昭和女子大学図書館所蔵 〔桜山文庫〕

昭和女子大学図書館所蔵 〔桜山文庫〕

  • 2019.12.02 Monday
昭和女子大学図書館所蔵、〔桜山文庫〕

深沢秋男

はじめに

「拝啓 深秋の候 ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
このたび十一月三日に、弊館は開設七〇年を迎えました。これを記念して、昭和女子大学図書館デジタルアーカイブを公開いたしましたので、ご高覧いただけますと幸甚に存じます。
先般、開催いたしました図書館開設七〇周年・近代文庫創設六〇
周年記念式は、盛会のうちに終了いたしました。今日の弊館があるのもひとえに、皆々様の暖かいご支援があればこそと、あらためて感謝申し上げる次第でございます。皆々様のご支援を糧に、ますます大学図書館の事業に精進し、微力ながら社会への貢献に努めて参る所存でございます。図書館特別展図録と記念品等を同封いたしますので、ご笑納ください。
今後ともご支援、ご指導を賜りますようお願い申し上げます。
敬具

平成三十年十一月九日
昭和女子大学図書館
館長  古川 真人」

平成三十年十一月、昭和女子大学図書館から、このような御案内を頂いた。早速、図書館のデジタルアーカイブを閲覧した。昭和女子大学の特殊文庫も、ようやくその所在を公開されたか、と大変嬉しかった。

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現在、本学図書館が所蔵する二三文庫をご紹介します。
与謝野文庫、吉田彌平文庫、近代文庫、オマル・ハイヤーム文庫、折戸忠作文庫、女性文庫、金子健二文庫、中島健蔵文庫、正富汪洋文庫、上井磯吉文庫、玉井幸助文庫、岩谷泰作文庫、佐々木八郎文庫、内秀雄文庫、桜山文庫、石田吉貞文庫、在一居士文庫、戸谷三都江文庫、トルストイ文庫、翠園文庫、内藤濯文庫、朝日生命文庫、小島信夫文庫

桜山文庫  本学の名誉教授深沢秋男が、国文学者 で、鹿島神宮第 67代大宮司である鹿島則文のコレクションを、孫の鹿島則幸に昭和 59(1984)年9月に一括譲渡を依頼され、 昭和61(1986)年9月に第1次の受け渡しが 行われ、日本文学関係の資料を購入したことにより、昭和 62(1987)年 3 月に文庫を 設立した。江戸期の写本、刊本を中心に約6,900 冊 を収蔵している。

翠園文庫  本学教授の研究の縁により、鈴木重嶺の 直系の子孫の国語学者松本誠の奥様から鈴木重嶺(翠園)関係資料として寄贈され、平成8(1996)年に設立した文庫である。鈴木(号は翠園)は、江戸幕府では最後の佐渡奉行となり、明治政府の官僚を辞してからは、和歌の世界で活躍した。明治24(1891)年の「早稲田文学」第3号において、和歌の名家として挙げられ、明治28 年 (1895)年には、短歌雑誌「詞林」を創刊。 のちに「詞林」は佐佐木信綱の創刊した「心の華」に合併した。勝海舟や樋口一葉とも交流があり、葬儀の際は、華族や全国の文化人や歌人が参列した。  図書468冊(短冊を含む)を収蔵している。

【昭和女子大学図書館アーカイブより】

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二三文庫の中で、私が関与したのは、〔桜山文庫〕〔翠園文庫〕の二文庫である。以下、この二つの文庫に関して、私の記録を紹介したいと思う。

〔桜山文庫〕

昭和女子大学図書館には、現在、二三のコレクションが所蔵されている。昨日、その全貌が、アーカイブスで公開されたことを知った。この内、〔桜山文庫〕と〔翠園文庫〕は、私が関与したものである。しかし、この二つの文庫が昭和女子大学図書館に所蔵されるまでには、多くの方々の、御指導、御配慮があって、初めて実現したのである。その経緯を記録して、感謝申上げたいと思う。
なお、ここに記す、冊数などは、私の記録に基づくものであり、昭和女子大学図書館の正式なものではない。

鹿島則幸氏から、桜山文庫一括譲渡の件を依頼されたのは、昭和五十九年(一九八四)九月のことである。桜山文庫は、鹿島神宮に隣接する大宮司家、鹿島家の屋敷(五三〇〇余坪)の中に建てられた、大谷石の書庫に保管されていた。
この譲渡に際し、蔵書の評価に関しては、長年交際のある、神田の一誠堂書店の酒井宇吉氏に依頼されたという。また、譲渡先については、私に一任すると申された。さあ、大変である。そのような大事業が私にできるのか。
桜山文庫は、鹿島則文のコレクションであるが、則文の二男・鹿島敏夫氏は、『先考略年譜稿』で、

「……性、書ヲ愛スル人に過ギ、公暇手書ヲ舎カズ。用ヲ節シ費ヲ省キ、書ヲ求メテ息マズ。飢ル者ノ食ヲ求ムルガ如シ。経史、小説、高尚卑近ヲ問ハズ。晩年、家ニ蓄財ナキモ、珍籍奇冊三万冊。人之ヲ云ヘバ、曰ク、妓ヲ聘シ酒ヲ飲ムハ世ノ通例ナリ。予、飲ヲ解セズ。書ハ予ガ妓ナリ、予ガ酒ナリト。」

と、このように記されている。今回の対象となるのは、主として国文関係のもので、一誠堂書店へ移送する折に、大きなリンゴ箱に入れて、一一九箱であったとのこと。およそ一万冊弱と私は予測した。則文が生涯をかけて収集したものであり、量も少なくはない。また、その評価額もかなりのものになるであろう。内心では、一億円弱と予測した。
私にとっては、一世一代の大仕事である。譲渡先は、私の勤務先の昭和女子大学を第一とし、次に、鹿島則幸氏の母校・国学院大学、私の母校・法政大学、国会図書館、国文学研究資料館などを考えた。
この間、朝倉治彦氏、島本昌一氏、杉本圭三郎氏、渡辺守邦氏、中村幸彦氏等の御助言を頂きなから、慎重に事を進めた。
酒井氏によると、量も多いので、場合によっては、分売もやむを得ないのではないか、との事であったので、一日、神田の一誠堂書店へお伺いして、分売は極力回避して、「桜山文庫」の名を遺したい旨、懇請した。幸い、酒井社長もこれを諒とされた。
この事に関しては、この間に、中村幸彦先生から、貴重な御助言を頂いていた。昭和六十一年二月十九日付のお手紙では、次のようなお言葉を頂いた。

「……文庫は残ったもの全部散らさず、貴学で購入の御準備との
事、安心いたしました。私かつての図書館員としての経験から申
上げますと、心得のある方の集められたものの中にも、一寸見ま
した時は、何の役にも立たぬと思われる本などもまじって居りま
して、目ぼしい本だけ選択していたゞいた方が、などと思うこと
も度々ございましたが、全部いたゞいて居りますと、何の役にも
立たないと思った本も大いに役立ったことが次第に判明などいた
すことでございます。又、自分の処に既にあるものと重複するも
のがあり(高価ならばなお更)躊躇される時もありますが、それ
を購求しなかった事が、後からくやまれる事もあり「古い和本に
は同じものはないと思え」など、次第に考えるようになり、後輩
の諸君にも話すことでございます。既に散らさぬ様、お考えの
由、結構なことと存じます。御努力、そっくり貴学へお入れなさ
る事を願い上げます。」

中村先生からの私信であるが、大先達の金言として、あえて紹介させて頂いた。
この間、私は昭和女子大学の関係者に、一括購入の申請書を提出した。私は、昭和女子大学に移籍して二年目の講師の身分であった。諸事、大きな壁があったのは当然である。

昭和五十九年十月十一日付で、
〔「桜山文庫」一括購入に関する御願い〕なる書類を、学科長の原田親貞先生を通して、学長・理事長の人見楠郎先生に提出した。人見先生からは、国文科、日本文学科、の全教員で検討する様にとの御指示があった。

昭和六十年十一月二十日前後、
国文科と日本文学科の科会で、全教員に提案、御説明をした。日本文学科の、ある教員からは「大したものが無い」、という厳しい意見も出された(全体の内容を確認せずに、どうしてお分かりになったのだろうか)。しかし、他の教員は、おおむね、一括購入には賛成であった。

昭和六十一年七月五日付で、
〔「桜山文庫」一括購入に関する御願い〕を学長宛に提出した。もちろん原稿は私が執筆した。

「桜山文庫」一括購入に関する御願い

「桜山文庫」は、国学者・鹿島則文の蒐集したもので、現在の所蔵者は鹿島則幸氏(茨城県鹿島郡鹿島町桜町二三〇三番地在住)ですが、この則幸氏より蔵書を譲渡したい旨のお話があり、出来得るならば、本学に一括購入して頂けないかとのことでありました。
この件に関しましては、昭和五十九年十月にお願い申し上げましたが、その後、日本文学科及び国文学科におきまして、各々科会をもって検討し、その結果、是非とも本学の図書充実のために購入して欲しいということで意見が一致しました。
また、この間、神田の一誠堂書店(社長、酒井宇吉氏)では、同文庫の整理と評価書の作成を進めておりましたが、このほど、現存書目と評価書が出来上がりましたので、ここに改めて、お願い申し上げる次第であります。どうぞ、宜しく御検討賜りますよう、お願い申し上げます。
鹿島則文は鹿島神宮・宮司家の第六十七代目ですが、国学を吉川天浦・安井息軒に学び、その才を認められ、四十六歳の若さで、伊勢神宮の大宮司に抜擢されました。伊勢神宮に職を奉ずること十五年間、神宮皇學館を創立し、自ら館長を務め、古事類苑を完成させております。
このような教養と見識に裏付けられた則文の蔵書は、一定の基準によって選択されております。その集書範囲は比較的に広く、全般に亙っており、殊に近世後期の国学者の書き入れ本・旧蔵書が多く、この点で、基本図書としての性格と、今後の研究に多くの可能性を有する蔵書であると思われます。
酒井宇吉氏の整理結果の詳細は別紙の通りですが、現存書目八七四点、合計五六八三冊、評価額約〇〇〇〇万円であります。一点一点の評価額について検討してみますと、酒井氏の評価は誠実になされているものと思われ、おそらく、この価格で購入し得る機会は、他にないものと推測されます。
鹿島則幸氏の御厚意によって得られたこの好機に、桜山文庫を本学の蔵書として獲得することは、すでに広く知られております、近代文庫と共に、本学の存在を学界に示す上でも大変意義あることと思います。
以上、申し上げました諸条件を考慮に入れられまして、宜しく御検討賜りますよう、お願い申し上げます。

昭和六十一年七月五日
日本文学科科長 尾崎暢殃(印)
国文学科科長  原田親貞(印)
国文学科講師  深沢秋男(印)
昭和女子大学学長
人見楠郎先生

これとは、別に、国文学科長 原田親貞先生から、昭和女子大学理事長 人見楠郎先生宛に、〔「桜山文庫」一括購入に関する件〕が、七月十八日付で提出された。

これより前の、昭和六十一年六月、第一次の評価額が出されたが、酒井氏の評価は、実に誠実なものであると思われた。ただし、これは、三か月以内に一括購入が条件であるとのこと。早速、昭和女子大の関係者に検討を依頼した。契約が成立しない場合、第二、第三の図書館に連絡しなければならなかった。幸い、昭和女子大学で購入する事に決定した。
私は、酒井氏の指示に従って、昭和六十一年九月五日付で、「物品供給契約書」を作成した。

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物品供給契約書

供給すべき物品  桜山文庫旧蔵本(八七四点、五七〇四冊)
代金       〇〇〇〇〇〇〇〇円(手数料 〇〇〇〇〇〇〇
円を含む)
発注者      学校法人 昭和女子大学
供給者      合名会社 一誠堂書店

上記の発注者と供給者の間において、上記の代金によって上記の物品の供給をするものとする。

第一条、供給者は発注者に対し、上記物品の供給をするものとする。
第二条、供給すべき物品、「桜山文庫旧蔵本」の明細は別紙の通り
とする。
第三条、物品は昭和女子大学附属図書館に納入するものとする。
第四条、物品の納入期限は昭和六十一年九月二十日とする。
第五条 代金の請求書は昭和女子大学附属図書館に送付するものと
する。
第六条 代金は昭和六十一年十月末日までに支払うものとする。
第七条 物品の受け渡しは両者立ち会いのもとに行うものどする。
第八条 ここに定める以外の条件に関しては両者協議して定めるも
のとする。
第九条 上記契約を証するため、契約書は二通を作成し、発注者・
供給者各一通を所持するものとする。
昭和六十一年九月五日
発注者   東京都世田谷区太子堂一―七
学校法人 昭和女子大学
理事長  人見楠郎(印)
供給者   東京都千代田区神田神保町一―七
合名会社 一誠堂書店
代表社員 酒井宇吉(印)

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昭和六十一年九月十七日 第一次受け渡し完了

当日は、図書館の青柳館長以下、全職員が出勤、一誠堂書店のトラックが到着して、一点一点、チェックして、一旦、未使用中の館長室へ保管した。その夜、関東港業株式会社によって、燻蒸作業が行われた。作業は一昼夜を要するため、図書館からは、青柳館長が立ち会って下さった。
燻蒸作業が終了した後、図書館の貴重書庫へ移管され、順次、整理して保管された。

昭和六十二年三月二十九日 第二次購入

春雨物語、雨月物語、古事記伝、井関隆子日記、忠義水滸伝、等三五点 購入。

その後、第三次の評価、受け渡しが行われ、昭和六十二年末には、桜山文庫の一括譲渡は、ほぼ完了した。

昭和六十二年十一月八日、鹿島則幸氏は、昭和女子大学へおいで下さった。臨時の書架に保管されている桜山文庫を御覧になり、大変満足の御様子であった。御帰宅の後、

「……おかげ様で桜山文庫本の縁付き先も確認出来、しゅうと・しゅうとめの皆様にもお引きあわせ下さいまして有難うございました。よい方がたに見守られ、文庫本もよろこんでおる事と存じます。ここに至る迄になる長い間、お仲人役をおつとめ下さいました貴方様に改めて心から、お礼申し上げます。……」

と、礼状を下さった。これで、半永久的に「桜山文庫」が伝存されると思うと、この一件に御助言、御協力下さった皆様方に対し、心からの感謝を申し上げずにおられなかった。
そうして、約一億円の大仕事を仕上げたことに、誇りをもった。思えば、誠文堂新光社の辞典部で仕上げた辞典の初版の総経費も約一億円だった。私は、貧乏研究者であるが、生涯に一億円の大仕事を、二回したことになる。

桜山文庫の内、漢籍の「二十二史」は水府名徳会彰考館文庫に、鹿島神宮関係の史料は茨城県立歴史館に、そして、国文関係は昭和女子大学に、それぞれ分散されたが、この様に一括保存されることになった事は幸いである。その資料を真に研究しようとする研究者に、広く閲覧して頂く、これは鹿島則幸氏のお考えでもあった。昭和女子大学の桜山文庫も整理が一段落し、やがて学外の研究者にも利用して頂けるようになるものと思う。

なお、鹿島則文の蔵書印「桜山文庫」の丸印は、黄楊の彫りの深い立派なものであるが、記念にと昭和女子大学図書館に寄贈された。

さらに、鹿島氏は、桜山文庫一括購入の謝札にと、秋田雨雀関係の書簡・八二通をも御寄贈くださった。これに関しては、大塚豊子氏の研究「秋田雨雀の書簡(一・二・三)」が発表されている(『学苑』六四九号・六五一号・六五九号、平成六年一月、三月、十一月)。

■「桜山文庫」の現状

鹿島則文の収集した桜山文庫は「珍籍奇冊三万冊」(鹿島敏夫氏『先考略年譜稿』)と言われている。これらの蔵書が、その後、どのように分割され、現在、伝えられているか、整理してみると、以下の通りである。

1、茨城県立歴史館寄託 鹿島則幸家文書
『鹿島郡鹿島町 鹿島則幸家文書目録』(平成元年三月三十一日、茨城県立歴史館発行)によれば、鹿島神宮関係の史料、一四〇三点が、昭和五十四年四月に鹿島則幸氏から茨城県立歴史館に寄託されたという。これらの史料は、鹿島家累代のもので、中には「桜山文庫」の蔵書印が押されたものもあるというので、鹿島則文の関係書も含まれているものと推測される。
2、漢籍の『二十二史』
水戸の水府明徳会彰考館文庫へ寄贈。
3、伊勢関係書
伊勢神宮へ移管。
4、鹿島家関係書
鹿島家所蔵(鹿島則幸氏・鹿島則良氏)。
5、昭和女子大学所蔵「桜山文庫」国文学関係
第一次、八七四点、五七〇四冊。第二次、三三点、四〇三冊。合計、九〇七点、六一〇七冊。これに、第一次のリスト以外の、虫食本等の数百冊が加わって最終的には約七千冊になった。

◆分散される前の〔桜山文庫〕

鹿島則文のお孫さん、鹿島則幸氏は、昭和四年(一九二九)国学院大学を卒業されたが、その直後、桜山文庫の書庫の現物を、一点一点確認しながら目録を作成された。それが、現在、則幸氏の御子息、鹿島則良氏御所蔵の『桜山文庫目録 和書之部』である。
この目録は、「『桜山文庫目録 和書之部』(上)(下)」として、全文を紹介した(『近世初期文芸』第25号、第26号、平成20年12月、平成21年12月)。

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鹿島則文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
鹿島 則文(かしま のりぶみ、天保十年一月十三日(一八三九年二月二十六日)~明治三十四年(一九〇一年)十月十日)は、幕末・明治時代の神職。
鹿島神宮大宮司であった鹿島則孝の長男として生まれる。通称は布美麿、矗之輔。号は桜宇。儒書を安井息軒に学び、また、自ら皇典を究め国事に奔走、文久三年(一八六三年)に鹿島に文武館を創設したが、一八六五年(慶応元年)、その思想や行動により幕府に忌まれ八丈島に流される。一八六九年(明治二年)赦免、神領会所(鹿島神領の役場)が廃止されるのに伴ってその建物を学問所「稽照館」とした。一八七三年(明治六年)鹿島神宮大宮司、一八八四年(明治十七年)神宮大宮司に任じられ、祭儀の復興、林崎文庫の整備、神宮皇學館(皇學館大学の前身)の拡充、『古事類苑』の出版などに尽力した。一八九八年(明治三十一年)、内宮炎上の責を負い辞職し帰郷。一九〇一年(明治三十四年)十月十日、六十三歳で病没。茨城県鹿島郡鹿島町三笠墓地に葬る。

参考文献

●鹿嶋町史第五巻(一九六二年)
●朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)
●鹿島敏夫『先考略年譜稿』鹿島則良氏蔵。
●海野正造『佐原喜三郎と鹿島則文』昭和五十二年六月一日、柳翠史
料館。
●葛西重雄・吉田貫三『増補改訂 八丈流人銘々伝』昭和五十年五
月二十日、第一書房。
●大山地山『常総古今の学と術と人』昭和五十一年十一月二十五日
(復刻)、水戸学研究会。
●鹿島則幸「桜山文庫について」(『郷土文化』第十八号、昭和五
十二年三月三十一日)茨城県郷土文化研究会。
●深沢秋男「鹿島則文と桜山文庫」、『井関隆子日記』中巻、昭和五
十五年八月三十日、勉誠社。
●深沢秋男『神宮々司拝命記』、平成十年七月二十五日,私家版。

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■ これは、『芸文稿』第12号(2019年7月)に掲載されたものである。一部改めた部分がある。

2019年12月2日

日本の大学所蔵特殊コレクション 桜山文庫

日本の大学所蔵特殊コレクション 桜山文庫

  • 2019.11.17 Sunday
日本の大学所蔵特殊コレクション 桜山文庫

●ドイツ‐日本研究所が、日本の大学図書館所蔵の特殊コレクション(特殊文庫)の情報をデータベース化して公開した。その中に、昭和女子大学図書館の「桜山文庫」も収録されている。

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日本の大学所蔵特殊文庫データベース

桜山文庫(鹿島則文)

近世後期の国学者、神官の鹿島則文(かしま のりぶみ、号:桜宇 おうう、1839–1901)の旧蔵書6,728冊(和書)からなる。近世の写本・刊本や、橘守部(たちばな もりべ、1781–1849)、平田篤胤(ひらた あつたね、1776–1843)、賀茂真淵(かもの まぶち、1693–1769)、狩谷【エキ】斎(かりや えきさい、1775–1835)などの近世後期国学者の書き入れ本や旧蔵書が含まれる。
鹿島則文は鹿島神宮大宮司の鹿島則孝(かしま のりたか、1813–1892)の長男として生まれた。1863年に鹿島に文武館を設立したが、尊王思想を唱えて幕府の忌諱に触れたため、八丈島に流された。1869(明治2)年赦免帰国。1873年から鹿島神宮大宮司を、1884年から1898年まで伊勢神宮大宮司を務めた。また神宮皇学館(皇学館大学の前身)の拡充や、『古事類苑』の出版などに尽力した。
本文庫の目録として『桜山文庫目録』が作成されている。
所蔵機関:
昭和女子大学図書館
〒154-8533 東京都世田谷区太子堂1-7-57
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ドイツ‐日本研究所の研究プロジェクトの一つとして、日本の大学図書館所蔵の特殊コレクション(特殊文庫)の情報をデータベース化しました。特殊コレクションとは、歴史的人物や著名な人物が生前に収集した図書・資料、あるいは、ある人物やテーマに関連した図書・資料を一まとまりのコレクションとして収蔵しているものなどをいいます。その人物やテーマを研究する上で、また、その人物が専門とした分野の研究において、貴重な資料を提供するものです。
本データベースには、2000年9月に全国の大学図書館627館を対象に実施したアンケート調査(回答率40%超)と2004年4月までの追加調査を基に作成された、142か所の図書館(分館や研究室も含む)の特殊コレクション734件の解題が収められています。
本プロジェクトは、全国の大学図書館関係者のご協力のもとに、内外の研究者が日本の大学所蔵の特殊コレクションについての情報を包括的・体系的に得ることができるよう企画されました。
なお、本データベースの内容は、下記の通り本としても出版されています。
『日本の大学所蔵特殊文庫解題目録 -ドイツ語・日本語併記-』
(ドイツ‐日本研究所文献目録シリーズ8)
マティアス・コッホ著、2004年、iudicium出版社、ミュンヘン、854頁

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●鹿島則文の桜山文庫は、昭和59年に、則文のお孫さんの鹿島則幸氏から私が依頼されて、昭和女子大学図書館に移管した。その特殊文庫がドイツの研究によって世界的な目録に採録されたことは、夢のような出来事で、鹿島則文も、則幸氏も喜んでいるものと思う。私も嬉しい。これは〔傀儡子の日記〕の再録である。
2019年11月17日

【はてなブログタグ】 〔鹿島則文〕

【はてなブログタグ】 〔鹿島則文〕

  • 2019.11.17 Sunday
【はてなブログタグ】  〔鹿島則文〕

鹿島則文

(一般)

【かしまのりぶみ】     (深沢秋男執筆)

鹿島則文(かしま のりぶみ)

幕末・明治の神道家・蔵書家。天保10年(1839)〜明治34年(1901)。鹿島神宮大宮司家の67代・大宮司。明治34年没,63歳。吉川天浦・安井息軒に学ぶ。25歳の頃,勤皇の志士と交わり,八丈に遠島となる。赦免後,鹿島神宮大宮司となり,46歳の時,伊勢神宮大宮司を拝命する。以後,神宮皇学館の開学(2代目館長),林崎文庫の整備充実,『古事類苑』の編纂刊行に尽力した。明治31年,内宮が炎上し,その責任をとって,職を辞して鹿島へ帰った。著書には『南遊雑録』『八丈八景帖』『南島名勝集』(編著)がある。則文の蔵書・桜山文庫は珍籍奇冊3万冊と言われたが,現在,国文関係は昭和女子大学に、歴史書関係は茨城県立歴史館に,鹿島家関係は鹿島則良氏に所蔵されている。墓は鹿島家歴代の墓所と共に,鹿嶋市三笠山に在る。

■鹿島家家系

則文は,鹿島神宮・宮司家の第66代・則孝と瑳智の間に長男として生まれた。鹿嶋市に鎮座する神宮の宮司家・塙鹿島家の家系を『中臣鹿島連姓鹿島氏系譜』(鹿島神宮宮司・鹿島則良氏所蔵)によって略記すると次の如くである。
【1】天児屋命―【2】天押雲命―【3】天多禰伎命―【4】宇佐津臣命―【5】大御食津臣命―【6】伊香津臣命―【7】梨迹臣命―【8】神聞勝命―【9】久志宇賀主命―【10】国摩大鹿島命―【11】臣狭山命―【12】狭山彦命―【13】大広見命―【14】津彦命―【15】島根大連〔允恭天皇十五年丙寅賜大連〕―【16】波波良麻呂―【17】佐佐麻呂―【18】千志麻大連―【19】小主―【20】東麻呂―【21】春魚―【22】国石―【23】広庭―【24】鹿門―【25】諸躬―【26】武主〔天平十八年丙戌三月丙子賜中臣鹿島連姓〕―【27】大宗―【28】治嶋―【29】治風―【30】武則―【31】則高―【32】則成―【33】則助―【34】則綱―【35】則純―【36】則景―【37】則長―【38】則宗―【39】則常―【40】則行―【41】則雄―【42】則光―【43】則幹―【44】則仲―【45】則藤―【46】則国―【47】則密―【48】則弘―【49】則隆―【50】則満―【51】則煕―【52】則房―【53】則家―【54】則恒―【55】則久―【56】則興―【57】則盛―【58】則広―【59】則敦―【60】則直―【61】則長―【62】定則―【63】則備―【64】則峰―【65】則瓊―【66】則孝―【67】則文―則泰―則順―則元―敏夫―則幸―則良(現在,鹿島神宮 宮司)
鹿島則文の閲歴などに関しては『国学者伝記集成』等の記述によって,その概略を知ることは出来るが,より具体的な生涯を伝える,信頼すべきものとして,則文の次男・鹿島敏夫氏の作成された『先考略年譜稿』がある。それを参照して則文の生涯をたどる。

■八丈島送り

鹿島則文は尊王思想に傾倒し,やがて幕府の忌むところとなり,慶応元年(1865)7月,捕らえられ,10月島送りの刑に処せられた。二十七歳の時である。慶応2年5月25日,江戸鉄砲洲岸を出帆し,浦賀・網代・三崎・大島・三宅島を経て,6月5日八丈島に到着した。
明治元年(1868)11月赦免,翌2年6月帰郷した。則文は三年間に亙って八丈島で流人生活を送った。在島中は読書を以て楽しみとし,その間に寺子屋を開いて,学問を講じ,島民の教化にも当たった。
近藤富蔵の『八丈実記』に序文を寄せ,島民及び流人の有識者に呼びかけて『南島名勝集』(八丈八景)を編集したが,この他にも八丈島に遺した詩文は碑として現存する。また,揚屋入りから赦免帰国までの,八丈流人日誌ともいうべき『南島雑録』二巻を残しているが,これは流人生活を知る上で貴重な資料となっている。

■伊勢神宮・大宮司拝命

則文が赦免されて,鹿島に帰った明治2年,鹿島神宮は上知によって2千石の朱印地を失い,窮乏の極地にあった。則文は家財全部を売却して資金をつくり,稽照館を開校して,専ら子弟の教化に当たった。
明治17年4月2日,伊勢神宮・大宮司に任命された。それまで,伊勢神宮・大宮司は華族に限られていたが,沈滞している神宮を復活させるため,46歳の若さで鹿島から則文が抜擢されたのである。
明治17年3月17日,内務省社寺局の諫早生二・井上真優から,鹿島則文宛に,伊勢神宮宮司就任要請の書留速達便が届き,このあと,4月2日付で,太政大臣三条実美より,神宮宮司を任命された。当初3年間だけという事で,家族と共に赴任したが,明治31年5月,内宮炎上という不祥事が発生し,その責任を負って職を辞するまで,15年間の長きに亙って,この要職を勤めた。則文の生涯の中で最も充実した時期であったと推測される。

■皇学館大学の開校

皇学館大学の前身・神宮皇学館は,明治15年(1882)4月30日,神宮祭主・朝彦親王によって「皇学館創立令達」が発せられたが,未だ開校に至らず3年が経過していた。朝彦親王の神宮職員に対する,皇学館創立に関する令達をうけて,藤岡権宮司等がその実現に努力したが,開校に至らなかった。宮司田中頼庸が神宮教管長に転じ,その後を受けて宮司に就任した鹿島則文は,祭主宮の台命を奉じ,この開校に着手した。
則文は,明治18年1月,学制を定め,教授・教授補・助教・授読等の職員を置き,広く学生を募集し,同月11日,宇治浦田町神宮司庁の仮教室で開講式を挙げた。定員50名,神宮祀官の人材養成を目的として開校したが,学生は予想に反して集まらなかった。則文は,明治20年3月,神宮の関係者にあてて,勧学諭告文を送っているが,この諭告文には,神宮皇学館開学にかける則文の情熱が感じられる。以後,則文は,着々と学制の充実を図り,この4月大改革を実行した。館長に中田正朔,幹事に孫福弘坦,教頭に東貞吉,副教頭兼教授に下田義天類をそれぞれ任命し,科を尋常科と高等科に分け,修業年限を各4か年,定員100名とした。その後,明治23年5月には第1回目の卒業生2名を出し,27年には,祭主宮・有栖川熾仁親王を総裁に仰ぎ,則文自身館長の要職を兼ねて,その充実・発展に尽力した。
明治28年6月1日,則文は皇学館の官立化を計画し,内務大臣・野村靖に申請した。この申請が許可され,神宮皇学館官制が勅令をもって公布されたのは,則文が伊勢を去って5年後,他界して2年後の明治36年8月のことである。神宮皇学館の館長は,初代・中田正朔,2代・鹿島則文,3代・冷泉為紀,4代・桑原芳樹,5代・木野戸勝隆,6代・武田千代三郎,7代・松浦寅三郎,8代・上田万年,9代・森田実,10代・平田貫一,11代・山田孝雄……と,錚々たる人々がその任にあたり,学問発展のために尽くしてきたが,鹿島則文は,その礎を築いたと言っても,決して過言ではない。

■式年遷宮(明治22年 第56回)

則文が宮司就任後,5年目の明治22年に,伊勢神宮の大行事,第56回式年遷宮が行われた。
明治22年の式年遷宮の準備は,それより14年前の明治8年から開始されていて,様々な手続きは,田中頼庸宮司等を中心に進められている。明治15年4月,新宮造営に必要な材木伐採の御杣山は,信濃国西筑摩郡小川村字床沢并打越官林及び木曽谷官林と決定。鎮地祭は,19年3月5日に行われた。
仮御樋代木伐採式は20年11月9日に実施され,準備は着々と進行した。鎮地祭,仮御樋代木伐採式,立柱祭,御形祭,上棟祭,檐付祭,甍祭,御戸祭,御船代祭,洗清,心御柱奉建,杵築祭,後鎮祭,御装束神宝読合,川原大祓,御飾,遷御,奉幣,古物渡,御神楽御饌,御神楽と,この大祭を則文は,その最高責任者として,滞りなく実行したのである。

■内宮炎上

明治31年5月2日午後11時30分,伊勢神宮の内宮炎上という不祥事が突発した。参集所及び神宮司庁を焼失して,正殿にまで延焼しようとした時,則文は直ちに正殿に参り,御正体を風日祈宮に遷座し奉った。
則文は,事後処理を済ませた後,この責任を負って少宮司と共に職を辞した。7月鹿島に帰ったが,この事が頭を離れず,夜中に飛び起きることしばしばであったという。この事件が則文の死期を早めたものと思われる。明治34年5月,特旨を以て従四位に叙せられ,10月10日午後10時、63歳の生涯を閉じた。

■参考文献

◎『先考略年譜稿』鹿島敏夫,鹿島則良氏蔵。
◎『佐原喜三郎と鹿島則文』海野正造,昭和52年6月1日,柳翠史料館。
◎『神宮皇学館創立六十周年記念誌』(館友,第409号,昭和17年6月1日),神宮皇学館館友会。
◎『増補改訂 八丈流人銘々伝』葛西重雄・吉田貫三,昭和50年5月20日,第一書房。
◎『桑原芳樹翁伝』「桑原芳樹翁伝」刊行会,昭和51年12月20日。
◎『常総古今の学と術と人』大山地山,昭和51年11月25日(復刻),水戸学研究会。
◎「古事類苑編纂事歴」(『古事類苑』目録・索引,大正3年8月29日),神宮司庁。
◎「桜山文庫について」鹿島則幸,(『郷土文化』第18号,昭和52年3月31日)茨城県郷土文化研究会。
◎「鹿島則文と桜山文庫」深沢秋男,『井関隆子日記』中巻,昭和55年8月30日勉誠社。
◎『神宮・明治百年史』上巻,昭和62年9月1日,神宮司庁,神宮文庫。
◎『神宮・明治百年史』下巻,昭和63年10月20日,神宮司庁,神宮文庫。
◎『神宮々司拝命記』深沢秋男,平成10年7月25日,私家版。

■■「鹿島則文と桜山文庫」→http://www.ksskbg.com/kashima/index.html

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【はてなブログタグ】 〔桜山文庫〕

【はてなブログ・タグ】 〔桜山文庫〕

  • 2019.11.15 Friday

【はてなブログ・タグ】  〔桜山文庫〕

桜山文庫     (深沢秋男執筆)

(読書)

【さくらやまぶんこ】

桜山文庫  さくらやまぶんこ

昭和女子大学図書館所蔵、鹿島則文旧蔵の国文学関係の文庫。

●桜山文庫の概略

昭和女子大学図書館所蔵の「桜山文庫」は、鹿島神宮大宮司、伊勢神宮大宮司の鹿島則文が収集したコレクションであり、そのうち、主として国文学関係の書籍、約7千冊が昭和女子大学に一括譲渡されたものである。
第1次、874点、5704冊。第2次、33点、403冊。合計、907点、6107冊。最終的には約7千冊となる。 【冊数などは、深沢の記録に拠るもので、図書館の正式なものではない】

蔵書印「櫻山文庫」が鹿島則幸氏から寄贈され、現蔵されている。直径30ミリの黄楊の円形印で、彫りの深い立派なものである。

●「桜山文庫」の現状

鹿島則文の収集した桜山文庫は「珍籍奇冊三万冊」(鹿島敏夫氏『先考略年譜稿』)と言われている。これらの蔵書が、その後、どのように分割され、現在、伝えられているか、整理してみると、以下の通りである。
1、茨城県立歴史館寄託 鹿島則幸家文書
『鹿島郡鹿島町 鹿島則幸家文書目録』(平成元年3月31日、茨城県立歴史館発行)によれば、鹿島神宮関係の史料、1403点が、昭和54年4月に鹿島則幸氏から茨城県立歴史館に寄託されたという。これらの史料は、鹿島家累代のもので、中には「桜山文庫」の蔵書印が押されたものもあるというので、鹿島則文の関係書も含まれているものと推測される。
2、漢籍の『二十二史』
水戸の水府明徳会彰考館文庫へ寄贈。
3、伊勢関係書
伊勢神宮へ移管。
4、鹿島家関係書
鹿島家所蔵(鹿島則幸氏・鹿島則良氏)。
5、昭和女子大学所蔵「桜山文庫」国文学関係
第1次、874点、5704冊。第2次、33点、403冊。合計、907点、6107冊。これに、第1次のリスト以外の、虫食本等の数百冊が加わって最終的には約7千冊になった。

参考 → 「鹿島則文と桜山文庫」http://www.ksskbg.com/kashima/index.html

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歴史災害・天災地変資料データベース

歴史災害・天災地変資料データベース

  • 2019.10.30 Wednesday
  • 07:03
歴史災害・天災地変資料データベース
サイトの概要と情報の利用について

史料名 桜斎随筆

資料名

内容

四十 明治十五年壬午二月廿一日、昨夜中泥(ドロ)雨に混じて降れり、 或ハ灰(ハイ)なるか、予早朝庭の門の板家根(ヤネ)を見るに白くして霜の如く なり、雨中に霜の置こと不審と思ひしが前十一時に少し 雨の止しかバ庭におたるに常盤木の葉ごとに白くつきたる ものあり、枇杷青木の葉*白し、よく見るに灰に似たり、弥あやしく思ひし に追々灰の降たるなど云ふものあり、後日に聞けば同夜 川中北浦にて小雑を網にて曳き居たるに俄に大きなる音響く とたちまちに泥雨降来れりと其人の話たりとぞ、此泥廿 八九日頃迄も木の葉つきたるは消ず 朝野新聞二月廿六日、千葉総房共立新聞に云ふ、去ル廿一日前三 時頃佐原近邊ハ灰の如き白き砂が降り霜の様に積りたり と、又、三重日報に云ふ、去ル廿一日朝当所各市街へ灰が降りた り、其現質ハ石灰質の様に見受けたりと、又、愛知の官報 雑誌に云ふ、去ル廿一日暁、市中一般に灰が降りたりと、又、東京 日々新聞に云ふ、信州佐久郡岩村田邉ハ去ル二十日後十時頃 降雪あるも霏々たる片雪従て降れバ随て消え地上に痕跡(アト) を止めざれど、樹陰或ハ塵芥(アクタ)の上抔に消え残りしが盡く樺(カバ) 色を含めり、如何にも怪(アヤ)しけれバ試みに紙に取り水気を蒸 発せしめしに跡に焼灰の如き者を残せりと、又、報知新聞に 云ふ、常州水戸下市邊ハ去ル廿一日前六時頃より灰色、或ハ黄色の 砂が雨に雑(マジ)りて時々降り積ること一分乃至二分位なりしと、以上 諸新聞の報道に拠れば何れの噴火山より噴出せし者ならん 絵入新聞、二月廿六日、前畧、古老の説によれバ天明六丙午年六月に天 保七丙申年の二月同じく砂の降しことあり、日中も薄暮 の如く殊に天明度のハ日中燈火を點(ツケ)し程なりしとぞ 同新聞、三月二日、美濃國加茂郡邊も去月廿日夜より同廿一日暁に 至る迄天気暗黒にて土灰(土俗コンコ)と云ふを降らし、同郡蜂屋、太 田等の村ニハ地上宛(アタか)も荏菓(エノミ)の粉(コ)を撒布(マキ)す如く屋上ハ勿論 草木等に至るまで悉く色を変じたるよし、父老の説に拠(よ) れバ往年も此の如き事ありしも植物を害せしや否(イナヤ)ハ確知せず と、且今回降りし灰ハ*り同郡のみならじ可児・山縣・武儀等の 諸郡五七里の間に亙(ワタ)りたりとて現品を添へ同縣より其筋へ 報道ありし

和暦 明治15年2月22日
西暦 1882年2月22日
分類 その他
分類詳細 恠雨
現象の名称
資料種別 史料
観測・観察された場所 鹿島
蔵書場所 鹿島神宮

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●このようなサイトに出会った。鹿島則孝の『桜斎随筆』も、ネット社会で活用されるようになった。大変な苦労をして、この資料を公刊したのが、ようやく実り始めた。とても嬉しい。

『神宮々司拝命記』 7500円

『神宮々司拝命記』 7500円

  • 2019.10.28 Monday

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書名 : 神宮々司拝命記〔鹿島神宮第67代大宮司鹿島則文が明治17年伊勢神宮大宮司を拝命した経緯を則文の父則孝が記録〕
著者 : 鹿島則良・加藤幸子・深沢秋男編著
価格:7,500円

状態売品 私家版 小口側天部少水シミ口絵本文影響なし 140頁
出版社名: 深沢秋男 の在庫一覧を見る
発行日:平成10
書店名:古書杏城 (千葉県 の古本屋) の在庫一覧を見る

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●この本は、平成10年(1998)に、鹿島則孝の『桜斎随筆』を、世間に認知してもらいたくて、自費出版で出したものである。

●昭和女子大学図書館の研究員、加藤幸子氏が翻字の草稿を作り、私が確認した。鹿島神宮宮司の鹿島則良氏に、神社界と鹿島家の関係を執筆してもらった。

●A5判、140頁の小冊が、古書店で、7500円とは、嬉しい。


鹿島則孝の出自

鹿島則孝の出自

  • 2019.08.13 Tuesday
 鹿島則孝の出自

●平成5年(1993)6月、『鹿島則孝と『桜斎随筆』』を出した。その現物が手許に無くなった。念のため国会図書館の書誌を示す。

2019年8月13日 深沢秋男

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鹿島則孝と『桜斎随筆』  (国会図書館)
深沢秋男 編著

詳細情報
タイトル 鹿島則孝と『桜斎随筆』
著者 深沢秋男 編著

著者標目 深沢, 秋男, 1935-

出版地(国名コード) JP
出版地 所沢
出版社 深沢秋男
出版年月日等 1993.6
大きさ、容量等 63p ; 26cm
価格 非売品
JP番号 93068429
出版年(W3CDTF) 1993
件名(キーワード) 鹿島, 則孝, 1813-1892

NDLC HL31
NDC(8版) 172
対象利用者 一般
資料の種別 図書
言語(ISO639-2形式) jpn : 日本語

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●この時、市ヶ谷の、鹿島則孝の実家の調査をした。

鹿島則孝の生家の場所は、江戸牛込の逢坂の角で、牛込と市谷の堺、市谷船河原町だという。安政四年、尾張屋版の江戸切絵図を見ると、牛込御門から外壕に添って、市谷御門へ向かう途中の右手に逢坂があり、その角地に「筑紫帯刀」とある。また、この辺が「船河原町」で、その先が「同(市谷田町)三丁目」とあり、則孝の記述と合致する。ここが、則孝の実家・筑紫孝門の屋敷であろう。三千石の家柄であるため、屋敷も広い。この辺の街並は、現在もあまり変っておらず、中央線の飯田橋駅から市谷駅に向かって外堀通りを進むと、神楽坂の次に臾嶺坂(別名、若宮坂、行人坂、祐玄坂。切絵図には、シンサカとある)があり、次に逢坂がある。この辺が現在も市谷船河原町で、筑紫家の屋敷跡と思われる逢坂の角地は、現在、空き地になっていて、奥の方に東京理科大学の薬学部が建っている。

則孝は、ここで生まれ、二十四歳までこの地で過ごした。則孝の父、筑紫孝門は、浦賀奉行・日光奉行等を勤め、采地三千石の旗本であった。旗本の総数約五千二百名、その内、三千石以上は約二百四十名に過ぎない(寛政年間。深井雅海氏『国史大辞典』に拠る)。筑紫家はかなり上位の家柄であった訳であるが、『桜斎随筆』巻四には、その則孝の実家の生活の様子が記録されている。

生活用品の購入は、牛込寺町まで出かけていたが、文政の頃より、神楽坂に商家が出来たので、ここに、一日二回、買い物に使いを出したという。また、市谷田町へは一日おき、日本橋へは一か月に一度、買い物に行ったと記している。

正月の年始の様子も伝えられている。父・孝門は、元日から連日、諸方面へ年始廻りに出かけ、年始の来客の応対は、母、兄が行い、則孝も面会する事があったという。また、その折の饗応の様、年賀状の事も書き留められている。

さらに、筑紫家に仕える、家老、用人、給人、近習、中小性、老女、側女、次女、小間使、茶の間女、末の女などの給料についても詳細に記している。当時の旗本の生活の実例として参考になるものと思われる。

則孝は、『桜斎随筆』巻二下において「五十一 大宮司 中古代々忌日」「五十二 三笠山墓碑」など、鹿島家の先祖代々の忌年、墓誌等を記録しているが、続いて「五十三 恭徳院様御棺槨御石碑之覚」として、父、孝門(恭徳院殿朝大夫前佐州刺吏泰翁良温大居士)の墓所、墓石等について記している。今は、則孝の父母、兄弟の忌年を引用するに止めたい。

「実方親族忌年月日

父 孝門 筑紫佐渡守 清弟霊神 天保九年戊戌六月十一日卒 享年六十四
母 貞子 青木氏 端玉媛霊神 弘化三年丙午五月十日 同六十九
兄 徳門 筑紫右近 后蓮水 厳鞆霊神 明治元年戊辰六月九日同七十一
同 義処 青木新五兵衛 后鶴山 実相院 万延元年庚申七月七日 同六十二
弟 正路 佐々木寛四郎 寛量院 明治元年戊辰六月十九日 同五十六
同 孝本 小倉氏 元通称貞之助 同七年甲戌六月三十日 同四十九年四ケ月
甥 礼門 筑紫主殿 右靱霊神 慶応二年丙寅六月廿二日 同五十三
筑紫家先塋   東京浅草区栄久町百八番地 永見寺〔禅宗宗洞〕
同       同府下北豊島郡地方今戸町拾七番地 永伝寺 同
同 〔裏方埋葬〕同牛込区横寺町三拾三番地 龍門寺 禅宗
青木家先塋   同浅草区神吉町四十七番地 幡随院 浄土宗
佐々木家先塋  同四ッ谷区南寺町三拾四番地 松巌寺 禅宗    」

旗本の三男とはいえ、三千石の家柄でもあり、同じ武家の養子なら納得もゆくが、何故、則孝は神官の道を選んだのであろうか。鹿島神宮・大宮司家といえば、長い伝統と高い格式の家柄であり、その故であろうか。その理由について、則孝自身の書き残した文章がある。(『桜斎随筆』巻四の二)

「弐 予が武家を厭ひ、神家に成たる原因は、実父の君、昌平坂学問所御用勤中ニ、寄合肝煎、内藤外記と云人と、学校上の事ニ付、議論せしに、父の勝利と成りしを、内藤不快ニ思ひ居たるが、同人は、浦賀奉行勤仕となりたり。父君も又、同役と成られたるが、先勤故、諸事内藤の、指引を被受たるが、此時に至り、先きの遺恨を含み、種々不都合の差図にて、甚迷惑被致、其後も、内藤の親族、水野美濃守〔御側御用取次〕の為めに、讒言せられ、青雲の妨害となりしを、目撃せし故、断然武門を廃せむと、決意の処、恰もよし、鹿島より養子の相談あるニ付、取極たるなり。」

則孝の神官への転身には、実父・孝門の、同じ旗本・内藤外記との確執が大きく関わっていたようである。

孝門と内藤は、昌平坂学問所に勤務の折、意見の対立があり、結果は孝門の主張が通ったが、内藤はこれを根にもち、やがて、浦賀奉行となった時、先役の立場を利用して、いやがらせをしたという。さらに、内藤外記は、親類の水野美濃守忠篤に働きかけ、水野の讒言によって、孝門は出世の道を阻まれたという。水野忠篤は、家斉の小納戸から小性、大坂町奉行などを勤め、文政四年五月に側衆となり、八千石を与えられていた。家斉に重用され、第一の側衆として、心のままに振る舞っていた。天保十一年、家斉が没すると、首席老中・水野忠邦は、家斉側近の三佞人を処分しているが、水野美濃はその一人である。孝門は天保九年に没しているので、ちょうど、水野美濃守が専横を極めた時代にあたる。正論を主張したが故に、出世の道を閉ざされた父の姿を、少年・青年時代の則孝は見ていた。「断然武門を廃せむ」という表現に、その時の則孝の強い意思が示されていると思う。

鹿島則瓊が大宮司家の後継者として、筑紫荘三郎に白羽の矢を立てたのは、単に、三千石の幕臣の三男坊という事のみでは無かったであろう。その人品、学殖ともに吟味の上であったと思われる。則瓊も歌文を能くした人物であった。両者相通うものがあり、この縁組は結ばれたものと推測される。

「鹿島則孝と『桜斎随筆』」(平成5年6月25日発行。私家版)より

ある不動産業者の地名研究

ある不動産業者の地名研究

  • 2019.08.12 Monday
  • 06:09
ある不動産業者の地名研究

●今日、〔ある不動産業者の地名由来雑学研究〕というサイトに出会った。牛久、竜ケ崎辺りの不動産会社のサイトらしいが、その雑学研究が、実に膨大で、驚いた。その中に、鹿島則孝に言及している部分がある。

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【はじめに】

我々が「地名」などの話題にふれるとき・・・“誰もが無意識”に、その「固有名詞」の「発音」や「響き」、“その意味”を想像しながら、話や文脈全体を理解しようとしているのではないでしょうか。
・・・このことは“我々(ヒト)の脳構造”・・・とりわけ「言語中枢」と呼ばれる部位が、“左右二つに分割されているため”なのです。その一つは「音声」や「文字」などの「情報」を理解するための部分・・・云わば、受信アンテナ的な役割を担う部分です。・・・この隣に、もう一方の「音声」を使用する言語運動という形で(※つまりは、発声により)、「情報」を発信するための部分があり、主に“これら二つの部位が、互いに活発な遣り取りを行なうこと”によって、言語活動全体を成立させるという仕組みになっています。

日本では、古くは奈良時代に編纂された『古事記』、『日本書紀』、『常陸風土記』などに記されて来たように・・・「地名の起源」についての探索や研究は、我々の関心を惹きつけてきました。・・・しかしながら、「日本の地名」についてのみに限定してみても、より普遍的な「語源解釈法」や、それが、いつ頃命名され、当時の人々に浸透していったかを特定することは、「地名学」や「言語学」、「考古学」、「民族学」、「文化人類学」などによる、様々なアプローチ方法はあるものの・・・なかなか、「こうだ!これにほぼ間違いない!」・・・と“断言出来る状況は稀なケース”であり、多くが未解明と云えるのでしょう。・・・これはこれで、“歴史ロマン”を掻き立てられるのものですが。
“言葉の生きた化石”とも云われる「地名」の探求は、“古代語研究と同義となることが多い”ため、「発音」や「響き」を含むその「言葉」の「読み方」や「呼び方」、「地名」を、“同次元で扱う姿勢がより重要となる”のかも知れません。
・・・それにしても、私(筆者)自身を含め、多くの方々は、“地名そのもの”の「発音」や「響き」、“その意味が現代に至るまで受け継がれて来た”という事実や、“地域の歴史そのものの”に対して、「意味」や「メッセージ性」などを、何かの機会に見い出しているのではないでしょうか。
・・・そこで、こちらの関連ページではこの“意味・メッセージ性”を「キーワード」に・・・甚だ大雑把かも知れませんが・・・できるだけ、それぞれの時代順にポイントを踏まえながら記述していきたいと思います。

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※ 同年10月29日:「幕府」が・・・「鹿島社大宮司・塙大隅守(はなわおおすみのかみ:※鹿島則孝のこと、通称は荘三郎、主税之助とも、幕府旗本・筑紫〈佐渡守〉孝門の三男)」を「罷免」して、「押込(おしこめ:=押籠)」に処し・・・“其の子”である「出羽守(でわのかみ:※鹿島則文のこと、通称は布美麿、矗之輔とも、鹿島則孝の長男)」を、「逮流(たいる:※逮捕した後に遠島にすること)」に処す。“常野浪士騒擾の事”に「連座」するなり。【綱要】・・・押込(=押籠)とは、主に武士や庶民に対して適用され、自宅、或いは自室などの前に戸を立てて閉鎖(※いわゆる座敷牢のこと)し、一定期間における昼夜の出入りや通信などの一切を禁じて、謹慎及び幽閉する刑罰であり・・・江戸時代には、自由刑の一種として比較的軽い罪の場合に適用されたとのことです・・・が、大社の神官職にある者達であっても、当時の連座責任を追及されることとなって、時の幕府からは容赦されなかった様子も分かります。・・・しかしながら・・・ここで・・・当時の尊皇攘夷思想などについてを、更に深く掘り下げるために・・・(↓↓↓)

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・・・上記の塙大隅守こと鹿島則孝とは・・・筑紫孝門(ちくしたかかど:※通称は佐渡守)の三男として、1813年(文化10年)に江戸・牛込逢坂で生まれ・・・1837年(天保8年)12月6日に、鹿島社大宮司・鹿島則瓊(かしまのりよし)の婿養子となり・・・1843年(天保14年)には、水戸藩9代藩主・徳川斉昭に謁見・・・1858年(安政5年)11月6日に、鹿島社大宮司職を継ぎ・・・同年11月15日には、第14代征夷大将軍に内定されていた、当時の徳川慶福(※後の家茂)と謁見し・・・それから、ちょうど一月後の同年12月15日には、「将軍代替ノ礼」のためとして、正式に将軍となった徳川家茂と、再度の謁見をしています。・・・1862年(文久2年)には、禁裏から鹿島社への米の寄附があったため、その返礼等のために、長男である出羽守を、自身の代理として上京させてもおります。

そして・・・本ページのように、「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」が起こる・・・と、1864年(元治元年)9月2日には、潮来勢が鹿島社に屯集して・・・“潮来勢が同月6日に、鹿島社を発とうとしていた矢先”・・・結果として・・・“これを追撃する幕府軍との遭遇戦”に見舞われることになって・・・この時、潮来勢と呼ばれた水戸藩士民達とともに、塙大隅守なども、幕府軍から一斉銃撃を浴びせられてしまいます。・・・この時の戦況については・・・“鹿島社の宮域に発砲され、その弾丸は霰(あられ)の如し”・・・とされ、また・・・“塙大隅守は、同月5日夜から鹿島社に宿直して、そこを警衛していたため、人的損害については事無きを得た”・・・ものの・・・“此の時、大舟津の一ノ鳥居が焼失した”・・・とも。

・・・ちなみに、塙大隅守の実父である筑紫孝門(※通称は佐渡守)とは、幕府の浦賀奉行や日光奉行などを歴任した武門家系の人であり、つまりは・・・当時の「幕臣」と云える人物です。・・・
・・・やがて・・・筑紫孝門(※通称は佐渡守)の子孫達の代になると・・・塙大隅守及び出羽守親子が、当時の政治的オピニオン・リーダーの一人とされる水戸藩9代藩主・徳川斉昭の影響を当然に受け、その後に水戸藩領地に隣接する鹿島社の大宮司職を、それぞれ継ぐこととなり・・・結局のところは・・・まず・・・筑紫孝門(※通称は佐渡守)の孫であって、塙大隅守の長男だった出羽守が・・・時の幕府から、“実父の大隅守よりも以前に、謹皇の志士達との濫(みだら)な交流や、神宮の祭典を変更をした事”を追及され・・・当時の「罪」に問われることとなって、1865年(慶應元年)7月には「揚屋入」とされ・・・翌1866年(慶應2年)5月24日に“八丈島へ配流される”のです・・・が・・・実父・塙大隅守は? と云えば、“当初は長男・出羽守と同罪とされて、この1865年(慶應元年)10月29日に「押込」を命じられる”・・・も、翌1866年(慶應2年)の2月には「放免」されております。・・・

・・・このことは、詰まるところ・・・当時の幕府は、“この親子の罪については、一旦は同罪”とした・・・ものの、“その罪の度合い”については・・・“長男のほうが、父と比べて、より重かった”と、後に結論付けた訳です。・・・この背景には・・・塙出羽守が、幼少時から「水戸学」を学んで育ったことや、“彼が21歳頃の1860年(万延元年)に、江戸の安井仲平(※号は息軒、儒学者)が開いた私塾の「三計塾(さんけいじゅく)」に学んだ経歴が大きく影響していた”・・・と考えられるのですが・・・やがて、この塙出羽守も、1869年(明治2年)5月1日には「赦免」されることとなって・・・同月28日には「帰京」し、翌6月13日には、鹿島へ「帰郷」しておりまして・・・実に・・・“遊学期間を除く約3年間を、八丈島など鹿島以外の土地で暮らした”ことになります。

・・・いずれにしても、“長男・出羽守の鹿島帰郷直後期に当たる同年7月1日”には、実父の塙大隅守が・・・鹿島社境内地に、学問所とされる「稽照館(けいしょうかん)」を開設しており・・・ちなみに、この「稽照」とは、『古事記』序文にある「古(いにしえ)を稽(かんが)ひ 今を照らす」から引用した名称です。・・・尚、この「稽照館」の初代校長を務めたのが、長男の塙出羽守であって・・・その講師陣は? と云えば、これも鹿島社の神官達が務めておりまして・・・「稽照館」では、『古事記』や『日本書紀』などの他にも、『令義解(りょうのぎげ)』や『日本外史(にほんがいし)』、『祝詞考(のりとこう)』、『春秋左氏伝』などの国学や、漢学古典の講義が行なわれ・・・長歌や短歌の創作なども、当時の生徒達への課題として与えられていたようです。・・・また、鹿島社領域内の子弟達だけが生徒として限られていた訳ではなく、“周辺の波崎(現茨城県神栖市)や潮来(現茨城県潮来市)などからも通学する者があった”・・・とも伝えられております。

・・・この後の1876年(明治9年)9月7日には、“実父・塙大隅守の隠居”に伴なって、長男・出羽守への家督相続がなされ、出羽守が正式に鹿島社大宮司職を継ぎます・・・が、1884年(明治17年)4月2日には、伊勢神宮の大宮司職に任じられることとなり、既に隠居していた実父・塙大隅守は勿論のこと、一家揃って伊勢へ移住することに。・・・ちなみに・・・“実父・塙大隅守については、晩年の15、6年間は平穏な暮らしが送れた”と推測出来ますが、1892年(明治25年)10月2日に、享年80で没しておられます。・・・しかし、“彼は生来、筆まめだった”らしく・・・その著書には、『桜斎随筆(おうさいずいひつ)』や『家茂将軍謁見記(いえもちしょうぐんえっけんき)』などがあって、“かなりの量の遺文”が伝えられております。

・・・尚、この塙大隅守が開設し、長男・出羽守が初代校長を務めた「稽照館」は・・・後の版籍奉還や、廃藩置県、神官神職制度の大改革、学制頒布など・・・明治の激動期に曝(さら)されることになり、従来より鹿島社が「神領」として治めていた2千石も奉還されることとなって、自然消滅的に「廃校」を迎えております。・・・詳細な記録が遺されていないため、いつの時点で廃止されたのか? については不明です・・・が、“廃校の後には、稽照館に務めた講師達の多くが、私塾を開いて、明治初期における地方教育の一端を担った”・・・と伝えられています。・・・しかしながら・・・当時の塙大隅守及び出羽守親子や講師達の多くが、そこまでして伝えたかった、或いは受け継ぐべきと考えていたのは、いったいどんな事柄だったのでしょうか?・・・単に・・・廃藩置県以前に水戸藩(水戸徳川家)が存続していた頃、単に優秀な人材が枯渇状態に陥ってしまったという悲劇的な状況を打開するための方策とされただけのことでしょうか?・・・いずれにしても、「水戸学」と呼ばれる特定の学風に限らず・・・様々な分野の研究や、継続的に行なわれていた教育方針が、当然に与えることになるであろう・・・当時の人々の気質や気風などを想像すれば・・・如何に重要であると考えていたか? については、ご理解頂けるかと。

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近世・近代における災害観と浅間山

近世・近代における災害観と浅間山

  • 2019.08.12 Monday

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近世・近代における災害観と浅間山

玉井建也*・馬場章*

前章のように随筆や絵図などから近世におけ る天明の浅間焼けに対するイメージを分析し た。では、近代に入ってそのようなイメージは どのような変容をみせたのだろうか。近代以 降、浅間山および浅間山登山の実態を探りなが ら、イメージの解明を行う(25)。 鹿島神宮の宮司である鹿島則孝の『桜斎随筆』をみると浅間山周辺の様子に関して「不毛 の広野数里に亘りて、只焼土に雑草を生ずるを 見るのみ、一の大樹なくハ往昔噴火の最も甚た しかりしを想像する」と述べられている(26)。
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●東大地震研究所の論文に『桜斎随筆』の記録が引用されていた。

『あすか川』総目次

『あすか川』総目次

  • 2019.08.10 Saturday

『あすか川』総目次

『桜斎随筆』の巻十七~巻三十一の十五巻が、表紙の色・大きさなど、外形的に他と異なっている。内容的にも、また、他と異なるものとなっている。万延元年の桜田門外の変をはじめとする、幕末・明治初期の歴史的史料の書写である。
「あすか川」と題する、一~二冊の随筆類は、他にも伝えられているようであるが、十五巻、一二六〇丁という大部のものは見当たらない。筆跡を見ると、他の則孝のものと少し異なるようにも思えるが、所々に補筆された、則孝のものと思われる注などから判断して、おそらく、則孝自身の書写であろう。
以下、内容の紹介をしたいと思うが、大部なものであるので、項目を順次列記してゆくことにする。
注、翻刻するにあたって、一部省略したものもある。また「より」の如く表記を一部改めたものがある。二行割書きは〔 〕で囲み一行書きとした。則孝の補筆など、参考になるものを( )の中に入れた。

●この『あすか川』は、歴史的要素が強いので、法政大学名誉教授村上直先生にお願いして、詳細な解説を付けて頂いた。興味のある方は、図書館で、是非閲覧して、活用して欲しい。
2019年8月10日 深沢秋男

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巻十七 あすか川
○庚申三月三日朝五ツ時
御届書
○万延元年庚申二月閣老より六諸侯へ御渡書附之写
〇三月伊能氏より来状
〇三月三月井伊掃部頭より御届之写
○細川越中守へ御達之覚
〇三日内藤紀伊守殿上申渡御書付写
○十八人各懐中書
○義党懐中書別紙壱通
(この後、7丁分白紙)
○三日井伊掃部頭嫡子立候届書
〇四日御達
○同日井伊家家来より差出候書付之写
○同日内藤紀伊守より掃部頭家来江御申達候覚
〇六日脇坂細川両家先日御預ケ人左之通御預ケ替ニ相成候
○辞世 有村治左衛門 斎藤監物 佐野升之介 藤原光明
○同日従水戸殿江仰立候書面
○右御挨拶内藤紀伊守より
○閏三月木俣より御用番脇坂中務大輔殿へ差出候由〔評ニ云此上書信用しかたし〕
〇八州役人持参之姓命書写
○庚申三月義党遺墨写
○文久元年辛酉七月廿六日御仕置御仰渡
○辛酉五月廿八日夜英吉利ス人宿寺芝高輪東禅寺へ浪人体之者多人数被乱妨候次第左之通申上候
〇六月五日英吉利人江返翰
○壬戌正月酒井若狭守〔所司代〕御用番へ伺書〔同二月三日久世大和守〈閣老〉柘植杢之助を以御下ケ壱通写〕
○壬戌二月五日井上伸庵より来状
○同沼田虎三郎書取
○壬戌正月十五日桜田御門番牧野備前守家来より差出候
○同日松平大膳大夫より御届
〇三月五日松平大膳大夫殿登城大和守殿へ面会上申述御報
○松平修理大夫殿家中に示之書
○嶋津和泉より申渡書付
〇勅命(大原左衛門督重徳 奉)

巻十八 あすか川
○戌四月京師より出状写
〇四月十日酒井若狭守より広橋家坊城家江書状
○戌四月八日(文久二壬戌四月八日筑前脱民 天野二郎国直)
〇四月廿五日紀伊守殿御渡
〇四月廿五日松平修理大夫より御届
○戌五月廿二日御仰出候書付
○戌八月 京都より内告書
○戌七月中京師ニ有之事八日同所より申越候書状
○戌八月梟首(本間精一郎、宇郷玄蕃)
○壬八月十五日御達
○閏八月誅戮(目明シ文吉)
〇九月廿四日附本多主膳正届 十月五日 水野和泉守江差出之
○戌閏八月十五日 上意之趣
○同廿三日土屋采女正様衆より以御用奉札御書付四通写
○閏八月廿三日 戸田越前守様衆より御用廻状ヲ以来
○壬戌 今上皇帝御宸筆之写(孝云此書伝写の誤甚多くして難読ものなれども暫くその侭に写置猶後考を待のみ)
○壬戌十一月 後醍醐天皇御陵之儀ニ付御届書写
○壬戌十一月 戸田藩山陵御用掛渥見祖太郎より来状之写
○壬戌 薩長土三藩ヨリ之上書
○壬戌十一月廿三日
○勅諚〔壬戌十月勅使持参十一月下旬大樹公御対顔〕(勅書拝見仕候 文久二壬戌年十二月五日 臣家茂判)
○戌十一月〔日欠〕井伊掃部頭家来閣老井上河内守殿於御役宅願筋御取上無之候ニ付自殺致ス
○戌十二月六日 先年以来御政事向品々不宜事共有之御為対
○同八日周防守殿貞阿弥ヲ御大目付御目付江被成御渡候
○壬戌十二月国事御用掛左之通御方々被蒙
○壬戌十二月六日 御所表被仰出書付
○壬戌十二月節分ニ於 御所御歌之題叶恋と題出候処……
○戌十二月周防守殿御渡〔大目付御目付江〕
○同月勅書并御達
○同月十九日田沼玄蕃頭殿ら仰渡
○戌 会津侯上書
○戌十二月和泉守殿御渡

巻十九 あすか川
○壬戌九月 来二月御洛可被遊旨候
○癸亥正月四日 松平春嶽儀此度上京候
○亥二月水野和泉守殿御渡
○癸亥三月十一日奉拝 加茂下上両社 御行幸粧 御側次第記
○石清水御行粧略記
○亥三月廿三日関白殿より尾張前大納言江御渡
○文久三亥年三月 御参内之節二条御城より
○亥春 御上洛ニ付相撲渡世之者共御用相勤度旨再応願出候ニ付閣老井上河内守殿江町奉行井上信濃守より申上候書付
○三月根来組先登り之者より文通之内
○三月五日井上河内守殿御渡〔大目付〕
○癸亥五月異変ニ付所司より達
〇五月於京都御仰出候書付
〇五月十一日御所内学問所江張出候書付
〇六月松平豊前守殿御渡〔大目付御目付江〕
○同月 御達
○七月京都より来状之写
〇七月十一日朝大坂日本橋生首
〇八月二日朝大坂西本願寺前其外天神橋阿弥陀堂江張紙
〇九月八日有馬遠江守殿御渡〔大目付御目付江〕
○十月大樹公御上洛ニ付布衣以上之面々江京都より御仰出候書〔十一月朔日於江戸城御達〕
○十二月御上洛ニ付松岡万山岡鉄太郎上書
○十二月廿七日将軍家上洛御発駕……
〇同廿九日河内守殿〔井上氏閣老〕御渡
○癸亥十二月大樹公御上洛ニ付御供船へ乗組候者之筆記〔起十二月廿一日翌年二月朔日ニ終ル凡四十日〕

巻二十 あすか川
○癸亥正月京都御触面写
○亥二月朔日 学習院江議奏伝奏御立会在京之諸侯家来御呼出被仰渡候御書付之写
○同月十一日 鷹司関白殿江浪士之者罷出書付差出翌日迄御殿ニ罷居攘夷期限之義承り候上浪士之者共涙を流し相悦引取候由右書付之写
〇二月六日 攘夷拒絶ニ而三期限於一定……
○同月廿三日足利三代之木像梟首之図
○会津手ニ而召捕候浪士名前
○同三月十八日於京都三条河原出家之首晒有之候其文言左之通
○加州より来状之写
○同十四日於京都御書付
○同十七日於御所関白殿より一橋殿江御渡御書付〔全文別ニ在由〕
○同日水戸殿江伝奏衆より御渡御書付〔全文別ニ在由〕
○長州侯京都江建白〔自分鷹司殿下御持参〕
○同二月廿二日於京都御触
〇三月五日春嶽殿書状
〇同月尾張藩士京師より之書状
○亥二月十七日附京師より来状之内
〇三月尾州老公建白
○同月十九日於京地和泉守殿御渡同晦日江戸ニ而御達
○亥三月廿三日関白殿より尾張前中納言殿江御渡
○勅書之写
〇三月十七日於 御所関白殿一橋江御相渡候勅書写〔一本廿三日〕
○癸亥二月御達〔新規御取立銃隊之事田安家御願済之書〕
〇二月神祇伯王殿使者ヲ以諸国配下并有志輩江達状写
〇三月京師風聞書
○同頃江戸俗語〔鄙詞なれども世体を見るに足る故に写〕
〇二月廿六日夜大坂西御堂裏門ニ古首を獄門ニ掛ケ其下ニ而後切腹候士両人有之兄弟之様子ニ而書置有之則別紙写
〇四月十日寺社奉行松平摂津守より伺書
〇二月廿六日長藩士辞世詩歌(永井雅楽)
○四月八日豊前守殿御渡写酒井但馬守殿より御差越候
〇四月浪人共江戸町人江金索
〇四月町人共献金願
〇四月十五日浪士之内評定所江呼出ニ相成候者名面
○京都京屋弥兵衛方より三月八日書状写
○同頃同所より来状
○同十九日高輪町名主より町奉行所江差出候御届之写
○爰春平井氏京都より書状
○亥三月廿五日越前侯御届
○癸亥三月十一日加茂 行幸見聞記
○癸亥四月十一日八幡行幸聞書
○長州侯京都江建白〔自分鷹司殿下江持参〕
〇三月十九日於京師御仰出御書付〔閣老水野和泉守より大目付伊沢美作守へ相届候由同月廿七八日方江戸ニ而御触出相成候事〕
〇五月長州侯届書
○五月朝廷より長州へ御達
○六月朝廷より因州へ御達
〇六月四日長崎仏国戦争之次第夷人言上大要
〇六月六日長州侯より京都江之御届
○同月和泉守殿御渡御書付〔大目付御目付〕
○同月関白家より御達
○同月伝奏坊城大納言亭へ水戸殿在京衆御呼出御渡御書付
〇四月御老中江左之通り御届
○亥四月朔日豊前守殿御渡覚書写同二日酒井但馬守差越
○癸亥四月江戸画工田吹亭斎より(晒し首の図、神戸六郎、朽葉新吉)
○亥七月一橋侯御自筆御達書
〇六月亜国ワイオシン船江水先為案内乗組罷越候始末御礼ニ御□侯
〇六月九日仏蘭人江返書〔閣老両名〕
〇六月九日宗対馬守□出候書付
○癸亥英人神奈川ニ而板行致し候新聞之写
○長州赤間関外夷決戦虚実
〇七月廿一日長州侯より幕府江御差出候書付

巻廿一 あすか川
○癸亥正月六日 因幡守殿御渡〔御目付江〕
○癸亥五月十八日河内守殿御渡〔大目付御目付江〕
○貌利大陀亜シヤルゼタフヘール兼コンシユルセネラール ヱキセルレンシ―イシントシヨンニール江
○同二月十九日英国軍艦より持出候書翰如此
○横浜御触書之写
○亥二月廿一日英吉利人江返書
〇三月英吉利人江書翰
○同月亜墨利加国ミンストル レシテント ヱキセルレンシー ロヘルトヱツヽプライン江
○同月仏蘭西人 亜墨利加人江書翰
○償金請取書 千八百六十三年第六月廿六日 横浜 不列顛使館ニ於て
○松平修理太夫家来内意 河内守
○亥三月廿三日松平修理大夫窺書
○亥三月外国掛御目付より伺書
○癸亥三月六日河内守殿申渡
○同七日同人申渡
○同十四日同人御渡
○同十九日同人御渡
○同十二日豊前守殿御渡
○癸亥四月十四日豊前守殿御渡〔大目付御目付江〕
○癸亥七月京都より来状写
○同三月市中張札
○八月廿七日周防守殿御渡〔大目付御目付〕
○同日(九月九日)遠江守殿御渡〔町奉行御勘定奉行 道中奉行 海陸御備向掛…〕
○亥九月十四日鎖港応接ニ付町触
○癸亥二月十四 大樹公上洛滞在日数……
〇二月廿八日附閣老密書
〇三月廿三日関白殿より尾張前大納言江御渡
○亥三月六日万石以上并交代寄合一席一人ツヽ登営於席々老中列座板倉周防守申渡之(孝云本文申渡は京師二条柳営中也)
○将軍家茂公建白
〇三月九日酒井但馬守より御差越候 大目付江御達之覚
○同十三日御警衛向江御達
○同日河内守殿御渡 大目付
○亥三月十七日於御所関白殿一橋殿江御渡書付
〇三月廿三日勅書之写并大樹公御請書写
○同日伝奏坊城大納言殿亭江水戸殿在京ニ付御呼出し御相渡候書付
〇三月廿日附横浜より来状之内抜書
〇三月廿三日井上河内守殿御渡〔寺社奉行御勘定奉行江〕
○京都於御旅館ニ御仰出候趣
○亥二月八日井上河内守殿宅江家来呼出相渡候書付
○同九日上杉弾正大弼家来相届候書付
○同月十四日井上河内守殿御渡写
〇四月八日佐竹右京大夫より閣老松平豊前守江差出ス
〇四月四日諏訪因幡守殿御渡〔御目付江〕
○同六日豊前守宅江銘々家来呼出
〇四月十日渡 上意
○同月御達〔町奉行 御勘定奉行江〕
○同十五日豊前守殿北角十郎兵衛ヲ以御渡〔御勘定奉行江〕
〇四月廿二日京地より早ニ而御越之由同廿八日惣出仕〔河内守殿御対座豊前守殿御渡〕
〇四月 今度英国軍艦渡来非常之節御扶持方并御賦等昼夜四度分御下方左之通
〇五月十四日一橋殿より建白
〇五月板倉周防守殿御渡〔大坂町奉行 大目付江〕
〇八月十三日 今度為攘夷 御祈願大和国…
○同月於京師御仰出候
〇八月十八日 昨今不穏次第も有之候ニ付…
○同十九日和州五条騒動ニ付御代官両人より来状
〇九月植村駿河守より御届
○同月御目付伺〔海陸御備向掛 御目付〕
○癸亥十月廿六日横浜碇泊フランス之軍艦ニおいて二三人トルアトミラール江田沼玄蕃頭立花出雲守対話之大意……
○亥十二月薩藩渋谷休阿弥方江渋谷休兵衛勝国元より差越候書付之写

巻廿二 あすか川
〇八月十三日御仰出
○同十八日長藩辞書
○同十八日未刻出廿二日夜着京状之内〔堀江町状出山口勇次郎〕
〇八月廿二日佐竹右京大夫藩平田大学悴延太郎より来状
〇九月八日有馬遠江守殿御渡御覚書
〇八月 因州 阿州 備州 上杉 上書
〇九月廿五日六侯建白(慶倫、慶徳、茂韶、高潔、茂政、茂勲)
○京都より或人秘密之来状
〇八月十五日此御書付倉橋殿御門前へ立候(孝曰前文京師或人秘密書ニ因州侯周旋之事有之彼地ニ而異説有之故左之書付立しなるべし依而此序へ順々認候なり)
○京都風説書
〇九月廿日附京師或人より之書翰
〇九月廿一日御書付
○芸州届書
〇九月長州ニ而臣下一統江布告之書
○十月八日或藩士より之書状
○十二月長州侯より津和野侯へ贈書
○長州へ御下候公卿方御詠
○亥九月井伊掃部頭御届書写
○亥十月松平甲斐守御届書写
○十月井伊掃部頭御届書写
○亥八月十六日江戸日本橋張札 鈴木重胤
○十月十六日暁八ツ時頃武州千住宿壱丁目往来ニおゐて敵打之由検使願出候
○十月十三日夜小伝町弐丁目自身番屋江張札
○十月廿五日夜所々張札
○十一月施行ニ付 口上
○同晦日岩附町木戸柱江張書写左之通
○癸亥秋国書ニ付各藩書状
○十月島津三郎上書
○十二月長州并浮浪共入京御着留之御達
○正月廿一日所賜 宸翰
〇二月十六日島津久光建白
〇二月秋月佐渡守上書
〇二月十日戸田越前守伺書
○大原左衛門督重徳朝臣建白
〇五月仙台侯宰相辞退上書
○御沙汰留之内抄
○宸翰
〇六卿建白
○長州入京歎願書
○加賀世子建白
○因州侯建白
○従伊勢御伺書
○一条殿建白〔実良卿〕
○甲子正月十日因州侯上書
○同月十一日松平修理大夫家来より御届書
〇二月廿七日松平下野守〔筑前世子〕上書
○因州老臣荒尾但馬上書
〇三月十日立花飛騨守上途届書
○同月十四日荒尾但馬御届
○同月脇坂淡路守建白
○同月加藤越中守建白
○同月尾侯上言(前大納言玄同君)
○同月細川両公子献言
○亀井隠岐守建白
〇六月長防土民歎訴
○長州より御届書
〇七月十九日長州家老各藩へ贈る書状
○長州浪士哀訴状
○同 謹按
○京師長州一件之始
○大坂御城代松平伊豆守殿より急廻状
〇六月廿五日風聞事
○夜四時大坂町奉行より達書
〇六月廿六日風聞書
○御城代公用方より達
〇六月廿七日風聞書
○御達書
〇七月朔日伏見奉行所ニおゐて長藩其外呼出大目付より御渡之書付写
〇七月朔日市尹より達
〇六月廿九日嵯峨天龍寺并山崎辺江出張之探索方より注進申来左之通
〇八幡山豊蔵坊より御届
○嵯峨清涼寺より御届
○円明寺村小倉大明神社神主より御届
〇七月八日晩到来大坂町奉行より注進之内書抜
○福原越後歎願事
〇七月九日堂上方九家より上書写
〇六月廿九日賜候御宸翰之写
○同日一橋中納言殿江被賜候御宸翰写
〇六月英国より幕府江差出候書付
〇七月十日内々御番所公卿衆ヨリ建白之写
〇七月十五日山崎近辺出張探索之者より申越
〇七月十三日戌下刻差出大坂町奉行紙面翌十四日未刻過到来写
〇七月十八日長州出張之人数征討一件注進状
〇七月十九日伏見奉行林肥後守注進状
〇七月十九日払暁在京諸家へ左之 宸翰渡御折柄逆賊暴発ニ付渡し済ニ不相成分も有之
○会賊暴行一件 追補人姓名等略之

巻廿三 あすか川
〇七月十八日十九日より長藩京師乱暴戦争之見聞書
〇一橋殿附属 大沢顕一郎
○戸田采女正より届書
○松平越前守同
○松平讃岐守紙屋川固メ致し七月十九日召捕
○酒井若狭守七月廿日討取生捕
○藤堂和泉守固新在家裏手 一召捕
○松平伯耆守 七月十九日以来八幡御固場所近辺潜伏之者も□□之ニ付見廻候所……
○松平修理大夫味方戦死四人……
○蒔田相模守見廻先討留分捕
○酒井若狭守分捕……
○井伊掃部頭味方討死十九人……
○松平肥後守分捕……
○滝川播磨守市中見廻之節組与力上田斎次郎討取……
○松平越中守討取〔蛤御門内ニおいて〕十四人 一討留〔於堺町御門〕壱人
〇七月十九日天龍寺陣所跡ニ捨置候書付
○長州天龍寺陣所ニ大絵ニて張紙……
〇天龍寺より御届
○或公卿方之家士筆記
○宮西氏見聞録
○長州追討御達并長州父子軍令条写
○落人送り候兵庫船之者より申立
○大阪町奉行より京都町奉行へ書状
〇七月廿六日高橋清八書状 京都変動実録
〇七月廿八日参朝被上候方々
○同日より東市尹御役所ニおゐて御吟味ニ相成留名前
〇七月十九日類焼之堂上方江従禁中為御救下左之通
○同十九日廿日出火焼失
○京師焼失略図
○同十九日京の方を見やりて 蓮月尼
〇七月中京都ニ而変事八月朔日附文通写
○元治紀元甲子仲秋京師御守衛惣督一橋卿より御養母徳信院殿江御遣候御翰之写
○洛中騒擾概略〔一橋公附ノ人ノ記録〕
○戸田采女正江城江御届 七月廿日
○井伊掃部頭同断 同月廿四日
〇七月晦日水野和泉守殿御渡〔御詰衆大目付江〕
〇八月三日附長州より
○同六日閣老牧野備前守殿申渡
○同九日水野和泉守殿御渡〔大目付江〕
○同日長州より外夷卜合戦之御届 外ニ和議御届
○同日長州外夷と和議之書状
○同断ニ付朝廷より御仰出候書付〔并京師詰高家関東下向〕
○同断二付長府藩中より土浦藩へ来書
○大阪商家長州より書通
○小笠原家より届書
○小倉藩より再度届書
○長州大夫宍戸備前夷人応接
〇八月十三日申渡書付(板倉周防守)

巻廿四 あすか川
○甲子年長州征伐
○長防攻口井固図
○土州侯より伺書
○長州より脇坂藩江書面
〇八月十七日閣老阿部豊後守渡之〔大目付御目付江〕
○毛利左京亮願書
○同月十九日因州侯願上書〔同月廿四日差出ス〕
○同廿日御進発ニ付御備向御仰付
○同廿二日大阪御城代松平伊豆守書面并長藩士村岡伊助申立次第書
○長州様江戸屋敷ニ而討死
○甲子八月五日長州与異人与之戦争図
○甲子八月九日長州侯より合衆国江送状
○日本貿新聞 第六十六号
○当世評判チョボクレ〔甲子年〕
○雑説 当時之川柳
○甲子泰平良策言上録
○甲子二月宸翰写
○甲子三月薩州書状之内
〇子四月長州侯建白
○甲子六月近藤関斎〔牛込甲良屋敷坂上住居〕悴京都新選組同勇より之書状写
〇七月五日附京師より来状
〇七月二日附同所より来状
○同月十九日明ケ方認メ同廿三日早着瀬戸物町飛脚屋嶋屋佐右衛門方江来状写
○同日申ノ刻出大津表より来状写
○同廿四日附島屋佐右衛門より東叡山役所江届書写
○甲子八月閣老牧野備前守渡之
○細川侯建白
○閣老水野和泉守より守護職松平肥後守へ書面
○甲子八月御代官甘利八右衛門より御勘定奉行へ差出申書付
〇八月廿三日閣老牧野備前守申渡……
○同日同阿部豊後守渡之……
○同廿四日脇坂藩より御届……
○同廿七日大阪市尹届
〇九月朔日松平三河守殿上書
〇九月五日先達京都騒動之節軍功ニ依而拝領物
○同日閣老諏訪因幡守役宅江家来呼出し相渡
○同七日閣老役宅江留守居呼書付渡之
○同十一日同宅江銘々家来呼申達之
○甲子十二月朔日松平豊前守殿御渡
○吉川監物歎願書
○十一月十一日芸州草津村海蔵寺にて御目付より長州家老へ御達
○長州三家老辞世
○同廿八日或藩士広島より之書状
○同廿日御達
○長州風説
○十二月長防征討惣督尾張前大納言殿より御所江呈書写
○乙丑正月十五日御達
○同十八日御所より幕府へ御仰出
○同晦日再度御仰出
〇五卿御転座
〇二月廿二日両閣老〔松平伯耆守阿部豊後守〕参内御仰出大奥江御為召御尋……
〇二月廿六日幕府より宇和島大洲龍野三藩へ長州警衛之御達
〇二月廿三日京着 筑前藩より書状
〇四月朔日美濃守殿御渡……
○乙丑二月両閣老〔松平伯耆守阿部豊後守〕上京之節持参八ケ条
〇二月京師より御仰出 御詰問
〇二月十六日御厨子所高橋御取次高橋渡辺三人差扣御仰付候
○同廿二日異服着之者京都徘徊御着止ニ付御達
○開席料理三者論(孝云此書野調取ニ足ズト雖当時幕吏ノ心中鏡ニウツスガ如シ攘夷ヲ以テ小量トスレドモ却テ諸藩ヲ征スルコト小量也終ニ長ノ内患ヲ生ズ可咲)

巻廿五 あすか川
○乙丑四月廿二日長州為征伐御進発之御達松平伯耆守御渡
〇五月寺社尹土屋采女正より其筋へ御達
○御進発ニ付国恩金上納御達
○乙丑三月藤堂侯建白
○乙丑閏五月四日将軍家御旅中江尾張前大納言殿上書
○細川侯上書
○江州膳所本多藩 召捕一件実状〔乙丑夏〕
〇六月九日着上方来状
○丑年在府中伝聞書
○乙丑六月幕府より長州江御使
〇八月十日毛利淡路吉川監物より芸州江差出同所家来寺尾清十郎を以大坂表豊後守殿手元迄早打ニ而差出候書付
○西本願寺末善照寺真照寺書取
○御上京ニ付御達
○於大坂御達……
〇九月十日江戸より出状
○乙丑十一月長防二州臣民合議彫刻本之写
○雑説
○乙丑五月征長之儀ニ付京師ニ而檄文
○乙丑年芸藩探索説
○乙丑年可成々思へと正月廿八日来願書と有之如何
○丙寅正月八日松平周防守殿御渡写〔大目付江〕
○乙丑 幕府より詰問ニ付長州侯答書
○乙丑閏五月張紙 中村敬輔
○大坂雑説
○仏蘭西展覧会ニ付御触
○京師珍事 彼地より来状之写
○将軍家御辞職之表
○十月八日御内達〔大坂ニ而ハ二日之御達也〕
○勅許
○将軍家御請
○御意之写 十月七日
○和泉守御達
○外国条約ニ付建白
○十月七日亜墨利加江閣老より返状
○勅諚并閣老書状写
○十月十二日合川表より書状
○丑十月十六日和泉守殿御渡御書付写……
○乙丑十月廿七日京都ニ於而閣老小笠原壱岐守より諸藩へ御渡封書
○北郭遊女金沢〔加州侯ニ比ス〕奥州〔仙台侯ニ比ス〕世上物語〔御辞職ノ時ノ評判去ド関東贔屓ニテ実情ニカナハズ〕
○あぶらしぼりめつぼうチヨボクレ(此チヨボクレ詞甚野鄙なりといへども幕府の秘事を探索して当世の形勢に感通せり)

巻二十六 あすか川
○丙寅正月中別 勅
○丙寅正月廿二日長州処置幕府より聞儀言上
○同日禁中より御仰出
○丙寅二月板倉伊賀守殿御渡写
○丙寅二月御代官小川達太郎より達書
○丙寅春立大子之儀御仰出仙洞御所を春宮御所ニ被成御造営相成由
○長州模様聞書
〇四月長州へ御仰渡候書付并於広島完戸備後介歎願書
〇四月板倉摂津守届
○同月蒔田相模守届
〇四月〔……〕薩藩於浪華幕府へ差出候書取
○長征ニ付薩之意気込
〇四月幕府御沙汰
〇五月十四日水野和泉守殿申渡〔大目付御目付江〕御裁許御触達
〇五月九日於芸州御預人手続左之通
〇五月吉川監物御請期限御猶予願ニ付御達
〇五月廿七日芸州より幕府江差出候書付写
○於大坂表板倉伊賀守御渡〔大目付御目付江〕
〇六月十五日寺社奉行松平中務大輔より其筋江御達
〇六月十七日閣老井上河内守御渡同廿一日寺社奉行土屋采女正より其筋江御達
〇六月防長人民へ御諭書
○御役替 六月十五日
○長州討手軍配
○長防両国之備
○防長討手配絵図
○長防并隣国接堺之図
〇五月廿日朝広島大手筋壱丁目門其外廿三ケ所へ張紙写
○御使番松平弥五右衛門より大島炮聞書
〇六月十四日八代島出帆十七日兵庫出帆八雲丸乗組より直話村松伊助聞書
○新聞〔随聞ニ実事と思はれ候分書留なり〕
○歩兵頭向井豊前守より来状〔六月廿五日到着〕松屋茂左衛門聞候伝聞書
〇六月四日阿州御父子幕府へ建言
○同月十八日因備両侯建白
○中国辺藩士より来状写〔六月中出状〕
○紀藩より御届
○長防士民より差出候書付
〇七月十日伊賀守殿御渡ニ而左衛門尉殿へ相渡候一書 関保右衛門より差越候……
〇七月紀伊殿請願書
〇七月六日附筑後国久留米商人より来状写
○浜田侯御届書
○大番組池田力蔵より聞書
〇七月江戸古川氏より来状二通写
○石州浜田松平右近将監より佐倉へ鉄砲借用御致度申入有之候……
〇七月長防士民より雲州家老へ送檄
〇七月廿二日薩州より関白殿下〔二条家江〕差出候書面
○同月同日薩藩より在京諸藩江廻達之写
〇七月薩州侯より 朝廷江建白之写
〇七月十一日坪内河内守殿より御老中若年寄衆江書上之写
○石州大森陣屋御代官鍋田三郎右衛門引払御届書「七月廿一日附〕
〇七月廿九日鈴木真年より来状写
〇八月朔日御礼登城之面々万石以下諸役人一同居残候様御老中松平周防守殿御仰……(城郭人数配書并絵図を付す)
○丙寅六月防州大島戦争并芸州口防州戦之説
○丙寅七月朔日紀藩御着之状
○広嶋表より六月廿三日附之書状七月三日着
○丙寅七月紀州侯先鋒惣督御辞職
○丙寅七月十二日出状
○長征聞書
○丙寅板行〔甲子七月京師騒動砌討死也〕松平肥後守様家来討死之名前付
○丙寅六月当世子供雑談(此書甚鄙詞と雖当時幕吏の奸謀狭少なる形勢鏡に移すが如し故に写之)

巻二十七 あすか川
〇八月朔日出仕之万石以下諸役人其外へ松平周防守殿御演述之趣
〇八月朔日為御祝儀溜詰始万石以上已下諸役人と城於席々謁老中御口達之次第有之……
〇八月周防守殿御渡
○中津侯より御届書
〇六月十七日附江戸より佐原へ来状
〇五月十二日大坂出本町山崎より油四方へ来状写
○同十五日出大坂来状写
○同廿八日出大坂来状写
○随聞記
○於大坂表八月一橋中納言殿江御仰出候板倉伊賀守殿御成御渡候御書付写
○御代官小川達太郎より上総国支配下へ達書
〇九月御所より御仰出候請書付写
○此度御呼寄之諸藩
○彙雑書報(芸州口、石州口、下ノ関口、上ノ関口……)
○丙寅五月薩州より申立之廉書
○同月宇和島侯伺書
○同六月十一日備州侯芸州ニ而閣老へ差出
〇八月十八日予より鈴木真年方へ贈る状
○以下随聞記
〇九月十四日夜神田明神鳥居江張有之書附写
○丙寅十月朔日井上恒三郎〔当時八丈島流人〕兄〔小十人井上某〕より状
○丙寅十一月四日寺社奉行御用番松平左衛門尉殿御達
○丙寅十一月九日夜九ツ半時過より神田氷富町辺より出火……
○源烈公御詠楠公長歌
○藤田東湖正気歌
○寅十二月十六日寺社奉行土星采女正殿より触書写
○筑紫蓮水君御状〔蓮水君ハ予ノ兄 本文中小倉啓之進ハ予ノ弟也〕
○小笠原左京大夫より差出候書取
○長崎表御警衛并四ケ所関門詰人数等之儀ニ付申上候書付
○寅十二月十六日寺社奉行土屋采女正より触
○丁卯正月八日寺社奉行御用番松平左衛門尉殿御達
○御代官より御達
○丙寅十一月十五日附鈴木真年書状
〇五月十二日附伊能外記書状
〇五卿之義ニ付御達
〇二月廿二日小笠原壱岐守殿御渡長防討手御解兵御達
○征長戦功恩賞
〇丁卯二月十九日晴午刻より西南ノ大風……
○卯二月長防討手御解兵御達壱岐守殿御渡
○丁卯三月兵庫港之義御奏問書写
○丁卯三月薩藩大山格之助長州へ応接書
○丁卯四月廿六日
〇四月京師大坂より来状之写(一本大坂ノ文字ナシ)
〇四月廿日伝奏衆江所司代衆より之書付
〇四月廿五日出大坂表より来状
○倫敦新聞紙〔四拾五番英吉利西 斯加亜登著 係日本大坂兵庫之事〕慶応三年七月下旬出板

巻二十八 あすか川
○丁卯五月十日会津侯御請書
○丁卯六月十一日附村山河内〔行方郡矢幡村神主〕京師より出状聞書略……
○丁卯六月十六日附五島主計浪花より出状写
〇六月筑紫策郎銃隊上坂之□□
○丁卯六月廿七日美濃守殿御渡御書付写……
〇七月朔日同人御渡御書付写 大目付江
○同廿二日縫殿頭殿御渡御書付写 大目付江
○同廿四日美濃守殿御渡御書付 大目付江
○丁卯八月十五日之朝京都表ニ而原市之進〔幕府目付役〕御刺候節書取
〇八月関東八州取締役より達
○丁卯九月九日附伊能外記来状
○丁卯九月備前侯より幕府へ御申立候ケ条書
○丁卯九月土州老侯上書二通
○同(丁卯十月)大坂今橋へ張札之写
○丁卯十月六日指出芸州侯ヨり幕府へ建白
○京摂風聞
○今般御用掛左之通
○丁卯十月上意之書付 十三日於二条御城伊賀守殿布衣已上江御渡
○同月十七日徳川家より御伺并ニ於御所御下ケ札
○同月十九日御所より御仰出候書付之写
○同月廿日徳川家より御伺并ニ於御所御附札
○徳川家より御伺并御所より御附札
○同月京都御触
○同月紀伊家御返答書之写
○同日藤堂家御答書之写
○同月尾老公建言
○同月京都町奉行より達之写
○同月柳之間御取締より御同席へ問合六ケ条
○同月張札不知所
○卯十月廿六日江戸より書面之写
○丁卯十月廿八日於江戸左之通徳川家より御達〔甲府城代 三奉行 外国惣奉行……〕
○丁卯十一月三日四日帝鑑之間柳之間雁之間菊之間之諸家重役を紀州家へ呼集候節御相渡候書付写
○丁卯十一月紀藩より頼談ニ付及返答候書面
○同月京師巷説 御国事懸りより大樹公へ御内意
○同頃極秘之書付
○丁卯十一月三日一石橋ニ張付有之候書付
○丁卯年米沢藩名義世運諭解
○卯十月江戸或婦人より之来状
○丁卯 唐太割地使節俄羅斯ニ赴事
○丁卯十一月歩兵共吉原町乱妨之事
○卯十二月廿一日出鷹司家より御用状到着御達之趣左之通
○十二日 和宮御方先年関東江降嫁被為……
○十二月京都御触
○同月奥州辺御触
○卯十二月廿三日〔稲葉美濃守殿小笠原壱岐守殿〕御渡御書付写
○丁卯十二月廿日関東取締より村々江達
○十二月廿七日筑紫策郎より奉札之写〔…〕
○丁卯十月十日出十四日夜八ツ時着来状之写
○同十二月十五日於西城御達書
○卯十二月江戸邸より申来候書付
○卯十二月廿五日夜当番御目付より差越候書付
○丁卯十二月廿七日関東取締より急触書
○同時江戸城御警衛として外廓并橋々〆切り之分 仰付之
○卯九月頃より冬月迄諸国へ神々の御祓降たる事〔伊勢路別而多し御福也 両宮鹿島香取等多し〕

巻二十九 あすか川
○戊辰正月七日附関東取締出役より触書……
○正月十日美濃守殿御渡し御書付
○大坂より書状之写
○京都より当正月六日戌ノ上刻出十二日卯ノ上刻ニ着
○又一本京状之内
○正月四辻大夫殿より御達
○戊辰正月高札場へ相立候制札写
○戊辰正月五日出京都より来状
○同七日附京都より来状
○辰正月七日従御所御沙汰書
○京都御沙汰書
○正月土着ニ付筑紫策郎より奉札之写……
〇正月京大坂町触写〔御所より御沙汰書与大同小異有之故写〕
○辰正月江戸町中触書
○御帰城御供并ニ戦死風聞之姓名
○辰正月十四日附鈴木氏出状之内京摂一条
○同十六日迄探索
○同十二月十日京都出書状十四日夜八ツ時着
○正月四日酉刻出大坂より申来
○同日午刻出京より申来
○正月十四日出大坂来状之抜写
○同月本多侯〔名前未詳〕より江戸屋鋪へ注進状〔按ニ膳所ノ本多主膳正ナルベシ〕
○同月京都より来状抜写
○同月廿日出大坂来状之写〔同廿七日江戸着〕
○辰正月十日御触〔大阪市中江〕
○辰正月交易之儀ニ付御触
○同月廿二日御触〔市中取締方ニ付〕
○辰三月神祇事務局より御達
○辰正月十二日御触書
○美濃守殿御渡
○正月廿三日伊賀守殿御渡
〇二月五日壱岐守殿御渡
〇二月十日六侯より朝廷江建白之写
〇二月十四日米津伊勢守より届去四日太政官代御役所より御渡之書付
○同日朝廷より御達
○戊辰正月廿一日穂波三位殿ヲ以御渡御書付
○濃州代官地高札書替
○勢州桑名城下ニ於て建札之写
○戊辰正月寺社奉行より其筋江達三通写
〇同二月同所より諸寺社江 達書
○同月江戸古川氏より来状
○戊辰正月勅諚
○戊辰二月徳川殿歎願書写
〇右ニ付 同盟哀訴申合書
○□月尾州名古屋市中御触出之写
〇二月桑名表より和泉屋へ之来状
○辰二月薩藩脱走之義ニ付関東取締より触書
○辰二月廿九日御用
○戊辰三月二日附古川氏より来状之写
〇三月二日附古川但馬守より伊能外記江来状
○辰二月関東御下向御名前并ニ美濃守殿御達書
○水戸御役所より諸向江
〇三月九日水戸南郡宰より触書
○同十一日附江戸在府猿田多仲より来状
〇三月二日上意
〇三月三日神奈川宿迄御使ニ罷越候名前
〇三月九日備後守殿御渡
〇三月十五日着日光御門主帰山ニ付戒善院より之書面写
〇三月惣督宮より御仰渡并御答
○辰三月御紋附御事禁止御仰出
〇三月御代官小川達太郎より達

巻三十 あすか川
○神於呂志 (右三月十五日 勅祭)
○辰春江戸市中張札之写
○三月十五日江戸町触写
〇四月二日平岡丹波守殿御渡……
○同月四日朝廷より御仰渡
〇四月東山道総督府参謀より江戸市中并近在百姓町人共へ御達
○仙台より出陣五藩之人数
〇四月脱籍(藩イ)徳川家臣布告書
○辰四月廿八日朝出立宇都宮宿飛脚閏四月三日佐原村着来状下野合戦書
○下総国香取郡阿玉村河村久兵衛与申もの去十六日日光街道小金井宿へ割貝売ニ罷出止宿いたし候所見聞記
○下総国所々戦争之説
○中外新聞第一号 慶応四年二月二十四日出板 三月再板 (二号、六号)
〇四月十一日御達
〇四月七日申渡ニ付町奉行江
○同十二日平岡丹波守渡之〔大目付……江〕
○辰四月大赦ニ付総督府会計方より達
〇四月江戸より下り之人より来状写
○辰四月十五日附会計方より御達書同廿一日着
○辰四月八日復飾ニ付大政官江願書之写
○上総国武射郡真行寺村真福寺定全献策ニ付大政官より御下札写
○辰四五月頃より麾下の面々商人ニ相成候者数多あり
○閏四月十七日内田蔀村田を一郎等より主人再勤御赦免等歎願書写
○辰閏四月 今般御下向ニ付(御祈祷)
○辰閏四月七日夜着京師より御達弐タ通り
○海陸軍一同ヨリ列藩へ布告書之写
○辰閏四月朔日江戸飯田町中坂上ニ張置候写
○中外新聞外篇之内〔辰五日〕北地探索書写
○江城日誌第十二号之内北陸道総督府より来抜書
○辰正月伏見表戦争已来之事情聞書
○辰五月十五日東叡山戦争実説〔十七日出根津松平藤九郎より知行所大舟津村…来状〕
〇五月江戸戦争風聞書〔但甚不審之事有之候故夫ハ除く〕
○東台脱走人直話
〇五月廿五日附古川太郎より来状

巻三十壱 あすか川
〇辰三月十三日川路頑民斉〔左衛門尉〕妻之書状
○閏四月朝廷より佐倉藩へ御達〔神社寺院領地其外件々御達〕
○閏四月金札大政官等之義ニ付朝廷より佐倉藩江御達
〇六月四日小見川藩士寺嶋熊三より来状
○市政日誌小引(一号慶応四年五月十九日)
〇五日伊豆守殿御渡
○同月廿五日一役一人江伊豆殿御渡
〇六月旧幕府判物差出ニ付御達
〇六月村々地頭姓名并村高帳調ニ付
〇七月〔此月廿日夜慶喜殿鹿島大舟津御通船同所某宅へ御便所御上陸黒無紋ノ麻羽織白木綿襠高袴御着草鞋ヲハカレテ髯長く延タリト云銚子ヨリ蒸気船ヘ移ラレ駿州ヘ趣カル〕
〇七月鎮将御仰出候御達
〇七月於東京鎮将府十三ケ国御支配御仰出候御達
〇七月廿八日附粥川小十郎より達酒造〔清濁〕醤油造之一条
○盗物引合ニ付御触八月上旬鹿島へ到来
〇八月常陸国知県事より夏成之儀ニ付達写
○先般御布告被仰出候通
○鎮将府日誌第一(第二、九、十、十七)
○東巡日誌第一号
○東京城日誌第一
〇勅崇神祇重祭祀
○勅 皇国一体東西同時視朕今幸東京……
○今般 御東幸被為遊候ニ付而……
○御参拝ノ概略
○松前藩届書
○諸藩御布令書写
○同十五日松平確堂願書
○東京城日誌第十 詔書之写
○東京城日誌第十三 十二月十日松前藩届書
○東京城日誌第九 十一月五日泉岳寺江 勅宣写
○東京城日誌第十一 十二月七日御布告書写
○東京城日誌第十四 十二月七日御沙汰書写
○東京城日誌第十六 十二月二十三日被仰出書写

以上、「あすか川」十六巻、一二六〇丁に収められた七百余の項目を掲げたが、その内容は、万延元年三月三日朝五ツ時に発生した、井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)の御届書から始まり、明治元年十二月の松平容保処分に関する詔書之写に至る記録である。
万延元年、文久元年、二年、三年、元治元年、慶応元年、二年、三年、明治元年。この九年間が、幕末・明治維新の大激変の時代であった事は言うまでもない。則孝は、四十七歳から五十五歳という年齢でこの時代を生きた。鹿島神宮・大宮司の要職にあった期間ではあるが、実に克明に書留めている。
北方領土問題はロシアとの関係で、現在もなお未解決のままである。慶応三年、箱館奉行・小出秀実は露国と交渉し、暫定協定を結んでいる。これらに関しては、外務省編の『大日本外交文書』をはじめ、公的記録も多く残されていると思うが、この時の状況を「あすか川」は、次の如く記録している(巻二十八)。
「丁卯 唐太割地使節俄羅斯ニ赴事
慶応二寅年十月十日、江戸発程。同十二日、横浜乗船。外国奉行小出大和守を初として、御目付石川鎌二郎、通詞箕作秋平、徒目付岩田三蔵等十四五輩、俄羅斯ニ赴き、其情実を確得するに、全く俄夷の属国と成、其威力をかりて、英仏蘭亜の蚕食を免れ、且門墻の内乱を平らげんとの、卑怯懦弱心より起れり。何かな俄夷の歓心を得んとて、唐太全嶋を献ぜんための使節也。夫、蝦夷は、先年より、関東諸侯に命ぜられ、分配警衛せし上は、追々開拓有べきに、東国挙而弱藩となり、又、古昔慓悍之風、骨地を払しかば、幕吏之如く民をしへたげ、利を掠めの大姦策は無けれ共、俄夷と相●(テヘンに「元」)する之気力無く、事有れば、棄て去り去らんの情態也。就中、仙台は無識因循之大藩、一旦俄夷之虚喝ニ恐れ、己が固メ之エトロフを先年棄て去しかば、既ニエトロフ、クナシリ之二嶋は、全く彼が有となれり。貪婪厭事なきは、夷狄禽獣之常情なれば、仮三嶋を与へしとて、夫ニ而欲心を止め、我に徳する事あらんや。 何となれば、彼レ元、蒙古ニ亡されし時、僅ニ残れる一小嶋也。然れども、今日に至り、三大洲を跨有せしは、豈漸々蚕食のなす処ならずや。此類を推しても、彼は貪心之限り無きを知べし。有司之浅き存慮より、三嶋を全く与へ、彼が非望ニ出しならば、真実我を臣愛して、又、箱館松前迄は犯さるゝまじ、松前箱館、長く我が有となりしうへは、英仏蘭亜等をも、拒くに足ぬべしと思へるは、愚かなる考と云べし。なれども、是程洋夷ニ在祖中之上等之考也。其甚敷ニ至りては、彼の智慮も無く、気力も無き、英仏之穿●(「癒」の部首がマダレでなくアナカンムリ)に組し、皇国を売与し、是ニ臣妾となり、一日之安を偸める者、満局皆是也。是ニ比すれば、少しましなれ共、大姦は忠に似たり、大詐は信に似たり、との伝語之如く、俄夷之恐るべく、悪べきは、眼前に、利を争ひし、英仏之類にあらず。去年、横浜に入港し、毎々閣老に謁見し、英仏抔之陸梁を詈り、何かに深切らしき事を述しより、其眼之一着高く、其望之鴻大なる事に心付ず、誠実雄力共に依頼すべきと云ひ、三千年来堂々たる皇国を挙而博し、衆人に謀らず、一己に取極め、臣妾たるは、いと憫むべき事也。然れども、夷患ありしより、既に十余年、六十六州之人、大抵皆腥●(ニクヅキに「羶」の右側)之塵気に浸淫せしと謂ども、固有之大和魂は、全く未ダ消滅に至らざる者も、猶多かるべし、右等之人より、余が此言を聞かば、余りなる振舞なれば、定而虚説と思ふべし。先年、小壱州〔小笠原、肥唐津ノ世子〕生麦一件に償金を与へ、水泉州〔水野、羽前山形〕長防へ、夷艦を差向ケ、板伊州〔板倉、備松山〕遊行之地として、本牧を与へ、松豆州〔松前福山〕阿豊州〔阿部、奥白川〕摂海に夷艦を差向ケ表面三港
勅許を請し、内実兵庫開港之仮条約をなし、卯年期限之伏案せし類、皆人道に有まじき極悪大罪なれ共、少しく日本胆有る士は、決して実事とは思はざる也。故ニ油断せし中に、終に如何共すべからざるに至る。乃チ、今般之割地も、全く悪口などゝ油断して、差置ならば、唯さへ彼に諂ひ、処得せしめん、との有司之心、善き事に致し、終に、一蝦夷地全く彼に献じ、南部津軽之海心より、境界を限定するに至るべし。因て試に其虚言ならざる確証を挙ん。今年九月五日開板、日本雑報第二百四十二号之内に、新大君一橋公より、魯西亜国へ使節を遣るよし聞けり。英仏は往や否や未ダ詳ならず。右使節は、箱館奉行小出大和守にして、此度外国奉行に転役したり。其用向は、一橋公之写真降翰を、魯西亜帝に贈り、サカレン地方之事ニ付而、約定すべき事ある故也と、是有れば、此一事に而も、其割地臣服之実事なるを知べし。古昔、小松内大臣は、病気之危篤に臨まれ、慈父之督責有共国体を汚辱せん事を恐れ、漢土之医師に脈を取せ玉はざる也。如何に末世なればとて、其身宰輔之重任に居玉ひ、己が写真を送り、地を献じて、降を請ひ、一日之寸安を偸み、万年之大患を忘れ給ふとは、痛哭流泪長大息すべき事ならずや。抑、近来、彼英仏等之小夷だも、猶今度遊息之地として、武州八王寺辺より、青梅宿飯能迄、相州厚木宿、伊勢原、大山辺、東海道大磯宿、三浦三崎、浦賀、鎌倉、金沢迄、凡、廿四五万石之地を、贈与せしとて、先日調役安田次郎吉、定役吉田良平、同役中村惣兵衛見分に往し也。嗟、夫、世は如何成やらん、関西之侯伯大夫士、坐視傍観とは、情無き事ならずや」

一例として掲げた、この記録や批評が、歴史的事実を知る上で、どの程度の役割を果し得るか、今、即断できない。「あすか川」に記された内容は、そのほとんどが、江戸・京都という、いわば、我が国の歴史の中枢に関わるものである。それだけに、この種の史料は、もっと信頼すべき文献が整理され、研究の素材に使用されているものと思う。しかし、歴史研究が、過去の歴史的事実を確定し、その事実を通して、その背後に在る歴史的真実に迫ろうとするものであるとするなら、「此チョボクレ詞甚野鄙なりといへども、幕府の秘事を探索して、当世の形勢に感通せり」と評して記載したチョボクレ(巻二十五)をも含めて、この時代の歴史を解明する一史料として、今後、分析・検討されなければならないだろう。