鈴木重嶺 の案内板

鈴木重嶺 案内板

  • 2020.10.19 Monday
鈴木重嶺 案内板 (全龍寺墓所)• 2015.07.30 Thursday

• by 如儡子(にょらいし)

●今日、ウィキペディアの鈴木重嶺の項を見たら、全龍寺の墓に建てられた、「鈴木重嶺案内板」の写真が追加されていた。誰かが追加したのであろう。実は、この案内板は、私が建てたものである。翠園・鈴木重嶺を何とか世間に告知して、後世に伝えたいと思ったからである。それに値する、歴史上の人物である、そのように判断したからでもある。

●平成16年、法政大学名誉教授・村上直先生の御指導を頂き、佐渡市教育委員会、全龍寺の御配慮を頂いて実現した。この案内板の製作は、当時、昭和女子大学に出入りして、人見記念講堂の椅子の管理をしていた、株式会社コトブキに依頼した。文章は私が執筆し、村上直先生に確認して頂いた。経費は全て私が負担した。

●この時、新宿区教育委員会に対して、区の史跡に指定して欲しいと申請書を提出したが、すったもんだしていて、未だに実現していない。それはともかくとして、全龍寺の案内板には、次の如く書かれている。

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最後の佐渡奉行・歌人 鈴木重嶺・翠園の墓

鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元は寛永十三年(一六三六)十月八日に没し大久保村の全龍寺に葬られ、鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。
鈴木重嶺は、文化十一年(一八一四)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家十代・重親の養子となって十一代を継ぎました。
二十歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉行、鎗奉行を勤め、慶応元年(一八六五)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治九年(一八七六)官を辞し、以後は和歌の道に励みました。
鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動して、『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。
鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治三十一年(一八九八)十一月二十六日、八十五歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠熈・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韶・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼国・中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など一〇六八名の氏名が記載されています。

平成十六年六月二十六日
鈴木重嶺 顕彰会
佐渡市教育委員会

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■ウィキペディア の 鈴木重嶺 の項

■鈴木重嶺の墓

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●今日、ウィキペディアを見たら、鈴木重嶺のお墓の案内板の写真が削除されていた。何方かが削除したのであろう。しかし、新大久保の全龍寺のお墓には、現在も案内板はある。

2020年10月19日

〔井関隆子を知る会〕開設

〔井関隆子を知る会〕開設

  • 2019.11.07 Thursday
  • 01:29
「井関隆子を知る会」開設(2003年5月)

●昭和女子大学コミュニティ に新しく「井関隆子を知る会」という掲示板を開設した。昭和女子大学図書館には、『井関隆子日記』をはじめ、関係資料が多く所蔵されているので、これらを知って貰いたいと言う意図のものである。その内容も、折々、こちらで紹介したいと思う。

【1】江戸博で『井関隆子日記』を御覧下さい。

●昨日、江戸東京博物館へ行って、特別展「江戸城」を見学して来た。素晴らしい展示会である。私など未見の資料が多く江戸博の質の高さを痛感した。

●桜山文庫所蔵の『井関隆子日記』が2箇所に展示されていた。畑尚子氏の適切な解説が付いていて、隆子の子の親経が、将軍家から賜った五葉松の盆栽の絵の部分が展示されていた。

●また、昭和女子大学の平井学長の御配慮かと思うが、昭和女子大学所蔵の弘化年間の江戸城の「大広間模型」も展示されていた。

●いずれにしても、このようにして、多くの一般の方々に『井関隆子日記』の原本を見て頂ける事は、誠に有難く、そこに「昭和女子大学所蔵」と出されていることも、おのずと、パブリシティとしての効果もあり、喜ばしい事だと思う。
2007/01/05(FRI) 07:56

【2】井関隆子と杉嶋カツイチ

●隆子は、天保期の一人の文化人として、かなり知られていたようである。従って当時の文化人との交流も多かった。ここでは、現在、余り知られていない、盲目の歌人・杉嶋カツイチを紹介致したい。

●杉嶋は名をカツイチ(一一=かずいち かという、吉海直人氏の説がある)は、勾当(検校の下、座頭の上の位)で、歌人としても良い歌を詠み、隆子のもとをよく訪れている。隆子は、この盲目の歌人を温かく迎え、『古事記伝』や『万葉集』を読んで聞かせている。また、著者未詳とされている『当道要録』は、どうも、この杉嶋の著作のようである。郷里は府中の六社あたりだという事はわかっている。

●この盲目の歌人を紹介するのは、天保14年11月5日に隆子の許を訪れて、前田夏蔭の文会に出す物語の執筆を依頼していて、この物語が、面白い内容であるためである。
●隆子は、木村定良・北村季文・蔵田茂樹・桑原やよ子・賀茂季鷹などとも交流があった。これらについても、おいおい紹介したいと思う。
2007/01/03(WED) 09:27

【3】 井関隆子の創作紹介・3 『いなみ野』

●この作品は同志社女子大学の吉海直人氏が発見された。吉海氏は古書店で『物かたり合』という写本を発見され、その中にこの作品が収録されていたのである。他の作者の作品19点と共に入っていた。隆子の作品の分量は5葉である。

●播磨の国の印南野(兵庫県加古川と明石川の間に広がる平野)に1人の男が住んでいた。6月の頃涼を求めて野原へ出かける。あちこちに秋の花の蕾が見られ、誠に風情がある。男は思わず一首口ずさむ。すると、どこからともなく、歌が返って来る。一段と高いススキ(尾花)の陰から美しい女性が現れる。男はススキが大好きで、野原に出てきたと伝えると、女性も感激して、2人はしばらく語り合う。やがて、男は女性の色香に惹かれて、つい言い寄ると、女性は「いな(否)」とのみ答えて姿を消してしまう。

●隆子は、草花の中では、ススキ・尾花が大好きであった。ススキこそ、草花の中の筆頭にあると評価している。その彼女の好みを作品化したものと、私は考えている。隆子は『日記』の中には、極めて現実的な事を書きとめているが、創作となると、非常に空想的な構想を使用している。彼女の創作的な才能の豊かさを示しているものと思う。

●この作品は、『同志社女子大学・日本語日本文学』第8号(1996年10月)と、私の『井関隆子の研究』に全文収録されている。是非、一度お読み頂きたい。
2006/12/31(SUN) 08:17

【4】 井関隆子の創作紹介・2 『神代のいましめ』

●原本は、昭和女子大学図書館・翠園文庫の「翠園叢書」巻26に収録されている。写本、半紙本、墨付28葉。佐渡の歌人・蔵田茂樹の子の茂時が書写して、佐渡奉行・鈴木重嶺に献上したものと推測される。

●この一編の冒頭に「武蔵野の原」とあり、「ならぶ国なくなん栄えたり」とあることから解るように、江戸がその舞台となっている。

●主人公は公事に従事する某の少将で、経済的にも地位の上でも、また家庭の中も全て満ち足りた生活をしている。ところが、この少将は、ある時、平公誠の歌「隠れ蓑隠れ笠をも得てしがな……」を見てから、隠れ蓑笠が無性に欲しくなる。近習に相談しても効果がないので、屋敷の内の大国神に祈願したところ、その甲斐があって、これを入手する事が出来る。この隠れ蓑笠に身をかくした少将は、無二の友や、少将の所へ出入りしている歌人や、家中の全てを任せておく家長や、深い契りを交わしている女性などの所へ行き、自分に対する様々の批評や批判、また世間の人々の予想外の行動に接し、驚き、怒り、悔しがる。

●そんな事を続けているうちに、長男に、隠れ蓑のみを着ているところ(首のみ見える状態)を見られてしまい、それを知った少将は、変な噂の立つのを恐れて、隠れ蓑笠を神に返す、というのが、この物語の荒筋である。

●この主人公は領地を広く持ち、将軍の覚えも第一で、世間の人々も少将に従い、全てが思いのままである。妻もしかるべき人の娘を迎え、子供も皆それぞれに立派に成人している。使用人も目やすい者を選び、遊びも雅びを好んで、歌合わせ・絵合わせなどが絶えない。住まいも立派で見所が多く、調度品も日本の物は勿論、唐の物まで集め、何不足ない生活ぶりで、少将自身「大方あかぬ事なき身」と言って、この生活に満足している。

●このように現実生活で、全ての面で満ち足りた日々を送っている人間が、次に望むことは、自分の身を隠すというような、超現実的な望みしか残っていない。主人公は、隠れ蓑笠を入手したいと願うようになり、もしその願いが実現出来たなら、自分の思う所へ行き、知らない人の側に立ち、世間の人々の有様を見て、「公の御ため後ろめだきことをも聞出」す事が出来るであろう、もしそれが実現できたなら、さらに満足であると思う。

●つまり、隠れ蓑笠に身を隠して、世の中を見て歩く理由として、幕府に対する陰での批判を聞き出す事をあげている。これは、政治を司っている老中クラスの人物としてみれば当然の事と言えるのであり、好色的な目的が第一であったであろうと推測される、平安朝の『隠れ蓑』とは大きな違いである。

●作者は、この一編を通して、人間の表裏の二面性を指摘し、最終的には、徳川幕府の政治の中心にある、首席老中・水野忠邦批判をしているのである。女性の作品としては、注目すべきものだと思う。
2006/12/24(SUN) 07:26

【5】井関隆子の九段坂下の屋敷

●井関隆子の嫁ぎ先の屋敷は、江戸城に近い九段坂下にあった。現在のりそな銀行九段支店の場所である。屋敷はおよそ500坪位だったと思われる。
北側は九段坂上から俎板橋への広い通りに面し、こちらに玄関があったものと推測される。西側は飯田町から清水門への通りに面していて、こちらの面の方が広かったようである。この西側の通りの向かい側には、井関家と親戚関係にある、新見正路の屋敷があった。現在の九段会館の場所である。東隣には榊原隠岐守の屋敷があり、南隣には能勢河内守の屋敷があった。
井関家の屋敷が、江戸城の近くにあるのは、井関家は代々、初めは小納戸衆という、将軍の身の回りの世話をする掛りであり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(将軍が政治を行う所)と大奥(将軍が私生活をする所)との接点である御広敷(おひろしき)の責任者になる、という家系であったからであろうと思われる。
隆子は、この江戸の中心の、文字通り将軍家のお膝元で、当時の江戸の様々な動きを見ていたのである。
2006/12/17(SUN) 12:23

【6】隆子の実家・庄田家の新宿の屋敷

●隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本庄田安信の本家からの分家である。本家は築地の東本願寺の近くに屋敷があったが、第4代・安勝の時、長男・安利に2600石、次男・安議に400石を分知して、これを分家とした。分家・庄田家の屋敷は『庄田家系譜』の延宝5年(1677)の条に「於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」とあり、場所は現在の新宿区大京町26番地辺で、幕末まで存続していたと思われる。現在の慶応大学病院の辺りと推測される。

●余談であるが、赤穂事件で、元禄16年2月4日、幕府は、大石良雄ら46名に対して切腹を命じるが、その時の大目付・庄田下総守は、本家4代・安利である。
2006/12/17(SUN) 12:17

【7】井関隆子の創作紹介 ・1 『さくら雄が物語』

●原本は、東北大学狩野文庫所蔵、自筆本、全39葉。
主人公・桜雄は、荏原の君と桜の木の精との間に生まれた男の子でおるが、花のように香り、光源氏のように美しく、その評判は江戸中に広まりまった。成人すると求婚者が次々とあらわれ、親は豊かになって喜ぶが、桜雄は全ての相手を拒絶して、桜の花の咲き乱れる頃、愛宕山の川に投身して死んでしまう。その川をいつからか桜川と呼ぶようになった。

●この作品は、『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』などの構想をかりて創られた物語である。天保9年(1838)、隆子が54歳の時の成立である。

●この作品は、『竹取物語』のかぐや姫(女性)の位置に、桜雄(男性)をおいて、天保期の仏教界の腐敗ぶりを徹底的に批判したもので、作者の厳しく烈しい批判精神を伺うことができる。
2006/12/17(SUN) 12:05

【8】歴史における事実と虚構

●本日、12月16日、歴史文化学科の「文化史学会」で「歴史における事実と虚構―『井関隆子日記』の記述から」と題して、お話しさせて頂いた。同学会の諸先生、歴史文化学科の学生の皆さんが参加して下さった。さらに驚いたのであるが、いつも、お世話になっている図書館の皆さんが聞きに来て下さった。これには感謝している。図書館の方々にも昭和女子大学所蔵の資料に関心を持って欲しいと願っている。

●このようにして、少しでも多くの方々に、この『日記』や、その著者の事を知って頂ければ、有難いことだと感謝している。
2006/12/16(SAT) 19:33

【9】『井関隆子日記』 江戸博へ

●昭和女子大学図書館・桜山文庫所蔵の『井関隆子日記』が東京江戸博物館の特別展〔これを見ずして江戸は語れない 江戸城〕に出品展示される予定である。なかなか閲覧できない貴重本であるから、是非、会期中に江戸博へ足を運んで頂きたい。

●江戸東京博物館の、この特別展は、平成19年1月2日~3月4日 に開催される。アクセスは、JR総武線 両国駅西口、都営地下鉄 大江戸線 両国駅A4出口 である。詳細は私のHP「近世初期」の「近世文学関係ニュース」を御覧頂きたい。 →http://www.ksskbg.com/
2006/12/14(THU) 10:51

【10】井関隆子の批評精神

井関隆子(いせきたかこ)が世間に少し知られてきたのは、平成11年度の大学入試センター試験の、本試験の国語Ⅰ・Ⅱの古文に『井関隆子日記』が採り上げられてからである。
しかし、私と隆子との出会いは、もう30年も前になる。鹿島神宮宮司家・67代の鹿島則文のコレクション・桜山文庫の中に,桐箱入り・全12冊の自筆の『日記』を発見した時から彼女との付き合いが始まった。
この全く無名の著者の『日記』を初めて読んだ時、大変驚いた。『日記』は幕末の天保11年(1840)から5年間に亙って書かれていたが、そこには、徳川11代将軍・家斉、12代・家慶、13代・家定の名が所々に出てきて、しかも将軍家の動静がかなり詳しく書かれていたからである。
隆子は江戸城に近い九段坂下に住んでいた。夫は、この時すでに他界していたが、子の親経は御広敷御用人を勤め、家斉の正室の広大院の掛をしていた。孫の親賢も家慶の御小納戸を勤め、後には御広敷御用人となり、和宮の掛となっている。
井関家は、代々、初めは将軍の身の回りの世話をする掛であり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(政治を行う所)と大奥(将軍の私生活の場)との接点である御広敷の責任者になる、そんな家柄であった。隆子は将軍家へ仕える子や孫から、毎日、江戸城中での出来事を聞き、それを『日記』に書さ残していたものと推測される。
一例を紹介すると、将軍・家斉は天保12年閏1月30日に他界した、というのが、現在でも定説になっている。しかし、隆子は、閏1月7日に家斉が没した事を記している。徳川家の正史ともいうべき『徳川実紀』には虚構があり、一女牲の日記に真実が伝えられていると言う訳である。隆子は、当時の女性としては珍しく、広い視野の持ち主で、その興味は、歴史・文芸・文化・政治・社会と多方面に亙っている。国学者の鹿島則文は、最初、男性の日記かと間違えた程である。そして、単に興味を示すに止まらず、それらに、ことごとく論評を加えているが、その批評は極めて厳しく、しかも的確なものが多いのである。
隆子が的確な批判をする事が出来たのは、彼女自身、広く古典を渉猟し、豊かな学識を備えていて、人間を歴史の流れの中でとらえるという、視点を持っていたからだと思う。その上、親経・親賢父子から、江戸城内の様子や幕政等に関する正確な情報を得ていた事も関係しているように思う。
首席老中・水野忠邦は、家斉没後、天保の改革に着手し、強引な政策を実行しているが、隆子はこれらを手厳しく批判している。そこに、彼女の老いてますます衰えることのない批評精神を見る事ができる。
2006/12/13(WED) 23:14

【11】『井関隆子日記』 との出会い

●昭和47年、恩師・重友先生の使いとして、桜山本『春雨物語』を返却するため、鹿島則幸氏の御自宅へお伺いした。用件が済んだ時、鹿島様は「こんなものもございますが」と言って、桐箱入りの12冊の写本を見せて下さった。私の専攻は近世初期の仮名草子であり、幕末の名も無い女性の日記に手を着けるのは、憚られた。しかし、初めから読み進めるうちに、その文体と内容に、グングン惹かれていった。

●岩波の『国書総目録』は書名を「天保日記」とし、著者は「井筒隆女」から「井筒隆」へと変更していた。女性の日記か、男性の著作か、それさえはっきりはしていなかったのである。

●『日記』を読みながら、著者の調査も進めた。幕末の旗本の妻であり、「井関隆子(いせき たかこ)」と言う女性である事が明らかになっていった。もともと出版社の要請で原稿作成に着手したのであるが、オイルショックで企画は中止となってしまった。しかし、その時、私は、この『日記』のトリコになってしまっていた。

●勉誠社に頼み込んで、全3冊の校注を終えるまでに8年間の年月を費やした。仮名草子研究者としては、8年間の寄り道だったのである。
2006/12/13(WED) 08:09

【12】『井関隆子日記』 とは?

●昭和女子大学図書館の桜山文庫に、桐箱入りの、12冊の写本が所蔵されている。これは、幼名・庄田キチ、後に井関隆子の自筆の日記である。天保11年(1840)から5年間に亙る日記で、隆子が55歳から60歳で没するまで書き記したものである。

●隆子は、55歳の正月、老いの身として、これと言って為す事もない、手持ち無沙汰な日々の自分の心遣りとして日記を書き始める。『日記』は年老いた女性の心の発散の場として出発している。

●しかし、生来の批評精神の旺盛な彼女の、目に触れ、耳にする天保の時代は、極めて興味深い現実の連続だったのである。そこから、『日記』に書かれる内容に変化が生じてくる。

●このように、この女性の日記には、極めて主観的な心の発散と、結果的には、その対極にある、この天保期の社会の動き、政治的な変動の裏面をも伝えることとなった。

●私たちは、この一人の幕末の旗本夫人の日記を読む時、江戸時代の人々の生活の様子を多く学ぶことになる。
2006/12/13(WED) 00:47

【13】井関隆子は幕末の旗本夫人

●井関隆子は、天明5年(1785)に江戸の四谷で生まれた。現在の慶応病院のあたりである。この辺は当時は、大番衆という、江戸城などを警護する旗本が住んでいた。隆子の実家は庄田家で、代々、江戸城や大坂城の警備を担当する家系であった。隆子は、天保15年(1844)に60歳で没している。

●20歳の頃、松波に嫁いだが、事情があって間もなく離婚した。その後、実家で本を読んだり、和歌を作ったりしていたが、30歳の頃、今度は井関親興(いせき・ちかおき)と再婚した。そこで、井関隆子になった訳である。

●井関家は、実家の庄田家とは異なり、江戸城に近い九段坂下の飯田町に屋敷があった。井関家は、代々、将軍の近くに使える役目の家柄だったので、お城の近くに屋敷を拝領していたのである。およそ350坪位の広さだった。現在の九段会館の前あたりである。ここで、人生の後半の、およそ30年間を過ごした。
2006/12/11(MON) 19:30

【14】井関隆子(いせき・たかこ) について

●井関隆子と言っても、あまり知られていない。私が初めてこの女性の日記に出会ったのは、もう30年以上前であるが、その時、「名前はまだ無い」であった。ナツケ親は私である。漱石ではない。何年も調査を重ねた結果、ようやく「いせき・たかこ」の名前を付ける事が出来た。

●昭和女子大学には、井関隆子の自筆の日記が所蔵されている。昭和の関係者に、少しでも、この女性を知って頂きたいと思って、掲示板を新設た。今後、この女性に関する事を書き込んで行きたいと思う。皆様の御意見や御質問が寄せられる事を、楽しみに待っている。
2006/12/11(MON) 14:03

『斎藤親盛伝記資料』 中国から ?

『斎藤親盛伝記資料』中国から ?

  • 2020.01.19 Sunday
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【非売品・稀少】『 斎藤親盛(如儡子)伝記資料 』深沢秋男 著 近世初期文芸研究会 平成22年 ○江戸初期 文芸 仮名草子 可笑記
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酷暑の中での奮闘 ?

酷暑の中での奮闘 ?
2018.08.30 Thursday

●今年の夏は暑かった。日中は外出せず、夕方から散歩に出た。妻と2人で、自然の風に感謝して歩く。なんとも生産性のない日々である。そんな中で、なんと多くの方々の御配慮を賜ったことか。
●4月には、北村薫氏の『小萩のかんざし』が出て、横山重先生の事をあたたかく描写して下さった。8月には、なんと、郷里身延の広報誌に、池田茂光氏が、思いがけない紹介をして下さった。
●年末に出る予定の『近世初期文芸』第35号に投稿する3点、この酷暑の中で脱稿した。
① 如儡子の祖父、斎藤光盛の出自
② 新出写本『可笑記』の紹介
③ 仮名草子の書誌的研究
●①では、越後阿賀町の斎藤家総本家の、6メートル40センチという、長大な系図が決定的な証拠となった。昭和37年1月に法政大学に提出した卒論の推測に結び付いたのである。こんな劇的なことも、長年研究しているとある、ということであろう。
●とにかく、年老いた私は、多くの方々の御配慮、御協力に感謝して、これらの原稿を、今日、印刷所に送った。8月も終わり、9月に入る。

〔みさそひ 御誘〕

〔みさそひ 御誘〕

●今日、菊池眞一先生から、氏家幹人氏『旗本御家人』(2011年10月21日、洋泉社発行)の中に、『井関隆子日記』が引用されていることを教えて頂いた。氏家氏の記述は、次の通りである。【振り仮名、省略】
。。。。。。。。。。。。。。。。
 『醇堂叢稿』の記述の中で、鯛の味噌漬の話にもまして眼から鱗だったのは、「おさそい」や「御宅」という言葉が、幕府の役人の間では、特別の意味を持っていたという指摘である。
 「おさそい」が「ぜひお誘いください」の「おさそい」なら、驚くまでもないが、醇堂が旧幕時代の役人言葉として挙げたそれはまったく違う。醇堂によれば、「おさそい」とは「不首尾にて免せらるゝ也。何も子細あらされども、病気と称してこれを辞退する事なり」。要するに職務上の過失等を犯した幕府の役人が、罷免されたり病気と称して辞任することを意味していたというのである。
 本当にそうなのか。『広辞苑』『日本国語大辞典』『江戸時代語辞典』などめぼしい辞書で調べたが、そのような意味の「おさそい」は見つがらなかった。「面白いけど裏がとれないな」と残念に思っていたところ、旗本井関家の未亡人隆子の日記(『井関隆子日記』)の天保十五年(一八四四)九月六日の条に、醇堂の記述を裏付ける記事を発見した。
 それは、天保改革の際に庶民を苦しめた酷吏として悪評が高い鳥居甲斐守忠耀(通称耀蔵)の失脚についての記事で、隆子は「鳥井(氏家註・鳥居)甲斐守は町ノ司にて時めきつるを、此度御誘とかいひて、病にこと付、司をはなたれたり」と書いていた。
 鳥居は、実は失脚なのに病気を理由に町奉行(「町ノ司」)を罷免された。このような罷免は「御誘」と呼ばれていると、隆子は明記しているのである。彼女は「御誘」に「みさそい」の読み仮名を添えているが、これが醇堂か言う「おさそい」であることは間違いない。
。。。。。。。。。。。。。。。。
 『井関隆子日記』天保15年9月6日には、次の如く書かれている。
。。。。。。。。。。。。。。。
「・・・鳥井甲斐守ハ町のノ司にて時めきつるを、こたび、みさそひとかいひて、病にこと付、つかさはなたれたり。・・・」
。。。。。。。。。。。。。。。。
これを、私は、校訂の時、「みさそひとかいひて」を「御誘〔振り仮名=みさそひ〕とかいひて」としたのである。氏家氏は、「彼女は「御誘」に「みさそい」の読み仮名を添えているが、」としておられるが、正確には、隆子は「みさそひ」としているが、校訂者は、これに「御誘」の漢字を当て、「みさそひ」を振り仮名にしている、ということである。