昭和女子大学図書館 〔翠園文庫〕

昭和女子大学図書館所蔵 〔翠園文庫〕

  • 2019.12.03 Tuesday
昭和女子大学図書館所蔵 〔翠園文庫〕

深沢秋男

私は、昭和四十八年から五十六年にかけて、近世末期の旗本女性の日記の校注をしていた。『井関隆子日記』である。この日記の中に、佐渡の歌人・蔵田茂樹との交流の様子がかなり詳しく出てくる。隆子は、天保十四年一月晦日の条で、自分の創作『神代のいましめ』を佐渡の蔵田茂樹に書写して贈ったと記している。この書写本が佐渡に伝存しているか否か調査したが未詳であった。
しかし、学習院大学図書館の雕虫居写本の中に『迦美世能伊末志米』が収録されている事がわかり、早速、閲覧調査してみると、その巻末に、
「明治十七年十二月三十一日自薄晩至初更写歌集底本鈴木氏翠園叢書之一也 市谷書院」
とあった。
底本が鈴木氏の「翠園叢書」である事は判明したが、「翠園叢書」は『国書総目録』によれば、国会図書館に一冊を所蔵するのみで、これには収録されていない。
このような状態で数年が経過した。昭和五十一年十二月号『国語と国文学』の巻末の雑誌要目の中に、松本誠氏の鈴木重嶺に関する論文を発見、初めて松本先生にお会いすることができた。関東短期大学で松本先生の電話番号を教えてもらい、先生のお宅に電話して、お願いの要件を伝えて、自由が丘のモンブランで、初めてお会いすることができた。
実は、松本誠先生は鈴木重嶺の直系の御子孫であり、最後の佐渡奉行であった重嶺の旧蔵書を全て所蔵しておられた。待望の『翠園叢書』全六十八巻六十七冊も閲覧させて頂くことができた。
井関隆子の『神代のいましめ』がこの叢書に収録されたのは、蔵田茂樹の子の茂時が佐渡奉行の鈴木重嶺に献上したからであった。この『翠園叢書』には、他にも隆子の作品が収録されており、以後も松本先生には大変お世話になっていた。
国語学者の先生は、生粋の江戸っ子で、あらゆる振る舞いが粋だった。森銑三先生の三古会にも連れて行って頂いた。ところが、世は無常。
平成七年(一九九五)一月十三日、松本誠先生は、東海産業短期大学の研究室で急逝されてしまったのである。私は、突然の事で途方にくれた。先生とは、三古会や東京掃苔会を通しても、交流があったし、さらに、先生が編纂執筆中の『同音異義語辞典』(勉誠社)に関しても相談を受けていた。法要も済んだ頃、奥様の栄子氏から、先生の蔵書の処置に関して相談された。先生には、長い間、身に余る御厚情を賜っていた関係もあり、蔵書の整理をお引き受けした。

松本家蔵書・鈴木重嶺関係資料の整理

平成七年(一九九五)十二月二十七日

冬休みに入った十二月二十七日、奥沢の御自宅へ伺った。三〇〇坪のお宅は、街中でありながら、車の騒音も響かない閑静な所であった。道路側は小高くなっていて、大きな木が茂り、夏休みなどには、先生が木々の手入れをすると仰っていたことが思い出される。
奥様は、先生御他界の後、家の中を整理して、ゴミゴミした物は古物商に渡したものもあると仰っていた。私は、大きな日本家屋の一階と二階の各部屋に置かれた蔵書を全部整理して、三つに大別した。

1、一般書。
2、松本先生の著書をはじめ、国語学関係のもの。
3、鈴木重嶺関係資料。

これらの蔵書の処置に関しては、先生のお子様とも十分に相談して処置すべきであると申し上げた。

1、一般書 区立図書館などに寄贈することも一案であるが、現在、図書館もスペースの関係で引き受けられないのが実状である。従って、必要なものの他は古書籍商に売却するのがよい。
2、松本先生の著書・国語学関係 必要部数を保存し、後は古書籍商へ売却する。
3、鈴木重嶺関係資料 文化史的に考えても価値が高いので、慎重に処理する。これも、神田の専門の古書籍商に売却するのも一つの方法である。信頼できる古書籍商を介すれば、適正に評価され、最も必要とする読者の手に渡り、活用される可能性がある。ただし、鈴木重嶺の名前を後世に伝えたい場合は、歴史博物館・国会図書館・大学図書館等に一括寄贈して、半永久的に保存する方法もある。

このように申し上げ、神田の古書籍商の何店かの名前と電話番号を差し上げた。ただ、ここで、最も重要な事は、今は亡き、松本誠先生が喜ばれると思われる処置をする、ということである、と付言した。
奥様は、即座に、お金は要らないので、何とか重嶺さんの名前を後世へ伝えたい、と申された。さらに、続けて、先生の昭和女子大学に寄贈したいと思うが如何でしょうか、と申される。検討してみましょう、とお答えした。
美味しい夕食を御馳走になり、松本先生のお宅を辞去した。年末の寒い夜道を奥沢駅へ向かいながら、重嶺関係資料の処理の方法を思案した。

鈴木重嶺(翠園)関係資料、昭和女子大学図書館へ寄贈

平成八年(一九九六)二月二十日

『翠園叢書』全六十八冊、『翠園雑録』全二十三冊を始め、鈴木重嶺の自筆本が多い。このように貴重な蔵書の処理は慎重に進める必要がある。昭和女子大学図書館・館長の青柳武先生に寄贈を引き受けて下さるか否かを検討して頂いた。その結果、図書館の承諾を得た。私は、寄贈して頂くに当たって、次のような条件の覚書を作成し、松本栄子氏と昭和女子大学図書館に提案した。

鈴木重嶺関係資料に関する覚書

1、昭和女子大学は、寄贈された「鈴木重嶺関係資料」を一括永久保存し、松本家の要望があった場合は、優先的に閲覧して頂けるうに配慮する。
2、昭和女子大学は、「鈴木重嶺関係資料」が寄贈された折、その概略を雑誌等に発表して、その所在を明らかにす
る(深沢秋男が担当)。
3、昭和女子大学は、今後、鈴木重嶺関係資料が古書店等に出た場合、事情の許す範囲で購入し、本資料の充実に努める。
4、昭和女子大学は、国会図書館等に所蔵されている、鈴木重嶺の著作を複写して収集し、資料の充実に務める。
5、「鈴木重嶺関係資料」を活用し、歌人・鈴木重嶺の研究を推進する。
平成八年二月二十日

この提案は、昭和女子大学図書館(館長・青柳武先生)及び松本栄子氏の御了承を頂いたので、今後の処理に関して、図書館と相談して進行した。

平成八年(一九九六)二月二十日

昭和女子大学図書館の責任者二名と深沢の三名で、奥沢の松本栄子氏のお宅へ伺い、鈴木重嶺関係資料を受領し、無事に図書館へ移管した。
松本家の玄関を入って、直ぐ左手にある応接間には、鈴木重嶺の油絵の肖像画が掛けてあった。奥様は、この肖像画以外の重嶺関係資料は全て寄贈して下さった。このような、御配慮は、そうそう有ることではないだろう。私達は、心から感謝して、松本先生のお宅を辞去した。

翠園文庫目録作成

平成八年(一九九六)九月五日・六日

「鈴木重嶺関係資料」を図書館から深沢研究室に移動して、目録作成をした。私は、研究室に泊り込みで、資料から離れる事無くリストの作成を行った。全八十点の資料を内容別に大別し、原資料には鉛筆で通し番号を書き込み、添付紙片に到るまで全ての略書誌をノートにメモし、原稿は直接ワープロで入力した。
その調査結果は、平成十年一月一日発行の、昭和女子大学『学苑』第六九四号に発表した。
なお、昭和女子大学図書館では、この度の鈴木重嶺関係資料が、松本栄子氏から寄贈されたのを機会に「翠園文庫」を新設して、今後、これらの資料を保管し、さらに充実を図ることになった。

鈴木重嶺の肖像画

昭和女子大学の重嶺の関係資料は、平成八年七月十六日、御子孫の松本栄子氏から、全て本学へ寄贈された。ただ一点、重嶺の油絵の肖像画は、仏壇のある部屋に掛けてあり、これは毎日お線香を上げながら拝むと申され、寄贈リストから除外された。
しかし、平成十六年二月十九日、この肖像画も寄贈された。この肖像画も頂く事になったので、私は画家の「川久保正名」について調査した。小杉放庵記念日光美術館の田中正史氏や東京文化財研究所の山梨絵美子氏の御教示によって、この画家の概略は判明し、この肖像画は重嶺七十歳頃のものと推測された。
山梨絵美子氏の助言もあり、貴重な存在であることが判ったので、図書館では、特別予算を計上して、この油彩画を文化財補修の専門家に依頼して補修を済ませ、大切に保管している。

鈴木重嶺百回忌

平成九年(一九九七)十一月二十六日

鈴木重嶺百回忌 全龍寺。重嶺は、明治三十一年十一月二十六日、八十五歳で没した。その百回忌法要が、新大久保の菩提寺・全龍寺で行われた。松本家からは、松本栄子氏、御子息・松本昭氏夫妻、お孫さんの暁氏などが参列。深沢も参列させて頂き、鈴木重嶺関係資料を昭和女子大学図書館で永久保存する事になった経緯を、重嶺の御霊前に報告した。

翠園文庫の概略

昭和女子大学図書館所蔵の「翠園文庫」は、最後の佐渡奉行・歌人、鈴木重嶺のコレクションである。重嶺直系の子孫で、国語学者・松本誠氏の旧蔵である。平成七年に松本氏が急逝され、平成九年に松本栄子氏から寄贈された資料を中心に、その後、数次に亘って、古書店から購入したものである。

1、松本栄子氏寄贈分(平成八年七月十六日)
翠園叢書 全六八巻・六七冊など、八〇点で、重嶺自筆のものや、重嶺他界の折の会葬人名簿など貴重な資料で、この文庫の中核となっている。【『学苑』六九四号、平成十年一月】
2、第一次購入分(平成十年)
翠園詠草、翠園遺稿、など四二点。【『学苑』七〇五号、平成十一年一月】
3、第二次購入分(平成十一年)
翠園詠草、月奈美集、など一七〇点。【『学苑』七一六号、平成十二年一月】
4、①第三次購入分、②細田賢氏寄贈分(平成二十一年)
①、第三次購入分は、読書抄禄、年々詠藻、など一〇点である。
②、平成二十一年十二月、鎌倉市在住の、細田賢氏から、鈴木重嶺門下の歌人の資料、四六点が、昭和女子大学図書館に寄贈された。【『学苑』八五〇号、平成二十三年八月】

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鈴木重嶺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
鈴木 重嶺(すずき しげね)は、江戸時代後期の旗本、明治期の官僚、歌人。最後の佐渡奉行。

生涯

幕府・明治政府官僚として、中川忠英の家臣小幡多門有則の次男として江戸駿河台に生まれ、鈴木家10代の鈴木重親(半治郎)の養子となった。天保2年(1831年)に養父が没すると家督を継ぎ、小普請入りする。天保4年(1833年)、将軍徳川家慶御台所付の広敷伊賀者となる。
天保12年(1841年)8月25日広敷取締係より、江戸城内武術見分の際に「つるぎだち鞘にをさめし世になれて みがかぬわざのはづかしきかな」の歌を詠み、鼻紙へ一首歌をしたためて、柔術の師匠の悴で剣術の師匠である窪田清音に渡す。清音がこの歌を見て松平内匠頭に出したところ、その歌を短冊にしたためて差し出すようにと命が出る。これが老中水野忠邦の目に留まり、同年10月徒目付に栄進し、市谷加賀(現在の新宿区市ヶ谷加賀町)に150坪の屋敷を拝領した。天保14年(1843年)勘定吟味役改役並に一時なるが、再び徒目付となり、再び天保15年(1844年)には勘定組頭となった。
その後、勘定吟味役を経て、元治元年(1864年)7月2日勘定奉行となるが、わずか20日余りで同23日に槍奉行となり、慶応元年(1865年)9月13日に最後の佐渡奉行となり、諸大夫に任ぜられ兵庫頭と称する。慶応4年(1868年)閏4月16日に御役御免となったのち、田安徳川家の家老となり、新政府との交渉役となった。
翌明治2年(1869年)に新政府の開拓少主典となり、明治4年(1871年)浜松県参事となり、同年12月8日に再び佐渡に渡り、相川県参事となり、明治6年(1873年)従六位に叙任された。明治8年(1875年)相川県六等判事を兼任し、同年権令に昇進し正六位に叙任された。翌年4月廃県により職を辞し、同年に息子の重明に家督を譲った。また従五位に叙任された。
その後、晩年の明治24年(1891年)2月23日に東京帝国大学旧事諮問会の要請に応じ、幕府の財政や勘定所について詳細な証言をしている。
幕臣時代より国学や和歌を橘千蔭系の村山素行や伊庭秀賢に学んだ。佐渡奉行、そして相川県参事・権令として佐渡に合わせて10年在島し、佐渡で多くの門弟を育てた(『賀筵歌集』には65名の佐渡の門人が寄稿している)。職を辞してからは和歌の世界で活躍した。明治9年(1876年)に官職を辞し家督を譲り、『翠園兼当歌』を著す。明治12年(1879年)『雅言解』(全4巻)を著し、明治17年(1884年)に『越路廼日記』、『志能夫具佐』を著し、明治24年(1891年)『早稲田文学』第3号において和歌の名家として挙げられた。明治25年(1892年)には『翠園寿筵歌集』を著した。明治28年(1895年)、鶯蛙吟社を創立し、短歌の雑誌『詞林』を創刊した。明治31年(1898年)に85歳で没したが、この年『詞林』は、新派の歌人佐佐木信綱の創刊した『心の華」に合併した。
鈴木重嶺関係資料は、昭和女子大学図書館に「翠園文庫」として保存されている。
墓所は、東京都新宿区大久保の全龍寺にある。

交流
• 勝海舟と親交があり、重嶺の記述が海舟日記にみられる。晩年の歌会には樋口一葉が出席し、重嶺の指導を受けている。また、葬儀記録には1068名の記帳があり、毛利元徳、近衛忠熈、正親町実徳、久我建通、蜂須賀茂韶、前田利嗣らの華族や、萩野由之、黒川真頼、井上頼圀、中島歌子ら全国の文化人・歌人が名を連ねた。
• 横須賀造船所建設計画の際、建設推進者である小栗忠順に対し「費用を投じて造船所を造っても完成時には幕府はどうなるか分からない」と計画の妥当性を問うた。それに対し忠順は「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」と返答した。また、旧事諮問会での証言の際にも忠順について言及している。

参考文献

●「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」(深沢秋男『文学研究』92号、平成16年4月)
●旧相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』
●『旧事諮問録』旧東京帝国大学史談会編、青蛙房 2007年
●小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』東洋書林、1997年
●HP「近世初期文芸研究会」→ J-TEXTS「鈴木重嶺関係資料」

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■これは、『芸文稿』第12号(2019年7月)に掲載されたものを、一部改めたものる。
2019年12月3日

鈴木重嶺・翠園の研究

鈴木重嶺の研究

  • 2019.11.28 Thursday
鈴木重嶺(翠園)の研究

●私は、第3の研究の柱として、最後の佐渡奉行・歌人、鈴木重嶺を設定した。国語学者、松本誠先生との関係からである。

●しかし、私には、そこまで、残された時間がなかった。後継者をと健闘したが、うまく進まなかった。

●私の収集した、鈴木重嶺関係資料は、次の通りである。

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鈴木重嶺(翠園)略伝
重嶺と海舟
鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説
鈴木重嶺(翠園)関係資料(1)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(2)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(3)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(4)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(5)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(6)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(7)
鈴木重嶺(翠園)関係資料(8)
鈴木重嶺の雑誌掲載歌(菊池眞一)
鈴木重嶺の『元始祭』
〔鈴木重嶺紀行集〕(板坂耀子氏)
松浦詮編『蓬園月次歌集 全』の紹介
雑誌『太陽』掲載の鈴木重嶺の和歌等
故鈴木重嶺翁逸話
昭和女子大学図書館所蔵「翠園文庫」について
昭和女子大学図書館・翠園文庫
鈴木重嶺顕彰会
佐渡の思ひ出(石倉翠葉)
勝海舟・鈴木重嶺・楳村宣雄『節季正月双六』
鈴木重嶺作・今様

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佐渡の思い出

鈴木重嶺と佐渡

  • 2019.11.28 Thursday
鈴木重嶺と佐渡

●FBのスタッフから、1年前はこんなことを書き込みました、とコメントがあった。

●思えば、鈴木重嶺との関係で、佐渡にもお世話になった。佐渡での講演も2回させて頂いた。佐渡奉行所が復元されて、その大広間でのこと、何と、私の席は、佐渡奉行の座る所。甲斐の山猿如きが座する場所ではない。私は、少しずらして座らせて頂いた。

●佐渡には、調査研究で、何度も何度も出かけたが、本当に多くの方々の御配慮を賜った。懐かしい思い出である。

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2018年11月28日 11:26 ·
鈴木重嶺・翠園 百回忌法要
2018.11.28 Wednesday

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平成9年11月26日(1997)
鈴木重嶺百回忌 全龍寺。重嶺は、明治31年11月26日、85歳で没した。その百回忌法要が、新大久保の菩提寺・全龍寺で行われた。松本家からは、松本栄子氏、御子息・松本昭氏夫妻、お孫さんの暁氏などが参列。深沢も参列させて頂き、鈴木重嶺関係資料を昭和女子大学図書館で永久保存させて頂く事になった経緯を、重嶺の霊前に報告した。
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●今、私は、昭和女子大学図書館に所蔵されている、鈴木重嶺の関係資料に関して整理している。そこで、こんな一条に出会った。11月26日とは、2日前である。それにしても、佐渡奉行まで務め、勝海舟と親交のあった幕臣と、このような関係になった自分を振り返って、分に過ぎたものだと思う。

●平成15年3月15日、佐渡、相川町の町史講座で、鈴木重嶺に関してお話した。場所は、佐渡奉行所御広間であった。会場に着くと、相川町の皆さんが、大勢お待ちだった。担当者は、こちらへどうぞ、と案内してくれた。それは、何と、上段の間の佐渡奉行の座る席、これは、躊躇せざるを得ない。鈴木重嶺の座した席に、甲斐の山猿が座ることは許されない。下段にというと、それでは顔が見えないので、と申される。私は、少し、横にずらせて座って話し始めた。


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  • 2019.11.15 Friday
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翠園文庫   (深沢秋男執筆)

(一般)

【すいえんぶんこ】

翠園文庫  すいえんぶんこ

昭和女子大学図書館所蔵、鈴木重嶺関係の文庫。

●翠園文庫の概略  (冊数などは、深沢の記録によるもので、図書館の正式なものではない)

昭和女子大学図書館所蔵の「翠園文庫」は、最後の佐渡奉行・歌人、鈴木重嶺のコレクションである。重嶺直系の子孫で、国語学者・松本誠氏の旧蔵である。平成7年に松本氏が急逝され、平成9年に松本栄子氏から寄贈された資料を中心に、その後、数次に亘って、古書店から購入したものである。

1、松本栄子氏寄贈分(平成8年7月16日)
翠園叢書 全68巻・67冊など、80点で、重嶺自筆のものや、重嶺他界の折の会葬人名簿など貴重な資料で、この文庫の中核となっている。
2、第1次購入分(平成10年)
翠園詠草、翠園遺稿、など42点。
3、第2次購入分(平成11年)
翠園詠草、月奈美集、など170点。
4、細田賢氏寄贈、(平成21年)
読書抄禄、年々詠藻、など45点。

詳細は、→「鈴木重嶺関係資料」http://www.ksskbg.com/suzuki/index.html

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  • 2019.11.13 Wednesday
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鈴木重嶺    (深沢秋男執筆)

(一般)

【すずきしげね】

鈴木重嶺(すずき しげね)

幕臣・歌人 文化11年(1814)6月24日出生〜明治31年(1898)11月26日没、85歳。墓は東京都新宿区大久保1-16-15 曹洞宗海亀山全龍寺。
本姓、穂積。初め小幡氏。名、重嶺・有定。字、子高。通称、大之進。号、翠園・緑堂・知足斎。従五位鈴木重嶺、不受法名。

■幕臣時代

天保2年(1831)小普請入り、同4年広敷き伊賀者となる。同12年広敷取締係、徒目付となる。同14年勘定吟味役となる。安政年(1855)勘定組頭となる。元治元年(1864)勘定奉行・槍奉行となる。慶応元年(1865)佐渡奉行となる。明治元年(1868)御役御免となり、田安家家老となる。同8年相川県判事となる。同9年廃県により官を辞す。

■歌人時代

幕臣時代から和歌の道に励んでいたが、国学・歌を、橘千蔭系の村山素行・伊庭秀賢に学んだ。官職を辞してからは和歌の世界で活躍した。
明治9年(1876)家督を重明に譲る。同年『翠園兼当歌』成る。同12年『雅言解』全4巻成る。同17年『越路廼日記』・『志能夫具佐』成る。同24年『早稲田文学』3号に、現在の和歌の名家として掲げられる。同25年『翠園寿筵歌集』刊行。同28年鶯蛙吟社を結社、短歌雑誌『詞林』を創刊。この『詞林』は後年、佐佐木信綱の『心の華』(『心の花』)に合併した。
明治31年(1898)翠園・鈴木重嶺は85歳で没したが、この年、25歳の佐佐木信綱は短歌雑誌『心の華』を創刊した。新派歌人の代表が佐佐木信綱であるとすれば、鈴木重嶺は旧派歌人の代表の1人であった。

■著作など

鈴木重嶺には『翠園叢書』『翠園雑録』全60巻という膨大な筆録があるが、その他、伊香保前橋之記、詠史清渚集、オトと子との差別或人問、於よづれ言、絹川花見の記、皇風大意、 御諡号概略、島曲廼古豆美、旅路記恵の露、旅路廼日記、二十二番扇合判、農愉、二荒山歌合、夢路の日記など多くの著作があり、歌は、当時の雑誌や歌集に収録されている。鈴木重嶺の著作・所蔵本・関係資料なとを集めた「翠園文庫」が昭和女子大学図書館に所蔵されている。

■「鈴木重嶺顕彰会」と全龍寺・鈴木重嶺墓所の案内標示板

平成16年4月「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」(『文学研究』第92号)を発表したのが機縁となって「鈴木重嶺顕彰会」を創設した。法政大学名誉教授・村上直氏の御指導を頂き、また佐渡市相川の諸氏とも相談して進めたものである。現在の会員は少数であるが、今後は「翠園文庫」を所蔵する昭和女子大学の方々にも参加して頂き、継続的に鈴木重嶺の研究を続けてゆきたいと思っている。
また、平成16年6月には、鈴木重嶺の御子孫・松本栄子氏、全龍寺・高崎宗矩氏・高崎宗平氏、佐渡市教育委員会等、多くの方々の御理解と御協力によって、鈴木重嶺の墓所に案内標示板を設置することができた。標示板の内容は次の通りである。

■最後の佐渡奉行・歌人鈴木重嶺・翠園の墓■

鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元は寛永13年(1636)10月8日に没し大久保の全龍寺に葬られ、鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。
鈴木重嶺は、文化11年(1814)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家10代・重親の養子となって11代を継ぎました。20歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉行、鎗奉行を勤め、慶応元年(1865)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治9年(1867)官職を辞し、以後は和歌の道に励みました。
鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動し、『詞林』は佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。
鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治31年(1898)11月26日、85歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠熈・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韶・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼圀・中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など1068名の氏名が記載されています。
参考 「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」深沢秋男(『文学研究』92号、平成16年4月)
平成16年6月26日
鈴木重嶺 顕彰会
佐渡市教育委員会

■鈴木重嶺関係資料→http://www.ksskbg.com/suzuki/index.html

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鈴木重嶺 すずき しげね

鈴木重嶺 すすき しげね

  • 2019.10.19 Saturday
鈴木重嶺  【はてなキーワード】

一般

鈴木重嶺 すずきしげね
目次

鈴木重嶺(すずき しげね)

幕臣・歌人 文化11年(1814)6月24日出生~明治31年(1898)11月26日没、85歳。墓は東京都新宿区大久保1-16-15 曹洞宗海亀山全龍寺。
本姓、穂積。初め小幡氏。名、重嶺・有定。字、子高。通称、大之進。号、翠園・緑堂・知足斎。従五位鈴木重嶺、不受法名。

■幕臣時代

天保2年(1831)小普請入り、同4年広敷き伊賀者となる。同12年広敷取締係、徒目付となる。同14年勘定吟味役となる。安政年(1855)勘定組頭となる。元治元年(1864)勘定奉行・槍奉行となる。慶応元年(1865)佐渡奉行となる。明治元年(1868)御役御免となり、田安家家老となる。同8年相川県判事となる。同9年廃県により官を辞す。

■歌人時代

幕臣時代から和歌の道に励んでいたが、国学・歌を、橘千蔭系の村山素行・伊庭秀賢に学んだ。官職を辞してからは和歌の世界で活躍した。
明治9年(1876)家督を重明に譲る。同年『翠園兼当歌』成る。同12年『雅言解』全4巻成る。同17年『越路廼日記』・『志能夫具佐』成る。同24年『早稲田文学』3号に、現在の和歌の名家として掲げられる。同25年『翠園寿筵歌集』刊行。同28年鶯蛙吟社を結社、短歌雑誌『詞林』を創刊。この『詞林』は後年、佐佐木信綱の『心の華』(『心の花』)に合併した。
明治31年(1898)翠園・鈴木重嶺は85歳で没したが、この年、25歳の佐佐木信綱は短歌雑誌『心の華』を創刊した。新派歌人の代表が佐佐木信綱であるとすれば、鈴木重嶺は旧派歌人の代表の1人であった。

■著作など

鈴木重嶺には『翠園叢書』『翠園雑録』全60巻という膨大な筆録があるが、その他、伊香保前橋之記、詠史清渚集、オトと子との差別或人問、於よづれ言、絹川花見の記、皇風大意、 御諡号概略、島曲廼古豆美、旅路記恵の露、旅路廼日記、二十二番扇合判、農愉、二荒山歌合、夢路の日記など多くの著作があり、歌は、当時の雑誌や歌集に収録されている。鈴木重嶺の著作・所蔵本・関係資料なとを集めた「翠園文庫」が昭和女子大学図書館に所蔵されている。

■「鈴木重嶺顕彰会」と全龍寺・鈴木重嶺墓所の案内標示板

平成16年4月「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」(『文学研究』第92号)を発表したのが機縁となって「鈴木重嶺顕彰会」を創設した。法政大学名誉教授・村上直氏の御指導を頂き、また佐渡市相川の諸氏とも相談して進めたものである。現在の会員は少数であるが、今後は「翠園文庫」を所蔵する昭和女子大学の方々にも参加して頂き、継続的に鈴木重嶺の研究を続けてゆきたいと思っている。
また、平成16年6月には、鈴木重嶺の御子孫・松本栄子氏、全龍寺・高崎宗矩氏・高崎宗平氏、佐渡市教育委員会等、多くの方々の御理解と御協力によって、鈴木重嶺の墓所に案内標示板を設置することができた。標示板の内容は次の通りである。

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■最後の佐渡奉行・歌人鈴木重嶺・翠園の墓■

鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元は寛永13年(1636)10月8日に没し大久保の全龍寺に葬られ、鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。
鈴木重嶺は、文化11年(1814)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家10代・重親の養子となって11代を継ぎました。20歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉行、鎗奉行を勤め、慶応元年(1865)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治9年(1867)官職を辞し、以後は和歌の道に励みました。
鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動し、『詞林』は佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。
鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治31年(1898)11月26日、85歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠熈・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韶・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼圀・中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など1068名の氏名が記載されています。
参考 「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」深沢秋男(『文学研究』92号、平成16年4月)

平成16年6月26日
鈴木重嶺 顕彰会
佐渡市教育委員会

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■鈴木重嶺関係資料→http://www.ksskbg.com/suzuki/index.html

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●鈴木重嶺は、幕臣として活躍し、最後の佐渡奉行でもあり、【ウィキペディア】には、詳細に記載されている。私が、追加した部分は、余りないので省略した。

●私は、国語学者・松本誠先生との関係で、鈴木重嶺の関係資料を昭和女子大学図書館へ寄贈して頂いた。この様な経緯から、鈴木重嶺も研究すべきかと考えた。しかし、仮名草子の事もあって、自分での研究は、時間的に無理だと判断した。貴重な資料が保存されている、昭和女子大学の関係者に研究して欲しいと、検討したが、実現しなかった。

●しかし、これだけの資料が保存されていれば、50年後、100年後には、きっと誰かが、この資料を、閲覧・調査して、本格的な〔翠園・鈴木重嶺の研究〕をまとめてくれると思う。

全龍寺の墓所に設置された案内板


古文書解読検定

古文書解読検定

  • 2019.10.06 Sunday
古文書解読検定

沿革

●2015年 7月16日 一般社団法人古文書解読検定協会 発足
2016年 2月16日 事務所立ち上げ 八王子市東町6-8-202
4月 2日 ホームページ開設
4月15日 『実力判定 古文書解読力』柏書房より発刊
3月20日 『読めれば楽しい!古文書入門』潮出版社より発刊
7月15日 第3回検定実施(3級・準2級・2級)

本検定のメリットと社会貢献

この「古文書解読検定」は、学習者にとっても大きなメリットがあります。また生涯学習時代の到来の中で、古文書検定が社会貢献の面で果たす役割も大きいと考えています。古文書解読検定は、社会貢献の視点を見据えながら、古文書学習者の増大を図り、活気有る生涯学習社会の構築に一役買っていければと思っています。

代表者・出題協力者

代表理事 小林正博  東洋哲学研究所主任研究員、博士(文学)
理 事 小林 央  明星大学非常勤講師、八王子郷土資料館学芸員、修士(文学)
理 事 梶川貴子  創価大学文学部助教、博士(人文学)

出題協力者
中尾 堯  立正大学名誉教授
馬場憲一  法政大学大学院教授
西海賢二  東京家政学院大学院教授
佐藤弘夫  東北大学大学院教授
若江賢三  愛媛大学名誉教授

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◆例題 2  『皇風大意』 鈴木重嶺 (創価大学図書館蔵)

【鈴木重嶺の奥書を影印で掲出】

◆解答

此書ハ文久のはしめの年下置野守竹内保徳
外国大使を命せられしをり贈りしなり
其草稿を失ひしを磯部最信其頃うつし
直たりとて見せたるをかり得て写しぬ
すヘてかりそめにものしつるなれは
誤謬多からむかしもれ見ん人こゝろ
し給ひてよ
明治二十二年三月   鈴木重嶺誌

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●鈴木重嶺の関係資料は、たくさん読んで来たけれど、結構読むのがむつかしい。昭和女子大学図書館には、鈴木重嶺・翠園の関係資料が沢山所蔵されているが、多くの研究者に活用して欲しい。

鈴木重嶺の研究

鈴木重嶺と私

2019.06.03 Monday

鈴木重嶺の研究

■翠園・鈴木重嶺の生涯■

鈴木重嶺は、明治31年(1898)11月26日、東京市牛込区神楽町2丁目17番地において、85歳の生涯を閉じた。
文化11年(1814)6月、幕臣、小幡多門有則の次男として江戸駿河台で生まれた。縁あり、鈴木家11代を嗣ぐ。
明治元年(1868)最後の佐渡奉行を辞して後は、和歌の道に精進し、一家をなした。激動の幕末維新を、幕吏として、また歌人として精力的に生き抜いた人物として、後世にその名を残すものと、私は確信している。

■鈴木重嶺略年譜■

○文化11年(1814) 6月、幕臣、小幡多門有則の次男として江戸駿河台に生まれる。幼名亀太郎、初め有定、大之進。鈴木家10代・重親嗣子無く、乞われて後嗣となる。
○天保2年(1831)18歳、家を嗣ぎ、鈴木家11代となる。同年、子普請高井左京組の配下となる。
○天保4年(1833)20歳、8月19日、広敷伊賀者となる。
○天保12年(1841)28歳、8月25日、広敷取締掛となる。同年10月晦日、徒目付となる。
○天保14年(1843)30歳、11月5日、諸士の武術の試験で高成績をあげ、白銀7枚を賜る。同月20日勘定吟味役となる。
○文久1年(1861)48歳、『皇風大意』を著す。
○文久3年(1863)50歳、『旅路廼日記』『旅路記恵の露』を著す。
○元治1年(1864)51歳、7月2日、勘定奉行となる。同月23日、槍奉行となる。
○慶応1年(1865)52歳、9月13日、佐渡奉行となる
○慶応2年(1866)53歳、『島曲廼古豆美』を著す。
○明治1年(1868)55歳、閏4月16日、御役御免となる。
○明治4年(1871)57歳、12月8日、相川県参事となる。
○明治8年(1875)62歳、7月19日、相川県権令兼六等判事となる。
○明治9年(1876)63歳、4月29日、願いによって免職となり、東京駿河台の家に帰る。
○明治12年(1879)66歳、4月10日、『雅言解』全4巻発行。
○明治14年(1881)68歳、『徳川礼典録』の編纂に参加する。
○明治24年(1891)78歳、6月9日、中島歌子の和歌の月次会に参加。樋口一葉の日記『よもぎふ日記』に出る。
11月15日発行の『早稲田文学』3号に、現在の和歌の名家として、掲げられる。
○明治31年(1898)85歳、東京市牛込神楽町2丁目17番地において没。
葬儀参列者は、1072名。

■鈴木重嶺の主要著作■

◎伊香保前橋之記(いかおまえばしのき) 1冊、地誌、写本=国会図書館(桜園叢書41)・学習院大学図書館。
◎詠史清渚集(えいしせいしょしゅう) 1冊、写本=昭和女子大学図書館(翠園文庫)・竹柏園文庫。
◎オトと子との差別或人問(おととねとのさべつあるひとのとい) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書68)。
◎於よづれ言(およずれごと) 1冊、写本=靜嘉堂文庫。
◎紀行(きこう) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)。
◎絹川花見の記(きぬがわはなみのき) 1冊、写本=国会図書館(二荒廼山裏の内)。
◎夢路の日記(ゆめじのにっき) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)・無窮会神習文庫(玉漉193)昭和女子大学(翠園文庫)。
◎二荒山歌合(ふたらさんうたあわせ) 1冊、写本=内閣文庫。
◎皇風大意(こうふうたいい) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書15)・無窮会神習文庫。
◎旅路記恵の露(たびじきめぐみのつゆ) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)・無窮会神習文庫。
◎島曲廼古豆美(しまめぐりのこずみ) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書1)。
◎旅路廼日記(たびじのにっき) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)・昭和女子大学図書館(翠園文庫)。
◎翠園兼当歌(すいえんけんとうか) 1冊、写本=昭和女子大学図書館(翠園文庫)。
◎雅言解(がげんかい) 4巻4冊、版本=昭和女子大学図書館(翠園文庫)・深沢秋男等。

★これらは、鈴木重嶺の著作のごく一部であり、今後の調査で、さらに多くの歌集や著書が出てくるものと予想される。
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■佐渡と私■

●私は、井関隆子の研究から佐渡の調査をして、そこから、佐渡奉行・鈴木重嶺の調査・研究に進んだ。さらに、思えば、昭和45年(1970)の、日本文学研究会の夏季旅行がその根底にあった。重友毅先生をはじめ、常任委員の先生方との2泊3日の旅行で、私は、佐渡と言う島に衝撃を受けた。

●佐渡真野町の国分寺に宿泊させて頂いた。国分寺の林泰先生の特別の御配慮によるものである。夕食後、林先生の父上、林光雅先生の御講義を拝聴した。大きな部屋で、先輩の常任委員の先生方と、夜遅くまで、雑談をして頂いた。外では、ホトトギスが泣いていた。

●大佐渡・小佐渡、と全体を見て回り、大量の資料を購入し、自宅へ郵送した。この体験が無ければ、後年、これほどまで、佐渡に関して調査し、研究し、何度も、講演させて頂くまでにはならなかった、その様に思う。
(2019年6月3日)

布引三十六歌碑 鈴木重嶺

布引三十六歌碑 鈴木重嶺

2019.06.02 Sunday

布引三十六歌碑 神戸市 鈴木重嶺
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最終更新日
2019年3月25日

明治のはじめ頃、花園社という市民団体が、布引の滝の周辺を布引遊園地として、平安時代から江戸時代にかけて詠まれた布引の滝の名歌の碑「布引三十六歌碑」を建てました。これらはその後散逸してしまいましたが、1934(昭和9)年に当時の神戸市観光課が布引渓谷の開放を進めた際、あわせて18基の復興を図りました。その後、1基は阪神淡路大震災で喪失したものの、17基は現在でも新神戸駅からみはらし展望台に至るハイキングコース沿いに点在しています。1992年(平成4年)から、神戸市により、新神戸駅からみはらし展望台までのハイキングコースや生田川再整備により整備された生田川公園に、未復興だった残りの歌碑も順次復興され、2007年(平成19年)に全ての歌碑が復興されました。
• 歌碑の解説(PDF形式:4,478KB)

• 歌の解説は、神戸大学名誉教授・野中春水氏にお願いしました。

歌一覧
• 1/布引の滝のしらいとなつくれは 絶えすそ人の山ちたつぬる(藤原定家)
• 2/あしのやの砂子の山のみなかみを のほりて見れは布ひきのたき(藤原基家)
• 3/布引の滝の白糸わくらはに 訪ひ来る人も幾代経ぬらむ(藤原行能)
• 4/津の国の生田の川の水上は 今こそ見つれ布引の滝(藤原基隆)
• 5/水の色たた白雪と見ゆるかな たれ晒しけむ布引のたき(源 顕房)
• 6/音にのみ聞きしはことの数ならて 名よりも高き布引の滝(藤原 良清)
• 7/さらしけむ甲斐もあるかな山姫の たつねて来つる布引の滝(藤原 師実)
• 8/山人の衣なるらし白妙の 月に晒せる布引のたき(藤原 良経)
• 9/山姫の嶺の梢にひきかけて 晒せる布や滝の白波(源 俊頼)
• 10/幾世とも知られぬものは白雲の 上より落つる布引の滝(藤原 家隆)
• 11/いかなれや雲間も見えぬ五月雨に さらし添らむ布引の滝(藤原 俊成)
• 12/岩はしるおとは氷にとさされて 松風おつる布引のたき(寂蓮 法師)
• 13/白雲とよそに見つれと足曳の 山もととろに落つる滝津瀬(源 経信)
• 14/水上の空に見ゆれは白雲の 立つにまかへる布引の滝(藤原 師通)
• 15/呉竹の夜の間に雨の洗ひほして 朝日に晒す布引の滝(西園寺 実氏)
• 16/うちはへて晒す日もなし布引の 滝の白糸さみたれの頃(藤原 為忠)
• 17/水上は霧たちこめて見えねとも 音そ空なる布引のたき(高階 為家)
• 18/水上はいつこなるらむ白雲の 中より落つる布引の滝(藤原 輔親)
• 19/岩間より落ち来る滝の白糸は むすはて見るも涼しかりけり(藤原 盛方)
• 20/松の音琴に調ふる山風は 滝の糸をやすけて弾くらむ(紀 貫之)
• 21/たち縫はぬ紅葉の衣そめ出てて 何山姫のぬの引の滝(順徳院)
• 22/ぬきみたる人こそあるらし白たまの まなくもちるかそての狭きに(在原 業平)
• 23/我世をは今日か明日かと待つ甲斐の 涙の滝といつれ高けむ(在原 行平)
• 23別/こきちらすたきのしら玉拾ひおきて 世のうきときのなみたにそかる(在原 行平)
• 24/雲井よりつらぬきかくる白玉を たれ布引のたきといひけむ(藤原 隆季)
• 25/久かたの天津乙女の夏衣 雲井にさらす布引のたき(藤原 有家)
• 26/ぬのひきのたき見てけふの日は暮れぬ 一夜やとかせみねのささ竹(澄覚法親王)
• 布引のたきつせかけて難波津や 梅か香おくる春の浦風(澄覚法親王)
• 27/たち縫はぬ衣着し人もなきものを なに山姫の衣晒すらむ(伊勢)
• 28/ぬしなくて晒せる布を棚はたに 我こころとやけふはかさまし(橘 長盛)
• 29/雲かすみたてぬきにして山姫の 織りて晒せる布引のたき(加藤枝直)
• 30/主なしと誰かいひけむおりたちて きて見る人の布引のたき(小沢蘆庵)
• 31/くりかえし見てこそ行かめ山姫の とる手ひまなき滝の白糸(鈴木重嶺)
• 32/布引の滝のたきつ瀬音にきく 山のいはほを今日見つるかも(賀茂真淵)
• 33/たち縫ぬ絹にしあれと旅人の まつきて見や布曳の滝(賀茂季鷹)
• 33別/分入し生田の小野の柄もここに くちしやはてむ布曳の滝(賀茂季鷹)
• 34/布引のたきのしらいとうちはへ てたれ山かせにかけてほすらむ(後鳥羽院)
• 蛍とふあしやの浦のあまのたく 一夜もはれぬ五月雨のそら(後鳥羽院)
• 35/世と共にこや山姫の晒すなる 白玉われぬ布引のたき(藤原公実)
• 36/たちかへり生田の森の幾度も 見るとも飽かし布引の滝(源 雅実)
• 番外1/千代かけて雄たき女瀧の結ほれし つきぬ流を布引の川(作者不詳)
• 番外2/みそ六つのひに響けり山姫の 織るや妙なる布引のたき(太田錦里)
• 句碑/涼しさや嶋へかたふく夕日かけ(布引坊)
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31 くりかえし見てこそ行かめ山姫の とる手ひまなき滝の白糸 鈴木重嶺

【解説板】 鈴木重嶺 しげね (文代二年(1814)~明治三十 一年(1898))、江戸末 明治期歌人。 江戸幕府末期の役人で、維新頃の官職にもついた。後、歌道に精進し明治 二十八年(1895)短歌結社「鶯蛙吟社」を結成し、歌誌「詞林」を発行した。 この「詞林」は後年「心の花」に吸収 合併された。この歌、「山の女神が手も休めずに白糸をくりかえし繰るようにくり返し眺め楽しんで行こう」と繰る、糸の縁語をからませた技巧歌である。これまた布引の滝は人工美でなく、造化の女神 の手になったとその美しさを讃えているのである。
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●鈴木重嶺は、諸方面で活躍していたことが知られる。

鈴木重嶺蔵書印

鈴木重嶺の蔵書印

2019.05.27 Monday

●鈴木重嶺の蔵書印は、幾つかみているが、国文研のHPで
「穂積重嶺蔵書」を見た。また、蔵書印は、このように記載するということも、初めて知った。寸法は入れないのだ。
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蔵書印ID 08252

蔵書印文 穂積重嶺蔵書

色 朱
陰陽 陽
形状 長方形

印影外郭 単郭
印文文字数 6
印文出現位置 1穂 2積 3重 4嶺 5蔵 6書
印文行数 2
印文改行表記 穂積重/嶺蔵書
書体 隸書体
人物ID 3485

蔵書印主 鈴木重嶺

蔵書印主よみ すずきしげね
印主職種/時代 歌人 , 武家 / 幕末明治
人物情報 文化11(1814)年~明治31年(1898)年。名は初め有定、大之進。幼名は亀太郎。号は翠園・緑堂・知足斎・兵庫頭等。中川飛騨守家臣小幡多門有則の次男であったが重親嗣子無く乞われて後嗣となる。徳川幕府に仕え最後の佐渡奉行となる。東京で鶯蛙吟社を組織して月並歌会を催し、短歌雑誌『詞林』を主宰す。佐佐木信綱とともに明治初期歌壇の名家とみなされていた。『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』に合併した。
△初名有定、称大之進、号翠園、文化七年甲戌六月生江戸、仕幕府、自御広敷累進佐渡奉行、受国学村山素行伊庭秀賢、明治三十一年戊戌十一月二十六日歿、葬大久保全竜寺(「続蔵書印譜」による)
典籍ID 200000058

書名 古今和歌集大全
書名よみ こきんわかしゅうたいぜん
刊記 写
所蔵先 国文研初雁, W
請求記号 12-138-1~14
典拠資料 国文学研究資料館館蔵和古書目録データベース
備考 各巻巻頭にあり。上に「消印」を捺す。

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