『昭和女子大学図書館70年の歩み』

『昭和女子大学図書館70年の歩み』

  • 2020.06.03 Wednesday
『昭和女子大学図書館70年の歩み』

●今日、昭和女子大学図書館から、『・・・70年の歩み』に関して、案内のメールがあった。私は、この記念図集が、図書館のHPにアップされた時、既に拝見していた。今日、改めて拝見し、見事な図録集である。

●私の関与した〔桜山文庫〕〔翠園文庫〕も、懐かしい写真に出会えて、とても嬉しい。二つの文庫の移管に関しては、私は、大変な苦労をした。しかし、その真価が明らかになるのは、100年後、200年後だと思っていた。今回、部分的な点に限定されているとは言え、こんなに早く公表されて、本当に嬉しい。

●この2つの文庫は、実は、内容面でも、価値がある。評価する力量の無い御仁は、軽々しく対応したが、そんな文庫では無い。私が死んで、この世に居なくなった頃、100年後、200年後、真価を発揮するだろうと思う。その資料の価値が解る研究者に出会った時、光り輝く。資料とは、そういうものだと思う。

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●昭和女子大学図書館から『・・・70年の歩み』が発行された。2019年11月3日発行。ネットで拝見したが、充実した内容である。人見圓吉先生の集書から始まって、多くの関係者の協力によって現在の図書館まで充実発展してきた。

●私は、現役の頃、近代文庫の書庫に入れて頂き、書架の書籍・雑誌に圧倒された。オリジナルの書籍・雑誌に時間を忘れて2時間を過ごした。人見圓吉先生は、詩人であるが、研究者としても、また教育者としても、尊敬すべき存在である。

●私は、特殊文庫の〔桜山文庫〕と〔翠園文庫〕に関与した。有難い出会いであった。

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〔桜山文庫〕にコメント

〔桜山文庫〕にコメント

  • 2020.02.01 Saturday
昭和女子大学図書館 「桜山文庫」  深沢秋男雑録

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寄贈でなく予算を割いて購入/プロの目利きに査定を依頼/不要な資料は明確にお断り/所有者が資料の内容により大学以外にも分けて寄託/受入後はしっかり自学の研究にも活用し成果を発表。辺りがポイントか?

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●このようなコメントがあった。

昭和女子大学図書館所蔵 〔桜山文庫〕

昭和女子大学図書館所蔵 〔桜山文庫〕

  • 2019.12.02 Monday
昭和女子大学図書館所蔵、〔桜山文庫〕

深沢秋男

はじめに

「拝啓 深秋の候 ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
このたび十一月三日に、弊館は開設七〇年を迎えました。これを記念して、昭和女子大学図書館デジタルアーカイブを公開いたしましたので、ご高覧いただけますと幸甚に存じます。
先般、開催いたしました図書館開設七〇周年・近代文庫創設六〇
周年記念式は、盛会のうちに終了いたしました。今日の弊館があるのもひとえに、皆々様の暖かいご支援があればこそと、あらためて感謝申し上げる次第でございます。皆々様のご支援を糧に、ますます大学図書館の事業に精進し、微力ながら社会への貢献に努めて参る所存でございます。図書館特別展図録と記念品等を同封いたしますので、ご笑納ください。
今後ともご支援、ご指導を賜りますようお願い申し上げます。
敬具

平成三十年十一月九日
昭和女子大学図書館
館長  古川 真人」

平成三十年十一月、昭和女子大学図書館から、このような御案内を頂いた。早速、図書館のデジタルアーカイブを閲覧した。昭和女子大学の特殊文庫も、ようやくその所在を公開されたか、と大変嬉しかった。

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現在、本学図書館が所蔵する二三文庫をご紹介します。
与謝野文庫、吉田彌平文庫、近代文庫、オマル・ハイヤーム文庫、折戸忠作文庫、女性文庫、金子健二文庫、中島健蔵文庫、正富汪洋文庫、上井磯吉文庫、玉井幸助文庫、岩谷泰作文庫、佐々木八郎文庫、内秀雄文庫、桜山文庫、石田吉貞文庫、在一居士文庫、戸谷三都江文庫、トルストイ文庫、翠園文庫、内藤濯文庫、朝日生命文庫、小島信夫文庫

桜山文庫  本学の名誉教授深沢秋男が、国文学者 で、鹿島神宮第 67代大宮司である鹿島則文のコレクションを、孫の鹿島則幸に昭和 59(1984)年9月に一括譲渡を依頼され、 昭和61(1986)年9月に第1次の受け渡しが 行われ、日本文学関係の資料を購入したことにより、昭和 62(1987)年 3 月に文庫を 設立した。江戸期の写本、刊本を中心に約6,900 冊 を収蔵している。

翠園文庫  本学教授の研究の縁により、鈴木重嶺の 直系の子孫の国語学者松本誠の奥様から鈴木重嶺(翠園)関係資料として寄贈され、平成8(1996)年に設立した文庫である。鈴木(号は翠園)は、江戸幕府では最後の佐渡奉行となり、明治政府の官僚を辞してからは、和歌の世界で活躍した。明治24(1891)年の「早稲田文学」第3号において、和歌の名家として挙げられ、明治28 年 (1895)年には、短歌雑誌「詞林」を創刊。 のちに「詞林」は佐佐木信綱の創刊した「心の華」に合併した。勝海舟や樋口一葉とも交流があり、葬儀の際は、華族や全国の文化人や歌人が参列した。  図書468冊(短冊を含む)を収蔵している。

【昭和女子大学図書館アーカイブより】

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二三文庫の中で、私が関与したのは、〔桜山文庫〕〔翠園文庫〕の二文庫である。以下、この二つの文庫に関して、私の記録を紹介したいと思う。

〔桜山文庫〕

昭和女子大学図書館には、現在、二三のコレクションが所蔵されている。昨日、その全貌が、アーカイブスで公開されたことを知った。この内、〔桜山文庫〕と〔翠園文庫〕は、私が関与したものである。しかし、この二つの文庫が昭和女子大学図書館に所蔵されるまでには、多くの方々の、御指導、御配慮があって、初めて実現したのである。その経緯を記録して、感謝申上げたいと思う。
なお、ここに記す、冊数などは、私の記録に基づくものであり、昭和女子大学図書館の正式なものではない。

鹿島則幸氏から、桜山文庫一括譲渡の件を依頼されたのは、昭和五十九年(一九八四)九月のことである。桜山文庫は、鹿島神宮に隣接する大宮司家、鹿島家の屋敷(五三〇〇余坪)の中に建てられた、大谷石の書庫に保管されていた。
この譲渡に際し、蔵書の評価に関しては、長年交際のある、神田の一誠堂書店の酒井宇吉氏に依頼されたという。また、譲渡先については、私に一任すると申された。さあ、大変である。そのような大事業が私にできるのか。
桜山文庫は、鹿島則文のコレクションであるが、則文の二男・鹿島敏夫氏は、『先考略年譜稿』で、

「……性、書ヲ愛スル人に過ギ、公暇手書ヲ舎カズ。用ヲ節シ費ヲ省キ、書ヲ求メテ息マズ。飢ル者ノ食ヲ求ムルガ如シ。経史、小説、高尚卑近ヲ問ハズ。晩年、家ニ蓄財ナキモ、珍籍奇冊三万冊。人之ヲ云ヘバ、曰ク、妓ヲ聘シ酒ヲ飲ムハ世ノ通例ナリ。予、飲ヲ解セズ。書ハ予ガ妓ナリ、予ガ酒ナリト。」

と、このように記されている。今回の対象となるのは、主として国文関係のもので、一誠堂書店へ移送する折に、大きなリンゴ箱に入れて、一一九箱であったとのこと。およそ一万冊弱と私は予測した。則文が生涯をかけて収集したものであり、量も少なくはない。また、その評価額もかなりのものになるであろう。内心では、一億円弱と予測した。
私にとっては、一世一代の大仕事である。譲渡先は、私の勤務先の昭和女子大学を第一とし、次に、鹿島則幸氏の母校・国学院大学、私の母校・法政大学、国会図書館、国文学研究資料館などを考えた。
この間、朝倉治彦氏、島本昌一氏、杉本圭三郎氏、渡辺守邦氏、中村幸彦氏等の御助言を頂きなから、慎重に事を進めた。
酒井氏によると、量も多いので、場合によっては、分売もやむを得ないのではないか、との事であったので、一日、神田の一誠堂書店へお伺いして、分売は極力回避して、「桜山文庫」の名を遺したい旨、懇請した。幸い、酒井社長もこれを諒とされた。
この事に関しては、この間に、中村幸彦先生から、貴重な御助言を頂いていた。昭和六十一年二月十九日付のお手紙では、次のようなお言葉を頂いた。

「……文庫は残ったもの全部散らさず、貴学で購入の御準備との
事、安心いたしました。私かつての図書館員としての経験から申
上げますと、心得のある方の集められたものの中にも、一寸見ま
した時は、何の役にも立たぬと思われる本などもまじって居りま
して、目ぼしい本だけ選択していたゞいた方が、などと思うこと
も度々ございましたが、全部いたゞいて居りますと、何の役にも
立たないと思った本も大いに役立ったことが次第に判明などいた
すことでございます。又、自分の処に既にあるものと重複するも
のがあり(高価ならばなお更)躊躇される時もありますが、それ
を購求しなかった事が、後からくやまれる事もあり「古い和本に
は同じものはないと思え」など、次第に考えるようになり、後輩
の諸君にも話すことでございます。既に散らさぬ様、お考えの
由、結構なことと存じます。御努力、そっくり貴学へお入れなさ
る事を願い上げます。」

中村先生からの私信であるが、大先達の金言として、あえて紹介させて頂いた。
この間、私は昭和女子大学の関係者に、一括購入の申請書を提出した。私は、昭和女子大学に移籍して二年目の講師の身分であった。諸事、大きな壁があったのは当然である。

昭和五十九年十月十一日付で、
〔「桜山文庫」一括購入に関する御願い〕なる書類を、学科長の原田親貞先生を通して、学長・理事長の人見楠郎先生に提出した。人見先生からは、国文科、日本文学科、の全教員で検討する様にとの御指示があった。

昭和六十年十一月二十日前後、
国文科と日本文学科の科会で、全教員に提案、御説明をした。日本文学科の、ある教員からは「大したものが無い」、という厳しい意見も出された(全体の内容を確認せずに、どうしてお分かりになったのだろうか)。しかし、他の教員は、おおむね、一括購入には賛成であった。

昭和六十一年七月五日付で、
〔「桜山文庫」一括購入に関する御願い〕を学長宛に提出した。もちろん原稿は私が執筆した。

「桜山文庫」一括購入に関する御願い

「桜山文庫」は、国学者・鹿島則文の蒐集したもので、現在の所蔵者は鹿島則幸氏(茨城県鹿島郡鹿島町桜町二三〇三番地在住)ですが、この則幸氏より蔵書を譲渡したい旨のお話があり、出来得るならば、本学に一括購入して頂けないかとのことでありました。
この件に関しましては、昭和五十九年十月にお願い申し上げましたが、その後、日本文学科及び国文学科におきまして、各々科会をもって検討し、その結果、是非とも本学の図書充実のために購入して欲しいということで意見が一致しました。
また、この間、神田の一誠堂書店(社長、酒井宇吉氏)では、同文庫の整理と評価書の作成を進めておりましたが、このほど、現存書目と評価書が出来上がりましたので、ここに改めて、お願い申し上げる次第であります。どうぞ、宜しく御検討賜りますよう、お願い申し上げます。
鹿島則文は鹿島神宮・宮司家の第六十七代目ですが、国学を吉川天浦・安井息軒に学び、その才を認められ、四十六歳の若さで、伊勢神宮の大宮司に抜擢されました。伊勢神宮に職を奉ずること十五年間、神宮皇學館を創立し、自ら館長を務め、古事類苑を完成させております。
このような教養と見識に裏付けられた則文の蔵書は、一定の基準によって選択されております。その集書範囲は比較的に広く、全般に亙っており、殊に近世後期の国学者の書き入れ本・旧蔵書が多く、この点で、基本図書としての性格と、今後の研究に多くの可能性を有する蔵書であると思われます。
酒井宇吉氏の整理結果の詳細は別紙の通りですが、現存書目八七四点、合計五六八三冊、評価額約〇〇〇〇万円であります。一点一点の評価額について検討してみますと、酒井氏の評価は誠実になされているものと思われ、おそらく、この価格で購入し得る機会は、他にないものと推測されます。
鹿島則幸氏の御厚意によって得られたこの好機に、桜山文庫を本学の蔵書として獲得することは、すでに広く知られております、近代文庫と共に、本学の存在を学界に示す上でも大変意義あることと思います。
以上、申し上げました諸条件を考慮に入れられまして、宜しく御検討賜りますよう、お願い申し上げます。

昭和六十一年七月五日
日本文学科科長 尾崎暢殃(印)
国文学科科長  原田親貞(印)
国文学科講師  深沢秋男(印)
昭和女子大学学長
人見楠郎先生

これとは、別に、国文学科長 原田親貞先生から、昭和女子大学理事長 人見楠郎先生宛に、〔「桜山文庫」一括購入に関する件〕が、七月十八日付で提出された。

これより前の、昭和六十一年六月、第一次の評価額が出されたが、酒井氏の評価は、実に誠実なものであると思われた。ただし、これは、三か月以内に一括購入が条件であるとのこと。早速、昭和女子大の関係者に検討を依頼した。契約が成立しない場合、第二、第三の図書館に連絡しなければならなかった。幸い、昭和女子大学で購入する事に決定した。
私は、酒井氏の指示に従って、昭和六十一年九月五日付で、「物品供給契約書」を作成した。

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物品供給契約書

供給すべき物品  桜山文庫旧蔵本(八七四点、五七〇四冊)
代金       〇〇〇〇〇〇〇〇円(手数料 〇〇〇〇〇〇〇
円を含む)
発注者      学校法人 昭和女子大学
供給者      合名会社 一誠堂書店

上記の発注者と供給者の間において、上記の代金によって上記の物品の供給をするものとする。

第一条、供給者は発注者に対し、上記物品の供給をするものとする。
第二条、供給すべき物品、「桜山文庫旧蔵本」の明細は別紙の通り
とする。
第三条、物品は昭和女子大学附属図書館に納入するものとする。
第四条、物品の納入期限は昭和六十一年九月二十日とする。
第五条 代金の請求書は昭和女子大学附属図書館に送付するものと
する。
第六条 代金は昭和六十一年十月末日までに支払うものとする。
第七条 物品の受け渡しは両者立ち会いのもとに行うものどする。
第八条 ここに定める以外の条件に関しては両者協議して定めるも
のとする。
第九条 上記契約を証するため、契約書は二通を作成し、発注者・
供給者各一通を所持するものとする。
昭和六十一年九月五日
発注者   東京都世田谷区太子堂一―七
学校法人 昭和女子大学
理事長  人見楠郎(印)
供給者   東京都千代田区神田神保町一―七
合名会社 一誠堂書店
代表社員 酒井宇吉(印)

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昭和六十一年九月十七日 第一次受け渡し完了

当日は、図書館の青柳館長以下、全職員が出勤、一誠堂書店のトラックが到着して、一点一点、チェックして、一旦、未使用中の館長室へ保管した。その夜、関東港業株式会社によって、燻蒸作業が行われた。作業は一昼夜を要するため、図書館からは、青柳館長が立ち会って下さった。
燻蒸作業が終了した後、図書館の貴重書庫へ移管され、順次、整理して保管された。

昭和六十二年三月二十九日 第二次購入

春雨物語、雨月物語、古事記伝、井関隆子日記、忠義水滸伝、等三五点 購入。

その後、第三次の評価、受け渡しが行われ、昭和六十二年末には、桜山文庫の一括譲渡は、ほぼ完了した。

昭和六十二年十一月八日、鹿島則幸氏は、昭和女子大学へおいで下さった。臨時の書架に保管されている桜山文庫を御覧になり、大変満足の御様子であった。御帰宅の後、

「……おかげ様で桜山文庫本の縁付き先も確認出来、しゅうと・しゅうとめの皆様にもお引きあわせ下さいまして有難うございました。よい方がたに見守られ、文庫本もよろこんでおる事と存じます。ここに至る迄になる長い間、お仲人役をおつとめ下さいました貴方様に改めて心から、お礼申し上げます。……」

と、礼状を下さった。これで、半永久的に「桜山文庫」が伝存されると思うと、この一件に御助言、御協力下さった皆様方に対し、心からの感謝を申し上げずにおられなかった。
そうして、約一億円の大仕事を仕上げたことに、誇りをもった。思えば、誠文堂新光社の辞典部で仕上げた辞典の初版の総経費も約一億円だった。私は、貧乏研究者であるが、生涯に一億円の大仕事を、二回したことになる。

桜山文庫の内、漢籍の「二十二史」は水府名徳会彰考館文庫に、鹿島神宮関係の史料は茨城県立歴史館に、そして、国文関係は昭和女子大学に、それぞれ分散されたが、この様に一括保存されることになった事は幸いである。その資料を真に研究しようとする研究者に、広く閲覧して頂く、これは鹿島則幸氏のお考えでもあった。昭和女子大学の桜山文庫も整理が一段落し、やがて学外の研究者にも利用して頂けるようになるものと思う。

なお、鹿島則文の蔵書印「桜山文庫」の丸印は、黄楊の彫りの深い立派なものであるが、記念にと昭和女子大学図書館に寄贈された。

さらに、鹿島氏は、桜山文庫一括購入の謝札にと、秋田雨雀関係の書簡・八二通をも御寄贈くださった。これに関しては、大塚豊子氏の研究「秋田雨雀の書簡(一・二・三)」が発表されている(『学苑』六四九号・六五一号・六五九号、平成六年一月、三月、十一月)。

■「桜山文庫」の現状

鹿島則文の収集した桜山文庫は「珍籍奇冊三万冊」(鹿島敏夫氏『先考略年譜稿』)と言われている。これらの蔵書が、その後、どのように分割され、現在、伝えられているか、整理してみると、以下の通りである。

1、茨城県立歴史館寄託 鹿島則幸家文書
『鹿島郡鹿島町 鹿島則幸家文書目録』(平成元年三月三十一日、茨城県立歴史館発行)によれば、鹿島神宮関係の史料、一四〇三点が、昭和五十四年四月に鹿島則幸氏から茨城県立歴史館に寄託されたという。これらの史料は、鹿島家累代のもので、中には「桜山文庫」の蔵書印が押されたものもあるというので、鹿島則文の関係書も含まれているものと推測される。
2、漢籍の『二十二史』
水戸の水府明徳会彰考館文庫へ寄贈。
3、伊勢関係書
伊勢神宮へ移管。
4、鹿島家関係書
鹿島家所蔵(鹿島則幸氏・鹿島則良氏)。
5、昭和女子大学所蔵「桜山文庫」国文学関係
第一次、八七四点、五七〇四冊。第二次、三三点、四〇三冊。合計、九〇七点、六一〇七冊。これに、第一次のリスト以外の、虫食本等の数百冊が加わって最終的には約七千冊になった。

◆分散される前の〔桜山文庫〕

鹿島則文のお孫さん、鹿島則幸氏は、昭和四年(一九二九)国学院大学を卒業されたが、その直後、桜山文庫の書庫の現物を、一点一点確認しながら目録を作成された。それが、現在、則幸氏の御子息、鹿島則良氏御所蔵の『桜山文庫目録 和書之部』である。
この目録は、「『桜山文庫目録 和書之部』(上)(下)」として、全文を紹介した(『近世初期文芸』第25号、第26号、平成20年12月、平成21年12月)。

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鹿島則文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
鹿島 則文(かしま のりぶみ、天保十年一月十三日(一八三九年二月二十六日)~明治三十四年(一九〇一年)十月十日)は、幕末・明治時代の神職。
鹿島神宮大宮司であった鹿島則孝の長男として生まれる。通称は布美麿、矗之輔。号は桜宇。儒書を安井息軒に学び、また、自ら皇典を究め国事に奔走、文久三年(一八六三年)に鹿島に文武館を創設したが、一八六五年(慶応元年)、その思想や行動により幕府に忌まれ八丈島に流される。一八六九年(明治二年)赦免、神領会所(鹿島神領の役場)が廃止されるのに伴ってその建物を学問所「稽照館」とした。一八七三年(明治六年)鹿島神宮大宮司、一八八四年(明治十七年)神宮大宮司に任じられ、祭儀の復興、林崎文庫の整備、神宮皇學館(皇學館大学の前身)の拡充、『古事類苑』の出版などに尽力した。一八九八年(明治三十一年)、内宮炎上の責を負い辞職し帰郷。一九〇一年(明治三十四年)十月十日、六十三歳で病没。茨城県鹿島郡鹿島町三笠墓地に葬る。

参考文献

●鹿嶋町史第五巻(一九六二年)
●朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)
●鹿島敏夫『先考略年譜稿』鹿島則良氏蔵。
●海野正造『佐原喜三郎と鹿島則文』昭和五十二年六月一日、柳翠史
料館。
●葛西重雄・吉田貫三『増補改訂 八丈流人銘々伝』昭和五十年五
月二十日、第一書房。
●大山地山『常総古今の学と術と人』昭和五十一年十一月二十五日
(復刻)、水戸学研究会。
●鹿島則幸「桜山文庫について」(『郷土文化』第十八号、昭和五
十二年三月三十一日)茨城県郷土文化研究会。
●深沢秋男「鹿島則文と桜山文庫」、『井関隆子日記』中巻、昭和五
十五年八月三十日、勉誠社。
●深沢秋男『神宮々司拝命記』、平成十年七月二十五日,私家版。

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■ これは、『芸文稿』第12号(2019年7月)に掲載されたものである。一部改めた部分がある。

2019年12月2日

日本の大学所蔵特殊コレクション 桜山文庫

日本の大学所蔵特殊コレクション 桜山文庫

  • 2019.11.17 Sunday
日本の大学所蔵特殊コレクション 桜山文庫

●ドイツ‐日本研究所が、日本の大学図書館所蔵の特殊コレクション(特殊文庫)の情報をデータベース化して公開した。その中に、昭和女子大学図書館の「桜山文庫」も収録されている。

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日本の大学所蔵特殊文庫データベース

桜山文庫(鹿島則文)

近世後期の国学者、神官の鹿島則文(かしま のりぶみ、号:桜宇 おうう、1839–1901)の旧蔵書6,728冊(和書)からなる。近世の写本・刊本や、橘守部(たちばな もりべ、1781–1849)、平田篤胤(ひらた あつたね、1776–1843)、賀茂真淵(かもの まぶち、1693–1769)、狩谷【エキ】斎(かりや えきさい、1775–1835)などの近世後期国学者の書き入れ本や旧蔵書が含まれる。
鹿島則文は鹿島神宮大宮司の鹿島則孝(かしま のりたか、1813–1892)の長男として生まれた。1863年に鹿島に文武館を設立したが、尊王思想を唱えて幕府の忌諱に触れたため、八丈島に流された。1869(明治2)年赦免帰国。1873年から鹿島神宮大宮司を、1884年から1898年まで伊勢神宮大宮司を務めた。また神宮皇学館(皇学館大学の前身)の拡充や、『古事類苑』の出版などに尽力した。
本文庫の目録として『桜山文庫目録』が作成されている。
所蔵機関:
昭和女子大学図書館
〒154-8533 東京都世田谷区太子堂1-7-57
———————————————-
ドイツ‐日本研究所の研究プロジェクトの一つとして、日本の大学図書館所蔵の特殊コレクション(特殊文庫)の情報をデータベース化しました。特殊コレクションとは、歴史的人物や著名な人物が生前に収集した図書・資料、あるいは、ある人物やテーマに関連した図書・資料を一まとまりのコレクションとして収蔵しているものなどをいいます。その人物やテーマを研究する上で、また、その人物が専門とした分野の研究において、貴重な資料を提供するものです。
本データベースには、2000年9月に全国の大学図書館627館を対象に実施したアンケート調査(回答率40%超)と2004年4月までの追加調査を基に作成された、142か所の図書館(分館や研究室も含む)の特殊コレクション734件の解題が収められています。
本プロジェクトは、全国の大学図書館関係者のご協力のもとに、内外の研究者が日本の大学所蔵の特殊コレクションについての情報を包括的・体系的に得ることができるよう企画されました。
なお、本データベースの内容は、下記の通り本としても出版されています。
『日本の大学所蔵特殊文庫解題目録 -ドイツ語・日本語併記-』
(ドイツ‐日本研究所文献目録シリーズ8)
マティアス・コッホ著、2004年、iudicium出版社、ミュンヘン、854頁

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●鹿島則文の桜山文庫は、昭和59年に、則文のお孫さんの鹿島則幸氏から私が依頼されて、昭和女子大学図書館に移管した。その特殊文庫がドイツの研究によって世界的な目録に採録されたことは、夢のような出来事で、鹿島則文も、則幸氏も喜んでいるものと思う。私も嬉しい。これは〔傀儡子の日記〕の再録である。
2019年11月17日

【はてなブログタグ】 〔鹿島則文〕

【はてなブログタグ】 〔鹿島則文〕

  • 2019.11.17 Sunday
【はてなブログタグ】  〔鹿島則文〕

鹿島則文

(一般)

【かしまのりぶみ】     (深沢秋男執筆)

鹿島則文(かしま のりぶみ)

幕末・明治の神道家・蔵書家。天保10年(1839)〜明治34年(1901)。鹿島神宮大宮司家の67代・大宮司。明治34年没,63歳。吉川天浦・安井息軒に学ぶ。25歳の頃,勤皇の志士と交わり,八丈に遠島となる。赦免後,鹿島神宮大宮司となり,46歳の時,伊勢神宮大宮司を拝命する。以後,神宮皇学館の開学(2代目館長),林崎文庫の整備充実,『古事類苑』の編纂刊行に尽力した。明治31年,内宮が炎上し,その責任をとって,職を辞して鹿島へ帰った。著書には『南遊雑録』『八丈八景帖』『南島名勝集』(編著)がある。則文の蔵書・桜山文庫は珍籍奇冊3万冊と言われたが,現在,国文関係は昭和女子大学に、歴史書関係は茨城県立歴史館に,鹿島家関係は鹿島則良氏に所蔵されている。墓は鹿島家歴代の墓所と共に,鹿嶋市三笠山に在る。

■鹿島家家系

則文は,鹿島神宮・宮司家の第66代・則孝と瑳智の間に長男として生まれた。鹿嶋市に鎮座する神宮の宮司家・塙鹿島家の家系を『中臣鹿島連姓鹿島氏系譜』(鹿島神宮宮司・鹿島則良氏所蔵)によって略記すると次の如くである。
【1】天児屋命―【2】天押雲命―【3】天多禰伎命―【4】宇佐津臣命―【5】大御食津臣命―【6】伊香津臣命―【7】梨迹臣命―【8】神聞勝命―【9】久志宇賀主命―【10】国摩大鹿島命―【11】臣狭山命―【12】狭山彦命―【13】大広見命―【14】津彦命―【15】島根大連〔允恭天皇十五年丙寅賜大連〕―【16】波波良麻呂―【17】佐佐麻呂―【18】千志麻大連―【19】小主―【20】東麻呂―【21】春魚―【22】国石―【23】広庭―【24】鹿門―【25】諸躬―【26】武主〔天平十八年丙戌三月丙子賜中臣鹿島連姓〕―【27】大宗―【28】治嶋―【29】治風―【30】武則―【31】則高―【32】則成―【33】則助―【34】則綱―【35】則純―【36】則景―【37】則長―【38】則宗―【39】則常―【40】則行―【41】則雄―【42】則光―【43】則幹―【44】則仲―【45】則藤―【46】則国―【47】則密―【48】則弘―【49】則隆―【50】則満―【51】則煕―【52】則房―【53】則家―【54】則恒―【55】則久―【56】則興―【57】則盛―【58】則広―【59】則敦―【60】則直―【61】則長―【62】定則―【63】則備―【64】則峰―【65】則瓊―【66】則孝―【67】則文―則泰―則順―則元―敏夫―則幸―則良(現在,鹿島神宮 宮司)
鹿島則文の閲歴などに関しては『国学者伝記集成』等の記述によって,その概略を知ることは出来るが,より具体的な生涯を伝える,信頼すべきものとして,則文の次男・鹿島敏夫氏の作成された『先考略年譜稿』がある。それを参照して則文の生涯をたどる。

■八丈島送り

鹿島則文は尊王思想に傾倒し,やがて幕府の忌むところとなり,慶応元年(1865)7月,捕らえられ,10月島送りの刑に処せられた。二十七歳の時である。慶応2年5月25日,江戸鉄砲洲岸を出帆し,浦賀・網代・三崎・大島・三宅島を経て,6月5日八丈島に到着した。
明治元年(1868)11月赦免,翌2年6月帰郷した。則文は三年間に亙って八丈島で流人生活を送った。在島中は読書を以て楽しみとし,その間に寺子屋を開いて,学問を講じ,島民の教化にも当たった。
近藤富蔵の『八丈実記』に序文を寄せ,島民及び流人の有識者に呼びかけて『南島名勝集』(八丈八景)を編集したが,この他にも八丈島に遺した詩文は碑として現存する。また,揚屋入りから赦免帰国までの,八丈流人日誌ともいうべき『南島雑録』二巻を残しているが,これは流人生活を知る上で貴重な資料となっている。

■伊勢神宮・大宮司拝命

則文が赦免されて,鹿島に帰った明治2年,鹿島神宮は上知によって2千石の朱印地を失い,窮乏の極地にあった。則文は家財全部を売却して資金をつくり,稽照館を開校して,専ら子弟の教化に当たった。
明治17年4月2日,伊勢神宮・大宮司に任命された。それまで,伊勢神宮・大宮司は華族に限られていたが,沈滞している神宮を復活させるため,46歳の若さで鹿島から則文が抜擢されたのである。
明治17年3月17日,内務省社寺局の諫早生二・井上真優から,鹿島則文宛に,伊勢神宮宮司就任要請の書留速達便が届き,このあと,4月2日付で,太政大臣三条実美より,神宮宮司を任命された。当初3年間だけという事で,家族と共に赴任したが,明治31年5月,内宮炎上という不祥事が発生し,その責任を負って職を辞するまで,15年間の長きに亙って,この要職を勤めた。則文の生涯の中で最も充実した時期であったと推測される。

■皇学館大学の開校

皇学館大学の前身・神宮皇学館は,明治15年(1882)4月30日,神宮祭主・朝彦親王によって「皇学館創立令達」が発せられたが,未だ開校に至らず3年が経過していた。朝彦親王の神宮職員に対する,皇学館創立に関する令達をうけて,藤岡権宮司等がその実現に努力したが,開校に至らなかった。宮司田中頼庸が神宮教管長に転じ,その後を受けて宮司に就任した鹿島則文は,祭主宮の台命を奉じ,この開校に着手した。
則文は,明治18年1月,学制を定め,教授・教授補・助教・授読等の職員を置き,広く学生を募集し,同月11日,宇治浦田町神宮司庁の仮教室で開講式を挙げた。定員50名,神宮祀官の人材養成を目的として開校したが,学生は予想に反して集まらなかった。則文は,明治20年3月,神宮の関係者にあてて,勧学諭告文を送っているが,この諭告文には,神宮皇学館開学にかける則文の情熱が感じられる。以後,則文は,着々と学制の充実を図り,この4月大改革を実行した。館長に中田正朔,幹事に孫福弘坦,教頭に東貞吉,副教頭兼教授に下田義天類をそれぞれ任命し,科を尋常科と高等科に分け,修業年限を各4か年,定員100名とした。その後,明治23年5月には第1回目の卒業生2名を出し,27年には,祭主宮・有栖川熾仁親王を総裁に仰ぎ,則文自身館長の要職を兼ねて,その充実・発展に尽力した。
明治28年6月1日,則文は皇学館の官立化を計画し,内務大臣・野村靖に申請した。この申請が許可され,神宮皇学館官制が勅令をもって公布されたのは,則文が伊勢を去って5年後,他界して2年後の明治36年8月のことである。神宮皇学館の館長は,初代・中田正朔,2代・鹿島則文,3代・冷泉為紀,4代・桑原芳樹,5代・木野戸勝隆,6代・武田千代三郎,7代・松浦寅三郎,8代・上田万年,9代・森田実,10代・平田貫一,11代・山田孝雄……と,錚々たる人々がその任にあたり,学問発展のために尽くしてきたが,鹿島則文は,その礎を築いたと言っても,決して過言ではない。

■式年遷宮(明治22年 第56回)

則文が宮司就任後,5年目の明治22年に,伊勢神宮の大行事,第56回式年遷宮が行われた。
明治22年の式年遷宮の準備は,それより14年前の明治8年から開始されていて,様々な手続きは,田中頼庸宮司等を中心に進められている。明治15年4月,新宮造営に必要な材木伐採の御杣山は,信濃国西筑摩郡小川村字床沢并打越官林及び木曽谷官林と決定。鎮地祭は,19年3月5日に行われた。
仮御樋代木伐採式は20年11月9日に実施され,準備は着々と進行した。鎮地祭,仮御樋代木伐採式,立柱祭,御形祭,上棟祭,檐付祭,甍祭,御戸祭,御船代祭,洗清,心御柱奉建,杵築祭,後鎮祭,御装束神宝読合,川原大祓,御飾,遷御,奉幣,古物渡,御神楽御饌,御神楽と,この大祭を則文は,その最高責任者として,滞りなく実行したのである。

■内宮炎上

明治31年5月2日午後11時30分,伊勢神宮の内宮炎上という不祥事が突発した。参集所及び神宮司庁を焼失して,正殿にまで延焼しようとした時,則文は直ちに正殿に参り,御正体を風日祈宮に遷座し奉った。
則文は,事後処理を済ませた後,この責任を負って少宮司と共に職を辞した。7月鹿島に帰ったが,この事が頭を離れず,夜中に飛び起きることしばしばであったという。この事件が則文の死期を早めたものと思われる。明治34年5月,特旨を以て従四位に叙せられ,10月10日午後10時、63歳の生涯を閉じた。

■参考文献

◎『先考略年譜稿』鹿島敏夫,鹿島則良氏蔵。
◎『佐原喜三郎と鹿島則文』海野正造,昭和52年6月1日,柳翠史料館。
◎『神宮皇学館創立六十周年記念誌』(館友,第409号,昭和17年6月1日),神宮皇学館館友会。
◎『増補改訂 八丈流人銘々伝』葛西重雄・吉田貫三,昭和50年5月20日,第一書房。
◎『桑原芳樹翁伝』「桑原芳樹翁伝」刊行会,昭和51年12月20日。
◎『常総古今の学と術と人』大山地山,昭和51年11月25日(復刻),水戸学研究会。
◎「古事類苑編纂事歴」(『古事類苑』目録・索引,大正3年8月29日),神宮司庁。
◎「桜山文庫について」鹿島則幸,(『郷土文化』第18号,昭和52年3月31日)茨城県郷土文化研究会。
◎「鹿島則文と桜山文庫」深沢秋男,『井関隆子日記』中巻,昭和55年8月30日勉誠社。
◎『神宮・明治百年史』上巻,昭和62年9月1日,神宮司庁,神宮文庫。
◎『神宮・明治百年史』下巻,昭和63年10月20日,神宮司庁,神宮文庫。
◎『神宮々司拝命記』深沢秋男,平成10年7月25日,私家版。

■■「鹿島則文と桜山文庫」→http://www.ksskbg.com/kashima/index.html

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【はてなブログタグ】 〔桜山文庫〕

【はてなブログ・タグ】 〔桜山文庫〕

  • 2019.11.15 Friday

【はてなブログ・タグ】  〔桜山文庫〕

桜山文庫     (深沢秋男執筆)

(読書)

【さくらやまぶんこ】

桜山文庫  さくらやまぶんこ

昭和女子大学図書館所蔵、鹿島則文旧蔵の国文学関係の文庫。

●桜山文庫の概略

昭和女子大学図書館所蔵の「桜山文庫」は、鹿島神宮大宮司、伊勢神宮大宮司の鹿島則文が収集したコレクションであり、そのうち、主として国文学関係の書籍、約7千冊が昭和女子大学に一括譲渡されたものである。
第1次、874点、5704冊。第2次、33点、403冊。合計、907点、6107冊。最終的には約7千冊となる。 【冊数などは、深沢の記録に拠るもので、図書館の正式なものではない】

蔵書印「櫻山文庫」が鹿島則幸氏から寄贈され、現蔵されている。直径30ミリの黄楊の円形印で、彫りの深い立派なものである。

●「桜山文庫」の現状

鹿島則文の収集した桜山文庫は「珍籍奇冊三万冊」(鹿島敏夫氏『先考略年譜稿』)と言われている。これらの蔵書が、その後、どのように分割され、現在、伝えられているか、整理してみると、以下の通りである。
1、茨城県立歴史館寄託 鹿島則幸家文書
『鹿島郡鹿島町 鹿島則幸家文書目録』(平成元年3月31日、茨城県立歴史館発行)によれば、鹿島神宮関係の史料、1403点が、昭和54年4月に鹿島則幸氏から茨城県立歴史館に寄託されたという。これらの史料は、鹿島家累代のもので、中には「桜山文庫」の蔵書印が押されたものもあるというので、鹿島則文の関係書も含まれているものと推測される。
2、漢籍の『二十二史』
水戸の水府明徳会彰考館文庫へ寄贈。
3、伊勢関係書
伊勢神宮へ移管。
4、鹿島家関係書
鹿島家所蔵(鹿島則幸氏・鹿島則良氏)。
5、昭和女子大学所蔵「桜山文庫」国文学関係
第1次、874点、5704冊。第2次、33点、403冊。合計、907点、6107冊。これに、第1次のリスト以外の、虫食本等の数百冊が加わって最終的には約7千冊になった。

参考 → 「鹿島則文と桜山文庫」http://www.ksskbg.com/kashima/index.html

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歴史災害・天災地変資料データベース

歴史災害・天災地変資料データベース

  • 2019.10.30 Wednesday
  • 07:03
歴史災害・天災地変資料データベース
サイトの概要と情報の利用について

史料名 桜斎随筆

資料名

内容

四十 明治十五年壬午二月廿一日、昨夜中泥(ドロ)雨に混じて降れり、 或ハ灰(ハイ)なるか、予早朝庭の門の板家根(ヤネ)を見るに白くして霜の如く なり、雨中に霜の置こと不審と思ひしが前十一時に少し 雨の止しかバ庭におたるに常盤木の葉ごとに白くつきたる ものあり、枇杷青木の葉*白し、よく見るに灰に似たり、弥あやしく思ひし に追々灰の降たるなど云ふものあり、後日に聞けば同夜 川中北浦にて小雑を網にて曳き居たるに俄に大きなる音響く とたちまちに泥雨降来れりと其人の話たりとぞ、此泥廿 八九日頃迄も木の葉つきたるは消ず 朝野新聞二月廿六日、千葉総房共立新聞に云ふ、去ル廿一日前三 時頃佐原近邊ハ灰の如き白き砂が降り霜の様に積りたり と、又、三重日報に云ふ、去ル廿一日朝当所各市街へ灰が降りた り、其現質ハ石灰質の様に見受けたりと、又、愛知の官報 雑誌に云ふ、去ル廿一日暁、市中一般に灰が降りたりと、又、東京 日々新聞に云ふ、信州佐久郡岩村田邉ハ去ル二十日後十時頃 降雪あるも霏々たる片雪従て降れバ随て消え地上に痕跡(アト) を止めざれど、樹陰或ハ塵芥(アクタ)の上抔に消え残りしが盡く樺(カバ) 色を含めり、如何にも怪(アヤ)しけれバ試みに紙に取り水気を蒸 発せしめしに跡に焼灰の如き者を残せりと、又、報知新聞に 云ふ、常州水戸下市邊ハ去ル廿一日前六時頃より灰色、或ハ黄色の 砂が雨に雑(マジ)りて時々降り積ること一分乃至二分位なりしと、以上 諸新聞の報道に拠れば何れの噴火山より噴出せし者ならん 絵入新聞、二月廿六日、前畧、古老の説によれバ天明六丙午年六月に天 保七丙申年の二月同じく砂の降しことあり、日中も薄暮 の如く殊に天明度のハ日中燈火を點(ツケ)し程なりしとぞ 同新聞、三月二日、美濃國加茂郡邊も去月廿日夜より同廿一日暁に 至る迄天気暗黒にて土灰(土俗コンコ)と云ふを降らし、同郡蜂屋、太 田等の村ニハ地上宛(アタか)も荏菓(エノミ)の粉(コ)を撒布(マキ)す如く屋上ハ勿論 草木等に至るまで悉く色を変じたるよし、父老の説に拠(よ) れバ往年も此の如き事ありしも植物を害せしや否(イナヤ)ハ確知せず と、且今回降りし灰ハ*り同郡のみならじ可児・山縣・武儀等の 諸郡五七里の間に亙(ワタ)りたりとて現品を添へ同縣より其筋へ 報道ありし

和暦 明治15年2月22日
西暦 1882年2月22日
分類 その他
分類詳細 恠雨
現象の名称
資料種別 史料
観測・観察された場所 鹿島
蔵書場所 鹿島神宮

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●このようなサイトに出会った。鹿島則孝の『桜斎随筆』も、ネット社会で活用されるようになった。大変な苦労をして、この資料を公刊したのが、ようやく実り始めた。とても嬉しい。

『神宮々司拝命記』 7500円

『神宮々司拝命記』 7500円

  • 2019.10.28 Monday

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書名 : 神宮々司拝命記〔鹿島神宮第67代大宮司鹿島則文が明治17年伊勢神宮大宮司を拝命した経緯を則文の父則孝が記録〕
著者 : 鹿島則良・加藤幸子・深沢秋男編著
価格:7,500円

状態売品 私家版 小口側天部少水シミ口絵本文影響なし 140頁
出版社名: 深沢秋男 の在庫一覧を見る
発行日:平成10
書店名:古書杏城 (千葉県 の古本屋) の在庫一覧を見る

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●この本は、平成10年(1998)に、鹿島則孝の『桜斎随筆』を、世間に認知してもらいたくて、自費出版で出したものである。

●昭和女子大学図書館の研究員、加藤幸子氏が翻字の草稿を作り、私が確認した。鹿島神宮宮司の鹿島則良氏に、神社界と鹿島家の関係を執筆してもらった。

●A5判、140頁の小冊が、古書店で、7500円とは、嬉しい。


鹿島則孝の出自

鹿島則孝の出自

  • 2019.08.13 Tuesday
 鹿島則孝の出自

●平成5年(1993)6月、『鹿島則孝と『桜斎随筆』』を出した。その現物が手許に無くなった。念のため国会図書館の書誌を示す。

2019年8月13日 深沢秋男

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鹿島則孝と『桜斎随筆』  (国会図書館)
深沢秋男 編著

詳細情報
タイトル 鹿島則孝と『桜斎随筆』
著者 深沢秋男 編著

著者標目 深沢, 秋男, 1935-

出版地(国名コード) JP
出版地 所沢
出版社 深沢秋男
出版年月日等 1993.6
大きさ、容量等 63p ; 26cm
価格 非売品
JP番号 93068429
出版年(W3CDTF) 1993
件名(キーワード) 鹿島, 則孝, 1813-1892

NDLC HL31
NDC(8版) 172
対象利用者 一般
資料の種別 図書
言語(ISO639-2形式) jpn : 日本語

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●この時、市ヶ谷の、鹿島則孝の実家の調査をした。

鹿島則孝の生家の場所は、江戸牛込の逢坂の角で、牛込と市谷の堺、市谷船河原町だという。安政四年、尾張屋版の江戸切絵図を見ると、牛込御門から外壕に添って、市谷御門へ向かう途中の右手に逢坂があり、その角地に「筑紫帯刀」とある。また、この辺が「船河原町」で、その先が「同(市谷田町)三丁目」とあり、則孝の記述と合致する。ここが、則孝の実家・筑紫孝門の屋敷であろう。三千石の家柄であるため、屋敷も広い。この辺の街並は、現在もあまり変っておらず、中央線の飯田橋駅から市谷駅に向かって外堀通りを進むと、神楽坂の次に臾嶺坂(別名、若宮坂、行人坂、祐玄坂。切絵図には、シンサカとある)があり、次に逢坂がある。この辺が現在も市谷船河原町で、筑紫家の屋敷跡と思われる逢坂の角地は、現在、空き地になっていて、奥の方に東京理科大学の薬学部が建っている。

則孝は、ここで生まれ、二十四歳までこの地で過ごした。則孝の父、筑紫孝門は、浦賀奉行・日光奉行等を勤め、采地三千石の旗本であった。旗本の総数約五千二百名、その内、三千石以上は約二百四十名に過ぎない(寛政年間。深井雅海氏『国史大辞典』に拠る)。筑紫家はかなり上位の家柄であった訳であるが、『桜斎随筆』巻四には、その則孝の実家の生活の様子が記録されている。

生活用品の購入は、牛込寺町まで出かけていたが、文政の頃より、神楽坂に商家が出来たので、ここに、一日二回、買い物に使いを出したという。また、市谷田町へは一日おき、日本橋へは一か月に一度、買い物に行ったと記している。

正月の年始の様子も伝えられている。父・孝門は、元日から連日、諸方面へ年始廻りに出かけ、年始の来客の応対は、母、兄が行い、則孝も面会する事があったという。また、その折の饗応の様、年賀状の事も書き留められている。

さらに、筑紫家に仕える、家老、用人、給人、近習、中小性、老女、側女、次女、小間使、茶の間女、末の女などの給料についても詳細に記している。当時の旗本の生活の実例として参考になるものと思われる。

則孝は、『桜斎随筆』巻二下において「五十一 大宮司 中古代々忌日」「五十二 三笠山墓碑」など、鹿島家の先祖代々の忌年、墓誌等を記録しているが、続いて「五十三 恭徳院様御棺槨御石碑之覚」として、父、孝門(恭徳院殿朝大夫前佐州刺吏泰翁良温大居士)の墓所、墓石等について記している。今は、則孝の父母、兄弟の忌年を引用するに止めたい。

「実方親族忌年月日

父 孝門 筑紫佐渡守 清弟霊神 天保九年戊戌六月十一日卒 享年六十四
母 貞子 青木氏 端玉媛霊神 弘化三年丙午五月十日 同六十九
兄 徳門 筑紫右近 后蓮水 厳鞆霊神 明治元年戊辰六月九日同七十一
同 義処 青木新五兵衛 后鶴山 実相院 万延元年庚申七月七日 同六十二
弟 正路 佐々木寛四郎 寛量院 明治元年戊辰六月十九日 同五十六
同 孝本 小倉氏 元通称貞之助 同七年甲戌六月三十日 同四十九年四ケ月
甥 礼門 筑紫主殿 右靱霊神 慶応二年丙寅六月廿二日 同五十三
筑紫家先塋   東京浅草区栄久町百八番地 永見寺〔禅宗宗洞〕
同       同府下北豊島郡地方今戸町拾七番地 永伝寺 同
同 〔裏方埋葬〕同牛込区横寺町三拾三番地 龍門寺 禅宗
青木家先塋   同浅草区神吉町四十七番地 幡随院 浄土宗
佐々木家先塋  同四ッ谷区南寺町三拾四番地 松巌寺 禅宗    」

旗本の三男とはいえ、三千石の家柄でもあり、同じ武家の養子なら納得もゆくが、何故、則孝は神官の道を選んだのであろうか。鹿島神宮・大宮司家といえば、長い伝統と高い格式の家柄であり、その故であろうか。その理由について、則孝自身の書き残した文章がある。(『桜斎随筆』巻四の二)

「弐 予が武家を厭ひ、神家に成たる原因は、実父の君、昌平坂学問所御用勤中ニ、寄合肝煎、内藤外記と云人と、学校上の事ニ付、議論せしに、父の勝利と成りしを、内藤不快ニ思ひ居たるが、同人は、浦賀奉行勤仕となりたり。父君も又、同役と成られたるが、先勤故、諸事内藤の、指引を被受たるが、此時に至り、先きの遺恨を含み、種々不都合の差図にて、甚迷惑被致、其後も、内藤の親族、水野美濃守〔御側御用取次〕の為めに、讒言せられ、青雲の妨害となりしを、目撃せし故、断然武門を廃せむと、決意の処、恰もよし、鹿島より養子の相談あるニ付、取極たるなり。」

則孝の神官への転身には、実父・孝門の、同じ旗本・内藤外記との確執が大きく関わっていたようである。

孝門と内藤は、昌平坂学問所に勤務の折、意見の対立があり、結果は孝門の主張が通ったが、内藤はこれを根にもち、やがて、浦賀奉行となった時、先役の立場を利用して、いやがらせをしたという。さらに、内藤外記は、親類の水野美濃守忠篤に働きかけ、水野の讒言によって、孝門は出世の道を阻まれたという。水野忠篤は、家斉の小納戸から小性、大坂町奉行などを勤め、文政四年五月に側衆となり、八千石を与えられていた。家斉に重用され、第一の側衆として、心のままに振る舞っていた。天保十一年、家斉が没すると、首席老中・水野忠邦は、家斉側近の三佞人を処分しているが、水野美濃はその一人である。孝門は天保九年に没しているので、ちょうど、水野美濃守が専横を極めた時代にあたる。正論を主張したが故に、出世の道を閉ざされた父の姿を、少年・青年時代の則孝は見ていた。「断然武門を廃せむ」という表現に、その時の則孝の強い意思が示されていると思う。

鹿島則瓊が大宮司家の後継者として、筑紫荘三郎に白羽の矢を立てたのは、単に、三千石の幕臣の三男坊という事のみでは無かったであろう。その人品、学殖ともに吟味の上であったと思われる。則瓊も歌文を能くした人物であった。両者相通うものがあり、この縁組は結ばれたものと推測される。

「鹿島則孝と『桜斎随筆』」(平成5年6月25日発行。私家版)より

ある不動産業者の地名研究

ある不動産業者の地名研究

  • 2019.08.12 Monday
  • 06:09
ある不動産業者の地名研究

●今日、〔ある不動産業者の地名由来雑学研究〕というサイトに出会った。牛久、竜ケ崎辺りの不動産会社のサイトらしいが、その雑学研究が、実に膨大で、驚いた。その中に、鹿島則孝に言及している部分がある。

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【はじめに】

我々が「地名」などの話題にふれるとき・・・“誰もが無意識”に、その「固有名詞」の「発音」や「響き」、“その意味”を想像しながら、話や文脈全体を理解しようとしているのではないでしょうか。
・・・このことは“我々(ヒト)の脳構造”・・・とりわけ「言語中枢」と呼ばれる部位が、“左右二つに分割されているため”なのです。その一つは「音声」や「文字」などの「情報」を理解するための部分・・・云わば、受信アンテナ的な役割を担う部分です。・・・この隣に、もう一方の「音声」を使用する言語運動という形で(※つまりは、発声により)、「情報」を発信するための部分があり、主に“これら二つの部位が、互いに活発な遣り取りを行なうこと”によって、言語活動全体を成立させるという仕組みになっています。

日本では、古くは奈良時代に編纂された『古事記』、『日本書紀』、『常陸風土記』などに記されて来たように・・・「地名の起源」についての探索や研究は、我々の関心を惹きつけてきました。・・・しかしながら、「日本の地名」についてのみに限定してみても、より普遍的な「語源解釈法」や、それが、いつ頃命名され、当時の人々に浸透していったかを特定することは、「地名学」や「言語学」、「考古学」、「民族学」、「文化人類学」などによる、様々なアプローチ方法はあるものの・・・なかなか、「こうだ!これにほぼ間違いない!」・・・と“断言出来る状況は稀なケース”であり、多くが未解明と云えるのでしょう。・・・これはこれで、“歴史ロマン”を掻き立てられるのものですが。
“言葉の生きた化石”とも云われる「地名」の探求は、“古代語研究と同義となることが多い”ため、「発音」や「響き」を含むその「言葉」の「読み方」や「呼び方」、「地名」を、“同次元で扱う姿勢がより重要となる”のかも知れません。
・・・それにしても、私(筆者)自身を含め、多くの方々は、“地名そのもの”の「発音」や「響き」、“その意味が現代に至るまで受け継がれて来た”という事実や、“地域の歴史そのものの”に対して、「意味」や「メッセージ性」などを、何かの機会に見い出しているのではないでしょうか。
・・・そこで、こちらの関連ページではこの“意味・メッセージ性”を「キーワード」に・・・甚だ大雑把かも知れませんが・・・できるだけ、それぞれの時代順にポイントを踏まえながら記述していきたいと思います。

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※ 同年10月29日:「幕府」が・・・「鹿島社大宮司・塙大隅守(はなわおおすみのかみ:※鹿島則孝のこと、通称は荘三郎、主税之助とも、幕府旗本・筑紫〈佐渡守〉孝門の三男)」を「罷免」して、「押込(おしこめ:=押籠)」に処し・・・“其の子”である「出羽守(でわのかみ:※鹿島則文のこと、通称は布美麿、矗之輔とも、鹿島則孝の長男)」を、「逮流(たいる:※逮捕した後に遠島にすること)」に処す。“常野浪士騒擾の事”に「連座」するなり。【綱要】・・・押込(=押籠)とは、主に武士や庶民に対して適用され、自宅、或いは自室などの前に戸を立てて閉鎖(※いわゆる座敷牢のこと)し、一定期間における昼夜の出入りや通信などの一切を禁じて、謹慎及び幽閉する刑罰であり・・・江戸時代には、自由刑の一種として比較的軽い罪の場合に適用されたとのことです・・・が、大社の神官職にある者達であっても、当時の連座責任を追及されることとなって、時の幕府からは容赦されなかった様子も分かります。・・・しかしながら・・・ここで・・・当時の尊皇攘夷思想などについてを、更に深く掘り下げるために・・・(↓↓↓)

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・・・上記の塙大隅守こと鹿島則孝とは・・・筑紫孝門(ちくしたかかど:※通称は佐渡守)の三男として、1813年(文化10年)に江戸・牛込逢坂で生まれ・・・1837年(天保8年)12月6日に、鹿島社大宮司・鹿島則瓊(かしまのりよし)の婿養子となり・・・1843年(天保14年)には、水戸藩9代藩主・徳川斉昭に謁見・・・1858年(安政5年)11月6日に、鹿島社大宮司職を継ぎ・・・同年11月15日には、第14代征夷大将軍に内定されていた、当時の徳川慶福(※後の家茂)と謁見し・・・それから、ちょうど一月後の同年12月15日には、「将軍代替ノ礼」のためとして、正式に将軍となった徳川家茂と、再度の謁見をしています。・・・1862年(文久2年)には、禁裏から鹿島社への米の寄附があったため、その返礼等のために、長男である出羽守を、自身の代理として上京させてもおります。

そして・・・本ページのように、「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」が起こる・・・と、1864年(元治元年)9月2日には、潮来勢が鹿島社に屯集して・・・“潮来勢が同月6日に、鹿島社を発とうとしていた矢先”・・・結果として・・・“これを追撃する幕府軍との遭遇戦”に見舞われることになって・・・この時、潮来勢と呼ばれた水戸藩士民達とともに、塙大隅守なども、幕府軍から一斉銃撃を浴びせられてしまいます。・・・この時の戦況については・・・“鹿島社の宮域に発砲され、その弾丸は霰(あられ)の如し”・・・とされ、また・・・“塙大隅守は、同月5日夜から鹿島社に宿直して、そこを警衛していたため、人的損害については事無きを得た”・・・ものの・・・“此の時、大舟津の一ノ鳥居が焼失した”・・・とも。

・・・ちなみに、塙大隅守の実父である筑紫孝門(※通称は佐渡守)とは、幕府の浦賀奉行や日光奉行などを歴任した武門家系の人であり、つまりは・・・当時の「幕臣」と云える人物です。・・・
・・・やがて・・・筑紫孝門(※通称は佐渡守)の子孫達の代になると・・・塙大隅守及び出羽守親子が、当時の政治的オピニオン・リーダーの一人とされる水戸藩9代藩主・徳川斉昭の影響を当然に受け、その後に水戸藩領地に隣接する鹿島社の大宮司職を、それぞれ継ぐこととなり・・・結局のところは・・・まず・・・筑紫孝門(※通称は佐渡守)の孫であって、塙大隅守の長男だった出羽守が・・・時の幕府から、“実父の大隅守よりも以前に、謹皇の志士達との濫(みだら)な交流や、神宮の祭典を変更をした事”を追及され・・・当時の「罪」に問われることとなって、1865年(慶應元年)7月には「揚屋入」とされ・・・翌1866年(慶應2年)5月24日に“八丈島へ配流される”のです・・・が・・・実父・塙大隅守は? と云えば、“当初は長男・出羽守と同罪とされて、この1865年(慶應元年)10月29日に「押込」を命じられる”・・・も、翌1866年(慶應2年)の2月には「放免」されております。・・・

・・・このことは、詰まるところ・・・当時の幕府は、“この親子の罪については、一旦は同罪”とした・・・ものの、“その罪の度合い”については・・・“長男のほうが、父と比べて、より重かった”と、後に結論付けた訳です。・・・この背景には・・・塙出羽守が、幼少時から「水戸学」を学んで育ったことや、“彼が21歳頃の1860年(万延元年)に、江戸の安井仲平(※号は息軒、儒学者)が開いた私塾の「三計塾(さんけいじゅく)」に学んだ経歴が大きく影響していた”・・・と考えられるのですが・・・やがて、この塙出羽守も、1869年(明治2年)5月1日には「赦免」されることとなって・・・同月28日には「帰京」し、翌6月13日には、鹿島へ「帰郷」しておりまして・・・実に・・・“遊学期間を除く約3年間を、八丈島など鹿島以外の土地で暮らした”ことになります。

・・・いずれにしても、“長男・出羽守の鹿島帰郷直後期に当たる同年7月1日”には、実父の塙大隅守が・・・鹿島社境内地に、学問所とされる「稽照館(けいしょうかん)」を開設しており・・・ちなみに、この「稽照」とは、『古事記』序文にある「古(いにしえ)を稽(かんが)ひ 今を照らす」から引用した名称です。・・・尚、この「稽照館」の初代校長を務めたのが、長男の塙出羽守であって・・・その講師陣は? と云えば、これも鹿島社の神官達が務めておりまして・・・「稽照館」では、『古事記』や『日本書紀』などの他にも、『令義解(りょうのぎげ)』や『日本外史(にほんがいし)』、『祝詞考(のりとこう)』、『春秋左氏伝』などの国学や、漢学古典の講義が行なわれ・・・長歌や短歌の創作なども、当時の生徒達への課題として与えられていたようです。・・・また、鹿島社領域内の子弟達だけが生徒として限られていた訳ではなく、“周辺の波崎(現茨城県神栖市)や潮来(現茨城県潮来市)などからも通学する者があった”・・・とも伝えられております。

・・・この後の1876年(明治9年)9月7日には、“実父・塙大隅守の隠居”に伴なって、長男・出羽守への家督相続がなされ、出羽守が正式に鹿島社大宮司職を継ぎます・・・が、1884年(明治17年)4月2日には、伊勢神宮の大宮司職に任じられることとなり、既に隠居していた実父・塙大隅守は勿論のこと、一家揃って伊勢へ移住することに。・・・ちなみに・・・“実父・塙大隅守については、晩年の15、6年間は平穏な暮らしが送れた”と推測出来ますが、1892年(明治25年)10月2日に、享年80で没しておられます。・・・しかし、“彼は生来、筆まめだった”らしく・・・その著書には、『桜斎随筆(おうさいずいひつ)』や『家茂将軍謁見記(いえもちしょうぐんえっけんき)』などがあって、“かなりの量の遺文”が伝えられております。

・・・尚、この塙大隅守が開設し、長男・出羽守が初代校長を務めた「稽照館」は・・・後の版籍奉還や、廃藩置県、神官神職制度の大改革、学制頒布など・・・明治の激動期に曝(さら)されることになり、従来より鹿島社が「神領」として治めていた2千石も奉還されることとなって、自然消滅的に「廃校」を迎えております。・・・詳細な記録が遺されていないため、いつの時点で廃止されたのか? については不明です・・・が、“廃校の後には、稽照館に務めた講師達の多くが、私塾を開いて、明治初期における地方教育の一端を担った”・・・と伝えられています。・・・しかしながら・・・当時の塙大隅守及び出羽守親子や講師達の多くが、そこまでして伝えたかった、或いは受け継ぐべきと考えていたのは、いったいどんな事柄だったのでしょうか?・・・単に・・・廃藩置県以前に水戸藩(水戸徳川家)が存続していた頃、単に優秀な人材が枯渇状態に陥ってしまったという悲劇的な状況を打開するための方策とされただけのことでしょうか?・・・いずれにしても、「水戸学」と呼ばれる特定の学風に限らず・・・様々な分野の研究や、継続的に行なわれていた教育方針が、当然に与えることになるであろう・・・当時の人々の気質や気風などを想像すれば・・・如何に重要であると考えていたか? については、ご理解頂けるかと。

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