善光寺 お血脈

●今日、長野の善光寺福生院の史料研究院の研究者、山田恭久氏から、善光寺お血脈を頂いた。
善光寺信仰の大布教者、大僧都性谷等順は、寛保2年(1742)善光寺大門町に生まれ、東叡山寛永寺で修行し、善光寺へ赴任した。天明2年(1782)善光寺別当大勧進貫主に就任。浅間山大噴火の時、被災者の救済にあたった。
●等順は、「おけちみゃく」を簡略化して、参拝者に授けた。当順一代で、180万枚授与したという。
山田氏は、鈴木重嶺の研究を進めておられ、お手紙を頂いた。私は、老齢となって、鈴木重嶺の研究は、もう続けられない。若い方々の研究を願うのみである。学問・研究は、このような継承がなされるので、希望もあり、楽しい。御研究の進展を願う。

鈴木重嶺顕彰会

●昭和女子大学図書館には、鈴木重嶺(翠園)に関するコレクション「翠園文庫」が所蔵されている。これは重嶺の御子孫の松本栄子氏から寄贈された資料が中核になっている。重嶺の伝記資料や歌人としての自筆草稿が多くある。

●鈴木重嶺は、勝海舟とも親交のあった幕臣で、最後の佐渡奉行をつとめた。また、幕末・明治初期の歌人としても、佐佐木信綱等と共に活躍している。
●歴史・文学の両面で歴史に名を留めて良い人物だと思う。そこで、法政大学名誉教授の村上直先生と相談して、「鈴木重嶺顕彰会」を創設した。重嶺の研究を進め、幕末・明治維新に生を享けた重嶺の業績を明らかにし、その功績があれば、これを顕彰したいと思う。これ等の資料の研究を進めて、鈴木重嶺を再評価したいと願っている。
平成16年6月26日 深沢秋男

鈴木重嶺の肖像画

平成16年2月19日(木)

●本日、午後、奥沢の松本氏のお宅へ伺った。鈴木重嶺関係資料を御寄贈頂いた時以来であるから、8年振りということになる。300坪のお宅は四方を竹や楠木、山茶花、椎の木で囲まれ、実に閑静。
●仏壇の上に掛けてあった鈴木重嶺の肖像画を、昭和女子大学に寄贈して下さるというので頂きに上がった。縦68センチ、横56センチ。松本先生御在世中から長い間、下から見上げていた画を、下に下ろしてしみじみとながめた。実に厳しく凛々しい表情。明治の有名な画家、河久保正名のサインがある。
●松本先生のお孫さんが車で、静かにゆっくりと運転してくれた。そして、午後3時40分無事、図書館に到着。今後の保管は、文化財の保存に詳しい本学の先生に相談して進める事になった。
●これで、松本家所蔵の、鈴木重嶺関係資料は全て本学に移管されたことになる。有難い事だ。50年後、100年後の人々は、きっと感謝するであろう。そして、松本誠先生も黄泉の世界で喜んでくれていると思う。

■これは、13年前の、昭和女子大学での、私の日録である。この重嶺の肖像画は、松本誠先生、奥様などが、毎日、お線香を捧げた仏壇の上に掛けてあったものである。寄贈された後、学内の文化財保存専門の先生のアドバイスによって、専門家による修復を済ませた。

平成29年2月20日  深沢秋男

 

窪田清音と鈴木重嶺

●今日、昭和女子大から手紙が転送されてきた。内容は、鈴木重嶺に関するもので、幕末維新の幕臣、窪田清音の研究者からである。昭和女子大学図書館には、鈴木重嶺に関する大量の資料が〔翠園文庫〕として所蔵されている。

●この〔翠園文庫〕が、鈴木重嶺の御子孫から昭和女子大学図書館に寄贈されたのは、私が関与している。そんな関係で、私は、資料の全貌を昭和女子大の『学苑』に報告し、それを、自分のホームページにアップして、宣伝・告知につとめた。おそらく、これだけの重嶺関係資料を所蔵する図書館は、他には無いだろう。
●これだけの関係資料に関与したのであるから、鈴木重嶺・翠園に関しての研究もすべきであろう。平成16年、「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」を発表した(『文学研究』92号)。しかし、私にできる事は、ここまでである。あとは後人に委ねることにした。
●今回、質問のあった、窪田清音に関しては、今回、初めて教えて頂いた。天保12年(1841)に、28歳の重嶺は、広敷取締掛・徒目付になる。この時、50歳の窪田清音は、御納戸頭である。重嶺は、清音の父の勝英に武術を教えてもらっていた。
●窪田家の祖先は、武田家に仕えていて、初代正長は、信虎・信玄に仕え、2代正勝は信玄・勝頼に仕え、武田家滅亡後は、徳川家康に仕えた。清音は、第12代にあたるようだ。
●窪田清音は、幕府講武所頭取となる。その文武の実績を一覧して驚く。剣術門人600人、山鹿流兵学門人3000人、兵書・剣法・水軍・砲書などの著書約130部、である。
●幕末維新に、文武両道を窮めた武術家である。剣道に打ち込み、宮本武蔵を研究している友人、田中宏氏もきっと御存知の人物だろう。いずれ、聞いてみたいと思う。

鈴木重嶺に献花

鈴木重嶺に献花

●今日、何の気無しに、鈴木重嶺のお墓にお参りしたら、
何方か知らないが、百合の花を供えて下さっていた。
とても、嬉しい。謝謝。
1週間=2人 1ヶ月=8人 1年=159人
●最後の佐渡奉行、幕末維新の歌人、鈴木翠園も、少しずつ知られるようになってくるだろう。

鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説

目  次
一、はじめに
二、鈴木重嶺関係資料、昭和女子大学へ
三、鈴木重嶺略年譜稿
四、鈴木重嶺伝記関資料
五、最後の佐渡奉行・鈴木重嶺
六、鈴木重嶺と勝海舟
七、歌人・鈴木重嶺(翠園)
八、鈴木重嶺の人物像
九、おわりに

  一、はじめに

『国書人名辞典』(一九九五年五月二十五日、岩波書店発行)
「鈴木重嶺(すずき しげね) 幕臣・歌人 〔生没〕文化十一年(一八一四)六月生、明治三十一年(一八九八)十一月二十六日没。八十五歳。墓、東京西大久保全竜寺。〔名号〕本姓、穂積。初め小幡氏。名、重嶺・有定。字、子高。通称、大之進。号、翠園・緑堂・知足斎。法号、翠園重嶺居士。〔家系〕小幡多門の男。鈴木半次郎の養子。〔経歴〕江戸で生れる。養家を継いで幕臣となり、伊賀者・徒目付・勘定吟味役・勘定奉行・槍奉行などを経て、慶応元年(一八六五)佐渡奉行。諸大夫となり兵庫頭を称す。明治元年、職を免ぜられ田安家に身を寄せる。維新後、浜松県参事、相川県権知事を歴任し、明治十一年、辞職。従五位。村山素行・伊庭秀賢に学んで国学・和歌を能くし、退官後は東京で鶯蛙吟社を組織し、雑誌『詞林』を主宰した。師の年忌に『志能夫具佐』を出版。墨竹に長じた。
〔著作〕伊香保前橋之記 詠史清渚集 オトと子との差別或人問 於よづれ言 紀行 絹川花見の記 皇風大意〈文久元〉 御諡号概略 島曲廼古豆美〈慶応二〉 旅路記恵の露〈文久三〉 旅路廼日記〈文久三〉 二十二番扇合判 農諭〈慶応三〉 二荒山歌合 夢路の日記
〔参考〕国学者伝記集成 東京掃苔録 和歌文学大辞典 「鈴木重嶺翁小伝」(『旧幕府』2ノ3)」

『和歌文学大辞典』(昭和37年11月15日、明治書院発行
「鈴木重嶺(すずき しげね)文化一一(一八一四)――明治三一(一八九八)。八五歳。旧幕旗本の家に生。維新前後を通じて官界の諸職を歴任したが、その後官を辞して東京に出、鶯蛙吟社を組織し、月並歌会を催し、短歌雑誌『詞林』を発行した。『詞林』は後に、佐佐木信綱の『心の華』(心の花)に合併した。国学・歌を、橘千蔭系の村山素行・伊庭秀賢に学んだ。明治一三に発行された『開花新題歌集』、『大八洲学会雑誌』等の作者欄に名を列ね、明治二四の『早稲田文学』第三号の「現在の名家」に作品を載せているところから見ても、明治初期歌壇の名家と見なされていたことが知られる。歌風は、〈をみなへし尾花とふたつ争はばいづれがかみに立たむとすらむ〉(男女同権)〈小松むきすずな摘みにし野べに来て同じ名におふ虫を聞くかな〉という歌にも見られるように、平淡ではあるが、やや理に陥る弊がある。(清崎)」

鈴木重嶺との出会い
昭和四十八年から五十六年にかけて、近世末期の旗本女性の日記の校注をしていた。現在、昭和女子大学図書館・桜山文庫に所蔵されている『井関隆子日記』である。この日記の中に、佐渡の歌人・蔵田茂樹との交流の様子がかなり詳しく出てくる。隆子は、天保十四年一月晦日の条で、自分の創作『神代のいましめ』を茂樹に書写して贈ったと記している。この書写本が佐渡に伝存しているか否か調査したが未詳であった。しかし、学習院大学図書館の雕虫居写本の中に『迦美世能伊末志米』が収録されている事がわかり、早速閲覧、調査してみると、その巻末に「明治十七年十二月三十一日自薄晩至初更写歌集底本鈴木氏翠園叢書之一也 市谷書院」とあった。底本が鈴木氏の「翠園叢書」である事は判明したが、「翠園叢書」は国会図書館に一冊を所蔵するのみで、これには収録されていない。このような状態で数年が経過した。昭和五十一年十二月号『国語と国文学』の雑誌要目の中に、松本誠氏の鈴木重嶺に関する論文を発見、初めて松本氏にお会いすることができた。
実は、松本誠氏は鈴木重嶺の御子孫であり、最後の佐渡奉行であった重嶺の旧蔵書を全て所蔵しておられた。待望の『翠園叢書』全六十八巻六十七冊も閲覧させて頂くことができた。井関隆子の『神代のいましめ』がこの叢書に収録されたのは、蔵田茂樹の子の茂時が佐渡奉行の鈴木重嶺に献上したからであった。この『翠園叢書』には、他にも隆子の作品が収録されており、以後も松本氏には大変お世話になっていた。
翠園・重嶺は鈴木家の第十一代である。十二代重明の子・重孚にに継嗣が無く、重明の四女・ふゆと松本氏との間に生まれた松本誠氏が鈴木家を継ぎ、鈴木家の菩提寺・全龍寺の墓所も管理しておられた訳である。

松本誠氏の重嶺研究
松本氏は鈴木重嶺の御子孫という事もあり、御専門の国語学の研究の傍ら、御所蔵の資料の紹介を続けながら、重嶺の研究をしておられた。松本氏の重嶺関係の論考を列挙すると次の通りである。
○翠園鈴木重嶺旧蔵「穂積姓氏考」「蒲原記」について(一)(『関東短期大学紀要』第16集、昭和45年12月)
○翠園鈴木重嶺旧蔵「穂積姓氏考」「蒲原記」について(二)(『関東短期大学紀要』第17集、昭和46年12月)
○翠園鈴木重嶺編「志能夫具佐」(『関東短期大学紀要』第18集、昭和47年12月)
○鈴木重嶺編「翠園叢書」及び「翠園雑録」について――目録解題 その一――(『関東学園開学五十周年記念論文集』、昭和49年3月)
○鈴木重嶺編「翠園叢書」及び「翠園雑録」について――目録解題 その二――(『関東短期大学紀要』第20集、昭和50年3月
○鈴木重嶺編「翠園叢書」及び「翠園雑録」について――目録解題 その三――(『関東短期大学紀要』第20集、昭和51年3月
○翠園・鈴木重嶺年譜資料覚書(『近世の学芸――史伝と考証――』(昭和51年3月、八木書店)

  二、鈴木重嶺関係資料、昭和女子大学へ

 平成七年一月、松本誠先生は大学の研究室で急逝されてしまった。祖先・鈴木重嶺の伝記を目指して研究を続けておられたが、道半ばにして他界されたのである。後日の事であるが、奥様の松本栄子氏から蔵書の整理に関して相談された。松本先生には、長い間、御厚情を賜った関係もあり、私は所蔵本の整理を引き受けることにした。一日、御自宅に伺い、先生の所蔵本を、次の三種に分類した。一、一般書。二、松本先生の著書をはじめ国語学関係書。三、鈴木重嶺関係資料。これらの処置に関しては、奥様とも十分に御相談の上、松本誠先生が最も望まれると推測される方法をとる事になり、特に鈴木重嶺関係資料については慎重に検討した結果、私の勤務先である昭和女子大学図書館に寄贈して頂く事になった。
私は、昭和女子大学図書館とも相談して、鈴木重嶺関係資料を御寄贈頂く事にして、その作業を進めた。資料の中には、『翠園叢書』全六十八巻・六十七冊、『翠園雑録』全二十五巻・二十三冊をはじめ、重嶺の自筆本が多数含まれていた。さらに『故重嶺翁供物扣帳』『訃音啓送』『会葬人名簿』『吊客名簿』『持参帳控』『配付扣』『(葬儀記録)』等々、重嶺他界の折の記録など、伝記研究上極めて貴重な資料全てが含まれていた。重嶺の葬儀参列者名簿には合計一〇六八名の氏名が記録されていて、参列者の住所も記されているので、当時の東京の文化史的な史料としても貴重である。その他、鈴木家の表札、鈴木重嶺の名刺、重嶺愛用の桐製文机、写真二十七枚(重嶺、重明、重孚、本居豊穎、佐佐木信綱、榎本武揚、井上頼国、与謝野晶子等が写っている)、鈴木家墓石の拓本等々も含まれていて、やがて、鈴木重嶺伝記研究の基本的資料になるものと思われる。
これらの鈴木重嶺関係資料、全八〇点は、平成八年七月十六日、昭和女子大学に寄贈され、同図書館では「翠園文庫」を新設して、貴重書として管理保存している。
なお、その後、古書店に鈴木重嶺関係資料が出て、これらも大部分昭和女子大学で購入する事ができた。第一次購入は、平成十年二月四日、全四二点、第二次購入は、平成十一年十月一日、全一七〇点である。いずれも自筆草稿等が多数含まれ、鈴木重嶺研究の基本的資料が昭和女子大学図書館に収集出来た事になる。なお、昭和女子大学図書館では、国会図書館等に所蔵されている、鈴木重嶺関係資料の複写を収集して、その充実に努めている。
これらの鈴木重嶺関係資料の具体的な内容に関しては、全て報告済みである。それを列挙しておく。
○鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介 深沢秋男(『学苑』第六九四号、平成10年1月)
○鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(2)――付、飯田龍一氏旧蔵・江戸図関係資料紹介―― 深沢秋男(『学苑』第七〇五号、平成11年1月)
○鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(3) 深沢秋男(『学苑』第七一六号、平成12年1月)
○鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(4) 深沢秋男(『学苑』第七三八号、平成14年1月)

  三、鈴木重嶺略年譜稿

次の表を参照のこと。

【省略  原本参照】

〔注〕■=重嶺関係  □=鈴木家関係  ●=主要人物没日  ◎=参考事項
(平成16年2月13日稿)

  四、鈴木重嶺伝記関係資料

  1、鈴木家菩提寺 海亀山・全龍寺

鈴木家の菩提寺は、東京都新宿区大久保一-一六-一五に現存する、曹洞宗の海亀山・全龍寺である。ただし、二代・重元からである。初代・重経は、北条氏康に仕え、永禄十二年(一五六九)十二月六日、甲斐の国、武田信玄・勝頼父子の蒲原城攻めの折、主君・北条新三郎時之と共に戦死、駿州蒲原在善福寺村の善福寺に葬られた。二代・重元は、天正十八年(一五九〇)小田原合戦の折、徳川家に召し出され、武州豊島郡多摩郡六箇村の内、大久保村に采地四千坪余を賜った。寛永十二年(一六三五)病により致仕し、十三年十月八日没、武州豊島郡大久保村全龍寺に葬られた。以後、鈴木家は代々全龍寺を葬地として現在に及んでいる。
海亀山・全龍寺は、寛永四年(一六二七)成願寺(東京中野区)の第六世住職によって開山された。鈴木家の墓所には、二代・重元以下歴代の墓石九基が現存する。入口から入ってすぐ左手前に松本家の墓石二基がある。鈴木家第十三代の重孚に子が無かったので重孚の妹、十二代重明の四女ふゆと松本氏の子・誠氏が鈴木家を継いで、全龍寺の墓所も管理している。昭和五十三年墓所を改葬して、松本家の菩提寺、浅草の大音寺から二基を移管したのである。詳細については、いずれ報告する予定であるが、二代から現代まで、ほぼ元のままで伝存しているのは、伝記資料として貴重な存在である。今後は、この墓所・墓石の保存に留意して、後世へ伝えなければならない。

2、鈴木家過去帳(祀堂帳、松本栄子氏蔵)

鈴木家の菩提寺・全龍寺の過去帳は焼失して伝存しない。しかし、松本家には先祖代々の祀堂帳形式の過去帳が保存されている。折本形式で朔日から晦日まで(最後に三十一日あり)、縦一六九ミリ×横七〇ミリ、厚さ一二三ミリ。金の模様の布表紙、中央上部に金色の題簽があり、題簽題は記入されていない。明治末頃に書写され、以後補筆されたようにおもわれる。(平成十六年二月十九日最終調査)

『鈴木重嶺家過去帳』(祀堂帳)
松本栄子氏所蔵
穂積臣苗裔 鈴木荘司重国十一代孫

1、重 経
六日/英俊院殿雄山良貞居士/永禄十二己巳年十二月於蒲原城(戦死/駿州蒲原在善福寺村/葬地 善福寺
2、重 元
八日/海穏院殿甚浪清平居士/寛永十三子年十月/甚平重元君(葬地 武州豊嶋郡大久保村 全龍寺)
3、重 道
十日/賢梁院殿石室道鉄居士/延宝四辰年六月/源吾左衛門君(葬地 全龍寺)
4、重 清
八日/超道院殿真翁浄西居士/元禄十丑年十一月/七郎右衛門君(葬地 全龍寺)
5、重 利
廿九日/利貞院殿了安元随居士/正徳三巳年六月/六左衛門君(葬地 全龍寺)
6、重 秀
十四 /秀雲院殿乾峯良坤居士/寛延三午年十二月/鈴木六左衛門君(葬地 全龍寺)
7、重 高
十八 /慶松院殿梅岳道林居士/宝暦十三未年正月/鈴木新助君(葬地 全龍寺)
8、重 晃
四日/峯月院殿雪岩道光居士/寛政三辛亥十二月/文蔵君(葬地 全龍寺)
9、義 道(重高三男)�^
廿一日/賢性院殿寿山良光居士/弘化三丙午年正月/定八郎好道君(葬地 全龍寺)
10、重 親
十九日/義岳院殿華山道栄居士/文政十亥年九月/半次郎重親君(葬地 全龍寺)
〔没年は『翠園鈴木重嶺系図』の「天保二年辛卯五月廿八日死」が正しい〕
11、重 嶺
廿六日/十代目/従五位鈴木重嶺/号翠園/不受法名/明治三十一年十一月廿六日/享年八拾五歳/半次郎重親養子/小幡多門有則次男/実母堀江貞通妻/葬地大久保村全龍寺
12、重 明
(大正二年に満州撫順で客死)
13、重 孚
三日/清閑院慈徳重孚居士/昭和五年一月/鈴木重孚/西大久保全龍寺

〔参考〕鈴木家・松本家関係図

│――長女(早世)
○重嶺―○重明│―○重孚(嗣無く、絶家)
│――次男 巌
│――次女 多
│――三女 きせ
│――四女 ふゆ(松本家の養女となる)
│    (昭和33年没)
│――松本誠(平成7年没)
│    │
│    │

栄子

3、鈴木重嶺葬儀関係資料(昭和女子大学所蔵)

前述の如く、平成十年二月四日、松本栄子氏から、鈴木重嶺関係資料が昭和女子大学図書館に寄贈されたが、その中には、鈴木重嶺の伝記を作成する上で極めて重要な資料と判断される、重嶺他界の折の関係資料が含まれている。以下、簡略に紹介する。

A、故重嶺翁供物扣帳
半紙二つ折(横長)16枚綴、1帖。1枚目に「明治三十一年十一月廿六日」とある。「五円 榎本弁吉、拾円 勝安芳、壱円 中嶋歌子、壱円 佐佐木信綱、拾円 前田利嗣、拾円 三田徳川、壱円 荻野由之」等と記す。

B、訃音啓送
半紙二つ折(横長)8枚綴、1帖。1枚目に「訃音啓送/東京府内/一号/三十一年十一月廿六日」とあり、勝安芳、榎本武与、井上頼国、久我侯爵、水野忠敬、榎本武揚、近衛公爵、佐佐木信綱、黒川真頼、等の名を記す。

C、会葬人名簿
一号~四号、半紙二つ折(横長)16枚綴、1帖。第一号の1枚目に「会葬人名簿/第一号/惣人名弐百四十七」、第二号の1枚目に「会葬人名簿/第二号」、第三号の1枚目に「会葬人名簿/第三号」、第四号の1枚目に「会葬人名簿/第四号」とあり、江刺恒久、田口卯吉、佐佐木信綱、井上頼圀、文雅堂、久我侯爵、勝安芳、中島歌子、等の名がある。

D、吊客名簿
半紙二つ折(横長)12枚綴、1帖。1枚目に「吊客名簿/三十一年十一月廿六日」とあり、榎本武与、黒川真頼、黒川真道、水野忠敬、中島歌子、佐佐木信綱、正親町実正、萩野由之、江刺恒久、毎日新聞社、佐々木古信、井上正直、等の名がある。

E、持参帳控
半紙二つ折(横長)29枚綴、1帖。1枚目に「持参帳ひかへおぼへ/十月十三日くはり物」とある。「小石川竹早町六十五番地 佐々木古信、小石川水道町十四番地 中嶋歌子、牛込西五軒町四十七番地 江刺恒久、下二番町四十七番地 水野忠敬、小川町一番地 佐佐木信綱様(印)、今川小路まないた橋 玉川堂様(印)、東町三丁目 博文館/大橋佐平様(印)、尾張町 毎日新聞社御中(印)、麹町区富士見町五丁目十二番地 正親町様(印)、同富士見町弐丁目四十二番地 四条様(印)、赤坂氷川町四番地 勝従二位様(印)、等の氏名住所が記されている。

F、配付扣
半紙二つ折(横長)11枚綴、1帖。1枚目に「配付扣」とあり、榎本弁吉、榎本武与、黒川真頼、久我建通、大隈重信、水野忠敬、勝安芳、日龍社編輯局、中島哥子、榎本武揚、佐佐木信綱、三田葆光、鍋嶋直大、津軽伯爵、前田利嗣、田安伯、井上頼国、江刺恒久、佐々木古信、萩野由之等の名が記録されている。

G、〔葬儀記録〕
半紙二つ折(横長)37枚綴、1帖。朱筆にて「壱号」から「十五号」まで人名を記す。壱号には、正二位勲一等公爵 毛利元徳、従一位勲一等 近衛忠熈、従一位勲二等 正親町実徳、従一位勲一等久我建通、従二位勲二等侯爵 蜂須賀茂韶、従三位侯爵 前田利嗣、正三位勲三等伯爵 津軽承昭、正三位勲一等伯爵 勝安房、等28名。弐号には、四条春子、木戸寿栄子、徳川操子、等25名。三号には131名。四号には61名。五号には94名。六号には、本居豊穎、黒川真頼、小中村清矩、井上頼圀、三田葆光、萩野由之、江刺恒久、佐々木古信、佐佐木信綱、等31名。七号には、中島哥子、等72名。八号には28名。九号には104名。十号には140名。十一号には64名。十二号には41名。十三号には55名。十四号には37名。十五号には157名。合計 1068名の葬儀参列者(代理も含めて)が記録去れている。

その他、喪主からの会葬礼状、葬儀諸費用覚、重嶺追悼歌会に関する記録、重嶺追悼歌会に関する新聞広告、等々葬儀に関係した記録があり、さらに、鈴木家初代の重経の墓石「穂積重経之墓」の拓本等、いずれも伝記研究の第一級の資料が伝存している。今後、十分な資料批判を加えて活用するならば、重嶺の伝記研究は大きく結実するものと思われる。

  五、最後の佐渡奉行・鈴木重嶺

 鈴木重嶺は幕臣・小幡有則の次男として江戸に生まれ、鈴木重親の養子となって鈴木家を継いだ。十八歳の時、小普請入りし、家督を相続し、以後、広敷伊賀者、広敷取締掛、勘定吟味役、勘定組頭、勘定奉行、鎗奉行、佐渡奉行を勤めた。『柳営補任』『徳川実紀』の記録は次の如くである。

◎勘定組頭、安政二年六月(一八五五)      『柳営補任』
「安政二年卯六月三日御勘定ヨリ、永々御目見以上/文久二戌七月廿六日御勘定吟味役/御勝手方/鈴木大之進」
◎勘定吟味役、文久二年七月(一八六二)     『柳営補任』
「文久二戌七月廿六日御勘定組頭ヨリ、百俵高御加増被成下/同三亥六月七日大坂表江為御用被遣/元治元子七月二日御勘定奉行並/鈴木大之進/重嶺」
◎勘定奉行、元治元年七月(一八六四)      『柳営補任』
「元治元子七月二日御勘定吟味役ヨリ、並、御勝手掛リ/同年同月廿三日御鑓奉行/鈴木大之進/重嶺」
◎鎗奉行、元治元年七月(一八六四)       『柳営補任』
「元治元子七月廿三日御勘定奉行並ヨリ/同年八月十四日長州御征伐御供/同月十八日御役御免、勤仕並寄合/鈴木大之進/重嶺
◎佐渡奉行、慶応元年九月(一八六五)      『柳営補任』
「慶応元丑九月十三日勤仕並寄合ヨリ、元御鑓奉行/同三卯十二月十四日奉書以出精相勤候ニ付諸大夫被仰付/同四辰閏四月十六日御役御免/鈴木大之進/兵庫頭/重嶺」

◎文久元年二月二十九日(一八六一)       『徳川実紀』
「廿九日/一 金三枚/時服二  御勘定/鈴木大之進」
◎文久元年六月朔日(一八六一)         『徳川実紀』
「御納戸搆/日光/御宮并/御霊屋御修復御用仕廻/罷帰候/御勘定組頭/鈴木大之進」
◎文久二年七月廿六日(一八六二)        『徳川実紀』
「御勘定吟味役/百俵高ニ御加増/御勘定組頭/鈴木大之進〔重嶺〕/右於御前被仰付之。/但大之進ハ老中申渡。過而御前江被召出。」
◎文久二年十二月廿九日(一八六二)       『徳川実紀』
「同断(仏蘭西。英吉利。其外国々江為御使被差遣。挌別骨折候)ニ付。右於御前被仰付之。……/巻物五/同(御勘定)組頭/鈴木大之進」
◎文久三年二月九日(一八六三)         『徳川実紀』
「九日 上野御使。大坂近海御台場御取建ニ付。於江戸表御用取扱。……一上野 文恭院様御霊前江。……右 御献備。……御勘定吟味役/鈴木大之進」

この外、幕府の記録としては『寛政重修諸家譜』等があるが、該当する鈴木家を確定する事ができなかった。今後、さらに調査を進めてゆきたい。
鈴木重嶺は、元治元年(一八六四)八月十八日御役御免となり、勤仕並寄合となるが、翌慶応元九月十三日佐渡奉行に任命される。 この佐渡奉行拝命について、重嶺の和歌の教え子・石倉翠葉は、大正五年(一九一六)の雑誌『旅行倶楽部』に掲載の「佐渡の思ひ出 西郷南洲……勝海舟……鈴木重嶺」で次の如く記している。

「……かう申しては失礼であるが、維新の当時に於ける佐渡人士は、極めて偏屈で御し難い風があつたさうで、何人が知事として赴任しても治め兼ねる程で、蓋世の英雄西郷隆盛も、遉に頭を悩まされた。所謂人選に苦んで居られたのである。されば平常人に逢ふ毎に此事を口にせられて、遂に日頃心服されつゝあつた海舟翁に相談せられた。すると翁は即座に「それは適当な人物がある。未だ世間に名は知られぬ男であるが、鈴木と云ふものがある。渠なれば慥に適任であるから、直ぐ今から辞令を出さつしやい。」「左様か、それは有難い」とばかり、素より海舟翁の推薦であるから、一も二もなく南洲翁も信頼せられて、速座に辞令が認められた。微賤の重嶺翁は一躍して佐渡守となつたのである。…」

おそらく、歌の弟子の翠葉に重嶺が語っていた事であろう。元治元年の時点で、勝海舟は軍艦奉行であり、西郷隆盛は軍賦役・小納戸頭取となり、十月に大坂で勝海舟・西郷隆盛は会談をしている。元治元年九月十一日付、勝海舟宛の西郷隆盛書簡には、「弥御安泰御座成られ珍重に存じ奉り候。然れば、分けて御談合申し上げ度き儀これあり、今朝下坂仕り候。御都合に依り何れの御旅亭へ参上仕り候て宜しく候や。刻限何比御手透の訳、何卒面倒乍ら御指示論成し下され度く願い奉り候。この旨貴意得奉り候。以上/勝安房守様 御取次衆/薩藩 大島吉之助」『勝海舟全集』別巻一、二五五頁、一九八二年四月一五日、勁草書房発行)
このようにあり、さらに、海舟日記、元治元年九月十一日の条には、
「●十一日/豊後殿御旅館へ参上。京師にて薩藩より建議あり、その言は、防長二州は半国を以て禁裡の御物成とし、半ば征討の諸侯へ下されべし。且、京師紛擾焼失の者へは悉く御手当下され然るべし。さりながら今、長征如何哉、知るべからず。まず此見込みを以て用途は政府より御差出し成らるべきか。さりながら御多端中、御用途如何。その内、薩州より差出し申すべくとなり。(是、その大意を記す)
○薩人大島吉之助、吉井中〔幸〕助、越人青山小三郎、来訪。云う、長征の御議紛々、決せず、関東御混雑、実に策の行わるべき無し。邦人紛擾再生せんか。如何して可ならむやと云う。今、天下危急日々相迫り、一人も実意邦家に尽す者なし。上下大抵私営、小節、又、嫌忌を避くるのみ。かくの如くにて如何ぞ瓦解せざらん哉云々。」(『勝海舟全集』十八巻、二一六頁)
とある。この西郷書簡は,おそらく、大坂での会談の打合せだろうと推測される。これらの事も合わせ考えて、石倉翠葉の言う、重嶺の佐渡奉行への出世は勝海舟の推薦によるもの、というのは、真相を衝いているように思われる。

佐渡研究の権威・山本修之助氏は『佐渡の百年』(昭和47年6月14日発行)で、重嶺の佐渡奉行着任の様子を次の如く記している。

「……彼は慶応元年九月十四日、佐渡奉行を命ぜられ十月二十八日に江戸を出発、十一月十四日に越後出雲崎に着いた。ちょうど海は冬のシケ続きのため一か月も船待ちをした。……鈴木兵庫頭はついに十二月十四日船頭に船出を命じた。もちろん天候は悪く、それは無謀といえるかもしれなかった。しかし彼は、この荒波をおかして渡ってきた奉行の熱意を、佐渡人はわかってくれることを信じていた。北海の怒濤の中を御奉行船は進んだ。さすがの大船も、このさかまく波には木の葉のようにほんろうされた。奥方も侍女もとうに船中に倒れ伏している。この時、彼は船首に立った。そして美しい筆跡の奉書をひろげ、
国のため 大君のため わたる船路ぞ 日を経ずも 追手吹かせよ わだつみの神
と旋頭歌一首を朗読し「奉 海神歌」と書いた表紙に包んで海中に投げ入れた。……
十六日に相川着、十七日から奉行所で執務を開始した。いらい二年三か月、佐渡奉行職としては百一人目。そして最後の奉行として治績をあげた。慶応三年十二月十四日、諸大夫を仰せつけられている。伊賀者という低い身分から、ついに諸大夫という地位に進んだものは、勝安房守と都築駿河守と彼の三人だけであるということからも、いかにすぐれていたかがうかがわれる。」

重嶺は、明治元年閏四月十六日、明治維新によって御役御免となったが、明治四年には相川県参事として再び佐渡へ渡り、同六年には相川県権知事となり、同九年四月十八日、廃県により免職となって東京へ帰った。この間、約十年間、佐渡の地で活躍している。これは重嶺の生涯の中でも重要な意味を持つ期間となっている。この関連の資料は、佐渡にも大量に残されている。具体的な調査はこれからである。

  六、鈴木重嶺と勝海舟

 鈴木重嶺と勝海舟の関係が深い事は、すでに見てきたところからも明らかであるが、『海舟日記』等の記録から、これを確認しておきたい。『勝海舟全集』(一九七二~七三、勁草書房)第十八巻~二十一巻に、文久二年(一八六一)から明治三十一年(一八九八)までの日記が収録されている。この内、重嶺との関係が記録されているのは、主として明治十六年以後である。重嶺が幕府及び新政府の役職を辞し、和歌や国学など文化的な活動を始めてからという事になる。一読したのみであるから見落としもあるかと思うが、多くの場合、氏名が記されるのみである。おそらく、重嶺が勝海舟の家を訪ね、話し合った事を意味するものと推測される。まず、重嶺の名前が出てくる年月日を列挙すると以下の如くである。

明治十六年(一八八三)
5月28日・11月11日。
明治十七年(一八八四)
3月16日・25日・5月5日・30日・6月13日・28日・9月4日・11日・10日・26日・27日・11月1日・12月5日・21日。
明治十八年(一八八五)
1月30日・5月4日・6月10日・13日・7月14日・9月11日・10月4日・18日・11月9日・12月26日。
明治十九年(一八八六)
1月5日・2月25日・3月26日・5月30日・6月9日・7月1日・9月3日・19日・10月1日・5日・9日・10日・20日・11月23日・12月29日。。
明治二十年(一八八七)
1月15日・2月14日・3月20日・4月23日・30日・5月11日・6月20日・25日・7月4日・18日・9月5日・10月16日・29日・11月3日・12月21日。
明治二十一年(一八八八)
1月28日・5月1日・6月1日・8月9日・19日・9月6日・25日・11月10日・12月25日・30日。
明治二十二年(一八八九)
2月10日・3月31日・6月26日・7月23日・8月5日・9月5日・10月3日・12月6日・16日・23日・31日。
明治二十三年(一八九〇)
1月3日・3月20日・28日・5月14日・6月13日・7月21日・10月13日・28日・12月23日。
明治二十四年(一八九一)
1月15日・2月21日・3月28日・4月5日・28日・5月29日・7月16日・28日・8月14日・11月9日・12月4日・
明治二十五年(一八九二)
1月3日・4月24日・30日・5月13日・6月19日・7月20日・9月9日・10月1日。
明治二十九年(一八九六)
1月19日。
明治三十一年(一八九八)
11月26日。

以上、名前の出ている日を掲げたが、この中で、名前のみではな
く、要件等が書き加えられている日は次の如くである。

明治十六年(一八八三)
○11月11日「鈴木重嶺へ、象山書の代十円遣わす。」
明治十七年(一八八四)
○3月16日「鈴木重嶺、天璋院追懐の歌取り集め出来、持参。五円遣わす。」
○5月19日「鈴木重嶺、「大三河風土記」の代二十円。文昭院〔六代家宣〕様御筆二幅七円渡す。」
○6月13日「鈴木重嶺、出板代二十円渡す。神田辺行。」
○6月28日「鈴木重嶺、三十円渡す。上野行。」
○9月4日「鈴木重嶺、廿八日に越後より帰り候旨、本十冊遣わす。千駄ヶ谷行。」
○10月26日「鈴木重嶺、武芸館へ拙筆十枚差し出し置き候様申し聞け遣わす。」
○12月5日「鈴木重嶺、千駄ヶ谷へ永井の手紙持たせわす。」
明治十八年(一八八五)
○1月30日「鈴木重嶺、掛物の代二十五円渡す。」
○6月10日「鈴木重嶺、二男、保証人、忰頼み度く申し候。」
○10月4日「鈴木重嶺、隠居所建てたきと云う。金員の話。」
○10月18日「久留栄、鈴木拝借の事につき内談、整う。」
明治十九年(一八八六)
○3月26日「鈴木重嶺、掛物買揚げ、十円渡す。」
○7月1日「鈴木重嶺、小栗養子取もどしの件引受け人三枝守富と云う者。」
○10月1日「鈴木重嶺、庵室造り候故、百円、田安殿より拝借致し度き旨申し聞く。
○10月5日「鈴木重嶺へ、草稿持たせ遣わす。」
○10月9日「鈴木重嶺へ、千家の事云々。」
○10月10日「久留栄、鈴木拝借の金子百円持参。」
○10月20日「鈴木重嶺百円借金渡す。」
○12月29日「鈴木重嶺、歳暮一円。」
明治二十年(一八八七)
○2月14日「鈴木重嶺。溝口へ、小栗養子戻しの事につき、小封認め遣わす。」
○4月23日「鈴木重嶺、高崎へ訪問約。」
○4月30日「鈴木重嶺方行。」
○7月18日「鈴木重嶺、掛物代十五円遣わす。」
明治二十一年(一八八八)
○8月27日「鈴木重嶺忰。」
○12月30日「鈴木重嶺、刀代三円遣わす。」
明治二十二年(一八八九)
○6月2日「富田鉄之助、鈴木忰の事、談。」
○12月6日「鈴木重嶺、十五円借遣わす。」
明治二十三年(一八九〇)
○5月14日「鈴木重嶺、五円借遣わす。」
○12月23日「鈴木重嶺、歳暮五円、反物二遣わす。」
明治二十四年(一八九一)
○5月29日「鈴木重嶺、二十円借遣わす。」
○7月16日「鈴木重嶺、五円中元。」
○12月4日「鈴木重嶺、十円遣わす。」
明治二十五年(一八九二)
○4月24日「鈴木重嶺、五十円遣わす。」
○4月30日「鈴木重嶺、掛物返却。」
○9月9日「鈴木重嶺、十円返却。」
明治二十九年(一八九六)
○1月19日「此頃、旧知死する者多し。来訪中半ば逝く。高齢者は
二十九年二月認 岡本黄石 八十四歳   吉見氏   八十八
向山黄村   七十   久留栄   七十七
鈴木重嶺  八十三   駒井竹所  七十三
小栗直三  八十二   近衛公   八十九
諏訪忠誠  七十四   竹本要斎
佐久間鐇五郎 七十   神谷銀一郎 七十七
明治三十一年(一八九八)
○11月26日「鈴木重嶺、病死。」

   七、歌人・鈴木重嶺(翠園)

1、重嶺・翠園の歌の原点
鈴木重嶺は、十八歳の頃から和歌を村山素行に学び、後には伊庭秀賢に就いて学んでいる。そして幕臣として勤務している間も歌や国学に励んでいた。言わば武人派と言うよりも文人派の武士であったと言ってよい。没する前年に自分の人生を振り返った文章が残されている。その中で、

「私ハ小普請から二十才位でしたらうか、御広敷伊賀へ出まして、八、九年も勤めましたらう。其内に水野越前守殿の御改革で、丁度其頃留守居を勤めて、八丁堀ニ邸のこさいました松平内匠頭が、支配向の免許以上の武術見分をいたすといふので、私も剣術を受けて出ました。御広敷番の頭で窪田源太夫と云ふ人が取扱で有ましたか、此人ハ私の柔術の師匠の悴で、岡田真澄の門弟ニて歌を詠みますゆへ、武術の見分の済みました跡で、鼻紙へ一首歌を認めて見せました。
つるぎだち鞘にをさめし世になれて
みがかぬわざのはづかしきかな
窪田氏か見まして、夫れを内匠頭へ出しましたので、私ハ其頃大之進と申しましたか、其歌を短冊に認めて差出すやうことの命か有りました故、サウ云ふつもりで詠むだのでハこさいまんでしたが、拠ところなく宅へ戻りましたから、短冊へ認め、翌朝出勤がけに御留守部屋へ持参致しました。スルト武術見分帳を差出す時、私のヘボ歌を添へ、越前守殿へ進達になりました。内匠頭と云ふ人は親切な人てごさいまして、其頃、御徒土日付が五六人あきが有りましたので、ドウゾ大之進を御徒士目付にして戴きたいと云はれたそうで、越前殿も早速御承引下すつて、私は御徒土日付ニなりました。全体私ハ十八の年から、加藤千蔭の門人の村山素行と申す者ニ歌を学びましたが、此時より一層心を入れて生涯歌はやめまいと存じました。歌の御蔭で出世の緒を得た故ニサウ思つたやうこ聞へますが、左様ばかりでハこざいません。我邦ニ於きまして、神代より伝つて居りますものハ歌ばかりて、其前は文字を始め、皆他国から参つたものてございますから、何うか此歌の道はかりハ廃らぬやうこしたい。歌を致しますのハ、取りもなほさす、此国体を知るの道でこさいまして、自国の事を知らないでハ、此国に居る詮のないことで、日本ニ居て日本の学問を知らないで、他国の学問をすると云ふのハ間違つた話てごさいます」
(金井町図書棺・岩木文庫所蔵『鈴木重嶺翁小伝』)

重嶺は、佐渡奉行時代も、勤務のかたわら、和歌を奨励し、官界を退いてからの二十年間余も和歌を創り、その指導に打ち込んでいるが、その原点は、二十歳の頃の、この出来事であったように思われる。この若い頃の和歌への思いが、生涯持続されていた訳である。

2、鈴木重嶺の著作一覧
1、伊香保前橋之記 1冊。地誌。写本=国会図書館(桜園叢書41)・学習院大学図書舘。
2、詠史清渚集 1冊。写本。昭和女子大学図書館(翠園文庫)、竹棺園文庫。
3、オトと子との差別或人間 1冊。写本。国会図書館(桜園叢書68)。
4、於よづれ言 1冊。写本。静嘉堂文庫。
5、紀行 1冊。写本。国会図書舘(桜園叢書41)。
6、絹梢川花見の記 1冊。写本。国会図書館(二荒廼山裏の内)。
7、御諡号概略 有職故実。1冊。写本。国会図書館(桜園叢書11)
8、夢路の日記 1冊。写本。国会図書館(柱園叢書41)、無窮会・神習文庫(玉麁一九三)、昭和女子大学図書館(翠園文庫)。
9、二荒山歌合 1冊。写本。内閣文庫。
10、皇風大意 1冊。写本。国会図書舘(桜園叢書15)、無窮会・神文庫。
11、旅路記恵の露 1冊。写本。国会図書館(桜園叢書41)、無窮会・神習文庫。
12、島曲廼古豆美 1冊。写本。国会図書館(桜園叢書1)、昭和女子大学図書館(翠園文庫)。
13、旅路廼日記 1冊。写本。昭和女子大学図書館(翠園文庫)、国会図書館(桜園叢書41)
14、翠園兼当歌 1冊。写本。昭和女子大学図書館(翠園文庫)
15、雅言解 4巻4冊。版本。昭和女子大学図書館(翠園文庫)、深沢秋男、等。
☆これらは鈴木重嶺の著作の一部であり、今後の調査で、さらに多くの歌集や著書が出てくるものと予想される。

3、翠園と樋口一葉
中島歌子の月次会に出席の様子が、樋口一葉の日記に出る。重嶺は、和歌の月次会には積極的に参加して、多くの人々を指導している。

◎明治24年6月10日(萩の舎の年齢くらべ)
「一日師の君のもとに小集有し時、「座中の男女の年齢比らべせん」といふ人あり。「夫をかしからん」とて師もの給ふ。男は六人にて女は十四人有り。「負くべきにはあらず」とおもへば、文雅堂のあるじ伊豆田、一渡りみ渡して数をとる。鈴木重嶺うしは「七十八」との給ふ。「これ計にても女子の方の四人振は有よ」とて一同笑ふ。梅村のりをぬし七十、加藤安彦うし七十二、はや二百の数はこえたり。江刺恒久君七十、木村正養君少し下りて四十九、水野忠敬子四十、合て「三百七十九」との給ふ。女の方は師の君四十八、伊東延子ぬし五十九、みの子ぬし三十五、とよ子ぬしも同じく、かとり子ぬし四十七、小川信子ぬし四十五、これら少しは数のうちながら、残るはいづれも/\口をしきまでに若し。高田不二子ぬし廿三、前田きく子ぬし廿、田辺静子ぬしも「おなじく」伊東の夏子ぬしも「同じく」といへば師の君、「雷同し給ふにはあらずや」との給ふ。小笠原のつや子ぬし十六、広子ぬし十九、中む田恒子ぬしの十三などいふこと更に口をし。おのれは「廿」といへば、師の君、「あまりの掛値也。まけじだましゐか」と笑ひ給ふ。誠のことなるものから、いつまでも若き様に思ひ給ふもをかし。……」

◎明治25年3月9日(月次会)
「九日 晴天。早朝より支度をなして小石川へ行く。月次会なり。暫時ありて田中君まいらる。今日の来会者三十八、九名成し。島田政君も参られたり。点取題「野鷺」にて重嶺、恒久、信網、安彦四君の点なり。恒久君の甲重嶺君、安彦君の甲恒久君、重嶺君甲安彦君成しかば、「こは誠に詮なし」などいふ。信網君の甲はおのれ成けり。……」

4、斎藤茂吉の明治大正短歌史の研究

幕末明治の激動の時代の中で、当然のことながら、和歌の流れも著しく変遷している。しかし、その研究は十分に行われているとは言い難い。中での労作は斎藤茂吉の研究と言ってもよかろう。『斎藤茂吉全集』第二十一巻(昭和48年8月13日、岩波書店発行)に収録された「明治大正短歌史概観」「明治大正和歌史」は旧派歌人、新派歌人の関係を適切に伝えていると思われる。この中で、鈴木重嶺・翠園はどのように位置づけられているか。簡単に紹介したい。

「旧派歌人と謂つてもその数は実に多い。その一々は私は知らぬ。併し、「明治歌集」あたりを一寸見ても奈何にその数の多いかが分かる。ただ明治、大正の歌風をば新派の歌にその特色を見出すとせば、明治天皇の傍に昭憲皇太后様をおき、三条実美、八田知紀、高崎正風、小出薬、黒田清綱、福羽美静、本居豊穎、宝田通文、鈴木重嶺、松波資之ぐらゐを以て代表せしめ、女流に税所敦子、中島歌子ぐらゐをおき、海上胤平とか、愚庵和尚とかをば特殊な歌人と看傲して掘ゑるに止めて、あとは新派和歌連動以後の時期に移つて行つていいだらうと思ふ。
旧派の歌といつても、兎に角香川景樹あたりが当時新派のつもりで昧出した歌風の名残であるから数多くの中から拾へば相当の佳作にも逢著するに相違なく、古今集以来の長い伝統で、気の利いた良い技巧をも認め得るのであるが、大体からいへば、生気が無く納まりかへつてしまつて、どうしても堂上人、富豪の弄び物といふ風のものが多い。」 (58頁)

「「明治現存三十六歌撰」は、山田兼益編集、竹本石亭画で、明治十年六月二十八日出板になつた。これを見ると当時現存の大家の歌一首づつ載つてゐるから、明治十年ごろ、即ち、第二期の初頭ごろの歌壇の風潮をうかがひ知る事が出来るから、煩しきごとくであるが、左に録する。」
として、「千鳥 もしは汲むあまのまてがたまてしばしおりたちかねて千鳥なくなり  鈴木重嶺」と重嶺の歌も掲出している。(93頁)
「明治二十四年の「早稲田文学」第三号に、「現在の名家」と題して歌の見本が載せてある。これは当時の歌壇全般を見るのに便利であるから次に抄録する。序に、『明治の大御代となりて諸般の学芸起りたれば、和歌も朝野共に行はれ、其の名の聞ゆる人また多し。この人々はおはかた折衷の主義を取れるが如く、その説を聞くに、多くはただ自然にあり、所謂見るもの聞くものにつきて云ひいづべしなどいふ。然れども、なほ其の実際につきてこれを味へば、其の基く所もとより一様ならず。其の証を見んとおもはば諸名家の歌えらみてまゐらせん』といふのも興深い。」として、十名の歌を掲出している。重嶺の歌は「小松ひきすずな摘みにし野べに来て同じ名におふ虫を聞くかな/分けゆかば宿れる月や乱れなむ踏ままくをしき野路の露原 鈴木重嶺」 (一一一頁)
「大久保忠保編の「開花新題歌集」は、専ら新題の歌のみを縞韓したものである。第一縞は明治十一年十一月、第二編は明治十三年十一月、第三編は明治十七年一月に発行になつてゐる。第一編の序文中に、『今維新開化の御代となりて、西洋の国々とむつび、其国どものふりにまつりごたせたまふ時にしあれば、見る物聞物むかしにあらぬものぞ多かりける。かれ、おほやけよりも月次の御題にてさる歌を人々によませたまひ、わたくしにも、其見るもの聞物を題にて歌よむもの漸くいで釆にけり』云々とあるにてその気勢がわかる。
男女同権/をみなへし尾花とふたつ争はばいづれがかみに立たむとすらむ 鈴木重額……(藤波教忠・境涯容盛・大久保忠保・星野千之の歌を引く)
かくの如き種類の歌であるから、題は新題で従来の題に比べて尽く目新しいものであるが、歌の実質は新しくは未だなつてゐない。……」 (三〇一頁)

斎藤茂吉は、明治の歌壇を概観して、膨大な歌を整理している。「明治大正和歌史」の第八章結語を導き出すのは難事業であった事と推察される。しかし、これはあくまでも概観である。この中で鈴木重嶺は旧派歌人の代表的歌人の一人として位置づけられている。今後はその具体的な研究が求められる事になる。従来の文学辞典類の記述も、重嶺の歌に広く目を通して書かれているとは思われない。たまたま雑誌に掲載された作品の範囲で判断しているように思われる。
今後は、重嶺の歌・歌論・著作の集成をする必要がある。そして、幕末維新を生きた、歌人の作品を具体的に分析して、これを和歌史の中での妥当な位置づけをしなければならないだろう。

  八、鈴木重嶺の人物像

 一、能吏と歌人と

鈴木重嶺の生涯を整理した八十五年の年表を作成して気付いた事であるが、重嶺の生涯は大きく三期に分けて考えると便利のように思う。第一期は出生から二十年間、これは、当然のことながら修養の時期。第二期は、天保四年八月、小普請から広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、徒目付、勘定吟味役、勘定組頭、勘定吟味役再任、勘定奉行、鎗奉行、佐渡奉行、相川県参事、相川県権知事と、徳川幕府の家臣及び新政府の官吏として活躍した時期、これがほぼ四十五年間。第三期は明治九年相川県知事を辞し東京に帰ってから没するまでの約二十年間。これは、国学者・歌人として活躍した時期である。勿論、人の一生がこのように画然と区分できるものでないのは当然であり、それぞれ重複し相乗的に経過していた事ではある。
重嶺は能吏であった。詳細な検討はこれからであるが、この職歴から見てもそう言ってよいだろう。出自は決して恵まれていたとは言えない。明屋敷伊賀の出で、この内、小普請から出発して諸大夫まで出世したのは、重嶺と勝安房守と都筑駿河守の三人のみだという。重嶺の場合、上役・同僚にも恵まれていたと言える。徒目付への登用は、広敷番頭の窪田源太夫、松平内匠守の引き立てによるものであり、水野越前守の承認を得てのものであった。また、佐渡奉行拝命の折も、勝海舟が西郷隆盛に推薦して実現したものらしい。このように、人生の要所要所で、同僚・上役に引き立ててもらっている。しかし、重嶺自身にその任を全うするだけの度量と能力がなければ、この大任を果たす事は出来なかったであろう。小幡大之進・鈴木重嶺にはそれがあったのである。
重嶺は武人派というよりも、文人派の幕臣であった。天保十二年の頃、武術見分に応募した折、「つるぎだち鞘にをさめし世になれてみがかぬわざのはづかしきかな」の一首を詠じて上司に差し出している。謙遜ではあろうが、自省でもあったと思われる。重嶺は、この時すでに、村山素行に就いて国学や和歌を学んでいた。この文人派的要素が、佐渡奉行等の要職をそれなりに全うし得た理由ではなかったかと密かに想像している。佐渡相川の在任中も、多くの人々に和歌を教え、その門弟は百名に及んだと伝えられている。重嶺の伝記を書くに当たって、これらの点を考慮しながら進めたいと思っている。

二、『新潟新聞』の記録

鈴木重嶺は、明治三十一年(一八九八)十一月二十六日、八十五歳の生涯を閉じているが、その前後の様子を『新潟新聞』の記事がよく伝えている。その人柄を考える上でも貴重な記録であるので、ここに紹介したい。

1、鈴木重嶺翁の重傷・新潟新聞・明治31年11月22日
歌道の大家鈴木重嶺翁(元相川県権令)は今年八十余歳の高齢に達して、而も矍鑠たること壮者も及ばず。常に朴歯の下駄を穿て其健脚を誇り居りしが、去る十三日の夜さる歌筵よりの帰途、例になく雇ひし人力車覆りて翁は右の脇より肩へかけて挫傷を負ひ、目下危篤の容体なりといへり。

2、故鈴木重嶺翁逸話・新潟新聞・明治31年12月2日
翁は維新の際、田安家の家老となりしが、折柄甲州に百姓一揆起り、騒擾二ケ月に垂んとす。然るに何人も之れを鎮定する者なかりしかば、翁は主命に依り鎮撫に向ひしに、一揆の百姓等は翁の徳風を望みて出迎へたり。翁は之れを陣屋に招きて懇々と諭すに、利害得失を以てし、且つ告げて曰く、往時甲州の地は信義に厚しと聞えた武田信玄の領地なれば、自然此地の百姓は義を重んずべき筈なり。然るに斯く騒擾を極めて上の手数を煩はするは、義に缺け理に悖るにあらずや。と縷々説く処あり。抑も此騒動の原因は旧主領に叛して、朝廷に帰せんとするにありしを以て、翁も亦世の趨勢を看破したれば、早晩、廃藩置県の制度となるべし、と述べけるに皆々、其罪を謝し、一揆鎮定したりとぞ。翁、挂冠後は日々の如く諸家の歌会に臨み、二十年来一回だも欠席することなかりしは、畢竟無病強健なるが故なりとはいへ、之に依つて見るも幕府五代の君に仕へて永年忠勤の程も思ひやらるゝなり。翁は常に仏法嫌ひなりしを以て、予て其遺言にも死後僧侶の引導は無用なり。又、読経は成るべく短くして、会葬者に長く時間を費しめざるやうなしくれよと、告げたりしといふ。

3、故鈴木重嶺翁逸話・新潟新聞・明治31年12月6日
翁が歌の師の村上素行なるよしは前にも記せしが、素行は田安家に仕へて加茂真淵の学統を引く。又、伊庭秀堅にも従ひたり。翁の門人数百人、全国に散在すれども、歌道不振の時節とて、歌にて門戸を張る程のものは少く、多くは斯道に遊べる老人抔なれども、中にて名を知られたるは屋代柳魚、小俣景徳の二人なり。然れども皆翁に先ちて逝けり。
重嶺社中にて、名を知らるゝ者には先光清風あり。又、歌の門人に富みたる者としては篠田謙治あり。幹事にして最も古きを山田謙益とす。
翁には実子なく嗣子重明氏は襁褓より養はるゝ処と云ふ。翁は書をみて最も竹を描くに長ず。其翠園の号を附して人に贈れるもの亦甚だ少からず。清節霜を凌で、卓然雲に聳るの気、自ら丹青の間に透
以上は翁が逸話の一班のみ。若し夫れ徐に翠園叢書を繙いて、八十余年の事歴を覗へば、数千万言尚ほ且つ足らざるものあるを知らん。

○故鈴木重嶺翁誄詞
これは旧田安藩懇親会副会頭村田直景氏故翁の柩前に朗読せし誄詞なり。
□明治卅一年十一月廿六日、旧田安藩懇親会々頭翠園鈴木君卒す。越に三日西郊大窪の全龍寺に葬る。嗚呼君人材を以て夙に幕府に抜擢せられ、累にりに佐渡奉行に遷り兵庫頭に官す。維新の後来て我旧藩に老職たり。廃藩置県の制行はるゝに及で、君復徴されて相川県参事と為り、で権令に任ず。抑々君の佐渡に於る既に経歴あり。治績大に挙る。明治七年詔して順徳天皇を水無瀬宮奉祀し給ふ。其六月真野山の御陵より京都還幸の儀あり。奉迎使式部頭橋本実梁佐渡に至る。式部寮出仕清水正穀従ふ。君権参事磯部最信をして事に当らしむ。最信正穀と曾つて藩に在て、事を共にしたるもの是に於てか議能く恊ひ、還幸の大典一も遺憾なきは、君が人を知て善く任するの致す所なり。正穀帰て後、常に之を称せり。幾ばくも無くして、君病で職を辞す。功を以て例して従五位に叙す。君多年思を国史に潜め、殊に詠歌に長ず。仕を致してより後斯道を以て己が任と為す。名望朝野に重し。我懇親会の創立するや、君推戴せられて会頭たり。爾来此会の強固なる所以のもの、実に君が名望の重きに依らずんばあらず。今や慮らざるの傷に罹り、臥床纔かに十余日、終に起たざるに至る。嗚呼哀哉、然りと雖も生を待て□せず、死に隨て亡せざるものあり。君が八旬の高齢を以て、此会に尽せるの精神是なり。夫其精神を永遠に戴て、此会をして益々隆昌ならしめば、君在さゞるも猶在すの年の如けん。爰に会員に代て、敢て至情を表せんが為に、旧田安藩懇親会副会頭村田直景謹で柩前に拝告す。希くは□けよ。

4、故鈴木重嶺翁逸話・新潟新聞・明治31年12月11日
明治三年の事とかや、千葉県の山野を開墾せんとて翁に商れる者あり。翁も其はよき事と賛成しけるに、愈々株金を募りて願出づれば、政府は之を許可せずとて、発起者は腹かき切ッて一同に謝罪せり。其後、相川県より帰りて、此よしを聞き、且つ面りに株主等の貧困せるを見て、惻隠の心に得堪へず、一家の私産を悉く売り払ひ、数千円の金に代へて之を株主等に分配しぬ。翁が家の裕ならざりしは、蓋し之が為なり。
翁は涙に富み、平生道路に貧人を見る時は財を惜まずして、之に与ふ其数幾百人と云ふを知らず。去月廿七日、翁の訃近隣に伝はるや、貧人十数人、翁の柩前に来りて、哀悼の意を表し、今より後は誰によりてか露命を繋がむと、泣き悲み且つ其生前に善根を積れし翁にして終を克せず、落車の故をもて死を招かれたるは天道是乎非乎と皆口々に嘆きたり。
翁は若き頃より痔疾を患ひて、厠に上れば必らず一二時間を費せり。こゝもて常に書を携へて用に入れども、易賢の書は汚すに忍びずとて、院本詩歌の如きものを撰びたり。曰く故人の詩抔に馬上何々抔と題せるあり。余は厠上の作をなさん臭き歌も亦面白からずやと、随分洒落なる人と云ふべし。

この『新潟新聞』の記事は、重嶺に関して様々な事を教えてくれる。

  九、おわりに

鈴木重嶺の伝記に関しては、重嶺の御子孫の松本誠氏が志しておられた。私自身、この人物の伝記を書くなど、思いもしていない事であった。ところが、松本氏は平成七年、七十七歳で急逝されてしまわれた。生前、大変お世話になり、多くの御指導を頂いていた事もあり、氏の御蔵書の整理をお引受けした。そのような事情から、貴重な鈴木重嶺関係資料を昭和女子大学に寄贈して頂く事になり、松本氏が完成する事なしに残された重嶺の伝記の事も気にはしていた。しかし、歴史上の人物の伝記は、簡単に着手出来るものではない。何よりも、取り組む対象に対して尊敬の念が無ければ、これは出来ないことである。
昨年三月、佐渡の相川町の要請で「最後の佐渡奉行 鈴木重嶺」と題してお話する機会を与えられた。相川町に復元された見事な佐渡奉行所の御広間で、しかも、鈴木重嶺も座った奉行の席に座らせて頂いた。佐渡からの帰途、電車の中で、関係資料を読み返しながら重嶺の晩年の写真を見ていて、次第に興味が増してきた。さらに、十月には昭和女子大学図書館で「最後の佐渡奉行 歌人・鈴木重嶺展」が開催され、その期間中に「鈴木重嶺と翠園叢書」と題してお話するチャンスを頂いた。そんな事情で鈴木重嶺に関しても調査を重ねてゆき、様々な資料に接して、重嶺・翠園への尊敬と愛着が沸いてきた。どこまで進められるかは、予想もつかないが、とにかく鈴木重嶺の伝記研究の緒だけでも付けてみたいと決意した訳である。この人物の伝記を明らかにする事は、日本歴史の上からも、日本文学史の上からも意義のある事であり、それは、同時に、松本氏への御礼にもなると思われるからである。
これまで述べてきた如く、鈴木重嶺関係資料は昭和女子大学に大量に所蔵されている。出来る事なら、昭和女子大学の大学院生など大学関係者に、鈴木重嶺の研究をして欲しいと切に希望している。

この序説をまとめるに当たり、鈴木重嶺の御子孫の松本栄子氏、佐渡相川町の関係者、菩提寺の全龍寺様、昭和女子大学図書館の皆様には、資料の閲覧・調査をはじめ、多くの御配慮と御教示を賜った。殊に昭和女子大学図書館の展示は、重嶺の歌人としての側面に光を当てたものであり、柳秀子氏をはじめ、調査・展示に取り組まれた図書館の皆様の成果に、非常に多くの示唆を頂いた。
以上の皆様に対して、心からの感謝を申し上げます。

追  記
平成十六年二月十九日、松本栄子氏から鈴木重嶺の肖像画が昭和女子大学に寄贈された。縦六八センチ×横五六センチの油彩画で、右下に「河久保正名画」と朱筆のサインがある。重嶺七十歳頃のものかと推測されるが、この河久保正名の出自等に関しては未詳の点が多い。
小杉放菴記念日光美術館には、東照宮等を描いた水彩画が十数点所蔵されている。学芸員の田中正史氏の解説によれば、これらの水彩画は、明治三十年代に日本を訪れた外国人向けの土産品として日光や横浜で売られていたものと言う。河久保正名は小杉放菴の先輩にあたり、これらの絵を描いたらしい。
また陶芸家の板谷波山は東京美術学校に入る前、河久保正名に絵を学んだらしい。『常陽文芸』一九九八年十二月号の「板谷波山年譜の一八八八年、波山、十六歳の項に「洋画家 河久保正名の画塾に通う。」とある。『板谷波山伝』によれば、波山は十六歳の頃、本郷に下宿していて、近くの河久保正名の画塾で絵を学んだが、河久保正名は洋画家・国沢新九郎(一八四七~七七)の門下であったと記している。明治二十一年(一八八八)に河久保正名は本郷辺で洋画家として画塾を開いていた。その画家に重嶺は肖像画を描いてもらったという事になる。
さらに、東京文化財研究所の山梨絵美子氏の御教示によると、明治美術会の出品目録を見ると、第四回の明治二十五年(一八九二)の記録では、東京出身で住所は、神田区中猿楽町二丁目六番地であり、明治二十八年の出品目録の住所は、本郷区駒込上富士前町十三番地と記されているとの事である。出品目録では肖像画も描いているが、油絵は伝存が少なく、これから調査すべき段階にあるとの事であった。私としては、鈴木重嶺と河久保正名の関係を、今後、さらに調査してゆきたいと思うが、河久保正名に関しては、絵画研究の方面で、調査、研究して頂けるなら有り難いと思う。
鈴木重嶺の肖像画を描いた洋画家・河久保正名に関して、小杉放菴記念日光美術館、板谷波山記念館、出光美術館の御教示を賜った。殊に、小杉放菴記念日光美術館の田中正史氏、東京文化財研究所の山梨絵美子氏には、具体的な御教示を賜った。ここに記して深く感謝申し上げます。

〔注〕巻末に11点の写真を掲げているが省略した。

『文学研究』92号,平成16年4月1日

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【追記】

私が鈴木重嶺・翠園に関わったのは、井関隆子研究の過程であった。隆子の著作が鈴木翠園の叢書に収録されていることが判り、鈴木重嶺の御子孫、松本誠氏にお会いしたのである。自由が丘の喫茶店だった。初めて、『翠園叢書』の一部を閲覧させて頂いた。そこから、国語学者・松本誠氏との交流が始まり、結果的には、松本氏の御他界に遭遇し、氏の遺志を継承して、鈴木重嶺・翠園の資料を整理し、略伝をまとめる事になった。

そのような関係から、鈴木重嶺関係資料の大部分が、昭和女子大学図書館に寄贈され、後世に伝えられることになったのである。思えば、有り難い研究の成果であった。

平成29年1月21日

深沢秋男

道を拓く

●明治初期の文人、篠田謙治など、最初は明らかではなかった。

島根大学の要木純一氏は、『松江竹枝』という漢詩集に出会い、
その内容に惹かれた。その著者が篠田謙治であることは、その後に
判明する。文化、歴史の発見などは、このような経過をたどる。
まず、作品あり、である。人は、著作があって、初めて後世に、
その名を印することが出来るのである。
●『可笑記』・『砕玉抄』・『堪忍記』・『百八町記』があったから、
如儡子・斎藤親盛は仮名草子作者として、伝えられることになった。
『○○日記』・『さくら雄が物かたり』・『神代のいましめ』・
『いなみ野』を遺したから、井関隆子は、近世後期の日記文学作者の
地位を獲得したのである。
●今回、要木純一氏の「『松江竹枝』の作者篠田謙治について」に接して、
いささか感動している。

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【研究ノート】

『松江竹枝』の作者篠田謙治について
――その履歴と『山陰新聞』所載の漢詩――

要木純一(島根大学法文学部)

キーワード:松江竹枝、篠田謙治、精軒、遊廓、明治初期

1.調査現況
島根大学附属図書館蔵(2006年購入。要木研究室配置)の『松江竹枝』(精軒痴史著 大森惟中評 1888)は、これまで知られていなかった漢詩集(手稿本)である。明治初期の松江の遊里を中心とした風俗を描いた、貴重で興味深い作品が収められている。妓女たちの名前と境涯が附されているが、この詩集無くしては、苦界に落ちた彼女たちの記録は残らなかったであろう。全国に知れ渡る前の安来節にも触れている。評点をつけた大森惟中(1844-1908)は、明治期、日本の美術工芸発展に貢献した、学者・官吏として著名。フェノロサ『美術真説』の訳者でもある。
この大森惟中の評言もまたおもしろい。
当の作者の精軒痴史が何者であるかは、長らく分からなかった。詩の内容から、東京近辺の出身で、松江に数年間滞在したのであろうと推測するのみであった。このたび、当時の『山陰新聞』(山陰新聞社 1882創刊)に、この詩集に収められたのと同じ詩を多数発見するに及び、精軒痴史が篠田謙治という人であることが判明した。その経緯について報告する。
なお、『松江竹枝』に関して、私は、これまで、作者を明らかに出来ないまま、
『松江竹枝』について 附翻刻 「島大国文」(32)[2008]pp.129~142
『松江竹枝』訳注(一) 「島大言語文化」(25)[2008]pp.1~25
を著している。

【中略】

●1898(明治31)年12月3日『読売新聞』朝刊、4面
故鈴木重嶺翁逸話(三)
翁が歌の師の村上素行なるよしハ前にも記せしが、素行ハ田安家に仕へて加茂真淵の学統を引く。又、伊庭秀堅にも従ひたり。
翁の門人数百人全国に散在すれども、歌道不振の時節とて歌にて門戸を張る程のものハ少く、多くハ斯道に遊べる老人抔なれども、中に就て名を知られたるハ屋代柳漁、小景徳の二人なり。然れども皆翁に先ちて逝けり。重嶺社中にて名を知らるゝ者にハ先光清風あり。又、歌の門人に富みたる者としてハ篠田謙治あり。幹事にして最も古きを山田謙益とす。(以下略)

この記事は独力で見つけ出したのではなく、深沢秋男昭和女子大学名誉教授・菊池眞一甲南女子大学教授等のホームページ『近世初期文芸研究会』「鈴木重嶺関係資料」(1)(深沢氏担当部分)で知った。この情報なくしては、篠田謙治の辞官後の動静は分からなかった。記して感謝の意を示したい。

鈴木重嶺(1814-1898)は、明治初期の和歌の大家で、これまた、「鈴木重嶺関係資料」から引用させて頂けば、
●鈴木重嶺〔すずき しげね〕
徳川幕府に仕え、最後の佐渡奉行となる。明治11年、職を辞し、東京で鶯蛙吟社を組織し、月並歌会を催し、短歌雑誌『詞林』を主催した。佐佐木信綱と共に明治初期歌壇の名家とみなされていた。『詞林』は後に、佐佐木信綱の『心の華』に合併した。(2)
という人である。鈴木重嶺の資料は、昭和女子大学図書館に「翠園文庫」として所蔵されている。この文庫や当時の和歌雑誌や新聞和歌欄には、まだまだ篠田謙治に関する情報が存在することであろう。今後精査に努めたい。
なお、『近世初期文芸研究会』「鈴木重嶺関係資料」の鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(5)(3)には、全龍寺所蔵重嶺関係資料として、『故鈴木重嶺翁 追悼歌会供薦歌』が深沢秋男氏によって報告されており、その詠者氏名のなかに篠田謙治の名が連なっている。

【後略】

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●このような記述に出会うと、実に嬉しい。明治の歌人として、名は出ていたが、殆ど研究はされずにいた鈴木重嶺、御子孫との出会いから、この人物の資料を整理したが、いずれは、幕末明治の文化解明に役立つだろうと、報告を続けた。その記録が、このように利用されて、嬉しい。

昭和女子大学図書館所蔵・翠園文庫 について

昭和女子大学図書館所蔵・翠園文庫 について

はじめに
私の専攻は、近世初期の仮名草子である。その近世初期の研究者が、最後の佐渡奉行であり、幕末明治の歌人である、鈴木重嶺・翠園に関わったのは、国語学者、松本誠先生との出会いによる。実は、松本先生は、鈴木重嶺の直系の御子孫であった。井関隆子の伝記研究をしていた私は、『翠園叢書』の記録を閲覧したいと探索中に、松本誠先生にたどりついたのである。
松本誠先生は、御自分の御先祖、鈴木重嶺の伝記研究を進めておられた。ところが、大学の研究室で急逝されてしまわれたのである。生前に、大変な御指導、御高配を賜った私は、先生の後を受けて、鈴木重嶺・翠園の伝記をまとめ、後世への伝達を実行したのである。これが、私が、鈴木重嶺の略伝を執筆し、その著作の保存伝達に関与した理由である。
                 平成28年11月5日 
                              深沢秋男

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 目 次
①翠園・鈴木重嶺の生涯
②鈴木重嶺略年譜
③鈴木重嶺の主要著作
④昭和女子大学図書館・翠園文庫誕生記
⑤松本栄子氏寄贈分(平成8年7月16日)
⑥古書籍商より購入分(第1次、平成10年2月4日)
⑦古書籍商より購入分(第2次、平成11年10月1日)

①翠園・鈴木重嶺の生涯

鈴木重嶺は、明治31年(1898)11月26日、東京市牛込区神楽町2丁目17番地において、85歳の生涯を閉じた。
文化11年(1814)6月、幕臣、小幡多門有則の次男として江戸駿河台で生まれた。縁あり、鈴木家11代を嗣ぐ。
明治元年(1868)最後の佐渡奉行を辞して後は、和歌の道に精進し、一家をなした。激動の幕末維新を、幕吏として、また歌人として精力的に生き抜いた人物として、後世にその名を残すものと、私は確信している。

②鈴木重嶺略年譜

○文化11年(1814) 6月、幕臣、小幡多門有則の次男として江戸駿河台に生まれる。幼名亀太郎、初め有定、大之進。鈴木家10代・重親嗣子無く、乞われて後嗣となる。
○天保2年(1831)18歳、家を嗣ぎ、鈴木家11代となる。同年、子普請高井左京組の配下となる。
○天保4年(1833)20歳、8月19日、広敷伊賀者となる。
○天保12年(1841)28歳、8月25日、広敷取締掛となる。同年10月晦日、徒目付となる。
○天保14年(1843)30歳、11月5日、諸士の武術の試験で高成績をあげ、白銀7枚を賜る。同月20日勘定吟味役となる。
○文久1年(1861)48歳、『皇風大意』を著す。
○文久3年(1863)50歳、『旅路廼日記』『旅路記恵の露』を著す。
○元治1年(1864)51歳、7月2日、勘定奉行となる。同月23日、槍奉行となる。
○慶応1年(1865)52歳、9月13日、佐渡奉行となる
○慶応2年(1866)53歳、『島曲廼古豆美』を著す。
○明治1年(1868)55歳、閏4月16日、御役御免となる。
○明治4年(1871)57歳、12月8日、相川県参事となる。
○明治8年(1875)62歳、7月19日、相川県権令兼六等判事となる。
○明治9年(1876)63歳、4月29日、願いによって免職となり、東京駿河台の家に帰る。
○明治12年(1879)66歳、4月10日、『雅言解』全4巻発行。
○明治14年(1881)68歳、『徳川礼典録』の編纂に参加する。
○明治24年(1891)78歳、6月9日、中島歌子の和歌の月次会に参加。樋口一葉の日記『よもぎふ日記』に出る。
11月15日発行の『早稲田文学』3号に、現在の和歌の名家として、掲げられる。
○明治31年(1898)85歳、東京市牛込神楽町2丁目17番地において没。
葬儀参列者は、1072名が香典帳に記載されている。

③鈴木重嶺の主要著作

◎伊香保前橋之記(いかおまえばしのき) 1冊、地誌、写本=国会図書館(桜園叢書41)・学習院大学図書館。
◎詠史清渚集(えいしせいしょしゅう) 1冊、写本=昭和女子大学図書館(翠園文庫)・竹柏園文庫。
◎オトと子との差別或人問(おととねとのさべつあるひとのとい) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書68)。
◎於よづれ言(およずれごと) 1冊、写本=靜嘉堂文庫。
◎紀行(きこう) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)。
◎絹川花見の記(きぬがわはなみのき) 1冊、写本=国会図書館(二荒廼山裏の内)。
◎夢路の日記(ゆめじのにっき) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)・無窮会神習文庫(玉漉193)昭和女子大学(翠園文庫)。
◎二荒山歌合(ふたらさんうたあわせ) 1冊、写本=内閣文庫。

◎皇風大意(こうふうたいい) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書15)・無窮会神習文庫。
◎旅路記恵の露(たびじきめぐみのつゆ) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)・無窮会神習文庫。
◎島曲廼古豆美(しまめぐりのこずみ) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書1)。
◎旅路廼日記(たびじのにっき) 1冊、写本=国会図書館(桜園叢書41)・昭和女子大学図書館(翠園文庫)。
◎翠園兼当歌(すいえんけんとうか) 1冊、写本=昭和女子大学図書館(翠園文庫)。
◎雅言解(がげんかい) 4巻4冊、版本=昭和女子大学図書館(翠園文庫)・深沢秋男等。
★これらは、鈴木重嶺の著作のごく一部であり、今後の調査で、さらに多くの歌集や著書が出てくるものと予想される。

④昭和女子大学図書館・翠園文庫誕生記

◎鈴木重嶺の御子孫・松本誠氏と出会ったのは、もう30年以上も前のことである。井関隆子の創作『神代のいましめ』が、最後の佐渡奉行・鈴木重嶺のコレクション『翠園叢書』に収録されていて、その閲覧をお願いした事がきっかけであった。奥沢の300坪のお宅は、街中でありながら、車の音も響かない閑静な所であった。国語学者の先生は、実に気さくな方で、以後、折にふれ、様々な事をお教え頂いてきた。ところが、平成7年1月、先生は大学の研究室で倒れられ、急逝されてしまった。
◎その後、先生の奥様、松本栄子氏から蔵書の処置について相談を受けた。1日、お宅へ伺い、全蔵書の整理をした。国語学関係、一般書、そして、鈴木重嶺関係の3種に分類して、奥様に、必要なものは残し、他は古書店に売却するよう伝えた。確か、一誠堂書店に来てもらったと思う。
◎問題は、松本先生の御先祖の重嶺関係の蔵書の処置である。私は、これも、神田の専門の古書店に売るのが1つの方法だと伝え、それが、最も求める人の手に渡りやすく、資料も活用されることになる、と申し上げた。更に重要な事は、今は亡き、松本先生が最も喜ぶであろう処置をとるべきである、とも付け加えた。
◎奥様は、即座に、お金は要らないので、何とか重嶺の名を後世に伝える方法は無いか、と問われる。ならば、国会図書館か、どこかの大学図書館に寄贈する事です、とお答えして、結果、昭和女子大学図書館に寄贈してもらう事になった訳である。
◎当時、図書館長だった、青柳武先生に寄贈受け入れの許可を頂いて、大学の車で引き取りに伺った。玄関を入って左の部屋に掛けてある、重嶺の肖像画以外は全部寄贈して下さった。重嶺が歌会で使用していた、桐の文机や病気の時の見舞帳、葬儀の時の香典帳まで寄贈されたのである。私は、これを鈴木重嶺・翠園研究の核にしてゆかなければならないと、身の引き締まる思いがした。
◎寄贈して頂く条件として、私は以下の4点について提案し、松本栄子氏と昭和女子大学図書館の了承を頂いた。

<1>昭和女子大学は、寄贈された「鈴木重嶺関係資料」を一括永久保存し、松本家の要望があった場合は、優先的に閲覧して頂けるように配慮する。
<2>昭和女子大学は「鈴木重嶺関係資料」が寄贈された折、その概略を雑誌等に発表して、その所在を明らかにする。
<3>昭和女子大学は、今後、鈴木重嶺関係資料が古書店等に出た場合、事情の許す範囲で購入し、本資料の充実に努める。
<4>昭和女子大学は、国会図書館等に所蔵されている、鈴木重嶺の著作を複写して収集し、資料の充実に努める。
<2>については、私が『学苑』に全て報告している。<3>については、その後、数次に亘って、古書店に出たが、幸いにも、大学当局の理解を得て、ほぼ全てのものを購入することが出来た。<4>はこれから実行してゆく予定である。

●翠園文庫の概略
★昭和女子大学図書館所蔵の「翠園文庫」は、平成9年に松本栄子氏から寄贈された資料を中心に、その後、数次に亘って、古書店から購入したものである。以下に、その一部を紹介する。

⑤[1、松本栄子氏寄贈分](平成8年7月16日)

1,翠園叢書
全68巻・67冊(巻之三十・巻之六十三は欠)
半紙本,写本(翠園・鈴木重嶺他の筆),縦225ミリ×横160ミリ(巻一)。
表紙 茶色系布目表紙で,濃淡によって以下の三種に分かれる。
   A薄黄茶色(巻一~二十五、二十七~二十九,六十二)。
   B幹色(目録,巻二十六,三十一~四十五)。
   C象牙色(巻四十六~六十一,六十四~六十八)。
題簽 左肩に子持枠(版刷)に文字は墨書。
   「翠園叢書目録」
   「翠園叢書一(~二十,二十一~二十九,三十一~四十〔40が三十九とあり訂正されている〕~五十八,五十九〔58・59が五十九・五十八とあり,訂正されている〕六十~六十二,六十四~六十八)」
  各冊の前表紙に収録の書名が墨書されている。
行数・字数は一定していない。
蔵書印 「翠園」陽刻縦長方形朱印(巻21・40・41・67・68)。
各冊の内容は以下の通り。
目録 用紙は子持枠縹色罫紙,毎半葉十行。墨付十一丁。前に二丁,後に三十七丁の未記入の罫紙が付いている。収録書目を巻毎に記す。
以下,各巻の収録書目とその丁数を示す。
巻之一 国家八論31丁(朱の頭注あり),古冠考附直冠之考37丁(頭注あり)
巻之二 結記36丁(図入り,注あり),追加結記22丁。
巻之三 二見浦34丁。
巻之四 時文摘紕26丁,目録2丁,聖像考7丁,人名考9丁,謹対五条15丁。
巻之五 むらさきのゆかり29丁,新撰月百首・付林家書牘16丁,よつの時の行かひ4丁,西城新殿歌3丁。
巻之六 氷融秘策12丁,さか衣8丁,よしやあしや20丁。
巻之七 順徳帝御製百首11丁,順徳帝御詩謌2丁,二巌団三郎伝5丁,貉邱記6丁,東北風談21丁。
巻之八 仙語記18丁,芳宜園判哥合20丁,十八番歌合/蘆庵大人判詞19丁。
巻之九 楠正行遺状之事5丁,関の秋風41丁。
巻之十 歌体約言11丁,藤垣内文集27丁,佐渡名所歌集(相川八景とも)7丁佐渡名所追加3丁,嶋曲の古豆美18丁,佐渡国人井上幹の文5丁。
巻之十一 泊筆話55丁。
巻之十二 蒿蹊百首14丁,四季百首14丁,雑題百首13丁,馬百首13丁。
巻之十三 落栗物語(上・下)93丁。
巻之十四 寛永御上洛之記76丁。
巻之十五 浅間の記・炎上の記32丁。天正十年五月廿四日/於愛宕山成徳院明知日向守興行連歌六丁,浪華義少女六丁,清国妓琉球人書10丁。
巻之十六 独語66丁。
巻之十七 答問録46丁。
巻之十八 東鑑不審問答20丁,新野問答,一名有職問答16丁,青雲図賛26丁。
巻之十九 小金原御蒐記40丁,建久四年五月/頼朝公冨士野裾野御巻狩日記実録23丁。梶左兵衛佐定良略記16丁。
巻之二十 宝所詠草糾謬・弁宝所詠草糾謬49丁。
巻之二十一 春秋吟13丁,住吉百首和歌26丁。
巻之二十二 文政二年清水浜臣判歌合61丁。
巻之二十三 文化十五年清水浜臣判歌合/三十六番歌合/十八番当座歌合/十八番歌合48丁。
巻之二十四 千種殿与黒沢翁麿歌難陳15丁,生死名義考11丁,舞楽記(二荒山)4丁,春台先生答水野氏書12丁。
巻之二十五 太平賦13丁,あつさ物語23丁。
巻之二十六 神代のいましめ28丁,井関隆子長短歌10丁,中嶋広足文章4丁。
巻之二十七 恵美具佐48丁。
巻之二十八 野山の夢40丁,蔵田茂樹集14丁。
巻之二十九 大和賊徒退治記45丁。
(巻之三十欠)
巻之三十一 田安黄門宗武卿玉凾叢説書抜甲45丁。
巻之三十二 玉凾叢説書抜乙42丁。
巻之三十三 泉のひゝき38丁,みやこの大路25丁。
巻之三十四 千木の片そき66丁。
巻之三十五 今やう雑芸61丁。
巻之三十六 本居宣長大人伝3丁,宣長翁遺言書7丁,心尽しの日記(上・下)23丁、三条西季知卿家集16丁,十二月和名考完24丁,月名九丁。
巻之三十七 知李ひち甲74丁。
巻之三十八 塵ひち乙55丁。
巻之三十九 松廼古宝連葉29丁,大ぬさ弁妄33丁。
巻之四十 幤の寄瀬甲38丁。
巻之四十一 幤の寄瀬乙51丁。
巻之四十二 村山・畠山金川月見の記11丁,蒼生子判扇合27丁,呼子島之説6丁,文章くさ/\13丁。
巻之四十三 古文字(日本神字考)38丁,樺島浪風記(上・下)31丁。

巻之四十四 竹箒20丁,太田持資花月百首8丁,墨田川二百首19丁,しのふのの露4丁。
巻之四十五 旅寐のすさひ15丁,伊香保前橋の記13丁,難菫迺説19丁,すみれの説  18丁。
巻之四十六 東鑑集要(上下)33丁,おもひくさ全20丁。
巻之四十七 清浦朝臣尚歯会之記10丁,馬内侍集27丁,源重之むすめの集2丁,夕顔巻其外の説とも6丁。
巻之四十八 詠史百首(作者=千浪,難者=胤平)44丁。
巻之四十九 越白山紀行・山分衣27丁。
巻之五十 河つらなる家にほとゝぎすをきく詞59丁。
巻之五十一 清水浜臣長歌文集14丁,橿園長歌集34丁。
巻之五十二 まなひの道々18丁,おろかおひ23丁,阿豆佐由美19丁,阿豆佐由美附録3丁。
巻之五十三 拠字造語抄59丁,拠字造語抄補15丁。
巻之五十四 箱根日記39丁,都支山日記24丁。
巻之五十五 上信日記73丁。
巻之五十六 遊京漫録・巻一70丁。
巻之五十七 遊京漫録・巻二53丁。
巻之五十八 筆のすさみ(一名目さまし草)甲65丁。
巻之五十九 筆のすさみ(一名目さまし草)乙68丁。
巻之六十 君臣歌16丁,雲のころも14丁,初しくれ15丁,古代の髪の考16丁
巻之六十一 たひ路の打聞34丁,哥のしらへ8丁。
巻之六十二 点降言44丁。
(巻之六十三欠)
巻之六十四 高句麗古碑考(古碑の模写を付す)57丁。
巻之六十五 童話長編23丁,千種有功卿義士之賛7丁,千蔭和歌会式7丁,東宰府天満宮神前歌式会9丁。
巻之六十六 幕府年行事歌合、118丁。
巻之六十七  00文集 甲、90丁。
巻之六十八 00文集 甲、105丁。

2、翠園雑録
全25巻・23冊(巻ノ十・巻ノ十七は欠)。
半紙本,写本(翠園・鈴木重嶺他の筆),縦227ミリ×横160ミリ(巻ノ一)。
表紙 水浅葱色布目表紙。
題簽 左肩に子持枠(版刷)に文字は墨書。
   「翠園雑録一(~九,十一~十六,十八~二十五)」
   各冊の前表紙に収録の書名が墨書されている。
行数・字数は一定していない。
目録 半紙二ツ折りの四枚を仮綴したもの。
「翠園雑録目録」とあり,目録の初めに「翠園雑録目録全部三十五冊」とある
以下、各巻の収録書目とその丁数を示す。
巻ノ一 和漢軍談76丁。
巻ノ二 慶長寛永度御上洛書抜18丁,文久御上洛法令其外26丁。
巻ノ三 御軍役之次第24丁,寛政度御条目29丁。
巻ノ四 武具要説24丁,臨時問答23丁。
巻ノ五 林子平上書51丁。
巻ノ六 魯西亜一件63丁。
巻ノ七 北夷考証(詳細地図5図を付す)39丁,蝦夷土地開発愚存之大概全45丁。
巻ノ八 辺策私弁46丁,隣交始末物語句解18丁。
巻ノ九 鬼神論(元集・享集・利集・貞集)51丁。
(巻ノ十欠)
巻ノ十一 正徳六申年四月晦日/吉宗公従紀州御供ニ被召連候御人数姓名帳15丁,採実論34丁。
巻ノ十二 補正吉原大全29丁。
巻ノ十三 白川侯御存寄書8丁,小浜侯家督之節藩中江教示書8丁,横須賀侯徳政記10丁,下駄屋甚兵衛書上14丁。
巻ノ十四 高秋帆上表(通称高嶋四郎太夫)55丁。
巻ノ十五 恐惶神論69丁,恐惶神論総論4丁,続恐惶神論13丁。
巻ノ十六 夢物語11丁,慎機論9丁,夢々物語17丁,夢物語批評5丁,夢物語2丁。
(巻ノ十七欠)
巻ノ十八 合衆国伯理璽天徳書翰和解6丁,合衆国伯理璽天徳副書翰和解2丁,合衆国水師提督上書和解5丁,合衆国水師提督口上書和解2丁,筒井紀伊守上言書13丁,和蘭告蜜15丁。
巻ノ十九 海防備論73丁。
巻ノ二十 明訓一班抄75丁。
巻ノ二十一 農商弁11丁,景山公御章之軍15丁,水府老公十ケ条13丁,福井今公言行録22丁。
巻ノ二十二 水戸前中納言斉昭卿九条殿下江上書14丁,水戸黄門光圀公□賜群臣条令20丁,戊午勅諚2丁。
巻ノ二十三 向山誠斎上書61丁。
巻ノ二十四 剛兵紀略76丁。
巻ノ二十五 蔵建物語16丁,安政二卯年地震ニ付御書付19丁。

3,翠園兼当歌
半紙本,写本,1冊,縦241ミリ×横172ミリ。代赭色表紙。
左肩に子持枠(版刷)題簽,文字は墨書で「明治九年/丙子/翠園兼当歌/佐渡より帰りし年也」。本文紙=四周子持枠縹色罫紙,毎半葉10行。33丁。
4,翠園詠草二
半紙本,写本,1冊,縦228ミリ×横156ミリ。枯色表紙。
表紙の左肩に直接墨書で「翠園詠草明治十六年癸未/十月より/同十七年」。本文紙=丸屋製、四周子持枠桃色罫紙、毎半葉10行。48丁。
6,詞林園哥集
短哥/夏之部半紙本,写本,1冊,縦239ミリ×横165ミリ。
仮綴,表紙は本文紙と共紙。中央上部に直接墨書で「詞林園哥集短哥/夏之部」。墨付24丁。
7,詞林園詠草
四季恋雑/雑躰半紙本,写本,1冊,縦234ミリ×横160ミリ。
仮綴,表紙は本文紙と共紙。左肩に直接墨書で「詞林園詠草四季恋雑/雑躰」。四季=26丁,恋=4丁,雑=6丁,雑躰=4丁,快哉園都日記序=2丁,消息文=2丁,曲水宴長歌賀/西域新殿歌事等=12丁。巻末に「太平賦/別記略之凡七百句」とあり。
8,詞林園家集
半紙本,写本,1冊,縦233ミリ×横156ミリ。仮綴,表紙は本文
紙と共紙。左肩に直接墨書で「家集」。内題=「詞林園家集」。墨付88丁。
9,嘱托代申簿
半紙本,写本,1冊,縦232ミリ×横156ミリ。朽葉色表紙。
中央に直接墨書で「嘱托代申簿/翠園」。本文紙=四周子持枠縹色罫紙,毎半葉10行。18丁未記入罫紙6丁。中に「明治三十二年別会並競点兼題」「明治三十四年月次課題」が挿まれている。
10,奉旨匿名歌評 付外批
半紙本,写本,1冊,縦231ミリ×横154ミリ。代赭色
表紙。中央に直接墨書で「奉旨匿名歌評付外批」。本文紙=榛原製,四周子持枠藍色罫紙、毎半葉10行。9丁。未記入罫紙41丁。
11,延陀知の幸
半紙本,写本,1冊,縦243ミリ×横171ミリ。仮綴、白表紙。左肩に直接墨書で「延陀知乃幸」。本文紙=藍色罫紙,毎半葉10行。6丁。
12,交隣提醒
大本,写本,1冊,縦267ミリ×横189ミリ。水色表紙。左肩に題簽の剥落の跡のみ。墨付57丁。47丁に「享保十三年戊申十二月廿日雨森東五郎撰」とあり,後序の末に「寛政甲寅正月/武都旗下藤原忠英謹題」とある。
13,蒲原記
大本,写本,1冊,縦266ミリ×横190ミリ。水色表紙。左肩に四周単辺(版刷)題簽,文字は墨書で「蒲原記全」。内題=「蒲原記家穂積隆雄編述」。
墨付9丁。鈴木氏畧系図を付す。蔵書印=「穂積重嶺蔵書」。
14,穂積姓氏考
大本,写本,1冊,縦270ミリ×横197ミリ。仮綴、表紙は本文紙と共紙。左肩に直接墨書で「穂積姓氏考」。墨付8丁。末尾に「天保五午年四月廿七日書/越智直通澄(花押)」とある。
15,殉難前草
中本,版本,1冊,縦181ミリ×横126ミリ。黒色表紙(空押模様)。
左肩に子持枠原題簽「殉難前草全」。前見返しに子持枠内に「殉難前草/官許不許翻刻/皇都書舖文正堂梓/慶応戊辰夏発(枠外)」。序題=殉難前草序」その末に「戊辰初夏青雲閣兼文識」。目録題=「殉難前草/目録」。内題=「殉難前草/青雲閣兼文稿」。尾題=「殉難前草畢」。匡郭=四周単辺。柱刻=序は「序」,他は丁付のみ。30丁(内,序1丁,目録4丁,21丁目落丁)。刊記=「浪華書肆/心斎橋北久太郎町/河内屋喜兵衛/同通本町北/塩屋彌七/同博労町/河内屋勘助/尾州書肆/本町三町目/菱屋藤兵衛/皇都書肆/醒ケ井五条上ル町/近江屋卯兵衛梓」。吉田矩方他71名収録(落丁のため6名未収録)。
16,殉難後草
中本,版本,1冊,縦187ミリ×横129ミリ。苔色表紙(雲文空押模様)。
左肩に子持枠原題簽「殉難後草全」。前見返しに飾枠内に「殉難後草/慶応戊辰初夏新刻/青雲閣蔵版/官許(枠外)」。序題=「殉難後艸序」その末に「戊辰初夏下旬青雲閣主人識」。目録題=「殉難後草/目録」。内題=「殉難後草/青雲閣兼文稿」。尾題=なし。匡郭=四周単辺。柱刻=序は「序」,他は丁付のみ。32丁(内,序1丁,目録4丁)。刊記=「浪華書肆/心斎橋北久太郎町/河内屋喜兵衛/同通本町北/塩屋彌七/同博労町/河内屋勘助/尾州書肆/本町三町目/菱屋藤兵衛/皇都書肆/醒ケ井五条上ル町/近江屋卯兵衛梓」。巻末に「馬場文英輯/殉難後草拾遺近刻」の出版予告あり。永井隆尚他76名収録。
17,殉難拾遺
中本,版本,1冊,縦185ミリ×横127ミリ。卍つなぎ空押模様黄蘖色表紙。
左肩に子持枠原題簽「殉難拾遺全」。前見返に子持枠内に「殉難拾遺/明治己巳初春新刻/馬場文英蔵版」。序題=「殉難後草拾遺」その末に「慶応四のとし長月/雲源居主人誌之」。凡例の末に「己巳とし季春馬場文英誌」。目録題=「殉難拾遺/目次」。内題=「殉難拾遺竜之巻」「殉難拾遺虎之巻」。尾題=「殉難拾遺竜之巻終」「殉難拾遺虎之巻終」。匡郭=四周単辺。柱刻=凡例は「例」,目録は「目」,他は丁付のみ。45丁(内,序2丁,凡例1丁,目録4丁)。刊記=なし。僧月照他一〇二名収録。蔵書印=「古藤家蔵」「風中書屋」。
18,山陽文稿
半紙本,版本,上下2冊、縦224ミリ×横153ミリ。水色原表紙。
左肩に子持枠原題簽「山陽文稿上(下)」。上巻前見返しに子持枠内に「山陽文稿/明治庚午新雕/求石書同発販」。序題=「山陽文稿上」その末に「文化甲子孟春頼襄識」。内題=「山陽文稿巻之上(下)」。尾題=「山陽文稿巻之上畢」下巻なし。匡郭=上下単辺、縦は子持。柱刻=「山陽文稿上(下)(丁付)」。本文用紙は毎半葉九行のの界線入り。下巻末に跋があり,その末に「嘉永甲寅正月小盡日初更機識」。上巻=32丁( 内、序1丁),下巻=32丁半。刊記=「官許明治庚午開雕/東京/両国横山町和泉屋金右衛門/通二町目山城屋佐兵衛/浪華/心斎橋南一町目松村九兵衛/同北久太郎町柳原喜兵衛/西京/柳馬場御池南北村四郎兵衛/寺町四条北田中治兵衛(印)」。上の匡郭外に注を付す。
19,明治現存三十六歌撰
半紙本,版本,1冊,縦224ミリ×横150ミリ。白色布目原表紙。
左肩に四周双辺原題簽「山田謙益/編集/明治/現存/三十六歌撰完」。前見返し単辺の枠内に「明治/現存/三十六歌撰完/山田謙益編集/竹本石亭画/雪吹屋蔵版」。序題=なし,その末に「山田謙益」。内題・尾題=なし。匡郭=四周単辺。柱刻=「○」のみで,丁付はノドにある。毎半葉一歌人で絵入り。20丁(内,序半丁,跋半丁)。刊記=「明治十年六月廿八日出板/編集兼出版人/東京第三大区五小区/牛込二十騎町三十四番地/東京府士族/山田謙益/蔵版主/東京本郷区本郷春木町二丁目五十九番地/東京府士族/豊島有常(印)」。
20,雅言解
半紙本,版本,4巻4冊,縦227ミリ×横152ミリ。空色布目原表紙。
左肩に子持枠原題簽「雅言解一(二,四)」巻三は剥落の跡のみ。巻一前見返し単辺の枠内に「雅言解全四冊/鈴木重嶺纂輯/渡部氏蔵板」。序題=・なし,その末に「明治十二年四月/正二位季知」,・「雅言解序」その末に「近藤芳梼」,・なし,その末に「明治十二年三月鈴木重嶺識」。凡例の末に「明治十二年三月翠園主人誌」。内題=「雅言解巻之一(~四)/東京鈴木重嶺纂」。尾題=「雅言解巻之一終」「雅言解巻二(~四)終」。匡郭=四周単辺。柱刻=「序(丁付)」「凡例(丁付)」「い(ろ・は…す)(丁付)」。巻一=43丁( 内,序6丁,凡例2丁),巻二=43丁,巻三=37丁,巻四=46丁(他に広告1丁)。上欄に注を付す。刊記=「明治十二年四月十日/版権免許/定価金壱円/編纂人東京府士族/鈴木重嶺/東京麹町区飯田町五丁目/二十一番地/出版人東京府士族/渡部温/東京牛込区牛込白銀町/二十九番地/発兌書肆東京府平民/稲田佐兵衛/東京日本橋区/日本橋通二丁目二十番地」。最終丁に次の6点の広告あり,渡部温訳述=通俗伊蘇普物語,丁題良著=渡部温訓点=勧善喩道伝、中田敬義訳=北京官話伊蘇普喩言,新版曲亭馬琴作序文集,雅言解。
21,古稀頌言
半紙本,版本,1冊,縦227ミリ×横158ミリ。白茶色原表紙。
左肩子持枠原題簽「古稀頌言完」。1丁ウに「明治十八年/五月/静岳」。匡郭=四周単辺。柱刻=なし。丁付は部分的にノドに付す。30丁(内,序等8丁)。刊記=「明治十八年八月十日出版御届/編輯並出板人東京府士族/永井岩之丞/北豊嶋郡金杉村/五十九番地住」。6丁ウに「来会名録」があり,松平春嶽・西周・勝安房・鈴木重嶺等三十七名の名が記されている。蔵書印=「鈴木之印」。
22,こゑのなこり
半紙本,版本,1冊,縦232ミリ×横156ミリ。卍つなぎ空押し模様練色原表紙。
左肩に枠なし原題簽「故衛の那離」。序題=なし,その末に「明治二十一年七月/千家尊福しるす/金井明善七十七叟書」。内題・尾題・匡郭=なし。柱刻=本文は下部に丁付を付す。跋の末に「明治二十一年七月穂積重嶺しるす」。30丁(内、序2丁,跋1丁)。刊記=「明治廿一年十月一日印刷/同年十月三日出版/編輯者東京牛込区神楽町二丁目十七番地/鈴木重嶺/印刷兼発行者同神田区小川町四十七番地/宇津木貞夫/売捌所同京橋区南伝馬町二丁目八番地/伊豆田冨太郎」。井上文雄・前田夏蔭・猿渡容盛・井上頼圀・佐々木古信
金井明善・中島歌子等の歌を収録。
23,こゑのなこり
半紙本,洋活(序は版刷),1冊,縦223ミリ×横152ミリ。練色布目原表紙(前表紙に緑色の蔓草模様を配す)。
左肩に枠なし原題簽「故衛のなこり」。序題=なし,その末に「明治二十三年十一月十三日南/佐々木古信書」。柱刻=上部に「○」,下部に丁付。25丁( 内、序2丁)。刊記=なし。小中村清矩・黒川真頼・井上頼圀・鹿島幹命・中嶋歌子・〔催主〕鈴木重嶺等の歌を収録。
24,喜九迺志豆久
半紙本,版本,1冊,縦223ミリ×横154ミリ。菊花空押模様縹
色原表紙。左肩に子持枠原題簽「喜九迺志豆久」。序題=なし。2丁オに「明治十八年乙酉/初春/正二位源慶永書(印)」。3丁ウの序の末に「かきつくるものはあきやまのてるえ」。内題=「喜九迺志豆久土屋惟秋翁八十年賀集」。匡郭=四周単辺。柱刻=下部に丁付。24丁(内、序3丁)。刊記=「明治廿二年七月十日印刷/同年同月十五日出版静岡県平民/土屋又平(印)/伊豆国賀茂郡上大見村/原保三十一番地/印刷者同県士族/榎本良太郎/国君沢郡三島町/九十八番地寄留」。久我建通・松平慶永・鈴木重嶺等の歌を収録。
25,余光集
半紙本,版本,1冊,縦231ミリ×横157ミリ。蓮葉空押模様灰白色原表紙。
中央上寄りに枠なし原題簽「余光集」。序題=なし,その末に「明治二十五年の夏/宮中顧問官従三位男爵高崎正風」。内題=「余光集/従一位松平慶永卿遺詠」。尾題・匡郭=なし。柱刻=上部に「○」,下部のノドに項目別の丁付。27丁(内,序3丁)。刊記=「明治二十五年十二月二十七日印刷/同年同月二十八日出版/編輯者大口鯛二/東京市麹町区永田町/二丁目二十八番地/発行兼印刷者吉川半二/東京市京橋区南伝馬町/一丁目十二番地」。松平慶永の他、佐々木高行・近衛忠熈・正親町実徳・鍋島直大・冷泉為柔・税所敦子・黒川真頼・鈴木重嶺等の歌を収録。
26,御垣の下草 後編
大本,上下2冊,縦263ミリ×横189ミリ。玉子色原表紙。
左肩に枠なし原題簽「御垣の下草後編上」「美かきのしたくさ後編下」。序題=なし,上9丁ウに「明治三十六年三月のはしめ葉山の海荘にて/恩波閣主人正風しるす」,上12丁ウに「明治三十五年十二月愛子しるす」。下の跋の末に「明治三十五年十一月道子しるす」。内題・尾題・匡郭=なし。柱刻=上部に「○」のみ。上=58丁(内,序12丁),下=51丁(内,跋3丁)。刊記=「明治十六年五月十五日印刷/同年五月二十日発行/編輯兼/発行者税所徳子/東京市牛込区砂土原三丁/目一番地/印刷兼/発行所吉川半七/同京橋区伝馬町一丁/目十二番地/彫刻者木邨徳太郎/同神田区旅籠町一丁目/七番地」。
27,志能夫具佐
半紙本,版刷・洋活混合,1冊,縦223ミリ×横151ミリ。七宝つなぎ空押模様布目白緑色原表紙。
左肩に子持枠原題簽「志能夫具佐」。序題=なし,その末に「明治といふとしの十あまり/七とせしはすはかり/翠園鈴木重嶺誌」。内題・尾題・匡郭・柱刻=なし。20丁(内,序1丁)。刊記=なし。「村山素行翁碑面」「伊庭秀賢翁略伝」,久我建通・松平慶永・小中村清矩・黒川真頼・井上頼国・佐々木弘綱・佐藤誠・佐々木信綱・徳川静子・中嶋歌子・猿渡盛愛・蔵田重時・鈴木重嶺等の歌を収録。
28,東京大家 十四家集評論弁 一
半紙本,版刷・洋活混合,1冊,縦235ミリ×横154ミリ。菊花空押模様灰白色原表紙。
中央上寄りに,四周単辺原題簽「東京/大家/十四家集評論弁一」。扉=四周単辺「東京/大家/十四家集評論弁第一/鈴木弘恭大人著/東京書林文王圃蔵版」。序題=「序」,その末に「明治十八年弘恭しるす」。内題=「東京/大家/十四家集評論弁/鈴木弘恭述」。尾題=春之部畢」。匡郭=なし。柱刻=下部に丁付。57丁(内,序3丁)。刊記=「明治十八年十二月十八日出版御届/著述人東京府士族/鈴木弘恭/東京小石川区竹早町拾参番地/出版人/平民吉川半七/同京橋区南伝馬町壱丁目拾弐番地/発売人同京橋区南伝馬町弐丁目/文雅堂/同/日本橋区通四丁目/金花堂」。取り上げた歌人は,美静・真頼・冬道・重嶺・正風・資之・豊穎・香穉・実愛・粲・実政・清綱・葆光・祐命。
29,旅路のすさび
半紙本,洋活,1冊,縦226ミリ×横152ミリ。卍つなぎ空押模様練色原表紙。
中央上寄りに、四周双辺原題簽「旅路のすさび」。序題=「旅路のすさひ序」,その中に「…鈴木の翁はおのれより十とせあまりのこのかみなれととくにくの名たかきところ/\見てこんとて…その日記なりぬ…しかくいふはむそちのおきな黒川の真頼なり」。内題=「旅路のすさひ」。尾題・匡郭=なし。柱刻=上部に「○」,下部に丁付。巻末に「明治二十年九月鈴木重嶺しるす」。27丁(内,序1丁)。刊記=「明治廿一年五月十日出版〔非売品〕/編輯兼/発行人東京牛込区神楽町一丁目十七番地/鈴木重嶺/印刷人東京四谷区四谷仲町三丁目八番地/加藤安彦」。
30,長歌改良論弁駁
中本,洋活(序は版刷),1冊,縦194ミリ×横134ミリ。菫色布目表紙。
左肩に子持枠原題簽「長歌改良論弁駁全」。前見返しに飾り枠内に「長歌改良論弁駁全/海上胤平先生著(印)/明治廿二年五月玄同舎出版(印)」(同内容を印刷した白紙(包紙)あり」。題字=A久我建通,副島種臣。序題=なし,その末に「明治廿二年五月十伊予国人藤原忠胤」。内題=「長歌改良論弁駁/海上胤平述」。尾題=なし。匡郭=序は双辺、本文は子持枠。柱刻=下部に丁付(ページ)。71ページ(内、題字4ページ,序4ページ)。刊記=「明治廿二年五月七日印刷/同年五月十日出版定価金弐拾銭/発行兼印刷者東京神田区今川小路二丁目十五番地/高市菅野/著作者東京神田区錦町三丁目五番地/海上胤平/発行所東京神田区佐柄木二十一番地/玄同舎」。
31,桜園集
半紙本,洋活(序は版刷),1冊,縦226ミリ×横154ミリ。深緑色原表紙(花模様空押)。
左肩に子持枠原題簽「桜園集全」。前見返しに子持枠内に「桜園集/明治壬辰初冬印行/海舟書屋蔵板」。序題=「桜園集のはしかき」その末に「明治二十五年/十一月勝安芳しるす溝口勝如筆/とりてかきつく」。内題等=「桜園集凡例」「桜園集一(~九)」「桜園集附録」。後序題=「桜園集後序」その末に「明治二十五年壬辰初冬/鴨北散人宮本0謹誌(印)」。65丁(内,序2丁,凡例1丁,後序2丁)。刊記=「明治廿五年十二月二十六日印刷/明治廿五年十二月二十七日出版(非売品)/編輯兼発行者勝安芳/東京市赤坂区赤坂氷川町四番地/印刷人根岸高光/同牛込区市谷加賀町壱丁目廿三番地/印刷所秀英舎/同京橋区西紺屋町廿六七番地」。
32,翠園寿筵歌集 完
半紙本,洋活,1冊,並製,縦二二一ミリ×横一五三ミリ。白茶色表紙。
中央上寄りに直接印刷「翠園寿筵歌集完」(右下に「非売品」)。題字=「八十六翁/従一位忠熈(印)」。内題=「翠園寿筵歌集」。尾題=「翠園寿筵歌集終」74ページ(内,題字3ページ)。奥付=「明治廿六年九月十五日印刷/同年同月十九日発行/編輯兼/発行人鈴木重嶺/東京牛込区神楽町/弐丁目拾七番地/印刷所近藤活版所/東京市麹町区飯田町/五丁目弐拾六番地」。近衛忠熈・正親町実徳・毛利元徳・前田利嗣・勝安房・井上頼圀・黒川真頼・荻野由之・佐々木信綱・中嶋歌子・猿渡盛愛・佐々木古信・鈴木重明・鈴木重嶺等の歌を収録。
33,翠園寿筵歌集 完
(32と同本,保存悪し)
34,内外詠史哥集
半紙本,洋活(序は版刷),上下2冊,縦226ミリ×横158ミリ(上)。空色原表紙(花葉空押模様)。
左肩に枠なしの原題簽「内外詠史哥集上(下)」。上下の前見返しに四周双辺の内に「内外詠史歌集全/明治二十八年六月/版権所有/税所蔵版」。序題=なし。その末に「敦子」。内題=「内外詠史歌集巻之上(下)」。尾題=「内外詠史歌集巻之上(下)終」。匡郭=なし。柱刻=下部に丁付。巻末に「内外詠史歌集人名録」を付す。上=56丁(内,序2丁)。下=61丁(内,人名録12丁)。刊記=「明治二十八年六月廿六日印刷/明治二十八年六月廿九日発行/明治三十八年四月十日再版発行〔正価金七十五銭〕/版権所有/税所家/編纂者東京市牛込区砂土原町三丁目壱番地/税所徳子/発行者同市日本橋蠣殻町壱丁目四番地/松井総兵衛/印刷者同市牛込区市ヶ谷加賀町壱丁目十二番地/印刷所同市牛込区市ヶ谷加賀町壱丁目十二番地/株式会社秀英舎第一工場/製本売捌元/東京市日本橋区/蠣殻町壱丁目/四番地角/官許発明元角形半月形/陶製下水樋/官許発明元人造肥料并ニ工事請負商発明者松井総兵衛/雅名延昌」裏に「各府県売捌書肆家左之通」がある。
35,慶音集
半紙本,洋活,1冊,縦228ミリ×横156ミリ。練色原表紙(霞・山模様)。
中央上寄りに枠なし原題簽「慶音集」。口絵写真「近衛忠熈米年之肖像」。1丁オに「鶯有慶音」とあり。尾題・匡郭=なし。柱刻=上部に牡丹花一輪,丁付なし。113丁。刊記=「明治廿九年三月廿五日印刷/明治廿九年四月五日発行/〔非売品〕/発行兼編輯者東京府平民/六条定光/東京麹町区下二番町六十一番地/印刷者東京府士族/多田三彌/東京市京橋区山城町八番地/印刷所恵愛堂/東京市京橋区山城町八番地」。九条道孝・鷹司熈通・久我建通・正親町実徳・勝安芳・鈴木重嶺・税所敦子・黒川真頼・中島歌子・樋口夏子等の歌を収録。
36,新撰正格 今用歌集
中本,洋活,1冊,縦191ミリ×横130ミリ。紺青色表紙(草花模様)。
題簽=なし。題字=従一位建通。木村正辞。小杉榲邨。凡例の末に「明治三十二年六月七十四翁江刺恒久識」。内題=「新撰正格今用歌集/東京江刺恒久撰」。尾題=「新撰正格今用歌集」。172ページ(内,凡例4ページ,作者人名8ページ,9~16ページ落丁,17~24ページ重複)。奥付=「明治三十二年九月十二日印刷/明治三十二年九月十五日発行/〔定価金四十銭〕/〔版権所有〕/著作者麹町区富士見町二丁目十五番地/江刺恒久/発行者神田区裏神保町六番地/渡辺五一郎/印刷者本所区松井町一丁目三番地/新井豊造/発売所神田区裏神保町六番地/渡辺書店/発売所神田区裏神保町一番地/三省堂」。石川雅望・足代弘訓・佐々木弘綱・佐々木信綱・本居大平・鈴木重嶺等の歌を収録。
37,祝日大祭日歌詞解釈 附楽譜
半紙本,洋活,1冊,縦217ミリ×横149ミリ。各作歌者校閲・中村秋香編述,明治廿六年十月十三日,白井練一発行。36ページ。
38,国史学のしをり
半紙本,洋活,1冊,縦228ミリ×横152ミリ。小中村清矩著明治二十八年十一月十二日,吉川半七発行。138ページ。
39,鼇頭音釈 康煕字典
中本,版本,40巻20冊,縦190ミリ×横124ミリ(1冊目)。肌色原表紙。
左肩に子持枠原題簽「鼇頭音釈康煕字典第一(~二十)冊」。第1冊前見返しに四周双辺内に「鼇頭/康煕字典/石川鴻斎音釈/東京鳳文館」。第1冊=57丁,第2冊=73丁,第3冊=87丁,第4冊=102丁,第5冊=91丁,第6冊=87丁,第7冊=38丁,第8冊=53丁,第9冊=94丁,第10冊=56丁,第11冊=97丁,第12冊=85丁,第13冊=57丁,第14冊=96丁,第15冊=55丁,第16冊=101丁,第17冊=97丁,第18冊=52丁,第19冊=64丁,第20冊=75丁。刊記=第5冊「明治十五年九月十三日版権免許/明治十六年一月三十日出版/音釈人愛知県平民/石川鴻斎/芝区片門前町二丁目十四番地/出版人東京府士族/前田円/京橋区加賀町十八番地/印行所鳳文館/京橋区加賀町十八番地/龍影堂竹原鼎鐫刻」。第10冊「明治十六年三月三十日出版」(他は5冊目と同じ)。第15冊「明治十六年八月出版,出版人東京府士族/前田円/京橋区南鍋町二丁目十二番地/印行所鳳文館/京橋区南鍋町二丁目十二番地」(他は5冊目と同じ)。第20冊=15冊目と同じ。桐箱入り。重嶺使用。
40,上田郷友会月報・二十五週紀念号(後編)
〔雑誌〕明治四十三年四月三十日発行。
41,鈴木重嶺短冊
10枚。「庭前萩移しうゑし庭の秋はき咲そめぬひとりめつるはあたらしきかな八十四翁重嶺」他。(追加の可能性あり)
42,短冊

7枚。井上文雄・海野遊翁・木村定良・星野千之・堀江敏・三田葆光・鈴木重明。
43,四大神玉串料
半紙二つ折(横長)2枚綴,2帖。1帖目の冒頭に「三月廿七日/四大神玉串料」,2帖目の冒頭に「三十二年四月落花浮水/四大神献詠/たにさく/玉串料/人名」とある。
44,御見舞□□□
半紙二つ折(横長)5枚綴、1帖。冒頭に「十一月十四日」とある。玉子榎本武与,同榎本弁吉,五十銭井上頼国,玉子一折中嶋歌子,越の□□
勝安芳,等の名がある。
45,故重嶺翁供物扣帳
半紙二つ折(横長)16枚綴,1帖。1枚目に「明治三十一年十一月廿六日」とある。五円榎本弁吉,拾円勝安芳,壱円中嶋歌子,壱円佐々木信綱,拾円前田利嗣,拾円三田徳川,壱円荻野由之等と記す。
46,訃音啓送
半紙二つ折(横長)8枚綴,1帖。1枚目に「訃音啓送/東京府内/一号/三十一年十一月廿六日」。勝安芳,榎本武与,井上頼国,久我侯爵,水野忠敬,榎本武揚,近衛公爵,佐々木信綱,黒川真頼,等の名がある。
47,会葬人名簿
一号~四号 半紙二つ折(横長)16枚綴,1帖。第1号の1枚目に「会葬人名簿/第一号/惣人名弐百四十七」,第2号の1枚目に「会葬人名簿/第一号」,第3号の1枚目に「会葬人名簿/第三号」,第4号の1枚目に「会葬人名簿/第四号」。江刺恒久,田口卯吉,佐々木信綱,井上頼圀,文雅堂,久我侯爵,勝安房,中島歌子,等の名がある。
48,吊客名簿
半紙二つ折(横長)12枚綴,1帖。1枚目に「吊客名簿/三十一年十一月廿六日」。榎本武与,黒川正真,黒川真頼,水野忠敬,中島歌子,佐々木信綱,正親町実正,荻野由之,江刺恒久,毎日新聞社,佐々木古信,井上正直,等の名がある。
49,持参帳控
半紙二つ折(横長)29枚綴,1帖。1枚目に「持参帳ひかへぼへ/十月十三日くはり物」。小石川竹早町六十五番地佐々木古信,小石川水道町十四番地中嶋歌子,牛込西五軒町四十七番地榎本武与,浅草千束町二丁め三十四番地江刺恒久,下二番町四十七番地水野忠敬,小川町一番地佐々木信綱様(印),今川小路まないた橋玉川堂様(印),東町三丁目博文館/大橋佐平様(印),尾張町毎日新聞社御中(印),麹町区富士見町五丁目十二番地正親町様(印),同富士見町弐丁目四十二番地四条様(印),赤坂氷川町四番地勝従二位様(印),等の名がある。
50,配付扣
半紙二つ折(横長)11枚綴,1帖。1枚目に「配付扣」。榎本弁吉,榎本武与,黒川真頼,久我建通,大隅重信,水野忠敬,勝安芳,日龍社編輯局,中島哥子,榎本武揚,佐々木信綱,三田葆光,鍋嶋直大,津軽伯爵,前田利嗣,田安伯,井上頼国,江刺恒久,佐々木古信,荻野由之,等の名がある。
51,宿所聞書
半紙二つ折(横長)5枚綴,1帖。1枚目に「宿所聞書」。
52,(葬儀記録?)
半紙二つ折(横長)37枚綴,1帖。朱筆にて「壱号」から「十五号」まで人名を記す。壱号正二位勲一等公爵毛利元徳,従一位勲一等近衛忠熈,従一位勲二等正親町実徳,従一位勲一等久我建通,従二位勲二等侯爵蜂須賀茂韶,従三位侯爵前田利嗣,正三位勲三等伯爵津軽承昭,正三位勲一等伯爵勝安房,等28名。弐号四条春子,木戸寿栄子,徳川操子,等25名。三号,一三一名。四号,61名五号,94名。六号黒川真頼,小中村清矩,井上頼圀,三田葆光,荻野由之,江刺恒久佐々木古信,佐々木信綱,等31名。七号中嶋哥子,等72名。八号,28名。九号,一〇四名。十号,一四〇名。十一号,64名。十二号,41名。十三号,55名。十四号,37名。十五号,一五七名。合計一〇六八名。
53,葬式諸入費おほへ
半紙二つ折(横長)5枚綴,1帖。1枚目に「葬式諸入費おほへ/九月十四日より」。
54,(葬儀記録)
半紙二つ折(横長)2枚綴,1帖。「住所不明之部」。
55,(葬儀記録)
半紙二つ折(横長)7枚綴,1帖。五十嵐雅言,吉川半七,等の名がある。
56,(諸雑費記録)
半紙二つ折(横長)5枚綴,1帖。弐銭アルコヲル,五銭白檀五銭ランプ直し,拾銭ちくわ、拾四銭やさひ,拾銭はんし,四銭五厘とうふ七円弐拾銭みかん十六箱、等の記録。
57,次景氏之韻五首
1巻。
58,(雑誌関連記録?)
半紙5枚。第百十五号/金弐拾銭奥田ひな,第百十六号/金七拾銭,第百十七号/金壱円齋藤麻之介,等と記録されている。
59,会葬礼状
6通。「拝啓父重嶺物故之節ハ御叮寧ナル御備物被成下御厚情之段奉深謝候就テハ追善ノ蒸物進呈可仕筈ノ処亡父生前常ニ無用ノ習慣ヲ好マサリシマヽ右費用一切ヲ東京帝国大学文科法科ノ二科ヘ奨学資金トシテ寄附仕些ナカラ国本ノ裨補タルヲ得ハ却テ亡父ノ素志ニ協ヒ可申ト存シ爾ク取計候間此段御答礼旁謹テ奉申上候敬具/明治三十二年三月五日孫鈴木重明/同重孚/□□□□殿」
60,佐々木千尋宛,井上頼圀・梅村宣雄書簡
1通。追悼歌会の件。
61,鈴木重明の重嶺追悼歌会に関する文
半紙2枚,罫紙4枚。
62,新聞広告等の記録半紙3枚。
◎十二月十四日報知新聞雑報欄内ニ
「故鈴木重嶺翁ノ追悼歌会事ハ上野山王公梅川楼ニ於テ催スニ付神田区今川小路玉川堂ニ事務ヲ設ケ賛成員及幹事数十名ヲ列記シタル印刷物ヲ配リ来会ヲ促セリ然ニ御令息重明氏ハ葬送ヨリ日未タ幾許ヲ経ズ諸事取込中ニ付本年内ハ是非見合セ度旨該歌会ヘ別シ辞退セシニモ拘ハラズ開会スル由ナルガ重明氏ヲ始メ親戚ノモノ□門人等ハ非常ニ迷惑シ居ルトカ」
◎十二月十六日報知新聞
「取消十二月十四日報知新聞雑報都下雑簒ニ於キテ故鈴木重嶺翁追悼歌会ノ件に付令息重明氏等非常に迷惑シ居ラルヽ旨御掲記ニ候処該会ハ有志者ノ行為ニ成ルモノニテ固ヨリ重明氏等ニ於テ迷惑ナル理由モ無之ノミナラス既ニ同氏ヨリ拙者ヘ宛叮寧ナル礼状被遣候次第ニテ決テ彼是可有事ハ無之候全ク貴社ノ誤聞カ若クハ拙者同志ノ名誉ヲ毀損セントスル者ノ中傷策カトモ被存候記事ハ却テ重明氏始メ迷惑ナルモノニ付速ニ此全文御掲載御取消相成度此段申□候也
三十一年十二月十四日麹町一丁目井上頼国」
◎明治三十一年十二月廿一日報知新聞ニ広告セリ
「明日相催候故鈴木重嶺翁追悼会ハ全ク有志ノ発起ニシテ鈴木家及翠園幹事等ハ一切関係無之義ニ付此段広告仕候也十二月十七日井上頼国」
63,葬儀関係領収書等
14枚。
64,鈴木家墓石拓本
2枚。碑面寸法,縦1163ミリ×横452ミリ。その末に「元治元年歳次甲子冬十二月/十世孫鈴木大之進穂積重嶺謹撰矢口浩書泉広保鐫」。
65,鈴木家初代・重経墓石拓本
1軸。碑面寸法,縦1047ミリ×横451ミリ。「穂積重経之墓」。
66,拓本(佐渡関係?)
1枚。碑面寸法,縦618ミリ×横620ミリ。その末に「明治九年七月従五位鈴木重嶺識」。
67,拓本
4枚。「保元元年七月十三日義明(花押)/鈴木伊賀守殿」
68,拓本
2枚。
69,拓本
1枚。「寛治五年七月七日義□(印)/鈴木兵庫頭殿」。
70,拓本
1枚。「楓橋夜泊詩」。
71,写真 湛慶作 仏像。
1枚。
72,鈴木家表札
1枚。「鈴木」(杉の板に墨書)。
73,鈴木重孚勲七等授与
1枚。「明治三十九年四月一日/勲一等子爵大給恒」。
74,佐渡関係包み紙
1枚。
75,将軍御手自拝領 御猪口 箱の蓋。
「元治元年甲子年四月五日/御上洛御在城中奥於/御座之間高家御奏者番始布衣以上役々之□御酒/御料理賜り此御猪口ヲ/御手自候下/大君御酌ニ而三献頂戴/鈴木重嶺」。
76, 鈴木重嶺の名刺
5枚。
77,名刺 諸家
28枚。
78,手書きカルタとその原稿
(箱入り)1組。
79,写真 合計 27枚。
1,鈴木重嶺(歌会で指導する重嶺)。
2,鈴木重嶺(烏帽子姿の重嶺)。
3,鈴木重嶺。
4,鈴木重嶺「コハ明治三十一年六月十九日,岐阜県前代議士杉下太郎右衛門氏の浜町花屋敷にて歌会を催されける折つどひませるまれ人に請ひてうつしゝ也。この日長岡子爵小出粲翁も物さられつれどいさゝか時おくれ給ひしハいとあたらしうなむ/佐々木信綱識」。出席者は,前列右から,東久世伯爵・高崎男爵・鶴久子刀自・鍋島侯爵夫人・佐々木信綱,中列右から梅村宣雄君・大口鯛二君・鈴木重嶺・鍋島侯爵・本居豊穎翁・木村正辞翁・千葉胤明君・遠山英一君,後列右から,杉下太郎右衛門・植村有経君・佐々木昌綱・橘道守君・加藤義清君。
5,鈴木重明(重嶺の子)。
6,鈴木重明。
7,鈴木重孚(鈴木重明の子,松本誠の伯父29歳)。
8,鈴木重孚(宇品の宿舎の娘と)2枚。
9,鈴木重孚(中列向かって左端)。
10, 鈴木重孚(向かって右)。
11, 鈴木重孚(向かって右端)。
12, 鈴木重孚(向かって右端)。
13, 鈴木重孚と松本誠(子供)。
14, 鈴木冬子(鈴木重明の子,重孚の妹,松本家の養女となる。松本誠の母。写真は与謝野晶子とその娘二人と共に撮影。晶子の後ろが冬子)。
15, 鈴木多子(重明の子?)。
16榎本武揚(正装姿。重孚の妹が武揚の親戚に嫁ぐ)。
17, 榎本武揚。
18, 榎本泰夫。
19,榎本泰夫(2枚)。
20, 鈴木重孚・井上頼国・榎本弁吉等9名の集合写真。
21, 井上頼国。
22, 成瀬精一。
23, 布川正巾。
24, 江沢述明。
25, ロンドンより鈴木重嶺に送る写真。「鈴木大人」とあり。明治44年8月発送,10月20日到着。
80,鈴木重嶺使用の桐製文机。

(昭和女子大学『学苑』694号・平成10年1月を改訂)

⑥[古書籍商より購入分(第1次)](平成10年2月4日)

1,翠園詠草
大本,写本,1冊,縦272ミリ×横190ミリ。縹色表紙(亀甲の空押し模様)。左肩に直接墨書で「翠園詠草」。墨付20丁。1丁オに「穂積重嶺」とあり,「春部・夏部・秋部・冬部・述部・雑部」の和歌を浄書したもの。
2,翠園遺稿
半紙本,写本,3冊,縦245ミリ×横165ミリ(1冊目)。仮綴。
表紙は本文紙と共紙。左肩に直接墨書で「翠園遺稿 春夏」「翠園遺稿 秋冬」「翠園遺稿 恋雑」。墨付,1冊目=52丁,2冊目=51丁,3冊目=52丁。
3,憶魯何応斐
大本,写本,1冊,縦263ミリ×横188ミリ。玉子色表紙。左肩に四周単辺の題簽に墨書で「憶魯何応斐」。内題は1丁オに「憶魯何応斐」。墨付61丁。巻頭に2丁の自序があり,その末に「慶応四季やよひはつかはかり佐渡国相川の官舎にありて/兵庫頭穂積重嶺誌」とある。「翠園」の陰刻縦長方形朱印。
4,翠園文集
半紙本,写本,1冊,縦247ミリ×横171ミリ。仮綴。表紙は本文紙と共紙。左肩に直接墨書で「翠園文集」とある。墨付26丁。「快哉園都日記跋」「九丘要略序」「柳をめつること葉」「玉しのひの詞」「虫をきく詞」「菊の宴の序」等の文を収める。
5,二十番哥合
大本,写本,1冊,縦274ミリ×横193ミリ。梔子色横縞表紙。
中央上寄に子持枠題簽,文字は墨書で「二十番哥合」。内題は1丁オに「二十番哥合」本文用紙は四周単辺浅葱色罫紙,毎半葉8行。21丁。1丁目に「左右作者/三田葆光/小出粲/谷勤/伊東祐命/加藤安彦/三輪義方/鶴久子/中嶋哥子/亭番 鈴木重嶺……判者/黒川真頼大人」とある。
6,哀悼歌扣
半紙本,写本,1冊,縦245ミリ×横165ミリ。仮綴。表紙は本文紙と共紙。中央上寄に直接墨書にて「哀悼歌扣」とあり,その右に「故鈴木重嶺大人御前に奉る」とある。墨付8丁。1丁目に「鈴木翁の訃音におとろきて/高崎正風」として以下,水野忠敬,南部広矛,加藤安彦,江刺恒久,佐々木信綱,鈴木重孚,鈴木重明等の和歌を収める。
7,以勢能海
半紙本,写本,1冊,縦245ミリ×横165ミリ。仮綴。表紙は本文紙と共紙。中央上寄に直接墨書で「以勢能海」。墨付44丁。1丁目に「正二位嵯峨実愛/従三位山本実政……従五位鈴木重嶺……松波資之/右宮内卿徳大寺実則卿ヨリ内命ニ依テ各三十首〔四季雑恋各五首〕詠進追テ自分ヲ除キ宜シト思フ歌ヘ甲乙丙三等ニ点掛印封ニシテ同卿ヘ差出候様内命有之六月十三日差出ス」とあり、巻末に「甲三十一首/乙 六十五首/丙 四十六首/明治十六年六月十三日 従五位鈴木重嶺評」とある。収録歌人は,嵯峨実愛・山本実政・黒田清綱・本居豊頴・高崎正風・鈴木重嶺・間嶋冬道・三田葆光・池原香雅・黒川真頼・伊東祐命・小出粲・松波資之。
8,伊勢廼海
半紙本,写本,1冊,縦245ミリ×横165ミリ。仮綴。表紙は半紙で,後表紙は無し。中央上寄に直接墨書で「伊勢廼海」。本文用紙は四周単辺藍色罫紙,毎半葉11行。墨付39丁。未記入罫紙2丁。7,『以勢能海』の草稿本。ただし,巻末3丁に重嶺の和歌を付す。
9,十五番歌合
半紙本,写本,1冊,縦243ミリ×横163ミリ。仮綴。表紙は本文紙と共紙。中央上寄に直接墨書で「十五番歌合」。墨付8丁。前見返しに「作者/江刺恒久/佐々木古信/加藤安彦/梅村宣雄/三浦千春/平井元満」とあり、巻末に「明治廿五年八月 重嶺みたりに判す」とある。
10,社中人名録
半紙本,写本,1冊,縦219ミリ×横158ミリ。仮綴。表紙は厚手の半紙。中央上寄に直接墨書で「社中人名録」左下に「翠園」。本文用紙は四周単辺黒色罫紙,毎半葉10行,版心に「巻之」とある。墨付11丁。屋代忠良・蔵田重時等一六八名,朋友として,松平閑山・加藤千浪・三田葆光・鶴久子・本居豊頴・中嶋哥子・伊東祐命・小出粲・加藤安彦・小中村清矩・井上頼国等六二名を記す。その他、住所氏名を記した紙片,一三枚が差し挟まれている。
11,〔宿所控〕
横本(半紙二つ切り),写本,1冊,縦126ミリ×横152ミリ。
左肩に直接墨書で「宿所控」(摩損のため推読)。本文用紙は四周子持枠縹色罫紙,毎半葉10行。版心上部に魚尾,下部に「○」。墨付69丁,未記入罫紙30丁。伊東祐命・萩野由之・徳川家達・千種有任・加藤安彦・勝安芳・吉川半七・高崎正風・伊達宗城・鶴久子・中嶋哥子・井上頼国・久米幹文・蔵田年雄・松平慶永・前田利嗣・近藤忠・小中村清矩・小出粲・江刺恒久・榎本武揚・榎本弁吉・佐々木信綱・佐々木古信・猿渡盛愛・三田葆光・嵯峨実愛・岸田吟香(楽善堂)・木戸孝正・水野忠敬・三浦千春・本居豊頴・千家尊福・全龍寺(菩提所)等九五〇名以上の氏名住所を記す。
12,鳥跡備忘
半紙本,写本,1冊,縦222ミリ×横157ミリ。仮綴。表紙は半紙で,後表紙は無し。左肩に直接墨書で「鳥跡備忘」とあり,右下に「緑堂」とある。本文用紙は四周単辺黒色罫紙,毎半葉10行、版心に「巻之」とある。墨付12丁。大日本史・三国志・源氏物語・玉くしげ等の抜書。
13,あまかすさひ
半紙本,写本,1冊,縦243ミリ×横167ミリ。仮綴。表紙は半紙。左肩に直接墨書で「あまかすさひ」とある。本文用紙は四周単辺薄縹色罫紙、毎半葉10行。墨付33丁。語彙の覚書。五十音順に語彙に関する記録であるが書写の量は少ない。
14,農諭
半紙本,写本,1冊,縦242ミリ×横172ミリ。仮綴,表紙は本文紙と共紙。中央上部に単線の中に「諭農」を貼り紙で「農諭」と訂正。墨付8丁。「一士に次ものは農なり 商をうらやむべからず/二 豊年にも凶歳を忘るべからず」と書き始めて、末尾に「右十六法はみづから試たるもあり未こゝろみざるもあれど/或は家伝あるひは名医の法也用ひて功験あるを知るべし/慶応三丁卯歳 月しるす/「鈴木氏」(朱書)」とある。重嶺写。
15,奉翰案文
半紙本,写本,1冊,縦238ミリ×横167ミリ。仮綴,表紙は本文紙と共紙。中央上部に直接墨書で「奉翰案文」とあり,左下に「鈴木」とある。墨付33丁。「1 年始廻勤弁当所…25 近火見舞挨拶…」等書状の案文集。重嶺写か。
16,志能夫具佐
半紙本,写本,1冊,縦247ミリ×横175ミリ。仮綴,表紙は半紙で,後表紙は無し。左肩に直接墨書で単線の仲に「志能夫具佐」とある。本文用紙は四周子持枠縹色罫紙,毎半葉10行と,四周単辺縹色罫紙,毎半葉8行の二種。墨付16丁。版本『志能夫具佐』の草稿本か。
17,東宰府天満宮神前和歌式会
大本,写本,1冊,縦275ミリ×横200ミリ。仮綴。表紙無し。1丁オに「東宰府天満宮神前/和歌式会」とあり,その下に「伊庭秀賢/同社中」とある。墨付9丁。次第の末に「嘉永五壬子年二月廿三日」とある。7丁目に「東宰府天満宮奉納/和歌式会作法」があり,其の末に「題者 秀賢/読師信教/講師 常一/嘉永五年子二月念三日」とあり,その後に,鈴木重嶺筆にて「此時重嶺在勤中にて此会員に加らさりき/御社中の分其折のさまをも見まほしく伊庭大人のもとにあるを借えてうつしおく 穂積重嶺」とある。「識林図」の陽刻縦長方形朱印。
18,翠園大人雅集
半紙本,写本,1冊,縦250ミリ×横175ミリ。仮綴、前表紙は「牛込区窮民救助資金明治二十六年度歳入総計予算」を裏返して使用。後表紙は、「逓信省」の赤色罫紙を裏返して使用。中央上寄に直接墨書で「翠園大人/雅集」とある。本文用紙は四周子持枠縹色罫紙、毎半葉10行と,四周単辺縹色罫紙,毎半葉11行 の二種。墨付4丁。『翠園大人雅集』の後に〔鈴木重嶺歌集〕が合冊されている。本文用紙は四周単辺薄茶色罫紙,毎半葉7行。墨付10丁。1丁目に「春 穂積重嶺」とあり,巻末に「こはわか師翁御詠草庚午辛未両年/のうちより書ぬきておくりまゐらす/翠園塾 橋本景耀」とある。
19,翠園大人雅友歌評并質疑
半紙本,写本,1冊,縦258ミリ×横178ミリ。仮綴,表紙は「逓信省」の赤色罫紙を裏返して使用。中央上寄に直接墨書で「歌評并質疑」とあり,その右上に「翠園大人雅友」とある。本文用紙は半紙と縹色罫紙を使用。全31丁。2丁ウに「二月十日認 千之/翠園先生□□□」とあり。11丁オには「屋代柳漁ぬしよりいひおこされしをひゝゝの答」とあり、その末尾に「明治六年九月一日佐渡国相川官舎にありてしるす/須受伎重嶺」とある。
20,翠園叢書目録
半紙本,写本,1冊,縦247ミリ×横165ミリ。仮綴,表紙無し。内題は2丁オに「翠園叢書目録」とある。墨付12丁。1丁オに「たてゝ甲を叢書乙を雑録となむ名つ/けたりけるさるはわかいきのをの限り/おもひ出草にもせむとてなりけり/明治といふとしの四とせ文月もちの頃/□□□廼重嶺誌」とある。「翠園叢書」の目録であるが,巻一~巻六十二のみ。
21,〔和歌会兼題歌集〕
半紙本,写本,1冊,縦243ミリ×横166ミリ。仮綴,表紙無し。嵯峨家用箋(嵯峨実愛か),四周子持枠樺色罫紙,毎半葉13行。版心に「嵯峨家」とある。墨付3丁。「兼題暁郭公」とあり,忠煕卿・建通卿・実徳卿・宗城卿・信篤卿・承昭卿・茂政卿・詮卿・利鬯朝臣・忠敬朝臣・重嶺・粲・実愛の和歌35首を収める。
22,〔歌会開催廻状及び歌集〕
半紙本,写本,1冊,縦243ミリ×横164ミリ。仮綴,表紙無し。四周子持枠縹色罫紙,毎半葉10行。版心上部に魚尾。墨付5丁。廻状 は「拝啓各位益御安全奉賀候然は四月十九日於拙邸歌会相催候兼題并探題玉詠御廻し申候御落手御一覧御通有之度此段申述候也/明治十九年五月十六日 亭番 伊達宗城」とあり,続けて「近衛忠煕殿 承候/久我建通殿 承候/正親町実徳殿 承候/松平慶永殿 承候/池田茂政殿 承候/松浦詮殿 承候/津軽承昭殿 承候/松平確堂殿承候/鈴木重嶺殿 敬承」とあるが,氏名の下の「承候」は各自の筆。二丁目に「明治十九年四月十九日於拙邸歌会/催主 伊達宗城/兼題/遠見花」として和歌を収録。
23,〔雅言解序〕
半紙本,写本,1冊,縦247ミリ×横173ミリ。仮綴,2丁。四周単辺の匡郭の上に稿本が貼付されている。序の末に「荻園のあるし/藤原千浪也/明治七とせ二月」とある。
24,懐旧和歌
内田一知墓志并銘 半紙本、版本,1冊,縦233ミリ×横163ミリ。仮綴,表紙は本文紙と共紙。中央上寄に無界で「懐旧和歌/内田一知墓志并銘」。序題=「懐旧和歌序」その末に「嘉永三とせといふとしのはつき/十二日のこと斗なん有ける其よしやかて/□たら山の旅寐にほつみの重嶺/しるす」。内題=「兼題/寄月」。匡郭=無界。丁付・刊記も無し。10丁。収録歌人は,大僧正慈観(日光学頭)・吉川忠尚・田中時□・大儀見茂敬・鈴木尚双・町田正之・井上則之・長嶋直躬・関口安之・荒増忠虎・平嶋典常・斎藤豊香・穂積重嶺。9丁に「内田一知墓志并銘」があり,その末に「嘉永己酉南呂 無為道人慈観識」とある。
25,鈴木重嶺履歴録
大本,写本,1冊,縦279ミリ×横202ミリ。仮綴,表紙無し。四周子持枠薄縹色罫紙,毎半葉12行。版心上部に魚尾。文雅堂製。墨付4丁。「文化十一甲戌 江戸駿河台ニ生ル 六月廿四日 幼名亀太郎 一歳」から「万延元庚申 十月廿三日 御本丸御番御用相勤候付金五枚時服二別段金三枚時服二頂戴 四十七歳」まで記録されている。以下,明治23年、77歳までは年号と年齢のみ記載。
26,地租改正に就き意見書
半紙本,写本,1冊,縦248ミリ×横170ミリ。仮綴。表紙無し。四周子持枠薄縹色罫紙,毎半葉10行。版心上部に魚尾。墨付4丁。前文は「民は国のもとなりと古賢のいましめ宜なる哉わか/皇国言にも民のよみを於保太加良といふ民なくして国の/立へき謂なし天子は民の父母なり民を憐み育て給ふは/天子の職分なり……故に愚衷を吐露して試にこ参考の為左の件々を/しるして奉る越俎咎はす取捨し給はんことを 臣重嶺 恐々々々 白」とあり,以下,十八条の意見を記している。紙箋で多くの訂正を加えている。
27,存付候廉々申上候書付
半紙本,写本,1冊,縦245ミリ×横174ミリ。仮綴。表紙は本文紙と共紙。中央上寄に直接墨書で「存付候廉々申上候書付」とあり,左下に「鈴木太之進」右側に「此書面草稿出来候得共御取用御可相成廉も□□候ニ付反古といたしける」とある。墨付12丁。内容は,御旗本知行所の事,諸家之家政改革の事,御肴役所青物御納屋之儀,旗本御家人乗船訓練の事,銃隊調練御世話の事,等に関する意見書。末尾に「右は更ニこ採用可相成儀ニは無御座候得共心付候廉々/奉申上候以上/戌七月」とある。明治七年七月か。
28,愚意奉建言候書付
半紙本,写本,1冊,縦243ミリ×横170ミリ。仮綴。表紙無し。四周子持枠薄縹色罫紙,毎半葉10行。墨付4丁。1丁オに「愚意奉建言候書付/東京府士族重明父隠居/従五位鈴木重嶺」とあり,以下「浅陋老駑ノ臣重嶺尊朝憂国ノ衷情難黙止不顧忌諱奉/建言服0方今ノ経国ニ於ル二個ノ重大事件アリ地租改正ト/華族士族禄券之也」と書きはじめ,末尾は「天津日嗣モ如何成行キ給フラン/皇国開闢以来皇統連綿東洋/中ニ独立セシモ是亦イカヽ成行ヘキ哉ト実ニ日夜苦慮スル/所ナリ依テ愚衷ヲ吐露シテ試ニ御参考ノ為メ別紙ノ/件々ヲ粛陳ス伏願諸賢閣下聡明叡智越俎ノ罪ヲ/恕シテ御採用アランコトヲ 臣重嶺 誠恐誠惶頓首謹言/明治十年二月」とある。
29,自今可改箇条
半紙本,写本,1冊,縦250ミリ×横169ミリ。仮綴。表紙は無し。3丁の本文の初めに「自今可改箇条」。墨付17丁。1・2丁に前文があり「維新以来文学を興シ国教ヲ張リ戸籍ヲ編シ巡査吏ヲ置クヨリシテ百般ノ政務皆以テ旧弊ヲ洗除シ風俗ヲ美ニシ文明開化ノ良民トシテ億兆安楽ニ生業ヲ為サシメン……」と始め,末尾には「明治九年二月廿七日/相川県令鈴木重嶺」とある。内容は,婚姻,養子,葬祭,年忘祭,看病,子供の教育,種痘,少女を娼妓等に出さぬ事,家の廻りを清潔にする事,等き十八条からなる。
30,佐州表還卒取立方之儀ニ付御伺候御書付
半紙本,写本,1冊,縦243ミリ×横173ミリ。仮綴。表紙は無し。1丁オに「佐州表還卒取立方之儀ニ付御伺候御書付/相川県参事鈴木重嶺」とある。四周単辺弁柄色罫紙,毎半葉7行。墨付5丁。3丁ウに「辛未/十二月 相川県参事鈴木重嶺/吏官/御中」とあり,5丁オに「壬申/正月 相川県参事鈴木重嶺」とあるので,明治4年,5年のものであろう。付箋による補筆あり。
31,米人フランキリン十三徳

半紙本,写本,1冊,縦248ミリ×横175ミリ。仮綴。表紙無し。1丁オに「米人フランキリン十三徳/此人電気既避雷柱ヲ発明シ高名ノ学士ナルヨシ」とあり。四周単辺薄縹色罫紙,毎半葉10行,上部に魚尾。墨付3丁。「第一章節制,第二章沈黙,第三章順序……第十三章謙遜,第十四章人倫、第十五国体」とし,末尾に「右二章を加へて十五章とすいま是をまもり/事業をゝへ 朝廷にいそしみつかへまつ□ゝ事/いさをゝたて父母をあらはさんことを希ふになむ/明治七年甲戌二月 翠園/温所子」とある。
32,隠居家督願一件留
半紙本,写本,1冊,縦245ミリ×横173ミリ。仮綴。表紙は本文紙と共紙。中央上寄に直接墨書で「隠居家督願一件留」とあり,右側に「慶応四戊辰歳七月」,左下に「鈴木」とある。墨付5丁。1丁オに「隠居家督願書/寄合/鈴木兵庫」とあり,2丁オに「養子惣領/鈴木緑蔵/辰歳二十九」,3丁ウ・4丁オに「慶応四辰年七月 鈴木兵庫/印/書判/浅野次郎八殿/服部綾雄殿」とある。4丁には「御問合」がある。
33,東京府区兵編制意見書及び区兵編制概則
半紙本,写本,1冊,縦244ミリ×横165ミリ。仮綴。表紙無し。3丁オに「区兵編制概則」とあり。1丁・2丁は、四周単辺薄縹色罫紙,毎半葉11行,3丁・4丁は,四周子持枠薄縹色罫紙、毎半葉10行、墨付4丁。1丁オは「今般鹿児嶌県暴徒征討被仰出官軍進撃/開戦相成候趣ニ付……」と書き始め,その末には「明治十年二月/第三大区五小区/神楽町壱町目五番地/東府士族/鈴木重明/東京府知事楠本正隆殿」とある。
34,鈴木重嶺短冊
「夕まくれ在し世しのふをりからにともまつむしの声そ聞ゆる 重嶺」
35,鈴木重嶺短冊
「月前蛍/飛ほたる数のすくなく見えつれはてる月かけのしらせなりけり/八十四翁/重嶺」
36,鈴木重嶺詠草
1枚。「重嶺/梅花盛久/行すゑのさかえを見せて咲しよりいく日になりぬ神かきのうめ」
37,北陸道鎮撫使より佐渡奉行への達書
慶応4年3月9日頃,鎮撫使高倉一行越後高田到着直前の,高田藩を仲介にした呼出し状,3通一括。
1,「佐渡奉行え/今度/御両総督先鋒兼鎮撫/使として北陸道え御発向/……三月/北陸道/督府/執事」

2,「一筆啓上仕候春暖之候々/御座候処弥御安泰可取成/御在陣珍重奉存候……三月九日/伊藤彌惣 正温(花押)/村上主殿 佳和(花押)/竹田十左衛門 有信(花押)/鈴兵庫頭様/□人々御中」。14行。この後に追書7行。
3,「別紙佐渡并新潟両奉行/□□御達書弐通其藩より/通達方可 取斗旨被/仰出間此段急速可取申通候以上/三月/督府/執事/榊原式部大輔殿/留守居中」督府執事より高田藩留守居役宛書状。
38,松浦詮,重嶺宛書簡
「貴書拝承廿一日……三月三日 詮/翠園先生」7行,追書2行。二十一日の歌会の事。
39,津軽承昭,重嶺宛書簡
「前略此頃御申越之追悼歌/薄短冊御廻し申候御落手相/願候小生今日武州金沢別荘へ/出立仕り候当月中は滞留/……置候早々頓首/九月十六 承昭/重嶺殿/貴下」6行。
40,三田葆光,鈴木重明宛書簡
14行,追書3行。「尊翰拝誦仕事候寒冷之候/益御健勝奉賀候扨□/御先考様御七回忌御相に付/……みの廿四日 三田葆光/鈴木重明様/……」
41,青木修,鈴木重明宛葉書1枚
故先生御年忌欠席の事。
42,相渡申質地証文之事
大判証文1枚。半紙3枚。武州荏原郡上北沢村,質地主・鈴木信吉,親類惣代・鈴木岩吉等,鈴木稲城殿宛。

 (昭和女子大学『学苑』第705号・平成11年1月 を改訂)

⑦[古書籍商より購入分(第2次)](平成11年10月1日)

1,翠園詠草 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七五ミリ。前表紙は赤罫紙,後表紙は本文と共紙。表紙中央上部に「春迺歌/翠園詠草 春」と墨書。右下に「共六冊」と墨書し,その下に「鈴木」の縦長円形陽刻朱印。墨付6丁。「鈴木蔵書」の陽刻円形(上部が内に折込む)朱印。
2,翠園詠草 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七三ミリ。前表紙は本文と共紙。表紙中央上部に「秋迺歌/翠園詠艸 秋」と墨書。右下に「共 六冊」と墨書し,その下に「鈴木」の縦長円形陽刻朱印。本文用紙は青色罫紙,毎半葉8行。墨付5丁。「鈴木蔵書」の陽刻円形(上部が内内に折込む)朱印。巻末に遊紙1丁。
3,翠園詠草 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五三ミリ×横一七八ミリ。表紙は半紙で中央上部に「翠園詠草」と墨書。本文用紙は青色罫紙,毎半葉8行。墨付27丁。白紙18丁。
4,翠園詠草 半紙本,写本,1冊,縦二二八ミリ×横一五六ミリ。練色表紙。左肩に「翠園詠草」その下に2行小字で「明治十七年十月より/十八年十月まて」と墨書。本文用紙は丸屋の躑躅色罫紙,毎半葉10行。墨付48丁。「鈴木蔵書」の陽刻円形(上部が内に折込む)朱印。
5,庚午詠草 半紙本,写本,1冊,縦二二五ミリ×横一五八ミリ。浅葱色表紙。中央上部に「庚午 詠草」左下に「鈴重嶺」と墨書。本文用紙は黒色罫紙,毎半葉10行。墨付26丁。白紙9丁。
6,庚午詠草 大本,写本,1冊,仮綴,縦二六二ミリ×横一八九ミリ。表紙本文と共紙で,左肩に「庚午詠草」右下に「重嶺」と墨書。本文用紙は黒色罫紙,毎半葉10行。墨付16丁。
7,辛未詠草 半紙本,写本,1冊,縦二二六ミリ×横一五八ミリ。玉子色布目表紙。中央上部に「庚未詠草」左下に「翠園」と墨書。本文用紙は青色罫紙,毎半葉8行。墨付45丁。遊紙5丁。
8,戊辰詠草 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六五ミリ。表紙本文と共紙で,中央上部に「戊辰詠草」左下に「翠園」と墨書。墨付31丁。巻末に遊紙1丁。
9,明治詠草 半紙本,写本,1冊、縦二三四ミリ×横一六五ミリ。黄0色表紙。左肩に「明治詠草」その下に小字で「十二年一月より/十三年」と墨書。本文用紙は青色罫紙、毎半葉10行。墨付98丁。「鈴木蔵書」の陽刻円形(上部が内に折込む)朱印。
10,詠藻 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二三九ミリ×横一六五ミリ。表紙は半紙で左肩に「詠藻」その下に小字で「明治六年一月より」と墨書。本文用紙は青色罫紙,毎半葉8行。墨付98丁。
11,月奈美集 春ノ部 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六八ミリ。表紙は半紙で左肩に「月奈美集」その下に「春ノ部」と墨書。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付28丁。
12,月奈美集 夏ノ部 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六八ミリ。表紙は半紙で左肩に「月奈美集」その下に「夏ノ部」その左下の貼紙に「哥数三百三十八」と墨書。後表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付17丁。
13、月奈美集 秋ノ部 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六八ミリ。表紙は半紙で左肩に「月奈美集」その下に「秋ノ部」その左下の貼紙に「哥数三百八十六」と墨書。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付15丁。
14,月奈美集 冬ノ部 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四六ミリ×横一六六ミリ。表紙は半紙で左肩に「月奈美集」その下に「冬ノ部」と墨書。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付9丁。
15,月奈美集 恋ノ部 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四六ミリ×横一六八ミリ。表紙は半紙で左肩に「月奈美集」その下に「恋ノ部」と墨書。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付5丁。
16,月奈美集 雑ノ部 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四六ミリ×横一六八ミリ。表紙は半紙で左肩に「月奈美集」その下に「雑ノ部」と墨書。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付18丁。
17,類題月奈美集 春之部 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六七ミリ。表紙は本文と共紙で左肩に「春之部」左下に「哥員五百二十九首」と墨書。1丁目に序があり,その末に「明治十五年九月 穂積重嶺」とあり,本文の最初に「類題月奈美集/鈴木重嶺編輯」とある。墨付28丁。
18,月奈美集 夏之部 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四六ミリ×横一六七ミリ。表紙は本文と共紙で左肩に「夏之部」左下の貼紙に「哥数三百四十三首」と墨書。1丁表に「月奈美集/夏ノ部」とある。墨付18丁。
19,月奈美集 秋之部 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六八ミリ。表紙は本文と共紙で右上の貼紙に「秋ノ部 哥員三百十首」と朱書。1丁表に「月奈美集/秋ノ部」とある。墨付16丁。
20,月奈美集 冬之部 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四七ミリ×横一六八ミリ。表紙は本文と共紙で何も書かれていない。1丁表に「月奈美集/冬ノ部」とある。墨付15丁。
21,類題月奈美集 春ノ部稿 小本,写本,1冊,仮綴,縦一九五ミリ×横一二九ミリ。表紙は本文と共紙で,中央に「類題月奈美集 春ノ部稿」と墨書。本文用紙は朽葉色罫紙,毎半葉10行、版心に「みとりの園」とある。1丁目に序があり,その末に「明治十五年九月 穂積重嶺」とあり,本文の最初に「類題月奈美集/鈴木重嶺編輯」とある。墨付18丁。
22,百首詠草 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二三二ミリ×横一五〇ミリ。表紙は本文と共紙で中央上部に「百首詠草/三月十五日従朝五時至夕七時/五十題題詠」と墨書。墨付14丁。
23,花百題百首 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四三ミリ×横一六五ミリ。表紙は本文と共紙で,中央上部に「花百首百題」とある。1丁表に「保豆美迺重嶺」とある。墨付13丁。
24,奉賀大君長防二州進発歌 半紙本,写本,1冊,仮綴、縦二四〇ミリ×横一七〇ミリ。表紙は本文と共紙で中央上部に「奉賀/大君長防二州進発歌」と墨書。1丁表に「奉賀 穂積重嶺」とある。墨付10丁。
25,翠園大人記事并長歌 半紙本、写本,1冊,仮綴、縦二四八ミリ×横一七〇ミリ。表紙は朱色罫紙を裏返して使用。中央上部に「翠園大人/記事并長歌」と墨書。本文用紙は青色罫紙、毎半葉10行。一部8行や無罫も混合。墨付46丁。「新年言志歌并短哥」「年のはしめに冨士をみること葉」「冨士山の記」「春の消息文」「鶯をきくこと葉」「桜見の記」等の歌文を収める。
26,勅題朝廷詠進月次 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七五ミリ。表紙は朱色罫紙を裏返して使用。後表紙は無し。表紙右寄り上部に「勅題/朝廷詠進月次」左下に「翠園」と墨書。本文用紙は青色罫紙、毎半葉10行。1丁表に「朝廷詠進月次勅題 鈴木重嶺」とある。墨付4丁。
27,嶋曲の古豆美 中本,写本,1冊,仮綴,縦二〇五ミリ×横一三五ミリ。表紙は本文と共紙で,中央上部に「嶋曲の古豆美」と墨書。2丁裏に「慶応といふとしの二とせきさらきの頃(みな月)/翠園あるししるす」とある。墨付14丁。
28,たゝことうた 小本,写本,1冊,縦一五〇ミリ×横一〇五ミリ。卍つなぎ江戸茶色表紙。左肩に書題簽,「たゝことうた」と墨書。本文用紙は厚手紙。1丁表に「明治十年なか月 重嶺」とある。墨付21丁。
29,老のすさみ 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四四ミリ×横一六五ミリ。表紙は本文と共紙で中央上部に「老のすさみ」左下に「翠園」と墨書。墨付6丁。
30,憶魯何応斐 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二六二ミリ×横一八三ミリ。表紙は本文と共紙で左肩に「憶魯何応斐 二篇」と墨書。11丁に短冊型の歌の紙を貼付。他に白紙6丁。
31,憶魯何応斐 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。1丁表に「憶魯何応斐 二篇」とある。墨付16丁。
32,憶魯何応斐 小型本,写本,1冊,縦一八四ミリ×横一二三ミリ。黄土色表紙。中央上部に「憶魯何応斐」その下に小字で「二十八年/七月より」左下に「翠園」と墨書。本文用紙は大雅堂製紅色罫紙,毎半葉10行。墨付15丁。他に白紙33丁。
33,憶魯何応斐 横小本,写本,1冊,縦一〇一ミリ×横一五五ミリ。枯色表紙の左肩に「憶魯何応斐」と墨書。本文用紙は文雅堂製水色罫紙,毎半葉10行。1丁表の罫外に「憶魯何応斐」とある。墨付49丁。他に白紙44丁。
34,月並詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉11行。墨付11丁。
35,月並詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉11行・10行混入。墨付11丁。
36,月並詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四八ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉11行・10行混在。墨付8丁。
37,月並詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付5丁。他に白紙2丁。
38,月並詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付10丁。
39,月並詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付15丁。
40,歌点折句 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四〇ミリ×横一六五ミリ。表紙は本文用紙と共紙で中央上部に「歌点折句」と墨書。墨付3丁。
41,雑詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。1丁表に「与友見菊 重嶺」とある。墨付4丁。
42,雑詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四〇ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。1丁表に「詠史漫撰」とある。墨付14丁。
43,雑詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。1丁表に「新年会志」とある。墨付2丁。他に白紙3丁。
44,雑詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四二ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。1丁表に「後醍醐」とある。墨付8丁。
45,雑詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七四ミリ。表紙無し。1丁表に「寒山月」とある。墨付3丁。
46,雑詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六五ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付6丁。他に白紙3丁。
47,雑詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四八ミリ×横一七五ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付9丁。「前田夏蔭」「冨士谷御杖」等の歌もあり。
48,雑詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四八ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付5丁。
49,雑詠草稿 中本,写本,1冊,仮綴,縦二二〇ミリ×横一五七ミリ。表紙無し。本文用紙は黒色罫紙,毎半葉10行。1丁表に「いわかたみ」とある。墨付3丁。
50,雑詠草稿 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五一ミリ×横一七二ミリ。表紙無し。本文用紙は黒色四周単辺の匡郭があり,上部魚尾の位置に線を入れている。1丁表に「己丑十月ヨリ草稿」とある。墨付8丁。
51,雑詠草稿 小本,写本,1冊,仮綴,縦一六六ミリ×横一二三ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行。墨付12丁。
52,翠園文稿 半紙本,写本,1冊,縦二三五ミリ×横一五九ミリ。黄色表紙。左肩に水浅葱色の書題簽「翠園文稿」と墨書。本文用紙は青色罫紙,毎半葉8行・10行,無界のものが混在。「柳上春月」「暁春月といふことを」「教憲講義はしかき 佐渡葛西質著 三巻」「憶魯何応斐の序」等を収録。墨付16丁。
53,翠園文藻 半紙本,写本,2冊,仮綴,縦二三六ミリ×横一六八ミリ。表紙無し。1冊目は,半紙の表紙の中央上部に「翠園文藻」とある。本文用紙は青色罫紙,毎半葉11行・10行・8行が混在。「文化日新序」「御諡号概略」「長歌撰格序」「柳園詠草序」「菅原神社造営之記之跋 明治五年五月 相川県参事鈴木重嶺誌」「鳥の跡序」「佐渡国名所哥集序」「佐渡静間義敬家集序」「柳臨池水といふことを」「河納涼」「本屋敷村拾花邸之記」「開明和歌集序 加藤千浪編輯」「菊を折て瓶にさすこと葉」等を収録。墨付28丁。2冊目は,表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行,半紙が混在。「含翠庵開化題詠序」「類題嶌根集序」「松平忠敬か家集をうつす……」「軒の雫のはし書 明治といふ年の十とせ九月 鈴木重嶺しるす」等を収録。墨付12丁。
54,翠園大人雅言 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四二ミリ×横一七〇ミリ。表紙は朱色罫紙(逓信省)を裏返して使用。中央上部に「翠園大人/雅言」と墨書。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行・8行、黒色双辺の匡郭,半紙が混在。「老のたはこと 八九叟 翠園」「国歌風調論」「西京を都の歌題によむの当非 橘道守/答」「式嶌の道の説」「甲斐国名勝十五景跋」等を収録。墨付25丁。
55,翠園大人雅調 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七三ミリ。表紙は半紙で中央上部に「翠園大人/雅調」と墨書。本文用紙は青色罫紙で毎半葉10行の3種混合。「屋代柳漁質問 明治七年三月 佐渡にありて翠園しるす」墨付28丁。
56,翠園大人旅迺記 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四八ミリ×横一六八ミリ。表紙は朱色罫紙(逓信省)を裏返して使用。後表紙無し。表紙中央上部に「翠園大人/旅迺記」と墨書。本文用紙は青色罫紙で毎半葉12行,黒色四周単辺の匡郭上部魚尾の位置に線を入れるもの,半紙が混在。「旅路のすさみ」等を収録。墨付36丁。他に白紙3丁。
57,旅寐のゆめ 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二三八ミリ×横一七〇ミリ。表紙は本文と共紙で中央上部に「旅寐のゆめ」と墨書。末尾に「明治二十二年八月 翠園老人しるす/七十六叟」とある。墨付9丁。
58,旅路の日記 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二三八ミリ×横一六八ミリ。表紙は本文と共紙で中央上部に「癸亥/旅路の日記」左下に「翠園」と墨書。毎半葉7行。「文久の三とせ六月十八日……」と書き始められ,巻末には「文久三とせふみ月故郷にては魂祭る頃浪国なる蓮光寺なるかりのやとりにゐてつれく・なるまゝ旅路の日記の草稿を書あらたむるにこそ/重嶺」とある。墨付33丁。
59,穂積有定草稿 大本,写本,1冊,縦二五八ミリ×横一八八ミリ。黄色表紙。左肩に題簽の剥落の跡のみ。本文用紙は黒色罫紙,毎半葉10行。1丁表に「穂積有定」とあり,左に小字朱筆にて「二十八歳ノ時天保十三年重嶺ト改ム」とある。「快哉園都日記□」「九丘要畧序」「柳をめつること葉」「火をきく詞」「菊の宴の序」「居所といふことを」「待恋」等を収録。巻末に「此文集は重嶺二十五歳まてのを其頃しるし置たる也四五十年経たるけうとても猶つたなしあなく・といはまくのみ/明治十六年五月/七十叟/翠園」とある。墨付22丁。白紙2丁。
60,哥学闘論会 半紙本,写本,2冊,仮綴,縦二四八ミリ×横一六九ミリ。表紙無し。本文用紙は黒色四周単辺の匡郭,上部魚尾の位置に線を入れる。1丁表に「哥学闘論会」と墨書。1冊目墨付2丁。白紙1丁。2冊目3丁。
61,吐露肝胆再奉諌書 大本,写本,1冊,仮綴,縦二七〇ミリ×横一八八ミリ。半紙の表紙の中央上部に「吐露肝胆再奉諌書 未校」と墨書。本文用紙は珊瑚色で匡郭を印刷。版心上部に「大統歌訓蒙」,下部に「蕉庵居蔵梓」とある。1丁表に「奉諌章に答へたてまつる書 未稿」,巻末に「明治十一年戊子九月十八日哺拝受(朱書) 穂積重嶺」とある。墨付30丁。「柳田氏図書之章」の陽刻円形朱印。
62,屋代柳漁質問 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七〇ミリ。表紙無し。1丁表に「屋代柳漁質問」と墨書。本文は半紙と青色罫紙,毎半葉10行が混在。墨付5丁。
63,乙亥一月屋代柳漁質問 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四八ミリ×横一六八ミリ。表紙無し。1丁表に「乙亥一月屋代柳漁質問」と墨書。本文用紙は半紙と青色罫紙、毎半葉10行。墨付4丁。
64,巡礼問答 半紙本,写本,1冊,縦二三八ミリ×横一六八ミリ。亀甲菊文様空押赤茶色表紙。左肩に直接「巡礼問答」その下に「完」と墨書。本文毎半葉7行。1丁表に「巡礼問答」とあり,巻末に「巡礼問答畢」とある。墨付72丁。「鈴木図書記」の陽刻縦長方形朱印。
65,詠草 小本,写本,1冊,縦一五四ミリ×横一〇三ミリ。黄土色表紙,後表紙無し。表紙左肩に「詠草」と直接墨書。本文用紙は保寿堂の青色罫紙,毎半葉10行,墨付56丁。他に白紙5丁。
66,詠草 小本,写本,1冊,仮綴,縦一五五ミリ×横一一八ミリ。表紙は本文と共紙で左肩に「詠草」と墨書。墨付19丁。
67,詠草 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一七五ミリ。表紙無し。本文用紙は黒色罫紙・青色罫紙混用,毎半葉10行・11行混用。1丁表左肩に「詠草」左下に「重明」と墨書。墨付26丁。重嶺の朱の訂正あり。
68,鈴木重嶺翁追悼会の歌 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六五ミリ。表紙は本文と共紙で中央上部に「鈴木重嶺翁追悼会の歌」とあり,左下に「□ケ瀬喜代子よりかりてうつし畢ぬ」と墨書。子の重明の書写。墨付4丁。
69,知人宿所 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二五〇ミリ×横一七八ミリ。表紙は本文と共紙で右上に「知人宿所」とあり,その下に「いろは分ケ」と墨書。本文用紙は、青色罫紙,毎半葉11行。墨付10丁。他に2葉挿入されている。田口卯吉・中嶋歌子・榎本武揚等の住所が出ている。
70,抄録 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二三五ミリ×横一五五ミリ。表紙は本文と共紙で,中央左寄りに「抄録」左下に「不許他見」右上に「俗神」右下に「下」と墨書。本文右下ノドに「卅九~五十」と丁付がある。
71,雑覚書 小本,写本,1冊,仮綴,縦一一五ミリ×横七八ミリ。表紙無し。本文用紙は青色罫紙,毎半葉8行,と半紙混用。1丁表に「早春見鶴」とあり。墨付23丁。
72,雑覚書 横小本,写本,1冊,縦一〇〇ミリ×横一四七ミリ。黄土色表紙。本文用紙は青色罫紙,毎半葉10行,墨付13丁。
73,雑覚書 横小本,写本,1冊,縦六八ミリ×横一五〇ミリ。赤茶色表紙の右上に「明治/四十年/宿所外/あらまし/おほへ」と墨書。本文用紙は岩木製の青色罫紙,毎半葉11行。墨付21丁。白紙4丁。
74,雑覚書 横小本,写本,1冊,縦七三ミリ×横一四六ミリ。梔子色表紙。本文用紙は青色罫紙,毎半葉13行,墨付6丁。白紙22丁。
75,雑覚書 横小本,写本,1冊,縦七五ミリ×横一一五ミリ。黄土色表紙。本文用紙は青色罫紙,毎半葉8行,墨付10丁。白紙30丁。
76,旅寐のゆめ 半紙本,洋活字本,1冊,仮綴,縦二三四ミリ×横一六〇ミリ。表紙は本文と共紙で,中央上部に「旅寐のゆめ」とある。本文は毎半葉13行,全7丁。巻末に「明治二十二年八月 翠園老人しるす/七十六叟」とある。
77,霧積紅葉見の記 半紙本,洋活字本,1冊,縦二二四ミリ×横一五〇ミリ。薄縹色表紙。左肩に子持枠題簽「霧積紅葉見の記」。本文は毎半葉13行,全7丁。1丁表に「霧積紅葉見記のはしがき」とあり,その末に「明治廿二年の冬 三田葆光」とある。巻末に「明治二十二年十一月 須々伎信宜年」とある。
78,千よのたかむら 小本,版本,1冊,縦一八〇ミリ×横一一五ミリ。銀鼠色表紙笹模様。左肩に題簽「千よのたかむら」全21丁。1丁に叙があり,その末に「大久保忠保書」とある。前見返に重嶺の竹笹の絵があり「七十叟/翠園写□」とある。
79,短歌撰格 大本,写本,1冊,縦二六〇ミリ×横一八三ミミリ。白色表紙(藍色の模様)の左肩に書題簽「短歌撰格上下」枠は印刷,文字は墨書。1丁表に「短歌撰格上 橘守部撰述」とある。上33丁,下32丁,全65丁。「翠園」の陽刻縦長方形朱印。重嶺の書写本。
80,故鈴木重嶺翁/追悼歌会報告書 小本,洋活字本,1冊,縦一九〇ミリ×横一二七ミリ。表紙中央上寄りに,飾り罫の中に「故鈴木/重嶺翁/追悼歌会報告書」とある。追悼会の発起人は江刺恒久・佐佐木信綱・金子元臣等。追悼の歌は、前田利嗣・勝安芳・三田葆光・井上頼圀・中島歌子・佐佐木信綱・金子元臣等である。会計の総計は百八拾六円五銭、明治三十一年十二月。全29頁。
81,翠園雑録目次 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六八ミリ。青色罫紙、毎半葉14行,墨付3丁。1丁表に「翠園雑録/目次」とある。
82,翠園和歌集の目録 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四二ミリ×横一六五ミリ。青色罫紙、毎半葉12行,墨付2丁。1丁表の枠外に「翠園和歌集の目録」とある。
83,書目歌書類 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一七〇ミリ。青色罫紙,毎半葉12行、墨付3丁。1丁表に「書目 歌書類」とある。書名の上に「逸見仲印」の如き印やサインがある。
84,書目歌書類 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六七ミリ。青色罫紙,毎半葉15行,墨付2丁。1丁表に「書目歌書類」とある。
85,書目歌書類 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四二ミリ×横一六三ミリ。山寿堂の青色罫紙、毎半葉12行,墨付4丁。1丁表に「書目 歌書類」とある。「湖月抄 金五円弐五銭 六十冊」の如く金額が入っている。
86,書目 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四二ミリ×横一六三ミリ。山寿堂の青色罫紙,毎半葉12行,墨付4丁。1丁表に「書目」とある。「湖月抄 四円八十銭」等とある。
87,目録 大本,写本,1冊,仮綴,縦二八一ミリ×横二〇三ミリ。青色罫紙,毎半葉12行,墨付2丁。「県居大人筆 あふひてふ歌 一幅」等とある。
88,目録 大本,写本,1冊,仮綴,縦二八三ミリ×横二〇三ミリ。青色罫紙,毎半葉12行,墨付2丁。「県居大人筆 あふひてふ歌 四拾円」等とある。
89,書目 大本,写本,1冊,仮綴,縦二八三ミリ×横二〇三ミリ。青色罫紙,毎半葉12行,墨付4丁。付「国史類目録」
90,鈴木重嶺短冊 「花始開 思ふ子を見しにまさりて嬉しきはまちしさくらのさけるなりけり 重嶺」
91,鈴木重嶺短冊 「寄橋祝 永き代とよふはしをこそ千よかけてさかゆく家にたくへても見め 重嶺」
92,鈴木重嶺短冊 「松風凉 琴のねに松ふく風はかよへはやまたきにあきをひきよせにけむ 重嶺」
93,先祖書 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四三ミリ×横一七〇ミリ。表紙は本文と共紙で,中央上部に「先祖書」左下に「勤仕並寄合/鈴木大之進」と墨書。1丁表に「先祖書」とあり,以下,先祖代々の履歴を記す。末尾に「元治元甲子年十二月/勤仕並寄合/鈴木大之進(花押)/子五十一歳」とある。墨付11丁。
94,先祖書 半紙本、写本,1冊,仮綴,縦二四三ミリ×横一七三ミリ。表紙は本文と共紙で,中央上部に「先祖書」左下に「勤仕並寄合/鈴木大之進」右上寄りに小字にて「丑三月廿五日肝煎佐藤兵庫江差出」とそれぞれ墨書。1丁表に「先祖書」とある。末尾に「元治元甲子年十二月/勤仕並寄合/鈴木大之進(花押)」とある。墨付18丁。白紙1丁。
95,先祖書 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一七一ミリ。表紙は本文と共紙で,中央上部に「先祖書」左下に「鈴木録蔵」と墨書。1丁表に「先祖書」とある。17丁表に「右之通御座候以上/慶応四戊辰年八月/御用人支配/鈴木録蔵(花押)」とある。18丁表に「明細表/鈴木録蔵」とあり、22丁表に「親類書/鈴木録蔵」とあり27丁まで続く。墨付27丁。
96,親類書 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四二ミリ×横一八〇ミリ。表紙は本文と共紙で,左肩に「親類書」左下に「御勘定吟味役/鈴木大之進」と墨書。墨付7丁。
97,親類書 大本,写本,1冊,仮綴,縦二八三ミリ×横二〇〇ミリ。表紙は本文と共紙で,左肩に「親類書」左下に「御勘定吟味役/鈴木大之進」と墨書。末尾に「右之外近親類無御座候以上/文久二戌年 月/鈴木大之進/重嶺(花押)」とある。前表紙に貼紙にて,書式の注意書き添付。墨付5丁。
98,由緒書/親類書 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一七〇ミリ。表紙は本文と共紙で,中央上寄りに「由緒書/親類書」左下に「御徒目付/松本礼助」と墨書。朱にて「嘉永六丑年/御代替ニ付由緒書親類書差出様御仰渡候ニ付/増減相改本書□役和助相頼差出候事」「本書美濃紙張両番之一張無仰之分/一張ニテ出ス」とあり。1丁表に「由緒書」とあり,16丁表に「親類書」とある。末尾に「元治元子年 月  松本礼助」とある。墨付21丁。白紙1丁。
99,雑録・親類書 半紙本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六七ミリ。表紙無し。墨付6丁。1丁表に「明七申年十二月六日来四月/御移替後其儘候相勤旨……」等とあり,3丁裏に「親類書」とある。末尾に「御勘定吟味役/鈴木大之進/重嶺(花押)/文久二戌年八月」とある。
100 ,親類書 1枚,「親類書/高百俵/内弐拾九石壱斗五升八合八夕五才地方/勤仕並寄合/鈴木大之進……」
101 ,系譜書継 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四四ミリ×横一七〇ミリ。表紙は本文と共紙で,中央上寄りに「系譜書継」と墨書。弘化元年から元治元年まで。墨付4丁。
102 ,鈴木家法号略記 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四八ミリ×横一六七ミリ。表紙は本文と共紙で,中央に「鈴木家法号略記」左下に「航浦院」と墨書。1丁表に「豆州君沢郡江梨村/航浦院開基鈴木家/累代法号略記」とある。最終丁は半丁。墨付5丁。
103 ,養子奉願候覚 大本,写本,1冊,仮綴,縦二六九ミリ×横一九四ミリ。表紙は本文と共紙で,中央上部に「養子奉願候覚」左下に「御勘定/鈴木大之進」と墨書。1丁表に「養子奉願候覚」とあり,末尾に「右之外遠類無御座候以上/安政二卯年 月  鈴木大之進」とある。3丁表に「親類書」とあり,11丁表に「遠類書」とある。墨付15丁。
104 ,明細書 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四七ミリ×横一六六ミリ。表紙は本文と共紙で,左肩に「明細書」左下に「佐渡奉行/鈴木大之進/兵庫頭」と墨書。末尾に「慶応元乙丑年十月 鈴木大之進」とある。墨付14丁。
105 ,鈴木家代々法号・系譜(仮題) 大本,写本,1冊,仮綴,縦二七五ミリ×横一九七ミリ。表紙は本文と共紙であるが,書名等は書かれていない。1丁表の1行目に「彩雲院殿前兵庫允鶴翁道仙大禅定門」とあり,以下,鈴木家代々の法号履歴等が書かれている。墨付9丁。
106 ,御手作場畑反別取帳 半紙本,写本,1冊,仮綴,縦二四二ミリ×横一七〇ミリ。表紙は本文と共紙で,中央上寄りに「御手作場畑反別取帳」その右に「明治二己巳年七月」と墨書。末尾に「右之通御座候/元禄四辛未年五月之写」とある。前表紙裏から後表紙表まで書かれている。墨付4丁。
107 ,太政官辞令等・十一枚
 1,「鈴木稲城/任相川県参事/太政大臣従一位三条実美宣/大内史正五位土方久元奉/明治四年辛未十二月八日(「太政官印」陽刻方形朱印)」
 2,「鈴木稲城/任相川県参/事/右/宣下候事/辛未十二月八日/太政官」
 3,「鈴木重嶺/叙従六位/太政大臣従一位三条実美宣/大内史正五位土方久元奉/明治五年壬申十一月十日(「太政官印」陽刻方形朱印)」
 4,「相川県参事従六位鈴木重嶺/兼任六等判事/太政大臣従一位三条実美宣/大内史正五位土方久元奉/明治八年六月五日(「太政官印」陽刻方形朱印)」
 5,「相川県参事/兼六等判事/従六位鈴木重嶺/任相川県権令/兼六等判事如故/太政大臣従一位三条実美宣/大内史正五位土方久元奉/明治八年七月十九日(「太政官印」陽刻方形朱印)」
 6,「従六位鈴木重嶺/叙正六位/太政大臣従一位三条実美宣/大内史正五位土方久元奉/明治八年九月廿日(「太政官印」陽刻方形朱印)」
 7,「相川県権令正六位鈴木重嶺/管下佐渡国加茂郡吉井上/町出火ノ節罹災ノ者為救/助金三円拾五銭差出候段/奇特ニ候事/明治八年十月三十一日/太政官」
 8,「相川県権令正六位鈴木重嶺/学校資トシテ金三拾円/差出候段奇特ノ事ニ候/依テ為其賞別紙目録/之通下賜候事/明治八年十一月九/太政官」
 9,「相川県権令兼六等判事鈴木重嶺/依廃県免兼官/明治九年四月十八日/太政官」
 10,「正六位鈴木重嶺/叙従五位/太政大臣従一位三条実美宣/大内史正五位土方久元奉/明治九年四月廿九日(「太政官印」陽刻方形朱印)」
 11,「正六位鈴木重嶺/多年県官奉職中/格別勉励候ニ付特旨ヲ以位一級被進候/事/明治九年四月廿九日/太政官」
108 ,明細短冊/其外短冊/張込 大判,写本,1綴,縦三三八ミリ×横二四〇ミリ。全2丁。1丁表の中央上寄りに「明細短冊/其外短冊/張込」左下に「鈴木扣」と墨書。鈴木家に関する石高・役職等の別紙を張込む。
109 ,航浦院縁起 横巻紙,1枚。1行目に「航浦院縁起」末尾に「重家十四代/鈴木三郎左衛門尉/明暦三丁酉八月四日穂積繁義」とある。
110 ,親類書 横巻紙,1包,3枚。「親類書」「御家内書」他に日比野清作のもの1枚。
111 ,親類書 横巻紙、1包,1枚。「親類書」岡本ませのもの1枚。
112 ,縁組取結諸拾宝元帳 横綴じ,1綴,3枚。1枚目は縦書きで,中央に「縁組取結諸拾宝元帳」右に「元治二乙丑年」左に「三月吉辰」左下に「鈴木奥」と墨書。
113 ,実名花押 1枚。「実名/資常/皈納/字昌(花押)/穂積重嶺/穂積氏(陽刻方形朱印)/重嶺之印(陰刻方形朱印)」
114 ,蔵書献納の事 1枚。「第三大区五小区/牛込神楽坂町一丁目五番地/鈴木重明父隠居/鈴木重嶺/其方儀処蔵/之書籍修史/館エ献納候段/奇特之儀ニ付/為其賞金拾/円下賜候事/明治十年二月二十七日/東京府(「東京府」陽刻方形朱印)」
115 ,大蔵省記録局の書籍借用証 大蔵省赤色罫紙1枚。「証/一 翠園雑録 弐拾五冊/…(略)…/通計六拾弐冊/右之書類正ニ借用候也/明治十一年六月廿五日 記録局(「大蔵省記録局之印」陽刻方形朱印)/鈴木重嶺様」
116 ,勘定奉行へ届 1枚。養子の届。
117 ,全龍寺の覚書 1枚。「一 金五拾匹宛/但盆暮/…(略)…安政二卯年七月 全龍寺(黒印)/鈴木大之進様」
118 ,正徳度大久保村飛地の事 1枚。「差上申一札の事」とある。正徳六年二月廿二日の飛地に関する覚書の原本。
119 ,祝日大祭日唱歌歌詞作成の礼状 1枚。文部省辞令用朱色罫紙。末に「明治二十六年七月七日 文部大臣井上毅/鈴木重嶺殿」とある。
120 ,御布告并諸進達扣綴込 1綴。約縦二七〇ミリ×横二〇〇ミリ。表紙中央に「御布告并諸進達扣綴込」右に「従明治四年」左に「辛未三月」と墨書。その左に「至同五壬申十二月」と朱書。左下に「鈴木氏」と墨書。墨付全228枚(一部洋活字)。書類の一部を掲げる。
 ◎「私儀/若年之頃より/皇願学歌道執心ニ而村山素行伊庭秀賢/教授を受凡四十年来引続修業罷在候/併生質魯鈍ニ而至而未熟ニ候得共追々教授/申込候もの有□候ニ付牛込山伏町拝借邸ニ/相以て私塾開業仕度此段奉願候以上/辛未/七月九日/元田安/東京府貫属士族/鈴木稲城/東京府/御庁」
 ◎「私儀/今般為/皇学歌道修業牛込山伏町拝鈴木稲城方へ三ケ年/入塾仕候此段御届奉申上候以上/辛未/七月廿三日/京都府□原士族/橋本鱗太郎/東京府/御届」
 ◎牛込山伏町通りの鈴木家邸図面(「第三大区五ノ小区/相川県参事/士族/鈴木稲城拝借邸/四百拾壱坪余」)
121 ,御布告并諸進達留 1綴。約縦二八五ミリ×横二〇〇ミリ。表紙中央に「御布告并諸進達留」右に「従明治六癸酉一月」左下に「鈴木」と墨書。墨付全287枚(一部洋活字)。
 書類の一部を掲げる。
 ◎「別紙之通被仰出候ニ付テハ最前御渡御相成候各/省事務章程中此権限ニ抵触矛盾スル者ハ被廃止候/条此旨相心得事/明治六年五月二日 太政大臣三条実美」「勅旨/明治四年辛未七月制定スル所官省ノ位置職/員ノ権限各其序を得ルト雖モ当今ノ時勢現/務上ニ於テ或ハ
其弊ナキ能ハス故ニ太政官職制章程ヲ閏飾ス百官其レ之ヲ奉承セヨ/明治六年五月二日」「太政官職制/天皇陛下親臨/……明治六年五月二日奉勅 太政大臣三条実美」
 ◎「歌学開業/第三大区五小区/牛込南山伏町六番地/東京府貫属士族/相川県参事/鈴木重嶺/入塾生/第四大区小一区/小川町四十三番地/東京府/橋本定久厄介/真嶋景耀/一入塾生徒男壱人」
 ◎「第三拾九号/太政官第十八号御布告(第一条~第十四条)……右之通被仰出候間市在区々無洩可触知モノ也/明治六年/一月二十八日 東京府知事大久保一翁」
 ◎「先般御布達ニ付洋犬壱疋所持/仕候趣書上候処去月十六日右犬/紛失仕候間詰方穿鑿仕候得共/行衛相知不申候依之此段御届/申上候以上/明治六年第五月/第三大区五小区/牛込南山伏町六番地/東京府貫属士族/相川県参事/鈴木重嶺 印」
 ◎「明治六年十一月五日 右大臣岩倉具視/出訴期限規則/第一条/一 学芸の授業料/……明治六年十二月三日 鈴木重嶺」
 ◎「実家復籍願/第七大区五小区下目黒村十番地/東京府士族/高現米拾三石壱斗 松本誠継/十七年六月/右誠継儀明治三年三月廿九日養父龍智家督/相続罷在候処今般無余義事情有之候ニ付……明治十年六月/鈴木広厚/鈴木重明/松本誠継/松本龍智/東京府知事楠本正隆殿」
122 ,覚書 1枚,「吉川様……」
123 ,覚書(航浦院回向料) 1枚,「覚/銀 三枚……」
124 ,預り申金子証文之事 1枚,「一金三拾両也 但し通用金/…」常修院より谷福寺宛。
125 ,家督相続の事 1枚,「鈴木兵庫/養子/同録蔵/病気ニ付願之通/隠居□ 仰付/家督録蔵ニ/取下候」
126 ,扇子箱等の目録 桃色紙1枚,「覚/一 扇子箱 一台/…目録惣数 拾六」
127 ,扇子箱等の目録 1枚,「豊田様/覚/一 扇子 一台/志ら賀 一台/鰹節 一連/右十兵衛様/奥方様……」
128 ,吉川圭三郎親類書 1枚,「実母方…右者表向親類同様為取交仕候以上/丑三月 吉川圭三郎」
129 ,借用証書 1枚,「奉拝借御金請取/一類金拾弐円也/…明治十一年第九月二十四日/□□貞五郎(花押)/鈴木重嶺殿/尊邸御中」
130 ,譲渡申田地之事 1枚,「譲渡申田地之事/…文化十一酉年七月廿九日/大久保村……」
131 ,(相致書) 1枚,「相致書/貞敏病死……重嶺/貞知殿/重明殿」
132 ,重嶺宛吉田次郎書簡 1枚,「……十一月十四日 吉田次郎(印)/鈴木老台様」
133 ,重嶺宛吉田次郎書簡 1枚,「……二月四日 吉田次郎(印)/鈴木老台様」
134 ,重嶺宛滝村鶴雄書簡 1枚,「……四月二日 町村鶴雄/鈴木先生/侍史」
135 ,重嶺宛書簡 1枚,「……二月十五日 □□/鈴木老台様」
136 ,重嶺宛書簡 1枚,「……五月初七/鈴木詞伯……」
137 ,重嶺宛南部信近書簡 1枚,封筒入り。末尾に「四月廿九日 南部信近/鈴木重嶺殿/磯部最信殿」とあり,その後に二伸がある。
138 ,家督相続願書 1枚,「御役 御免隠居家督之儀奉願候書付/給禄拾人扶持/御役金三百両/元開等方督事/松本直一郎/午三拾九歳/養子惣領/松本利三郎/午拾七歳……明治三午年二月 松本直一郎(花押・印)/水野権十郎殿/鈴木稲城殿」
139 ,(会議録草稿) 大蔵省・黒色罫紙,毎半葉8行,墨付7丁。四月十五日から五月十二日までの記録。「五月二日議長身御用ニ付代理神田孝平」等とある。
140 ,(旧静岡藩士育英事業趣意書) 半紙本,1冊,仮綴,縦二四三ミリ×横一六五ミリ。表紙無し。赤色大蔵省罫紙,毎半葉13行。墨付8丁。1丁表に「奎運維新而テ我幕府数万ノ士其帰趨一ナ/ラス各党分裂互ニ相仇視ス尋テ静岡ニ封セラルヽ/ト雖モ……」と書き始め,末尾に「発起/松平太郎/鈴木重明」とある。以下は,社則一条~廿五条の草稿。
141 ,添地之儀奉願候書付 半紙本,1冊、仮綴、縦二四二ミリ×横一六五ミリ。表紙無し。1丁表に「添地之儀奉願候書付/鈴木大之進」とあり,末尾に「絵図面相添此段奉願候以上/未十
一月鈴木大之進」とある。墨付2丁。
142 ,和歌等雑記 半紙本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一七五ミリ。表紙無し。青色罫紙,毎半葉10行。墨付15丁。「塙忠宝・畠山梅軒・萩原宗固・萩原広通・原久胤・伴信友・小山田与清・加茂季鷹」等が見出しになっているが,多くは白紙状態である。
143 ,詠草等雑記 半紙本,1冊,仮綴,縦二四五ミリ×横一六五ミリ。表紙無し。丹色罫紙を裏返して使用。1丁は「七月小集兼題当坐歌」を裏返して利用。墨付5丁。
144 ,詠草等雑記 小本,1冊,仮綴,縦一五五ミリ×横一〇六ミリ。表紙無し。黒色罫紙を裏返して使用。墨付6丁。白紙5丁。
145 ,詠草雑記 半紙、2枚,「行路月・雲間月・名所月・山家菊・松間紅葉」等とある。
146 ,詠草雑記 青色罫紙、毎半葉10行。墨付2丁。初めに「みちのくに遊ひける時よめる歌 松浦詮」とある。
147 ,詠草雑記 名勝雑誌社の躑躅色原稿用紙、27字×26行。3枚。
148 ,詠草雑記 青色罫紙,毎半葉11行。4枚半。「上古ハ神なからの道の外なかりしを……」とあり,「延喜式・同神名帳・公事根源・職原抄……」とある。
149 ,詠草雑記 青色罫紙,毎半葉8行・9行・10行・11行混合,8枚。
150 ,類題月奈美集等 江戸茶色罫紙,毎半葉10行,版心に「みとりの園」とある。一括9枚。1枚には「類題月奈美集/鈴木重嶺編輯」とあり,1枚には「今やうのうた」とあり,1枚には「詠山田之曽富勝歌」とあり,2枚綴のものには「長歌/詠詩花哥 正二位三条西季知」とある。
151 ,重嶺草稿 1枚,「重嶺/詠感思在秋天謌」
152 ,重嶺草稿 青色罫紙,1枚,末尾に「明治の十三年といふとしさ月のはしめ駅路の鈴木の/重嶺」
153 ,重嶺草稿 青色罫紙,1枚,「宇比山婦美序」「明治といふ年の十まり四とせ五月/鈴木重嶺」
154 ,重嶺草稿 青色罫紙,1枚,「天尓遠波変□弁おく書」「明治十五年三月 鈴木重嶺」
155 ,重嶺草稿 青色罫紙,1枚,「松のみさをはし書」「明治二十一年五月 穂積重嶺しるす」
156 ,重嶺草稿 1枚,末尾に「明治二十一年五月 穂積重嶺」全2枚~3枚の内の末丁か。
157 ,重嶺草稿 2枚,「花くはし……/明治二十一年九月穂積重嶺しるす」
158 ,重嶺草稿 1枚,「北川平内ぬしは……/明治二十二年 五月 鈴木重嶺しるす」
159 ,重嶺草稿 青色罫紙,1枚,末尾に「明治二十三年十二月穂積重嶺誌」
160 ,重嶺草稿 1枚,末尾に「明治二十五年四月 従五位穂積重嶺しるす」
161 ,重嶺草稿 青色罫紙,1枚,末尾に「明治三十年七月鈴木重嶺しるす」
162 ,重嶺草稿 青色罫紙,1枚,「七十になりける/としのはしめかし/重嶺」
163 ,重嶺草稿 1枚,「重嶺/川納涼」
164 ,重嶺草稿 1枚,「日本文学の社長におくる」「七十五叟/翠園老人」
165 ,重嶺草稿 1枚,「重嶺/落葉」
166 ,重嶺草稿 1枚,「原始祭 唱哥/……鈴木重嶺」
167 ,翠園のうし…… 珊瑚色縦縞紙、1枚。
168 ,松宇逸人書 2枚。
 1,「鶴舞千年樹/松宇逸人書」
 2,「あつさゆみいそへの小松/……松宇逸人書」
169 ,茶農光人書 1枚。「戊子夏日為/鈴木君衛/茶農光人時年七十六」
170 ,雑筆・草稿等零葉 50枚。

               【平成28年11月5日】

1、鈴木重嶺  すずき しげね

1、鈴木重嶺  すずき しげね

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (深沢秋男 補訂)

1898年 旗本 従五位

凡例 鈴木重嶺
時代 江戸時代後期 – 明治時代
生誕 文化11年6月24日(1814年8月9日)
死没 明治31年(1898年)11月26日
改名 亀太郎(幼名)→小幡有定(初名)→鈴木重嶺
別名 大之進(通称)、翠園、緑堂、知足斎(号)、子高(字)
墓所 東京都新宿区大久保の全龍寺
官位 従五位下、兵庫頭、正六位、従五位
幕府 江戸幕府
氏族 小幡氏→鈴木氏
父母 父:小幡有則、養父:鈴木重親
子 重明
鈴木 重嶺(すずき しげね)は、江戸時代後期の旗本、明治期の官僚、歌人。最後の佐渡奉行。

家系
家祖の鈴木重経は北条氏康に仕え、次代重元は徳川家康に召し出されて、30俵2人扶持の微禄ながら武蔵国豊島郡大久保村に千坪の領地を拝領した鉄砲玉薬同心の家系として幕末に至る。重嶺の直系の子孫に国語学者の松本誠がいる。

生涯
幕府・明治政府官僚として
鈴木重嶺・翠園解説(全龍寺)
鈴木重嶺・翠園解説(全龍寺)
中川忠英の家臣小幡多門有則の次男として江戸・駿河台に生まれ、鈴木家10代の鈴木重親(半治郎)の養子となった。 天保2年(1831年)に養父が没すると家督を継ぎ小普請入り。天保4年(1833年)将軍徳川家慶御台所付の広敷伊賀者となり、天保12年(1841年)8月25日広敷取締係より、 江戸城内武術見分の際に、「つるぎだち鞘にをさめし世になれて みがかぬわざのはづかしきかな」の歌を詠み、鼻紙へ一首歌を認めて柔術の師匠の悴で、剣術の師匠である窪田清音に渡す。清音がこの歌を見て松平内匠頭に出したところ、其歌を短冊に認めて差出すようにと命が出る。 これが老中水野忠邦の目に留まり同年10月徒目付に栄進し市谷加賀(現在の新宿区市ヶ谷加賀町)に150坪の屋敷を拝領した。天保14年(1843年)勘定吟味役改役並に一時なるが再び徒目付となり、再び天保15年(1844年)には勘定組頭となった。その後勘定吟味役を経て、元治元年(1864年)7月2日勘定奉行となるがわずか20日余りで同23日に槍奉行となり、慶応元年(1865年)9月13日に最後の佐渡奉行となり、諸大夫に任ぜられ兵庫頭と称する。慶応4年(1868年)閏4月16日に御役御免となったのち、田安徳川家の家老となり新政府との交渉役となった。翌年には新政府の開拓少主典となり、明治4年(1871年)浜松県参事となり、同年12月8日に再び佐渡に渡り、相川県参事となり、明治6年(1873年)従六位に叙任された。明治8年相川県六等判事を兼任し、同年権令に昇進し正六位に叙任された。翌年4月廃県により職を辞し、同年子息の重明に家督を譲った。また従五位に叙任された。その後晩年の明治24年(1891年)2月23日には東京帝国大学旧事諮問会の要請に応じ幕府の財政や勘定所について詳細な証言をしている。

幕臣時代より国学や和歌を、橘千蔭系の村山素行や伊庭秀賢に学び、佐渡奉行そして相川県参事・権令として佐渡に合わせて10年在島し佐渡で多くの門弟を育てた(賀筵歌集には65名の佐渡の門人が寄稿している)。職を辞してからは和歌の世界で活躍した。明治9年(1876年)官職を辞し家督を譲り『翠園兼当歌』を著す。明治12年(1879年)『雅言解』(全4巻)を著し、明治17年(1884年)に『越路廼日記』、『志能夫具佐』を著し、明治24年(1891年)『早稲田文学』第3号において和歌の名家として挙げられた。明治25年(1892年)には『翠園寿筵歌集』を著した。明治28年(1895年)、鶯蛙吟社を創立し短歌の雑誌『詞林』を創刊。明治31年(1898年)に85歳で没したが、この年『詞林』は、新派の歌人佐佐木信綱の創刊した『心の華」に合併した。

●鈴木重嶺関係資料は、昭和女子大学図書館に「翠園文庫」として保存されている。 また、墓は、東京都新宿区大久保1-16-15、曹洞宗海亀山・全龍寺にある。

交流
勝海舟と親交があり重嶺の記述が海舟日記にみられる。晩年の歌会には樋口一葉が出席し重嶺の指導を受けている。また、葬儀記録には1,068名の記帳があり、毛利元徳、近衛忠熈、正親町実徳、久我建通、蜂須賀茂韶、前田利嗣らの華族や、萩野由之、黒川真頼、井上頼圀、中島歌子ら全国の文化人・歌人が名を連ねた。
横須賀造船所建設計画の際、建設推進者である小栗忠順に対し「費用を投じて造船所を造っても完成時には幕府はどうなるか分からない」と計画の妥当性を問うた。それに対し忠順は「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」と返答した。又旧事諮問会での証言の際にも忠順について言及している[1]。

脚注
^ 旧事諮問録 68頁

参考文献
「鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説」(深沢秋男『文学研究』92号、平成16年4月)
旧相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』
『旧事諮問録』旧東京帝国大学史談会編、青蛙房 2007年 ISBN 978-4790508717
小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』東洋書林、1997年
HP「J-TEXTS」→ 「鈴木重嶺関係資料」 参照