の識語がある。

   「距天保十五年絶筆三十八年距明治維新斯書散逸十四年(朱書)/この書は明治十あま
   り五とせ神道事務局の幹事てふ職にてしはし都にかり住せしころ/十一月十四日に神田
   淡路町壱番地斎藤兼吉といへる書商より七円にてあかなひしを家に帰/りて後つはらに
   読たるにかく心して書記せし人の名のおほろけになんあなれはいとゝ残りおしく其/子
   孫の公に仕へしさまをもて天保の武鑑に正し又其家屋敷の飯田町なるをたよりに東京
   (朱書にて「束京」を「江戸」と正す)切絵図を考/へとかくして井関氏なることはあ
   かし得たれともなほたと〳〵しきこゝちせらるゝに今年都にまう上りついてに/小石川
   戸崎町喜運寺にたつねゆきて井関氏かおくつき又その寺の過去帳をさへみるに井関前総
   州守親経/は安政五年五月同前総州守親賢は元治二(朱書にて「元治二」を「慶応元
   」と正す)年十二月にみまかりしよし記せりその親経の父弥右衛門といへるは文政/九
   年にみまかりぬさてはこの日記かきし人のまたいふかしくうたかはるゝふしおほきに喜
   運寺の主のつ/まにはかりとふにその親族戸張氏神田かち町丗七番地にわひ住せれはそ
   をとひて尋ねはしるよしあらめと言/にやかて車はしらせてそのあり所をさくりおとつ
   れてきくにやう〳〵記せし人をさたかにしえたりそは弥右衛門と/言人の妻庄田氏の娘
   にて隆子となのれる人にそありける弥右衛門うせし後古学を専らにして歌よみ文かき/
   古事記伝を手にうつし朝夕にいたつき学ひて十年はかりのほとにおさ〳〵世にゆるさ
   るゝ学者とはなりしとそ/かくて天保の十五年冬(朱書にて「弘化元年ナリ」と注)病
   こと三日ほとにてうせしかその書遺せしものは箱に納めてかりそめならすものせしも明
   治/の初めの世の中さはかしく親族も駿河にうつりぬれはそのころ何人か盗みいたして
   売ひさきけんとむかししのひてしめり/かちに物語りぬけにこの日記は十一年より十五
   年十月まて一日もおこたらす物せられしをやがて病ころまてかゝれし/とおほし誠に男
   もかく長き月日をたゆみなく美はしく書いてんはいかにとおもはるにまして女子の筆の
   あとには/古しへ人の清少納言紫式部にも立おとるましう思はるゝになほその大のした
   はるゝ心地そせらる然はあれといたつ/らに紙反古の中に入て見る人もなくなりたらん
   には口おしかるへきにおのかこと書好む人の手にいりてかくまて調へたつ/ねて書庫の
   中におさめられたらんは書し人もいかにうれしとこそおもふならめとそのゆへよしをか
   いつけおくになむ/明治十五年冬十月廿九日相模大祭事の日雨ふるまとの下に 桜宇主
   人鹿島則文/桜宇(朱印陰刻)」

   第一冊後見返しに、縦247ミリ×横169ミリの白紙が貼付されており、墨書にて鹿島則
   文氏の次の識がある。

  「(右上に切絵図の写しがあり、その下に)第二ノ巻 天保十一年六月九日/ひんがしの
   隣は榊原ノ某/とぶ人すめり此ノ中垣/いと間近きに其垣に添/ていみじう大きなる/
   胡桃ノ木あり云々」「寺ハ小石川戸崎町禅宗/喜運寺」「井関弥右衛門菅原親経――下総
   守/天保十二年六月ヨリ御広敷御用人/此人ノ妻ハ戸田氏栄ノ姉/後浦賀奉行伊豆守ナ
   リ――親賢次郎右衛門/御小納戸 紋丸ノ内ニ剱梅鉢」
   更にその上に、縦158ミリ×横89ミリの白紙が貼付されており、墨書にて鹿島則文氏
   の次の識語がある。

   「天保十二年丑四月以前ノ大成武鑑所載/井関縫殿頭/父弥右衛門 二百五十表/いゝ
   だ丁/天保八年八月ヨリ二丸御留守居/井関貞之丞/父縫殿頭 三百表/いゝだ丁/天
   保十年正月ヨリ御小納戸衆/右之通相見エ候」
   第十二冊本文最終葉裏及び巻末の遊紙に墨書にて、鹿島敏夫氏の次の識語がある。

   「井関氏 菅原姓 紋丸ノ内剱梅鉢 屋敷飯田町 菩提所小石川戸崎町喜運寺/弥右衛
   門/禄二百五十俵/文政九年二月廿九日卒/妻隆子 庄田氏女 天保十五年冬死 智清
   院(天保日記筆者)/親経/縫殿頭 後下総守 妻戸田伊豆守妹栄子 号八捲斎 安政
   五年五月廿/五日死 天保八年八月より二丸御留守居 同十二年六月より御広敷御/用
   人 後浦賀奉行となり伊豆守/親賢/養子戸張氏子 貞之丞 後ニ次郎右I門 後ニ
   下総守 妻養父親経女/天保十年正月より御小納戸 部屋住料三百俵 元治元年丑年十
   二月/廿六日死 年六十余」
   「此天保日記は父君の明治十四年上京なされたる時書やにて見出られて目つらし/きも
   のとて購れ同しく十五年十月上京せられし時其菩提所小石川なる喜運寺を/尋ね墓碑過
   去帳を見られ猶親賢の実家なる神田の戸張氏を訪はれ其外武鑑江戸/絵図なとを調られ
   て此日記の筆者又其家からなと知られしものなり御日記の一/部を左に抄出す/十月七
   日くもる〔中略〕さてかね〳〵心にかゝれる井関の日記一条につき記者をさため/んと
   戸崎町喜運寺をとふて井関の墓をとふ草あれはてゝ藪蚊おほしさて墓碑は/前井関下総
   守親経号八捲斎と云安政五年五月廿五日ニ死去すと言同前下総守親賢/は元治元年丑年
   十二月廿六日死ス年は六十余なり妻は親経の女とあり日記にはう/まこ親賢とあり其祖
   父は文政九年二月廿九日井関弥右衛門とありさては天保の日記有/へくもなし寺僧をと
   ふて過去帳をさかせるにさたかならす其子孫は静岡にあり/てさらに音信もなし只かち
   丁に戸張と言る人をり〳〵とひおとつるゝと言にさら/はそれをたつねんとて別る墓の
   草かり料十銭まいらす〔中略〕ひるけしたゝめ神田か/ち町舟丗七番地戸張某の古道具
   みせを出せるをたつねて井関氏の事をとぶ主人の/妻伜そか娘□なよく昔話すこは親賢
   の実家なり井関氏は静岡にあり親賢の妻は/七十斗りにて今なほありと言その子はおさ
   なきによりとひおとつれも久しうせ/すといへりさて天保日記のかきては文政九年にみ
   まかれる井関氏の妻にて親経/の母刀自のよし名は隆子とて庄田氏の女にて智清院と諡
   せり卒中にて三日ほと/病て死せり御本丸の焼しころゆへ天保十五年頃なるべし初めは
   さまでよみかき/をなさねと夫死して後学問をはしめ千蔭の書をまなべりとそ古事記伝
   をみな写/しその外随筆せるもの凡三箱ほとありしと言瓦解後みな反古に成したるべし
   と/言へり日記の内の事をとぶにみなあへりやうくに作者判然せり誠に作者もおの/れ
   かことき蔵書家にあひて心いかにうれしからんと思はるしかしながら婦人の/日記とは
   かけておもはさりしまことに清女にもおとらぬ人なるべし男子にて/もはつかしきこゝ
   ちそせらるゝ〔下略〕〔右明治十五年御上京日記抄出〕」
その他  角切は第一冊~第三冊、第四冊~第十二冊の二種類となっている。保存状態は非常
   に良く、虫損は極めて少ない。また、書題簽の記述、第一冊巻頭の文章、著者の没日等
   から判断して、本書はこの十二冊で完全本であると考えられる。

著 者  井関隆子 (いせき たかこ)

   原本には著者の序跋・署名等は無い。第一冊巻頭の遊紙一葉を切り取った痕跡があり、
   もしこれが伝わっていたならば、ここに著者に関する記述が在ったかも知れない。しか
   し、日記の内容を総合すると著者が何人であるかを知る事はそれ程むずかしくない。自
   らの歌に「源ノたか子」と記しているし、広敷用人・井関親経は子であり、家慶小納戸・
   親賢は孫であるという。父は大番衆・庄田安僚であり、兄は安邦であるという。著者の
   家・井関家は九段坂下にあり、菩提寺は小石川戸崎町の喜運寺、実家・庄田家は谷四に
   あり、菩提寺は本郷元町の昌清寺であるという。また、著者は巳年の生まれであり、子
   供の頃は五十年余り前であるという。これらの日記の内容は『庄田家系譜』『昌清寺過
   去帳』『井関家過去帳』及び『徳川実紀』『柳営補任』等の記述とも一致する。次に名前
   の「たか子」であるが、『井関隆子長短歌』の詞書に「隆子」とあり、著者の書写本『宇
   津保物語考』の末尾には「天保のととせとふ年の秋なが月 隆子」と記しており、さら
   に蔵田茂樹の紀行文『野山の夢』に跋文を付した著者は「天保とふ歳のとゝせ冬の中ら
   源隆子しるす」と結んでいる。また著者の創作『神代のいましめ』について蔵田茂樹は
   「此一巻は井関親経朝臣の御母君におはしゝ隆子の君の筆ずさみ也」と記している。以
   上の点から、この日記の著者は「井関(旧姓・庄田)隆子」と断定してよいと思う。

書写者  井関隆子

   原本の書写は極めて整然となされており、天保十一年二月十目の部分に重複がみられる
   点などから推測すると、草稿をもとにして清書したものと思われる。さらに、追加補筆
   の部分が同筆であり、著者自身でなければ補い得ないような内容もあること、一字二字
   の誤りが生じた場合、その部分のみ紙を張替えて補修し訂正していること、この日記と
   同筆の写本『宇津保物語考』に「此ふみは臼井房輝ぬしのもたるをかりてうつせる也/
   天保のとゝせとぶ年の秋なが月 隆子」とあり、同じく『恵美草』に「天保十三年三月
   写之 みなもとのたか子」とあること、これらの点から判断して、
   この日記は著者・井関隆子の自筆本と断定してよいと思われる。

書 名  井関隆子日記

   原本には、書題簽に「天保十一年 壱」「天保十五年 二」等とあるのみで書名はない。
   したがって、この日記の書名としては、著者の名を冠して「井関隆子日記」「源隆子日
   記」「隆女の記」等とするか、あるいは、この日記の記された年号を冠して「天保日記
   」等とするのが妥当と思われる。鹿島則文氏はその識語の中で「天保日記」「天保の日
   記」とされており、私も最初これに従って「天保日記」としたのであるが、この場合類
   似した書名が他に多いため、この日記の独自性が失われるように思う。その後の調査で
   著者についても大体の事が明らかになってきたし、内容的に考えても、この時代の記録
   というよりも、この女性の記者の作物という点に注目すべきだと思われるので、現所蔵
   者・鹿島則幸氏の御承諾も得て「井関隆子日記」とすることにした。鹿島則文氏の識語
   は著者に関する調査の過程でのものであり、この書名変更の事はお許し下さるものと思
   う。

  二、『井関隆子日記』について

 『井関隆子日記』(以下『日記』と略祢)の記者・井関隆子は、江戸九段坂下に屋敷のあった旗本の主婦で、年齢は五十六歳から六十歳までの日記である。期間は、天保十一年一月一日から十五年十月十一日までの約五年間。日記であるが毎日記されている訳ではなく、例えば十一年は三五五日間の内、一八五日について記されており、一日の分量も小は二行程度のものから大は十二葉に及ぶものもあり、必ずしも一定はしていない。各年の分量は最初の十一年が最も多く四冊、以後は各二冊と半分になっている。これは十二年以後、年中行事などの記述を省いたためである。
 内容は、その日の天候、地震、四季折々の変化、その日その日の出来事、行事、種々の見聞、随感、幼い頃・若い頃の追憶、人物・社会・政治・学問・文学等に対する批評、折々に詠じた和歌等々が。著者の意のおもむくままに記されている。

  むね〳〵しきことは公に記され、はたさらぬ事どもゝ、世の人の賢き筆におのがじゝ記す
  べかめれば、とりたてゝ何ごとかはいはれむ。然れどもつれ〴〵なるものゝすさびには、
  はかなき事をも記しつゝ、心をやるよりほかの慰めなむなき。今年は天保てふ歳の十年あ
  まり、一年になんなれりける。いでやこの大江戸にて、天の下の大政事、しろしめしはじ
  めさせたまひし、其かみより引つゞき、御代〳〵の平らに治まり、いや年のはの御栄、い
  へばさらなる中にも、今のおほん上(家慶)太政大臣(家斉)の御譲りうけさせ給ひて、
  若君(家定)はた去年初冠らせたまひ、三所の御前並びだゝせ給へるためしなき御有様、
  新しき春の光りさへ加りて、天の下ゆすり、祝ひことほぎ奉れる年のはじめの、いみじう
  愛度御事は、賢き筆にもえつくすまじきを、ましておれ〳〵しき心にかたはし記さんもお
  よびなく、中〳〵に畏くてなむ。かくたぐひなき御世に生れあひて、子(親経)も孫(親
  賢)も立ならび仕うまつりて、此家にはいまだためしなき、あつく広き御恵みかうぶりぬ
  れば、いふかひなき老の身も、あけの袂みどりの袖におほはれて、おもふことなく心やす
  きに、今朝あさ日のさしのぼる空を見て、
    玉くしげあくるけさしも君が代の千世にかぞふる日のはじめ哉

 『日記』はこのように書き始められている。夫・親興に先立たれて十三年、家庭の中は、子・親経(二丸留守居)も孫・親賢(家慶小納戸)も健在で、特にこれといって為す事もない、そんな著者は、古典の世界に遊び、歌を詠み。そして、この『日記』を記すことが生活の全てであったようである。
  今己がみじかき心、つたなき筆して書くことは、世に散すべき物ならず。こゝの幼き人の、
  其子どもなどの末の世に。此家の今の有かた、世の中のことなどもいさゝかしらむために
  とて記しおけど、かゝる反故どもは紙魚の住かはさるものにて、鼠のうぶ屋にやひかれん。
  よしさばれ、せん方なさのすさびになむ。(11年2月12日)
といって、この『日記』は自分の子孫のために記しているのであり、世間の人の目にさらすべきものではないとしているが、これはその前の、
  いにしへの哥に詠みたる事なしとて、名のいやし気なき物は、哥に詠み板にも彫りおかま
  ほしきことになむ。
以下の文章に照応して生まれた、著者の自省の言であるといえる。『日記』全体をながめても、殊に自分の子孫にのみ語りかけ、伝えるという点はみられない。むしろここから、著者は初めから人に読まれる事を想定して記している事が知られるのである。
  古き世の物語文どもを見るに、其かみは世のならはし人の有様など、ありのまに〳〵にお
  もしろうもをかしうもとりなし、書出せる物になんあるらし。さるを世のいたう移りもて
  ゆくまゝに、人の心こそさのみは変らざるらめ、世の掟よりはじめ、人のたゝずまひも、
  古とは異なる事あまたにて、大方のさま違へることなん多がるべき。然るを今文書物語な
  ど作らむにも、たゞ古のおもむきにのみならひて、今の愛度御世の有様ども記さゞらんは、
  あかず口惜しきわざになんあるべき。(11年3月3日)

 『日記』は、当時の国学者が多く用いた、いわゆる雅文で記されているが、この文章でもわかるように、内容は現実社会の種々の出来事を積極的に、そして自由自在にとり入れている。それはこの熟達した文章力があってはじめて可能であったと思われる。
 『日記』には、元旦、年越し、鏡開き、十四目年越し、初午、雛祭り、出替り、更衣、刊濯仏会、流鏑馬、端午の節句、両国の川開き、山王祭り、七夕、四万六千日、草市、廿六夜待、十五夜、重陽、十三夜、神田祭り、玄猪の祝、子祭り、宮参り、事始め、煤払い等。また、桜の花見頃の上野・隅田河・牛が淵・牛嶋・早稲田等の様、牡丹の谷中・北沢村、巣鴨の菊、浅草の見せ物、吉原の乾店、両国・佃鳥の釣り舟の様等々、この期の江戸の様子が所々に活写されている。
 この天保十一年から十五年までの五年間は、歴史の上からみても問題の多い時期であるが、『日記』には政治の中枢としての江戸城中の動静がしばしば記されている。これらは主として、親経・親賢父子よりの聞き書きであると思われるが、『徳川実紀』『柳営補任』『徳川幕府家譜』その他の記録類と比較してみると、この『日記』の記述はかなり正確であると言い得る。
 記す内容は、将軍及びその一族の行動、幕府の諸政策、大名の転封、旗本の任免、城中での事件等々であり、これらの中には従来の公の記録にみられない他の一面が伝えられている。十二年閏一月に家斉が没すると首席老中水野忠邦は天保の改革に着手し、家斉時代の政策を次々と改めてゆくが、十四年七月の上知令の失敗から閏九月その職を解かれている。『日記』にはこの間の様子が詳細に記され、忠邦への厳しい批評も加えられている。
 今、 一例として、この時期に他界した徳川家の主要人物の没日について記すと別表の通りである。

  【徳川家主要人物没日一覧】  省略、原本参照

具体的には『日記』本文を参照して頂けば解る事であるが、家斉に関する部分のみ引用してみたい。家斉の没日は現在のところ、どの歴史書も辞典類も天保十二年閏一月晦日というのが通説である。これは『徳川幕府家譜』の「同(天保)十二辛丑年閏正月晦日薨御」や『徳川実紀』閏一月三十日の条の「大御所御危篤の御ありさまなるとて。群臣総出仕ありて御けしきうかゞふ。辰刻ばかりに遂に 大御所かくれさせ給ふ」等の記録に従ったためであろうと思われるが、『日記』には次の如くある。

  此ほどいみじき御気色におはしますとて御薬師かたぶき申、御方の人々はいかに〳〵と打
  歎くなど聞えしが、たちし七日の夕日のくだち、ひかりかくれさせ給へりとほの聞ゆ。後
  の御おきてども大方ならぬ御事なめれば、世に秘させたまひて未だおはしますに変らず。
  上もたび〳〵わたらせ給ひて何くれの御沙汰どもあめり。はた御祈よりはじめ日毎の御使、
  例に変らずといへども、大方世にもれ聞ゆめれば、ゆゝしう畏さにおのづから打しめり、
  物の音たつる人もあらざるべし。(閏1月10日)
  かの西の大殿の上の御なやみの事、昨日あまねく世にしらしめたまふ。今日なべての人々
  御気色うかゞふとて参上れり。(閏1月20日)
  廿八日打つゞき空の気色さへはれ〴〵しからず、をり〳〵雨ふりぬ。今日も御気色うかゞ
  ふとて、西の大城に人々参上れり。此ごろ梅のはな盛也ときけど、かの御ことに憚られて    
  心をさへにやりかねたり。(閏1月28日)            
   晦日すこし曇りぬ。かの御ンこと世にしられむは今日なめりといひさわぎて、此ほどよ
   り軒の板間垣のくづれといはず、そこねたるわたりは急ぎつくろはせ、はた食物よりは
   じめさりがたき物はみな求めあへり。さるは商人もなべて、しばし生業をやめ。打ひそ
   みをるめればとて、さるまうけをなすなめり。西の大城には昨日より御病急におはしま
   すとて、上俄にわたらせ給ひ、さらに御薬の御事よりはじめ。さるべきかぎりの御おき
   てども仰せおこなはせ給ふなど聞えしが、今日辰のくだちかくれさせ給ふ御こと、あま
   ねく天の下にしらしめ給ふ。都への御使は御遠侍に仕うまつれる某くれがし二人、いそ
   ぎ旅だちぬとぞ。其外国々へつげ給ふ御使、公私といはず、四方八方にはせちがふ様あ
   わたゞしう、誠に天の下ゆすりて、いみじとはおろか也とぞ。紀の殿も一日おはし付ぬ
   とか、尾張ノ大納言殿、水戸の中納言殿、其外の君だち御族の御方々みな参上らせ給ひ、
   司々の人々も、井伊の中将よりはじめ、残るなう所せきまで侍らひ給ふ。御子たち中ら
   過て失させ給へれど、猶多かる君だち、わかれにくれまどひ給ふめるに、はたあらたま
   りたる今日のいみじさに、さらに御袂もぬれそはり給ふめり。(閏1月晦日)
   今日は例のよろこび申にことかはり、御気色うかゞひ奉るとて大城に集ふ人多しとぞ。
   あるじも参上りぬ。…(中略)…御喪にこもり給ふ御かた〴〵多かめるに、天のした高
   きみじかき仕うまつれるかぎり、月代そらず髭だにはらはず、日数はそれ〴〵の御おき
   てあり。こゝにも御三七日のほどは、やつれたるまゝにて仕うまつりぬめり。御墓は芝
   の御寺なりと聞えしが、俄に上野に定りぬとぞ。さるは大御台所の御ねがひによりて然
   りとなむ。後の御わざ御墓のいはがまへなどすべていみじき御事共なれば、御葬は日数
   経ぬべしと聞ゆ。(2月1日)
   廿日昨日いみじう風吹おそろしかりしが、今日はやみぬれど、空の気色はれ〴〵しかず、
   おもひなしにかあはれ気なり。きのふけふ大路に人おと聞えず、家々に煙たゝず、たゞ
   むら鳥の声のみ聞えて、しらぬ御山に入けむもかゝるらむ。午のくだち御葬也と聞ゆ。
   古き御あとによらせ給ふめれど、いにしへよりも猶こと加りて、いみじき御事まねばむ
   は中〳〵浅がるべし。けさ上、右大将の君にも西の大城へ渡らせ給ふ。…(中略)…御
   内通りは、山里吹上より、矢来の御門まで二十町斗のほどたゝみ敷わたし、空に雨おほ
   ひし、皆白栲にかざりまつりて、御柩の御車引奉ることゝぞ。夫より御輿にすゑ奉り御
   読経有て、竹橋一ツ橋筋違などいへる御門々、ちまたはさら也、御山の内までかため、
   さるべき人々うけ給りぬとぞ。…(中略)…御霊屋は数の限りあればか建られず、先つ
   御祖のと、一つ殿に座さしめ給へかと聞ゆ。(2月20日)
   廿一日天気静也。きのふいさゝか雨降りしが夕付てやみぬ。今朝御気色うかゞひあり。
   御定によりてこゝの人々も月代そりぬ。かの御葬、けさの卯のはじめまでに、事無ふは
   てさせ給へりとぞ。(2月21日)

 家斉は閏一月七日に没したが、幕府は十九日に病気である事を公にし、晦日にその死を公表したというのが事実のようである。また『日記』は家斉の墓所も最初芝増上寺の予定であったが、御台所の願いによって、急遽上野寛永寺に変更になったと記している。さらに、西丸奥医師筆頭の古田成方院が後日咎めを受けるが、その原因について、
  吉田成方院と聞ゆるは、西の大殿の一の御薬師にて、又ならぶ者ながりしが、御病おもら
  せ給ひては、御枕のほとりをさらで常にさぶらひしに、いかなるおこたりならむ、いまは
  の御とぢめをえ知で、いつかきえいらせ給ひて後、人の見付奉りしに驚きけるなど、其頃
  沙汰しけるが、同じう御咎あり。(5月15日)
としている。以上が家斉死亡に関する『日記』の記述であるが、『徳川実紀』『徳川幕府家譜』の記録との間には、かなりの相違がある。別表からも解る如く、『徳川実紀』に記す没日は、泰姫・若姫を除けば、実際に死亡した日ではなく、その死を公に発表した日であると言えそうである。暉姫は五月四日に没していると思われるのにもかかわらず、『徳川実紀』では七日の条に「この日暉姫君御けしきすぐれさせたまはざるにより。鴈間詰。奏者番まうのぼり御けしきうかゞふ。」としているし、家斉は閏一月七日には、すでに他界していると思われるのに、『徳川実紀』は十三日の条に「大御所御不予により高家大沢修理大夫御使して。日光准后に御祈祷料銀五百枚。純子十巻をおくらせらる。」とし、さらに十九日には「大御所御不予によて使番川勝舎人上使として。増上寺方丈に御祈祷料として銀百枚を遣はさる。」としている。また池田斉訓は『日記』によれば、天保十二年六月九日に没しているが、『徳川実紀』では七月三日と九日に、二度も見舞いの使者を遣わし、然る後、七月十三日に没したと記している。とかく信じられがちな公の記録にこのような虚構があり、一女性の日記に真実が伝えられている訳である。

 著者は、真淵・宣長・千蔭等の著書について学んだため、その、ものの考え方には国学的思想が大きな影響を与えているように思われる。したがって、仏者・儒者には概して好感を示さず、それらに対する批判には厳しいものがみられるが、さらに、それは「かいなで」の国学者・歌人にまで及んでいる(11年2月26日の条など参照)。具体的な一例として、国学者・林国雄への批判(11年11月6日)を引用したい。
  今の世の大さま〴〵物の考へなどもし、あるは哥の上てにをはなど、詳しきがうへにも、
  猶みづから思ふすぢなど考へそへ、はた物の註釈など次々出来つれば、初学のともがらに
  は、いとたよりなむよかめる。然れどもかゝる物識人の中にも、其本性により、己が思ふ
  すぢをたてゝ、ひたぶるに傾きたるは、中〳〵に僻事も出くるに歟。かの玉河の水上たづ
  ねたりといひし、林の何がしは、五十韻に詳しとて其ことにつのり、阿伊宇於の文字は、
  古言にはかならず省く事とかたよりおもひ、…(中略)…吾だけう世の大をいひおとして、
  詞の緒環といへる書を著したりき。
 この『詞緒環』を読んだ著者は、不審の点が多いので手紙で問合せると、その返事に「えもいはぬしれ〴〵しき事ども」を書いてきたので、再度問うことはしなかったという。そして、
  (この林国雄は)昔こゝにも度々来て哥よみ文講じなどせさせしが。ともすれば例のかた
  よりたるくせのみ常に言ひたりしを、此者一とせ身まかりぬと聞つ。世に長からましかば、
  はたいかなる僻事共をか物せましを、とく失たるなむ、いさゝかはうしろやすかめる。
 と評している。内容は天保九年刊行の林国雄の『詞緒環』を、宣長の『玉霰』との関連において批判したものであるが、前年二月に没した国雄への批評としては、極めて厳しいものと言わなければならない。その他、『扶桑国号考』の著者・平田篤胤に対する批判(13年3月18日)、市川匡麿の『末賀能比連』・官長の『葛花』・沼田順義の『級長戸風』・林文康の『ますみの鏡』による論争への評(15年9月18日)、荒木田久老の『万葉集槻の落葉』への感想(13年3月18日)等々が記されている。
 また、著者は歌を能くし、『日記』には長歌をも含めて八百余首が収められている。『万葉集』『古今集』を好んだようであるが、収める歌は、この時代の一般的傾向であるが、観念的で、美意識も型にはまっており、伝統的な歌語をとり入れて一首にまとめたものが目立つ。ただ、その中にも新しい言葉によって詠もうとする努力はみられ、清新な詩情を素直に歌ったものもある。
 十四年十一月五日、著者は杉嶋勾当に短編物語を創って与えている。前田夏蔭の文会に出すものを杉嶋に依頼されたからである。分量は四十四行、内容は幕府の印旛沼開鑿を暗に批判したもので、これは杉嶋の発案であるが、この内容に著者が賛同していた事はいうまでもない。「今めかしき事を雅かにとりなさむとするに、みじかき筆のあさき心には、はかなうひとひらの文といへどもあやしう手づゝにこそあらめ、されど其つみ己が身におはぬなむうしろやすき。」と言っている。この工事は、水野越前守を筆頭に、町奉行鳥居甲斐守、勘定奉行梶野土佐守、目付榊原主計守、同戸田寛十郎、勘定鰍頭五味与三郎等が中心となって進められたが、この中の戸田寛十郎は家刀自(親経の妻)の兄であり、しばしば著者の家を訪工事の様子を伝えている。この年の九月水野忠邦は罷免され、工事も中止された。この「今めかしき」出来事を著者は物語の中にとり入れたのであろう。その他、落語『品川心中』の原話かと思われる、品川の遊女と武士の心中(11年2月21日)や、旗本・春日ひだり門と同・赤井某の妹との心中(11年11月17日)等は、当時の事件の顛末を詳細に記したものであるが、六葉半、五葉半という十分のスペースをとり、会話を入れ、男女の心理をも描いているのであり、これらも一種の創作と言えない事はない。さらに、十四年一月晦日の条に、
  (佐渡の蔵田茂樹が)一年こゝへまでこし頃見せつる文の中に、神代のいましめと名おふ
  せたる、かくれ蓑かくれ笠の物語、あるが中にこゝろにそみたりとてこひおこせたれば書
  てつかはしぬ。
と記しているが。この『神代のいましめ』は、平安朝散逸物語の一『隠れ蓑の物語』に想を得て成った創作で、最後の佐渡奉行・鈴木重嶺の「翠園叢書」(松本誠氏所蔵)巻二六に収められている。
 また、『日記』には古典等に対する、短い批評や感想は所々に記されているが、今は『花月草紙』についての批評を紹介したいと思う。著者は、これより前、十五年三月二十一日に人から借りて書写し、同様の感想を記しているが、次に掲げるのは、十五年八月二十九日、子の親経の求めに応じて認めたものである。

  花月と名おふせつる此文は、己が幼かりつる頃大政事ことゝり申され松平越中守と聞えて
  世の人今も其おきてを仰ぎぬる、従四位。少将定信主の物せられし文也。此父君は田安中
  納言宗武ノ卿と南聞えつる、其三郎にあたり給ふめり。人の家を継て公に仕うまつられ、
  さがなき人をも教へさとし普く憐れみ深かりしかば、天の下押並て打靡きつゝ、其うつく
  しみを慕はぬ人社なかりしが、程なく致仕せられて後も、白河殿とたゝへつゝ人皆心よせ
  たりき。いでや此文のさま、すゞろごとのやうなれど、はかなきこと或はあやしきこと、
  世の中にあらゆることを物に譬へ事によせ、人の教へともなりぬべきふし〴〵、こゝのも
  唐のもあまた書まぜられたるに、をかしう目とまる南多かりける。本より唐ざえありて手
  などよくかゝれ、かつやまと心もなべてにはあらざりけむ。こをすぎ〳〵見もてゆくに、
  さはいへおのづから韓心になづみたる事もまじれゝど、なほ一ふし有て近き世にいにしへ
  学びとて物する人の文に似ず、はた雲の上人の筆のすさびにもたがひて一つの丈高き姿な
  む有ける。そも〳〵いにしへの文ども誰がすさびとも其人え知ざるなむ多かるは、己が
  名を求めざる雅たる人のしわざにこそありけめ。此花月もそれにならひて咲花の匂ひを
  つゝみ、照月の光りを覆ひ、誰がわざとも知れぬさまに物せられけむかし。然るにあかぬ
  ことには言の葉のとゝのはざる、あるは自他のまぎらはしき処々まじれる南玉に疵ありと
  やいふべからむ。

 以上が『日記』の内容の概略であるが、前にも述べた如く、著者は初めから人に読まれる事を想定して筆を執ったものと思われ、著者にとって、日記を記すという事は、身辺の雑事や、社会的諸事象をそのまま記録する事ではなく、それらの「今めかしき事を雅かにとりな」す、つまり、雅文によって著者らしく表現する、一種の創作であったとも言える。しかし、その文章は、美文を成すことに決してとらわれてはいない。意図することを思いのままに表現し得ている。その意味でこれは、単なる記録・日記の域にとどまるものではなく、日記文学として、今後検討されるべき価値を十分もっていると思われる。
 近世の日記文学に関する研究は、決して進んでいるとは言えない。檀上正孝氏は「近世の日記文学」(『文学語学』第49号、昭和43年9月)で、
  近世の日記文学についての研究は、現段階においては、なお概論的考察の範囲にとどまっ
ているもののようで、個々の作品に対する精緻な研究は、まだほとんど見られない状態であ
る。
と述べておられる。それは、この時代が秀れた日記文学に恵まれなかったという事とも関連しているものと思う。
 真下三郎氏は「近世の日記文学」(『日本文学の全貌』昭和25年刊)において、近世の日記全般について考察を加えられたが、その論考を次の如く結んでおられる。
  結局近世には日記は多く残された、にも拘らず、文学には乏しい。日記を文学とするのは
  無理には違いないが少いのは事実である。むしろ印刷蒐集せられない他の日記、陽の目を
  見ないで埋れている日記の中に、もしや自照性のすぐれた文学作品が残っているのではな
  いか。…(中略)…こういう事を思わしめるのが、近世の日記文学というテーマにおける
  一つの結論になるであろう。
そして、女性の日記としては、井上通女の『東海紀行』『帰家日記』、頼静の『遊洛記』『梅颸日記』、武女の『庚子道の記』等を掲げられ、
  多感なるべき彼女たちの作品は読んでみても、いかにも味の薄さ、見方感じ方の浅さを思
  わせるのは淋しいことである。才女には違いないが冷たさが先立って、暖かい愛情が見ら
  れない。記録は正確で眼光は人の気づかぬ細かい所にも及んでいるかも知れないが、それ
  だけに想像も情緒も、又思想も与えられていないのが多い。いわば人間としての作者が浮
  かんで来ないのである。生活や環境がそうならしめたというより、やはり文芸的資質の貧
  困によるのであろう。井上通女の紀行も梅颸夫人の日記もリズムに乏しく乾燥平板の語に
  つきているであろう。
と評しておられる。
 井関隆子の残したこの『日記』が、近世日記文学の上で、どれ程の位置を与えられるか、それは今後の課題である。ここに収められた長歌を含む八百余首の歌と共に、多くの研究者によって分析研究される事を切に念じている。
 

 三、井関隆子について

 鹿島則文氏は『日記』の著者についての調査を、明治十五年にしておられる。幸いその貴重な記録は原本の識語として伝えられた(四二三頁参照)。これによって井関隆子についての大略は解る訳であるが、その後、私の調査し得た事を簡単に述べてみたい。
 著者の実家の庄田家は、代々徳川家に仕えた旗本であり、庄田本家三代・安勝の二男・安議を祖とする。父・安勝は采地三千石の内、二千六百石を長男・安利に。四百石を二男・安議に分知してこれを分家とした。
 著者・隆子は四代・安僚の四女として、天明五年六月二十一日に生まれた。幼名を「キチ」という。『日記』の中で、子供の頃は五十年余り前であるといい(11年1月30日、5月26日)、自分は巳の年の生まれであるといっている(11年6月23日)が、天保十一年から五十年前は寛政二年で著者は六歳、また天明五年の干支は乙巳でいずれも符合する。父・安僚は小栗信倚の四男として元文元年に生まれ、三代・安信の養女(二代・安清の娘)と結婚し庄田家を継いだ。明和二年に小普請入り、同三年に大番に列して大坂城・二条城に在番、寛政四年九月二十五日、五十七歳で没した。母は後妻で、文政九年六月一日、七十
八歳で没している。隆子は父、五十歳母、三十七歳の時の子で、兄妹には、安邦・安固・利安の三人の兄と三人の姉、一人の妹があった。
 屋敷は『庄田家系譜』安議の条に「延宝五丁巳年三月十七日於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」とあり、天保四年の江戸切絵図の大番町に「庄田」とあり、嘉永二年の切絵図には「庄田金之助」(今の新宿区大京町二六・二七番地辺)とあるので、代々移転はなかったものと思われる。ただ。五代・安邦が文政二年に没した後、六代安玄は身持が悪く。弟・安明と共に築地の庄田本家に預けられ、四谷の屋敷は空家同様になっていたらしい。その様は十一年五月二十六日の条によく描写されている。
 また、庄田家は初代・安議より代々、本郷元町の浄土宗・昌清寺(今、文京区本郷一の八の三に現存)を菩提寺としており、この昌清寺には過去帳も現存し、『日記』の内容とほとんど合致する。多数存した庄田家代々の墓石はその後整理され、現在は初代・安議の一基のみを残している。
 六代・安玄は天保七年に没し、弟・安明かその養子となり七代目を継いだ。安明(金之助)は天保七年小普請入り、同十一年御目見、同十四年に西丸腰物方となり、同じ十四年の六月には四谷の家を新築して本家から引き移っている。この事は当然著者の所へも知らされ、安堵の様が『日記』に記されている
 さて、『庄田家系譜』の著者の条には次の如くある。「女子キチ 天明五乙巳年六月廿一日出                                                   生/大御番山口周防守組 松波源右衛門妻 不嫁ニ付/西丸御納戸組 井関弥右衛門」つまり、著者は、大番衆・松波源右衛門と婚約したが(あるいは結婚したが)、何かの事情で嫁がなかった(あるいは離婚した)。そして、その後、井関弥右衛門の後妻となったらしい。代々大番に列し、源右衛門を称した家に、重貞を祖とする松波家があるが、ここにいう源右衛門がその家の人物か否かは未詳である。ただ、山口周防守弘致が大番組頭であったのは、文化四年から文政元年までの十二年間であるので、この間に大番衆であった松波源右衛門と婚約または結婚したものと思われる。そして、これが破談となり、寛政九年より西丸納戸組頭を勤めていた、井関弥右衛門・親興の後妻として井関家へ嫁いだものと思われるが、親興の先妻が文化九年八月一日に没しているので、それは文化十年以後ではなかろうか。仮に文化十一年とすると、隆子は三十歳、親興は四十九歳である。この最初の縁談(結婚)の破談(離婚)という出来事は、女性の著者にとって、人生の大きなつまずきであったと思われる。五年間に亙る『日記』には多くの思い出が語られているが、この間の事情に関しては一切記されていない。その傷手の深さを物語っているように思われる。                                                                      
 著者の嫁ぎ先の井関家は、実家・庄田家と同様、代々徳川氏に仕えた旗本である。始祖は近江の国の住人次郎右衛門・親秀である。その嫡男・親正は下総国葛飾郡に采地二百二十石を与えられ、大坂冬夏の陣に参戦し、尾州熱田において深手を負って没している。以後、三代・親信は細工頭、四代・親房、五代・親倫は大坂の金奉行、六代・貞経は襄門切手番頭をそれぞれ勤めている。七代・親興(乙三郎・弥右衛門)は新見正峰の三男であるが、六代・貞経の娘と結婚して寛政二年に井関家を継いだ。この時二十五歳、持高は二百五十俵であった。天明四年将軍・家治に拝謁、寛政六年納戸番に列し、同九年より西丸(家慶)納戸組頭となり、文政九年二月二十九日没、六十一歳。隆子との間に子は無かったようである。八代・親経(富之助・次郎右衛門。縫殿頭・下総守)は文化二年十月家慶小納戸、同年十一月西丸小納戸、文政八年二丸留守居、天保十二年広敷用人、嘉永七年職を辞す。広敷用人在職中七百俵を与えられた。安政五年五月二十五日没。九代・親賢(貞之丞、次郎右衛門。下総守・肥後守)は戸張氏の男で八代・親経の娘と結婚して井関家を継いだ。天保十年家慶小納戸、嘉永四年家定小納戸、安政五年家茂小納戸、文久三年広敷用人、元治元年御役御免となる。慶応元年十二月二十六日没。
 菩提寺は三代・親信以後、小石川戸崎町の曹洞宗・喜運寺(今、文京区白山二の一〇の三に現存)である。もとは代々の墓石二十数基があったが、数度の移転の折に整理されて、現在は、嘉永五年に親経・親賢父子が再建したと思われる一基のみを存している。その墓石には初代・親秀、二代・親正に関する墓誌が刻されている。なお、喜運寺の過去帳は戦災によって焼失してしまった由であるが、幸い昭和九年に、これより転写した『井関家過去帳』が井関家に現存している。屋敷は九段坂下の飯田町(今の千代田区九段南一丁目五番地辺)にあり、嘉永二年の江戸切絵図には「井関縫殿正」とある.
 『日記』の書き始められた、天保十一年の井関家の家族構成をみると、五十六歳になる著者・隆子.二丸留守居を勤める当主の親経、親経の妻(後に日光奉行・浦賀奉行・大坂町奉行となった戸田氏栄の妹)、家慶の小納戸を勤める親賢、親賢の妻(親経の長女)、親経の三女(二十三、四歳になるが縁がなく未婚).十一歳になる親賢の長男、以上の七名であるが、この年の四月親賢の妻が女子を出産している。これに二十年来井関家に仕えている河野某をはじめとする男女の奉公人が加わる。
 隆子が井関家へ嫁いだのが文化十一年と仮定すると、この時三十歳。四十九歳の夫・親興と十三年間生活を共にした事になる。文政九年に親興が没した後学問を始めたという(鹿島則文氏調査)が、『栄花物語』などは二十年余り前から所蔵していると記している(13年5月17日)ので、すでに親興在世中から、かなりの蔵書を所有し、古典に親しんでいた事が知られる。また、親興が没する前年に子の親経は二丸留守居にまで進んでおり、家庭は安定していた。さらに親経の妻(服部氏)が文化十四年に没したため、後妻(溝口氏)を迎えたが、これも天保六年に没し、さらに戸田氏の娘を迎えている。このような家庭の中にあって、著者は文筆もあることではあり、親経の母、親賢の祖母として権威をもって、好きな道を楽しんでいたものと思われる。
 著者は歌や古学を学ぶにあたって特定の師に就いてはいない。国学者・林国雄の講釈を聴いたり、冷泉流の女性歌人に接した事もあったが、いずれも満足できなかったらしい。真淵・宣長・千蔭等の著書を熟読することによって、古典への理解を深めていったものと思われる。ただ、この間、何人かの文化人との交流はあった。家刀自の兄・戸田氏栄は勤めのかたわら、歌を木村定良に学んでおり、一度ではあるが隆子も定良と歌を交わしている。道一つ隔てた所に屋敷のある新見正路とは親類であり、交流は深かったらしい。正路は大坂町奉行から側衆となり、五千石を食み『徳川実紀』をも編纂しているが、その蔵書は賜蘆文庫として知られている。おそらく隆子もこの正路の蔵書は見ていたものと思われる。また正路を介して屋代弘賢と会った事もある。著者の家に出入りして浅からず交わっている歌人に杉嶋勾当かついちがいる。盲目のため隆子から『古事記伝』『万葉集』等を読んでもらっているが、この杉嶋は前田夏蔭や北村季文・湖南の父子とも交流しており、隆子も杉嶋を通じてその歌等に接していた。佐渡の歌人・蔵田茂樹とは、茂樹が職務のため天保十年に出府した折、ある歌会の席上で知り合い、以後、隆子が没するまで文通による交流は絶えなかった。
 『日記』に引かれる主な古典は、古事記、日本書紀、続日本紀、日本紀略、万葉集、古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、新古今集、新後撰集、続千載集、風雅集、躬恒集、草庵集、六百番歌合、土佐日記、竹取物語、伊勢物語、落窪物語、枕草子、源氏物語、栄花物語、小右記、今昔物語、台記、宇治拾遺物語、平家物語、吾妻鏡、徒然草、太平記等々であり、これらが自由にとり入れられているところに、著者の力量の程がうかがえる。また『古事記伝』を書写して学んだと伝えられているが、『浜松中納言物語』の欠落した部分を補って書写したものを『万葉集略解』の書写本と共に、家斉の正妻・広大院に親経を通じて献上してもいる。現・井関家の安吉・元御夫妻のお話によれば、代々二つの行李を大切に伝えてきたが、その中には多くの短冊、冊子本、巻物、絵、墨付などが入っていた。第二次大戦当時、東京三ノ輪に居住しており、昭和二十年二月十五日の空襲は免れたが、三月九日の大空襲で全て灰燼に帰してしまったとの事である。おそらく、その中には隆子のもの、親経・親賢のもの等が入っていたと推測されるが、惜しんでも余りあるものがある。なお、この『日記』は明治維新の動乱の折、何等かの事情で井関家から持出されたものと思われる(鹿島氏調査)が、その後、隆子の書写本『宇津保物語考』(静嘉堂文庫蔵)、『恵美草』(国会図書館蔵)が現存する事を確認し得た。これらも同様の事情から他家の所蔵するところとなったのであろうか。さらに、著者が佐渡の蔵田茂樹に書き送った中編物語『神代のいましめ』及び『井関隆子長短歌』が佐渡奉行・鈴木重嶺の「翠園叢書」(松本誠氏蔵)に収められているが、これは茂樹の子・茂時が献上したためである。以上のような経緯から『日記』をはじめとする隆子の著作・書写本が今日に伝えられたのは、不幸中の幸いであったと言える。
 著者は幼い頃の思い出として次のような事を記している。ある日、四谷・長安寺の僧が堂宇再建の資金集めに托鉢して回ると、親類の嫗が目に涙をためてありがたがる。それを見た著者は「全くかの堂の出来たらばこそしかもほめ給はめ。日毎といふ斗奉らせ給ふ物をも、うまき物などにかへてや賜べ給はむかし。」という。嫗は立腹して「あなもたいな、幼きものゝさるさがなきこといふ物かな、此子は常にさくじりおよづけたる口つきこそはしたなけれ、あなにく。」と叱りつける(11年6月8日)。また、母が非常に 蛇を嫌ったので著者は折々これを打ち殺した。母は「己がためにはうしろやすけれど、女子の似げなきわざなせそ、ことに巳はおことが歳なるを。」と注意するが、これに対して著者は「己が歳に侍れば、猶己が心にまかせてむに、なでうことかあらむ。」と返答している(11年6月23日)。
 この男勝りとも言うべき性格はその後も持続されたようである。『日記』にみえる著者は、年齢の関係もあると思うが、決して女々しくはない。目先の感情におぼれず、批判精神の強い、それだけに気位の高い女性であったらしい。が、このような性格であっただけに、青春のつまずきは、それなりに著者の内部に大きな衝撃を与えたものと思われる。そして、それが著者をして歌や古典の世界へ目を向けさせる動機になったのかも知れない。松波家との婚姻が不調に終わり、井関家へ嫁ぐまで約十年の年月があったものと思われる。『日記』に述べる「はかなき事をも記しつゝ心をやるよりほかの慰めなむなき。」「つれ〳〵なるものゝ慰めには、はかなき書より外の友しなければ、」という老いの心境は、勿論次元は相違していたであろうが、すでに青春において味わった事であっかも知れない。『日記』は天保十五年十月十一日の条を、
  十一日昨日はいさゝかむら雨うちし。はた晴き。今朝はいさゝか雲たゝず風静なり。うへ
  大将ノ君駒ノ原にれいの御ことゝて御狩あり。御遠侍なる氏族かれ是御供にあたれり。親
  賢も仕うまつりて夕付てかへりぬ。
と記している。平凡な一日の記述である。隆子は二十日後の十一月一日に他界した。卒中のため三日ほど病んだのみだという。おそらく、病の床に臥すまで『日記』は記し続けたものと思われるが、清書はされなかったのであろう。亡骸は井関家代々の菩提寺・喜運寺に葬られた。法名は「知清院殿悟奄貞心大姉」という。享年六十歳であった。

   四、井関家・庄田家系図

 井関家系図(『井関家過去帳』『寛政重修諸家譜』『井関隆子日記』に拠る。試案)

 【井関家系図 省略】 原本参照

 【庄田家系図 省略】 原本参照

  五、井関隆子関係資料

  著  作

〔1〕 井関隆子日記(別名 天保日記)
  桜山文庫(鹿島則幸氏)所蔵。全十二冊。著者自筆の日記。本書に全文翻刻。
〔2〕神代のいましめ
  松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二六に収録。全二七葉の物語。末尾に「此一巻は井関親経朝
  臣の御は君におはしゝ隆子の君の筆ずさみ也。……弘化四年文月」という、蔵田茂樹の識
  語を付す。『文学研究』第四十六号(昭和52年12月)に全文翻刻。
〔3〕井関隆子長短歌
  松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二六に収録。蔵田茂樹に書き送った長歌三首と反歌等を収め
  る。(学習院大学図書館には『神代之誡』『井関隆子 歌』の写本が所蔵されている。これ
  は明治十七年十二月に佐藤硯湖が右の翠園叢書から転写したもので、雕虫居写本全一六
  〇冊の内、第一四五冊目に収められている。)
〔4〕野山の夢・蹊
  蔵田茂樹著『野山の夢』の巻末に書き添えたもので、末尾に「天保とぶ歳のとゝせ冬の中
  ら源隆子しるす」とある。松本誠氏所蔵の翠園叢書・巻二八に収録。巻頭に清水巡の序が
  ある。『文学研究』第四十六号(昭和52年12月)に全文翻刻。
〔5〕和歌一首
  蔵田茂樹の『恵美草』を書写した折、千畳敷の条に書き添えたもので.桜山文庫(鹿島則
  幸氏)所蔵本と『佐渡史林』所収本に見られる.歌は「いづくはあれど、こゝのあそびの
  いとうらやましくて、/すかだゝみ千重敷いそにうたげせるさどのしま人ともしきろ鴨 
  隆子」
〔6〕和歌三首
  木内有渓編、天保四年刊の歌集『秋野の花』全三巻に「隆子」の歌として次の三首が入っ
  ている。
  上巻、九丁表、一首目に「夜春雨 隆子/宵のまはしられざりしを春の雨更ゆくまゝに音
  の聞ゆる」
  上巻、二十九丁表、五首目に「夏風 隆子/月花と人はいへども夏の日に風ふくばかり嬉
  しきはなし」
  中巻、十一丁裏、四首目に「月前菊 隆子/手にとらばこぼれやせまし菊の露月影乍らお
  らまほしきを」
  巻末の入集歌人一覧に「三首 同(江戸) 紀州家大奥侍女 隆子」とあるが、この「隆
  子」が井関隆子と同一人物か否か、現在のところ未詳である。参考のため掲げた。

 書写本

〔1〕 宇津保物語考
  静嘉堂文庫蔵。一冊。桑原やよ子の著作を隆子が書写したもの。書写は『井関隆子日記』
  と同筆で巻末に「此ふみは臼井房輝ぬしのもたるをかりてうつせる也/天保のとゝせとふ
  年の秋なが月 隆子」とある。
〔2〕 恵美草
  国会図書館蔵。一冊。蔵田茂樹の著作を隆子が書写したもの。書写は『井関隆子日記』と
  同筆で、巻末に「天保十三年三月写之 みなもとのたか子」とある。

 著者関係

〔1〕 井関家過去帳
  井関家蔵。菩提寺・喜運寺の過去帳より昭和九年に転写したもの。喜運寺の過去帳が焼失
  してしまった現在、貴重な存在である。
〔2〕 庄田家系譜
  庄田家蔵。正本と副本がある。
〔3〕 昌清寺過去帳
  昌清寺蔵。

    調査・報告

〔1〕 鹿島則文氏識語
  明治十五年の調査結果を記したもので『井関隆子日記』の原本に付されている。親賢の実
  家・戸張家の子孫と直接言葉を交わした様子も知られ。貴重な記録である。(本書、四二
  三頁)
〔2〕 国立国会図書館所蔵『恵美草』の書写者について
  深沢秋男。(『参考書誌研究』第十一号、昭和50年6月)
〔3〕 桜山文庫所蔵『天保日記』とその著者について
  深沢秋男。(『文学研究』第四十二号、昭和50年11月)
〔4〕 或る旗本夫人の日記から見た江戸の風俗について――新資料『天保日記』の紹介をか
  ねて――
  深沢秋男。(東京の歴史研究会・第一二四回例会。昭和51年2月21日、新宿区立中央図
  書館)  ★この発表の内容は活字化されていない。
〔5〕 井関隆子研究覚え書
  深沢秋男。(『文学研究』第四十四号、昭和51年11月)
〔6〕 井関隆子研究覚え書(二)――新資料『神代のいましめ』の紹介――
  深沢秋男。(『文学研究』第四十六号、昭和52年12月)

     付  記

 この『日記』に初めて出合ったのは、昭和四十七年十一月であった。恩師重友毅先生の使いとして、桜山文庫御所蔵の『春雨物語』等を御返却するため、水戸の鹿島則幸様宅へお伺いした折の事である。要件が済んだ後、鹿島様は古活字本のすばらしい『撰集抄』や大高秀明の著で平田篤胤の批評が書入れられている『大祓詞正解』、馬琴の書入れのある『忠義水滸伝』などと共に桐箱入りの『日記』を見せて下さった。その時はさっと目を通したのみで、勿論内容など明確に把握できなかったが、全十二冊の『日記』は保存もよく、内容的には将軍家の様子も書かれており、貴重な著作と思った。同席した家内はその筆のみごとさに感じ入っていた。
 この事を前田金五郎先生に御報告しておいたところ、翌年一月、鈴木棠三・小池章太郎両先生より、あるシリーズに『日記』を入れたい旨の御連絡を頂いた。最初は御紹介のみの予定で、鹿島様をおたずねし、この件をお願い申し上げたところ御快諾を賜った。鹿島様の御厚意により原本を拝借して帰り、初めからゆっくり読み進めるうちに私はこの『日記』に強くひかれていった。幸い鈴木・小池両先生の御許可もあって、校注を担当させて頂くことができた。校注の作業をコツコツ進めるかたわら、『日記』の著者についての調査も続け、井関・庄田両家の御子孫の方々にもめぐりあう事ができ、御両家の菩提寺も現存する事を知り得た。また井関隆子の著作である『神代のいましめ』『井関隆子長短歌』等が、松本誠先生御所蔵の「翠園叢書」に収録されている事も解り、著者の書写本『宇津保物語考』(静嘉堂文庫蔵)、『恵美草』(国会図書館蔵)も見る事ができた。この間『日記』の内容に関しても、日本文学研究会や東京の歴史研究会で発表させて頂き、有益な御意見、御指導を賜った。その後、最初の出版計画が中止となり、『日記』の出版は見通しがつかなくなったが、鈴木・小池両先生、朝倉治彦先生にはこの面でも種々御高配を賜った。昨年五月、勉誠社社長の池嶋洋次氏にこの『日記』の出版を強くお願いしたところ、氏は自ら本文原稿に目を通された後、快く引受けて下さった。
 以上、これまでの経緯を簡単に記したが、出合いから刊行まで五年の年月を費やした。これは新しい作品を送り出すために決して長いものではないと思う。私としては、もっと調査を重ね、内容の理解も深めたいと思ったが、反面、天下一本とも言うべき貴重な原本の事を考えると、一日も早く活字化すべきだと思いかえした。
 本書の刊行されるまでには非常に多くの方々の御厚情・御指導を賜った。貴重な御所蔵本を長期間に亙って借覧させて下さった鹿島則幸様、種々御指導・御教示を賜った鈴木棠三先生、前田金五郎先生、小池章太郎先生、朝倉治彦先生、丸山季夫先生、松本誠先生、重友毅先生をはじめ日本文学研究会の諸先生、東京の歴史研究会の諸先生、著者の調査に際して有益な御教示と御高配を賜った井関安吉・元御夫妻、庄田金造氏、昌清寺(服部仙順氏)・喜運寺の皆様、諸資料の閲覧に際して種々御配慮を賜った、学習院大学図書館・国立国会図書館・静嘉堂文庫・都立中央図書館・西尾市立図書館・無窮会図書館、そしてこの出版を引受けて下さり、多くの御配慮を賜った勉誠社の池嶋洋次社長、この外陰に陽に御厚情を賜った方々は少なくない。以上の皆様方に心からの御礼を申し上げます。
            昭和五十三年二月
                                深沢 秋男 

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【追 記】

〔1〕『井関隆子日記』との出会い

●仮名草子研究を続けている私が、桜山文庫の写本「天保日記」全12冊に出会ったのは、昭和47年のことである。その翌年、神田の出版社・錦正社から新シリーズの叢書を出すので、この日記に注を付けて欲しい、と依頼された。写本を読んでみると、これは、価値がある日記と判断し、作業にかかった。上中下の3冊で刊行することになり、ようやく上巻の原稿が完成した時、錦正社の企画が中止となってしまった。あちこちの出版社に打診しても引き受けてはもらえなかった。

〔2〕『井関隆子日記』の出版

●私は仮名草子に戻らず、この日記の原稿作成に没頭した。3000枚の原稿は仕上がったが、出版してくれる出版社はなかった。昭和52年5月、勉誠社に原本と原稿を持参した。池嶋洋次社長と編集者に会ってもらって、出版を検討して欲しいとお願いしたのである。
●忘れもしない。5月7日、勉誠社の池嶋社長から電話があった。出しましょう、とのお言葉。私は天にも昇る思いだった。どのような形で出して下さるのですか? と問うと、「日記文学として出しましょう」と申される。池嶋氏社長は、自ら手書きの原稿を読まれ、このように判断してくれたのである。私は、電話の前で、深ぶかと頭を下げて、心から御礼を申し上げた。
■勉誠社版『井関隆子日記』
 上巻・・昭和53年11月30日発行
 中巻・・昭和55年 8月30日発行
 下巻・・昭和56年 6月 5日発行

●『井関隆子日記』は、著者も校注者も無名の故に、さっぱり売れず、出版社には在庫の山となり、大変ご迷惑をかけてしまった。私は、在庫品を特別価格で頂いて、昭和女子大学の国文科の講読に使用した。高価なテキストの授業を履修してくれた、学生に感謝している。

〔3〕『井関隆子日記』の評価

■参考文献 抜粋
●新田孝子「井関隆子の文芸―館蔵『さくら雄が物かたり』の著者」(『図書館学研究報告』東北大学、13号、1980年12月)
●ドナルド・キーン「井関隆子日記 ①・②・③(百代の過客―日記にみる日本人―)」朝日新聞、1984年4月4日・5日・ 6日
●吉海直人「新出資料『物かたり合』の翻刻と解題―井関隆子周辺の創作活動―」(『同志社女子大学 日本語日本文学』8号、1996年10月)
●深沢秋男『井関隆子の研究』和泉書院、2004年11月
●真下英信『古代ギリシア史論拾遺』私家版、2008年2月
●真下英信「『井関隆子日記』に見られる地震の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』26号、2009年3月
●真下英信「『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』29号、2012年3月
●真下英信「音で読む『井関隆子日記』:天気の記述」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』30号、2013年3月
●真下英信「音で読む『井関隆子日記』:鳥」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』31号、2014年3月
●真下英信「音で読む『井関隆子日記』:物売り」『慶應義塾女子高等学校研究紀要』32号、2015年3月

■『井関隆子日記』は、次の大学入試に出題された。
〔1〕平成11年度、センター入試「国語・古典」本試験に出題
〔2〕平成11年度、センター入試「日本史」追試験に出題
〔3〕平成20年度、明治大学入試「国語・古典」に出題
〔4〕平成23年度、京都大学入試「国語・古典」に出題

■評価の例 ①
「第四に挙げる作品は、旗本女性井関隆子(一七八五~一八四四)による『井関隆子日記』である。天保一一年から一五年までの五年間、変化しつつある社会を政治も含めて見聞し、また多くの書物を読み、それらについて思索しながら膨大な日記を書き続けた。その文体は町子や麗女と相違して、和文である必要性はなかった。平易でありながら行き届いたものであり、近世における女性の随想文の一つの到達点としても良いだろう。思索の内容は、政治社会論や女性論に注目すべきものがある。」(鈴木よね子氏『日本女性文学大事典』)
●『井関隆子日記』の文章は、決して、当時の国学者の多用した擬古文ではない。言ってみれば、古代語ではなく、近代語の文章なのである。これが、文学としては評価されるところだと思う。

■評価の例 ②
●真下英信氏「『井関隆子日記』理解の一つの手掛かり」(『慶應義塾女子高等学校研究紀要』第29号、2012年3月刊)
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はじめに
“日は落ち全ての道は次第に暗くなっていった”。これは古代ギリシアの叙事詩人ホメロスの作品『オデュッセイアー』で七度繰り返されている一行である。筆者は夕暮れ時に散歩すると無意識にこの詩句を口ずさみ,楽しくも刺激的であったギリシア語の授業を時折思い出す。昔,辞書を引きながらホメロスの原典を読み始めた時,この一句から強烈な印象を受けたからである。その理由の一つはたわいもないことで,この詩句が現れると辞書を引くことなく容易に一行進めた喜びであった。アオリストと未完了の絶妙な対比にも魅せられた。また,主人公が海の真っただ中を航海しているときにもこの一句が使用されているのに何とも言えぬ奇妙さに襲われたからでもあった。道はどのように整備されていたのかを考えるのも楽しかった。
 ホメロスの叙事詩とは成立年代も文学形態も全く異なるとは言え,『井関隆子日記』を読むと同じく繰り返し現れる語句があることに人は気付く。多少の変型があるが,“己が幼かりし頃”との一句である。これらの語句は,5年間にわたって綴られた日記のなかでも特に最初の1年,天保11年に多用されている。この語句の繰り返しから我々は彼女の日記のどのような特質を読み解くことが出来るのかを検討するのが本小論の目的である。結論として,隆子は日記を綴るにあたり常に人間ひいては自然の本性を書き留めることに努めており,この態度は5年間不変であった。変わったのは彼女が生きていた時代そのものであり,それ故に彼女が綴った日記は秀逸なる歴史書と見なせるのではないか,との主張がなされるはずである。  【以下略】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おわりに
 ツキディデスの『戦史』を一読した者なら誰しも,己の時代を未来に伝えるべく日記を綴るには自己自身の営為の確立すなわち現在への犀利な洞察があればこそ可能となる,との思いを強くするのではなかろうか。隆子は政治的亡命を余儀なくされる事もなく四季折々の変化と家族団欒を楽しみながらも日常性に埋没することなく,その背後に潜む社会の実態を鋭い眼で客観的に記述した。かかる洞察力なくしては過去並びに現在の記述は単なる懐古趣味に堕す。人間の本性に照らしあわせて過去と現在を綴ろうとした隆子の姿勢はまさに歴史家のそれと言ってよい。それ故に,『井関隆子日記』は秀逸なる文学作品であると同時に幾多の重要な史実が記載されている優れた歴史書であると評価出来る。    (2011.11.24)
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●引用が長くなったが、真下氏の論文は、推敲に推敲を重ねられた、濃密なもので、簡単に引用出来ない。このような研究に出合った、井関隆子は幸せ者である。私などには、とても到達できない、作品の深奥である。私としても、心から感謝申し上げる。

●今後、『井関隆子日記』の文学的価値に関する研究は、ここに掲出した、真下英信氏の論文と、新田孝子氏の、「井関隆子の文芸――館蔵『さくら雄が物かたり』の著者」(東北大学『図書館学研究報告』第13号、昭和55年12月)等を吸収、理解して進める必要がある。
          平成27年(2015)5月7日
                   深沢秋男

〔4〕余談

●私事であるが、結婚後、妻は、私の研究に全面的に協力してくれた。妻の協力が無ければ、今の私は無いと思う。図書館へ行って、『国書総目録』から「仮名草子」作品を拾い出してくれたこともあった。コピー機が珍しい頃、コピーに出掛けてくれたりもした。『井関隆子日記』の原稿は、3000枚、全部、妻が清書して仕上げてくれた。
●昭和53年『井関隆子日記』の上巻の初校の校正をしていて、私は、こんな生き方でよいのだろうか、と疑問に思った。凡例の末尾にある、妻の協力に対する謝辞が気になった。本当に世話になった本であるから、感謝の言葉を記すのは当然だろう。しかし、これは、おかしい、そう思った。
●私は、妻を書斎に呼んで、初校の、妻への謝辞の部分を見せて、これはトルよ、と告げた。今後は、一切、私に手伝わないようにして、自分のやりたい事に時間を使って、自分らしく生きて欲しい、と、それまでのお礼と、今後のお願いをした。今後は、自分が一生続けられる、好きな事をして欲しい、と伝えたのである。
●妻は、美容学校へ行き、美容師になり、今は、美容院を経営して、毎日従業員と一緒に、元気に働いている。私は、よく、妻の使い走りをしている。

                       平成28年12月17日
             深沢秋男

【1】『新可笑記』

書籍・解説(仮名草子以外)

【1】新可笑記  昭和49年10月25日,勉誠社発行,9500円。(近世文学書誌研究会編,近世文学資料類従・西鶴編・11)『新可笑記』(吉田幸一氏蔵本)を写真複製して収録し,解説を付したもの。

 一、はじめに

 『武道伝来記』・『武家義理物語』に続いて、いわゆる西鶴・武家物の第三作として創られた『新可笑記』の書名は、寛永十九年刊行の仮名草子『可笑記』(如儡子作・五巻)に基づいている。
 当時の書籍目録の中で最初にこの作品を記載したのは、元禄五年に京都の永田調兵衛等から出版された『広益書籍目録』(注1)である。『新可笑記』はこの目録の二箇所に記されている。まず「物語類」の部には、

 「八  武道一覧    団水
  八  同伝来     西鶴
  六  武家義理物語
  五  本朝廿不孝   西鶴
  二  螢随筆
  五  新可笑記      」

の如く『武道伝来記』・『武家義理物語』・『本朝廿不孝』等と共に並べられている。しかし他の一箇所は、本書が『本朝桜陰比事』と共に「仮名和書」の部に記されているのに対して、『武道伝来記』・『武家義理物語』は「軍書」の部に記されているのである・本書は当時から、必ずしも『武道伝来記』・『武家義理物語』と同類の作とのみはみられていなかったもののようである。
 『新板増補書籍目録 作者付大意』(元禄十二年正月刊)は、同じ永田調兵衛等が出したものであるが、この目録では『新可笑記』は削除されている。阿部隆一氏は「「五の目録」(元禄五年刊の目録)は江戸前期からその頃までの出版物を殆ど収録する方針をとったが、元禄末になるとその中には絶板書も生じて来ているので、その類は本目録では削除し始めている。」と説いておられる(注2)。もしそうであるとすれば、『新可笑記』は『武家義理物語』・『本朝桜陰比事』・『一目玉鉾』等と共に、この時点ですでに絶版になっていた事になる。絶版になっていたか否かは別として、何等かの理由――例えば。新刊書が多いためとか、その本の部数が少ないとか、あるいは市場価値が低いとか、など――によって削除されたのであろう。
 『増益書籍目録大全』(元禄九年河内屋利兵衛刊・正徳五年改訂丸屋源兵衛刊)は、伊呂波わけ目録で価格も記されている。
 「五 池田ヤ しん新か可せう笑き記  五匁五分」            
この「池田ヤ」は本書の版元・岡田三郎右衛門の屋号である。本書以外の西鶴本の価格をみると次の如くなっている。

 武道伝来記 八冊 七匁    武家義理物語 六冊 四匁五分
 日本永代蔵 六冊 四匁    本朝桜陰比事 五冊 四匁五分
 一目玉鉾  四冊 五匁五分  西鶴置土産  五冊 二匁八分
 西鶴織留  六冊 三匁八分  万の文反古  五冊 三匁五分
 西鶴俗つれづれ 五冊 二匁八分

 これらの価格を、丁数をも考慮して比較してみると、『一目玉鉾』が最も高く、『置土産』・『織留』・『俗つれづれ』・『永代蔵』が低いグループに入る。その他は『新可笑記』を含めてヽ中間の価格となっている。

 水谷弓彦氏の『明治大正古書価の研究』(昭和八年)には、明治二十三年から大正十五年までの三十七年間に古書店に出た浮世草子が記録され
ているが、『新可笑記』は二点だけ記されている。
                                  
「大正三年
  新可笑記   西鶴 元禄元年 上本 五冊 三五円
  日本永代蔵  同  一冊取合    六冊  六円
  置土産    西鶴絵入 裏打あり  五冊 一二円
 大正四年
  西鶴織留   合          三冊  五円
  本朝桜陰比事            五冊  六円
  新可笑記   西鶴         五冊  五円
  置土産    同          五冊 一〇円」

この水谷氏の記録からもわかるように、本書は、近代に入ってからは、かなり高価な本として売買されているが、やはり伝本の数が少ない事が、その主たる原因のように思われる。
 この作品の本文は、『定本西鶴全集』をはじめ十指に余る翻刻がなされているが、複製は昭和二十九年の古典文庫のみである。ここに、現存諸本中、最上本と判断される、吉田幸一氏所蔵本を底本として複製公刊することは、十分の意義があるものと思う。

 二、底本と諸本

 『新可笑記』の諸本について実地に踏査した結果、現在、その所在が明らかになっているものは、次の八点であり、それらは、大本と半紙本とに分けられる。

〔一〕、大 本

1、吉田幸一氏所蔵本
2、天理図書館所蔵本・I

〔二〕、半紙本

 1、大阪府立図書館所蔵本
 2、国立国会図書館所蔵本
 3、青果文庫(前進座)所蔵本
 4、天理図書館所蔵本・Ⅱ
 5、東京大学附属図書館(霞亭文庫)所蔵本
 6、平井隆太郎氏(平井太郎〈江戸川乱歩〉氏旧蔵)所蔵本

 以下、これら諸本の書誌的概観を試みたいが、右の各所蔵本は、いずれも同一版木に拠るものと判断されるので、底本に使用した、吉田幸一氏所蔵本についてのみ、版式を詳しく記し、他の諸本は、これと異なる点を記すに止めたい。

〔一〕、大 本

 1、吉田幸一氏所蔵本(本影印の底本)
著者  井原西鶴。
装訂  袋綴。
表紙  黒色原表紙、縦267ミリ×横180ミリ(巻一)。
題簽  左肩に、子持枠原題簽、「ゑ入 新かせう記 一」「絵入 新可笑記 二
   (~五)」縦175ミリ×横35ミリ(巻一)。
匡郭  四周単辺、縦182ミリ×横137ミリ(巻一の3丁表)。ただし、巻一の
  1丁(序)は匡郭なし。
目録題  巻一は2丁表に、巻二以下は各巻頭に「新可笑記 巻一(~四)/目
  録」「新可笑記 巻五/目ろく」。
内題・尾題  なし。
柱刻 「新笑一 一 (三、四~三十)」巻一巻頭の丁付は、2丁目(目録)に「一」、 
  3丁目(本文の初め)に「三」とあり、「二」が無いが、内容は完全である。
  また、1丁目(序)に丁付が無いため、最終丁の「三十」と実丁数30丁は合
  致している。「新笑二 一(~二十一、二十二、二十二、二十三~二十八終)
  」巻二の22丁目は重複しているが、内容は完全である。したがって最終丁が
  「二十八終」とあっても実丁数は29丁となる。「新笑三 一(~二十四終)」。
  「新笑四 一(~二十五終)」。「新笑五 一(~二十三終)」。
  版心は白口。その体裁には次の四種がある。(丁付は原本に従う。)
  ①★ 図は省略  原本参照
   一の1、二の1・26、三の1、四の1・23、五の1。
  ②★ 図は省略  原本参照
   一の10・13・14・21、四の11・21。
  ③★ 図は省略  原本参照
   一の3~9・11・12・15~20・22~26・28~30、二の2~25・27・28、
   三の2~24、四の2~10・12~20・22・24・25、五の2~23。
  ④★ 図は省略  原本参照
   一の27。
巻数  五巻(欠巻なし)。
冊数  五冊。
丁数  巻一…30丁(内、序1丁、目録1丁)。巻二…29丁(内、目録1丁)。巻
  三…24丁(内、目録1丁)。巻四…25丁(内、目録1丁)。巻五…23丁(内、
  目録1丁)。
行数  序…7行。目録…6行(巻二は8行)。本文…毎半葉11行。
字数  序…約11字。本文…約19字。
章段数  序。巻一…5話。巻二…6話。巻三…5話。巻四…5話。巻五・・・5話。
  なお。巻一、巻二の章番号には乱れがあり、さらに章番号を囲む枠に四種が
  ある。それを整理すると次の如くである。
 巻一    ★図は省略  原本参照
 巻二    ★図は省略  原本参照
 巻三    ★図は省略  原本参照
 巻四    ★図は省略  原本参照
 巻五    ★図は省略  原本参照
句読点 「。」「・」混用。
挿絵  巻一…6図、内見開き3図(4丁裏5丁表・12丁表・15丁裏16丁表・
   17丁表・20丁裏21丁表・29丁表)。
  巻二…6図、内見開き3図(3丁裏4丁表・8丁裏9丁表・13丁表・14丁裏・
   16丁裏17丁表・23丁表)。
  巻三…6図、内見開き2図(4丁裏5丁表・9丁表・11丁表・15丁裏16丁
   表・19丁表・23丁表)。
  巻四…5図、内見開き3図(3丁裏4丁表・10丁表・13丁裏14丁表・18丁
   表・22丁裏23丁表)。
  巻五…5図、内見開き3図(3丁裏4丁表・9丁表・12丁裏13丁表・16丁
   表・19丁裏20丁表)
  絵師…吉田半兵衛風(注3)。
  巻四の13丁裏14丁表の絵は入れかえられている。
序跋  巻一の1丁に自序「難波俳林/西鵬/松寿(方形印・陰刻、縦35ミリ×横35ミリ)」。
刊記  巻五の23丁裏に、 
    「元禄元戊辰稔
       十一月吉日

      江戸日本橋青物町
            万屋清兵衛   板
      大坂真斎橋筋呉服町角
            岡田三郎右衛門 行」
   ただし、これは埋木。
版下  序・本文見出し…西鶴。題簽・目録・刊記…伊藤長右衛門道清。本文…
  未詳であるが、『本朝二十不孝』『武道伝来記』『日本永代蔵』等と同筆(注4)。
蔵書印・識語等  「田氏文庫」「吉田幸印」の朱印。巻三の前見返しに「元文四
  己未歳/(梅一枝の絵)/(花押)」、巻四の前見返しに「富蔵」、巻五の13
  丁表上欄に「やつこ/ぼたもち」と、それぞれ墨書。

  2、天理図書館所蔵本・I(913 62 イ3 1~5)
表紙  後補万字つなぎ蔦模様黒色表紙、縦256ミリ×横179ミリ(巻一)。
題簽  巻一・巻二に原題簽の部分を存す。ただし、巻一に巻二のものが、巻二
  に巻一のものが貼られている。
蔵書印等 「月明荘」「天理図書館蔵」「天理図書館/昭和十五年四月十日/
  105603~7(青印)」の朱印。その他黒印二顆。巻五の23丁裏(刊記)に墨
  の書入れあり。              
その他  五冊の内、巻一・巻二の上小口の切断面は、やや新しく、巻一・巻二
  のみの巻末に同じ黒印二顆がある。さらに、原題簽を存するのも巻一・巻二
  のみである。これらの点から推測すると、製本寸法の大きい巻一・巻二を、
  他の三冊に合わせて上小口を切り、五冊揃いにしたのではないかと思われる。
  また、巻三・巻四は殊に虫損(補修済み)が多いところから考えると、ある
  いは、巻五も別の本であったかも知れない。「弘文荘待賈書目」第十一号(昭
  和十三年五月十日発行)に『新可笑記』全五冊が記載されており、巻一の1
  丁裏と2丁表の写真が掲げられている。それによると本書と同一本と思われ
  る。古書目には「保存は概してよけれども、惜むらくは第五巻第十九葉の裏
  の絵一頁だけ落丁せり。」とあるが、本書では巻五の19丁裏の絵は入ってお
  り、その丁に「月明荘」の朱印が押されている。
 

  〔二〕、半 紙 本

 1、大阪府立図書館所蔵本(甲和248)
表紙  濃縹色原表紙、縦225ミリ×横160ミリ(巻一)。
題簽  左肩に原題簽を存するが、巻一に巻三のものが、巻二に巻一のものが、
  巻三に巻二のものが貼られており、「三→壹」「一→二」「二→三」とそれぞれ
  墨書にて補筆訂正されている。
蔵書印等 「●住友/長堀」「大阪府立図書館蔵書之印」「大阪府立図書館/明治
  四十年十月十五日/18905(青印)」の朱印。巻一の第五話の章番号は「一」と
  あるが、墨書にて「五」と補筆訂正されている。
                         
 2、国立国会図書館所蔵本(別 5-6 2-5)
表紙  藍色原表紙、縦223ミリ×横158ミリ(巻一)。ただし、巻一・巻二・
  巻四の各後表紙は欠。巻一・巻二・巻三を一冊に、巻四・巻五を一冊にそれ
  ぞれ合して、渋引き国会図書館専用表紙にて綴じてある。この合綴の折に、
  中間の後表紙のみを省いたとも考えられる。
冊数  二冊(巻一・巻二・巻三を一冊に、巻四・巻五を一冊に、それぞれ合冊)。
蔵書印等 「東京図書館蔵」「図/明治二四・三・九・購求」の朱印。巻一の1丁
  表に「NO469/XXIV」、巻二の1丁表に「NO470/XXIV」、巻三の1丁表に
  「NO471/XXIV」、巻四の1丁表に「NO472/XXIV」、巻五の1丁表に
  「NO473/XXIV」、とれぞれ墨書。

 3、青果文庫(前進座)所蔵本
表紙  濃縹色原表紙、縦220ミリ×横160ミリ(巻一)。ただし、巻四の後表
  紙は藍色の後補表紙。巻二の前・後、巻三の後の表面紙は部分的に剥離して
  いる。
題簽 巻三のみ、左肩に原題簽の部分を存する。
巻数  四巻(巻五欠)。
冊数  四冊。
蔵書印 「泉」「百□」の黒印。「青果文庫/前進座蔵」の朱印。
その他  巻五が欠。巻四の20丁・21丁が落丁。

 4、天理図書館所蔵本・Ⅱ(913 62 イ43)
表紙  縹色原表紙、縦225ミリ×横155ミリ(巻二)。巻三の表面紙が部分的
  に剥離している。
題簽  欠。左肩に「新可笑記」(巻二)、「新可笑記 三」(巻三)と墨書。
巻数  二巻(巻一・巻四・巻五が欠)。
冊数  二冊。
蔵書印 「天理図書館蔵」「天理図書館」「天理図書館/昭和廿六年十二月五日/
  247876~7(青印)」の朱印。「昭和廿六年七月十日/寄贈/中山正善氏」(朱
  印・墨書・紫印併用)。
その他  巻二、巻三の二巻を存す。

 5、東京大学附属図書館・霞亭文庫所蔵本(341 西11)
表紙  砥粉色原表紙、縦221ミリ×横159ミリ(巻一)。
蔵書印 「幸堂」「霞亭図書」「松雲堂」「東京帝国大学図書印」「東京帝国大学附
  属図書館/大正十四年登記/文/18532(青印)」の朱印。

 6、平井隆太郎氏(平井太郎〈江戸川乱歩〉氏旧蔵)所蔵本
表紙  濃縹色原表紙、縦225ミリ×横159ミリ(巻一)。巻一・巻二・巻五の
  み存す。巻三・巻四は、巻五の表紙の中に入っている。
題簽  巻一・巻二・巻五のみ、原題簽を存す。
冊数  三冊(巻三・巻四・巻五を合冊)。
蔵書印等  巻一・巻二・巻五に「津山文庫」の朱印。巻三・巻四に「石田文庫
  」の朱印(ただし、この印の上部は切断されている)。巻一に朱印にて、裸体
  の人物が本を読む図があり、その本に「志ぶ井」とある。各巻に「乱」の朱
  印。各巻(一・二・五)表紙右上に、縦67ミリ×横40ミリの紙片が貼られ、
  「官本」の黒印がある(巻五は、文字のみ墨にて補筆)。巻一前表紙に「元禄
  元年」「井原西鶴作」と朱書。
その他  巻三・巻四は、大本を半紙本の大きさに切断して、入れ本したものと
  思われる。

 以上、諸本の略書誌を記したが、その他、金子和正氏の「台湾大学図書館所蔵国書目録抄(一)」(『ビブリア』第四十二号)に次の二本が記載されている。
 「新可笑記  合一冊
   後補表紙 原題簽鬫
   刊記 (入木)元禄元 戊辰 稔/十一月吉日/江戸日本橋青物町万屋清
      兵衛/大坂真斎橋筋呉服町角岡田三郎右衛門/板行
  同     残一巻(存巻三)   一冊   原表紙     」

 このように『新可笑記』の諸本には、大本と半紙本の二つがあるが、大本は全体的に非常に刷度が良い。後述の如く、刊記の部分が埋木になっている点で、これを直ちに初印本と断定できないにしても、それに近い早い刷りである。半紙本は、刷度・版の欠損等を大本と比較してみるに後印本と判断される。以下、この版本のいくつかの問題点について、簡単に述べてみたいと思う。

 三、刊年及び版元

 調査済諸本の刊記は、
  「元禄元 戊辰 稔
    十一月吉日
        江戸日本橋青物町
           万屋清兵衛   板
        大坂真斎橋筋呉服町角
           岡田三郎右衛門 行」

となっている。これに拠ると本書は、元禄元年十一月に、江戸・万屋清兵衛と大坂・岡田三郎右衛門との相版で刊行された事になる。しかし、この刊記の部分は上下の匡郭の四隅が切断されており、この半丁全体が埋木であると思われる。水谷弓彦氏は『西鶴本』下巻にこの刊記の部分を覆刻しておられるが、匡郭の中断箇所は接続されている。また日本名著全集『西鶴名作集下』の複製も接続されている。果たして、そのような原本が在ったのであろうか。仮に刷りの早い原本が在ったとした場合、刊年も、版元も、その文字の字形までも全く同じものを、後で埋木する必要はないように思う。この両者の上下の匡郭がやや作為的に見えるところからすると、やはり、その底本は切断されていたのではないかと思われる。いずれにしても、この刊記の部分全体が埋木であるという事は、十分注意する必要がある。
 さて、この刊記から推測すると、本書の初印本は、他の書肆から元禄元年十一月以前に刊行された、という可能性も全く無いわけではない。前に述べたように水谷弓彦氏は大正九年の『西鶴本』では同じ刊記(元禄元年十一月)の大本を掲げているが、昭和四年の『新撰 列伝体小説史 前編』では「新可笑記 五 同(元禄元)年十月」と記しておられる。これは単なる誤植だとは思うが、一応注意しておくべきだと思われる。
 次に推測されるのは、この刊記を版木に彫り付けた段階か、または数部印刷の後に、何等かの理由で訂正する必要が生じ、埋木した、という事である。この埋木の状態から考えて、これは刊行年を改める如き部分的な訂正ではなく、刊行年月日と書肆名、あるいは、その配列順序などを改めるという如き、かなり大きな訂正であったと思われる。刊記に見える岡田三郎右衛門は、大坂真斎橋筋呉服町角に住し、貞享から宝暦にかけて活動した書肆で屋号は池田屋。『好色二代男』をはじめ、二十点を刊行している(注5)。また、万屋清兵衛は松葉氏、松葉軒と号し、江戸日本橋万町中通角(青物町)に住し、天和から宝暦にかけて活動した書肆で、『東海道分間絵図』など七十九点にその名を記している。
 ここで、この両者が西鶴本の出版にどのような関わりをもっていたかを調べてみると(注6)、

○好色二代男 貞享元年 池田屋三良右衛門        
○西鶴諸国咄 貞享二年 池田屋三良右衛門          
○好色五人女 貞享三年 清兵衛店/森田庄太郎
○好色一代女 貞享三年 岡田三郎右衛門
〇本朝廿不孝 貞享三年 万谷清兵衛/岡田三郎右衛門/千種五兵衛
○武道伝来記 貞享四年 万屋清兵衛/岡田三郎右衛門    
○男色大鏡  貞享四年の後印本 深江屋太郎兵衛/山崎屋市兵衛/万屋清兵衛
○武家義理物語 貞享五年 山岡屋市兵衛/万屋清兵衛/安井加兵衛
●新可笑記  元禄元年 万屋清兵衛/岡田三郎右衛門
○本朝桜陰比事 元禄二年 万屋清兵衛/鴈金屋庄左衛門
○石車(俳諧) 元禄四年 上村平左衛門/万屋清兵衛/寿善堂
○世間胸算用 元禄五年 上村平左衛門/万屋清兵衛/伊丹屋太郎右衛門
○ 浮世栄花一代男 元禄六年 万屋清兵衛/鴈金屋庄兵衛/油屋宇右衛門/松葉
              屋平左衛門
○西鶴置土産 元禄六年 田中庄兵衛/万屋清兵衛/八尾甚左衛門
○西鶴織留  元禄七年 万屋清兵衛/鴈金屋庄兵衛/上村平左衛門
○万の文反古 元禄九年 万屋清兵衛/鴈金屋庄兵衛/上村平左衛門
○好色兵揃  元禄九年 万屋清兵衛/松葉屋平左衛門/鴈金屋庄兵衛
○万の文反古 正徳二年の後印本 池田屋三良右衛門

 以上の如くなるが、大坂の池田屋は貞享元年の『二代男』をはじめ『諸国咄』『一代女』『廿不孝』『伝来記』『新可笑記』と六点を刊行し、元禄元年までは、西鶴本出版の最有力の版元であった事がわかる。しかし、それ以後はぼとんど名前を出さず、正徳二年に『文反古』の後印本を刊行しているに過ぎない。これに対し、江戸の万屋は、貞享三年の『五人女』に「清兵衛店」と初めてその名を出しているが、以後元禄九年まで、 実に十四点の出版に関係している。しかし、この万屋は、その刊記の記載の様式や、当時の書籍目録の記録から判断して、ほとんどが版元というよりも、江戸における取次売捌き元であったと推測される。そして、さらにここで注意されるのは、元禄元年の『新可笑記』までは池田屋と共に三点を出版しているのに、以後その組合せは姿を消し、鴈金屋・伊丹屋等と名を連ねている、という事である。        
 すでに述べた如く、本書『新可笑記』は明らかに万屋・池田屋の相版であるが、この記載様式は、他の諸作品のそれと比較するとき、やや特異な存在であると言い得る。相版である、という事を強く意識した文字配列のように思われるからである(注7)。本書刊行に際して、版権等の事でいざこざが生じ、このような記載様式に改めたのではなかろうか。そして、大坂の池田屋が本書以後、西鶴本の出版に。関係していないのも、この事と関わっているのではなかろうか。万屋清兵衛が江戸において、最も有力な書肆であった事は、享保十二年三月の仲間申定書に行司筆頭としてその名を連ねていることからも解る(注8)。本書刊行にまつわるいざこざのために、それ以後、大坂の岡田三郎右衛門が西鶴本出版から手を引かざるを得なくなった、という事もあり得ないことではないように思われる(注9)。
 以上の如く、本書の刊記は、種々の事を我々に推測させる。従来の文学史等は、。この作品の刊行を元禄元年十一月と無条件で記しているが、この版本の刊記に拠る以上、そう断定すべきではないと思う。さらに早い刷りの版本が無かったとは断言できないからである。

 四、「西鵬」号と鶴字法度

 本書の序文には「難波俳林/西鵬」とあり。その下に「松寿」の印がある。この「西鵬」号は本書を初出とし、元禄四年・江水編の『元禄百人一句』(「大坂 西鵬 枯野哉葽の時の女櫛」)まで使われたようである。他に柿衛文庫蔵の短冊「初日の花俳諧中間より銘々木々 西鵬」があり、『物見車』(元禄三年九月刊・可休著。西鶴等が評点した句巻に批評を付したもの)、『特牛』(元禄三年十月の奥・団水著、『物見車』への返答書)、『団袋』(元禄三年冬の西鵬序・団水撰、西鵬・団水の両吟等を収めている)、『石車』(元禄四年中秋刊・西鶴著、『物見車』への返答書)にも、この「西鵬」号は使われている(注10)。
 野間光辰氏は、これらの内、柿衛文庫蔵の短冊を西鶴の真跡としておられるし(『ビブリア』第二十八号)、また「大坂西鵬序」(『団袋』序)の「鵬」に団水は「鶴ノ字ヲ改」と注記してもいる。さらに「松寿」印が他の西鶴作品に使われている点などを合わせ考えるとき、この「西鵬」が西鶴の別号であることは明らかである。
 さて、この改号が、ちょうどこの頃発令されたいわゆる。〔鶴字法度〕によるものである事は、すでに諸先学によって指摘されている。その主なものは、真山青果氏「鶴字法度」、野間光辰氏『西鶴年譜考証』、木村三四吾氏「聞くまゝの記・元禄鶴法度のことなど」(注11)等である。現在までの私の調査では、右の諸説の域を出ないので、その大要を記すにとどめたい。
 鶴字法度に関する記録の主なものは次の通りである。

一、撰要永久録(東京市史稿・市街篇第十)
  「辰〔○貞享五年〕正月廿九日/一、鶴屋与申家名、付申間敷、鶴丸之紋付
  候衣類着申間敷、鶴与申名、人々付申間敷旨、御触有之。」
二、正宝事録
  「辰正月廿九日/一 鶴屋と申家名、付申間敷、鶴之丸之紋付候衣類、着し
  申間敷、鶴と申名、人々付間敷旨御触有之、」
三、徳川実紀・元禄元年二月朔日の条
  「けふ市井にて。鶴屋といふ家名を停禁せしめられ。はた其他の雑具にも。
  鶴の紋ほどこすべからずと令せらる。(日記、湯原日記、令条記)」
四、南紀徳川史
  「貞享五年〔元禄元年〕二月朔日、町中鶴屋卜云家名ヲ禁ジ、雑具ニ鶴ノ
  紋付ル事禁ズル公儀触アリ。又同月十一日、鶴姫君ニ給事ノ輩ニ令条ヲ賜ハ
  ルト云。」
五、奈良興福寺一乗院日記(記者・専常。中村雅真家・家記)貞享五年三月八日
  の条
  「一 同日、屋敷十楚又四郎殿より呼ニ被参候。被申渡候。鶴と申字付候事、
  停止。惣而、家名・人之名ニ有之候、是迄付候儀、付替可申候。向後、鶴ノ
  字付候事、堅停止之間、領分急度可申付由、申渡者也。五眼役者衆へ申入、
  則、十楚又四郎殿へ御返事申者也。一 同日、御奉行より町中へ、右之御触
  在之者也。」       
六、御当家令条(近世法制史料叢書・第二)           
  「覚/町人之家名鶴屋と申儀、向後無用可仕候。其外諸道具等にも鶴の紋付
  候事、是又無用たるべき事。/以上/午二月朔日」
七、令書要文十三(日本財政経済史料・巻七)
  「元禄三年庚午三月 日/町人之家名に鶴屋と申儀、向後無用可仕候、其商
  売等にも鶴之紋付候事、是又無用たるべき事/午三月朔日」

 この他に徳川十五代史、業務書留、嬉遊笑覧、画証録、独醒記、過眼録、色道懺悔男、甘露叢書継、骨董集ほりがひ、聞くまゝの記・同続等にも、これに関連した記録が見られる。

 この鶴字法度は、五代将軍綱吉の長女・鶴姫の名を憚って出されたものであるが、右の記録からもわかるように発令の年月にやや差違がある。これについて野間氏は『令書要文』の「午三月朔日」は「午二月朔日」の誤りか、とされ、さらに「『徳川実紀』に元禄元年二月朔日の令としたのは、実は最初の発令であって、その後元禄三年二月朔日重ねて令せられたのであらう。」と推測しておられる。また『一乗院日記』の元禄元年三月八日について木村氏は「奈良での告示の実日であることによる相違かも知れぬ。」としておられる。
 以上の如く、西鶴は鶴字法度のために元禄元年から四年頃までの間「西鵬」と改名したが、水谷弓彦氏も指摘される(『西鶴本』)ように、元禄二年刊行の『一目玉鉾』では「松寿/鶴」の印を使っているのであり、この法度が、どれほどの厳しさをもっていたかの、問題が残らない訳ではない。

  五、その他

 調査済諸本の原題簽は、大本・半紙本を問わず同じ版木に拠るものと思われ、巻一は上に「ゑ入」とあるが、日本名著全集『西鶴名作集下』に掲げるものは「絵入」となっており、「新かせう記」の「新」の字形も異なる。子細に見ると補修したもののようにも思われるが、「弘文荘善本目録」(昭和三十二年十月)には、原題簽「絵入 新かせう記 一」とあり、また『定本西鶴全集』の解説では「絵入 新可笑記 一」とされているので、一応ここに記して今後の調査に俟ちたいと思う。
 すでに記した如く、本書の章番号を囲む枠には四種類のものがある。これに関して、金井寅之助氏は「新可笑記の版下」(『ビブリア』第二十八号・昭和三十九年八月)で、詳細な作品分析をされた後、 【★図版省略、原本参照】  の順順で優劣が示されている、と説いておられる。
 これも挿絵の項で記したが、巻四の三「市にまぎるゝ武士」の挿絵(13丁裏・14丁表)はおそらく版下の段階では、次頁に示す図の如くなっていたものと思われる。14丁表の建物を、本文に出る「内倉」とみるならば、塀の外にあるので内容と合致しない。そこで版木に彫り刻む時、左右を入れ替えたものであろう。 【★図版省略、原本参照】

 以上、いくつかの問題点について簡単に述べてみたが、この版本には
多くの疑問点があり、現状では十分解明し得ない。さらに調査を重ね、
考察を深めたいと思う。              
                             
 注1 当時の書籍目録については、慶応義塾大学附属研究所・斯道文庫編の
   『江戸時代書林出版書籍目録集成』に拠った。
 注2『江戸時代書林出版書籍目録集成』解題二。
 注3 水谷不倒氏の説に拠る。水谷氏は、大正九年の『西鶴本』では本書の
   挿絵を第二期・十一種の中に入れ、「吉田半兵衛かと思はれるが、疑はし
   い点もある。」とされたが、昭和十年の『古版小説挿画史』では『武家義
   理物語』『好色四季ばなし』と共に第三類に入れ、「第三類は何人とも判
   らぬが、半兵衛の代筆と見るべく、恐らく門人の二三者であらう。」とし
   ておられる。
 注4 本書の版下については、金井寅之助氏の「西鶴置土産の版下」(『ビブ
   リア』第二十三号)、「新可笑記の版下」(『ビブリア』第二十八号)及び、
   天理図書館『西鶴』に拠った。
 注5 書肆については、井上和雄氏編・坂本宗子氏増訂『増訂版慶長以来書
   貿賈集覧』に拠った。また、出版点数は、東北大学附属図書館・矢島玄亮
   氏編『徳川時代 出版者出版物集覧』(準備版)に拠った。
 注6 西鶴諸作品の刊記等は、天理図書館『西鶴』の図録・解説、滝田貞次
   氏の『西鶴の書誌学的研究』、日本名著全集『西鶴名作集』の複製等に主
   として拠った。
 注7 長谷川強氏は「刊記書肆連名考」(『長沢先生古稀記念・図書学論集』)
   で、多くの資料を基にしてこの問題を論じておられる。万屋・池田屋の
  関係についても『本朝列仙伝』(貞享三年)、『武道伝来記』(貞享四年)、『新
  可笑記』(元禄元年)を例に掲げて「同じ店の組合せでも均衡型と不均衡型の
  両様が見られる事があり、不均衡型による判断を均衡型の場合にも及し得る
  例といへよう。」と説いておられる。つまり『列仙伝』の刊記の記載様式(
  不均衡型)から、池田屋が版元である事が解り、そこから、均衡型の記載様
  式の刊記を有する『伝来記』『新可笑記』の版元も池田屋と判断し得る、とい
  われるのである。これは、確かにその通りと思うが、『新可笑記』の刊記にお
  いては、万屋が池田屋と同様に版元として刻されている事実に変わりなく、
  この事に注意したいと思う。                                 
 注8 村田勝麿氏『京阪書籍商史』に拠る。          
 注9 晩年の西鶴と岡田三郎右衛門の関係については、都の錦の『元禄大平記』
  (元禄十五年刊)の巻三「写本料にてめいわくに候」に「…然るに西鶴存生
  の時、池野屋三郎右衛門より、好色浮世躍といふ草子を六冊にたのまれ、い
  まだ写本を一巻も渡さずして、前銀三百匁借り、五日が間に南の色茶屋、木
  やの左吉が所へ打込み、其後池野やより、写本を催促するに、いつ/とは出
  して渡さう、それそれの日は埓が明くよし契約する。其日になりて請取らん
  といへば、少しさはる事がありて、草案を仕直すによって思ひの外隙をとる、
  当月中には埓が明くと間似合の方便ばかりいうて、半年ほど引しらふ内に西
  鶴此世を去り、そのゝち池野や空しくなり、此たび冥途において西鶴にはた
  と行きあふ。…」という一条があり、この池野屋二郎右衛門は、池田屋三郎
  右衛門を暗にさしているものと思うが、このような事実があったか否か、勿
  論わからない。
注10 野間光辰氏「西鶴署記花押考」(『ビブリア』第二十八号)、天理図書館
  『西鶴』に拠った。                 
注11 〔1〕真山氏、『文芸春秋』昭和五年十月号に発表、後に『真山青果随筆選
  集』第二巻(昭和二十七年十二月)に追記を付して収録。〔2〕野間氏、昭和
  二十七年三月発行の同書・元禄元年二月の条。〔3〕木村氏、『ビブリア』第
  二十八号(昭和三十九年八月)の「西荘文庫の馬琴書翰(二十一)」、以後、
  同誌第三十一号・第三十五号・第四十五号に補遺を発表されている。

  付  記
 『新可笑記』の解題をまとめるにあたって、吉田幸一先生は、貴重な御所蔵本を、底本として使用することを御許可下さり、多くの御教示を賜りました。
 前田金五郎、横山重両先生には、研究全般にわたって、多大の御指導を賜りました。
 諸本の閲覧に際しましては、秋山虔、金子和正、小池章太郎、平井隆太郎の諸先生に格別の御高配と有益な御教示を賜り、大阪府立図書館、国立国会図書館、青果文庫(前進座)、天理図書館、東京大学附属図書館の御世話になりました。
 ここに記して、心から御礼申し上げます。
                  昭和四十九年七月十五日

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 【追 記】

 本書の書誌解題の担当は、横山重先生、前田金五郎先生の御配慮によるものである。私が、仮名草子の『可笑記』を研究していたので、この『新可笑記』を割り当てて下さった。
 この作品の底本には、諸本調査後、最善本を使用する予定であった。公共図書館の調査後、平井隆太郎氏の江戸川乱歩旧蔵本、吉田幸一氏所蔵本を調査した結果、吉田氏本が最善本である、という結果になった。
 私は、横山先生に報告して、この解題は、吉田先生に依頼すべきであるので、この解題執筆は辞退したいとお願いした。吉田先生も複製本の古典文庫を進めておられたからである。
 横山先生から吉田先生に問合せて頂き、結果的には、私が担当させてもらうことになったのである。この時、横山先生からは、所蔵者に対して、感謝の心を忘れずに、原稿を書くようにという、アドバイスを頂いた。
 この作品は、元禄元年11月初版、という定説であった。ところが、末尾の刊記の丁を見て、驚いた。刊記のある半丁全体が埋木だったのである。それまでの複製本が、匡郭の欠損部分を修復して出版していたため、研究者は、この刊記の異状に気づかなかったのである。
 『新可笑記』が出版された、この年、貞享5年9月30日に改元されて、元禄元年となったのである。そこで、刊記を埋木して、元禄元年に改めて出版した、と考えることも可能である。しかし、それならば、年月の2行のみ、彫り直して埋木すればよい。半丁全体を取り替える必要はないだろう。1行、2行、彫り変えて、修正している例はたくさんある。
 私は、西鶴の研究者ではない。西鶴は、当時の書肆とも深い関係があり、この件に関しても、様々な推測ができる。西鶴研究の第一人者、早稲田大学の谷脇理史先生とは、常に交流をもち、多くの事を教えて頂いてきた。この本の時も、御意見を伺っている。谷脇先生は、昭和59年4月20日発行の、岩波書店の『日本古典文学大辞典』の『新可笑記』の項で、この刊記に言及され、一応、改元によるものとされた。この時点では、妥当な説と思われる。それから30年余が経過した。まだ、初版初印と思われる原本は発見されていない。さらに100年後に、出現する可能性はある。それが、歴史である。

谷脇先生は、早稲田大学現役の時に、御他界なされた。私は、館林市の葬祭場で、最期の先生とお別れした。惜しんでも、惜しみ切れない、先生である。

                        平成28年12月4日
                                   深沢秋男