名刺 雑感 ⑫

名刺 雑感 ⑫
2018.10.20 Saturday

松本誠 東海産業短期大学 教授 昭和61年7月16日

しかし、この時が初対面ではない。私は、松本先生が、関東短期大学教授のころから先生に、いろいろ御指導賜っていた。

●昭和48年から56年にかけて、近世末期の旗本女性の日記の校注をしていた。『井関隆子日記』である。この日記の中に、佐渡の歌人・蔵田茂樹との交流の様子がかなり詳しく出てくる。隆子は、天保14年1月晦日の条で、自分の創作『神代のいましめ』を茂樹に書写して贈ったと記している。この書写本が佐渡に伝存しているか否か調査したが未詳であった。
●しかし、学習院大学図書館の雕虫居写本の中に『迦美世能伊末志米』が収録されている事がわかり、早速、閲覧調査してみると、その巻末に、
「明治十七年十二月三十一日自薄晩至初更写歌集底本鈴木氏翠園叢書之一也 市谷書院」
とあった。
●底本が鈴木氏の「翠園叢書」である事は判明したが、「翠園叢書」は『国書総目録』によれば、国会図書館に一冊を所蔵するのみで、これには収録されていない。
●このような状態で数年が経過した。昭和51年12月号『国語と国文学』の雑誌要目の中に、松本誠氏の鈴木重嶺に関する論文を発見、初めて松本先生にお会いすることができた。関東短期大学で松本先生の電話番号を教えてもらい、先生のお宅に電話して、お願いの要件を伝えて、自由が丘のモンブランで、初めてお会いすることができた。当時は、現在とは異なり、プライバシーの問題が今ほど厳しくなく、電話番号も教えてくれたが、情報の検索は、今ほど進んでおらず、印刷物の調査に限られていた。

●実は、松本誠先生は鈴木重嶺の御子孫であり、最後の佐渡奉行であった重嶺の旧蔵書を全て所蔵しておられた。待望の『翠園叢書』全68巻67冊も閲覧させて頂くことができた。
●井関隆子の『神代のいましめ』がこの叢書に収録されたのは、蔵田茂樹の子の茂時が佐渡奉行の鈴木重嶺に献上したからであった。この『翠園叢書』には、他にも隆子の作品が収録されており、以後も松本先生には大変お世話になっていた。
●国語学者の先生は、生粋の江戸っ子で、あらゆる振る舞いが粋だった。森銑三先生の三古会にも連れて行って頂いた。ところが、世は無常。

●平成7年(1995)1月13日、松本誠先生は、東海産業短期大学の研究室で急逝されてしまったのである。私は、突然の事で途方にくれた。先生とは、三古会や東京掃苔会を通しても、交流があったし、さらに、先生が編纂執筆中の『同音異義語辞典』(勉誠社)に関しても相談を受けていた。法要も済んだ頃、奥様の栄子氏から、先生の蔵書の処置に関して相談された。先生には、長い間、身に余る御厚情を賜っていた関係もあり、蔵書の整理をお引き受けした。

●松本家蔵書・鈴木重嶺関係資料の整理
 平成7年12月27日(1995)

 冬休みに入った12月27日、奥沢の御自宅へ伺った。300坪のお宅は、街中でありながら、車の騒音も響かない閑静な所であった。道路側は小高くなっていて、大きな木が茂り、夏休みなどには、先生が木々の手入れをすると仰っていたことが思い出される。
 奥様は、先生御他界の後、家の中を整理して、ゴミゴミした物は古物商に渡したものもあると仰っていた。私は、大きな日本家屋の1階と2階の各部屋に置かれた蔵書を全部整理して、3つに大別した。

 1、一般書。
 2、松本先生の著書をはじめ、国語学関係のもの。
 3、鈴木重嶺関係資料。

 これらの蔵書の処置に関しては、先生のお子様とも十分に相談して処置すべきであると申し上げた。
1、一般書 区立図書館などに寄贈することも一案であるが、現在、図書館もスペースの関係で引き受けられないのが現状である。従って、必要なものの他は古書籍商に売却するのがよい。

2、松本先生の著書・国語学関係 必要部数を保存し、後は古書籍商へ売却する。

3、鈴木重嶺関係資料 文化史的に考えても価値が高いので、慎重に処理する。これも、神田の専門の古書籍商に売却するのも1つの方法である。信頼できる古書籍商を介すれば、適正に評価され、最も必要とする読者の手に渡り、活用される可能性がある。ただし、鈴木重嶺の名前を後世に伝えたい場合は、歴史博物館・国会図書館・大学図書館等に一括寄贈して、半永久的に保存する方法もある。

 このように申し上げ、神田の古書籍商の何店かの名前と電話番号を差し上げた。ただ、ここで、最も重要な事は、今は亡き、松本誠先生が喜ばれると思われる処置をする、ということである、と付言した。
 奥様は、即座に、お金は要らないので、何とか重嶺さんの名前を後世へ伝えたい、と申された。さらに、続けて、先生の昭和女子大学に寄贈したいと思うが如何でしょうか、と申される。検討してみましょう、とお答えした。
 美味しい夕食を御馳走になり、松本先生のお宅を辞去した。年末の寒い夜道を奥沢駅へ向かいながら、重嶺関係資料の処理の方法を思案した。

●鈴木重嶺(翠園)関係資料、昭和女子大学図書館へ寄贈
 平成8年2月20日(1996)
 『翠園叢書』全68冊、『翠園雑録』全23冊を始め、鈴木重嶺の自筆本が多い。このように貴重な蔵書の処理は慎重に進める必要がある。昭和女子大学図書館・館長の青柳武先生に寄贈を引き受けて下さるか否かを検討して頂いた。その結果、図書館の承諾を得た。私は、寄贈して頂くに当たって、次のような条件の覚書を作成し、松本栄子氏と昭和女子大学図書館に提案した。

   鈴木重嶺関係資料に関する覚書

1、昭和女子大学は、寄贈された「鈴木重嶺関係資料」を一括永久保存し、松本家の要望があった場合は、優先的に閲覧して頂けるように配慮する。
2、昭和女子大学は、「鈴木重嶺関係資料」が寄贈された折、その概略を雑誌等に発表して、その所在を明らかにする(深沢秋男が担当)。
3、昭和女子大学は、今後、鈴木重嶺関係資料が古書店等に出た場合、事情の許す範囲で購入し、本資料の充実に努める。
4、昭和女子大学は、国会図書館等に所蔵されている、鈴木重嶺の著作を複写して収集し、資料の充実に務める。
5、「鈴木重嶺関係資料」を活用し、歌人・鈴木重嶺の研究を推進する。
                   平成8年2月20日 

 この提案は、昭和女子大学図書館(館長・青柳武先生)及び松本栄子氏の御了承を頂いたので、今後の処理に関して、図書館と相談して進行した。

●平成8年2月20日(1996)
 昭和女子大学図書館の責任者2人と深沢の3名で、奥沢の松本栄子氏のお宅へ伺い、鈴木重嶺関係資料を受領し、無事に図書館へ移管した。
 松本家の玄関を入って、直ぐ左手にある応接間には、鈴木重嶺の油絵の肖像画が掛けてあった。奥様は、この肖像画以外の重嶺関係資料は全て寄贈して下さった。このような、御配慮は、そうそう有ることではないだろう。私は、心から感謝して、松本先生のお宅を辞去した。

●平成8年9月5日・6日(1996)
「鈴木重嶺関係資料」を図書館から深沢研究室に移動して、目録作成をする。研究室に泊り込みで、資料から離れる事無くリストの作成を行う。全80点の資料を内容別に大別し、原資料には鉛筆で通し番号を書き込み、添付紙片に到るまで全ての略書誌をノートにメモし、原稿は直接ワープロで入力した。
 その調査結果は、平成10年1月1日発行の、昭和女子大学『学苑』第694号に発表した。
 なお、昭和女子大学図書館では、この度の鈴木重嶺関係資料が、松本栄子氏から寄贈されたのを機会に「翠園文庫」を新設して、今後、これらの資料を保管し、さらに充実を図ることになった。

●鈴木重嶺の肖像画 
昭和女子大学の重嶺の関係資料は、平成8年7月16日、御子孫の松本栄子氏から、全て本学へ寄贈された。ただ1点、重嶺の油絵の肖像画は、仏壇のある部屋に掛けてあり、これは毎日お線香を上げながら拝むと申され、寄贈リストから除外された。
●しかし、平成16年2月19日、この肖像画も寄贈された。この肖像画も頂く事になったので、私は画家の「川久保正名」について調査した。小杉放庵記念日光美術館の田中正史氏や東京文化財研究所の山梨絵美子氏の御教示によって、この画家の概略は判明し、この肖像画は重嶺70歳頃のものと推測された。
●山梨絵美子氏の助言もあり、貴重な存在であることが判ったので、図書館では、特別予算を計上して、この油彩画を文化財補修の専門家に依頼して補修を済ませ、大切に保管している。

●平成9年11月26日(1997)
 鈴木重嶺百回忌 全龍寺。重嶺は、明治31年11月26日、85歳で没した。その百回忌法要が、新大久保の菩提寺・全龍寺で行われた。松本家からは、松本栄子氏、御子息・松本昭氏夫妻、お孫さんの暁氏などが参列。深沢も参列させて頂き、鈴木重嶺関係資料を昭和女子大学図書館で永久保存する事になった経緯を、重嶺の霊前に報告した。

●〔松本誠〕 の名刺1枚の背後には、このような事実が存在する。しかし、このような事は、時間と共に消失し、やがて歴史の上には、〔翠園文庫〕が、昭和女子大学図書館の書庫に在る、という事が残るのみだろう。記録は大切であるが、歴史とはそんなものである。 【平成30年10月20日】

■鈴木重嶺

■鈴木重嶺 葬儀の折の参列者記録

■鈴木重嶺の墓 全龍寺

■墓に建てられた重嶺の説明版 鈴木重嶺顕彰会

史跡訪問の日々 鈴木重嶺の墓

史跡訪問の日々 鈴木重嶺の墓
2018.10.11 Thursday

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大久保
2012-12-15 12:03:40 | 東京都
(全竜寺)

全竜寺

 大久保は、ほかの東京のどの街にも無い異色な雰囲気の街である。韓国風焼肉屋とか、韓国料理の店、それに韓流スターのブロマイドを売る店とか、韓国食材の店などが軒を連ね、一瞬ここは韓国の繁華街かと見紛うばかりである。これに集まる客の九割以上は女性であり、この中にあってカメラを片手にしたオッサンは、完全に浮いた存在であった。大久保通りに面した繁華街の一角に全竜寺がある。全竜寺の境内に入ると、それまでの賑やかさが嘘のように静かで、ほっと一息つける。

鈴木重嶺之墓

 鈴木重嶺(しげね)は文化十一年(1814)幕臣の家に生まれ、鈴木家の養子となって十一代を継いだ。重嶺は諱。雅号を翠園と称した。勘定、同組頭、同吟味役を経て、元治元年(1864)には勘定奉行並に進んだ。慶応元年(1865)佐渡奉行となった。維新後も佐渡相川県知事等を歴任したが、明治九年(1876)官職を辞し、以後は和歌の道に励んだ。勝海舟とも深い交わりがあり、明治三十一年(1898)重嶺が八十五歳で没した時、海舟が葬儀に列席した記録が残っている。ほかに近衛忠煕、毛利元徳、久我建通、蜂須賀茂韶、井上頼圀、中島歌子、佐々木信綱ら、錚々たる人々が集まった。
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●今日、ネットで、このようなレポートを見た。新大久保の全龍寺も、失礼が続いている。現役の頃は、最低、年1回は、お伺いして鈴木重嶺や、松本家のお墓にお参りしていたが、今は、外出も思うようにゆかず、失礼している。
●鈴木重嶺の直系の御子孫、国語学者の松本誠先生との出会いが、懐かしく思い出される。〔翠園叢書〕という書名の入った論文を『国語と国文学』で見つけたことから、総ては始まった。

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●平成16年6月、大久保の重嶺の菩提寺・全龍寺に、次のような案内板を設置しました。
法政大学名誉教授・村上直先生、佐渡市教育委員会の御配慮を頂いた。

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  最後の佐渡奉行・歌人 鈴木重嶺・翠園の墓

 鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元寛永十三年(一六三六)十月八日に没し大久保村の全龍寺に葬られ。鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。
 鈴木重嶺は、文化十一年(一八一四)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家十代・重親の養子となって十一代を継ぎました。
 二十歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定奉行、鎗奉行を勤め、慶応元年(一八六五)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治九年(一八七六)官を辞し、以後は和歌の道に励みました。
 鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人、佐佐木信綱とともに活動して、『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。
 鈴木重嶺は勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治三十一年(一八九八)十一月二十六日、八十五歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠園熈・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韻・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼国め中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など一〇六八名の氏名が記載されています。
  平成十六年六月二十六日
                     鈴木重嶺 顕彰会
                     佐渡市教育委員会

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●井関隆子 → 蔵田茂樹 → 鈴木重嶺 →松本誠。事実を知りたい、少しでも真実に迫りたい、そんな欲求が、〔鈴木重嶺伝記序説〕を書かせ、全龍寺に、このような案内板を設置させた。

明治の番付表と鈴木重嶺

明治の番付表と鈴木重嶺
2018.06.04 Monday

●東京文化財研究所のデータベースを見たら、明治期に発行された、各種番付表(1枚もの)に、鈴木重嶺が出ていた。
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① 国学    皇国名誉人名富録    1881(明治14)  5-A
② 和歌之部  改正全国書画一覧    1892(明治25)  3-B
③ 歌八大家  東京八大家一覧表    1892(明治25)  2-A
④ 和歌之部  大日本書画一覧     1894(明治27)  1-B
⑤ 国学家風流 増補古今書画名家一覧  1911(明治44)  6-E
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●鈴木重嶺、翠園は、最後の佐渡奉行で、維新後は、歌人として活躍した。私は、重嶺の直系の御子孫、国語学者・松本誠先生に大変お世話になった。松本先生は、江戸っ子で、大変、粋な方だった。井関隆子の佐渡関係の調査をしていて、鈴木翠園にたどり着き、御子孫の松本先生にめぐり会った。
●その後、私は、昭和女子大学へ勤務することになったが、1年目に、必修の国文法を教えた。この時、松本先生から、いろいろアドバイスを頂いた。また、三古会にも何回か連れて行って頂いたのである。
●平成7年1月、松本先生は、大学の研究室で、急逝された。生前の先生との関係から、奥様に依頼されて、先生の御蔵書を整理し、結果、鈴木重嶺関係資料が、昭和女子大学図書館に寄贈されたのである。
●実は、今日、東京文化財研究所のサイトを見たら、副所長は、山梨恵美子氏だった。この山梨氏には、鈴木重嶺の肖像画の件で、大変、御指導を賜った。
●平成16年2月19日、鈴木重嶺の肖像画が、松本栄子氏より、昭和女子大学図書館に寄贈された。鈴木重嶺の肖像画は、油彩画で、縦68センチ×横56センチ。右下に「河久保正名画」と朱筆のサインがある。重嶺70歳(明治16年)頃のものと推測される。なお、この肖像画に関して、昭和女子大学では、専門家の助言に従って、全面的な修復を行い、保存している。

◆皇国名誉人名富録

◆改正全国書画一覧

◆東京八大家一覧表

◆大日本書画一覧

◆増補古今書画名家一覧

鈴木重嶺の『皇風大意』

森銑三 明治人物逸話 鈴木重嶺
2018.01.24 Wednesday

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森銑三 明治人物逸話 鈴木重嶺
2018-01-05 22:55:44

●サイト 〔故人 今人〕 2018年1月5日 で、鈴木重嶺を紹介している。
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○鈴木重嶺1814-1898 幕府最後の佐渡奉行。明治6年相川県権令となり、実質的な県令を勤めました。重嶺は歌人としても名をはせました。今回は歌人としてのエピソードです。

j.文久の初めの頃でした西洋五か国にお使いを遣わされたことがあって、竹下下野守が行きましたが、その時随行する人を見ますと、漢学者と洋学者ばかりです。よって、下野守に面会して「今度お連れになるのは漢学者と洋学者ばかりで、国学者はいないようですが、私の考えでは、西洋に行って西洋のことは聞かれますまい。支那のことも聞かれますまい。聞けば日本のことを聞きましょう。

その時日本のことをご承知なかったら、お答えができますまい。それでは日本の恥をかきに行くようなものではございませんか。」と言いましたら、下野守も「いかにも、そうだ。」と言われました。

そこで、私は忙しい中から深夜までかかって、『皇風大意』という二十枚ほどのものをしたためて、下野守に渡しました。

お使いが来て、帰朝した時に「私に逢いたい」とのことなのでまいりましたら、「お手前の言うとおり、いろいろ我が国のことを質問されたが、お手前の書いてくれたものが役に立って、恥も掻かなかった。」と申して、羅紗を一巻き、礼にくれました。

〇「鈴木重嶺翁を訪う」 同方会報告 第四号 所収

○当時の武士の教養は第一に漢学孔子孟子の学でした。幕府はこれに重点を置き、昌平坂学問所を設け、林家が監督しました。上級の武士は漢籍の基本を身につけ、漢詩のやりとりをすることができました。
○西洋の学は蘭学と英学です。これらの武士は当然西洋へ行って見聞を開こうとして乗り組みました。
○鈴木が問題にしたのは、国学者が一人もいないと言うことです。当時の武士はたしなみとして、和歌ぐらいはだれでも読みましたが、日本の国の成り立ちである、古事記や日本書紀、六国史などまで詳しい武士は希でした。
○鈴木は国学にも造詣が深かったのでしょう。資料を渡して役に立てることができました。もともと国学は江戸の中頃に我が国古来の考え方や特色は何だろうといういわゆる漢学にはない日本人とは何かという問いから生まれた学問です。
○本居宣長が有名ですが、この時代では平田篤胤系の人々がいました。国学を学ぶ人達は神官や庄屋層などの草莽の臣で、身分の高い武士ではごく限られた人たちでした。
○鈴木が進言しなければ、日本の外交使節団は、自国のことも知らないのかと、侮られたかも知れません。明治になって、大学南校を設立した時に、外国の学問の専攻ばかりを計画したため、御雇外国人から、「およそ、自国の大学を設置するのに国の成り立ちを学ぶ機関がないのは不都合である。」と指摘されて、古典科を設置しました。
○現代でも日本古来の歴史や文学・民俗学を理解していることは鈴木の時代と共通した資質と思います。外国人が「大和心は?」と問われたら「朝日に匂う 山桜花」と自分の言葉で下の句の部分を説明できるといいですね。
○このごろ政府が、理工学系の大学に偏重して役に立つ技術を尊重して、金にならなければ補助金を減らすなどという方向にあるのは残念でなりません。
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●鈴木重嶺の『皇風大意』  追加、過去のブログより

●鈴木重嶺の著作に『皇風大意』写本、1冊がある。私の報告には、

皇風大意 1冊。写本。国会図書舘(桜園叢書15)、無窮会・神習文庫。

とある。

●今日、ネットで、この写本の全冊複製を見た。私は、国会図書館の『桜園叢書』で見ているが、あとは、無窮会にあるのみと思う。この複製公開のサイトを調べたら、創価大学附属図書館の「デジタルコレクション 古典籍」と分った。貴重な資料である。書誌詳細は、以下の通り。
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皇風大意
書誌詳細
著者名:鈴木重嶺[著]
出版者:鈴木重嶺 [自筆?]
書写地:[不明]
成立年:明治22 [1889]
形態:[21]丁 ; 24.5×16.5cm
刊写:写本
注記:文久元年竹内保徳下野守が外国大使としてヨーロッパ歴訪の際に贈った「皇風大意」を明治22年鈴木重嶺自身が書写したもの , 和装, 仮綴 , 朱墨による書き入れあり , 虫損あり
請求記号:WK/5071
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●この写本の内容は、ヨーロッパ歴訪の折、外国人から、日本に関して質問されたら、答える時の参考にして欲しいというもの。幕末・維新を生きた、鈴木重嶺の見識を知ることが出来る著作である。

玉薬同心・鈴木重嶺 (鈴木貞夫氏)

新宿歴史よもやま話〔53〕 『広報誌しんじゅく』
郷土史家 鈴木貞夫

全龍寺と玉薬同心 2 鈴木重嶺

大久保一丁目の全龍寺には前回触れた都筑峯重の墓の脇に鈴木重嶺の墓域がある。重嶺も鉄砲玉薬同心の家系。文化十一年(一八一四)小幡多門の子として生まれ、鈴木半次郎の養子になった。十一代将軍家慶の御台所楽宮付きの御広敷伊賀者を勤め、御徒目付に進み、屋敷を市谷加賀屋敷(現市谷加賀町二-二〇)に一五〇坪を拝領。ついで勘定所勤めに代わり、四二歳で勘定吟味役(現在の大蔵省局長クラス)、駿河台鈴木町(現千代田区神田駿河台二-五)の四八〇坪に移り、やがて勘定奉行(現大蔵大臣)に昇進するが、僅か二〇日余りで辞任、槍奉行の閑職についた。しかし、激動の幕末、北方の脅威に備えるため佐渡奉行に任命され、兵庫頭と称した。
 わずか三年足らずで徳川幕府が崩壊。ついで、かつての御三卿の一つ田安家の家老として新政府との交渉役を勤めている。その頃、玉薬同心たち二二名は連名で、先祖が苦労して開墾した大久保の土地(手作場)の払い下げを新政府に申請している。代表は前回登場の都筑峯暉(一橋家家老)と重嶺で、希望はほぼ容れられ、一段(三百坪)につき三両(現在の六〇万円位)の割り、五年賦とされた。
 翌明治二年、開拓少主典、四年には浜松県参事(月給一五〇円)、明治六年から十一年まで佐渡の相川県権知事(二五〇円)を勤めている。激動の時期とはいえ、地価と役人の月給の格差には驚かされる。
 ところで、重嶺は明治十一年に一切の公職を退き、屋敷を牛込区山伏町六(現新宿区南山伏町一)に構え、趣味を楽しむことにした。
 若い頃、村山素行・伊庭秀賢について国学・和歌を学んだので、東京で和歌の鶯蛙吟社を組織、雑誌『詞林』を主宰、多くの弟子を指導した。彼の和歌は当時最も多くの人々を擁する御歌所派(宮内省派)と呼ばれる伝統的な典雅・平明・流麗を旨とするものであった。
 また、重嶺は勝海舟と相当親しかったらしく、晩年の回想談『鈴木重嶺小伝』で、「玉薬同心の中で太夫(五位の位階)以上に出世したのは、勝麟太郎、都筑と私の三人だけだった」と述べ、勝海舟は『海舟座談』の中で「祖父が玉薬同心の勝家の株を買い、のちに旗本に進んだ家なので、重嶺と親しく、金を貸したことがある」と言っている。前にも触れたように、玉薬同心たちは、徳川家康の江戸入り当初、三〇俵二人扶持(現在の年収約百万円)の微禄ながら大久保と四谷に別れてそれぞれ千坪以上の土地を与えられ、勝家は四谷、都筑・鈴木家は大久保であった。重嶺は明治三一年十一月二六日、八五歳で他界。「葬儀記録」には公家、旧大名、歌人など著名人一〇六八名の名が記されているという。佐渡においても人々に愛され、墓域には「鈴木重嶺顕彰会・佐渡市教育委員会」による説明板が設けられている。

鈴木重嶺と勝海舟

重嶺と海舟

 鈴木重嶺と勝海舟は極めて近い関係にあったが、一般にこの事は意外に知られていない。『海舟日記』によれば、明治15年から29年の15年間に百回以上、2人は合っている。これは重嶺70歳から没年まで、海舟60歳からやはり没年までである。晩年の勝海舟は10歳年長の鈴木重嶺・翠園とかなり頻繁に交流していた。
 重嶺も海舟も、明屋敷伊賀という低い身分の出であった。そんな関係からか、2人は親しく付き合っていたようである。
 重嶺の和歌の教え子・石倉翠葉は、大正5年の雑誌『旅行倶楽部』で、重嶺が佐渡奉行になったのは、その人選に苦慮していた西郷隆盛に勝海舟が推薦したからである、と記している。
 重嶺は元治元年8月に鎗奉行を御役御免になって寄合となり、佐渡奉行拝命までの1年間は非役の身であった。
 軍艦奉行・勝海舟と軍賦役・小納戸頭取の西郷隆盛が大坂で会談したのは、「西郷書簡」、『海舟日記』の記述から推測するに、元治元年10月のことであろう。重要な案件が済んだあと、西郷は佐渡奉行の適任者が見つからず、困っている事を打ち明けると、海舟は即座に、それなら適当な人材がいる。未だ世間には知られていないが、鈴木という人物がいる。彼ならば適任であるから、辞令を出すようにと薦める。西郷もこれに従った。こんな経緯の末に、佐渡奉行・鈴木重嶺は誕生したという事のようである。もちろん、勝海舟としても、重嶺にそれだけ能吏としての力量を認めていたからの事ではあろうが、お互いに同じ軽輩の身からここまで出世してきた、という連帯感もあり、非役の重嶺を強く推したのであろう。
 しかし、この2人が頻繁に合うようになるのは、『海舟日記』の記録からもわかるように、重嶺が官職を辞し、文筆に専念するようになってからである。
 日記の明治15年11月1日の条に、
「鈴木重嶺、佐久間鐇五郎、零落につき救助の事頼み……」
とある。重嶺は明治15年に零落し、海舟はこれを救助したらしい。重嶺の身の上に何があったのか。

 『新潟新聞』は晩年の重嶺の逸話を記録している。明治3年、千葉県の山野を開墾する計画が重嶺のもとに持ち込まれた。重嶺もこれに賛同して、株金を募集して政府に出願した。しかし、許可が出ず、計画は頓挫、発起人は腹かき切って一同に謝罪した。9年、佐渡相川から東京に戻った重嶺は出資者の貧窮の状態をみて、惻隠の情に堪えず、一家の私財を悉く売却し、数千円を捻出して、これを株主に分配した。重嶺の家が裕福でなくなったのはこの故である、と伝えている。『海舟日記』の「重嶺零落」は、この一件と関係するものであろう。この時以後、重嶺と海舟は頻繁に合うが、海舟は象山の書の代金として10円、掛物の代金として25円など、しばしば金を重嶺に渡している。年長の重嶺のプライドを傷つけることなく、その窮状を助けている海舟が想像される。
 鈴木重嶺は明治31年11月26日、85歳の生涯を閉じるが、葬儀には、毛利元徳、近衛忠熈、正親町実徳、久我建通、蜂須賀義韶、前田利嗣、勝安房等々、1068名が会葬名簿に記載されている。また、貧人10数人が柩前に集まり、生前の施しに感謝し、その死を悼み泣きくずれたという。

 私は、この重嶺の生き方に惹かれて伝記研究を決意した。

清明文庫図書目録

清明文庫図書目録
2018.01.08 Monday

●ネットで『清明文庫図書目録』を見た。文教大学越谷図書館から、平成18年、2006年5月に発行されたようだ。その目録の中に、鈴木重嶺の『旅路のすさび』が収録されている。
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196 915.6 Su96  1000350432
    旅路のすさび/鈴木重嶺著
    鈴木重嶺、明21(1888)、26丁;23㎝,1冊,刊本,(KK)
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この(KK)は寄贈者の略号で、勝精のことである。

勝精(‐1932) 伯爵 徳川慶喜の十男で勝海舟の養子となり、海舟没後は勝家当主。
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●つまり、この『旅路のすさび』は、勝海舟の旧蔵本ということになる。何か書き込みがあるか、興味をひかれる。

■鈴木重嶺と勝海舟

 鈴木重嶺と勝海舟の関係を知る上で『海舟日記』等の記録は参考になる。『勝海舟全集』(一九七二~七三、勁草書房)第十八巻~二十一巻に、文久二年(一八六一)から明治三十一年(一八九八)までの日記が収録されている。この内、重嶺との関係が記録されているのは、主として明治十六年以後である。重嶺が幕府及び新政府の役職を辞し、和歌や国学など文化的な活動を始めてからという事になる。おそらく、重嶺が勝海舟の家を訪ね、話し合った事を意味するものと推測される。重嶺の名前が出てくる年月日を列挙すると以下の如くである。

 明治十六年(一八八三)
5月28日・11月11日。

 明治十七年(一八八四)
3月16日・25日・5月5日・30日・6月13日・28日・9月4日・11日・10日・26日・27日・11月1日・12月5日・21日。

 明治十八年(一八八五)
1月30日・5月4日・6月10日・13日・7月14日・9月11日・10月4日・18日・11月9日・12月26日。

 明治十九年(一八八六)
1月5日・2月25日・3月26日・5月30日・6月9日・7月1日・9月3日・19日・10月1日・5日・9日・10日・20日・11月23日・12月29日。

 明治二十年(一八八七)
1月15日・2月14日・3月20日・4月23日・30日・5月11日・6月20日・25日・7月4日・18日・9月5日・10月16日・29日・11月3日・12月21日。

 明治二十一年(一八八八)
1月28日・5月1日・6月1日・8月9日・19日・9月6日・25日・11月10日・12月25日・30日。

 明治二十二年(一八八九)
2月10日・3月31日・6月26日・7月23日・8月5日・9月5日・10月3日・12月6日・16日・23日・31日。

 明治二十三年(一八九〇)
1月3日・3月20日・28日・5月14日・6月13日・7月21日・10月13日・28日・12月23日。

 明治二十四年(一八九一)
1月15日・2月21日・3月28日・4月5日・28日・5月29日・7月16日・28日・8月14日・11月9日・12月4日・

 明治二十五年(一八九二)
1月3日・4月24日・30日・5月13日・6月19日・7月20日・9月9日・10月1日。

 明治二十九年(一八九六)
1月19日。

 明治三十一年(一八九八)
11月26日。

 この中で、名前のみではなく、要件等が書き加えられている日は次の如くである。

 明治十六年(一八八三)
○11月11日「鈴木重嶺へ、象山書の代十円遣わす。」

 明治十七年(一八八四)
○3月16日「鈴木重嶺、天璋院追懐の歌取り集め出来、持参。五円遣わす。」
○5月19日「鈴木重嶺、「大三河風土記」の代二十円。文昭院〔六代家宣〕様御筆二幅七円渡す。」
○6月13日「鈴木重嶺、出板代二十円渡す。神田辺行。」
○6月28日「鈴木重嶺、三十円渡す。上野行。」
○9月4日「鈴木重嶺、廿八日に越後より帰り候旨、本十冊遣わす。千駄ヶ谷行。」
○10月26日「鈴木重嶺、武芸館へ拙筆十枚差し出し置き候様申し聞け遣わす。」
○12月5日「鈴木重嶺、千駄ヶ谷へ永井の手紙持たせわす。」

 明治十八年(一八八五)
○1月30日「鈴木重嶺、掛物の代二十五円渡す。」
○6月10日「鈴木重嶺、二男、保証人、忰頼み度く申し候。」
○10月4日「鈴木重嶺、隠居所建てたきと云う。金員の話。」
○10月18日「久留栄、鈴木拝借の事につき内談、整う。」

 明治十九年(一八八六)
○3月26日「鈴木重嶺、掛物買揚げ、十円渡す。」
○7月1日「鈴木重嶺、小栗養子取もどしの件引受け人三枝守富と云う者。」
○10月1日「鈴木重嶺、庵室造り候故、百円、田安殿より拝借致し度き旨申し聞く。
○10月5日「鈴木重嶺へ、草稿持たせ遣わす。」
○10月9日「鈴木重嶺へ、千家の事云々。」
○10月10日「久留栄、鈴木拝借の金子百円持参。」
○10月20日「鈴木重嶺百円借金渡す。」
○12月29日「鈴木重嶺、歳暮一円。」

 明治二十年(一八八七)
○2月14日「鈴木重嶺。溝口へ、小栗養子戻しの事につき、小封認め遣わす。」
○4月23日「鈴木重嶺、高崎へ訪問約。」
○4月30日「鈴木重嶺方行。」
○7月18日「鈴木重嶺、掛物代十五円遣わす。」

 明治二十一年(一八八八)
○8月27日「鈴木重嶺忰。」
○12月30日「鈴木重嶺、刀代三円遣わす。」

 明治二十二年(一八八九)
○6月2日「富田鉄之助、鈴木忰の事、談。」
○12月6日「鈴木重嶺、十五円借遣わす。」

 明治二十三年(一八九〇)
○5月14日「鈴木重嶺、五円借遣わす。」
○12月23日「鈴木重嶺、歳暮五円、反物二遣わす。」

 明治二十四年(一八九一)
○5月29日「鈴木重嶺、二十円借遣わす。」
○7月16日「鈴木重嶺、五円中元。」
○12月4日「鈴木重嶺、十円遣わす。」

 明治二十五年(一八九二)
○4月24日「鈴木重嶺、五十円遣わす。」
○4月30日「鈴木重嶺、掛物返却。」
○9月9日「鈴木重嶺、十円返却。」

 明治二十九年(一八九六)
○1月19日「此頃、旧知死する者多し。来訪中半ば逝く。高齢者は
 二十九年二月認 岡本黄石 八十四歳   吉見氏   八十八
         向山黄村   七十   久留栄   七十七
         鈴木重嶺  八十三   駒井竹所  七十三
         小栗直三  八十二   近衛公   八十九
         諏訪忠誠  七十四   竹本要斎
         佐久間鐇五郎 七十   神谷銀一郎 七十七

 明治三十一年(一八九八)
○11月26日「鈴木重嶺、病死。」

●どうも、勝海舟は、晩年の鈴木重嶺を援助していたようである。

鈴木重嶺、跡見女学校で和歌を講じる

鈴木重嶺、跡見女学校で講義する

●中嶋真弓氏の「東京女子師範学校の教育課程変遷にみる文法教育」(『愛知淑徳大学教育学研究科論集』第7号、平成29年、2017年3月)に、次の如く記されている。
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・・・同時期に創設された跡見女学校にその手がかりを求めたい。跡見女学校の授業の様子として「和歌は鈴木重嶺先生が折々来校ありて古今和歌集の講義並びに題詠などを添削せられたり」(23)とある。

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(23)浜本純逸「明治維新期の「国語」教育:中等学校国語教育史(二)」(国語教育思想研究会『国語教育思想研究(8)』2014)p5
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●鈴木重嶺は、跡見女子大の前身、跡見女学校で、『古今集』の講義をし、和歌の添削指導をしていたのである。

鈴木重嶺宛、松平春嶽書簡

鈴木重嶺宛、松平春嶽書簡

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◇東海大学付属図書館第59回展示会
「幕末・明治を生きた人々~書簡とその周辺資料~」
【日 時】
5月25日(月)~7月18日(土) 
9:00~17:00(土曜日は9:00~16:00 日曜日は閉室◇東海大学付属図書館
【会 場】
東海大学湘南キャンパス11号館1階 付属図書館展示室(神奈川県平塚市北金目4-1-1)

22. 松平慶永書簡 : 鈴木重嶺宛 (マツダイラ ヨシナガ ショカン : スズキ シゲネ アテ) [書写地不明] : [松平慶永] , [1800 年代] 1 通 ; 17.2×48.6cm 越前国福井藩主、松平慶永の書簡。幕臣で、明治以降は歌人として多くの著作を残した鈴木重嶺宛。 慶永は、春嶽の号が有名である。橋本左内、肥後国熊本藩の横井小楠など、多くの優秀な人材を登用し、藩政の改 革に努めた。徳川斉昭と親交が深く、ペリー来航の際には攘夷論を唱えるが、のち開国論に転じる。一橋派であったため、 井伊直弼の大老就任に伴い安政の大獄によって隠居謹慎の処分を受けた。桜田門外の変後に復帰。徳川慶喜を補 佐し、公武合体の実現に尽力したが、戊辰戦争が始まったことで断念。幕府のみならず薩摩藩、朝廷からも信頼され た。
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●これは、かなり前の情報である。私は、今日、ネット上で見た。福井藩の文庫には、鈴木重嶺の著作を、松平春嶽が書写した写本が、かなり所蔵されている。立派な装丁である。私は、時間の調整がつけば、調査に行きたいと思っていたが、残念ながら実現しなかった。
●以前、ブログに次のような書き込みをしていた。10年以上前のことである。

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2008-11-19
鈴木重嶺と松平春嶽
●昨日は、かねて依頼していた資料を閲覧・調査するため昭和女子大学の図書館へ行った。目的は、鈴木重嶺の『翠園叢書』巻五である。この巻には、『むらさきのゆかり』『新撰月百首』『よつの時の行かひ』『西城新殿歌』等が収録されている。1996年(平成8年)2月、鈴木重嶺の御子孫から、昭和女子大学へ寄贈され、最初の仮目録は私が作った。研究室に全資料を保管して、原物から直接書誌をワープロで記録した。今日、再調査したら、丁数など間違いが無かった。集中はしていたけれど、心をこめて記録したかと言われると、心もとない。
●実は、幕末・維新期の、越前福井藩主、松平慶永・春嶽が、この重嶺の『翠園叢書』を借りて書写している。福井市立郷土歴史博物館にその書写本が所蔵されているのである。表紙には越前和紙・飛雲を使用した美術品といっても良い製本。春嶽は明治17年に鈴木重嶺から借りて書写したらしい。この両者の書写関連を調べたいと思う。春嶽は明治3年一切の官職を辞し、以後文筆生活を送り、明治23年に63歳で没している。
●鈴木重嶺は、勝海舟とも深い親交があったが、福井藩主・松平春嶽や、平戸藩主・松浦詮とも交流があった。昭和女子大学には重嶺宛、松浦詮書簡も所蔵されている。鈴木重嶺・松浦詮の関連も調べたいと思う。昭和女子大の図書館の担当者には、いつもお世話になって、感謝している。
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■福井市立郷土歴史博物館→〒910-0004 福井県福井市宝永3丁目12-1
TEL:0776-21-0489
『松平春嶽 愛蔵の品々 - 越前和紙 -』
 越前は五箇村地方(現今立郡今立町)を中心に、古来わが国第一の高品質和紙生産地として重要な地位を占めてきた。中世以来、朝倉氏や織田信長、豊臣秀吉、結城秀康らは、いずれも入国後ただちに五箇村地方の紙座に保護を加え、良質の鳥の子紙や奉書紙の供給を確保した。そうした越前特産の和紙の中には、打雲・水玉・飛雲・墨流しなどとよばれる美しい模様の漉紙があって、今日にもその技術が伝えられている。
 ここに展示したのは、春嶽やその一族が使用した歌書等の表紙に用いられている越前模様漉かけ紙で、いずれも当代一級の技術水準を示している。
■■『翠園叢書』巻5の書写本の写真がある。
■■『蓬園月次歌集』松浦詮 編 (FUAKI蔵)

和歌革新運動 明治の歌人

●『角川 短歌』10月号が、正岡子規生誕四百五十年 を記念して、明治の歌人の、旧派、新派の状況を特集している。古代・平安・中世・近世・近代の和歌の変遷をたどると、様々なことがあった。近代短歌の流れでは、斎藤茂吉の労作、


◎『明治大正短歌史』(中央公論社、1950年(昭和25年)10月)

◎『続明治大正短歌史』(中央公論社、1951年(昭和26)3月)

 

がある。
●今回の『角川 短歌』10月号では、現代歌人による感想であるが、いずれは、研究者による、詳細な分析研究がなされなければならないだろう。楽しみである。旧派歌人の鈴木重嶺の正当な評価、位置付けも楽しみである。