鈴木重嶺 すずき しげね

鈴木重嶺 すすき しげね

  • 2019.10.19 Saturday
鈴木重嶺  【はてなキーワード】

一般

鈴木重嶺 すずきしげね
目次

鈴木重嶺(すずき しげね)

幕臣・歌人 文化11年(1814)6月24日出生~明治31年(1898)11月26日没、85歳。墓は東京都新宿区大久保1-16-15 曹洞宗海亀山全龍寺。
本姓、穂積。初め小幡氏。名、重嶺・有定。字、子高。通称、大之進。号、翠園・緑堂・知足斎。従五位鈴木重嶺、不受法名。

■幕臣時代

天保2年(1831)小普請入り、同4年広敷き伊賀者となる。同12年広敷取締係、徒目付となる。同14年勘定吟味役となる。安政年(1855)勘定組頭となる。元治元年(1864)勘定奉行・槍奉行となる。慶応元年(1865)佐渡奉行となる。明治元年(1868)御役御免となり、田安家家老となる。同8年相川県判事となる。同9年廃県により官を辞す。

■歌人時代

幕臣時代から和歌の道に励んでいたが、国学・歌を、橘千蔭系の村山素行・伊庭秀賢に学んだ。官職を辞してからは和歌の世界で活躍した。
明治9年(1876)家督を重明に譲る。同年『翠園兼当歌』成る。同12年『雅言解』全4巻成る。同17年『越路廼日記』・『志能夫具佐』成る。同24年『早稲田文学』3号に、現在の和歌の名家として掲げられる。同25年『翠園寿筵歌集』刊行。同28年鶯蛙吟社を結社、短歌雑誌『詞林』を創刊。この『詞林』は後年、佐佐木信綱の『心の華』(『心の花』)に合併した。
明治31年(1898)翠園・鈴木重嶺は85歳で没したが、この年、25歳の佐佐木信綱は短歌雑誌『心の華』を創刊した。新派歌人の代表が佐佐木信綱であるとすれば、鈴木重嶺は旧派歌人の代表の1人であった。

■著作など

鈴木重嶺には『翠園叢書』『翠園雑録』全60巻という膨大な筆録があるが、その他、伊香保前橋之記、詠史清渚集、オトと子との差別或人問、於よづれ言、絹川花見の記、皇風大意、 御諡号概略、島曲廼古豆美、旅路記恵の露、旅路廼日記、二十二番扇合判、農愉、二荒山歌合、夢路の日記など多くの著作があり、歌は、当時の雑誌や歌集に収録されている。鈴木重嶺の著作・所蔵本・関係資料なとを集めた「翠園文庫」が昭和女子大学図書館に所蔵されている。

■「鈴木重嶺顕彰会」と全龍寺・鈴木重嶺墓所の案内標示板

平成16年4月「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」(『文学研究』第92号)を発表したのが機縁となって「鈴木重嶺顕彰会」を創設した。法政大学名誉教授・村上直氏の御指導を頂き、また佐渡市相川の諸氏とも相談して進めたものである。現在の会員は少数であるが、今後は「翠園文庫」を所蔵する昭和女子大学の方々にも参加して頂き、継続的に鈴木重嶺の研究を続けてゆきたいと思っている。
また、平成16年6月には、鈴木重嶺の御子孫・松本栄子氏、全龍寺・高崎宗矩氏・高崎宗平氏、佐渡市教育委員会等、多くの方々の御理解と御協力によって、鈴木重嶺の墓所に案内標示板を設置することができた。標示板の内容は次の通りである。

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■最後の佐渡奉行・歌人鈴木重嶺・翠園の墓■

鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元は寛永13年(1636)10月8日に没し大久保の全龍寺に葬られ、鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。
鈴木重嶺は、文化11年(1814)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家10代・重親の養子となって11代を継ぎました。20歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉行、鎗奉行を勤め、慶応元年(1865)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治9年(1867)官職を辞し、以後は和歌の道に励みました。
鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動し、『詞林』は佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。
鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治31年(1898)11月26日、85歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠熈・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韶・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼圀・中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など1068名の氏名が記載されています。
参考 「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」深沢秋男(『文学研究』92号、平成16年4月)

平成16年6月26日
鈴木重嶺 顕彰会
佐渡市教育委員会

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■鈴木重嶺関係資料→http://www.ksskbg.com/suzuki/index.html

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●鈴木重嶺は、幕臣として活躍し、最後の佐渡奉行でもあり、【ウィキペディア】には、詳細に記載されている。私が、追加した部分は、余りないので省略した。

●私は、国語学者・松本誠先生との関係で、鈴木重嶺の関係資料を昭和女子大学図書館へ寄贈して頂いた。この様な経緯から、鈴木重嶺も研究すべきかと考えた。しかし、仮名草子の事もあって、自分での研究は、時間的に無理だと判断した。貴重な資料が保存されている、昭和女子大学の関係者に研究して欲しいと、検討したが、実現しなかった。

●しかし、これだけの資料が保存されていれば、50年後、100年後には、きっと誰かが、この資料を、閲覧・調査して、本格的な〔翠園・鈴木重嶺の研究〕をまとめてくれると思う。

全龍寺の墓所に設置された案内板


古文書解読検定

古文書解読検定

  • 2019.10.06 Sunday
古文書解読検定

沿革

●2015年 7月16日 一般社団法人古文書解読検定協会 発足
2016年 2月16日 事務所立ち上げ 八王子市東町6-8-202
4月 2日 ホームページ開設
4月15日 『実力判定 古文書解読力』柏書房より発刊
3月20日 『読めれば楽しい!古文書入門』潮出版社より発刊
7月15日 第3回検定実施(3級・準2級・2級)

本検定のメリットと社会貢献

この「古文書解読検定」は、学習者にとっても大きなメリットがあります。また生涯学習時代の到来の中で、古文書検定が社会貢献の面で果たす役割も大きいと考えています。古文書解読検定は、社会貢献の視点を見据えながら、古文書学習者の増大を図り、活気有る生涯学習社会の構築に一役買っていければと思っています。

代表者・出題協力者

代表理事 小林正博  東洋哲学研究所主任研究員、博士(文学)
理 事 小林 央  明星大学非常勤講師、八王子郷土資料館学芸員、修士(文学)
理 事 梶川貴子  創価大学文学部助教、博士(人文学)

出題協力者
中尾 堯  立正大学名誉教授
馬場憲一  法政大学大学院教授
西海賢二  東京家政学院大学院教授
佐藤弘夫  東北大学大学院教授
若江賢三  愛媛大学名誉教授

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◆例題 2  『皇風大意』 鈴木重嶺 (創価大学図書館蔵)

【鈴木重嶺の奥書を影印で掲出】

◆解答

此書ハ文久のはしめの年下置野守竹内保徳
外国大使を命せられしをり贈りしなり
其草稿を失ひしを磯部最信其頃うつし
直たりとて見せたるをかり得て写しぬ
すヘてかりそめにものしつるなれは
誤謬多からむかしもれ見ん人こゝろ
し給ひてよ
明治二十二年三月   鈴木重嶺誌

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●鈴木重嶺の関係資料は、たくさん読んで来たけれど、結構読むのがむつかしい。昭和女子大学図書館には、鈴木重嶺・翠園の関係資料が沢山所蔵されているが、多くの研究者に活用して欲しい。

鈴木重嶺の研究

鈴木重嶺と私

2019.06.03 Monday

鈴木重嶺の研究

■翠園・鈴木重嶺の生涯■

鈴木重嶺は、明治31年(1898)11月26日、東京市牛込区神楽町2丁目17番地において、85歳の生涯を閉じた。
文化11年(1814)6月、幕臣、小幡多門有則の次男として江戸駿河台で生まれた。縁あり、鈴木家11代を嗣ぐ。
明治元年(1868)最後の佐渡奉行を辞して後は、和歌の道に精進し、一家をなした。激動の幕末維新を、幕吏として、また歌人として精力的に生き抜いた人物として、後世にその名を残すものと、私は確信している。

■鈴木重嶺略年譜■

○文化11年(1814) 6月、幕臣、小幡多門有則の次男として江戸駿河台に生まれる。幼名亀太郎、初め有定、大之進。鈴木家10代・重親嗣子無く、乞われて後嗣となる。
○天保2年(1831)18歳、家を嗣ぎ、鈴木家11代となる。同年、子普請高井左京組の配下となる。
○天保4年(1833)20歳、8月19日、広敷伊賀者となる。
○天保12年(1841)28歳、8月25日、広敷取締掛となる。同年10月晦日、徒目付となる。
○天保14年(1843)30歳、11月5日、諸士の武術の試験で高成績をあげ、白銀7枚を賜る。同月20日勘定吟味役となる。
○文久1年(1861)48歳、『皇風大意』を著す。
○文久3年(1863)50歳、『旅路廼日記』『旅路記恵の露』を著す。
○元治1年(1864)51歳、7月2日、勘定奉行となる。同月23日、槍奉行となる。
○慶応1年(1865)52歳、9月13日、佐渡奉行となる
○慶応2年(1866)53歳、『島曲廼古豆美』を著す。
○明治1年(1868)55歳、閏4月16日、御役御免となる。
○明治4年(1871)57歳、12月8日、相川県参事となる。
○明治8年(1875)62歳、7月19日、相川県権令兼六等判事となる。
○明治9年(1876)63歳、4月29日、願いによって免職となり、東京駿河台の家に帰る。
○明治12年(1879)66歳、4月10日、『雅言解』全4巻発行。
○明治14年(1881)68歳、『徳川礼典録』の編纂に参加する。
○明治24年(1891)78歳、6月9日、中島歌子の和歌の月次会に参加。樋口一葉の日記『よもぎふ日記』に出る。
11月15日発行の『早稲田文学』3号に、現在の和歌の名家として、掲げられる。
○明治31年(1898)85歳、東京市牛込神楽町2丁目17番地において没。
葬儀参列者は、1072名。

■鈴木重嶺の主要著作■

◎伊香保前橋之記(いかおまえばしのき) 1冊、地誌、写本=国会図書館(桜園叢書41)・学習院大学図書館。
◎詠史清渚集(えいしせいしょしゅう) 1冊、写本=昭和女子大学図書館(翠園文庫)・竹柏園文庫。
◎オトと子との差別或人問(おととねとのさべつあるひとのとい) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書68)。
◎於よづれ言(およずれごと) 1冊、写本=靜嘉堂文庫。
◎紀行(きこう) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)。
◎絹川花見の記(きぬがわはなみのき) 1冊、写本=国会図書館(二荒廼山裏の内)。
◎夢路の日記(ゆめじのにっき) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)・無窮会神習文庫(玉漉193)昭和女子大学(翠園文庫)。
◎二荒山歌合(ふたらさんうたあわせ) 1冊、写本=内閣文庫。
◎皇風大意(こうふうたいい) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書15)・無窮会神習文庫。
◎旅路記恵の露(たびじきめぐみのつゆ) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)・無窮会神習文庫。
◎島曲廼古豆美(しまめぐりのこずみ) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書1)。
◎旅路廼日記(たびじのにっき) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)・昭和女子大学図書館(翠園文庫)。
◎翠園兼当歌(すいえんけんとうか) 1冊、写本=昭和女子大学図書館(翠園文庫)。
◎雅言解(がげんかい) 4巻4冊、版本=昭和女子大学図書館(翠園文庫)・深沢秋男等。

★これらは、鈴木重嶺の著作のごく一部であり、今後の調査で、さらに多くの歌集や著書が出てくるものと予想される。
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■佐渡と私■

●私は、井関隆子の研究から佐渡の調査をして、そこから、佐渡奉行・鈴木重嶺の調査・研究に進んだ。さらに、思えば、昭和45年(1970)の、日本文学研究会の夏季旅行がその根底にあった。重友毅先生をはじめ、常任委員の先生方との2泊3日の旅行で、私は、佐渡と言う島に衝撃を受けた。

●佐渡真野町の国分寺に宿泊させて頂いた。国分寺の林泰先生の特別の御配慮によるものである。夕食後、林先生の父上、林光雅先生の御講義を拝聴した。大きな部屋で、先輩の常任委員の先生方と、夜遅くまで、雑談をして頂いた。外では、ホトトギスが泣いていた。

●大佐渡・小佐渡、と全体を見て回り、大量の資料を購入し、自宅へ郵送した。この体験が無ければ、後年、これほどまで、佐渡に関して調査し、研究し、何度も、講演させて頂くまでにはならなかった、その様に思う。
(2019年6月3日)

布引三十六歌碑 鈴木重嶺

布引三十六歌碑 鈴木重嶺

2019.06.02 Sunday

布引三十六歌碑 神戸市 鈴木重嶺
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最終更新日
2019年3月25日

明治のはじめ頃、花園社という市民団体が、布引の滝の周辺を布引遊園地として、平安時代から江戸時代にかけて詠まれた布引の滝の名歌の碑「布引三十六歌碑」を建てました。これらはその後散逸してしまいましたが、1934(昭和9)年に当時の神戸市観光課が布引渓谷の開放を進めた際、あわせて18基の復興を図りました。その後、1基は阪神淡路大震災で喪失したものの、17基は現在でも新神戸駅からみはらし展望台に至るハイキングコース沿いに点在しています。1992年(平成4年)から、神戸市により、新神戸駅からみはらし展望台までのハイキングコースや生田川再整備により整備された生田川公園に、未復興だった残りの歌碑も順次復興され、2007年(平成19年)に全ての歌碑が復興されました。
• 歌碑の解説(PDF形式:4,478KB)

• 歌の解説は、神戸大学名誉教授・野中春水氏にお願いしました。

歌一覧
• 1/布引の滝のしらいとなつくれは 絶えすそ人の山ちたつぬる(藤原定家)
• 2/あしのやの砂子の山のみなかみを のほりて見れは布ひきのたき(藤原基家)
• 3/布引の滝の白糸わくらはに 訪ひ来る人も幾代経ぬらむ(藤原行能)
• 4/津の国の生田の川の水上は 今こそ見つれ布引の滝(藤原基隆)
• 5/水の色たた白雪と見ゆるかな たれ晒しけむ布引のたき(源 顕房)
• 6/音にのみ聞きしはことの数ならて 名よりも高き布引の滝(藤原 良清)
• 7/さらしけむ甲斐もあるかな山姫の たつねて来つる布引の滝(藤原 師実)
• 8/山人の衣なるらし白妙の 月に晒せる布引のたき(藤原 良経)
• 9/山姫の嶺の梢にひきかけて 晒せる布や滝の白波(源 俊頼)
• 10/幾世とも知られぬものは白雲の 上より落つる布引の滝(藤原 家隆)
• 11/いかなれや雲間も見えぬ五月雨に さらし添らむ布引の滝(藤原 俊成)
• 12/岩はしるおとは氷にとさされて 松風おつる布引のたき(寂蓮 法師)
• 13/白雲とよそに見つれと足曳の 山もととろに落つる滝津瀬(源 経信)
• 14/水上の空に見ゆれは白雲の 立つにまかへる布引の滝(藤原 師通)
• 15/呉竹の夜の間に雨の洗ひほして 朝日に晒す布引の滝(西園寺 実氏)
• 16/うちはへて晒す日もなし布引の 滝の白糸さみたれの頃(藤原 為忠)
• 17/水上は霧たちこめて見えねとも 音そ空なる布引のたき(高階 為家)
• 18/水上はいつこなるらむ白雲の 中より落つる布引の滝(藤原 輔親)
• 19/岩間より落ち来る滝の白糸は むすはて見るも涼しかりけり(藤原 盛方)
• 20/松の音琴に調ふる山風は 滝の糸をやすけて弾くらむ(紀 貫之)
• 21/たち縫はぬ紅葉の衣そめ出てて 何山姫のぬの引の滝(順徳院)
• 22/ぬきみたる人こそあるらし白たまの まなくもちるかそての狭きに(在原 業平)
• 23/我世をは今日か明日かと待つ甲斐の 涙の滝といつれ高けむ(在原 行平)
• 23別/こきちらすたきのしら玉拾ひおきて 世のうきときのなみたにそかる(在原 行平)
• 24/雲井よりつらぬきかくる白玉を たれ布引のたきといひけむ(藤原 隆季)
• 25/久かたの天津乙女の夏衣 雲井にさらす布引のたき(藤原 有家)
• 26/ぬのひきのたき見てけふの日は暮れぬ 一夜やとかせみねのささ竹(澄覚法親王)
• 布引のたきつせかけて難波津や 梅か香おくる春の浦風(澄覚法親王)
• 27/たち縫はぬ衣着し人もなきものを なに山姫の衣晒すらむ(伊勢)
• 28/ぬしなくて晒せる布を棚はたに 我こころとやけふはかさまし(橘 長盛)
• 29/雲かすみたてぬきにして山姫の 織りて晒せる布引のたき(加藤枝直)
• 30/主なしと誰かいひけむおりたちて きて見る人の布引のたき(小沢蘆庵)
• 31/くりかえし見てこそ行かめ山姫の とる手ひまなき滝の白糸(鈴木重嶺)
• 32/布引の滝のたきつ瀬音にきく 山のいはほを今日見つるかも(賀茂真淵)
• 33/たち縫ぬ絹にしあれと旅人の まつきて見や布曳の滝(賀茂季鷹)
• 33別/分入し生田の小野の柄もここに くちしやはてむ布曳の滝(賀茂季鷹)
• 34/布引のたきのしらいとうちはへ てたれ山かせにかけてほすらむ(後鳥羽院)
• 蛍とふあしやの浦のあまのたく 一夜もはれぬ五月雨のそら(後鳥羽院)
• 35/世と共にこや山姫の晒すなる 白玉われぬ布引のたき(藤原公実)
• 36/たちかへり生田の森の幾度も 見るとも飽かし布引の滝(源 雅実)
• 番外1/千代かけて雄たき女瀧の結ほれし つきぬ流を布引の川(作者不詳)
• 番外2/みそ六つのひに響けり山姫の 織るや妙なる布引のたき(太田錦里)
• 句碑/涼しさや嶋へかたふく夕日かけ(布引坊)
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31 くりかえし見てこそ行かめ山姫の とる手ひまなき滝の白糸 鈴木重嶺

【解説板】 鈴木重嶺 しげね (文代二年(1814)~明治三十 一年(1898))、江戸末 明治期歌人。 江戸幕府末期の役人で、維新頃の官職にもついた。後、歌道に精進し明治 二十八年(1895)短歌結社「鶯蛙吟社」を結成し、歌誌「詞林」を発行した。 この「詞林」は後年「心の花」に吸収 合併された。この歌、「山の女神が手も休めずに白糸をくりかえし繰るようにくり返し眺め楽しんで行こう」と繰る、糸の縁語をからませた技巧歌である。これまた布引の滝は人工美でなく、造化の女神 の手になったとその美しさを讃えているのである。
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●鈴木重嶺は、諸方面で活躍していたことが知られる。

鈴木重嶺蔵書印

鈴木重嶺の蔵書印

2019.05.27 Monday

●鈴木重嶺の蔵書印は、幾つかみているが、国文研のHPで
「穂積重嶺蔵書」を見た。また、蔵書印は、このように記載するということも、初めて知った。寸法は入れないのだ。
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蔵書印ID 08252

蔵書印文 穂積重嶺蔵書

色 朱
陰陽 陽
形状 長方形

印影外郭 単郭
印文文字数 6
印文出現位置 1穂 2積 3重 4嶺 5蔵 6書
印文行数 2
印文改行表記 穂積重/嶺蔵書
書体 隸書体
人物ID 3485

蔵書印主 鈴木重嶺

蔵書印主よみ すずきしげね
印主職種/時代 歌人 , 武家 / 幕末明治
人物情報 文化11(1814)年~明治31年(1898)年。名は初め有定、大之進。幼名は亀太郎。号は翠園・緑堂・知足斎・兵庫頭等。中川飛騨守家臣小幡多門有則の次男であったが重親嗣子無く乞われて後嗣となる。徳川幕府に仕え最後の佐渡奉行となる。東京で鶯蛙吟社を組織して月並歌会を催し、短歌雑誌『詞林』を主宰す。佐佐木信綱とともに明治初期歌壇の名家とみなされていた。『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』に合併した。
△初名有定、称大之進、号翠園、文化七年甲戌六月生江戸、仕幕府、自御広敷累進佐渡奉行、受国学村山素行伊庭秀賢、明治三十一年戊戌十一月二十六日歿、葬大久保全竜寺(「続蔵書印譜」による)
典籍ID 200000058

書名 古今和歌集大全
書名よみ こきんわかしゅうたいぜん
刊記 写
所蔵先 国文研初雁, W
請求記号 12-138-1~14
典拠資料 国文学研究資料館館蔵和古書目録データベース
備考 各巻巻頭にあり。上に「消印」を捺す。

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鈴木重嶺と勝海舟

鈴木重嶺と勝海舟

2019.04.27 Saturday

相川県権県令鈴木重嶺と勝海舟
酒井友二
●『佐渡郷土文化』97(2001年10月)に、佐渡の研究者、酒井友二氏の、鈴木重嶺の〔資料紹介〕が掲載されているのを、知った。新資料と言うのは、佐渡の毎日新聞の記者、磯野保氏が、鈴木重嶺の御子孫、松本栄子氏から提供されたというもので、石倉翠葉の「佐渡の思ひ出 西郷南洲・・・勝海舟・・・鈴木重嶺」である。これは、大正5年(1916)に『旅』に掲載されたものだという。

●実は、私も、この石倉翠葉の「佐渡の思ひ出・・・」は、見ている。何年前か、忘れたけれど、石倉翠葉の御子息が、昭和女子大学に私を訪ねてこられた。その時に、拝見したと思う。しかし、酒井友二氏の〔資料紹介〕は、2001年10月ゆえ、私の方が後かも知れない。参考までに、全文を紹介したいと思う。

●それにしても、佐渡の、酒井友二氏にも、磯野保氏にも、佐渡の調査の時には、大変お世話になった。改めて、感謝申上げたい。
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佐渡の思ひ出  西郷南洲……勝海舟……鈴木重嶺

主筆  石倉翠葉

遠き昔を申さず、蕉翁の「銀河の序」暁台の「佐渡日記」近くは紅葉の「煙霞療養」われわれをして如何に印象を深からしむることぞ。佐渡は四十九里浪の上敢て俳諧上許りではない。一篇の恋愛史として、余程のページを満たすに足りる。其佐渡ケ島には私は非常に縁故がある。縁故とは何か? 勿論師紅葉対佐渡ケ島に就いても其一ではあるが、夫より一層古いことで、未だ世に顕れぬ事、否、佐渡人士も恐らくは其事蹟を御存じの方はあるまいと思ふ一種の美談を今日迄記憶に存じて、常に常に云ひ知れぬ感慨に耽つて居る。私が、佐渡ケ島と云ふ印象を与へられたのは、小学校の地理教科書からではない。全くこの美談から、懐しくゆかしく感じ始めたので、夫を茲にお咄したいと思ふ縁故呼はりも畢竟是あるが為めなのである。
六十七、乃至四五十年輩のお方は、明治維新の当時、佐渡相川県の知事として、治績大いにあがれりと讃せられた故従五位鈴木重嶺と云ふお方を御存じの筈である。否、相川県知事としての鈴木重嶺と云ふよりは、歌人としての翠園鈴木重嶺と云つた方がわかりが早い。顔丸やかに眉長く、何時も莞爾かとして八十余歳に至る迄頑健壮者も蹴落される程の勢で、てくてくと何処の歌会にも選者として出席される。前の大納言久我建通翁同正親町実徳翁、加賀の太守前田利嗣侯、殊には伯海舟翁とは極めて親密の間柄で、海舟翁が戯画を書き、重嶺翁が歌を書いて「すごろく」などそへこしらふ程の仲なのであるから、其間の消息を知るに難くはあるまい。呶いやうだが這麼実例がある。
私が翁の門下となつてから間もない事、風俗画報の編輯をして居たので、今のサツポロビール会社のある処に養浩園といふ有名な庭園があつた。其歴史を探る必要があつて、早速翁の門を敲いて意見を聞いた処が一向に御存じがない。「それでは海舟先生は御存じでせう。」と云ふと「何のお前、勝が那麼ことを知るものか。」と一言にして退けられる。「否慥に御存じといふことです。」「何の知るものか。」と遂には押問答の喜劇を演じて、さて海舟先生のお宅へ伺つて斯様斯様とお尋ねすると「ハヽハヽ鈴木奴、酷いことを云ひ居るワイ。」「御存じですか。」「ナーニ知らんよ。」と又呵々大笑されたが、勝がと云ひ鈴木奴と云ふ、交情の温さはこの一事でも察せられるであらう。これからが佐渡に関係の美談である。
かう申しては失礼であるが、維新の当時に於ける佐渡人士は、極めて偏屈で御し難い風があつたさうで、何人が知事として赴任しても治め兼ねる程で、蓋世の英雄西郷隆盛も、遉に頭を悩まされた。所謂人選に苦んで居られたのである。されば平常人に逢ふ毎に此事を口にせられて、遂に日頃心服されつゝあつた海舟翁に相談せられた。すると翁は即座に「それは適当な人物がある。未だ世間に名は知られぬ男であるが、鈴木と云ふものがある。渠なれば慥に適任であるから、直ぐ今から辞令を出さつしやい。」「左様か、それは有難い。」とばかり、素より海舟翁の推薦であるから、一も二もなく南洲翁も信頼せられて、速座に辞令が認められた。微賤の重嶺翁は一躍して佐渡守となつたのである。驚いたは重嶺翁である。「私はあの時、余りの不思議さに夢かと思つた位で、誰が私を推薦したのか何うしても見当がつかぬ、何時か逢つて礼を述べたいと思ふけれども、たゞ思ふばかりで誰に聞いても分らない。夫れからこの事が絶えず気懸りでならぬが、月日の立つのは早いもので、二十年も過てから、不斗とした処で勝の推薦と云ふことが分つた。私はその時つくづく思つた。詰らぬ小役人を世話してさへ、何のかのと、吹聴したがるのが世間一般の慣しなのを、お前も知つての通り、勝とは恁うして毎日往来してゐるのに、遂ぞ一言も口に出さぬではないか、私は感伏して早速礼に行くと、「ウム、那麼ことがあつたよ。彼の時は西郷も大分弱つて居てネ、」と只だ是つ切り、直ぐ話頭を転じて了うた」………。
諸君、私が学者めかして細論はせぬ。只だ単に海舟翁の断言された如く、果して在任数年間、大に治績をあげられたと云ふ事丈を申上げて置く。
西郷南洲…勝海舟…佐渡奉行の鈴木重嶺…何と面白い対照ではないか?。
………………………………
師鈴木重嶺翁逝きて後、少し感ずる処あり、全然和歌の修業をなげうちて俳諧に入る
師の逝きて蛙の寂をきく身かな   翠  葉
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『旅行倶楽部』 大正5年(1916)より
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鈴木重嶺の『皇風大意』

鈴木重嶺の『皇風大意』
2019.04.08 Monday

●〔故人 今人〕というブログに、鈴木重嶺の事を記していた。森銑三氏の説の紹介の様である。森銑三氏には、三古会で何度かお会いした。また、その会に関連する〔東京掃苔会〕の例会で、井関隆子に関して発表させてもらい、多くの御教示を賜ったこともある。会員、一人一人が、それぞれの道に詳しく、特異な会であった。
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森銑三 明治人物逸話 鈴木重嶺
2018-01-05 22:55:4

○鈴木重嶺1814-1898 幕府最後の佐渡奉行。明治6年相川県権令となり、実質的な県令を勤めました。重嶺は歌人としても名をはせました。今回は歌人としてのエピソードです。

文久の初めの頃でした西洋五か国にお使いを遣わされたことがあって、竹下下野守が行きましたが、その時随行する人を見ますと、漢学者と洋学者ばかりです。よって、下野守に面会して「今度お連れになるのは漢学者と洋学者ばかりで、国学者はいないようですが、私の考えでは、西洋に行って西洋のことは聞かれますまい。支那のことも聞かれますまい。聞けば日本のことを聞きましょう。
その時日本のことをご承知なかったら、お答えができますまい。それでは日本の恥をかきに行くようなものではございませんか。」と言いましたら、下野守も「いかにも、そうだ。」と言われました。
そこで、私は忙しい中から深夜までかかって、『皇風大意』という二十枚ほどのものをしたためて、下野守に渡しました。
お使いが来て、帰朝した時に「私に逢いたい」とのことなのでまいりましたら、「お手前の言うとおり、いろいろ我が国のことを質問されたが、お手前の書いてくれたものが役に立って、恥も掻かなかった。」と申して、羅紗を一巻き、礼にくれました。

「鈴木重嶺翁を訪う」 同方会報告 第四号 所収
○当時の武士の教養は第一に漢学孔子孟子の学でした。幕府はこれに重点を置き、昌平坂学問所を設け、林家が監督しました。上級の武士は漢籍の基本を身につけ、漢詩のやりとりをすることができました。
○西洋の学は蘭学と英学です。これらの武士は当然西洋へ行って見聞を開こうとして乗り組みました。
○鈴木が問題にしたのは、国学者が一人もいないと言うことです。当時の武士はたしなみとして、和歌ぐらいはだれでも読みましたが、日本の国の成り立ちである、古事記や日本書紀、六国史などまで詳しい武士は希でした。
○鈴木は国学にも造詣が深かったのでしょう。資料を渡して役に立てることができました。もともと国学は江戸の中頃に我が国古来の考え方や特色は何だろうといういわゆる漢学にはない日本人とは何かという問いから生まれた学問です。
○本居宣長が有名ですが、この時代では平田篤胤系の人々がいました。国学を学ぶ人達は神官や庄屋層などの草莽の臣で、身分の高い武士ではごく限られた人たちでした。
○鈴木が進言しなければ、日本の外交使節団は、自国のことも知らないのかと、侮られたかも知れません。明治になって、大学南校を設立した時に、外国の学問の専攻ばかりを計画したため、御雇外国人から、「およそ、自国の大学を設置するのに国の成り立ちを学ぶ機関がないのは不都合である。」と指摘されて、古典科を設置しました。
○現代でも日本古来の歴史や文学・民俗学を理解していることは鈴木の時代と共通した資質と思います。外国人が「大和心は?」と問われたら「朝日に匂う 山桜花」と自分の言葉で下の句の部分を説明できるといいですね。
○このごろ政府が、理工学系の大学に偏重して役に立つ技術を尊重して、金にならなければ補助金を減らすなどという方向にあるのは残念でなりません。
#鈴木重嶺#国学#本居宣長
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佐渡現存の鈴木重嶺関係資料

佐渡現存の鈴木重嶺関係資料

●平成13年6月、佐渡の毎日新聞の磯野氏から電話をもらい、佐渡金山開山400年を記念したイベントに来ないか、と誘われた。佐渡の資料に関しては、兼ねてから気になっていたので、これを機に調査する事にした。

 鈴木重嶺(翠園)関係資料の紹介は,これまで3回報告してきた。重嶺の御子孫の松本栄子氏から関係資料を寄贈された昭和女子大学図書館では,「翠園文庫」を新設して関係資料の収集に努めてきた。今回,佐渡に現存する,重嶺関係資料の調査を実施することができたので,その結果を報告したい。

1,鈴木重嶺翁小伝

金井町図書館・岩木文庫(新潟県佐渡郡金井町千種240)平成13年9月11日調査。
岩木文庫・第六十『本間家滅亡顛末・河村以下諸奉行伝記』半紙本・全二九六ページ。本文用紙は「佐渡国誌編纂用紙」(朱色)を使用。この内「鈴木重嶺翁小伝」は,九丁(一八ページ),毎半葉一三行。岩木擴の書写。翻字にあたって句読点を補った。
「鈴木重嶺翁小伝(同方会報)
私は、モー八十四歳になりますから、皆様は達者だと仰しやいますが、大分耄碌致しまして、昨日のことを今日忘れるやうになりました。別ニ只今コーといつて、思出すこともこさいませんから、御尋の通り、私の勤め方のことを申上ませう。私ハ、元軽い身分てこざいましたか、段々と御取立ニ預りまして、諸太夫にまでなることが出来ましたのは、徳川公の御厚恩と存じて有難いことニ思て居ります。私の家ハ小禄てこさいますが、三河以来御扶持を戴た古い家柄で、兎も角も三河武士に相違ありません。全体私の家ハあき屋敷伊賀と申しまして、同じ伊賀の中でも、少々変つて居ますので、明屋敷伊賀と申しますと些少なから、六ケ村の知行を戴て之を同僚で配分するのでございます。凡そ人数は百人余もありましたからうか、ハツキリとハ覚て居りませんが、此内から出世致して、諸太夫以上ニなりましたのハ唯三人ほかこざりません。一人は勝安房守で、一人は都筑駿河守、一人は私でこさいます。私ハ小普請から二十才位でしたらうか、御広敷伊賀へ出まして、八、九年も勤めましたらう。其内に水野越前守殿の御改革で、丁度其頃留守居を勤めて、八丁堀ニ邸のこさいました松平内匠頭が、支配向の免許以上の武術見分をいたすといふので、私も剣術を受けて出ました。御広敷番の頭で窪田源太夫と云ふ人が取扱で有ましたか、此人ハ私の柔術の師匠の悴で、岡田真澄の門弟ニて歌を詠みますゆへ、武術の見分の済みました跡で、鼻紙へ一首歌を認めて見せました。
  つるぎだち鞘にをさめし世になれて みがかぬわざのはづかしきかな
窪田氏か見まして、夫れを内匠頭へ出しましたので、私ハ其頃大之進と申しましたか、其歌を短冊に認めて差出すやうニとの命か有りました故、サウ云ふつもりで詠むだのでハこさいまんでしたが、拠ところなく宅へ戻りましたから、短冊へ認め、翌朝出勤がけニ御留守部屋へ持参致しました。スルト武術見分帳を差出す時、私のヘボ歌を添へ、越前守殿へ進達になりました。内匠頭と云ふ人ハ親切な人てごさいまして、其頃、御徒士目付が五六人あきが有りましたので、ドウゾ大之進を御徒士目付にして戴きたいと云はれたそうで、越前殿も早速御承引下すつて、私は御徒士目付ニなりました。全体私ハ十八の年から、加藤千蔭の門人の村山素行と申す者ニ歌を学びましたが、此時より一層心を入れて生涯歌はやめまいと存じました。歌の御蔭で出世の緒を得た故ニサウ思つたやうニ聞へますが、左様ばかりでハこざいません。我邦ニ於きまして、神代より伝つて居りますものハ歌ばかりて、其前は文字を始め、皆他国から参つたものてございますから、何うか此歌の道はかりハ廃らぬやうニしたい。歌を致しますのハ、取りもなをさす、此国体を知るの道でこさいまして、自国の事を知らないでハ、此国に居る詮のないことで、日本ニ居て日本の学問を知らないで、他国の学問をすると云ふのハ間違つた話てごさいます。自国の学問をした上で他国の学問をするのが順でこさいませう。西洋でも自国の学問を先にして、夫れから他国の学問をすると云ふことでごさいます。それで、西洋人の内にハ、モーは疾ニ日本の学問をして、源氏を読だり、万葉を暗誦したりする人があるそうで、却つて日本人ニ此考かなくてハ誠ニ心細い訳てこさいます。せめて天仁遠岐語格位は知つてもらいたいので、往々仮名文を書いても片言て読めぬのが有ります。そこを思ひますと、古の学者ハ感心なもので、漢学者なども傍ら国学をやつたものと見えます。皆様か御承知の四書五経等で、後藤点道春点書をみますと語格ニ合つて居る。申せば「又君子ならずや」と結びの言葉をやと読み、かではない。或は「忠ならさるか」をならさるやと送らせない。是れハかと書かねばならぬ漢書の点が此の様ニ間違はんでこさいます。独り後藤点道春点ニ限りませず、夫の猿楽の謡本なども語格か凡そ合つて居ります。又、固い本でなく、極く卑しゐ浄瑠璃本で近松門左エ門の作なぞは矢張りチヤント法ニ協つて居ります。法ニ協つて居なければ、文ニも歌ニもなりません。此国ニ居て此国の文も歌も出来ぬのハ、笑止なものと存じます。何学をなさる方でも、日本固有の国学だけハ、御心掛になる様ニ致したい。前申しました窪田氏でも、松平内匠頭でも、水野越前殿でも武道はもとより、漢書も読んで居られますが、亦歌道を心得られて居りまして、是れハ左様なけれバならないことでこさいます。大分自分の田へ水を引く様てこさいますか、私の歌を修めましたのハ、斯様の心得からのことでこさいまして、是れがまぐれ当りニ出世の梯となりましたのでこさいます。夫れから徒目附から評定所留役ニなりまして勤めて居りましたが、御人べらしで、又小普請へ這入りまして、翌年御勘定所御勝手方ニなり、夫れから組頭ニなり、御勘定吟味役ニなり、御勘定奉行並又御旗奉行ニなり、其の後御役御免勤仕並寄合、夫れより佐渡奉行被仰付、其の後従五位下兵庫頭となりました。……文久の初めの頃でした。西洋五ケ国へ御使を遣はされたことかありまして、竹内下野守か行きました。其の時ニ随ひ行く人を見ますと、漢学者と洋学者ばかりである。夫れから竹内下野守へ面会いたしまして、今度御連れなさるものハ漢学者と洋学者はかりで国学者ハないやうニ承はりますか、私の考でハ西洋へ行てハ西洋の事ハ聞きますまい。支那の事も聞きますまい。聞けば、日本の事を聞くでせう処へ出て行て日本の事を聞れても、日本の事を御承知なかつたら、御答か出来ますまい。然らバ日本の恥を掻きニ行く様なものでハこさいませんか。御使者ニ御出なさるあなたが、御滞留中斯様な事かないとも申されますまい、といひましたら下野守も如何ニも左様の事であると、云はれました。夫れから、私ハ繁多の処を深夜まで起きてゐて、皇風大意と名付て二十余枚ばかりのものを認めて、竹内ニ遣はしました。御使果てゝ、帰朝致しますと先づ私ニ逢ひたいと申して来ましたから、参りますと、誠ニドウモ御手前の云つた通り、色々我国の事を質問されたか、御手前の書いてくれたものが役ニ立て恥もかゝなかつたと申して、羅紗を一巻礼ニ貰つたことかこさいました。それから佐渡奉行ニて維新前まで、様々難渋いたしたことなど、御咄申したうこさいますか、余りなかくなりますから、追て御話し申しませう。私ハ御徒目付から評定所留役ニなり、暫くして御人減じで又小普請入りを致しましたか、翌年、御勘定御勝手方ニ出まして、それから組頭から御勘定吟味役ニなりましたか、京都近海へ御台場か出来ることニなりまして、私が御勘定奉行並ニなりました。然るニ御台場建築か見合せニ成りました。此少々前、吟味役の節、大坂近海台場新築御用ニて出張中、大和五条ニ一揆か起り、浪士共か御代官鈴木源内を打取り、近郷を騒かしましたので、其罹災の民を救恤するため、会津中将からの命で俄かニ私ニ此救助を取計ふ様ニ下命で御坐いました。江戸へ向つて居る暇かないから、追て老中へ申立るニ依て、早く行てくれと仰しやるので、丁度文久三年の末でこさいましたか、それから大和へ参り吉野郡の山中を雪を踏み分けて一々見分しまして、夫々御救助を取計ひました。其日礼かこさいましたつけ。
(先生自ら起ちて書筐を捜ぐり其日礼といふを示さる。受けて見るニ和文ニて数々の歌を添へられぬ。源内の墓ニ詣でられたる時の歌二首
  なき数にいられてありせば梓弓 はる/\来ぬる甲斐もありしを
  身ハ苔のしたにありとも玉櫛笥 ふたこゝろなき名こそ朽ちせね
御用か済みましてから御旗奉行ニ転しました。泰平のつゞきました世の中故、今迄は前々御旗の御用と申して軍旗を守護して戦場へ出ると云ふこともこさいませなんたので、至つて閑散な役柄で、それで二千石戴いて勿体ないやうニ存じて居りました。組屋敷ハ市ケ谷柳町にこさいまして、俗ニおはたと申します。私ハ当時駿河台ニ居りました処か、段々世の中か騒々敷なりましたので、大小鑑察から御鑓奉行御旗奉行ハ三千石以上の者を御使ニなつたなら、何ぞの時の御用ニ立ませうと申出しましたので、私ハ勤仕並寄合ニなりまして、両三年過て佐渡奉行を命ぜられ、四年目ニ瓦解となりましたので、組頭を一人残して私ハ自分入用で引上げて駿河台の邸へ戻りましたが、当地ハ彰義隊騒きで……甥が彰義隊ニ這入て居りましたか、戦争の時鉄砲疵を受けて私の二階ニ匿れて居たことがありました。只今ハ名古屋ニ居ります。陸軍大尉を勤めて金田貞尋と申します。
全体、佐渡奉行ハ居場品でもつて何の守で行く人ハ何の守で参りますが、権兵ヱ八兵ヱでハ左様ニ参りませぬ。遠国奉行の中でも、京都だの大坂だのゝ町奉行や禁裏などの奉行ハ、奉行ニなれバ直々守名を戴いて諸大夫以上ニなれますか、佐渡ハ左様ニ参りません。然るニ私ハ出格の例ニ由り、諸太夫を被仰付兵庫頭と付けました。佐渡から戻りまして隠居しましたか、維新後悴が田安家へ貰はれまして、其縁故で又隠居の私を政事向其他の協議ニ御用部屋へ引出されました。処か甲州の田安領で一揆か起りまして、朝廷領になりたいと云ふ様な民意なので、御維新で上地ニなると云ふことを知らないのでこさいますか、政府から田安の重役ニ出役して処置する様ニ達せられましたので、私ハ家老ニなつて此鎮撫旁参りました。して赤松大参事土肥権知事などゝ引合まして、此方ニ損の行かないやうニ取計ひましたが、此談判中ニ鼻紙へ一寸歌を認めて見せたのを、此頃見出しました。
  数ならぬ身おばおします山梨の なりもならずも君かまに/\
それから明治四年ニ新政府から不意ニ召されて佐渡の権知事ニなり、九年迄勤めて病気免職を願ひまして、此時従五位ニ叙せられました。佐渡ニハ都合十年居りましたが、人気も宜しく、誠ニ不自由のない土地で時候も意外ニ暖かで、北陸の雪国の様でハありません。東京よりも暖いほとです。
私か二度目の御上洛の時でした(元治元年)大坂へ御用で参つて居りましたら、上洛の御供を命せられまして、直ニ上京致しましたか、二条の御城奥ニて布衣以上の者へ御酒を下され、御小姓御小納戸の御酌で戴くことでこさいましたが……大之進は酒を好むかと仰せかこさいましたら、御用御取次の土岐下野守が二三献ハ戴けますと御答を申し上ました。此下野守と云ふ人ハ、歌道の友ニて私の御酒を戴けないのを知つて居るのでこさいますか、斯様ニ申上て御前でございますのニ、殊ニ御手づから御酌をなされましたので恐縮して御盃をいたゝき、其儘下がらうと存じましたら、何ぞ御話を申上げる様ニとのことで、別ニ申上ることもこさいませんでしたから、一首うかみましたと申上げました。
  忘れめや君か賜はるさかつきに あふるはかりのけふの恵を
土岐ニ短冊を下げいと仰しやつたので此歌を認めて差上げよとの命でございましたが、下戸が酔ひましたので手が震へて書けないで困りました。(終)

2,越路迺日記

佐渡高等学校・舟崎文庫(新潟県佐渡郡佐和田町石田567)平成13年9月12日調査。
舟崎文庫・601。「佐渡群書類従/第 冊/地誌部/共一冊/萩野由之集」のラベル。半紙本,版本,袋綴,一冊。全三四丁。左肩に四周双辺原題簽「越路迺日記」。題簽の右に朱筆にて「明治十七年鈴木重嶺著」とあり。丁付は版心に「一~三十四」とある。刊記無し。一丁に鈴木弘恭の序,二丁に鈴木重嶺の自序がある。序等の翻字にあたって適宜句読点を補った。
「越路日記叙
うつしゑの上手は、山川のけしきをたゝありのまゝにかきなすなれと、みもてゆけは、いとをかし。わろものはあらぬいはれをまうけたかる木をそへ、高とのにそり橋に、馬に舟にてさくの物をかきつらねて、いと/\うるさし。いにしへ人の旅の日記は上手のかけるうつしゑのさまして、たゝその日にし有しをも越うちみるやうに、かいつけたるを近きよの人のものせるは、わろものゝ出たる絵のさまおほへて、見るにうるさきか多かり。さるはそのくにの人からの、よしあしより其心のなつきたるゆゑよし、むかし有しいくさ物語やうのことまても、くと/\あなくり出てかいつくる也けり。翠園翁か越路の日記は、いにしへ人の書きさまにて、日ことにみしこと聞しことのみを、そのまゝにかいつけられたれは、うち見るに、いとをかし。こまやかにみもてゆかむには、いかにをかしからましを、ましておのれは十年余りも、かの国にすめりしかは、ことになつかしくて、おもほへすくりかへさるゝに、さらにまたその国に隔り、そのところにあそへる心ちせられて、そのをかしさたとへなけれは、わろものゝ筆のうるさゝをもうちわすれてかくなむ
明治十七年九月とを日七日            鈴木弘恭 」
「おほやけわたくしのけちめなく、都を離れて旅たちし時の日記は、わかき頃よりのかこゝらあれとも、人に見すへくもあらねは、はこの底にいれおくのみ。されと玉さか出し見るにからるくるしきこともありき。かくおもしろきことにもあひにけるかなと、昔をしのひてうち歎きうちゑまるゝこそと、あるは其をりのさまをしるしおけはなりけり。おのれ世をしそきてより、ことし九とせ、よはひは七十にあまれと、幸に病といふことをしらす。この八月は哥むしろのつとひもなけれは、越のあたりへ行て見はやと、思ひおこして遊ひありくまにまに日に/\ありしことゝもを、しるしおきたるか、かく旅日記やうのものにそなりたる。老ほれたる身の、ふたゝひ遠き旅ちにいてたゝむことの頼みかたけれは、すり巻にものして、こゝの友たち、又こたひ尋ゆきて、まよはし人たちにもおくりてんとて、かくすはものしけるになむ
  明治十七年九月                      鈴木重嶺しるす 」

3,島曲の古豆美

佐渡高等学校・舟崎文庫。平成13年9月12日調査。
舟崎文庫・48。佐渡叢書四五。「佐渡群書類従/第四十五冊/叢書部/共五十冊/萩野由之集」のラベル。半紙本,写本,袋綴,一冊。濃藍空押模様原表紙。左肩に子持枠原題簽,「佐渡叢書 四十五」と墨書。一丁表に「野山のつと 泉本主水正/黄花園和歌稿/矢柄の道之記/島曲の古豆美 星野千之本/佐渡二十一番歌合 同批判本/島根之真筆長谷川安邦編集自筆本」とある。『島曲の古豆美』は共紙の表紙に「嶌曲の古豆美」とあり,墨付十九丁。一丁~二丁に鈴木重嶺の序がある。
「二柱のおほみ神のうませたまへりしおほやしま国の中に、佐渡の国はしも、はたつものたなつもの、海のさち山のさちはさらなり、こかね白かねさへみちたらへる国にして、いさなとる海はた広らかに河のさきくれのみなと、足曵のやま/\高くそひえ、こゝの峯かしこの岡と、とり/\をかしき名ところもさはなるものから、うひ日さす都にとほく、ひとりわた中にはなれたるおきつ嶌くになれはにや。昔の哥人もとめこさりけん。世々の撰集もこゝの名所をよめるなん、をさ/\見へさりける。たゝ承久のみかとのおほみ歌、さては都より流されこし人はそのをりに、ふれよみ出たるか残れるのみなりけらし。近き世になりて、此国の任におもむきたる人々のは、おのれ重嶺□とひとしく哥のやうにもあらさめれと、かの名ところを何くれと、よみ出たるはた少なからねは、なほその二のまひして、つれ/\なるをりをりとによみ出たるかいかて□はかりにもなりにけるを、哥はとまれ遠つ嶌くににも、かゝるみやひたる名所とものあなるを、古さと人にもしらせまほしうてなむ。
      慶応といふとしの二とせみな月
                          翠園あるししるす」
末尾に五丁分「佐渡国人 井上幹」の跋がある。井上幹は,蔵田茂樹に歌を学んだ明治維新期に活躍した歌人。酒井友二氏の調査・研究に詳しい。(注2)さらに巻末に朱筆にて荻野由之の次の識語がある。
「右島曲の古豆美一巻ハ、星野千之ノ旧蔵ナリシヲ、世ニ散ボヒタル也。予コレヲ文行堂ニ購得ツ。初ノ十五首バカリ、題・下ニ細書セル歌ハ千之ノヨメルナリ。千之ハ著者翠園翁ト交深カリシカハ、千之モコノ題ニ一首ツヽ和セントテ、詠ミ畢ヘサリシサマナリ。後ニ写サン人、コノケヂメヲ心得テ混ゼシムヘカラス。    /荻野由之 」

4,松迺古枝・序

山本修巳氏蔵。平成13年9月11日調査。
半紙本,洋活字,袋綴,一冊。左肩に子持枠題簽,「松迺古枝」。本書は原本のコピーを酒井友二氏より閲覧させて頂いた。現在,山本修巳氏の原本は未整理のため閲覧出来ない。一丁に鈴木重嶺の序がある。
「うつゆふの佐渡の国ハしもおほきなる国にハあらねと玉くしけ、二はしらのおほみ神のうませたまひし国にて、汐なわのこりてなれるたくひにハあらす。かれ都に遠けれとも、みやひこのむ人少からすなむ有ける。そか中にも養松軒のおきなハ、はやくよりことのはの道にいりたち、ことし七十まり七とせのよハひなれとも、若き人々ををしへみちひかれ、いとすくよかにて、一日も歌よまぬ日なむなかりけらし。さるをこゝらのとし月よめるか中に疵なからむをは、林のおち栗ひろひ出て、一巻となしおきてんとて、かくハものせられしとか。そハめつ子うま子たちのせちにこハるゝによりてなり、とみつからのはし書にもいはれたれと、さなくとも翁のいさをゝ世に残さまほしきハ、おのれらも願ハしくこそ。明治といふとしの十あまり六とせ八月はかり翠園のあるし  穂積重嶺しるす」
二丁には,養松軒・中村春彦の自序がある。中村春彦は,鈴木重嶺と深い関係にあり,重嶺が相川を拠点として活躍していたのに対し,春彦は両津を中心に門弟百人を抱えて活躍していた。これも,酒井友二氏の研究を参照願いたい。(注3)

5,佐渡奉行鈴木大之進殿御巡村先触写

金井町図書館・岩木文庫。平成13年9月11日調査。
岩木文庫・第七十一『佐渡奉行鈴木大之進殿御巡村先触写』,半紙本・墨付一八丁。岩木擴の墨書。共紙の表紙に「慶応元年丑年/佐渡奉行鈴木大之進殿御巡村先触写」とある。
以下,内容の一部を順序に従って掲出する。
「一 国中為巡村来る十九日頃令出立候道筋先挌之通相心得地境江村役人之内一両人罷出
 見分候所不洩様可致案内事
一 村々盛衰之様子者勿論其外之稼方等有躰申聞孝行もの忠義之もの貞節之もの又者奇特
 なる取計いたし候もの有之候はヽ其始末等可申立事
一 古城古戦場古墳之類洩ざる様可申聞事附農夫樵夫等筋目有之候ものハ有躰可申聞候尤
 系譜之類又者感状其外持伝之品可令一覧事
一 山海等ニ而取揚候諸品又者古来より持伝之品心得ニ相成べき物者一見ニ差出し可申事一 休泊之儀寺院又者百姓家にても手狭見苦鋪分者不苦候間宿数可成丈け一二軒ニ極め可
 申若村方勝手ニ而軒数多方宜敷候ハヽ何軒ニ而も割付可申付候尤畳表替障子張替其外取
 繕ひケ間鋪儀决而致間鋪事
一 巡村ニ付道筋取繕等ハ堅無用ニ致すべく事
一 休泊ニ而御定之木銭米代并茶代等相渡候間所有合之品を以一汁一菜之外何ニ而も馳走
 ケ間鋪事無用たるべく事
一 此度出役之役人休泊等も右ニ准し可申事
一 巡村中末々之者まても無拠調物申付候ハヽ少々之品たり共代物急度請取之買上ケ書付
 可差出事
一 此度出役之役人并家来又者迄以御威光不法之儀并非分かさつケ間鋪儀有之候ハヽ村役
 人たりとも封訴ニ致し可差出事
一 人馬之儀去る明和元申年被仰出候通無賃ニ而差出先触其外余計ニ差出申間敷若余計ニ
 人馬入用之節者役人より断次第差出可申候事
一 此度先触之通御船相廻候間供船之儀者其所有合之小船差出し不差支様可取計事右之趣相触れ可申事
 丑   四月
右者今般御巡村ニ付書面の通被仰出候間村役人承知仕末々小百姓迄急度可触知尤是迄御巡村之時ニ被仰出候事ニ候とも村方ニ寄御賄方等心を用ひ或者不用之人馬差出候哉にも被及御聞近年時々不作ニ而村方難儀之時節可成丈費用相省き候様可致其度尚亦御沙汰有之既ニ御同勢并人足等も挌別被減候廉も或之候条得其意組合村々一同申合当月十九日頃御出立別紙御日割之通御巡村有之候間御宿其外用意可致置候尤小早御船相廻り候間先挌之通り別船可差出候御休泊附人数并継人馬別紙之通相心得此触書江村々受印いたし順達之上留りより可相返候以上
  丑   四月三日            堀口弥右衛門
 追而先挌之通御立寄場江御出之積り候間寺社江兼而其段申通し置候用可致候以上 」この後に,十五日間の宿泊の町名,泊割書付,御休泊組合村々,船割書付,鑓人馬書付,御精進日書付,覚,等が記されている。

6,水辺秋風 歌集

磯野保氏所蔵。『水辺秋風 歌集』は二十一名の歌人が「水辺秋風」の歌題で各一首ずつ詠じ,思い思いの料紙に書いたもの。かつて相川の旧家から求めた由。順序は決まっていなかったとのこと。平成13年9月10日調査。相川の磯野保氏宅(相川町羽田73―2)にて。
重嶺,井上幹,田沢うひ子,楽山,和田信敏,今川忠昌,元道,元昌,久留一叟,い串,野村総子,真嶋景耀,杉山昌隆,豊嶋有常,加藤重任,松平閑山,金井源部衛,磯部最信,守緒,高橋国夫,高橋鐺次郎。これらの歌人に関しての調査はこれからであるが,鈴木重嶺の歌を掲げる。
「水辺秋風/重嶺/山の井の秋またあさきゆふくれに水おとすみてかせわたるなり」

7,鈴木重嶺短冊

磯野保氏所蔵。平成13年9月10日調査。
「あふち/なつかしき香にそ匂へれ吾妹子にあふちはなさくたそかれのやと 重嶺」

8,鈴木重嶺短冊

磯野保氏所蔵。平成13年9月10日調査。
「月前螢/中々にことのかけにはあらはれてつきにかくるゝ夜はのほたるか 重嶺」

9,鈴木重嶺色紙

松栄和津氏所蔵。相川町三丁目浜の松栄氏宅にて,平成13年9月10日調査。
「亀/おのかよにかめなわたりそよろつ代とかきらぬ君の御代も有けり/重嶺」
これは松栄家の屏風に貼られている。松栄家はもと佐藤氏であったが慶応年中に鈴木重嶺より「松栄軒」の三字を賜り,「松栄」(まつばえ)と姓を改めたという。その額が現存する。「松栄軒/佐藤氏堂名松鶴/慶応中鎮台鈴木公/改賜此三字/辛卯八月三洲居士書(印)」辛卯は明治二十四年。三洲は書家の長三洲か。長三洲は明治二十八年に没している。

10,鈴木重嶺軸

山本修巳氏所蔵。(新潟県佐渡郡真野町新町354)平成13年9月13日調査。
縦一三〇〇ミリ×横六九〇ミリ。「山本雪亭翁古稀の賀に/寄琴祝のこゝろをよめる/従五位穂積重嶺/千代まても君いますらむ松かえに/かよふを琴のこゑにひかれて」『佐渡山本半右衛門家年代記』(注4)の明治十年四月の条に次の如くある。
「一、同月(四月)十五日、祖父雪亭古稀之賀宴を催し、町内親類知人を相招候。此時自寿之詩及び俳句あり。」重嶺は明治九年に相川県権令兼六等判事を辞して,東京駿河台の家へ帰っているので,この軸は東京で書いたものであろうか。

11,鈴木重嶺短冊

山本修巳氏所蔵。平成13年9月13日調査。
「山家花/大かたのちりての後を時としてはな見に来ませみやこうた人 重嶺」

12,鈴木重嶺歌碑

熊野神社境内。(新潟県佐渡郡新穂村武井)平成13年9月13日調査。
正面に「玉置清麿翁か寿偈/つゆの玉清くおきたる菊見ても君が千代こそ世にかをるらめ/従五位重嶺」向って左に「明治三十年六月 門人建之/中川政成彫刻」とある。玉置清麿は鈴木重嶺の門人。

13,明治現存/三十六歌撰

昭和女子大学図書館・近代文庫所蔵。(文庫/2/679)平成13年10月17日調査。
半紙本,袋綴,一冊。全十八丁。左肩に四周双辺原題簽「山田謙益編集/三十六歌撰 完」。前見返に、中央に「明治現存/三十六歌撰 完」,右に「山田謙益編集/竹本石亭画」,左に「雪吹屋蔵版」とある。奥付は後見返に「明治十年六月廿八日出板/東京第三大区五小区/牛込二十騎町三十四番地/編集兼出版人/東京府士族/山田謙益/蔵版主/東京本郷区/本郷春木町二丁目五十九番地/東京府士族/豊島有常」とある。
十一丁表に「右 鈴木重嶺/千鳥/もしほくむあまのまてかたまてしはしおりたちかねて千鳥なく也」,十一丁裏に「左 屋代柳漁/檀浦懐古/あら浪をかつきなれたるあまならはいたける玉はしつめさらまし」
本書については、昭和女子大学図書館の飯沼三和子氏の示教によって知ることを得た。

  (注1)第一回は『学苑』第六九四号(平成10年1月),第二回は第七〇五号(平成11年1月),第三回は第七一六号(平成12年1月)。
  (注2)酒井友二氏『佐渡のうたびとたち』平成6年9月10日,新潟日報事業社出版部発行。
  (注3)(注2)に同じ。
  (注4)山本修之助編『佐渡叢書・第七巻』昭和50年10月10日,佐渡叢書刊行会発行

追  記

一,舟崎文庫(佐渡高等学校所蔵)

 舟崎文庫は萩野由之の旧蔵書である。歴史・伝記・民俗・地誌・文学・図録・古文書・絵図・巻子本等に分類された,佐渡に関する貴重なコレクションで,その総数は,一三〇〇点余。萩野由之は明治・大正時代の著名な歴史・国文学者である。佐渡相川の出身で,東京帝国大学教授として活躍した。大正十三年,六十五歳で没したが,幸い蔵書は関東大震災,第二次世界大戦の震災・戦災にもあわず,子孫によって保管されて伝えられた。しかし、戦後の混乱期に経済的事情によって手離さざるを得ないことになった。この折,東京大学法学部は江戸時代法制史の史料として,購入を検討した。また,萩野博士の郷里佐渡でも,この貴重な資料の購入保管を考え,真野町出身の代議士・舟崎由之氏に事情を説明し,協力を求めた。舟崎氏は快諾され,当時の額で十八万円を投じて,萩野由之の旧蔵書は,郷里・佐渡高等学校の所蔵となったのである。舟崎由之氏にちなんで「舟崎文庫」と命名され,現在は,佐渡高等学校同窓会の管理のもとに大切に保存されている。

二,岩木文庫(金井町図書館所蔵)

 岩木文庫・全四〇一点は,岩木擴の旧蔵書である。岩木擴は安政元年(1854),佐渡相川で生まれた。慶応二年学古塾に入り,円山溟北に学ぶ。明治二年修教館に入学。同九年新潟師範学校詰に採用される。後,佐渡へ帰り,小木小学校訓導,新穂の中学校(佐渡高等小学校)の助教諭,相川小学校長等を歴任。『佐渡名勝』『相川町誌』『畑野村誌』等を編纂。明治四十年,『佐渡国誌』の編纂主任として活躍。昭和八年,八十一歳で没した。岩木文庫は,岩木擴の佐渡研究に使用されたものであり,貴重なコレクションである。

付  記

 長年の懸案であった,佐渡資料の実地調査が漸く実現した。今回の調査は,昨年六月,佐渡の毎日新聞の磯野保氏から,佐渡金山四百年祭に来ないか,と言う電話を頂いた事から始まった。今回の調査は,磯野氏の御配慮があってはじめて実現したことであり,まずこの事に感謝する。
 資料所蔵機関では,新潟県立佐渡高等学校・舟崎文庫,金井町図書館・岩木文庫,相川町史編纂室等のお世話になり,資料の閲覧にあたっては,渡辺剛忠氏,山本修巳氏,余湖明彦氏,三浦啓作氏,松栄和津氏等の御配慮を賜った。佐渡の研究者,磯部欣三(本間寅雄)氏,酒井友二氏,山本修巳氏には多くの御教示を賜った。更に,相川町教育委員会社会教育課長・齋藤正氏,佐渡観光協会事務局長・坂下善英氏をはじめ,郷土史研究家の多くの方々のお教えも少なくなかった。ここに記して心からの感謝を申し上げます。
 今回の佐渡の調査では,鈴木重嶺以外に,蔵田茂樹・蔵田茂時・井関隆子関係の資料も閲覧・調査したが,ここでは,鈴木重嶺に限定した。
 鈴木重嶺に関する,佐渡資料の調査は,今回が初めてであるが,諸氏の御配慮で多くの成果をあげる事が出来た。しかし,この調査は,むしろ残されたものの方が多いと思われる。今後とも,事情が許す限り調査を継続してゆきたいと思っている。
                     平成14年1月18日

 『越路廼日記』は,鈴木重嶺,71歳の時の著作。半紙本,1冊,34丁,版本。巻頭に「明治十七年九月とをる七日 鈴木弘恭」の序があり、続いて鈴木重嶺の自序がある。「おほやけ、わたくしの、けちめなく、都を離れて、旅たちし時の日記は、わかき頃よりのか、こゝらあれとも、人に見すへくもあらね婆、はこの底にいれおくのみ。されとも玉さか出し見るに、かゝるくるしきこともありき、かくおもしろきことにもあひにけるか、なと昔をしのひて、うち嘆きうちゑまるゝこそ、とあるは其をりのさまをしるしおけはなりけり。おのれ、世をしりそきてより、ことし九とせ、よはひは七十にあまれゝと、幸に病といふことをしらす、この八月は、哥むしろのつとひもなけれは、越のあたりへ〔行やらん〕はや、と思ひおこして、遊ひありくまにまに、日に/\ありしことゝもをしるしおきたるか、かく旅日記やうのにそなりたるは、老ほれたる身の、ふたゝひ遠き旅ちに、いてたゝむことの、頼みかたけれは、すり巻にものして、こゝの友たち、又こたひ尋ゆきて、まみえし人たちにも、おくりてんとて、かくはものしけるになむ/明治十七年九月 鈴木重嶺しるす」この自序からもわかるように、明治十七年の八月は歌会も無いので、重嶺にとって縁の深い越後への旅を計画し、その折の事を記したものである。七月三十一日、八月一日~廿八日の約一カ月。冒頭には、佐々木信綱、加藤安彦、鶴久子、中嶋哥子等の歌を記し、佐渡では相川の長谷川安邦、松田美政、三河清親、小木の伊藤清、赤塚薫、岩木擴等の歌を載せている。巻末は、「例の所々にて、車をとゝめ、おりのほりして、うへ野なる停車場につきしは、未のなかははかりなり。いとうれしくて、くるまをやとひ、家にかへりしは、申過し頃なりけり。後のおもひ出くさにもと、ありしことゝもをかくなむ。」とある。鈴木重嶺の伝記資料としても参考になるものと思われる。
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●佐渡に伝存する鈴木重嶺関係資料を調査した時は、佐渡の関係者の全面的な協力、御配慮を頂いた。改めて御礼申し上げたい。
●私は、昭和45年(1971)8月、日本文学研究会の文学史跡旅行の時、初めて佐渡を見学して回った。行く先々で、歴史資料を求めて、自宅へ郵送した。しかし、後年、井関隆子や蔵田茂樹や鈴木重嶺に関連して、これほど、佐渡を調査するとは思わなかった。今、過去を振り返ると、重友毅先生主宰の日本文学研究会がすべての基礎になっている。諸先生に対して、心から感謝申上げたい。(平成31年3月22日)

鈴木重嶺略伝


鈴木重嶺略伝
2019.03.21 Thursday

   鈴木重嶺(翠園)略伝
                   深沢秋男

鈴木重嶺〔すずき しげね〕 徳川幕府に仕え,最後の佐渡奉行となる。明治11年,職を辞し,東京で鶯蛙吟社を組織し,月並歌会を催し,短歌雑誌『詞林』を主宰した。佐佐木信綱とともに,明治初期歌壇の名家とみなされていた。『詞林』は後に,佐佐木信綱の『心の華』に合併した。
 翠園・鈴木重嶺は,明治31年(1898)11月26日,東京市牛込区神楽町2丁目17番地において,85歳の,その生涯を閉じた。文化11年(1814)6月,幕臣,小幡多門有則の次男として,江戸駿河台で生まれたが,鈴木家10代・重親の養子となり11代を継いだ。
 鈴木重嶺の伝記に関しては,御子孫の松本誠氏が,長年調査研究を重ねられ,部分的には公表もされているが,残念ながら,集成の域に達しないまま,他界されてしまった。いずれは,松本氏の調査を継承して,重嶺の詳細な伝記を纏めたいと念じているが,今は,その概略を述べるにとどめる。
初代
 鈴木家の祖,鈴木但馬守重経は,相模の国小田原城主・北条氏康に仕え,駿河の国蒲原城に居住。永禄12年(1569)12月6日,甲斐の国,武田信玄・勝頼父子の蒲原城攻めの折,主君・北条新三郎時之と共に討ち死にした。葬地,駿州蒲原在,善福寺村,善福寺。法名,英俊院殿雄山良貞居士。
2代
 重元。天正18年(1590),小田原攻めの折,徳川家に召し出され,鉄砲玉薬奉行・榊原小兵衛政元組配下となる。武州豊島郡大久保村に采地を給う。寛永12年(1635)病によって致仕し,同13年10月8日没。葬地,武州豊島郡大久保村全龍寺(新宿区大久保1-16-15 に現存),以後,代々葬地とする。法名,海穏院殿甚浪清平居士。
3代
 重道。寛永12年12月22日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・夏目杢左衛門嶌次右衛門組配下となる。寛文12年(1672),病によって致仕し,延宝4年(1676)6月10日没。葬地,全龍寺。法名,賢梁院殿石室道鉄居士。
4代
 重清。寛文12年(1672)8月26日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・勝部五兵衛恒岡左太夫組配下となる。貞享元年(1684)病によって致仕し,元禄10年(1697)11月8日没。葬地,全龍寺。法名,超道院殿真翁浄西居士。
5代
 重利。貞享元年5月18日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・柘植三之丞恒岡左太夫組配 下となる。正徳3年(1713)病によって致仕し,同年6月29日没。葬地,全龍寺。法名,利貞院殿了安元随居士。
6代
 重秀。正徳3年3月22日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・守能吉兵衛田沢久左衛門組配下となる。享保16年(1731)12月22日組頭。寛延3年(1750)12月14日没。葬地,全龍寺。法名,秀雲院殿乾峯良坤居士。
7代
 重高。寛延3年12月29日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・遠山三太夫渡辺源左衛門組配下となる。宝暦4年(1754)3月,千駄ヶ谷焔硝蔵定番。同13年(1763)正月18日没。葬地,全龍寺。法名,慶松院殿梅岳道林居士。
8代
 重晃。宝暦13年5月4日,家を継ぎ,鉄砲玉薬奉行・鈴木九太夫酒井半三郎組配下となる。天明7年(1787)11月22日,病により職を辞し,小普請水野大膳組配下となる。寛政3年(1791)12月4日没。葬地,全龍寺。法名,峯月院殿雪岩道光居士。
9代
 義道(重高三男)寛政4年7月3日,兄重晃の養子となり,家を継ぎ,小普請浅野隼人組配下となる。同6年8月鉄砲玉薬同心入り,玉薬奉行。享和元年(1801)7月22日,病により職を辞し,小普請戸田中務組配下。文化5年(1808)8月14日致仕し,弘化3年(1846)正月21日没。葬地,全龍寺。法名,賢性院殿寿山良光居士。
10代
 重親。文化2年(1805)6月18日,吹上織殿出役。同5年8月14日家を 継ぎ,小普請酒井但馬守組配下となる。同12年10月9日吹上織殿者。文政11年(1828)5月20日,病により職を辞し,小普請太田内蔵頭組配下。天保2年(1831)5月28日没。葬地,全龍寺。法名,義岳院殿華山道栄居士。
11代
 重嶺。初め有定,大之進,幼名亀太郎。兵庫頭。実は,中川飛騨守家臣,小幡多門有則の次男。重親嗣子無く,乞われて後嗣となる。天保2年(1831)8月6日家を継ぎ,小普請高井左京組配下となる。同4年8月19日,広敷伊賀者となる。同12年8月25日,広敷取締掛となる。同年10月徒目付となる。同14年4月,日光社参に供奉する。同年11月5日,植溜において諸士の武術の撰に入り,白銀7枚を賜る。
 同月20日勘定吟味役となる。同日評定所留役当分助力。同12月15日,徒目付在任 中昌平坂学問所修復の事により,白銀10枚を賜る。同月28日,従前の勤労に対し, 黄金1枚時服1襲を賜り,年始その他の拝謁を許され,小普請大岡兵庫配下となる。同 15年7月4日,再び勘定吟味役となる。元治元年(1864)7月2日勘定奉行とな る。同月23日鎗奉行へ転じ,慶応元年(1865)9月13日,佐渡奉行となる。明 治元年(1868)閏4月16日,御役御免となる。同4年12月8日,相川県参事となる。同8年7月19日,相川県権令兼六等判事となる。同9年4月29日,願いによ って免職となり,東京駿河台の家へ帰る。
 明治9年(1876),63歳で役職を辞した後,晩年の約20年間を歌人として活動しているが,その間の閲歴については,未調査であるので,『和歌文学大辞典』の清崎敏郎氏の記述を掲げる。
 「……その後官を辞して東京に出,鶯蛙吟社を組織し,月並歌会を催し,短歌雑誌『詞林』を発行した。『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』(心の花)に合併した。国学・歌を,橘千蔭系の村山素行・伊庭秀賢に学んだ。明治13年に発行された『開化新題歌集』,『大八洲学会雑誌』等の作者欄に名を列ね,明治24年の『早稲田文学』第3号の「現在の名家」に作品を載せているところから見ても,明治初期歌壇の名家とみなされていたことが知られる。……」
 鈴木重嶺は,没する前年の84歳の時,若い頃の思い出として,次のような事を語っている。
 重嶺は,20歳の頃,免許以上の武術見分(試験)を受ける機会があったが,その見分の済んだ後で,鼻紙に一首認めて,知人の窪田源太夫に見せた。
   つるぎだち鞘にをさめし世になれてみがかぬわざのはづかしきかな
 源太夫が,その歌を松平内匠頭に見せたところ,短冊に書いて差し出すようにとの命があったので,翌朝,出勤のついでに届けた。すると,内匠頭は,武術見分帳を水野忠邦に差し出す時,この短冊を添えて,重嶺を徒目付に取り立てて欲しいと依頼してくれた。水野越前もその才を認めて,早速承諾して,重嶺は徒目付の職に付くことが出来た。18歳の頃から,村山素行について歌を学んでいたが,この事があってから,一層熱心に歌の道に励むようになった。
 重嶺は,佐渡奉行時代も,勤務のかたわら,和歌を奨励し,晩年の20余年間も和歌に打ち込んでいるが,それは,20歳の頃の,この一つの出来事が核になっているように思われる。翠園・鈴木重嶺の歌の門人は200余人に及ぶと言われ,その葬儀に参列し,志を寄せた人は,日本全国に及び,その数は1068名であった。
 重嶺は,遺志によって法名を受けなかった。鈴木家の過去帳には「従五位鈴木重嶺君/号翠園/付受法名」とあり,全龍寺の墓石には「鈴木重嶺之墓(正面)」「紀元二千五百五十八年十一月廿六日逝(裏面)」とある。
 
 ●鈴木重嶺(翠園)の著作
 鈴木重嶺の著書・編書を,現在知り得る範囲で列記すると以下の通りである。
◎伊香保前橋之記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)学習院図書館。
◎詠史清渚集 1冊,写本。昭和女子大学図書館。
◎オト子との差別或人問 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・68)。
◎於よづれ言 1冊,写本。静嘉堂文庫。
◎紀行 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)。
◎絹川花見の記 1冊,写本。国会図書館(二荒廼山裹の内)。
◎御諡号概略 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・11)。
◎夢路の日記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41),無窮会・神習文庫。
◎二荒山歌会 1冊,写本。内閣文庫。
◎皇風大意 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・15),無窮会・神習文庫。
◎旅路記恵の露 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41),無窮会・神習文庫。
◎島曲廼古豆美 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・1)。
◎旅路廼日記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)。
◎翠園兼当歌 1冊,写本。昭和女子大学図書館。
◎翠園詠草二 1冊,写本。昭和女子大学図書館。
◎雅言解 4巻4冊,版本。昭和女子大学図書館,他。
 この他,明治以後出版された単行本や,雑誌等に発表された歌論,歌集等に収録された重嶺の歌は,かなりの量になるものと思われるが,現在,未調査の状態である。
   (昭和女子大学『学苑』第694号・平成10年1月 を改訂)

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●私は、研究の一つとして、鈴木重嶺を考えたが、時間が足りなかった。昭和女子大学の関係者に継承してもらいたかったが、それも、うまく進まなかった。残念であるが、50年後、100年後には、日本全国の研究者が、翠園の自筆詠草などを閲覧調査に、昭和女子大学を訪れる事だろう。(平成31年3月21日)

翠園・鈴木重嶺の人となり

翠園・鈴木重嶺の人となり
2019.03.21 Thursday

●故鈴木重嶺翁逸話(1) 

  『読売新聞』明治31年(1898)11月30日、朝刊、4面
翁ハ幕臣小幡多門の子にて後に鈴木半次郎の養子となれり。鈴木氏遠祖ハ駿河守重家にて昔ハ名家と称せられしが子孫久しく振はず、翁に及びて再び栄へ佐渡奉行中の治績ハ殊に著しく、恩威並行はれて百姓町人の翁を見ること父母の如く、さながら甲斐に於ける信玄にも似たりしとぞ。
幕府の習慣に諸臣任官せんとする時ハ、予め各自好める所の名を撰びて伺ひ済の上其官を拝する事なるが、勝麟太郎補任せられんとするに当りて翁に問ふ所あり、翁の曰ふ『日本にて最も小さきハ安房の国なり。里見八犬伝にも安房ハ鯉を産せずと見え、秋収も亦極めて少しとなり。安房守抔ハ如何』とありけるにぞ、麟太郎実にも迚、翁を命名親と頼みて安房守を拝したり。
幕府の竹内下野守を洋行せしむる時、当時の名士学者も多く随ひしが、皇国の学に通ぜる者其内に洩れたるハ遺憾なりとて、翁ハ『皇国大意』てふ一書を贈りけれバ使臣も大に便益を受けたりといふ。後世の人翁を目して一図に歌人の如く思へるハ能く其人物を知らざるが為めなり。
滝和亭ハ元幕府の小吏なり画才あり。師なくして画けるもの少からず、一日翁其画を見て曰ふ『足下の才をもて小吏に畢らんハ惜むべし。今より力を画に致さバ必らず大名を成さん』と。和亭其言に従ひしが果して今日の名声を博したり。

●故鈴木重嶺翁逸話(2)
 
  『読売新聞』明治31年(1898)12月1日、朝刊、4面
翁ハ維新の際、田安家の家老となりしが折柄甲州に百姓一揆起り騒擾二ケ月に垂んとす。然るに何人も之れを鎮定する者なかりしかバ、翁ハ主命に依り鎮撫に向ひしに一揆の百姓等ハ翁の徳風を望みて出迎へたり。翁ハ之れを陣屋に招きて懇々諭すに利害得失を以てし、且つ告げて曰く、往時甲州の地ハ信義に厚しと聞えたる武田信玄の領地なれバ、自然此地の百姓ハ義を重んずべき筈なり。然るに斯く騒擾を極めて、上の手数を煩はするハ、義に欠け理に悖るにあらずやと縷々説く処あり。抑も此騒動の原因ハ旧領主に叛して朝廷に帰せんとするにありしを以て、翁も亦世の趨勢を看破とたれバ、早晩廃藩置県の制度となるべし、と述べけるに皆々、其罪を謝し一揆鎮定したりとぞ。
翁桂冠後ハ日々の如く諸家の歌会に臨み、二十年来一回だも欠席することなかりしハ畢竟其無病強健なるが故なりとハいへ、之に依つて見るも幕府五代の君に仕へて永年忠勤の程も思ひやらるゝなり。
翁ハ常に仏法嫌ひなりしを以て予て其遺言にも死後僧侶の引導ハ無用なり。又、読経ハ成るべく短くして、会葬者に長く時間を費さしめざるやうなしくれよと告げたりといふ。

●故鈴木重嶺翁逸話(3)
 
  『読売新聞』明治31年(1898)12月3日、朝刊、4面
翁が歌の師の村上素行なるよしハ前にも記せしが、素行ハ田安家に仕へて加茂真淵の学統を引く。又、伊庭秀堅にも従ひたり。
翁の門人数百人全国に散在すれども、歌道不振の時節とて歌にて門戸を張る程のものハ少く、多くハ斯道に遊べる老人抔なれども、中に就て名を知られたるハ屋代柳漁、小脵景徳の二人なり。然れども皆翁に先ちて逝けり。
重嶺社中にて名を知らるゝ者にハ先光清風あり。又、歌の門人に富みたる者としてハ篠田謙治あり。幹事にして最も古きを山田謙益とす。
翁にハ実子なく嗣子重明氏ハ襁褓より養はるゝ処と云ふ。
翁ハ画を好みて最も竹を描くに長ず。其翠園の号を附して人に贈れるもの亦甚だ少からず。清節霜を凌で卓然雲に聳るの気自ら丹青の間に透る。
以上ハ翁が逸話の一斑のみ。若し夫れ除に翠園叢書を繙いて八十余年の事歴
を覗へバ、数千万言尚ほ且つ足らざるものあるを知らん。
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この『読売新聞』に掲載の「故鈴木重嶺翁逸話(1・2・3) 」に関しては、足立匡敏氏の御示教によって知る事を得た。記して感謝申し上げます。
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●私が鈴木重嶺の資料を整理し、その「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」(『文学研究』92号、平成16年4月)を執筆したのは、国語学者・松本誠先生との関係であるが、それだけではない。何れ、日本和歌史を集成する時は、明治初期の旧派歌人として、その名を記される人物であると評価したからである。また、和歌に打ち込み、貧民にも、温かい眼差しをもつ、重嶺の人柄に惹かれたからでもある。(2019年3月21日)